たぬきのおまじない

喫茶店の中で1人深くため息を付いた30代半ばの男は、
深刻な悩みを抱えているように見えたが、
当然周りにいる人は誰もその男のことなど気にもしていない。
小一時間ため息ばかりついていた男は、
冷え切ったコーヒーを一気に飲み干すと喫茶店を後にした。

どこへ向かうわけでもなくトボトボと歩いていると、
いつの間にか見覚えのない路地へと入ってしまっていた。
男は引き返そうとも思ったが振り返ったところで、
知っている道があるわけでもない。
むしろどっちから自分が歩いて来たのかも分からないほど、
動揺してしまっていた。

霧に包まれ右も左も分からなくなった男は、
仕方なくそのまま歩き進むと突き当りに古く寂れた店が見えた。
そこには【BAR 狸の里】と書いてあった。

男は酒呑みなどではないがここまで歩いてきて、
このまま戻ることも苦痛でその店のドアを開けて中へと入った。
外観同様に寂れた感じの内装で昼間でも照明を付けてなければ、
暗すぎて奥まで見えないほどである。
しみったれたカウンターにはマスターらしい人が立っているが、
無言のままグラスを拭いている。
不気味という以外に当てはまる言葉が見つからない。

とりあえず男はカウンターまで行くと歪んだ椅子へなんとか座り、
適当に注文をしてみた。
それでも無言だったマスターだがどうやら、
声は聞こえているらしく拭いていたグラスを置き、
何やら準備を始めたが目の前に持って来た物に男は驚いた。

バーだというのに運ばれてきた物は、
妙な唐草模様の小さな袋だった。
戸惑う男だがマスターは何も言わずに再びグラスを拭き始める。
何がなんだか分からないが黙っていても仕方なく袋を開くと、
中から可愛い切手が1枚出てきただけだった。

これで何をしろと言うのだろうか。
しばらく意味もわからず座っていたが、
注文した物も出てくる気配なく、
男は切手代だけを支払い店を出た。

外に出た男は周りの風景に驚いた。
さっきあれだけ歩いたはずなのに出た先は普通の街中で、
最初にいた喫茶店のすぐ近所だった。
思わず振り返り店を確認しようと思ったが、
そこにあるはずのドアもなくなっていて、
ただただ唖然としていた。

夢でも見ていたのだろうかと思うがポケットの中には、
確かに先ほど買った可愛い切手が入っている。
不思議なこともあるものだと思うがそれほど深く考えもせずに、
帰宅すると何気なく取り出した便箋に、
迷いながら一言ずつ心を込めた言葉をつづっていく。

そして書き終えるとすぐに封をして、
さっきの可愛い切手を貼り付けポストへ投函した。


数日の間。
男は喧嘩していた娘からの返事を待った。
来るか来ないかも分からない手紙を待ち続けた。

しかし手紙は来なかった。
変わりにチャイムが鳴り戸を開けるとそこには娘の姿があった。
ようやく男の顔にも笑顔が戻り娘との仲も元通りとなった。

その後男はあのバーを探しに再びあの場所へ向かってみたが、
どう歩いてもそんな路地は見当たらない。
それでもあのバーのマスターにお礼が言いたかった男は、
必死になって探し続けた。

それでも見つかることはなくその辺を歩いている人にも、
聞いてはみるがやはりそんな店は知らないと言うし、
そんな路地も見たことはないと言う。
やはりあれは夢だっと思うしかないのだろう。

それ以降男はその店を探そうとはしなくなった。
夢だったとしても娘と仲直りをして、
こうして月に1度会うことが出来ている。
それだけでも男は残りの日々を乗り切れるのだ。

仕事仕事の毎日。
一度はあった自分の家庭。
行き違いから妻とは離婚してしまい、
娘まで取られてしまった。
何もかも失った男は自暴自棄になってしまい、
娘にまで当たってしまった。
月にたった一度の日だというのに、
溜まりに溜まった鬱憤を娘に吐き出してしまった。

一番しては行けないとわかっていたはずなのに、
娘の気持ちも考えず八つ当たりしてしまった。
その瞬間男はしまったと思ったが、
歯止めが利かずに散々なことを言ってしまった。

後悔した頃には既に娘の姿もなく、
すぐに電話が元妻からかかってきて散々叱られてしまった。
そして娘が許すまで二度と会わせないと言われてしまった。

次の日から男は会社を休み家に引きこもった。
もはや働いても意味がない。
月にたった一日あった娘との時間もなくなってしまい、
なにもやる気なんて出なかった。

3日ほど引きこもっていると自宅にいることも苦痛になった男は、
ようやく外に出たが目的もなくさまよっていると、
あの喫茶店に入ることになった。

そんなことを思い返す為なのかこの喫茶店には、
よく来るようになっていた。
あの日のようにため息は付かないが、
いつものように1人で来ていると客の1人が話しかけてきた。

「よくここ来ますよね。」

話しかけてきた人を見るととても綺麗な人で、
自分よりも10以上若い人に見えた。
相席を求めてきたその人を拒否する理由もなく、
男は頷いたが目のやり場に困ってしまう。
それほど綺麗で見蕩れてしまった。

何か話題を出さないとと思うが、
しばらくこんな状況になったこともなく思いつかない。
チラッと様子を伺うとずっとこっちを見ているではないか。

辺りに目を向けると、
他にも席はあるのにわざわざここへ座ったのだ。
何か用事でもあるのだろうか。
再びチラチラと見ているとようやく口を開いた。

そして信じられない驚愕の事実を聞かされてしまった。
誰がそんな冗談を間に受けるだろう。
それを見せられるまで男も信じるつもりはなかった。

鞄から出された古ぼけた手紙には見覚えがあった。
つい最近男が娘に出したものと、
同じものであるとすぐに気がつくと、
目の前にいる人はニッコリと、
微笑んで手紙の中身を見せてくれた。

まさかそんなことがあるなんて思うだろうか。
その子は確かに娘そのものだった。
それにそのニッコリと微笑んだ時の顔には、
どことなく娘の面影が見えてとれた。

それから男は不思議な時間を過ごした。
話せば話すほど娘そのものだが、
まだ小学生のはずの娘が二十歳過ぎになっているのだから、
どちらかと言えば元妻の方に近いかもしれない。

話していると娘はここへ来た経緯を話してくれた。
バーで酔いつぶれ目を覚ますと、
この喫茶店の前にいたという。
そして昔よく男が通っていた喫茶店だと思い出すと、
若い父親の姿を見つけ夢だと思ったらしい。
今でもそう思っているのかもしれないが男は知っている。
これはあのバーの力なのだ。
理屈では測れないことだが男はそう確信した。

娘は男と母親の復縁を強く願っていたのか、
何度も何度もそのことを話した。
それは裏を返せば大人になっている娘の世界では、
男と母親はずっと復縁出来ずにいたということだろう。

ほんの短い時間だったが男は不思議な時間を過ごした。
去り際に涙を流していたことに男は気がつきもしなかったが、
娘がバーに行きつけたのは男がその日亡くなっていたからである。
強い悲しみで満たされた人だけが出会える店。
それが【BAR 狸の里】である。


その後、
男は元妻との復縁を積極的にして、
仕事も真面目にし始めた。
それから半年して男は元妻と再婚をして、
残りの十数年の時間を精一杯に生きた。

病で床に伏していた男の傍らには、
妻と娘がずっと見守っていた。

意識が遠のく中で男はバーを思い出していた。
あのバーに行きつけたからこそ人生が好転した。
40代半ばにして死んでしまう命だが、
あのまま1人暮らしを続けやりたくもない仕事をして、
一生を過ごしていたと思うと、
この十数年の時間はとても有意義だった。

そんなことを思いながら二人に看取られ、
男はこの世を去った。


その頃。
あのバーではマスターが今日もグラスを熱心に拭いている。
そして今亡くなった魂を大切に小さな箱へとしまいこんだ。
そんなバーの暗がりの片隅にはこう書かれていた。

【幸売ります
料金として命を半分を頂きます】

男はそんなことに気がつきもしなかった。
本来ならば残り四十数年あった命だったが、
この男にとっては1人で生きる90年よりも、
妻と娘と暮らせた時間の方が大切だったのである。

バーはそんな思いを持った人のみに見える店である。
一生を後悔で終えるには忍びないと思えたマスターが、
男と娘の命半分ずつで未来を変えさせたのだ。

マスターは仕事を終えると元の狸の姿に戻って、
山の中へと消えていってしまった。

たぬきのおまじない

たぬきのおまじない

2013年に書いた作品

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-06

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