・ISM(イズム)(上)
~Intoroduction
「さてと」
山根博司は、煙草を揉み消すと軽く伸びをして立ち上がった。いかにも物憂げな調子で目頭を揉む。三十歳、大学卒業後、大手の学習塾に二年間勤めた後、先月の末まで個人指導が専門の学習塾に勤めていた。今、仕事はしていない。
ビニールで出来た深緑色のジャンパーに、ジーンズ、風除けのマスクをしたその姿は、一八〇センチ以上あるその身長にも拘らず、どこに行っても、あまり目立つことはなかった。このとき、彼を目撃したはずのファミレスの従業員も、ドリンクバーにチーズケーキで、一時間近くひとりで過ごしたはずの彼の印象を、ほとんどないとのちに証言している。その意味では、レジ近くに設置された監視カメラに映った、釣り銭を取り損ねている山根の映像が、犯行直前に残された最後の姿になった。
ファミレスを出た山根は、駅近くの一本道を何度か往復して時間をつぶしている。しきりに携帯電話を取り出して、連絡を待っている様子があるが、仕事帰りのサラリーマンや学生たちで溢れるこの時間帯に、誰も彼を気に留めはしない。
背中に引っ掛けているゴルフクラブを一、二本入れるような細長いバッグの正体を通り過ぎた交番に勤務していた巡査が怪しんで職質をかけていたなら、もしかしたら、犯行は未遂で終わったかもしれない。そう言うのは、傍観者の勝手な結果論だろう。ほぼすべての突発的事態は、防ぐ余地があるにもかかわらず、必ず起こるものなのだから。
山根はここでも煙草を吸った。三月でも気温は五度まで下がっていた。さっき飲んだコーヒーの残り香とニコチンの混じった白い吐息で両手の冷えを防ごうとした山根は、十八時にようやく、一通のメールを受け取った。
「到着・決行二分前」
件名もなし、簡素な内容が、ディスプレイに表示される。彼は、瞳だけを動かしてその内容を確認すると、電話をポケットに仕舞った。駅前の五階建てのビル、一階はクリニックになっていて、階段の踊り場でちょうど私物を置くようなスペースがある。そこで彼は、自分の背中で壁を作りながらゴルフケースから中身を自由にした。
三階のオフィスでは、若い女性の講師が高校生の生徒を出迎えている。二十二歳の彼女は近くにある大学の教育学部の二年生で、この春からは小学校の教師として採用が決まっていた。
ネームプレートにある顔写真つきのIDは、塩田愛美。肩口でそろえた髪を明るい茶色に染めて、包容力のありそうな優しげな笑顔の印象が誰の記憶にも深かった。大人しそうなイメージに反して行動力もあり、フリースクールのヴォランティアなどにも積極的に参加して優しい女の先生として、どこでも人気があった。
この日、彼女は教室を異動後、最後の授業の一コマ目に出るところだった。実は先週まで彼女は、二駅前の教室で仕事をしていたのだ。しかし、新学期から新任になった教室長が立場を利用して彼女をしきりに付け回すようになったのでついに本部に訴えて、ことを公にしたのである。
当然、塾側は、彼女を含む教室関係者全員の話を聞いた上で警察沙汰にならないように、この件を処理することにした。彼女としては、一人暮らしの自宅の住所まで突き止められている可能性が高いのでやはり警察に相談するべきだと言う考えだったが、長年お世話になっている本社の人たちに説得されて、警察沙汰は思いとどまった。この時期になにか面倒があると、就職に響くかもしれないし、実際にどの程度警察が動いてくれるかも疑問だった。必ず君に迷惑は掛けないからと言う、塾長以下、信頼できる人たちの意見の方がなにかと容れやすかった。
結果として愛美は教室を移り、その室長は依願退職という形で、まず穏便に、身を退くことになった。
もちろん、彼女に不満や不安な点は残ったが、この問題が起こらなくても、来年赴任する学校の研修が始まる以上、年明けに彼女はこのバイトを辞めようと思っていたので、とりあえずは我慢することにしたのだった。残りの勤務は一週間。大学の試験も終わったのでアパートを解約して、来週には実家に戻るし、ストーカー化しかけたその教室長も、まさかそこまでは追ってこないだろうと、たかをくくっていたのだ。
その日、最初の授業の前に彼女は二ヶ月前まで担当していた高校三年生の女の子と会う約束をしていた。早めに辞めようと思っていた愛美は、受験対策の生徒は極力持たないようにしていたが、OA(推薦)入試で十月までには志望校に合格が決まる女の子だったので、最後に担当することにした。
「先生、なんでそんな早く辞めちゃうのー?」
「ごめんね。わたし、春から本当の学校の先生になるんだ」
合格が決まり、愛美が教室を異動する前に退塾したその女の子は、もちろん、愛美の抱えている問題を知らなかった。突然、教室を移った愛美のことを不審には思っていたが、まさか、教室長が問題を起こしたとは、夢にも思いはしなかった。
教室はいくつかのブースで仕切られ、二人はその手前の入り口、受付のカウンター付近で話していた。ブースの仕切りは低く、入り口から、どこに誰がいるか一望出来るようになっている。正社員の担当責任者を含めて、教室には十人近い人がいた。
突然、友達のようにはしゃぎ会う二人の背中で入り口のドアが開き、男が乱入してきた。
その場にいる誰もがその男が、この塾の元職員で、ショットガンを持っていることすら確認出来なかった。
爆音は立て続けに三発、その後に二発。炸裂音は爆弾が爆発したのだと、被害者たちが誤認するほどだった。最初の三発のさなか、女の悲鳴がひときわ高く上がり、ついでものが倒れる音が連続する。女が絶叫した。子どもの泣き声もする。その最中、犯人の金切り声も、絶叫していた。
「うそつき、うそつき、うそつき、まなみ」
犯人の男の声は裏声で甲高く、耳に痛いほどだった。
「うらぎったなっ、うそつきっ、ころしてやるっ」
学習塾に散弾銃を持った男が侵入 講師の女性を含む二人が死
向かいのビルの電光掲示板が、緊急ニュースを告げている。上から下に無機質なオレンジの文字が流れていく。北浦真希は、ロータリーに立ち尽くしてバスを待つふりをしながら、顔を上げてしばらく、それを眺めていた。
循環バスが停車している。動かない真希の後ろで、制服を着た高校生の群れが何人か、見慣れないブレザーの制服を着た彼女を怪訝そうに一瞥してバスに乗り込んでいく。
確かにこの場所での待ち合わせが、特に不自然だと言うことは決してないし、実際、なにかが不自然であっても、本当の意味では誰も気に留めはしないはずだった。
でも、もし、物好きな誰かが彼女を三十分でも観察していたら、彼女にとってこの待ち合わせがあまり気乗りのしないものだと言うことに気づいたかもしれない。大きな二つの葛藤が、彼女の心と行動をこの場所に縛りつけていた。
見慣れないこの駅で降りて、実はあと、五分ほどでちょうど一時間になる。その間、彼女がしたことと言えばこのロータリーから改札までの短い二十メートルをやや挙動不審な身振りで往復してみるか、学校指定の藍色のバッグの中から、携帯電話を取り出してなんらかの着信の有無と今の時刻をチェックするか、その二種類しかなかった。
向かいのビルに目を留めたのは、そのうちのひとつ、バッグから電話を取り出して時間を確認するのが物憂くなったからに過ぎない。
実は今日で、先週から始まった冬期講習が三回目の無断欠席になる。始まってすでに三十分を過ぎた授業に自分がいないことが後に及ぼす影響と結果を、彼女は考えずにはいられなかった。それでもここに来なかったことのリスクを考えると、どうしてもそこから立ち去ることは出来ないと言うジレンマが、彼女の視線をさっきから何度も時計に向かわせていたのだ。
傷者多数 犯人は現場から逃走した模
素足をつたってスカートの中に這い上がってくる冷気に、真希は無意識に足踏みを始めていた。手袋をはめた指先すらが、もう感覚を失いかけるほど冷えていた。彼女はもう一度甲斐なく辺りを見回すと、両手で唇の辺りを覆い、そっと息を吐きつけた。顔もなにもかもが強張って、表情すら作れそうになさそうだ、と彼女は思った。
「ねえ」
そのとき、後ろから急に男の声が立った。彼女の年から言えば、先輩だと呼べる範囲くらい年上の、ちょっとラフそうな男の声だった。真希は自分ではないと思っていたから無視していたが、肩を軽く小突かれて、おずおずと彼女はそこを振り返った。やっぱり。まったく、見覚えのない男がそこに立っていた。
「キミ、あれでしょ・・・・・キタウラ・マキちゃん?」
男は狎れた口調で、真希のフルネームを呼ぶ。
「・・・・・はい・・・・・・え、いや、でも・・・・・」
誰ですか? 怪訝そうに上目遣いで相手をうかがった真希の肘の下で、電話がけたたましいバイブ音を立てて鳴り響いた。予想外の事態の連続に、彼女はどちらの対処も出来ずに困惑した。
「電話」
男は言って、バッグを指差した。とったほうがいいと言っているのだと、真希は解釈した。あわててバッグを押し開けた。青く点滅していたコールは、彼女が電話をとった瞬間、勝手に途切れた。途方に暮れた顔で、真希は電話を握り締めた。その様子がおかしかったのか、目の前の男は、意外に無邪気な顔をして笑い声を立てた。
「大丈夫?」
大丈夫のはずがなかった。責任の所在を持っていきようがなく、救いを求めるように、真希は視線を泳がせた。あれだけ待っていた電話に出られなかった。後で、絶対にまずいことになる。泣きそうにすらなった。ねえ、と、なぜか男が声を上げる。
「勘違いしてるとこ悪いんだけど、それ俺だから」
彼は自分の電話のディスプレイを見せて言った。あわてて電話を確認する。確かに、見慣れない着信がそこに入っていた。
「ね?」
笑顔で、彼は言った。青いカラーコンタクトを入れた目が三日月形に細まる。どうみても、それに見覚えはなかった。
「え?・・・・・・・あの・・・・・」
状況が把握できない、と言うように、真希は男の顔を見直した。彼の電話にはフルネームで真希の電話番号が入っている。だがもちろん、彼とは面識などないはずだ。接点もなさそうだ。少なくとも真希の住んでいる世界に、彼のような人間はいない。
たぶん、脱色した髪をまた染め直した長い黒髪、目蓋と唇にボールピアス、薄いあご髭。クラーケンをプリントした黒のシャツに目の覚めるような白のダウンジャケット、だぶだぶのスラックス。顔を近づけると、むっとするほど甘い、オーデコロンの匂いがした。
「ごめんね、待たして。聞いてるっしょ、話。ミコトから」
ミコト。その名前に反応して、真希は顔を上げた。
「ミコトが?」
そうそう、と、相手は大げさな身振りで両手を広げて、
「先、連れてっといてってメールもらってるから。今、他のやつらが車まわしてきて、こっち来るから、もうちょっと辛抱してて」
拝むような仕草をすると、彼はメールの着信に気づいてどこかに返信した。真希がまだ、自分を不審そうな顔つきで見ているのに気づくと、あ、と少し大げさに声を上げて、
「ごめん、あ、つか、言ってなかったっけ? オレ、モリタ。モリタ・カツユキ。よろしく!」
無駄に元気そうな声で言うと、モリタ・カツユキは握手を求めてきた。別にしようと思わなかったが、やっぱり、なりゆきに任せて真希は手を出した。握り返されたその手は、生ぬるくて、なぜか少し湿っていた。
他に二人の男が、バンに乗ってやってきた。全員、モリタと同年代かひとつ下くらい。話し振りから、中学か高校か、とにかく学校が一緒だったらしいことが分かった。
バンはリアにウイングのついた黒いステップワゴンだった。バンドかF1のステッカーが、無作為に貼られている。中は、大音量でトランス系の音楽が流れている。単調なパターンのリズムとシンセサイザーののっぺりした音が、外まではっきりと漏れてきた。
真希は窓際に詰め、隣にモリタが座った。
「もうひとり、後で拾うからさ、そいつ来たらそっち詰めてよ」
ミコトだと、真希は思った。首を横に振りたかったが、言うとおりにした。
「ミコトとは、よく遊ぶの?」
この質問にも、思いっきり首を振りたかった。でも、そう答えることによって起こる不都合を、なんとなく、真希は感じていた。曖昧に答えて、顔を伏せた。それから、モリタは大声でどこかに電話を始めた。これ以上、話しかけられなくてよかったと彼女は思った。バンが急発進する。三半規管が揺れ、車に弱い真希は、あと一時間、この運転が続いたら酔うな、などとひそかに予感した。
すでに喪われたあなたに出会って
おととい学習塾に侵入した散弾銃男自殺 藤沢市の実家付近で遺体発見
「散弾銃だね」
ふいに後ろから立った声に、水越薫は、はっとして振り向いた。藍色の制服を着た鑑識課員が薫の視線と同じ方向を指差している。初めて会った、このベテランらしき中年の男は、英会話学校と飲み屋のビルの側面の電光掲示板のニュースに、薫が視点を合わせていたことを、指摘しているようだった。
なにかを揶揄するように、課員は唇に薄笑いを浮かべながら、
「どこも、物騒なこった」
「ええ」
少し憮然として、薫は曖昧な相槌を返す。今、別に会話を必要とする気分でも場合でもなかった。言ってみれば少し、放っておいて欲しかったところだった。
「お疲れかい」
そんな気分を見透かしたのか、無神経なのか、課員は薫の顔を覗きこむと歌うようにうそぶいてみせた。
「大変だろ、一課は。遊ぶ暇もなくて」
三月十日、午後十一時三十五分だった。後、三十分ほどでまた日付が変わる。夕方、新宿署の交番で巡査が拳銃自殺した。退勤しようとしていた薫はその応援に呼ばれて、貴重な睡眠時間を根こそぎ持っていかれた。ついさっきまで署の仮眠室にいたせいで、顔も髪も直す暇もなかった。目の前の男が暗に指摘したいことはなにか、薫には十分よく分かっているつもりだった。
「そうね」
薫は軽くため息をついて、わずかに歯を見せた。女性としてむきになったり、男伊達に突っ張ったりすることは別にしない。感情的な反応で相手の興を買うのが一番面倒くさいことを彼女はよく心得ていた。男性社会での距離感の取り方は犬の喧嘩に似ている。簡単にお腹を見せてもいけないが、きゃんきゃん吠えついてこちらの肚を読まれるのも、逆に墓穴を掘ることになりうるのだ。
「こっちも散弾銃?」
薫はさりげなく話題を戻した。
「そうだと思うよ。身体中穴だらけだ」
灰色が黒ずんだブロックを積み上げた住宅街の裏路地の一角、週別のゴミ置き場の表示が立っている。完全に保全された現場、生活ゴミの異臭に混じって、別の非日常的な異臭が、刺すように冷えた夜気の中に漂っている。そう言えば確か今日は、生ゴミの日だった。
豊島区名物、カラスたちを追い払うのに、通報を受けて駆けつけた所轄の捜査官たちは、かなりの苦戦を強いられたに違いない。
ラテックスの手袋をはめながら、薫はゴミ袋の山から引きずり出された遺体を検めようと、現場に足を踏み入れた。シーズンが終わって、廃棄されたマネキン人形のように少し汚れた滑らかな物体が、ちょうど鑑識課員に手足を持たれて、そこから取り出されるところだった。
遺棄されていたのは、若い女性だった。背は一六〇センチ前後、アプリコットブラウンにブリーチした長い髪。着衣はない。犯人が剥ぎ取ったものだろう。靴と靴下だけは、なぜか残されていた。致命傷は、一見して下腹部のもの。損傷の度合いは激しく、血と肉の塊が、乳房の下から両腿の間にわたって、黒くわだかまっている。
「散弾銃で撃たれた」
火傷を受けてめくれあがった皮膚に、ぽつぽつと黒い穴が開いているのをみれば、それはひと目で分かった。
薄暗い街灯の下で、薫は遺体を抱え上げて人相を確かめた。顔に目立つ傷はない。全体として小作りな、綺麗に整った顔立ち。まだ少し、幼さの残る面差しを残している。二十代前半か、ことによるとまだ十代かもしれない。
泥のようにしてみえる付着物は、ファンデーションやマスカラの成れの果てのようだった。涙をはじめとした体液に溶け出して、それが彼女の顔を汚したのだった。大きく見開かれたまま硬直した眼窩に、枯れた川筋のように涙の流れた跡が認められた。死んでからも、袋の中で涙は流れ続けたに違いない。今夜の薫より長く、メイクも髪も崩れたままで。彼女はずっと、泣いていたのだ。
まだ冬の明けない、寒い三月の深夜だった。
薫はまず、【彼女】に出会った。
表通りのネオンの明かりの鬱陶しさが、重たく疲労した目蓋にのしかかる、火曜の晩だった。JR目白駅はすぐそこ、だが脱出するにしても、息苦しいのはごめんだった。誰もがそうだろう。すでに多くの人が、呼吸を止めながら、どこかへ、それも足早に去ろうとする。もちろん誰も、立ち止まろうとはしない。死人ですら、自分の身体を置いてすでにどこかには行ったというのに。
立ち止まった薫は、路地裏で遺体にとどめられていた。
【彼女】は変死体として、大学病院の死体検案室に送られていった。都内に限られた数しかない、この世でもっとも殺風景なそのステンレスの台の、順番待ちの列に並ぶ。
【彼女】は殺害された後、わざわざあそこに遺棄されたものとみて、間違いなかった。裏通りとは言え、人の出入りはないとは言えない住宅街だ。棄てに来るとするならばやはり車だろうが、誰が、どこから、そしてなんのために【彼女】をそこに棄てたのか。そもそも、【彼女】は誰なのか。
まだ、なにも分からない。
「薫、おい、待ってくれよ」
会議が終わった薫に、誰かが声をかけてきた。同期の金城純也だった。やっと応援に来たようだ。被害者が未成年で、しかも猟奇的な殺人事件の可能性が高いこの事件の場合、多少手の空いている人間はほぼ動員されそうな勢いだった。
「大変だったな。新宿の手伝い済ませて、こっちに一気に急行か」
金城は大きな目をぐりぐり動かして、薫の顔を見回した。色黒でいかにも南方系の、がっしりとした身体つきをしている。人の良さそうな顔を除けば、組み技系の格闘家以外なら、警察官と言う職種にもっとも向いた体型だ。
「女の子の死体、それも着衣なしだって言うから。行けたら、わたしが行った方が良かったでしょ?」
「ひどかったみたいだな」
「ひどいから、変死体なのよ」
もちろん、違う。法的に、ただ、自然死ではない遺体をさして言うだけのことだ。便宜上の分類は、ここから自殺体か、他殺体に行き着く。もっとも【彼女】の場合、結論はすでに決まっている。
「彼女なりの抵抗はしたみたい。・・・・・もちろん命をかけて。どこかから連れ去られて、もしかしたら長い時間かけて、ひどい目に合わされたのかもね」
暴行されたのかは、もう分かりはしない。だから、彼女にこれほどの暴虐を施したのは一体、何人なのかと言うことも、推定できない。なにしろ下腹部は、ほとんど吹き飛ばされているのだ。
「散弾銃か」
「どうかな」
薫は首を傾げた。
「横浜の塾講師の事件はそうだったろう? 似たような事件って意外と、同時に起こるもんだ」
「かもね。・・・・・・なにを思いついても、世の中に七人は同じこと考える人っているって言うしね」
「こっちの被疑者も早く捕まればいいがな」
「・・・・・ええ」
「被疑者に自殺されても困るけど・・・・・」
後半が少し聞き取りづらかった。薫は怪訝そうに眉をひそめた。
「どうかしたのか」
ふいに、金城はそんな薫の顔を覗きこんで、言った。
「具合悪いのか? お前、すごい顔色悪いぞ?」
「え?」
言われて、薫は初めて気づいたように、はっとして頬に手をやった。じっとりと冷たい脂汗を大量に掻いていた。
「調子悪いのか?」
「大丈夫。仮眠室寒かったから、徹夜したし、疲れただけ」
「退勤するなら送ってこうか?」
「気にしないで。・・・・・本当、なんでもないから」
「そうか・・・・・」
少し残念そうに、金城は言った。まだ危険なものでもない、彼の下心に付き合ってもよかったが、それをするには、今の薫はあまりに物憂く、確かに思考の弾力性を失っていた。
「とりあえず、一回帰るわ。まだいるんでしょ? なにかあったら、すぐに連絡して」
「分かった。・・・・・無理するなよ。そっちこそ、具合が悪いようだったら、すぐに連絡して来い」
重たいため息が出たが、熱くはなかった。どうやら、風邪などではないようだ。でも、悪寒とよく似たものが、背中を這い上がってくるような感覚がする。脳がふらっ、と揺れ、意識を失いそうな感じがある。このところ働きすぎなのかも知れない。とにかくまず、どんなことをしても家に帰ろうと思った。気づくと、さっきよりも身体が重かった。本当だ。そう思うと余計に、調子が悪い。
「なあ、そうだ」
「え?」
「さっきの話だけど、お前の」
そのとき金城が、わざわざ戻ってきた。
「それって、七人って似た顔の人のことじゃなかったか? 自分と同じ顔した人が七人いるって話」
自他共に認める体育会系はこう言うとき、実に上手く気遣いのつぼを外してくる。重い口と頭で、薫は答えた。
「・・・・・どっちだったか、分かったら、連絡するわ」
ここまで調子が悪いのは、本当に久しぶりだった。冬場のインフルエンザにさえ、ここ数年は罹ったことがなかったのに。シートにもたれかかって外を見ていると、顔も熱くなってきた。身体が浮いているようにすでに自重すら感じなかった。
気が遠くなりかける自分と何度か戦いながら、薫はどうにか自分の部屋に戻った。なんとかそこのところまでは、憶えがあった。
自分の汗で濡れたシーツの中で、薫は何度か自分の上下左右を失いかけた。今の自分の状況も、自覚していない。完全な無重力空間に放り出されたような気がした。
落ちていく。
足をつかまれ、強引に夢の中に引きずり込まれる。
時により、高校生の自分になり小学生の自分になり、それぞれ、なにかに急き立てられるような悪夢を見た。とても、せわしない感覚。やがて性急な義務感は、すでにそれが手遅れになったことに対する後悔に変わり、特急列車で乗り過ごしたように一足飛びに遠ざかっていき、漠然としたまま薫の胸に突き刺さった。
手を伸ばした空になにも、掴めるものはなかった。
後頭部からさかさまに、底なしの奈落から、ベッドの上に落ちて。
やがて、過去への長い旅が終わった。
それから目を覚ましたのは夜中だった。ベッドの上の時計は蛍光色を発している。おぼろげに記憶を逆算すると、もう五時間も意識を失っていた。身体を動かすと、着たままのブラウスが汗を弾いて、隙間から入ってくる風が冷たい。もう大分長い時間、すっかり身体が冷えている。寒気に身が縮む。でもどうやら、悪寒の方は立ち去ってはくれたようだ。
暗闇の中で、薫は立ち上がった。空腹感はなかったが、特に食べ物を入れても不快ではなさそうだった。なにか、温かいものを摂ろうと思った。
ベッドを立ち去ると、じゃらりと音を立てて携帯電話がシーツの波の上から、下にこぼれ落ちた。幸い携帯電話には、退勤前の金城のメール以外は、必要なものはなにも入っていなかった。
すり足でキッチンに近づき、コンロでケトルの水を沸騰させる。コーヒーをドリップするための華奢な真ちゅう製のケトルは、すぐに甲高い音を立てて、白い湯気を噴き出しはじめた。
(久しぶり・・・・・・参ったな。本当、ひどい目にあった)
疲れは確かにあったが、熱を出すとは思わなかった。本当に何年ぶりの発熱だろう。立てなくなるほどひどいのは、たぶん、学生以来だ。なにしろ、季節の変わり目だ。本人も自覚しないうちに、どこからか、ひどいのをもらって来たのかも知れない。
熱湯が沸いて、薫はスープを口にした。少しずつ、口の中に浸す。顆粒状の即席コーンスープは砂地に水を撒いたように、喉に沁みた。
なんだか、表現しにくい悪夢を見た。
もっとも調子が悪いときは、昔からそうだ。無人のはずの部屋の天井から、話し声が聞こえてきたりすることもいつかあった。今度のもどこか、寝覚めの悪い悪夢だった。そう言えば、大人になってからは、ずっとなかったのだ。天井から、ひそひそ声が聞こえてきたのは小学生のとき。別に霊感があるわけでもないのに。
死者が、薫を引き止めたのか。
(そうだ、あの子だ)
そう言えば【彼女】にあそこで引き止められてから、どこかなにかがおかしかった。
(あの顔を見すぎた)
頬に泥しぶきが跳ね上がったように。
点々、涙の痕。
にごった視線。
事実はまだなにひとつ、【彼女】に追いついてはいないのに。
(・・・・・知らない子なのに)
まさか。
苦笑して、薫は首を振った。ありえない。本当に名前すら、薫は彼女のことを知らないのだ。残念なのか幸運なのか、それは分からない。だが。
突然、低い地響きのような唸り声がした。不覚にもはっとして身体を硬くしてしまった。大したことではない。ただ、ベッドから落ちた携帯電話が床で鳴っているのだ。薫はいまいましげに顔をしかめて、暗闇の中、救いを求めて光る遭難者を拾い上げた。
秒速落下は、ちょうどその瞬間に起きた。
落下直後、反射的に振り上げた腕は、どこかに引っかかって停まり、がくん、と肩が外れた。耳鳴りがこめかみから飛びこんで、脳の奥を突き刺す。痛みはぶらぶらと突き立って揺れる矢柄のように、聴覚を揺さぶって、感覚を支配していく。
頭の先から全身を貫く激痛に身体をよじる。落ちてはいない。落下はすぐに停まった。しかし、足はどこにも落ち着く底面を探せない。どこかにぶらさがって引っかかっているのだ。どこかから両腕を吊るされ、身体が揺れている。
この痛みは、筋肉の悲鳴だ。歯を噛んで食いしばっても、長くは耐え難い。苦痛に声をあげそうだ。そうしているうちにやがて。
耳鳴りは絶叫に変わった。
それは獣のような意味不明のうなり声だ。それがヒトの悲鳴だと分かるのに時間が掛かった。なりふりなど、すでにかまわない極限の慟哭。声は迫り来る運命を必死に拒否している。感情を恐怖が一色で塗りつぶす。もはやそこに社会的地位や性別すら、存在しなかった。恐怖が人間の持つ、すべての属性をその肉体から剥奪した後の絶叫に他ならなかった。
聞くだけでも、苦痛に値する音響。
耳を塞いで避けることも出来ず、薫は当惑する。
こめかみを圧迫する、獣の咆哮。
それはやがて、辛うじて、その人間性を取り戻してきた。
悲鳴は人間の女だ。それもまだ若い、女だった。
廃屋に吊るされている。着衣はない。発見された時点のまま。
【彼女】がそこにいた。
両腕を縛られて、天井から吊るされている。血と涙、泥と粘液でメイクが流れ落ち、軽くウエーブした髪は毛羽立ち、乱れていた。
雨季のようなパニック状態が通り過ぎ、短くて永い、憔悴と諦めの時期が左右にかすかに揺れる、その身体を覆っている。
「おい、早くしてくれよ。なあ」
「・・・・・・・・・」
絶望が最期に彼女に人間性と自由な意志をもたらした。うつむいた顔を上げる。ぐしゃぐしゃの顔は少し腫れて、伏し目がちの長い睫毛には、とめどもない涙の色が滲んでいた。かすれた声で、彼女は最期の言葉を口にした。焼くような喉の痛み、渇き。窒息するほど、咳きこむ。細々と言葉を紡いだ。
内容はずっと、誰かに謝り続けている懇願調で、急き立てるような男の声がそれをいちいち否定した。謝罪は拒否。男たちに、被害者の人間性を受け入れる気持ちはない。だから、許しはしない。男たちは彼女を恨んでいる様子は見られなかった。少し眠たげな感情的に起伏のない声で、これが最期の時間になるのだ、と言うことをこんこんと彼女に告げていく。
死刑執行人と、死刑囚の会話。法務大臣は対話を拒否。
平行線の会話はやがて、彼女のつぶやきだけになった。恐らく、現実回避の独り言を言っている。彼女の脳が最期に許した、極限の防衛機制の本能。現実に戻ると、彼女は再び哀願を始めた。
「謝るから・・・・・ごめんなさい・・・・・わたしの負けだから・・・・ほんと・・・・お願い、だから許して・・・・・」
宙を漂う幻に問いかけるような頼りない声。自分がまるで話しているかのように。薫の頭の内側に向かって響く。
「無理もう選べない。・・・・・・無理無理無理無理・・・・絶対、無理だからぁ・・・・・・」
誰かの笑い声がした。男、若い。複数。嬲るようになにかを言う。
「いいから選べって。・・・・・どんな頑張ったってどうせ、もう、終わりなんだからさ」
「おれたちからの、バースデイプレゼント受け取ってくれよ」
「いやあ・・・・・・やだよ、そんなの・・・・・・」
男の声は彼女を現実に戻した。再び髪を振り乱して、彼女は赤く潤んだ瞳を向ける。力いっぱい身を捩って、彼女は、切迫した声を出した。
「もういいでしょ・・・・・・降りるの・・・・・わたし、降りるんだってば・・・・・だからお願い。降ろしてよっ!」
パニックが再びアドレナリンを奔らせる。
「聞いてるのっ?」
声が擦り切れる。
「答えなさいよっ。答えてっ、お願い・・・・・・」
救いと許しともに、確かに彼女は誰かの名前を求めた。
「・・・・・・・・・っ!!」
耳を聾する恐ろしげな火薬の爆発音が、辺りを支配した。
目も眩むような閃光。衝撃が内臓を圧殺する。
焼ける。突き上げてくる。口から、中身が飛び出そうに。
彼女が叫んでいた。
薫も叫んでいた。
なにが起きた?
喉が破裂した。激痛が走った。首から下が消し飛んだかと思った。
そのとき、確かに、見えた。
舌の先からその閃光が飛び出していった。
「・・・・・・・・・・っ!」
絶叫が喉からほとばしり出たような感覚のまま、薫は、目を覚ました。携帯電話の目覚ましが鳴っていた。すでに、出勤時間前になっていた。表で雀が鳴き、新聞配達のバイク便が近くを通り過ぎていく音がした。ブラインドを下ろしただけの窓から、射し込むのはまた、五時間後の朝陽。
痛めた喉を左手でいたわりながら、薫は立ち上がった。
悪夢が呼び覚ますもの
確かに。
あれは夢ではなかった。一度はっきりと、薫の目は覚めていたのだから。前後不覚になる前、すでに悪寒も熱も去っていたんだし。だが、内容は下手な悪夢より怖しいものだ。それにしても、リアルな感覚の、あてどもない彷徨だった。
(でもどうしてだろう。初めてじゃない)
得たいの知れない既知感がある。もちろん、【彼女】に関してのことではない。
そうだ。もっと昔だ。
(でもそれはいつだった?)
シャワーの最中、しばらく考えてはみたが、やっぱり思い出せない。そう言えば、前にもこんなことはあったはずだ。でも、たぶん昔過ぎて思い出せない。残念だが保留するしかない。むごたらしく不気味な悪夢で、ただでさえ、仕事が出来なくなりそうだ。
コーヒーを入れて、出勤前に身の回りの整理をする。
昨夜のうちに二つの着信履歴が、薫の携帯電話に入れられていた。ひとつは金城から。あの後、【彼女】の身元が分かったのだ。都内の私立高校の二年生だった。名前は、ミコト。嶋野美琴と言うらしかった。やはり、薫には聞き覚えのない名前と素性だ。
もう一件はそれこそ見慣れないナンバーの着信だったが、千葉の母親かららしい。最近、薫の母は電話を替えたのだ。薫の兄の晴文がまた、家を飛び出していなくなった。暇があったら気にかけておいてくれないか、と、実に消極的な救援要請。
一課の捜査員になってから、どころか、兄の晴文とは五年近く、薫は話をしていない。心理で大学院まで出たのはよかったが、研究室に残れず結局就職先も決まらずに、気儘なフリーター稼業を続けている。新入生や新学期が始まるこの時期に、煙草銭の多寡ほどの下らないきっかけで父親と衝突するのは、半ば恒例行事化した事態といっていい。
それでもここ一、二年は、もはや諦めたのか、決定的な衝突を招かずにいたのだが、たぶん、来年県警を退官する父が、地方の法科大学院の教授に再就職が決まったせいで、将来が決定せず自宅に引き籠っている兄の問題にも、無駄と知りつつ浅はかな介入をしたのかもしれない。
お前、老後の親が稼ぐ金で、これからも暮らしていくつもりか。
兄の晴文は口が重く、幼い頃から、勉強だけが取り柄だった。今はなにを考えているのか、薫もよくは知らない。家出したとしたら、立ち回り先を推測することは至難の業だろう。
彼女が出来たのも聞いたことがないし、昔の研究室の仲間やパソコンのチャット仲間などもどこかにはいるのかも知れないが、ここ数年、極端に外出と交際の範囲が狭まった兄に、今、どれほど泊めてくれる知り合いが残っているのかと言えば、かなりその望みは薄い。と、なれば漫画喫茶でも泊まり歩いているのだろうと思うくらいだが、そうなれば、探すのはますます不可能だ。
母親はもしかしたら妹のところに行ったのかもしれないと考えたのだろうが、正直、読みが甘過ぎる。もともと、兄妹ともに、お互いの優先順位は驚くほど低いのだ。大体、いい年をして親と喧嘩して家出した兄が、今さらどんな顔をして、東京に就職した妹を訪ねるのか。兄にだって、それなりのプライドくらいはあるだろう。
優しくて頭のいい兄だった。薫には及ばない学歴を持ち、その学歴が有効な間は、両親も兄を見習えと妹を叱ることあるごとに言い募った。今、父は就職しない兄に、逆のことを言っているのだ。別にいい気味だとは思わない。意見を言う気もない。そのことを思うとただただ、なにかが虚しく煩わしいだけだった。
それより薫には大切な仕事がある。名前の判明した【彼女】の事件の捜査に出なければならない。昨夜の悪夢が、薫に再びやる気を与えていた。確かにあれほど鮮烈な悪夢は初めてで、衝撃的だったが、考えてみれば、薫が担当してきた中でも類を見ない悲惨な事件だった。被害者は若い女性だったし、知らないうちに入れ込んで体調に影響するほどの悪夢を見ないとも限らないと思った。
それにしても、恐ろしくリアルな夢だった。被害者は本当に、ああやって殺されたのだろうか。吹きさらしの廃屋の冷たい空気、複数の男たちの残忍な笑い声、目もくらむような光と衝撃波。よく分からなかったが、あれはどうも散弾銃などではなさそうだった。
(夢・・・・・よね?)
まさかとは思う。死因についての具体的な所見は、検案報告書が挙がってこない限り判らないのだ。経験の深い鑑識課のベテラン課員だって、散弾銃だと言っていたではないか。
それに。そうだ。
【彼女】は死ぬ前に、誰かの名前を叫んでもいた。
(・・・・・まさか)
薫も確かに聞いた。あの中で薫もその名前を叫んだのだ。
それが誰だ。
思い出せないが恐らく。
その名前に向かって、嶋野美琴は助けを求めていた。あの暴挙をやめさせる力を持っていた唯一の人間に対して、救いを求めて。
あれが、少しでもあてになる予知夢の類であることを祈ろう。もしかしたら関係者を洗い出せばその中に、ぴんとくる名前があるかもしれない。まさか夢を信じる気などないが、勘を信じて調べれば、証拠が事実を立証してくれるはずだ。
十日前にとった今月最初の休暇に、ショートボブにしたばかりの髪を軽くブロウして、薫は職場に戻った。
「大丈夫だったのか?」
人の好い金城は、本気で心配してくれたようだ。
「ごめん、忘れたわ。調べるの」
いきなり言うと、金城はきょとんとした可愛い目になった。
「なにが?」
「世の中に自分の他に必ずいるはずの七人」
「七人もいらんさ」
金城は苦笑して言った。
「まずは事件に関連ありそうな人間、一人でもあぶり出さんとな」
金城は、ときどき沖縄人ぽい陽気さが出る。本人は横須賀生まれだが、父親が沖縄人だと言う。そんなとき金城が、薫は好きだった。
「聞いたか。被害者の嶋野美琴の父親は、大手船会社のアジア部門の責任者だそうだ。黒龍江省の支社で母親から事件の話を聞かされて、急遽、帰国の準備を進めているところだとよ」
「それで、そんなにすぐに身元が割れたの?」
まあな、と金城はなぜか得意げに肯いて、
「実は死体が見つかる前の夕方、すでに豊島署に被害届けが出ていたんだ。十八歳になったばかりの誕生日の夜に、今日は早く帰ってくるはずの娘が戻ってこない、ってな。もうすっかり忘れたけど、この時期、卒業シーズンで学校は授業がないんだろ? 駅前の塾に寄って、昼には帰る予定だったらしいよ」
だから最終目撃証言は、池袋南口方面にある学習塾を出た、昼以降に絞られてくるだろう。自宅から五キロ圏内にあるどこかで、嶋野美琴はさらわれ、人目につかない場所で長時間監禁されたと思われる。
「死亡推定時刻は、二日前の午後十時ごろだと。だからもし昼間、池袋でさらわれたとしたら、最低三、四時間は連れまわされて監禁されたかもしれないな」
「で、どこか人気のない場所で撃たれた?」
「いや、そのな」
金城は、なぜか浮かない顔で首を振った。
「撃たれた、と言う表現だが、どうも違うらしい。解剖による所見を聞いて驚くなよ。まだ特定は出来ないが、死因は散弾銃による射殺じゃない。手製の爆弾による爆死なんだとさ」
「爆死?」
爆死? まさか。思わず、薫は声を上げた。
「ああ、爆弾。軍用の地雷のようなものを改造したものらしい。例えばアメリカ製だとM18って言う地雷がそうらしいが、爆発時に無数の細かい金属のベアリングが散弾になって飛び散る殺傷力の高いタイプがあるんだな。どうもそれを使われたようだ。遺体に残った炭化の程度を調べたら、下からの爆風と衝撃によって内臓をやられたことが直接の死因だと言うことがわかったみたいだ。遺体の靴と靴下脱がしたら、足の指まで丸焦げだったらしいぜ」
金城は、遺体の検案によって彼女が、自分の足元からの爆風によって悲惨な死を遂げたと言う検死結果の詳細を薫にもたらした。
「どうやら彼女は両腕を縛られて、地雷の上につま先が着くか着かないか程度の高さで天井から吊るされていたみたいだ。・・・・・怖かったろうな」
「・・・・・・ほんと・・・・・」
嶋野美琴は、両腕を縛られ吊るされていた。
薫の脳裏を昨夜の悪夢がよぎった。
(そうか)
あの目も眩むような衝撃と圧迫感。
あれは、爆弾によるものだったのか。提示された客観的事実。悪夢を現実が裏づけしていく。確かにあの夜、薫は彼女に引き止められた。そんな感じがした。
「母親の話だと、被害者の女の子は、誰かに付け狙われていることを訴えていたらしいんだ。自分が連絡も入れずに、予定を変えたら、とにかくすぐに警察に通報してくれと、相当必死に頼んでいたんだと」
「でも、一晩くらいじゃ普通、捜索願まではいかないはずよ」
「受信履歴午後八時三十二分、母親の携帯に美琴から最期のメール送信があった。件名はなし、ただ一言『ころされる』。母親はすぐに警察に電話して、捜索願を出した。要請を受けて豊島署の捜査員が、美琴の自宅のマンションに事情を聞きにきたのが午後九時、二時間後に、なんの関係もない学生が、被害者の自宅のごく近くのゴミ捨て場に置き去られた遺体を発見した、ってわけだ」
犯人はこのことからも、車を使って移動していたと考えられる。それにしても、警官がすぐ近くにいて、遺体を遺棄しにきたはずの容疑者を目撃していないのは、かなり痛い失点だ。
「それにしても被疑者も危ない橋を渡るものね」
「ああ、いかれてやがるな」
金城はうんざりしたように言うと、
「特殊な凶器を用意して使うことといい、手際のいいさらい方といい、犯行のタイプから見ても、犯人は被害者を執拗に狙って、周到に準備した、つまり被害者になんらかの怨恨があった人間の犯行と見ていいだろうな。・・・・・流し(通り魔、無差別の愉快犯)の線も棄ててはいないが、基本的に本部は被害者の交友関係の線から捜査を進める方針を採るってさ」
「被害者に怨恨?」
「ああ」
金城はうんざりしたように、手を広げて愚痴った。
「友達関係か、男関係。今はケータイがあるから、年上年下、日本全国、誰とでも付き合えるからな」
嶋野美琴は死ぬ前に誰かの名前を叫んでいた。
薫は確かに誰かの名前を彼女が叫ぶのを聞いた。
せめて金城には、昨日見た悪夢のことを話すべきだろうか。
いや、確たる証拠も何もない話だ。あくまで、薫の熱で狂った知覚の範囲内での出来事だ。今聞くと確かに驚くほど、実際の犯行状況とは符合した点が多い。彼女は複数人によって拉致され、どこかに監禁された。そして、両腕を縛られて吊るされて捕虜のように嬲られた後、手製の爆弾によって悲惨な爆死を遂げたのだ。
見ていると言えばその一部始終を、薫は見ている。
だが、夢は夢だ。
仕事場で言うような話ではない。本気で話せば、いくら金城でも呆れられるだけだ。
確かに、驚くほどリアルな夢の中だが、すべては幻想に過ぎない。連日ろくに睡眠もとらず、あまりにひどい現状で悲惨な死体と連続に接し続けて、その結果、奇妙な感化を受けたに違いない。下手をすれば、カウンセリングを受けろと言われるだろう。そうなればいい笑いものだ。
ただ。
夢の中の彼女は確かに、誰かの名前を叫んでいた。誰かに許しを請うていた。恨みを持つものと、持たれるもの。もし怨恨の線が本当なら、その名前は被害者美琴の生活していた、どこかで必ず出てくるに違いない。
幸い、薫はその点では恵まれた立場にいた。彼女と金城の二人は、嶋野美琴の通っていた学校に行って、関係者から事情を聞く係を割り当てられていた。
「なあ、おい知ってるか薫。お前が担当した警官の拳銃自殺」
移動中の車で金城が何気なく、薫に話しかけてきた。
「原因はなんだ、うつ病だってな。木津橋って、高校時代から、柔道の全国大会でも有名なやつなんでおれもよく知ってるんだが、そんなに悩んでいたとは思わなかったよ」
「・・・・・どうかな」
薫の知る限りでは、そうした症状に悩まされていたという様子はまったくなかったように思う。通院歴がないのはもちろん、到着した現場の警官たちや関係者が、彼が自殺した理由が思い当たらなくて、唖然として首を傾げていたはずだ。
「みんなの知らないところで、なにか悩みがあったのかもね」
「お前も気をつけたほうがいいぜ。過労とストレスはまずいって言うからな。昨夜、お前、死にそうな顔してたぞ。・・・・・その、たまには、息抜きした方がいいんじゃないか」
「そうね」
薫は苦笑して、金城を流し見た。
「・・・・・どこかいいところがあったら誘って」
せめて、一人で薫を誘えることができるほど、金城に勇気があればね、と言う意味で、彼女は言った。
いつかみたいに男の飲み友達ばかりの串焼き屋で、薫より先に泥酔してタクシーに乗せられて自宅まで強制送還されるような展開では、それこそお話にならない。
「あ、ああ・・・・・いい店見つけたら、誘うよ」
にやにやしている薫の表情で、いつのことを示唆しているのか、ようやく思い当たった金城はあわてて視線を前に反らした。
拳銃自殺か。
その言葉を聞いたとき、薫はなぜかはっとした。そう言えば、新宿交番で死んだ、あの警官の遺体の検分に立ち会ったとき、薫は死体と顔を合わせてはいない。
ミコト。嶋野美琴。
確か、あの子と目を合わせたときから、少し、おかしかったのだ。
口をついて出た名前
学校に到着したのは、指定された午前十一時過ぎ頃だった。
事件の報道は、昨夜辺りから被害者の素性が分かって騒ぎが大きくなっているらしく、取材の記者たちも校門から関係者駐車場辺りにかけて、ちらほらと見られた。
生地のしっかりとした茶色のブレザー、赤い色のタイ。スカートは薫の年ではくじけそうなくらい短めだ。制服の女子たちの姿が目に留まる。被害者の同級生かもしれない。嶋野美琴もこの格好で、この辺りを普通に行きかっていたはずだ。
学校側の公式な意見として、亡くなった嶋野美琴は、成績は優秀、明るく社交的で友達も多い生徒会役員で、交友関係についても、危険なことに発展しそうな事件性あるものは聞こえてこないと言う。
もちろん、この公式見解と言うものは多くの場合、のちのち波瀾を呼ばないためのストーリーで構成されているもので、事実と称する情報には、発信者側の無難であることを期待する気持ちも、希望的観測として含まれている点に注意すべきだ。
ただ、母親から聞いた話や、見せてもらった多くの資料に添付されている生前の美琴の写真などを見てみる限り、特徴的に問題を起こしそうな生徒とは、まず思えない。
軽く髪を染めた透明感のある面差しは、適度に母性を感じさせるものを含み、積極的な性格にも、無理な押し出しの強さを感じさせない。男子にも女子にも人気があると言うタイプだ。
英語が得意だったらしく、TOEICの認定証をもった写真や、所属していた英会話クラブでの活動やスピーチコンテストでの表彰などを写したものも目立ったりする。父親の仕事の影響もあり、国際交流に関心を持っていたのだろう。卒業後は、海外の大学への進学なども、視野に入れていたに違いない。
警察が話を聞くために、特に学校側が選び出した彼女の同級生は三人。いずれも、同学年。同性が二人、異性が一人。
夕方から行われる美琴の通夜に列席することも決まっているせいか、一様に放心状態のようだった。
多くの場合、身近な人の死が最初にもたらすのは、非日常感を含んだ感覚麻痺だ。揺るがないはずの日常に、ある日ぽっかり空いた喪失の落とし穴。環境に適応して生きる仕組みをもつ人は、大抵の準備していない変化に抵抗を示し、それが急変の場合は、状況判断をやめて真っ白になるものだ。
過去と連続しない次の現実とのギャップによる混乱を一旦棚上げして、やがて粛々と感覚の整理を行う。心理学で言う、喪の作業がこれにあたる。
だからもしこの事件についてなにも知らずに直面した場合、感情が復旧するのは、混乱が収束し、現実を認識した後になるだろう。ついこの前までいた友人の身体が灰になり、小さな骨壷に収められ、それが彼女なのだと認識したときが初めて、そのときになる。
金城と薫は、そうした表情の変化を経験知から、まずは感覚的に見極める。
話していて三人の中に、すでに感情の復旧をみているものは皆無のように見えた。
三人の中で比較的よく話をしたのは、唯一の男子生徒で、同じ生徒会の田辺勝也だった。小柄で中性的な、さえない印象の川辺はもちろん、亡くなった美琴と交際経験はなかったが、同じ生徒会の役職で好意をもって彼女に接していたことはともかく伝わってきた。
彼はいわゆる女の子から、異性としてカウントされない無難なタイプと言ったところだろう。話は学校側の公式見解の詳細を、ほとんどなぞるものに過ぎなかった。
満冨悠里は神経質そうな、ちょっと取っつきにくい女生徒だった。パソコンゲームのオタクらしく、それらしいキャラクター商品が、持ち物などにも目につく。痩せぎす、オレンジのプラスティックフレームの、幅の細い眼鏡をかけて、それほど長くない黒髪を無造作に後ろで束ねていた。
悠里は、美琴が死ぬ前に誰かに付け狙われていたと母親が証言した、と言うことを聞かれて、しぶしぶと言った調子で、学校サイトなどのチャットでうざったいやつに因縁を吹っかけられて愚痴をこぼしていた、などと言うどこかはっきりしない情報を漏らした。
予想通りの図書委員長で美琴とは違うクラスだが、生徒会の活動を通じて仲良くなったとのことだ。来る途中、廊下に貼り出されていたかなりレベルの高いアニメ調のポスターはすべて、彼女が描いたものらしい。
一番反応が感情的に見えたのは、野上若菜だった。彼女は小学校からの彼女の同級生で、この中では異性に映る自分を意識しだした平均的な女子高生だった。下品にならない程度に染めた髪に薄化粧、ほのかにココナッツの匂いをまとって、爪なども手入れしている。混乱してたどたどしい彼女の話し方はじれったかったが、この中では一番、有益な情報を話した。確かに美琴から、変な人に付きまとわれて殺されるかもしれない、などと言う相談を受けていたと言う。
「・・・・・こりゃ変質者だな」
金城は端的に総括した。調書の意見は、それで大体まとまるだろう。聞いた話の印象だけなら、薫にも異論はない。
(やっぱり、夢は夢か)
「ねえ、刑事さん、ひとつ聞きたいんだけど」
と、最後に聞いてきたのは満冨悠里だった。
「結局、ミコトはなにで死んだの?」
ちょっとぎょっとして、薫は聞き返した。
「・・・・・あなたの聞きたい内容がよく分からないけど」
文節で区切ってゆっくりと、彼女は言い直した。
「どうやって、死んだの?」
「ニュースで言ってる通りよ」
「散弾銃?」
薫は、曖昧に肯いた。
「・・・・まだ、詳しいことは話せないの」
マスコミ発表ではまだ、美琴の死因の詳細は明らかになっていない。散弾銃のようなもので射殺されたものと思われるとしている。その悲惨な死はやがて詳細を嗅ぎつかれるだろう。ここであえて、伝える必要はない。
「心配しないで。胸から上は傷ついていないから。ご遺族の方には綺麗にしてから帰したから、お通夜のときはきちんと顔をみて、お別れをしてあげて」
「・・・・・・・・・」
なにか不満そうだったが、悠里は肯いた。薫の言った意図はないようだ。ひそめた眉になにか後ろ向きの感情を抑制した痕跡を残してから、彼女は顔を背けた。
金城が本部に指示を仰ぐべく一報を入れる。同時に掛け持ちの事件に対する打ち合わせもいくつか補足。
薫はしばし、外のグラウンドを眺めて時間をつぶしていた。授業で実施しているバレーボールを観戦している。球技大会は二年連続してバレーだった。普通、自分の所属している部活のスポーツは選べないようになっているのだが、薫は剣道部でどれも選ぶことが出来た。
どこか漠然と、これでいいのかと不安を感じている薫がいた。確かに、現実の捜査の方向性には納得した。状況などから考えて犯人は車で移動している。犯人が高校生だとは普通、考えないだろう。外部の変質者の線でまず間違いはない。
ただ、それは実行犯は、と言う点で納得行くだけのことだ。自由な外出時間と車を持たない高校生でも、誰かに頼むと言う手段をとることも考えられる。犯罪を構成するメンバーから、自殺の同伴者までネットで募集できる時代だ。条件次第ではどこの層のどんな人間だって乗り入れてくる可能性はある。だが。嶋野美琴をめぐる関係者には今のところ、その仮説を裏付ける肝心の彼女に深い怨恨を抱いている人間が見つかりそうにないのだ。
薫の夢の中で。
美琴は、自分の負けだと言った。一方的に変質者に付きまとわれている人間なら、こんなことは言うはずもない。降りるとも言った。降ろして、とは吊るされている状態から降ろして、と言う意味だけでないのかもしれない。負け。降りる。降ろす。なにか別の意味も含んでいるのだろうか。
だめだ。どうしても、考えてしまう。
(誰かに相談したい)
だが、薫だけが勝手に体験した、夢の中での話など、誰が信じるだろう。他の捜査員にあれを、納得いく形で見せることが出来たなら、誰もが薫の見方を支持しただろうとは思うが、一方的な自分の主観を理解してもらうより、それは無理な話でしかない。
(金城が言ってる通り、やっぱりどうかしてるんだ、わたし)
そう思いつつ、のめりこんでいくのはそのせいだ。あれほどリアルに、被害者とシンクロしてしまうことがあるとするならば、どんな捜査員も、客観的な状況判断に支障を来たすだろう。
と、なるとそれこそ、やっぱり。
(・・・・・カウンセリングを受けた方が、いいのかも知れない)
突然、薫の胸ポケットの携帯が激しくバイブした。金城が呼んでいる。ため息をついて、彼女は歩き出した。一階の廊下の踊り場の前を横切る。
そのときふと、誰かが薫の前を横切った。
その顔に見覚えがあった。
野上若菜だ。反射的に振り返って、彼女はこちらを見た。
薫がいる。それを知ってなぜか一瞬、彼女の表情が一変した。
(まずい)
そんな感じの、逃げ方だった。今そこで、なにかを話していたのだ。大人に、いや、警察官に話せないなにかの事情。若菜が通り過ぎたのと、別々の方向に向かって数人の女子が、ばらばらと逃げ散っていくのが見えた。
その中に、ちょうど、満冨悠里の姿もあった。
「待って」
思わず誰かを引きとめようと、薫は手を伸ばした。誰も応じはしない。小魚の集まる泉に岩を落としたかのように、彼女たちは消えていく。
その直後だった。
「許して」
頭の中。美琴の声がする。視界がホワイトアウトしたままだ。すべてが白くぼやけている。両耳の後ろ、脳の奥の奥が、びりびりと痺れる。空白に埋もれていく風景の中で、苦痛だけが溶けていかない。ぎしぎしと縄が軋む音が、まだ頭の上で響いている。
「仕方なかったんだってば」
「・・・・・あんたのことさらわしたのは悪かったから・・・・・・謝る・・・・・・謝るから・・・・・もうなにもさせないから」
「だから許して・・・・・お願い」
「殺さないで」
「聞いてるの?」
いるんでしょう? そこに・・・・・
彼女は言った。唇が震えるのが自分でも分かった。
その名前は、わたしも知っている。
そうだ、確かこんな名前だ。
「マキ?」
かつん、
と、足元になにかが落下した音で薫は我に返った。胸ポケットから、携帯電話が落ちたのだ。
そこにはもう、彼女が知っている誰もいなかった。
休み時間の喧騒が、幻のように聞こえる。電話を落としてしまった。溺れる夢を見た後のように、薫は息を吸った。
すると目の前に、突然、薫の携帯電話が差し出された。
薫は少しぎょっとして相手を見直した。
いつのまにか音もなくひとりの女生徒が立っている。黒髪をショートにした、不思議な空気の子だった。透き通るように色が白く、猫のような顔の小ささに比して、瞳が大きい。年頃にしてはちょっとなまめかしい、しなやかな身体つきをしていた。
たぶん、階段を降りてきた。だが、いつ来たのだろう。茫然自失としていた薫が気づかないのも無理はないが、こんなに近くに寄られるまで、気配を感じなかったのには、驚いた。
生気の薄い。人形のような綺麗な顔をしていた。
どこか焦点の合わない視線が、薫を見つめている。
「あ・・・・・・ありがとう」
いたたまれずに、薫は言った。それに対しての応えはなかった。
ふーっと息をつくと、かすかに肩をすくめ、彼女は電話を薫の手に戻した。後はなにも言わない。その一瞬薫は、自分が仕事でこの学校に来た大人であることすら失念して、ただ呆然としていた。
向こうで金城が呼んでいる。業を煮やしたのかもしれない。大きく手を振っている。すぐに移動の要請があったのか。それ以上その子に構うことをせずにあわてて、薫は駆け出した。そのとき彼女は薫の前を過ぎて外に出るらしかった。
薫は気づかなかった。
それはちょうど。
さっき横切っていった野上若菜と同じ方向だった。
マキを探して
「・・・・・・おい」
クラクションに急ブレーキ。身体が跳ね上がる。強引に上下に揺すられた衝撃が、薫の鈍磨した生理感覚を途端に蘇らせる。
「え?」
右折しそこねて不機嫌そうな金城の顔がそこにある。なにかの話の途中だったはずが、どこかに意識が飛んでいたのだ。あわてて薫は注意を戻した。金城のハンドルを持っていない方のごつい手が、左右にふらふらとなにかを持ち上げて、こちらに差し出している。
「信号が変わる。早くしてくれよ。重いんだ、これ」
手にあるのは、嶋野美琴に関する、時間と人権が許す限りの個人情報を集積したファイルだ。これには他にも何人かの同級生、または美琴が通っていた学習塾の関係者などから聴取した内容や、学校や美琴の母親から借りた、資料のすべてがこの中に含まれている。
「・・・・後ろの座席に戻しておいてくれって言ったろ」
「ごめん」
あわてて、薫はそれを受け取ると自分の膝の上に置いた。具を入れすぎたハンバーガーのように、バインダーが書類を吐き出しそうになっている。
「そいつももう、かさ張るし、必要もないだろ」
「・・・・・・・・・」
「これから厄介なことになりそうだしな」
「え?」
「・・・・・なあ、もしかして本当に聞いてなかったのか?」
ついに金城ですら、呆れ顔をされてしまった。
「・・・・・ううん、そんなことない」
いつまでも、調子が悪いという言い訳でしたくはない。どうにかあてずっぽうで、薫は話を合わせた。
「学校の同級生の証言でしょ? 母親が言っていた内容と、一致する」
「決まりだな。こりゃやっぱり、ネットの変質者だよ」
金城は無線機をあごでしゃくって言った。
「須田の班が、遺体発見の現状付近の目撃証言集めてる。それらしい不審車の情報、もう見つけたとよ」
「本当に?」
「ああ、不審な黒いバン、午後九時から十時ごろ、被害者の母親が本人のものと思われる携帯電話から危機を知らせるメールを受け取った直後だと。黒のライトバン、バックに改造ウイングがついてる・・・・二十代から三十代の若い男が数名、窓にスモークかかったらしいし、夜だから、はっきりと面は確認できなかったらしいが」
「実行犯はそいつらに間違いないね」
「そうだな。問題は、主犯がどのサイトでどうやって、彼女と出逢ったかだが」
「・・・・・・例えばだけど」
ここで薫は思い切って、自分の考えていることを言ってみた。
「それが同じ学校の生徒だとは、考えられないかな」
「うーん・・・・・どうだろうな」
金城はブラックのコーヒーをがぶりと飲んだときの、苦い顔をしてから、
「おれたちが調べた限りでは、学校では出てこなかったからな。ずばり、こっち関係とか」
太い親指を突き出して、また首を傾げた。
「おれらの世代じゃ、ああ言う学校のマドンナみたいな子は大抵、人気ある運動部のキャプテンとか、学校のみんなが知ってるような同世代とかと付き合うもんだったがな」
「へえ、そう言うものなんだ?」
「違うの?」
ちょっとびっくりしてから、異星人を見るような目で、金城は薫を見直した。薫としては冗談ぽく言ったつもりだったが、本気にしたのだろうか。金城は明らかに不自然な咳払いをすると、
「まあ今の女は本当に早いうちから、大人にちやほやされること憶えちまうみたいだからな」
満冨悠里の話によると、美琴が交際していたのは横浜の大学生だったと言う。それも、去年のクリスマスには自然消滅的に、関係を清算したらしい。
「でも、その男とは特にトラブルはなかったみたいだ。美琴が変質者に付きまとわれて困ると話していたのは、ごく近々のことのようだし」
「じゃあ同性なら?」
「同性?」
金城は浮かない顔で聞き返した。
「彼氏を盗られたり、実質的な被害を受けなくても、彼女をやっかんだりする同性のクラスメートとか、いてもよさそうだけど」
自分で言ってみて、薫は今、気がついた。そう言えば美琴の経歴は、どこか完璧すぎるふしがある。
「優等生で目立つ子って、普通敬遠されない?」
「・・・・・いや、どうかな」
今度はそっちに心当たりがないらしい。金城は、とても難しい顔で首をひねった。
「それに彼女、帰国子女の転校生だったと思うわ。そう言う目立つ子って最初、なかなか受け入れられないものなのよ」
美琴は小学校四年生まで、日本にいて高校編入までは、香港で過ごしている。今日事情を聞いた野上若菜とは同じ学校だったとは言っても、一年生の五月に転入した当初は、かなり浮いたはずだ。そう言えば借りてきた写真も、美琴がクラブ活動で目立ったり、生徒会役員になったり、積極的に活躍しだした、二年生のものが多かったように思う。
「・・・・・写真はごく最近のものが役に立つだろうと思って、そっちを選んで母親が渡しただけの話じゃないのか」
「それにしても、彼女のこと、よく言う人が多すぎると思うの」
「死んだ人間のこと、悪く言うやつはいないよ」
「それは・・・・・確かにそうだけど」
ついつい美琴の同性の関係者の中に、嫌疑者を探す思考になっている。丸一日一緒に捜査したが、事件に対する薫の視点の方向性は金城とはまったく違うことをつい忘れて話してしまう。
「でもあの満冨って子も、少し変なことわたしに聞いたでしょ?」
「ああ、どうやって死んだかって? 野次馬根性だよ、あれはたぶん。まあ、確かに、ちょっとずれた感じの子だったよな」
散弾銃?
そう聞いたときの悠里の顔が思い浮かぶ。薫の答えに、彼女は満足しなかったのだろう。
そうじゃなくて。
あの焦れったげな顔は、薫が彼女の質問の意図をまったく理解していなかったと言うことに対しての不満をはっきりと表していた。薫からどんな情報を得ようとしたのか。それにあの後。野上若菜や他の同級生たちと、あれからどんな相談をしたのだろう。確かに、彼女たちが、なにかを隠していることはまず間違いない。
でも。
美琴の人間関係図の中に、いまだマキだけが出てこない。マキとはいったい何者なのだ。美琴の話しかけ方のニュアンスからして同級生の女の子の名前のイメージが薫には強いが、もしかしたら苗字と言うことも考えられる。そうなると男か女かも分からなくなる。マキという人物は美琴のなんなのだろう。現在、もしくは過去のクラスメート? または恋人? それとも愛人?・・・・・・あらゆる可能性が考えられるし、すべての可能性が追及されえない。薫が調べない限り、このままだと永久に追及されないまま、消えていくだろう。情報のくずかごの中に放擲されて。
薫の中の美琴の記憶だって、このまま風化しそうにない。これから捜査が、万が一間違った方向に進んでいったとしたならば、それこそ、この仕事を続ける限り永久に解けない枷になるだろう。
(・・・・・今、やらないと)
二人はそれからわけもなく無言になり、やがて小さな渋滞に捕まった。折りよく、薫の方の携帯電話が鳴った。
「本部か?」
連絡は簡潔だった。現状を報告し、薫はすぐに電話を切る。
「ええ、今日遺体が到着したから、父親の帰国を待って仮通夜やって・・・・・葬式の見張りは交代で出ろって」
「変質者なら、被害者の葬儀に顔を出さないとも限らないしな」
「そうね」
同乗の薫を慮って煙草が吸えないことがよほど堪えるのか、目を細めた金城は中指でしきりにハンドルをかりかり掻きながら、独り言のように、つぶやいた。
「・・・・・・預かった写真とか成績表とか、葬式のとき、親御さんに返さないとな」
深夜、自宅に戻った薫は、寝酒も飲まず気晴らしのテレビも点けずに、デスクに座り込んで捜査資料と格闘していた。今夜だけと言う約束で賃借した明日返す美琴の資料のすべてを、金城から預かったのだ。
事件発生から日数が経つが、身元が割れた時点で彼女の関係者のあらましは大方洗い出しが終わっている。薫たち以外の別の班も動いて、現在から過去にいたる、学校内外に及ぶ、主要な関係者はあらかた調べつくされていた。
もちろんまだ鋭意、関係者への聞き込みは進める方針だが、日常的に彼女と関係の深い人間たちよりも、ネット上のみで知り合った関係希薄な関係者の洗い出しに捜査の主眼は向けられてきていると言ってもいい。
マスコミ各誌も、この猟奇的な女子高生拉致殺害事件を学校サイトかそれに類する裏サイトのトラブル、または出会い系サイトによる痴情のもつれや変質者のストーカー的犯行と位置づけて、見出しや特集を絞り始めている。
それ以下は論外と言っていい、デマ情報の嵐である。
彼女の父親が一流国際企業の重役と言うことで、例えば家庭は崩壊寸前で娘は出会い系サイトを使って援助交際をしていたとか、学校では二年で突然生徒会長になり、女王様のように威張っていていじめられても誰も文句を言えなかったとか、ネットの掲示板の掃き溜めに落ちていたような裏づけの薄い情報が週刊誌を通してそろそろ表の世界にも出ようとしている。いずれも興味本位の噂と憶測、悪意の作り話であり、捜査の参考になりそうな情報はまったく得られなかった。
しかし、それにしても玉石織り交ぜた嶋野美琴に関する情報の、そのどこにも、まだ、「マキ」の名前は浮上していないのだ。
(・・・・・・覚悟を決めよう)
薫の中にいる美琴が、唯一の手がかりだと言うように、マキの名前を告げ続けている。悪夢はいまだ、断片的なイメージのフラッシュバックの形をとって、薫を揺さぶり続けている。
(とにかくその名前を捜そう。それでもしその名前に引っかかるものがなければ、一応のふんぎりはつくはずだ)
とは言ったものの、「マキ」はそれほど珍しい名前ではない。確かにありふれた、とは言わないが、まったく聞いたことのないと言う名前でもない。薫も、これまでの人生を振り返れば、マキと言う名前の同級生が、少し考えただけですぐに二人は思い当たった。
嶋野美琴のクラス名簿の中に女の子の名前で二人、苗字なら学年で男と女一人ずつ、マキがいる。もともとがその誰もが嶋野美琴と接点がなく、捜査線上に浮上してこなかった名前ばかりだ。
(ひとつひとつ、洗ってみるしか手はないのね)
なにもかも正直に話せば、金城も手伝ってくれるだろうか。なにより、それは難しいだろう。もともと二人とも、捜査の割り当てから外れることなど出来はしないのだ。仕事の合間を縫って、独自にやるとしても確証がなければ、金城が薫にどれほど気があってお人よしでも、話に乗ってきてはくれるわけがない。
何でも構わないから、なにか糸口になるようなものが欲しい。それがあれば。金城も分かってくれるだろうし、上司にも掛け合える。
(そこまで行くのには、やっぱり一人でやるしかなさそう)
まずは地道に、薫は学校関係者だけで六人いた「マキ」のプロフィールを書き写した。なるべく美琴と接触の度合いが高かったと思われる人物から、あたってみることにしよう。望み薄だが、納得したことで悪夢が治まるようになれば、それはそれで仕事に集中しなおせる。
「・・・・・・そうだ」
とりあえず美琴が公開しているブログを、薫はチェックしてみることにした。マキと言う名前に注意して読めば、なにか新たな手がかりが見つかるかもしれない。
パソコンが立ち上がる間、空腹に気づいて、薫は冷蔵庫にビールを取りに返した。ドアを開けて、うかつな自分にがっかりする。買い物をしていないので、中はほとんど空っぽだ。特に予定はないが、これでは誰も家に呼べないところだった。
今、満足なものはコーヒーに食パンくらい。考えた末、からしマヨネーズで合えた胡瓜の薄切りとハムのホットサンドウィッチに、冷凍庫に残っていたハワイコナのコーヒーを淹れて、つま先歩きでパソコンの前に戻ってくる。
軽く焼いたパンを口に入れながら、満冨悠里から聞き出した、美琴のブログを検索する。
まだ眠くはないが、濃い目のコーヒーをひとくち飲む。深煎りのコーヒーは丁寧にドリップしたとは言え、燻した古木のようにかび臭い。粉になるほど細かく挽いてあるせいもあるが、この風味は明らかに冷凍焼けを起こしている。しょっちゅうハワイに行く旅行会社の友達に、お土産にこのコーヒーのパックをもらったのは、確か半年以上前もだったことを思い出した。
「んん?・・・・・・・」
マウスを操りながら、薫は眉をひそめた。
「・・・・・ない・・・・・」
美琴のブログがどこにも見つからないのだ。影も形もない。封鎖された履歴すら、見当たらなかった。薫は考えうる限り、検索を試してみた。
(誰かが、急遽封鎖したのかな)
事件の注目度を考えると、突然の削除はありうることだが。
無論、本人ではありえない。
(でも・・・・・・じゃあ誰が?)
HPや掲示板なども、美琴は運営していると聞いた。それらも試してみるが、つながらない。そのことごとくが、検索不能なのだ。まるで初めから、そんなものは存在していなかったかのように。
普通こう言うものは、認証パスワードを知らなければいじることは出来ないはずだが。
薫は自分の直感に打たれ、思わず、はっとした。
(満冨悠里・・・・・あの子が?)
そうだとしてなぜ、そんなことを。
満冨悠里と野上若菜は、なにかを隠している。このことはすでに分かっている。「マキ」のことか。そうとは限らないにしても、もしかしたら、美琴はネット上にすでに、手がかりを残していたかもしれない。彼女たちが相談して、あわててそれを隠した。
警察は押収した美琴のパソコンは調べたが、ネット上の情報についてはまだ全部を把握しているとは言いがたい。彼女たちに先手を打たれたとすれば、これは厄介なことになる。
だがもし、「マキ」が糸口になれば、彼女たちを調べるための決定的な切り札になりえるだろう。さらに、「マキ」の正体が具体化してくれば、金城を動かすことはおろか、捜査を打開する有力な材料にすらなりうるのだ。
公安の真田
「おい薫、こっち」
出動前のどんよりとした眠気を胃もたれのする缶コーヒーで紛らわせていると、金城が呼んでくる。手ぶり荒く、珍しくひどく不機嫌な顔をしているのが、徹夜明けの薫の気にも障った。
「なに?」
薫は、わざと物憂そうに立ち上がった。なにか文句をつけてくるのかとすら思った。薫が近くに来ると金城は、しょげたいたずら坊主みたいに下に口を尖らせて、
「午前中、一時交代だって」
え? きょとんとして薫は聞き返した。
「あなたが?」
「・・・・お前だよ」
不満そうに金城は中にあごをしゃくり、
「公安のやつが、お前に話があるらしい」
「どうして?」
「知るかよ」
(公安?)
まったく、予想外の横槍だった。公安などに用事はないし、関わりたくもない。日本の警察機構において刑事部と公安部は元来そう言う関係だし、薫にしてみれば今は特にだ。
「待ってんだよ。例の・・・・・ほら、真田ってやつが」
「真田さんが?」
びっくりしただけの薫の声音がぱっと明るくなったように、金城には聞こえたのだろう。不完全燃焼の風呂釜のような、鬱屈した気分を金城は腹に飲み込んで、
「お前をご指名だと。早く行けよ」
と、言い捨ててさっさと行ってしまった。
だから、不機嫌だったのだ。そういうところ、時々金城は、本当に、子どもっぽい。
(でも、いったい何の用だ?)
思い当たるふしはない。薫は、怪訝そうに首を傾げた。
真田俊樹のことは、よく知っていた。公安に関わった人間で、彼の名前を知らないものはそうはいない。外国人グループの組織犯罪の捜査では、知る人ぞ知る実力者だ。噂ばかりではなく、薫は直接、真田の辣腕を実際に見て知っていた。
真田はいわゆる、天才肌の捜査員だ。どこまでも人を追い詰めていく、この仕事が天職なのかもしれない。捜査員としてのカンや、追跡力、人間の迫力や凄みなどからしても、真田に及ぶ人間は、薫の周りにもそうはいないと思われた。捜査課の刑事になりたての頃は薫も、組織の違う人間ながら、重要な示唆をもらったものだ。
真田は資料室にいた。出勤した薫が空き時間に、秘密で調べ物をするために漁っていた資料が散在していた場所だ。薫が入ってきたことにはなんのリアクションも示さずに、真田は彼女が置きっぱなしにした資料を熱心に読みこなしていた。
「・・・・・あ、あの」
私物のある部屋に、捜索令状もなしにいきなり踏み込まれたような、気まずい気分を感じながら、薫は声をかけた。真田は、細い銀縁の眼鏡の下の薄く切れ上がった一重で、入り口にたたずむ彼女の姿をじろりと見た。
公安の人間は極めつけのエリートが多い。真田も薫とそれほど年齢は変わらないはずだが、アメリカの大学を卒業後、一種で警察に入ったいわゆるキャリアのはずだ。
警察トップと言うのは、犯人逮捕の体力よりも、ペーパーテストの成績がどうしても重視される傾向にあるため、押し出しの弱い文官タイプが多いが、真田は違う。
一八五センチの長身は一見痩せてはいるが、薄くしなやかな筋肉でほどよく覆われている。低重心で柔道体型の金城とは種類は違うが、芯の強い鍛えこまれた強靭さを感じさせる。
だがいかにもスマートなスポーツマン的な体格よりも着目すべきなのは、そのたたずまいに備わった得体の知れない迫力だ。真田には、どこか殺気に似た、初見の人を一歩退かせるような凄みがある。公安の捜査員として、捜査をする相手に本能的な恐怖を感じさせるほどの人間的な迫力は重要な資質かも知れないが、ともすれば人格の暗さとも表現できる印象の鋭さは、真田の生い立ちとか、もっと個人的な部分から出ているように思われた。
「すみません」
と、薫は次に相手がなにか言う前に、畳み掛けるように言葉を継いだ。急いで机の上の資料を片付けようと手を伸ばす。真田が持っている捜査資料も奪いとりたかったが、どさくさに紛れても、そこまではさすがに出来なかった。
「例の事件の?」
真田は薫の行動を目で制して、聞いた。不承不承、薫は肯いて、
「被害者の資料です。・・・・・・今日の夜、式場でお葬式があるので、そのとき、ご遺族の方にお返ししようと思って」
念のため最後にもう一度見ているのだ、とまでは言い訳が続かなかった。
「本当に、いい子だったんだな」
「ええ、学校での人間関係は悪くなかったみたいです」
「親御さんも自慢の娘ってやつだ」
真田は皮肉まじりのため息で肩をすくめると、
「・・・・・・で? そいつが運悪く、ネットの変質者に目をつけられて殺された、と、こう言うことか」
なぜか含みのある言い方で、ファイルを閉じた。真田にしてはどこか回りくどいと、薫は思った。少しいやな予感もしたが、とりあえず彼女から口火を切ってみることにした。
「なにか御用があると聞いたので、うかがったのですが」
「人探しに協力してもらいたくてね」
突然、真田は用件を言うと、自分で持ってきた鞄の中から資料を取り出した。
「今、例の成田空港の貨物職員殺しを追ってるんだ」
その話は知っていた。一ヶ月前、小さくニュースに乗った暴力団絡みの殺人事件だった。
成田市の雇用救済者用のアパートで、男が殺された。部屋に侵入され、物色された形跡があることから単純な物盗りと思われたが、男の背後関係を洗うと、広域指定暴力団の存在が浮上したらしい。
「一ヶ月前の殺しを追ってるんですか?」
興味はなかったが、薫は怪訝そうに聞いた。
「正確には少し違う。あのとき殺された職員と、十日ほど前、偽造パスポートで入国した男の身元が関係ありでね」
真田が取り出した事件記事には見覚えがあった。確か、十日ほど前のことだ。成田空港で偽造パスポートを使って入国した男が、事前に情報を得て張っていた公安に逮捕された。捕まったのは、広域指定暴力団泰山会の直系若頭と言う、大捕り物になった。
「・・・・・・実はその大物が確保された隙をついて、逃走した男がいるんだ。公安は今、そいつを追っててね」
薫は視線を下に落とした。そこに、その大物を囮にして逃走に成功した、強運な男の資料がある。
神津良治、四十二歳。彫りの深い目が少し垂れた、気障な印象のハーフっぽい男。本人は盃を受けたやくざではない。その手先でベンチャー企業などへの融資や株式市場の操作などで暴力団の資金を運用する、いわゆる企業舎弟だ。
もとは大手証券会社を退職後、某ITベンチャーの起業に参加、資金の調達、運用などを担当していた。この頃、暴力団と関わりを持ったのだろう。会社倒産後は本格的に暴力団の資金運用に携わり、香港、シンガポールの華僑ともつながりが深い。
「つまり、その男を捜すのを、わたしに手伝って欲しい、とそう言うことですか?」
薫は露骨に感情をこめた声を出して、真田に問うた。
「せっかくですが、わたしは本筋の捜査があるのでそこから外れて真田さんに協力することは出来ません。それに」
「・・・・・もちろん、今やってる君の捜査を外れてまで、協力してもらおうとは思ってないよ」
「暴力団ならわたしの専門外です」
真田は少し、困ったような顔をした。だが、
「君の上司には掛け合ったが、別に悪い返事じゃなかったがな」
真田の語尾に被せて、薫は聞いた。
「大体どうして、わたしなんですか? 暴力団や組織犯罪に詳しい人間なら、わたしのほかに適任が山ほどいるはずです」
「その理由を、一言で話は出来ない。また、君にする義務も本来ないんだ。・・・・・それに勘違いしてもらうと困るんだが、君に頼みたい仕事は、神津の逮捕それ自体とはまったく違う種類のものでね。つまり」
「この事件の担当から外れる気はありませんし、専門外の事柄で足手まといになるのも、不本意です」
「何度も言うが、仕事で余った時間でいいんだ。休日返上とは言わないが、まさかそんな時間もないわけじゃないだろう?」
真田は、薫が積み上げた資料に目をやった。
「その通りです。余った時間もないくらいなんです」
薫はあわててそれらを引き取った。
「ここで一言では語れませんが、わたしはこの事件に思い入れがあります。だから、他のことを考える余裕もないくらい忙しいんです。協力を要請するならぜひ、他の人をよろしくお願いします」
「なんだか、話に行き違いがあるみたいだな」
真田は、眉をひそめてため息をつくと、
「仕切り直そう。そうだ・・・・・ここじゃなく、どこかでゆっくり、もう一度はじめから話を聞いてほしい。時間を取ろう」
「失礼します」
資料を抱えたまま一礼して、薫は部屋を出た。
部屋の外に、金城が待っていた。突然の薫の退出に、びっくりしたようだ。たぶん、捜査に出るふりをして聞き耳を立てていたのだろう。ちょっと滑稽なくらい、彼は焦っていた。
「な、な、なんだ、話は終わったのか?」
「うん」
金城の態度に気づいていないふりで、薫は肯いた。
「たいした話じゃなかったから大丈夫。それより、交代はなしになったから、わたしと出てくれないかな」
「お、おう」
金城ははりきって、準備を始めた。
どうも、薫とあの公安がくさいぞ。
そう言われた時期があった。まだ、新米刑事のときだ。
南口の新芸術劇場付近で売春をしていた、韓国人の立ちんぼがホテルで殺される事件があった。
違法にキャッシュカードのデータなどを盗み取るスキマーと言われる小型の機械を使った犯罪が、ちょうど多発しはじめた頃で、この立ちんぼも一緒にホテルに入った客の財布からカードのデータだけを読み取って売り渡すのを副業にしていた。商売柄、風営業を中心にこの手口は拡がっており、その手の店が多い池袋でも摘発が相次いでいるときだった。
背後に韓国マフィアと思われる海外組織が関わっているということで、事件に公安が入ってくることになった。言うまでもなくそれが真田だった。
新米の薫が、真田の相手をした。公安と刑事は同じ警察でも、違う組織でその連携にはなんとなく壁があるものだ。当時の捜査責任者も、なにも知らない薫を真田につけることで、自分たちの縄張りを侵されないようにしたのだろう。
捜査課は被害者の立ちんぼを殺した犯人、真田は被害者に違法行為をさせていた背後の犯罪組織、とお互いに目的は違うのだが、うかつに真田のような余所者に、捜査情報は漏らさないぞ、と言う空気が露骨な形でも流れていた。
当然のこと薫は、捜査にはほとんど参加させてもらえず、真田とともに蚊帳の外に置かれた感じだった。もちろん薫は新米で右も左も分からないし、捜査の方針に異論を立てるほど事件に思い入れもない。たまに来る真田のあしらいを任されるだけ、仕事はお茶汲み程度のものでくさくさしてもいた。
「なあ、君、現場の地理案内でもしてくれないか」
唐突に、真田が言って薫を現状付近に連れ出そうとした。薫は驚いたが、公安の動きを監視しろとも言われていたので、いやだとも言えないし、せっかく刑事になったのに捜査に参加できない憤懣もあるにはあった。結局それから一ヶ月近く、真田の独自の捜査に、薫は付き合うことになったのだ。
文句なく、真田は優秀な捜査官だった。あのとき薫には比較するような対象も経験もなかったが、後から振り返ってみても、真田は凄腕だった。収集する情報の目の付け所、事件を再構成するカンの良さ、つぼを得た職質や尋問のテクニックまで、余人の真似できない独特のノウハウを持っていた。
そもそも公安と刑事では、捜査の目的もやり方も違う。前者は、国家の治安に影響する犯罪行為を行う組織の活動を未然に防ぐ意味合いでなされるが、後者は事件発生を起点にして、原因追求的に過去をたぐって逮捕者をたぐり寄せていくものなのだ。
しかしそのどちらでも通用しそうな真田の手腕は、天性のものと言ってよかった。ほどなく、目的の犯罪組織ばかりでなく、一課が追っていた殺人事件の犯人まで、真田は挙げてしまったのだ。
被疑者は組織の下っ端で、痴情のもつれから被害者を衝動的に殺害したらしい。その犯人だけを引き渡すと、真田はさっさと去っていった。評判の真田の凄まじい手腕に、誰もが舌を巻いた。
ただ、正直なところ。
目の前であれよあれよと事件を解決されて、あの後、大迷惑をこうむったのは薫だった。真田の名捜査のせいで薫が捜査情報を漏らしたせいではないか、と言うあらぬ疑いをかけられたのだ。
「あの公安、新入りの薫を上手く落としやがって」
必要以上に親しくしたのが原因だと、なにもしていないし、なにも知らされていないのに、薫は陰口を叩かれた。
(わたしが女だからか)
一番言われたくないことで、仲間内でミソをつけてしまったのだ。
もちろん真田と薫の間には、仕事以上の関係は本当になにもなかった。それは誓って言える。男としてみた場合、確かに真田は社会的地位もルックスも悪くないが、極めつけの仕事人間で、一緒に行動中もはたして血が通っているのかと疑うほど、捜査のことしか考えないし話さない。真田の鬼気迫る仕事振りは、偏執的と言っても過言ではなかった。一週間も仕事をすれば、同性異性関わらず、大抵の人間は辟易するだろうとすら思う。
別に個人的な関係をもったわけでもないのに犠牲者になった薫が言うのだからこれは間違いない。まして、もう一度一緒に仕事をするなど、二度とごめんだった。今、真田と行動したらそれこそ、寝ても覚めても悪夢と言うことになってしまう。
「しかしなんだ・・・・・随分、話が早かったな」
探るように、金城は聞いてきた。金城も例の噂を吹き込まれたクチなのだ。態度を見ていれば、よく分かる。同じ配属になって、結構親しくなったのに、なかなか本格的な攻勢に出てこないところを見ると、どうやらそのせいのようだ。真っ向から体育会系の癖にまったく、意気地がない。
「別に」
わざと険悪な声を出して、薫は挑発した。
「なんの話だと思ったの?」
「そんなこと、おれには分からないよ。・・・・・ただ」
「ただ?」
「困るだろ、お前に・・・・・抜けられたらさ。この事件のうちの捜査課の担当員は、ただでさえ人手足りないんだし」
「ふうん」
薫は、言った。思えば少し、その言葉にかちんと来ていた。
「それって別にいいってこと? 他に人手があれば、わたしじゃなくても」
「そんなこと言ってないだろ。って言うかお前・・・・・」
むきになってそこまで言いかけて、金城は押し黙った。怒っているのか、なにか照れくさいことを言おうとしたのか、見ると、顔が真っ赤になっている。乱暴にハンドルを使ってごまかしている。
さすがにいじりすぎた、と薫は思った。こっちも思わぬ横槍が飛び出てきたせいで、なんだか絡み性になっていたのだ。
「わたしは降りるつもりはないから、この事件」
口で絶対言う気はないが、内心で謝りながら薫は言った。
「だから断ってきたの、きっぱりと。別の事件に気を回す余裕はありません、って」
「おう」
それを聞くと、金城はとたんに明るい顔になった。運転まで露骨に変わった。単純すぎるのも、ちょっと考えものだ。正直、薫は思った。
単独捜査は進まない
『マキ・・・・・マキですか、男か女で?』
「苗字でも名前でもどちらでもいいんだけど、誰か思い当たる人、いないかな」
『美琴の友達でマキ・・・・・苗字でも名前でも?・・・・・・いや、ちょっと憶えないですね。すんません』
電話の相手は、本当に済まなそうに薫に言った。
彼の名前は塚田芳樹。嶋野美琴の最初の交際相手だ。香港のインターナショナルスクール時代の同級生の紹介で、彼女とは二年前の秋に交際を開始する。
年齢は美琴より年上、現在二十歳になったばかりのはずだ。大学生と聞いていたので、まだ在籍しているのだと思っていたが、とっくに中退して、横浜のみなとみらいにある若者向け雑貨のショップの店員になっていた。
『美琴とは三ヶ月くらいしか付き合ってなかったですね。こっち戻ってきたばっかりで学校にもなじめないとかで・・・・・本当に地味な感じの子でしたよ。友達とか作るのも上手くないみたいなこと言ってたし』
編入したのが一年生でも、二学期の九月から入ったので、友達はなかなか作れなかったのだろう。
『勉強とかにもついていけないとかって、よく愚痴られてました。日本の学校と向こうって同じ教科でも習う順序とか、内容自体も違うこと多いらしくて。そのこと先生に話したら、帰国子女で調子に乗ってるって、結構いじめられてたとかも聞きましたよ』
「成績も良くって、すごく明るい子だって聞いてたけどな」
『どうすかね。とにかく地味な子だったから。がり勉だって聞いてたけど、それは他にすることなかったからで、親とかもそこだけは厳しかったみたいだから一応やってたみたいだけど、成績は言うほどよくはなかったですよ。本当のところ、本人もそんなにやる気もなかったみたいだし』
「あなたと別れたときはどんな感じだったの?」
『たぶん三ヶ月で日本の高校の雰囲気にも馴染んだって言うのもあったと思いますよ。・・・・・それでも、最後に会ったときはすごく感じが変わってたんで正直驚いたんですよ』
「本当? それはどんな風に?」
『いや、わたしはもう今までのわたしじゃないから、みたいなことを言われました。確かに見たところ、なんかそんな感じだったし』
「どんな?」
『いや、言葉では言えないですけど、外見も目に見えて明るくなってたし・・・・・・悪くなったとかって感じじゃないんですけど、なんか別人みたいになってて』
二年前のこともあり表現に困った様子で彼は口ごもり、
『あんまりに言うこと変わってて、別れ話もふられたんでこっちも動転してた、ってこともありますけどね』
「そのときに誰かの名前を口にしてたりとかは、あった?」
『マキ、でしょ?・・・・・どうだったかな。たぶん、そんなのはなかったと思いますよ。自分の話ばっかりで。学校では、なんでも思い通りになるようなこと、言ってましたよ』
「それについてなにか思い当たることはある?」
『ないですよ。いきなりですから』
一年で美琴が豹変した? 思いがけなく、奇妙な話を聞いた。薫が感じた違和感は、ある意味、的を射ていたのだ。
「美琴さん、ブログをやってたって話だけど、それについては?」
『ずっとやってたことは知ってましたよ。学校ずる休みして一日中ネットしてたりとか、ホームページ作ったりとか、もともとパソコンおたくみたいなところありましたから』
「彼女が作ってたブログやホームページ、消されてたんだけど内容とかは知らないかな?」
『分かんないですね。おれはそう言うの苦手だったし』
「消されるような内容が書いてあったとかは、聞いてない?」
『削除されるようなまずいこと書いたことがあるとかは、聞いたことないですよ。荒らしとか書き込みの悪口が多くて困ってるとかは聞いたことはあるけど、それかなり昔だし』
「最近の接触は?」
『全然ですね。こんなこと言いたくないですけどなんか彼女、あんまり良くない噂とかも聞いたんでこっちも距離置いてたところもあったんですよ』
「良くない噂?」
『ええ、なんか仕切ってるって』
「学校を?」
『それもあるんですけど、池袋とか新宿とかあの辺りのもっと、悪いやつらともつながりがあるって』
金城が缶コーヒーを買って戻ってきた。薫は塚田に礼を言って、急いで電話を切った。
「どこに電話してたんだ?」
「実家」
薫はとっさに嘘をついた。
「兄が同居の父と折り合い悪くて、母親の愚痴を聞いてたの。実家から離れて住んでるから、たまには相談に乗るくらい、ね」
「どこも大変だな」
金城は、ため息をついて言った。その物憂い仕草には、現場を特定するためのローラー作戦にすっかりうんざりしている色がみえみえだった。
「・・・・・で、そのせいで午後から、ちょっと抜けなくちゃいけなくなるかも知れないんだけど、いいかな」
「そんなに大変なのか?」
「うん。実は兄がもう一週間も帰ってこないみたいで、母親が心配して、こっちに来ちゃってるのよ。なんとか説得して帰さないと」
金城は腕時計を見て、
「夕方には戻ってこれるよな?」
「うん、それまでには絶対になんとかする」
兄の失踪が今日で一週間になるのは、事実だ。朝、電話をかけてきた母と話が出来て本当によかった。
菅沢学が指定してきたのは、府中競馬場近くの喫茶店だった。薫が到着した頃に、菅沢はまだ到着していなかったので、彼女はちょうど塚田から仕入れた情報をもとに質問の内容を吟味する時間を作ることが出来た。
菅沢は週刊誌に、犯罪実話などを書いているフリーのライターだ。若者の風俗にも詳しいらしく、ドラッグや売春、暴走族やチーマーなどの噂をかき集めて、著書も二冊ほど出している。
薫がこの男とコンタクトをとったのは、比較的早い段階から菅沢が、被害者の嶋野美琴の内実を探るすっぱ抜き記事を嗅ぎ回っていたからだ。警察官が手帳を持って乗り込んでいくよりも、つぼを心得ている聞き上手のプロの方が、意外な情報を掴んでいるものだ。
これはあの真田の受け売りだ。もちろん集団作業的な捜査の中で今まで思い出す機会などなかったのだが。
塚田から思わぬネタを仕入れたので、「マキ」について話を聞ける方向性がより多角的になった。
転校生の三ヶ月で美琴は豹変した。そして今はあまり良くないことをしている。捜査で手に入れた美琴の個人情報とは正反対の話。真偽は確かにまだ定かではないが、「マキ」が隠れているのは、もしかしたら、この方面の人間関係の可能性が高い。
と、言うよりは、もはやこの線しかないのだ。でなければまさか菅沢のような人間と接触しようとは考えなかっただろう。
喫茶店は、灰色のジャンパーを着た日雇い労働者のような人間たちで溢れている。彼らは無関心を装ってはいたが、時折、人待ち顔の薫の様子をちらりちらりと窺ってくる。やはり女性一人で来るべきではなかった、と薫は思った。
菅沢は、三十分遅れで入ってきた。汚いジャンパーにくたびれた黒のスラックス。指定された場所柄の予想に反して色白の狐目で、眼鏡をかけた三十過ぎの小男だった。大学八年生で中退、文学青年の成れの果てといった感じだ。童顔で、瞳は落ち着きなく、人の目を直視して話すことはごく少なそうに見えた。
「ど、どうも、菅沢です」
薫の顔を見た菅沢は一瞬だけ、狐目を開き、意外そうな顔をした。
「・・・・・警察の人だって聞いてたけど、本当に女の人が来るとは思わなかったな」
そのコメントを聞いて薫は、初手はまずったかな、と、内心思った。菅沢は強面には逆らえないタイプの男なのだ。もし隣に金城でもいれば、呼び出しは効果を発揮したに違いない。
「で、なにが聞きたいの?・・・・・警察の方はおれなんかに、用はないはずだと思ってたけど」
おどおどした敬語口調が、途端に馴れ馴れしくなった。たぶん、書いている仕事柄、こう言うシチュエーションでの女性を扱いなれているに違いない。
「まずはこれについて話を聞きたいの」
薫は言うと、来る途中にプリントアウトして来たネット記事を見せた。菅沢が書いたものだ。見出しにはこうある。『衝撃! 西池袋女子高生リンチ殺人事件 被害者は現役女子高生の広域売春クラブの主宰者』
菅沢はちらりとそれを見ると、詰まらなそうに指で弾いた。
「この売春クラブのネタについては、ずっと追ってた話なんだ。本も書いてる。もともとは、別にそんな真新しいネタってわけじゃないんだけどね」
「どこの出版社も記事にはさせてくれなかったんでしょ? だから、腹いせにネット記事にして流したの?」
「捕まえるなら、捕まえればいいだろ。おれだって言う証拠があるならな」
「別にそれが目的じゃないわ」
そこで、薫は外すことにした。
「で、どうなの? 根も葉もない記事でもないんでしょう?」
ああ、と菅沢は外見に反してふてぶてしく、煙草をくわえながら二重になったあごを引き、
「さっきも言ったけど、広域売春クラブの話はおれがもともと追いかけてた話なんだよ。春先に都内に出てくる家出娘をタコ部屋に監禁して、なんて話はよくあるけど、もっと大規模で都内から千葉、神奈川なら横浜辺りまで一大ネットワークを持ってる売春クラブがあるって話でさ」
「それはいつ頃から?」
「ここ、一、二年かな。組織がでかくなってきたって聞いたのは」
鼻から煙を吐きながら、菅沢は言った。許可してもいないのに、ウエイターを呼んでクリームパフェを頼んだ。
「もともと、そのシマ仕切ってたやつって言うのは、渋谷でいいとこ張ってた男だったんだ。真篠って言ったかな。でも、去年の夏かなんかにそいつがいきなりバレてない前科でパクられて、刑務所に入ることになったんだよね。・・・・・それがどうも、不明のタレこみがあったせいらしいんだけど」
「誰かの密告?」
「誰かは知らないけど、突然ね。捕まった本人も寝耳に水だったらしいよ。どうも二年前、真篠の女を寝取ったやつがいたらしいんだけど、真篠はそいつを仲間と奥多摩の山ん中連れてって、首まで埋めてきたらしい。そのとき、そいつに一晩中泣きいれさせたのを写真に撮らせたんだけど、なんかの拍子にそれが流出したんだよね。そのものズバリが直接送られてきて、警察が動かざるをえなくなっちゃった。実はそいつその夜以来行方不明で、実家の家族が捜索願出してたんだけど、奥多摩の山の中から死体で見つかっちゃってね。事件に関わった当時の幹部数名から、真篠本人も殺人と死体遺棄で挙げられたんだけど、クラブはそのままそっくり、別の人間の手に渡ったんだと」
「それが嶋野美琴だってこと?」
「いや、奥田ってひとり残ったホスト崩れの男だって話だったんだ。Oって匿名でおれの本にも出てるけど、そいつが都内一円のラブホテル経営者の息子でそっくりシマをもらったはいいんだけど、今度は女の子が集まらなくなって困っちゃってね。ああ言う事件の後だから、警察の目もあってそうおおっぴらには動けないし、女の子も集まらないしで、一回だめになりそうになったんだ。・・・・・・それを救ったやつがいて、ここ一年、おれはずっとその後を追いかけてたわけよ」
「それが嶋野美琴」
菅沢は、はっきりと肯いてみせた。
「彼女がそんな裏の顔を持っていたとは思わなかったわ」
大きくため息をつくと薫は、愕然として言った。
「どう思おうと事実は事実だ」
「・・・・・それに関わっていたのは彼女一人なの?」
「いや、おれの調べではあの学校の女生徒はほとんどだとさ。嶋野美琴の周りにいた人間・・・・・満冨悠里と野上若菜は、幹部として女の子の調達や労務管理を任されていたらしい。やつらが持ってくる女の子たちの質は極上で、なんでも言いなりになってトラブルは少ないし、客は喜ぶしで、一気に販路は拡大した。その売春させられていた子の友達を介してまた友達へって感じで増えていって、有名校の現役生や中学生、その下の子もかなり多かったみたいだよ」
「そんなことがどうして今まで公にならなかったのかしら?」
「なったさ。アダルトサイトの掲示板や口コミで客は、激増してたし、一部マスコミにも取り上げられた。でも、話はあくまで噂の範囲内で、表に出てくる部分も氷山の一角みたいなもんだからね。奥田に女の子を供給しているのが、または売春仕切ってるのが誰なのか、それが分からないことには、結局本気にはされないわけよ」
自分の無念を思い出したのか菅沢は神経質そうに顔を歪めた。
「そんなわけで、おれもずっと、そいつの正体が分からなくて取材に苦労してたんだよ。これはあんたの前であまり話しちゃまずいんだろうけど、おれも客になって、働いてる子からなんとか、話聞こうとしたよ。でもだめだった。そこは本当に緘口令が、徹底してるんだ。客をとらされているのはばりばりの現役なんだろうけど、それ以外なにか聞くのは全部NGで、なかには脅かされてる雰囲気の子も多かったね。絶対、逃げられないって、言ってた子もいたんだ。女の子の管理の徹底振りは本当に骨の髄までで、まったく、素人の女子高生が仕切ってるとは思えないくらいだったよ」
と、そこまで一気に話してから、初めて気づいたように菅沢は急に訝しげな顔つきになって、
「・・・・・・しかしあんた、どうしてこんな話に急に興味を持ち出したんだ? わざわざおれに、しかも女一人で話を聞きに来るなんて」
「あなたもたぶん、聞かれたらそう言うだろうと思うけど、秘密のネタ元があったのよ」
当の被害者本人から。
その言葉を苦笑で飲み込みながら、薫は言った。
「へえ、興味あるな、それ」
気のない声で言うと、菅沢は到着したパフェを崩し始めた。
「このネタ、最初はすごく、人気が取れたんだ。話題性としても十分だったし、黒幕が現役の女子高生のグループだって噂も読み物としては面白くて編集長も乗り気だった。でも、あの事件が起きたら、みんなが引いて、おれは摘み出された。不謹慎だってな。あんな悲惨な死に方した女の子のスキャンダルを暴きゃ、世間の風当たりは強いだろうよ」
「でも、あなたはそれを真実だと思っているわけでしょう?」
「ああ、そうさ。おれにだってプライドはあるよ。なんて言われようと、真実は真実だ。それを撤回する気は毛頭ないね」
「撤回しないのは自由よ。わたしも、万人受けする表向きの事実だけが、必ずしも真実だとは思ってはいないし」
鼻を鳴らして、菅沢は灰皿に煙草を突いた。
「聞きたいことが聞けて、満足したかい?・・・・・・もし、そうなら、せめてここの代金と、取材費の一部をもってくれてもいいんじゃないかな」
「質問はまだ終わってはいないわ。菅沢さん。肝心なことをもうひとつ聞きたいの。あなたが、嶋野美琴に関して話した裏情報を知ったのは、誰から? 最後にそれをぜひ教えてもらいたいのよ」
「え?」
よく聞こえなかった、と言うように顔をしかめて、菅沢は険悪に言った。
「あなたは黒幕を知ることが出来なくて、苦労してたのよね、菅沢さん。そのこう着状態を打開した情報者は、いったい誰? そして、いつ、なんのためにその相手はあなたに情報を話す気になったの? あなたの推測が入ってもいいわ、それを教えてちょうだい」
「馬鹿言うなよ・・・・・だって、あんた、さっき言ってただろう? ジャーナリストには、守秘義務があるんだよ」
「守秘義務は違法に未成年と関係を持ったことを話さない、と言う意味じゃないのよ、菅沢さん」
三流記者が、吹いたものだ。畳み掛けるように薫は言った。
「最終警告だと思って聞くのね。あなたに選択の余地はない。未成年の買春で捕まるか、わたしの望むとおりの情報を提供するか、ここで二つに一つで選ぶの」
「児童を買春したなんて、証拠はないだろ。おれはなにか言ったかもしれないが、それはあくまであんたが、勝手に聞いただけだ」
菅沢は鼻で笑ったが、笑みが引き攣っていた。買春の二文字で、周りで聞き耳立てていた人間が一斉に反応する。ペースダウンだ。今度は噛んで含めるように。薫は落としにかかった。
「それなら、犯罪被害者に対する名誉毀損でも捜査妨害でもいいわ。事件の関係者としてあなたを拘束する。そんなところに潜入取材してるくらいだから、あなたを引っ張れば当然、洗ったら別件の余罪も出てくるかも知れないしね。わたしはあなたじゃなくても別にいいのよ。それらしい人間の名前はもうこっちで押さえてるんだから」
「嘘だ。そんなんだったら、そいつに直接聞けばいいじゃないか」
ここが、かまのかけどころだ。
「ねえ、菅沢さん。わたしの考えを聞くだけ聞いてちょうだい」
と、薫は続けた。
「あなたの話から判断するに、彼女たちのガードはかなり高いところにあったはずよ。ちょっとやそっとの関係者では、あなたが望む内部情報までリークできない。あなたが関わったのは、この売春の件では嶋野美琴の直接に近い関係者でしょ? 違う?」
「さあね」
菅沢は答えない。だが顔に、動揺が現れている。後、一歩だ。
「わたしはその関係者と言うのが、今回の殺人事件にも強く関わってると信じてる。直接の実行犯じゃないにしても、主犯として引っ張れるほど責任のある人物のはずよ。それはあの、売春クラブの運営に深く関わっていた。例えば、あの奥田って男は」
「・・・・・あいつはとっくに逃げたよ。美琴が死んだって聞いたら、商売畳んですぐにな」
「満冨悠里と野上若菜にも会った。彼女たちは確かに、なにかを隠している様子だった。でも、殺人者じゃない。はっきり言って彼女たちも、なにかを、恐れているふしがあるわ」
「誰なんだ、いったい、あんたの言うそいつってのは」
「マキ」
「なんだって?」
菅沢がとっ外れた調子の声を出した。
「だから、マキ、よ」
「はあっ?」
菅沢の顔にみるみる安堵が浮かび上がった。
「なんだそいつは、まったく。そんな名前は聞いたこともない」
安堵は、軽蔑の色になった。呆然としている薫を置いて、菅沢は勝手に立ち上がった。
「誰の名前を言うかと思ったら、なんだ・・・・・ガセ情報かよ」
軽蔑には事件を追う記者としての菅沢の失望すら含まれていた。
まさか。まったくの空振りだった。
「そんな名前の人間は知らないよ。思わせぶりにかまをかけてくるから、どんな人間の名前を出すかと思えば。・・・・笑わせる」
やっぱりあれは。ただの幻想。薫の作り出した妄想の産物なのか。
「憶えとけ。もう二度と、下らんことでおれを呼び出すな。三文ライターだからって甘く見るなよ。今度おれを脅したら、お前の部署に名指しで告発してやるからな」
白い顔を紅潮させて捨て台詞を言い放つと、菅沢は出て行った。重たい木製のドアに取り付けられたドアベルが虚ろなくらい、派手な音を立て続けているのが、薫の空白の頭の中に響いてきた。
やっぱり、でたらめだったんだ。
マキなんて人間は、事件には存在しない。
捜査に戻ろう。余計なことを考えていた自分が馬鹿だったのだ。さすがに応えた。まさかここまできて無駄骨とは、思いもしなかったからだ。
一応、塚田と菅沢の話していたことは、報告すべきだろうか。いや、それこそ、根拠の薄いガセ話と一笑に付されるだろう。
菅沢がどう騒ごうと嶋野美琴には、そうした裏の顔は取沙汰されてはいないのだ。週刊誌も相手にしないようなエセライターの言うことを鵜呑みにして主張したら、それこそ、警官として立つ瀬がなくなるだろう。
こうなるとマキは、本当に美琴の関係者ではないのかもしれない。そんな人間がなぜ、犯行に関わっているのかは、もはや薫の想像力では推測しようがないが、自分の妄想で片付けるのには、まだふんぎりがつきそうもない。
でも、どうしよう。後は、縁の薄いクラスメートにいちいちあたるしか手はないが、聞き込むのにもその糸口がなければ、マキをあぶり出すことなど、到底出来はしないだろう。
約束の時間までまだ大分ある。しょんぼりしながら、薫は切符を買うべく、駅までの道のりを歩いていた。
バス停を過ぎ、ひとけのない駐車場を抜けた辺りだ。ふいに、くぐもった男の声がして、薫の注意を引いた。みると駐輪場の陰の八手の茂みの向こうで、男が二人、揉み合っている。身なりのいいスーツを着た大柄の男が小柄な男を締め上げて、なにかを要求しているようだ。恐喝か。身なりのいい男のほうはことによると、そっちの筋の人間かもしれない。いずれにしても見過ごしてはいられないだろう。薫は携帯した手帳を手に、近づいて驚いた。
襟を掴み上げられているのは、啖呵を切って出て行った菅沢なのだ。薫を前に威勢のよかった彼は銀縁眼鏡がずれて、泣き出しそうな顔で目を反らしている。もうひとりの男は兎をつまみ上げるやり方で、菅沢の首を根っこから捕えて、離しそうになかった。
男の顔をみて薫はまた驚いた。真田なのだ。
片手で菅沢を持ち上げられそうな真田は世間話でもするような声音で、菅沢に話しかけていた。
「なんだ、会うなり逃げるなよ、菅沢。久しぶりじゃないか」
「さ、さ、真田さん・・・・・あんた、海外行ってたって聞いたけど、戻ってたのか。げ、元気だったかい?」
古い知り合いなのか。口調はなれなれしいながら、にこりともしない真田に対して、菅沢はほとんどすがるような目で、当の真田に救いを求めている。こういうとき、真田は絶対に容赦しない。そのことをよく、知っているのだ。
「肺はよくなったのかよ、もう」
「あ、ああ、おかげさんで。大丈夫だよ、なんの問題もなくって」
「もう身体に悪いことしてねえだろうな」
「あっ」
言うと真田はもう片方の手で乱暴に、菅沢の身体をまさぐった。
「や、やめろっ」
「心配してやってるんだぜ、おれは。結核やってんだろ、お前」
やがて真田の手から、覚せい剤のパケやシートがぽろぽろと転がり落ちた。土を掻いてでもそれを回収しそうに飛び出した菅沢の身体を引き上げる。小柄な菅沢は折り詰めの寿司の箱のように宙吊りになってもがいた。
「相変わらずやばいもん持ってるな、お前」
パケを拾い上げて指で崩しながら、真田は言った。化学肥料のように土の上にこぼれた白い粉を、火事で家が丸焼けになったような深刻そうな目で、菅沢は見守るしかなかった。
「か、勘弁してよ、真田さんっ。あんただって、もともと、おれに・・・・」
真田は突然、ジャンパーの襟から手を離した。菅沢は内股気味に膝をついて、まだ無事な落し物に這っていこうとしたが、真田がそれを許さなかった。今度は油気のない髪を掴んで持ち上げた。
「痛いっ」
「喫茶店で女刑事となんか話してたろ。なに聞かれたか、おれにちょっと言ってみろ」
「池袋で女子高生が殺された事件の裏話だよ・・・・・どこにも相手にされなかった。死んだ女の子が、都内一円の売春クラブの黒幕だって、情報提供者が出たんだ。おれだって、二年越しにこの話は取材して黒幕の名前を探ってたのに」
「つまり、その情報提供者の名前を知りたがってたってことか。お前、あいつにその密告屋の名前、話したのか?」
「話すわけないだろっ。これが飯の種だぞ。そう簡単に・・・・」
真田は菅沢の左腕をとって、逆に締め上げた。そのまま菅沢の背中に膝を落として体重をかけ、土下座の姿勢のまま、菅沢をそこに這いつくばらせた。
「こんなことしていいのかっ、訴えてやる、人権侵害だっ」
「正当に権利を保障して欲しかったらそう言え。別におれはそれでもいいんだ。いつでもそうしてやる。このお前の持ち物とおれの一言で、次は確実に実刑だな」
堂に入った脅しで黙らせると、真田は、菅沢の持ち物の中から携帯電話を取り出すと、片手で番号をプッシュしてどこかに電話をかけた。菅沢の耳元に電話を押しつけ、
「ちゃんと言えよ。急に、気が変わってしゃべりたくなったって」
「!」
その瞬間、胸ポケットの薫の携帯が激しく振動した。分かった。なにをさせるために菅沢を痛めつけていたのか、はっきりと。その音に、はっとしたように、真田がこちらを振り向いた。
「・・・・・・いたのか」
電話を切ると、真田は言った。見られたことは気にしていない。なぜずっと見ていて声をかけないんだ? そんな感じの顔だった。
「真田さん」
もしかして。・・・・・・二の句が次げない。なにをしていたんですか? そんな当たり前のこと、聞けるはずがなかった。
「ずっと・・・・・尾行けてたんですか? わたしのこと」
「ああ」
だからどうしたんだ、と言う風に真田は肩をすくめて、
「君がこの件の捜査を抜けられないのは、どうも個人的になにか理由があるんだと思ってね」
後半は意味のある含み笑いで、薫を見た。
「・・・・・・・しかし、まさか独自の線で捜査を進めているとは、思いもしなかったけどな」
「そんなつもりはありません。わたし・・・・・わたしは」
下手な言い訳だった。自分でも分かっていた。でも。口に出したら止めようがなかった。
「このことはいずれ、確証が出てきたら上司にも相談するつもりで自分の気になったことを煮詰めていただけです。被害者の私生活の別の面から、犯人像を検討しようと」
「菅沢みたいな三文記者の言うことを鵜呑みにしてか? なかなか、冒険家だな。つまり言うと、君のところの捜査員は今、全員、検討外れの方針で捜査をしているわけだ」
「真田さん、この件のことで、あなたがわたしの上司にどう報告しようと、それは自由です。でも」
薫は息を大きく吸ってから、言った。目の前の男のペースにはまって再度、巻き込まれたくはなかった。
「なんと言われようと、わたしはこの件を外れる気はありませんから。それに、はっきり言って二度とあなたには、協力したくないんです」
「・・・・なあ、こうなったら分かってくれるまで何度も言うが」
真田も大儀そうに息をついて、言った。
「君は誤解している。君がおれに協力するんじゃない。まずはおれが君に協力しよう。そう、言っているだけだ。今のところは」
「その心配は無用です。わたしは、真田さんからなにか協力を得ようとはそもそも思ってはいないし、あなたのやり方には、ずっと、疑問を感じていたんです」
「待てよ。君は別に、おれのすべてを知っている、そう言うわけじゃないだろう?」
「ええ、確かにそうですよ。わたしは真田さんのことは、よく知らなかったし、今もそう」
薫は肯いた。知らず、感情的になっている自分がいた。
「でも、あのとき、あなたのやり方で事件を解決したせいで、新人のわたしは、確実に迷惑をこうむりました。わたしはそれを今でも忘れてない。わたしがあなたのことをよく知らないように・・・・・あなただって、あなたの仕事ぶりで知らずに迷惑をかけた人たちがいることをよく知らないはずです」
「君が具体的にどんな話をしているか、おれにはよく分かってはいないんだが、おれと組んだ事件に関してならあれは」
そのとき絶妙のタイミングで、足元の菅沢が一気に立ち上がった。隙をみたつもりだろう、散らばった持ち物を置いて、なりふり構わず走って逃げていった。彼には災難だったろう。不幸は続くものだ。道路に出た菅沢は三叉路から飛び出した赤いスポーツカーにはねられそうになって、若い男の怒号を浴びていた。
「まあ、いい」
菅沢に対してか、言い捨てると真田は、持っていたものを無造作に薫へ投げて寄越した。それは菅沢から取り上げた、彼の携帯電話だった。
「これ・・・・・・」
「持っとけよ。必要なはずだ。色々な意味でな」
お見通しだと言うように、真田は手を振って見せると、
「そいつにおれの番号も入れておいた。その気になったら、いつでも連絡をくれ」
反射的にそれを受け止めてしまった薫の様子がおかしかったのだろう、苦笑混じりで覗き込むと、真田は言った。
「・・・・・それともうひとつ言っておくが、この件と、おれが朝話した件は、同一線上にある枝葉の事件だ。菅沢と、現役女子高生の売春クラブに目をつけたのは、なかなかいい着眼点だな」
「あの・・・・・」
「さっきの話は、今度またゆっくりすることにしよう。・・・・じゃあな。電話を、待ってる」
受け取ったものを返すわけにもいかずたたずむ薫を一瞥すると、真田はさっさと、どこかへ引き上げていった。
二人の美琴
押収した菅沢の携帯電話の中にやはり、それらしい「マキ」の名前はなかった。唖然とした顔をされるわけだ。恥ずかしいが、柄にもない強面の尋問をした、そのつけだと思うしかない。ホームで缶コーヒーを買って一息入れながら、気分を立て直すことにした。
真田と思わぬ遣り合いをしたせいか、頭の方も一旦冷えて、一歩下がって出直す決心はついた。いわれのない悪夢から始まって独自に洗い直したこの事実について、まだ放棄するのは早過ぎる。そのことも、よく分かっていた。
ここで諦めるほど、成果が上がらなかったわけでもない。もちろん、大きな壁にはぶちあたったにしても、推理を進める取っ掛かりは出来たのだ。これに確証を伴う裏づけが見つかれば申し分ない。
塚田と菅沢が証言した内容については確かに、金城や捜査本部を納得させられるような話ではまだないが、個人的にはかなり信憑性の高いものだと、薫は思っている。二人の証言内容について書いたメモを要約してみる。
①わずかな期間で、美琴は別人のように変身した。
②そして誰もが持ち得ないような強大な権力を手に入れていた。
くしくも無関係の二人の人間が揃って同じ内容を証言していることが、まったくの偶然とは思えない。
もともとのネタ元が塚田の可能性もあるが、菅沢の携帯を薫は念入りにチェックしても、彼はまだ塚田と接触した形跡は見当たらなかった。このことは逆に考えると、当の菅沢自身が例の売春の黒幕について、その正体が嶋野美琴を取り巻く数名のグループであることを知ったのが、ごく最近のことであると言う事実を端的に示している。もともと彼は、取材を諦めていたのだ。期せずして突破口が開けて、狂喜したことは想像に難くない。
菅沢の着信履歴の中に不審な「非通知」が頻繁に登場するようになるのは、美琴の遺体が発見され、事件が報道された前後になっている。言うまでもなくこの「非通知」が菅沢の情報提供者であるとして、タイミングから考えてもこの人物は、嶋野美琴の裏側の顔の、相当深い関係者と見て、まず間違いはないだろう。
言うまでもなく、密告者は菅沢が掘り当てたのではなく、取材に頓挫して煮詰まっている彼の元に偶然、向こうから飛び込んできたものだ。彼にとっては確かに、思わぬ救いの神と言っていい。
ただ、その菅沢が運命に与えられたチャンスを、今のところ、満足にものにしているとは、到底言いがたい。暴露情報の発信者として菅沢は、ほとんど無力な存在だ。反対に情報を提供する側にしてみれば、これほど甲斐のない相手もいない。それなのになぜ、この人物は菅沢などに接触したのだろう。
情報を流す対象を大手マスコミや捜査機関にしなかったのは、言うまでもなく、真相が追及されたときに自分の素性から罪状までが白日の下にさらされてしまうのを恐れたからとも考えられる。そのことから考えても菅沢はもしかしたら、この提供者の素性を定かには知らされてはいなかったのかも知れない。
非通知で好きなときに一方的に情報を横流しすることで、菅沢に対してイニシアティヴを取ろうとする接触のやり方からも相手が持つ警戒感の度合いは想像できる。なにしろこの人物が流したのは実名入りの、それもかなり具体的なスキャンダルなのだ。
満冨悠里と野上若菜が恐れているのも、十中八九、この人物だろう。恐らく彼女たちは、この密告者の正体をよく知っており、美琴の遺体が発見された時点で今、自分たちの間でなにが起きているのか、いち早く理解していたに違いない。
だから、警察が動き出す前に売春クラブの事実も含めて後々、自分が不利益になる証拠を始末して回ることに手を尽くしたはずだ。ちょうどあのときの、薫に聞かれてはまずい相談の中身は、削除された美琴のブログやホームページに代表されるような証拠品の始末について議論をしていたと、ほぼ見ていいだろう。
ところで彼女たちにとっての裏切り者は一向に、警察に駆け込む気配を見せない。今までやったことと言えば菅沢を使って、ネットに暴露記事を載せさせたことぐらいだ。これはもしかすると、それが精一杯だからなのかもしれないとも考えられなくもない。
たぶん、その提供者は、美琴の殺害に深く関わっているのだろう。犯行に当事者かそれに近い立場で立ち会ったか、少なくとも、公の場に姿を現した時点で、そのまま、自身がなんらかの嫌疑を受ける圏内にいるはずだ。知っていることを話すと美琴に手を下した犯人から復讐されるのか、もしくは、その件で確実になんらかの不利益を被ることがあるのか。
売春は公にしたいが、殺人の嫌疑を受けることだけは避けたい。提供者が裏で動きたがる真意は、そんなところだとすれば。満冨と野上、彼女たちも恐れているが、菅沢の情報提供者もなにかを恐れているのだろうか。
(『マキ』とは違う?・・・・・じゃあ、あなたは一体誰なの?)
「マキ」の名前に至るまでの道のりはいまだ険しく、ゴールはまだ、見えてきそうにない。
(でもまだ届かない場所にいるわけじゃない)
「マキ」は実在するのだ。
必ず、うろついているに違いない。
満冨悠里と野上若菜、そして薫の周辺を。
こうしている間にも、悪夢は絶え間なく、薫を責め立ててくる。いまや突発的にやってくるイメージは薫自身の記憶の断片と化し、唐突に薫の意識をジャックしてくるその感覚は、彼女自身の肉体に直接与えられた衝撃に、ほぼ近づきつつあった。
電車のシートにもたれて眠っていたはずの、薫の足は剥き出しになり、宙をかすかに掻いて今、左右に揺れている。
若い肌の張りきった裸の足、艶のある黒い毛の萌えた陰阜、これらはみずみずしい光沢を帯びて、まんべんなく、臭気のある液体に浸っていた。まるで失禁したかのように、気分が悪い。冷たい風が一気に空気中に水分を揮発させていくのが分かる。
刺激臭。恐らく灯油か、ガソリン。死を確実にするための補助剤。ちょうど昔、魔女を焚刑に処するとき、素肌にコールタールを塗りつけたと言うのを何かで読んだ。
死の使者は、無言のまま足元にうずくまっている。深い緑色のプラスティックケースに包まれた、ホームベースサイズの、無愛想な物体。もう千年近くも岩陰で眠っていた亀のようなボディからは、無数の白い紐が伸びだしており、それはちょうどドアのない戸口の向こうに遠く続いている。
「なんだよ、また、ハズレかよ」
ドアの向こうから、うんざりしたような声がした。
「鶴見さん、リタイアだね」
「残念でしたー」
息を詰めて見守っていた沈黙から一転、緊張の切れた雰囲気。
「つか、本当につくのかよ、これ」
男たちは談笑しながら、ぞくぞくと戸口から入ってくる。
「馬鹿、どこから買ったと思ってるんだ。米軍だぞ」
「これ、ヴェトナム戦争かなんかのときの骨董品だろ」
「だから、そんなに古くねえって」
「いいから、もう一回、よく点検しろよ」
舌打ち。談笑。ビールの缶に誰かのつま先が当たる。けたたましい音の無限の反響。
男たちは、みな、携帯電話を手にしている。朦朧とした意識に視界は霞がかって、そのどれもに印象はないが、とりあえず、面子の中に女性はいない。
このうちの誰かが「マキ」なのか。マキは男?
この中の誰が?
男たちは吊るされた身体には目もくれずに、血走った目でディスプレイを見つめて、黙々と片指でキーを叩いている。仲間内での和んだ会話の雰囲気から一転、誰もがわき目もふらず、お互い、一切言葉を交わそうともしない。
その異様に一心不乱な集中力は、正常な大人が日常生活で失ってしまったもの、すべてを賭けたギャンブルに狂った人間の、ひどく思い詰めた眼差しを思い起こさせた。中には泣きそうな顔で携帯電話にかじりついている男の顔すらある。彼らは決して、この猟奇的な殺人自体に目的を見出しているようには見えなかった。
「ちゃんと繋がってるよ。絶対、間違いない」
足元の声がぼやく。しかし誰も、携帯電話から顔を上げない。
「なあ、大丈夫だってば」
「本当だろうな」
「そもそも後、何本残ってるんだよ?」
作業から解放された誰かが声を上げた。足元の男が答える。
「一応、あと五本にした」
「いいか、これはフェアなゲームになんだ。ブービーのやつも含めて、見て分からないようにまた、ちゃんとばらしとけよ」
「分かってるっつの・・・・・言われなくても」
「なあ、速攻狙いの二人はもうリタイアだろ?」
「そりゃないぜ。不発は仕切りなおしじゃないのか?」
「そんなルールねえっての。負けたやつはそこで終わり。だからこその、フェアなゲームだ」
フェアなゲーム? いったいなんの話をしているの? それぞれに夢中になったこの場の誰もが、他の人間の意志に応えてくれそうにない。
「・・・・よし、送信OKだ。折り返し、再開の合図が来る。そしたら、第二ラウンド開始だぞ」
「時間のことも考えろよ、せいぜい、あと三十分だ。タイムリミット守らねえと元も子もないんだからよ」
「そうふてるなよ。お前、チャンスがなくなったからって」
「おい、女、気絶してるぞ。・・・・・早く起こせ。さっきみたいにろくに話ができない状態じゃ困るぜ」
「薬、おれ扱えないんだけど」
「ぶっ飛ばない程度にやれよ。正気じゃなきゃ、このゲーム、成立しないんだからな」
「おい、やれよ、鶴見。お前の役目だろ、いい加減にすんなよ」
「分かってるよ」
誰かがやってきた。後ろに回る気配がした。
首筋を掴まれて、あごを持ち上げられる。自然と、弛緩した唇が開いた。
「・・・・・効きすぎじゃねえのか、これ」
誰かがぼやく声。側頭葉後野の彼方から、うつろに響いてくる。
自分のすぐ背後の頭上。見守っている誰かがいる。
そいつはいつも、訳知り顔で地上の世界を見下ろしている。祈ることでその声が届くような気がするときもあるが、生きている人間にその存在の不確かさや世界の見え方が分かるはずがないのだ。
「来たぞ、すぐに再開だ」
反響も滅茶苦茶に。
「起こせ」
声が響いてくる。
「・・・・・・・・・・・」
わたしは。
「選ぶんだ。お前の命綱を・・・・・そうだ。・・・・・後三回、ハズレを引いたら、解放してやる」
「・・・・・聞いてるのかよ?」
「おい、ちゃんと女起こしたのか」
薫は、いつしかその吊るされた肉体に変わって訴えている。
とうに起きているのだ。
声を出す気力があったら、とっくにそうしていたろう。
血を噴くような絶叫を。全力で身をよじって、抵抗を。
男たちの姿も見ているのだ。みな、同じ目をしている。
「マキ」はいない。ここに。・・・・・それもよく分かる。
「マキ」
だが、わたしはその名前を呼ぶ。彼女? そう、彼女は、わたしの意識の中に最期に、一人だけ残った人間の名前だから。
「準備完了。・・・・・いくぞ」
美琴には出来ない。薫が叫んだ。
「やめて」
誰かが、絞首台の羽目板を落としたのだ。
がくん、と、浮遊、落下する感覚があった。
深い、奈落の底に。
足が空を掻いた。
その瞬間、目が覚めていた。
薫は、はっ、と声を上げそうになって、あわてて辺りを見回した。夢につられて、身体が落ちていくことに反応してしまっていた。危なかった。また、引きずり込まれたのだ。シートの揺れも匂いも、辺りの喧騒も、すべてはさっきと同じように元に戻ってきている。夢が夢でなくなる瞬間がいつか来るのかもしれない。
美琴が、薫に。他人が味わった死の記憶が、完全に自分のものに。
例えばもし。やがてそうなるとしたら。
「・・・・・・・・・・」
まだ、心臓が早鐘を打って危機の余韻を訴えている。ずきんと突き刺すような痛みが薫の呼吸を止めた。声にならずに、あえぐ。死を、体感したせいだ。しばらく呼吸が出来なくなった。
薫と差し向かいのシートには杖にもたれて和服を着た身なりのいい老婆が、うとうとと眠り込んでいた。彼女はそこでそのままもう半世紀近くも、夢の中で安らぎを得ているように薫には思えた。
その幸せそうな顔を見ながら、きりきりと痛む心臓を押さえこんで、薫は大きなため息をついた。
「思ったより時間かかったな、大丈夫だったか?」
金城はすでに、当番の捜査員との引継ぎを済ませて待っていてくれたようだった。弔問客の中に、今のところ不審な人影は見当たらないらしい。
「お陰で上手くいったわ。兄と両親との話も、どうにかまとまりそう」
善意の金城に嘘をつくのは、どうも心苦しかった。
「急にわがまま言っちゃってごめんね。本当に、感謝してる。この埋め合わせは必ずするから」
「いいから気にすんな。まあ、肉親でも一緒に暮らしてりゃ、行き違いとかはあるさ」
「マキ」を見つけ出して、本当のことを話すことが出来るのは、一体、いつのことになるだろう。気は重いが、めげている暇はない。今日の参列の中にも、「マキ」がいるかも知れないのだ。
「それより公安に気をつけろよ。あの真田のやつ、いきなり乗り込んできてこっちの捜査を、大分掻き回してるらしいからな」
「そう」
「捜査に口出されたりして、みんな、ぶーぶー文句言ってるよ。一体、なに狙ってやがんだかな」
「ふうん」
金城は太い首の後ろを手で撫でて、右に傾げた。
「・・・・・真田から、なんか聞いてないのか、お前」
「別に?」
薫も訝しげな金城に合わせて、不思議そうに首を傾げてみせる。
「捜査に出るのに時間もなかったし、すぐに出ようと思ってたから。わたしも、真田さんの話は全然聞かずに断ったのよ」
「もしかしたらお前が断ったから、腹いせに色々立ち回ってるんじゃないのか?」
「そんなひどい断り方したつもりは、別にないけど」
「・・・・・あの公安、お前に気があるって話だぞ」
「まさか・・・・・・馬鹿なこと言わないでよ」
薫は相手にしないと言う風に首を振って、笑い飛ばした。まったく、うかつなことは言えない。また変な噂が再燃しないとも限らないのだ。下手なことを話すと、どんな誤解されるか知れたものではない。金城も冗談めかして聞いてはいるが、そう言うことを聞くとき、言葉が構えているのがよく分かる。
(でも、真田さん、本当にどう言うつもりだろう?)
そもそも真田が追っているのは、金融やくざの使い走りのはずだ。それなのになぜ、この件に口を出して回るのだろう。自分の扱っている案件と美琴の事件は、同一線上にある事柄の枝葉だみたいなことを言っていたが、女子高生の殺人事件が海外を股にかけて暗躍する非合法組織のいざこざと、関わりがあるはずがない。
ただ薫を引き抜くことが出来ない腹いせのために、捜査課に圧力をかけたり、思わせぶりな嫌がらせをしたりしていると言うのは、それこそ邪推だろう。確かに真田は、お世辞にも平衡のとれた人格の持ち主とは言いがたいが、そんな陰湿なやり方を好む男ではないし、仕事がらみでなければ、他局の捜査に口を出す余裕があるほど暇な身体とは思えない。
それにさっき唐突に現れて菅沢を痛めつけたのは、もちろん偶然のはずはない。単独行動をとっている薫のことも、ある程度知っているような口ぶりだった。
「あ」
そのうち、薫のバッグの中身がぶるぶると振動しだした。金城が、怪訝そうな顔をこちらに向ける。薫のではない。菅沢の携帯に着信があったのだ。薫はあわてて、電話を確認した。例の非通知ではない。菅沢本人からのものだろう。
「どうかしたか?」
「うん・・・・・親よ」
メッセージの内容を確認しながら、薫はまた嘘を言った。
「なんだって?」
「・・・・・今、無事、うちに着いたから心配するな、って」
伝言メッセージには、脅しとも恨み言ともつかない声が吹き込まれていた。真田か薫か、電話を持っているのがどちらか、見当がつかないせいか、かなり遠まわしな脅し文句だった。
「おい、これ見とけよ」
金城が薫の前に四つ折にしたプリントアウトを差し出した。
「不審車の目撃証言を洗っていた班の情報をもとにして作成された犯人グループの一人の似顔絵だよ」
「・・・・・・これが?」
「念のためだけど、万一ってこともあるだろうからな」
そこには年齢三十歳くらい、薄っすらと無精ひげを生やして、眼鏡をかけた丸っこい顔の男のバストショットが描かれている。この男が美琴の遺体を積んだと思われるバンを運転していたらしい。
一見して見覚えはなかった。
ついさっき悪夢で見た、男たちの面子にあるかと思ったのだが。
(それほど都合のいいものじゃないのね)
美琴が薬を使われていたためか、ひどくぼんやりとしたイメージだけが、薫の頭の中に残っているだけだ。言えるのは、男たちは話し振りや雰囲気から、二十代後半から三十代前半くらいの若い男たちで、人数は確認できただけで四人と言うこと程度しかない。
『鶴見』と言う固有名詞も登場した。彼はもっとも近く、美琴の傍に寄った。彼の額から下、鼻の辺りまでがどうにか、薫の記憶にも印象としては残っている。
「どうした、薫。もしかして見覚えあるんじゃないか?」
「え・・・・・うん、少しね。高校のとき引っ越した、ずいぶん会ってない同級生とか、思い出したりしただけ。たぶん、完全に人違いだと思うけど」
「まあ、ありふれたご面相だからな」
金城は難しい顔であごをひねると、似顔絵の男の鼻っ面を指で弾いて、
「正直、おれもどうも似た顔のやつ、二、三人見かけたことある気がしてならないんだよ。そんなに話もしない、高校の同級生とかな。見たとこちょうど、おれらくらいの年頃だろ、こいつ」
わたしもそんな感じよ、と言うように薫は軽く微笑んで見せた。葬儀なので、歯は見せられない。金城はわざとらしく時計を確認すると、
「始まったらおれ、奥の出口辺りで監視してるよ。なにかあったら、電話で連絡くれよ」
胸ポケットの電話をマナーモードして、金城は去っていった。
途端に壁際にもたれると、薫はため息をついた。金城と接するのが辛いのではなく、悪夢の消耗から、まだ抜け切っていなかったのだ。実は背中にびっしょりと汗を掻いている。開け放した両開きのドアから吹き込んでくる春の風に、寒気を感じて薫は身を縮めた。
(待って。・・・・・・もう少し待っててくれたら、あなたが言う「マキ」にたどり着くはずだから)
ついに接触してきた相手は
やがて静かに、葬儀が始まった。会場を見渡す限りそれは、なんの変哲もない葬儀のように見えた。
季節外れの花をいっぱいに活けた祭壇の前、左右に三列ずつ設けられた席のほとんどは、学生服で埋まっている。どこからともなく、クラスメートの女の子のすすり泣きが、式次第の合間の静寂を縫って思い出したように響いて、それが同席した大人たちのもらい涙をも誘っている。
用意された遺影は、薫にも見覚えのあるアングルの写真から起こされたもののようだった。そこには本当に年頃相応の明るさの、ごく普通のかわいい十八歳の女の子が、自分にはなんの疑問もないと言うように笑窪を作って微笑んでいた。
こうしてみると、美琴の周辺に疑問をもって独自の調査をしてきた薫でさえ、菅沢の言い分がまったく根も葉もない、興味本位の中傷に思えてならなかった。
果たしてそんな美琴が、本当にそれほど得たいの知れない大きななにかを動かすような持っていたのだろうか。つい、一年半前、日本に帰ってきて、独りぼっちだった高校生の女の子にいったい、なにが出来ただろう。クラスでも孤立無援だった。もはや馴染みも愛着もない、日本の学校に行くのが嫌だと言っていた女の子がたったの三ヶ月で急変していく、どんな出来事があるのだろうか。
学校生活に慣れて友達も増え、生来の積極性が再び芽を出してきたと言うならともかく、もともとがそんな女の子ではなかった。あの後、元彼の塚田が何枚か、昔の美琴の写真を添付してメールをくれたが、どれも今、祭壇の遺影で微笑んでいる彼女とは別人のように暗い顔をしていた。それが、どうしてこれほどまでに変わったのか。しかも、考えうる限りの両極端で、だ。
学業も学校生活も積極的で、人望があり、生徒会役員に選出されるほど、優等生だった美琴。
満冨悠里と野上若菜を従え、自分の学校全体だけでなく、都内一円の中高生たちの買春の斡旋を行っていた元締めとしての美琴。
いずれもが今までの美琴と比べると、辻褄が合わないほど、両極端な変化だ。どちらか一方ならともかくどれもが不連続で、ひどく脈絡がない。生前の彼女は実際、どんな子だったのだろう。今、この場にいたなら、どんなことを思っただろう。
ちょうど、喪主の父親が挨拶をしている。
二日ほど遅れて到着した父親は、白髪頭が目立つ五十過ぎの紳士で、細長い体格した、どちらかと言えば厳しい風貌の初老の男だった。船会社の重役と言うが、美琴の母親とは大分年が離れており、後添えをもらったのだと薫は聞いていた。
どちらかと言えば古風な雰囲気の、国際派のビジネスマンと言うよりは、高級官僚を思わせる無機質な感じの男性で、話し振りや物腰は薫に、自分の父親を思い起こさせた。美琴の父親は出席者の参列に気を遣いつつ、感情のない声で、ただ淡々と弔辞を読んでいる。
薫は、この父親も娘の美琴にはっきりとした関心を見せず、仕事にまい進して家庭を顧みない人だったのではないかと、ふと思った。
薫がもし、殉職しても父親は、自分の社会的地位に応じたやり方で淡々と警官としての薫を葬ってしまうだろう。それと同じで、冷え切った父娘関係には、隠しようのない白々とした空気が漂う。直感的にそう感じたのは、ただの薫の邪推なのだろうか。
式中、満冨悠里と野上若菜の様子を薫は観察し続けていた。彼女たちがここで、なにをするとも思えなかったが、不審な動きがあれば話を聴くきっかけにもなるだろうとも思ったからだった。
満冨悠里は例の固い表情のまま、座りこみ、ずっと前を見ていた。顔を赤く泣き腫らしたような痕跡があるのは、野上若菜だ。
薫は見ていて、二人の間に時折なにかのやり取りがあるのをすぐに感じた。折に触れて若菜が、悠里の制服の袖を引っ張って、しきりになにかを話しかけていたのだ。
雑談というのではない。彼女は必死になにかを訴えかけていた。悠里が静かにしろ、と言うような仕草で再三いなそうとするのに、しつこく袖を引っ張り続けて話しかける。それが小声でしかも、辺りを憚っている感じが見受けられるのが、ますます怪しかった。二人はなにか、誰かに聞かれてはまずい秘密を、話し合っている。
やがて若菜のしつこさに耐えかねたのか、突然、悠里が立ち上がり、彼女を引き立てて外へ出て行くのが見えた。
かまをかけるなら今しかない。薫は人並みを掻き分けて先に式場を出た。彼女たちは、トイレで話をするようだ。二人の跡をつけて薫は、様子をうかがうことにした。
彼女たちはつとめて、人のいないトイレを選んでいる。この式場がある二階のは奥が使用中だったらしく、わざわざ一階の奥のトイレに入り込む。壁際を伝いそっと、薫は近くに添った。
「ちょっと本当、まず落ち着きなよ、若菜」
満冨悠里のなだめる声が耳に入る。
「あんたが騒いでるとわたしまで不安になるでしょ?」
「だって・・・・・もう無理だって・・・・・絶対にやばいよ、あたしたち」
見たところ、若菜は大分取り乱している様子だった。なにが起こったのか。彼女にとって緊急事態が起きたことは確かなようだ。若菜は泣き声になりながらも、一生懸命、今の自分の気持ちを形にしようとするのだが、順序だてて何一つ話すことが出来ない。
耐え切れなくなったように、悠里が若菜の話を切った。
「お願いだからわけの分からないこと言わないでよ、若菜。冷静に考えて。大体今、わたしたちがどうして危険なの?」
「・・・・・・・・・・」
若菜は答えない。でも、強くかぶりを振ったようだ。なにかの恐怖に、もうこれ以上、耐えられないと言うように。
「・・・・・しっかりしてよ、本当に」
腹立たしげに、悠里はため息をついた。
「あいつが無事だったから、どうだって言うの?」
あいつ? 一体、誰のことを話しているんだろう?
「大体、もう、手は打ってあるんでしょ? あんたに全部、任したし、あんたも大丈夫だって言ってたはずだよね?」
「・・・・・そうだけど、またもし、あの子が」
「絶対そんなことないから。たぶん、なんかの偶然で、その日は来なかっただけ。それで偶然助かっただけよ」
「でも、森田くんとも全然連絡つかないし・・・・・」
悠里の声が少し、ひそめられた。
「・・・・・・こんなことになって、警察が入ってきたから、ばっくれたに決まってるでしょ? 未遂だとしてもあれがばれたら、わたしたちだって、面倒くさいことになるんだからね」
「で、でも、だってさ・・・・・マキが話すかもしんないじゃん、警察に。・・・・・あたしたちが、どうにかする前に。・・・・・そしたら、どうすればいいの?」
「マキ」だ。その名前がようやく出てきた。「マキ」は実在したのだ! 思わず、薫は息を呑んだ。
「悠里もマキと話したんでしょ?・・・・・あの子、あの夜から別人みたいなんだよ。・・・・・なんか今までと、全然違うの」
「・・・・・・だから澤田さんに連絡して、手打ってもらったんじゃないの」
「変な雑誌の記者とか使って、探りいれてきてるし・・・・」
「だからなに? マキがなに考えてるかは分からないけど、わたしたちにどうこう出来るわけないし、あいつがなにを言おうとしたって、誰も信用するはずないでしょ。これは、そう言う話なの。・・・・・あんただって、それくらい分かるでしょ?」
若菜は泣きべそを掻いているのか、半ば嗚咽している。さすがに悠里の方も万策尽きたようだ。
「そうやってびびってると、今に本当にあんたの言うとおりになるかもね。そしたらどうする?・・・・・そのときは若菜、あんたに責任はとってもらうからね」
捨て台詞。悠里は、若菜を置いてトイレを飛び出してきた。
「待ってよ、あの子・・・・・本当にやばいんだってば・・・・」
遅れて、若菜が追いすがる。悠里は振り向かない。とっさに男子トイレの入り口に隠れた薫を顧みようともしなかった。
「待って・・・・・・」
今しかないと、薫は思った。続いて出ようとする若菜の肩を、薫は急いで引き止めた。
「待って」
「・・・・・や・・・・・何?・・・・・・」
反射的に若菜は薫を振り切ろうとして、愕然とした。誰に話を聞かれていたのかを、若菜は瞬間的に理解したのだ。振り返ったみるみる、若菜の表情に明確な驚愕の色が広がった。落とせる。反応だけなら、これだけでも十分なように思えた。
「わたしの顔、憶えてる? 野上若菜さん」
「知らない」
間髪いれずに胸元から取り出した手帳が、彼女の次の動きの絶好の牽制球になった。
「あなたたちが、今していた話に興味があるの。・・・・どこかでお話うかがえるかしら?」
若菜は片頬を吊って、無理に笑った。混乱が、去っていない。
「なに言ってるの、刑事さん。・・・・・あたし、別に悠里となにか話してたわけじゃないし」
「二階のトイレは空いてるわ、野上さん。たぶん今もね。葬儀の真っ最中に誰も席を立つ人はいない。すぐに戻らなくちゃ。こんな遠くのトイレに籠もって満冨さんと二人で一体、人に聞かれて困るような、どんなことを話してたの?」
「は? なに言ってんの、あたし別にそんな話とかしてないし」
若菜は薫を振り切って歩き出そうとした。ここで話を流されたり、応援を呼ばれたりすると困る。薫は一気に切り込むことにした。
「調べれば分かることよ。あなたたちが今話した内容をたどっていけばね。『マキ』についても、あなたたちがその子に何をしようとしたのかについても」
「・・・・・・・・・・・」
「あなたたちが奥田と言う男を使って、渋谷の真篠、と言う男が仕切っていた売春クラブの縄張りを取り仕切っていたことも、あらかた調べがついてるわ。・・・・・・あなたと満冨悠里、故人の嶋野美琴が、どうやらそれに積極的に関わっていたと言うこともね」
若菜の腫れぼったい顔に、動揺の色が走った。もともと、彼女は迷っていたのだ。満冨悠里がここにいたなら、手こずっただろうが、彼女だけなら、根拠の薄弱なこのネタも効果を発揮した。
「『マキ』と言う人物が、この事件に深く関わっていることも、わたしたちは掴みかけているわ。美琴を殺したのは確かに複数の男性グループの変質者かも知れないけど、彼らを集めて指示を下した人間は別にいて、そいつが主犯だと推定している。わたしたちの目的はその人物で、あなたたちが不法な行為に関わっていたことに興味はない。ことによっては不問にしてもいい。それにあなたたちがその人物に脅威を感じているのなら、話し次第では、あなたたちを保護することも出来るし」
保護。その言葉に、若菜は明らかに心動かされたらしい。
「聞くわ。まずはこれだけ答えて。美琴を殺したのは、『マキ』?」
かすかに。ぶるぶると、若菜は首を左右に振った。
「違う?」
彼女は泣いていた。もう一度同じ仕草をして、
「分かんない・・・・・分かんないよ・・・・・」
と、言った。
「分からないってどう言うこと?」
薫は辛抱強く聞いた。頭を抱えて、若菜は答えた。
「はっきりそうだって言えない・・・・・・見たわけじゃないから。でも・・・・・たぶん・・・・・」
彼女は脅威を感じているのだ。だからこその動揺のはずだった。
「あなたの意見でいいわ。『マキ』が美琴を殺した?」
若菜の答えを聞くのには、しばしの時間が掛かった。葛藤を振り切って告白に踏み切る人間の沈黙の綱が切れるのを、薫は辛抱強く待った。
こく、と若菜は肯いた。
許して、マキ。
美琴の絶叫が、再び、薫の脳裏に木霊す。
「どうして・・・・・あなたはそう思うの?・・・・・あなたたちがその子・・・・・『マキ』になにかしたから?」
若菜は答えなかった。躊躇の理由はなんとなく分かる。
「話は聞かせてもらった。何か、法に触れるようなことなのね?」
法に触れる、と言う言葉に若菜は反応した。今から、硬く口を閉ざす決意をしようとしたかのように。機先を制するかのように、薫は急いで言い足した。
「あなたたちがその子になにをしたかはこの際、問題じゃないし、わたしには興味もない。答えはイエスかノーよ、それだけ答えて。あなたたちは、『マキ』に何か、復讐されるようなことをしたのね? だから、彼女が美琴を殺した、張本人だと思ってる」
長い沈黙の後、ようやく若菜は肯き返した。ふーっ、と二人は同じタイミングで大きく息をついた。若菜は胸に溜まったものをついに吐き出してしまった脱力感、薫はようやくここまでたどり着いて一息ついた疲労感。若菜は目を反らし、薫は彼女を睨みつけた。再び、事実に立ち向かうために。
「あなたたちと『マキ』の諍いはなんとなく察しがついてる。だから話したくないことは話す必要はない。まず、どう言う経緯であなたたちがそうなったのか、その関係を話して」
「・・・・・あたしたちと」
若菜は言った。虚脱したような表情だった。
「あたしたちとあの子はなんの関係もない」
「なにも話さないのは通らないわよ。一から話してほしい? 亡くなった嶋野美琴を含めた、あなたたちが法に触れる行為を取り仕切っていたということと・・・・・」
「あの子とあたしたちは、もともとなんの関係もないっ!」
辺りに響くような震える声で、若菜は言った。
「ただ・・・・・ただ、美琴がマキならいいって。あの子なら、意気地なしだし、存在感ないし、どんなことしたって黙ってるし、周りの誰も気にしない・・・・・・そうやって言うからっ」
彼女の胸のうちを一瞬にして、激情がほとばしり出ていった。白いセーターを着た小さな肩がぶるぶると震えていた。落ち着け。
(・・・・まず、わたしから)
自分に言い聞かせるように薫は心の中で唱えると、われを失った若菜の嗚咽が落ち着くのを待って、慎重に話しかけた。
「・・・・・じゃあなぜ、あなたたちはなんの関係もない子にそんな、ひどいことをしようとしたの?」
「そんなこと、あんたに話しても分かるわけないでしょ」
「事実以外のことはね。なら、わたしから聞くわ。こう言うのはどう? あなたたちは『マキ』に無理やり売春をさせた」
「馬鹿じゃない・・・・・そんなことしてるわけない」
「・・・・・・なら」
若菜は首を振った。薫と同じ。悪夢を、振り払うように。
「あたしはこれ以上、なにも話さない。話す気はない」
「『マキ』の報復を受けてもいいのね? あなたが恐れていることが、これから現実になっても?」
「・・・・・・・・・」
応えはない。感情の鬱積を放出しつくしたせいか、今度は一転して硬い表情になり、そこから何も読み取れそうになくなった。取り乱してまとまった話が出来ないのも困るが、冷静になられるのもそれはそれで困る。若菜を落とすことで、聞き出すべき最低限の一点を、薫はまだ聞き出していない。
「そう」
と、薫は、一旦、呼吸を外すことにした。
「頭を冷やすことはなにも悪いことじゃないわ。必要なら、もう少し考えてから、結論を出してもいい。罪を得ても、最低でも命があるうちに。二人でよく相談するといいでしょう。・・・・・・ただ言っておくけど、そう遠くないうちに、わたしも、あなたたちのことを助けられなくなる時が、必ず来るわ」
薫の最後の脅しはそれなりに、効果を発揮したようだった。それはまだ、若菜が五分五分の地点に立っていることを明らかにした。
「一応、渡しておくわ。選択肢は増やしておくだけでも、安心出来るでしょ?」
薫が差し出した、番号のメモを若菜は無言で受け取った。
「・・・・・もう、行く。いいでしょ」
メモに目を落としてから、若菜は上目遣いで薫を見た。
「ええ、もちろん。・・・・でも、最後にひとつだけ教えて。『マキ』のことを。彼女はあなたたちの、なに?」
「同級生。同じ学校の」
「クラスとフルネームは?」
「・・・・・キタウラ。キタウラ・マキが本名。クラスは・・・・知らない。あたしはなにもあの子のこと知らないの。本当に」
若菜は言った。そして、それ以上は本当に何も話さない、と言う姿勢を示すために、顔を背けた。
「もういい?」
「ええ、ありがとう。手遅れにならないうちに、あなたからの電話、待ってるわ」
若菜は手で払うような仕草をして、薫を振り切ると、虚脱したような雰囲気で、ふらふらと去っていった。
(・・・・・同じ学校の同級生)
そして、やはり女の子だ。「マキ」の正体が判った。口ぶりでは、美琴がよく知っている様子だった。キタウラ・マキ。しかも彼女には、美琴たちに復讐するなんらかの動機があったと言う。ついに、尻尾を掴んだ。
もちろん、喜ぶのにはまだ早い。若菜の話の裏づけを取らねばならない。「マキ」の周辺を洗うことが次の仕事だ。幸い、美琴と同じ学校の「マキ」のプロフィールは、事前に押さえてある。キタウラ・マキ=北浦真希。これだ。すぐに発見することが出来た。
北浦真希、美琴とは同学年のG組。A組の特進クラスにいる美琴とは一見、なんの接点もなさそうだ。【被害者(美琴)との関係】についても、一行だけ。
「美琴とは一学年のとき、D組で同クラス」
としか、書かれていない。
若菜はさっき、「マキ」と自分たちとは、なんの関係もない、と言っていた。だがもしかしたら、それは若菜と悠里に限ったことで、美琴だけが、「マキ」と深い関わりを持っていた? そもそも、事件発生時の美琴の交際範囲には、浮上しなかった人物なのだ。だからこそ、薫は「マキ」を美琴の裏の顔の関係者と睨んだのだが。
上が騒がしくなってきた。出棺が始まるのだ。
「・・・・・あっ」
しまった。薫は、はっとした。そう言えば大分時間が経っている。若菜と同様、自分も持ち場をそう長くは離れてはいけない立場にいたのだ。会場に戻らなくては。金城にまた、迷惑をかけてしまう。薫が一歩、引き返そうとしたそのときだった。
ドン、と重たく突き上げるような衝撃が、薫の胸を襲った。悪夢がやってきたのだ。まさかこんなところで、こんなときに。吐き気を催すほどの強い力は一瞬で、薫の抵抗力を奪い去った。もしかしたら、今度こそ、ここで死ぬのではないか。そんな恐怖が、薫の脳裏を何度もかすめた。
(・・・・・待って!)
せっかくここまで、あなたを殺した「マキ」のことを突き止めたのに。どうして? こんなところで。
苦しさに、薫はついに膝を突き、床に伏せた。
(誰か)
声を上げることが出来たなら、なんのためらいもなく、薫は激痛に絶叫していたろう。
無惨な爆死を遂げた、美琴の断末魔が耳朶の奥に蘇った。
(死ぬのはいや・・・・)
いやだ。死にたくない。誰もがそう思う。だが、誰もが、その一縷の望みをかなえられるわけではない。
薫が死を覚悟した、まさにそのときだった。
「苦しいの?」
(・・・・・・誰?)
霞のように薄い声が、薫の頭上に降った。誰? 続いて、ふわりと、なにか暖かいものが身体を包んでくるような気配がした。
誰か呼んで。そう、薫は言おうとしたが、当然、それが言葉として形作られるはずもなかった。どうやら若い女の声と気配だが、その雰囲気は不思議と落ち着いていて、こんな状況にもかかわらず、なぜかそこを動く様子もない。なにやってるの早く。
薫が訴えようとした瞬間、ごく自然な所作でその手で彼女の裾を探って、ブラウスの中に差し入れられた。薫がはっとする間もなく、相手は双つのふくらみの間にある患部を見つけ出し、乳房ごとそこをぎゅっと握った。
「顔を上げて」
その声は、ERで処置する看護士のように明確な意思で、薫に指示を下した。苦しい呼吸の中で、薫はなすすべもなくそれに従うしかなかった。しかしなんとか顔を上げて、相手が誰か知ると、再び薫は愕然とした。
高校生なのだ。彼女は、美琴と同じ学校の制服を着ている。
「動かないで」
彼女は言った。それは依然、断固とした意思を持った声だった。
(この子)
喘ぎながら、薫は思った。
(知ってる・・・・見たことある。・・・・・確か美琴の学校で)
すれ違った。廊下で。そのどこか浮世離れした空気感がどこか印象に残っていた。そうだ。あのとき、悪夢に捕えられた。わたしの手帳を拾ってくれた、あの、女の子だ。
「おねがい・・・・・救急車を呼んで。胸が、苦しいの」
「心配ないわ。・・・・・このまま、静かに呼吸を整えて」
彼女は言った。ここを動くつもりはないと言う意思表示のため左右に振った。何を言うのだと、薫は思った。彼女はここを、動く気はまるでない、そう言うのだから。自分だけでどうにか出来ると思うの? なにを根拠に? そんなことは、絶対にありえないのに。
ふと、薫の呼吸に不思議な変化が兆した。空気が胸に入ってくる。呼吸が出来る? 信じられない。薫は目を見開いた。どうしたことか、手を当てられていただけで、胸の激痛もみるみるうちに治まっていったのだ。悪夢の起こる予兆は去って、すでに影も形もない。驚きに心乱して、薫は彼女を見返した。
「・・・・・・・・」
その様子を見て取ったのか、彼女はすぐに支えていた手を離した。薫は深い息を一回、大きく吐いて自分を取り戻した。
「あ・・・・ありがと」
彼女は、取るに足らないことだという風に、小さく息をつくと、ちょっと肩をすくめた。やっぱりだ。あのとき廊下ですれ違った、薫の電話を拾ってくれた、あの不思議な空気の女の子。
「悪夢を見た?」
彼女は、有無を言わせない口調でこう言った。
「見たのね」
「ええ」
「・・・・・やっぱり」
彼女は言うと薄く唇を緩めて、笑った。違いの少ない連続写真を見せられているように、変化はかすかだった。
「見た・・・・嶋野美琴。あの子が、どうして死んだのか?」
反射的に肯いてから、薫は、はっとした。
「どうしてそのこと?・・・・あなたが知って・・・・」
「見れば分かるよ。・・・・・だって、そんな感じだったし」
彼女は意味の通らないことで薫をからかっているかのように、悪戯げに首を傾げてみせると、
「よくあることだし」
(・・・・・どう言うこと?)
意味を答えずに、去っていった。
その夜、薫は何日かぶりに夢も見ずに熟睡した。意識を失うほど深く眠ったのは、本当に久しぶりだった。まるで台風一過の夜明けのように、悪夢は影も形もなく、薫の中から立ち去ってしまった。開放されてはじめて、その恐ろしさが分かる。断続的に、突然、繰り返し襲ってくる美琴の死のイメージは、確実に薫の神経を研ぎ澄まし、確実にその芯まで蝕んでいた。昨夜のようにひどくなる前に、精神科に行くことも真剣に考えていたのだ。
薫は倒れこんだベッドのシーツを直しながら、立ち上がった。甘く快い、疲労感の残滓がまだ身体にまとわりついている。鈍磨した神経の物憂い温かさが気持ちいい。昨夜深夜、シャワーを浴びずに寝てしまった不用意さを、後悔する間もないくらいに。
ダイニングテーブルの上の飲みかけのビールの缶を、薫は苦笑しながら流しに移した。
熱いシャワーが、健全な判断力を回復させる。単独捜査の進展が、実を結んだことを今は、単純に喜ぶべきだった。
マキ=北浦真希に、なんとかたどり着いた。まだはっきりしないながら、野上若菜の証言はかなり有力だ。
動機のあるこの同級生が、犯行の張本人の可能性は高い。彼女が美琴たちとなんらかのトラブルを起こし、ネットで参加者を募って、事件を起こさせた。これで一応の筋は通っている。主犯を取り押さえる証拠さえ得れば、解決まではあと、ほんの一歩だ。
金城には今日中にでも、相談を持ちかけようと思っていた。
鮭茶漬けにインスタントの貝の味噌汁で朝食をとりながら、携帯電話をチェックする。まだ、どこからも着信はなかった。昨日、若菜は確かにかなり動揺してはいたが、それほど早く転びはしないだろう。帰ってから満冨悠里に相談したとなると、まだ落ちるまでは時間が掛かりそうだが、別にこっちが焦る必要はない。北浦真希と彼女たちの背後関係を洗えば、おおよそのことは分かってくるはずだ。それにしても、彼女たちは、真希になにをしたのだろう?
そうだ。ふと、気づいて薫はバッグから菅沢の携帯も取り出した。予感めいたものでなく、失念したことを思い出した。それがまさか、薫が爆睡しているうち、着信が入っているとは思わなかった。
午前二時から五分の間に二件。二つとも、「非通知」。
薫は自分のうかつを恥じた。他人の電話を持っているということは、どうしても意識の外に置かれやすい。そのために着信音もバイブもマックスにしておいたのに、気づかないとは大失態だ。あわてて、薫は中を確認した。
二件目には留守録メモが入っている。薫は急いで再生した。
『・・・・・菅沢さん』
ピーッ、と言う受信音の後、出てきたのは、若い女の声だ。
『寝てる?・・・・珍しい・・・・いいネタを掴んだの。起きてからでもいいから、折り返し電話をちょうだい。待ち合わせ場所を指定する。折り返しのナンバーを言うね・・・・』
録音にもかかわらず、薫はあわてて手帳とペンを引き寄せた。女は機械的にナンバーを二回、繰り返した。連絡のそつのなさは、簡潔で無駄のない、実に馴れた手際だった。有無を言わさない感じ。菅沢が手玉にとられていたのが分かる。声は若いが、一体、何者なのだろう。
「マキ」。そうかも知れない。菅沢はそんな名前の女は知らない、そう言った。過剰な反応の否定だった。今思うと不自然だったかもしれない。
薫は迷わず、そのナンバーにコールしてみた。朝早すぎるかもしれないと思ったが、その心配は無用なようだった。ものの数回のコールで電話がつながった。出たのは、やはり連絡してきた若い女の声のようだった。
『・・・・・もしもし』
薫は黙っていた。
『あなたにしては上出来・・・・・朝早いけど。おめでとう、ちゃんと間に合ったね』
朝早いせいか、心なしか声には籠もった響きが感じられる。シーツを動かす音。たぶん、向こうも今、目を覚ましたに違いない。
『とっておきのネタよ。有力な証言者を同伴する。取材用のテープレコーダーを必ず持ってくること。今から詳しい、待ち合わせ場所を指定する。・・・・・・メモを用意して』
「OK」
声をひそめて薫は言った。相手はそのまま話した。池袋西口・・・・東部デパートの地下、噴水広場の腰掛。・・・・・エスカレーターのちょうど裏側のカフェの前。
『今から約二時間後、午前九時に。・・・・・絶対遅れないでね』
そのまま電話が切られそうな気配になった。
「待って」
思い切って薫は言った。切られるなら、もともとだと思った。
「緊急時の連絡方法は?」
案の定、電話口から漏れてきた女性の声に相手は戸惑った。
『あなたは誰?』
「菅沢の代理よ。わけあって同じ件を追ってる。彼はまだ・・・・眠ってるの。その間にメッセージが入ったら・・・・・わたしが代わりに出るように、そう、言われてて」
『へえ』
我ながら、つたないアドリブ。しかし、大した不審も持たずに相手は納得した。あまり、興味もないような言い方だった。
『それなら彼にも伝えておいて。緊急時にはこちらから連絡する。あなたが指定の時間に現れなかった場合、こっちは、あなたはこの件にもう興味はない、そう判断すると思って』
「あなたたちは何人で来るの? 特徴は? 本人だと確認する方法は?」
『人数は二人か・・・・・場合によっては三人になる。後の二つの質問については答えるまでもないと思う。あなたが分からなくても、菅沢が見れば、あたしたちが誰だかは分かるはずよ』
「それはあなたのこと? それとも、その有力な証言者のこと?」
あくびをする気配がした。眠たげなため息も。相手は、朝早い時間からそんな愚問にどうして答える必要がある、そう言っている。
『・・・・あなたが来ようが、菅沢が来ようがこちらにはあまり関係のないことよ。情報を提供する。取引の条件や方法については、あたしが決める。取り交わしたルールはそれだけ。・・・・後、残された問題は、あなたがそれを買えるか、買えないかってこと』
「お金が欲しいの? あなたがこうする目的は一体・・・・・」
ブツリ。電話は、突然、しかも一方的に切られた。
ふりかかった悲劇
二時間後、菅沢の情報提供者が現れる。しかも、とっておきらしいネタを持って。それは恐らく、同伴する有力な証言者のことに違いない。
相手は二人か、場合によっては三人で来ると言った。少なくとも一人を証言者とすれば、彼女はその証言者になにを話させる気なのだろうか?
考えるまでもなく、薫はすぐに準備を始めた。金城に連絡して、今朝は事情で出勤が遅れる旨を伝えておいた。後から考えれば、本当なら彼女はこのとき正直に事情を仲間に打ち明けて、対応策を検討すべきだった。しかし今。それをする手間すら物憂いほどに、薫は自分の考えに没頭しきっていた。
彼女は。自分たちについては、見れば分かると言った。なぜ? 彼女たちはひと目で分かる。答え、たぶん制服を着てくるから。
それに菅沢が調べている事件の有力な、最後の証言者と言えば、薫の知る限り、あの二人しかいない。=満冨悠里と野上若菜。
この二人から、彼女は、決定的な情報を菅沢にリークしようとしている。正確には、菅沢を通してマスコミに、表の世界に、嶋野美琴を含む三人が関わっていた裏の事実を暴露しようとしている。彼女は三人に恨みを持っている。しかし、美琴の事件があるから、この事実の暴露に関して、直接表には立てない。彼女が「マキ」=北浦真希である可能性は高い。
残念ながら学校側にファイルを返却してしまったため、今は手元に北浦真希の顔を確認できる資料はない。菅沢なら知っているだろうが、彼を再び捕まえている時間的余裕は今、さすがにない。
三十分早く、薫はJR池袋駅に到着した。朝早くにもかかわらず、南口の広場は待ち合わせに時間を潰す集団で賑わっていた。卒業式のシーズンで、集まっているのは近くの立大生だ。至るところに彼らはいて、待ち合わせにめぼしい席はほとんど埋まってはいたが、晴れ着のスーツや着物の中にあの学校の制服は目につくはずだ。とりあえず、目標を見失うことはなさそうだった。
約束の時間まで残り十分・・・・・五分。四方に気を配ったが、それらしい影は見当たらなかった。式が始まるのか、地上、西口公園前に通じるエスカレーターに、大学生が移動し始めている。彼女からの電話はまだ、来ない。やがて、時間を過ぎた。
すると、突然、薫のバッグの中から振動音が響きだした。菅沢のではない。自分の携帯だ。あわてて、薫は中身を探った。ディスプレイには知らない着信が入っている。怪訝そうに首を傾げながら、薫は電話をとった。辺りに気を配り、それらしい人影を依然探しながら。
「・・・・・もしもし」
『・・・・・・なんででないんだよ』
押し殺したような切迫した声が・・・・・突然聞こえてきた。
「あなた誰? わたしに何の用?」
『電話しろって・・・・・言ったじゃんか・・・・なんだよ、全然でないじゃんか・・・・・』
後半は、乱れた不規則な吐息と泣きじゃくる声が混じった。
「あなた・・・・・もしかして・・・・・」
薫は思わず息を呑んだ。まさか、野上若菜?
「野上さん?」
息を切らしながら、彼女はそうだと言った。やっぱりだ。
『なにやってんだよ・・・・・今、どこにいるのぉ・・・・?』
どうも、様子がおかしい。若菜はなにかに追い立てられているように、腹立たしげな泣き声を立てた。
「ごめんなさい、移動中だったの。・・・・・どうかしたの? 朝から、どこか様子がおかしいみたいだけど」
『今すぐ来て。すぐ。話したいことが、あるから・・・・・』
「話したいことってなに?・・・・・電話ではまずいこと?」
『いいから、すぐ来てよ!』
若菜は叫ぶように、言った。
(どうしよう)
今、ここを離れるわけにはいかない。しかし若菜の今の様子からも、そちらも放っておくわけにはいきそうにもない。
「あなた今、どこにいるの? もし、なにか切羽詰ってることがあるなら、本署の方に」
『あんたじゃなきゃだめなの! いつでも連絡してって言ったじゃん! 来いよ!・・・・・来て、お願い、やばいの・・・・』
菅沢の携帯が、鳴り出した。周囲を見渡す。それらしい誰かが来る気配はない。
「すぐ行くわ。どこにいる?・・・・・・わたし今、池袋にいるの。あなたは」
『西口公園・・・・・おっきなエスカレーターのある劇場の下、トイレ・・・・早く、急いで・・・・・』
最後は消え入りそうな声になった。小さく、咳き込む。彼女の身になにが、起こってる? 迷っている暇は、なかった。エスカレーターに群がる人並みを掻き分けて、西口公園を目指す。話からして、新芸術劇場の地下トイレだ。
菅沢の電話が鳴り響く。
「五分ほど席を外すわ。緊急の用事よ。・・・・・少し待って」
相手は返事をしなかった。否も応もない。薫は電話を切った。
将棋台を囲んだホームレスと、大学生がたむろする公園。薫は走った。どうして彼女はトイレにいる? トイレから、どうして薫に助けを求めている?
新芸術劇場は、一階のフロアから最上階に直通でのぼる長いエスカレーターと、地下のギャラリースペースに降りるエスカレーターに分かれている。若菜が呼んでいるのは、地下、その奥にあるトイレだ。打ちっぱなしのコンクリートの壁を伝いながら、薫はどうにかそこにたどり着いた。この早い時間、使用中のトイレは入り口側の一室だけだった。
薫はさっきから、何度も電話をかけなおしているが、彼女は着信に応じない。
ブーン、ブーン、と熊蜂が漂うような、低いうなり声のバイブ音が、そのドアからかすかに響いてきていた。
「野上さん」
ドアには鍵が掛かっている。薫は彼女の名前を呼びながら、トイレのドアをノックした。中からはすでに返事がない。上から中を覗き込んで、薫は、はっと息を呑んだ。
若菜が、倒れている。辺りに血を、撒き散らして。
白いセーターの袖。赤黒く濡れた手首。血まみれの指で、彼女は力なく、それを握っていた。
「野上さん!」
薫はすぐに、携帯で応援を呼んだ。
野上若菜はトイレの中で、右の手首を切って倒れていた。
それが自分でやった傷だと言うことは、状況から考えても明らかだった。彼女がもたれていた便器の脚の下に散らばった数枚の替え刃があった。呼び出し音とディスプレイを光らせて床で時計回りに回転していた携帯電話、そのいずれも、血にまみれた若菜の指紋がついていた。
自殺者が恐怖に思い余って、電話で助けを求めることはよくある。生と死を分ける二つのツール。その両方に若菜の手があったということは、それがそのまま彼女の混乱と不安の深刻さを表していた。
意識不明のまま、搬送された。手首を切って、薫の携帯電話にコールするまでの間、かなりの時間が経っていたらしく、薫が抱き上げたときには、その身体から体温はほとんど失われていた。
所持品の生徒手帳で、若菜の血液型が判った。若菜は薫と同じ、B型。彼女の名前を呼びかけながら、薫は救急車に乗り込んだ。
「水越」
薫の報告を受けて間もなく搬送先の病院に現れた金城は、唖然とした顔になって彼女に聞いた。
「大丈夫か」
「ええ、わたしは・・・・・大丈夫、平気よ」
そう言ったが、薫はほとんど放心状態に近かった。
「手首を切ったのは、亡くなった嶋野美琴の同級生だったらしいじゃないか。お前・・・・・まさか、偶然通りかかったわけじゃないよな?」
「・・・・・ええ」
薫は、静かに肯いた。今となっては遅いかもしれないが、もう話すべきだと、彼女は思った。
「どう言うことなんだ?」
薫は金城に、今までの動きすべてを話した。塚田、菅沢からあぶり出した、嶋野美琴の裏の顔。満冨悠里と野上若菜の二人のこと。そして、菅沢の情報提供者で、事件に深く関わっているはずの最後の関係者・・・・・北浦真希。
「なんだよそれ・・・・・・」
さすがに金城も顔色を失うくらいの戸惑いを見せて、言った。
「どうしてそんな重大なこと、今までみんなに隠してたんだ?」
「マキの正体が分かるまで、あなたにも伏せておきたかったのよ。・・・・・実は、わたしが見た悪夢が、わたしに『マキ』の存在を気づかせる、最初のきっかけになったから」
もはや、呆れられてもいい。薫は夢の話もすることにした。事件発生から、ここ何日にも渡って、執拗に薫を脅かした、美琴の死の悪夢のこと。現実との不思議な符号。そして、ついに接触を果たすことになっていたかもしれない、「マキ」のこと。
金城はそれを、余計な相槌ひとつ挟まずに聞いてくれた。長い間背負っていた荷を、やっと降ろせた気がしただけでも収穫だった。
薫の話の切れ目に、眉根を寄せて深くため息をついてから、金城が最初に口を開いた一言は、
「お前がなにか悩んでたのは、察しがついてたよ。どっか様子もおかしかったしな・・・・・だがなぜもっと早く、おれだけにでも話してくれなかったんだ」
「ごめんなさい。・・・・・わたしも最初は半信半疑だったの。悪夢に導かれて・・・・・調べるとそれがどんどん、本当のことになっていって、それを認めるのも怖かったからかもしれない」
「昨夜、お前が式場下のトイレの前で、誰かと騒いでたのを上から見てたよ」
突然、金城は言った。薫は、はっとして金城を見返した。
「相手は今日、手首を切った例の女の子か?」
金城は処置室のほうにあごをしゃくった。薫は無言で肯いた。
「その件は、黙っておいたほうがいいだろう。・・・・・ことによっては、証拠もない違法捜査で、関係者を脅迫したせいだと思われるかもしれないからな。ただ、それがなくてもまずいぞ。一課長は夕方から緊急記者会見を開く予定だと。あのとき現場にいたお前は、間違いなく事情を聴かれる。そのとき、どう答えるかだな」
若菜と自分との関係について聴かれることは、うすうす、覚悟はしていた。しかし迷っていたのは、今までの経緯をどう説明したらいいのか、と言うことだ。
「おれは・・・・・お前が今した話は、かなり信じられる線だとは思うよ。あの子と、もう一人いた満冨悠里って子、それにもう一人が深く事件に関わってるって言う、お前の話も筋が通ってると思う。だがもし、お前が追ってた子が死んで、違法捜査でお前がその槍玉に挙げられるとなると、たぶん、その線で事実関係を洗うことも、難しくなってくるはずだ」
「・・・・・そうね」
金城の言うことはいちいちもっともだと、薫も思った。
「ともかく、お前の話は出来る範囲でおれの方でも洗ってみるよ。怨恨がもとになってるとしたら、ネット仲間より人間関係は洗いやすいからな。話では主犯は、その北浦真希って子なんだろ?」
「・・・・まだ全然、自信持って言える範囲じゃないんだけどね」
「上出来だよ。手が空いてる仲間に声かけてみる」
「ありがとう」
金城はなにか他に、薫にかける言葉を捜そうとしたが、見つからなかったのか、頭を掻いてから、
「ちょっと休めよ、薫。早くそれ、着替えたほうがいいぜ」
「あ・・・・・・うん」
今、気づいた。若菜を搬送してきたときのまま、薫はずっと、血まみれだったのだ。
病院を出た直後に上司から電話があった。無期限の自宅待機。上司が直接、薫に事情を聞くのは後日と言う。若菜が手首を切った状況についての事実は、初動捜査を担当した刑事に話をしてある。そうなった詳しい経緯は別として、今は、目の前の事態を収拾しなければならないのだろう。
被害者の親友が、葬儀の後に自殺を図ったのだ。
緊急のニュース速報を伝える声の中を、どこか他人事のように聞きながら、薫は帰途に着いた。
いつのまにか、夕陽が赤く射していた。ドアを開けて中に入ろうとした瞬間、菅沢の携帯電話が鳴った。「非通知」だった。すぐに薫は通話ボタンを押した。
『・・・・・もしもし』
相手は今日の、若い女の声ではなかった。男だった。薫は怪訝そうに眉をひそめる。
「誰なの? 菅沢?」
『・・・・・ああ、菅沢ね』
? 相手は言った。
『君のお陰でやつには迷惑してるよ。・・・・・昨日も会ったが、電話を返してくれ、ってしつこくおれに、泣きついてきてな』
トントン、と背後から肩を突かれ、びっくりして薫は背筋を立たせた。反射的に距離をとって身構える。
「大変だったな」
いつのまにか真田が、電話を持って立っていた。
「なにか用ですか?」
「様子を見に来た。あれから、どうしてるのかと思ってね」
「・・・・・・・・・・・」
「君の同僚に聞いた。どうやら、君のせいで、嶋野美琴の関係者が自殺したらしいな」
無言で、電話を切ると、薫は真田にそれを投げつけたい衝動に駆られた。それでもどうにか無視して、ドアの鍵を探す。
「死んだのは、野上若菜か。彼女は死んだ嶋野美琴と、もう一人、満冨悠里って子と、つるんで、やばいことしてたんだろ。若菜が死んで、菅沢はがっかりするだろうな。これでまたしばらくは、誰もやつの原稿を買ってくれる編集者はいなくなる」
鍵が見つかった。強引に、薫は鍵穴にねじ込んだ。
「・・・・・彼女はまだ死んでいません。輸血もしたし、まだ五分の状態だと医者は言ってました」
「どちらにしても失態は、接触を図りながらみすみす彼女を自殺に踏み切らせてしまった、君の責任になるだろう。菅沢の言うことを信用して、君は野上若菜を追い詰めた」
「責任は甘んじて受けます。主張すべきことは主張して」
ついに耐え切れずに、薫は口火を切った。
「でも、それが今、あなたになんの関係があるんです?」
「・・・・・今日の野上若菜を含む三人は、人に頼んである夜、自分の同級生をさらわせたそうだ」
真田は、急に違う話を始めた。
「集団でバンに押し込めて、山奥に連れて行って、レイプしようとした。犯行に参加したのは、上は二十八歳、下は十六歳まで合計四人。中には森田勝行って言う、横浜で路上強盗の前科のある少年も含まれてる。下北沢でクラブをやってる、澤田由紀夫って男が人数を集めたそうだ。・・・・・・ちなみにこの澤田って男は、売春クラブの一件で菅沢があげてた奥田の高校の同級生らしい」
「・・・・・・・・・」
「計画が実行に移されたのが、三月の六日。嶋野美琴が塾からの帰宅途中になにものかに拉致され、殺害後、自宅近くのゴミ捨て場に遺棄される事件が起きる、ちょうど二日前だ」
「・・・・・どうして」
今。なぜ。
「真田さんはそのことを?」
「これは菅沢から聞いた話だ。だから君にも、聞く権利がある」
真田はスーツのポケットを探ると、煙草を取り出して、
「その日、狙われた同級生は進学塾へ行く途中におびきだされ、四人にバンでさらわれた。だが不思議なことに、次の日、無事に登校してきたし、暴行を受けた様子も見えない。普通に学校に通っていたそうだ。さらに事件後、森田はじめ、犯行に参加したメンバーは全員行方が分からなくなっている。・・・・・ところでこの同級生だが彼女が誰だか、君には心当たりがあるか?」
「マキ」
思わず事実が判明したショックに半ば自失して、薫は答えた。
「・・・・・北浦真希」
答えた、と言うより、ほとんどつぶやいた印象だった。
「そう、北浦真希だ。どうも同級生の証言によると、そのことがあった夜以来、彼女は様子がおかしくなっていたらしい。だがそれが、精神に傷を負ったり、塞ぎ込んだりした感じではなくてね。奇妙な話なんだ。・・・・・・多くの人は彼女が、別人のような印象になった、と証言している」
「・・・・・・・・・」
「奇妙な符号だろう? ちょうど、一年半前、嶋野美琴が言われていたことと、同じことを、彼女は言われているんだ。なぜ、彼女は変わったのか・・・・・」
「真田さん」
真田の言葉を遮るようにして、薫は言った。
「分かりません・・・・・あなたの目的は一体、なんですか? どうしてこの事件に・・・・・わたしに深く肩入れするんですか?」
「君に肩入れしてるつもりはない」
意外そうな顔をして、真田は首を傾げた。
「仕事は違うが、君とおれは同じ方向を向いている。中々、いい目の付け所だと言っただろう? おれは、嘘は言わない。まあ君は近々、今の事件の担当を外されるみたいだが」
「真田さんには関係ない・・・・・何度も言わせないで」
「捜査を続ける気があるなら、おれは君を救うことが出来る。ただ、今の捜査課でなくこっちに入っておれの指示に従ってもらうが」
「・・・・・・・・」
「弱みにつけこむ気はない。好きにすればいいさ。君の処遇も、近日中には決まってくるだろうし、その間少し休むのも、決して悪い考えじゃない」
マキの正体
ついに、野上若菜の意識は戻ることはなかった。もともと、そんな予感がしていた。今となってはあのトイレの記憶は遠く感じられたが、彼女の自殺は追い詰められて決意したもの、と言うよりは、誰かに強制された色合いが強いように思えてならなかった。
あの場には、二人の人物がいなかった。言うまでもなく、満冨悠里と北浦真希だ。少なくとも一人は、近くまで来ていた。
あれは緊急事態にあわてて薫に電話したものか、それがどう言う意図のものかは分からなかったが、若菜だけがあの場に残された。彼女は誰かのスケープゴートにされたのだ。薫は彼女を救えなかった。どんな処分を受けても不服はなかった。
ほどなく、事件の担当から正式に薫は外された。処分が決定するまで扱いは、自宅謹慎になった。
処分を受け、自宅へ帰ると電話に、母からの伝言が入っていた。兄の晴文が戻ったらしい。無言で、自室に引き籠もっているという。父親との冷戦状態が解消したわけではないので、一件落着と言うわけにはいかないが、一応、安心はした。
受話器の奥で父親がなにか話したがっていたが、事件の捜査があるということで、先に切った。たぶん、薫が単独捜査で処分を受けた件を小耳に挟んだのだろう。別に何も、意見を求めることはない。
菅沢の携帯には、二度と着信は入らなかった。若菜の事件が騒がれている。魚は、逃げた。捜査線上にもまだ、満冨悠里の名前は浮かんではいないようだった。
金城とは不定期に二、三度、連絡を取り合っている。
『野上若菜の件で、彼女の両親から警察に事情を聞きたいと申し出があったよ。今度の件で学校側も捜査協力に難色を示すようになってる。ほとぼりが冷めるまで、こちらとしては大人しくしているしかないな。お前が言ってる線を探るのは、しばらく無理だ』
「北浦真希の件は?」
『お前が聞いた、レイプ監禁云々の話は漏れてはこないな。もう学校は春休みに入って、彼女は自宅から二駅先の進学塾に通っているが、別に変わった様子はない。それは本当に確かな情報なのか?』
真田から聞いた情報だとは言えず、薫は口ごもってしまった。
北浦真希の生徒証の写真が、薫のもとに届けられた。そこに写っている黒髪ショートの女子高生は、確かに薫が学校と美琴の葬儀場で二度も接触した、あの少女だった。
やはり彼女が、北浦真希だ。彼女が、「マキ」。二人の少女の死に、関わった。たぶん、あの場にもいた。
不思議なことに悪夢は、その夜から再び復活した。
薫もこのままでは、引き下がる気にもなれなかった。ある日、真田の指定した番号に彼女はコールすることにした。
『分かった。・・・・・じゃあ、早速仕事にかかろう』
真田は言った。オフィスに来いとも言わず、いきなり待ち合わせの場所と時間を指定してきた。
『初仕事だ。君の働きを期待している』
「なにをするんですか?」
『そうだな』
と真田は歌うように言い、
『まずは、柄を押さえる』
「・・・・・誰のですか?」
『決まってるだろ』
愚問だと言うように笑うと、真田は言った。
『「マキ」のだよ』
指定された場所に、真田は現れなかった。いいようにあしらわれたのではないかと、正直、薫は思っていた。
界隈はひどく、物騒な場所だった。盛り場と言うでなく、抜け道のような裏通りでもない。寂れた駅の沿線にある、荒れ果てた裏路地だ。シャッターの下りた店舗が目立つ一本道に通じたT字路の境は、潰れた駐車場になっている。唯一営業しているように見える個人経営の楽器屋の店先まで、五百メートルはあるだろうか。
夕暮れどき人気は極端に少なく、明かりもない。風景が、無人の暗室にいるように赤黒く暮れなずんでいる。人目につきたくない取引や接触を果たすのには、絶好の場所だった。
真田は車でやってきた。フィルムを張った黒のセダン。こんなところに長く停めてあると、職質されそうな怪しい車両に見えた。
ミラー越しに真田が隣に乗れと、指示していた。薫は助手席に乗った。真田一人だった。ここからどこでなにをするかは分からないが、夕日も落ちきって、大分冷えてきている。真田を疑った十五分で身体はかなり固まっていた。
「合図があったらすぐ出るぜ。準備は出来てるか?」
わけが分からないまま、薫は肯いた。
「ここで・・・・・なにをするんですか?」
「言った通りさ。身柄を確保する。『マキ』のな」
「ここで? 『マキ』を捕まえる?・・・・・こんなところでですか?」
薫は不審そうに辺りを見回した。
「君の言いたいことは、大体分かる」
真田は、平然として言った。
「北浦真希の身柄を確保したいなら、彼女の自宅に行けばいい。それで済むはずだ。ただそれはもし、今、拘束できる理由があったなら、だろう?」
困惑している薫をどこか楽しむように、
「君はおれの指揮下に入った。ちゃんと、君の上司にも話は通してある。おれの指示に従って、まずはそれなりに役目を果たしてくれないと、困るな」
真田は言った。ちょうど、無線機に入電した。
「入ったか?」
真田が聞く。真田の班員がどこかで張っているのか、対象者が動いた、と言う知らせがノイズとともに返ってくる。
「よし、そのまま目を離すな。いいか。・・・・行くぞ」
薫の返答も聞かずに、真田はドアを開けた。
「君はあっちだ」
? まごまごしながら真田について出た薫に声が飛ぶ。
「反対側の路地から中に回ってくれ。早く。君はあの、角の通りを塞ぐんだ」
と、指示通り走ろうとする薫に、真田は小さな塊を投げて寄越した。二十二口径リボルバー、実弾の入った拳銃だった。
「これは?」
「護身用さ。・・・・・・場合によっては撃ってもいい。迷うな。始末書の心配は、無しだ」
こともなげに言うと、真田は走り出した。薫もそれに従う。拳銃を携帯した経験はほとんどなかった。まして、発砲が許されたことなど。大体、捕まえるのは、ただの女子高生のはずだ。そもそも、こんな時間、こんなところにいるはずのない。どうして? 薫に答えをくれるものは、鈍い夕闇の中、すでに誰もいなかった。
路地からは、暴走族でも暴れているのか、若い男たちの怒号が聞こえてくる。捜査員たちはその声を頼りに、なにか右往左往しているようだった。
真田に指定された角を曲がると、そこは古びたラブホテルが建ち並んでいるだけだった。声だけが聞こえてきた。囃すような声、笑い声。そして、たまにあれは・・・・・悲鳴か。女のものではないように思えた。
(どうすればいいの?)
真田は無線機を与えてはくれなかった。緊急で間に合わなかったのだろう。それほど、薫には期待していたわけではないのだ。
やがて、ホテルの裏から何者かが飛び出してきて薫と鉢合わせた。茶のブレザー、紅いリボン。チェックのスカート。北浦真希だ。
「あなた・・・・・・!」
声をかけて、薫は二の句が告げなかった。本当に、現れた?
「・・・・・刑事さん?」
不思議そうに、彼女は小首を傾げた。
「待って・・・・・待ちなさい」
その姿はこんな場所では、ひどく違和感あるもののように薫には映った。「マキ」も、薫の姿に気づいて一瞬、びっくりしたようだった。盗みをして走り出てきた猫のように、彼女は立ち止まった。
「なにか用?」
相手は言った。=電話口の声。感情の抑揚の少ない、真水のような声音だった。
「こんなところで一体、なにをしてるの?」
あなたこそ。と言うように、「マキ」は薫を見た。
「あの日、待ってたわ・・・・・池袋駅の南口で」
薫は、余計な駆け引きなしで「マキ」にぶつけた。
「菅沢の情報提供者はあなたでしょう? あなたは、あのとき、野上若菜と満冨悠里を証言者として同席させようとした」
そうだとも違うとも言わずに、彼女は黙っていた。怒号が遠くに聞こえる。
「あなたのせいで二人死んだ。それは、疑いない事実よ。あなたは彼女たちにどんな恨みを持っていたの?・・・・あなたの目的を教えてちょうだい」
「恨みなんか、別にないわ。・・・あなた、勘違いしてる」
彼女は言った。薫の剣幕に比べると、道端で盛り上がらない話をしているようなテンションだった。
「二人が死んだのは、自分たちの責任よ。彼女たちが、たぶん、ゲームに負けたから。つまり、そう言う仕組みなの。美琴も若菜も、死ぬべくして、死んだ」
「ゲーム? ふざけてるの? あなた、おかしいわ」
「そう? あたしが言ってることは・・・・・ただの事実なんだけどな」
薫の目の前に、彼女の指が突き出された。とっさに薫は身構えた。
「あなたも見たはずよ」
どこかで。と、彼女は言った。その指は彼女自身のこめかみにいって、そこを軽く、二、三回、突いた。彼女は薄く微笑んだ。
「悪夢は消えた?・・・・・よく思い出して。美琴は、・・・・・あの子は、どんな風に死んだのか?」
気がつくと、また同じ風景の中にいた。毎夜毎晩、薫を誘い込む風景の中に。男たちが、笑いさざめている。携帯電話を持ち寄り、吊るされた少女の遺体の写真を撮りつつ、「ゲーム」について話している。やつらは、言う。口々に。
そう。これは、ゲームだ。それに従って彼女は殺された。ゲームには、事実を正確に管理するために厳格なルールがある。彼女は、たぶん、それに則って殺されたのだ。
「いいか、これはフェアな、ゲームなんだ」
誰かが言う。彼を知っている。彼は、鶴見だ。もう一人が言う。
「ハズレを三回引けたら、助けてやる」
「再開の合図を受信したら、第二ラウンド再開だ」
男たちの手には、携帯電話が握られている。その憑かれたような眼差し。物欲に燃えた目、餓鬼の亡霊。ぼんやりとしていた男たちの顔が、はっきりと吊るされた薫の目に映りこんでいく。
「止まりなさいっ!」
薫は拳銃を構えた。両手で、狙いがぶれないように。反動を覚える。射撃訓練で教わった、基本中の基本をまず思い出した。マキは、はっとした顔ひとつ、しなかった。
まるで弾丸など、自分を殺す力はない、とでも言うように。
「手を上げて!」
薫の声には殺気が籠もっていた。なぜこうなったか分からない。悪夢。悪寒。そして憎悪。繰り返し刷り込まれた感情の高ぶりが、怒りが、一気に噴出して、彼女にぶつけられたのか。それでも平然と、彼女は銃口を睨んでいた。
「止まらないとあなたを撃つ・・・・・あなたを確保するわ」
「そう」
と、彼女は言った。マキとの間は、いつの間にか十メートル近くも離れていた。
「撃てばいいわ。たぶん、当たると思う。・・・・・・ちゃんと、人を撃った経験があるなら」
「撃てないと思ってるの?」
ぎりぎりの、はったりだった。撃たない理性くらいは残っている。それに日本の警官は無闇に拳銃を携帯しないし、発砲しないという前提で、厳然たる規則に縛られている。真田は無造作に拳銃を渡したが、薫には元来、街中で発砲すると言う意識それ自体がなかった。
端から威嚇だと思っているのか、まるで動じる気配がない。ただの女子高生が? そんなはずはない。まさか。
「聞かせて」
銃口を下に向けながら、薫は聞いた。
「あなたや、嶋野美琴になにがあったの?・・・・・どう見ても普通じゃないわ、あなた。・・・・・まるで」
「別人みたい?・・・・うん・・・・ほんと、そうかもね」
マキは言った。冗談を言ったようには、聞こえなかった。
「みんな、変わるみたい。しかも、本人も予想もしなかった方向に。イズム・・・・これは、そう言うゲームなの」
「イズ・・・・・ム?」
イズム? なにを言っているのだ、彼女は。
その瞬間、マキの背後から、誰かが走り出てくる気配がした。応援か。薫は、そこで初めて我に返って顔を上げた。そこにいたのは、どう見ても、スーツ姿の応援の捜査員ではなかった。
身長、一八〇センチ以上の。目を血走らせた、外国人の男だった。南米系、見たところブラジル人。罵り声は英語ではない。紫色のパーカーに、ジーンズ。普通ではない興奮の様子から、薬物を使用している独特の雰囲気がうかがえた。
追ってきたのは、やはりマキだ。彼女の姿を見つけて、男はなにか卑猥なスラングをわめき立て、襲い掛かってくる。
止めないの? と言う風に、彼女は肩をすくめた。一呼吸遅れて、薫は拳銃を構えなおした。
ブラジル人は、殺到してくる。このまま両足を引っこ抜いて、マキを身体ごとさらって行きそうなスピードだった。止めないの? 彼女が仕草で薫に合図したのは、自分自身のことらしかった。
間合いを計ったように絶妙なタイミングで、彼女のしなやかな身体がアスファルトを蹴って跳んだ。柔軟な身体つきが速度を倍加させた。
なにか格闘技をしているのか、ブラジル人はけん制の右フックではたき落とそうとした。しかし相手の攻撃が届くスピードの方が一足速く、膝がカウンター気味にそのあごを捉える。車にはねられたように、ブラジル人は真後ろに倒れこんでいった。
硬いアスファルトに後頭部をぶつけた彼に、反撃の余力はなかった。分厚いタイヤを鈍器で殴ったような不気味に籠もった音を立てて、ブラジル人は約一秒半で意識を失った。
死ぬほどの勢いで倒れた、男に見向きもしない。そのままの余力で振り返りもせず、着地した彼女は走って逃げようとする。
「止まれよ、フカマチ・マヤ」
銃声が響いた。彼女はぴたりと動きを止めた。夕空に向けて威嚇射撃を放った真田が、角から出てきた。銃口の照準は彼女の胸にぴたりと、つけられている。でも、と薫は聞き間違いを疑った。真田は、違う名前で彼女を呼んだ。彼女は、北浦真希じゃない? まさか、そんなはずはない。本当に、彼女は別人だったのか。
聞き間違いではない。真田はもう一度、別の名前を呼んだ。
「おれは本気で撃つぞ、フカマチ・マヤ。君を預かった機関から、許可されてる。どうだ、試してみるか?」
黙って、フカマチ・マヤは両手を上げた。観念したように息をつき、なぜか、薫の方にも手のひらを見せる。
「やめるのか?」
「やめとく」
真田とマヤは同じタイミングで微笑した。彼女が薫に言った。
「命の駆け引きは、一日一回で十分よ」
フカマチ・マヤ 彼女が追うのは
真田は彼女に手錠をかけるように、薫へ指示した。戸惑ったが、彼女の方ですすんで両手を差し出した。さっきのことといい、見た目は小娘の癖に、こうしたことに慣れきっている感じだった。
(何者なの、この子)
「君のお守りはもううんざりだって、担当者がぼやいてたぞ」
真田は言った。かなりブロークンな文法の英語だった。彼女もそれに流暢な英語で答え、しばしなにかのやり取りをしていた。雰囲気からして、彼女は純日本人だが、こちらの言葉にもともと慣れないらしい。英語の会話の方が自然に聞こえる。そう言えば、会話に独特の、変な間があった。
向こうの法制用語などが混じって全容は掴めなかったが、二人は足元のブラジル人の処遇について、議論しているようだった。真田はやがて、日本語で薫に言った。
「澤田森田も、確保したそうだ。まずは、戻ろう。・・・・・・・顔合わせも済んだし、一息入れるか」
怪訝そうな顔で二人の様子を見ていると、マヤと目が合った。たぶん向こうも同じ気持ちで薫を見ている。
「君らは同じ、補充要員だ。不満があったら先に言ってくれ」
「彼女は、何者なんですか?」
ずばりと、薫は聞いた。奇妙だがそれしか聞きようがなかった。真田は返事の変わりに、苦笑して、
「そいつは車の中で説明する。まずはここを出よう」
と、ふと、下でのびているブラジル人に目を移した。
「こいつにも手錠をかけておいてくれ。トランクに押し込む。このブラジル人はサンパウロと、アメリカの二つの州で窃盗、強姦で二桁近い容疑が掛かってるそうだ」
さっさと、真田はいなくなった。薫は、手錠をかけられた偽の女子高生と怪しいブラジル人と所在無く、置き去りにされた。
「かけたら?」
マヤが、真田から預かった手錠を差し出してくる。自分だけ、不公平だと言うように。ひったくるように受け取って、薫はそそくさとブラジル人をうつぶせにすると、後ろ手に回して手錠をかけた。
「・・・・・君たち」
助手席ではなく、後部座席に座ることを薫は要求された。気まずい二人は、会話もなく横並びになった。背後から無数のヘッドライトの列に照射されながら、棺桶のようなトランクに一人を載せて夜の明治通りを三人は走っていた。
「どっちも黙ってないで、自己紹介位したらどうなんだ?」
「・・・・・・わたしは」
と、声を出したのは薫だった。隣ではなく、バックミラーに映る真田の鼻から上と額に向かって言う。
「不審な点は一切ありません。説明が必要なのは、彼女だけじゃないんですか?」
「あたしも、あなたにとってなんの不審もないと思うけど」
見ての通りの女子高生だと言う風に、手錠つきの少女は言った。
「どうも、君らは自己紹介の趣旨を理解してないようだな」
「わたしは警察官です。説明しなくても身分は証明されています」
「手帳を見せて」
歌うように、マヤは言った。手錠をした彼女を薫は睨みつけた。見かねて、真田が割って入る。
「先に言っとくが、薫、おれの班での君は、彼女と動いてもらわなくちゃならない。君も知っての通り、菅沢を使って動いていたのは彼女だ。事件の裏表の情報交換は、十分にしといてもらわなくちゃ困るぜ」
「彼女が何者か、真田さんが納得いく説明をしてください」
「分かったよ。じゃあ、三つ、確実なことを教えてやる。一つ、彼女は分類上、警察官でもなければ日本人でもない。二つ、北浦真希は実在するが、彼女は北浦真希ではない。三つ、北浦真希について以外でも重要なことは、彼女から聞け。以上だ」
「ねえ、あたしからも質問していい? 彼女が新しいお守り役?」
「捜査のパートナーだ。誤解しないでくれ。君も知っての通り、彼女は君と同じ事件を追っていた。だから、君の邪魔をしたりはしないし、むしろすすんで協力を仰いでくれて構わない。彼女は、水越薫。美琴の事件を担当した警視庁捜査課の人間だ」
「だからあたしを追ってたのね?」
マヤは、いたずらげに薫を見て、言った。
「よろしく、薫。・・・・・あなたとなら、話が合いそう」
「大人をからかうのもいい加減にしなさい。ふざけてるの?」
薫は言った。運転席の真田が苦笑して肩をすくめた。
「確かに、薫、君のが年長者だし、この国では常識人だ。彼女は北浦真希よりは年上かもしれないが、まだ、未成年ではあるだろうからな。君が折れるべきだぜ、マヤ」
「分かったわ。祖国の諺ね。郷に入っては・・・・・」
「郷に従え」
理解したと言う風に、マヤは肯いた。
「と、こんな感じだ。生まれて初めてきた、祖国の常識を彼女に色々と教えてやってくれ。・・・・・これ以上彼女に、数ある重要な日本の法律を破られないうちにな」
ブラジル人を引き渡した後、味のない会食をして二時間、薫はいつもの自分の部屋に戻ってきた。いつもと同じでそこは、とても静かだった。
「・・・・・これから、しばらくはここね?」
マヤは当たり前のように言って、さっさと上がりこんできた。
どうして、こんなことになったのだろうと、薫は考える気力もなかった。何者とも分からない人間を、泊める羽目になるなんて。
「シャワーを借りるわ」
言うと、場所も聞かずに彼女は、シャワールームに直行しようとした。
「ホテル暮らしだと浴びれないときもあるから、本当に助かるわ」
「あなたの泊まってるホテルに、どうして帰らないの?」
「無駄なお金がないわ。それに」
モデルのような早さで服を脱ぎながら、マヤは言った。
「毎晩泊めてくれる人を探すのも、大変でしょう?」
「どう言うこと?」
「来る前にリサーチした通り」
脱いだ服を広げてみせて、マヤは言った。
「この服を着て、夜中まで歩いてると、誰かは泊める場所をくれるって声をかけてくれる。・・・・便利だけどその都度、代価を要求する相手を、黙らせる方法を考えなくちゃいけないでしょう? 脅すのも縛り上げるのも、さすがに疲れたし」
・・・・・・家出少女か。しかも、送られ狼。
マヤの所持品は、薄いショルダーバッグがひとつ。中には、フラッシュメモリに身分を偽ったと思われる完全なパスポート数枚、携帯電話の他は、怪しいものは何も入ってはいなかった。ただ、明らかに女性のものには見えない、何枚もの空の財布を除いては。
(・・・・・日本のどころか、普通の人の常識を持ってるかどうかも怪しいわ)
まったく、なにを考えて、真田が言う、海外の連絡機関は彼女みたいな危険人物を派遣したのだろうか。皆目分からない。そうだ、金城に・・・・・こんなこと、相談できるはずがなかった。
「かいつまんで概略だけ、説明しよう」
二人の女性に食事を取り分けながら、真田は、言った。
「彼女はうちと繋がりのある、米国の連絡機関が派遣してきた、特別捜査員だ。とある極秘システムの捜索、秘密の保持、それに関するすべてのデータの破却がその任務になっている」
「特別捜査員?・・・・・彼女が?」
怪訝そうな顔で、薫はマヤを見た。真田に言われるまでもなく、どう見ても彼女は未成年だ。
話の途中だ、と言うように、真田はそれには触れず、
「詳細は言えないが、向こうの国防総省が開発した、内外の情報収集のための極め付けのプログラムと言っておこう。悪用されれば、世界の情報システムに、壊滅的な打撃を与えることも可能な代物だ」
「もう、実際一度、本国では悪用されてるけどね」
皮肉げな口調でマヤが口を挟む。
「・・・・・ああ一年前、このシステムは不正に使用され、全米の国民のあらゆる個人情報にハッキングして改ざんすると言う、前代未聞の情報テロ事件が起きた。プログラムの名前をとって、国防総省のデータには、TLE事件とファイルされているケースだ。・・・・・簡単に言うと彼女は、そのとき、現地CIAとFBIの合同捜査チームに参加して、事態の収拾に努めた経験のある、関係者の一人なんだ」
真田の言うことはすべて冗談だと言うように、マヤは薫に思わせぶりな視線を送った。
「彼女は、この未曾有の事件の解決に非常に重要な役割を果たした人間だ。このシステムの悪用がどれほど深刻で危険なことなのか、彼女に聞けばなんでも分かるだろう」
仕向けられて仕方なく、マヤも口を開き、
「当時そのプログラムはさまざまな組織に悪用されて、電子化した個人資産や金融情報を盗まれたり、マフィアやカルト教団などが殺害した人間の身元を消し去ることなどに使われたわ。・・・・・・流用した人間は、もともとシステムの開発者のチームで、最初から別の、ある計画のためにこのプログラムを作ったんだけど」
「事件でそのチームの人間は残らず死に、データは回収された。しかし、彼らの活動によって無数のデータの断片が特殊に暗号化されて、全世界に流出していたことが、最近分かったんだ」
「あたしたちはプロジェクトチームを立ち上げて、事件後ずっと研究、監視活動を続けている。・・・・・・流出したそのデータについてはそれ自体にまったく意味はなくて、プロテクトを取り去ってすべてを再構築したところで、そのプログラムの復活は理論上不可能だと言う結論が出てたものなんだけど」
「・・・・・どうもこの日本に、プログラムを復活させた人間がいるかも知れないんだ。その人間は無意味に散乱した無数の破片から、もとの形の器を創り出してしまった可能性が高い」
「そんなこと可能なんですか?」
「理屈はいつまで経っても、理屈さ。理論上構築されえないものは、芸術と同じように、人間の感性ひとつで突然、誕生させられるものだ。マヤ、おれは可能性と言ったが、君の予定外の単独調査の結果で、結論は出たんだろう?」
ええ、とマヤは、こともなげに肯き、
「可能性は確信に変わった。でも詳細は、後日」
「おれの考えでは成田空港で取り逃がした神津良治が、そのプログラムの再生に一枚噛んでる。やつは、五年前、三つの広域暴力団の資金三百億円をさらって、ずっと行方を晦ましてたんだ」
「じゃあ、真田さんの考えではその神津はそのシステムの再生に、持ち出した莫大な資金を注ぎこんだ、ってことですか?」
「ああ、そうだ。マヤを派遣した機関からの情報提供で、やつはこの莫大な情報量のシステムの断片を回収することが目的で、三百億をさらったってことが分かったんだ。一ヶ月前の成田空港の貨物係の殺人もそのデータ絡みで起きたらしいってこともな。ちなみにそんときパクられたデータは、泰山会が神津をおびき寄せるために、香港人のハッカーから五億で買ったものだったそうだ」
「泰山会はそこまでして神津を?」
「ああ、三百億さらわれた三つの組の中で、もっとも損害を被ったのが、東日本最大の広域暴力団、泰山会だった。東南アジア諸国のどこかに逃げ込んだらしい神津を追い続けていたのは、ここの直系だけだったらしいからな。うちが確保した例の若頭は、五年ぶりに入国する神津を、どうにか押さえようとしたところだったみたいだ。誰かの下らない捜索に時間を取られずに、おれが直接指揮をしてれば、二人ともパクれたんだけどな」
揶揄する真田の視線に、澄ました顔でマヤは、食事を続けている。真田はため息をつくと、次の一言で話をしめた。
「日本中のやくざから奪った三百億だけで途方もない話に聞こえるだろうが、もしシステムの完全な運用が再び可能になれば、三百億ほどの資金なら、すぐに回収できる。おれたちが追ってるのは、馬鹿げた話だが、本当に、そう言う代物でね」
「タオル、借りたわ」
洗い髪をタオルで拭いたマヤが、顔を出した。
「あと、シーツや着替えも借りられたら、うれしいんだけど」
「待って」
と、薫は、言った。
「ソファも貸して欲しかったら、わたしの質問に答えて」
「なにを?」
濡れたままの足で堂々とフローリングを徘徊しようとするマヤを水際で押し止めて、
「あなたが何者でなにをしたいのか、まだ答えてもらってないわ」
「真田が話したと思うけど」
「あなたの口から聞いた憶えはないの」
タオルで髪を拭きながら不思議そうに、マヤは首を傾げた。
「あなたは北浦真希じゃない。それは分かった。でもそれ以外にはすべて、わたしが抱いていた疑問は解決されてない」
「彼女は無事よ。ちゃんと保護してある。明日、案内しながら、説明するわ。どこかに埋めたりしてないから安心して」
「嶋野美琴と野上若菜は、あなたのせいで死んだの? 本当にあなたは殺人事件に関与していない? わたしに納得いく説明が出来るのね?」
「答えはノー。ここですぐ詳しい説明をしろと言うのにも、あたしが二人を死に追い込んだ張本人だと言うあなたの説にもね」
「ここで身の潔白を証明するのは無理だけど、明日になったら出来るって、あなたは言ってるの? この事件について、あなたの知っていることを、すべてわたしに話す?」
「イエス」
はっきりと言ってから猫のようなあくびをして彼女は肯き、
「約束する。でも、今は出来ない理由はもう一つあるの。眠くて、これ以上難しい話はしたくない。ベッドも着替えもいらないわ。・・・・・シーツだけ貸してもらったら、もう寝ていい?」
「大丈夫?」
闇の中、マヤの声がささやくように響いた。彼女は本当にソファを使わず、部屋の入り口辺りの壁を背にして、膝を抱えて眠っていた。ベッドサイドのかすかな明かりに照らされて、マヤの影が、薫を見下ろしていた。
「あたしの目をみて。・・・・・この前と同じ。すぐ、楽になる」
と、彼女は言った。悪夢の余韻に鼓動を持て余しながら、薫は指示に従う。
「・・・・・どうして」
なぜ。彼女の言うとおりにすると。悪夢はなりをひそめる?
「・・・・・話が合うって言ったでしょ?・・・・・あたしたち、色々な意味で、話題が尽きなそう。朝まで話しててもいいけど、今日はもう、寝るわ。・・・・おやすみ」
「ねえ、これだけ答えて。・・・・・イズム」
薫は、言った。マヤの口にした、言葉だ。
「もしかして、それがあなたの追ってるプログラムの名前?」
「正解は半分。残りはさっきも言った・・・・・また、明日」
入ってきたときと同じく、なんの音も気配もみせずにマヤの影は立ち去っていった。
もう一人のマキ 生贄ゲーム
『北浦真希を確保した?』
金城の、怪訝そうな声が耳に刺さる。
『それよりお前、本当に大丈夫なのか?』
「なんとかね」
薫の処分についての件は、真田が処理してくれたらしい。呼び出しの話が、知らぬ間に有耶無耶になっていた。
『お前、公安と動いてるんだろ』
「事件からは降りてないわ」
『無茶はしてないだろうな』
「・・・・・今のところ、わたしはね」
起きだしてきたマヤを見やって、ため息をつきながら薫は言った。
「・・・・・前に言ったとおり、彼女が事件について有力な情報を握ってることは確かだから、彼女を連れていく。指定の場所で合流しましょう」
困惑気味ながら、金城は承知してくれた。
「で、そっちはなにか、変わったことはない?」
『満冨悠里が姿を晦ましたぞ。・・・・・野上若菜の病室にも一回も、顔を出さなかったそうだ』
「ほんと?・・・・・・困ったわ。彼女の自宅は押さえた?」
『・・・・・いや、それは無駄骨だった。悠里は両親の都合でマンションにほぼ一人暮らしらしいんだが、若菜が手首を切ったあの日に前後してマンションを引き払って、その後の彼女の足取りも判らなくなってるんだよ』
「・・・・・彼女の両親と、連絡はつかないの?」
『実は悠里の両親は、医療関係のシステムを開発するベンチャー企業を経営しているんだが、資金繰りのため頻繁に海外を飛び回ってるらしくてな。まったく連絡が取れない状態だ』
「・・・・・ついに満冨悠里までも、行方不明とはね」
薫の不審な視線をよそに、マヤは勝手に用意を整え、コーヒーを淹れている。すでに薫が買ったことも忘れていた、ブルーマウンテンブレンドのパックをどこからか見つけてきて、念入りに豆を挽いている。通販で買ったあの挽き器も、その気になったのは一回だけで、面倒くさくなって仕舞った場所すら忘れた品だ。
『お前の読みではその真希って子が、犯人かも知れないんだろ?』
「うん・・・・・実は、それなんだけど、もしかしたらそうじゃないかも知れないのよ」
『なんだよ、自信ないのか?』
「そうじゃないんだけど・・・・・なんだか、よく分からないのよ、これから自分でも、どうしたらいいか」
『・・・・ともかく、北浦真希って子から話は聞けるんだな?』
「うん、それはなんとかね」
ただ問題は。ここに一年も住み着いたような顔をして、あそこでコーヒーを淹れている女の子は北浦真希じゃない。どう言うわけか、似てるけど違う。しかも、事件の張本人ですらないらしいことだ。
「接触に成功したら、折り返し電話する。・・・・・・話はともかく、そのときにね」
『次は、あんなことにならないように気をつけてくれよ』
「・・・・努力する」
電話を切った薫の鼻先に、コーヒーカップが突き出された。
「あ、ありがとう」
釈然としない何かを抱えながら、薫はそれを受け取った。
「満冨悠里が消えた? 本当に?」
突然、マヤは聞いてきた。
「ええ・・・・・なんと自宅ごとね」
「・・・・・そう、不思議」
そのつかみ所のない反応からは、相変わらずなにも読み取れない。
「埋めたりはしてないのよね?」
彼女は肯いた。湯気の立った自分のカップに口をつける。
「薫と池袋で待ち合わせた日、彼女も来ていたはずよ」
「野上若菜と一緒に、あなたが呼び出した?」
「ええ」
と、彼女は言った。
「本当に上手く、二人には逃げられたわ」
「若菜は昨夜の真夜中、亡くなったそうよ」
「そう」
「なんとも思わないのね」
「どうしてそうなったのか分かるし。今さら驚くこともない」
「あなたに責任がまったくないって言える?」
「自分の命に責任を持つのはどんな場合も、自分しかいない」
マヤは静かな口調で言うと、肩をすくめた。
「・・・・・朝食は諦めるわ。もし、あたしと感性が合わないと思ったら、ルームシェアも諦めてもいいけど」
別に絡む必要もなかった。苦笑して、薫は首を振った。
「そこまで言ってないし、朝食はわたしが作る。・・・・・それと、着替えが間に合わないなら、貸してあげるから、下着くらい替えなさい」
「ありがとう。武士道ね、薫」
「あなたには助けられたから、昨夜も。それにあなたを追い出したりしたら、援助交際と居直り強盗を認めることになるでしょ?」
「・・・・・『敵に塩を送る』?」
「あなた、わたしの敵なの?」
答えを言わずに、マヤはクローゼットのある部屋に引っ込んだ。
マヤの淹れてくれたコーヒーは、最後の一口がもったいなくなるほど、美味しかった。薫が淹れたものとどうしてこれほど違うのか、不思議だった。薫は何年ぶりかで二人分の食事を作った。
時間通りに、金城はやってきた。
「思い切って、貯まってた有給取ったよ」
若菜の事件で、マスコミが騒いでいる。警察は動きを封じられていると思ったが、遺留品や事件現場の捜索など仕事は多いのだ。
「ごめんね」
薫は言った。薫が紹介する前に、マヤが手を差し出す。
「フカマチ・マヤ。・・・・・よろしく」
「彼女が北浦真希じゃないのか?」
金城は昨夜、薫がしたような顔をした。
「説明すると長いんだけど、実はそうなの。彼女が・・・・・その、本当の北浦真希の居所を知ってるそうよ」
マヤは普通の高校生の少女のように、メールをチェックしていた。
「真田は遅れるって。たぶん、なにか緊急事態ね」
「なんだよ、あいつも来るのか?」
まったく、最悪のタイミングで真田の名前が出た。
「あたしは彼に報告義務がある。薫と、あなたが持っているほとんどの疑問にも答えられると思うわ。真田には居場所を返信したから、先に行きましょう。真希が入院してる病院に、案内するわ」
「なんだって、入院?」
声を上げながら金城は、マヤが告げた電話番号をカーナビに入力した。当たり前だと言うように、マヤは答えた。
「彼女、レイプされそうになったのよ。ダメージは大きいわ」
「君じゃなくて、本当の北浦真希がか?」
「ええ。・・・・・薫、昨日、実行犯を確保して真田が送検したでしょ? あなたも立ち会ったはず」
「え、ええ、でも確保したのは澤田と森田の二人でしょう?」
「ブラジル人もね。あと、一人も、すでに確保してある」
検索完了した地図は、確かに病院の住所を示している。金城は車を走らせた。シートに座った途端、マヤは眠そうな顔になる。
「あなたが、彼女を助けたの?」
「そうよ。わけあって、うちのチームが早くから嶋野美琴をマークしてたの。・・・・・こんなことになったから、北浦真希になりすまして捜査しようって言うのは、あたしのアイディアだけど」
「つまり事件が起きてから、わたしが会っていたのは、ずっと、あなただったってことね?」
「そう。楽しかったわ。学校なんて行ったの、生まれて初めてよ」
「この子、何者なんだ?」
「わたしにもよく分からないから、聞かないで」
金城は近眼になったような顔で助手席のマヤを見る。
「しかし、本当に写真の北浦真希とそっくりだな」
「念のため言うと、顔はいじってないわ。あたしも驚いてるの。あたしがしたことは、身分と制服を借りたことだけ」
誰も想像もしないだろう。まさか本当に、別人だったのだから。
「例の七人ってやつかな」
「・・・・・自分だったらと思うと、ぞっとするけどね」
「七人って?」
「こっちの話」
「この世界には最低七人は自分とそっくりな人間がいるんだと」
言わなくてもいいのに、金城が言い添えた。
「それって、日本の諺?」
「どうなのかな」
「なんでわたしに聞くの?」
怪訝そうな薫に比べて、マヤはひどく嬉しそうに言った。
「へえ・・・・・それならあたし、もう二人も見つけたわ。薫もあたしに、よく似たところがあるの」
「どうかな、それ・・・・金城、変な目で見るのやめてよ」
真に受けたのか金城は薫とマヤの顔を交互に見て、しきりに難しい顔で首を傾げていた。
それほど時間もかからずに、ナビが案内したのは救急医療にリハビリセンターのある都内の病院だった。
「なあ、彼女、本当に話を聞ける状態なのか?」
薫が言い出すより先、金城が心配になってきたようだった。
「平気よ。たぶん、発見が早かったから」
マヤは、そっけなくこう答えただけだった。薫と金城は、顔を見合わせた。
北浦真希の病室は空だった。ちょうど、精神科に診察に出ているところらしい。怪我よりもむしろ、精神の傷がまだ深いことは、間違いなさそうだ。マヤの話では未遂とは言え、複数の大人の男たちにら致されて乱暴されかかったと言う事実は、すぐには癒えがたいものだ。やがて、リハビリ担当のOT(作業療法士)に付き添われて、入院着姿の北浦真希が歩いてくるのが見えた。
「真希、元気にしてた?」
「マヤちゃん、来てくれたの?」
遠くからマヤが声をかけると、真希は嬉しそうに駆け寄ってきた。手を握り合って親しげに近況を話し合う様子は、同じ年頃の女の子たちがしているのと、そう変わりはない。
「マジかよ・・・・なんか、気味悪いな」
「・・・・・ちょっとね」
確かに一見したところ、服装が違うだけで、二人の背格好はびっくりするほどそっくりだ。ただ、薫が同性の目でよく見ると、マヤの方が身体つきも身のこなしもしなやかな感じで、大人っぽいのに対して、真希はまだ固さが残り、下手すると年より幼い印象を与えた。入れ替わっても誰にも気づかれなかったのはもしかすると、よっぽど普段、真希の存在感が稀薄だったからかもしれないとも思う。
似た種類の花でも、野生のものと地下室の蛍光灯でひっそりと栽培したものでは、雰囲気は大分変わるものだ。
マヤにはこの年頃の少女にはまったく不似合いな、まったく違う経験を経て培われた、厳しい、なにかがある。
そこまで分かるはずもない金城は唖然とした表情のまま、鏡に映したような二人が親しく話している不思議な場面を見守っている。
「大丈夫、心配しないで。・・・・・眠れるようにはなったし、大分気持ちも楽にはなってきたんだ」
と、真希は言ったが、もともと血の気の薄そうな顔は、青白く、表情も伏し目がちに見えた。
「今朝、電話で話したとおり、刑事さんを連れてきたわ。警視庁の水越さんと、金城さん」
同じ、唇がしゃべる。
「北浦真希です・・・・・・あの、みこちゃんの事件を調べてる刑事さんですよね?」
「そうよ。初めましての気がしないけどよろしくね、真希さん」
薫と金城は習慣に従って手帳を見せた。
「外で話しましょう。今日はちょっと長くなるけど大丈夫?」
「・・・・・平気。怪我ももう、治ったし」
洗面器に張った水のように動じないマヤの声に比べると、真希の声はおどおどとしていて、常にうかがうような響きが感じられた。よく見ると、やはりまったく空気感の違う二人だと薫は思った。
真希を伴って、薫たちは外に出た。連れ出しの際、OTから現状を聞いた。真希は幸い、レイプを受けたわけではなさそうだった。発見時の多少の擦り傷と打ち身、それに、外傷体験のショックと心理的な緊張で不眠が続いたために、発熱を起こし、ここ数日、退院が延びてしまったのだと言う。
「今日は、まず、いい話を持ってきたの」
マヤは、バッグからプリントアウトした写真を取り出して、学校の連絡係のように、真希に手渡した。
「あなたの事件の犯人を昨日、全員確保したよ。主犯の澤田の顔は知らないだろうけど、残りは、あなたが全員顔を知ってると思うから、確認してね」
「うん・・・・・ありがとう」
真希は写真を受け取った。
「証言するのが辛いようだったら、はっきりと言って。あたしも現場にいたし、グループの一人の自白も録ってあるから、彼らを有罪にするのに、なんの問題もないと思う」
「ありがとう。でもねマヤ、あの、そのことなんだけど・・・・・」
「薫、話をする前に最初に言っておくけど、真希の無実についてはあたしが証明する。前にも話したとおり、彼女は事件が起きる三日前に拉致され、救出されてからずっとこの病院にいたわ」
「ええ、彼女が無実だってことは分かった。でも」
「この子を襲わせたのは、本当に嶋野美琴たちなのか?」
「そうね、あたしが調べたところでは間違いない。事実よ」
「でも一体、なんでそんなひどいことをさせたんだよ?」
「そう、一番重要なのは、そこ。これからあたしが説明する。死んだ野上若菜か、満冨悠里を連れてくれば、薫たちにももう少し早く、説明できたんだけど」
「ねえマヤ、今、なんて言ったの?」
真希が驚いて、尋ねた。若菜のことだろう。薫が事情を話した。
「野上若菜は、昨夜、亡くなったわ。・・・・・池袋の公園のトイレで、手首を切って・・・・・そのまま、病院で」
「ウソ・・・・わかちゃんまで・・・・・本当に?・・・・」
血の気のひいた真希の顔は、ショックでさらに白くなった。伏せた瞳にじんわりと、涙がにじんでいく。その様子からして、真希は美琴にも若菜にも、もともと決して、悪い感情を持っていなかったことが十分見て取れた。
「二人とも、一年のときは仲良しだったのに・・・・悠里ちゃんが来てから・・・・・なんで?・・・・どうして・・・・・」
真希は混乱したようにつぶやくと、瞳を潤まして顔をゆがめた。
「ねえ、なにが起きたの・・・・・真希さん。彼女たちと、あなたの間に。あなたたち、本当は仲良しだったんでしょう?」
薫が出したハンカチで目元を拭うと、真希は無言で肯いた。みたところ、彼女はしばらく、筋の立った話は出来そうになかった。
「真希は三人の生け贄にされた。結果を簡単に言えばね」
淡々と、マヤが話し出した。
「彼女の事件は限定されたあるゲーム、厳格なルールを持っている。三人は賭けてたのよ、第一に、設定した条件どおりに、犯行が成功するか。次に、暴行を受けた彼女が、何日で自殺するのか、ね」
「なんだよそりゃ・・・・・それは、本当の話か!」
「事実よ。実行犯の一人が、ここの別の病棟に入院してるわ。あたしに、鼻と右足を折られてね。今日、真田に引き渡す予定だったんだけど、彼から直接、話を聞いてみる?」
「ああ、案内しろ。そいつをパクって直接話を聞くよ」
「待って」
そいつを確保する前に、殴りかかりそうな金城を押さえて、薫は言った。
「ねえ今、ゲームって言った?・・・・・・わたしも、その言葉に聞き覚えがあるわ」
「そうよ、今あたしは、ゲームと言った。これはあるルールに則った厳格なゲームなの。・・・・・ルール違反には、容赦なく罰ゲームが課せられる。チップは、自分の命」
「分かった・・・・・美琴が死んだのはその罰ゲームのせい?」
「そう。・・・・・彼女はやり損なった。真希をあたしが助けたから。ダイスは破滅に向かって、振られた。・ISM=イズム、これがゲームにつけられた、あたしが知る限り唯一の名前よ」
マヤのかけひき
今、ロビーに到着したと、真田から連絡があった。
「遅れて悪いな。・・・・ちょっとした緊急事態でね」
憮然とした視線で、金城は薫に話しかける真田を睨みつけていた。真田はそれをまったく気づいた様子もなく、真希に声をかけた。
「君が本当の北浦真希か。話は聞いたよ。君に危害を加えた人間は、すべて確保したから安心してくれ」
「あと一人、あたしが尋問した人間が下で寝てるわ」
「そいつはもう、同行に手配した。随分、手荒い真似をしたそうだな。奴らはマフィアじゃないんだ、次は優しくやってくれよ」
「OK、反省する。次は丁寧に、繊細にね。・・・・『過ぎたるは及ばざるが如し』?」
「そうだ」
叱られても聞いていない子どもの顔で、マヤは肯いた。
「で? 話はどこまで聞いた?」
「彼女・・・・真希と嶋野美琴の事件の関連までです。・・・・・彼女たちの事件の原因になった、・ISMというゲーム?・・・・のことについては、まだこれからです」
「ああ、それならちょうど間に合ったな。おれもマヤから、よく聞きたかったところだ」
「真田は菅沢から、話は聞いてると思ってたけど」
「それが、まだなのさ。事件の背景から、うすうすは分かるがな。・・・・・ここからいなくなった、マヤを探すだけで、時間が手一杯だったんだ。で? ゲームがどうした? プログラムTLEは、事件にどんな風に関わっている?」
「大丈夫よ、その点についてはほとんど話せるから。・・・・・・真希、あなたの方は、まだ大丈夫なの?」
「平気。夕方お父さんが退院の手続きで迎えに来るまで、もう、なにもないから」
「ちょっと待て、なにがゲームだ」
そのとき金城が、耐えかねたように声を上げた。
「ふざけてるのか? 人が死んでるんだぞ? 大体、どうしてそんなもんが、殺人事件と、どう関係あるんだ?」
「そこで帰るのは自由よ。でも、警察が犯罪の温床を放っておくような真似をしていいの? こうしている今も、・ISMは裏サイトを侵食して、犯罪を生み出し続けているんだけど」
「でたらめだ」
マヤは、驚くべきことを口にした。
「TLEプログラムそれ自体は、もともとはあらゆる情報機器を支配する、退治不可能なウイルスみたいなものなの。ネットとの相性は抜群にいいし、本体の容量は驚くほど極小だから、電子の渡れない場所は人の手を介せば、どんなことでも出来るわ。TLEの開発者エラ・リンプルウッドも、ネットを通じて何十億ドルもの他人の個人資産を流用した。こう言えば危険性は分かる?」
「御託はもういい! いいか、これは、殺人事件なんだ」
「それならあなたのレベルで、話をし直してあげる」
マヤは携帯電話を取り出すと、ネットにつないだ。現れてきた画面を見て、薫と金城は凍りついた。
そこに、全裸のまま吊るされた、嶋野美琴の爆死遺体の写真がアップされていたからだ。引きで撮られた全身のショットに続いて、顔を正面から映したもの、爆破された下腹部の生々しいアップには、さすがに二人も継ぐ言葉を失った。
「この事件だけじゃないわ。他のも見る? これは真希がさらわれたのと同じ日にあった、横浜の学習塾での散弾銃乱射事件の映像」
「やめろ、なんでこんなものを見せるんだ」
「よく見ておいたほうがいい。これらは、現場であなたたちの鑑識課が写真を撮るより、以前のもっとも犯行直後に近い写真だから。つまりすべて、事件の犯人が撮った映像なの」
「・・・・・なんのためにこんなことを?」
「彼らは犯罪を実行するための計画を、この・ISMを利用して立て、その結果をこうして送信しているの。成功したプランにはその条件、難易度、戦利品の多さにつき、代価を得るためのポイントが与えられるシステムになっている」
「代価だって? こうすりゃ、賞金でも出るって言うのか?」
マヤは、首を振った。
「得られるのは情報よ。・・・・・ミクロでは個人のメールや通話記録から、マクロでは、世界的な金融市場の動向を左右するメッセージまで。ここにはあらゆる犯罪計画を成功に導く、莫大な情報ネットがある。・ISMはこの世界に溢れかえる情報を、不特定多数のユーザーに、無分別に分配する裏の情報配信サイトなの」
「いかれてやがる・・・・・一体、誰がどんな目的でこんなことをやってやがるんだ!」
「・・・・・それを突き止めるのが、あたしたちの任務よ。現時点では、このサイトがなんのために出現したのか、管理者の意図も所在も、まったく掴めない状況なの。唯一の確実なことは、・ISMには再生され、しかも改良されたTLEプログラムが使用されていることと、そもそものTLEプログラムの復活に、十日前に入国して、行方が判らなくなっている神津良治が関わっていると言えることくらいね」
「さっきもマヤが言ったように、TLEプログラムは人の手を介せば、どこにでも侵入が可能な、究極の情報テロ兵器だ。こうしてネットに顔を出しているにしても、デバックして居場所を突き止めることは、ほとんど不可能だろう」
「追うには、ハードとソフト、両面の観点が必要になる。電子上の彼らを追いかける能力と、リアルな存在としての彼らを追いかける能力」
「その通りだ。マヤ・・・・・彼女がうちに貸し出された理由は、実はそこにあるんだ」
「本国の事件のときのように、どれほどあたしの力が有効かは、本当に未知数だけどね」
「謙遜するなよ。暴行を受ける前に、北浦真希を助け出すことが出来たのは、君の能力があったからだろう?」
「・・・・・さっきから何を話してるのか、おれには今いち分からんが、もう沢山だ」
マヤにではなく、真田に向かって吐き捨てるように言ったのは、金城だった。
「おれら捜査課にとって重要なのは、嶋野美琴事件の被疑者を挙げて事件を解決することだけだ。携帯裏サイトだか、ネットだかで犯人を募ったらしいが、そいつらを探すのに捜査に今のところなんの支障もないんだ。わけの分からん話はよそでやってもらおう」
「別に、君の管轄だとは言ってはいないがな」
「北浦真希の暴行に参加した犯人の一人が、この病棟にいるんだろう? そいつはうちで引き取らせてもらうぞ」
「それこそ、権限外だ」
「おれはそうは思わないね。いいか、そいつらは一つの暴行事件に関わっている。被害者になったのは、死んだ嶋野美琴の同級生だったんだぞ。次に似たような事件が起きたら、それにも関係していると考えてもおかしくはないだろうが」
「彼らは、その、嶋野美琴に雇われたんだがね」
「前の一件はやりそこねた。ターゲットを変えて、やり直しを考えたって不思議はないだろう?」
「やめて、金城」
聞くに耐えず、薫が口を挟んだ。
「真希さんがここにいるのよ」
その言葉で我に返り、金城は、はっとした。真希がいるのだ。彼女も息を詰めて心配そうに、ことのなりゆきを見守っている。
「と、とにかくだ」
金城は、これだけは譲れないと言うように真田を見据えて言った。
「こいつはもともと、おれたちの追ってたヤマだ。そっちに薫をくれてやるのには目をつぶるとしても、事件の参考人を確保して話を聞くのは、こっちに優先権があるはずだ」
「困ったな」
やれやれ、と言った調子で、真田はマヤと視線を交わす。
「こっちとしても早めに澤田を落としたいところなんだ。やつと、失踪した満冨悠里は、神津良治と直接繋がっている可能性が高い」
「満冨悠里から話を聞きたいのは、こっちも同じだ。見つかったら彼女もこっちに先に回してもらう。ネットで集めたって言う実行犯の手がかりが出たら、あんたらに渡してやるよ」
「ねえ、金城。真田さんたちは、わたしたちの敵じゃないわ」
見かねて、薫が割って入った。
「薫、お前は黙ってろ。おれだってボランティアでお前を助けてるわけじゃないんだからな」
金城は、いつになく強引だ。薫も止めようがなかった。
「ねえ。だったら、こうしない?」
膠着状態を破って、マヤが口を開いた。
「要は、あなたたち捜査課は、実行犯への手がかりが欲しいんでしょ? 殺害現場も特定できず、犯人につながる物証も乏しい今だから、少しでも容疑圏内にいる人間から話を聞きたいと考えてる」
「ああ・・・・・まあ、そうだな」
相手が真田ならともかく、金城も反論の手が出ないようだ。
「でも恐らく、あなたたちが満冨悠里を確保したとしても、現時点で彼女に容疑を認めさせ、美琴殺害に関わった実行犯まで自白させることが出来るほどの証拠が揃っているとは、言いがたい。・・・・・違う?」
「それは違う。自白するかしないかは、おれたちの腕次第だ」
「ただの、じゃないにしても満冨悠里は高校生で、しかも、死んだ嶋野美琴の親友で残された最後の一人よ。野上若菜のことがあった後で、物証もなしに引っ張ることは、あなたが納得しても、世論が許さないはず。もし出来たとしても、証拠も乏しい状況で無理やり引っ張ってきた彼女に、逆に違法捜査で訴えられる羽目になったら、もう二度と悠里は叩けなくなるわ。双方の捜査にとって、これは取り返しのつかないデメリットになりうる。これはどう?」
「う・・・・・・」
理路整然としたマヤの話に、金城は否定することも、抗議することも出来ずに黙り込んでしまった。
「そこで、提案があるの。こちらに、真希の事件の容疑者を先に渡す代わりに、あなたたちを嶋野美琴の殺害現場まで案内するわ。ここ数日、天候もほとんど変化もないから、実行犯を特定する微細証拠もまだ無事なはずよ。どう? それで手を打たない?」
「・・・・・そんな話が信用できるか。大体、どうして君に嶋野美琴の殺害現場が分かるんだ?」
「すぐに見つかるわ。あたしならね」
「馬鹿な」
「馬鹿な話じゃないさ」
口を開いたのは、真田だった。
「彼女の能力、SSELなら見つかる。言っとくが確実に、だ。これは、おれの手帳を賭けたっていい」
「どうする? 手を打つ?」
金城は、しばし躊躇った後に、口を開いた。
「本当に君に現場を、案内できるんだな?」
マヤは、はっきりと肯いた。
「今から、日が暮れないうちにあなたを案内する。証拠が冷める前にね。早く、証拠採取に必要なメンバーを呼んで」
金城は電話を取り出すと、真田を睨みつけ言った。
「手帳を賭けてもらうぞ。おれも面子が掛かってるんだからな」
「好きにしろ。それより、君が負けたらなにをしてくれるんだ?」
「・・・・・あんたの言うこと、なんでも聞いてやるよ」
売り言葉に買い言葉の約束をして、金城は、電話を掛け始めた。
「あんな約束して、本当に大丈夫なの?」
薫はマヤに聞いた。彼女はどんな場合もけろりとしている。
「なんの問題もないわ。あたしの能力と、薫が協力してくれれば」
「わたしは構わないけど・・・・・能力って? 真田さんがさっき言ってたSSなんとか?」
「SSEL。薫にも素質があるよ。悪夢、見たんでしょう?」
「え?・・・・・ええ。でも、あれで現場は分からなかったし」
それに、マヤのお陰か、すっかり、悪夢はなりをひそめている。
「見つける方法がある。だから、心配しないで。・・・・・それにもし、見つからなくったって」
マヤは、薫をいたずらげに見ると、言った。
「別に、命まで賭けてるわけじゃないし」
まだ誰か見ている
「なかなか、面白い取引をしてくれたな。まさか、向こうが乗ってくるとは思わなかったが」
真田が言った。金城がいなくなった方向をみて苦笑していた。
「警官と駆け引きするのは楽でいいわ。・・・・・・彼らは、人種問わず、ものの考え方がみんな大体一緒だから」
「せいぜい、おれも気をつけよう。君に出し抜かれんようにな」
真田は苦笑を浮かべて、肩をすくめると、
「まあ、取引は上出来だ。彼らに君の力を見せるいい機会だ。・・・・・ところで、さっき面白いことを言ってたな」
「薫のこと?・・・・・ああ、そうね」
「まさかマヤ、本当に彼女にも、君と同じ能力があるのか?」
真田は意味ありげに、薫を見る。
「たぶん、間違いないと思う。薫の中には嶋野美琴の・・・・・彼女の最期の時間が、詳細に、読み取られているはずよ」
マヤは肯いた。彼女もちらりと薫のほうを見る。
「薫、あなたが緊張する必要はないから安心して。薫はあたしの言うとおりにしてくれればいいだけだから」
「うん・・・・分かったけど・・・・でも、本当に大丈夫なの?」
警察でも、いまだに手こずっている美琴の殺害現場を発見する。そんなことが今から数時間の間で本当に出来るとは思えなかった。
「刑事さん、あの・・・・・わたし」
様子を見守っていた真希が、思い出したように口を開いた。
「あ、ごめんなさい。北浦さん。もう中に戻っても平気よ。・・・・・わたしたちの話で大分辛い思いさせちゃったでしょう?」
「・・・・・いいんです」
真希は気丈に首を振って言った。
「それより、さっきの携帯、わたしも見ていいですか?」
「大丈夫?」
「大丈夫です・・・・・わたしも、何か協力出来ることがあるかもしれないし」
マヤが同じサイトに繋いで、電話を手渡した。
「・・・・・ここ」
真希は、凄惨な写真に顔をしかめながら、言った。
「知ってます。・・・・・・悠里ちゃんが教えてくれた・・・・・でも、全然、こんな、危ないサイトなんかじゃなかったのに」
「あなたも・ISMを知ってたの?」
はい、と真希は肯いて、
「これ、最初は占いのサイトだったんです。自分で簡単なルールを作って、ゲームをするの・・・・・横断歩道を渡るとき白い線だけを踏んで渡るとか、電車で三日連続同じ席に座るとか・・・・・それで自分で、成功した証拠の写メやムービーとかを送ると、ポイントが貯まって、いろんな占いが出来るんです」
「今も、基本は変わってないわ。会員登録をして、決められたフォームに、自分でルールを課したゲーム内容を入力する。いつまでに? どこで? 誰が? 何をするのか? やったことに応じて、ポイントが貰えるわ。それで、取得できる情報のレベルが変わる。相性占いから天気予報・・・・・恋愛相談から、各種個人情報、誰かのある日のメールの中身までね」
「で、株の不法取引から殺人まで自由自在ってことか」
「どんな計画を立てて、どんな情報を得ようと考えるかは、ユーザーの自由よ。ただもちろん、情報の重要度によって、やり遂げなければいけない内容も変わってくるの。・・・・・そして失敗した場合、その代価も比例して大きくなっていく」
「・・・・・みこちゃん・・・・・わかちゃんやゆりりんと一緒になって、どんどんはまってっちゃって・・・・・それで、学校のみんなに悪いことさせたりしてたのも知ってました。・・・・・わたしも、怖かったけどもう・・・・・誰も何も言えなくなってて」
「最後はあなたの命を使って、ポイントを稼ごうとした。・・・・『清算』で払う代価はもっとも厳しいわ。彼女のすべての個人情報が、あらゆる犯罪計画を募る裏サイトで取得可能になっていた」
「ネットをうろつく、あらゆるサイコ野郎の餌食か」
「そんな・・・・・・」
真田の一言が、真希に衝撃を与えた。
「確かにひどいことされたけどわたし、こんなの望んでないよ。こんな・・・・ひどい・・・・わかちゃんまで・・・・・どうして?」
真希の声の終わりは、涙で掻き消えて聞き取れなかった。美琴の写真の次のページには、手首を切った、若菜の姿もアップされている。まさか、と薫は今になって思い当たった。
若菜が掛けてきた、最期の電話。本当は、若菜は、死ぬ気などなかったのだ。彼女が死ぬ前に薫が、あそこにたどり着くことが彼女のゲームだったのだ。『清算』を逃れるために、いちかばちか生還を賭けた、若菜のラストゲーム。彼女がチップを張った生存に、ボールは、ついに落ちることはなかった。
「野上若菜が助からなかったのは、薫の責任じゃないよ」
薫の考えを見透かしたかのように、突然、マヤが言った。
「若菜にこの方法で、追及を逃れるようにそそのかしたのは、満冨悠里だし。悠里には若菜を生かす気がなかった。もっとも手っ取り早い方法で彼女が証人を始末した。ただ、それだけのこと」
「わたしが来たときはまだ、息があったわ」
「自殺にみせかけてバスタブで殺されたマリリン・モンローはどんな方法で、致死量の睡眠薬を飲まされた?」
真意が読めない、と言う風に薫はマヤを見返した。真田が答えた。
「泥酔させて、肛門から睡眠薬を入れた。だから遺体に、無理やり飲ませた痕跡が残らなかったのさ。・・・・・頭を使えば、若菜が助からないようにするやり方はいくらでもあるってことだ」
「じゃあ満冨悠里は一体、どこに行ったって言うの?」
「さあな。それを追うのが、おれたちとマヤのこれからの仕事だ。今言えるのは、満冨悠里はまともな方法では見つかりそうにないと言うことかな。君はマンションごと彼女が消えたのだと思っているようだが、正確には一家まるごと消えたようだ。悠里の両親が経営している会社ごとな。・・・・・八年前資金繰りが破綻して事実上倒産したこの会社には、香港経由で神津良治の金が入っている」
「真希を除けば、実質、TLEプログラムに近いのは、満冨悠里かもね。出来ればこのまま、彼女を追いたいわ」
そのとき息を切らして、金城が駆け戻ってきた。
「今さらもう、後には退けんからな」
「どうする? 後には退けないらしいぞ」
手帳を賭けている真田は含み笑いをしながら、マヤを見やる。しかし彼女は、余裕ありげにただ、軽く首を振っただけだった。
「キャンセル料まで、持ってはくれないんでしょ?」
鑑識課員を連れた警察車両が到着したのは、真希を病室に帰してほどなくのことだった。
「やる前に説明が欲しい。あんたの言う、SSELと言うのは、どんなものなんだ?」
金城は今や、真田の敵意を、マヤにまで転化しかけているように見えて、ちょうど間に立つ薫には居たたまれなかった。
「陳腐な言い方をすれば、超能力さ。・・・・・わけあって公にはされていないが、彼女は全米でも屈指の、特殊な力を持ったESP(超能力捜査官)だ」
「・・・・・捜査官とは、ちょっと違うんだけどね」
真田の定義に引っかかったのか、マヤは少し顔を曇らせた。
「テレビが呼ぶような、霊能力者とかじゃないだろうな」
金城は失笑を口元に含みながらも、いぜん、苦い顔だ。
「探せるのは、ここまでだって言われても困るぞ」
「地上の人間なら、誰でも探せるわ。死んでる方も、生きてる方もね。一番得意なのは、逃亡者よ。文字通り、地の果てまで追いかけたこともあるわ」
「若いのに、仕事熱心なんだな」
金城が皮肉ったのに、マヤは、くすりともせず肩をすくめるだけだ。真田が言った。
「彼女の前職を知れば、仕事熱心なわけが君にも分かるさ。君だって、命がけで仕事をしようとしたことは何度もないだろ?」
「もういい。大体、そんな話をしてる時間はないんだ」
どこかかみ合わない会話に辟易したように、金城は言った。
「失敗したらなによりまず、薫をこっちに返してもらうからな」
「分かったよ。忙しい彼らを出動させた責任も全部おれが持つ」
「・・・・・もてもてだね、薫」
にやにやしながら、マヤが薫の方を見る。薫は声をひそめて、
「・・・・・うるさいな」
「じゃあまずはどうする? 嶋野美琴の最終目撃証言のあった場所まで、案内すればいいか?」
「別に、その必要はないわ。GPSかナビがあれば、それで十分。あ、あと必要なのは、薫よ。彼女が、現場発見までの唯一の手がかりになる」
「でも何度も言うけど、わたし、一部を見たって言うだけで、そこがどこかなんて、分からなかったのよ?」
「大丈夫。意識化されていない情報が薫の中にはまだ、あるの。あたしならたぶん、それが精確に読み取れると思う。・・・・・何度も言うけど、薫にも、あたしと似たような素質があるんだよ?」
「始めてもらおうか。おれらもそれほど暇じゃないんだ」
「分かった。・・・・・その前にまず、あたしが頼んだものは用意してくれた?」
「スケッチブックと鉛筆だろ? 病院の売店にあったよ」
金城から受け取ると、マヤはそれらを一旦、下に置き、
「薫、ちょっといい?」
と、薫を自分の前に座らせた。マヤの白い、しなやかな指先が冷たくこめかみをくすぐって、薫の顔を引き寄せる。薫のほとんど鼻先に、マヤの、子猫のように小さな顔が迫った。二人の距離はほとんど、吐息が触れ合うくらいになった。
「リラックスして」
薫の緊張を見透かしたかのように、マヤは冗談を言った。
「大丈夫よ、突然キスしたりはしないから」
笑えない冗談だ。マヤは同性の薫がどきっとするほど、美しい顔をしている。これほど近づけば、その気がなくても、どこか居心地の変な気分にはなるに決まっていた。
「安心して、悪夢を見るのはあなたじゃない。・・・・あたし」
そのまま、しばらく、マヤは身じろぎもせずに薫の瞳を覗き込んできた。呼吸をしていないのか、さっきまで甘く香ってきた吐息すらも感じなくなった。マヤの言ったとおり、薫の体調にはまったく変化は起こることはなかった。そのお蔭か、薫はマヤの瞳に吸い込まれるほど魅入られる錯覚にとらわれた。
長い睫毛に囲われた、その大きな瞳は、よく見ると不思議な輝きを放っている。
それは漆黒に煙る、月明かりにゆらめく深淵のように。
薫の意識化していない感覚のすみずみまで、引き込まれそうに感じさせた。
そのとき確かに、薫は今自分がどこにいるのかを失念した。
次の瞬間。一気になにかが、薫を現実の感覚に引き戻したのだ。
「・・・・・いいよ。もう、平気」
マヤの声が響いた。彼女の声は少しかすれていた。
「どうなんだ」
顔を離した彼女は、小さく肯いた。振り返りもせず、言った。
「すぐに案内するわ。車を出して」
大きくひとつ、ため息をつくとマヤは立ち上がった。
嶋野美琴の殺害現場と思われるドライブインの廃屋が発見されたのは、それから二時間もしないうちのことだった。車内でスケッチブックになにかを無心に描きこみつつ、マヤは、金城の車を誘導していた。金城が用意したB4の鉛筆でなにかに取り憑かれたように画用紙の上を形作りながら、その指示は驚くほど的確だった。
現場を鑑識課員が調べる間に、半信半疑だった金城も、こびりついたままの血痕や組織片、犯行に使われたと思われる遺留品が発見されると、見る間にマヤを批判する言葉すら失ってしまった。
中でも飛散した起爆装置の一部と思われる焼け焦げたプラスティック片は、遺体から採取した別の断片とひと目で一致して、重要な証拠になりそうだった。繋ぎ合わせた爆弾の完全に近い断片から、一気に製造元を特定できる可能性が広がったからだ。
「他の証拠は、科研に持ち帰ってみないとまだ分からんがな」
金城は誰にともなく、負け惜しみをぼやいた。しかし、聞いていたのは、どちらに転んでも、どこか気まずい顔の薫だけだった。
「約束どおり、証人はもらっていくぞ。この現場から出た証拠についても、後で情報をもらう」
「分かったよ、好きにしな。約束は守るよ」
金城は、苦い顔で言った。しかし、マヤには単純に驚いたらしく、
「しかし本当にどうして、分かったんだ?・・・・・・まさか、本当に霊能力とかじゃないだろうな」
マヤは首を振ると、
「SSELは、Scanning Sensory Extracted Locatification.つまり他人の感覚記憶を掘り起こして、自分の視覚記憶として再構成する能力よ」
「感覚・・・・・記憶?」
「感覚記憶とは、人間が保持できる記憶のうち、もっとも保持期間が短い、感覚器自身が保持した記憶のこと。五感が脳に伝えるうちでこれらの記憶はその重要度に応じて反復され、まず短期記憶として貯えられ、もっとも忘れてはいけないものは長期記憶として、脳の海馬から大脳皮質に焼き付けられるそうよ。あたしの能力は、感覚器・・・・・とりわけ、視覚を司る眼球から、意識下に失われてしまった、もっとも原始的な記憶を再構成するためのものよ」
金城は明らかに理解不能の顔で首を傾げた。
「よく分からん」
「・・・・・つまりパソコンで言えば、削除された一時保存のメモリをハードディスクから再生するソフトウェアみたいなもの。一瞬で失われた印象や知覚の切片を、再びつなぎあわせて復活する。SSEL・・・・・あたしたちの間では、Still Some Eyes Looking(まだ誰か見ている)って、言ってたんだけどね」
「学術的には不明だが、現実利用には事欠かない代物だ。FBIには未確認のものも含めて、ほぼ十歳前後から、彼女の活動記録があるらしいからな」
「なあ、それで? 薫にも同じことが出来るのか?」
なぜか期待をこめた目で、金城は薫を見た。
「それはどうかは分からないけど、同じ素質はあると思う。あたしは視覚だけだから、読み取る人間の目を見なくちゃだめだけど、薫は別の感覚器でも、他人の記憶を知覚してるみたいね」
「悪夢・・・・・・?」
「そうね、驚いたわ。もとの自分の五感まで、すべて覆い尽くしてしまう。出来たら、何度も体験したくない感覚だと思うわ」
本当に死んでしまうかと思った。ほとんど、自分が体験した現実のようなリアルさだった。
「あたしは嶋野美琴の目から読み取る機会がなかったから、薫がいて本当に助かったよ。お蔭で早くから、満冨悠里に目をつけることも出来たんだし」
現場が見つかったことで、本部に連絡もとったので、一旦金城は報告のため車に戻ることになった。一転して大手柄を稼いだ金城は、真田に絡んだことも忘れ、ひどく上機嫌だった。
「・・・・・本当、馬鹿みたいに単純なんだから」
能天気な金城の後ろ姿を見送りながら、薫はため息をついた。
「骨のある男は嫌いじゃないさ。・・・・・それに、変な強情さで言えば、あいつと君はいい勝負だ」
苦笑混じりのため息をつくと、真田は言った。
「それより、驚いたよ。マヤと同じ能力のせいで、死んだ嶋野美琴の記憶に苦しめられていたのなら、なぜ早くおれに話してくれなかった?」
「・・・・・信じてもらえるわけないと、思ってましたから」
この感覚は今だって、他の誰かに説明しがたい。金城ですら、マヤが現れなければ、いまだに薫の見た悪夢のことは半信半疑だったに違いなかった。今思うと、マヤがいなければ、死んでいたか、気が変になっていたかも知れなかったのだ。
「で?・・・・薫はもう、本当に大丈夫なのか、今は」
「もう平気よ。あたしが、薫にプロテクトをかけたから。長時間、死の恐怖にさらされた、ストレスの強い記憶よ。・・・・・早いうちにあたしが気づいてなかったら、精神に異常を来たしていたと思う」
「あなたの言うとおりね。本当に感謝するわ、マヤ」
マヤは、片目を細めてみせて軽く、肯いただけだった。
「それにしても、あなたはどうして大丈夫なの?」
「あたしは、慣れたから。物心ついたときから、やらされていたら自然と、見なくていいものを見ない考え方も身につくわ」
そう言う、マヤの口調はこともなげなものだったが、そこまで行き着くのには、薫が体験したものの何百人分、またはそれ以上、想像もつかないくらいの他人の感覚記憶を長い間、くぐってきたからに違いない。
水のようにとりとめない彼女の真にある、なにか絶対的な空白のようなものの正体に薫はようやく思い当たった。そうなのだ。この年齢にして彼女がその胸に抱え込んだものはまさしく、他人の死や、その他、無限に流入してくる情報への達観なのだ。
「この仕事を始めたのは、八歳からだし。それに司法取引のお蔭で、あと二十年は世界中で人探しをやらされそうなの」
「司法取引って・・・・・どうして?」
「だってあたし、もともと犯罪者だから」
マヤはきっぱりと、薫が想像もしない前歴を語った。
「彼女の前職は職業テロリストさ。大戦中、米国に日本人が創り上げた情報機関が前身らしい。マヤはこのチームの工作員の娘に生まれて、ずっと、マフィアの抗争の手助けから、内外テロ組織の破壊活動にまで手を貸してきたそうだ」
「お蔭で逃亡者を探すのは今でも得意なの。・・・・・それと、鉛筆を使ったスケッチも仕込まれた」
と、言うと、マヤはずっと脇に抱えていたスケッチブックの中身を見せた。さっきまでの捜索に一度も使われることもなかったその中には、B4の鉛筆一本であれほどの短時間に描いたとも思えない、精巧なスケッチ画が何枚も収められていた。
薫は思わず息を呑んだ。写真のようにリアルに構成された構図にではない。そのモチーフにされたはずの実際の風景、それらすべては薫が、美琴の最期の記憶の中で体験したものと寸分違わないものだったからだ。
中でも膝をついてこちらを見上げる構図の、男の顔は薫の胸を心臓ごと締めつけるほどの強い衝撃のあるものだった。
「・・・・・鶴見」
ほとんど無意識だ。耳朶に残ったその男の名前が、喘ぐような拒否反応とともに、彼女の唇のあわいから、滑り出てきた。
「この男の名前?」
マヤの問いに、薫は細かく震えて肯いた。
「美琴を殺した男たちの中に一人・・・・・いたの。薬物に精しくて・・・・・もしかしたら、医療従事者かもしれない」
「すぐに照会しよう」
「金城にこの似顔絵のコピーを渡して、そっちに調べてもらった方がいいんじゃない?」
マヤの意見はもっともだった。
「・・・・・そうだな」
スケッチブックを薫から受け取りかけて、真田は手を離した。
「じゃあ、これは君から彼に直接渡してくれよ」
真田の胸で携帯のバイブ音が響きだした。
「おれだ。・・・・・どうかしたか?」
席を外すことも忘れ、真田は飛び込んできた一報に聞き入った。
「分かった。折り返し指示を出す。それにしたがって動いてくれ。指示を待つように他の班にも伝えろ。・・・・・・悪いが、おれは今すぐここを去らなくちゃならない。後は、よろしく頼む」
「どうかしたの?」
「緊急事態さ。さっきは、そう言ってここへ来たが、今度はどうやら、本当の緊急事態のようでね」
話しながら真田は急いで、二つ、短い指示の電話を掛ける。
「神津良治の帰国で、国内のその筋の奴らがうるさくてね。実はこっちの情報ルートで、都内にいるはずの神津の潜伏先を急襲するための襲撃チームが、新宿の事務所に集結したって話だったんだが」
さすがの真田の顔にも、緊張感が走っていた。
「・・・・・到着した精鋭の武闘派構成員十人全員が、さっき新宿の事務所で何者かに、殺害されたそうだ」
クワ・ハル
また、パトカーの音だ。これで何台目だろう。さすがに少し、敏感になり過ぎてはいる。過剰になるのは、仕方がないが、それにしても実際、多いことは確かだ。三十分。いや、十五分もしないうちに、四、五台は連続して通ったように思う。
自分だけが感知できるゆるく淀んだ静寂の中で、満冨悠里は、薄く目を開けた。おざなりなあくびが、まがい物の眠気を一瞬で吹き飛ばす。この三日、同じ感覚が、ずっと続いているのだ。昼夜の区別なく、ひとつの魂が悠里の中で、無休のまま奔り続けていた。
テーブルに置かれた携帯の呼び出しランプが、淡く光っていた。よく寝ようと思っていたので、着信音もバイブもすべてオフに設定してあった。眠ろうと決めたのは、それでも、この二、三時間のうちだ。日に日に意識がひどく研ぎ澄まされてきて、目を閉じても眠りの帳は、悠里の身体に降りてくる兆しすら見せない。
さすがに人を殺したのは、初めての経験だった。
それも自分がよく知っている人間に、直接手を下したに近いやり方を使って。目の前の命を奪うのは、思いのほか大きなストレスだ。今まで、・ISMに関わってきた人間が、死に追いやられてきた過程にいくつか関わってきたが、これほど強烈なものはこれまでにない。
血・・・・・止まんないよ・・・・・助けて、悠里。
今わの際。強い力で手首を掴まれた。振りほどくのに、覚悟がいった。悠里を呼ぶ若菜の声を、薬で滑らかに均した、純白の神経の壁に塗りこめてかき消していく。
「・・・・・・・・・・・」
もう一度大きく、悠里は息をついた。
実は今。かりそめの眠りに落ちていく中で、悠里は二人の夢を見ていた。美琴が、話しかけてきた。若菜が、笑っていた。もう丸二年近く、三人はどこに行くにも一緒の親友同士だった。美琴も若菜も、悠里を信頼しきっていた。それなのに。
(いや、そんなわけない)
夢から醒めてはっとすると、悠里は、顔を伏せて首を振った。
(くだらない・・・・・・わたしはいつも一人だ)
もともと、一人。諦めろ、誰も助けてはくれるはずもない。
短い人生の大半を悠里はずっと、自分ひとりの力で生きてきた。
父親の会社が莫大な借金を抱えて倒れ、神津良治のものになったのは、悠里が九歳のときだった。
仲間内で集まって起こしたと言う父の会社は、新進気鋭のベンチャー企業で上場も早かったが、設立当初から内紛が絶えず、私腹を肥やした社長が、再起に十分な退職金を握って辞めた後で、悠里の父は、なし崩し的に取締役を押し付けられていた。
就任と前後するように、粉飾決算の件が明るみに出ると、大口の株主が一気に手を引き、会社は存亡の危機に立たされた。資金繰りに苦難する父親を尻目に、かつての仲間だった社員もほとんど居なくなった。そんなとき手を差し伸べてきた神津良治に、父はすべてを委ねたのだ。度重なるプレッシャーとストレスで、すでに父は心身ともに疲弊しきっていた。なによりもこの地獄から、一刻も早く逃げ出すことが、彼の唯一の突破口だったのだ。
悠里自身も、それを否定する気にはなれない。今さらだ。黒い資金を使えば、その場で白紙委任状を書かされる。正直なところ、優柔不断で押し出しも弱い父に、会社を率いていく意志も器もないだろうとは、今なら納得できる。恐ろしいのはその資金で、会社ばかりでなく、あろうことか、自分の娘まで売り渡してしまったと言うことに過ぎない。
(でも・・・・・絶対つぶされない、わたしは)
誰かのいいようにされるような人間になるのは、ご免だ。
常に、利用する側でいたい。
障害はすべて除く。邪魔する人間は絶対に許さない。
美琴を使って仕切っていた売春ビジネスも、実はそろそろ新しい展開に向かおうとしていたのだ。・ISMで取得できる情報レベルが上がれば、顧客になっている人間の素性まで調べ上げてもっと確実に利益を吸い上げることが出来るようになるはずだった。
例えば、警察官や政府関係者などの客を引き入れて利用すれば、危機管理の面でも運営は磐石になる。そのために何人か、ターゲットになりそうな顧客にも目をつけ始めていたのに。
(まだ再起のチャンスはある。このまま・・・・・だって、そもそもこれは、わたしのミスじゃない)
北浦真希の件での誤算は仕方ないとして、許せないのは別にいる。嶋野美琴を潰して、意図的に悠里のテリトリーを侵した人間がいるのだから。
誰のせいかは察しがついている。
きっととか恐らく、ではない。絶対にあいつのせいだ。
「・・・・・クワ・ハル」
悠里は、眉をひそめて、その男の名前をつぶやいた。
神津良治からの返信。
指示に従って二十三時半に、待ち合わせる。
緊急時に使えといわれた、無骨なデザインの飛ばし携帯に思わず悠里は顔をしかめる。
歩きながら内容を反芻する。相変わらず、神津は詰まらないことまであれこれ細かい指定を出してくる。
ビジネスホテルを出ると新宿から、JR中央線東京行きに乗って、御茶ノ水駅に。二十二時を過ぎて、新宿界隈は不穏な緊張が漂っていた。電車の臨時ニュースによると、新宿でどこかの組事務所に襲撃があったらしい。パトカー数台を動員しての大騒ぎはそれが原因だったのだ。つり革にもたれて目を閉じる悠里に、二人の親友の影はもう見られない。
髪を下ろして眼鏡も替え、少し濃い目に化粧をしてリクルートスーツを着た悠里は、季節柄、就職活動中の短大生くらいに見える。
御茶ノ水駅を明大方面に出る。神津の指示に従って、コインロッカーを開けると、そこに入っていた登山用の大きなズックを取り出して、中身を確認する。
三十分後、明大近くの漫画喫茶から、キャップを目深にかぶって、青いパーカーとジーンズの髪の短い若い男が坂を上って、日本医科歯科大方面に向かって歩いていった。背中には重たいズックを背負っている。変装した満冨悠里は、その荷物の中身を聖橋下の藪の中に投げ込むとズックを背負い、また道なりに下っていった。
軒並みシャッターを下ろした秋葉原の商店街は、真夜中の静寂に沈んでいる。シャッターの全面にアニメのキャラクターが描かれたメローイエローやオレンジの建物群は、動作を指定してないCGの背景のように、無機質なものに見えた。
左手にJR秋葉原駅。信号を無視して、悠里が車道を横切ろうとしたそのときだった。
アクアブルーのサンルーフ付バンが、悠里の鼻先に突っ込んできて、急停車した。フィルムを張ったパワーウィンドウの向こうで、髪を後ろに束ねて、革ジャンを着た男が、拳で軽く窓を叩いている。コンコン=助手席に乗れ、と言う意味だろう。そのまま、悠里は目の前のドアを開けかけた。
「荷物」
いつのまにか耳になれた神津の少し高い声が、響いた。バッグを助手席に置け、と言う意味か。
「お前は後ろや」
まるで悠里の方が荷物であるかのように、神津は言った。瞳に青い、カラーコンタクトを入れて若作りしている。バッグを置くと、悠里は後部座席から乗り込んだ。すると反対側の窓にもたれていた髪の長い女が、悠里の顔をじろりと睨みつけてきた。
「誰?」
悠里は怪訝そうに聞いた。もちろん、無言の女にではなく、運転席にいる神津に、だ。今、お前に話す必要はない、と言う風に、神津は手を振っただけで答えもしなかった。
「今まで、全然連絡もなしでなにを?」
次の質問を、悠里はぶつけた。依然、神津は黙って、対向車もないのに右にウインカーを出しただけだ。
「手間が掛かる」
ハンドルを切りながら、吐き捨てるように神津は言った。反射的にかっとして、悠里は言い返した。
「あんたの息子ほどじゃない。大体、今回のトラブルには」
「踏み外したのは君らやないか」
「へまをしたのはわたしたち。それは確かに認める。でも、いい? よく聞いて」
悠里の背後にいる別のなにかを睨むように、フロントミラーから神津は視線を向けた。
「わたしたちはあんたの言うことを聞けば、・ISMを使って好きにやっていい、ってその話のはずだった。手に入れたものはわたしの自由。不当な侵害には、代価を払ってもらう。わたしの仕事には、それだけ要求する権利があるはずよ」
「悠里、ちょうど今、お前も言うたな」
神津は、淡々と話に割り込んだ。
「・ISMはおれがこの世界に張り巡らせた、有史以来初の実体ある神の知性や。そのルールは厳格にして公正、すべての人間が・ISMから真実を借り出すときにはその代価を払う。そして、代価に合わない真実を借り出したときには、その罪を『清算』する。このルールにはたとえ、おれでも例外はないはずや。違うか?」
「わたしが言いたいのは、美琴がしくじったことじゃない。代価を『清算』それ自体にも、決まりがあるはずだって言うことよ」
悠里は怒りをあらわにして、食って掛かった。
「ルール違反じゃない。『清算』に、管理人が参加していいわけがない」
神津は物憂そうに首を傾げるだけだった。
「あいつは勝手に動いてる。あんたの知らないところで。・・・・・やくざとこれ以上、トラブルを起こす気なんか無かったはずよ、あんたが言ってたんじゃん。お蔭で、色んなやつにわたしたちも追いまわされるようになった。・・・・・その結果が、これよ」
ふーっ、と大きく神津はため息をついた。対向車が放つハイビームの照り返しを受けて映る半眼からは、インドに三年修行に行ったようなひげ面のせいもあって、なにも読み取れない。吸いさしのラークマイルドを、意地汚く摘み上げると、ライターで火を点ける。
「確かに、一ヶ月前のあの件は、おれは指示しとらん。あれを別に手に入れたところで、現行のシステムにはなんの影響もないものやからな。でも別に、やくざに手ぇ出すなとも言うてないしな」
「殺されるのはあんただから、こっちには関係ないけど」
「だろうな」
脅しは効かない。そう言うように、神津は肩をすくめた。
「あいつが動いとることは、なんとなく感じてたよ。まさか表に出て好き勝手やってるとは思わんかったがな。ただお前に連絡出来へんかったのは、別にやくざが怖くて逃げ回ってたわけじゃないぞ」
「あんたが本当に怖いのは、警察でしょ?」
煙を吐いて神津はカーナビのテレビをつけた。繰り返される緊急ニュースが画面に飛び込んでくる。ヘリコプターが空撮する、パトカーや機動隊に囲まれた不穏な建物の中で死亡した十人の泰山会組員の名前が呼び出される。これが、ここへ来る途中、新宿で大騒ぎになっていた、事件の真相か。
「おれかて、苦労してんねや。日本に、東京に、帰ってくるっちゅうことはこう言うことやさけな」
いつのまにか停車した車で、神津は、言葉を失った悠里の顔を振り向いて眺めている。マリンブルーの瞳に点った光の底は、暗い深淵のように、くすんだ殺気を彼女に向かって放っている。
「これ・・・・・あんたが・・・・・・?」
神津は曖昧な笑みを浮かべると軽く首を振る。悠里の肩越しに女が見ていた。そいつも神津とそっくりな、どす黒い殺気を放っていた。すぐに悠里は直感した。まさか、この女が?
「案内して、悠里ちゃん」
自分の携帯電話を渡すと、神津は言った。
「・ISMから返信が来てる。そいつで、あいつの居所探して」
二時間かけて、江戸川沿い、荒川区を走った。京成線の線路脇の古いビル群をたどって、ひと際黒ずんだ三階建てのコンクリートビルを発見した頃には、すでに日付が変わっていた。
「・・・・・ここか」
神津は、通行する車のない車道に立つとビルを見上げて言った。
蔦に覆われたビルの一、二階を陣取っている『東亜包装』は、もともと神津が買い取った休眠会社の一つだった。とっくに休業した会社を買い取った神津は以前ここで、人を雇って身元確認のビジネスをやらせていたと悠里に話した。
郷里の親元から電話が掛かってきたときに、どこに勤めているとはっきり言えない風俗嬢などが利用するのだと言う。こうした電話での照会に、依頼者がきちんとした会社に社員として勤めていることなどを証言してやる、いわゆる身分保障業だ。
「今は廃業したの?・・・・・誰もいないじゃん」
悠里は曇りガラス越しに、真っ暗な中を覗き込んだ。
「ああ、たいした金にはならんかったからな。・・・・・ただ、二階から上が住居だから、一時身の置き場がなくなったときの隠れ家にしたり、脱税の隠れ蓑に使ったり・・・・・思ったより使いでがあってんけどな」
短くなった煙草の吸殻を道に落とすと、神津はドアに手をかけた。
「鍵」
「・・・・・持ってないの?」
「ミョンジン、お前、鍵開けるの得意か?」
二人に続いて、のろのろと車を降りてきた女に神津は話しかけた。この女、韓国人なのか。悠里はそこで初めて気づいた。
両手を広げると、女はつっけんどんにこう言った。
「わたしには無理。道具ない。・・・・・壊したら駄目?」
「ああ、ここじゃちょっと・・・・誰か来るかも知れんしな」
「じゃ、無理。・・・・・わたしたちには」
言うと、女は無人の車内をなぜか振り返った。
「じゃあ・・・・・おれしかないか」
神津は、ため息をついて言った。ガラス戸脇の、小さな耐火シャッターに手をやる。
「こいつの鍵はちゃちだから、なんとかなると思うんだがな。悠里ちゃん、針金とかなにか、持ってないか?」
悠里はにべもなく、首を振った。地面すれすれの位置にある鍵穴の前に顔をつけて、神津は無意味に唸っている。
「壊しちゃえば? そっちなら大した音もしないと思うけど」
悠里がそう言った、その直後だった。女が、つかつかと歩いて神津の真後ろ辺りに立ち位置を決めた。女は年齢三十前後、バイクスーツのようなもので身を固めている。筋肉質の体型で脚も長く、どう見ても一七〇センチ以上上背があり、モデルのようだった。
なにをするのかと見ているといきなり、その女が蹴った。神津の頭の真上のシャッターを、だ。ムエタイのように軽く飛び上がって、全身のバネをフルに使う強烈な蹴りだった。駐車場で接触事故を起こしたような音がして、安手のシャッターは、くしゃくしゃに歪んでいく。二発目も、まったく同じ軌道で女は蹴った。真下に手が入る大きな隙間が出来るまでにそれほど、時間は掛からなかった。
「おい、もうええ」
あわてて、神津がシャッターを持ち上げる。バキバキとへしゃげながら、どうにか屈んで通れるくらい、シャッターが持ち上がった。
「もうええて・・・・・おい・・・・中入るぞ」
女は平然と後に従った。そのとき。なぜか悠里の方を、相変わらず冷たい視線で見返してきた。
「まったくいらん手間、かけさせよる」
暗闇の中で神津が言った。
「あいつの行動全部におれは責任持てんで」
今度は悠里のことを含んではいないらしい。
「・・・・・だが、常にあいつの所在は把握せな、な」
二階に一部屋、階段を上って三階にもう一部屋。それがこのビルの全体像らしかった。三階は物置にしているらしく、埃の降り積もった様子をみても、人の手が入った風は見られなかった。
神津は二階の部屋のドアを開けた。鍵が掛かっていないらしく、分厚いドアは軋むような金属音を立てて開いた。誰かいる。暗闇に気配がある。中からパソコンのハードディスクが動作する、かすかな音だけが聞こえてきていた。
玄関から右が、トイレと風呂場。畳を敷いた一間の向こうは、大きなサッシが嵌まっている。今は薄手のカーテンでぴっちりと、閉められていた。部屋は薄暗い。その隣の一間、入り口にまで本が積み上げられた部屋から、ディスプレイの明かりが、まるで深海魚のように息をひそめて灯っていた。
「おーい、クワ公。・・・・・お前、なにしとんか」
神津は明かりを探し出し、電気をつけると中に入っていった。腹立たしげにため息をつくと、首を傾げる。悠里は後に続いて、その理由を知った。部屋には、誰もいない。無人だった。
「出てこいよ。・・・・・おれやぞ」
立ち上げられたパソコンのディスプレイだけが、無情に光を放っている。海底探査船にスポットを当てられた、常闇の深海魚を思わせる。そこには深夜の秋葉原のシャッターと同じ、アニメキャラのCGが、稼動し続けていた。いつ来るとも知れない誰かに向かって、彼女は空しく右手を往復させる。
「なあ・・・・マジでおれから逃げる気やないやろな」
キャラクターの胸に、十個の紅い丸で形作られた、正三角形のシンボルが時折、見るものを挑発するように点滅する。神津の指が、そこを撫でるたびに、怖気を震うようにして、液晶画面がぶれた。
「・・・・・クワ・ハル」
神津は、いまいましげに、その男の名前を口にした。
石原の思惑
「停めろよ」
板垣賢は、その声にびくりと身体を反応させた。ハンドルを持った手が吊って、心もち車線が左にずれる。停めろと言ったのが、ラジオのことだと分かるのに、数秒のギャップがあった。板垣が手をやる前に、後部座席から伸びてきた腕が、カーラジオを停めた。
「すんません」
板垣は、背後の闇に向かって謝った。後部座席で窓にもたれている男は、彼が知る限り、この世界で一番おっかない兄貴分のはずだった。初老を迎えた石原征爾は疲れたような笑みを浮かべると、ひどく気のない声で、板垣を叱りつけるだけだった。
「前、見とけよ、馬鹿野郎」
それが、冗談混じりのふざけた声だ。
「向こう着く前に、おれをパクらせる気かよ」
「すんません」
誰に対しても石原がまったく怒らない理由を、板垣はよく知っていた。最近買い換えた携帯電話に、石原は夢中なのだ。石原の手にある、クリアホワイトの新機種は、今年十二歳になる石原の一人娘が、パパの五十歳の誕生日にと、贈ってくれたものらしかった。
二度目の離婚でも親権を失った石原は、横浜に住むただ一人の娘と、月に一回会えるか会えないかなのだ。そんな石原に、彼女は朝晩必ず一回はメールをくれると約束してくれたのだと言う。
(五十過ぎた極めつけの極道が一日娘とメールかよ)
最近では仕事中も電話をいじって離さず、下のものにも示しがつかないことも多い。絵文字が使えるようになったと、嬉嬉として話しかけてくるかつてない方向性の石原に、板垣は今のところどう言うリアクションをとっていいのか、いまだに分からなかった。
「美和のやつ、修学旅行だったらしくてよ、友達と撮った写真、送ってきてくれたんだ・・・・・見るか?」
「はあ・・・・・」
かわいい娘の影響とやらはとどまるところを知らず、最近の石原は、パソコンのチャットやブログにも興味を持ち始めている。組のブログを作ってもいいか、と半ば本気で相談されたときには、さすがの板垣も蒼白になって、ようやく一晩かかって諦めさせた。
(本当に大丈夫かよ、石原さんは)
石原征爾は死に体になった。実際、本家でもそう言われて久しい。
もともと人の扱いに長けた石原は、抜群に金儲けが上手かった。バブル時代の土地転がしから、不良債権の回収業、新規ベンチャー企業を食い物にした株式操作に闇金、違法カジノまで、金になりそうな仕事は、石原が適任の人材をどこからか見つけてきて、実に上手く使った。構成員を満足に食わせることが出来ない組が多い中で、石原の傘下だけは人材も充実していて、組員の結束も固かった。
神津良治の一件で失脚、東京を追われてから五年、石原組が持ち直してきたのは、板垣はじめ、幹部たちが死力を尽くしたからだ。
もしあのとき、神津良治と言うババを引き当てていなかったら、今頃石原は、本家でも誰も口出しできないほどの勢力を磐石にしていたに違いなかった。板垣を含めた数少ない古参は、石原の天下を夢見て、若い頃から稼業に精を出してきたものたちも少なくない。
特に板垣は、若いときから石原を知る稀有の弟分だった。無軌道としたたかさを兼ね備えた、全盛期の石原を誰よりも知っていた。
年齢とともに鷹揚さを身につけてからは、確かに別の面で構成員を惹きつけるものもあるにはあったが、板垣にしてみればそれは、本来の石原ではないと思わざるを得なかった。板垣の目には、石原が無理をして諦めの境地にいる自分を納得させようとしているように見えてならなかったのだ。
「なあ、おれは五十だぜ、板垣。もう、好きにやらしてくれよ」
そう言われれば、そうだと肯かざるを得ない。反論は出来ない。板垣だって、確かにもう、それほど若くはないのだから。しかし、だ。周りに言われているほど、まだ石原は腑抜けではないはずだ。若い頃の武闘派の面影がほとんどない今だって、そう、信じたい気持ちはある。
少なくとも、今、石原を追い落として東京の責任者をやっている東条秀人には、舐められたくはなかった。
「なあ、あと、どれくらいで着く?」
あまり、興味もなさそうに石原は聞いた。
「三十分ほどで着くって、東条さんにも連絡入れときました」
こんな時間にも拘らず、道は混んでいる。すれ違うパトカーを見るたびに、板垣のいらだちも自然と募ってきている。
「へえ」
「しっかりして下さいよ、石原さん」
まったく、見事なほどどうしようもない生返事だ。バックミラーに映る石原は、携帯から顔を上げようともしない。
「なんのためにおれら、本家から駆り出されたか分かってんすか」
「東条の後始末だろ、分かってるよ」
石原は面倒くさそうに、言った。
「・・・・・こんなときだけ、面倒は全部おれに押し付けようってんだから、笑わせるよな」
確かに石原の言い分も分からなくはなかった。神津が再び入国すると聞いて、新宿の東条はそれを本家に知らせず、単独の手柄にしようとひそかに手下を派遣したが、見事にそれを取り逃がしたばかりか、自身も偽造パスポートの所持がばれて、捕まってしまった。そうこうしているうちに、今度は事務所を逆に襲撃されたのだ。
「警察に踏み込まれる前に、事務所のやばいもんどっかに移しとかねえとな。どうも東条のやつ、この件に相当張りこんで武器仕入れてたらしいからな」
携帯電話でテレビのニュースを見ているのだろう、後ろから音声が入ってきた。つい、数時間前に起きた事務所の襲撃事件は暴力団抗争の発砲事件と言うことで、今夜のニュースは扱われ出しているらしい。出動した機動隊も、まだ包囲を解かず、現場は騒然としている様子が伝わってくる。
「しかし・・・・・本当に、相手は神津なんすかね」
「どうしてだ? そう思わない理由でもあんのか?」
「あいつがどれだけいかれてても、こっちに手を出してくるほどの度胸はないと思ってましたから」
「まあな。よっぽどのメリットがなきゃ、そんなことはしないさ。それに、確かにあいつはいかれたガキだが、度胸はなくはないよ」
理解出来ないと言うように、板垣はため息をついた。
「日本中のやくざ、敵に回してんすよ。それでどうして、こんな真似を?」
「理由があるんだよ。それがなんだかは分からねえがな。ただひとつ言えることは、昔からあの男は、無駄になるようなことは絶対にしない男だったってことだよ」
東条によると、事件が起きたのは、その日の夕方だったらしい。都内の隠れ家に潜伏中の神津良治を、夜中に急襲する予定で事務所に人員を集めていた。地下のガレージに武器弾薬を積んだバンを停車させ、ぼつぼつメンバーも集まってきた頃だった。
首班の東条は別の場所で仕事を済ませ、出撃前の日暮れに事務所に入る予定だった。事務所で発砲があったと聞き、泡を食って駆けつけてきたところで、集められた十人全員が事務所で殺害されているのを知ったのだ。
取るものもとりあえず、東条は、警察の組への介入を防ぐことを考えた。神津が香港や韓国の大物犯罪組織とつながりがあると言うことも警戒して、今度の出入りにはそれ相応に強力な武器を仕入れたりもしていたらしいのだ。
現行の法規では、銃器が発見されなくても、実弾十五発につき拳銃一丁とカウントして銃刀法違反になることになっている。泰山会は今、表立って抗争を抱えたりはしていないが、東京では敵対勢力も多く、警察のマークもうるさい。面倒なことになる前にまず、武器だけは処理したいと考えたのだ。
この一週間、石原たちは、神津の一件で本家から都内に呼び戻されていた。ただこの件については、新宿の東条がすべて取り仕切ることになっていたので、彼らのもとにはまともな情報も入らず、特に指示も受けずに、ふらふらしているしかなかった。封印していたはずの板垣の石原への不満が再燃したのも、古巣の東京でなまじ無為な一週間を過ごしたのが原因になっていたとも言える。
(このままだと本当にただのパシリじゃねえか)
こっちも、ようやくここまで持ち直した組の面子が掛かっているのだ。これでは、神津の身柄を押さえるのならば、と、わざわざ協力を申し出た意味がない。
(実際、石原さんはどう考えてるんだろう)
外を見ながら石原は生あくびなどして、まったく他人事に見えた。
「石原さん、どうも、ご無沙汰してます」
東条は、バンの前で待っていた。石原の四歳下で、四十六になるはずだ。東京をしくじった石原の後釜を狙って、色々と汚い裏工作を陰でして回っていたことも、板垣は知っていた。
「随分えらいことになったじゃねえか、東条」
東条は、石原を見るとかすかに苦笑をにじませた。
「空港でパクっとけば、なんの問題もなかったんすけどね」
頭を上げた後の目は、笑ってはいなかった。
「・・・・・まあ、ここならしばらく置いておいても分からんだろう。どうだ?」
バンが停車しているのは、石原が手配した中古車屋の敷地内だ。オーナーは石原の叔父で、ロシアや中国などに密輸する盗難車の置き場や事故車の証拠を隠滅したりするのにもよく使われていた。板垣の目の前、五百メートルほど先の雑木林の端までびっしりと、雑多な車種が並べられている。
「助かりましたよ、石原さんがいてくれて」
東条は、ぬけぬけと言った。
「これで武器の不法所持で挙げられたら、目も当てられんとこでしたからね」
「後は神津の居所だな。ことが収まったら東条、おれもなんでも協力するからよ」
「・・・・ったく、誰のせいで、こんなんなったと思ってんだよ」
ぼそり、と言ったのは、バンから降りてきた若い衆の一人だった。一九〇近い背丈で、左耳にピアスをしている。
「・・・・・てめえ、今、なんつった」
板垣が凄んだが、相手は引かなかった。
「誰のせいでこんなことになったって、そう言ったんだよ」
「やめろ、板垣」
殴りかかろうとする板垣を、石原が抑えた。
「迷惑かけて悪いな、東条」
石原は言った。その気弱そうな笑みに、相手も嵩にかかる。
「他人の組の人間にてめえのケツ、拭かせる気かよ」
「辻、そんなもんにしとけ」
ようやく、東条が収めた。渋々と言った感じで口をつぐませる。
「すんませんね、石原さん・・・・・・こんなことになって、うちの奴ら皆、気が立ってるもんで」
暗にこの事態の責任の所在を、石原に確認させる物言いだった。
「気にすんな。・・・・・よく分かるよ、東条」
無難な言い方をしてみせて、石原は肩をすくめた。
「しかし、すげえなこりゃ・・・・・」
中をのぞきこんだ石原が嘆声を上げた。バンには、日本では中々お目にかかれないような武器類が、ふんだんに積んである。軍用の四五口径、自動小銃、手榴弾、無反動砲まで。けちな金融マンくずれを追いかけるのには十分すぎるほどの装備がそこにあった。
「苦労して集めたんだ、無駄には出来ないでしょう」
後ろで東条が言った。構わず、石原は武器に手をつける。
「神津みたいなちんぴら追いかけるのには、ちょっと大仰過ぎるんじゃないのか?」
「神津が朝鮮やら中国やらの組織と繋がってるって言ったのは、叔父貴、あんただろ?」
東条はついに自分もいらだちを露わにして、吐き捨てた。
「事務所にかちこみ入れたのも、そう言う奴らだったのか?」
「ここにいる誰も、殺し屋の顔は見てませんよ。なにしろあそこにいた奴らはみんな、死んじまったもんでね」
「本当に神津の仕業なんだろうな?」
「事務所に留守電入ってたよ。あんたの名前、呼んでたよ。まだ新宿にいると、あいつは思ってるんだろうけどな」
「こっち戻ってきたからには、責任はとるよ」
TEC9に弾倉を差し込みながら、石原は言った。
「本家にはどう報告する気なんだ?」
「まだですよ。こっちもそれどころじゃなかったもんで」
「まさか、おれのせいにはしねえだろうな」
「馬鹿なこと言わんでくださいよ」
鼻で笑ったが、東条はそこでやや、顔色を変えた。
「そういや、思い出すな。・・・・・・お前が別の株に突っ込んだ五億も、どさくさに紛れてこっちに被せたんだったよな」
石原の言葉に、東条は思わず気色ばんだ。
「証拠もないのに妙なこと言うのやめてもらえますか。おれだって、本家の命令で仕方なくあんたに付き合ってやってるんだ。そいつを忘れてもらっちゃ困りますよ」
険悪な空気が流れた。しかし、板垣が期待したような方向に事態は進みそうにはなかった。石原が先にいつもの通り、拍子抜けするようなため息をついて、
「冗談だよ、東条。そう、かりかりするなって。上手くやろうぜ。やつに落とし前つけなきゃいけないのは、おれもお前も同じなんだからよ」
「・・・・・このヘタレ野郎」
さっきの片耳ピアスの辻が、聞こえよがしにつぶやいたのを板垣は、はっきりと聞いた。それでも、手を出すわけにはいかない。
そう、思ったときだった。
振り返った石原がごく自然な動作で、TEC9を東条に向けて発射し、東条は抗議の言葉ひとつ返すこともなく旅立った。
「どけよ」
板垣をどけて、石原は残った東条の取り巻き三人にも、軽機関銃を乱射した。背中を血と肉のミシン目状に赤く炸裂させて、男たちは絶叫する暇もなく、地面に倒れていく。予想を超えた石原の行動に、板垣もあっけにとられて、半ば放心状態になっていた。
「おい、拳銃」
当の石原の声で、ようやく板垣の回路がつながった。弾丸を撃ちつくした熱い銃身を、火傷しそうになりながら板垣は受け止めた。
「拳銃だよ」
差し出した手に、板垣は遅れて気づき、自分の拳銃を石原に手渡す。みると、ピアスの辻だけが、左の腿と肩に喰らってまだ、息があるようだった。這いずるようにして辻は逃げていこうとする。その顔の横にあるセダンの尻に、石原はけん制の弾丸を撃ち込んだ。接触事故のような衝撃音が、辺りに響き渡った。
「おうい、停まれ」
首を鳴らしながら面倒くさそうに拳銃を構える石原を、辻は頬を痙攣させながら見上げていた。
「・・・・・あ、頭おかしいのか、あんた」
喉を震わせながら、辻は言った。板垣もほとんど同じ思いで、石原の乱行を見守っている。
「実は、車ん中でもずっと考えてたんだけどな」
「?」
「今、娘の影響で携帯やらパソコンやらに凝ってるんだよ」
拳銃を突きつけながら石原は、板垣に向かって話しかけ、
「え、ええ、知ってますけど・・・・・・」
こんなときになんの話を今しているのか、分からないまま、板垣は相槌を打つ。
「世の中のこと、なんでも教えてくれる裏サイトがあるんだとさ。おれたちやくざでも分からねえようなことでも、そこでは一発で分かるらしい」
「はあ・・・・・」
「でも教えてもらうには、条件が要るんだよ。自分でルールを作ったアプリをクリアして、その証拠を送信する必要があるらしい」
石原さん、本当になにを言ってるんだ?
「そいつ使えば、神津の居所探せるだろうと思ってよ。違うか?」
「え、ええ・・・・・でも、まさか・・・・・」
板垣は、呆然と目の前に倒れている死体たちを見た。
「持ってろよ」
拳銃を手渡すと、石原はその遺体を携帯で撮り始めた。
「どうすんですか、そんなもん」
当たり前だと言うように、石原は答えた。
「送るんだよ、・ISMへ」
「なに言ってんすか、石原さん・・・・・」
石原は、返事をしなかった。やがて、
「板垣、その拳銃に一発だけ実弾詰めて、そいつに渡せ。やつの所在を知るのに、あと、もうひとゲーム必要だ」
「すんません・・・・命だけは助けてください・・・・あんたの言うこと聞く・・・・・なんでもしますから!」
辻は失禁しながら震えている。板垣はその手に実弾を一発だけこめた、拳銃を渡した。その間に石原はバンの四十五口径を取り上げて、弾倉をセットしている。
「そいつをお前の頭に向けて一発引け。・・・・六発だから・・・・そうだな、三発撃って弾が出なかったら許してやるよ」
辻は泣きながら、首を振った。石原がこれみよがしに自分の銃の撃鉄を起こす。
「やれ」
「一体、なに考えてるんですか、石原さん!」
ついに耐え切れず、板垣が叫んだ。
「こんなことしちまって、本家にどう言い訳する気ですか?」
「言い訳する気はねえよ、別に。死んだのはやつの責任だ。そっちにはなんとでも言える。おれらの今の目的は神津に落とし前つけさせることだけだ。違うか?」
弾かれたように、板垣は肯いた。
「それに心配すんな。こいつを使えば、どこ行っても神津は捕まるようになるさ」
「で、でも本当にそんなもんで・・・・・」
「後で見せてやる。おい、いいからやれよ。今すぐに」
冷酷に石原は言い放った。若い頃に時間が戻ったような錯覚に、板垣は陥った。
「・・・・・・・・・」
肩で息をしながら、辻は自分のこめかみに銃を当てた。
「本当に、これをやれば・・・・・」
「やりたくないなら、別にそっちでもいいぞ」
銃を向けて石原は言った。
「おれとしてもお前が助かった方が、都合がいいんだ。でもお前にその気がねえんなら、仕方ねえな」
その言葉に、辻は勇気づけられたようだった。震える右手を押さえながら、辻は引き金を絞った。
一発目から乾いた銃声が、夜の闇を揺るがして鳴り響いた。
「・・・・・勘弁しろよ、板垣」
お前のせいだというように、石原は言うと肩をすくめた。
「・・・・・すんません」
理由もよく分からないまま、板垣はとりあえず謝った。
「本家にはうまく言っとけ。・・・・・適当にな。こいつが錯乱して、勝手に落とし前つけた、とかよ」
頭を吹き飛ばした遺体を蹴り転がして、石原は歩き出した。
「これからどうするんですか?」
「まずは電話だ。おれが話さなきゃならんとこもあるだろう。神津のヤサ探しは、明日考えるよ。それより、ついてくんな」
石原は、電話を取り出してこれみよがしに振った。
「お前はうちの奴ら集めて話しとけ。これからは、おれら主導で動かなきゃいかんだろうからな」
「石原さん・・・・・」
やはりだ。事情はともあれ、泰山会きっての武闘派石原征爾は、健在だったのだ。板垣は恐怖と期待をこめた眼差しで石原の後姿を見直していた。
しばらくするとなぜか、こんなところで娘に電話する石原の声が、かすかに聞こえてきた。
「・・・・美和ちゃん、ああ、パパだ。うん、今、東京にいるんだ。お仕事でね。明日、飯食いにこないか。ママに頼んでくれよ」
満冨悠里の行方
その夜、結局、真田からの折り返しは来なかった。
深夜まで放送した臨時ニュースは、事件が広域暴力団同士の大規模な抗争の結果だと言う説明に終始するのみだった。
「神津がすすんで泰山会に手を出した理由は、今のところ説明できないけど、ありえないことじゃないと思う」
ニュースと号外に一通り目を通してから、マヤは言った。
「神津は香港や韓国のマフィアとも、つながりが強いから」
「まさかでも、やくざに手は出さないだろう?」
マヤの意見を、金城は疑り深そうに聞いた。
「理由があったから出したのよ。泰山会に限らず、神津は日本中のやくざから、狙われてるに等しいから、先手を打ったのかも」
「思い切ったことしやがるな」
仕事を終えた金城は真田の連絡を待つのを口実にしてか、ビールを持って薫の家に乗り込んできたが、マヤの姿を見ると、いかにも残念そうに顔をしかめていた。
「・・・・で、話変わるけど君は、家に帰らないのか?」
「日本にいる間、ここがあたしの家だから」
住み着いた猫のように、マヤは平然と言った。途中で買い揃えたブラウスと黒のスラックスに身を包み、眠たそうな顔でソファに身体を預けている姿からはまったく遠慮と言うものが感じられない。
「どう言うことなんだ」
と、聞かれても、薫自身にもなんとも言いがたい。
「いまだによく説明できないんだけど、なんか、そうなっちゃったのよ。・・・・・突然」
「真田がここに住むよりか、ちょっとはましでしょ?」
「う・・・・・・」
見透かしたようなマヤの鋭い切り返しに、金城は言葉を継ぐことも出来ない。
「泰山会がらみのことは、真田に任せておけば大丈夫よ。それより、あたしたちは満冨悠里の方を、探し出さないと」
「で、彼女が神津良治と一緒に行動しているって言うのは、間違いなさそうなことなのね?」
「たぶんね。実は神津良治が、どうして突然、日本に帰ってきたのか、まだ理由がはっきりしないんだけど、彼自身、自分の身の上は分かっているはずだから、帰国にあたっていくつかの安全策は打ってあると思うの。彼女もいまだに行方が分からないってことは、神津のもとに身を寄せている可能性は高いわ。満冨悠里の姿の晦まし方の手際のよさを見ても、そこには神津の意志が隠れていると考えざるを得ないしね。・・・・・恐らくはTLEプログラムを管理している誰かって言うのも、彼らと一緒に動いているはず」
「なんだ、そのなんとかプログラムとか、・ISMって言うのは、神津良治のものじゃないのか?」
「お膳立てを整えたのは、神津良治だけど、彼は出資者に過ぎない。神津良治とシステムの開発・運営に携わっている人間は別と言うのが、あたしたちの考えよ。TLEプログラムを解析して、さらに自分のアレンジを加えてバージョンアップするのには、あたしたちが普通に考えるよりも、はるかに特殊な才能がいる」
「誰なの?」
マヤはお手上げだと言う風なゼスチュアをして首を振った。
「さあ。ただ、神津良治と満冨悠里じゃないことは確かよ」
「しかし、そいつはなんだって・ISMを作ったんだ?」
「何度も言ってるように、それは分からない。・・・・・でも・ISMがあたしたちのまだ把握していない、ある理由のために創られたことはなんとなく想像がつくわ。ちょうど、TLEを開発した、エラ・リンプルウッドがそうだったように」
「ネットで犯罪者を煽ることに何か目的があるのか?」
「もともと、犯罪を起こさせること自体が目的だとは言えないわ。たまたま、今、利用している多くの人間が、なんらかの犯罪行為に使っている、と言うだけで」
「そうよ。北浦真希が話してたように、本当はただの、ジンクスを利用した占いサイトだったのかも知れないわけだし」
「・・・・・薫の意見にはイエスでノーね」
マヤは皮肉げな口調で言った。
「犯罪と言う行動が、・ISMを開発した人間の想定外だったとはどうしても思えない。どんな人間でも多かれ少なかれ、他人の秘密には興味を持つものよ。そして隠されれば隠されるほど、人はそれを知りたくなる」
「だから、例えば逆に・ISMみたいに、代価を払って手に入る情報がもっと広範囲に、それも重要になればなるほど、それを得るためになんでもする人間が出ても不思議はないってこと?」
「条件を与えられれば限界まで羽目を外す人間は必ず出てくるわ。情報にまつわる価値に酔って、欲望は際限なく肥大していく。最後にはなんでも知らずにはいられなくなってしまう情報のジャンキーを生み出す危険がある。・・・・むしろあたしはそこに、製作者の本当の意図を感じるけど」
マヤの意見はもっともなものだった。
「例えば亡くなった嶋野美琴も、知らなくていいことまで知ろうとしたために自滅した典型的なサンプルね。真希の言うとおり、たぶん最初は彼女も、他愛のないことを知ろうとしただけだったのよ。天気予報や恋人の本音、テストの答案くらいにね。でも、それが他人の通話記録やメールの中身だとか、もっと深いところを知ろうとするごとに、止まれなくなった。すべてを把握していなければ気が済まなくなったのよ。人に頼んで、なんの関係もない同級生をレイプさせようとするくらいまでにね。満冨悠里にそそのかされたことを割り引いたとしても、彼女はもう、救われない領域にまで踏み込んでしまった」
「・・・・・ねえ、マヤ、これは誰かの実験なの? あなたの話し振りだと、どこかそんな感じがするんだけど」
金城が帰った後、片づけをしながら薫は気にかかったことをマヤに聞いてみた。言われて、マヤも初めて自分でも気づいたというようにはっとしてから、
「・・・・・アメリカでの事件の印象が深いから自然とそう感じたのかも。でも、一概には言えないと思う。あたしの話はあくまで仮説として聞いて」
そう言う、マヤの面差しに一瞬だが悲しそうな影がさしたのを、薫は見逃さなかった。
テロリストのチームに生まれて、本当に幼い頃から、薫には想像もつかないほどの何かを、彼女は抱えているのかもしれない。眠れないのか、実は真夜中に何度もマヤが起きてはソファに戻ってを繰り返しているのを、薫は知っていた。いつも眠たそうにしているのは、もしかしたら、本当は、上手く眠れないせいなのだろう。
次の日朝早く、電話が鳴った。真田からだ。朝食を奢るから、今から出てこないか、と言う話だった。その間、マヤは興味深そうに、薫と真田の電話口のやりとりを盗み見ていた。
「どうかした?・・・・・・なにか、言いたいことがあったら言ってよ」
「別に」
マヤは、軽くあくびを漏らすと言った。
「薫、もてるな、と思って。二人の男性が一人の女性に気がある。なんだっけ・・・・これ。確か、相思相愛?」
「どっちかとくっついたら、そうやって言ってよ」
明らかに用法が違うマヤの諺に苦笑しながら、薫は言った。
そもそも金城はともかくとして、真田の方には、初めからそんな気はないはずだ。少なくとも、薫はそう思っている。
一見大人っぽいマヤもさすがにこう言ったことを変に邪推して面白がるのは、やはりその年頃の女の子だと言うことだろう。どこか安心したような気分が、薫はした。
朝食に呼ばれたのは、警視庁の真田のオフィスだった。窓に分厚いカーテンのかかった、モニタールームには徹夜の、籠もった空気がよどんでいる。コンビニの朝食セットと散乱した残り物の菓子類で、薫たちは、早めの朝食をとることになった。
目の前のモニターには、ランダムで無数の不鮮明な人物の画像が表示されてくる。
これらの映像には、都内全域の駅構内の監視カメラから真田の班員が徹夜で絞り込んだ、逃亡中の満冨悠里と思われる人物が映りこんでいる。昨夜までにどうにか一二〇までに絞り込んだ候補を前に、SSELを持つマヤが最終チェックをして、彼女の足取りを突き止めようと、電話をかけてきたらしい。
「昨夜の事件以降探し回っているんだが、神津の足跡も途切れていてね。捕まえた澤田から調書をとって、やつが所有しているいくつかの物件もすでにあたっては見たんだが、すべて空振りだった」
この分だと真田は、一睡もしていないのだろう。だが、今もあくび一つ漏らさず、マヤが映像を確認するのに付き合っている。
「満冨悠里が消えた時点で、神津と接触している可能性は高いけど、もしあたしが神津なら、彼女と接触するにも細心の注意を払うと思う」
無数の映像に目を向けながら、マヤは言った。
「あたしの能力を使って悠里を追えば、まだ、神津にたどり着く可能性はあるわ」
「やつらを追ってるのは、おれたちだけじゃないからな。しばらくは下手に尻尾を出さないようにどこかで大人しくしようと思っているのが、現状だろう」
「昨夜の事件はどうなったんですか?」
薫が聞いた。
「表向きは暴力団同士の抗争ってことになってる。後のことは専門の人間に任せておれはパスしてきたが、現場の状況から考えても、単純にやくざ同士のドンパチの結果とは思えないな。死体はほとんど全員、なんの抵抗もみせずに殺られていたそうだ」
「プロの仕業ってこと?」
真田は軽く、肯いた。
「そう言うことになるな。・・・・・・・おれたちの調査によると神津良治は、今回の帰国にあたって、韓国の犯罪組織に後ろ盾を申し入れている。その際、元・特殊部隊のプロを同行させていると言う情報があったんだが、それらしい男は、空港の税関で引っかからなかったんだ。こいつについては具体的に名前も挙がっていて、確度の高い情報だと、こっちでは見ていたんだがな」
「見つけたわ」
そのときマヤが、唐突に言った。
「早いな」
身を乗り出した真田と入れ違いに、マヤは最後のハムサンドを取り上げた。
「どこだ?」
「JR中央線。・・・・・これは、御茶ノ水駅ね」
真田が手元を操作して、映像をピックアップする。
そこには東京行きの黄色い電車から下車する、事務員風の若い女の横顔が映っていた。手にモバイルが入るくらいの平たいバッグを提げている。髪を後ろで束ね、人相の手がかりとして眼鏡はしているが、地味な顔立ちのせいか、非常に印象は薄い。
「彼女がそうか」
これもSSELの能力だろうか。マヤは断定的に肯いた。薫も悠里とは面識はあったが、人相も不鮮明で自信を持ってそれと断定できる確証はないと思えた。
「それに、ついてるわ。これ、昨日の映像よ」
時間は昨夜の、二十二時三十分前後になっている。都下に潜伏していた悠里は、神津良治から何らかの指示を受けて行動を開始したのだろうか。しかも、この時間のこの路線に遡って調べると、悠里は新宿駅から乗車したことが分かった。襲撃のあった新宿から移動してきているのだ。これは、まったくの偶然なのだろうか。
「御茶ノ水だ。先に行って後を追ってくれ。薫、彼女を頼む」
真田は言うと、自分は電話を持って立ち上がった。
「おれは各所へ手配して、後で行く。くれぐれも、先走って危険な真似はしないようにな」
真田はマヤに言ったが、彼女が誰かの言うことを聞くとは、あまり思えなかった。
目が眩むほどの光の中。
無数の視線が前に進んでいると、彼は思った。
かと言って、すべての人が前を見ているわけではない。彼らは、行き止まれば、外すのだ。例えば誰かの視線にぶつかって、自分の中に深く、侵入されない、そのうちに。
もしそこを突き抜けていくなら、それはどうなるのだろう。
一体、僕は、どこに行くことになるのだろう。
今日の彼はただ、単純にそれを考えているばかりだった。
本当の世界は遠い。地図ではほんの五センチの距離の間に無数の情報が詰まっている。自分の前ではないどこかを見つめている、無数の視線が代表的なそれだ。
行き止まりのない視線を探していると、階段の向こう、降りてきた若い男に方向が行き当たった。逆立てた髪の毛の上に、卵型のサングラスを乗っけた、ぴかぴかする黒いジャケットの男だった。横には同じぴかぴかで、ブーツを履いた、麦わら色の髪の女が、その腕にぶら下がって歩いている。
「おい、なに見てんだよ」
口を卵型に開いて、男は言った。唇にボールのピアスが光った。卵型は上下が違う方向に歪んでいる。そうだ。昨日見たカラスに似ていると、彼は思った。
「なにコイツ・・・・・わけわかんね」
女が言った。彼女はペンギンだ。なぜなら、くちばしが短い。
「いいよ。どこに行く?」
「ふざけてんのか」
男は彼の胸倉を掴み、顔を寄せてきた。自分のあごが支えられて持ち上がったのを彼は感じた。一個の支点で身体がぶら下がる。なんだか、ハンモックになった気分だ。自然と笑みがこぼれる。
「あ、そうか」
彼は気づいて言った。そうだ。彼は思った。ここで彼らは僕に、行き当たったのだ。でも、なぜだろう? そうだ。
「行き止まりか、君たちは」
男は彼を一発殴った。指輪をしていたのか、男の拳は硬かった。歯茎まで揺れるような鈍い衝撃を、直に感じられることが出来て、彼はまた微笑んだ。そうだ。ここは、行き止まりなのだ。
「殺すぞ、てめえ」
男は左頬の肉をぴくぴくさせて、威嚇してきた。あまりに嬉しくて、彼は笑った。くひっ、と妙な呼吸が喉から出てきた。胸の中が虫かごになったようだった。大声で笑い出したい衝動に駆られ、彼は力いっぱい口を開けた。いきなり開けたので、生唾が男の拳に散りかかる。
それでも、彼は笑い出した。
「くひひひひひひひひひひひひひひひひひひひっ・・・・・ひっ」
みるみる、男の顔に恐怖と嫌悪感が広がった。
「わっ、きったねえ、こいつ」
「ノボル、おかしいよ、やばいって」
ペンギン女が、いかにも吐きそうな顔で言った。
「ほっといたほうがいいよ。ねえもう、行こ。ねえ」
「ちっ」
胸倉を持った手で、男は彼を突き倒した。舌打ちを漏らすと、
「バーカ、死ね」
と、吐き捨てるなり、通り過ぎていった。カラスの鳴き声のようだったと、ぼんやりと思いながら、彼は倒れこんで思わずアスファルトについてしまった手をこすり合わせて砂を落とした。
立ち上がると、彼はまた同じように自分の視線を泳がせた。
さて。次は一体、どこに、行き当たるのだろう?
捜索行き着く果て
「薫」
下り坂の途中で、マヤが呼んでいた。見上げると、聖橋がある。神田川を挟んでこちら側は、真下の御茶ノ水駅の対岸である。重いレンガのアーチを屋根にしたここは、桜並木が鬱蒼と茂り、この辺は昼間でも暗い。季節外れの赤いジャンパーを着た男が、板切れの上に横になってこちらを見ていた。
「見て、これ」
マヤは、垣根を越えてその、道外れの舗装されていない土の上に立っている。両手でなにかを抱えているのは、男性用の大きな、登山用のズックのように見えた。
「着替えた後、ここに残りは捨てたのね」
女性用のスーツが一着、綺麗に畳まれて入っていた。悠里が御茶ノ水駅を降りたときに、身につけていたものだ。
「コインロッカーに着替えを用意したのは、神津良治ね。悠里は恐らくこの後、彼と接触を果たした」
駅からの足取りを、マヤはあの夜の悠里をなぞるように、実にあっさりと、当てて見せた。マヤによれば基点になる視線さえ読めれば、以降の行動も、たどるように感知することが出来ると言う。
「別に特別なものじゃないわ。長年の経験と、カンが頼りよ」
無数の映像から悠里を発見したのもそれだと、マヤは言った。
「一度標的にした人物は、忘れない習慣が出来てるの」
ズックの一番下には、ビニール袋で厳重に包まれたもう一着の着替えが出てきた。みるとそれは、悠里が着ていた、学校の制服の上下だった。広げてみると、ブラウスの裾とブレザーの袖にべったりと、黒ずんだ血糊がこびりついている。袖の方は指紋がとれそうなほど、形が鮮明だった。
「どう? あの日、現場に居たのは彼女よ。これでようやく、あたしの疑いが晴れた?」
「・・・・・正直疑ってたのも、忘れかけてたところよ」
「藪蛇?」
彼女の言いたいことが一瞬、よく分からなかった。
「そんなところね。実際、藪の中に証拠もあったし」
悠里の視線はそこから、秋葉原の駅付近まで降りていった。
「ここで、車に乗った。運転席に神津良治がいる」
色は薄いブルー、八人乗りのバンだ。
「もう一人、同じ座席に髪の長い女・・・・感じ悪い」
その場でマヤはスケッチを描き、薫が見て車種の推定が立った時点で真田に連絡する。
「どこまでも追えるの?」
「そこまで期待しないで」
陽光で黒く光る前髪をかき上げながら、マヤは言った。
「美琴のときと違って、あたしは直接、悠里から読み取ったわけじゃないから。追跡にも限界があるわ」
「へえ」
なぜか、ちょっと安心した薫が居た。
「やっぱり、どこまでもってわけじゃないんだ」
「薫、あたしのこと、死神かなにかだと思ってた?」
「ちょっとね」
マヤは心外だと言うように、薫を見た。
「行けるところまで行ってみましょうよ。今、車回してくるね」
神津たちはそこから下道を駆使して、江戸川に沿って移動したようだ。何度も小道で切り返しながら、車は進んだ。実にしつこいほど、尾行を警戒している様子がうかがえる。
「薫、運転替わろうか?」
薫のバックの腕に懸念を持ったのか、しきりにマヤが聞いてくる。
「・・・・・免許持ってない人間は黙って絵を描く」
マヤのスケッチは、真田と現れた謎の女性を描き出した。
真田に特徴を照会したが、誰だかはよく分からない。マヤのスケッチの通りなら、軽くカールした長い髪をなびかせた、中々の美人だ。切れ上がった瞳に、鼻とあごが尖っていて、きつめの印象だが、下品な派手さはない。ほどよくシェイプされた筋肉質の身体つきも、バイクスーツのようなぴったりとした服装に似合っている。年齢は、三十前後と言ったところ。
マヤは感じが悪いと評したが、それは悠里の実感をそのままなぞっただけのものだろうと、薫は思った。
「ここで停めて」
道の途中で、突然、マヤが言った。あわてて薫はブレーキを踏み込む。
「早く言ってよ」
空いている通りでよかった。タイミングによっては、後続車に追突されていたところだ。
マヤが停まるように指示したのは、閑静な住宅街の入り口の小道だった。二台の車がぎりぎりすれ違えるほどの道幅で、申し訳程度の歩道に低いガードレールがついている。
薫が車を寄せた側は、高い白壁が続く個人宅だ。真向かいの道の角に年代物の三階建てが、風雨にさらされて黒ずんだ外壁に枯れた蔦の欠片をまとって、佇んでいた。
時折見る、昭和三十年代に建てて以降、補修していないような雑居ビルだが、どう見ても人の気配は感じられない。
「見て」
マヤの指差す方向、裏口らしいシャッターが不気味にへしゃげていた。どこからどう見てもそれは、不法侵入をした痕跡だ。
「・・・・・とりあえずは、ここまでってところね」
案の定、後援を待たずにマヤは車を降りようとする。
「待って。踏み込むのは、真田さんが来てからじゃないと」
「心配しなくてもたぶん、ここにはもう誰もいないわ」
「わたしが言ってるのは、そう言う問題じゃないのよ」
「あたしから不法侵入の相談を受けて、薫はここに見に来た」
壊れたシャッターに目をやると、マヤは平然と言った。
「まさか手帳持ってくるの、忘れたわけじゃないでしょ?」
「・・・・・忘れてた、って言ったら、どうする?」
「そうね」
マヤは別に、動じなかった。
「・・・・・そのときに、なにか別の上手い言い訳を考えるわ」
手馴れすぎている。もともと、薫の手に負えるような相手じゃないのだ。結局二人で、破壊されたシャッターをくぐる。
狭い階段を上ると、裏は吹き抜けの廊下になっていて、空の表札のついたドアが一つだけ、ついていた。奥に片付けられた土まみれのプランターの残骸や、子どもの三輪車などが放置されているところを見ると、二階から上は人が住んでいたのだろう。外からでは、二階も三階も、分厚いカーテンが覆って中は見えなかった。
マヤは三階に行く必要はないと言った。二階の部屋のドアノブに手をかけると、確かめもせずに開けて中に入った。
「ちょっと」
マヤの言ったとおり、中には誰もいない。
玄関から入ってすぐ、畳敷きの六畳にはめぼしいものはなにも置かれてはいなかった。折りたたみ式のテーブル、テレビが置いてあったと思われる場所に古びたコンセント、燃えないゴミの袋が三つ、押入れの脇にのけられていた。
電気は停まってはいないらしい。ブーン、と言うモーター音は、流し台の隙間に設置された簡易式の冷蔵庫の稼動音だ。しかもなぜかこの冷蔵庫だけがこの中で買いたてに近い新品だった。
「彼らがここに住む、誰かに会いに来たことは確かね」
冷蔵庫が空なのを確認して、マヤは言った。
「どうも神津たちは、その人には会えなかったみたいだけど」
次の間の光景は、一瞬、薫をたじろがせた。
寝室と思われるこの部屋は、開けっ放しの押入れまでびっしりと、山積みの本で埋め尽くされていた。二人が部屋の中で動くと、無数の埃が、日光の中できらきらと輝いて舞い上がる。
「苦学生に会いに来たとか?」
「苦学生って?」
むしろ世代の違いか、薫の冗談は、マヤには通じなかったようだ。足場を塞ぐ本を、マヤは取り上げては、どかしていく。雑多なジャンルを誇るそれらの本は、すべて専門書のようだった。宗教、哲学、歴史、文学の研究書から、古典的な精神医学、行動科学や神経生理学、医学書、詳細な人体の解剖図などもあった。古びた印紙のそれらには、いちいち、無数の真新しい付箋が挟まれているのが目立つ。その中で一冊だけ、異質な本が薫の目に留まった。子供向けの動物図鑑だ。さんざん読み古したのか、装丁が剥がれて接合部が露出し、ページが表紙から脱落するまで消耗しきっている。
「これ」
マヤはいきなり、円筒形の箱を手渡してきた。
「ゴミ箱?」
「この部屋の持ち主は、男性ね」
鼻を近づけてみてから、マヤは言った。
「あのさ・・・・・」
「どうかした?」
「・・・・・いや・・・・なんでも・・・・・別にいいわ」
不躾を指摘しようとして、やっぱり薫は、やめた。
「あと、ここ」
不自然に空いた壁際のスペースを指して、マヤは言った。
「パソコンが置いてあった。もしかしたら何かメッセージがあったのかも・・・・・神津が持ちさった・・・・・アニメ?」
怪訝そうな顔で、マヤは首を傾げる。アニメとはなんのことを言っているのだろうか。マヤのような特殊な力を持ち合わせていない薫には想像もつかなかった。
しかしここにいた人間が、どこか常軌を逸している存在だったかも知れないと言うことは、薄々薫にも感じられてくる。
他人の部屋に住み着いていた誰かの体臭がかすかにするように、この部屋の持ち主の残気と言うか、空気の淀み方といい、ここにいるだけで得たいの知れない、なにか嫌な気分がするのだ。そもそも顔も知らない男の部屋に入ると言うのは、それだけで生理的な忌避感を持ったりするものだが、この感覚は他のどれとも比較しにくい。
本に埋もれていた大学ノートを、マヤは見つけ出した。ページが破り取られているのか、それは、ほとんど下敷きのように薄っぺらい。残った十ページほどにびっしりと何かが書き込まれているようだった。マヤはノートを開いた。
「なにこれ・・・・・・」
背後から覗き込んだ薫は、はっと息を呑んだ。直感的に思った。この部屋の嫌悪感を象徴しているのは、恐らく、これだ。
そこには、赤マジックで塗りつぶした、大きな丸が書き込まれていた。ページいっぱいに描かれた丸は、全体として、一編が四個の丸で構成された正三角形を形作っている。
さらにマヤがページをめくると、表裏すべてのページを、寸分違わない位置で、その図形が埋め尽くしていた。
紙がインクでふやけるほど、無数の。そして、極大の。
紅い・・・・・・ピラミッド?
「アニメ・・・・・三角形の点滅?」
開いたページを持ったまま、マヤは取り憑かれたようにつぶやいた。視線はそこにはなく、神津良治が持ち去ったと言うパソコンがあった壁の辺りを凝視している。
「どうしたの?・・・・・どう言うこと?」
耐え切れなくなったように、薫は言った。マヤの瞳は焦点が合わなくなり、やがて、ふっと思念が途切れた。崩れるように、マヤはその場に倒れこんだ。薫が抱きかかえていなかったら、彼女は本の山に激突していたところだった。
「大丈夫?」
「・・・・・平気よ。たぶん、ずっと繋ぎっぱなしにしてたから、限界が来ただけ」
まるで他人事のように言うと、マヤは立ち上がった。それでも、呼吸は浅く乱れ、手で軽く額を押さえている。
「でもとりあえず、手がかりは繋がりそうよ。真田に電話して。神津良治と満冨悠里はここにいた男を追いかけていった」
「男?・・・・・・」
「そう、男。あたしが思うに・・・・・・」
そのときだった。
下でガタン、と言う音がして誰かが上がってくる気配がした。もしかしたら持ち主が戻ってきたのだろうか? 薫は手早く襖を閉め、息を潜めた。
「座ってて・・・・・静かに。そのまま」
マヤは壁に手をついたまま、まだ辛そうにしていた。座る場所を作って呼吸を整えさせた。
乱暴に玄関のドアが開け放たれる。現れたのは、青いシャツにダークスーツで銀縁眼鏡をかけた、坊主頭の男だった。年齢は三十前、見るからにチンピラと言った雰囲気だ。玄関から靴も脱がずに、無人の中を覗き込んで、面倒くさそうに舌打ちをした。
どこかに電話をかけるらしい。ドアを開けっ放しにしたまま、廊下に出ようとした。
「今着きました。・・・・ええ・・・・神津はいないみたいです。外に車停まってたの見たんすけど・・・・中に?・・・・いや、もう誰もいねえす」
電話を持ったまま、男は中に戻ってくる。薫は覚悟を決めて、先手を打つことにした。襖を開き、まだ余所見をしている男に声をかける。
「そのまま電話を切って」
「・・・・・なんなんだよ、お前」
「後ろを向かない。ゆっくり、手を頭の後ろに回して」
向き直ろうとする男の頬に警察手帳を突きつけると、弾かれたように硬直した男の身体から力が抜けた。
「警察よ。・・・・・・さっき、不審な男がこの中に押し入るのを見たって通報があったの」
とっさに薫は、マヤが用意した言い訳を使うことにした。
「ここはあなたの家じゃないわね? 身元を証明するものは?」
しぶしぶと言った感じで舌打ちをし、男はズボンのポケットに手を入れようとした。見え透いたフェイント。次の瞬間、男は後ろに向かって闇雲に腕を振り回そうとしてきた。
薫は手の甲で攻撃を跳ね上げると、回転してがら空きになったボディに右の鉤突きを放った。そのまま受け手で相手の右手首をねじ上げ、うつぶせに屈服させる。大げさな声で男はあえいだ。
「おい・・・・ふざけんな! おれは何もしてねえだろうが」
「電話を渡して。話さないなら、こっちで確認する」
男が床に落とした電話を拾うと、すでに切れていた。確認の必要もない。神津の名前を出していたところから見ても彼が、昨夜襲撃された泰山会の関係者であることは明らかだ。手帳と男の電話を胸に仕舞うと、薫は襖の向こうに声をかけた。
「マヤ、大丈夫? 平気だったら真田さんに連絡して・・・・・」
マヤはカーテンをずらして、外を見ていた。下に目線を使って、
「まだ誰か下にいる」
「・・・・・ここをお願い」
男に手錠を打って、薫は外に飛び出した。すると、階段の下から覗き込んでいた男と、鉢合わせる。先に行った男が帰ってこないので、ちょうど様子を見に来たのだ。
物も言わず飛び出した相手を追って、走り降りた。思ったより息が上がっていた。建物を出たとき、相手は小路の角を曲がるところだった。すごいスピードで右に曲がる。車がドアを開けたまま、停車していた。しまったと、薫は息を呑んだ。
そのとき二階の窓から影のように、男の背になにかが降り立った。マヤだ。彼女は薫以上に容赦はない。振り切ろうと払った左腕を軽く回転させ、がら空きになった喉仏に折り曲げた二本の指を素早く突きこんだ。男は膝を折って崩れ落ちた。顔色が変わっている。
自白を取るどころか潰れた気道を確保しなければ、捜査どころではなくなるところだった。薫は不安げに、部屋に残してきたもう一人の男を心配した。
「・・・・・まったく」
真田が到着したのは、それから五分もしないうちだった。
「君らもおれを困らせたいみたいだな」
「ちょうど、鉢合わせちゃったの」
こういう言い訳は、マヤに任せた。
「先に入られて現場を荒らされても困るでしょ?」
「確かにな。言うからには収穫はあったんだろうな?」
「収穫を見たい?」
同意を求めるように、マヤは目配せをした。
「彼女の言ってることに嘘はないです。神津は秋葉原で満冨悠里を拾った後、ここでもう一人、誰かと会う予定だったみたいです」
ついで、中の異様な状態を話すと、真田も眉をしかめた。
「それで・・・・・なにか手がかりは見つかったのか?」
マヤが手渡したノートを、薫は真田に見せた。
「・・・・・これは?」
「ここに住んでいたその誰かの作品よ。部屋の中をみれば分かるけど、彼、かなり努力家の前衛芸術家みたい」
真田はその異様なノートを一渡り、めくって目を細めてから、
「調べてみよう。今、彼と言ったがそいつは男か?」
「ええ、マヤが言うにはなんですが」
「マヤ・・・・・SSELで、その男の顔を君は見たのか」
「見てない。でも、部屋のゴミ箱の中身を調べた」
マヤは首を振ると、
「あと分かったのは、神津たちがここで彼と接触できなかったことだけ」
「仲間か?」
「なんとも言えない。ただ、その彼は神津との接触を望んでいなかったかもしれないわ」
「神津と同行の身元不明の女に、もう一人は謎の男か」
真田はため息をついた。
「まあ、いいだろう。・・・・・しかし、安心した。君らもどうやら、息が合ってきたみたいでな」
「悪い冗談です」
冷やかすように、マヤが口を挟む。
「もしまだあたしと仕事をさせたいなら、今度は薫に、バックソナーのついた車を貸してあげて」
「次にバックが必要になったら検討するよ」
なにかあったのを察したのだろう、真田は苦笑気味に薫を見て、
「・・・・・一人は逃したにせよ、もう一人の身柄を確保したのはなかなか上出来だ」
坊主頭の男は手錠を打たれたまま、車の中から暗い視線をこちらに発している。
「言うまでもなく、やつは泰山会の構成員だろう。昨日の一件で、そっちもようやく本気になったのかもな。・・・・・・しかも短時間でここまで神津の足取りを突き止めるのは、それなりの人間が乗り出した証拠だろう。そっちはおれが引き受けるよ。一息入れたら、君らは捜査課の方に行ってくれ。・・・・・・向こうの進展状況を金城に確認してきて欲しい」
「薫、どうかした? さっきから様子がおかしいみたいだけど」
車を走らせていると気づいたように、マヤがぽつりと聞いてきた。
「別に?・・・・・・なんでもないけど」
薫はごまかした。マヤに言われるまでもなく、あの部屋の持ち主のことを考えていたのだ。
「そう言えば・・・・・あなたに謝ってなかったわね。わたし、あなたに二人の死の嫌疑をかけてたんだし」
「別に、謝ってもらう必要はないわ。あたしには、よくあることだから。・・・・・それより、感じたことは正直に言って。あたしだけじゃなくて、あなたのイメージも聞かせてほしいの」
そっちの方が重要だという風に、マヤは言った。
「心配しなくても前みたいなことにはならないわ。また、悪夢を見たとしても、あたしといれば平気よ」
「ううん、全然、そう言うことじゃないのよ。ただ・・・・・」
「ただ?・・・・・・印象は大事よ。表現できない感覚は、どこか別の道を通って直感になり、やがて実像を象るもの」
「ねえ、お願いだから変な期待しないでよ。・・・・・・わたしはあなたみたいな超能力者とはもともと違うんだから」
「薫、勘違いしてる。そんなに特別に考える必要ないのに」
「言われてもあなたのようにはいかないし・・・・それに・・・・」
薫は自分の認識を彼女に理解してもらえるための言葉を捜した。このことは自分でも、どう表現していいのかまだ、大きく戸惑う部分があった。
「マヤ、あなたは理解できるかどうか分からないけど・・・・・わたしは好きであれを見たわけじゃないのよ。あなたは力が備わっているって言うけど、今まで美琴のときみたいなことは・・・・・刑事をしていて、本当に一度もなかったの」
「きっかけは、いつ来るか分からないものだし、それを掴むこつは誰かから誰かに伝えられるものじゃないわ。望んでも望まなくても、突然来るものなの。あたしだって別に・・・・・こんな力を持って生まれることを望んだりしていないし。それに、薫が目覚めたのは、美琴のときじゃないわ。もっとずっと前・・・・・・薫がもっと小さいときだと、あたしは思うけど?」
「もしもっと早く目覚めていたんなら、わたしは、絶対、警察官になんかにならなかった思う」
「望まなくてもなる人はなる。生まれ持った素質は、その形に環境を変えていくものよ」
「あなたに言われると、確かに説得力はあるわ」
薫は苦笑して、この話題を納めることにした。
「ねえ、あなたこそ、さっきから一体、なにを描いているの?」
信号が赤になったので、薫はマヤの膝の上を覗き込んだ。
「さっきの部屋のスケッチ。忘れないうちに、印象をスケッチしておこうと思って」
そこには簡潔なタッチながら、特徴を捉えた、あの部屋の俯瞰図があった。こうしてみると、住居と言うよりはほとんど書庫で、人が一人、寝るスペースもない。そう言えば、あの部屋には飲食物のゴミ類がほとんど見当たらなかった。鍵も掛かってはいなかったし、そのまま踏み込んだならたぶん、この部屋は無人の廃屋だったと、薫は結論付けたに違いない。
本当に、ここに誰かが棲んでいたのだろうか?
マヤの絵は、神津が持ち去ったらしいあの部屋にあったパソコンが描かれていた。それはワイドサイズのモバイルで、ちょうど、二冊の大振りな医学書が積み重ねてあった上に、置かれていたらしい。
マヤが描くディスプレイには、プロテクターをまとった、緑色の長い髪の女の子のアニメーションがこちらに向かって笑顔で手を振っている姿のバストショットが映っている。
そのちょうど、胸の辺りで点滅しているのは、ノートに描かれていたのと同じ、赤い丸で形作られた不気味な正三角形だ。あのときマヤは恐らく、これと同じものを悠里の視点で見たに違いない。絵の下隅に、走り書きのようなサインが描かれている。自分の名前をマヤが書いたのだと思ったが、どうも違うようだ。流れるようなアルファベットの文字は、七文字・・・・・・
「QUWA・・・・・・HAL・・・・・クワ・ハル?」
発音してから薫は、はっとした顔でマヤを見た。
「これ・・・・・もしかして、部屋にいた男の名前?」
「たぶん・・・・・でも、どうなのかな」
アルファベットをなぞりながら、マヤは唇に鉛筆の尻を当てて、
「日本人としてはこれ、一般的な名前なの?」
「わたしの知る限り、そんな名前の人はいないと思うけど・・・・」
「前にも言ったと思うけど、あたしの能力は視覚だけなの。だからこれは、神津の唇の動きを読んだものなんだけど・・・・」
「真田さんには伝えた?」
マヤは首を振ると、自分の描いたスケッチを逆さまにしたりした。
「もしかしたら、人の名前じゃないのかも。・・・・・状況から考えて、この絵のこの図形に関することなのかもしれないし」
「クワ・ハル」
もう一度、薫も、同じように言葉を発してみた。
「・・・・・聞き覚えのない語感ね」
「もう一度検討して、やっぱり間違いがなかったら、真田に相談してみることにする。・・・・ねえ、念のために聞くけど、あたしの日本語って少しおかしいことある?」
「たまにね。・・・・・・でも、どっちかと言えば、おかしいのは文法より感性の方だと思うけど」
それでもマヤにはやはりあまり、ぴんと来なかったようだ。
「日本語は、祖父に教えてもらったの。でもなんか、こっちに来てから通じない言葉が多くて苦労したわ」
と、言うと、ポケットから一冊、カバーのかかった文庫本を取り出して薫に見せた。
「つまり今は、それで補習してるってこと?」
「そうよ。これ、真希になりすまし動いてたときに、合間を見つけて読んでたんだけど」
薫はそれを受け取ると、次の停車のとき、ハンドルの上で一通り目を通してみた。
「・・・・・これで新しい日本語を覚えたの?」
「興味ある内容の本を、選んだほうがいいと思って」
どう言う基準で選んだのか、中身は時代小説だ。
「使える? この中の単語、日常会話で」
「使ってみたことはあるよ。意外と通じたわ」
「なにか単語言ってみて。印象に残ったやつでいいから」
マヤは軽く首を傾げると、
「信濃忍法、筒涸らし・・・・・とか?」
薫はハンドルにあごをぶつけそうになった。
「この本で憶えたこと、人前で使わないほうがいいよ、たぶん」
これでよくまあ、女子高生になりすましていたものだ。
「・・・・・こっちも、真田に相談してみるわ。薫もいい本があったら教えて」
「ええ・・・・・そっちもなるべく早くしないとね」
話す気力を失いつつも、薫は応えた。
つながった2つの線
「ニュース見たか、お前ら」
会うなり、緊張した面持ちで、金城は言った。
「昨日と今朝だけで、・ISMに関連した犯罪が、都内だけで二件も起きたぞ」
「本当に?」
「ああ、一人は未成年だよ。その子の学校の裏サイトからアクセスしたって供述してる」
金城は肯いた。
「実は都内だけの問題じゃない。マスコミ発表では、各事件の関連を否定して、・ISMの名前を出すことも差し控えているがな。各誌も喰いついてくるし、野放しにしてると、どんどん拡大するぞ」
「予想はついていたことよ」
マヤは、別に動揺した様子もなく言った。
「これまでただの学校裏サイトや携帯闇サイトの仕業だとされてきた事件の真相が、やっと明らかになってきただけ。特に驚くことじゃないわ。・・・・・満冨悠里が嶋野美琴を利用して活動していた時期から考えても、少なくとも過去三年間のネット関連の事件には、・ISMが一枚噛んでる可能性があるのよ」
「知ってたんならなぜ、公表しなかったんだ」
「今のあなたたちと同じよ。残念だけど当局には、・ISMを取り締まったり、閉鎖したりすることなど100%出来はしないから。それどころか下手に・ISMが一般的な知名度を得たら、・ISMを利用した犯罪は加速度的に増加して、それこそ収拾がつかなくなる」
「今のわたしたちに、打つ手はないの?」
「そうは言ってないわ」
「じゃあ、お前らが言う、神津良治を捕まえれば、本当に何とかなるってのか?」
マヤは、こくりと肯いた。
「今のところあたしたちに取れる最良の方法はね。ただ、正確に言うと、神津良治と・ISMの製作者を捕まえて、TLEプログラムを回収するのが必須条件」
「分かったよ。・・・・・情報を交換しよう」
覚悟を決めたのか、それ以上なにも言わずに金城は話を変えた。
「金城、昨夜、満冨悠里は神津良治と接触していたみたいなの」
まずは薫が金城に、今朝の追跡の結果を詳しく話した。
「じゃあつまり・・・・・そのクワ・ハルってやつと、神津は接触し損ねて、今、満冨悠里と二人でそいつを追ってるってわけか」
「正確には、もう一人、身元不明の女性がいるんだけど、概ね、その通り」
金城は、マヤが読み取った七文字に首を傾げた。
「クワ・ハルね・・・・・確かに日本人の名前じゃないな。例えばクワハラとかなら、話は分かるんだが」
「読み取った内容はあくまであたしの主観だから、金城の言った内容も候補に入れておくわ。これもあたしのカンだけど、もしかしたら神津の逃がしたその男が、・ISMの製作者の可能性が高い」
「で、そっちは? なにか他に収穫はあったの?」
「ああ。こっちは大収穫でな」
言うと、金城は持ってきたファイルをどんと置いた。
「嶋野美琴を拉致した犯人のうち、二人の身元が判った」
先頭にプリントされて免許証サイズ写真は、薫がみた鶴見そのものの顔をしていた。
「まず薫が見た鶴見って言う医療関係者、漠然とした範囲だったがな、名前と顔が分かってたんで、探すのにはそれほど苦労しなかったよ。・・・・・そこをみればわかるが、フルネームは、鶴見昭二だ。年齢は三十三歳。勤務態度に問題はないし、もとは米国で学位をとって向こうで活動していたようだが、帰国後、幼馴染の日本人の妻と離婚して、都内のある記念病院に勤めるようになってからは、突然長期の休みをとったり奇行が目立つようになってたそうだ」
「・・・・・彼に間違いないわ」
薫は言った。鶴見が登場する悪夢は、あれから何度も見ていた。
「もう一人は?」
「あの現場から出た遺留指紋から、前科のある人間がヒットした。磯野武徳二十五歳無職、もとは小学校の教師。・・・・・・三年前、教え子の盗撮映像を自分が運営するホームページにアップしていたのがばれて、職を追われてる」
タータンチェックの袖の短いシャツを着て、短く刈り上げて染めた髪に、日焼けした艶のある顔の若い男が、白い歯を剥き出して、こちらに微笑みかけている。
「へえ、それで指紋が?」
マヤの問いに、金城は微妙な顔で首を振った。
「・・・・・いや、この事件、被害を訴えた保護者側と磯野との間に示談が成立して、不起訴になっててな。指紋は学生時代、別の微罪で捕まったときのものらしい。実はあまり大きい声では言えないが、磯野の父親は、当時管内の警察署長なんだよ」
その話は知っていた。薫は、眉をひそめて言った。
「確か揉み消したんでしょ? 父親は今、本庁に戻って警備局長だって話ね。わたしたちの間でも、かなり噂になってたわ」
「ああ、それで学校の方も、懲戒免職ではなく依願退職の形にしたらしいが、去年の春に再就職した学校でも、また事件を起こしたそうだ。なんでも、匿名でネットに生徒の実名入りの自作の小説を載せていたことが保護者にばれて、PTAから吊るし上げを食ったらしい」
資料にはネットからダウンロードしたらしい、その小説の粗筋が添付されていた。どうやら小学校を占拠した元教師の立て籠もり犯が、猟銃や鉈を持って、封鎖された校内を逃げ回る教え子たちをハントしてまわる筋のようだ。
「この問題で磯野は去年の二学期末、表向きは病気で休職の願いを出してから、今までの間、消息を絶っている。親には、タイだかインドネシアだか、ほとぼりが冷めるまでしばらく海外を放浪して回りたいとか話していたらしいが、おれたちの調べでは出国した形跡はない」
「大手柄ね。二人を指名手配して捕まえれば、残りの実行犯も割れるはずよ」
「まあな。ただ、ことがことだけに、おれたちにも迂闊には動けないんだ。なにせ一人は、警備局長の息子かもしれないんだからな。鶴見はともかく、どうしても慎重論が出てくるよ。下手すると、根拠が薄弱だって、鶴見の線ごと揉み消される恐れもある」
「捜査の正当性を疑われるのは、仕方ないわ。本国でも、あたしのSSELで発見した証拠は、科学的な裏づけある傍証がない限り、法廷では採用されないの。もし押し切ったとしても、向こうの弁護士の切り崩しの材料にされるだけだし」
「磯野の件はともかく、鶴見の足取りは、一応今、捜査課で追ってるところだ。・・・・・指紋がある分、磯野の線の方が法的には有利だとは思うんだが、それをすると、逆に殺害現場を特定した捜査の手法を問題にされそうなんだ」
「どこも、正義より政治が厄介ね」
マヤは言うと皮肉げに、ため息をついてみせた。
「じゃあ、爆弾の線はどう?」
気を取り直そうと思い、薫は聞いた。
「残念だけどそっちも、手が停まってるところなんだ」
さらに重たいため息をついて、金城は答えた。
「回収した爆弾の破片を科研で繋ぎ合わせて、ある程度復元には成功したらしいんだが、各パーツの製造元をたどるのはまた、難しい問題があってな。実は爆弾の起爆装置やら表のカバーやらは、車のパーツなんかを改良して作ったハンドメイドらしいんだが、爆弾それ自体は、特殊なルートで国内に入ってきたもののようだ」
「つまり、密輸入品ってこと?」
金城は肯いてみせた。
「はっきりとは言えないがな。例えば米軍からの横流しとかでも、船で輸送されてきた武器を今は銃一丁、爆弾なら一個の単位でかなり厳重に確認することになってるんだと」
「建前としては絶対ありえないわけね」
「そう言うことになる。・・・・・だからまあ、そっち方面だと、武器の身元を特定するのにもえらく時間が掛かるんだ。おれは地元が横須賀だから基地のことは少しは知ってるんだが、下手な捜査をすると、逆に問題にされることもあるからな」
「じゃあ、まったく順調ってわけでもないんだね」
「馬鹿言うなよ」
マヤが言ったが、金城は沈んだ様子は見せなかった。
「可能性がある限り努力はするさ。なんせ、今の展開はお前と彼女に提供してもらった、重要な証拠のお陰だからな。上は及び腰でも、おれらは諦めてたまるか」
さすがに金城は、刑事の地金を腐らせてはいないようだ。
「おれらはおれらで、最終的にこの犯人は全員挙げるつもりだ。だから薫は心配しないで、彼女と自分の仕事をやってくれよ。・・・・ただ、おれらの件で、もっとお前らに協力できることがあればいいんけどな」
「別に・・・・いいって、無理に考えないでいいよ」
そのとき、ちょうど、ドアを開けて真田が入ってきた。
「どうかしたのか?」
「ちょっと進展があったの」
マヤはうそぶいて、薫と金城に睨まれた。
「それよりここに来るとは思わなかったわ。取調べは?」
「やつは小物だ。想定外の情報は今のところないんだ。泰山会が全力で報復に動いていることは前から掴んでいた情報だからな。おれは君らに客を連れてきたついでだ。・・・・・誰も声をかけてくれないから、ずっと外をうろうろしてたそうだ」
半開きのドアを開けて真田はもう一人を中に迎え入れた。
手に、生菓子の袋を提げた北浦真希がそこに立っていた。
「マヤちゃん、薫さん。あと、刑事さん。この前は、ありがとうございました」
真希は入り口で軽く頭を下げた。
「・・・・・こんにちは」
「もう、平気なの?」
薫の問いに、真希は無言で肯いた。
「どうしても、マヤちゃんたちに話したいことあったから。・・・・・あと、これ、うちの親からです」
「今、コーヒー淹れるね」
袋を受け取ると、マヤが言った。
「いいのよ、気を遣わないで。なにか話があるんでしょう?」
真希はもう一度同じように肯くと、
「・・・・・実は相談と言うか・・・・・ちょっと思い出したことがあって」
「それって、事件と関係のあること?」
真希は戸惑ったように顔を曇らせた。
「・・・・・もしかしたら、関係ない・・・・そうじゃないかも知れないことなんですけど」
「大丈夫よ、話して」
プリンにスプーンを添えて渡しながら、薫は聞いた。
「実はわたし、最近、電話を換えたんです。機種変更したついでに、アドレスと、電話番号も。・・・・・ずっと知らない変な人から、携帯に連絡があって」
「それはいつぐらいから?」
「先月のはじめ・・・・・もしかしたら、一月頃からかも知れないです。最初は普通の迷惑メールだと思ってたんですけど、無視してたら、わたしの学校や家の近くの写メとか・・・・・・あと、家の中を盗み撮りしたみたいな写真とかが添付されてきて」
「警察に、通報は?」
「はい、相談しました。ストーカーかもしれないって言ったんですけど、まだ、実害がないからって調書だけとって、それでもやっぱり気持ち悪いから、電話ごと換えることにしたんです。そのとき、のちのちの証拠になるからってお父さんにも言われて、古い携帯電話にみんな、それを取っておいてあるんですけど」
真希は言うと、バッグから、白い小さな携帯電話を薫に渡して、中身を見せた。
「全部、送信者のアドが、わたしのになってるんです」
添付されているメールはアングルから見ても明らかに隠し撮りされたものと分かるものだ。中にはほとんど真希のすぐ背後から、通学する彼女の様子を捉えたような映像も珍しくなかった。
「自分のアドレスから自分の携帯に送信されてるって言うのは、気持ち悪いわね」
見るからに、海外のサーバーから送られてきているものと思われるものもあれば一見友達のアカウントを利用して送られてきている不気味なメールもあった。本文は英語だが、内容をたどってみると、先頭の数行はニュース記事の断片を拾ったような脈絡のないものだ。
「で、どうしたんだ、それで?」
先を急かすように、金城が聞いた。話しなれていない真希は、それだけでちょっと、焦って、
「被害が収まらなくて電話を換えたのが、三月の初めで・・・・・その直後に・・・・・わたしの事件が起きて、マヤちゃんにここに運ばれてきてからずっと、携帯電話の電源を切っていたんです。それがこの前、電源を入れてみたら・・・・・・」
真希は、新しい携帯電話の方を薫たちに見せた。変更したはずの真希の旧いアドレスからそれは送信されていた。三枚も画像が添付されている。添付されている最初の写真は、嶋野美琴が殺害された場所と、まったく同じように見えた。
二枚目は、薫たちを一瞬、凍りつかせた。吊り下げられているのは全裸の人間ではなく、プラスティックで造られた、ダミーだ。美琴とまったく同じ姿勢で、ぶら下げられている。ここで薫は、メールの件名が、READY FOR EXCUTIONであることに気づいた。
「・・・・・処刑準備」
三枚目を開いたとき、薫は声を上げそうになった。
ダミーの足の下に、安置されている奇妙な物体。陸に打ち揚げられた鮫の死骸のように不気味な佇まいの、深い緑色のボディ。
「爆弾よ・・・・・これ、見覚えがある」
「待って」
そのとき実際、声を上げたのはマヤだった。
「どうかしたのか?」
「二枚目を写して。・・・・・・もう一度、早く」
「・・・・・・?」
爆弾から目を離せなくなっている薫に、慎重な声でマヤは言った。薫はもう一度、ダミーの画像に戻した。
「見て」
マヤの指は、ダミーの背後、廃材のテーブルに置かれている、パソコンのディスプレイを指していた。ダミーのボディに右半分は隠れているが、そこに映っている図形に薫も見覚えがあった。
「・・・・・・これ」
「どう言うことだ?」
マヤは黙って、押収したノートを取り出すと、金城と真田に広げて見せた。
「やつか?」
「そうみたいね。ただこれだけで、美琴の件に例の男が関わっているとはまだ言い切れないけど」
「・・・・わたし、見覚えがあります」
ノートを見て、はっと息を呑んだのは真希だった。
「なんだって?」
「見たことあります。赤い丸の、三角形ですよね・・・・・?」
真希は落ちつかなげに首を縦に振ると、
「警察の人に相談したときに、お父さんが家の周りを調べたんです。そのとき、家の外壁とか、近くの案内板とかにいつのまにか悪戯されてて。色も形も同じ・・・・確かに、このマークでした。あ、古い携帯に写メも撮ってあったんだ」
そう言って、真希が見せてくれたのもやはり、同じ三角だった。
「な、なあ、待てよ・・・・・じゃあ」
金城の声は興奮して、震えていた。
「もしかして、神津が追うクワ・ハルってやつが、美琴の『清算』に参加した四人の中にいるってことか?・・・・・まさか、彼女を襲った復讐に、美琴を?」
「可能性は高いな」
真田が言った。
言葉にならない薫のため息をよそに、マヤはデスクの上のファイルを取り上げると、無造作にページを開いて見せた。判明した二人の容疑者の顔が、再び地上に現れた。
「さっきの薫と話したこと、忘れてないよね、金城」
マヤは、当惑して両手を上げている金城に向かって、言った。
「二つの路線が合流したわ」
・ISM(イズム)(上)
さて、いかがでしたでしょうか。概要にも書きましたが、本作はタートルランズ・エスケイプの続編として書かれたものです。講談社メフィスト賞の最終選考に残った作品でした。前作にまして量も内容も密度が濃いので、なかなか読み通しにくいかと思われますが、下巻ではさらに混沌とします。「謎解き」要素を重視した前作と異なり、ある意味ではサバイバルをテーマにしているので・・・いったい誰が生き残って、誰が死ぬか。そんなところをお楽しみに下巻まで辿り着いて頂ければ幸いです。ここまでお読み頂いてありがとうございました☆