夏の終わりの静かな風 6
次の日はお昼近くに起きて、遅い目の朝食なのか、早い目の昼食なのかわからない食事を済ませた。食べたのは、母の作ってくれたご飯と味噌汁と鯵の開きだった。一人暮らしをしていると、なかなかこういったものを食べる機会はないので、少し大袈裟かもしれないけれど、久しぶりに人間らしい食生活を送ったような気持ちになった。
妹はまだぐっすりと眠り込んでいた。妹の睡眠欲にはちょっと尋常じゃないものがあって、下手をすると夕方近くまで眠っていることがある。起こしてもどうせ無駄だろうと思ったのでそのままにしておいた。
食事を済ませると、子供部屋に戻って、特にすることもないので本を読んで時間を過ごことにした。手に取ったのは、大川裕二というひとが自費出版した小説だった。宮崎に帰ってきたときに、本屋さんの郷土本のコーナーでたまたま見つけて面白そうだったので買ってみることにしたのだけれど、読みはじめた小説は、好みにもよるだろうけれど、なかなか興味深く読むことができた。
物語は、若い男女の夫婦が、生まれたばかりの子供を病気で失ってしまうところからはじまっていた。
子供には生まれつき心臓に欠陥があった。手術したものの、欠陥に気がつくのが遅かったため、結局子供の命は助からなかった。
夫婦は子供の遺骨を抱えて実家に戻る。故郷の墓に子供の遺骨を埋葬するためだ。
その夫婦の実家は、海辺の小さな町にある。
ふたりは子供の遺骨を丁寧に埋葬したあと、その足で、子供の頃よく遊びにいった海辺を訪ねる。ふたりは小学校の頃からの幼馴染だ。
そこでふたりは死んでしまった子供のことについて話す。もし子供が成長して大きくなっていたらとか、あのときもっと早く子供の病気に気がついてあげることができていたらといった、どこにもたどり着けず、むしろ話すことで返って哀しみを深めてしまうような会話がしばらくのあいだ淡々と続けられる。
やがてふたりの間には沈黙が訪れる。それはまるでふたりが失ってしまったものそのもののような重さと密度持った沈黙だ。
そんな深い沈黙のなかにいくつもの波の音が吸い込まれていく。
ふたりは黙ってそれぞれの思考のなかに沈み込んでいる。
いつもはきれい青色をしているはずの海は、今日は曇っているせいで、暗く沈んだ色合いをしている。
と、一瞬雲に切れ間が出来て、そこから一筋の光が差し込む。その光に照らされて、一部分だけ明るく輝いた海面は、何か神秘的な存在がそこに舞い降りてきたかのようにも見える。
その光景を目にした妻は、それまで座っていた浜辺から立ち上がると、ふらふらとその光に誘われるようにして波打ち際まで歩いていく。
その妻の行動を目にした夫は、ふと不安にかられて妻のあとを追いかけていく。そして、
「どうしたんだ。」と、声をかける。
すると、妻は夫の方を振り返って、
「今、誰かの声が聞こえたような気がしたの。」と、答える。
「小さな子供のような声だった。」と、妻は続けて言った。
もしかしたらわたしたちの子供が何か伝えとしているんじゃないか、と。
夫はそんなことがあるはずがないと内心思うのだけれど、妻のことを気遣って、そうかもしれないね、と、優しく答えて特に否定しない。というか、彼自身も思う。もしかしたら、ほんとうに自分たちの子供が何か伝えようとしていたのかもしれない、と。
というのは、夫は、妻が波打ち際に向かって歩き出したとき、妻の言うとおり、誰かの声を聞いたような気がしたのだ。でも、それはただの錯覚に違いないと反射的に否定した。だけど、もし、その声が、ほんとうに子供の声だったとしたら、と、彼は考える。子供は自分たちに一体何を伝えようとしていたのだろう、と。
耳を澄ましてみるが、無論、子供の声なんて聞こえてくるはずもない。
束の間海を照らしていたやわらかな日の光は、再び雲に遮られて、失われてしまう。あとにはまた潮騒の響きと、耳元を吹きすぎていく強い風の音だけが残る。
打ち寄せる波の音と、風の音を重ね合わせるようにして聞いていると、それは誰かの哀しい歌声を聞いているように夫には感じられた。そしてそれは同時にひどく懐かしもあった。ふと足元に視線を落としてみると、そこにはひとつの貝殻があった。きれいな白い貝殻だった。夫はしゃがみこんでその貝殻を拾うと、それをポケットにしまった。
やがてふたりはきたときに同じように車に乗ると帰っていく。
夫は海岸線の道を黙って車を走らせながら、ふとちらりと助手席に座った妻の方に視線を向けてみる。
妻は車の窓に頭をもたせかけるようにして、どこか疲れた表情を浮かべて暗く沈んだ海に視線を彷徨わせている。
彼は妻に何か声をかけようと思うのだけれど、でも、何もかけるべき言葉を思いつくことができない。頭のなかに浮かびかけたいくつかの想いは、しかし、明確な形を結ぶ前に砂のように脆く崩れ去ってしまう。
彼は諦めて車の運転に神経を集中させる。
やがて、海岸線の道は終わり告げ、彼らの目の前に見慣れた小さな町が見えてくる。
この小説を読み終わると、灰色の色素が微かに溶けた冷たい海の水に意識が包まれたような気持ちになった。この物語の曖昧で静かな感じが、心のなかを出口を求めていつもまでもぐるぐると彷徨い続けるような感覚があった。たとえば海で泳いだあと、寝るときになっても波に揺られている感覚がずっと身体に残っているように。
最後の場面で、主人公が、妻に声をかけようとして、何もかける言葉を思いつくことができないところが、哀しいと感じた。
夏の終わりの静かな風 6