夏雨のエスケープゴート

夏雨のエスケープゴート

文学フリマにて発行した合同誌、『y.m. vol.1』より抜粋

<6>


 卒業式の季節は、どちらかというと冬に属していると思う。
「……暇だな」
 三谷は指先でマフラーを引っ張り上げ、暖かい二酸化炭素を吸い込んだ毛糸で口元を覆った。顔の近くをあたためた方が、足を防護するよりもよっぽど雪にも勝てるような心地になるのは、やはり科学的には間違っているのだろうか。
 一段と冷気を凝縮した風が吹いて、灰色のコートに手を入れた三谷は、思わず大きく肩をすくめた。その拍子に、横に流していた前髪が目の上にかかってしまう。受験生であることを言い訳に切りに行くことを先延ばしにしていたが、そろそろ限界のようだ。今の三谷の長さなら奏を越しているかもしれないとぼんやり考えて、口元に薄く笑みを浮かべた。
 足元に広がるアスファルトは、普段より濃い色をしていた。朝方に薄く降り積もった雪が、昼になって溶けたためだろう。離れ校舎の音楽室の近くを通ると、窓の中から笑い声が聞こえてくる。一瞬そちらに気をとられた瞬間に、肩にかけた鞄がずり落ちそうになり、冷気に手をさらす羽目になった三谷は小さくため息をつく。
 感傷に浸るために、高校の敷地内をぶらついていたわけではない。他に特にすることもなかったのだ。午前中に卒業式が終わった後は、部活動ごとに祝福とともに卒業生を追い出すのが恒例になっていた。三谷もまた追い出される側であるのだが、つるむことの多かった友人はみな自分の部活動の活動場所へと散ってしまっている。
 もとは陸上部に所属していた三谷だが、最後の大会に出ることなくやめてしまった手前、顔を出すのは躊躇われた。しかしこうして一人さまよっている 自分の姿を鑑みると、誘いを断ったことが今更ながらに悔やまれてくる。友人と合流するまでには、まだまだ時間が余っている。
 ぐるりと校内を周ってみたものの、卒業したという実感は一向にわいてこない。三谷は明日も自分がこの場所にいるような気がしてならなかった。
 ただ、もし明日も登校したとして、その行動は三谷にとって何の意味も持たないのだろう。何か月も前から、高校に通うことなど、ただの習慣になってしまっていたのだから。奏にとっては、何年も前からだったのかもしれない。だから、三谷たちの前からいなくなったのだろうか。心の中で問いかけを呟いてみても、答える声はない。
 彼の名前は、四十万谷奏といった。
 四十万もの谷と書き、「しじまや」と読む。
 美術室の主、特設美術部の唯一の正規部員にして部長だった同級生。決して背は高い方ではないが、存在感があり、大して勉強もしていないくせに、三谷よりも頭が良い。眼鏡はかけていたが、なくても三谷の姿が見えていたようなので、視力のほどはわからない。
 必要なことだけを口にする物静かな性質であり、その分一度話し出したら誰もがその声に耳を傾けた。今思えば、奏の言うことはある種の重みと異質感をもって響き、どんな突飛なことでも、どうしてその考えに至らなかったのだろうかと、自分の思考の方を訝しがってしまうほどだった。
 ある日突然、奏はいなくなってしまった。最近では、もう奏に会うこともないのかもしれないと思い始めている。
 鞄から顔を出していたケータイが震え、三谷ははっと我に返った。メールが届いたのだろうか。一応は足を止めてみたものの、確かめるのも億劫になり、三谷は視界の端で点滅するランプから目をそむけた。気付けば、いつの間にか昇降口まで戻ってきている。時間つぶしに一度教室に戻るという選択肢は、賢いかもしれない。
 校舎の中に入れば、目の前には今日限りで後輩に明け渡すことになる下駄箱がずらりと並んでいる。しゃがみこんだ三谷は、持ち上げた靴をしまう前に、自分の下駄箱に貼ってある名前の書かれたカードを少しだけ見つめ、指先で剥がした。
「三谷」
 小さく、しかし良く通る声が三谷を呼んだ。のろのろと視線を上げた三谷は、数歩先でケータイを耳に当て立っている小柄な女子生徒と目が合った瞬間、驚いた顔を隠すことが出来なかった。
 彼女は奏の好みに合わせ、決して結ぼうとしていなかった長い黒髪を、高い位置で結わえている。肩には相変わらずオレンジのヘッドホンをかけていた。どこか幼さを残しつつも整った顔立ちは、口を開かずに愛想をよくしてれば高校生活の中で多数の生徒から声をかけられただろうが、三谷は目の前の人物がそのような器とは正反対の気質を所持していることを、既によく学んでいる。
「今、電話しているんですけど」
「あ―……気付かなかった。ごめん」
 ストラップのないケータイを開くと、そこには確かに乃々花の名前が表示されている。ゆっくりとケータイを持つ手を下げた乃々花は、真っ直ぐに切りそろえた黒い前髪の下から三谷を睨みつけた。
「まったく、なんのための連絡手段ですか」
「それ、おまえが言えた口かよ。乃々花だって連絡が繋がったこと、ほとんどなかった気がするんだけど」
「そうでしたか?」
「そ―でした」
 三谷は口を動かしながら、一度は袋に入れたサンダルを鞄から取り出して床の上に放る。目の前ですまし顔をしている乃々花は、暖かそうな黒いタイツに足を包んでいた。奏は服装の調節が下手だったが、その分過ごしやすい場所を見つけるのが得意だった。結局いつも暑い暑いと口にしていたのは、三谷だった気がする。
 乃々花は吐く息に白を混じらせながら、くすりと笑った。
「でも、思ったより元気そうで安心しました」
「それはこっちの言うことだよ」
 居心地の悪さに突き動かされて、三谷は軽く頭をかいた。
確かに乃々花の声を聞くのは、久しぶりである気がする。お互い、メールを細かくする性格ではなかったし、三谷と乃々花はもともと所属しているタイプが異なっていた。奏の存在がなければ、おそらく話すこともなかっただろう。
「へぇ。一応、あたしの心配するくらいの余裕はあったんですね」
「ま、先輩だしな。で、何の用なの」
「用って?」
「俺に電話してたって言ったの、おまえだろ」
「ああ、そうでした。忘れるところでした。でもその前に」
 頷いた乃々花は一度言葉を切ると、
「三谷は一人でどこへ行っていたんですか?友達がいないんですか」
「……おまえじゃないんだから、いたよ。いたけど、みんな自分の部活の後輩に、追い出されに行ったんだ」
「ふぅん。『追い出されに』ってなんか変ですね。あ、卒業生は帰ってくるなという意味ですか?」
「当たり」
「じゃあ三谷のことも、あたしが追い出してあげるべきなんですか?」
「いや、別におまえが俺のこと追い出そうとしていたのは、今日にはじまったことじゃないしな」
「確かにそうですね」
 若干の皮肉を込めたつもりだったのだが、乃々花は心底納得したという様子で一人頷いている。
「それに三谷も奏も、あたしが追い出さずとも勝手に出ていくような人でしょう。寧ろあたしがすがったとしても、見向きもせずに置いていくでしょうね」
 乃々花は坦々と断定の言葉を述べていたが、そこに演技が混じっていることは、容易に見抜けてしまった。返答に窮した三谷が押し黙っていると、乃々花はこれ見よがしにため息をついてみせる。
「なんだか奏に似てきましたね」
「え?」
「三谷が奏に似てきた、と言ったのです。電話に出るの面倒くさがるところとか、一人マイペースにぼんやりするところとか。前はもう少し気の効く……いえ、流されやすいお人よしさんだったじゃないですか。どうしてあの人の悪いところばかり、受け継ぐんです?」
「なんだよそれ、ひどい言いようだな。好きなんじゃないのかよ、奏のこと」
「だからこそ、愛ゆえの発言です」
 乃々花は口元に満足げな笑みを浮かべて言い切った。そして三谷が何かを反論する前に、「それに」と言葉を重ねる。
「それに、三谷。三谷はいつからそんなに、凍ったように顔を動かさないで喋る人になったんです?」
 突然抑えようのない衝動が襲い、三谷は歪むのではないのかというほどの力を入れ、下駄箱の扉を叩き閉じた。わずかに遅れて、がんっと金属がぶつかり合う無機質な音が、がらんどうの廊下に反響し、三谷は何事もなかったかのように顔を上げた。
 決して関わることの無かったであろうベクトルの二人を繋げたのが奏ならば、二人を少し変えてしまったのもまた奏である。乃々花にとっては神様といっても過言ではない存在で、三谷にとっては――なんだったのだろう。
 奏は、ある日突然いなくなってしまった。そこに事件性はないのだと、今は三谷もそう考えている。奏は自分の意志で、姿を消した。「消えた」というその事実自体が際立って現実味のないことであるために、なんて奏らしいのだとさえ、三谷は考えてしまう。
 沈黙を先に破るのは、必ず乃々花の方だ。びくりともせずに佇んでいた乃々花は、不意に三谷から遠ざかるように数歩足を動かしてから、何の兆候もなく振り返った。あわせて長い髪がくるりと翻り、強気を装った眼差しが三谷を捉える。
「暇をしていたんでしょう?三谷。美術室に行きましょう。一緒に、奏を探しに行きましょう」
 乃々花と、そして奏と出会った時。季節はまだ夏だった。
 むせ返るような空気の中で、蝉の鳴き声を聞いていたことを覚えている――……

<1>

 夏の日差しが容赦なく校舎を焼いている。「失礼しましたぁー」と間延びした挨拶を残しながら職員室のドアを開けた瞬間、顔面に押し寄せてきたぬるい空気に。三谷は思わず眉をしかめた。
「あっつ……」
 思わず独り言が唇からもれた。七月に入ってから大勢の学生が口にしたであろう、生産性の全くない語句。性懲りもなく呟いてしまった自分に嫌悪感を覚えていると、開け放たれた窓の向こうから聞こえる蝉の声がそれを煽ってくる。
 いつのまに夏は本番へと移り変わってしまったのだろう。エアコンの風で肌寒いくらいだった室内とは、所属する季節が明らかに違う。しかし校舎の中では廊下の熱された空気の方が通常であり、職員室の方が例外環境なのだ。そう自分を納得させ、憂鬱な気分に拍車をかける空気の中に、一度は止めかけた足をつっこんだ。
 しかし数メートルも進まないうちに、熱にふらふらと体を揺らした三谷は、開け放たれた窓へと近付いていった。窓枠に胸をのせ、干された布団のように体を折って外に乗り出すが、期待していた風はない。日光が直接うなじに当たり、寧ろ暑さが増したようだった。
 うなだれた三谷は、職員室で受け取ったばかりの成績表を、手の中でくしゃりと握りしめた。校内順位が印刷された白い短冊は、紙飛行機にして飛ばすには小さすぎる。そもそもこの形の紙から折り紙ができるのだろうかと考え始めた矢先、不意に背後で派手な物音がした。
 瞬間、思考が途切れ、三谷ははじかれたように勢いよく上体を起こした。どさどさという落下音に驚いた三谷が振り返るよりも先に、転がってきた茶色の筒がつま先に当たった。
 ほとんど反射的に腰をかがめ、拾い上げようと手を伸ばしたとき、後方からか細い声がかけられる。
「あなた、二年の三谷ですか?」
 よく通る声だというのが、第一印象だった。ほんの数歩先には、見覚えのない小柄な少女が立ち尽くしている。彼女はまるで信じられないものを発見したかのように、三谷をじっと見つめていた。
 足元には何冊もの美術の教科書や資料集、そして筆や絵の具などの画材が散乱している。一人分の授業道具の量ではない。職員室がある方向から歩いてきたようだし、先生に頼まれて教材を運んでいる途中だったのだろう。三谷が何気なしに拾い上げた茶筒も、目の前の女子生徒が落としたものに違いない。
 それはそうと、彼女はなぜ三谷の名を知っているのだろうか。
「そうだけど」
 三谷が訝しがりながらも肯定すると、女子生徒はなぜか三谷以上に怪訝そうに眉をひそめた。
 女子生徒は無造作に背中に流した長い黒髪を、大きなオレンジ色のヘッドホンで留めている。短めのスカートからのぞく、白い足が眩しかった。否応なしに人目をひく可愛らしい容貌は、三谷の目から見てもあどけなさが残る幼い顔立ちであるというのに、切りそろえられた前髪の下からのぞく瞳は攻撃的な光を灯しはじめている。
 そうして妙な沈黙があった後、
「はぁ―……やっぱそうなんだ。この人が三谷なんだ……その顔にその背丈。間違いないですもんね」
 廊下の真ん中で、盛大なため息をつかれてしまった。
 ひと際大きな音で鳴き始めた蝉の音が、テレビから聞こえる砂嵐のごとく、一定の音量で脳を埋め尽くしてくる。有体に表現すれば、この仕打ちは結構身にこたえた。女の子、しかも初対面の子に、目の前でがっくりと肩を落とされたのだ。増してやその声色からは、明らかな落胆が読み取れた。読み取れてしまった。一体三谷が何をしたというのだろう。
 彼女は三谷の様子などおかまいなしで、床に散らばった荷物を拾い上ると、三谷の腕にぐいぐいと押し付けてきた。
「え?ちょっと!」
「なんですか?そのくらいの量、しっかり持ってください」
 不機嫌を滲ませた低い声で彼女は命令し、機械のように無駄のない動きで拾い上げた物を、片っ端から三谷の腕の中に重ねようとする。やたらと滑り落ちそうになる光沢の資料集を何度も抱えなおしているうちに、三谷は反論をするタイミングを失ってしまった。
あっという間に床は綺麗に片付き、全ての荷物を載せ終わったところでやっと、女子生徒は思い出したかのように付け加えた。
「お願いします。一人では大変なので、このまま運ぶのを手伝ってください」
 彼女はしれっとした顔で小首を傾げる。言葉でこそお願いをしているようだが、実際は決定事項を言い渡すかのように一方的だ。
「なんなの?おまえ」
 三谷はもともと気が長い方ではない。苛立ちをわざと滲ませるようにして、声を荒げた。
「そのサンダルの色、一年だろ?俺に何か用なわけ?」
「用?ああ、えっと、そうです。そうでした。忘れるところでした。奏は三嶋に用があるんです。三谷ではないと、駄目なんです」
 喧嘩を売っているのかという意味の発言だったのだが、ぽつりと呟くように言った彼女は、真剣な面持ちに変わっていた。しかしながら、説明する気は全くないらしい。すぐにその小さな口を閉じて、澄まし顔に戻るとさっさと歩き出してしまう。
数歩進んだところで振り返った彼女は、何をしているのだと無言のまま視線で問いかけてきた。三谷はむっと口を結んだが、結局は好奇心に負け、その背中を追い始める。
 受験の二文字に圧迫される日々にも、きっかり六十分で巡るサイクルにも飽いていたし、このまま拾い上げた荷物を再び床にばらまくわけにもいかない。一度手を付けたことは最後まで付き合うのが三谷の自分ルールだ。それが多少不本意なことでも、致し方ない。


 目の前の人物はどこか軽やかな足取りで、三谷を北校舎へと引き連れて行った。運動部に所属していた三谷にはあまり縁がない場所だ。居心地の悪さのようなものを感じながらも、先導されるままに廊下の角を曲がる。
荷物の雪崩を警戒してあまり早くは歩けなかったのだが、手ぶらな女子生徒は容赦なく進んでいく。
 そして自己紹介は唐突にはじまった。
「二年の厳原乃々花です。「厳原」は、厳しい草原と書いて、乃々花はまあ普通に、こうゆう字ですね」
 そう言って乃々花と名乗った女子生徒は人差し指で空中に文字を書いた。眉を寄せた三谷が正直に「わかりにくい」と口にすると、「良いですよ。わからなくてもあんまり問題ないですし」と会話が打ち切られてしまう。乃々花は呆れ顔の三谷を一瞥すると、再び視線を前に戻した。
 先ほどの会話の流れから、てっきり「奏」というのが目の前を歩く生徒の名前だと思っていたのだが、三谷の推理は間違っていたらしい。内心で首を傾げた。
「なあ、乃々花ちゃん」
「ちゃん付けはやめてください。呼び捨てで構いません。あたしも三谷のことを、呼び捨てにしますので」
 仮にも下級生が先輩を堂々と呼び捨てにする宣言をするのはいかがなものだろうか。しかしこのままでは一向に話が進まないので、今は見逃すことにして、三谷は問いかけを続行する。
「じゃあ、乃々花。さっきから疑問に思ってたんだけど、おまえ、なんで俺のことを知っているように喋っているんだ?初対面だろ?」
 乃々花は再び首を軽く回して振り向くと、目の奥を細めて笑った。
「噂通り短気ですね」
 この場合三谷が短気というよりも、乃々花の方が喧嘩を売っているのだと思う。一向に要領が得ない会話に、三谷は漸く苛立ちを覚え始めた。さっさと帰って勉強しなければ時間の無駄だ。
「あと、その『奏』ってやつ、もしかして7組の四十万谷か?」
 今度は振り返らなかったものの、乃々花がわずかに表情を動かしたのが三谷にはわかった。ずり落ちてきた資料を、軽く持ち上げるようにして抱えなおす。
「奏のこと、知っているんですね」
「まあな」
 知っているといえば、まあ知っていることになるのだろうか。あまりにも珍しい名前だったから、覚えてしまっていた。中学の頃に「よんじゅうまんたに」としか読めなくて、同級生に馬鹿にされたのだ。教えてもらえばなるほどと思うが、初見で「しじまや」と読むのはなかなか難易度が高いと思う。
 以来、悔しさをバネに名前だけは覚えていたが、同じクラスになったことはない。話の流れからすると、向こうも三谷を覚えていたようだが、一体何の用だというのだろうか。
「行けばわかりますよ。あたしの口から説明するよりも、奏に話してもらった方がわかりやすいと思います」
「そうっぽいな」
 乃々花は説明が下手だということは、短い中にも重々読み取れたので、その点には心から同意した。
北の棟の三階に美術室はある。進学校であるためか、三谷の高校では芸術教科に力を入れる生徒は少なかった。中でも課題が多いと評判の美術は、倦厭されがちだ。三谷自身、美術室を訪れるのは初めてである。
 静まり返った廊下の向こうから、吹奏楽部のドラのような音が重なり合って響いてくる。美術室の前につくと、乃々花は躊躇いなく扉に手をかけ、横に引いた。良く通る声で呼びかけながら、すたすたと中へ入っていく。
「奏!職員室から荷物を受け取ってきましたよ」
「荷物?」
「やっぱり忘れていたんですか。画材やらなんやらを運ぶよう、昨日先生に言われていたでしょう。奏がいつまで立っても動かないから、あたしが代わりに行ってきたんです。ついでにほら、お客さんも」
 取り残された三谷は、半開きになった入り口から乃々花の背中越しに中をのぞいていたが、入室をうながされ慌てて歩き出した。室内をぐるりと見渡したところで、水道のそばに立っていた奏が振り向いた。
 ああ、そうだ。こいつが、四十万谷奏。
 今でこそ突然現れた三谷を見つめ、驚いたように眼鏡の奥で目を見開いているが、普段は温和な顔立ちをしていることが十分に見て取れる。三谷に比べるとはるかに背が低く色白で、いかにも文化部といった様である。手にはプラスチックの白いパレットを掲げ、水道のシンクには四つに部屋が分かれたバケツが置いてある。絵の具を洗い流そうとしていたところらしい。
 何より三谷が目をとめたのは、その服装だ。例年にも増して暑い夏だというのに、奏は制服の上から長袖の運動着をすっぽりと被っていた。鮮やかなターコイズブルーの運動着は色こそ涼しげなものの、生地は相当に厚いはずだ。
 まくりあげた袖部分から、細い腕にしがみつくようにして、白いシャツがのぞいていた。黒い制服のズボンを履いているのは三谷と同じだが、この暑いのにどれだけ着込んでいるのだろうか。まるで変人の域を超えている。
 ――と、思っていたのに。
「……涼しい?」
 不意に、首元にひんやりとした冷たさを感じた。風が吹いたのではない。三谷は机の上に荷をおろし、冷気のもとを探す。風が吹いているわけではなかった。まるで氷で出来た部屋の中に入ったかのように、涼しさに包まれたのだ。三谷は他人に叩き起こされた時のように、自分の意識が瞬時に研ぎ澄まされるのを感じていた。
 奏は呆然と立ち尽くしていたが、やがてはじかれたように動き出すと、水を含んだ絵筆を振りながら駆け寄ってきた。三谷は思わず肘を上げて、水滴から必死に顔をかばう。
「おいっ!ちょっとそれ飛び散るって!」
「えっ?あ、ごめん!とりあえずごめん!」
 奏は慌ただしく絵筆を、三谷が運んできた資料集の上に重ね置いた。表紙に水が染み込む前に、そばに立っていた乃々花がさりげなく絵筆を動かして避難させる。
「えっと、本当に三谷くん?三谷くんだよね?」
「いや、まあそうだと思うけど。三谷ってこの学年、俺しかいないし」
「あたしがこの備品類を持ち切れずに落っことしてしまったところを、三谷が親切にも拾ってくれたというわけです」
 迫る奏の迫力に三谷がたじろぐ傍ら、なぜか乃々花は得意げに胸を張っている。奏は困り顔で三谷と乃々花を見比べたかと思うと、まるで背中から殴られたようにものすごいスピードで頭を下げた。それはもう、直角に下げた。
「ごめん!とりあえずごめん!ほら、乃々花も謝って!」
 床に飛ばされる奏の声は必死そのもので、三谷はますます思考が追いつかなくなる。片方の手は腿の横にぴったりとつけているものの、もう片手は未だパレットを持ち水平に保っているために、レストランのウエイターが謝っているような光景である。
 乃々花は不満げな表情を顕わに、奏が頭を下げて見えないのを良いことに、三谷をきっと睨みつけてきた。
「どうしてですか、奏。だから言ったとおりでしょう?ちゃんと三谷を呼んできましたよ」
「そうじゃないでしょ、乃々花」
「でも、脅してでも殴ってでも拉致ってでも連れて来いって言ったのは、奏じゃないですか。だって、奏は――」
「乃々花」
 頭を上げた奏が静かに名前を呼ぶと、乃々花はぴたりと動きを止める。ぐっと何かをこらえるように顎をひくと踵を返し、教卓付近に一つだけある古い椅子に腰かけた。拗ねた顔を隠さずに、肩にかけていたヘッドホンを装着すると、教卓の角を手で押してぐるぐると椅子を回転させはじめる。
 三谷はしばらくその様子を眺めていたが、奏が動く気配を感じ注意を戻した。改めて見ると、進学校である三谷の学校では珍しいことに、奏の耳には 輪っかの形をした銀色のピアスが光っていた。
「ごめんね。冗談で言ったんだけど、乃々花が本気にしちゃったみたい。それに、先生に頼まれていたものを運んできてくれてありがとう。この意地っ張りの後輩に代わりに、僕から二人分お礼を言うよ」
「別に良いよ、暇っちゃあ暇してたとこだから。あと、俺に用があるって、そこのやつに聞いてきたんだけど」
「そう、だね。どこから説明すればわかりやすいかな……まあ結論から言うと、この廃部寸前の美術部には、ぜひとも三谷くんが必要だっていう話なんだけど」
 奏は「よっ、と」と小さな掛け声とともに、机の上に腰かけた。わずかに猫背である。
「俺、絵とか描けないんだけど」
「うん、それは大丈夫。乃々花も描けないから」
「……俺は何も描けないし、描く気もねぇぞ。勉強しないと成績やばいしな」」
 三谷は話しているうちに、自分がどんどん相手のペースに引き込まれていくのを感じた。奏は相手に変に構えさせない、警戒心を呼び起こさせないリズムをしている。にこにこしていかにも害がないように見えて、実は黒板の前でふて腐れている乃々花よりも厄介な相手なのではないだろうか。
「この美術部はね、特設なんだ。学校側が特例として、部員がたくさんいなくても活動を認めて、顧問の先生も割りあててくれている。あんまり知られてないみたいだけどね。でもやっぱり部費はないと困るし、人がいないと潰れちゃうんだよね。そして今年になって人は激減。なぜか生徒会はチャンスだって突撃してくるし……あの人たちに恨まれるようなことした覚えないんだけどね、僕も乃々花も」
 そう言って奏は、不思議そうに口をすぼめる。
「大体はわかった。要は美術部に入部しろってことだな」
「うん。三谷くん、部活やめたんだよね?」
「よく知ってるな」
「クラスで聞いた」
 奏は静かに頷いた。
 文武両道を掲げるこの高校では、誰もが部活動に所属しなければならない。引退時期はその部活動ごとによるが、基本的に籍はずっと置きっぱなしの形をとる。やる気のない生徒の大半は、放課後に顔を出さずとも何も言われない写真部や映研に名前をつらねていると聞いた。
 先週陸上部を辞めたばかりの三谷は、確かに今どこの部にも籍を置いていない状態である。二年にもなって新しく部活動に精を出すのも無理な話であるので、そろそろ緩い部に形だけでも入部届を出すことを計画していたのだ。
「だからね、三谷くんの名前、美術部にくれないかな?欲を言えばうちの部、生徒会の人にちょくちょく様子見に来られちゃうみたいらから、しばらくは放課後ここに通ってくれたら、嬉しいどころの話じゃないんだけど。自分の勉強をしていてくれて、全然構わないから」
「ここでか……」
 奏の提案には、少しだけ心が揺らいだ。校内中を探しても、これほど静かで涼しい、自習に最適な環境はないだろう。実際部活を辞めてから、校庭の声が届く放課後の教室で勉強を行うのは、なかなか辛いものがあった。未練などないと思っていたのに、気が重い結末である。
 しかも教室は、とにかく暑いのだ。かと言って図書館は、はるか昔に部活動をしなくなった受験生に占拠されていて、席までもが決まっているようで、新参者の三谷は場所を探すのにも苦労する。
 静かに考え込んでいる三谷を見て、奏は怒っていると思ったのか、そっと顔をのぞきこんできた。
「確かに、三谷くんがうちの部員になってくれたら良いなって話をしたのは僕だけど、まさか乃々花が本当に連れてくるとは思わなかったんだ。突然でごめんね。えっと、あとメリットとしては……お菓子とお茶なら提供できるかも。ほかにはなんだろう。あ、テストの問題と答え、歴代の分全部取ってあるよ」
「へぇ。やっぱあるんだな、そうゆうの」
「奏、良いんですか。今の説明で」
 それまでずっと二人の話を聞いているだけだった乃々花が、おそるおそるといった調子で口を挟んできた。いつの間にかヘッドホンを外している。奏は表情を変えずに、穏やかに問い返した。
「ダメかな?」
「いえ、あたしは……奏が良いと思うなら、それで良いと思います。部長ですし。絵を描くのは、奏ですし」
 そう言い残すと乃々花はすぐにヘッドホンを耳につけ、椅子をくるりと回し背中を向けてしまった。三谷は目の前の二人の姿と、自分の思考を天秤にかける。
 勉強場の提供というのは、三谷にとってそれなりに悪くない条件だ。いざとなれば籍を置いたまま、ばっくれてしまえば良いだけのことである。そう考えるとどの部に籍を置いても大して変わらないのだから、奏の誘いを受けた方が人助けにもなって後味は良い。
「まあ、勉強していても良いってことなら、しばらくなら来ても良いかな」
 返事はすぐには返ってこなかった。奏は三谷の言葉を聞くと、ゆっくりと目を細め、頬を緩ます。
「ありがとう、三谷くん」
 こんなに気持ちのこもった五文字は、久ぶりに聞いた気がする。それほどまでに美術部の存続は、切羽詰っていたのだろう。三谷が何か言おうと口を開きかけた瞬間、廊下から太い声が響いてきた。
「おい、四十万谷ぁ―!作品できたのか―?」
「すみません、まだです!」
 開けっ放しにした入り口から人影がのぞき、奏はさっと立ち上がった。ひょろひょろと背の高い、中年の男子教師である。ピンク色のワイシャツを堂々と着ているが、あまり似合っていないように感じた。美術の先生だろうか。
 現時点ではまだ部外者である三谷も、とりあえずは軽くぺこりと頭を下げておく。奏は教師に向かって歩み寄りながら、真っ直ぐに手を挙げた。
「先生。この人、入部希望者なんですけど」

<2>

 奏の言った通り、三谷は美術室に居続けるだけで良かった。
 頬杖をついてペンを回していた三谷は、窓の外を眺めながら小さく欠伸をした。同じ瞬間に、キーンコーンカーンコーン――とお決まりの電子チャイムが鳴り、今日も放課後に突入する。形ばかりの起立と礼をすると、すぐにクラス中はがやがやと平和な喧騒に包まれた。身を小さくした教師は、いそいそと用具をまとめ引き上げる。
今週は掃除当番でもないから、鞄に勉強道具をいれてしまえば、すぐに教室にさよならをすることが出来る。使わない教科書をロッカーに放り込み、廊下に向かおうとしたところで、三谷は声をかけられた。
「三谷、暇ならゲーセン行かねって話していたんだけど、どう?息抜きに」
「ん―……やめとく。部活あるから」
「え?辞めたんじゃないのか?陸上部」
「うん。だから新しい部」
「マジ?どこだよ?」
「当ててみろよ。絶対当たんないと思うけど。じゃあな!」
 軽く手を振って、三谷は教室を後にする。放課後に行く場所があると、クラスメイトからの視線を気負わなくてもすむ。北校舎へ向かう長い廊下も、今まで付き合ってきた友達とは少し雰囲気が違う生徒たちとすれ違うのにも、少しずつ慣れてきていた。
相も変わらず蝉の声がする階段を上り、壁の掲示について話し合っている新聞部の横を抜け、突き当りにある美術室の扉を覗く。
ちょうど奏も来たばかりのところだったらしい。小さなガラス窓越しに、鞄をおいて机を動かし、作業スペースを取ろうとしている姿が見えた。三谷は当てつけの少し悪い扉を、慎重に横に引く。
「あ、三谷くん。おはよう」
「おはよ。早いな」
 乃々花の姿はまだ見えない。三谷は手ごろな椅子に鞄をおろし、奏を手伝って場所を作り始めた。
窓際のスペースに、三人が身を寄せ合っているのにはわけがある。美術室の中で一番涼しいのだ。だから多少狭くとも、三谷は手ごろな机を二つ繋げて勉強用具を広げているし、奏は窓に向かってキャンバスを立て、乃々花は椅子にすっぽりと収まって読書をするというのが、最近の日常だった。
しかしながら、三谷はまだ一度も、奏がまともに絵を描いているところを見たことがない。最初に美術室に訪れた時は、画用紙に水をたっぷり落として絵の具の色をにじませ遊んでいたようだし、その次はクレヨンで黒く塗ったうえから爪で削って虹色の棒人間を作っていた。本気で描いたと見せてくれたデッサンも、美術選択ではない三谷の方がまだマシではないかというレベルである。
この様で部長を務めているとは、本当に美術部の存続は崖っぷちであるのだろう。妙に納得してしまう。ちなみに三年には他にも名簿上の部員はいるらしいが、二年と一年はそれぞれ奏と三谷、乃々花だけなのだという。
机をどかし終わりスペースを確保すると、先ほど蒸し暑い廊下を抜けてきた時にかいた汗の存在が、急に首裏に思い出されてきた。三谷は手近にあった椅子をひいて腰をおろすと、普通の教室よりも大きくできた机にぐでっと突っ伏した。
「にしても、こう毎日毎日暑いと嫌になるな。去年どうやって乗り切ったんだか、全っ然思い出せない」
「本当だね。今年は猛暑だってニュースでも言っていた気がするな」
「暑いのは苦手なんだよ。息苦しい。冬は良いんだけどな、別に」
「そう?僕は冬の方が、どちらかというとダメかな」
「なんで?着込めば良いだけじゃん」
「うーん。単純に、着込むのが面倒なんだよね」
「それぐらいなら良いじゃん、頑張れよ。雪とか遊べるしさ」
「夏だってプールとかあるよ」
「あー良いな、プールか。水泳の授業って回数限られてるしな。今日とかすっげー暑いし、入って泳いだら涼しいんだろうなー。こういう時だけは、水泳部のやつらがうらやましいかも」
 三谷は話しながら、瞼の裏に揺れる水面を描き出した。忽ち塩素のきいた独特の匂いが鼻腔をくすぐった気がしたが、実際は強い夏の日差しが、窓の向こうでさんさんと降り注いでいるだけだ。美術室はちょうど、周囲の校舎に囲まれて陰になる位置にある。遠くの校舎が白く照らされているのが見えていた。
 三谷はため息まじりに上体を起こし、頬杖をついた。三谷が起き上がったのを見ると、にこにこと微笑んでいた奏は何でもないような調子で、
「あ、楽しそうだね。やろっか」
「へ?」
「おはようございます、奏!あと三谷も」
「ちょうど良いタイミングだね、乃々花。ドア閉めてもらえるかな?」
「はい」
 乃々花は素直に頷くと、奏の指示に従いドアをぴったりと閉めきってから三谷たちの元へ歩み寄ってきた。手には古びたハードカバーの重そうな本を持っている。
乃々花は美術部に籍を置いているが、していることと言えば常に読書だった。実質的にきちんと活動しているのは奏一人らしいが、顧問は何も言わない。言うことといえば、奏の作品が仕上がったかどうかという質問である。
 耳に装着していたオレンジ色のヘッドホンを肩にかけると、乃々花は「なんですか」と問いかけるように無表情のまま小首を傾げてみせる。奏は演技かかった動作で片手をかざし、ニヤリと口角を上げ笑みを作った。
「学校のプールを独占して遊ぼうと思うんだ」
「……は?」
「プールですか。確かに最近本格的に暑くなっていますし、涼しくて良いですね!」
 思わず眉根を寄せた三谷とは対照的に、乃々花もこともなげに同意した。
「さすが奏です!ナイスアイデアです!で、また制作に行き詰ったんですか?」
「ううん、今回の発案は僕じゃなくて、三谷くんだよ」
「……いや待て待て、いろいろとおかしいだろ」
「え?何が?」
「何がですか?」
 奏と乃々花が口をそろえる。三谷は頭を抱えたくなった。
ここまで不思議そうな視線を向けられると、三谷の方が間違っているのではないかという気がしてきてしまう。
「とりあえずだな、冷静に考えて、今プールは水泳部のやつらが練習に使ってるだろ。あいつら本気で頑張ってるんだから、邪魔しちゃ駄目だ」
「うん、確かに三谷くんの言うとおりだね。必死な彼らの邪魔をしてしまってはいけないね。では、プールを占拠するにはどの時間が適切でしょうか?はい、乃々花さん」
「はい!誰もプールを使っていない時間だと思います!つまり、授業中にどのクラスもプールを使用していない時間か、もしくは朝および夜でしょうか」
「まあ、『思い立ったが吉日』っていう言葉があるくらいだから、今日の夜かな。二人とも、何か用事ある?」
「あたしはないです。あったとしてもすっぽかします」
 話は三谷をおいてどんどん進んでいく。
「おい、乃々花。おまえは良いのかよ」
「奏が行きたいと言っているのですから、あたしが行かないわけにはいきません。しかもどうせ、一度思い立ったら奏は一人でも決行してしまいますしね。最終的にばれなければ良いだけの話ですから、頑張ってみましょう。三谷だって、口では真面目なこと言っていますけど、ちょっとわくわくしているでしょう?」
乃々花は冷静を装っているものの、抑えきれない笑みを口元に浮かべ、全身をそわそわとさせていた。もし尻尾が付いていたのならば、さぞかし大きく振っていたことだろう。
「そりゃあ……久しぶりだしな、こういう馬鹿やるの。陸上部だった時は、いや中学の時か、あの頃はそれなりに馬鹿やってたんだけど。にしてもさ、さすがにちょっと、危ないんじゃないか?」
「大丈夫。絶対に出来るよ」
 こわいほどに優しい声が、美術室中に染み渡るように厳かに響いた。ぞくりと背筋に冷たいものが走り抜け、反射的に目を丸くした三谷は、続けようとしていた言葉を飲み込んだ。思わずばっと振り返って見上げた先の奏は、しかし何事もなかったかのように、柔和な面持ちでにっこりと笑っている。
「『光速で走れ』とかって言われているわけじゃないんだから、1やろうと思えば出来ることだよ。夜中に学校に来るのも、塀を乗り越えるのも、プールに入るのも、普通に出来ちゃう範囲のことだって。やったことある人の話も知っているよ」
「誰?先輩とか?」
「ううん。僕」
 今度こそ唖然とする番だった。初対面時から薄々気づいていたが、やはりこいつは害のないような顔をして食えない性格をしている。
 奏は言葉を失っている三谷を楽しそうに眺めていたが、唐突にサッと表情を真剣なものに変えると「……ごめん、ちょっと失礼」と早口で告げ、美術室の入り口へと向かっていった。
三谷は奏の背中を見送りながら、こっそりと乃々花に話しかける。
「あいつってもしかして、相当な問題児なのか?」
「奏の行動は、ひとえに創作活動のインスピレーションを得るためのものだとあたしは考えることにしています」
「つまり変人ということか。納得したよ」
「悪い変人ではないですよ。なんというか、前向きな変人です」
「それはわかる……で、今度はなんなんだ?」
「生徒会の人が覗いていますね。この前のでもまだ懲りてないんですか……馬鹿なんですね」
乃々花はあちら側から見えないのを良いことに、小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべている。何かをやらかして反感をかったのは案の定、この生意気な後輩らしい。やがて再び扉を閉めた奏は、首を横に振りながら戻ってくる。
「ちゃんと部活動しているかどうか、偵察に来たんだって。嫌われちゃったもんだなあ……でも、ちょっと面白そうだと思わない?」
「何がだよ?」
 三谷が問い返すと、奏はわずかに頬を緩めただけで何も教えてくれなかった。その代わりに集合時間と、とても計画とは呼べない大雑把な概要を聞かせてくれた。


 たとえばある日気の向くままに学校を放り出して、突然ありったけのサイフの中のお金で片道切符を買って出かける。そんな日の模様を多くの人は想像はしても、実際に行動には移さない。本当は容易に実現できることであっても、自分の周囲の人間のことを思い出して、そんなことは出来ないと諦めてしまう。あるいは想像しただけで満足してしまおうからなのかもしれない。そんな想像はある種の衝動のようなもので、多くの場合心の赴くまま行動したところで意味はないのだと首を振る。
ただ、もしもその衝動のまま。思い描いたことを現実にしてしまおうと動けたのならば。その時は、とても楽しい時間が待っていることを、知っている人もまた多いのだろう。小さい時は誰もがそうして走り回っていたのだから。
「そろそろ時間だよな……?」
 歩きつつ腕時計を確認すると、針はぴったり十時を指すところだった。奏が決めた集合時刻だ。道路を挟んだ壁の向こうには、昼とはまったく姿を変えた学び舎がそびえたっている。
夜の学校は不気味だというのに、こわいとは全く思わなかった。いつもは見られない異空間への畏怖よりも、これから行うミッションへの期待が勝っているからなのかもしれない。
 三谷の家は学校から徒歩圏内である。親には少し散歩をしてくると言い残し、家を出てきた。なぜか制服のままでという奏の指定で、まだ着替えていない。逸る気持ちを抑えつつ校舎裏の神社に向かうと、小柄な女子生徒の影が遠くからでもわかった。乃々花は近づいてくる三谷に気付くと、ヘッドホンを外して小さなメタリックの音楽プレーヤーをスカートにしまった。
「おまえ手ぶらなの?タオルとか水着とかは?」
「あたし、泳げないので」
「そっか……あとさ、暑くないの?髪。長いけど」
「奏が下している方が好きらしいんです」
「好きなんだな、奏のこと」
 乃々花はちらりと横目で三谷をうかがうと、すぐに元通り前を向いた。無愛想な横顔に動揺は見られない。
「もちろん、と言いたいところですが……たぶん、三谷が考えているようなのとは違うと思います」
「違うって?」
「奏のそばは、息がしやすいですから。ただそれだけです。三谷も今にきっと、わかりますよ」
 今までに聞いたこともないような優しい調子で予言を告げた乃々花は、三谷の背中のずっと後ろを見ている。視線の先を追って振り返ると、ぽつぽつと佇む小さな電灯に照らされた道路の先に、小走りで駆け寄ってくる奏の姿があった。ずいぶん遠くから走ってきたのか、息を切らせている。
「ごめんごめん、遅れたね」
「おまえは逆に荷物多くないか?」
「うん?これ?」
 奏は自分が持っている大きな紙袋に手をつっこむと、中から大きなプラスチックの鉄砲を取り出した。
「ほら、水鉄砲!必需品じゃない?」
 奏は無邪気なまでにはしゃいでいる。大人しい性格なのかと思っていたが、思い立ってすぐに本当に忍び込もうと計画を立ててしまう大胆さといい、ぶれ幅の大きい精神年齢を持っている。評価を訂正した方が良いかもしれない。
 三人は連れだって歩き出した。道路を渡れば、校舎を取り囲む低い外壁はすぐである。それほどまでに背丈があるわけではないが、足をかけるところがないと越えるのは難しい高さだ。特に小柄な乃々花は、普通に上るのでは難しいだろう。校門はもちろん鍵がかけられているだろうし、何より目立つかもしれない。
三谷は声を潜め、先頭を歩く奏の隣に並ぶ。
「で、どうやって入る気なんだ?」
「普通に壁を越えちゃえば良いんじゃないかな。三谷くんなら知っているでしょ?運動部がいつも乗り越えているところ」
「なるほど。この前もそうやって入ったのか」
「ううん。前の時は美術室で寝ていたら、いつの間にか取り残されちゃって。どうせだからついでに泳いで行こうかなーってかんじで泳いだよ」
「……うちの学校、警報ないのか」
「みたいだね。不用心だなぁ……まあ誰も泳ごうとする人なんていないってことなのかな。さて、僕から越えれば良いかな?乃々花のことは、引っ張り上げるからね」
「お願いします」
 奏は乃々花に向かって頷くと、目の前にある何の変哲もない外壁に手を伸ばした。この場所は特に手が加えられているわけではないが、実は他よりも少しだけ低くなっている。周囲の建物に隠れ人に見つかりにくい位置であったり、乗り越えた先が体育館の裏という絶好のスポットであったり、さらに言えば裏側には使われなくなった机といすが階段代わりに放置されているし、壁には先人たちがつけた掴み跡と足の置き跡があるので比較的上りやすいのである。三谷も何度か利用したことがあるが、暗闇の中手探りで上るのは初めてだった。
 意外なことにも典型的な文化系だとばかり思っていた奏は、易々と壁を越えてすたっと軽快な音とともに向こう側に着地した。それからすぐに壁の上から乃々花に向かって手を伸ばす。先ほど上った場所からは一歩ほど横の位置であるのは、階段代わりの机に上っているからだろう。
乃々花は無言のまま奏の手を掴むと、もう勢いよく壁を蹴った。苦戦しているようだったので親切心から「支えようか?」と申し出てみるが、「さわらないでください絶対に」と即座に断られてしまった。奏の十倍くらいの時間をかけてやっとのことで乃々花が上り終え、最後に三谷も長身を活かして校内に降り立つ。
 塀の中は街灯がない分、今まで歩いてきた道路よりも暗かった。昼間はあれだけ喧騒に包まれた場所であるというのに、今はただ静寂だけが辺りを支配している。
体育館裏からプールまではそう遠くない。三谷たちは足を忍ばせて進んだ。途中、奏は「静かにね」と人差し指を口に当てて笑った直後、「あっ!」と悲痛な叫びを上げた。三谷はすぐさま頭を下げ、素早く辺りに視線を走らせる。
「どうした?」
「水鉄砲に気をとられていたら、水着忘れた……今気付いた……うーん、着衣水泳かあ」
 そうして奏ががっくりと肩を落とした他には特に問題も起きず、それほど早足で歩いていないにも関わらず、ものの三分程度でプールの前までたどり着いてしまった。四方を囲む緑色のフェンスの隙間から、きらきらと揺らめく水面が見えた。月明かりもなかなか馬鹿に出来ない。懐中電灯などなくとも、少し開けた場所に出ると足元は不自由のない程度には見えている。風などほとんどないはずなのに、水面は小さな波を立てるように揺らめき、涼しげな色を映し出していた。
乗り越えやすい場所を探すためフェンスに近づいた三谷は、扉部分についた南京錠を見て目を細めた。
「……鍵、開いてる」
「不用心ですね。まあこの高さを上らなくて良いなら助かりますが」
 奏の後ろから遅れてやってきた乃々花がひょっこりと顔をのぞかせる。おそるおそる取っ手に手をかけると、あっさりと扉は押せてしまった。余りの手ごたえのなさに拍子抜けした三谷が手を離すと、代わりに伸びてきた奏の手が、人ひとりが通れる幅まで押し開ける。
「でも乃々花、こうやって乗り越えるのも、なんだかそれっぽくて面白いと思わない?」
「はい、面白いです」
 即答だった。そろそろ慣れてきたと思っていたが、半ば衝動的に三谷は振り返ってしまう。暗闇の中で目があった乃々花が首を傾げているのが見えた。乃々花のそれは傾げるというより、顎を斜めについと上げ強気な様を表しているように見える。
「行かないんですか、三谷」
「俺が最初に入っちゃって良いの?」
「もちろんです。三谷に何かあったら、あたしは奏と一緒に全力で逃げるので」
「三谷くん、僕が最初に行こうか?」
「奏が行くならあたしが行きます!」
「……もういいや、おまえらちょっとうるさい。黙ってろ」
 三谷は二人が声量を下げるよう、手のひらを下に向かって動かし示した。このままでは周辺の住人に聞きつけられてしまうかもしれない。人の声は虫の鳴き声とは違って響くのだ。奏も乃々花も、わずかに早口になっている。胸の中ではこみあげる期待を抑えきれずそわそわとしていたが、三谷は出来るだけ落ち着いているふうを装って低く声を潜めた。こんなの大したことではないじゃないかと、何度も自分に言い聞かせる。そうだ、どうしてこんなにわくわくしてしまっているのだろう。ただの校則違反じゃないか。
 胸の中に一瞬だけ込み上げた後悔は、半開きの扉を右手ですっと指し示した奏のうやうやしい面持ちを一目見た途端、忽ち失せてしまった。奏はうやうやしく退いて、三谷の前に道を作る。確認のためにその顔を見やると、奏は三谷の視線を受け止めてにっこりと笑んだ。
「うん、どうぞ」
 たった一歩の距離に、無性に緊張してしまうのは何故なのだろうか。これが静寂の効果だというのなら、静かな環境というのはむやみやたらに褒められたものではないなと三谷は思った。自分が吐いた息の音が耳まで届いている。そういえば体育場のトラックを走り出す前の沈黙に似ているかもしれない。しかし今はあの時とは違って、ピストルの音を待たずに自分の思うタイミングで足を踏み出せる。二人の注目を背中に受けながら、三谷は体を斜めに向け隙間に滑り込ませた。
反動で、少しだけ動いた扉が、ぎぃと重たげな唸り声をあげる。四方を守られた空間は、驚くほど空が高かった。歩み寄るうちに、塩素の匂いが三谷の周りに包み込むようにくっついていった。ゴムで出来た水はけの良い床は、足音までをも分散してくれる。振り返った三谷は親指をぐっと立てて、残る二人に合図を送る。
 やがて一足先に水際までやってきた三谷は、膝を曲げ縁にしゃがみこんだ。揺れる水面の先へ、そろえた四本の指をそっと入れて温度を確かめる。途端に、それまで感じていた腕にまとわりつくような蒸し暑さは一瞬にして吹き飛んだ。冷たさに満足するとともに、頬を緩むのを感じる。
三谷はすくりと立ち上がる。持参した水着に着替えられそうな場所を探し、ぐるりと辺りを見回すと、同じようにプールのそばまでやってきた奏が隣に立つ。
「大丈夫みたいだね」
「だな。上手くいった」
「水温どうだった?冷たい?」
 奏は腰を落とすと先ほど三谷がしたように水の中に手を入れ、「うわぁー」と楽しげな声を上げる。自分ではじいた水がかかってしまったのか、眼鏡を外すとプールサイドの上に慎重に置いた。そして組んだ手を頭上に高くあげ、大きく左右に傾けながら背中を伸ばした。
「でさ、三谷くんは泳がないの?」
「泳ぐよ。だから今――」
「じゃあ、一緒に!」
 どんっ、と。奏の手のひらで背中を押されたのだと思った時は、すでに手遅れだった。反射的の伸ばした手はむなしく宙を掴み、バランスを崩した三谷が腕をついて着地する先は、水の中以外にはありえない。目をぎゅっと瞑り、肘を曲げて顔の前で交差させた。
全身の輪郭に軽く刺すような衝撃が走り、三谷は大きな大きな水槽へと飛び込んだ。体中を包み込む温度は、手を入れて確かめたものとは違う。浮上した三谷は魚のように大きく口を開け、息を吸い込んで叫んだ。
「――冷たっ!」
「あははっ!三谷くんも道連れー」
「おまっ、何すんだよ!テンション上がりすぎだろ!耳ん中に水入ったっての」
「二人とも!もう少し音量控えてください、見つかっちゃいますよ!」
 プールサイドに立つ乃々花は手をメガホン代わりに口に当て、ひそひそ話をする時のような声で精いっぱい怒鳴っている。奏は乃々花に向かって大きく手を振って応えたが、三谷が推測するに、あれはきっと反省する気が微塵もない。三谷はというと、首がまわる限界まで頭を傾け、耳の中から水を追い出していた。
「あー気持ち悪ぃ……つーか、重っ!絶対失敗だろ、これ。しかも俺はちゃんと水着持ってきてたのにさあ」
「あははっ!まあまあ。ほら、どうせならいつもは出来ないような体験をね?」
「奏、俺絶対に忘れないからな。このこと」
「だって三谷くん一人だけ着替えて泳ぐって、仲間外れだし、かわいそうだし、ずるいじゃん。購買のパン、好きなやつおごるから忘れてよ」
「……ちょっと考えとく」
無邪気に笑う奏の明るくのびた声色を聞くうちに、なんだか怒るのも馬鹿らしくなってしまった。すっと肩の力を抜くと、三谷にも笑いが込み上げてきた。溢れ出る笑みを隠すため、大きく息を肺にためこんだ三谷は膝を曲げて水の中に沈みこんだ。唇の間から生まれた泡が、額をくすぐって次々と浮上していく。これでもう、全身びじょぬれだ。再び空気のある世界に顔を出した三谷は、額に張り付く髪をかきあげ、靴だけを脱いでプールサイドに放った。
極力水音を立てないように、足を動かさず腕の力でこぎ進んだ。まとわりついた服の重さも忘れるほど、冷たい水の中をただひたすらに真っ直ぐ泳いだ。黒を帯びた水の中では床に記されているはずの線も、ぼんやりとしか見えない。少し泳いでは立ち止まり、前髪をかきあげ自分がいる場所を確認する。中学の頃には大きな声では言えないようなやんちゃなことも何度もして怒られていたものだが、奏の計画を止めるどころかすぐに加担することを決めてしまうあたり、今もその本性は変われていないのかもしれない。模範生の肩書は程遠かった。喉の奥から小さな笑いが込み上げてくる。
 プールのほぼ中央に、奏が仰向けになってぷかぷかと浮かんでいる。三谷は背中から倒れるようにして後頭部を水の中に沈め、勢いよく両の足で壁面を蹴った。消しようのない、やわらかな水音が生まれる。水面に体を横たえた三谷は、慣性に任せてその上を漂おうとしたが、水を吸った思い服のままではバランスを取ることは難しく、すぐに沈みそうになってしまった。何度か背泳ぎを試みた後に結局は諦め、抵抗を振り切って水の中を歩いて進む。手のひらをお碗のようにして掬い上げ、奏に向かって放り投げてみたが、冷たい水は指の合間からこぼれ落ちるばかりでちっとも届かなかった。
「ねえ、三谷くん」
「おー」
「せっかく思いついた面白そうなことを、考えただけで終わらせるのは、違うよね」
「……?なんだよ、それ」
「僕は今、とても楽しんでいますよって話」
意味深げに耳に残った奏の発言を、けれども三谷はすぐに思考の外へ追いやってしまった。わずかに視線を上げれば、四角く切り取られた空が遠く、遥か頭上に広がっていた。月は白い薄い灰色の雲の後ろに隠れその光をやわらげ、小さな青い星と小さな白い星が点々と黒い空に染みを作っていた。風はなくとも三谷たちは静かな航海を続け、そこには小さな波紋が生まれる。
会話は途絶え、代わりに蛙の声が夏の夜に流れている。ぴちゃりと耳の裏を伝って落ちた水滴が跳ねた。そっと瞼を閉じれば、冷えた身体の境界を透明な水がなぞる。静寂と集中が、自分の身体が存在していることを強く意識させていた。思い出すのは、トラックを走り出す前のあの瞬間だ。三谷は始まりの合図を待つ一瞬の緊張が、自分の息が近くに感じられるあのわずかな時間が好きだった。あの時ほど自分の存在を近く感じることはない。まるで、逆さまだ。
 長く、細く、お腹の底から息を吐いた。再び目を開くと奏はマイペースに背泳ぎを続けている。プールサイドに座り込んだ乃々花は、水の中に入れた足をばしゃばしゃと動かして涼んでいた。どんな時でも個人行動ばかりの連中だ。心底呆れているはずなのに、不快に思うことはなかった。新鮮な距離感であるはずなのに、もうずっと前から慣れ親しんでいる気さえもしている。
 一度水中から上がり熱い地面で体を温めようと考えた三谷は、しかしプールの端にたどり着く前にふと足を止めた。視界の中に違和感がある。残念なことにも、嫌な予感とはたいてい当たものである。暗い校舎に向かって目を凝らし、しばらくじっと見つめていると、無人のはずの廊下を小さな白い点のような明かりが通過して行った。窓にぼうっと浮かび上がった明かりは真っ直ぐに横に向かって進んでいる。三谷は冷えた身体を強張らせた。
「おい、マジかよ……こんな時間に学校にいるって、どんだけ仕事熱心なんだ。信じらんないな。奏、あそこ見て。人がいる」
 奏は三谷が指差した方向に目を細めていたが、しばらくするとプールサイドに上がり眼鏡をかけた。そしてもう一度夜の中に静かに佇む校舎を眺めていたが、やがてその表情は険しくなっていった。乃々花は足を動かすのをぴたりと止め、素早く立ち上がりながら緊張を含んだ囁き声で奏に問いかける。
「連中ですか?」
「さあ、どうだろう。わからないけど、でもスリルがあって良いかもね。やっぱり今日にして正解だった」
短い会話を聞いた三谷は、放課後の来訪者の存在を思い出し、おのずと事情を理解する。どうやら今日は特に警戒されていたらしい。いくら暗闇に紛れているとはいえ、遮るものが何もないプールにとどまり続けていれば、見つかるのも時間の問題だろう。校舎の上の階から見れば容易に発見出来てしまう。確実に引き上げるならば、今しかない。
しかし奏は相変わらず悠々と構えたもので、
「まあ、見つかっても怒られるだけだよ。誰だって怒り続けるのは疲れるから、せいぜい一時間くらい大人しくしてれば済むだけの話だ」
「あたしは嫌ですね。そんなことするなら一時間でも多く本を読む時間に費やした方が効果的です」
「俺も嫌だ。おい、どうすんだよ」
「どうするって……一つしかないですよ。これで廃部になっちゃたまりませんし。ね、奏」
「そうだね。同意するよ。あ、でも水鉄砲……せっかく買ってきたのに」 
「明日でも明後日でも、美術室でやれば良いだろ」
「そうするしかないかー」
 三谷は腕の力で上半身を水から浮かし、のんびりと腕を組んで体をぐらぐらと揺らしている奏の隣によじのぼった。不満げな顔を横目に、シャツの裾をねじるように絞って、服が吸い込んでいた水を少しでも減らそうと努力する。プールに侵入した形跡は、どうやっても自力では消せない。こればかりは自然に乾くのを願うばかりである。
ぽたぽたと垂れ落ちる水滴にはきりがない。重たい靴を履くと、足を地面につける度にスポンジから染み出るように水が指先を濡らした。つま先を地面に向けて軽くたたき、しっかりと走る準備を終える。そうして振り返った先で、奏はニヤリと、三谷が今までに見てきた中で最も人の悪い笑みを浮かべた。
「さ、逃げよっか」


今思えば、学校から抜け出す時よりも、びしょ濡れの姿を家族に見られないように自室に戻る方が神経をすり減らしたように思う。次の日が休みであったために、制服が乾かないという心配をする必要はなかったが、一人だけ風邪をひいた奏は土日の間ずっと寝込んでいたようで、週明けには大きなマスクをつけて美術室にやってくるとくしゃみを連発していた。なぜ制服でという指定だったのかは、聞きそびれてしまったのでわからない。ただわかっていることは、奏は考えついたことをそのまま行動に移してしまうような、一風変わったやつだったということだ。
あの日以来、少し二人との距離が縮まったような気がしたのは、おそらく気のせいではなかったと思う。結局購買のパンをごちそうしてもらう機会はなかったので、三谷はあの日のことを、覚えていても構わないはずだ。

<3>

 その年の残りの夏は、あっという間に過ぎ去った。秋もまた同じように短いものだった。足音を忍ばせて近づいていた冬が、すぐに秋を飲み込んでしまったのだ。そのぶん遠くの山の紅葉が例年よりもずっと鮮やかに、寒空の下に彩りを添えていた。
 表向きは受験勉強を理由に陸上部を辞めてはいたものの、勉強に対する意欲が継続するはずもなく、三谷は夏ほど足繁くは美術室に通わなくなっていた。しかしながら、新しくはじめた塾で熱心に机にかじりついているわけでもない。することがない放課後に自然と足が向かう先はやはり美術室だったので、訪問回数こそは減ったがそれでも幽霊部員と呼ぶほどではない。
 三谷は込み上げる欠伸を必死に噛み殺しながら、凍える階段を足早に上る。ちょっとした避難場所だとか、秘密基地を学校の中に作ったという感覚に近いものがあるのかもしれない。受験という二文字に向けて、前の日の夜に遅くまでゲームをしていたことが今更になって悔やまれた。授業中に何度舟をこぎかけて頭を揺らしたことだろうか。背が高い三谷の席は教室でも後ろの列にあるのが常だったので、少しくらい居眠りをしたところで気付かれないかと思いきや、意外にも教師からは見えてしまっているらしい。意地が悪いことにわざと問題を当ててくる先生もいるため、油断は禁物だ。
 そうして緊張感を保って乗り越えた放課後に、再び眠気が三谷を襲ってきていた。ふと踊り場で三谷は立ち止まり、長身を活かして格子で区切られた横長の小さい窓の外をのぞいた。分厚い雲が日を遮っていて、まだ夕方の早い時間だというのに辺りは薄暗い。
 一気に階段を駆け上がって美術室の扉を開けると、先に来ていた奏がちょうど着替えを終えたところだった。着替えるという行為が人の生活の中で一番面倒くさい動作だときっぱり言い切る奏にとっては、長袖のシャツの上にブルーの運動着の袖を通すことが着替えの全てである。また最近では、長い前髪を結んで触角のように額の上に立てるのがブームらしい。ここしばらくは乃々花に借りた細い輪ゴムのようなヘアゴムが気に入り、愛用しているようだった。
「……おまえ、またその格好なの?」
「暖かくて良いんだよー、わりと。三谷くんもやればわかるって」
「俺はパス」
 三谷は参考書がぎっしりと詰まった重たい鞄を手ごろな机に放る。どことなくプレッシャーを感じた周囲が慌ただしく席を立っていく中で、放課後の美術室にはゆったりとした時間が流れていた。奏が作り出したその空間は、まるで外部と切り離されたようで、息がしやすい場所だった。
 奏は相変わらず過ごしやすい場所を見つけるのが上手なようで、奏の周りに三谷達はおのずと集合する。冬も半ばに差し掛かっていたが、どこから調達したのか、奏はヒーターまで持ち出してきたので、どんなに寒い日でも美術室の中は普通の教室に比べ快適の一言につきた。
 同じ空間にいながら別のことをしているのに、その妙な距離感に居心地の悪さを抱いたことはない。すっかり肌に馴染んだ空気の中で、三谷は内心首を傾げた。入部届を書かせられてからまだほんの二、三か月しか経っていないのに、ずいぶんと打ち解けたものだ。しかしすぐに、部活に入った新入生も夏頃には慣れるものだという理由を見つけ、自分のことを納得させる。
 背もたれのない椅子に腰かけた三谷のすぐ右隣では、持参したひざ掛けで足を守った乃々花が一寸の身じろぎをせずに俯いている。三谷が来たことには全く気が付いていない様子で、膝にのせた本にじっと意識を集中させていた。
「乃々花、それって『源氏物語』だよな?今習う時期なのか」
「……三谷に教える義理はありません。気が散るので黙っていてください」
 珍しくもトレードマークのヘッドホンが首にかかっていたので話かけてみたのだが、案の定乃々花は三谷を一瞥することもなく、澄まし顔でぴしゃりと会話を打ち切ってしまった。
 なんとも横柄な後輩である。しかも乃々花は手にしていたハードカバーの本を閉じて、三谷から見えないように抱きかかえてしまった。三谷は軽く頭をかいて不満をアピールしてみるものの、乃々花は白い紙に落とした視線を固定してしまっている。
 鞄から問題集を取り出した三谷は、机に頬杖をついた。指の先でぱらぱらとページをめくりながら、いつも通りに助け主の名前を呼ぶ。
「奏ー、頼む」
 三谷は横目で一心に絵筆を動かしている奏を見やる。三谷の間延びした声を聞いた奏は、「んー」と空返事をしていたが、数秒もしないうちに絵筆を置き、律儀にもリクエストに応えてくれる。
 どうやら奏は絵を描きながらも、しっかりと三谷たちの話を聞いていたようだ。乃々花に向きなおった奏は、眼鏡の奥で目をにっこりと細めるとのんびりと口を動かす。
「乃々花、僕も気になるな」
「はい!今日の読み物ですか?『源氏物語』ですよ。とは言いましても、一気に読んでしまいたかったので、現代語訳のものですけど」
 乃々花は先ほどとはうって変わって、にこにこと愛想良く答えた。三谷が指先ではじいた消しゴムの欠片が机の端から、広い宙へと飛んでいく。
「おまえがテスト勉強しているなんてのも珍しいな」
「別に勉強なんてしてないですけど?あたしはまだまだ受験生じゃないですし」
 器用にも椅子の上で体育座りをした乃々花は、不機嫌さを全身で表しながら三谷を睨んできた。
「読みたいから読んでいるだけです。テストとか勉強とか、関係なく。長く読み継がれている名作だからこそ、質は保障されていますし、一度は読んでおかなくては」
「うわ、さすが本の虫」
「あっはっは。理系のひがみは醜いですねぇ」
 笑い声が棒読みだ。褒めるつもりで言ったのだが、乃々花の声のトーンはわずかに下がっていた。怒っているのか照れ隠しをしているのか微妙なラインだ。扱いにくい性格をしている。
 そもそも乃々花の読書量は文系理系の違いとは別次元なのだから、比べるべきものではない。
「なあ、奏。俺らが習ったのっていつ頃だったっけ?西川先生に教わったことは、覚えているんだけど」
「たぶん……一年生の終わりころじゃないかな」
 基本的に奏の口元は微笑んでいるように見えるからお得だ。三谷は無愛想だと良く祖母に怒られるのだと話すと、奏本人はそうでもないと言っていたが、三谷からすればやはりお得だと思う。
「一年の時か……二年じゃなかったか?」
「そうだっけ?」
「もしかして、クラスごとに進度が違っているからとか?」
「それはないよ。大して変わらないと思う。まだ文理分けしてない時期だろうし。うーん、言われてみるとそんな気もするけど……でもさ、三谷くん。どっちもそう変わらないよ」
「いや、そりゃあ……そうだけど」
 こういう場面がたびたび重なってくると、奏も大概適当なところがあるという乃々花の言葉にも信憑性が出てくる。奏はどこかで聞いたことがあるような鼻歌を振り散らしながら、硯で墨を擦っている。本日の創作は、水墨画らしい。机には皺の付いた半紙が広げられ、そのそばに根元の広がった筆が準備されている。床に置かれた懐かしの習字用具バッグの側面には、「しじまやかなで」と平仮名の名前札がつけられたままになっているのが見えた。
 奏は墨を擦る作業に、楽しみを覚えてしまったようだった。すでに十分な量が硯の中に溜まっているのにも関わらず、一向に手を止めようとはせずにのんびりと会話を続けている。
「教科書に載っているお話ってたぶん定番なんだろうけど、わりと読みごたえがあるやつが多いよね」
「俺はテストで苦しんだ覚えしかないけどなぁ」
「そういえば三谷って頭良いんですか?微妙ですか?」
「真ん中よりちょっと上くらい」
「確かにそんな雰囲気していますね。言われてみれば、納得です」
 乃々花は真剣な表情で腕を組み「なるほどなー」と一人ぶつぶつ呟いていた。三谷が押し黙っていると、奏の方がなぜか申し訳なさそうに眉を下げ、 「ごめんね」と口をぱくぱくと動かして無音で謝罪をしてきた。この二人の関係性は未だに不明である。どこまで踏み込んで良いものか、今日にいたるまで計りかね続けている。乃々花が崇拝といっても差し支えのないほどに奏に心酔している理由も、奏が後輩としては失格の乃々花を特設美術部に勧誘した経緯も、三谷は何一つとして聞かせてもらっていない。今はまだ、さわらぬ神にたたりなしという文句が頭の中に腰を据えている。
 視界の端で手のひらを口の上に翳した乃々花が、大きな欠伸をするのが見えた。乃々花は眠たげに下を向いていたが、二人分の視線が注がれていることに気付くとばつが悪そうに顔をそらす。
「すみません、昨日遅くまで本を読んでいたので」
「おまえもか。俺も昨日、寝たの遅かったから、授業中何度も眠りかけてさ」
「二人とも、珍しくおしゃべりが多いと思ったら、そういうわけだったんだ。なんだか僕もつられて眠くなってきそうだなぁ」
「いや、それはないだろ」
「え?欠伸って伝染しない?」
「初めて聞いた。あー眠いっ!」
 気付けば大きな欠伸がせりあがってきていた。三谷は指の腹で目蓋をごしごしとこすり、にじみ出た涙をぬぐう。少し頭を使っただけでこの眠気は危険だ。
「本当だ。俺にも眠気うつった」
「いっそ思い切って一度、お昼寝してみたら?眠い時は無理しないで、一回寝ちゃうとすっきりするって、聞いたような気がする」
 ようやく墨を擦り終えた奏は、墨汁をひたした筆を持つと、肘を水平に上げて躊躇いなく真下へと落とした。勢いそのままに大きく腕をひき、真っ白な紙の上に何本もの川を走らせる。筆を持つ奏の手は止まらない。三谷は邪魔にならないようにめいっぱい首をのばし、脇からそっと半紙を覗き込んだ。
「……おまえさ、相変わらず下手だよなあ」
 三谷の呆れ声を聞いた奏は、楽しそうに笑った。筆は滑らかに動き続けている。
 すぐそばで再び欠伸をしていた乃々花が眉を寄せたような気配があったが、気付かないふりをする。実際に奏の描く絵は、そのほとんどが小さな子供の落書きのようなものだ。三谷の方が上手く描けるのではないかと、時々本気で思う。
 美術主任を走り回らせ、特例で部が保たれるくらいには才能があるはずなのだが、三谷は未だかつてその成果を目にしたことがない。素直に思ったことを口にしているだけなのだが、三谷の酷評を耳にする度に、乃々花は奏の才能が理解できない三谷がおかしいのだと口をとがらせた。当の奏本人はというと、こうしていつも朗らかに微笑んで、口を閉ざしている。
 黒板の上に設置された時計を見上げるとすでに長針は半刻ほど周っていて、三谷はほうっと小さな息をもらした。押し寄せる微睡みに思考のまとまりがなくなり、呼吸速度が徐々に落ちてくる。眠気におされるままに机に広げた教科書を押し避け、空いたスペースに突っ伏して、丸くたたんだ腕の中に頬を沈める。重力に負けてゆっくりと下がってくる目蓋の向こうで、最後まで奏は手を動かし続けていた。


 カタン、と聞きなれない物音がして、三谷は目を覚ました。目蓋の向こうから薄い光が差し込んでいる。肘を重たい上体を起こした三谷は、指先で口をぬぐった。どうやら本当に寝てしまっていたらしい。再起動しはじめたばかりの脳は、まず美術室内を確認するようにと指示を与えてくる。
 目の端をこすりつつぐるりと室内を見渡すと、膝の上に本を乗せたままの乃々花が目を瞑って静かに寝息を立てていた。三谷と同じように、あたたかな室内で眠気に負けてしまったのだろう。肩から流れた長い黒髪が、端正な横顔を隠している。しかしながらそのそばに、先ほどまで確かにいたはずの奏の姿は見当たらない。
 奏の影を探そうと立ち上がった三谷は、黒板の横で視線を止めてすうっと目を細めた。教室の前方にある扉は、確か美術準備室に繋がっていたはずだ。部活動らしいことを何もせず、ただ居座っているだけの三谷にはもちろん無縁の場所であり、まだその中に入ったことはない。扉についたガラス窓には内側から黒幕が貼ってあるようで、中の様子をのぞくこさえも出来なかった。それが今、半開きになっている。
 三谷は誘われるようにふらふらと歩き出した。細心の注意を払って足音を潜め、乃々花が寝ているそばを通って準備室の入口へと向かう。扉の向こうの濃い影が床にのびてきている。三谷はその中へ足を踏み入れると、音をたてないようにゆっくりと後ろ手に扉を閉めた。
 小さな室内は他の技能教室に付属している準備室と違わない造りだったが、三谷は入り口で立ち止まっていた。足の踏み場もないほどに物であふれかえっている。所狭しと重ねられた山の中には、胸像や誰かの絵や資料のようなものも含まれているようだったが、ほとんどは何のために使うのかわからないようながらくたばかりだ。重要な画材や材料なのかもしれないが、三谷はその手の知識には疎かった。
 申し訳程度についた窓の外で、薄暗い雲が空を埋めている。床に散らかる物々を避け、わずかにあいた道を進もうとした時に、準備室の奥に佇んでいた奏が振り返った。奏は三谷の姿を見止めるとわずかに目を丸くしたようだった。
「……三谷くん」
「おい、何してんだよ奏。もう描き終わったなら、こぼして汚さないうちに筆とか片付けちゃった方が良いんじゃないか?」
 三谷は両手を広げバランスを取りつつ、足を下せる場所を一歩ずつ探していく。
「せっかくだし、見てみる?」
「見るって……何がだよ?」
「さあ、なんだろうね」
「珍しいものでもしまってあるのか?」
「あるとしたら、この中かな」
 奏は壁際に設置されているロッカーを見つめている。足先で蹴ったお菓子の箱のようなものに凹み跡をつけながらも、三谷は奏の立っている場所までどうにか辿り着く。目の前にあるのは教室にある個人用の小さなロッカーではなく、掃除用具が入っている大きなロッカーだ。
 すっかり眠気を払った三谷は、ロッカーの薄灰色の扉をしげしげと眺める。興味を隠さない三谷を一瞥し、奏はくすりと口元に微笑みを浮かべて、すっと手を伸ばし金属の扉を手前に引いた。
 半歩横にずれた奏に促されるまま、中をのぞきこんだ三谷は、思わず目を疑った。疑わざるを得なかった。
「かなっ……」
 奏がしぃっと人差し指を唇の上に当て、三谷の言葉を遮った。
 声を詰まらせた三谷は、もう一度ロッカーの中に目を注ぐ。そこには、長い道があった。脳内に思い浮かべたマップと眼前にのびる通路を照らし合わせた三谷は、北校舎の構造がわからなくなる。美術室は廊下の奥に位置していたものと認識していたのだが、さらに先があったということだろうか。
 混乱する三谷にをよそに、奏は躊躇することなく、どうにか一人分の横幅がある通路へと足を踏み入れた。慌てて三谷も後に続く。背の高い三谷は頭をぶつけないように背中を丸め、細長い入り口をくぐった。途端、五感を襲う圧迫感に悩まされる。
「こっちだよ」
 数メートル先で振り向いた奏は、悪戯を仕掛けているときの小さな子どものように無邪気に笑い、手招きをしている。
 狭い通路内では腕を広げられないため、脇をぎゅっと胴に引きつける姿勢を取り続けなくてはならない。同じ狭い空間であっても、たとえば公園のトンネル内を進むのとは違った感覚だ。通路内は天井から床に至るまで白く、一点の染みも見当たらなかった。頭上に取り付けられた蛍光灯の明るい光が、その白さを助長している。
 しばらく進むと、やがてあるところから道は倍ほどに広くなった。ほっと息をついて、壁に手をそわせて奏の背中に従い歩いていく。上り階段を越え、さらに教室一つ分ほどの距離を歩くと、奏の背中越しに開けた空間があるのが見えた。三谷は目を凝らしてみるが、その先は真っ暗でただ部屋があることしかわからない。
 突然立ち止まった奏に合わせて、三谷はぶつかりそうになりながらも大急ぎで前に出しかけた足にブレーキをかける。思わず文句を言おうと手を肩に伸ばしかけた三谷は、奏が壁に手をそわせていることに気付いて口を噤んだ。すぐにパチッとスイッチが押される音がして、室内のすべての電気に明かりが灯る。一瞬にして増えた光量に目を細めたのも、束の間のことだった。瞬時に自我を獲得した両足は、勝手に歩みを進めて三谷を小さな部屋の中へと案内していく。
 窓のない室内は、準備室より少し広かった。だいたい教室半分ほどの大きさになるだろうか。倉庫のような部屋の中には、大量の絵が保存されていた。部屋の中央部には不規則にならんだイーゼルの群れがキャンバスを支え、四方の壁には室内をぐるりと囲むようにして所狭しと大小さまざまな絵が立てかけられている。壁際にある絵の中には、こぎれいな額縁の中に入れられているものも幾つかあった。しかしそれらは全て飾られているわけではなく、床の上に置かれていた。
 三谷は入り口付近にあったイーゼルに近付いていった。青磁の花瓶が描かれたキャンバスの、絵の具のない白い部分をそっと指でなぞると、少しごわついた繊維の感触がする。絵の良し悪しがわからない三谷にも、この部屋に保管されている絵が尋常ではない価値を持っていることは理解できた。学校の廊下に申し訳程度に飾られているような、やたらと極彩色を用いてある卒業生の作品とは種類が違う。美術館に並んでいても何ら遜色のないものばかりだ。それでいて、絵の具の中には他の生徒の作品と同じように、描き手の思いが含まれていた。
 本物より美味しそうな果実や、飛び出てくるのではないかと疑ってしまうほどリアルな猫の絵があるかと思えば、少ない色味で校舎を表現した小ざっぱりとした絵が紛れていたりする。タッチや画材も同一のものは見当たらないようだったが、どれも被写体が写真よりも忠実に写実されていた。幾つかの題材は、三谷にも覚えがあるものだ。月に吠える虎、月へ向かう車、蝶の標本、それに手袋をもったキツネ。たった一枚の絵であるというのに、一目見た途端に物語全体が思い出せる。
「びっくりした?」
「ああ……ここは美術部の倉庫か何かなのか?」
「たぶん、そんなかんじかな」
「もしかして、おまえの絵もあるの?」
「さあ、どうかな。描きたくなかった絵も、ここには含まれているから」
 ヘアゴムを外した奏は手櫛でひっかくようにして、前髪を額に撫で付けているが、癖はしばらくとれそうにない。三谷はぐるぐると狭い部屋の中を歩きまわり、無造作に収納された絵たちを観察する。描き方は異なっているが、どの作品からもどこか同じような雰囲気を感じる。共通するものが何かと問われたとしても、口では上手く説明できそうにない。料理と同じだ。メニューも調理方法も毎回異なっているのに、食べてみればなんとはなしに作り手が同じだとわかる。
「全部……これ全部、奏が描いたんだろ」
「うん、やっぱわかっちゃうものなんだね。一応同じような描き方ばっかりしないように、塗り方とかそもそも使う道具とか、それに構図の取り方とかもいろいろ試してみてはいるんだけどね」
「おまえ、こんなのいつ作ったんだよ。放課後おまえが真面目に描いているとこ、俺一回も見たことない気がする」
「あははっ、三谷くんが知らないときに隠れて進めていたりしてね。嘘だけど。あ、でも半分は本当かな。放課後にどんなものをモデルにしてみようかなって考えて、いろいろ楽しい描き方がないか試してみて、それから朝とか家に帰った後に少しずつ塗ってる。一日があと二時間くらいあったら、もうちょっと数も増えるんだろうけど……あ、せっかくだし褒めてくれても良いんだよ?」
「別に褒めねーよ。そういう部活動なんだから、当たり前だろ」
「えー?でも三谷くんは?」
「俺は例外……ってか例外で良いって言ったの、奏じゃん」
 ゆっくりと倉庫内をまわっていた三谷は、隅に立っているイーゼルに目を止めた。他と比べてさほど大きくもないキャンバスのようだが、一枚だけ上から黒い布が掛けられている。三谷の目線の先に目をやった奏は「あ、それね」と小さく呟いて、隣に並んだ。
「今描いているのが、この絵。まだ頭の中にぼんやりとあるだけだから、誰かに見せることは出来ないけどね。でも僕はこれを完成させたら、やっと今までのことに一段落つくんだ。今までのことを全部その中に閉じ込めたら……えっと、集大成って言うんだっけ?そういうの。そうしたら、きっと僕は安心できると思うんだよね」
「安心?」
「うん、そう。安心」
 その言葉は始終穏やかで、それでいて飄々とした面持ちを崩さない奏が口にするには、あまり似つかわしくないように思えた。しかし奏は酷く真剣な目をして、布に包まれたキャンバスにじっと眼差しを注いでいた。唇をきつく結んでいるその横顔は、責任に追われて何か重い決断を下そうとしている時のようにも見える。それほどまでに奏は思い詰めた表情をしていた。
 三谷は続けようとしていた言葉を忘れ、声をかけることさえも躊躇する。何が奏の感情をここまで支配しているのか、見当もつかない。ただ一つわかるのは、奏は自分が製作する絵に、とてつもない精神を注いでいるということだけだ。三谷は張りつめた空気の温度を、わずかに露出した肌に感じていた。
 しかし数秒も経たないうちに、奏はふっと目を和らげる。そうして三谷の方に振り向いた時にはもう、親しみやすい笑みを浮かべた見慣れた顔に戻っていた。
「そろそろ戻ろうか。僕たちがいなかったら、乃々花が起きたときにびっくりして探し回るかもしれない」
「ちょっと待てよ、少しくらい平気だろ?まだ俺、全然見てないし」
一歩前に出た三谷はキャンバスを覆う布に手をかける。驚いた奏の手が伸びてくる前に、黒い布を横に引いた。そしてそこにある作品を上からのぞきこもうとして――……


 三谷は目を覚ました。怠さに取りつかれた体を起こし、口元をぬぐう。どうやらすっかり眠ってしまっていたらしい。ぼんやりとした頭のまま辺りを見渡すと、机の上には黒い墨がべったりと付いた半紙が重ならないように何枚も広げられている。この有様ではいくら乾かしたところで、何が描いてあるのか推測するのは難しいだろう。それこそ本人以外にはわかりそうにない。
 電源の止まったヒーターのそばでは、背中を丸めた乃々花が俯いて目を閉じ、幸せそうな寝息を立てていた。三谷は静かに胸を上下させる乃々花をしばらく眺めていたが、水が流れ落ちる音に反応して、椅子から半ば身を乗り出すように真後ろを振り向いた。
 室内に設置された水道の前に立った奏は、流しっぱなしの水の中で硯をゆすいでいる。鮮やかなブルーの運動着の袖を肘の上までまくり、ばしゃばしゃと冷たい水の中で白い手を動かしていた。
「奏」
 短く名前を呼ぶと、一瞬の間があってから奏は蛇口をひねり、水道の中に硯を置いて、くるりと振り返った。
「なに?」
「……いや、なんでもない。今何時?」
 話しかけてはみたものの、何を言いかけたのか見失ってしまった三谷は、すぐさま自分が咄嗟に口走った質問の不自然さに思い至った。美術室にはどこからでも確認できるように、黒板のそばに時計がかけられている。奏に尋ねるまでもなく、自分で見れば良いだけのことだったはずだが、後悔はすでに遅い。
 奏は不思議そうに目を瞬かせたが、黒板の方を見上げて眼鏡の指をそえた。前髪にはまだ結んでいたあとが残っている。
「五時半だね。そろそろ帰る準備する?乃々花がまだ寝ているみたいだから、ぎりぎりまでそっとしておいてあげたいんだけど」
「……そう、だな。わかった」
 決まりの悪さを感じた三谷は、もう一度微睡むふりをして机の上で丸めた腕の中に顔を隠し、そっと目を瞑った。

<4>

 ある日、三階の渡り廊下から見下ろした先で、奏を見つけた。
 隣接する校舎の一階、教室の窓際に奏は立っている。背中から窓に寄りかかり、忘れ物を取りに行ったクラスメイトを待っていた三谷は顎を傾け、じっと視線を注いだ。
 奏は窓に手を当てて、まっすぐに外を眺めていた。どの窓からも見えるのは校舎の白い壁と申し訳程度に作られた中庭ばかりで、何ら面白い景色はないはずだが、奏は身じろぎもせず佇んでいる。三谷は手に持っていたケータイを閉じた。こうしてしばらく見続けていたら、そのうち三谷に気付くだろうか。
思考を巡らせ始めた矢先、奏が顔を上げた。まるで三谷の心の声を聞いたようなタイミングに驚きつつも、反射的に姿勢を正して窓に向き直る。さらに数秒もしないうちに、奏は三谷のいる渡り廊下の方へゆっくりと顔をまわしていく。
 きっと奏にも三谷が見えているはずだ。そう考えて上げた右手を、しかし振ることはなく宙で止める。三谷がいる渡り廊下を向いている奏は、しかしぼんやりと中庭を眺めていた時と同じように何の反応も示さない。奏は三谷の立つ廊下の遥か後方を眺めているのだと思い至るのに、そう時間はかからなかった。
 やがて視線は三谷を通り過ぎて、反対側の校舎へと流れていく。三谷は役目を失くした手をゆっくりと下ろし、腿の上で軽く拳を握った。この距離では大声をあげても届かないだろうし、そもそも窓はしまっている。三谷は再び窓に背中を預けた。
 しばらくすると、視界の端で斜めに映る奏は、近付いてきたクラスメイトに呼ばれ、窓際から離れて行った。三谷もまた、小走りで戻ってきたクラスメイトに合流するため、その場から遠ざかる。歩き出す前にもう一度振り返ってみても、奏の姿はない。

<5>

 昨日から雨が降り続いている。登校前に見たテレビの中で、レインコートを着たお天気キャスターが大げさな身振りを交えながら梅雨に突入したのだと宣言していた。どんよりと重たい雲が一面空を覆っている。大粒の雨が地面を叩く音は、閉めきった窓越しにも届いていた。放課後の美術室に向かった三谷は、中を見渡すとすぐに首を傾げた。
「あれ、乃々花は?あいつが俺より先に来てないなんて、珍しいな」
「今日は来ないと思うよ……というより、三谷くんはなんで来たの?今日からテスト前期間だよ」
「……あ」
 ぽかんと口を開いた三谷を見て、奏はやれやれといった様子で口元に力ない笑みを浮かべた。
可動式の黒板には授業の跡が残っている。半分だけしか電気のともされていない室内は、外が雨雲に包まれていることもあって薄暗い。普段は部活動にも力を入れるよう高らかにのたまっている学校だが、テスト期間の数日前になると全ての放課後の活動が例外なしに停止にされる。すんなりドアが開いたから入ってきてしまったものの、もちろん特設美術部もまた部活動は禁止されている。本来ならば三谷たちも下校していなければいけないはずだったのだが、ついいつもの習慣で足を運んでしまった。どうりでいつもうるさく響いている、吹奏楽連中の音が聞こえないわけだ。
 廊下をのぞきこんで人影がないことを確認してから、三谷は扉をぴたりと隙間なく閉める。
「すっかり忘れてた。おまえは残ってて良いわけ?怒られるんじゃないのか?」
「見つかったらの話ね。どうせ先生は来ないよ。ただでさえ美術部にはノータッチなのに、今は向こうだってテスト問題を作るので忙しいだろうから」
「鍵は?」
「え?普通に職員室から借りてきたよ」
「……それって『持ってきた』の間違いじゃないよな?」
「うーん……『拝借してきた』って言えば良いかな」
 のんびりと笑う奏は、相変わらず良い性格をしている。静まり返った校舎を包み込む蒸し暑い空気は、わずかな物音さえも吸い込んでいるようだった。三谷はこのまま足を引き返すべきか迷っていたが、ふと奏の後姿に興味を引かれ、自然とその場に踏みとどまることを決意する。
 イーゼルに向かう奏の背中は白い。脱いだ上着を手近な椅子の背もたれにかけ、自身は運動着を着ないまま絵筆の先でキャンバスに色を乗せている。いつもと異なる服装に加え、奏がきちんと道具を揃えて政策をしている様を目にするのも初めてだった。奏の周囲を丸く囲むように動かされた机の上には、金属のヘラのようなものなど、三谷には用途の分からない道具が一列に置かれていた。どれも相当使い込んであるのか色がくすみ、くたびれているように見えた。一見すると散らばっているような銀色の絵の具のチューブの並びにも、奏なりの規則性があるのかもしれない。
 足元に鞄を残した三谷は、狭い机と机の間をくぐって窓のそばに作られた作業スペースへと向かう。奏は半歩ほど離れた場所まで三谷が近付いても、目の前のキャンバスに向かったまま顔を動かすことはなかった。三谷は軽く腰をおるようにして、奏が手掛けるキャンバスに顔を近付けた。
「奏が真面目に何か描いてるとこ、はじめて見たな」
「そう?いつも本気で描いてるつもりなんだけどなあ……でも、今日は確かに美術部っぽいかもね」
 視力が奪われそうな薄暗い室内の中で三谷は目を凝らした。中央にぼんやりと浮かんでいる輪郭は人の形をしているようにも見えるが、今まで三谷が目にしてきた奏の絵は、そのほとんどが一目見ただけではわからないような拙い落書きばかりである。例によってまた、出来上がった時になって今描かれているものからは想像できない題材が元だったのだと気付くことになるのかもしれない。
 三谷が頭を働かせている間にも、広いパレットの上から絵の具を拾った筆は、忙しく動きまわり線を付け足していく。奏は真剣な表情をしたまま、一向に姿勢を崩す気配はない。まるで何かに憑りつかれたかのように、一秒の迷いもなく筆は色を重ね続ける。眼鏡の奥の瞳は、瞬きをすることさえ忘れているようだ。
「……なあ、テスト勉強は?赤点の常連だって聞いたんだけど」
「今はちょっとでも早くこれを描き上げたくて……ダメかな?」
「どうせ『ダメだろ』って俺が言ったところで、片付けるつもりなんかないくせに」
「あはは、よくわかってるなあ」 
 ――ざあっ、と。雨音が増したのは突然のことだった。長く尾を引く雨粒は、強く吹き付ける風に大きな幾枚もの布のようになって右へ左へとなびいている。雷が鳴っていないのが不思議なほどの降水だ。
 そばに駆け寄った三谷は、分厚い緑のカーテンに手を添えて室内の光を反射する窓をのぞきこんだ。もくもくと膨らむ黒い雲は地上に迫り、雨風は一段と激しく降りつける。
「すごいな、雨。ずっと降るんだっけ?」
「少し時間を空ければ弱まりそうじゃない?いくら梅雨って言っても、さすがにこの勢いでずっと降り続けることはないと思うよ。このままじゃどう頑張って帰ったって、結局濡れるしかなさそう」
「……グラウンド、しばらく走れないだろうな」
 ぽつりと漏らした呟きは、雨音に飲み込まれて消えてしまったものと思ったが、奏の鼓膜を揺らしその興味を引くには十分だったらしい。奏はわずかに筆を持った手を動かす速度を緩め、三谷にちらりと横目を向けた。
「三谷くんってさ、いつから陸上やってたの?」
「急に何だよ」
「なんだか勉強したくなさそうな顔をしていたから、話題ふってみた」
「そんな顔してねーよ」
「ふぅん……そう?」
 窓に背を向けた三谷は、立てられたイーゼルの真横にある机の上に腰かけることにした。教室にあるものよりも大きく、そして古い机には様々な色の絵の具が塗られている。指先でなぞれば、凹みや傷でぼこぼことした感覚が肌に残った。運が悪い時は小さな棘が刺さることもある。つい一年程前まで足を動かすということは生活の一部だったはずであるのに、ずいぶん遠い昔の出来事であるかのように思えてしまう。
 三谷は両膝の隣に手をつき、背中を丸める。そして改めて自分が走ってきた日々のことを脳裏に浮かべるため、静かに目を細めた。
「……たぶん、最初はただ走ることが楽しかったんだと思う。小学校の代表に選ばれて、嬉しかったのもあるのかな。そうやって親とか友達から褒められて、期待されてることも感じてたけど、でも一番は自分が走るのが好きだったんだと思う。走る前の緊張とか、走った後の喉の熱さとか、そういうの全部ひっくるめて楽しいと思ってた。それで中学の時、当たり前みたいに陸上に入ってみた」
 始めたばかりの頃はどんどんタイムも短くなって、幾度か訪れたスランプでさえも心から悩ましく感じることはなかった。いつから失われてしまったのだろう。きっかけはわからない。
「高校になってからも、別に何も考えないで陸上を続けてた。結局は抜けることになったけど……あの時にはもう別に執着とかなかったな。走るのは一日の生活サイクルの一部っていうか。でも、全然走らなくなった今も違和感とか特にないし、走らなくてもわりと平気なんだなって思う。特に困るわけじゃない。たぶんさ、とっくの昔に、もうその程度のもんになっちゃってたんだな」
 言葉尻に混じりそうになったため息を、そうと気付かれないように飲み込んだ。雨音が収まる気配はなく、ごうごうと音を立てている。
立ち止まってしまったのは、人と比べたからなのだろうか。単純に飽きてしまったからなのだろうか。人との関わりが面倒になったからなのだろうか。それとも、走らなくても息は出来ると知ってしまったからなのか。すべての理由が重なり合っていたのかもしれない。
 一度立ち止まってしまった後に再び走り出す術を、三谷は知らなかった。探そうと思えばすぐそばにあったのかもしれない。しかし取り戻そうとさえ思わなかった三谷は、当たり前のようにそこで道を終わらせた。
 ふと顔を上げると、いつの間にか筆をパレットの上に置いた奏は椅子に深く座り、三谷の話を静かに聞いていた。眼鏡の奥の瞳を優しく動かした。
「後悔しているの?」
「――いや、やめたことは後悔してない」
 答えを考えるより先に、口が動いた。
「あのまま続けていても仕方なかっただろうし、それに放課後クラスの連中と遊びに行ったり、ここでこうやって喋ることも出来なかったから」
 一年前、喧嘩沙汰を契機に退部をした三谷が全校生からの噂になっていた時に、奏から与えられた場所はどれだけ心安らげたことだろう。無数の好奇の視線にさらされる日常にはある程度慣れていたはずであるのに、突然すげ変わった周囲の温度はあっという間に三谷の空気を灰にしてしまった。 呼吸をする気持ち悪さに飲み込まれそうになっていた三谷に、唯一何のフィルターもなしに接してきたのが、奏と乃々花だった。奏が用意してくれた逃げ場は、溺れそうになっていた三谷を掬い上げ、自由に息をするよう促したのだ。
「もう一度さ、もっと時間をおいたらいつか、走るのが楽しいって思えるようになるのかな」
「なるよ。絶対に」
 何気ない調子で放たれた言葉は、なぜか厳粛なまでの重みを持っていて、三谷の耳には魔法のように響いた。
 そうだ、奏は揺らがないのだ。だからこんなにも、奏の言葉は必ず本当になるのだと信じることができる。誰もが自らの周囲に辟易している中でも、美術室だけは、奏の周りだけは、穏やかな時間が流れている。今なら乃々花が息がしやすいと言っていたその意味が、三谷にも分かるような気がしていた。
 三谷は自分の思考を隠そうと、明るく声を張り上げる。
「よし!じゃあ今度は、俺が聞く番な」
「え、なにそのルール!」
「だって不公平だろ、俺ばっか話すのは。そうだなぁ……あ。前から訊こうと思ってたんだけど、おまえと乃々花ってどうゆうかんじで知り合ったの?なんかもう、おまえにべた惚れじゃん、あいつ」
「普通に四月の入部見学に来た時に初めて会って、なぜかわからないけど懐かれちゃった。なんでなんだろうね?僕が聞きたいくらいだよ」
「……まあ、嘘ついてる顔じゃあないな。じゃあ他の質問。おまえの方はいつから絵、描いてるんだ?」
 奏は軽く握った拳を口元に当て、じっと考え込むように眉根を寄せた。
「僕も始めたきっかけは覚えていないけど……でも、描く理由は今も昔も同じ。僕はずっと、忘れないように描いているんだ。それは変わってない」
「忘れないように?」
奏は静かに首を縦に振る。
「そう、忘れないように。僕はその時の感情を忘れないように絵に描くんだ。どうしても、どんなに忘れたくないと思っても、すごく感動したことでも……いつかは感動したという事実だけしか、思い出せなくなっちゃうから。だから白い紙に、僕が感じたものを何度も何度も塗りこむんだ」
 確かにそうかもしれないと、三谷は声には出さず心の中で同意した。たとえば小さい時にお化けを怖がって泣いたという記憶は覚えていても、どのくらい怖かったのかは思い出すことは出来ない。泣くほど怖かったのだから、相当に強く怖いという気持ちを感じたはずなのに、今ではすっかり忘れてしまっている。どんなに心が動かされたことでも、いつかは薄れてしまう。
反対に考えれば、生きていくためには忘れても支障はないということだ。寧ろすべての感情が揺り動かされた出来事を覚えていようと心がける方が、例外的なのかもしれない。
 それでも三谷は、奏のことを馬鹿にする気にはなれなかった。目の前のこいつは、どれだけ強い感情を持っているんだろう。のうのうと波風が立つことを恐れて感受性を捨て、心を動かさないようになった連中とは違う。それはととても、いわゆる生きにくい生き方ではないのだろうか。
「勉強が大事なのもわかるんだ。でも、今描かないと忘れちゃう。僕は、何も忘れたくない」
 そう言って奏は、自分が手掛けているキャンバスへと顔を向ける。三谷もその動きにつられ、同じように描き途中の絵へと目を向けた。今はまだぼんやりとした輪郭しかないスクリーンは、やがて奏の感情を閉じ込められることで完成するのだろう。一筆毎にのせられた感情が塗り重ねられ出来上がる絵は、乃々花の言うように、きっと語りかけるもののある一枚になる。
 短い沈黙を破るように、三谷は机を蹴って勢い良く立ち上がると、驚いた奏の視線を受け止めながらゆっくりと背後にまわる。
やがて三谷は絵の具がついたままの筆を持ち上げ、キャンバスの前に歩み寄る。すっと緩やかに肘をのばし、絵筆の先を中央に近付けていった。奏は何も言わない。穏やかな眼差しを三谷に向け続けている。
 色を含んだ筆が絵に触れる寸前、三谷はくすりと笑いをこぼして踵を返した。ゆっくりと転がらないように、握りしめるように持っていた絵筆を元あった場所に置く。
「……まあ、正直勉強を差し置くぐらいやりたいことがあるおまえが、ちょっとうらやましいよ。この学校にいるやつってけっこうさ、とりあえず机にかじりついて時間を消費してるってかんじするもんな。先生も『せっかくの若い時間を大切にしろ』とかって言うくせに、勉強ばっかりさせるし。それって、言ってること矛盾してね?」
「あははっ、確かにね」
「だろ?」
 膝に手をついた奏は音もなく立ち上がった。パレットの上にチューブから青い絵の具を少量しぼりだすと、三谷が置いたばかりの絵筆を手に取って薄くのばしていく。それは、鮮やかな青だった。三谷は自分が小学校の時に使っていた小さなアクリル絵の具の中でも、青い色をすぐに使い切ってしまっていたことを思い出す。目の前の机の上にも、何種類もの青い絵の具がのっていた。一言で青と表現しても、その実は幾つもの色があるに違いない。ごくごく緑に近いものもあれば、青磁のように薄い水色をしたものもある。
 奏は散らばったチューブの上で手を迷わせていたが、最後には黒に近い落ち着いた群青のパッケージに手を伸ばした。
「でもね、三谷くん。僕はこれを完成させたら、やっと今までのことに一段落つくんだ。そうしたら、僕も三谷くんみたいに――」
「いや、違う、奏……違うんだ……」
 どこかで聞いたような台詞が頭の中で響き重なった瞬間、三谷は思わず否定を口走っていた。奏は続けようとしていた言葉を止め、不安げに目尻を下げて三谷を見やる。
 ガラス越しにも大きく鼓膜を震わせていた雨音は、いつの間にかすっかり収まっていた。雲の合間から白い光がのぞきはじめている。少しだけ視線を落とせば、鏡面のような床に反射した奏の輪郭がぼんやりと写っている。三谷はなるたけ明るい調子で聞こえるように、乾いた声を張り上げた。
「奏、おまえさ……ずっとそのままでいろよ。ずっとおまえは変わるな。好きなもん見に行って、忘れないように描くんだろ。おまえまで俺みたいなつまんないやつになったら、誰が乃々花の面倒見るんだよ?」
 息のしやすい場所を持っているのに、自分から捨てることはないはずだ。そう考えての発言だったが、口にした言葉が想像していたよりもずっと押し付けがましい響きを持っていると気付いた時には、もう遅かった。顔を上げた三谷は、同じ瞬間に奏が目を伏せたのを見て唇を結んだ。頭の中で自分が放った台詞が幾度も反響する。
 しかし奏は笑った。
「うん、わかった。約束する」
 そう言って、無理やり作ったぎこちない顔で、奏は笑った。まるで困り果てた時のように、泣きそうになっているのを堪えているかのように、精いっぱいの笑顔を三谷に見せた。
 それが、三谷が見た最後の奏の笑顔だった。


 やがて長い梅雨が終わり、日差しは透明に変わった頃、何の前触れもなく奏は放課後の美術室に来なくなった。学校に姿を見せることのない何日か続き、送信したはずのメールが返ってきてしまうと気付いた時にはもう、退学届けが出されていたのだと、後になって顧問から聞いた。
 照らし合わせたわけでもなく、あるとき自然と三谷と乃々花は放課後に美術室に通うことをやめた。奏がいない美術室の扉は重く、三谷の手では開けることが出来ない。

<7>

 北棟の廊下は静寂に包まれていた。
 美術室の前につくと、乃々花はどこから取り出したのか、大きなプレートのついた鍵を扉に差し込んだ。間をおかず、がちゃりと鍵が開く音がして、三谷は思わず感心してしまう。
「へぇ、準備が良いな」
「三谷や奏と違って、行き当たりばったりでは行動しないタイプですのから。ちゃんと予め借りてきておきました」
「それ、『持ってきた』の間違いじゃないよな?」
「失礼ですね、ちゃんと先生には話をしてあります。このくらいならヘアピンで開けられないこともないですけど」
 躊躇いなく扉に手をかけた乃々花は、勢い良く横に引くと、後ろで待っていた三谷を振り返ることなくすたすたと中へ入っていってしまう。三谷も慌てて後に続いた。
 久しぶりに足を踏み入れるはずの空間は、つい昨日も訪れたかのようにすぐ三谷の体に馴染んだ。乱雑に並んだ大きな机も、背もたれのない椅子も、埃だらけの床も、何一つ変わっているものはない。
 窓際に歩みを進めていた乃々花は、いつも陣取っていた定位置につくとくるりと身を翻して水道のシンクの縁に軽く腰かけた。三谷もまた、自分がいつも居た場所にある机の上に座った。
「奏に付き合っていると余計なことばかり身に付きます。大変だったんですよ、三谷が来る前は。描きたいものを探すためなら、どんどん馬鹿なことをやらかすんですから。でも――……」
 乃々花は懐かしそうに目を細め室内を見渡すと、一度は閉ざした唇を呟くように小さく動かした。
「奏がいれば安心した。あたしも想像に満足しないで、嫌なことを嫌だってはっきり言っても良いんだって思えた。楽しかったなあ……」
 目の前に広がるがらんどうが、記憶の中の光景と重なる。勉強に飽きた三谷が顔を上げると、乃々花はヘッドホンを耳につけて一心不乱に本を読んでいる。窓から差し込んだ白い日差しに照らされた奏は、こどもの落書きのようなでたらめな絵を描いていて、三谷が声をかけると、どんなに忙しそうな時でも嫌な顔一つせずに筆を置き、振り向いてくれる。
 一瞬で脳裏に再生された記憶の映像は、しかし瞬き一つで忽ち消え去ってしまった。本物の乃々花は、今は長い髪を一つに結んで、細い身を包んだ紺色のコートのポケットの中に両手をしまっている。三谷は忘れかけていた寒さを思い出して、マフラーの中に顎をうずめた。
「ねえ、三谷。あたしは今、長い余生を生きている気分なんです。例えば……よくある比喩ですけど、人生が本みたいなものだったら、もうそれを読み終わってしまったかんじですね。本編は終わってしまったから、あとは余韻にひたるだけ。でも三谷は、最後のページで足踏みして、本を閉じないようにしているように見えます。奏がいなくなってあたしの時間は進み始めたけど、三嶋の時間は止まったんですね」
「……?それってどういう――」
 乃々花の紡ぐ言葉は酷く抽象的で、頭の中をぐるぐると流れるばかりで、理解する暇を与えてはくれない。三谷が問い返そうとすると「それにしても」と 乃々花は有無を言わせず遮るようにして、自分の話を続けた。
「こうしていると、奏がひょっこり戻ってくるんじゃないかと思いそうになります。でも美術部、来年から廃部ですもんね」
「そうなのか?初めて聞いた……俺、おまえが部長やって続けるんだとばっか思ってたんだけど」
「だって、奏がいないならもう意味はありませんし。生徒会は大喜びですよ。そうだ、何かほしい備品があるなら今のうちですよ。持っていってもおそらくばれません。のぞいてみますか?準備室」
 三谷の回答を待たずに立ち上がり、黒板の横にある準備室に向かう。教室の黒板は女子がカラフルなチョークで書いたメッセージで埋め尽くされていたが、美術室の黒板は何の手も加えられていない、綺麗な姿のまま佇んでいる。三谷の目に美術室が何も変わらないように見えたのは、そのせいなのかもしれない。
 鍵を開け電灯のスイッチを押した乃々花は、今度は一歩避けて三谷が先に入れるだけの道を確保する。無言のまま促されて準備室に踏み込んだ三谷は、初めて足を踏み入れる小さな室内を興味深く見渡した。
 案の定、中はそれほどまで広くはない。他の技能教室に付属している準備室と違わない造りだったが、よく整頓されていた。倉庫を兼ねているようで物はあふれていたが、胸像はきちんと横一列に並べられているし、資料が入った棚には丁寧にラベルが貼りつけてある。想像していたよりもずっと小奇麗な空間だ。
 奥まで進んだ三谷は、幾つか立てかけるようにして無造作に置かれているキャンバスに気付いた。
 美術の知識がない三谷は、しかしそこに並ぶ作品たちに目と心を奪われた。本物より美味しそうな果実や、飛び出てくるのではないかと疑ってしまうほどリアルな猫の絵があるかと思えば、少ない色味で校舎を表現した小ざっぱりとした絵が紛れていたりする。
 タッチや画材も同一のものは見当たらないようだったが、どれも被写体が写真よりも忠実に写実されていた。幾つかの題材は、三谷にも覚えがあるものだ。月に吠える虎、月へ向かう車、蝶の標本、それに手袋をもったキツネ。たった一枚の絵であるというのに、一目見た途端に物語全体が思い出せる。
 膝を曲げて目線をおろすと、一つ一つの作品を手に取って、乾いた絵の具の匂いがするほどの距離まで顔を近付ける。
「これって……」
「奏の描いたものです。ほら、隅に小さくサインがしてある。ここに残ったものは、みんな学校の財産になるんでしょうか。あたしが持って帰ってしまいたいな……ああ、これが最新のものですね」
「全部、あいつが描いたものなのか……」
 三谷が呆然と立ち尽くす傍ら、棚に横たわっていたキャンバスを裏返した乃々花は、片手で持ったそれを三谷に差し出してきた。半ば放心している三谷がなかなか受け取らずにいると、乃々花はむっと眉を寄せてキャンバスで三谷の腹をつついてくる。
 機械的な動作でキャンバスを受け取った三谷は今度こそ言葉を失い、ただただ手の中にある一枚の絵を見つめた。重さのないキャンバスは、いつかの雨の日に奏が手掛けていたものと同じ大きさをしている。
 他の奏の作品を手に取って眺めてた乃々花は、三谷の異変に気付くと大きなため息をついてみせた。
「最後まで奏は言っていなかったんですか。この場合、言わずに逃げたと表現した方が適切かもしれませんね。本当にずるいですよね。あたしのことは、頼んでも描いてくれなかったのに」
 そこに描かれている記憶は、三谷の姿に間違いなかった。キャンバスに描かれた美術室の中で、机いっぱいに参考書を広げた三谷は下を向いて何かを必死に読んでいる。背中を丸め、手に持ったペンの先を右ほおに当てるのは、集中している時の三谷の癖だ。
 窓の外は夏の日差しに晴れ渡り、眩い光を注いでいる。長かった日常の中のありふれた一場面は、鮮明にその色を重ねられていた。まるで何気ない瞬間を切り取り、時間までもを一緒にして閉じ込めてしまったかのように、画面の中にはあの日の世界があった。
 三谷は口の中で今はいない友人の名前を呟いた。声にならない声は、誰にも、自分にさえも届かない。
 背後に佇んだ乃々花は、動きを止めた三谷の肩越しに奏の絵を見ていた。
「あたしは奏が好きなので、奏の意にそぐわないと思うことは出来るだけしたくない。でも、三谷にも多少の恩がありますので、卒業祝いに一度だけ肩入れしてあげます」
「……なんだよ」
「三谷って、中学の時はもっとやんちゃだったらしいですね。ちょっとした騒ぎも起こしたらしいじゃないですか。でも、三谷が来る前、奏はとても……とても楽しそうに、三谷のことを話していました……奏はね、描きたいものしか描かないんです。しかも、描いたら描いたで、すぐ次の描きたいものを探しにいっちゃうんです」
「じゃあ―ー」
「いいえ……いいえ、ちがいます、三谷。奏はこの絵を最後に、変わろうとしていたのです。だからいなくなったのです。あたし達の前から姿を消した。あたし達を悲しませないように。失望させないように。あたし達の神様で、いるために」
「……そんなの」
 妄想だ、と切り捨てることが出来なかった。確かに乃々花は奏のことを、まるで崇拝するように過ごしていたかもしれない、けれど三谷は。三谷は、ちがう。ただの友達だ。そう口に出すことができない自分がいる。
「どうして男の子って、変なところにプライドがあるのかなぁ……それに、行動力も。そんなのいらないのに。どんな奏でも、好きだったのに。夏の暑さに息苦しくなっても、三人で、最後まで笑っていた、かった、な……そっかぁ、わかった。奏は雪男だったんだ。だから、奏のそばにいると涼しくて、息がしやすくて、でも、奏、溶けちゃったんだね。あたしがもっと扇いであげれば良かったな。もっと、ちゃんと、あた、し……」
 乃々花の声は徐々に震え、最後には囁くようにかすかな音しか残らなくなった。引っ張られるようにのろのろと顔を上げた三谷の視線の先で、乃々花はやわらかな微笑みを浮かべたまま、細めた瞳の端から水滴をこぼしている。涙は音もなく頬を流れ、紺色のコートに暗い染みを作った。
 咄嗟に慰めの言葉を探したのは一瞬のことで、三谷はすぐに思考を断ち切る。その頭を撫でる役は、三谷が適うものではない。奏だからこそ出来たものだ。
 何度か口を開いては閉じて繰り返した後、三谷はやっと掠れる声をしぼりだした。
「俺たちさ」
「……はい」
「奏のこと、好きだったよな」
「はい」
「今もだ」
「当たり前です」
「なんでいないんだろうな、奏」
「……奏が、馬鹿だからですよ。大馬鹿だから、です」
 三谷はもう一度、手の中に残った奏の感情に目を落とした。関わったのは一瞬だったにもかかわらず、振り返ってみれば鮮やかな色を残していっている。
 彼の名前は、四十万谷奏といった。それだけは、覚えておいてほしい。

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 それはたぶん、夏の終わりだった。夕方に蝉の鳴き声が聞こえていたことを覚えているから、きっと間違いないと思う。
 あの日、中学生だった奏はずっと隠れていた。足元には破ったばかりの自分の絵の切れ端が散らばっている。求められるままに流行りの技術を駆使してしあげた、何の心もこもっていない作品だ。
 万人受けする絵柄は、確かに教師の言う通りの賞を獲得することが出来た。しかし奏は賞状を受け渡されたのと同時に、自分の胸に見えないレッテルが貼られていくような感覚を抱いていた。誰かから見て良い絵を描く、将来有望な生徒。
 重苦しい名前札に口をふさがれそうになった奏は、校舎脇にある非常階段の最上段にしゃがみこんだのだ。しかし、
「ああもう最悪だ……なんでこうなるんだよ……」
 ため息まじりの呟きは、階段下から響いてくる怒声にかき消される。年相応の激しい気性を持った生徒たちが喧嘩をするのにもってこいの場所で休んでいたのだと気付いた時には、すでに手遅れだった。両手で耳を覆った奏は、自分の置かれた状況を心の中で嘆いた。やっとのことで美術室と先輩から逃げてきたのに、これではキャンバスに向かっている方がまだましだったかもしれない。下にいる生徒たちが何と言っているのかまでは聞き取ることが出来なかったが、ただならぬ雰囲気に包まれている。ぴりぴりとした空気が奏のいる最上段まで伝わってくるようだった。
 やがて声が聞こえなくなるまでは、気の遠くなるような長い時を要したように思えたが、時計の示す時間にしてみればそれほど長い出来事ではなかったのだろう。しばらくすると、最後に大きな笑い声がして、複数の足音が遠ざかっていった。
 じっとうずくまっていた奏は、肺の底から大きくため息をついた。もう一度耳を澄まし、人の声がしないことを確認してから、壁に手を添えそっと立ち上がる。すぐに歩き出そうとしたが、つま先が踏んだ紙片がかさかさと音を鳴らし、その存在を主張する。
「そっか、これ……このままじゃまずいかな」
 足元に視線を落とした奏は腰を下ろし、落ち葉のような画用紙の残骸を両手でかき集めた。いくら不要な物とはいっても、この場に残しておけば誰かに見つかってしまうかもしれない。いくら原型をとどめていないとはいっても、奏の絵を知る人が見つければ気付いてしまうだろう。
 拾い集めた紙片を握りしめた奏は、重い足取りで階段を下りはじめたが、しかし踊り場まで来たところでぴたりと歩を止めた。頭で考えるよりも早く、体は翻って壁の向こうに隠れようとしたものの、一度油断して響かせてしまった足音は階段下にいた人物の耳にまで届いてしまったらしい。ぶっきらぼうな声が掛けられた。
「……なあ。そこにいるのって、俺の知ってるやつか?」
 急スピードで踊り場の影まで引き返した奏は、びくりと身を強張らせた。一体なんと答えるのが正解なのだろうか。奏は素早く思考を働かせた。確かに、段下に一瞬だけ見えた人物のことを知っている。寧ろこの学校で有名人の三谷を知らない人は、同学年ではまずいないだろう。陸上部のエースで、校内でも片手で数えられるくらいに成績優秀であるのにも関わらず、喧嘩っ早い性格をしていて先生からも問題児扱いされている。運動部のクラスメイトは、「考えるより先に動くタイプじゃなくて、手を出すことに躊躇しないタイプ」と語っていたが、奏には両者の違いがよくわからない。
 プレッシャーに圧されながらさんざん悩んだ末に奏が口にしたのは、否定の言葉だった。
「……知らない人だよ」
「そっか。なら良いや。せっかく休んでたみたいなのに、悪ぃな」
「ううん、別に……」
 困り果てた奏は壁に背を預けた。時計がないために確認することが出来ないが、奏の感覚ではそろそろ昼休み終了の予鈴が鳴る時間だ。奏の胸には後悔の念が押し寄せる。何食わぬ顔をして、さっさと階段を下りてしまえば良かったのだ。一度戻ってきてしまった手前、再び三谷の前を通るのは度胸が必要だ。ただでさえ暑い時間帯だというのに、背中には嫌な汗をかいてしまっていた。
 幸いなことに、奏に対する敵意はないらしい。一刻も早く退いてもらえるように、奏は三谷に声をかけてみようとした。
「えっと……ねえ、そういうのやめたら?」
 言い終えてから奏はハッとして口を噤む。自分が相当に偉そうな口をきいてしまったのだと気付いた時は、すでに口走った後だった。ただその場を退いてほしいだけであるのに、今の台詞ではニュアンスによっては、喧嘩を売っているようにしか聞こえない。すぐさま謝罪のために口を開こうとしたが、 真っ白になった頭は適切な言葉を思いつかず、まるで金魚のように奏は何度も口をぱくぱくと開いては閉じる。
 しかし奏の予想に反して、三谷が怒り出すことはなかった。それどころか、意外なことにも三谷は「うーん……」と真剣に考え込むような声を出している。
「そう言われてもなあ……優先順位を間違っちゃダメだろ?」
「優先順位……?」
「そ、後でもやもやするのは嫌じゃん。ここで我慢したら、後で思い出した時にいらいらしそうだなって思ったからさ」
 ――瞬間、吹き抜けた涼しい風が奏の手の中から、色とりどりの紙片を宙へさらった。
 手から次々にこぼれ落ちる紙片を、奏は呆然と見つめていた。解放された大きな落ち葉は、階段の手すりの向こう側へその身を飛ばせていく。ごくごく軽い調子で当たり前のように放たれた言葉は、奏の心に深く突き刺さり、砕いていた。
 涼しさに包まれて、奏は三谷が口にした単語を胸の中で何度も何度も反復する。自分の中には描きたいことが沢山あった。描きたいと願う言葉を口癖にしてしまうのも、何かを考えただけで終わらせるのも、優先順位を見失っている結果に起きることならば、期待も羨望も、もう十分だ。自分の感情一つを唯一の起爆剤にして、忘れないように閉じ込めたい。
 奏は空になった手を下ろし、太ももの脇でぎゅっと握りしめた。立ち止まっている奏の耳に、段下から三谷の穏やかな声が聞こえてくる。
「というか、別に俺からふっかけてるわけじゃないのに。昔から妙に厄介ごとに巻き込まれやすいんだよなあ。背がでかいから目立つのかな……ん?なんか飛んできた。画用紙?なんだこのゴミ」
 奏は隠れて息をのんだ。
「ゴミ?」
「ああ、ゴミだ。これさ、細長い紙を八の字にしてホチキスで止めると、すっげーまわりながら落ちてくんの。ちっちゃい時やんなかった?あれ、最初見たときはわりと感動したなあ」
「ゴミかぁ……」
 ずっと立ち止まっていることが無性に馬鹿らしく思えてきて、奏は声を押し殺して笑った。無駄に難しく考えて、もっともらしい理由をつけている自分は、三谷のようなタイプの人間にかかれば一蹴されてしまいそうだ。
 胸の中にすとんと収まるものを感じ、奏は足を前に踏み出した。
「うん、やったことあるよ」
「おっ!下りてきた」
 階段の一番下に腰かけ、長い足を無造作にのばしていた三谷は、首を背中の方へ傾けて逆さまの顔で奏を見ている。目があった奏が軽く頭を下げると、三谷は首を戻し、今度はきちんと上体をまわして振り返って、不思議そうな眼差しを奏に向けた。夏の眩しい日差しに目を細めると、遠いところでお昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
 それは、中学時代のとある日のこと。「描きたいものを描くのだ」と顧問に宣言した奏は、少しだけ息がしやすくなった。


「――なで……奏!聞こえています?寝ているんですか?」
「別に……寝てないよ。ちょっとぼんやりしていただけ」
 乃々花の良く通る声に促され、奏はのろのろと上体を起こした。嘘はついていない。椅子に座って俯いていたが、意識はしっかりあった。
 乃々花は膝の上にのせた読みかけの本をパタンと小気味良い音とともに閉じ、首を伸ばして奏を振り返る。
「調子が良くないみたいですね。また描きたい題材が見つからなくて、機嫌が悪いんですか?」
「ううん、描きたいものはずっと前からあるんだけどさ……乃々花、二年の三谷って知ってる?」
「いえ、知りません。奏の同級生ですか?」
「うん。陸上部の騒ぎ、聞いてない?」
 乃々花は少し考えるそぶりをみせたが、すぐに黙ったまま首を横に振った。乃々花が噂に敏い性格をしていないだろうことは、この一年程一緒に部活動を行う中でわかっていた。小さな欠伸を噛み殺した奏は、ぐりぐりと指先で目をこすいながら、どこから話し始めるべきかと思考を巡らせ始める。
「僕も聞いた話だから詳しくはわからないけど、三年生の中に派閥とかグループみたいなのが出来ちゃって、陸上部はほとんど二分されていたらしいんだ。もちろん三年生に従う形で、一・二年の人達も二つに分かれて、ずっとぎすぎすしていたんだって」
「ふぅん……」
「最終的に先週、殴り合いの喧嘩にまで発展しちゃって、怪我人が出る騒ぎになった。病院行くぐらいのレベルだったから、さすがに何のお咎めもなしじゃ難しいって話になった時に、加害者になった方のグループの一人が自分から退部した。結果的にそれに便乗して、処分を下したっていう始末に先生方は持っていったみたい」
「じゃあその人、結局は貧乏くじひいたわけですか。自分の意志でやめたんですか?」
「そこまではわからないけど……でも少なくとも僕は、自主的にやめたんじゃないかなって思う。三谷くんはたぶん、そういう人だったよ」
 あの日、階段下で言葉を交わしてから、奏はそれまで耳に入ってもすぐに追い出していた三谷の噂を、頭に留めるようになった。同じ高校に入ってからも同じクラスになることはなかったが、何かと行動の目立つ三谷の話はいくらでも入ってくる。もやもやするものを引きずり残すくらいなら、全部引き受けて一気に片付けてしまおうとする。奏が伝え聞いた三谷は、そういう人だ。
 奏にわがままになることを教えてくれた三谷は、しかしおそらく、いざという時は誰にも気負わせないような手っ取り早い方法を選ぶ。だからこそ中学時代も、今より喧嘩っ早かったのにも関わらず、三谷を慕う声を聞くことの方が多かったのだろう。
 奏の話を聞いた乃々花は険しく眉根を寄せ、じっと虚空を睨んでいたが、やがて抑揚のない声で尋ねた。
「どんな見た目しているんです?」
「なんで?」
「単純に興味がわきました」
 乃々花はにっこりと笑顔を浮かべているが、どことなく言葉にはトゲがある。
「背が高くて……こんなかんじかな」
 奏は目の前に広げていたスケッチブックに、さらさらと落書き程度の絵を描いていく。記憶に残る三谷の姿を白い紙の上に再現しようと試みるが、途中輪郭を描いたところですでにあまり似ていないと思えてしまった。真向かいに歩み寄ってきた乃々花が真剣にのぞきこんでくるので、仕方なしに一度は止めようとした手を動かし続ける。
 このまま好きなものだけを描き続けることにも限界があるのだと、奏はうすうす気付きはじめていた。やっとのことで手に入れた自由を、自ら手放せなければならないということほど、滑稽なことはあるだろうか。
 しかし、いつまでもこうして乃々花とともに美術室にこもり続けているわけにはいかない。いつかは区切りをつけなければならないのだと認めたときに、見落としていた心残りを見つけた。
 奏はあの日、心を揺さぶった強い感情を描き忘れてしまった。今でも時あるごとに、もう一度あの時に戻ることが出来たらと夢想する。もう一度あの時の感情を思い出せたのなら、今度は絶対に、奏は忘れないだろう。

夏雨のエスケープゴート

夏雨のエスケープゴート

「――君の神様で、いたかったんだ。」 卒業式の日。後輩である乃々花と再会したことをきっかけに、三谷は消えた友人・奏のことを思い出していた。 美術部の部長にして、変人。三谷に居場所を与えてくれた、恩人。 そんな彼が、なぜ何も告げずに去ってしまったのだろう。 強気を装った眼差しを向け、乃々花は言う。 「美術室に行きましょう、三谷。一緒に奏を探しに行きましょう」 これは、ありふれた青春のお話。 神様でいるために消えることを選んだ一人の少年をめぐる、ただの思い出話。 (『y.m. vol.1』より)

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-03

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

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