レンブラントと枝垂れ桜

レンブラントと枝垂れ桜

誰かとの思い出は一緒に過ごした時間の長さや、会った回数の数の多さから生まれるものでもなく、たった一回の出会いでもはっきりと色あざやかに自分の中に残っていくと何かに書かれていたが、彼女との思いではまさにそのとおりであった。

私が彼女と知り合ったのは取引先の会社に、伝票のミスを謝りに行った時のことだった。総務の担当者にしきりに頭を下げ謝る私を見ていて
「田中さんでもミスするんですね」
くすっと笑い話しかけてくれたことから自然と会話が生まれるようになった。
彼女の名は洋子といい当時まだ二十三歳、大学を卒業し入社して一年を迎えようとしていた頃だった。その初々しさと可愛らしい声にやがて私は彼女に惹かれていった。とはいえ私は三十六歳バツ一で一回り以上も歳が離れ、始めは付き合うのさえ戸惑うほどだったが、会うと彼女の明るさになぜか日頃の疲れも感じられなくなっていた。当然と言おうかその交際を彼女の両親が知った時、止めなさいと反対されたのはいうまでも無いが、その言葉を聞かずに私と交際を続けてくれた彼女が私は愛おしかった。

彼女とはじめて二人で過した時間は会社帰りのカフェだった。
私が彼女にメールアドレス聞くと「いいですよ」と快く教えてくれた。
私はなぜその彼女のアドレスを聞いたのかはっきりと覚えていない。やはり可愛らしい人だなと思い言葉交わしたが、職場での話はまずいかなと思ったことからだったろう。同時になぜ彼女がアドレスを教えてくれたのかもその時はわからず、それが分かったのはずっと後のことだった。
「これ私の携帯アドレスです」
偶然の重なりのように彼女の隣に人は居らず、イラストが描かれた四角い付箋にアドレスを手に持ったボールペンで記入すると、小さな声で言いながら私の手に貼り付けた。
「ありがとう、じゃあメールいれるから」
初めてのメールは私が送った「始めまして、田中です」だったはず。その後「ありがとうございます」と返信がありメール交換が始まり色々なやり取りとなった。
とはいえその内容は「おはよう」の挨拶だったり「今通勤中」だったり、他愛もない日常会話がほとんどだが、それでも独り身の中年男性にとって朝晩の挨拶メールは、相手が若い女性であることも手伝い心暖まるコミュニケーションだった。時には彼女の写真が添付されているのを見たりすると、そのうち画面上の無機質でつめたい平面的なデジタルのやり取りだけで満足できなくなり、何も介せず彼女の表情を見ながら声を聞きたくなりお茶に誘ったもので、勿論下心など微塵も無い。
その日の夕方、仕事も少し残っていたが、待ち合わせ場所にしていた駅前近くのカフェへ早めについたのは年甲斐も無く浮かれていたためだったのかもしれない。
客の少ない店内に入ると女性が注文を取りに着た。
「連れが来てから注文するので」
水だけ置かれテーブルで、私は訳も無くどきどきして入り口を気にして彼女が来るのを待っていると、遅れてきた彼女は、先にテーブルについている私を見つけぺこっと頭を下げた。
「ごめんなさい、お待たせしちゃった」
あとから入ってきた彼女はそういいながら席の近くへやって着た。
現れた彼女は私の知っている髪を束ねて、取引先の濃いグレーのパンツとベストの制服を着た姿ではなかった。
肩まで伸びたストレートヘア―に、ブランド品でないにしても胸元に大きなリボンのついた淡いグリーンで膝上5センチほどのシフォンのワンピース。腰のところに締めたベルトと手に持ったバッグに、さほどヒールの高くない靴は上手くコーディネートされ良く似合いっていた。余りの変わりようにしばし見とれてしまい、そのわずかな時間を彼女は察した。
「あの・・私どこか変ですか?」
椅子に座るでもなく、私の目線をたどる様にちょっと戸惑いながら自分の胸元に目を落とす。
「いや、あまりに会社の制服姿の感じと違うから驚いたんだよ」
私は彼女に椅子を勧めることも忘れて話し、彼女に私の目線を意識させたことは恥ずかしかったが、そのことから打ち解けられた。
立ったままの彼女にふと気づく
「ごめん、まあ座ったら」
「あっ、そうですね」
ようやく彼女は席に着き、バッグを横に置いた。
「とても似合っているよ。いつもそんな格好で会社行くの?」
「違いますよ、いつもはパンツだったり、スカートでも動きやすいもの、ほら、電車込むでしょ。でも今日は特別」
彼女は少しはにかんでそういった。
いつもその格好で通勤している彼女はこの日、わざわざこのワンピースを持って出勤し帰りロッカーで着替えていると、いつもと違いおしゃれな服に着替えているところを同僚に見られ、今日は何があるのか、誰と会うのかと詮索されたと笑った。社内にはまだ独身で年上のお姉さん方が何人も居て、その人たちの妬みが怖いと冗談をいった。
「別に誰と何しようが勝手でしょうにね、大学の同級生と食事ですって言いました」
女性の多い職場もそれなりに大変なのだと感じ、自分も会社の女子社員にそんな言葉をかけているのではないかと少し心配にもなる。
「へえ、でも今日は特別って、これから予定でも?」
「違いますよ、だって男の人に誘われてお茶するんだし・・・私・・・浮いてます?」
目を細めて言ったあと、その目をくるっと大きくすると両手を軽く広げてもう一度自分の洋服を見、周りを気にする
「浮いてはいないけど、僕でもそうやって気にかけておしゃれしてくれたんだ。ありがとう」
「そうですよ、嫌われないようにきちんとした格好できました。こんな服は好みではなかったかな」
「いいや、逆に好み。ストライク」
私は親指を立て野球の審判のようにポーズをとる
「良かった」
老人になっての十三歳違いは別段年の差を感じないだろうが、20代と30代ではライフスタイルも随分違い、それに伴って趣味も嗜好も総て変わる。正直お茶に誘ったはいいが何から話したら良いか、話が合うのか一抹の不安はあったが、服の話から会話が弾んだのは年の差を気にしていた私にとって幸運に感じた。
その後先ほどのウエイトレスが注文をとりに来た。
「なんにする?」
メニューを渡すと少しメニューをめくる
「私、カフェモカ」
「だけでいいの?ほかには?」
「いいえ、だけでいいです」
「お願いします」
私はウエイトレスを呼ぶとそれを二杯注文した。
「今日はありがとう、まさか来てくれるとは思わなかった」
「いいえ、私こそ。正直、お茶に誘ってくれてうれしかったです」
「嬉しいといわれると、こっちまで何か嬉しくなるな。いつもメールありがとう、あれって結構嬉しいもんだよ」
「そうですよね、ちょっとしたコミュニケーションですけど、温かみありますね」
注文したカフェモカがテーブルに運ばれると、ウエイトレスがコーヒーを置く間その話はいったん途切れた。
「そう、温かいのはいいけど、彼氏気分害さないの?」
「田中さんこそ、私とメールやり取りして奥さん何も言わないんですか?」
当然この歳である、結婚して嫁も子も居ると思ったのだろう。しかし離婚してもう5年が過ぎ、独り身の私にはメールだろうが電話だろうがデートだろうが気にすることは何も無い。
「やっぱりそれ、気になるよね。ご安心ください、私は独りです。いまでは珍しくも無いバツ一」少しおどけていった
「ふーん、そうなんだ・・・じゃあ気にしなくていいですね」
始めて顔を見合し二人だけで交わす会話、お互い色々なことを知ろうとする。私の言ったバツ一をまずいこと言わせたとでも思ったのかその事には触れず、次の質問になった。
「あの、どうして私を誘ってくれたのですか?」
どうして?確かにどうして彼女なのだろう。彼女の会社で声を掛けられ、メール交換から自然に会話をし、話をしたい。ただそれだけだったはず。
「どうして?・・んー確かにね。ただメールを重ねると会って話したいと思ったから」
「そうやって相手探しているの?」
何か変な察し方で詮索をされているようだったので、わざとおどけるよう関西のお笑いをまねて動作を加え言ってやった。
自分でも絶妙の間だったように思う。
「なんでやねん!」
自分では受けたが彼女にはすべった。そのままでは冷たい風が吹くので、彼女を誘った理由を続けた。それに私もどうして私でよかったのか、それもわざわざ服を変えてまできてくれたのか気になった。
「あなたを職場で見かけて、可愛らしい人だなって思ったから。声を掛けてくれたのは、ある意味ラッキーと思ったかな。でもその時はそんなつもりは無かったけれどメールを重ねていくうち、それでは味気なくなって話してみたいなと思ったんです」
最後は他人行儀で硬くなった言葉になってしまった。そして
「で、あなたはなぜ来たの?」
「えっわたしですか?」
彼女は何か戸惑い、言葉を捜すようだった。
「・・・田中さんと同じですよ。メールで何だか雰囲気合いそうって・・・」
ただ一回だけのお茶のつもりだった私は、彼女が何を考えているのかこの時はまだはそれ以上考えるつもりは無かった。メールでのやり取りというのはそういったものだろうと考えていたし、若い女性と話をすること自体気を使うだけで、そう楽しいものでもないだろうとさほど期待はしていなかった。
「会社の人たちと食事とか一緒に遊びにいったりするんでしょう?」
「週末の夜はたまにありますけど、休みはほとんど一人です」
「今流行の合コンとかは?」
「それもありますけど、あまり楽しくもないですよ」
「楽しくないの?」
「ええ、気を使うし、それに何か合わないし」
私はこれほどかわいらしい女性が休日になぜ一人か気になった。
「へえ週末一人って、彼とデートとかしないの?」
なぜかさっきもこのことは聞いたと思い、まずいこと聞いたかなと言った後気がついたが彼女は気にもせず答えた。
「彼って・・・・気になります?」
「え!?」
「彼って聞いたの、二回目だし」
別に彼のことを気にしているつもりはなかった。ただ若い綺麗な女の子が彼もいないのは不思議だったし、どんな暮らしをしているのか、少しの好奇心と言葉のあやからでた言葉だ。
「いやそういう訳でもないけど、ついね」
「彼っていっても片思いだし、職場の人ともあまり話し合わないですしね。休日は自分の時間を過ごしたいでしょう?」
「まあそうだけど、そっか・・・片思いね。やっぱりその出会いは・・・ネットとか出会い系で?」
「違いますよ」
彼女は笑った。
「田中さんこそ出会い系使っているんでしょう?」
やぶへびな答えが返ってきてしまった。
正直この年で独り身としては風俗も出会い系も経験はある。しかし女性が悪いわけでもなく否定もしないが、あの味気ない行為や出会いはその後の虚しさだけを感じてここの所、行くことも利用することもなくなった。しかしそれを察せられることを嫌い私はまた関西風の答え方をした。
「なんでやねん」
「それに会社の人とか趣味とかも合わないし・・・田中さん趣味はなんですか」
他愛の無い話で時間が過ぎ、もう飲み物も無くなりグラスに入った水を飲んだとき彼女に聞かれた。
趣味というほどのものは私には無い。時に趣味がパチンコやマージャンなどという人も居るが、パチンコが趣味なのかと考える私はギャンブルそのものに興味も無くゴルフもしない、自然を楽しむのは好きだがキャンプや山登りに行くわけでも無く、それは日常の生活で感じることでそれも趣味ではない。時にお気に入りの音楽を流しながらドライブはするが、あれも趣味の範疇ではない。読書?それも気になった本が有ったときする程度か、そう考えると自分は無趣味とも言えるかもしれない。この性格に妻は息が詰まったか魅力がなくなったのだろうかとも考えた。
「そうねえ、それらしい趣味はないかな。まあしいて言えば、美術と音楽鑑賞をするのは好きで良く見たり聴いたりするかな」
彼女は驚いたように目を大きく開く
「ええ!?私も良く美術館へいくんです。先日は昭和の日本画展にもいったんですよ・・・大観、観山の屏風は凄かったな」
そういうとややトーンを落とし、感動を呼び戻すかのように遠いところを見ているようにいうと少し間があった。
「良かったら今度連れて行ってください」
その言葉は唐突だった。やや声を張り嬉しげに言う。
私からすると女性というにはまだ若い、その年代の女の子の話としては男性アイドルグループであったり女性タレントであったりテレビ番組やブランド品の話題が一般的というイメージがあった。しかしまだ二十代半ばの女の子から昭和の日本画という言葉が出たことに正直驚き、ましてやこの子から大観、観山などという名が聞けるとは夢にも思っていなかった。この一言で話の展開は大きく変わり美術や音楽の話へと発展し、二人の道も作られていったのだった。
「大観に観山とは驚きだな」
「洋子さん・・・あっ、洋子さんと呼んでいいのかな?」
それまであなたはと呼んでいたことも気が付かず突然彼女の名が出てしまったのはその驚きからでもあった。それまでメールでのやり取りだったので名前を呼ぶことも無く、この時初めてまだ名前を呼び合ったことも無いことにようやく気づいた。ネットというのはこの名前を呼び合う感触が無いのが殺風景だが、今日はこの顔を見てお互い呼び合う、この感触を味わいたく誘ったのだと改めて気が付いた。そしてこの先彼女を名前で呼ぶようになった。
「いいですよ」彼女は目を細め答える。
「じゃあ洋子さん。まさかあなたから、いや洋子さんからここで大観、観山の名が出るとは思わなかったな。じゃあ他にはどんな作家が好みなの?」
私は好きな絵の話が彼女と出来などと夢にも思って居なかった。
彼女と違い、よわい年を重ねた女性でも話が合った人は居らず、男女関係無く周りに話が合う人は殆んど居ない。だからといって根暗ということは無いと自分では思っているが、話が合わないと話しにならないので回りは理屈っぽく暗いといい、妻もそれが嫌だったのかもしれない。久しぶりにこうして絵の会話が出来ることが嬉しくなり彼女が言った日本画の作家名から興味を覚えた私は、彼女の口から次は誰の名が出るのだろうとわくわくした。
「私何でも好きなんですよ、日本画も洋画も。でも・・あえて言うならレンブラント・かな」
彼女が言ったその答えは意外なものだった。レンブラント・ハルメンス・ファン・レインは十七世紀に活躍したオランダを代表する有名な作家で、一般的にそのファーストネームのレンブラントと人は呼び、光と影の魔術師とも使い手ともいわれる。特に彼の内面性が現れる自画像は好まれ、その描写力には驚かされるがそれはある程度歳を重ねた人が好むもので若い女性が好む絵ではないと勝手に決めていた。
「ゴッホやモネじゃなくレンブラントとは渋い趣味だな」
「ゴッホもモネも好きですよ、いつも暗いと気持ち沈みますもん。ゴッホの生命感、躍動感は元気になれます。それにモネもたまには癒されますよね」
彼女は未だ残っていた飲み物を確認すると、残り僅かだったカフェモカを飲み干し私にその名を言った。絵への感想が私の絵の感想とぴたっと一致したのに、驚きと共に仲間が出来た喜びも感じた。
「随分詳しいね、絵の勉強でもしてたの?」
「いいえ、ただ好きなだけです。なんかそんな感じがするだけ」
それは私も同じだった。特に勉強したわけでも教えてもらった訳でもなく、ある時ふと入った美術館にある絵から感銘を受け、それから足しげく鑑賞するようになっていった。時にテレビで紹介される美術番組も見てはいるが、タレントのそれらしい感想や大げさな表現にはあきあきする。
「感じかあ、それ分かるなあ。たとえばルノアールの日傘の女性だと乾いた風がさわさわって流れるって感じね」
「そうそう、そうなんです」再び目を細める。
「田中さんは誰が好きなんです?」
「僕?そうねえレンブラントも良いけど僕はオランダならやっぱりフェルメールかな」
ヨハネス・フェルメール、オランダを代表する画家で生涯の殆どを商業都市デルフトデで過ごし活躍した。その光は日本人にも好まれ多くのファンがいて私もその一人だ。天然のラピスラズリを使った彼の青はフェルメール・ブルーとも言われ特徴の一つで、現在世界で三十数点しか作品は存在せず、その作品はもっとも盗難にあった作家画でもある。他の人と同じく私も、彼の厚塗りをせず描いた、淡い光の描写が好きだ。彼を題材にした映画までありそれも見ては良くできた映画だと感心した。
「田中さんはそっちのファンなんですか」
「そう、そっち。いつも一人なの?」
「友達で絵画見る人もいないからいつも一人なんです。」
「そうか、一人か、一人で見るのも寂しいものもあるよな。まあ洋子さんの年代で大観といってもねえ」
可愛いらしいこの子に彼がいないのも不思議な気はしたが、出会いがないという現代ではそういうこともあるのだろうかと思い直し、同年代の友達に日本画を鑑賞に行こうと誘ったところで「それ何?」といわれるのも落ちかなとも思う。
「ですよね」彼女はくすくすと笑った。
「でもまさか今日洋子さんと絵の話が出来るなんて思いもしなかった」
「それは私も同じですよ」
「職場でも友達とでも話しあわないだろうね、そりゃ」
「ええ、そうなんです。アニメ原画とかジブリ映画関係だと一緒に行くのですが、絵画ねえって言われてしまいますね」
「だよね」
美術やクラシックは良いぞと同僚、部下に行ったところでそうですかで終わる。彼女とて同じで美術鑑賞といったところでそう話が合うとは思えない。私は自分の体験を話すと同じだといって笑った。
レンブラントの名で丁度行きたかった展覧会に彼の自画像が一枚展示されているのを思い出した。コンサートや美術展へ行き感動を覚えても、その後その感動を共有できない一人での鑑賞がもの足りないことは、ここ数年一人で鑑賞に行っている私も身にしみて感じていた。同じ趣味のものと同行しその後感動を話しあい分け合うのはとても楽しいので、彼女の誘ってくださいといっているのはそういう意味なのだろうと思う。
「そういえば今やっている展覧会にレンブラントが一枚来てるね」
「ええ、自画像ですよね、それに一枚フェルメールも来ていますよね。じゃあ来週・・・
ごめんなさい・・・勝手に盛り上がって」
気まずそうに言うと目線を落とした。
日曜は別段予定も無かったし、丁度見に行こうと思っていた展覧会だったので、彼女のリクエストにお答えすることにする。一つには彼女の気の変わらぬうちにというのもあった。
「じゃあ次の日曜に行こう」
「ほんとに?ほんとですか」
私の言葉にぱっと表情が変わり笑顔になったのは印象深かった。
 一時間半ほど一緒にお茶を楽しんだ彼女からは、若い女性らしい活発さに加えその言葉からは利発さが伝わり、どこと無く紗がかかったなんと無く陰のある雰囲気は私の心のオアシスとなったが、それがどこから来ているのかは分からなかった。しかし、しっかりとしたご両親に愛され育てられた女性であることは伝わった。
時計に目を落とす
「こんな時間かあ、じゃあ今日は帰るとしよう」
「そうですね、楽しい時間を過ごせました。ありがとうございました」
 店を出ると外はすっかり暗くなり街の明かりが道を照らす、このまま食事にでも、と、ふと頭をよぎったが行き交う人々に混じり彼女を最寄りの駅まで送っていった。
駅への上り口の階段へ着くと私のほうを向き
「今日はありがとうございました。じゃあ日曜・・・楽しみにしています。またメールいれますから」
身体の前で両手をそろえお辞儀をすると柔らかいワンピースのスカートを揺らし元気良く階段を登っていく、そして中ほどまで行ったとき一旦止まり振り返ると下で見送る私を確認したのか
「おやすみなさい」
また笑顔で声をかけ階段を駆け上っていった。
 
彼女を見送り帰る道すがら、こんな時を過ごしたのはいったい何年ぶりだったろうと思い出してみたが、思い出せないほど昔の事になっていた。
「ねえ洋介、今度のゴッホ展見に行こうよ」
結婚当初は妻のほうから誘い、展覧会を見て楽しく食事もした。その後
「なあ今度これ行かないか?」
私が誘っても返事はたいてい決まっていた
「ごめん、私、休みは自宅でのんびりしたからあなた行って来れば」
お互い仕事が忙しかったせいもありそれも徐々に減り、各々の時間を過ごしだすと生活自体もすれ違うようになり、同時に夜の生活までレスになっていった。お互いそれは苦にはならなかったが、最後には書類に判を押し二人は別れた。
もしかしてあいつに男が・・ふとそんな思いも頭を過ぎったこともあるが、今となってはどうでもいいことである。
しかし思い起こせば妻との生活は、悠久の時を彷徨った隕石が星と衝突することなく上手く軌道を交差すると、お互い遠ざかったような微妙な出会いだったのかもしれない。お互い影響は与えたが、大きな問題や確執は生まれず喧嘩することなく穏やかに別れたことは事実で、二人の間に子供が居なかったこともその一つだったろう。そんなこと考えて電車に乗っているとメールが入ったのは彼女からで『ごちそうさまでした』とあった。


日曜日、陽のあたる場所に居ると少し汗ばむ陽気だった。
待ち合わせは会場入り口と決めていて、約束の時刻少し前に石造りの美術館に着いていた私は、日向を避け入り口近くで展覧会を見に来る人々や、通りを歩く人を見て時間を過ごしていると、向こうからやってきた彼女は私に気がついたのか頭を下げる。
無言の挨拶を交わすと、やや歩調を上げるとその風を受け髪がなびいた。この日彼女はパンツ姿にスニーカーでサマーニットが胸のふくらみを強調させている。その胸元には金色のちいさなペンダントが掛けられ、それが揺れながら近付いてくる。そのカジュアルな姿に私はまた彼女の別の一面を見つけた喜びがあった。
「待ちました?」
先に来ていた私を待たせたと気になったのかと細い腕にしている腕時計に目をやり訊ね、少し汗ばんだのか薄いハンカチで額を押さえた。
「いや、さっき着いたところ」
「よかった」
私の言葉で安心した表情になる。
「じゃあ行こうか」
「ええ」
二人は美術館へと入っていった。
 会場に入ると人は多いが中は薄暗くひんやりと感じた。この日彼女の好きなレンブラント初めフェルメール、ヤーン、ルーベンスなどフランドル派の絵画が並び、人々はその名画の前に立ち止まり絵の持つ力を感じているようであった。一緒に来ている人とだろうか絵を見ては小声で感想を言っているご婦人の姿も見られたが、若い人の数は少なかった。
 何番目かの展示部屋に入った時、そこに彼女の好きなレンブラントの肖像画がスポットを受け飾られていた。
「これだね」と他の人の邪魔にならないよう気を使い小さく彼女に声をかけるとコクッとうなずく。私は彼女に並びその絵を見た。
晩年のレンブラントの自画像はよりいっそう暗みを増し、自分の人生をその絵に封じ込めているように感じる。自分の思い描いた幸福と成功がなしえなかった人生の深さがこの絵の表情として感じられていた。
ふと隣を見ると彼女は背筋を伸ばし見入っている、何かを感じるように動かなくなり絵との対話をしているようにも思える。彼女には他の一切のものが消え、そこにあるのはレンブラント本人の心のみ、時間もこの空間さえも感じなくなるほど絵に入り込んでいた。私は絵より彼女の表情のほうが気になり彼女を見ていると、その綺麗な瞳にゆっくりと涙があふれると、絵に反射した光は涙に輝がやかせ、目じりから頬を伝いキラッと光りを放ち落ちた。そして小さな声で「辛かったのね」とつぶやいた。
短い時間だったがその姿はとても美しくスローモーションのようにも感じた。それを終わらせたのは新たに来た鑑賞の女性客で、私は場所を譲ろうと彼女腰に手をやった。それで吾に返ったのか、まだ潤んだ目で私を見ると察したのか場所を譲り同時にバッグからハンカチを取り出すと今流れた涙を拭った。
「大丈夫?」他の迷惑にならないよう小声で訊ねた
「ええ、大丈夫」
うなずくとやはり小声で返ってきた。それからはまた別の作品を見て回る頃普通の彼女に戻っていた。ブリューゲルの花の絵、ルーベンスの「キモンとエフィゲニア」などどれも素晴らしいタッチ、表現で何度見ても飽きることは無い。
そして最後の部屋にはフェルメールの「牛乳を注ぐ女」だけが飾られ、そこには人だかりが出来ていた。その絵を見た彼女は何も言わず私を見たのは「これね」というサインだったのだろう、無意識に私は小さくうなずいた。
前列の人が引けるのを待って近付くとその絵が二人の前に現れる。窓辺に置かれたテーブルにはフェルメールの好んだブルーで描かれたテーブルクロスにパンの入った籠などが置かれ、その横にある容器に、当時の白い麻の帽子をかぶった体格のいいメイドの女性が壷から牛乳を注いでいる姿が、絶妙な濃淡の白い壁をバックに浮き出ている。その女性の前掛けは鮮やかなフェルメールブルーで描かれ、対比するかのように黄色味をもった厚手の上着と臙脂のスカートがより青を引き立てている。窓から射す光は彼特有の描写でそれを受けたメイドの表情には牛乳のことだけではなく何か他ごと、主人の悪口でも考えているようにも映る。床に置かれた足温器はその場には不釣合いのように感じるがそれが絵を引き締めているようにも思い見ていた。
「さすがよね」彼女はまっすぐ絵を見ながら独り言をいった。

途中スツールで休みながら、ゆっくりと2時間ほど鑑賞を楽しんだ二人は美術館を後にし、数分歩いたところにある洋館風カフェに入った。
入り口近くには木が数本立って、つたを始め緑が一杯あり、そこだけ涼しさが感じられる。
木の扉を開けてはいると一階には同じパンフレットをもった先客のカップルが座っていて、その前を通り進んだ奥の席は、四角い古びた木のテーブルに白い木綿のクロスが掛けられ、電球がついた小さなスタンドが置いてあった。大きな通りに面した割りに中は静かで小さな音量で音楽が流れている。席に着くと黒いエプロンをつけた女性が水の入ったグラスを持ってきて、メニューを渡され、二人がそれを見て考えていた。
「お決まりになられましたらお声掛けください」
次の客も入ってきて気になったのか、待ちきれなかったのか去っていった。
「何にする?」
「うーん、ケーキットにしようかな?」
メニューを見るとき片方の髪を耳に掛け、現れた耳たぶには小さなピアスが見えた。
「ケーキはどれにするの」
メニューをめくっては考えていた彼女は
「私コーヒーとガトーショコラのケーキセット」
そういうとメニューを置く。
「お願いします」
先ほどの女性呼ぶ
「ガトーショコラとコーヒーのセット一つとコーヒーだけを一つ」
復唱して伝票に書くとメニューをもって行った。
一息つこうと置かれていたグラスを取ると結露した水分を吸った白いクロスは、そこの色が丸く変わっていた。窓辺に目をやる
「あの・・・チケット代」
私がまとめて購入した代金を気にしたのか、黒い革のカバンの口を開き財布を取り出そうとして彼女が切り出す。いくらしがないサラリーマンであっても若い女性を自ら美術鑑賞に誘いその代金を出さすわけも無い
「いいよ」
「でも・・」
「いいって」
「・・・すみません」
ペコッと頭を下げた。
「じゃあ、あの、半券あります?」
「半券?」
「ええ」
入場の際に私が二人分差し出したまま持っていた半券を気にしたのでジャケットの内ポケットから取り出し、少ししわになった半券を見せた。
「これ?」
「それ、記念にいただけますか?」
「ああいいよ」
一枚を彼女に渡すと軽くついた折れ目を直した。
「私、行った展覧会のチケットとパンフ全部おいてあるんです。後でね、それを見るとああ、こんな絵もあったなとか、これはどんな絵だったとか振り返れて楽しんですよ。それに今日のは特別だし」
そういいながら四つ折にしたパンフレットに挿み大事そうに先ほど空けたバッグに仕舞うとの口を閉めた。
この時も言った「特別」の言葉。実は二回目だったがその意味を私は気にも留めず聞きなおしてあげることもせず、レンブラントの絵があることが特別なのかくらいにしか思っていなかった。
注文した品が来るまで、今見た絵の感想をお互い話し合った。水を一口飲んでもとの場所において、彼女の感想を告げた。
「レンブラントの時、驚いたよ」
「ごめんなさい・・・入ってしまいました」
「ううん、そうやって感じられる感受性があるっていいと思うよ」
「レンブラントが妻を亡くし、息子を亡くし、再婚、そして無一文へと落ちていくその時間を、彼の自画像が語りかけてきて「辛かったのね」と思わず声に出ました。周りのことなんて忘れていました」
彼女は絵を見て涙を見せたのを少し恥ずかしげに言う
「彼の絵を見て涙するという話は聞いたことあるけど、洋子さんがそうだとは思わなかった」
以前知人が海外へ行った時、美術館で女性二人がレンブラント自画像を見て涙していたと聞いたことがあったが、それほど絵に入り込む人もいるのかと少し眉唾に聞いたが、それを目の当たりにするのは私も驚きだった。
彼女がそういう感性の持ち主だったことにまた一つ魅力を感じたのだった。
「絵を見たあとのこの時間がたまらなくいいね」
私は鑑賞した後のこの余韻を楽しむ時間がなんとも心地よく、まして相手が自分と同じ感性を持つ可愛い女性だったので、とても贅沢な時間に感じた。感想をいい、話をすることによって気にしていなかった作品までも呼び起こされ感動となり深く残っていく。それは久しぶりに味わう時間となった。
「ほんとですね、私も誰かとこうやって話ししたの久しぶり、前はいつか忘れました」
ルーベンスやライスダールについて話をしていると注文した品が運ばれてきた。コーヒーは砂糖もミルクも入れずブラックで、カップを口に運ぶとスーッと香りを愉しむ。その仕草を意識するとも無く私は見ていた。
「いい香り」
笑顔でいうと一口口に入れた。そしてケーキの端をフォークで一口分カットすると添えられた真っ白い生クリームをすくい口に入れるとウフッと目を細める。その仕草がなんとも可愛く、あまりに美味しそうだった。
「おいしそうだね」
その言葉に彼女は反応した。
「食べます?」
「いやいいよ、お食べなさい」
背もたれにもたれ,私は断ったが彼女私の言葉を聞きもせず、先ほどと同じようにカットすると、クリームたっぷりと付け「はい」と口元に差し出した。
「えっ!」
さすがにこの時はドキッとし、この言葉しかでなかった。
特に求めても無かったが食べます?の次に来るのはプレートごと差し出すものだとしか頭に無い私に、若い恋人同士のようフォークにさしたケーキを差し出されたのを別段誰が見ているわけでもないだろうし、私たちがケーキを分け合って食べていることに興味はないだろうが、彼女の大胆さに驚かされ少し躊躇っていた
「どうぞ」
彼女はフォークに刺さったケーキを周りも気にもせず私の口の近くに持ってきたので、身体を起こしそれを口に入れる。何だか恥ずかしく味わうどころではなかったが、口の中では苦味と甘さのバランス良く焼かれたケーキと生クリームの柔らかさが上手くマッチして、鼻からチョコの香りが抜け確かに美味しかった。
彼女は私をじっと見て、次に出る言葉を待っている。
「うん、確かにおいしいね」
素直な感想をいう
「ねっ、美味しいでしょ。このビターな感じがいいですよね」
再び目を細め嬉しそうにいい、次いでコーヒーを飲んだ。正しく感動を味わった後のゆったりと時間を楽しむ、そんな表情だった。
「でも普通、よほど仲の良い恋人じゃないとこんなことしないよね」
その言葉に彼女も初めて気がついたようだった。ケーキを切っていた手を止め顔を上げると両手を膝の上に置き真っ赤になり俯いた。勿論彼女を責めるつもりも無ければ叱るつもりもない。驚いたからいった感想だったが、それを気に止めたように職場で上司に謝るように行った。
「ごめんなさい、そうですよね・・・そうですよね」
純粋そうなその仕草もさまになり、若い女性は何しても絵になるのだと感じ、いまどきこんな表情をする子も珍しいなとさえ感じた。
「洋子さんもそうやって上司に謝っているんだ」
 笑いながらそういったのは、彼女が落ち込んだのではないかと思ったからで、これでは空気がまずいと感じた私は話題を変えた。
「洋子さんは将来なにかしたいことあるの?」
彼女に気をそらせれば話題はどうでも良かった。まだ少し気にしてるようだった。
「将来ですか?そうですね」
カップを両手で持ち暫く考える時間があった。
「一つ夢があるんです」
「夢?」
「ええ、小さな夢なんですけど」
「どんな夢?良かったら聞かせて?」
私がその夢に興味を持ったのは言うまでもない。一口コーヒーを飲みそのカップを置くとカチャと音がした。若い女性の夢がどんなものか興味があった。どこかでは女性グループのタレントであったりモデルになりたいという答えが出るのかなと期待したが全く違うものだった。
「ええ、私結婚して、新婚旅行はオランダ行きたいんです。」
夢というには現実的な話だったし新婚旅行に選んだ先がオランダというのも意外だった。とはいえレンブラントが好きであればそこであっても不思議は無いが、新婚旅行といえば幸せの絶頂期でつい明るいところを想像してしまう。
「それって簡単に叶うんじゃない?それにオランダなの?ハワイとかタヒチじゃなく?」
「ええ、オランダ」
「へえ、南の島は嫌いなの?」
私も南の島にこだわることは無かったが、「ハワイ・ウエディンいくら」と電車の中吊り広告や雑誌などでよく見るマスコミの影響だろうか、自分の先入観がついそういわせた。
「嫌いじゃないですよ、でも新婚旅行はオランダって決めてます」
彼女は軽い笑い声に混じりそういう。
「それはどうして、チューリップと風車?」
「ううん、オランダのマイリッツハイスへ行って、旦那さんと並んで真珠の耳飾りの少女とデルフトノ眺望を見るんです、手をつないでね。それとやっぱりアムステルダムにある、レンブラントの『夜警』かな。丁度新しくなったってニュースで言ってましたよね、マウリッツハイスもアムステルダムも。暑いところだと旦那さんの手の温もりが感じられないでしょう、だから」
少し照れくさそうに言うその話を聞くとある意味少女らしいと思ったが、果たしてその好みに合う相手はどうなんだ?と入らぬ心配をし、夢にしてはもう数年もすれば敵う話だとも思った。
「へえそうなんだ、何とか博士の解剖はいいの?あれもレンブラントの代表作だろ」
「そりゃ見るでしょうけど、あの絵で手を繋ぐのはね」
くすくすと笑うので、私もつられた
「確かにね、繋ぐ手を解剖されてるのもね。真珠の耳飾りの少女はこの間来てたよね、観に行かなかった?」
オランダ、デン・ハーグ。ハーグの森近く、水辺に建つ美術館はマウリッツハウスと呼ばれ、収蔵されている作品の総てが名画中の名画だ。特筆するのはオランダとフランドルの作家の美術館だということで、その絵を楽しみに世界中から人が訪れている。その絵を展示している建物自体が絵画のようでアイボリーとブラウンの外装に、夏の暮れ時、太陽の斜光が差し込むと、ホフ池に反射した光がそれと合わさり、濃く出したアールグレーにミルクを落としたような色となりとブラウンはショコラに近づき、きらきらと波間の乱反射が濃淡をつける。ややブルーグレーの屋根も壁とマッチしていて、それだけでも彼女がここを訪れたいというのは理解できる美しい建物だ。2012年から改装するに当たりこの年、日本でもここの所蔵品の美術展が開かれ、その中に世界的に有名な絵画で北のモナリザとも呼ばれる「真珠の耳飾りの少女」が来日し連日多くの人で賑わっていて、私もその一人だった。
「あの美術展行かなかったんです、新婚旅行までとっておこうと思って。それに彼女には彼女のおうちで会いたかったし、何より初夏を向かえ、お花が一杯のオランダの柔らかい光の中で見たかったから」
美術好きの彼女がこれほど有名な絵画の展覧会にあえて行かなかったのはよほど思いが強いのだろう。「オランダの柔らかい光」その言葉は私を捉えた。レンブラントやその他の画家が好きな理由にその光と彼女がいった、彼女には日本と違う、日本ほど湿度を持たず尚且つ柔らかい北の大陸の光が好みだし、同時に日本の湿度も味わえる人なんだと思った。
「それはあと数年で叶いそうだね。オランダは古楽もいいしね。」
「古楽?」
「そう古楽、バロックとかルネッサンスとかそういう時代の音楽。オランダは面白い国で、合法麻薬があったり、同性婚もOKならば飾り窓で売春もOKなんだけど、この古楽も盛んなところなんだ」
「へえ、よくご存知ですね」
私は絵画も好きならクラシックも好きで一人部屋でそんな曲も聞いている。妻は「疲れたりストレスたまったらお笑いが一番」とテレビを見ては、そんな私を暗いわねと嫌がり、ロックでもかけたらと言われた。もちろんロックも好きだが疲れて自宅へ帰ってまたテンションあげるのは勘弁してもらいたかった。
「まあ好きでね。そういった音楽も。じゃあ佐伯とか荻須とかも好みじゃない?」
「ええ、好きです。その少し暗い・・・違うなあ、弱い?淡い光による色の違いでしょ」
「だろうね、そうだと思った。いいよね、彼たちの街の風景も」
佐伯も荻須も知っているのには驚き、その絵の感想になるほどと感心すると彼女は話題を戻し質問をしてきた。
「ところで田中さんの夢は何ですか?」
「夢かあ・・・・」
私は答えに困った。
幼い少年の頃ならパイロットだのエンジニアだの次々に成りたいもの、かなえたいものが浮かんだが、毎日の生活の中でここ数年特に夢など考えたことも無く、良く聞く一戸建てやマンションのマイホーム購入も興味は無い。自分の夢というにはあまりにありふれた回答になった。
「そうね、毎日嫁さんと幸せに暮らすことかな・・・失敗したけどね」
「失敗した」
「うん、この前話しただろ、バツ付って。まあ大きな声で胸張って言うようなことでもないしね」
話は別のほうに行ってしまった。
「それ・・・構わなければ伺ってもいいですか」
彼女はちょっとした好奇心と、これから訪れるであろう自分の結婚の参考にでもするのだろうと私は勝手に解釈し、自分の結婚生活を彼女に話した。別れた妻との出会い、生活そして別れ。もう五年も前のことで、隠すほどの思い出も内容も無かったためである。彼女は時々相槌を打ちながら興味深そうにそれを聞いた。
「僕が暗かった訳でもないと思うし、硬すぎとも思わないけどね。まあ合わなかったということだね。でね、妻は別れ際に「あなた真面目すぎたのよ」と言ったよ。お互い若かったのかな」
最後はそう締めくくった。
「真面目すぎ?私そっちのほうが良いと思うけどな?だって浮気して帰らないとかギャンブルで家庭壊す人一杯要るし、それよりずっと良いと思うな」
「まあね、ものは考えようだね」
彼女の率直な感想だった。
妻も結婚当初はそう考えていただろうし、少なくとも元妻の両親は真面目な人と結婚できて幸せねと彼女に話していた。それが一体どこから変わったのだろうか。夫婦という、他人が一つ屋根の下で毎日暮らすのは簡単そうでありながらそれだけ難しいということだった。女は少し危なそうな男に惹かれるとはよく言ったものだが、私にはなれそうも無くその話を終わらせる言葉を選んだ。
「お互い直ぐに叶えそうな小さい夢だね」
「そうですね」二人は笑った。
「もし私が田中さんと結婚したら、洋子と洋介ですね。子供の名前は簡単に決まりそう」
結婚の話続きで、女の子が相手に対して結婚したらというのはその場しのぎの暇つぶしの会話、少なくとも私はその時そう思ったしその時の二人の乗りは本当に言葉遊びだった。
「男の子は親の一字をとって洋一、洋二、洋三。でも洋七まではいかないですよね」
きゃははと明るい声でわらうので私も乗せられ、確かに悩むことが無いと笑った。
「それお笑いタレントじゃないの、それに男七人はむさ苦しい。でも女の子だとどうするの?洋子はもう使っているよ。洋、よう、」
私がそういったので暫く二人は考え出した、なにかクイズのようでもあり他愛も無い時間が過ぎていく。
「洋美と書いてひろみ、みひろ美洋、羊羹は使えないし。あっ、字も違うか」
「洋がつくと硬いイメージですね」
彼女は笑ったが、よう、よう、といいながら暫くそのことを考えているようであった。
私が店内を見渡すと先に来ていた客も帰り人が少なくなっていて、時間も結構たったからと思ったとき、彼女が言った。
「でも、田中さんバツ一で私はラッキーだったってことですよね」
「ラッキーというと?」
「だって、奥さんいたらこうやって会うわけにもいかない訳でしょう?いくら絵を見るだけだっていっても奥さん気を悪くするし。ちょっと気になっていたんです最初メールし始めたときから、奥さんいていいのかなって。その点フリーだからラッキーですよね」
「そうか、そうだよな。一人になって女性を誘ったこと無かったし気にしたこともなかった」
「恋人・・・欲しくないのです?」
なんだか少し声が小さかったが、それも私を気にしてのことだろう。
「そりゃいたにこしたことは無いけど、それも縁かなと思うし」
言葉をはぐらかすと「ふーん、そうなんだ」と答えた。
それより私は気になっていたことがあったので彼女に尋ねてみようと思った。
「あの、一つ聞いていい?」
「えっ、何ですか?」
「いやこの前も気になったんだけど・・・年が離れているおじさんの僕と、こうやって時間を過ごすの嫌じゃない?」
「どうして嫌なんです?」
彼女はきょとんとして変な質問するなといわんばかりに言った。
「なんと言うか・・・洋子さんほど可愛くて、利口な人だともっと素敵な相手、まあイケメンもいるだろうし、年相応の人だっているでしょう?だから。僕は楽しい時間過ごせるからいいけど迷惑じゃないかなと思って」
「もう、可愛いってそんな」
彼女は照れた
「全然迷惑なんかじゃないですよ、それどころか嬉しいくらいですよ。それに田中さんご自分で言うほどおじさんでもないし、良い感じだと思いますよ。私好きですよ、田中さんみたいな人」
その言葉に何か救われた気がした、勿論好きですよという言葉に紙一枚ほどの期待はあったが一般的な喩えで私に向けての言葉でないことくらい分かっていた。ただ次からは気にせずこうやって一緒に鑑賞できるのが嬉しかった。
「じゃあこれからも何かあったら誘って良い?」
「勿論ですよ、こちらこそお願いします」
彼女が頭を下げてお願いしますといったことに、私は一つあった胸のつかえが落ちたように感じ少しほっとした。その時だった。
「そうだ、ようこでいいんだ」
彼女は心なしか身体を前に出すと突然言った。彼女は大きな声を出してしまったことに、自分でも驚き、まわりを見渡し謝るようにお辞儀をした。私は何言っているんだろうと彼女を見た。
「なに急に」
「あのね洋子と書いて、ひろことつければいいんですよね、大きくなって母親と同じ名前で呼び方が違うって、手抜きねなんて子供言うんだろうな」
けらけらと軽い笑いがあった。
歳相応の軽く明るい笑い声だった。
楽しい時間が知らぬ間に過ぎていき、「いらっしゃいませ」という店員の声で気がつくと周りのお客さんは初め来たときと総て変わっていた。
「あの、呼び方なんですけど・・・田中さんじゃなく洋介さんじゃ駄目ですか?ほら、サッカー選手は年齢関係なく名前で呼び合うっていいますよね、だから私たちも洋介、洋子じゃあ・・・だめかな」
サッカー選手のことを強調して例に出したのはその気持ちを隠す為だったのはその口調で直ぐ分かった。年上の嫌な上司とから名前を言われるのと違い、女性から名前を呼ばれるのは、より親密感が湧くのは当然で悪い気はしない。そういえば妻も付き合っていた頃は名前で呼び合っていたが、結婚して暫くすると「あなた」になりそのままだったと思い出した。
「いいよ、洋介で」
「さすがに呼び捨ては・・・洋介さんて呼びます。いいです?」
申しわけなそうにもう一度確かめられたので「いいよ洋子」と答えると照れたように
「分かりました」と笑顔になった。
私は絵画を見ると音楽が流れ、音楽を聴くと場面が思い浮かぶので、彼女の趣味からすると音楽の趣味も合うのではないかと思い訊ねる。
「洋子さん音楽は何を聞くの?」
「音楽ですか、何でも聞きますよ」
返ってきた答えは絵のときを同じだった。
「たとえば?」
「ん・・・ポップスもロックもクラシックも」
私は彼女なら荻須高徳や佐伯祐三の色彩や描写も好みだろうと思い、それならば彼たちが活躍したパリを描いた曲を思い出した。もっとも加古隆がクラシックかどうかは問題ではなく彼女が加古の曲を聞きどんな感想を持つのか興味があったし、コンサートホールで聞く生演奏を好きになって貰いたかった。なにより私自身が聞きに行きたかった。
「じゃあ一度聞かせたいコンサートがあるんだ、加古隆知っている?」
「加古・・・隆?」
「うん、聞けばああこの曲かというかもしれないけど」
さすがに彼の名前は思い出せないようだった。
この秋に開かれる加古隆の演奏会があった。私は彼の切ない旋律が好きで自宅でも良く聞いていた。ロックもジャズもクラシックも何でも聴く私は帰宅して一人になったときテレビをつけても詰まらないので、その日の気分によってジャンルを変え音楽を聞いている。時には矢沢永吉やクイーンを聞きテンションを上げ、時にはオペラのアリア集を聞き、疲れたときは静かなピアノ曲やルネッサンス曲を好んで聞く。この時の一杯のウィスキーのロックがその日の疲れを癒してくれる。
そんな私でも、いくら好きとはいえ彼の演奏を、それも晩秋一人で聴きに行くのも寂しすぎ、それなら他の演奏家でもオペラでもいいかとためらっていたところだった。
「じゃあそれ一緒に行かない?きっと気に入ると思うよ」
「それいつですか?」
「確か十一月の二日第一土曜日だったかな」
「随分先ですね」
「そう、未だ発売になっていないから今からならチケット取れる、だいたい良いコンサートは直ぐに売り切れるからこのくらいから予定立てないと。でも日程は調べないと、確かそうだったはず」
「ちょっと調べてみますね」
テーブルにおいてあるスマートフォンを取り出すと加古隆 コンサートと入力し検索を押した。直ぐに関係サイトが表示され指先で画面を操作しながら次の情報を得ていた。
「あっ、この人か」
画面に出た写真を見て気がついたようだった。
「見たことあります、この人の番組えっと・・・うん、十一月二日土曜日間違いないです。これですよね」
その携帯を私に見せた。そこには彼が帽子を被った写真が写りコンサートのスケジュールが示されていた。もう一度その画面を指で操作しながら金額をぼそっと言った。
「六千円かあ、結構するな」
「金額のことは気にしないの。僕が洋子さんと一緒行きたくて誘う、そしたら僕が出すのは当然」
「でも、悪いし」
「あのね、僕が洋子さんを誘うときは僕が出すの、それは僕のために出すの。だから気にしてもらいたくないの。いい?」
私はやや口調を強く言ったのは、彼女に気を使わせたくなかった為だが、彼女はそれでも気を使い申し訳なさそうにいう。
彼女はお金に対していつもイーブンで居るように心掛けているように感じ、同時にそれはお友達としての表れだと感じた。
「でも、いいのかなあ」
「いいの、分かった?!」
私はもう一度念を押すように口調を強めていった。
それでか彼女も受け入れてくれたようだった。
「はい、分かりました」
「その日大丈夫?」
彼女はバッグから熊とウサギ可愛いイラストが描かれたている手帳を取り出すと予定を確かめた。
「ええ、予定はないです、良かった」
そういうとコンサートと記入しバッグにしまった。 
「じゃチケット手配するから、また連絡入れるね」
「ええ、待ってます」
彼女はちらっと時計を気にした。
「私、今日はこれから予定があるので・・・ここで」
その日はそれで終わり二人は店を出た。まだ日も高い時刻だったが、彼女は予定があるというのでそこで別れた。予定って何だろ、遠ざかる彼女の後姿を見ながらなぜか気になった。
ひとりになった私はいつもの展覧会での鑑賞と同じく街をぶらつき自宅へ戻った。
チケット発売まではまだ暫く時間があり、発売当日、私は十一月二日の指定席を2枚購入した。出来るだけ聞きやすい席と思い、真ん中の通路近くセンターよりの並びの席だった。そのチケットを手にすると未だ数ヶ月も先のことなのに実に楽しみに感じたのを覚えている。


夏、私の部署は忙しかった。
部署の数人は残業で遅くなり午後八時を回った頃ようやく仕事も片付いた。遅くなったし腹も減ったろから飲みにいこうと誘ったが既婚者は家路を急ぎ、独身者男女三名が一緒にくることになった。
ビヤガーデンの時刻はもう過ぎていたので居酒屋の暖簾をくぐる。
「いらっしゃいませ」
店員の景気のいい声がし、中は焼き鳥の煙とサラリーマンで溢れ賑わっていて、運よく空いていた四人席に座ると各自生ビールと焼き鳥と当然枝豆を頼み、今日の仕事を労った。
「みんな今日はお疲れさん、乾杯」
皆一様にジョッキを上げるとビールを流し込んだ。またお決まりのようにプハーと声を出すとそれに続き男性の部下は声を出す
「美味いなー」
「仕事上がりのこの一杯がたまらんねん」
関西弁の女性課員も同じく、仕事終わりの一杯を楽しんだ。焼き鳥とつくねを数本食べた時だった、カッターの胸ポケットに入れてあった携帯に着信メール知らせる音がしたので、それを取り出し確認すると彼女からのメールで、『今夜の晩御飯』とワンプレートの料理の写真が添付されていた。私はそれを見るとほのぼのとし、返信には『今仕事帰り飲んでます』とメールした。隣に座っている男性の部下はそれを見ていて気になったようだった。
「あれ、課長メール誰からです、こんな時間に」
「これ!?メル友から」
ぱちんと閉めた携帯をテーブルに置くと誰ということなく、そう返事をすると三人はその相手が誰か興味を持ったようだった。
「課長、メル友って言うくらいだから女性からでしょう?」
「あんた何いってんねん、当たり前やん、男のメル友って気持ち悪いやん」
「誰なんです、そのメル友って。なんだか嬉しそうですよ、課長」
三人は一様に詮索を始めた。
「どうやって相手探したんですか?」
「そうよね、メル友っていっても返事すらないのが普通だのに」
三人は顔を見合わせながら話を続ける
「課長、怪しいサイト使ってんちゃうの」
「怪しいなあ」
ビールを飲み、枝豆をつまみ、つくねを食べ、焼き鳥を口に入れる。
豆腐サラダと生中を追加すると自分のことは棚にあげ私のことをつまみにして呑みだした。社内ではこうやって気軽に話もできる上司として思って貰えているらしい。
向こうの席では随分赤くなって大きな声で話している男性客が見える。私は別段誰とメールしようがいいと思うのだが、酒の席での話題に上がってしまったので適当に答える。
「メル友っていっても、いつも行く喫茶店の女の子。出会い系なんか興味ないって」
「じゃあ、軟派ですか」
「それそこ、なんでやねん!喫茶店で話しするうち、メールしようってそれだけ」
相手が取引先の女子社員なんていえるはずも無く、ましてや二十四になったばかりなんて口が裂けてもいえない。男性の部下はそれを聞くと
「その人いくつです?」
「女性の年齢など聞くものではないだろ。知らないよ」
「いいな、出会いがあって、俺なんて全くなし」
「そうよね、私も婚活本気で考えないと、嫁にいけなくなるかも。その時は課長に貰ってもらおうかしら」
冗談ながら女性課員私に流し目を送った。
「俺が?」
自分を指差しわざとおどけて見せる
「あら、私ではお気に召しませんか、これでも結構尽くしますよ」
流し目で話すそれは、社員同士の飲んだ席での馬鹿話だ。
「大体どうして課長がバツ一なのかそれが良く分からないよな」
「真面目すぎたらしいです。真面目な男も考え物だってよ」
私は明るく努めて答えた。
周りは騒がしい中、それに負けずに三人は大きな声で、それぞれ飲みながら、食べながら好き勝手なことを言っていたが、気にするようなことでもなく笑って聞いていた。
「趣味つながりとか無いのか?」
「俺は趣味、パチンコかな」
「あなたね、パチンコは趣味とは言わないの」
女子課員は間髪入れず突っ込んだ。
「だから彼女も出来へんねん」
「ああ、言ってくれますね。そういうあなたはどうですか?」
「私はしょもない男はこっちからお断りやねん」
三人は掛け合い漫才のように会話していたが、私は出会いが無いのが不思議だった。趣味を持てばそこでの出会い、食事に行った先、私のように仕事先と幾らでも出会いはありそうに感じる。とはいえ彼女が居たからいえることでそれまでは同じく出会いは無かったし、求めても無かった。
「みんなどうして出会いが無いの?どこにでもあるじゃない」
「課長、それはあまい!だいたいですね・・」
男性部下が言った時だった、再びメール着信があり、テーブルの端においてあった携帯が光った。三人は私メールを見るのを期待し黙って私を見た。三人が注目するなかメールを開くと『飲みすぎ注意』とひと言かかれ、動く絵文字が添えられていた。私はふっと笑ったようだ。再び携帯を閉める私を見ていた女性課員が今度は私の表情を見ていたようで
「課長うれしそうですね、そうやってメールするの」
「そうかあ?」
「そうそう、若い女子からのお誘いメールだったりして」
「なんでやねん」
私は別に意識していたつもりは無かったが、第三者から見るとそのように映ったらしい。
そりゃ十三も下の女の子から絵文字付で飲みすぎ注意とくれば笑ってしまっても無理は無いというものだろう。
「そういえば課長、近頃何だか楽しそうだし、仕事も燃えてやっている感じしない?これはさては女が出来たかせいか!?」
もう一人の女子課員がいうと二人は顔を見合しそれにうなずいた。
「やっぱり俺も彼女見つけないと、仕事の熱もはいらないかな」
彼はちょっとネクタイを緩めると泡の無くなったジョッキーのビールを飲んだ。
私は知らない間に、彼女とのメール交換や電話が生活に張りを与えていることにこの時気づかされた。それから暫く飲み、みんなと別れ駅から自宅へ歩いている時また着信がありそこには『おやすみなさい』とあった。
毎日のように、昼だと『今日は、お弁当ナウ』とか、夜には『こんばんは、帰りましたか』とか、通勤途中に『おはようございます』のメールや、帰宅途中にそのことをメールすると『お疲れさま』の返信があり、なにか人と繋がっている気が感じられ、このなんでもないやり取りが仕事の疲れを癒してくれ、潤いを与えてくれるようになっていた。
 妻との生活ではこれから帰るも無ければ、今夜どうするも無く、ただの同居人状態で、張りもやりがいもあるどころか、ややもするとそれが苦になっていたかとも感じたこともあり大違いであった。
 彼女もその頃少し変化が合ったらしい。
職場には独身女性社員も多くいて職場と職場、また友人関係の合コンが時々開かれていて彼女もそのメンバーに加えられていた。彼女ほど可愛ければ当然お持ち帰りを狙って毎回男性はアクションをかけた。しかし彼らはことごとく跳ね返され、いつも一人で帰っていたそうだ。合コンの場所から『今合コン中』のメールが入ったこともあり、その時は少し妬けた気がしたのは楽しそうだったから?それだけではなかったのだろう。そのうち私からのメールを楽しそうに見る彼女を見た職場の同僚は聞いたそうだ。
「ねえ、洋子。あなた好きな人できたんじゃない?」 
「えっ、そんなことないよ。まあ気になる人は入るにはいるけど片思い」
「だれよ、会社の人?」 
「うんん、全然関係無い人。まっ、メール友達かな」
「そんな相手どこで見つけたのよ」
「ん!?まあ趣味友達の関係で」
「それなら私にも紹介しなさいよ」
同僚の女子から詮索を受けるのを上手くかわして話をつないでいた。私からコンサートチケット買ったからのメールを見たのも、昼休み同僚と外でお弁当を食べていたときで「良かった」とメールを見ながら嬉しそうに言った一言が周りは気になり、彼からかとからかわれたとあとで会った時聞かされた。会社帰りにデート、とはいえ殆どはお茶かちょっとした食事だったが、いつも私と会うときは服には気を使っていたので、会社では今日も洋子はデートだと冷やかされるといっていた。私はいつもの通勤の格好で来ればといってあげたが、それは嫌といい、いつも私好みの服を着てくれていた。



秋もすっかり深まった土曜の夜、そのコンサートはあった。
街路樹のフウがすっかり落ち、枯葉がカサカサとなる歩道を歩いてくと濃いベージュコートを纏い、手首のところにファーがついた黒い手袋をはめた彼女が、会場入り口に立っているのを見つけた。私に気がつかないのかあたりを見回すのを、さていつ気が付くかなと、彼女が私を待つ姿を楽しみながら歩いていくと、それから直ぐに私に気がつき小さく手を振った。私のその楽しみは、はかなく終わってしまった。
レンブラントやオランダの光が好きならきっと気に入るのではないかと選んだのがこのコンサートだ。
「お待たせ、ずいぶん待った?」
「いいえ、私もさっき来たところ」
この日はクァルテットの演奏で1000人を切るほどのホールは開場前で入り口近くは多くの人が並びざわついていた。「じゃあ並ぼうか」
「ええ、結構人気あるんですね」
次々に来る人の数を見て彼女は感想をいった。
「だろう、結構人気あるアーティストだよ。いつも一杯」
その列に私たちも並び待っていると暫くしてドアが開き、列が流れ出すとそれに乗り中へ入る。彼女はコートを脱ぐとキャメルのスカートスーツにその下にはそれより薄い同系色のタートルネックが見え、胸元には夏と同じペンダントが光り足元はショートブーツであった。
「今日もお似合いだね、寒くない?」
「大丈夫ですよ、暖房きいてますから」
今日の洋服を褒めると照れくさそうに笑う。彼女からコートを預かり、私の紺のコートを合わせクロークに預けた。
「何か飲み物でも飲もう」
これから始まるコンサートの高まる期待を落ち着かせようと、ホワイエにある喫茶コーナーへ誘いグラスに入った白ワインと彼女はミルクティーを頼み、渡されたそれらを彼女がスタンドまで運んでくれた。丸い小さなテーブ代わりのスタンドで立ったまま一杯だけ白ワインを飲むと彼女は珍しそうにあたりを見渡していた。
「洋介さん、コンサートには良く来るの?」
ミルクティーに一杯だけ砂糖を入れ、くるくると混ぜると香りを楽しみと口に含む、それを一旦ソーサーに置き私に訊ねた。カップの紅茶は洋服と同じ色に染まっていた。
「まあ、たまに。好きなものだけね。これこそ一人では味気ないもんだよ。オペラで感動しても誰とも共有できず帰ってコンビニ弁当ではね。感動も半減だし、この生真面目さが離婚の原因」
周りには会場へ入る人や事前にトイレへ行く人、また私たちのように開演のまでのひと時を味わう人で賑わう中、笑ってごまかした。
「へえ、オペラも行くんだ」
少し驚いたように言って、またミルクティーを飲んだ。
「オペラだともっと華やかなんでしょうね」
周りの女性客を見渡した。周りには年代を問わずお洒落をした女性も数多く見られ、秋から冬のコンサートの華やかさを感じられるものだった。勿論彼女のスーツ姿も引けをとらず、この人達と競う美しさのパートナーがいることは喜びで、これからもこの雰囲気を何度も味わうことができれば、コンサートにも足しげく通えるようになっていいなと淡い希望を抱いていた。
「そうね、有名どころのオペラだとやはりそれなりに格好で着ている人がいるよ。男性はタキシード、女性もイブニングドレスとか訪問着でね」
「へえ、大人の世界ですね」
「一流どころは金額自体が違うからそれなりの人が来るからね」
「そんなドレスは私には似合わないな」
「そっか?意外と似合うかもよ」
彼女が滅多にコンサートホールに足を運ばないことは察しが付く、コンサートは展覧会と違い生の瞬間芸、それだけに金額も張る。まして若い女性が一人でホールに足を運ぶとなれば音楽関係かよほど好きなものくらいだろう。飲み物を飲み終えると会場へと誘った。
「じゃあ入ろうか」
 ホールに入るとすでに多くのお客が席に着いていて、席を確認した私は彼女を奥の席に案内した。未だ暗い舞台には一つの椅子と譜面台が三つ並べられ、センターにはベーゼンドルファーのコンサートピアノが置かれ、そこで調律師が最後の調整を行う単音が会場のなんともいえないざわめきに混じり聞こえていた。このコンサート前の雰囲気がこれから始まる演奏の雰囲気をなんとも盛り上げ、ホールでコンサートを聞く楽しみの一つでもあるが、彼女は入場のときに貰ったパンフレットをめくっては珍しそうに見ていた。
「これどんなの?」
そこにはニューイヤーコンサート定番オペレッタ『こうもり』のパンフが握られていた。
「喜歌劇ってオペラだけどちょっと短く、何よりお笑い系っていうのかな。これ正月の定番プログラム、興味あるなら行く?」
国内のオペラ団体が主催するオペレッタ『こうもり』のパンフレットには公演日が一月三日とあった。
「残念だけどこの日は実家に帰ってます」
「お正月だもんね」
「ええ、正月は毎年両親と過ごすことにしています。唯一の親孝行かな」
少し残念そうにいい、また別のパンフレットをめくってはその内容を見ていた。
 やがてブザーがなり会場の照明が落ちると、それにあわせ舞台が明るくなる。弦楽の3人と、ピアノ奏者で今日のプログラムの作曲者、加古隆がいつもの黒いキャノチェ帽をかぶり現れると拍手が起こった。四人が揃い会場に一礼すると一層の拍手となる。彼が小さく鍵盤を叩くと弦楽器のチューニングがありそれも終わると潮が引くような静けさが訪れ演奏が始まった。黄昏のワルツ、Flora、博士の愛した数式,熊野古道など演奏が進むと私の力はすっかり抜けリラックスしていった。
何曲か終わると彼の代表曲でもある「パリは燃えているか」になった。フランス留学で数年パリ過ごした彼はその時感じた歴史のスケール感とさまざまな人間模様、戦争の無益さや人間の惨さ、それでもなお毎日生き抜くことの大事さを表すこの曲が私の好きな曲でもあり、この日彼女に聞かせたかった一曲でもあった。
「これだよ」
正面を向いたまま彼女の耳元で小さくささやいた。
バイオリニストがすっと息をし、合図を送ると重く暗い弦楽の和音とピアノから始まる出だしのあと、加古隆が引く左手の八分音符のアルペジオは聞きなれたスタインウェイの張りがあり芯の強い音とは違い、ベーゼンドルファーらしい芯はありながらもベルベットのような柔らかい深みのある音が奏でられる。その頃私は目をつむり音に心を乗せていた。発せられた一つ一つの音はそれが溶け合い紡がれ反射してホールを包み込む。その中に自分を置くと、魂は真綿を割る様に肉体を離れると、質量をもたず天女のように自由に天空を駆け回れる気がする。特にこの日はさほど大きくないとても響きのいいホールで、弦楽の木の音が上手く響き心地よい音を奏でていた。隣にはお気に入りの女性、美しい生演奏があれば他に必要なものは何も感じられずこれほど贅沢な時はない。

テーマが聞こえる頃には脳裏に当時の指導者の叫ぶような演説やそれに熱狂する大衆が現れる、軍隊が行進を始め、やがてフォルテシモになり砲撃の炸裂、叫び逃げまとう人々、泣く子供、倒れる兵士、攻撃で崩れる大切な文化遺産、そして燃えるパリが次々に浮かんでくる。もう一度ピアノのアルペジオが奏でられ切ない旋律が奏でられる頃には戦いの終わった街の静けさと、これから復興しようとする人々の思いが、そして曲が終わる時にはかすかに希望さえ感じられ熱いものが込み上げた。
演奏が終わると少しの間があり大きな拍手が起きた、私はその時まだ余韻に浸っていると右腕に彼女の身体が触れたのを感じ、目を開けると彼女は私を見てにハンカチを差し出してくれていた。それを受け取るとかすかに濡れた感触があり、涙を拭くと彼女に返した。
アンコール「大河の一滴」のピアノとバイオリンの切ないメロディーは、この映画を見たこともあり、父親がなくなるシーンが思い出され私は恥ずかしげも無く号泣してしまった。総ての演奏が終わると会場が明るくなり、人々は席を離れていたが少しひくのを待ってロビーに出ると、彼女はその日売られていたCDを購入し彼のサインを求め多くに人の列に混じった。その間に私は預けた二人のコートを受け取り出口近くで彼女が来るのを待っていた。「すみません、随分待たせてしまって」
今買ったCDを私に見せた、それは加古隆クァルテットのもので私のお気に入りの作品でもあった。
「今日のプログラムのだね、これ僕も持っているよ。これもパンフレット同様大事なコレクションの一つになったね」
「ええ、CDもチケットも大事なコレクション、また一枚増えました」
彼女は笑顔を見せチケットとパンフレットとともにバッグに仕舞うのを待って、彼女にコートを着せると二人は会場を後にした。
 
楽しげに語らうコンサート帰りの人の流れに乗りながら歩き、この後どこか食事でもしようかと誘うと小料理屋にいきたいという。今日のようなコンサートの帰りに小料理屋もいかがなものかと思い、訊ねると折角大人の男性と一緒だから一人ではいけない小料理屋へ行ってみたいという。
「そこでいいの」
「あのう、テレビドラマででてくるじゃないですか」
そうはいっても、さてそんな洒落た小料理屋に行き当たるのか一抹の不安を抱き二人街を彷徨った。ビルの一階にある、小料理と染め抜かれた、草木染の暖簾がかかった一軒のそれらしい店を見つけ、白木風の引き戸をがらがらっとあけ中を覗くと店内は明るく、さっぱりとした店で中には二人の男性客がいて飲んでいた。
「いらっしゃいませ」
私は目が合った女将さんに声をかけられたので、二人良いかと訊ねるとどうぞと案内される。中に入るとテーブル席へ行こうとする私に、彼女はカウンターがいいという。今までのコンサートの雰囲気とはがらりと変わったところでの食事となった。
「いらっしゃいませ」
席に着いた私たちにお絞りを渡しながら、女将さんは改めてそう挨拶をすると二人の顔をみた。
「お二人とてもお似合いですね、今日はデートかしら」
冷やかしたわけではないだろうが、笑みを浮かべ明るくそうと二人からコートを受け取った。
「そうですか、ありがとうございます。コンサートの帰りです」
彼女は素直に喜び私の顔を見たが私はなぜか戸惑い「えっ」としか答えられず、一応礼をしようと頭を下げたが亀のように首を動かし前に出した。
「あらそれはよかったですね、お飲み物は何にします?」
彼女にそういった後、女将さんは私の顔を見て聞くので、折角だから燗をした日本酒を頼もうと何か銘柄を訊ねると、高知の『美丈布』がお薦めだという。
「高知の東部にある小さな酒蔵で作られるお酒なんですが、真面目に作っているお酒で辛口でおいしいですよ」
初めて聞く銘柄だったが、それと寒ブリの御造りを頼んだ。彼女はお絞りで手を拭きながら店をくるっと見渡し
「本当にドラマみたい」
嬉しそうに話した。カウンターを挟んだ向こうでは歳のいった板前が女将さんの言葉をうけ、ぶりの冊を取り出し、きれそうな刺身包丁で切り出し始めた。品が揃うまでそんな店のことを話していると先客は帰って行き店内の客は私たちだけになった。
まもなくお酒と御造りと突き出しの小鉢が並ぶと小さな杯で乾杯をした。クイッとあけると清酒の香が鼻にふわっと抜ける。辛口であるがぴりぴりとする感じは無く上手い塩梅に口に広がった。彼女も一杯目をクイッと飲むと空けた杯から私に目を向け「美味しい」と漏らした。私は二杯目を注ぎ彼女に今日の感想を聞いてみたくなった。
「今夜のコンサート・・・どうだった?」
「とってもよかったです。洋介さんが言っていた意味が良く分かりました、その光が。それと」
そこまで言ったところで言葉をやめ、くすっと笑ったので「それと?」と聞きなおすと
「洋介さん、隣で号泣してるんですもの。驚きました、いや発見かな?」
笑顔でそういい、彼女は感想を続ける
「でもいい音楽は凄いです、ダイレクトに心に届く。理屈じゃないんですね」
私は恥ずかしさもあったが、その最後の言葉で満足し今日誘ったことは間違いじゃなかったと思うと杯を干した。おかみさんは頼んでいた湯豆腐を持ってきて、おろし大根とポン酢が置かれる
「熱いですから気をつけてくださいね」
声を掛けると彼女の前に小さな土鍋を置き、蓋をとると湯気とともに昆布だしのいい香りがただよい白い豆腐と少しの野菜が湯に浸かっているのが見える。
「やはり日本酒にはこれよね」
それを見て彼女が行った言葉が、若い娘らしからぬ言葉に女将さんもつられ笑顔になり
「そうですね、寒い日はこれが一番ね」
その言葉は上品であった。暫く料理とお酒を味わいながら話を続けた。
「名画も勿論いいよ、でも音楽はねダイレクトに心を動かすんだ、ある時には雲に乗り、あるときは幾万の大軍になりザッ、ザッと音を立てて進軍してくる。それが目の前で瞬間に消えるんだ、音も無くね。そんなの映画でも表現できない。今日聞いたフローラだって同じだった、野にマーガレットが咲いてそれが風に揺れて・・・日本だと田んぼに植わった稲が伸びて一面が緑になった中を風が吹いて、空には白い雲がゆっくりと流れる・・・穏やかな時間が流れ農作業の人たちが幸せそうな表情で農作業をしている・・そんな風景がサーッと浮かんでくる。僕にはたまらない」
私は杯を手に持った杯を静かに置いた。静かに自分の感想を言うのを、彼女は私を見つめそれを黙って聞いていた。
「それに、フローラを聞いていると、洋子さんといった展覧会の事が浮かんできて、まるで自分が映画監督になったように僕たちが絵を見ているシーンやお茶を楽しみながら楽しく話しているシーン、そう洋子さんが食べさせてくれたケーキの場面ね。あれも曲に誘われ現れてくるんだ。それとかね、谷あいを縫うように走るローカル線に乗って流れる風景を眺めている、山には新緑が眩しくて、線路脇には川が流れててそこを列車が走るんだ、のんびりと。何でかな・・・ぱっとそんな風景が浮かんできて入り込んでしまう。」
まだ数杯しか飲んでいないのに、酒のせいもあったのだろうか少し饒舌になった私は自分の気持ちが少しは言えたのは、聞いてくれる彼女がいたおかげでもある。こんなこと今まで思っても一人で言う相手がいなかったし、仮にいても言ってもロマンティストね、とか妄想癖?と笑われるだけだった、それが妻だった。それから感想があってもいえなくなっていた。
演奏を思い出しそれは独り言のように、その時に浮かんだイメージを、ただ正面を見てつぶやいていただけだった。そして目を落とすと、土の味わいのある杯に入った冷めた酒を飲んだ。
「それわかるな、私の田舎は郡上八幡なんです。そこへ夏帰るとき今言った通りの風景が広がるんです。確かに懐かしい曲だなと思ったのはそのせいだったのですね」
私に目線をくれていた彼女は、私に酌をすると鞄に入れてあったCDを取り出すと裏の曲目を確認し、そこにFloraの名前を見つけると、安心したようだった。
「今夜もう一度このCD聞いて今言ったこと思い浮かべてみます。それにしても洋介さん確かにロマンティストなんですね」
彼女の言葉を聞きながら、また一杯飲んだ私に酌をしたので、私は彼女から徳利を受け取ると酌をかえし、「いなかは郡上八幡」がなにか響いた。
「そうか郡上八幡の出身なんだ、だから綺麗なのかな」
それはお世辞でもなんでもなかった、郡上八幡は名水の里として有名なのでそこで育てばそれは綺麗な肌になるとただ思っただけだったし現に彼女は綺麗だった。
「もう、酔ったんですか」
彼女は笑って照れ、はぐらかした。
「じゃ次はオペラに行こう」
私は彼女と音楽を聴く時間がとても心地よく次の計画まで思い浮かべた。
「オペラ・・・ですか・・・難しそう」彼女らしからぬ言葉だった。
「僕も初めはそう思った。声張り上げて歌ってるの聞いて何がいいのかなって」
「そうですよね」
彼女の杯がなくなったので一杯注いでやって言葉を続けた。
「でもね、これがいいんだな。絵と同じ、聞くのではなく感じるの。たとえば悲しいアリアだとどう悲しいのかイメージしてると曲が入ってくる。それに良いものは理屈じゃないんだよ。自然と入る」
お酒のせいか彼女のせいか私はしゃべり、彼女はそれを聞いてくれているとほんのり赤みを差して、耳たぶは紅に色づき目は潤んだ。それを見ると私は理性を失いそうになる。「じゃあ帰ろうか」と切り出した。
「ええ、もう帰るんですか?」
「うん、このままいたら洋子さん酔っ払いそうだから」
私は女将にお勘定を頼む
「酔ってもいいのに」
彼女は少しこの時間を楽しみたく、残念そうに小さな声で言ったようだが私には届かず、椅子から立ち上がろうとしなかったが、もう遅いからと促した。
「またいつでも、コンサートでも展覧会でも食事でも行けるよ」 
笑いながらコートを着、彼女に着せてそういったのは自分をごまかす為の言葉であった。彼女の仕草を見るとこの先を期待しているようにも感じた。しかしそれは私の中できめたルールだった、一線だけは越すまいと。
 店を出る冷たい風が吹いていた、彼女はすっと私の腕に自分の腕を自然に絡めたのは、寒かったからだけではなかったろう。二人腕を組んだまま暫く駅へ向かって歩き電車に乗り、接続の駅まで行った。
そこで電車を降りると彼女は佇み、何か言いたそうな雰囲気は分かった。表情は少し残念そうに感じ、もう少しともに時間を過ごしたいのだろうと感じたが、それは思い違いと自分に言い聞かせた。
「今日はありがとうございました、じゃあおやすみなさい」
元気なく挨拶をすると別の連絡線乗り場へと遠ざかっていった。
「おやすみ」
そういって彼女の後ろ姿を見送った。
彼女は乗り換えの電車を待つ間、携帯を握り私からもう一度連絡が入らないか待ち、自ら「もう帰ってますか」と入力をしたが送信ボタンを押すことはできなかった。私からのメールもあるかと電車を一本過ごして待っていたけどそれも来なかった。一人部屋へと帰り、電気の消えた部屋は毎日のことでも、この日は格別寂しさを感じたそうだ。部屋に上がり服を着替えることもせず私から何かメールは入らないか電話はないかと携帯を握り連絡を待った。思いを伝えたいが自分からは切り出せず、私に誘ってもらえなかったことが気に入られてないのだろうかと不安がよぎる。今日買ったCDをバッグから出し掛けると先ほどの感動もよみがえるが、同時についさっき小料理屋で分かれた時の事も思い出し辛くなったそうだ。

 私はある人からは女心も分からない人は付き合う資格がない。またはお前は残酷なやつとまで言われたこともある。自分に好意を抱いていると思うのならそれに答えてあげるのが男性ではないかとも言われた。確かにそうだとも思うが私は臆病だった。だから彼女と時間を共有し、それにより彼女が素敵な大人の女性になってくれることのほうを無理して望んだ。その為イベントにしても食事にしても総て私が彼女にしてあげたことだったし、何より一緒に時間が過ごせることの費用だと思い気にも留めることなく当然と思った。
そんな彼女と何度かデートを重ねたが彼女から何かねだられた事は一度も無かった。巷では良く、売りだとか援助交際という言葉も聞かれ、自分のつまらない欲求のため身体を売る女性もいるが彼女はブランドバッグどころかお茶の一杯でもいつも気にかけてくれた。
そんな彼女がたった一度私にねだったのは熊の縫いぐるみだった。
クリスマス間近の土曜日の午後、映画を見た帰りのことだった。クリスマスは職場の女性たちと過ごすので一緒にいられないのを残念がっていた彼女と、クリスマスの交換用プレゼントを一緒に探しに行っときのことだった。街の雑貨屋に入ると棚にその黒い熊の縫いぐるみが置いてあった。普通の縫いぐるみと違い、大きくカーブした背中と何より黄土色の顔に半目閉じた表情がとても可愛らしい、マレーグマの縫いぐるみを彼女はとても気に入ったようだった。
「これ可愛いなあ」
明るい大きな声でそういうと縫いぐるみを取り上げ、その脇に手をいれて鼻を自分の鼻に近づける。
「この目の表情が最高じゃないです?」
「確かにね。眠たそうだし、愛らしいね。何か語りかけているみたいで表情が豊かだね」
熊の感想をいうと、その縫いぐるみを私のほうに向け
「ねえ君、僕は彼女を待っていたんだ、さあ彼女のところへ連れて行ってくれよ」
縫いぐるみを両手でもち手をばたばたさせた。
「おい洋介、僕を彼女のところへ連れて行ってくれよ」
縫いぐるみを使い笑いながら、そう、腹話術のような口調で私に語りかけたのだった。あまりに可愛く言うものでおかしくそれに付き合った。
「そうか、随分ここで待ってたんだ」
「そうだよ、ようやく来てくれたね」
当然私はそれを買ってあげた。彼女はとても喜び
「これ名前洋介にするね、ねっ洋介」
熊に語りかけると再び熊を私にむける
「僕、今日から洋介、君と同じ名前だ・・・宜しく」
胸に抱え片手で頭を押え、お辞儀をさせ笑った。
それがたった一度のおねだりであった。
コンサートや展覧会着ていく洋服やそのアクセサリーなど少し気の利いたものもねだったら良かったのに彼女はそれで満足し、とても可愛がり大切にしてくれて、部屋へ帰るとその縫いぐるみに「洋介ただいま」と毎日声を掛けていた。時にはその表情を写真に撮りメールに貼り付け送ってきたこともあり、布団に半分入った写真には「僕はこれからお姉ちゃんと寝ます。うらやましいだろ」の本文があった。
私の心は彼女に見透かされ、嫉妬することは無かったが熊の洋介が少し羨ましく感じた。
そのクリスマスも一人で過ごした。会社の同僚は家族と過ごし、若い社員は恋人や友達と過ごしただろう。街の浮かれるクリスマスに別段興味はなく一人であっても気にはならないと自分に言い聞かせていた。夜、玄関のチャイムが鳴った。
「田中さん、お届け物です」
こんな時間になんだろうとドアを開けると、郵便局の配達員が紙袋をもって立っていて、私を見た。
「田中さんですね、ここにフルネームでサインをお願いします」
配達員からボールペンを受け取り私がサインをする
「どうもありがとうございました、おやすみなさい」
帰って行く配達員を目で追いながら手渡された小包を見ると差出人は彼女からのものだった。ドアを閉め、リビングのソファーに座り袋を開けると、リボンがついた箱と洋子よりと名前が入りメリークリスマスと書かれカードが一枚入っていた。箱の中身は見なくても分かった。
蓋を開けると、楽譜がデザインされた紺色のネクタイだった。気がつかない間に自分の目じりが下がっているのが分かる。それを写真に撮り彼女のメールに添付して、メリークリスマス、プレゼントありがとうとメールを打つと程なくして『今パーティーの最中』と返事が返ってきた。私は包装紙に貼り付けられていた送り状に書いてある彼女の住所を手帳に記入し、それを携帯のアドレスにも入力した。

そんなクリスマスが来て、年末を向かえ彼女は両親の住む岐阜県、郡上八幡へ帰省した。正月は両親と迎えるが彼女の恒例行事だった。岐阜県の北部、温泉で有名な下呂市に接す山間の人口四万五千人ほどの郡上市は七月中旬から九月上旬まで連日行われる無形文化財の郡上おどりと水の綺麗なところとして有名な場所で、特に郡上八幡は建物の直ぐ脇を水路が流れる綺麗な古い町並みが残っていて歴史建造物群に指定されている日本の原風景のような場所だ。
名古屋からJRを使い乗り継ぎ、美濃大田で地元ローカル線長良川鉄道に乗り換えると一両編成の赤いディーゼルの車両は非電化単線のレールを長良川に沿うように上流へと走る。乗車したとき前向きの席は埋まっていたので真ん中ほどの進行方向を背にした窓際に座った。その車中、美しい雪景色が遠ざかるように流れるのを見ると彼が言った言葉を思い出し、スマートフォンに入れてあるコンサートの時に買ったCDの曲を読み出し、イヤフォンをつけ聞きはじめた。暖房が効いて曇った窓ガラスを素手でニ三回拭うと雪景色の山に流れる長良川と白く雪の積った田んぼが右に左に変わりながら見え、聞こえてくるFloraをBGMにその車窓の景色を楽しむと、なるほど彼が言った言葉はこういうことかと分かった気がした。膝に抱いた熊の洋介にもその景色を見せるように少し上げ見せるのを前に座った女性は笑顔で見ていた。
「可愛い縫いぐるみですね」
その言葉に自分がしていることがはずかしくなり、膝に抱いた。
真っ白な雪景色の中、レールの細い平行線が続くその上を三十分ほど走ると郡上八幡駅に着く。
カバンと洋介を入れた手提げ袋を持ってホームに降りる随分雪が積もっていて足が埋まる。サクサクと雪を踏みながら改札へ向かい、駅を出るとそこには父親が迎えに来ていた。
「ただいま」
「おかえり、さあ」
父は挨拶をするとカバンを持ってやり彼女を車に座らせ自宅へと向かった。
車内のヒーターで靴についた雪で足元が濡れる。
彼女の実家は駅から少しいった簡易裁判所近くにある歴史ある家だ。自宅では母親が娘の帰りを、首を長くして待っていた。どこの家族にもある、親が娘を思う風景がそこにあった。数分ほどで彼女は実家の玄関をくぐると元気な声で「ただいま」と声を掛けた。
「おかえり、疲れたろう」
奥から出てきた母は娘をねぎらうと部屋へ通した。外は深々と冷え込んでいった。
その夜家族三人水入らずの夕食は、石油ストーブを焚いた部屋のコタツに入ってだった。茶色いコタツ布団の上の卓の上には、独り暮らしで野菜が不足しているだろう母親の気遣いで新鮮サラダが大きな木のボール盛られ、娘が好きな筑前煮や鳥の唐揚げなど一杯に並び、彼女は久しぶりに母親の手料理を楽しみにし、父が揃うのを両手をコタツに突っ込んで待った。少しして入浴を終えた父はパジャマの上に一枚薄い半纏を着て、二人の待つコタツへ来るのを彼女は目で追い、父が揃うと母は父にビールを注ぎながら彼女に言った。
「どうなの、仕事は?」
「うん、毎日大変。まだしかられてばっかり」
「最初はそんなもんだ」 
彼女は注がれたグラスを持ち上げると母は注ぐのを止めた。父はグラスを持ちながら母が注いだビールの泡が残るグラスを持ったまま一言言うと、自然と日頃の話になった。大学に通うため実家を出た彼女は独り暮らしを始め、卒業後そこで仕事についたので実家を離れ五年になり毎日夫婦二人だけの生活は会話も単調で少なくなった。時々帰る我が子が加わるだけで母は会話が増え明るくなる。
母が二人にビールを注ぐのを待って、彼女はそのビンを受け取り母に注ぐと家族が今年もこうやって揃ったことにグラスを上げた。母の音頭だった。
「ひさしぶりの家族に乾杯ね」
「乾杯」
彼女はいったが、父は黙ってグラスを上げた。ゴクゴクッっと三人はビールを飲むと、早速母が作った料理を取りざらに取り分けた。
「仕事もいいけど、あなたの身体が心配よ。ちゃんと食事もしているの?」
「うん、ちゃんとしてるよ。野菜も食べてるし。それにもうここを出て五年よ、お母さん毎回言ってるし」
「それに仕事に追われていたら直ぐに歳取っておばさんになるわよ。洋子も早くいい人見つけて結婚したらいいわ、巷では婚活、婚活って騒いでるけど職場にいい人居ないの?」
随分気の早い話ではあったが、テレビの影響か、母親らしく娘の将来を心配しての言葉だったろう。その言葉に父は母のほうをチラッと見るとグラスを煽った。
「まだ仕事しだしたばっかりだ、まずはそれからだ」
その言葉でこの話は切れたはずだった。母は父にビールを注ぎ自分にも入れると一口飲むと彼女が取り分けたサラダに箸を進め一口食べるとまた呑んだ。
「私ね、好きな人が出来たの」
それは聞かれることも無く彼女から切り出した話だった。両親は一瞬驚いた表情になったが父は冷静を装い、母親は喜び、食べようとした箸を置く。
「あらそう、どんな人?」
母親は興味ありげに表情を明るくして彼女に聞いた。
「会社の取引先の営業の人で三十六歳バツ一なの」
彼女は明るく答えたが両親の反応は複雑で、父は静かに聞いたが母はその言葉に反応して感情を表に出した。今明るかった表情は沈み暗くなるのが直ぐに分かった。
「三十六でおまけにバツ一って、洋子何考えてるのよ。よりによってそんな人好きにならなくたって男の人は一杯居るでしょう。ねえあなた」
母は同意を求めて父に言葉を振ったが父は再びビールで喉を潤すとテーブルにそれをおいた。
「まあ、よく考えることだ。お前ももう子供じゃない」
母親は反対してくれるものだと思い、言葉を待っていたのにそれと違った答えだったので余計感情が表に出た。
「もう。あなたまでそんなこといって。二人とも何考えているのよ。あなた、洋子の彼がこの子より十三も年上のおじさんなのよ、私そんなの我慢できないわ」
まるで自分の事のように母は怒ったが、彼女はそれを聞いて笑った。
「もうお母さんたら自分の彼氏のことみたい。歳じゃないって。それにまだ私の片思いだし」
「片思いだったらちょうどいいわ、今のうちに諦めなさい。それがあなたのため。もう、折角娘が帰ってきて良い話聞けるかと思ったら、十三も年上の男に惚れたって、お母さんがっかりよ」
「もうおかあさんたら。私まだ手もつないで貰った事ないし、一緒に展覧会とかコンサートとか行ってるだけだから」
「あたりまえよ、もう今のうちに別れなさい、悪いこと言わないわ。その離婚もきっと浮気よ、そうよ、決まっているわ、きっとそうよ」
「違うって、そんなので別れたんじゃないって」
「男は誰だってそう言ってごまかすの」
そこまで言うと母は一人興奮し声を荒げて、ビールが三分の二ほど入っているコップを取り上げると一気に飲み、テーブルに並んでいた唐揚げを一つ自分の取り皿に取り口に入れる。それを見て洋子はくすっと笑い父の顔を見ると、腹の中に感じるものがあるのにそれを出すまいとしている姿に笑えた。
「そうだ、まだ二人に挨拶してなかった」
彼女は部屋においていた熊の洋介を抱えて二人のところへ帰るとコタツに入る
「お父さん、お母さん始めまして、僕洋介です」
いつものように小脇に抱え手をばたばたさすと頭を押さえて挨拶をさせた。両親は呆れ顔でそれを見たが彼女はきゃははと笑って二人をみた。
「これね、プレゼントで買って貰ったの、可愛いでしょう」
お父さんは呆れたがお母さんは気分を害した
「そんなもの貰って、あなた絶対騙されているの」
「だから騙されてるんじゃないって」
「騙されているんじゃなければ、うまく乗せられているのよ」
また自分にビールを注ぐとそれを飲んでいた。彼女は実家でも熊の洋介を布団に入れ一緒に寝ていて、それを見たお母さんは「もういい加減にしなさい」と怒ったという。

 元日、コタツに入りサッカーの決勝を見ているとき私の元にメールが届いた。彼女からの新年の挨拶で、「あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします」とあり「僕も一緒だよ・・・洋介」と書かれていた。褐色の板塀の直ぐ下に水路が流れる郡上八幡の古い町並みに、まだ深々と雪が降る中、和傘を後ろに差し、深く雪の積もった通りで熊の洋介をコートに包み立つ彼女の写真が添付されていた。
「もう、わざわざ持って行ったのか」
私はその写真を見て笑い、独り言を言った。そのメールに「あけましておめでとう、今年も一緒に楽しもう。と書き「洋介に風邪をひかさないよう」と付け加え返信ボタンを押した。直ぐに着信があり、『大丈夫』の文字と絵文字が添えられていた。
三が日が終わろうとしていたとき届いた数枚の年賀状の中に彼女からの年賀状が入っていて、添付された写真と同じものが映り、あけましておめでとうございますの文面が入っていた。差出人には彼女の名前と実家の住所が書かれていて、私はそれを大切に机の引き出しに仕舞った。
一人で迎える新年にはもう成れていて別段寂しさを感じることも無かった。例年正月には新年を祝い、ニューイヤーコンサートだのオペラコンサートがあちこちで開らかれ、華やかな雰囲気と音楽で正月を迎えるのもいいものだと思うが、一人で行くのも気が引ける。もし彼女が居たらおしゃれも楽しみ一緒に行けたかなと今年は一抹の寂しさを感じたのだった。


年が明けて彼女の顔を見たのは成人の日の連休だった。特に何することなくお茶をして、話をしているとデパートの祭事でも行こうという話になった。街の通りには振袖を着た新成人の姿が見られ、横断歩道で止まったときだった。
「私も振袖着たんですよ」
ならびに成人の女の子を見て、数年前を思い出し私に教えた。
「今度私の写真見せてあげる」
「へえ、それは楽しみだな、着物姿なんて見たことないし」
「じゃあ今度ね」
丁度デパートで現代アートの展示を行っていて、二人でその催事場を訪れて、これはこう?どう?と話をしながら見て時間を過ごし、各階にある商品を見ながら降りて行った。女性衣料品の階になり彼女はそれを見ながら、自分に合わせ私に感想を聞いた。
ラインナップはもう春物になっていてスーツ、ワンピース、カジュアルを特にあても無く
見ながら服の感想を話しながら回っているとあるコーナーに春物スカートが何枚かあった。
彼女はそれを見ていると手に取り自分に当てて私に見せたり、買い物するでもなく時間を過ごした。一階に下りるとアクセサリーと化粧品コーナーになり、あたりは女性化粧品の香料が香り立っていた。指輪やネックレスがショーケースに並び、高い金額の商品は輝いていた。
「やっぱりいいものは高いな」
彼女はポツリと洩らし眺めていた。私はデートの時、同じペンダントしていた記憶があったので、この際ピアスとペンダントを買おうと思い立った。これから先の数年フォーマルな場所にも招かれるだろう、今は少し大人びていても直ぐに合うようになると思い、ショーケースに並んでいた、小さなダイヤを薔薇の花びらで包んだようなイタリアンデザインの物を店員に言って出してもらった、全くの私の趣味だった
「いらっしゃいませ」
「そのダイヤの入ったセット見せてくれますか」
店員は作り笑いで対応し、私が店員と話すのを彼女はただ眺めていて、店員は鍵を開けると私が示したピアスセットがついたケースを出した。
「こちらデザインもイタリアらしく、フォーマルもカジュアルでも似合いますし、大人の女性を感じさせる商品ですよ、いかがですか」
こちらが聞くまでもなく、店員は出した商品の説明を、笑顔を交え私と彼女の顔を交互に見て説明し薦めた。それを取って彼女の耳に当ててみると今日の服には合わないものの、少し大人びた感じが良く出たので何もいわずそれを買った。
「これ、貰います」
「プレゼントにされますか」
「ええ、プレゼント用にラッピングしてください」
「ではこちらへ」
店員はラッピングをほかの店員に任せ私をレジへと向かわす。
「じゃラッピング出来たら受け取ってて」
別のカウンターで支払いを済ませる間にラッピングが行われていて、店員はそれが入った紙袋を彼女に笑顔で渡し、彼女はただ私の換わりに受け取っていた。
支払いも終わり、彼女のところへ行って一緒に歩き出した。
「あの、これ」
今買ったピアスセットが入ったデパートの小さな紙袋を持ち上げ私に見せた
「ああ、持たせてごめん」
その袋を彼女から受け取る。
彼女は私にそれを渡すと何か微妙な空気が伝わるのが分かった。
誰に買ったものなのか気になった様で、これは自分へ?それともこれは誰かに?ほんの少しではあったが表情に迷いがあったのを私は見逃さなかった。現代アートとウィンドーショッピングで立ちっぱなしの足を休めるつもりも込め一度お茶を飲もうと誘った。
「ねえ、ちょっと休憩しようよ、疲れたよ」
丁度近くにあった緑の看板のカフェへ入ると、中には人が沢山いたが、何席か空席があって一番奥にあった一人掛けが向かい合ったファブリックのソファー席が空いていたので紙袋を預け、先ず彼女をそこに座らせ確保する。
「これ見ておいて、えっと何飲む?」
「カプチーノ」
「ホット?」
席についてうなずく彼女を確認し、私は注文をしにカウンターへ行き、白いカップに入ったカフェカプチーノが出来るとそれをもって席についた。
「おまたせ」
一つを彼女に渡しソファーに身を沈めるとなかなか座り心地が良く、カプチーノを一口飲むとふっと力が抜けた。ほの暗い店内で読書をする人が居て、よく読めるなと気になる。周りでは女性同士が楽しげに話している声や、店員の対応の声が聞こえていた。テーブルの端に置かれた紙袋は、自らの出番を待つようにそこに鎮座している。
「現代アートはいま一つわからないな。でもマンションの部屋に飾るならいいかもな」
「そうですね、そんな部屋ならいいけどうちでは似合わないし」
「そのうちに会う部屋に引っ越すんじゃないか」
「さあ、それはいつのことかな?」
「洋介さんなら何を飾ります」
「僕か?僕ならビュッフェかな」
「ビュッフェかあ、それもいいな」
「だろう、勿論リトしか買えないけど。洋子さんは・・・」
「草間弥生」
「ええ、そりゃ元気出すぎだろう。毎日燃えていそう」
「そう、ベッド脇には黄色いかぼちゃ。幸せになれそうだもん」
「じゃあパジャマも水玉?」
「うーん、夏はそれでもいいかな。でも普通の水玉だけど」
「洋子、ウィズ 弥生」
「そう、今日の下着も草間弥生デザインのもの」
「本当!?」
「残念、今日は違います」
きゃははと得意の乾いた笑いがでる。
紙袋を意識さすまいと、さっきの現代アートの話を交わし二人は会話を弾ませた。程よいところで私はテーブルの紙袋を取ると彼女に渡した。
「あの、これね。水玉ではなく洋子さんへのおとし玉」
「ええっ」
おとし玉しか言葉が浮かばなかった。彼女は戸惑っていが、どこかではこれは私にと思っていたようだった。
「でもこんな高価なもの・・・困ります」
「困る?なんで」
「だって・・・貰う理由がないですもん」
この辺り、私が彼女の好きなところで、彼女くらいの年齢なら高価なものを買ってもらうと「わあ、ありがとう」とすんなり受け取るのだろうが彼女はそうではない。ある意味いつもイーブンであった。
でも私とデートするときおしゃれして貰いたかったが、そうなると洋服や装飾品に金が掛かる。若い女性の独り暮らしはおしゃれにお金が使えるほど余裕の無いことくらい分かる。私とのデートのために気を使い、生活を切り詰めてまでおしゃれさすのは嫌だった。似合う洋服も着せでデートを楽しみたかった。
どうして?どうしてと聞かれても困った。
私は心のどこかで彼女に中原淳一が描いた絵をダブらせていたのかもしれない。彼が描く女性の持つ雰囲気を彼女に感じていたようにも思い、そうしたいとも思っていたのかもしれない。
「理由かあ、そうね。妻でもなければ恋人でも愛人でもないものな」
「そう恋人でもないし」
そう、まだ私の心の中にはバリヤーがあった。彼女に愛は感じていたが恋は伏せていた。
「でもこうやってデートは楽しんでくれる。」
「ええ、それはそうだけど」
「僕は洋子さんとこうやって時間が過ごせるととても楽しいんだ、大事な友人だし。いつも僕好みの格好で来てくれるそのお礼で。洋服やアクセサリーに気を使って無理してもらいたくないのもあるんだけど」
この人が輝いていくのを感じ、共に居るのが心地良かった。それだけのことだった。
「でも・・・それだけですか?」
「ん?うん、それだけ」
「ふーん」
その回答を聞くと、私を見て目線を下げ、ちょっと目線をそらし、まだカプチーノが残るカップに目をやって悩んでいるようだった。その意味は知らなかった。私は紙袋を一旦テーブルに置き、最後の一口のコーヒーを飲むと、これなら気も済むだろうかと前のめりになり組んだ手をテーブルに置いて交換条件をだした。
「じゃあこうしよう、来月バレンタインがあるよね、その日前後に、アーモンドチョコをお返しに私にプレゼントしてくれるかい。ほらホワイトデーに女性が男性に期待するように、僕はこれでチョコを期待する、それでいいだろう」
「でも」
もう一度同じ言葉が出た
「それともこれ、気に入らなかった、なんなら今から交換してもらうけど」
残念ながらこの時も私は彼女の気持ちなど分からず、彼女は首をふって否定した。
「じゃあそれで契約完了」
そのピアスセットが入った紙の手提げ袋をテーブルから取り上げ彼女に差し出すと微妙な間があって受け取ってくれた。 
「ありがとうございます」
小さな声で礼を言うと、それを膝の上に置いたまままだ戸惑っていたようだった、もう少し安物にすれば気兼ねせずに貰ってくれたろうかと少し後悔したが、彼女が受け取ってくれたのでそれも直ぐに消えた。
しかし彼女は帰った後、こんなプレゼントを貰ったもののどうしていいのか困っていた。確かにプレゼントは嬉しい、自分を思って買ってくれたことに感謝はする。これが恋人としてプレゼントならどんなに嬉しかったろう。
でも私から聞かされたのは恋人でもないしだった。
自分はただの遊び相手なんだろうか、ただの着せ替え人形なんだろうかと悩んだ。
所詮趣味友達、そう思うと、貰ったピアスセットは開けることも無く暫く台の上に置かれた。
 
そのお返しは翌月のバレンタインにきちんと返ってきた。平日だったその日は仕事の帰りいつものカフェに寄ると、小さな箱に入ったロイズのアーモンドチョコレートがリボンでラッピングされ、可愛い袋に入れて手渡された。
「洋介さん、約束通りお返しのバレンタイン」
約束通りのお返し、それはある意味義理チョコになってしまったが、本命チョコであってほしとの願いも少しはあったもののそれは聞かなかった。
「ありがとう、本命には渡せた?」
「ええ、渡せました」
「そりゃよかった、じゃあ彼からのホワイトデーのお返しが楽しみだ」
「かなあ?」
彼女ははぐらかすようにその一言で済ませた。
「洋子さん、これで気兼ねなくあのピアスセット使ってくれるね」
「分かりました。ありがたく頂いておきます」
いらぬこととは思ったが私も気にして一言付け加えたが、笑顔で言ってくれてそのプレゼントはようやく彼女の元へ行った気がした。
 
その翌月ホワイトデーにチョコのお返しで彼女の好きなお店へ一緒に行き、春物の洋服を一緒に買った。私は買ってあげたかったし、買い物も楽しみたく私の気持ちも察してくれたいたようだった。
「彼から誘いはなかったの?」
なぜか本命の彼というのが引っかかっていたのか私はそう切り出した。
「残念ながら、ありませんでした。まっ所詮片思いですから」
「何かお返しはあっただろう」
「いいえ、何にも」
「じゃ僕からはお返しさせてもらうね」
「お返しのお返しって変ですよ。送りに行った帰りにまた送っていくみたい。永遠地獄」
くすっと笑い、それでも少しは楽しげで、前回のミスを無くそうと彼女自身が好きな服を選ばせた。スカート、ワンピース、ショール。棚やラックに吊られた商品を見ては手に取り身体に合わせて、それで最後は値札を気にしながら選ぶ
「折角のプレゼントだから好きなの選んだら?」
苦笑いしながら選んだスカートを見せた。
「じゃあこれ」
テレながら一枚選んだ。
「それに合う上もいるだろう」
「でも・・・」
そのままでは気兼ねして選びそうも無かったので、棚にたたんで置いてあったそれに合いそうな春物カーディガンを私が取り出し彼女に合わせてみて
「これはどう?」
「うん・・・でもいいのかな?」
「でも洋子さん、オペラ歌舞伎一緒に聞きに行ったらこれの何倍もかかるよ」
彼女が申し訳なさそうにいうので、私は笑って彼女の肩をポンと叩いて
「気にするなって」
その二枚を持つとレジの女性のところへ持って行き差し出した
「これお願いします」
レジの女性はありがたそうな表情でそれを受け取り、綺麗にたたみなおすと袋に入れ。カウンター越に出されると彼女が受け取った。私が支払うのを後ろに立って見ていて支払い終える
「洋介さん・・・いつもすみません。ありがとう」
小さな声で言ってくれた。勿論その後は靴屋により服に合うパンプスも買った。
「じゃあ今度はその服で花見にいこうよ、きっと似合うから」
「いいですね、春って感じで」
その時は私の気持ちも通じて彼女は喜んでくれ、そのことが私も嬉しかった。
彼と言うのも気になっていたが、その時確実に彼女との距離が近付いていたのが分かった。硬く締まった土地の奥底に埋まっていても、恋という種は芽を出し始めた。



 花見に行こうと誘ったものの街のソメイヨシノはもう満開を少し過ぎ一部葉桜になりかけていた。先日洋服を買った時「その服着て花見に行こう」といったのを気にしていた私は、山に有名な枝垂れ桜が今満開と聞き、彼女と桜の花を楽しみに、久しぶりのドライブに出かけた。
「土曜日は桜を見に行こう」
特に何も持たずただ桜を見に出かけよう言ったのは、彼女との時間が過せれば他に必要なものは感じなかったからだった。
車で彼女の部屋へ迎えに行くと外に出て待っていて、車が止まると確認しようと助手席の窓ガラス越しに私を覗いた。彼女は丸首の白いブラウスの下に黒のキャミソールが見え、胸元にはダイヤが入ったペンダントが下げられ時々キラッと光っている。車内は日差しで暖かだったが彼女の洋装は春らしく、思っていた以上に良く似合っていたものの男性からすると少し寒さを感じてた。
私は横になり手を伸ばしドアを少し開けてあげると乗ってきた。
「その格好で寒くなかった?」
「大丈夫ですよ、気持ちいいくらい」
小さい頃を郡上八幡の冬寒い所で過ごしていたせいだろうか、ここの寒さは苦にならないようで、助手席に座りシートベルトを掛けながら私を見た。
「それ、してくれたんだね。ありがとう」
私がペンダントを指差すと彼女はうなずき胸元を押さえた。
「これ今日初めて着けたんですよ、私にはまだちょっと大人すぎるかな」
「着けてたらすぐになじむよ」
「かなあ?」
「じゃあ行こうか」
私は車を走らせ出した。
「天気がよくてよかった。雨だったらがっかりだなった思っていたんですよ。せっかく買ってくれた服も台無しだし」
「本当、お天気いいから車の中はあったかいし。時間かかるけど、今日はロングドライブだね」
彼女の家を出ると少し走り高速に乗り、ドライブ用に数枚セットされているCDからお気に入りを選びスタートボタンを押す。アップテンポの曲が流れ始めた。
「これ・・誰です?」
「これ?これシカゴ」
ピーター・セテラの若いころ録音された『Saturday in the park』『長い夜』に続き『You're The Inspiration』と流れていく。別に意識したわけもなく、雰囲気出すためラブソング集を選んだつもりも無くかった。
「シカゴの初期の録音のものなんだ」
「洋介さん、クラシックばかりかと思ったらこんなジャンルも聞くんですね」
「そうだよ、なんでも。気分に合わせてね。ドライブで交響曲も似合わないだろ。ピーター・セテラはソロもこの次のCDに入っている、ドライブにはいいね。テンションあがって」
「意外だな」
チラッと彼女をみて答えると、彼女は流れる曲を聴きながら私のほうを向いて話しかけてくれた。私にすれば二十代半ばで日本画も好きというほうが意外だと思いながら車はクルーズを続ける。
「そう?こうやってロックも楽しむんだけど、特にキーボードのハモンドオルガンがいい味出してるって、それを言うとロックまであなたは講釈たれるのねっていわれ、そこが嫌いっていわれた」
「誰に言われたんです?」
「前の奥さん」
「へえ、そうなんだ」
「そう、ロックもジャズも好きだけど、疲れて帰ってまでテンション上がる曲聞こうとは思わないから、家では静かな曲ばっかりだった。ロックでも聞いて、ああ、この曲はこんな感じこんなシーンが浮かぶねと、それを言わなければよかったけど言うから、何でも理屈つけるのねって言われてね」
「ふーん、奥さんてどんな人だったんですか?」
「どんな人、そうねえ」
なぜか別れた妻の話になった。別段悪く言うつもりもなく、私は別れた妻の紹介をしながら車を走らせる。
話しの邪魔になったからか少しボリュームを絞る
「大学の同級生の人でね、それなりにクールビューティーっていうのかな?目鼻立ちがはっきりしてた。卒業後時々あっていたんだ、友達と一緒に。その後なんとなく二人で会うようになって、まあ恋が芽生えた?で二十八で結婚、彼女の仕事は製薬会社で保健薬のセクションに努めていて、だんだんと仕事が楽しくなって当然忙しくなる。出張も結構合ったし、それで時間のすれ違いがおきて三十で離婚かな。」
「へえ、そうなんだ。六年も付き合ったのに?」
「そうね、確かに時間は六年か、気にしたこと無かった。六年付き合って二年で別れりゃせわないね」
「離婚言い出したの奥さんからですか?」
「うん、そう。別れる前の晩かな、彼女「あなたが嫌いなわけじゃないの。ただ一緒に暮らす意味が分からなくなったの」っていってね。そういわれれば俺たち何なんだろうと思ったね。だから僕も判を押した」
「奥さんに仕事やめて専業主婦を求めたりしなかったの?」
「うん、しないよ。女性も仕事できるなら仕事すればいいと思うし、家事も一緒にすればいいと思うし」
気がつかなかったが、こうやって本当に二人だけになったことは初めてで、二人だけ話ができたことからこんな話になったのかもしれない。
「私は子供が出来るまでは働いて、子供が出来たら母親と妻に専念したいな」
「洋子さんは家庭的なんだ」
「うん、お母さん見て育ったからか、旦那さんに帰ってゆっくりくつろいで貰うようにしたいな」
「いい奥さんになりそうだね、洋子さんは」
「かなあ、まだいつの事やら。まずは相手見つけないと」
「大丈夫だよ、まだ若いしこれから。洋子さんならすぐ現れるんじゃないの」
「そういえばこの間、私に彼がいるんなら、その彼の同僚と合コンしようと誘ってみてよと、職場のね、おねえさま方に言われたんです」
「へえ、彼って?前に言ってた片思いの?」
「そう、でもそんなこと出来る訳ないじゃないですか」
「どうして?一緒にすりゃ近付けるチャンスだし、良かったんじゃないの?」
「だめですよ、そんなの。それにそうなったら洋介さんは気にならないですか」
気にならないか、確かにそう聞かれると気にはなった。なったがそれをどう答えようかと言葉を選んだ。
「気にならなくはないけど、でも洋子さんの思っている人だろ」
「でもお持ち帰りされますよ、いいんですか」
彼女は私の気持ちを確かめるように運転している顔を覗き込む
「まあよかないけど・・・」
「やっぱり気にはしてくれるんだ」
私が最後は尻すぼみで答えると、「あはは」と若い女性の軽い笑い声で彼女は笑いその話は終わった。高速道路をクルーズするシャーという軽いロードノイズがシカゴのブラス交じりの曲にサウンドとなって合わさりハンドルを持つ指が自然とリズムを刻む。気持ちが高まりややもするとアクセルを踏んで前の車を追い抜いてしまう。Queen のI was bon to love youが流れてる時などは彼女も私も乗りのりで身体を揺らし、一人では味わえない心地よいドライブを久しぶりに味わう。
「後ろのバッグに飲み物乗せてるから」
「洋介さん欲しいの?」
「いや、喉が渇いて飲みたければどうぞ」
天気がよく車内は半袖でもいいくらいで彼女も一枚脱いでいた。二時間ほど走るとくねくねと曲がる三桁国道を登り、そこからわき道に逸れ山の中へ入って行くと道端に地元の人が護っている立派な枝垂れ桜が数本植わっているのが見える。徐々に近づくその桜を見ようと、助手席の彼女が車の窓を開けると、さっと室内に山の香りを伴った風がさーっと入り、肩まである黒髪を流れ揺らすと山へと戻っていき、それを軽く押さえ
「まあ綺麗」
一言そう言い目を細めた。
賑やかな街中の公園で花見客の酔っ払った大声が混じる中眺めるソメイヨシノと違い、人気のない山の中にひっそりと立つ数本の桜は山の木々と相まってそれは美しく、存在感と生命感が満ちている。
木の植わるその道は車一台通るのがやっとの細道で、数本の桜の下をくぐるように進み、先にある待避所へ車を止めると二人は車を降りてその木のほうへ歩いていく。
自然とどちらからとも無く近寄っては無意識に手をつなぎ、無言で坂を下り一本の木へ向かうと、彼女はその手を離すと少し駆け足でカッ、カッ、カッカッと軽やかなパンプスの音を立て今盛りの枝垂れ桜に向かい、一度私の振り向くと、遅れて揺らいだ髪に隠れていた耳のピアスがキラッと輝いた。
「そんなに慌てなくても木は逃げやしないって」
私は笑いながら彼女に言ったが、聞こえたのか聞こえなかったのか幹の近くまで行くとその木を見上げた。
「凄くきれいね」
「ああ、でも下から見るより離れて全体を見たほうが綺麗じゃない?」
後からついていった私が桜の花より少し濃い薄手のカーディガンを羽織っていた彼女にいった。
「うん、でもこのほうが香りも楽しめるもの」
幹にもたれかかり、地元の人の車だろうか、白い軽トラックが一台脇を通るのを目で追いながら私に言うと目を瞑った。
 その香りを楽しめるほど私の鼻は効かないが、あたりに漂うつかの間だけ味わえるほのかな春の香りを彼女は目を閉じ感じているさまは、この『時』と『自然』のハーモニーが織り成す室内楽を楽しんでいるようであった。それを邪魔しないよう佇み、彼女を暫く黙って見ていると、聞こえるのは桜の蜜を求め飛び交う蜜蜂の羽音だけ。それもやがて遠ざかり静寂な時間だけが流れていた。それを遮るかのように風がふわっと吹くと花びらがはらはらと散った。
その中に立つ彼女がたまらなくいとおしくなった、静かに彼女に近付き、私の手が肩に触れた時その瞬間は少し驚いたように一度目を開いた。でもその目は私を見つめ、気持ちが伝わると再び閉じる。私は彼女を抱き口づけをした。私の唇がかすかに彼女の唇に触れると、ルージュをひいた柔らかい感触と甘い香りがした。彼女を抱きしめると彼女も私に手をまわすと二人は熱い口づけになった。春の装いの山を静かに渡る風が抱き合う二人を優しく祝福するかのように包み込む。その時間はわずかなものだったがとてもゆったりとし、至福の時を感じられ、このまま時が止まればいいのにとさえ感じたほどだった。唇を離すと、どこかで鶯が私たちを祝福するかのように一声啼いた。
 少し肌寒い春の陽光の中、桜の木の下で二人だけでおしゃべりを楽しみ時間を過ごすと、この桜を見に数人が訪れた
「じゃあ帰ろうか」
「うん」
目を細めてうなずく。
二人車へ戻ろうとすると彼女は手が届く一本の枝を見つけた
「ねえ、先に行って」
どうしてと質問する間もない
「ね、先に行って」と催促する。
「ああ」
理由も聞かず返事をし、一人車へ戻っている私に彼女の呼ぶ声が聞こえた
「洋介さーん」
振り返ったのは丁度一陣の風が吹いた時だった。彼女はその風を待っていたかのように先ほど見つけた枝を引っ張り数度揺らすと、花びらを受けた風は桜色の帯となり彼女を包み、淡いカナリヤの短いフレアスカートを揺らしながら流れていった。
無邪気な笑顔で立つその様はとても楽しげで美しかった。余りに綺麗だったので私は彼女の写真を一枚だけ写真を撮った。
 
帰りは渋滞に巻き込まれ夕暮れが迫っていた。
こんな時間ならついでに夕食を一緒にとろうと海が見える丘に立つ、温泉のあるホテルに立ち寄った。
あたりは暗くなっていて、春とはいえ日が暮れると寒さを感じたのか、駐車場に止め車から降りた彼女はバッグを持つ手前で組む。玄関を入ると暖房の暖かさを感じ、ロビーを通り二階の会席料理の店に入ったのは昼間見た桜がイメージとして残っていたためかもしれない。和服姿の女性が案内してくれたのは四人が座れるほどの障子で仕切られた個室で、そこにあがり座卓を挟み向かい合って私たちは座ると、お品書きが渡された。
「なんにする?」
そのうち一枚を彼女に渡そうとする
「洋介さんに任せます」その一言だけだった。
「じゃあ懐石コースにしよう」
先ほどの女性が注文をとりに来たので懐石コースを二人前頼む
「お飲み物は?」
彼女には何か飲むと勧めたが首を横に振った。
「車なので、結構です」
「かしこまりました」
女性は障子を閉めていった。
「今日の桜本当に綺麗でしたね」
彼女は障子が閉まるのを待ってそういった。
「うん、綺麗だったね。ソメイヨシノもいいけど枝垂れ桜も味があっていいね」
「ほんと、日本画の世界みたい。中島千波が桜を描く気持ちもわかります」
 彼女らしい感想だった。さらっとその名が出るところが彼女の素敵なところ、私の好きなところでもある。
「その表現がまたいいね」
「私桜の描かれた日本画を見るといつも感じることがあるんですよ」
「感じるというと」
「中島千波もその他の日本画家も桜の花びらを一枚一枚丁寧に描くでしょう、でもあんな大きな花びらはないですよね。それでも日本人はそれを見ると、ああ桜だなって感じる。あれが印象派だったらそんな表現しないでしょう?」
「そうだね、うわうわっと色の塊として表現するかな」
私はジェスチャーを交えその感想をいう。
「でしょう、そこが日本画との違いですよね。そんな描かれた花を見ても桜だな、春だなって感じることができるんですね、この国は」
「確かにね、日本人は花びらが散る刹那を感じ、西洋は花の生命観を感じるのかもね」
料理が運ばれるまで今日のドライブと桜の話をしていた。最初に入れられたお茶もなくなったころ「失礼しますと」と声がして料理が運ばれてきた。大きな盆に乗ったその懐石は
春らしいもので筍の焼き物や鯛とマグロの御造り、車えびのてんぷらなどが乗っていた。
「まあおいしそう、いただきましょう」
品が綺麗に並べられ私たちの前にそろうと、彼女は笑顔を浮かべてそういい、食事を始めた。一箸、二箸つけて
「おいしい」
目を細めそういった表情で私を見た時、私の感情を閉じ込めていた心の閂がカチャっと軽い音を立てて外れた。
とうとうなのかようやくなのかは分からない。
あとは彼女への素直な気持ちが扉を押し開け出てくる。
私は持っていた箸を置いて彼女に小さな声で言った。
「洋子さん」
彼女は料理を取ろうとしてた箸を止めると私の顔を見た。
「はい?」
呼びかけに答えるほどでもなく、ちょっとした疑問形で答えた。
「洋子さん、今夜・・・ここに泊まろう」
彼女はその言葉で今までの雰囲気は一転し、持っていた箸をゆっくりと箸起きに綺麗に揃えておくと、両手を膝の上に置き私を見てただうなずいた。他人行儀な感じだが、もともと親しいといってもお友達感覚だった二人が、この言葉で恋人に代わろうとする瞬間だったように感じる。室内には何か音楽が流れていたと思うが私には音は聞こえなかった。
「いいよね」
もう一度聞くとやはり伏せ目がちに、こくっとうなずく。
障子を開けると仲居を飲んで一本頼んだ。彼女は食事もせず黙ってうつむいて座っていた。
それがこれから訪れる男女の時間の緊張なのか期待なのか、また何かの不安なのか私に知る由も無かった。
「洋子さん、食べたら。ビールすぐ来るから」
「はい」
再び箸をとると食事を始めたが、何かしら雰囲気は先ほどまでと違った。
「失礼します。おビールでございます」
再び障子が開くと頼んだ冷えたビール瓶とグラスが二個置かれた。
ビール瓶を取ると結露した水滴がすーっと伝う、それを上げると彼女に勧めた、彼女はコップを持ち注ぎ終わると彼女はそれを受け私にも注いだ。
「乾杯」
「乾杯」
ぐびぐびっと飲むと冷えたビールが喉を伝い胃袋まで入るのがわかる。彼女は一口飲むと私を見たが、何かしら今までと表情が硬かった気がした。私も妙に口が渇いたのはこの歳になっても緊張があったのかもしれない。
「おいしいですね」
「うん、美味い」
それからようやく食事が始まった。
「日本語の不思議、ビールにまでおをつける」
「確かに」
雰囲気を少しは和らげようとそんな話もしたが、彼女はそれでも心なしかいつものような明るさは消え言葉も少なくなっていた。
一時間ほど食事をしただろうか、私もその料理の味はさほど覚えていない。
それを終えるといったんロビーへ降り部屋を取る。宿泊者名簿には自分の住所と名前に加え洋子と書く。
「お部屋はダブルとツインどちらにいたしますか」
カウンターの男性が聞くので
「ダブルで」
「かしこまりました」
男性がキーボードを叩き情報を入力する間待っていた。
「こちらダブルご一泊、お部屋は603号室でございます。ごゆっくりとおくつろぎください。」
部屋番号を示しながらカードキーがトレーに乗せられ差し出される、その間彼女は私の後ろに立っていた。キーを受け取とり奥にあるエレベーターへ向かっていくと、その時には知らぬ間に手をつないでいた。音もなく上がるエレベーターの中には二人だけで、無言で手をつないだままノンストップで彼女と部屋へ向かわせた。ポンとフロア到着を知らせるチャイムが鳴りエレベーターのドアが開くと、廊下はまるでこれから始まるオペラの開幕前の舞台かのように静まり返っていた。
休むにはまだ早い時間ではあったが私たちには関係なかった。
部屋に入るドアが閉まるか閉まらないかの時、序曲は奏でられた。
「洋子」
そう呼ぶと、それまで繋いでいた手を引寄せ、彼女を抱き寄せ熱い口づけをした。
その夜、このホテルで私たちは結ばれた。
それまでその時を望まなかったといえば嘘になるが、一緒に居ればそれで十分楽しかったし、心のどこかで別れた妻という、ひとりの女性を幸せに出来なかった思いがトラウマとなり、この一線だけは越すまいと自分で決めたルールがあった。しかしそれを破らせたのは、官能的なオペラのアリアでなければ酒の力でもなく、上村松園の描いた美人画のように、桜の下に立つ彼女の姿であった。
間接照明に浮かび上がる、色白の張りのある彼女の肌は、口づけとお互いの体温によって薄っすらと色をまし、吐息と共に昼間見た桜の花の色に染まっていく。その肌の色がつぼみの桜色になる頃二人は結ばれ、彼女を包んだ花吹雪は黒髪となって白いシーツを流れていた。紛れも無く私は彼女を愛していたし彼女もその時を待っていたように私を受け入れてくれた。
堰を切ったようないう言葉がある、これがそうかと思うほど私の感情は溢れ出た。人は思いを募らせるとこれほど強く相手を思えるのかと感じる。それは彼女も同じだった、お互いの思いが時間をかけて一つになった瞬間だった。こんな感情は今まで経験したことはなく、もちろん妻にも抱いたことのない。
ガスが集まり塊となって新星が輝きだすというのは、おそらくこういった思いがあって成しえるのだろう、その中心は圧縮された熱い熱い思いではないだろうか。そんな思いを抑えてきた二人はようやくそれから解き放たれ光りだす、二人は求め合い高まり、やがて共に頂きを向かえた。
やがて潮が引くと彼女は私に腕を枕に寄り添い腕をからめ、静まり返った部屋で私の胸の鼓動を確かめながら、出会った時から今日までの思いを小さな声で話した。
「私初めて洋介さんを見た時から一目ぼれだったの。洋介さんが私に彼の話をしたとき、いつも洋介さんのことを言ってたの気がつかなかったでしょう」
私に特別な感情を抱いてくれているのは分かっていた。しかし自分の中でそれを消化することは今日まで出来ずにいた。彼女の気持ちが分からなかったわけではなく、ある意味申し訳ないとも考えたときもあった。私に踏み出す勇気が無かっただけだった。
「でも職場でって、何回も会った訳じゃなかったよ」
「ええ、数回でした、でも合う回数じゃなくこの人だなって訳も無く感じていたんです。だからバツ一って知った時本当にラッキーって思った」
言葉と言葉の間に無言が続いたが、私も彼女との出会いを思い出しながらそれを聞いていた。
「でもこのペンダントの時、恋人でもないしって言われたのは、ちょっとショックだったな。やっぱりわたしではないのかって不安になってどうしようと思ったの。でもいつか私の気持ち分かってくれると信じて待ってて」
彼女は胸のペンダントをなでた。
私は彼女の肩を抱き優しくなでて聞いていると、言葉に詰まった彼女は、目に薄っすらと涙を浮かべていた。
「うん?」
短く声をかけその涙を拭ってあげると、潤んだ目で私を見つめていた。
「ようやく思いがかなったの」
私はたまらなくなり彼女を強く抱きしめると彼女は私の腕の中にすっぽりと納まった。
いったん抱きしめた腕を緩め彼女を見つめる。
「洋子」
名前を呼び合うと再び熱く長い口づけに変わった。
この夜から私は彼女を「洋子」と呼ぶようになった。長い口づけのあと
「洋介さん、やっと洋子とよんでくれたね」
彼女はそれをとても喜んだ。私の頭の中には彼女以外なにもなくなり、夜は更けていった。
 翌日の朝、私が目を覚ましたとき、彼女はやさしく軽い寝息を立てていた。幸せそうなその寝顔をじっと見て、これから一緒に歩いていけるのはこの人なんだと思って彼女の髪を優しくなでていると、それに気がついたのか彼女は目を覚ましたが、言葉も交わさずお互い見つめあった。それから二人の朝が始まるにはまだ少し時間が必要だった。
 チェックアウトぎりぎりにホテルを出て、日曜も一緒に過ごしたが、彼女との隙間はすっかりなくなっていた。それまであったお互い意識しながらつかず離れずの距離はなくなり、ぴったりと合わさった感覚になっていた。
輝く出したガスたちは、これからその光を増し大きな星になるはずだった。


季節はすでに秋を迎えようとしていた。
その頃は彼女との結婚を決めていた。年が変わったらプロポーズし、一緒に婚約指輪を買いに行く。そして彼女の両親に挨拶に行き、彼女が二十五歳を迎えた初夏に結婚しようと自分の中に計画があった。今の自由な時間を自分自身や友達と謳歌して欲しかった。そして彼女はもっとも輝き、より素敵な女性になると信じ、その輝きの中で結婚し彼女の夢だった花が溢れるオランダへ一緒に行こうと思い、夢はかなえるものとその時は信じていた。

その日小さなイタリア料理店で前菜を食べ、ワインを口に含んだとき
「近頃なにか疲れが取れないし、貧血気味なの」
イタリアンレタスで巻いた生ハムを口に運んだフォークを置くと彼女がいった。
「仕事しすぎじゃないか?」
声をかけたまでは良かったがそれ以上気にかけることは無く食事を済ますと、その後彼女をホテルに誘った。この頃は休みに前になるとお互いの家を行き来する様になっていたが、休みの朝早くから彼女に家事をさすのにも嫌でこの日は外で食事をしたのだった。
「疲れているから今日は・・・」
バックを両手で下げうつむいたのは私に気を使ってのことだったのだろう。よほど疲れているのだろうと感じた私は彼女を駅まで送る。駅の階段のところまで行った彼女は一度振り返り私に軽く手を振ると、私が答えるのを見て安心したかのように階段を上がるその姿は少し力ないようにも感じた。
 それから少ししてそれまで毎日のように楽しくメールや電話で連絡を取り合い、忙しい合間をぬってはデートもしていたのに急に彼女から連絡が来なくなった。はじめは風邪でもひいたかと思いゆっくり休めばいいと気にもしなかった。しかし何度メールしても返事は返ってこず、おかしいと思い電話をすると「その電話は現在電源が切られているか、電波の届かないところと・・」アナウンスされ通じなくなった。
私は何事かと気になり彼女の部屋を訪れた時、ポストには沢山のチラシが溜まり、そこに彼女は居なかった。翌日勤務先の担当へ電話をかける
「お世話になります、田中です」
「はい、こんにちは」
「あのつかぬ事をお伺いしますが、総務の上村洋子さんはいらっしゃいますか?」
「上村は休んでいますが」
「あの、連絡は付きますか?」
「いいや、彼女入院中ですが、なにか?」
「入院??どちらへ?」
「ちょっとこちらでは・・・田中さんどうされんです?」
「いやちょっと・・・明日にでも伺わせていただきます」
私は電話では駄目だと感じ翌日彼女の勤務先へと出向いた。
総務課に挨拶し彼女の隣の席の女性に声を掛ける
「あの、上村洋子さんが入院中だと聞いたのですが」
「ええ、ここのところ暫くお休みで、おうちの方が連絡あったようですよ」
「どちらへ入院されているかご存知無いですか?良かったら教えてもらいたいのですが」
女性社員はなぜそんなこと聞くのだろうと気になった。
「上村が入院しているのどうしてご存知ですか?」
それでも私のことを察したかのように小さい声で聞いた。あまりプライベートを持ち込みたくは無いが、そんなこと言っていられなかった。
「洋子さんから連絡が無くなって・・・で聞いたら入院したって聞かされて。入院先・・・教えて貰えませんか?何とか連絡だけでも取りたいのですが」
辺りを気にしながらも何度も頭をさげた。
「でも私も知らないし、個人情報になるので教えられないですよ」
「ええ、そういうことは存じてます」
「でもそういわれても・・・」
私は話をしているのを周りが気にしていることに気が付いていたが、構ってられなかった。
「じゃあ」
私はその女性のデスクにあった紙に私の目携帯番号を書く
「これ、私の携帯番号です、あとでここに電話頂けませんか、どうしても洋子さんの入院先知らないと駄目なんです、お願いします」
一方的なお願いなのは承知していたが、その女性にお願いする
「彼女、私の大事な人なんです。お願いします」
「そんなこと言われても・・ねえ」
ちょっと困惑して隣の人に聞いた。
それを助けたのはその隣の女性だった。
「そんなことなら。調べてあげたらどう?」
「でも・・いいのかな」
「お願いします」
拝み倒した。
夕方仕事一仕事終わった頃だった、私の携帯に知らない番号からの着信があった。彼女の同僚からだった。
「もしもし、田中さんの携帯ですか?」
「はいそうです」
「洋子と仲良くしていたものです」
彼女の同期の友達からだった。
「洋子に彼がいるようだったのは気がついていたのですが、田中さんだったんですか?」
「ええ、そうです。仕事関係なので彼女も言わなかったのだと思います。もう一年以上付き合っています。結婚も考えているのですが、なぜか急に連絡なくなって入院と聞かされたのですが・・・」
「そうですか。ええ、私たちも詳しいことは分からないのですが、入院先だけは何とか調べました。きっと何かあったんだと思うのですが、全く連絡付かないのです」
詳しい内容は家族からも知らされておらず、分からないと言われ彼女の入院している総合病院だけを教えてくれた。
この際交際が知られようがそんなことは知ったこっちゃない。必死だった。
「洋子、いつもメールが来たときは嬉しそうで、ずっと毎日楽しそうだったんですよ。それに」
同僚はそこで言葉をとめた。
「それに・・・なんです?」
「洋子、私に「私結婚するかもしれない」って言ったこともあったんです。私がそれはいつごろって聞いたら、まだ分からないけど、そうなればいいなって明るく言ってたのに」
「そうですか、・・・彼女も思っていてくれてたんですね。・・早く良くなってもらいたいのですが」
彼女も心の準備が出来ていたのだと改めて感じた。
「そうですね、気になりますね。お見舞いに行かれたら私も行くのでお大事にとお伝えください」
「どうもありがとうございました」
電話を切ると、その足で直ぐに彼女の入院する総合病院へ見舞いに行ったが、現在治療中ということで彼女に面会することは出来なかった。その後幾度となく訪れたがやはり面会謝絶を理由に断られ会うことはできず、その理由を聞いても誰にも教えてくれなかった。何があったのか、なぜ急に連絡もくれなくなったのか不安で仕方ない。
なんとか状況を知りたいと思うと、そういえば彼女から来た年賀状に実家の電話番号が書いていたかと思い出す。
帰宅すると机の引き出しから正月に来た年賀状を見たが、そこには実家の住所しか書かれておらず、それを見たとき肩の力が抜けた。
でもその住所を尋ねたら誰かはいるだろうと思い、週末を待って車を走らせた。
日曜は朝からナビに入力した案内に従い車を走らす。
ひたすら車を走らせ東名一ノ宮JCTで東海北陸自動車道に乗り郡上八幡ICで降りると、案内されたその住所の場所には午後二時頃に着いた。洋子の実家と表示された場所で車を降りる。
本来ならここにはこんな事でくるはずではなかった。
玄関先で声をかける。
「ごめんください」
何度か声をかけたが誰も出てこず、玄関の引き戸を開けようとしても鍵か掛かって動かなかった。
少し時間を置いて伺おうと、コーヒーを飲みに近くの喫茶店を探して町を歩いた。彼女の言っていたとおり、町の真ん中を流れる吉田川はそこの小石まではっきり見える清流で、通りには綺麗な水がそこここに沸き、小さな水路に流れている。古い家並みは味のある雰囲気を醸し出し、そこにある一軒の喫茶店に入る。
コーヒーを注文し出されたカップに揺らぐコーヒーを見ると彼女が言っていた「うちだともっとコーヒーが美味しいですけど」を思い出し味わった。やはり水が違うせいか香りの深さが違うようだった。一時間ほど時間を潰し、そこを出て再び彼女の実家を訪れても変わらず、私はメモ書きを残した。
『洋子さんのことでお伺いしたいことがあります、連絡ください。  田中洋介』
電話番号と住所も書きポストに入れ、連絡を待ったが電話がかかることもなかった。
彼女からの連絡がなくなって以来、私は展覧会もコンサートも行かなかった。行く気がしなかったというのが正直な気持ちだ。何か行ったところでその気持ちのまま楽しめるはずが無いことは自分が一番知っていた。
無趣味な私はただ仕事と誰も居ない自宅を往復する時間だけが過ぎていく。
悶々とした単調な時間は年が変わっても変わらず、彼女からの年賀状が届くことも無く、そして再び桜も咲く季節が来て、日中の日差しの中では上着も要らない日が続いた頃だった。

その日は丁度会議のある日で午後の会議中、机の上にサイレントモードで置いていた私の携帯のバイブが振動し液晶にぱっと『洋子』と表示され、彼女からの電話を知らせる着信だった。
「すみません、ちょっと」
「なんだい会議中に」
慌てて席を立つと、会議に参加していたメンバーは非常識なやつと顔に表れていたが、私は構わず何度も頭を下げ、まだ振動している携帯をつかんで部屋を飛び出し廊下に立つと電話に出た。
「洋子、洋子だな」 
気は高ぶっていたが周りを気にして声を抑えていった。少し無音が続き、もう一度彼女の名前を呼ぼうとした時、電話から聞こえてきたのはいつもの明るい清んだ声ではなく、深く沈んだ彼女のお母さんからだった。
「田中・・さんですね、私、洋子の母です」
「はい」
私は訳が分からず狼狽した
「洋子…会いに来てやってください」
短い言葉だった、しかし、それでようやく私は彼女の元へ行くことができた。
「わかりました、では後ほどまいります」
「すみません」
そういって電話を切り部屋に戻った私は一言謝り再び会議に参加したが、会議の内容など身に入るわけも無い。上司の説明する販売戦略や目標などの声は聞こえず、手にした書類は何も見えず、彼女のお母さんからの暗い声で言った「洋子、会ってやってください」が何度も何度もリピートし、気になって仕方なかった。一時間ほどの会議だったが、その間この会議は永遠に続くのではないかと思えるほど長く感じた。
「他に意見は無いか」
部長の声がして、誰も意見は言わず、ようやくその会議も終わりがきた。
「上司の、では」という終了の言葉が聞こえると机に配られた資料を持ち、私は再び部屋を飛び出し自分のデスクへ駆けて行った。会議出席者は何事かと私を見ていたことだろう。自分の席へ戻りイスに置いてあった黒いカバンを掴むとイスを元に戻して、他人の言葉も聞こえず部屋を飛び出した。
「すみません、今日早退します」
「課長、どうしたんです急に!」 
 部署の一人は驚いたように声をかけ、女子社員は何事かと唖然と見ている。
「何があったの?」
「さあ」
部屋を飛び出していく私を目で追っていた。私が動くとそれにつられデスクの書類が数枚ぱらぱらと床に落ちた。気にはなったが
「後頼む」  
種類をさして、片手で拝むようにポーズをし、ばたばたと会社を出た。
私は電車を乗り継ぎ病院へ急いだ。車中は覚えていない。「洋子に会ってください」というのはどうゆう意味だろうか。もしや彼女に、悪いことしか浮かんでこなかった。病院に着き3階看護師詰め所へ急いで行くと、3人ほどの女性看護師淡いピンクの制服で詰めてカルテを見ながら話していて、声をかけると一人が近寄ってきて面会シートに名前を記入させられた。「それではこれを」と説明があり、白い帽子にマスク、使い捨ての手袋をはめ白衣まで着させられ彼女の入っている311号室病に案内された。そこのドアを開けると同じ格好で部屋の角に立っていたのは彼女のお母さんで、明らかに疲れ憔悴した表情なのはマスクをしていても感じられ、ただ静かに見守っていた。
「あの・・・お電話いただいた、田中です」
「洋子の母親です」
マスクを通しこもった声で挨拶をして一例すると私の顔を見て、お母さんも静かに一礼した。ベッド脇へ数歩移動すると彼女はビニールのカーテンで仕切られた向こうのベッドに力なく横たわっていた。薄い布団が掛けられ、そこから出ている左手は、ただでも色白の肌が透き通るほどになり、何箇所も注射の痕が残る。細くなった腕には点滴のチューブが打たれて、あれほど明るく元気だった彼女の面影はどこにも無く、変わり果てた姿であった。
「洋子・・・」
小さな声で彼女の名前を呼んだが眠っている彼女は目を覚ますことなく、触れることも撫でてやることも出来ず、ただ黙って見守ることしか出来ない見舞いだった。お母さんは私が彼女に呼びかけた時、顔を背け目を覆った。
部屋の外では看護師が患者と話す声が響いているのがもれて聞こえる。
彼女を見守っていると看護師が入ってきて、治療があるので良かったら出てくれないかといわれ、私はお母さんに挨拶をしては部屋を出ると、後を追うように彼女のお母さんも出てきた。
「田中さん・・でしたね。あの洋子とはどういった」
白衣とマスク、帽子と手袋を専用の箱に捨てると、彼女のお母さんは通路の先にある面会場所へ案内した。
硬いパイプイスに腰掛けると私は自己紹介をし、それから彼女とのなり染めを話した。
「年が明けたらプロポーズしてご両親にご挨拶に伺うつもりでした。洋子さんが二十五になったら結婚しようと決めていました。それまでは彼女に自由に過ごしてもらいたかった」
それを黙って聞いていたお母さんは怒ることもなく涙をためていた。
「田中さん・・・洋子のために祈ってやってください」
じっと聞いていたお母さんは涙をこらえ何も言わなかった。最後に言ったのはそれだけだった。黙って頭を下げると席を立ち、娘のところへ戻っていく、肩を落とした後姿を私は見えなくなるまで見送った。それはたった一回きりの面会となり「洋子、僕と結婚しよう」私は彼女にその言葉をかけてやることもできず、彼女はそれから少しして天国へと旅立った。

病名は急性骨髄性白血病だった。

彼女の死を知ったのは出張で出かけていてこれから食事でもしようかと思った時刻だった。
取引先の人と打ち合わせも終わった。
「これから食事でも行きますか」
近くの料理屋へ向かう途中携帯がなった。表示にはあの時と同じく『洋子』と出ていて、その表示を見た時、悪い予感がした。
「はい、田中です」
「洋子の母です・・・洋子が・・・洋子が亡くなりました」
しばらく答えることが出来ず、お母さんの鳴き声だけが聞こえてくる。
「分かりました、ご連絡ありがとうございます。あの、これからそちらへ伺わせていただきます」
返事もなく、電話は切られた。
「あの、せっかくですが急用ができましたので帰らなくてはなりません」
取引先の担当者もどうしたことかと思ったようだった、私の顔も蒼くなり、顔つきが変わっていたのに気がついたようだ。お母さんからの電話では受け入れることはできず、もう一度着信履歴を見ると確かに洋子からの電話が通話履歴に残っている。
「申し訳ありません、ちょっとご不幸ができまして」
「そりゃ大変だ、すぐに帰ったらいい」
「すみません、この穴埋めは次回」
私は取引先の担当者に頭を下げ別れるとその足で車を走らせた。
街中はまだ車も多く高速に乗るまでは時間が掛かる
インターを越すと道は空いてはいたが、徐々にトラックの多くなる夜間の東名をひた走った。途中は一切記憶にない。
あれほど明るく、元気だった彼女が死んだ?ただ洋子が死んだ、それしか頭に出てこない。道路の黄色い街頭が飛ぶように流れていき、トラックの汚れたテールライトが近づいては後ろへ走っていくと、そのトラックのヘッドライトがルームミラーに小さくなっていく。
時間の経過も何も分からずただ車を走らせた。
夜中彼女の入院先の病院へ着く。
急いで彼女の病室を訪ねたがその時彼女はそこにはいなかった。
「あのここに入院していて、今夜亡くなられた、上村洋子さんは?」
当直の看護師にたずねた
「その方なら、もうご家族の方と葬儀社の方がご遺体は運ばれました」
「どちらへでしょうか?」
「さあ、私にはわかりませんけど」
慌てて彼女の携帯へ電話をかけたがやはり繋がらなかった。
病院を後にし、自宅へ帰ったもののその夜は一睡もできずソファに座り彼女の両親からの連絡をまった。夜がしらずんで来て、牛乳や新聞配達の音がしていたようだがまったく気がつかず、長い時間を一人部屋でただ携帯を握り締めていたが、ただの一度も鳴ることはなく、こちらからコールしても繋がることもなかった。
彼女の通夜と葬儀の日と場所を知ったのは翌日彼女の勤務先に電話をかけて教えてもらったからで、結局それまで誰からも連絡はなかった。私は待ちきれず朝一番で彼女の勤めていた会社へ彼女が亡くなったことを聞くと、当然その知らせはご家族から届いておらず職場の総務も驚いたようだった。
「連絡がついたら電話ください」
お願いしておいたが、その後職場の方へ連絡が入ったのは随分後のことで、それから私に教えてもらえたが、通夜には間に合わず翌日の葬儀に参列することになった。

 葬儀当日、いくら結婚まで考えた、かけがいの無い唯一無二の恋人の死であっても、会社からすると身内でもない赤の他人に慶弔休暇などあろうはずはなく、私は休暇をとり彼女の葬儀に参列した。
祭儀場に訪れ葬儀看板に書かれた女の名を見ると改めて彼女がなくなったことを感じる。香の漂う祭壇には、あの明るかった頃の笑顔の写真が遺影として白い菊にかこまれ飾られて、弔問の人々はそれを見て生前を偲び早すぎる死を悼み涙を流していた。その中には会社の見慣れた人たちの顔もあった。
「あの、田中さん・・これを」
受付する私を見つけた彼女のお母さんは和装の喪服で近づいて、憔悴しきった表情で一通の手紙を渡し軽く一礼し、辛そうに親族席へ戻っていった。
表には田中洋介さまと見慣れた彼女の字が書かれ、裏には洋子と書いてある。
弔問客が着席し、僧侶が入り読経が流れて葬儀は進むと、祭儀場の進行役の女性が静かに言った。
「最後のお見送りですので皆さん、とうぞ祭壇の花を御棺に入れてあげてください」
身内の人、親しかった友人が花を手向けに行ったが私は彼女の顔を見るのが辛く着席したまま、最後に棺に封をされるのを待っていると男性が近づいてきた。
彼女の父親だった。
「田中さん・・ですね。洋子の父親です。どうか最後に見送ってやってください」
静かな深い声で誘われ、頭を下げると私は肩を落とし棺のところへ向かう。
白いハンカチで顔を抑えながら花を手向けている人々に混じり、私も祭壇から一本の白菊を抜いた。白木の棺に横たわる彼女の顔は綺麗に化粧がなされ幾分やせていたがあの可愛い顔のままだった。その頬の近くにその花を静かに置いた。彼女に掛けられていた見覚えのあるワンピースが目に入ると、私は精一杯涙を堪えた。
同僚や友人に混じり、すすり泣く声が聞こえる中、彼女の棺を乗せた黒い車を見送ると、渡された手紙を持ち、私は二人の思い出の枝垂れ桜を一人訪ねた。
 
彼女と訊ねた時と風景は変わり、自らの存在を知らせるかのような山ツツジの鮮やかな紅はすでになくなり、最後の藤の花弁が僅かに残っている。
それを引き継ぐかのように紫の桐の花が咲いていて、椎の花は幾多の萌黄色した葉と折り重なるように黄色く彩ると山を造っていた。
あの新婦のベールのように彼女を包み込んでいた桜はもうすっかりと葉桜となり、初夏を思わせる日差しを遮った大きな木陰は、わずかにかすむ空を、流れる雲の切れ間から射す光により影はいっそう色を濃くした。
それはまるであれほど明るかった彼女が影となり「私はここよ」と呼びかけているようであった。
その木の下に立ち渡された封筒を開くと、真っ白な便箋とあの展覧会の半券がはいっていた。その便箋には彼女の気持ちが力ない文字でしたためられていた。

洋介さんへ

洋介さんこの手紙を読んでくれている頃、残念だけど私はもういません。
洋介さんをはじめて見たのは私が入社して直ぐのときでした。会社に来たあなたを見て私は良い人だなと思いましたが話す事はなかなか出来ませんでした。私が洋介さんに話しかけたことはもう忘れたでしょうね。あの時どれだけ胸がどきどきしたことでしょう。でもその後メールを交換し、お茶に誘ってくれた時は本当に嬉しかったです。あの日私は舞い上がってしまいした。
 その後展覧会を見に行きましたね。レンブラントの自画像をみて涙を流す私を見て心配して声を掛けてくれました。絵を見て涙しても変な子とも思わず感受性を褒めてくれたのは洋介さんが初めてでした。加古隆のコンサートにも連れていってくれました。曲を聴き涙したのは洋介さんでしたが、私も同じでした。もっと一杯コンサートも行きたかった。その夜小料理屋に行ったのは酔った勢いで話したかったからでしたが、何か洋介さんにそれを察したようでいうことが出来ませんでした。
私は洋介さんと会う時、いつも今日こそは愛してもらえるかと期待していたんですよ。でもそんなこと私からは言えないし、洋介さんはいつも私に気を使ってくれているのも分かっていたので、洋介さんから誘って貰えるまでいつまでもいつまでも待つつもりでいました。
その日は桜の満開の日にやってきました。あの枝垂れ桜、本当に綺麗だった。その夜洋介さんに抱かれ、あなたのぬくもりを感じ、洋子と呼んでくれるようになったとき本当に幸せでした。私はその思いを持ったまま旅立つことができます。
洋介さんと出会って私は少しずつ大人になれた気がします。病気を治し桜色したウェディングドレスを着て洋介さんとバージンロードを歩き、一緒にオランダへ行きたかったですが、やっぱり夢でした。熊の洋介は私の隣にいつも一緒に居られるよう母に頼みました。
もし許されるなら、洋介さんが絵を見に行く時、初めて行った時の半券を財布にでも入れて持っていってくれたら、横には立てないたけど私も一緒に見られると思います。その後は美術館にでも捨ててください。

短い間だったけどあなたに会えて私は本当に幸せでした、ありがとうございました。
さようなら

洋子

読み終え、その枝垂れ桜に目をやると涙に揺らいで見える。
あの日の春の光を受けた彼女の笑顔も柔らかい唇の感触も、そして温もりまでもが鮮やかに蘇る。
私は流れる涙をこらえ車へ戻るとCDを取り出し掛けた。彼女と聞いた「大河の一滴」が車内に流れ、トランペットの切ない旋律が奏でられると、ここに訪れた彼女の嬉しそうな笑顔、香りを楽しみ佇む姿、花のついた枝を無邪気に揺らし花びらに包まれた彼女、その夜愛した時の吐息と温もり、その後の腕に感じた涙の感触と意味・・・・何もかもが走馬灯に浮かんでくる。
こんなことなら、つまらないことにこだわらずあの日すぐに結婚して、彼女の夢だったオランダへ連れて行ってやればよかった、それは彼女も望んでいたことだった。きっと明るい笑顔でオランダの街を、手をつなぎ互いの体温を感じながら歩いたことだろう。
涙は泉のように湧き、いつ果てるとも無く流れ、ハンドルに手を掛けうずくまる私の黒服の袖を濡らしていた。


翌日も私は仕事を休み自宅に篭った。なぜ彼女がこんなに早く亡くならなければならないのか、彼女はこれから幸せな生活を過ごすはずだったのでないのか。喪失感と悲歎に暮れ、それまで彼女との楽しい時間を奪われた孤独感は、私の心を占めていた彼女への感情がどれだけ大きかったか示していた。とてもじゃないが仕事のことを考えることなど出来なかった。誰とも会いたくなく、ソファーに座りただぼーっとして、思い出したように音楽を掛けオーディオ横に立ててある彼女の写真を見ると、桜に佇むその表情がまた彼女を思い出させた。
「これなんて曲?」
「これ?!素直になれなくて」
「へえ、いい曲だな」
「うん、僕が生まれる前の曲かな、名曲は不滅だね」
高速を走っているとき彼女が題名を聞いた曲も思い出す、この曲のようにもっと素直になって、どうしてもっと早く彼女に好きだ、結婚しようといってやらなかったのだろう。彼女との想い出は曲とともにスライドショーのように次々に浮かんで消えた。初めてカフェに現れた時の姿、会話の声に表情、笑う仕草、愛し合った夜、何もかもが浮かんでくる。
彼女の部屋で泊まった時聞こえてきた、あの老婆のような声がもしや彼女を連れて行ったのだろうか。
頭の中には人知れず流す涙が何度リピートされ、思っても仕方ないことが次々と浮かび上がった。妻の時と違い、その別れはとても辛いものだった。また女性を幸せにしてやれなかった後悔があった。
もう一度彼女の写真をみる
「洋介さん、一緒にオランダへ行こう」
なぜかそう語りかけてくるようであった。

「私ね、結婚したら新婚旅行でオランダに行くの」少しはにかみながら言った言葉が浮かんだ。「手をつなぎデルフトの眺望を見るの」そういった。私は彼女からの手紙に添えられたチケットを取るとそれを眺めた。これをもって美術館へ行ってくれたら・・・
その言葉を思い出し私はオランダに行かなければと思った。
マイウリッツハイスに行けば彼女も一緒に見られる、そしてそこへこのチケットとあの時の写真を置いてやれば彼女は喜んでくれるだろう、それが彼女にしてやれる私の唯一で、最後の弔いだろう。
しかしそうといって私はこの思い出のチケットを捨てることはとてもではないが出来ない。美術館のどこでもいい、何とか片隅にでも置いてもらえないか、そうすれば彼女はいつでも、いつまでも愛したフランドルの絵画たちと一緒に居られる気がした。
 そういえば日本で開かれたマウリッツハイス展のパンフレットに館長のコメントが載せられていることを思い出すと、書棚からそれを引っ張り出しページを捲った。そこに館長のエミリーの名があった。もし気持ちが通じればカウンター隅でも倉庫でも写真とチケットを預かってくれるのでは。私は駄目で元々、マウリッツハイス美術館のホームページを検索し、コンタクトから直ぐに館長宛にメールを書いた。
件名は入場券の保管についてのお願いとし本文を書いた。

 Dear E.E.S. Gordenker Director of Mauritshuis

私は日本で暮らす田中洋介といいます。
日本で開催されたマウリッツハイス展を見に行った者です。
私には愛する洋子という女性が居ました、彼女はフランドルとオランダの絵画が大好きな女性でした。その彼女は私と結婚して新婚旅行でマウリッツハイスを訪れ、二人手をつなぎデルフトの眺望を見るのが夢でしたが、その夢もかなわぬまま先日白血病で亡くなりました。
彼女の最後の願いに二人の思い出のチケット半券を持って美術館を訪れたら私はそこで一緒に絵を見ることが出来きます、最後はそこへチケットを捨ててください書いてありました。私は彼女の最後の願いをかなえてやりたいですが、写真とチケットは悲しすぎて棄てることが出来ません。どうか貴美術館のどこか片隅にでも置いていただけないでしょうか。
返事待ってます

 田中洋介

答えが直ぐに来るとは思わなかったし、スパムメールで処理されるかもしれないとも考えたが、見てくれることを期待し送信ボタンを押すと送信完了の表示が出た。

翌日帰宅すると、直ぐにパソコンメールを開いたが、受信箱にはくだらないDMメールや迷惑メールが入っていて美術館からの返事は無かった。この時は仕事などほとんど身にいらず、帰宅しマウリッツハイスからの返信だけが生きがいだった。
それが二日、三日、と続いた。やはり無理だったか、あと一日待ってみようとしたのは一週間が経ってのことだった。その夜帰宅し同じようにメールを開く、やはり同じように迷惑メールとDMメールの中にReがついたメールが一通あった。慌てて開くと美術館からの返事だった。
Dear Yosuke Tanakaと始まった返信には、それはお気の毒ですと書かれ、私たちの美術館での対応は基本的に無理ですが、どこかあれば考えるのでチケットの半券と写真のサイズを記入し添付してくださいというものだった。
私は嬉しかった。
少なくともメールが読まれたことに感謝した、そして最悪でもそこへ行けば彼女に絵を見せられる、その時何とか頼み込めるかもと淡い期待を寄せた。写真のデーターとチケットのスキャンしたものにサイズを記入し返信した。それから数日が経ってまた返信があった。
分かりました。あなたの希望をかなえてあげたいが、私は七月まで出張でいません。七月十五日以降に来られる日を知らせてください。というものだった。正直、彼女とは行けなかったが彼女の思いが通じた気がして嬉しかった。カレンダーを見ると第三週が都合つきそうだった、翌日会社へ行くと有給の申請をした。そして十九日金曜に伺うが良いかと返信した。その答えは翌日には来て、その場でオランダまでの往復航空券を購入し手続きを行った。


一週間の有給休暇を申請した。
理由は旅行だった。上司にはなぜ忙しくなる今頃と理由を聞かれたが話ほどのものでもなく「都合で」とごまかすと、せめて夏休みに行ったらどうだといわれたがそんな余裕はなかった。
「その夏休みを前倒しでお願いします」
悲壮感が伝わったのか上司はしぶしぶ印鑑を押してくれた。

オランダへ向かうその日は蒸し暑い日で、関空へ向かう途中、電車から見える景色は白くかすみその湿度はからみつくようで、屋外へ出ると汗がじっとりと出てくる。
空港で手続きを終え、搭乗案内がありボーディングブリッジを渡り、駐機されているB777に入ると、フェルメールが好みそうなブルーのユニフォームを着たCAが笑顔で出迎えてくれた。チケットを見せると後部を指し案内してくれ、私の座席は翼後部の窓際の席で、学校の夏休み前とあって空席が幾分ある機内だったが、隣に赤いTシャツの銀髪の白人の老婆、その隣に男性の老人で、欧米の人らしく歳がいっていても派手なシャツが似合っていて、おしゃべりなおばあさんが座った。
蒸し暑い関西と違い機内は冷房が効いて快適で、機内案内では到着は現地時間午後三時半、到着地の気温は二十四度とアナウンスされた。昼間のフライトとあって狭いシートで寝る必要も無いのはありがたい。
オランダ、アムステルダム行きのKLMオランダ航空は関西空港を10時過ぎに飛び立った。窓から外を見るとすでに雲の上に出て水平飛行になっている。隣の女性は私に話しかけてきて何処へ行くのかという。オランダ、デンハーグまでというと目を開いて「あそこはいいところよ」と答えた。その老婆と男性は夫だと彼を紹介して、日本観光を終えオランダに帰るところ、京都は一度来たかった場所で日本もとても素敵だったわと感想を話した。私は席のテーブルを出しそこへ彼女の写真を向かい合うように立てた。これからオランダまで彼女と一緒の旅だった。老婆はその彼女の写真を見るとまた興味が湧いたようだった。
「この女性はだれなの」
「私の恋人、フィアンセでした。先日亡くなりました」
私の顔を見て質問したおばあさんはその答えを聞くと、「まあ」と表情を曇らせ写真を除きこむような仕草でみた。
「少し見せてもらっていい」
私はフレームに入った写真を老婆に渡すと、皺のある白い手で大事そうに受け取りじっと眺めると、隣の旦那さんもそれを覗き込んだ。隣の旦那さんに彼女のことを話している様子だった。
「なんて可愛い人だったのでしょう」
フレームを私に返すと、私の手を軽くポンポンと叩いてそれはお気の毒にといってくれ十字をきったようだった。何か話しやすい雰囲気だったので今日の旅のいきさつを話した。
「彼女とは新婚旅行でマウリッツハイスへ行くつもりだったのですが、残念ながら叶いませんでした。彼女にそれを見せたくて行っています。この写真はその美術館においてくる予定です」
「それは残絵念だったわね、でもきっと彼女も喜ぶでしょう」
またポンポンと腕を叩いてくれたそういってくれた。
フライト後飲み物のサービス、そして機内食が配られた。メインは魚料理、機内食らしくさほど美味しいものではなく、隣のおばあさんは肉料理を食べていて、ナイフで肉を切ると旦那さんに話していた。
「このビーフ、硬いわね。神戸ビーフとは大違い」
「機内食はこんなもんだよ」
オランダ語の会話で旦那さんはそういいながらビールを飲んでいるようだった。
この二人の歳になるまでこうやって一緒にいられるのはなんと幸せなことなんだろう。
並びの二人を見るととてもうらやましく感じる。
食事も終わると再び目を窓の外へやった。ところどころに浮かぶ夏雲が下に浮かんでいる。ああ、これも彼女と一緒に見る風景だったのかなと思い眺めていた。これが新婚旅行なら彼女嬉しくて楽しくて私に甘えたろうし、フライト時間もさぞ短く感じたことだろう。
そういえば彼女の部屋を始めて訊ねたときもこんな天気だったかと思い出し、その日のことが浮かんできた。

あれは桜を見に行った翌月の土曜日だった。彼女は私を彼女の部屋へ招いた。
「洋介さん、今度の土曜日うちへ遊びに来ませんか」
「どうしたの?なにかあったの?」
「いいえ、自宅だとゆっくりできるから」
火曜日の夜掛かってきた彼女からの電話だった。どうしたことだろうと疑問に思ったたが、女性が男性を部屋に招きいれるということはそれなりの感情がないと出来ないことくらい幾ら鈍い私にでも分かる。本当にいいのだろうかと少しは躊躇もしたがその頃は私自身も彼女との時間が楽しく幸せを感じられ、生活に張りを感じるひと時となっていた。
「いいの?部屋へいって」
「もちろんですよ、じゃあ住所言うね」
「住所は知ってるよ」
「えっ、なんで?」
「だってクリスマスプレゼント贈ってくれたじゃない。そこに書いてあるから、変わってないんだろう、あれから」
「あっ、そうか」
彼女はプレゼントを送ったことは忘れていて、手帳に記入してある彼女の住所をいう
「そう、そこ」
「じゃあ調べて土曜日行くね」
私の自宅から電車で四十五分ほど離れたところに彼女の部屋はあり、教えてもらった住所から地図で調べその日向かった。現在は便利になり彼女が住所を教えてくれるとあっという間にその場所の地図が表示され、駅からその場所まで案内してくれるアプリまである。少し早くに着くよう一本前の電車で最寄駅まで行き、駅を出ると彼女への手土産を探しに近くの商店街を訪れた。『気持ちを表すのは花』といわれるので自分の柄でも無かったが、一本の赤いバラをフィルムで包んでもらい、次の店では真っ赤なイチゴにシロップがコーティングされたショートケーキを買った。日差しを受けると心地よく駅から歩いて15分くらいのところメイン道路から少し奥まったに場所にその6階建ての建物があった。
彼女の部屋はその206号室で、玄関脇にあるインターフォンで部屋番号を入力し呼ぶボタンを押す。
「はーい」
「田中です」
彼女のところを訪れて田中ですというのも何だか変な感じだったが、インターフォンに向かい「僕です」というのも気が引けた。
彼女の声が聞こえロックを解除してくれると勝手にドアが開く。
階段を使い彼女の部屋の前まで来るとなぜか胸が高まった。チャイムを鳴らすとドアの向こうで明らかに彼女が近づく気配を感じ、カチャと音がしてドアが開けられると、今まで見たこと無い明るい表情の彼女が笑顔で出てきた。
「いらっしゃいませ」
少しおどけて見せたのは自分の気持ちの高鳴りをごまかす為だったろうか。白いカッターシャツの下には淡いインナーが透けて見え、黒のショート丈パンツのカジュアルさが彼女をより細く見せ、自宅ということもあるのだろうリラックスしながらも私を招き入れる高揚感が感じられた。
「どうぞはいって」
「お邪魔します」
その言葉に誘われ中へ一歩入ると甘い女性の香がし、蜜に誘われる昆虫の気持ちが少し分かった気がする。室内は少しひんやりとし、狭い部屋ながら室内は綺麗に片付けられている。玄関の先は直ぐに小さなキッチンがありシンクの隣に小さな冷蔵庫とその上には使い込んだレンジオーブンが乗っている。冷蔵庫の横には女子らしくキャラクター物のマグネットで請求書が張り付けられていた。玄関を上がるとドアチェックがドンと音をさせてドアを閉める。今まで外から聞こえてきた子供たちの遊ぶ声が聞こえなくなり、そこは少し暗くなった。彼女はドアチェーンを掛けると私の靴をそろえ、足元を気にするように一度振り返る。
「一人なんで、狭い部屋ですみません」
私はシンクの前に立っていて、部屋へ案内しようとする彼女の肩が触れ合うくらい前に来たとき、花とケーキを渡した。
「これ、一緒に食べようと思って、それとこれ」
「ありがとう」
嬉しそうに笑顔で受け取ったケーキをシンクの開いたところへ置くと、自然にお互い見つめあった。何もいわなくても気持ちが交りあい、彼女を抱き寄せる口づけを交わすと彼女の花を持った手が背中に感じられた。時間の経過が分からないその時が過ぎ、唇が離れると、それで少し気持ちが落ち着いたのか、私を見つめる時間が少しあった。
「今コーヒーいれるね。まあ座って」
部屋へ案内された。四畳と六畳の2Kのこのアパートの四畳部屋の壁に沿って彼女のベッドがあり、その枕元には同名の洋介が陣どっている。
「こっちの洋介は一番いい場所占領してるな」
すると彼女は洋介を抱き、いつものように手をばたばたさせ
「洋介、僕とおねえちゃんの部屋へようこそ」
おかしくなってそいつの頭をなでてやった。
その反対側は押入れ人になっていて、六畳のフローリングには綺麗に掃除されたカーペットの真ん中にラグが敷かれ、テーブル代わりのコタツと、その上にはノートパソコンがあった。壁際に寝かせたカラーボックスにコミックが入っていて上に30インチほどのテレビがあり、私が来るまで見ていたのかついたままだった。その横に小さなオーディオが置かれ、脇にはディズニーキャラクーのフィギュアが数個あり乙女らしさを出していた。窓に架かるローズのカーテンはタッセルで束ねられレースのカーテン越しに、窓の外のべランダの使い込まれた洗濯機が見られ、窓辺には小さな鉢に植えられたマーガレットが数輪可憐な花をつけていて、水をやった跡がまだ濡れていた。
窓から柔らかい光が入っていて、清潔感漂う部屋は彼女の性格を表していた。私を招こうと掃除をして窓ガラスも磨いていたことだろう。コタツのところに向かい合って座布団があるのは私が来るのを待っているようだった。
「まあ座って」
テレビのスイッチを消すと、私を座らせコーヒーを入れにいったキッチンから声がした。
「一人だとこれでも苦にならないんですけど、二人はいるとやっぱり狭さ感じるな」
カチャカチャと鍋かやかんがあたる音がして、湯を沸かすコンロの栓とパチンと点火の音が聞こえる間、壁に掛けられている洋服や貼られたアイドルグループのポスターを眺めていると、先ほど持ってきた薔薇をガラスの一輪挿して持って現れ、卓の真ん中に置くと乗っていたパソコンへ部屋の脇にどかされた。
「一輪でも華やかですね、もう少しいい花瓶なら良かったけど・・・これ百均なの」
私は足を投げ出し両手を後ろについて座って話をしている、とキッチンで湯の沸騰する音がして、それが止まるとまもなくとてもいいコーヒーの香りが漂ってきた。
「洋子、もしかしてコーヒーって自分でも立ててるの?」
「ええ、そうよ。コーヒーは香りが命でしょう、私のね、職場の近くに自家焙煎のお店があってそこで新鮮な豆買ってきて、いつも立ててます。いい香りでしょう」
「ああ、ここまで香ってくる」
そこまで言ったとき、私を呼ぶ声が聞こえた。
「洋介さん、ちょっといいですか?」
私は立ち上がりキッチンへ行く、小さなサーバーには、今立てたばっかりの褐色のコーヒーが湯気を立てて入り、小さなプレートに乗ったケーキとフォーク、湯煎したコーヒーのカップがあった。
「お客さん使ってごめんなさい・・・どっちか持って行ってくれませんか」
「いいよ、じゃあこっちを」
私はケーキの乗った皿を両手に持って卓へ置き、カップを置いた彼女が向かいに座った。
カップにコーヒーを注ぐと湯気とともにまた香りが広がった。注がれたコーヒーを私に差し出すとケーキを取った。
「どうそ。私の実家の水ならもっと美味しいコーヒーになるんですけど」
そういいながらコーヒーとケーキを味わった。とれも香り深い美味しいコーヒーだった。自分が自宅で飲んでいるインスタントとは大違いだった。
「これは美味しいな。そこらの喫茶店やカフェよりずっと美味しいよ」
本当に美味しかった、正直な感想だった。それを彼女は喜んだ。
「綺麗にしてるね、部屋」
「そんなことも無いです、洋介さん来るからがんばって掃除しました」
照れ笑いする。
「ここも長く住んでるんです。大学は行ったときからだから」
 暫くは大学に来て辛くて一人泣いたことなど、この部屋での思い出に花が咲いた。
「そういえば成人の日に私も振袖着たっていったでしょう、見せてあげる」
彼女は押入れからアルバムを取り出しそれを私に見せた。まず渡されたのは茶色のサテン地のような写真館の名前が入ったアルバムだった。それを開くと薄紙が一枚ありその次に彼女の和服姿の写真があった。
「随分幼い感じだなあ」
「それ、今はおばさんになったってことですか」
「違うって、このときが幼いの」
彼女は冗談ぽくそういった。その写真は四年ほど前の写真だが、随分子供っぽい表情で写っていた。写真館で写した立ち姿、椅子に腰掛けた二枚の記念写真だった。白地に紫の絞りが何箇所か入り、赤い花が描かれた振袖に西陣のあでやかな帯が締められ、アップにした髪にはラズベリーレッドの花の髪飾りがあり、それが襟足をより白く感じさせている。この四年で彼女は随分と大人の女性に代わっていたが、なぜそうなったのかはあえて聞かなかった。
「この時もおかあさんは、私に着物買うって張り切ってたけど、一度だけだから貸衣装でいいって、ようやく納得させたの」
「昔ならこれ、見合い写真だね」
「でも二十歳ですよ、見合いには早いでしょう」
「そんなことないよ、昔はみんな早かった。クリスマスケーキって言われたくらいだから」
「なんです、そのクリスマスケーキって」
「二十五日は売れ残り」
「じゃあ私はもうすぐじゃないですか」
「それは昔の話、いまではなんだろうな、大晦日?」
「それはひどい、私絶対いやですそんなの。クリスマスにはもらってくれるかな」
「・・・・」
私に言っていることは勿論わかる。
写真を見せようと私の横にぴったりと寄り添っていたのはそれだけではなかったかもしれない。子供の時のことなどアルバムを取り出して写真を見せ説明してくれた中には、暗い風景にちょうちんの元、浴衣姿で踊る郡上踊りのものもあった。
「これがね、私の行った展覧会のファイル」
彼女が行った展覧会のパンレットを入れたファイルもだしてきて絵の話でも盛り上がる。その中には彼女の好きなレンブラント初めミレーやコローのバルビソン派、ゴッホやルノアール、モネといった印象派、またミロや猪熊源一郎の抽象画、伊藤深水、上村松園といった美人画、中には日本伝統工芸展やアニメ原画展まであってさまざまなジャンルの展覧会のパンフレットとチケットがファイルされ、私といった展覧会と加古隆のコンサートが最後にあった。ファイルをめくっては思い出や感想をいって説明する。
「洋子これ誰といったの?」余りの数の多さに気になった。
「誰って、殆ど一人ですよ」
その半分でも一緒に行けていれば思い出も随分違ったろうと感じた。
「これ行ったな、もっと早く知り合っていれば良かったな」
自分も行った見覚えのあるパンフレットを見つけて私がそういった。
「大丈夫ですよ、これからいくらでもいけるじゃないですか。そうだ、洋介さんといったのは別ファアイルにしよう。コンサートも別ファイルね」
そういって私に抱きついたので自然と口づけをかわした。
正直なもので桜を見た夜に初めて肌を合わすと、今まであったバリヤーは取り除かれ、彼女の気持ちも表に出て素直に甘えてくれるのは私も嬉しかった。
こうやって次々出して話すのは自分を知ってもらいたいためだったろう、その表情はやはり恋している女性の顔だった。
男は仕事に燃えているとき、女は恋しているとき顔が変わるというがまさに彼女はそれだと感じた。一つ一つの表情が明るく、内面から湧き上がる感情、生き生きとしたオーラが感じられる。自分の事を少しでも知ってもらおうとする気持ちがありありと自分に伝わってきた。
あの日から彼女の表情が明るくなったと感じた。
彼女は思い立ったようにCDを掛け音楽を流す。
「もっといいオーディオだったらいいんですけどね、これも随分つかったやつ」
「そのうち、はいるさ」
先日買ったクァルテットの曲が流れ始めた。私は心のどこかにあった気持ちだろうか、私が使っているオーディオセットがあるからという意味を含んでいった。
「かな・・・だといいな」
気持ちを察したのかどうなのかそんな答えが返ってきた。数時間会話を楽しみ過ごしたが時々スマートフォンを手にしては何か気にした。一度目はメールかと思ったが、二度目そして今度が三度目。この後なにか予定でも入っているのかと詮索し、少し気になった。
「今何時かな?」
時刻は午後五時近くだったろうか。スマートフォンの画面で確認するとそのライトで顔が少し明るくてらされ、それを見ると声が沈んだ声になった。
「もうこんな時間・・・」
「さっきから時間気にしているけど何か用事でもあったの、それならおいと・・・」
「ううん、反対。洋介さん・・・時間大丈夫かなって・・・今夜ゆっく・・・」
返事は私の質問を遮るように返ってきた。
言葉と言葉に間があり最後は消えるような声になり押し黙った。彼女の思いは直ぐにわかった、恋心は正直で嘘はつけない。その表情を見て、表情の変化を楽しんでみようと直ぐに答えをいわず考えたふりをしてやった。
「うーん、洋子が構わなければ、今夜酔って泊まっていこうかな」
その答えは聞くまでも無かった、少し暗くなりかけた部屋は彼女のところだけ輝き、嬉しそうに目が輝いたからだ。その変化は自分が考えていた以上で、まるで台風前にさす光のようで、風に流される雲に遮られた光が、次々流れる雲により明暗を繰り返すよう表情をかえていた。
「ほんとう?」
「ああ、そうしたいんだろ」
また薄い雲が掛かったように光は落ちると、恥ずかしそうに返事も無く、こくっとうなずく、実に分かやすい変化がたまらなくいとおしく彼女の頭をなでる。
そう分かれば彼女も気持ちの余裕が出来て、今度は今夜の夕食のことを考えだす。
「じゃあ今夜はなんにしようかな?何かリクエストはありますか?」
「ん?食べに行ってもいいんじゃない」
「だめ、私作るし、うちで食べるの。なににしようかな」
この言葉にまた結婚当時の事を思い出した。
もう遠い昔のように感じる、結婚当時は妻も食事を作っていた。そのときは料理を作るのも楽しそうだった。しかしいつからかそれも無くなった、仕事で遅く帰る時刻にあわせて食事を作るのも大変だったのかもしれないし、折角作っても冷めてしまえば気も萎えたのか。それに妻も忙しかった。そのうちあなた、外で食べましょうが、食べてきて、に代わりいつしか一緒に食べることすらなくなっていた。最後は「私疲れているから先寝るね」と自分の部屋へ消えるようになった。
「ねえ、洋介さん、聞いてます?」
その言葉でふと吾に返った。
「ああ、聞いてる。今夜ね」
「じゃあ今夜は何にしようかな」
和洋中、何が食べたいと聞くが、それほどバリエーションがあるのか分からないので答えることができない。
「なんでもいいよ」
「じゃあ母の手料理の十八番なんですが、筑前煮とかぼちゃの煮つけとかでいいですか」
随分家庭的な献立を口にしたが本当に作れるのか不安も湧いた。
「だいじょうぶ?」
失礼とは思ったが今夜の食事が総て無くなる可能性もあり、あえて聞いた。
「大丈夫ですよ、これでも私料理作ります。結婚して困らないように」
それは彼女の口から出た二回目の結婚という言葉だった。無意識のうちにでているのは深層の中に有る憧れからだろうか、三度目の正直という言葉がふと浮かんだ。
「それじゃあ買いものに行こう」
「うん、行きましょう」
今夜の買い物をしに近くのスーパーへ出かけることにした。
部屋を出て鍵を掛け、一階まで降りると、彼女私の腕を両手で掴み赤いマイバッグを揺らして笑顔で歩く姿は、知らない人が見たら新婚と思っただろうか、私も悪い気はしなかった。
来た時あれほど晴れていた空にどんよりとした雲が広がり、湿った空気が雨を予感させる中、二人は並んで買い物に出かけていった。十五分ほどの散歩を兼ねた買い物は近くのスーパーマーケットだった。夕方の買い物客が多い中、買い物籠をカートに置き、彼女はそれを押していった。野菜コーナーで食材を探しサラダを買い、肉のコーナーでは鶏肉を、鮮魚コーナーでは私が新鮮なムロアジの刺身を選び籠へ入れた。
「これが今夜のメインですね」
彼女はちゃっかり、ビニールに入った小さな刺身しょうゆとわさび小さなビニール袋に入れ口を縛ると籠に入れる。
「明日の朝はパンでいいでしょう?」
「ああ、いいよ」
「たまごあったかな・・・」
二人は買い物を楽しんだ、極ありふれて何の変哲も無い買い物だったが、もう忘れていた感覚を呼び起こすものだった。
 妻とも休日は買い物にいった、それは半年ほど続いただろうか?そのうち妻は自分ひとりで買い物に出かけるようになり、それが数ヶ月続くと最後は私が出かけるようになり、それは今でも続いている。スーパーに並ぶ商品の値段も他の職場の既婚男性社員より詳しくて、その話になれば既婚女性との方と話が合うくらいだ。
レジ近くまで回ってきてビールが6本入ったパックを一つ取りまだ籠へ入れた。
「洋子、ビールでいいの?」
「いいです、この時期はビール最高、それとこれ」
隣の冷蔵ケースからワインが一本足された。籠には結構な量の商品が入っていて、それを見ると一人と二人ではこんなに違ったかと感じる。レジで女性がバーコードを読ませ、信号音と同時に表示された金額を確認するように値段をいう。最後の商品を女性が籠から取り上げようとしたとき彼女が財布を取り出したので、私は手でそれを遮り私の財布を出した。顔を見たので顔で合図を送ると、合計金額が店員から告げられ札を出すと、「じゃあ」とポイントカードを出し支払いが行われ、お釣りが私に渡された。マイバッグに買った荷物を詰めると大きく膨れ上がり、私はそれを手に下げるとずっしりと重さを感じた。
「すみません、重いでしょう?・・あっ、そうだ。今夜の着替えかわなくっちゃ」
さあ、店を出ようとしたとき思い出したように彼女は私の手をひっぱり二階の用品コーナーへ上がるとTシャツ、スエットパンツ、下着を一枚籠へいれる。荷物を下げた私が財布を取り出しにくそうにすると、今度はさっと自分の財布を出しポイントカードと一緒に支払いを済ませた。
「後で返すから」
「いいですよ、いつも出してもらってますからお返し。それにこれも出させたし」
今の買い物を指しそういうと、清算を済ませ、彼女はその服が入った紙袋を提げ再び手を繋ぐと部屋へ戻った。部屋に帰ると手際よく今買った商品を片付けていく姿はまさしく新妻ともいえるだろうか、小さな冷蔵庫にビールとワインそれにサラダと刺身を入れると狭い庫内は物であふれかえり、これから作る料理の食材の野菜だけがのこっていた。彼女はもう支度を始めていた。
「洋子、夕飯まではまだは早くない?」
「でも今から作って食べだすと七時でしょう、それに休憩してたら動くのが億劫になるから今から作りますね」
「なんか手伝おうか、これでも自炊してるし」
男やもめにうじが湧いた時代はとうの昔に終わり、花が咲く女やもめはますます増えた。
男ひとりとて掃除洗濯料理、家事全般をやる時代になり、私はそれをもう五年は続けていて、別段気にもしなくなっていた。
「いいですよ、ゆっくりしててください。今買ったパンツに着替えてテレビでも見てて」
土曜夕方のつまらないテレビ番組より彼女の料理のほうが楽しそうだ。どんなことするのだろう、味付けは?と興味をそそられ、話をしながら彼女がキッチンに立つ姿を見ていた。カチャと音がして流し台の蛍光灯が灯り、野菜や肉と一緒にそれを料理する横顔が浮き出す。彼女は野菜や鶏肉を切り、炒める。
「うちのおかんさんも、こうやって作っているんです。小さい時から見よう見まね」
私のほうを見て笑うと料理を続ける。結婚して、こうして愛する人のために料理をするのも幸せだろう、私も一緒に台所に立ち共に料理を作るのもいい。ただ彼女にはそれだけでなく、若いときにしか出来ないもの、若いから感じられるものをもっと経験してもらいたかった。結婚して家庭に入り、子供が出来て育児に追われるとどうしても自分の時間は少なくなるだろう、この若い自由な時間のあるうちに自分を磨いて、それを持って結婚して新たな人生を歩んでもらいたい、その為にもう一年・・・彼女の料理する姿を見ながら考えた。
夕食に支度が整い、卓に並べられたのは七時頃だったろうか。テレビをつけていが独り言のように鳴っていた。二人は向かいあい、ビールで乾杯をし、それを飲みながら彼女の料理を食べた。以外といっては失礼だろうが、その彼女の外見とは違い素朴な味がした。当然箸は進みそれに伴いビールも進む。
「正直に言っていい?」
「何をです?」
「料理の感想を」
料理の感想を言いってあげたかった。彼女はかぼちゃを箸で二つに割りそれを口に入れちらっと私を見る姿に少し肩に力が入ったように感じ、次の返事が返るまでの微妙な間は、聞こうか聞くまいかの迷いだったのだろう。
「ええ、口に合いませんか?」心配げに聞くと彼女は手に持った皿と箸を持つ手を下げた。
「いや、素朴な味でその歳でどうしてかなって。美味しくなかったらこんなに減らないよ」
私は二人が食べて少なくなった筑前煮やかぼちゃの煮物の入った器を自分の箸で指した。
「よかった気に入ってもらえて。私寒いところで育った割に薄口なんで、ちょっと物足りないかなとも内心思ったの。でもかぼちゃはもう少し濃くてもよかったかな」
また彼女の表情が和らいだ。そして今置いたかぼちゃの入った皿を取るとそれを食べビールを飲むとまた私を見た。6本のビールは綺麗に空になった。彼女が作った料理もすっかり無くなって、赤くなった顔で彼女が片付けにはいったとき、すっかり気分がよくなっていた。
「なにか閉めで食べますか」
「いやいい、おなか一杯」
食器をさげながら聞くが十分満足だったのでそれを断り、空き缶を潰し、残りの食器を流し台へ持っていった。キッチンでは彼女が袖をまくって先の食器を洗っていて、女性が自分の目の前で洗い物をするこの風景も何か懐かしい感じがした。
「じゃあコーヒーは?」
「洋子が飲むならもらおうかな」
「じゃあ立てるね」
その間に私はコタツを立てて横へ置き部屋を広くして、座布団を並べて置き、二人は食後のコーヒーを楽しむ時には彼女を横に招いた。「うん」といってカップを私に渡し、自分の横に座ると身体を預け頭をもたげていた。室内にはコーヒーの香りとかすかに彼女の香りが感じられた。彼女の肩に手を回すと別段会話もせず、見るとも見ないとも分からずテレビが映っていた。何も代わり映えしない、どこにでも有る二人の時間、それを幸せと呼ぶというのはその先になって分かったことだった。
 恋人同士のまったりとした時間が過ぎて、狭いお風呂で入浴も終わると、今日買った今夜の着替えが脱衣場と呼ぶには狭い空間にたたまれたバスタオルとともに置かれ、反対に今日着ていた洋服は片付けられていた。入浴を済ますと少し酔いも覚め、これから休むまでの数時間の飲み物も欲しいところだった。私が出ると彼女が変わって入る、ドア越しに漏れてくるシャワーの音、流れる水の音が想像を掻きたて艶かしく感じる。それが止まると、バタンと音がして髪をバスタオルで拭きながら薄いピンクのボーダーのパジャマを着て彼女が現れた。胸のふくらみには乳首の盛り上がりが感じられ、いまさらながらと思いながらもなぜか恥ずかしく、目線を外す自分がいた。
 私の直ぐ近くに座り神をタオルで拭くと、かすかにシャンプーの香りが匂って、彼女の濡れた黒髪が尚更つやつやと見える。バスタオルで髪を拭くたびにそれが見え隠れするのはなかなか色気があった。
「黒髪がいいね」
「そうですか?ちょっと重いかなと思って染めようかなと思っているの」
「いや、その黒髪がいい」
綺麗に手入れされた黒髪は女性が思うより魅力的だと常に思っていた。
「そうかな?」
「うん、長いと思うならショートのボブでも似合うよ」
「ボブかあ」
「うん、短くするなら次はそれをリクエスト」
西洋人がアジアの黒髪に憧れるというのも分かる気がする。私は彼女には申しわけないが暫くこの黒髪でいてもらいたかった。洗面台の鏡の前でドライヤーで髪を乾かす間があって、次に現れたとき手にはワインのボトルとグラスが提げられていた。
「まだ寝るには早いでしょう」
冷蔵庫にいれられていたワインは具合良く冷え、二個のグラスとチーズを持っていたので、一旦片付けたコタツを取り出すとそこへ置く。
「ちょっと待ってて」
私は終始さて次は何をするんだろうと彼女の動きを目で追っていることに気がついた。このときはさっとカーテンを開き窓を開けると、ぱらぱらと雨音が聞こえ、とうとう雨の降り出していた。
「あーあ、雨か」
ベランダへ出た彼女の声が聞こえる。私が入浴の間に脱いだソックスと下着、上に着てきたポロシャツは洗濯が終わってそれを取りにベランダに出ると、パンパンと叩いて皴を伸ばしハンガーに掛けると室内に持ち込みカーテンレールに干された。私は室内からそれを眺め、彼女がこの部屋で洗った男の下着は父親のものと私のだけだろうかと想像をめぐらした。
「はい、おしまい」
部屋に入り窓にロックをし、カーテンを引くとまた二人は向かい合って座った。私がワインをあけ彼女に注ぎ、自分にも注ぐと再びグラスを合わせ乾杯をする、二人はこれを楽しんだ。
「洋子、自宅だと良く飲めるね」
自宅の安心感か、彼女は気持ちよく飲んでいた。足を斜めに出してコタツにもたれて座りウフッと笑い、グラスを上げる彼女は、少女から女性への転換期のように映る。一杯目を呑むとすでに顔は赤くなっていた、無理も無い、ビールも三缶は空けている。私も少しほろ酔いで気持ちがよくまるで自宅にいるように、いやそれ以上にリラックスしていたのは彼女のお陰だったろう。
彼女と一緒に暮らしだしたらテレビなどいらず、壁にはお気に入りの絵を一枚掛け、包み込んでくれる座り心地のいいソファーに身を任せ、隣に彼女を座らせSimone Molinaroのリュート曲を一緒に聞く時間が過ごせれば満足できる気がする。何も言わず彼女の体温が私の左に感じられ彼女も私の愛を感じてもらえれば、それは彼女にとって物足りないものかもしれないが、私はそれで十分だった。
するとどこからか「このまま彼女を自宅へ連れて帰ったらどうだ、彼女もそれを望んでいるよ」という声が聞こえる、嫌、そんなことはないと、その言葉の誰とも分からない主へ声も出さずに反論する。すると
「お前はそれでいいのかい」
老婆だろうかまた私に聞く。頭を振って追い払いグラスを上げた。私も結構飲んでいたのだろう、ワインは殆ど無くなっていた。彼女ももうすっかり赤くなっていて目はとろんとしていた。眠気を我慢して私の誘いを待っているのだろうか。
「洋子、もう寝たら?」
「ん、うん。でも洋介さんがまだ起きているでしょう」
なんともまったりとした口調になり、このままではここで寝そうな雰囲気もする。今夜はそろそろお開きの時間だなと自分に言い聞かせ
「洋子、十分酔った。寝よう」
「うん」
グラスとボトルを流しへ持っていくと彼女をベッド連れて行った。枕元に陣取った洋介をどかす
「洋介、今日お前は向こうの部屋でひとりで寝るんだ」
ベッドへ運んだ洋子は、眠たそうな目を我慢して私が横に来るのを待っていたが、とうとうすやすや寝息をたてだした。きっと一日中私に気を使ったのだろう、疲れて当然だ。「今夜は酔って」といったのは私よりも彼女だった。その寝顔をみて髪をなでると電気を落とし、横へ入ると彼女のほうが手を回してきたが、すっかり夢のなかだった。私はおやすみの口づけをした。まるで新婚のような錯覚が起き、この夜シングルベッドで二人は寝た。寝ているのか起きているのか分からないまどろみの中、ある時は後ろから抱きしめ、またお互い抱き合い腕を回し、狭くはあったが彼女の温もりが絶えず感じられ、なぜか自宅で一人寝るより心地がよかった。
「どうだい、まだ彼女を連れて帰る気はしないかい」
またそんな声が聞こえた気もする。
翌朝、ベーコンを炒める匂いと音で目が覚めると、すっかり日は昇っていが今朝方まで降っていた雨でまだ街は濡れていた。カーテンに掛かっていた洗濯物はベランダに出され陽を浴び風に揺らいでいた。彼女は梳いた髪でパジャマのまま朝食を作っていた。私が起きたことが分かると火を気遣いながらもやってきて、少し恥ずかしそうに軽い口づけをする。ノーメークでも変わらないのはやはり若いということの証でもあった。
「おはよう」
「おはよう、早いね」
「夕べ、ベッド狭くてゆっくり寝られなかったでしょう?食事したらまた寝たら良いから」
これからトーストを焼こうとしているところだった。寝ぼけた頭でベッドに腰掛、首を左に振ってそれを見ていると、こちらを見てまた微笑んでそういった。綺麗に拭かれたコタツの上にすでに器にサラダが盛られ、ドレッシングのボトルと塩が置かれていて、こんな朝を迎えるのって一体いつ以来なんだ?もう7年、8年前?分からないほど昔の話。休みに日であっても妻は疲れて朝は起きてこなかった。朝食?モーニングでも食べに行ったか。時にトーストとインスタントコーヒーだったろうか。そんな思い出が蘇る頃またコーヒーを立てる香りが漂い始めた。彼女が細く口のポットから少し気を使いながら細く湯をロートに注ぐたびに、シュワシュワとかすかな音を立て、湯は丸く盛り上がった泡に混じりコーヒーへ変化していき、それは香りとなりやってくる。
向かい合って朝食を取っていた。彼女はパンを咥えてた
「なあ洋子、どうしてそんなに食事や洗濯まで気を掛けてくれるんだ?」
「どうしてって?」
「だって何から何まで僕のこと気をつけているようで、疲れないか?」
「どうして疲れるの?」
「なんか無理しているんじゃないかと思って」
「無理なんかしてないけど、そう見える?」
「ああ、一生懸命みたいに見えて。そんなに無理することないし。その若さで色々気がついてそんなのありかなって」
「だって・・・好きな人のことしてあげるのは自然じゃない?洋介さんだって私にしてくれるでしょう?あれはどうして?無理してるんじゃないの」
「無理なんかしてないよ、洋子にしてあげたいだけだし。何より僕自身が楽しいし」
彼女は笑顔で言った。
「でしょ!相手が喜んでくれれば嬉しいものね」
これを恋というのも分かってはいた。
昨夜の誰とも分からない声を思い出し、もう結婚してもいいかと少し頭をよぎった。

結局その日も近所へ出かけたりして彼女と一日過ごし帰ったのは夜遅くで、帰るのが辛く感じたのは私も同じだった。買ったパジャマ代わりは彼女の部屋に置いたままになった。
この彼女の部屋の訪問が彼女との結婚を意識させたことは間違いなかった。


ポンと音が鳴りシートベルト着用のサインと機内アナウンスがあると私はシートベルトをしてテーブルを戻し写真をひざに置き、隣のおばあさんを見ると疲れたようすだった。まもなくすると軽い衝撃がありオランダに着陸した。彼女の時間を思い出しながらオランダ、アムステルダム、スキポール空港へはついたのは午後の四時過ぎだった。
入国審査を終え、キャリーバックをひっぱって空港を出ると、そこはまだ日は高く夏のオランダの柔らかい光と風に満ち溢れていた。
「ついたよ、洋子。君が来たかったオランダへ」
外の光を浴びると彼女にそう教えてあげた。ここアムステルダムでは彼女が見たかったレンブラントの『夜警』を見せてやりたかったが、その絵が収蔵されているアムステルダム国立美術館は午後五時に閉館となるため、私はこの夜近くのホテルで一泊することにした。
トラムを使い近くまで行くとホテルにチェックインし、少し外出をした。
町をただ散策すると、絵画のとおりの風景が広がっていて、彼女もそれを楽しみたかったろうと浮かぶ。運河沿いのベンチに座ると自転車に乗ったスーツ姿のサラリーマンやジャケット姿の女性などが行き交い、赤いレンガの街角にはどこも花で飾られ、それが傾いていく太陽の光を浴びゆっくり変化しながら映る風景は、それは美しかった。何気なく入ったレストランではジャガイモとキャベツを煮たものにソーセージが添えられたボーレンコールという料理とホワイトアスパラにトマトが添えられワインビネガーで味付けされたたものをビールとともに味わった。ここへ来て一人で食事するのは実に味気ないもので、この料理でも彼女と一緒であればまた違った味になったはずだった。食事をしてホテルに戻る道は日本の都会とは違い、ぎらぎらとした無駄な照明はなく、家々や商店のウィンドーから漏れる光が運河に反射して揺らめいた。部屋へ戻ってベッド脇にあるイスにすわりテーブルに彼女の写真を立て眺めた。缶ビールを一個空け、彼女の前に置き、私も一本空けてそれを飲んだ。彼女はこの町を見てくれただろうか、「この街の光よね」といってくれたろうかとぼんやり考えた。

翌日、ここの美術館は何処も開館は午前九時のようでそれに間に合うよう朝一番に私はアムステルダム国立美術館へ向かう。美術館に大きな荷物はもって入れないと聞いたので、先ずはデンハーグへ向かう駅へ行き、コインロッカーに預けて彼女の写真だけ持ちそこへ出かけた。中央駅からトラムに乗るとイメージ通り、木々と運河との古い町並みの中を路面電車は走っていきHobbemmastraatで降りるとその前に玄関がある。運河沿いの、スタドハウザースカーデの通りを背にして建つ、レンガ造りの宮殿を思わせる大きな建物で、正面に四隅に塔をもつ中央ギャラリーを左右の建物が挟む、堂々として伝統と風格がある物に映る。まるでさっき居た中央駅かと見紛う建物だった。リニューアルされても、らしさは残っていて壁の色、床の感触はいかにも伝統ある美術館を現していた。そこには彼女
が好きだったレンブラントも代表作『夜警』はじめ『若い頃の自画像』『イサクとリベカ』『アムステルダムの布地ギルドの見本監察官たち』があり、私の好きなフェルメールも彼女と並んでみた『牛乳を注ぐ女』『小路』『手紙を読む青衣の女』『恋文』などなど、オランダを代表する世界的名画がいくつもある。十年の歳月をかけリニューアルした館内はどこも真新しさを感じる。  
すぐ隣にはゴッホ美術館も建っていて、彼女と来ていたらきっと緑の芝生のミュージアムパークを抜けゴッホも見に行ったことだろう。ジャケットを着て手をつなぎ、その手には真新しい結婚指輪がはめられ、あの黒髪を揺らしながら「次はあれを見に行こうと」と話すその胸元にはきっとあのペンダントが輝いているはずだった。
私は入館すると鑑賞にふけるとも無く絵を見ていく。ここで絵を見るのは彼女とデパートで現代アートを見て以来だ。数々の名画が所狭しと飾られていて、以前なら喜んでいったはずなのに、彼女と並んでみたあの高揚感は全く感じることが出来ず、何かポスターでも見ているような、そんな錯覚さえした。広い展示スペースにあらん限りと思われる名画、名画、それでもやはり彼女とみた『牛乳を注ぐ女』の前では絵の感想よりはやり彼女と並んでこの絵をみた思い出のほうが蘇った。
「洋介さん、あの思い出の作品にここで会えたね」
きっとこの絵の前で彼女はそういったことだろう。
今日彼女に見せたかった縦横3mを越す大作『夜警』は左右の立派な大理石の柱に囲まれた紺色の壁面に堂々と飾られ、従来のライトから絵画の痛みを和らげる為とLEDに代わり温度の無いその光に照らされていた。さすがに存在感のある絵で、彼女の写真を両手で持ってその前に立つと何人もが訪れてくるが、その人たちの姿はすっと消え、私の横には物言わずじっと絵を見つめる彼女が立った。この絵の不思議な光の射しかたをじっと見ている。
「もう直ぐ私はあそこに立つかな」
真ん中に浮き出て描かれている鶏を腰に下げている少女を指し、そんな言葉が聞こえてきた。
「この絵の題名、本当は夜警じゃなくて『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ラウテンブルフ副隊長の市民隊』と言う長い名前だったよね、この絵がきっかけで彼は画家としての地位を下げたそうだね。どう?後ろに立っているレンブラントには会えたかい?」
「まだですよ、それにしても迫力あるね」
「どうだい、ゆっくり見えたかい」
声を掛けると私を見つめるとうなずき彼女は消えた。
私はこの絵を見せると、数あるほかの絵は見ずにここを後にした。
 昼過ぎになってカフェでサンドイッチとコーヒーという簡単な昼食を取る。
別段食事もどうでも良かった。日本での生活と同じ、一人での食事にはさほど拘りもない。コーヒーを一口飲むと自分の部屋に彼女を招いたときが蘇る、彼女、私の部屋でもコーヒーにはこだわったな、と。

「こんなにしあわせで私、怖いな」
ベッドで彼女が言った言葉だった。
「なんで、これから幸せになっていくんだろ」
私が彼女を自分の部屋へ招いたのは翌月の金曜の夜だった。この頃月に一、二度デートをしていたが、彼女の部屋に招かれると自分の部屋に招かないわけにはいかないような気にさせられた。それは彼女の意図したとおりだったのかもしれなかったがそれでも、その気持ちにこたえてやろうとの思いもあった。
「洋子、今度はうちへ来るか?」
「いいの?」
「元妻との愛の巣だった部屋でよければね」
「洋介さん、嫌味な言い方」
「これでも気を使ってるの、じゃあ二泊三日の小旅行でね」
仕事をさっさと片付けると駅で落ち合い、二人で買い物を済ませ私の部屋へ来た。
彼女は泊まる用意のバッグを提げていた。
玄関ドアの鍵を開けて明かりをつけると、私には毎日見ている光景でも彼女には新鮮だった。
「お邪魔します」
玄関で私の靴も綺麗に靴をそろえて上がる
「へえ、ここが洋介さんの部屋か」
「まあどうそ、洋子の部屋ほど掃除できてないけど」
廊下を通り、リビングへ案内するとすべてが珍しそうで、まるでマンションのモデルルームでも見るような目で眺める。
「やっぱり広い部屋はいいな」
彼女の部屋よりは広いものの実際それほどでもなく、一人暮らしのため物が少ないのがそう見えるのだろう。
離婚した時、たかが自分一人暮らすのに1DKの狭い部屋に引っ越そうかとも思ったが、面倒くさくなりそのままこの部屋で暮らし続けている。リビングには結婚当時に買った二人掛けソファとテーブル。オーディオとテレビのほかには別段何もなく殺風景といえばそれまでだ。それでも彼女の目を引いたのはずらっと並んでいるCDとレコードだった。
「まあ座ったら」
私はソファーのクッションをずらして勧めると持ってきたバッグをソファに置きラックの前に立った。
「凄い数のCDとレコード」
ラックに並べてあるそれを見る
「ああ、家での楽しみはコレくらいだから月に何枚か買っていたらこんなになって。今ではネットオークションで安く買えるからよけい数が増えた。昔は給料貰ったら今月はこれとこれって感じだったかな」
「洋介さんが言ってた、なんでも聞くって本当だったんだ」
ランク並べてあるCDを指でなぞりながら見ては感心するように言う
「ああ、ここらはクラシック、これはジャズ、ロック、歌謡曲にフォークもね。中にはこんなのも」
数枚ある邦楽のCDを出しては彼女に見せた
「誰なんですこれ」
「初代高橋竹山って津軽三味線の名手」
そこまで言うと彼女は呆れたようだった。
「これ誰の絵?」
壁に掛かる一枚の水彩画が気になったのはさすが彼女だ。
「やっぱり洋子だね、それは吉岡健二っていう画家らしい。もう随分前の絵で僕がまだ小さい頃親父が買った絵で実家にあったのを持ってきた」
「その人って有名?」
「さあ、あまり聞かないけど今はパリ在住かな?洋子が好きそうな絵だろ」
「うん、よく分かるね」
「わかるよ、洋子の好みくらい」
彼女は私を見て微笑むと他のところも気になるようだ
「そっちがキッチンね」
先に行くとシンクの前に立ち、コンロや食器棚を眺める
私は買い物の入った袋を下げて続いた
「うーん、これは私が時々来て掃除しないと駄目みたいね」
自炊はするが別段キッチンも磨くようなこともないのが彼女は気に入らない様子だ。早くも自分の占有場所を見つけたようだった。
「そうかあ?これでもまめに掃除しているつもりだけどな」
「洋介さんでもこうなんだね。雑な人の一人暮らしだと想像もしたくないね」
干してあるふきんを汚いものでも触るように摘んで揺らすとほかの部屋も一つ一つチェックしていく。
「ここがお風呂ね、ふーん」
玄関へ戻るように行くと寝室のドアを開けた
「ここがベッドルーム、なんか洋介さんのにおいがする」
私は自分の匂いなので気にならないが、いつも部屋を閉めっぱなしなのが悪いのか匂いが染み付いているようだ。
「ここで奥さんと寝ていたんだ」
にやっと私を見た
「ここで寝たのはほんの一時期で彼女はこっち」
私は向かいのもう一部屋を案内する。カチャをドアを開けるとそこは私が書斎兼自宅での仕事をする部屋になっていて、デスクとパソコン、本棚が置いてあるのが照明のスイッチを入れると浮かび上がる。
「ここは彼女の寝室だったけど、いなくなったから僕の書斎?格好つけすぎか?まあこもる部屋かな」
「へー。でもこの部屋も風通さないと臭い」
はっきり言われてしまった。
「じゃあ子供が出来たらここは子供部屋かな」
私との結婚を期待しているのか、随分先のことまで考えているようにいう。
「そうね、子供一人ならここでも十分かな」
ついそれに誘われて答えてしまった。
その夜、軽く食事をし終わった時だった。
「コーヒー飲みます」
そういったのは良かったがうちにはインスタントしかない
「じゃあ明日は豆とポット買いに行きましょう」
「そこまで拘らなくてもインスタントでいいよ」
「今日は良くても明日は買いに行こう、私はいやなの。食事終わって香り高い一杯入れてあげたいし、私もそれ飲みたいもの。それで食事が終わったって感じたいの」
テーブルにある食器を下げながら言った言葉は、ある意味彼女が見せた初めての主張だったかもしれない。
「そうか?僕はなんでも良いけどな」
「コーヒー一杯でも良い物飲まないと駄目!」
なぜかこんなところには強いこだわりがあった。

そういえばこの夜は初めて二人で入浴をした日でもあった。
誘ったのは私だ。
いつもはシャワーで済ましている私もこの日は彼女と裸の付き合いもしてみたくなり、久しぶりに湯に浸かりたくなった。初めて彼女を抱いたホテルはそれど頃ではなかったし、彼女の部屋は狭くて一緒に入ることはできず、今日はそれができた。
「洋子、うちに来たのだから一緒にお風呂は入らないか」
「ええ?恥ずかしいな」
少しはためらいがあった。
「いいじゃない、他に誰も居ないんだから。映画に出てくるペントハウスのバスほどは広くないけど、二人で入れるよ。いこう」
そんな彼女の手を引いてバスルームへ向かう。
それでもまだ恥じらいがあった様で
「じゃあ洋介さん・・・先に入って」
私が先に入り浸かっていると浴室と洗面場を仕切るドアの向こうで、服を脱いでいく姿がみえる。
上から下まで肌が見えると、タオルで身体を隠し浴室に入ってきたのを私は目で追った。
掛け湯をする彼女の肌は若い女性らしく玉の様に湯を弾く
前を隠すようにバスタブに向かい合って入るとお湯が溢れ
映画のシーンのようにバスタブに二人でつかり暫く話をした。
「こうやって奥さんとも入ったんだ」
部屋に招いたときは妻のことを口にしたのはこの私自身だったが、もう過去のことは忘れ、彼女とのこの先のことだけを考えたかった私はそんなことは忘れたく、ついきつめの口調でいう
「洋子・・僕のバツ一って気になるか?」
「うん??気にならないよ」
「じゃあ、その元妻の話やめないか。確かにここは嫁さんと暮らした部屋だけど、もう過ぎた話だし。洋子との事、話したほうが楽しいし」
「うん、そうね。ごめんなさい」
それからというもの彼女は元妻のことは一切言わなくなった。
暗い話になったのも嫌だったので話題を替えた
彼女は気まずかったわけでもないだろうが、私に背を向け抱かれるような格好で座りなおす。
両足の間に座ると私に身体を預け、肌がふれあい、彼女を抱えるように手を回す
「仕事から帰ってこうやって風呂に入るのは良いもんだな」
「一人のほうがくつろげない?」
「でも会話しながら入るのが夫婦って感じするよな」
「確かに、恋人では毎日は無理だもんね」
「出来れば毎日洋子とこうやってお風呂に入れるようになれば楽しいな」
お湯を送り肩にパチャッとかける
まだ結婚を決めたわけではなかったが、お互いに気持ちの中にそれはあったろう。
「洋介さん・・・そう考えてくれてるの?」
その時はっきり答えてやればよかったのに自分の気持ちをごまかした。
「洋子はどうなんだよ」
「私の気持ちは分かってるでしょう!?」
彼女は私の手をなでている
「まあ、洋子の気持ちは分かるけど、まだこと知らないこともあるし、何年かこうして付き合ったらね」
「本当!?」
それでも彼女はとても喜び私の方に身体を向けるとザバッとお湯が溢れた。
「じゃあクリスマスケーキご予約?」
さすがに恥ずかしさも忘れ目を輝かせた
「クリスマスはどうかな?…洋子もうイブだろ。それにここでプロポーズもおかしいだろう」
「でも・・・晦日は嫌だな、そこまで待たされるの辛いよ。それに私は良くても洋介さんおじさんになるし」
「おじさんかあ・・・それより独身の時にしかできないことやっておけよ」
「独身の時にって、結婚したら変わるの?」
「そりゃ独身とは違うだろう」
「洋介さんもやっぱりそうやって縛る?」
「いやそうじゃなくって・・」
そういわれ言葉に詰まる、妻のときも自由にしていたしそれを特になんとも思わなかった
「一般的にはという意味で、独身のときとは違うだろ。友達と酔いつぶれて泊まるって既婚では問題だろ」
「だってそんなことしないし」
「恋愛とかは?」
「ばか!!」
浴室に声が響き、本気にしたのか目は真剣に怒って、湯を飛ばしてかける
濡れた顔のそれを拭うと、ちゃぱちゃぱと音をたて湯がゆれる。
「洋介さんはほかの人とも付き合うつもりあるの」
「今は無い」
「今は・・・じゃあ先は?」
「分からない」
「ふーん、そうなんだ」
「だって将来なんて誰にも分からないだろう」
「それでもこうやって一緒にいたらお前だけだよというのがデリカシーだと思うけどな」
「僕は正直者なんです」
がっかりした表情の彼女を見て私は笑ってごまかした
「そういう洋子はどうなんだよ、将来もっといい相手現れるかも知れないだろう」
「それはないな」
珍しくはっきりと否定する
「これはありがたいね。僕より上はいないのか」
私は嬉しさよりもなぜそういいきれるのかが知りたくなった
「じゃあその僕が他にいい人見つけたら?」
意地悪な質問だとは思ったが、彼女の気持ちを聞いてみたかった。
「その時は私に魅力が無かったのかと思うけど、辛いけど、私は洋介さんを待ちますよ」
「なんで待てるの?」
「だってそれを愛するって言うことでしょう?私洋介さん愛しているもの。だからそれも含めて受けいれることできるよ。もしかして・・・私、重い女?」
眉を寄せ、ちょっと自信なさそうに、嫌われたく無そうな表情を見せる。
この言葉で私は始めて愛するという意味を知った。
元妻のことも結局お互い愛していたわけではなく、利害関係だけで繋がっていたのだろうし、それ以前に付き合った人も結局愛していたのではなかった。
彼女は私だけを思い、私が心地よくなってもらいたいと世話をやく。それは見返りを求めるものでもなくただ相手を思っているから、愛しているからこそできるのだと、自分よりずっと年下の彼女から教わった。
同時に愛すべき対象が彼女なのだと改めて認識させられたが、話をそらした。
「ねえ聞いてる」
彼女の言葉の意味を考えて居ると少しボーっとしていたようだった。
「ああ、聞いてる。なんで重いの、今は浮力があるから軽いけど」
「もう、そうじゃなくって」
「分かってるって、そんなこと無いよ。ありがとう。僕も洋子をもっと愛さないとバランス取れないな」
照れ隠しもあって彼女の顔を寄せて口付けをする
「洋子の気持ちは嬉しいけど、親しい友達と旅行したりしろよ。洋子が良くても相手は気を使うよ、既婚者ってね。それに子供が出来たら時間が取れなくなるだろ、だから独身時に一杯経験しておかないと」
「ふーん、そんなもんかな」
納得したのかどうかはわからず生半可な返事をしたが、この時の会話で彼女は結婚を考えたと思う。私は一緒になったらこうして毎晩お風呂に入るのだろうかと思ったのは確かだったし、それもそう遠くない時かなとその時には漠然と考えていた。

そのこともあってか、初めて私の部屋に迎い入れられた気持ちがあったのか、この夜彼女の気が高ぶっていた。
その彼女を寝室に招く。
このベッドで女性と寝るのは随分と久しぶりだった。
我が家のベッドであってもこの部屋だけはいつもホテルのように冷たかったが、この晩は二人の体温で熱いほど温まる。
明かりが落ちたほの暗い部屋で、ようやく見える相手を見て「洋子」「洋介さん」とお互い名前を呼び合う愛の二重唱に、哀愁をおびたウラッハのクラリネットのような吐息が加わり二人は燃えた。
この時ばかりはもう一方の洋介に勝った気がした。
その後、温もりと満足感が心地よい疲労となり、睡魔を連れてきて寝息に変わるまでの少しの間、私の腕枕での会話の中だった
「こんなに幸せで私、怖いな」
今思えば確かにあの時は幸せの絶頂だった。
だがその不安がこんなに早く現実になろうとだれが予想するだろうか。

土曜日は朝早くから掃除と洗濯をし、リビングも書斎も窓が開け放たれカーテンが揺れる。
「洋子せっかくうちに来たんだから、そんなにバタバタせずのんびりしろよ」
私はまだパジャマ姿で、気を使いそういってやったが彼女は気にもしなかった
「だって気持ちよくしたいもの」
肌を合わせた翌日の女性はいつも機嫌がいいのは彼女も同じだ。
明るくそういうとさっきまで寝ていたシーツと枕カバーを外し洗濯機へ放り込む。
いくら愛してくれているとはいえ、本当に世話好きな女の子なんだなと感心させられたのと同時に、一回り以上も年下だのにこれは結婚すると尻にしかれそうだなとも思った。
それが終わると彼女の希望通りコーヒー豆とロトセットを買いにいき、帰ると早速彼女は一杯入れると、部屋中にその香りが広がる。
「やっぱり香りが違う、部屋中に漂う香りってこういうんだな」
綺麗に磨かれたキッチンに立ち、買ったばかりのステンレスが光る細口のポットから湯を落とす姿をダイニングテーブルに座りカウンター越しに眺めて私はそういった。
「でしょう。お茶やコーヒーって気分を和らげるでしょう、だから一杯でもこうやってたてて楽しまないとだめだし、お客さんならなおさらよ」
その姿は新妻そのものだった。
部屋には何年ぶりかで花が飾られ、不思議と明るくなった。
二人でコーヒーを楽しみ、彼女はベランダに干してある洗濯を取りに行ったほんの短い一人の時間の時だ
「どうだい、ここで暮らしてみては?」
またあの声が聞こえた。
私は誰だろうと左右を見渡す。
周りをみても誰も居らず声もその一回だけだった。
幻聴とも思ったがさほど気には止める事も無く、直ぐに彼女はシーツを抱いて入ってきたので二人でベッドメーキングを行い今の声は忘れてしまった。
あの声は何だったのだろう、私の気持ちを確かめる何かだったのだろうか。
あの時に結婚をきめていたら、こうなる前に新婚旅行でオランダからイタリアへまわり、フィレンツェでは美術品を、ミラノスカラ座ではドレスを着せテラス席でオペラを見ただろう。
きっと椿姫の切ないアリアに涙を流し、その夜の二人を盛り上げただろうが、彼女の生き方そのものが、最後は涙を誘うオペラのストーリー、椿姫のヴィオレッタそののもの様に消えた。
「僕がもっと幸せにしてやるよ」
その約束は果たせないまま彼女は逝った。
硬いパンに挟まれた塩が効いたハムを食べ終わると駅へ向かい、デンハーグへと電車で向かった。

 セントラル駅からハーグセントラル駅まで直行便で五十分ほどだ。
平たい、オランダ人が作ったといわれるどこまでも続く平野を単調なリズムを刻みながら電車は走っていく。
彼女が居たらきっとその近く、デルフトにも足を運びフェルメールが見たであろう水辺の風景を共に楽しんだはず。
レールの継ぎ目の音がまた思いを掻き立てる。
「ねえ、みんなのお土産はデルフト焼きのプレートでいいかな。それとも私たちの使う食器を買おうか」
彼女ならそういいながら私の手をひっぱりお店を回り、自分の好みにあったプレートやカップを購入しただろう。
「洋介さん、うちの玄関には結婚記念のプレートを置こうよ」
白地にデルフトブルーで花がたくさん描かれたプレートを見ては「結構な値段ね」などと言い、値切ったことだろう。
旅行から帰り、無事帰国したことを両親に報告しに郡上八幡へ行けばそのカップで彼女が名水で立てた香り立つコーヒーを飲めたはずだった。
「おかあさんこれね、デルフト焼きのカップでね、みんなおそろいで買ってきたの。結構な値段でどうしようか迷ったんだけど、洋介さんが買ってくれたの。早速私がコーヒー入れてあげるね。帰りは忘れないようにしなくちゃ」
「それって有名なの?」
「おかあさん知らないの?デルフト焼きって有名でマイセンより歴史あるのよ、ねえ洋介さん」
「へえそうですか」
おかあさんは笑いながら答え、お父さんはただ笑顔で見ていたろうか。
甲斐甲斐しくそして嬉しそうに動き、それを笑顔で見ているご両親の姿が浮かぶ。
きっとお土産に小さな木の靴を買って子供が出来たらそれを履かせて
「これはパパとママが新婚旅行で行ったとき、あなたのために買った靴よ」
そういって可愛がったことだろう。子供には洋一、洋子(ひろこ)と名前をつけただろうか。
 私が仕事から帰えるとドアの外には玄関灯がともり、鍵を置くとトレーの脇にはピカソの絵のように口の細いガラスの一輪挿しにガーベラがさしてある。ダイニングテーブルには花柄のクロスがかけられランチョンマットの上には身体を気遣って、たくさんの新鮮なサラダが白い陶器にでも盛られていたはずだ。彼女は料理を作り、私は寝室で着替えると再びキッチンへ行き手伝いながら、冷蔵庫からワインのボトルとグラスを取り出すと、その日の食事にあわせて音楽をかけ照明を落とし、テーブルを照らすペンダントライトに照らされた彼女の作った料理を食べるはずだった。彼女の事だ、肉も魚も調理を変えて作ったことだろう。仕事の事を忘れ自宅で二人だけの時間を過ごせば翌日からまた仕事に打ち込めると感じていた。 
寝る前にアントニオ・メネゼスの奏でるバッハでも小野リサのボサノバでも二人で聴きながらロックを一杯だけ飲み、今日の話をしたり週末の予定を話ことだったたろう。
時には彼女の実家へ車で行き、その時は矢沢永吉の『トラベリング・バス』を聞きながらテンションあげて東名を走っただろうに『雨のハイウェイ』になってしまった。
デンハーグへ向け走る電車の心地よいレールの音を聞きながら窓を流れる平坦なオランダの風景を見るともなくそんな思いが次々湧いてきたのだった。
 妻は軌道を離れ遠ざかった小惑星ならば、彼女は私の心の闇を照らすように一筋の光を放ち燃え尽き消えた流れ星だった。
私は心のどこかで彼女とは地球と月のように永遠に引き合い寿命の尽きるまで一緒に居られたらと願っていたし、それができると信じていた。
何も贅沢を望むつもりの無かった、ただいつまでも愛し合っていられたらそれでよかった。
本当に愛し合うものが、いつまでも一緒にいられるだけでいいというこの、実に慎ましくささやかでありふれたこと。
これは人にとって一番の宝であり簡単そうで本当は至極難しいことなのだと感じられる。
男と女が出会い結婚し、一つ屋根の下で暮らし添い遂げていくことは、ある意味奇跡ではないかとさえ感じた。
そしてその奇跡はもう私には起きないとも思った。
まもなくして車内にデンハーグセントラル駅到着を知らせる男性の声でのアナウンスが流れ電光表示板に駅名が表示されると、電車はスピードを落としながら駅へと入っていった。

ハーグセントラル駅に着くと再びロッカーにバッグを預け、美しい町並みを味わいながら十分ほど歩くとヨーロッパらしい鉄のフェンスに囲まれたマイリッツハイスにつく。隣はビネンホフと呼ばれる古い宮殿で国会議事堂にもなっている政治の中枢機関の建物でホフ池に映るその姿はとても美しく、なるほど画家たちが絵を描く気持ちが十分理解できる。日本と違い空気が乾燥していて、景色ははっきりと抜けるように見え、彼女もこれを見るときっと感動したはずだ。機内のあのおばあさんが言った「あそこはいいところよ」がこういうことかと感じられ、アムステルダムより尚一層オランダらしさを感じられた。約束の時間までカフェで休んだり写真を、抱いて公園で時間を過ごしたり、石畳の街を歩いて過ごしたのは少しでも彼女に見せてやりたかったためだった。
午後五時に来てくださいというメールだったのでその時間に行くと、玄関の受付の女性は私を冷たく見る
「今日の入館は終わりました」
事務的に断られる。
この時間にきてくださいと言われたので
「日本の田中が来たと館長に伝えてください」
女性に言うと、再び事務的な表情で内線電話を取り、なにやら話すオランダ語の会話
はタナカだけ理解できた。
女性は無表情で電話を切る
「どうぞ中へ、今館長が来るのでそのままお待ちくさい」
受け付けすぐ横に通されそこに立ち、新しく綺麗になったホワイエで周りを見渡すと、もう閉館の時刻でそこに殆んど人はおらず、最後の数人がパンフレットを持って出て行った。数分待つと、向こうからグレーのスーツを着た、すらっとして肩まで伸びた黒髪と面長の顔立ちの女性がヒールの音を響かせ歩いてくるのが見えた。美術展のパンフレットに紹介されたいたままのその女性が館長のエミリー・ゴーデンカーだった。館長は私が手に写真を持っていたので直ぐ分かったようだ。軽く手を上げると近づき、笑顔で握手をもとめ、私はそれに応じた。
「田中さんですね、エミリー・ゴーデンカーです。ようこそ、マウリッツハイスへ。よくきましたね。」
「田中洋介です、今日はありがとうございます」
館長ははっきりとした綺麗な英語で挨拶を済ますとスタッフに何か話し確認したようでOkと言うと自ら私を安内してくれる。
「どうぞこちらへ」
館長の後をついていくとその室内は重厚で邸宅という感じがあり、濃いべんがら色した壁紙クロスは角度により模様が見られ、無垢のオーク材腰板が続く。まっすぐ伸びる階段の幅の広い手すりは数百年使われた歴史を感じ、それを上がっていくと正面から側面へと視野が広がるのに合わせ、一つまた一つとその壁に飾られた17世紀のオランダと、フランドルの名画が広がり、上り詰めると部屋一面絵が飾られていた。
まず案内されたのは「真珠の耳飾りの少女」だった。
「2012年私はこの少女に日本で会ったのですが、・・・彼女はここで見たいからと会いませんでした」
「じゃああなたは再会ですね」
彼女の写真を両手で下げ館長に話した。日本で真珠の耳飾りの彼女を見たとき「次は私のおうちで」と話しかけてきたこの絵の女の子に「あなたのおうちで再び会うことが出来た。本当はこの彼女も訪れるはずだった」と会話を続けるとその振り向いた少女は「いいえ、黒髪のその美しい女性は隣にいるわ」と語ってくれた。洋子は「始めまして」と青いターバンを巻いた少女に挨拶し「ここであなたに会えるのを楽しみにしていました。ようやく会えたわ」
私を見て微笑み「彼女可愛いね」というと消えた。
レンブラントの『テュルプ博士の解剖学講義』も案内してくれた、彼女がいたらレンブラントの肖像画と共に喜んだことだろう。テュルプ博士が死体解剖の講義をしている構図のその絵は、左腕の筋肉を解剖し説明しているところを医師たちが見てる絵で、当時なかったであろう無影灯のライトのような光に浮きでている血の気のない死体の描写は流石としか言いようが無い。
「私もそう思うわ」
物言わず眺めていても彼女も隣で眺めていて短く感想を言った気がする。
最後三点目「デルフトの眺望」の前に案内され、その前に立つと館長は私の肩に軽く手を置く
「もう閉館になっているので誰も来ません、ゆっくり御覧なさい」
静かに言うとコツコツと靴音を響かせその場を離れていった。私は館長の遠ざかる後姿を目で追うと写真を前に抱いたまま頭をさげた。
靴音が遠ざかるとそれに誘われように、葬式の日、棺に横たわる彼女に掛けられていた緑のワンピースを着て彼女が現れた。両手で前に抱えた彼女の遺影を持つ右手を離し、下に下ろすと私の手は心なしか少し暖かくなったような温もりを感じた。私はその彼女の手の感触を柔らかく握った。誰もいないシーンと静まりかえった室内で私はスポットライトが当たったその絵を眺めた。数少ないフェルメールの風景画の一つ、フェルメールが生涯を過ごしたデルフトを描いた70cm、120cmほど絵は、オリーブグリーンの壁に濃い幅の広いシンプルなオークのフレームで飾られこの絵を引き締めていた。中央に描かれた水面は手前の黒い雲に遮られたその光によって、さざ波をはっきりと浮き出し、わずかな風の通り道を示す。停泊している黒くボテッとした当時の帆船の舷にキラキラと反射した光がハイライトで描かれ、その奥の遠くに塔が建つ町並みにはすでに光が差し対角線の左の停泊地の広場同様明るく描かれ中央部との対比が感じられる。その明るい色が空のブルーを引き立て、屋根の赤い町はこれから差す光を予言さしていた。これから天気が回復するそんな予感を感じた絵だった。
誰も居ない部屋でこの絵を占有しているのはなんと贅沢なことか、もしこれが本当に彼女と一緒ならどれほど幸せだろうと思うことか。
「どうだい、洋子」
声を出したが彼女はもうこの世にはいない、いないが彼女は私を見て「やっぱりいい絵ね、ようやくあなたと見ることができた」と微笑み「洋介さんありがとう」というとすーっと消えた。その部屋の木の床に私の涙がぽたぽたと落ちた。
ふと気がつくと後ろに館長が立っていた。
「彼女も一緒だった?」
私は涙を拭くとうなずいた。
「私と一緒に見られたと喜んでいました。ありがとうございます」
「そう」
礼を述べるとそれを聞いた館長はゆっくり頭を下げた。それを見終わり館長に誘われ新しくなった別館のオフィスへ行くと、彼女の机前に案内され椅子を勧められる。木のフレームにサテン地の古い木の椅子は使い込まれた雰囲気が漂う重厚なイスで、そこへ座ると館長が切り出した。
「あなたが今日持ってきた写真とチケットは私たちが大切に保管しますので、お預かりしますがいいですか」
勿論私は喜んだ、そしてフレームから外した写真とバッグから出した半券を館長に差し出した。それを手に取ると暫く眺めていた。半券にはレンブラントの肖像画の一部がデザインされていて、いかにも彼女の好みのものだった。
「本当に素敵な方だったのね」
そういうと私の答えを待って、クリアファイルに二枚は挟まれ、歴史ありそうな机の引き出し仕舞うと、館長は内線で一言スタッフを呼んだ。直ぐにコンコンと音がして、独りの男性スタッフが60cm四方ほどの白い一枚のプレートを手に持ち入ってきて、その机に置くと席を離れる。スタッフが部屋を出るのを目で追った館長は、ドアが閉まるのを待ってそれを私に見せた。
そこにはオランダ語、英語、日本語で『レンブラントとマウリッツハイスを愛した女性  洋子』と書かれている。わざわざ陶板に焼かれた彼女の写真とチケットが埋め込まれたそのプレートには、その下には同じく三ヶ国語でこのプレートの案内が紹介され洋子の思いが書かれていた。私はそれを見て驚いた。
「どうぞご覧ください」
私はその言葉でプレートを手に持った。こう掘り込まれていた。

この写真の女性は日本人で名を洋子といいます。彼女はこのマウリッツハイスとフランドルの絵画をこよなく愛し、愛する夫とここを訪れるのが夢でしたが、それを前にして白血病にかかり帰らぬ人になりました。彼女の最後の手紙に、もし叶うなら彼と初めて行った展覧会のチケットをここに持ってきてくれたら一緒に見られるからと書いてあり、叶わなければどこかの美術館に捨ててくださいと彼に託しました。
私たち美術館は彼女の思いと、フランドル絵画を愛してくれた洋子の思いに敬意を示し、ここに彼女の写真とチケットを記念に納めこのプレートに刻み永遠に残します。

マウリッツハイス美術館         館長 エミリー・ゴーデンカー

最後は館長のサインが入っていた。

それを読み終えると、顔をあげ館長の顔を見ると言葉も無くうなずいてくれた。
「写真では退色するでしょうから美術館の関係ある陶板画にお願いしました」
私はその言葉を聞いて、感謝の気持ちで一杯だった。もしかして出張といっていたのは、これに時間が掛かったたまだったのだろうか。
私はその配慮に何度も覚えたたてのオランダ語でDank u welと言い頭を下げた。
それから館長はまたスタッフを呼び、それに応じた男性のスタッフが現れると立ち上がり、私についてくるようにいう。スタッフは私からプレート受け取ると私たちに続き新装になった美術館と新館を結ぶ、まだ外光が残る真新しい地下ホワイエへと歩いていった。
一般客の入り口の近くまで来ると数人のスタッフらしい人が待っている前で立ち止まり、手のひらで示されたた場所の壁面、顔の高さの所には四本のボルトがすでにセットされている。
「ここが今日からあなたの大切だった人の新しい住まいになりますよ、好きだった絵とともにこの美術館がある間、いつもここにいることでしょう」
スタッフに指示をすると、プレートを持って後ろに立っていたスタッフは別の女性スタッフがそのプレートを一旦受け、メッキされた化粧ボルトを取り外すと、今持ってきたプレートを女子スタッフから受け取りプレートをボルトにセット工具で締め固定した。
華やかなセレモニーと違い拍手が起こることもなく、静かなプライベートなセレモニーだった。男性が後ろに下がると、私は今取り付けられたばかりにプレートに近付き、そこにある陶板の彼女の写真に軽く手を当て角をなでた。なぜかその感触は、初めて彼女と過ごした夜、彼女の髪を撫でた時と同じものだった。そして微笑んで居る彼女に「さよなら 洋子」と挨拶をし振り返ると館長も少し涙を潤ませていた。それに立ち会った女性スタッフからすすり泣く声が聞こえた。私は再びDank u welと、握手を求めると、館長はそれに応じ片方の手を添え軽くたたいて気持ちを表してくれた。
「また、彼女に会いに来てくださいね」
「ええ、また伺います」
他のスタッフ一人ひとりにもお礼の言葉と握手を求めた。みな一応に涙を流して肩を叩いて励ましてくれる人も居た。
きっと洋子はこれから、ここを訪れる人たちを温かく迎える第二の真珠の耳飾りの少女になり、ここにある絵と共に多くに人に感動を与えることだろう。
最後にプレートの写真を一枚写し、もう一度お礼を言いマウリッツハイスを出ると、外に淡い光が満ち溢れ、水面に反射した光は街じゅうを照らす。これが彼女の見たかった光だった。玄関を見ると、彼女は元気な姿を最後に見せた駅の階段の時と同じように手を振って見送ってくれていたが、やがてすーっと消えた。
その日はもう飛行機の便は無く、帰国の飛行機は翌日の午後十四時四十分にアムステルダムを発つ。空港までハーグセントラルから直行便の電車が何本もあり、三十分ほどで空港に着くのでその夜はハーグに泊ることにした。街を歩き風と光を感じたが、もう彼女は横に現らわれることが無く、強い孤独感を味わった。
次の日、私はコンセルトヘボウへ立ち寄ることもなければチューリップも風車も見ることなくオランダを発った。

翌日午前十一時前関西に降り立った。荷物は行きの時より写真とチケットの分だけ軽くなっていた。弔いの旅行なのでお土産など買うはずもない。行きと違い帰りは一晩飛び続け、十五時間の長い眠れない夜のフライトを狭いシートで寝るのは辛く、同じ狭さでも彼女のシングルベッドで抱き合って寝た時がどれほど心地よかったろう。旅の疲れが無いはずはなかったが、空港ターミナルにあるうどんやに入り一杯のきつねうどんを食べるとなぜかほっとして日本に帰った気がし少し肩の力も抜けた。
その足で写真屋へ行き彼女のプレートの写真をプリントして貰い、それが出来上がるのを待って彼女の実家へ墓前報告に向かった。
事前に電話をして行くことを告げればよったが、残念ながら彼女の実家の番号は分からないままだ。住所から場所は分かるので、ご両親がいなければ帰るまで待つまでのことと思った。新幹線と電車を乗り継ぎ、長良川鉄道の連絡駅美濃太田には午後三時過ぎにつき、乗換えでホームにいると、昨日まで居たオランダの気候とは大違いで、じっとりと汗が出るほど外は蒸し暑かった。
あえて鉄道を選んだのは彼女の見たであろう景色を見ておきたかったからだ。
午後三時三十一分発の列車は北濃行きの普通列車で、ホームに止まっている赤い一両の気動車の前面には雪避けのスノープラウがあり、ここの冬の厳しさと深い雪に覆われることを表している。彼女が正月に帰ったときはこの前面は雪で覆われていたことだろう。
乗り込んで窓際に座ると乗り込んでくる客はまばらで、郡上おどりの見物客はもう少し後の列車だろうかと感じる。
少しして発車の時刻になり、発車を知らせる音が聞こえると、プシューとエアーの音がしてドアが閉まる。軽いディーゼルエンジンの音を立てながら走り出し、エンジン音も安定すると走行音もレールの継ぎ目の音もテンポ良く響き室内のエアコンも効きだした。列車は長良川にそって山へと入っていき、車窓にはのどかな田園風景が見え、田んぼに植わった稲が夏の風で揺れていて、風に合わせて緑の濃淡が表れる。
山や里の落葉樹は青々と茂り、川の水は反射して白く輝いた。踏み切りを通るたび遮断機の音が駆け抜けていく。山を流れる雲はすっかり夏雲で彼女も見たであろうこの風景は、なぜかあの日小料理屋で私が言った風景そのものだった。車窓から目を向かいの空席の座席に移すと彼女が座って眺めているようにも感じた。風景を感じながら走り、時々停車した列車は四時四十分頃郡上八幡駅に着いた。
 郡上八幡駅は小さな木造駅で駅前にはロータリーの他には何も無い。
駅を出ると山間のため、平野とは違い少し爽やかさを感じる。
とは言え、まだ夏の日差しが照りつける中、持ってきた地図を頼りに歩いていった。
少し行った大きな交差点で海外の観光客を乗せたバスが通り過ぎ、その後を走っていたタクシーが捕まり乗り込むと車内はエアコンが効いて汗はさっと引いていく。
運転手に地図を渡し行き先を教えた。
「ここまでお願いします、途中花屋に寄ってくれますか」
「2号車実車、殿町」
「2号車了解、ご乗車ありがとうございます」
運転手がマイクで行き先を言うと男性の声が無線機からと聞こえてきた。駅から彼女の実家までは2kmほどだろうか。町には郡上おどりのポスターや吊り下げられた提灯が夜の訪れを待っているように見えた。途中花屋でお墓に備える菊の花を買うと直ぐに地図にマークをつけた場所に着く。タクシーを降りてその家を見ると、前回彼女の状態がわからず不安を抱いて訪問したことを思い出す。
少し緊張し1息、二息、自分の呼吸する息が聞こえる。
閉じられた格子が入った玄関引き戸をガラガラと開ける
「ごめんください」
返事が無かった。もう一度
「ごめんください」
奥から「はーい」と声が聞こえ、タタタと軽い足音が近付くと、かまちの向こうに現れたのは彼女のお母さんだった。
私は玄関土間に入った。
「あの、突然の訪問ですみません」
お母さんは驚いたように立っていて、私が辞儀をするとあわせてお辞儀をした。
「あの、ご報告したいことがあってまいりました。連絡先がわからなかったので・・すみません・・・突然で」
「玄関先ではなんですので・・・どうぞ」
お母さんの戸惑いを見せた顔は、病院と葬式の時に見た表情より幾分よくなっていたが、その心の傷が簡単に癒されるはずもなく、暗い沈んだものに代わりはなかった。カラカラと玄関を閉めると中に通され、旧家の立派な家の広い座敷で、部屋の真ん中に置かれた使い込まれた座卓の前に案内された。
「今主人がでております、直ぐ帰ると思いますので」
お母さんは私に冷えたお茶を出すと、私が来たことを慌ててお父さんに電話したようで、一言告げるとその部屋からいなくなった。
吐き出しの広い窓から板塀が見える部屋で一人になると、彼女が生きていたらまったく違うのにと想像を始めた。
本当ならこの場所には隣に彼女が座り、ご両親に結婚の許しを得に来ているはずだ。
結果は分かっているとはいえ、彼女は両親と私にさぞや気を使ってやきもきしたことだろうし、今日はオランダから帰り、そろって両親に帰国の報告に来て、きっとお土産を渡し写真を見せ四人で楽しく談笑していた筈だった。
五分ほど経ったろうか、あわてて帰宅したお父さんが部屋に入ってきて、その後ろをついてお母さんが入ると、両親が揃って私の正面に座った。
「田中さん、おまたせしました。ようこそいらっしゃいました」
お父さんは静かに挨拶をしてくれ、私は頭を下げた。
ご両親を前にして私はまだ自己紹介をしていないことに気づく
「田中・・・洋介です、洋子さんとお付き合いさせていただいていました。お葬式の時は御取り込みでしたのでご挨拶ができませんでした。すみませんでした。それに電話番号も分からず、突然の訪問ですみません」
正座した腿にこぶしを握った両手をついて再び頭を下げた。そして彼女と過ごした一年半の時間をとつとつと話し、以前ここへ一度伺ったことを告げ、最後に病院でお母さんにいったのと同じ内容で
「年を越し、今年結婚を考えていました」と注げた。
ご両親は何も言わずただ黙って聞いていた。私は持ってきた彼女からの最後の手紙をカバンから取り出すとその封筒を見つめ、ご両親をみた。
「これはお母さんからお葬式の日に渡された、洋子さんからの手紙です。どうぞお読みください」
二人の前に差し出すと、お母さんはその封筒を静かに取り上げ、中から白い便箋を取り出すと読み始めた。部屋には音も無く時間だけが過ぎた。そしてお母さんの涙がぽとぽとと流れ落ちちる音が聞こえた、口を覆うと声をこらえ、手紙をお父さんに渡した。
受け取ったお父さんは黙ってそれを読んだ。お父さんが読み終わったのは顔を私に向けてことで分かった。
「田中さん、ありがとうございました。短い人生でしたが洋子は幸せだったと思います」
お父さんは私に礼を言ってくれ、その手紙をたたむと元の封筒に入れて私の前の座卓に置いた。私は首がぶりをふってそれを否定した。
「もう少し気にかけてあげればよかったです、済みませんでした。今日はご両親にご報告と彼女の霊前に線香と花を手向けたくて参りました」
部屋には冷房が掛かり時折、カラカラカラと扇風機のファンの音がして冷風を運び、その風が当たるたび涼しさを感じた。
「洋子に会ってやってください、どうぞ」
お父さんが立ち上がるとつられるようにお母さんも立ち上がったが、身体がいかにも重たそうだった。その後私がついていくと通されたのは、ふすまで仕切られた向こうにある仏間で、そこには金箔の貼られた大きくて立派な仏壇があった。
その前には真っ白な座布団がおかれ、灯篭に明かりが灯され、真ん中には真新しい位牌が置かれている。高杯の果物は新鮮でお菓子も備えられ、花もみずみずしさが漂い、毎日の辛い気持ちで変えているのだろう。経机には線香と線香立てがありその脇には経本が置かれて、彼女の遺影とその横には洋介が座っていた。私は二人に頭を下げると、仏壇の前に座り、線香をともして立てると、煙が揺らぎながら立ち、私は手を合わせた。
「洋子、君の家にきたよ。本当は君と二人にご両親に挨拶に来るつもりだったのに、君は先に一人で逝ってしまったね。今頃はフェルメールのモデルになっているかい?きっと素敵な絵ができあがることだろうね」ただ黙って祈った。熊の洋介は変わらぬ表情で座っていて、彼女を護っているようだった。彼女に一礼をするとご両親に報告がある。
「もう一つご両親に報告がございます。先ほどの部屋へ宜しいでしょうか」
二人はそろって先ほどの部屋へ戻り、私も同じ場所に座った。私は鞄から彼女の写真が入ったフレームと、マウリッツハイスで写した写真をご両親に差出しだすと、おとうさんがその写真を手に取った。
お父さんはお母さんにその写真を渡したところで説明始めた。
「これは昨日行ってきたオランダのマウリッツハイス美術館に飾られているプレートの写真です。洋子さんの希望だった絵を洋子さんのこの写真と一緒に見てまいりました。館長に相談いたしましたらこのような立派なプレートにして来館する人々に分かる場所に設置して頂け、写真とチケットも美術館が保管して頂けました。彼女はこの美術館で好きな絵とともにいると思います。」
その言葉を聞いたご両親は驚いた表情でお互いを見合し私を見た。
私は鞄からもう一枚チケットを取り出した、そう彼女といった思い出のチケットの私の半券だ。
それまでチケットもパンフレットも見終わったら気にもせず捨てていたが、彼女の言葉もあり、この時から残して置くようになった、その最初の一枚だ。
あの時ジャケットに入れた時の皴はマウリッツハイスに預けてきたものとまったく同じようについている。
それをお父さんの前に差し出す
「それと、これはその時一緒に行った私の半券です。かまわなければ洋子さんからの手紙と写真と一緒に仏前においていただきたいです。それで私と洋子さんはいつでも一緒に居られると思います」
とうとうこらえきれなくなり、涙があふれた。
「私は洋子さんと一緒にここのオランダの絵を見たかったです」
前ではお母さんがずっと顔をハンカチで覆っていて、その咽び泣く声だけが聞こえた。それをおしてお母さんが涙声で話し出した。
「田中さん、私は洋子から始めてあなたの事を聞かされたとき反対しました。でも洋子が病気になって、それが白血病だと分かると、ドナーを探し抗がん剤治療をする間、副作用の姿を洋介さんには見せたくないから、良くなるまで決して彼に連絡しないでといわれました。いつも聞かされるのは田中さんの話しで、洋子はわたし絶対元気になって洋介さんと結婚してオランダに行くの、信じて待てば叶うのと苦しい治療に耐えていました。あなたがうちを訪ねてくれたのも知っていました。何度もあなたに連絡してあの子を勇気付けてもらおうかと悩みました。でも洋子ががんばっている姿を見るとそれはできませんでした。あなたに連絡したときはお医者さんから難しいといわれた後でした」
そう涙声に混じりに聞かされた。そして殆んど涙声で分からないほどの声になる
「あの子は、もう一度満開のあの枝垂れ桜をみたいな、と消え入るような声で呟くと静かに息を引き取りました。」
暫くその涙を拭い、気を落ち着かせるまで時間が必要だった。
お父さんは辛さをこらえながらもただ黙っている。
愛する一人娘をなくして父親の気持ちは簡単に分かるようなものではないだろう。
「私に充てた短い手紙には、棺には洋介さんと初めて会った時に来ていた緑のワンピースを掛けて、そして縫いぐるみの洋介は私の写真の横に置いてくださいと書いてありました」
彼女のお母さんが告げた時その声は嗚咽に変わっていた。
私が彼女からの連絡を待つ間、彼女は一人で病と戦いながらもいつも私との思い出や結婚を考えていたのだった。
その間の辛さを思うと私も堪えきれず涙が流れ落ちた。

まだ日の高い夏の夕暮れであっても谷あいの郡上八幡はやや夕暮れを感じるようになっていた。
お父さんはお母さんを気遣いながら
「田中さん、洋子の墓へ案内しましょう」
お父さんがたちあがり、おかあさんもたちあがる。釣られるように私も立ちあがり、お父さんが運転する車に三人は乗り、数分走ったところにある町の見下ろせる傾斜地にある墓地に案内された。
車から降りると、さすがに山のせいか風が心地よい。
多くの墓が並ぶ中、御影石で出来た上村家之墓と書かれた先祖が眠る墓に彼女は入っていて、墓碑には洋子の名と命日と享年二十五歳が真新しく白い字で刻まれている。
仏壇同様に、こちらも未だ新しい花が生けられていて、そこへ足すように、私は持ってきた花を手向けると水をかけ、線香を上げ手を合わせ目を閉じた。
「洋子、良くがんばったね。洋子といった展覧会の僕のチケットは君の前にあるよ。洋子といつも一緒だよ、ゆっくりおやすみ」
私が彼女に語りかけたときだった
「洋子が田中さんから頂いたピアスセットはいつも病室においてありました。骨と一緒に入れくださいとあったので今は遺骨と一緒にいれています」
お母さんに聞かされた言葉で、彼女は最後まで私のことを思っていてくれたのが伝わってなおさら辛くなった。
「私にはまだちょっと大人すぎるかな」
初めてそれをつけた日、そういって胸を抑えた彼女はあのピアスセットが似合うより早く居なくなってしまったのだ。
夕暮れはだんだんと暗さを増し夜の景色へと誘う。
街に吊られたちょうちんの灯りがほんのり分かるほどで、街中には浴衣姿の人たちも見られるようになり郡上踊りの雰囲気が漂い始めていて、今日もこの日の会場では夜遅くまで踊られるのだろう。観光客の姿も随分見られるようになって来た。
ご両親と自宅に戻ると一緒に夕飯を勧められたが私は断り挨拶をして帰ることにした。
「駅までお送りしましょう」
お父さんが声を掛けてくれた。
「ありがとうございます。でも、彼女の育った町を見ながら帰ります。では失礼します」
「田中さん、最後まで洋子を思ってくださって本当にありがとうございました」
お父さんから聞いた感謝のことばだった。
本当なら「娘を宜しく」
そういってもらい、彼女は嬉しそうに腕を掴んでいたらよかったのに残念でしかたない。
玄関で二人に頭を下げる、お母さんも深くお辞儀をして見送ってくれた。

列車の時刻まではまだ間があった、
彼女の実家を後に歩き出す。
近くにの坂を下った先の数段の階段には名水百選第一号の宗祇水が湧き、彼女はきっとここで喉を潤したはずだ。街路灯やちょうちんの明かりが水路に反射してきらめく街、これが彼女のふるさとだった。抜けるほど綺麗な清流吉田川をまたぐ宮が瀬橋の上では川風が心地よく抜け涼を運んでくる。太鼓と笛、三味線の囃しと何か物悲しい歌にあわせ、この日の会場になっている旧庁舎記念館前には人が多く集まり人々が踊っていた。
彼女がここで暮らしていた時踊っていたあの写真を思い出す。
彼女の洋服姿しか知らない私は、夏ここで浴衣を着て下駄を履き踊っている姿を思い描き歩いていった。夏休みには夫婦となった彼女と帰郷し、浴衣に真っ赤な帯を締めて踊っている姿をご両親と一緒に見られるつもりだった。

とぼとぼと歩き駅に向かい、八時五十五分発の最終列車で彼女のふるさとを後にした。来た時と違い上りの車内は祭りを楽しんだお客が多く乗っていて話し声が聞こえていた。暗い車内の窓を見ると、外は真っ暗で、車内の光で浮かぶ自分の顔が窓ガラスに映っているだけだった。その顔を見るとも無く見ては、もうここへ来ることは二度とないだろうと思い自宅へ向かった。

彼女の実家から帰ると深夜になっていた。
しーんとした部屋は数日前に出て行ったときと何かが変わっていたように感じる。旅行に持っていったバッグはそこへほったらかして、私はPCを開くとあの日の写真をデーターから読み出し眺めた。
そう、マウリッツハウスに収めてきた彼女の写真だ。
彼女は今頃オランダで画家や作品たちと語らっていることだろう、
データーの消去モード選択にする。画面が変わり選択モードになると、そのたった一枚の写真を選びOKを押すと『消去して宜しいですか』と無表情に表示が出て、少し躊躇ったが「さよなら」とボタンを押した。小さな四角がアニメーションで表示されて『消去しました』と再び味気ない文字が表示され、データーとともに彼女の写真はあっけなく消された。
しかしそれは彼女を忘れるためではなく、自分の脳の奥深くい部分に焼き付けつけ残すための儀式だった。私には物や写真が無くても自分の記憶にいつも彼女はいて、音楽を聴くと隣に現れともに楽しむことが出来、美術品を鑑賞すればいつもとなりに居て笑顔でみている。そしてあの枝垂れ桜の思い出ともに大切に仕舞われ、私の永遠の思い出となり決して消えることはない。

洋子の弔いの旅は終わった。

 ソファーに座ると旅行の疲れがどっと出て知らぬ間に眠ってしまったようだ。夢の中だろうか洋子が桜の花を散らした後、何も言わず私を見ていた。私は目を覚ますと身体は硬く固まり、重い身体をゆっくりと起こし座りなおすといつもオーディオの横に立ててあった写真に目をやったが、今はもう無い。
頭を抱え大きく一つ息をした。
私は彼女を愛し何かしてやれただろうか。
ただいつまでも横にいて欲しかった、それだけを願っていた。
本当の幸せとはそれが永遠に続くことだと、彼女がいなくなって改めて感じる。
もしかして、彼女との思い出はすべて、今見ていた夢だったのだろうか。

私はまだ休暇が数日残っていたが明日から仕事に行くことにした。
殆んど寝ていないようにも感じる朝が来て、いつものように電車に乗って職場へ向かうと、朝から蒸し暑く風の無い空は水蒸気を含んで見える。電車に乗り窓を流れる景色を見ると、オランダのさわやかな朝の風とのんびりした時間と、この慌しい時間の対比を感じた。そして以前は毎日のように彼女から入っていた「おはよう」のメールも来なくなって久しく、いつか来ると期待をしていたがそれももう無いことにも気づかされる。
通勤の人が行きかう交差点で立ち止まる。
車の騒音の中ふと携帯を見たのは来る筈も無いメールを気にしたから、しかし私の携帯に『洋子』と表示されることはない。
彼女がなくなって早数ヶ月、辛くないといえば嘘になる。
もうその生活に慣れたか?いいや慣れることも無い。
それでも私は生きていかなければならない、レンブラントの自画像のような顔で。
信号が変わるとそれをポケットに仕舞い、雑踏の踏みならずヴィヴァーチェの足音にひきずられるように私は歩き出した。

いったん光を得た星はその距離がたとえ数十億光年離れて行こうとも光が消えることは無く、それが消えるのは寿命が尽きるとき。
彼女との愛という光も消えることは無く、それが消えるのは私の肉体が消滅する時だ。
そしてその時、再び彼女との真の光が灯るだろう。

来年も、その次の年もあの山に植わる枝垂れ桜は変わることなく満開に咲き誇る。
可愛かった、洋子の思い出とともに。

あの日彼女が枝を揺らし、花を散らした時、笑顔のあと声に出さなかった言葉は、もしかしたらさよなら・・・だったのかもしれない。


                                 
                                   了

レンブラントと枝垂れ桜

作曲家加古隆は曲を作る前に十分打ち合わせを行い、映像と曲のイメージを高めると書いてあった。そのためか彼の曲を聞くとそのイメージがはっきりと浮かんでくる。
彼の曲を聴いていると枝垂桜にもたれた若い女性が出てきたので、それをイメージして書いたものです。次々にシーンが浮かんでしまい、改めて彼の曲の力を感じます。

 神山征二郎監督がイメージしてもらえれば良い映像となり涙を誘うかもしれません。もちろん音楽は加古隆で。

レンブラントと枝垂れ桜

36歳バツ一の洋介は13歳年下の洋子を思うが離婚がトラウマとなり気持ちを封じ込めていた。美術好きで意気投合し美術展やコンサートを共に楽しみ二人の距離は近づく。その後二人で見に行った枝垂れ桜の下に立つ洋子の美しさにたまりかね、二人は結ばれるが、幸せな時間も短く洋子は病気で他界する、思い出の展覧会の半券が添えられた最後の手紙にオランダへあなたと行きたかったと書かれていて、洋介は洋子の最後の希望を叶えるべく弔いの旅に出る。

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-08

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