透きとおる母性

一 透きとおる蝶

 道路の埃が鼻をくすぐる。ハルオはくしゃみを我慢して、向かい風のなかを、影を後ろにのばし、進んでいく。まるで、風と夕日が正面から力を合わせて行く手を阻んでいるようだ。抗う分だけ影が伸びる気がして、怯むことなくグングン進む。やがて、ハルオが足を止めて右を仰ぐ。家だ、遠回りをしても道草をしても、ここが最後だ。これ以上は進めない。抗えない。
 夕日を受けて、屋根はハルオの言葉では表せない色になっていた。絵の具は、赤と青を混ぜたらむらさきになるのに、今の屋根はハルオの知っているむらさきではなかった。
 言葉では表せない色と夕日のやわらかな光が、ハルオをまだまだ子供だと、なだめているようだ。屋根を睨みつけてから、大きな音を立てて鍵を開けて玄関のドアを乱暴に開けた。
 「ただいま」
 誰に言うわけでもないので、言葉尻は上がらない。靴を乱暴に脱ぐと、ランドセルも降ろさずに階段を駆け登った。部屋に走りこむ自分を向かい風に重ねる。廊下にある花瓶が、掃除機が、本棚が、全て吹き飛んでしまえばいいのに。
 部屋に飛び込んでも、胸は熱いままだった。ランドセルを投げ出して、ベッドに飛び込むと、西日がちょうど射し込んでいた。シャツの緑が、ベットカバーの灰色が言葉に出来ない色に変色する。そこで諦めて一気に力が抜けた。目を閉じれば、どうせ全てが黒なのだ。

 まぶたに光が射し込む。続いて、ドアが閉まる音。動いて起きたことに気づかれたら悔しいので、ハルオは体を動かさずに考えてみる。―そうか、ドア開けっ放しだった、電気もつけてないっけ――
 「……勝手に入るなよ」
 ドアが開いていたのはわかってる。それでも、誰に言うでもなく口に出てしまう。まだ動かずに、目だけ動かして、時計を見る。蛍光灯の明かりが反射して、見えづらい。しばらく、目を細めて頑張ってみたが、根負けして体を起こして時間を確認する。もう、好きなアニメは終わっていた。
 友達はみんな同じ塾に通っている。だから、水曜日と木曜日、それと土曜日は変える方向も違うし、もちろん遊ぶこともない。この半年で慣れたつもりだった。でも―――喉の奥のむずむずが言葉になる前に、もう一度ベッドに体を預ける。
 テレビを観る気にも、ゲームをする気にもなれなかった。母さんに水泳がはじまることを言わないと、ベッドの下に落ちている明日の教科書を引っ張り出しながら考える。ページをめくるたびに、塾でペンを走らせる友達の無機質な光景が頭に浮かぶ。
 階下から「めしだぞー」とドアを通して、さらに野太くなった父さんの声がした。ここで起きなかったら、階段を上がって、ここまでやってくる。仕方なく、ハルオはもう一度、体を起こして、階下へ降りた。
 階段を降りた正面には、風呂場があり、ほのかにお風呂の沸いている水のにおいがする。掃除は明日、と食卓に向かいながら自分に確かめた。食卓では父さんがテレビを見ながら、御飯を食べている。部屋に響く笑い声が、父さんに話しかけているみたいで、声をかけずに、ハルオは父さんの向かいに座った。だから、「もうすぐ夏休みだな」といくらか声のトーンをあげた父さんの声も、テレビに向かって話しているのだと思い、反応が遅くなった。気付いて、今日一番、素早い動きで、正面を見ると、父さんがこっちを見て、ニヤついていた。
 「どうした、元気ないなあ、夏休みって聞いたらフツー、子供は跳ねまわるもんだろ」
 今度は食卓の料理を覆い隠すように、ハルオの顔を覗きこんでくる。緑、黄色、茶色、並べられた大皿と小鉢が白と黒のしましまのシャツに飲み込まれる。
 「みんな、夏期講習で忙しいんだってさ」
 「……そうか、でも友達はそうだろうけど、お前は行きたいところとかないの?」
 ハルオは茶碗を手に取り、御飯を噛みながら考えた。そして、飲み込んでから「どこでもいいよ」と答えた。
 「そうだなあ、海か?いや、キャンプか?お前、泳ぐの下手だもんなあ」
 「それ、いつの話だよ」
 こんな話をして、結局行ったのは数えることもないほどだったので、「かーちゃんは?」と話を変えた。
 「台所にいるだろ」
 たしかにさっきから台所の方で、鍋と蓋の擦れる音とか、水の流れる音とかがしていた。父さんはテレビと食事に戻っていたので、食事が終わるまでには母さんも卓につくだろうと思い、食事に戻った。

 ハルオの食事が終わって一息置いても、母さんは台所から出てこない。父さんはビールを飲んで、まだ食事に手を伸ばしている。黄金色から、父さんの白黒のシャツが透けて、酷く不味そうに見えた。
 立ち上がると、奥にある台所に向かう。ドアは曇りガラスになっていて、蝶の絵が入っている。羽を広げて飛んでいる絵なのに、生気が感じられない透明な蝶、奥からは水音が聞こえる。洗い物をしているのか、ガラスの擦れる音も聞こえる。ついでに流しに持っていこうとした茶碗を片手にかかえて、 「かーちゃん」と声をかけながら、ドアを体で押すように開けた。
  ――――そこに母さんはいなかった。

透きとおる母性

透きとおる母性

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-06

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