鍵とノート
【鍵の1】
-ここはどこだろう、と思った。半身を起こした。あたりを見回す。ここは私のヴィラだ、と私は思った。-
平成二十年の五月十三日、私は成田空港第二ターミナルビルの三階にいて、JL729便の出発を待っていた。
フロア中央の時計を見上げると午後三時。<そろそろかな>と出国審査に向かって歩き出したところを後ろから呼び止められて、私はハッとした。
<いっしょにゆこう>
と、誰かが語っていた。
(だめ)と私は思った。(ひとりでゆくから)
彼の手が、肩に伸びるのを私は感じた。(来てはだめ)その手を振り切るように私は思う。(いきなさい。でないとまた、突き飛ばすから!)
「カオリってば!」
少し考え事をしていたせいか、私は私の名前にすぐに反応することができず、ぼんやりとした気分のままゆっくりと振り返った。
「何度も呼んでんじゃん、無視すんなよな!」
ビンテージジーンズにサンダル履きの男が手ぶらで立っていた。
「あ、タロちゃん」と、私はやっとまともに反応できた。男は私のボーイフレンド、ではなくて、それは昔のことで、このときはもう婚約者とかになっている(今は旦那です)青山太郎くんなのでした。なんて、書き方まで急に、いつもの私らしくなっちゃった。ってかむしろなんでかな、この文章の冒頭、私はいつもの私じゃなかったみたい。でも仕方ないかもね。だって書き始めたのはちょっととんでもないような話なんだから。というか、私が書き始めたのかな、これ、ほんとうに。なんて書いたりすると、また読んでくださる人が混乱しちゃうかもだけど、でも、なんて書かなくてもどうせきっと混乱しちゃうと思うから(っていうのは、とても変な話だからです)、まあ同じことなんじゃないかな。とかとか、私がこんなふうにまだるっこしく書くその訳は、このおそらくはそう長くはならないであろう旅日記を読み終えるころには、きっとわかってもらえると思うよ。
だなんて悠長な独り言を書き連ねてる場合じゃないよ。私がまた私でなくなる前に、というか、なくなってもこの文章は彼が書き続けてくれるだろうから、その点の心配はないんだけどね、でも、私じゃない私が私の恥ずかしいこととか書かないように、ちゃっちゃか、筆を進めたいと思います。
ともかくあの日の午後、私は飛行機が飛ぶのを待ってたのでした。成田からデンパサール行きのチケットを手にして。
「おまえ、本当にひとりで行っちゃうんだな」と太郎くんは言いました。
「うん」と私は頷いた。「ひとりで行かなくちゃ」
「もうすぐオレたち結婚するんだぜ」と彼は言った。「新婚旅行で一緒に行こうよ」
「やだよ」と、私は首を振った。「だからこそ、結婚前にひとりで行きたいの。青山カオリではなくて岡野カオリとして」
書きながら、だんだんと自分が違う色に染まってゆくのを、私は感じる。なぜだろう、と私は思う。おそらくは一人旅だから、と私は内的に答えを出す。書いているこの私が結論しているのか、劇中の、いわば書かれているところの私がそう結論したのか、そのへんは曖昧だ。私は、ここにいて、かつあの日にいるからだ。
日本にいるとき、私は青山太郎に染まった私でいる、ような気がする。だから私は旅に出たのか。海外旅行に出ると、私は限りなく私に近づく。言葉が自由に使えない環境にひとりきりで身を置くこと、それは私の洗濯だ。ここは「選択」の誤字ではありませんよ。洗濯なのです。私は私を洗うのです。特に節目節目において私は私を洗います。新しい私になるために。赤い下地に、青いラッカーを塗るために、ひとまず白いラッカーを吹き付ける、みたいに。隠蔽。つまり下地を整えるわけです。私は私を整えたいのです。タロちゃんの嫁になる前に私は、ひとまずそれまでのカラーにホワイトをスプレーして、しかるがのちに改めて、タロちゃんのお嫁さん色に染まろうと、そう考えていたのです。この旅はそういう旅なのでした。
そのことはタロちゃんに何回も言いました、そりゃもう丁寧に。そしたら彼はこう言いました。わかってるよ、オレ、確かにカオリが変なのは知ってるよ、だからおまえの言ってること変だけど、それはそれでいいよ、でもなんでバリなんだよ、なんでウブドなんだよ、なんでピタマハなんだよ、そんなのオレだって行きたいよ、だってハネムーナーにはうってつけだと思うもん、バリ島のラグジュアリーホテルなんてのは、ふたりで行ってひきこもって、ゲッコーみたいにひっつきあう、そのための場所なんだよ、ああいうところは。みたいなことでした、タロちゃんが言ったのは。つまり、私の「洗濯」のことなんて全然本気で考えてくれてないのでした。
でも最後には、わかったって、彼も折れてくれたのでした。だから成田エクスプレスに乗って、この日私は、ひとりで空港にやってきたのでした。私は本来の私に、文字通り一歩ずつシンクロしていたのです。なのに。なのにタロちゃんが来て、あの日の私ったら、タロちゃん色の私に強引に引き戻されて、したら、そのシーンを書いてるこの私も、やっぱりタロちゃん風の私になってしまった、というわけなのです。なんて書いてて、いいことを思いつきました。簡単なことでした。青山太郎くんのことは書かなきゃいいんです。登場したばかりで悪いんだけど、もう書きません。タロちゃんなんかに関わってる場合じゃないんです。私はあの少女のことを書きたいんです。だからタロちゃんのことは、あと数行だけ、はしょって書きます。私はもう一度短く「洗濯」の意義を彼に説き、嫌々ながら(もうすでに一人旅が始まっていたからで、彼を嫌いになったからではないのだけど)軽いキスに応じちゃったりして(繰り返すけど嫌いなわけじゃない)、それから彼にバイバイと手を振って、そしたらもう振り向きもせず、セキュリティ検査のゲートをくぐり、ついでにケータイの電源もオフにしたのでした。重ねて書くけど彼を嫌いになったわけではありません。私は私になっておきたかったのです。そんなふうにして、私は日本と、日本の私を後にしたのでした。
デンパサールから車で一時間、深夜に近い時間に、私は目的のホテルに向かった。
運転手は陽気に過ぎず、寡黙に過ぎないバリ青年で、女の一人旅に対して興味を抱くのでもなく、冷淡に徹するのでもなく、ニュートラルに親切だった。
窓から見るバリの街は、格別神秘的なこともなく、昭和の形をしていた。ように私には思えた。
遅い時間なので街に人影は少なく、野犬の影が多かった。犬の街のようだった。私はそれを怖く思った。しかし、犬は、実は野犬ではなく飼い犬である、ということが後にわかった。バリでは犬を放し飼いにするらしい。人間と動物の距離が日本より近く、立場もより対等に近い、ように思えた。ペットとして支配的に可愛がるのではなく、例えば道をふさいでいる邪魔な犬を、通行人が容赦なく蹴ったり、そんな、命の対等さを私はこの土地に感じた。旅行者の感覚だから、むろん思い過ごしかもしれないが。
車はやがて大通りを離れて、小さな森のような小径に入った。私はまた怖くなって、ルームミラーを覗いた。すると運転手の青年は、眉を八の字にして笑ってくれた。心配ないよ、とその瞳は語っていた。私は心の中で謝った。
窓の外は様相を変えた。辺りは闇だった。東京の闇とは違う。もっと濃密な闇だった。私は目を凝らした。木々のシルエットが見えた。その向こうには何も見えなかった。それは不在ではなく存在を暗示するような闇だった。ブランクではないということ。深い闇の、みっちりとした存在感、それを私は強く感じた。不気味、ではない。でも爽快では、もちろんない。癒やし、のようにも感じられたが、やはりそれ以上に〈恐ろしく〉感じられた。でも、敵、という感じはしなかった。気がついた。それは〈懐かしさ〉だった。よく知っているもの。私はバリの闇を懐かしく眺めていた。抱かれながら、怖れながら。
車は街中に戻り、少し走るとホテルに着いた。
ニュートラルなサービスに感謝して、運転手にチップを渡して車を降りた。
鬱蒼とした闇、に包まれたような、深夜のホテル。虫の声。蛙の声。
【鍵の2】
大柄なポーターは初老の現地人で、敷地内を英語で案内しながら、私の荷物と私を、私のヴィラまで運んでくれた。
電灯はなく、篝火もわずかで、私はジャングルを行くような錯覚を覚えた。先に立って歩くポーターの英語が、私にはほとんどわからない。プールがあります、こちらはライブラリーで、スーベニアショップはこちら、坂を下るとスパがあって、あなたのヴィラはこの小川にそってずっと歩いた一番奥、滝の手前の106号です、とかなんとか、そのくらいのことを言っている程度までは理解できるのだが、小川を泳ぐ魚の種類や、アユン渓谷の生態系や、小径に突き出た私の体くらいの巨大な葉っぱの名前など、説明してくれているのはわかるのに、その内容はほぼまったくわからなくて、とても残念だった。原因は私のヒアリング能力の欠如が半分だけど、残りの半分は、おじいちゃんの発音のせいなんじゃないかな、と私は思った。プールとかライブラリーとか、文脈から無理なく推測できる類の単語の発音も、かなり怪しかったから。深夜だからたぶん人手がなくて、おじいちゃんが駆り出されてしまったのかもしれない、と、眠たげな彼の目を見て私は申し訳なく思った。この時間に着いた観光客は私以外に、いないのだった。
小径には、闇に溶け込むようにして何体もの、石細工の蛙が並んでいた。暗闇の中にぬっと現れる、小学生くらいの背丈の彼らは、少しなんだか恐ろしかった。アジアンな信仰において、おそらく彼らは神様なのだろう。
耳を澄ませると、すぐ足下を流れる、小川のせせらぎが聞こえた。そのせせらぎの気配を、蛙の声が、断続的に破っていた。それは森の鼓動のようだった。現地の古くからの信仰によれば、実際それは神様の声なのかもしれない。蛙の鳴き声とは別に、これもまた規則正しい虫の声。こちらは森の呼吸、と私は思った。森の自律神経系は、夜間においても目覚めていて、森が命であることを告げている、などと私は感じた。
風が頬を撫でた。私は神に似た何かを、なぜか動物的な何かを、スルリと頬に感じた。
私のヴィラの前で、篝火の炎が揺れていた。その下に、私の神様がいた。小学生くらいの背丈の、石の蛙。私は彼に名前をつけた。石野カオル。それが彼の名前だ。名前は、私の滞在中に限り、彼を、私に独特な角度で結びつけるだろう。炎に照らされて、この神様の姿はよく見えた。ギョロ目と、飛び出した下腹がユーモラスだった。少し私に似てるかも、と、カオリは感じた。でもどうしてだろう、畏怖すべき何かをカオルに、私は感じた。おそらくそれは〈大きさ〉に関することだ、と私は直感した。大きすぎても小さすぎても、それはこの世のものでなく、神になる。と、私は感じた。
ヴィラは素敵だった。部屋番号の刻まれた鍵で、南京錠を開ける。南京錠、と私は思った。予約したホテルは歴史あるホテルだった。かつては王宮であったとかなかったとか、ガイドブックで読みかじったような記憶のあるそのホテルは、名をピタマハという。花の名前らしい。由緒正しく、伝統的なバリらしさに満ち満ちたホテルだが、あまりの古さに経営者も考えたのだろう、近年、ロイヤルピタマハという姉妹施設が設営されたらしい。そちらは近代的なのだと、東京の代理店のお姉さんは語った。つまりこちらは、前近代的なのだ。近代的なフィールドを選ぶか、伝統的なフィールドを選ぶか、と訊かれて、私は応えた。「より、あるがままなほうを」
お姉さんはニッコリ笑ってピタマハのパンフレットを差し出した。
パンフレットを見て私は満足した。なぜならそこにあった写真は、きわめて分厚い、時の層をうつし出していたから。アユン渓谷を見晴らす高台に、そのホテルは、風に吹かれてあるという。川に対して弧を描く柵は、重厚な彫刻で飾られた、荒々しい、しかし気品をたたえた石づくり、であるという。聖なるリゾート。とパンフレットに、そう示されていたホテル、そこにその夜、私はいた。ホテル、なんてもんじゃない、と私は直感した。リゾートの定義からも外れている、と私は思った。営業妨害なんてするつもりはなくて、むしろいくらかは好意的に、感じたままを述べてもよろしいでしょうか。
【私のいる場所は、墓地に似ていた】
色濃く死が満ちていた。こんなこと、どこのガイドブックにも書かれてはいないだろう。でも本当なのだ。そこは、幽明の交わる場所だ、と私ははっきりと感じた。そして、なのにその夜、幽玄深きウブドの森に抱かれて、深夜に私はひとりぼっちなのだった。私は小さくひとつ頷いて、覚悟を決めた。闇が向こうからやってきたとき、近寄るな、と敵対して防戦するやり方もあるけれど、それとは逆のやり方もある。私も闇だよ、と闇の仲間に入ってしまう、というやり方だ。そうすれば、私は闇に同化して、闇は私を傷つけない。私は闇に私を開いた。闇を受け入れ闇に抱かれて闇を宿した。するともう闇は怖くなかった。私は自分が蛙様になったように感じた。いいかもね、と私の中で誰かが笑った。岡野カエルにちがいない、と私は思った。
夜は涼しいけれど、日中はとても暑いよ、と初老のポーターは、玄関先で告げた。明るいところで改めて見ると彼は、威風堂々とした民族衣装に身を包み、隆としていた。おじいちゃん、と心の中で軽く呼んでいたことを私は恥じた。
ポーター氏は、荷物を置くと、天井の扇風機のスイッチを教え、蚊取り線香の在処を教え、ミネラルウォーターが五本もあることを私に示した。
灼熱の日中を思った。闇を孕んだ私には、やや気が重かった。明日は一日中プールにいよう、と私は思った。そして陽が傾いたころ、屋外のスパでマッサージを受けることにしよう。
と、そのとき、何か、ただならぬ声がした。それは聞いたことのない声だった。とてつもない大ボリュームで、それは室内に響いた。ヴィラの中に何かいる。と、私は思った。途端にそれはまた鳴いた。
ふぁっほう!
と、それは鳴いた。
神様の声のようにそれは響いた。人智を超えた言葉。不思議な威厳をまとった響き。
私はポーター氏を見た。ポーター氏は言った。「ゲッコー」と一言だけ言った。
ゲッコー?
と、私は思った。嘘だ。ゲッコーっていったらヤモリみたいなやつじゃないか。あれ、それともイモリだっけか、よくわかんないけど、まあいいや。太郎くんがゲッコーみたいにひっつきあう、とか形容してたけど、ひっつくってくらいだから吸盤とかあって、蚊とか蝿とか食べてくれちゃったりする、かわいい小さなカエルの仲間なんじゃないの、カエルの仲間ならカオリの仲間じゃん、ちっちゃな仲間があんな大きな声で鳴くわけないよ。とかなんとか、タロちゃんを思い出したらまた、などと、内的に密かにとっちらかっていると、またそれは鳴いた。
ふぁっほう!
私はカオリの瞳でポーターを見る。
ポーター氏は、ノー、アフレイド、と優しく言うと、ゼスチュア付きで、アウトサイド、と続けた。
外?
とカオリは驚いた。声の主は外にいるの?
こんな大声で、と思った途端にまた鳴いた。
ふぁっほう!
ゲッコーか、なるほどゲッコーか、この、ふぁっほう! とかいう鳴き声が現地の皆様にはゲッコー! と聞こえたからゲッコーなんだな。結構じゃないの。コケコッコーだろうがクックドゥードゥルドゥーだろうが鶏は鶏なんだし、 とかカオリは思った。
ふぁっほう!
にしてもこの声、と混乱した頭で続けて思った。絶対〈中にいる〉と、カオリは天井を見上げた。藁葺き屋根、みたいな高い三角屋根。その中に潜んでいるのでは。
ノー、とポーター氏は笑って否定した。ゲッコー、アウトサイド、ニア・ザ・リバー。
リバー?
イエス、リバー。
アユン・リバー?
オー・イエース、アユン・リバー。
なんて対話を経て私は思った。アユン渓谷は、ずっと下ではないか。ここから遥かに隔たっているといってよい。そんなに遠くにいながら、これほどまでにその存在を主張できるゲッコーとは、いったい何者だ?
大きい? と、これはジェスチュアでカオリが尋ねる。
ポーター氏は嬉しそうに身振りで応える。私はそれを読む。〈大きい〉〈獰猛〉〈噛みつく〉と、それは読めた。怯えるカオリの様子を見て、ポーター氏は笑って付け加えた。私はまた彼の身振りを読む。〈でも外にいる〉〈遠く離れている〉と、読めた。そして、と彼は、今度は英語で続けた。ゲッコー・ラッキー。彼は親指を立てた。
部屋に着くやゲッコーが鳴く、これは幸運の徴なのだそうだ。ガイドブックを読んで、それを私はあとから知った。
ふぁっほう、と闇の奥で、ゲッコーはまた力強く鳴いた。ふぁっほう。彼は続けて鳴いた。すると信じられないほど愛らしいことが起きた。文字で表現するのは難しい、がやってみよう。ゲッコーは、続けて鳴いた。が、しかしその鳴き声はどんどん、なんというか、くたびれてくるというか、眠そうになってくるのだった。
ふぁっほう! と第一声はきわめて元気なのだが、その大声を維持するにはお腹がすきすぎているのか、あるいはもう眠いのか、ふぁっほう、ふぁ・・ほぉ、ふぁ・・・ふぉ・・う、ふ・ぁ・ぉぅ、みたいに声は小さく、消え入るような調子になって、最後にはついに、なんとなくムニャムニャみたいな響きに収束してしまうのであった。それはまるで、遊び疲れた子供がご飯を食べながら、不覚にも寝入ってしまった、というような、そんな可愛さだった。
カオリは喜び、それを見て、ポーター氏も喜んだ。ゲッコーがラッキーを呼ぶそのカラクリが私にはわかったような気がした。
何か食べるか? とポーターは尋ねた。
深夜なのに何か頼めるのか? と、私は確認した。
ポーターは鷹揚に頷き、テーブルの上のメニューを開いてよこした。
ビンタンを、と私は頼んだ。冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターだけだった。なのでビンタンビールを念の為に、一ダース頼んだ。十二本を指で示し、冷蔵庫にストックして欲しい旨を伝えると、ポーターは驚いたような顔をして笑った。どーせ私は酔っぱらいですよ、とカオリは思った。ふぁっほう、とゲッコーが同意した。サテを二本と、さらに深夜に褒められたことではないが、ゲッコーと同じくらいにお腹がすいていたので、ミーゴレンをひとつ私は頼んだ。ポーター氏はなぜだか嬉しそうに頷きながら注文を控えた。
以降の注文や、および質問はダイヤルで、と彼は電話器を指差し、何か今、質問はあるか、と尋ねた。あなたの名前は? と私は尋ねた。彼は胸のバッジを指差した。私は頷いた。チップにキッスを添えて彼を見送った。彼は柄にもなく頬を染めて、照れながら踵を返した。よい国なのかもしれない、と私は思った。日本の過去を私は思った。インドネシアの今は、日本の昔に重なっているように直感された。
ふぁっほう、とまた闇の奥から声がした。
ふぁっほう、と私も、小さく応えた。
風呂は屋外だった。石風呂に湯を張った。風呂場には石の猿が、三体もいた。それは見ようによってはエロティックに見えた。でも、一人旅の私にとっては、それは単なる猿だった。猿に見られたってどうってことはない。私は潔く全裸になった。でもそうしたら、視線を感じてしまった。それは三体の猿の視線かもしれないし、ヴィラの〈外〉、闇に潜む魑魅魍魎からの、または森の神様からの視線なのかもしれない、と私は思った。神様の視線がいやらしいわけはないので、視線の出どころは蛙様だということにして私は入浴を楽しむことにした。一人旅は神経質になってしまっていけない、と私は思った。ふぁっほう、と彼が鳴いた。彼は味方だ、と私は思った。明日は予定を変えて、ウブドパレスまで出て、ゲッコーさんの置物でも探してみようか。
ベルが鳴っていた。私はバスローブを羽織って室内に戻り、受話器を上げる。
食事が運ばれている、という。すでに106ヴィラの前に私の応対を待つ人がいる、と言っているのがわかったので、私は慌ててサンダルを履き、内戸のつっかえ棒を外して、庭に面したタタキに出る。途端に月明かりに気がついた。そうか、と天空を見上げながら私は思う。篝火もない夜道を、ともかくも歩けたのは、月明かりのお陰であったか。月をとりまく星々は、なんとも懐かしく、素朴に瞬いていた。
月光を浴びて、中庭の小径を行き、門の鍵を開け、重い扉を体ごと押すと、外には意外なことに少年のような男の子が立っていた。日本でいえば小学五年生くらいの年齢であるように私には思えた。
てっきりあの初老のポーターが来ると、なぜかそう思いこんでいたものだから、私は少し慌てて、襟を合わせたりした。少年はそれを見て、私よりはるかに慌てていた。一流のホテルとは思えないような隙があるな、と私は感じた。あとから思えば到着したこの夜に限っての、深夜でありかつ、たまたまの閑散期であったればこそのイレギュラーだったのであろうが、そのような、マニュアルに縛られていない、気持ち一発で繋がるようなホスピタリティは、アジアらしい懐かしさを感じさせてくれて、私には好ましかった。殊に私は今回、私になるためにここに来たのだった。少年は、私に近い匂いをしていた。その匂いを招き入れる。冷蔵庫にビールをしまい、テーブルにミーゴレンとサテを置くと、少年は帰ろうとした。少年は白いシャツを着て、黒いパンツを履いていた。その装いは日本の学生服のようにも見えた。
私は、タタキに設えられた屋外テーブルを指差して、外で食べても虫に刺されたりはしないか、身振りをまじえて彼に尋ねた。
少年は白い歯を見せて笑い、ノープロブレム、グッドアイディアと嬉しそうに言い、月を仰いだ。蚊取線香をセットし、料理をおもてに運んでくれた。
私は親戚のおばさんになったような気持ちで、チップを差し出した。彼は、お年玉をもらった子供のように照れながら、それを受け取った。
私はくしゃみをした。すると彼はゼスチュアで、何か着たほうがいいと私にすすめた。そのとおりだった。南国といえども夜は涼しい。湯冷めをしてはいけない。私は素直に頷いた。少年は胸の前で手を合わせて、ペコリと頭を下げると、中庭の小径を帰っていった。
まずは立ったまま、ビンタンビールを賞味した。さっぱりとした味だった。でも軽すぎることはなく、仄かに甘かった。サテを少しかじるうちに、あっという間に一本を飲んでしまった。
私はそしてちゃんとテーブルに着いて、懐かしい蚊取線香の匂いに目を細めながら、ミーゴレンを食べた。そして二本目のビンタンを飲んだ。
瓶を傾けるために天井を仰ぐと、突き出した屋根の内側、これも藁葺きのようだった。なぜかその藁葺きを照らすような角度に設置された天井の照明、その近くに黒く、動くものがあった。じっと見つめると、酔った目にもそれがわかった。その正体はヤモリだった。タロちゃんがゲッコーだと勘違いしてたのはきっとこれだよ、とカオリは思った。怖くはなかった。カオリはもともとヤモリが好きだった。トカゲも好きで、小学生時代にカンペンケースに入れて登校したこともあるくらいだが、トカゲよりもいっそうヤモリが好きだった。コミカルなぶんだけよりかわいい、とカオリには思えた。四つ足の動かし方が、やっぱり赤ちゃんのハイハイのようだと、顎をあげたまま、私は思った。
と、もう一匹現れた。照明の熱を求めて集まるのだろうか。ヤモリは、光が丸く切り取った、その場所を好んでいるようだ。藁葺きの中には何匹くらいのヤモリが隠れているのだろうか。と考えて私は気がついた。これはおそらく日本でいうところの、と私は思った。ゴキブリホイホイだよ! とカオリが続けて思った。室内の屋根にも潜んでいるであろうヤモリを照明は、夜間のうちだけ、屋外に誘導しているのであった。寝てるあいだに天井から、ウンコとか落ちてきたらやだもんね、とカオリも納得した。そうか、さっき見たけど、ベッドにレースの屋根がついてたのは、あれはウンコ除けでもあるんだね、とカオリはまた思った。ともあれ、と私はバリの世界観について考えた。日本がゴキブリを駆除するようには、バリはヤモリを扱わないのである。それはヤモリが蚊や蝿を食べてくれるからかもしれない、だから殺さずに共存する。でもバリのすごいところは、と私は思う。照明で誘導したヤモリを、その愛らしい姿を、ゲストに見せることまで考えていることだ。ヤモリはおそらく仲間なのだ。だってかわいいし、とカオリは思った。ウンコくらいなんでもないね。
二匹のヤモリを見上げて、目を細めた。二匹はカップルであるように見えた。ヤモリを眺めながら私は、三本目のビンタンを飲んだ。
【鍵の3】
酔いが回って緊張が解けたのか、なんだかやっと落ち着いた気がした。中庭を門まで歩き、門の南京錠をロックしてから振り返り、私は改めてゆっくりと、深夜のヴィラを観察した。門から入場して、緑の庭を渡る石の小径を歩むとゲストは、八畳ほどのスペースにぶつかる。小あがりになった、いわゆるタタキだ。半分は〈内〉で、半分は〈外〉である空間。このスペースは、大変好ましかった。天井のヤモリを見上げて私は嬉しく思った。石造りのタタキには、大きなテーブルがひとつ、昼寝用であろうベッドがひとつ、置かれている。
そしてその向こうに、レリーフ彫りも美しい木製の、なぜだか異様に狭い扉があって、そこが室内への、唯一の入り口なのであった。〈外〉からの侵入を明らかに拒むような扉である。インド洋やポリネシアの海洋リゾートに比べて、ウブドのヴィラは極端に〈閉鎖的〉であるといえた。海への開放、森からの閉塞、と私は思った。やはり森は、なぜだか海より、ただならない。魚ではなく、獣の住処。それは自然の脅威、ではなくて、と直感する。もっと人智を超えた、しかし同時に濃厚な肉の香のする、グロテスクにもエロティックにも似た何かなのであった。そして同時にセイクリッドな、と思う。神聖なる野蛮。そんな観念が頭をよぎる。ゲッコーの夜は、そんな闇である。理性を寄せ付けないような闇。
朝が近いのか。闇の奥から突如、ガムランの響きが生じた。民族楽器の音は、あるいは私の幻か。不思議な調べだった。私は読経の響きを連想した。そして混沌。黙示録的な混沌。何かが無防備に、というより歓喜すらまとって、狂ってゆくような。
ガムランの響きを体に纏い、狭い扉をくぐって〈中〉に入る。
床は大理石。広大な天井は藁葺き。大理石の冷たさを素足に感じながら歩く。部屋の、入り口から入って左半分が、ベッドルームだ。中央に天蓋つきのベッドが据えられている。そのさらに左に屋外風呂がある。ベッドの右に歩くと、一段低くなって、やはり大理石のスペースが広がる。こちらは居間のような役割を果たすのだろう。フルーツを載せたローテーブルがひとつと、ラタンの骨組みに白いマットを乗せたナチュラルなソファがワンセット、中庭に面して配置されていた。中庭ごしの闇の向こう、はるか下方に、アユン河は流れているのだろう。
入り口と並びの壁際に、冷蔵庫、チェスト、鏡台、書き物机、などがある。どれもみな古風なデザインで、流麗な彫刻がほどこされている。
そしてあちこちに大小様々な、石の蛙がいた。
清潔さを追求しているようには見えなかった。新しさなんて微塵もなかった。どれもこれも苔むしていて、風雨にまみれているような、そんな錯覚を抱かせる格式と、そして老朽があった。古く、ある意味消え損なってしまったものたち。超えてはいけない時間を超えて、残されてしまったような空間。こんな言葉を、安易に使ってしまうのはどうかと思うが、霊的、そう多分に、濃厚に、のっぴきならなく霊的なものを私は感じた。
ガムランは、頭の中で演奏されているかのようだった。ビンタンビール三本で、こんなにも酔ってしまうものだろうか。蚊取線香の香とガムランの響きが、まるで魔法のように漂っていた。
ふぁっほう!
と、私は叫んでみた。
誰も応えない。ガムランの響きが高くなる。そしてまた低くなる。
私は声を限りにもう一度叫んだ、闇に、月に、ヤモリのカップルに、白シャツの少年に、初老のポーターに、森の魑魅魍魎たちに、神様に、森そのものに、それから〈外〉にいる者に、私自身に、私は叫んだ。ふぁっほう!
ガムランが鳴っている。
鳴り続けている。
ふぁっ、ほう。
ここはどこだろう、と思った。半身を起こした。あたりを見回す。ここは私のヴィラだ、と私は思った。耳を澄ませるが、もうガムランの響きは聞こえなかった。私はベッドを降りた。蛙の声。虫の声。夜はまだ明けていない。
どのくらい眠っていたのだろう。あたりに時計は見当たらない。肩越しに振り返っても、ここは〈内〉なのだ、月は見えない、星も見えない、時間も私も、定位することは難しかった。頼りない気分を感じながら、なので私は、私のヴィラを眺めた。
居間のソファに誰かが座っていた。
不思議と怖くはなかった。
薄闇の中、私はそっと近づいた。人影はソファに溶けるようにして、私を待っていた。
どこかが痛かった。ツキンと痛んだ。切なさに似ていた。
少女だった。
ショートボブにカットした前髪の下、栗鼠の瞳が私を見ていた。
懐かしい瞳だった。この娘は誰だろう、と私は思った。
少女は立ち上がった。小学生のような背丈だった。シャツが白いのはわかったが、スカートの色は黒なのか紺なのか、暗くてはっきりしなかった。食事を運んでくれた少年に、雰囲気が似ているように思われた。
肩越しに振り返ると、あの狭い入り口は開かれていた。戸締まりもせずに酔いつぶれてしまっていたのだろう、恥ずかしいなと私は思った。
少女は胸に何かを抱いていた。それはメニューか何かのように見えた。
私はもう一歩近づいた。
すると、少女は胸に抱いていたものを、私に差し出した。
条件反射のように歩み寄り、私はそれを受け取った。少女はチラリと瞳を上げて私を見た。切なそうな瞳だった。そしてまたうつむいてしまった。
ひどく細い肩、私はそれを抱いてやりたいと思った。次の瞬間、少女は一礼すると、私の横をすり抜けた。
手元に残されたのは、ノートが入りそうな大きさの、茶封筒だった。闇の中でデザインのように見えた紋様は、複雑にうねる、傷のような、皺だった。
振り返ると、入口からスルリと出て行く姿が見えた。
あの少女は、いったいなんだったのだろう?
と、私は思った。
普通に考えれば、彼女はホテルのスタッフで、酔いつぶれてしまった私が目覚めるのを、メッセージを携えて待ってくれていた、となるのかもしれない。異国のホスピタリティは、旅行者の常識を超えているもの、なのかもしれない。けれども、と私は、手にした鍵を見つめて思った。これはなんだろう? 皺くちゃの封筒の中にメッセージはなく、入っていたのは鍵ひとつ。これはなんの鍵なのだ?
フロントに電話をかけて、鍵の意味を聞いてみなくてはならない。でも、と私は思った。それは明日でも構わない。
夜明け前の静寂を、慌てて破ることはないのだ。
少女は何か勘違いをした、のかもしれなかった。試しに私は、鍵を、部屋の入口に挿してみようかと考えた。が、その考えはナンセンスであることが、戸口の前までくると、わかった。入口にあるのはカンヌキだけで、鍵なんてそもそもついていないのだった。門の錠前を私は思った。太さが違う。手の中の鍵は、はるかにそれより繊細だった。
考えるのを諦めて、冷蔵庫に向かった。水を飲もうと思ったのだ。そのとき、ふと何かが閃いた。冷蔵庫の隣に配置されている、書き物机、その引き出し。
それかもしれない。と、直感的にそう思った。
机の前に立つ。古びた机にはふたつ引き出しがついていて、その片方には、鍵穴があった。
なぜだかひどく緊張した。喉がカラカラに乾いた。
鍵を挿してみた。スッと、吸い込まれるように鍵は挿さった。回してみる。回る。回った。カチリと小さな音がした。拳銃の撃鉄の起きる様を、私は想像した。
引き出しを、引いた途端に大爆発! そんな妄想をねじふせるように、しかしそろそろと、実にゆっくり慎重に、私はそれを開いた。
中にあったのは何か。
中にあったのは、一冊のノートブックだった。オレンジ色のノート、入っていたのはそれだけだった。
ひどく喉が乾いていたので、私はノートを片手に、冷蔵庫を開けた。ミネラルウォーターのボトルを取り出そうとして手が止まった。パラリと開いたノートの中身が、ぎっしりとつまった〈日本語〉だったからである。
水をやめ、私はビンタンのボトルを二本掴んだ。ビンタンとノートを持って、月光の下に出る。テーブルにつき、まずはビンタンの瓶を仰る。すると、天井に二匹、ヤモリのいるのが見えた。
しばらくヤモリのカップルを眺めてから、月を見上げて、姿勢を正して、手元にしっかりビンタンを用意して、そして私はノートを開いた。
深い闇の奥からは、規則正しく、神様の声が響いていた。
ノートに書かれていたのは、次のような〈物語〉であった。
【ノートの1】
私は書こうと思う。これから起こることをここに記す。書き上がったらノートは机にしまおう。そして鍵をかけるのだ。鍵は預けてしまおう。しかるべき時がくるまで。それでいい。でも。でも、そのためには【書かなくてはならないのだ!】書き始めなくては何も始まらないし、何も終わらないのだから。
かわいらしい音をたててスクーターが、前方から走ってきて、後方へと走り去った。あとに残されたのは、高ぶった鼓動、のような音。目を閉じれば、一層際立つ赤い点滅。むかし脳波をとったとき、こんな点滅を見せられたような気がする、と太郎は思った。
サコと踊ったのは昨日だったか、一昨日だったか。高校時代最後の文化祭、教室をディスコにして踊った。手作りのミラーボール。サコの顔が一秒ごとに、貼り付けられたセロファンの色に染まった。赤いサコ。黄色いサコ。緑色のサコ。
目をあける。サコがいる。正面にいる。
学生服は夏のものだ。時は夏、と太郎は確認した。警告音に紛れて一瞬、蝉の声が聞こえたような気がする。
太郎と向かい合って、サコはいる。その距離、およそ十メートル。二人の視線は、互いから等しく五メートルのあたりで結ばれている、ように太郎には思えた。
サコは軽く眉を寄せている。口元はしかし僅かにゆるんでいる。太郎の距離からでも、小さな前歯が見える。サコは、両足をきちんと揃えて立ち、肩で呼吸をしている。両手を、甲を太郎に見せるようにして、胸のあたりで重ねている。左右の腕は等しく「くの字」だ。学生カバンを抱くときの角度。ノートや教科書を抱くときの角度。いつものように太郎は感じる。ガラス細工のような手だ、と感じる。内側に向かって描かれる「くの字」も、外側に向かって描かれる「くの字」も、大事に扱われなければポキリと折れてしまいそうに、いつだって繊細だった。
初めてサコに会ったのは、と太郎は、瞬間の夢を見るように振り返る。あれは三学年に上がったばかりの教室だった。太郎の学校では、選択科目に従って、歴史の授業のときだけ教室を移動しなくてはならなかった。世界史履修者は3Aで授業を受け、日本史履修者は3Bで授業を受けるのだった。世界史の授業を受けるために3Aに移動した太郎は、教壇からなるべく離れた最後尾、窓側の机に、自分のペンケースと教科書を置いた。学ランのポケットからさっき買ったばかりのカレーパンの包みを引っ張り出して、それから席に着いた。ミルクもコーヒーもないままに、太郎がその油っぽい紙包みに顔を埋めようとしたそのとき、机に影が落ちた。西から斜めに入る光を、背後に立った誰かの影が遮ったのだった。太郎はかじりつくのを中止して、半身だけ振り返った。そこにいたのがサコだった。太郎は不機嫌な表情を浮かべていたのかもしれない。影はぎこちなくカキコキと揺れたが、見ると実体はさらに顕著に動揺していた。眉を軽く寄せていた。小さな前歯を覗かせていた。視線を太郎にではなく、机の引き出しあたりに据えていた。あの、と小さな声が言った。なんだよ、と太郎は目で語った。その目をチラリと、茶色い瞳が上目遣いに見た。トカゲの舌みたいだ、と太郎は思った。と、すぐにまた視線は引き出しに戻るのであった。忘れものをしたのだろう、と太郎は理解した。彼女は3Aの生徒で、日頃この机を使っているのだろう。と、気がついたので太郎は、椅子ごと体をずらして、机の前をあけてやった。サコはリスのように近づいた。おどおどしていた。おどおど。これほどにサコを正確に表す形容を太郎は知らない。太郎の胸のあたりから腹のあたりまで、実に慎重な動きで伸びた手は、机の中を探った。顔は遠くに残したまま、手だけを伸ばしてする探索は、深夜の道に落としたコンタクトレンズを拾うほどに捗らない。なのに、実にゆっくりと手は動くのであった。試験管やビーカーを扱う時みたいに慎重に、なんとも繊細な几帳面さで、手は操られていた。カレーパンを掴んだ太郎の手と、実にそれは対照的であった。バン! とか、一言大声で叫んでやろうか、と太郎は思った。でも肩のあたりに漂う白い顔が、はあはあと真剣な呼吸を奏でていることに気がつき、それはできないと、プランをひっこめた。手はやっとのこと、ノートだか、プリントだかを探りあてたようだった。ごめんなさいと、まるで手そのものに呟かせながら、サコは離脱を開始した。そのとき、なぜだかわからないが太郎の口がふと言った。食べるか? カレーパン。と、そう言った。サコは、ピクリとしてから、静止した。カレーパンなんてかじるわけないよな、と当然のように承知していた太郎は、その静止に少しだけ混乱した。あれ、食うのかよ? と、つまりそんなふうな混乱。そのとき教師が入ってきた。まだチャイムのなる前だったが、世界史の教師はいつもきまって早めに登場するのだった。サコは、素早く太郎を見た。その瞳は大きく見開かれていた。世界の成り立ち、その全秘密が一瞬にしてわかっちゃった! と、喩えていうならそんな感じの表情。その表情に、太郎は永遠を見た。嘘ではなくて。ハッとしたその表情に、過去の太郎も未来の太郎も、現在の太郎も、揃ってみんながハッとした。みたいな、そんな一瞬だった。永遠によく似た瞬間だった。知っている、と太郎は思った。僕はこの娘をずっと知っていたと、そんなふうに思った。直後素敵に信じられないことが起こった。サコの手はカレーパンの包みを受け取った。そしてサコは身を起こすと、クルミを抱えて走り去るリスのように、小走りに教室を出て行った。さぞかし持て余したことだろう、と太郎は思う。ガラス細工のようなあの手が、カレーパンの包みをいったいどのように開いたのか、それを思うといつでも笑えた。サコはいつだって、透明に手足を操っていたのだから、そう、どんなときだって。そして今も。
今、と太郎は〈今〉に目覚める。回想に費やしたのは〈今〉のうちのほんのひとカケラに過ぎない。断続音がそれを告げている。
十メートルの距離を挟んで対峙しているサコの手は、そうだ、やはりガラス細工の繊細さで「くの字」にたたまれ、重ねられていた。そしてその下であの鳩の胸が、生真面目に上下している、その呼吸の様が見えるような気がした。
はじめて会ったときと違うのはふたつ、と太郎は思う。ひとつは、サコは今、背後ではなく正面にいる。そしてもうひとつ、サコの視線はしっかりと太郎の視線に結ばれていた。
「わからないだろう?」と太郎は言った。「そうさ、わかるわけがない」
私鉄の沿線の遊園地。私鉄のホームからは、太陽の三倍くらいの円環に見える観覧車の、小部屋のひとつに太郎はいた。向かいにはサコがいた。
「わかる」と、そこで言葉を区切って、うつむいたままサコは眉を寄せ、それから視線をあげると、切なそうに続けた。「と言ったら、嘘だと思う?」
静かな声だった。内緒の話をする言葉、みたいに響いた。誰も他には、聞いていない言葉。太郎とサコのためだけに響いた言葉。回転する小部屋の中を、それは満たした。
サコの眉は八の字だった。胸に組まれた手の角度に似ていた。それは祈りを感じさせた。
太郎の中で、中の遠くで、鈴が鳴った、微かに。と、そんなふうに太郎は感じた。
わかる、と太郎は思った。わかる、だってさ!
ほんとかな、と、でもまた別の時、太郎はやっぱり考えた。例えば夜九時の、公衆電話ボックスで。
「どこまでもゆこう」と太郎は受話器に告げた。
「うん」と受話器は応えた。そして息遣いが聞こえた。静寂の中に繰り返されるサコの呼吸の音。それを聞きながら、ほんとかな、と太郎は疑ったりするのであった。
「月は丸い球だ、なんて僕らは信じているけれど」と、そんなとき太郎は呪文を唱えた。「月の裏側を見た人なんていないんだ」
続く呼吸音。
「ねえ」と、心細くなって太郎。「キミはいるの? ほんとにそこにいる?」
呼吸が二三回繰り返されてから「うん」と受話器が囁く。「いるよ、ここにいる」
「ここってどこさ?」
呼吸でしばらく沈黙を語ってから「そばに」と受話器は応えた。「タロちゃんのそばに」
「そばに?」
「うん」と返事が響いた。「ずっと」
「ずっと?」
「うん」と声は小さいままながら少しだけ強く響いた。「ずっとそばに」
そして太郎安心するのだった。
そんなとき太郎は、肩越しに振り返って天を睨んだ。そこにいる誰かの視線を感じた。
そうか、と思った。キミ、ずっとここにいたんだね、ボクはキミです。
確かにサコは太郎に似ていた。太郎にはそう思えたし、サコもそう感じているようだった。カレーパンの包みをやぶく手は、男の繊細な神経に繋がっていたし、ガラス細工のような手は、カレーパンの素朴さで笑う女の心に繋がっていた。
向かい合っているようでもあったし、同時に重なっているようでもあった。
不思議な偶然もあった。二人の誕生日はひとつだということがわかった。同じ日に生まれたのだった。同学年なのだから当然同じ年の同じ日の、同じ空の下にふたりは生まれたのであった。
三百六十五×三百六十五分の一、という計算になるのか、単純に三百六十五分の一という確率でよいのか、数学の苦手な太郎にはよくわからなかったが、ともかくなかなかの偶然であるな、と太郎は思った。
だが、その確率計算は間違っていた。ふたりが出逢った確率は、さらに天文学的な数を分母に乗じて算出されるべきである、ということがやがてわかった。
ふたりは同じ病院で生まれていたのだった。都南第一産婦人科。
太郎が生まれたのは東京の外れだった。しかし太郎はその後、父親の仕事の都合で日本各地を転々としたのであった。小学校の校歌を五つ、中学校の校歌を三つ、太郎は歌えた。小学五年生になってすぐに引っ越してから、太郎は故郷をただの一度も訪ねていなかった。だから高校生の太郎にとって、生まれ故郷は、現在とは断絶された、御伽噺のような空間に思えた。記憶の上書きの一切ない、生まれてから十年の貪欲な瞳が見つめていたそのままに凍結されて、以来開かずの世界、それが太郎の故郷だった。
その故郷のある地点で、ある日、太郎は生じたのだった。そしてその日、そこにはいたのである、サコが、やはり生まれたばかりの形で。
サコと太郎の通う高校は、ふたりが生まれた街から遠く離れていた。だから、サコもまた、少なくとも一度の転居を経て、そこにいるのだ、ということが太郎にはわかった。
大変な偶然だ、とサコを見ながら太郎は思うのであった。僕らは双子だったりして、なんて想像して太郎は笑った。サコの顔を、鏡に映したように太郎は見る。サコはすぐに下を向いてしまう。だから至近距離からマジマジと観察できたわけではないけれど、やはり違うな、と太郎は思った。顔は全然似ていなかった。太郎は黒くてサコは白かった。太郎の目は小さくてサコの目は大きかった。太郎の眉はつり上がり、サコの眉はたいてい八の字を描いていた。でもふと太郎は気がついた、似ているな、と思った。思いが口に出た。「サコの顔、誰かに似てると思ったら」と太郎は言った。サコの瞳がチラリと太郎を見上げた。「おばあちゃんに似てら」と太郎は告げた。サコが八の字よりも、もう少しだけ複雑に眉をうねらせてから下を向いたので、太郎は失礼なことを言ってしまったのだと気がついた。
J組の男子生徒が足に肉腫を患い、学校は献血を呼び掛けていた。太郎は、求められている血液型だったので、病院を訪ねた。するとそこにサコがいた。ふたりが同じ血液型であることがわかった。やっぱり双子みたいだ、とその日ふたりは太陽みたいに笑った。なのに。J組の男子生徒は死んでしまった。自分のせいだ、とそのようにふたりには思えた。サコがそれを口に出して語ったわけではないが、太郎にはサコの考えていることや、感じていることがわかった。ふたりは空を見上げて太陽の角度を知り、そろそろ三時だね、そうだね、なんて言い合いながら、その日の曲がり角を曲がるのであった。
【ノートの2】
ふたりは故郷を訪ねた。
電車を降りて、地図を見て、バスの運転手に片っ端から声を掛け、目的地へ向かうバスを見つけた。よく晴れた日曜日のことだった。ふたりとも紺色のジャージの上下を着ていた。胸には白く校章のプリントがあった。自宅には部活に行くと告げていたのだ。
聞くところによれば、サコもまた、小学五年生の一学期に、父親の転勤にともなって故郷を後にしていたのであった。太郎もサコも等しく十年分の記憶をその街に抱えていた。とすれば、と思い、太郎は小学校を目指した。
予想どおりだった。サコは小学校への道の半ばで、はやくも懐かしそうに、いつになくはしゃいだ声をあげた。「この道こんなに狭かったんだ!」
サコの瞳が追いかけるもの、立ち止まるもの、そのすべてが太郎にとって懐かしく意味を伴って認知された。
例えば竹藪。十二年前にあった竹が、目の前にある竹と同じ個体であるかどうかはわからなかったが、竹は竹林として、個ではなく群として、別れたときの「まんま」であった。地面から天に向かうその角度も、木漏れ日のできかたも、風と奏でるハーモニーも、土の香を含んで漂う匂いも、みな微細に懐かしかった。再会。という言葉のもとに並べることができた。
足の下には、側溝を塞ぐコンクリートのフタ。でこぼこと傾いたその長方形のフタの上を、両手を少し開いてバランスしながら太郎は歩いた。幼い頃と同じように。フタは、ふいにぐらつく。知ってる、と太郎は思う。そのぐらつき方は足の裏が膝が、確かにくっきりと記憶していた。
目をあげると丘の稜線。丘に立ち並ぶお菓子のような家々には記憶がなかったけれど、丘そのものは、たびたび夢に現れたあの線そのものを保ってそこにあった。丘の上に青空。そこをゆっくりと移動してゆく雲。
ふたりが歩く狭い道を、米屋のトラックがやって来て、そして去って行った。ボディに描かれた※マークが懐かしかった。
「平和だね」とサコは言った。そうだね、と太郎が応えた。
民家の庭にサコの視線は吸い寄せられる。太郎の視線も後を追う。
「おでんみたいだ、って思ったの」とサコは言った。
「そうだ」と太郎が当たり前のように言葉を重ねた。「僕もだよ、おでんを連想してた、きっと幼稚園くらいの頃から」
ふたりの視線の接点には、個人の庭に立つにはいささか大きすぎる石灯籠があった。小さな丸の下に大きな三角屋根、その下にわりと大きな丸、丸の真ん中は円く、くり貫かれている。その下をどっしりと支えるのが四角、そして苔むしたような大地。
「こんなのがあるだなんてすっかり忘れてたけど」と太郎が言った。「でも見るとこんなのがあったってすっかり思い出すね」とサコが続けた。
道に沿って連なる小さな林から道に向かって、こぼれるようにシダの葉。その一枚一枚に記憶がある、ように思えた。シダの奥には、傘にするためにちぎったことのある、濃い緑色をした大きな葉っぱ、これはなんという植物だろうか、と太郎は思った。名前は知らなくとも、その植物はよく知っていた。茎からどうやってその葉をちぎるのか、太郎の指は明確に記憶していた。植物相、それはこの小さな街の顔そのものだった。街の顔は別れた日のまま、変わっていなかった。実にそのままだった。
ふたりは、角を曲がった。廃屋のある角。廃屋、と太郎は思った。変わってなかった。十二年の月日を越えて、廃屋は廃屋のままだった。初対面である新しいアパートや瀟洒な一戸建ての中にあって、かつてあり、かつてすでに廃れていたその廃屋は、廃れたままにそのままでそこにあった。錆びたトタン、割れた窓ガラス、枯れ果てた庭、砕けた植木鉢、朽ちた物干し台、そこに覆い被さるような竹林。死んだものはそれ以上もう死ぬことはないのだ、と太郎は漠然とそんなことを感じた。
角を曲がると階段だった。小学校へと続く階段。頭の中にあった階段に比べてはるかに小さな階段だった。それを一歩一歩、四つの足はのぼった、何かを確かめるように。
ふたりの母校が現れた。記憶の十二分の一ほどに見えるグラウンドの向こうに、三階建ての校舎が左右に長く広がっていた。校舎の屋上にはスピーカー。あそこからチャイムの音や、放送委員会による放送が響いていたのだ、かつて。小さな鉄棒やその他の遊具を優しく視線でなでながら、ふたりは校舎を目指した。
「何組?」とサコが聞いた。太郎は考えた。忘れてしまっていた。
「覚えてないな」と太郎は応えた。「アルバムとか見ればわかるんだろうけれど、アルバムはない」
「ないの?」
「ない」と、校舎を睨みながら太郎は応えた。「何度も引っ越しするうちになくなってしまった」
「あたしのも、ない」とサコ。
「なくした?」
「燃えちゃったんだ」と言ってサコは八の字眉を作った。「おばあちゃんちに住んでたんだけど火事になって」と下を向いてサコは語った。「みんな燃えちゃった。で、私たちは引っ越したんだ」
校舎の玄関前には朝礼台があった。これは記憶のそれより大きかった。たぶん遠くからしか見てなかったものだからだ、と太郎は思った。畳二畳分ほどの大きさで、表面は荒々しいメッシュだった。
その脇には水道があった。水道の飲み口は回転した。太郎は飲み口をU字に引き上げ、蛇口をひねった。冷たい水を飲んだ。
「そこはファンタオレンジ」とサコが言った。
太郎は思い出した。「そうだ、ここはオレンジ」と太郎は蛇口を指した。「こっちが確かグレープで、それで一番奥のがコーラだった」
小学生は蛇口ごとに架空の味を決めていたのだった。
ふたりはかつて確かにここにいて、故郷の水を分け合っていたのだ。
校舎には鍵がかかっていたので、おそろしく小さく見える下駄箱をガラス越しに眺めてから踵を返した。
と、そのとき背後から声が掛かった。振り返ると、用務員のおじさんらしき人が、少し険しい顔をして立っていた。おじさんは、ふたりのジャージの校章を見て、それから太郎の顔を見た。「あんたたち、なんの用?」と尋ねた。
太郎は、少しムッとした。いきなりそんな尋ね方をしなくても、と思った。のどかな日曜日、ジャージ姿の不審者が白昼堂々と小学校を訪れるわけはないじゃないか。
「緑?の丘に集いて?」とサコが突然歌い出した。校歌だった。太郎も校歌を覚えていた。「世界に輝く日本国を?」と一緒に続けた。ふたりは笑った。するとおじさんも笑顔になった。「卒業生かい?」
「はい」と太郎は応えた。
「何年前の人?」
「十二年前、小学五年生でした」
「そうかい」とおじさんは頷いた。「じゃ、おじさんより先輩だ。こっちはここに来てまだ八年だから」
「そうですか」と太郎は笑った。「勝手に入ってすみませんでした、もう帰りますから」
「お茶でもどうだい、って言いたいとこなんだけど」とおじさんは頭をかいた。「色々規則がうるさくてね」
「でしょうね」
「輝く日本国を」と、おじさんは校歌をなぞって言った。「作ってくれよな、おじさんの安定した老後のためにも」
太郎とサコは笑って、頭を下げた。
校舎を後にグラウンドを横切りながら太郎は言った。「世界に輝く日本国を力を合わせて作りましょう、だなんて、今から思えば大層な校歌だよね」
「うん」とサコが笑った。
「日本という島国が政治的に統一されて、かつ地球という惑星がいまだに政治的に切り分けられてる、そんな時代にしか当てはまらない校歌だ」
サコがまた頷いた。
「永遠性に欠ける歌詞だな」と太郎が続けると、サコが応えた。「意識に応じた世界観」
「なんだって?」サコの口から出たはじめてのトーンに太郎は少なからず驚いた。
「なんとなく」と小さな声でサコは呟いた。「でも、よくわからない」
太郎は肩越しに空を見上げた。そして「わかるよ」と空に向かって呟いた。「と言ったら嘘だと思う?」と、続けてサコを見た。
ふたりは笑った。
階段を下りようとするとき、右手に石造りのオブジェがあることに気がついた。近寄ってみるとそれは日時計だった。
「なつかしい」とサコは言い、それを撫でた。
三角定規を立てたようなその日時計に、太郎も深い記憶があった。なつかしい、と太郎も言いながら、三角定規の辺を指で辿った。
「今、三時です」とサコが日時計を読んだ。
「では、おやつにしましょう」と太郎は笑った。
その日ふたりは、ふたりの原点に重なって笑っていた。
【ノートの3】
ここはどこだ?
と、太郎は思った。そこは踏切だった。断続音に刺し貫かれながら太郎はいた。向こう側にサコがいた。サコの顔が断続的に赤く染まっていた。文化祭の教室で踊ったときのように。
文化祭、と太郎は思う。回想は瞬間のうちにある。祭のあとの校庭は、今ここにある、と太郎は感じている。故郷にいた瞬間と同じように。
グラウンドで、等身大の藁人形を焼いた。藁人形は、3Aと3Bの共通の出し物である縁日喫茶の、ブラックな目玉だった。嫌いな先生の写真を貼って、丸めた新聞紙でポカポカやろう、というのは、祭の熱に浮かれた冗談だった。多くの反対をさらに多くの寛容がねじふせてしまったのも、最終学年の夏ならではの狂気、だったのかもしれない。校庭の隅に穴を掘って、人形を焼いていた。クラスメートの顔が、炎に赤く染まっていた。太郎の隣にサコがいた。四つの瞳は二体の人形を見ていた。人形のうちのひとつにはリボンがついていた。人形は、男女の一対だったのだ。それを重ねて焼いた。
「何周くらいしたのかな」
夕日の差し込む自分の部屋で太郎は言った。
サコは黙っていた。でも、その唇は淡く笑っていた。それは周回の認識を肯定していた。
磨り硝子を染める夕日の赤を睨みながら太郎はまた言った。「僕らはほんとはいくつなのかな?」
サコは顔をあげて太郎を見た。そして内緒話のような声で尋ねた。「疲れた?」
「どうかな」と瞳は、サコを見つめた。とても近くから、同時にとても遠くから。「でも、もう、そろそろかな、とか、そう思うんだ」
サコが頷いた。
「やっと会えたし、ずっと一緒にいたのに、なかなか会えなかったキミに、やっと会えたし」と太郎は言った。
するとサコは、ひどく、そうひどく懐かしそうな顔をして太郎を見つめた。
「円環の外へ」と呟いて太郎は、いつかの観覧車を思った。
サコも同じ景色を見ている、と太郎には確信できた。
「ここらが焦点だよ」と太郎は言った。「今、僕らは重なっている」
「もうすれ違いたくない」とサコが重ねた。
観覧車はその巨体を、音もなく回していた。
ふたりは小部屋を出ることにした。
「でも」と聞こえないほどの小さな声で誰かが呟いた。「カンパネルラは川におっこちて死んだんだよ」
赤く包まれた一対の人形を見ながら、太郎もサコも、同じものを見ていた。それは幸福なことであっただろうか。いや、幸福なことであるはずがなかった。世界に輝く日本国を力を合わせて作る使命、それを捨て、親を捨て、仲間を捨てて、自らを捨てること、そして円環の外へと旅立つこと、繰り返しをやめること、次に向かうこと、それには、幸も不幸もなかった。ただ、それはひとつの点だった。接点だった。ひとつの終点だった。そしておそらくは始点、であるはずだった。それをサコは知っていたし、太郎も知っている、ように思えた。ここを逃してしまえば、また回る、巨大なルーレットが回る、いつかはまた、この点が訪れるだろうが、それは千年後? あるいは一億年後? いつかは、は、ここだし、ここは今なのだった。
四つの瞳に見守られて、太郎とサコは赤く染まっていった。
太郎はサコに手紙を書いた。
【僕らはもう分かってしまっている。
出航は来月最初の日曜日、午後三時。
いつかの喫茶店から見下ろした踏切から。
僕は北から、キミは南から。
気が、もしも変わったら、来なくて構わない、ひとりではゆけない、もう一周してまた話し合おう。
晴れるといいね。】
そしてふたりは。
そしてふたりはここにいる。踏切の警告音の中に。ふたりは断続的に赤く染まる。
遮断機が降りてくる。サコの前にも。
そのとき太郎の左脇を、一台のバイクがすり抜けていった。中型のバイクは二人乗りだった。運転している男の顔が見えた。男はニカニカ笑っていた。すり抜けてゆく瞬間に、男は僅かに首を右にひねるようにして、笑ったまま太郎を見た。太郎も男の瞳を見た。瞳は何かを語っていた。その男と、後に知り合い、酒を酌み交わすことになるのを、この時点において太郎は知らない。男の瞳は何を見たのか。一瞬ののち男は過ぎ去った。遮断機の降りきるその前に、バイクは踏切を後に走り去った。
サコは遮断機をくぐるようにして踏み出した。それを太郎は見た。右手で、降りてくる遮断機を停止するように軽くおさえて、そして太郎も踏切に入った。
ふたりは歩いた。一歩踏み出すたびに二歩距離が縮まった。
ふたりは踏切の中央にいた。いつかの喫茶店から見下ろせば、ふたりは点に見えたはずだ。
ふたりは、しっかりと抱き合った。サコの呼吸を太郎は胸に感じた。もう音は聞こえなかった。目もほとんど見えなかった。でも最後の力をふりしぼるようにして太郎は見た。踏切の向こう側に女が立っていた。女はひどくするどい眼差しで踏切の中の点を凝視していた。この女を、それとは知らずに将来太郎は抱くことになるのだが、このときの太郎は勿論、未来の太郎もそれを知らない。
太郎はサコを貫いていた。夕日の差し込む部屋で抱き合ったときのように。貫きながら貫かれていた。虫ピンに重ねて止められた一対の蝶になったような気がした。
太郎とサコは点だった。その日の太郎が最後に見たものは、サコの唇だった。唇は唱えた。「弥子(ひさこ)って呼んで」
「名前なんて、関係ないよ」とかすれたような声が応えた。
「うん」と弥子は言った。そして「でも呼んで」と続けた。「次に会うときは、あなた、違う名前で私を呼ぶから」
太郎は、最後の言葉を実は決めてからここに来ていた。〈カレーパン、うまかったか?〉と、決めていたのだった。でも、それは語られなかった。太郎がこの日最後に語った言葉、それは〈弥子〉だった。
ジ・エンド。そして太郎が最後に思ったのはその言葉だった。
「死に損ないの、汚名を背負って生きてきました」と、ブラウン管の中で誰かが語った。
病室だった。
季節はおそらくまだ夏だった。
次に太郎が太郎の意識で目覚めたのは、太郎が記憶する限り、その次の年の夏だった。
違う病院にいた。体を癒やすための病院ではなくて、心を癒やすための病院だった。からっぽになって太郎はいた。
終わり。のはずだった。なのに。
それが太郎の中にある思いのすべてだった。それは裏返せば、こうもいえた。始まる、はずだったのに。
向こう側にはもう弥子はいなかった。
何も終わらなかった。太郎の前には均質な時間が、それこそ無限の圧力で聳えていた。それはやわらかな壁に感じられた。好むと好まざるとに関わらず太郎の体は、ズブズブとそのやわらかな壁に呑みこまれていった。
その夏、太郎は病院から登校するようになった。知らないクラスメートの中に勿論弥子はいなかった。太郎の心は死んでいたが、頭は心と無関係に機能して、受験勉強を消化していった。一年遅れて卒業して、そして大学に合格した。
春、太郎は自分に目覚めた。それは激しく雪のふる春だった。
ある朝、目覚めると太郎はノートを開いた。そして、書き始めようとした。終わりの日を、客観視するために書こうとした。勿論書けなかった。ノートは白いままだった。陽が傾いて、いつかの角度から部屋を照らし出したころ、やっと太郎は書いた。【エピローグ】と書いた。本文を未来に預けたまま、太郎は終章を描こうと思った。終わらなければ始まらないのだから。
と、そこまで書いてから、私は、ふと思った。これを書いてる私は誰だ?
私はペンを置き、ノートを閉じると伸びをした。
予め決めていたとおりに、ノートを机の引き出しに放り込んで、鍵を掛けた。
すると、チャイムが鳴った。時計を見上げる。午後三時。彼は時間に正確だ。
鍵を手に立ち上がる。上着を抱えて玄関に向かう。
ドアを開けると、外は快晴。
「カオリ!」と階下から彼の声がした。私の家の玄関は二階にあるのだ。
彼の右手にパンフレットが握られているのが見えた。新婚旅行先に決めたバリ島のパンフレットに違いない。
私は上着を羽織り、ポケットに鍵を突っ込むと、春の階段を下りた、一歩ずつ、存在の重量を確かめるようにして。
了
鍵とノート