ある婦人の最期の買い物

はじめに

その人の名は知らない。

聞いたのかも知れないけれど、今は、思い出そうとしても思い出せない。

さわやかな笑顔の、若々しいご婦人だった。

小柄でらっしゃった。

小さくて、かわいくて、コロコロと良く笑って、とっても、楽しそうにされていた。


その人に初めてお会いしたのは、3月の半ばだった。

2日続けてお会いした。

そして、それが、一期一会のお別れとなった。


その人の代わりに、わたしは、ここに書かずにはいられない。

そっと、ここに、その人の最期の買い物を記しておくために筆を取ったわたしです。

もう、二度と、今生でお会いすることは叶いませんが、感謝を込めて、こころからご冥福をお祈り申し上げます。合掌

春子

春子は、秋の生まれだった。

「秋に生まれたのに、なぜ、春子っていう名前なの?」

と、よく、尋ねたものだった。

名付け親は、父方の祖父だった。

戦争中の暗い時代を耐えて、やっと、終戦をむかえたものの、生き残った人々が、栄養失調で亡くなっていく。

そんな時代を生きしのんで、耐えてきた。

息子が戻り、待望の孫が生まれたのは、そんな時代の秋だった。

もうすぐ、冬が近づいていた。

この子が、首が座って、離乳食を食べるようになるころには、きと、春がやってきているだろう。

この子が、我が家に「春」を運んできてくれた。

神様への感謝を込めて、はじめての孫に「春子」という名前をつけたのだった。

春子は、すくすくと成長していった。

やがて、結婚し、子供をもうけた。

春子の結婚は、早かった。

その時代にしてみると、ごく、普通だったが、まだ、17歳の春に嫁いだのだった。

田舎のことなので、それで、普通だったのだ。

嫁ぎ先でも、よく、働いて家族を助けた。

お姑さんや、小姑さんたちの中で、まめまめと、よく働いた。

昭和と平成を駆け抜けて、春子の人生は進んで行った。

そんな春子は、はじめて、ちょっと大きな病院で人間ドックに行くことになった。

孫の就職が決まって、孫の健康診断のついでに、おばあちゃんも、一緒に行こう。ということになって、誘われるままに、孫との小旅行のつもりで、病院の近くのお城を見物してみようと、履きなれた歩きやすい靴を履いて出かけてきたのだった。

青天の霹靂(せいてんのへきれき)

春子は耳を疑った。

医者は、春子に「余命3ヶ月です」と言っている。

なんだろう。

誰の話だろうか。

いままで、風邪をひいたことがあるくらいで、病気ひとつしたことはないのだ。

孫がとなりで泣きだした。

その泣き声で、ハッと、我に返った。

孫が泣いている。

この子は、小さい時から、泣き虫だった。

ちょっとしたことで、すぐに、泣くのだった。

春子は、孫が小さい時に、泣き出しそうになった孫を抱きあげて、ゆさゆさしながら、優しく歌ってやったことを思いだした。

もう一度、春子は、目の前の、まだ若い医者の顔をマジマジとよく見てみた。

誰かに似ている。

そうだ、先だった夫の顔に似ているような気がした。

早くおいでと、呼ばれているような錯覚を遮って(さえぎって)、春子は、深く深呼吸をした。

ひとつ。

ふたつ。

みっつ。

覚悟を決めて、もう一度、目の前の、まだ若い医者の顔に視線を戻した。

「先生、わたしは何月まで生きられるとおっしゃたんでしょうか。」

医者は、静かに、平静を装って、告知した。

「あなたは、余命3ヶ月ですので、来年の3月ということになります。

人生でやり残したことをなさってください。

残念です。

もう少し、早く、検診におみえになっていらっしゃったらと思うと残念な気持ちです。」

その最後の方は、頭の中の、ウォンウォンと鳴る音にかき消されて、よく聞き取れないようだった。

早春


そんなある日、春子の元に、一通のハガキが届いた。

お元気ですか?

と、書いてある。

そのハガキは、女学校の同窓会の案内だった。

地元の田舎に住んでいるのは、春子たち少数派で、同窓生の多くは、都会に棲みついて、もう長い。

久しぶりの同窓会は、都会のおしゃれなホテルで開催すると書かれてあった。

春子は、その3月半ばの同窓会へ、「出席」に丸をつけて、バス停のそばの雑貨屋さんの前にある郵便ポストへ投函しに行った。

果たして、わたしは、その日に、生きているのだろうか。

漠然とした不安が、春子の心の中に、爆風のような渦をつくっていくのを感じながら、春子は電話帳を取り上げた。

同窓会の前後、春子は、そのホテルに1週間の予約をとったのだった。

若い頃には、苦労を重ねて、ようやく、息子たちの興した会社が成功し、春子の財産はなかなかのものだった。

今まで、お金を使うということをしてこなかったのだ。

はじめて、都会のホテルに1週間も滞在する予定を立ててみると、こころの中に、ワクワク感が芽生えた。

このワクワク感は、暗雲に支配された春子のこころを少しだけ、軽くしたようだった。


「しかし、わたしは、この同窓会まで生きているのだろうか。」

「たとえ、生きていたとしても、出席はできるのだろうか。」


春子の不安は、杞憂(きゆう)に終わった。

久しぶりの同窓会は、盛大で楽しいものだった。

みんなきれいな服に身をつつんでいる。

あちらでも、こちらでも、懐かしい顔が、ニコニコ笑って、おしゃべりしている。

春子は、小さいからだで、コロコロと楽しくて、笑い続けた。

ほっぺたが痛くなっても、笑い続けた。

楽しくて、楽しくて、時が経つのも忘れてしまうほどに、楽しかった。

その夜は、ホテルの部屋の天井が、グルグルっと、すごい勢いで回っていた。



朝になった。

良く晴れたその朝は、とても、清々しかった。

春子は、一度、思う存分にお買い物をしてみようと決めていた。

地元の郵便局で、100万円をおろして持って来ていた。

昨日のみんなは、ほんとうに、きれいだった。

いままで、見たこともないような、上等そうなお洋服に身を包んで、キラキラしたものを首や耳や指や手首にはめていた。

春子は、今まで、あまり、地元の田舎を出たことはなかった。

こうして、都会に出たのは、はじめてかもしれなかった。

春子は、年齢よりも若く見えた。

苦労の多い人生だったが、その苦労は、春子の明るさに吹き飛ばされて、根っからの明るい性分が、年齢を若く見せているようだった。

朝ごはんを食べた後、春子は、そのホテルの近くにある大きなデパートへ行ってみることにした。

田舎では、いつもテレビで観ていたデパ地下で、家族へのお土産を買ったり、自分の服を買ってみようかと思ったのだった。

昨日会った同窓生の、素敵な服装が目に焼き付いていた。

店員さん


百貨店は、開店前から大きな入口に人が待っていた。

春子は、その人の中に混じって、開店の音楽が鳴るのを聞いた。

紅いきれいな制服のお嬢さんたちが、同じ紅色の帽子を斜めにかぶって、そろって丁寧にお辞儀をした。

そうして、ガラスの重い扉が開くと、一斉に、人々が流れ込んで行く。

春子も、見習って、背筋を伸ばし直して、「おはようございます」という挨拶の海へ突入してみた。

ちょっと、くすぐったいけれど、嫌な感じはしなかった。

ちょっと、くすぐったくて、なんだか、楽しい気持ちがしたのだった。

エスカレーターで階を上がっていった。

何階にもわかれて、たくさんの婦人服が並んでいた。

こんなにたくさんあるとは、予想していなかった。

どれを選んでいいのかがわからない。

どうしたものだろうか。

だんだん、増えて来るまわりの人に、目をやると、無意識のうちに、100万円の入ったバッグを、小脇に引き寄せるようにして立っていた。

もう1階、上がってみようか。

エスカレーターに乗っていると、肌着売場の前に出た。

都会の3月は、まだ、肌寒い。

見ると、あったかそうなモコモコの長いズボンが目に入った。

なんだか、孫が喜びそうなかわいい柄だ。

ちょっと、近づいて眺めてみよう。

っと、その時だった。

「こんにちは。今日はお寒いですね。」

っと、明るい声がした。

振り向くと、孫によく似た、小さなかわいい人が、ニコニコしながら立っていた。

「そちらは、人気商品なんです。モコモコで、かわいい柄が人気です。」

「こんなおばあちゃんには、派手ですね。」

「みなさん、最初は、そうおっしゃいますよ。

でも、はいてみると、もう、病み付きになって、何枚も、何枚も、リピートで買いにいらっしゃいます。

手に取ってご覧になってくださいね。」

「これは、小さいんじゃないんでしょうか。」

「はい。それも、みなさん、最初はそうおっしゃるんです。

これですね。びっくりされると思うのですが、すっごく、のびのびなんです。

ふんわか、やわらかで、のびのびです。

こんな感じです。」

っと、のびのびに伸ばして見せてくれた。

なるほど、これは、おもしろそうだ。

それに、どうにも、ちょっと、寒くて、昨日も、足元が冷えて来るのが気になっていた。

これを1枚いただこうかしら。

っと、春子は思った。

「もし、よろしければ、こちらで、ゆっくり、お選びになってくださいね。

このほかにも、お色もお柄もあるんです。

今、お持ちしますね。

見ているだけでも楽しんですよ。」

っと、言われて、勧められるままに、奥の落ち着いたテーブルの椅子に腰かけた。

朝から、ずっと、歩いていたので、なんだか、ホッと人心地着いたような感じがしたのだった。

ビックリする顔が見たくなった

しばらくすると、さっきのかわいい店員さんが、ちいさなからだに、一生懸命にたくさん抱えて戻ってきた。

ニコニコ顔が、ほんとにかわいい人なのだ。

気持ちがいい、とか、感じがいい、とかいう表現が、まったくもって、ぴったりする人だった。

「あなた、はじめてお会いしましたけれど、わたしの孫に似ているわ」

というと、ポッと頬のあたりを赤くして、ちょっと、はずかしそうに微笑んだ。

その顔もまた、かわいらしい。

ちょうど、孫と同じような年ごろだろうか。

そう、考えていると、目の前のテーブルに、カラフルなモコモコパンツが、どんどん、並んで行く。

どれも、なんだか、楽しい色柄で、まるで、パッチワークのように楽しくて、見ているだけで元気になる配色が多かった。

「わたしの若い頃には、こんなお派手な下着はなかったわね。なんだか、楽しい時代なのね。」

っと、いつの間にか、声に出してつぶやいていた。


ニコニコ話をするうちに、目の前のこのかわいい人を、ちょっと、ビックリさせてみたくなってきた。

お茶目ないたずらごころが芽生えてきたのかもしれません。


結局、2時間ほどもおしゃべりをしながら、下着を88枚。合計88万円。これもまた、ほんとうならば、88歳の米寿までは生きれるだろうとタカをくくっていたのだと思うと、偶然ながら、この88という数字が、神様の数字のように思えてきたのだった。

「これ、全部、いただきますね。

あのね、これは、わたしのじゃないの。

孫が3人いてね。

その孫たちに、ひとりひとりにあげたいの。

だから、3つの箱に入れて、包装して、おリボンをかけてちょうだいね。」

「これって、かなりの重さですね。

わたしは、明日、迎えの者が来るんだけど、近くのホテルのわたしの部屋まで届けておいてもらえますか?」



目を丸くしたかわいい店員さんの驚く顔を眺めているうちに、不思議と気持ちが明るくなっていくのを感じていたのだった。

春子は、若い頃には、いろんな仕事をしながら家計を助けて働いた。

きっと、目の前にいるこの人にも、ノルマというものがあるんだろう。

彼女は、今風の下着の様々な話をしてくれて、広い売場のほとんどを案内して説明をしてくれた。

この100万円を彼女をびっくりさせて、喜ばせるのも、また、思い出になるような気がした。

だって、お洋服は、いったい、どこで、なにを買ったらいいのか、さっぱり見当もつかないのだから、広すぎて、わからないし、もう、ここで、下着を買うことにしましょう。っと、春子の中の、春子が言った。

そう、春子には、確かに、声が聴こえたのだった。

こころの声が導くままに


春子の中で、こころの声がおしゃべりしているのが聴こえた。

こんなことは初めてだった。

そろそろ死期が近いのか。

お迎えの声にしては、どうにも、楽しそうにおしゃべりしている。

なんなのだろうか、この声は。

そもそも、こんなに大量の下着を一気買いするとは、人生の中で、一番、大きな衝動買いには違いなかった。

しかも、この下着を、もう、着る時間は限られているのだ。

春子の中の時限爆弾は、刻々と、その最期に向かって時を刻んでいるはずだった。

しかし、ありがたいことに、春子は、こうして同窓会にも出席し、今日も、朝からお買い物を楽しむことが出来ている。

神様に感謝する気持ちが、こころの中いっぱいに広がっていった。

春子は、いつのまにか、知らない間に、言葉が勝手におしゃべりしているのを、面白がって聴いていた。


あのね、わたしには、孫が3人いるの。

その3人の孫にね、それぞれに贈ってやりたいの。

最初の孫は、まだ、10歳代でね、ちょうど、高校へ通っているの。

この子には、このかわいい絵の描いてあるショーツをたくさんね。

全部の色違いと柄違いをくださいね。


次の孫はね、今、大学を出て、働いているの。

毎日、忙しくしていてね。

下着を買う暇もないくらいに忙しくしているの。

だから、動きやすくて、かっこいいのをくださいね。

さっき、機能的っておしゃっていたのをくださいね。

あの子は、今が、働き盛りだから、結婚する気がないんじゃないかと心配なんですよ。

ベージュの下着を中心に、ちょっと、パーティーなんかにもいく時に、そうね、少し、おしゃれな感じのものも入れておいてくださいね。



最後の孫はね、この子は、もう、結婚もして、子供もあるの。

よく気が付く子でね。

自分のものは、あまり、買わない子なの。

だから、ちょっと、豪華で女っぷりが上がるって、さっき、ご説明されていたものをたくさん贈って、ビックリさせたいの。

あなたが、さっき、おっしゃったでしょう。

女性として生まれた以上、いつまでも、若々しくって、素敵で、ゴージャスに生きていくってあこがれますね。って、おっしゃったでしょう。

わたし、あなたのその言葉が好きだわ。

いつまでも女性を忘れない生き方って素敵よね。

今、生まれ変わるとしたら、こんなに楽しい下着が、いっぱい着れるから、やっぱり、女性に生まれ変わりたいっておっしゃったの、わたしも、あなたと出会って、こうして、下着を選んでいただくうちに、ほんとうに、そう、思えてきました。

長い時間、こんなおばあさんにお付き合いいただいて、ありがとうね。

あなたもお忙しいのに、なんて、ご親切な方なんでしょうね。

ほんとうに、ありがとうね。

わたしもね、また、生まれ変わることがあったら、もう一度、女に生まれてみたくなりました。

こんなに素敵な下着をいっぱい着てね、そうして、素敵なお洋服もいっぱい着たいなと、思いましたよ。

ほんとうに、ありがとうね。

さぁさ、お支払いしましようね。

お時間がかかるんですね。

ホテルに届けておいてくださいね。

よろしくお願いしますね。

そうそう、わたしも、おなかがすきました。

もう、こんな時間になっていたなんて、楽しくって時間を忘れていましたね。

あなたも、お昼御飯が遅くなりましたね。

ほんとうに、ありがとうね。

あなたとお話しが出来て、ほんとうに、良かった。

ほんとうに、楽しかったの。

あっという間に、時間が過ぎて行きましたね。

また、いつか、来ますね。

じゃあね。またね。

うそはいけない


春子は、ホテルの部屋に戻って、お風呂に入っていた。

お部屋には、お昼間の買い物が届けられていた。

大きな箱が3つ。

どれもみんな、薔薇色の包装紙で、きれいに包装されていた。

朱子織のピンク色のリボンがかけられていた。

ショッピングバックから出してみて、広いベッドの上に並べておいてある。

お風呂上りに、バスローブ姿のまま、春子は、その3つの薔薇色の箱を眺めていた。


さっきの声は、きっと、わたしのウニヒピリ(潜在意識)の声なのかもしれない。

っと、春子は思った。

春子の亡くなった夫が、農協のツアーでハワイに行った時のことだった。

ハワイから帰って来るなり、春子の夫は、不思議な話を聴かせてくれたのだった。

なんでも、ハワイという国の神話では、ハワイの人々は、自分の中に3人の自分がいると信じているらしい。

それが、ウニヒピリという潜在意識と、ウハネという顕在意識と、アウマクアという大いなる存在の3人が、ひとりのハワイ人の中に同居していて、時々、親族会議を開くらしかった。

今日、春子が体験した不思議な声は、まさに、この、自分の中の自分の声なんじゃないかな。

っと、思い至ったのだった。



春子には、孫はひとりしかいない。

春子によく似た、小柄な女の子だ。

今度、就職で、この孫は、この大都会に一人暮らしをはじめることになっている。

なぜ、春子のウニヒピリは、孫が3人いる。っと、言ったのだろうか。



お風呂あがりの気持ちいい微睡(まどろみ)の中で、薔薇色の箱に語りかけてみた。

その時、まるで、雷鳴のひらめきのように、春子には、はっきりと感じたのだった。

今日の昼間の3人の孫は、まさに、春子自身だったのだ。

最初の孫は、春子の女学校時代の分身だったのだろう。

もしも、春子が女学校の時代に、あんなにかわいい絵の描いたショーツがあったら、春子の青春は楽しっかたの違いない。

春子は、漫画を描くのが好きだったから、自分の絵をショーツにデザインできたかもしれない。なんて、夢想してしまう春子だった。

もしも。そうだったら、すっごく、楽しかっただろうな。


次の孫は、春子が嫁いで、夫と苦労していた頃の春子だったと思った。

もしも、あの頃に、機能性下着があったなら、もっと、楽に労働できていたかもしれなかった。

薄くてあったかくて、肌触りが良くて、パチパチ(静電気が起こらない)しない、軽くて、乾きが早い下着で、しかも、きれいなレースもついていた。

なんとなく、着ているだけで、こころが癒される気持ちがしたのだった。


最後の孫は、きっと、熟年期の春子だったように感じた。

春子は、夫を亡くした後、小姑の世話をしながら、一家を支えて働いてきた。

夫に先立たれた時、春子は、まだ、若々しく、熟女として輝いていた頃だった。

その時に、こんなに素敵な下着があったら、もっと、女っぷりに磨きがかかって、もしかしたら、再婚もあったかもしれない。

亡くなったお父さんには悪いけれど、もっと、違う選択や、違う人生があったかもしれなかった。


ああ、そうだ。


わたしは、あのかわいい店員さんに、とんでもないウソをついてしまった。

彼女に、また、来るという約束もまた、大きなウソになるのは確実だった。

明日、また、あの売場へ行ってみよう。

そして、あのかわいい店員さんに、ほんとのお話しをするとしよう。


そう、考えいたって、春子は、はじめて、ホッとした気持ちになって、眠りについたのだった。

その次の日


春子が目覚めると、春子のとなりのベッドの上に、薔薇色の箱が3つ並んでいた。

その3つの箱は、ホテルの窓から差し込む朝日に照らしだされて、まるで、燃えるように明々(あかあか)と、陽炎(かげろう)が立っていた。

春子の、青春、壮年期、熟年期の3つの時代に戻って、生き直すとしたら、春子は、この下着を身に着けて、現実と闘い、現実を愛し、現実を楽しみ、現実を謳歌し、生き生きと生来の輝きを放って、もう一度、また、違った人生を生きていくことだろう。

同窓会で、最後の最後に、みんなに会えてうれしかったな。

みんなきれいで輝いて見えた。

昨日の店員さんも、ありがたかったな。

あんなに親切にしてくれて、もしも、自分が、その歳だったら。。。。

っと、思いながら聞いているうちに、なんだか、人生を生き直してみたくなってしまった。

これが、今生への未練というものなんだろうか。

どんなにお金があっても、持ってはいけないものだから、あの世へ持って行くのは、楽しかった思い出だけを持っていくことにしましょうね。

春子は、朝日の中で、ベッドに腰掛けたまま、そっと、自分につぶやいていた。

なぜか、知らない間に、春子の頬を、春子の涙がつたっていたのだった。

死にたくはないのだ。

こんなに元気なのに、どうして、余命が尽きるのだろうか。

まだまだ、やりたいことがいっぱいあるのに、同窓生のみんなは、まだまだ、もっと、生きていくだろうに、なぜ、わたしは、あと少しの時間しかないのだろうか。

どこで、間違ってしまったのだろう。

きっと、どこも、間違ってはいなかったのかもしれない。

これを宿命として受け入れるこころの強さを与えてください。

春子は、いつの間にか、知らない間に、一心に祈っている自分に気がついたのだった。



しばらく、一心に祈ったあと、春子は着替えて朝食を済ませ、また、昨日の場所へと出かけて行った。

さて、昨日の店員さんになんと言おうか。

もう、2度と、参りませんけれど、というのもいかがなものかな。

昨日は、また、来るからと約束したのに、どうしたものだろうか。

っと、思案するうちに、同じ場所へとやってきてしまった。

昨日の店員さんはいなかった。

なんだか、拍子抜けした気持ちになった。

ベテランらしい人が応対に出て、お部屋にお届け申し上げました。っと微笑んで、小首をかしげた。

とっさに、春子は、財布を広げて、株主優待カードを提示していた。

なぜ、そこで、そのタイミングで、そんなことをしてしまったのかは、自分でもわからなかった。

なにか、ここへ来た理由がいるように思ったのかもしれなかった。

昨日のレシートと一緒に渡すと、割引分の現金を返金してくれた。

春子は、返金して欲しかったわけでは、なかったのだった。

ただ、単純に、ウソはいけないと、思い直して、帰る前に、もう一度、ここへやってきたのだった。

もう、ここには、来れないけれど、そのことを、昨日の人に言いたかったのだ。

だって、彼女のおかげで、春子は、春子の一生を振り返ることができたのだから。

それは、楽しい空想だった。

自分自身のインナートリップをはじめて経験した瞬間だった。

春子は、自分の死期が近いことを予感しながら、少し、哀しい気持ちで、薔薇色の3つの箱を運んで帰宅した。

初夏

その日は、ゴールデンウィークの中盤戦だった。

売場は、かなり、混雑していた。


女性客の多い売場に、年代の違う3人の男女が、大きな荷物を抱えてやってきた。

その中に、小柄なかわいい女性がいた。

その女性が、こう言ったのだった。

「祖母が亡くなりまして、家を片付けていましたら、この箱がありました。

ひとつだけ、開けてみました。

下着ばかりが入っていまして、これは、なんだろうか。ということになりました。

こちらの近くのホテルに、しばらく、滞在していましたので、もしかして、こちらで買ったものでしょうか。

見ていただけないでしょうか。」

っという。

「3人のお孫さんへのプレゼントにということでお包みさせていただきました。」

という説明を聞いて、そのお孫さんは、こう言ったのだった。

「祖母には、孫は、わたししかおりません。

祖母には、誰かにプレゼントする。っと申しまして、自分のものを買う癖がございました。

これも、みんな祖母が自分に買ったものだと思いますので、返金していただけないでしょうか。」


一度も開封された気配のないその薔薇色の箱は、そのまま、故人の遺志に反して、孫や親族が手分けして、買った場所を探し当てては、返金したらしい。

その額は、かなりのものになったようだった。

孫たちは、そうして、祖母の巡礼をしたのだろうか。

もしも、あの時にお金があったら、過去の時点の自分に、プレゼントをして歩いた3週間は、春子にとって、きっと、輝いていたのだろうとわたしは思う。

死の恐怖から、眠れなくなる夜はなくなったのだった。

「明日は、どの時代の自分に、なにをプレゼントしようか。」

と、考えながら眠る毎日は、自分の人生の棚卸でもあり、自分が生きた道への巡礼でもあったのかもしれかった。

こうして、生きた証を残した春子の一生は、苦労を苦労と思わない一生懸命な一生だった。

最後の最後に、春子は目覚めたのだけれど、自分がなにに目覚めたのかも、もしかすると、はっきりとは認識がなかったのかもしれない。

不思議なこころの声は、春子が死んでからもしばらくの間、薔薇色の箱に納まったまま、春子の部屋にあったのだった。

ある婦人の最期の買い物

ある婦人の最期の買い物

短編小説。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-04

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Copyrighted
  1. はじめに
  2. 春子
  3. 青天の霹靂(せいてんのへきれき)
  4. 早春
  5. 店員さん
  6. ビックリする顔が見たくなった
  7. こころの声が導くままに
  8. うそはいけない
  9. その次の日
  10. 初夏