夜を航る、そして

第一章[夜を航る]

 午前三時の闇の中、女は男の下にいる。
 時計の秒針が、均等に時を分かつ音。
 女は、きつく男を抱いている。
 ベッドから、あるいは、重ねた胸のあたりから、蒼く、草原の匂い。
「抱いて」女は低く呟き、自分の左足を、男の腰にからめる。
「抱いてるよ」男の声が、女の耳元でそう告げる。本のページを捲るような、小さな声。
 一メートル隔たれば届かない、十センチメートルを行き来する微かな声で、二人は今、交信している。
「もっと…」女はふたたび呟き、まわす両手に力を込める。


「ねえ、想像して…」闇の中、女の声が囁く。
「うん」と応えるその声を、女は自分の頬で聞く。
「ここはね、船なのよ。私たちは今、船に揺られているの」女はそう言って目を閉じる。暗闇の中、さらに深い闇へと、女は潜る。
「船?」
「そう、船」祈りのように、女は呟く。


「ねえ」ほんの短い沈黙のあと、女はまた、口を開く。「どんな船だか、知ってる?」
「いや」
「想像して…」女は、男の下から右足を抜きとり、左足と同じく、それを男の腰にぐるりと巻きつける。
「島々をめぐる、クルーズ船、かな」女の体を抱き返しながら、男が囁く。
「ん、もう少し、ふつうじゃない、船なの」
「海賊船?」
「そうじゃなくて、この船はね…」女は目を開き、男の肩越しに、じっと闇を見つめる。「宇宙船なのよ」
「宇宙船?」
「そう、宇宙船」そう言って、ふたたび女は目を閉じる。 男は、短く、柔らかく、笑い、そして女の瞼にキスをする。「もっと…」深い闇の底から、声が響く。「もっと、して」
 男は女の、額を、頬を、耳たぶを、唇でそっと、順に温める。
 女は男の、後頭部を掴んで引きよせ、その口を貪る。舌は中に分け入り、そこでのたうち、その動きで撹拌された互いの唾液は、泡立ち、溶けあい、混じりあう。
「抱いて」ユーカリの木を抱くコアラのように、女は、力いっぱい、男にしがみつく。女の指の関節が乾いた音をたてて弾ける。
「抱いてるよ」
「もっと、ギュッとして」男の胴を、四つ足できつく締め付けて、女は男の肩を噛む。


「でね…」自らを乾かす短い時間ののち、女はまた、小さな声で語り始める。「乗っているのは、あなたと私。それだけよ」
「そう?」
「そう」女の四肢は男の体に巻き付いたまま。
 閉じられた、女の瞼のその内で、闇は密度のピークに達し、そして溢れ出してゆく。


「この宇宙船はね…」男の首筋に鼻を埋めながら、泣いているようにくぐもった声で、女は続ける。「四十六億年前に港を出て、それからずっと、ひたすらに、航海を続けているの」
「うん」
「宇宙の果ては、百五十億光年も彼方にあるうえ、外へ外へと、いまだ逃げ続けているんだから、そりゃ、追いつけっこないわよ」闇の中に、溶け込みそうな薄い声。
「大丈夫だよ」流れる涙に男は気付かない。それでも男の手は、優しく女の髪を撫でてやる。
「ねえ」と、今度は男が言う。「想像してごらんよ。朝の光を。もうあと少ししたら、夜が明ける。向かいのビルの一階に、新しくコンビニエンスストアが入っただろう? コンビニに、朝一番のパンを届けるためにやってきた、トラックの音が聞こえてくるよ、あともうほんの少ししたら。分厚い遮光カーテンを開いてバルコニーに出よう。そしたら、東に、JRの高架が見えるだろう。やがて、そこを山手線が走ってくるよ。出勤途中のサラリーマンをたくさん乗せて。吊革につかまったサラリーマンは日経新聞を読んでいる。また、活気に満ちた、新しい一日が始まるんだ」
 男の体に巻き付いていた、女の手足がわずかに緩む。「そう思う?」


「そう思うの?」女は四肢をほどき、ベッドの上に半身を起こす。
「あなたは、あの人たちが、ほんとうに、いると思うの?」暗闇の中、女は男の肩を掴む。
「あなたも、あの人たちの、仲間なの?」女は男を抱きよせる。
「そうなのね…」女が男を抱きしめると、その腕の中で男は消滅する。

 女は左右の腕をクロスして、自らの体を、きつく、きつく、抱きしめる。
 闇の中。時を分かつ音に、女の嗚咽が溶ける。



 背後から僕は、ベッドにそっと近づいた。女の震える肩を、後ろから優しく抱いてやる。抱きしめる僕の胸の内で、やっぱり女は、消えてしまう。
 闇の中、僕はベッドを降り、窓辺に行き、窓を開け、バルコニーに出る。
 見渡せば銀河。
 宇宙の闇を僕は、しばらく見つめ、そして呟く。「まだ、続くかい?」
 応えはない。
 船は銀河を進んでいるのだ。今も、これまでも、これからも。
 僕は、声を出さずに、絶叫する!


 第二章[そして]

 そして、夜が明けた。
 僕はカーテンを開け、顔を洗い、ガールフレンドのナンバーをダイヤルする。「やあやあ、おはよう! なんだって? まだ、寝てたの? 人生は有限だよ。時間は限られているんだ。いい天気だよ、出掛けよう。築地に魚を買いに行こう。車で迎えに行くよ。四十分で着くから、着替えて、化粧も済ませておくように。それから二人で朝飯を食べよう」


【夜を航る、そして】了

夜を航る、そして

夜を航る、そして

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-14

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