祈り3

              
私は大吟醸の一升瓶をちゃぶ台の上に置いた。
「おおー」
ルームメイトからの賞讃の声が上がる。
「さすが蔵元の娘」
「美由紀ちゃん、最高」
私は得意げにふふん、と鼻を鳴らした。
「まかせて頂戴」
一緒にちゃぶ台を囲むのは、髪を一つに結んでいる美咲と髪を肩の長さに切りそろえた美智子。
私達は2LDKのアパートに暮らしている。
私と美咲は一部屋もらい、美智子はリビングのソファーベットで寝ていた。
気楽な女友達との共同生活。
美智子はおぼんにお銚子とぐい呑みとおつまみを乗せて持ってきてくれた。
「やったー」
私は酒器を見ると興奮してしまう。
酒器に酌まれた日本酒は限りなく透明で美しい。
「すごーく高い日本酒だから、ありがたーく飲むように」
私達は酒器を掲げる。
「乾杯」
ぐいっと一気に飲み干してぷはーっと息を吐く。
ああ、なんて幸せなんだろう。
「美由紀、竜二君とはどうなったの」
美智子が心配そうに聞く。
「別れたわよ。もう男なんて大嫌い」
「前の彼氏の時も言ってたわよ」
美咲に突っ込まれる。
「もう男はいらないの」
「美咲は就活はうまくいってるの」
私は美咲に切り返した。美咲の会社は一カ月前に倒産して、無職になった。
「まだ決まってない」
「どこも厳しいよね」
美智子がフォローする。
「あんた、就活じゃなくて結活したら。あの、例の男とはどうなったの」
私は美咲に言った。
「食事には行った。でも、そんな気分じゃない」
「仕事は」
「貿易事務」
「いいじゃない」
「でも、派遣だから」
「ああ、ね」
「竜二君も仕事辞めたんだよね。どうしてるの」
また美智子が聞いてくる。
しつこいな。
「知らないわよ」
竜二と別れてから、一か月、生理が来なかった。
体はとても正直だ。

私の父は地元の名士だった。
父の口癖は、家業を継がないなら、こんな田舎町出てってやる。
子供の頃は何度となく、聞かされた。
父は旅行が好きだった。
大人になってから、父の夢は世界中を飛び回るパイロットになることだと明かされた。
毎年、恒例の家族旅行。
私が家を出てからは夫婦で海外旅行にいくこともあった。
父はこんな家業というが、そのおかげで旅行にも行ける。
地元からは一目置かれ、週末はゴルフ三昧。
酒造組合の役員もしている。
母は私が3歳の時に家を出た。
すぐに父の浮気相手が後妻になった。
継母は優しい人で、私の面倒もよく見てくれた。
父によると、私は母にすぐなついたそうだ。
私の実母はお金持ちの娘で気性が激しかった。
お前はよい母親に恵まれた、というのが父の言い分だった。
私には母親の記憶がない。
継母が本当の母親でないことは知っていた。
彼女が妊娠した時は兄弟が出来ると思って、嬉しかった。
けれど、彼女は流産してしまった。
継母が静かに泣いているのを、私は隠れて見ていた。
継母は人前では決して泣かなかった。
私も兄弟がいなくなっってしまったことに落胆したが、継母の前では悲しんではいけない。
彼女がこれ以上悲しまないように、明るく振る舞っていたのを覚えている。
小さい頃、私が外で遊んでいると近所の人はこう呼んだ。
美由紀お嬢さん。
そして、父の元で働く蔵人は私を小さなお姫様のように扱った。
父は蔵人を統括し、蔵内酒造現場の管理を行う。
酒造の長。
私はみんなから愛されて、何の不自由のなく育てられた。
父は社氏を退いたが、今も現役で働いている。
父は社会を知らない。
今の私は上司に呼び捨てにされ、誰かから嫌味を言われるのはしょっちゅうある。
自分のミスでなくても、頭を下げないといけない時がある。
父が今の私を見たら、どう思うだろう。
時々、父は日本酒を宅急便で送ってきてくれる。
手紙を書き添えることはないが、私は父が送ってくれる日本酒を見るたびに、帰って来いと言われているような気がした。
お前の帰る場所はここなんだよ、と言われているような気がしてならない。

私が最初にセックスをした相手はバイト先の先輩だった。
私は友達から誘われて、塾の講師をしていた。
時給が良くて、おいしいバイトだった。
親からは仕送りを受けていたから、その頃の私は今の私よりもお金があった。
私は友達とヨーロッパ旅行に出かけた。
その旅行の前日に、先輩から私のアパートに泊めてくれないかと言われた。
理由はよく覚えていない。
その時の私はいいですよ、と気前よく、先輩にアパートのカギを渡してしまった。
ヨーロッパ旅行から帰ったら、出て行ってもらったらいい、と単純に考えていた。
先輩は私に無断で合鍵を作っていた。
私がヨーロッパ旅行から帰ってきても、アパートから出て行く気配はない。
私達は友達でもない、ただの顔見知りだ。
私はあきらめて、先輩を受け入れた。
初めてのセックスは先輩から暴力を振るわれるのかと思った。
けれど、違った。
先輩は私を無理やり抱いた。
先輩とのセックスは痛くて、つらいものだった。
セックスは好きじゃない。
私は彼以外の男を知らなかった。
しばらくすると、先輩は私のアパートに戻って来なくなった。
彼に浮気相手の女性が出来た。
私は彼と結婚するつもりでいたから、相手の女性を憎んだ。
私は彼の携帯にかけてきた彼女と大ケンカしたこともある。
もう我慢が出来ない。
私は彼に内緒でアパートを引き払った。
もう男なんて信用できない。
男なんて大嫌いだわ。
私は友達と共同生活をすることにした。
異性を家に招かない。
私達が決めたルールの一つだ。
以前は家事を分担して、食費を出し合っていた。
美咲が失業してからは、家事はすべて彼女にまかせて、私と美智子が食費を支払うことで彼女の負担を少なくしている。
家事をしてくれると、本当に助かる。
男性だと何にもしてくれないだろう。
私達はお互いの名前も似ている。美咲は麻衣という名前だけど、誰も麻衣とは呼ばない。
私達はお互いに助け合って、生活していた。


何で気づかなかったのかな。
私は自分自身を呪った。
私は二カ月も生理がきていなかった。
妊娠しているかもしれない。
薬局で妊娠検査薬を購入して、調べてみた。
陽性反応が出る。
私はさーと、血の気が引いて、トイレの中で倒れそうになった。
どうしよう。
私は美咲と美智子が寝ているのを確認して、トイレに入った。
彼女達をたたき起そうか。
美咲は怒るかもしれないが、美智子は話を聞いてくれるだろう。
「・・・・・」
私は急に思いついた。
実家に電話をしよう。継母なら話を聞いてくれるだろう。
「はい、竹内です」
継母の声だった。私は彼女の声を聞いて泣きそうになる。
「お母さん」
「どうしたの、美由紀ちゃん」
「妊娠したかもしれない」
「お相手は」
継母は冷静に聞き返した。
「竜二」
そう、竜二しかいない。
「竜二君とは別れたでしょう」
「でも、別れる前にしちゃったのよ」
「そうなの。こっちに帰ってきて、産めばいいじゃないの」
「でも、お母さん。そんな簡単に言わないでよ」
「私は本気よ。美由紀ちゃんがいいなら、私が育てるもの」
「お母さん」
私は私が思っていたよりも、継母はずっと頼りになることが分かった。
「いつか大人になったら、話をしようと思っていたことがあるの」
「何」
「私は流産したことになってるけど、本当は堕したのよ」
「お母さん」
「彼が流産したことにしょうと言ってくれたの。まわりの人もそう信じたわ。でも、本当は自分の体を守るために、あなたの兄弟を見殺しにしたの」
「お母さん。そんなこと言わないで」
「「私は美由紀ちゃんが兄弟がほしいのを知っていた。私もあの人の子供が欲しかった。でも、私の体は弱くて、もし産んでいたら、私の命が危なかった」
「私は子供の命よりも自分の命を選んだの。だから、お願い。私に出来ることは、何でもするから、美由紀ちゃんの子供を抱かせてちょうだい」
継母は私に必死で懇願した。


竜二は会社の取引先で働いていた。
仕事は丁寧で、対応も誠実だから私の同僚にも受けが良かった。
ある時、竜二から手紙を渡された。
それは、ラブレターだった。
今時、手紙だなんて、と思った。
けれど、それが竜二らしくて良かった。
竜二とセックスするのには時間がかかった。
初めてのセックスの方が例外なのかもしれない。
私にとって、竜二とのセックスは新鮮だった。
私が待って、と言うと我慢して待ってくれる。
今までにないエクスタシーを感じた。
私は全身が竜二で満たされていた。
最後に竜二とセックスした時は、もう出来ないと思った。
竜二はベットから起き上がるのもつらそうだった。
竜二は母親の死をきっかけに精神を病んでいた。
私は生気のない竜二の顔をたたいて、竜二を起こした。
竜二に生気がないからといって、セックスをして、精子が出ないわけではない。
私達は避妊をするのを、忘れていた。
竜二の目は虚ろで、私とセックスをしているのか分かっていないのではないだろうかと思うほどだった。
私は竜二と一緒に暮らして、彼を支えていこうかと思った。
何度も、何度も、考えて、別れることを選んだ。
竜二はどこにそんな力が残っていたのか、旅に出ると言った。
竜二はバイクが好きだった。
付き合い始めたばかりの頃は、友達とツーリングに行くと言って、私は置いてけぼりにされたこともあった。
竜二にはバイクがある。
私は竜二を見送る際に、彼のバイクにキスをした。
どうか彼を見守ってあげてね。
私はバイクに祈りを込めた。
そのライトで彼の行く先を照らし、彼を安全に目的地まで送り届けて欲しい。
私は歯を食いしばって、泣くのを耐えた。
私に出来ることは何もない。
ただ祈るだけだ。
竜二がバイクを走らせる。
私は目を閉じた。
頬に一筋の涙が流れ落ちる。
今日はやけに砂埃が目にしみる。

もしつらいことがあったら、私を呼んで、竜二。
竜二、竜二、竜二。
「竜二」
私は竜二が旅に出てからも、竜二のことが忘れられなかった。
時々、竜二がいないのに話しかけてしまう。
バイクで日本中を旅している竜二を想い浮かべる。
男の人の方がロマンチストね。
私の父は世界中を旅するパイロットになるのが夢だった。
本当に、竜二はなんて馬鹿なんだろう。
例え、竜二が社会復帰出来たとしても、前の仕事以上のお給料はもらえないだろうし、待遇も悪くなる。
その一方で、ただ生きていてくれたらいいと思う。
生きていれば、必ず何かが起こる。
生きるということは、私達、全員に課せられた労働、つまり仕事でもある。
商売人の父は私にいつも言っていた。
人様に誠心誠意を尽くすこと。
魂を込めて仕事をすること。
私から見た竜二は立派に仕事をしている。
世間からは脱落者と思われても、私は竜二が生きていることを知っている。
でも、もしつらいことがあったら私を呼んで。
私は竜二の助けになればと思い、引きこもり関連の本を読むようになった。
とても強い印象を受けたのは引きこもりの家族がどうしたら引きこもりをやめさせることができるかという単純な質問だった。
私は専門家にそんなくだらない質問をするよりも、自分自身に問いたい。
人に対して誠心誠意尽くしているだろうか。
目の前の出来ごとに対して魂を込めて生きているだろうか。
私はあなたが呼んだ時だけあなたの傍に行くわ。

本当に私達が恐れているのは苦しい現実じゃなくて、不透明な未来なの。
変わりたいと思いながら、変わることを恐れている。
昨夜は美咲が泣きながら、私達に訴えてきた。
「もう疲れた。自信がなくなってしまったの」
「うん、つらかったね」
美智子が美咲の肩を抱き寄せた。
「実家に帰ろうと思うの」
美咲は母親と仲が悪かった。彼女の母親は世間体を気にするタイプで、彼女が就職した際もその会社を非難した。
こんな会社に就職させる為に大学に出したんじゃない。
美咲の母親は就職することがどれ程大変なのかを知らない。
「母が何か言うかもしれないけど、実家ならお金がかからないでしょう」
「うん、そうだね」
「仕事だってアルバイトでもいいと思ってる。でも、仕事として認められないよね」
美咲は仕事をすることは彼女の存在意義が周囲に認められることであると考えていた。
だから、余計に苦しくなる。
私は美咲の苦しみを想像して、胸が痛くなった。
美咲が真面目に働いても、美咲の努力は空回りして、なかなか評価されることはない。
「美由紀は大丈夫なの」
「心配しないで。病気じゃないから」
それは嘘よ。
妊娠は病気だと思う。
今日は仕事中に倒れて、病院に運ばれた。
これで妊娠していることが、職場に知られてしまった。
そして、私は自分の意志を確認することが出来た。
私は子供と一緒に生きる道を選択する。
子供私達の希望の種だ。
けれど、この種を育ててくれる場所は限られている。
どこにでも必要としているわけではないが、愛がなければいけない場所に愛がない。
それは痛みをかかえた患者がいる病室。
それは一緒になって見守っていてくれるご近所。
それは家族が集う部屋であったりする。
私は愛する人に何が出来るのだろう。
絶望を希望に
怒りを喜びに
涙を笑顔に変えることは出来るだろうか。
それには、私自身の愛を大きく大きくしていくしかない。
いつか大きな大きな愛は全ての人を包み込んでいくだろう。

竜二は生きているだろうか。
以前、電話をした時はつながらなかった。
カレンダーを見ると竜二の母親の命日の一週間前だった。
私は竜二の携帯に電話をする。
「竜二」
「美由紀」
私は竜二の声を聞いて、泣きたくなった。
やっぱり、彼が好きだ。
「良かった。つながって」
「ごめん、美由紀」
「どこにいるの。お墓参りに行こう。一週間で帰ってきて」
私はすぐにでも竜二に会いたかった。
「ああ」
「今まで通じなかったのに、夢みたい」
私は嬉しくて、嬉しくて、仕方がなかった。
「竜二のお母さんが力を貸してくれたんだわ」
「あんた、仕事はどうするの」
子供が出来たから結婚してほしい、と竜二に言うのは嫌だった。
「料理人とか」
私からプロポーズするのはどうだろう。
「お前、おれの料理、食べたことないだろう」
「私と結婚して」
私は反論されないように早口で言った。
「あんた、家族いないし、婿養子になって、うちの家業を継いでほしいの」
「家業って酒蔵の」
「私も仕事辞めるし、親も年だし」
「おれ達、会ってないよ」
「どこにいるの」
竜二の笑い声が聞こえた。
「お酒の神様の近く」
「どういう意味なの」
「結婚式は神社でいいか」
「どこでもいいわよ。どこにいるのよ」
「一週間で帰る」
「うん。待ってるから」
私は電話を切ってから、思い出した。
妊娠したことを竜二に言い忘れた。
これって大事なことじゃない

祈り3

祈り3

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted