アリストテレスの詩学
アリストテレスの詩学は文庫本にすると薄めの本になるぐらいで、他のアリストテレスの書いたものとくらべて長くない。
実際現在のこされている詩学は本のはんぶんで、後半部分は欠けているが、はんぶんでも十分読める内容になっている。この消失した残り半分についてウンベルトエーコがろくでもない小説を書いているらしい(消失したのが喜劇だから、笑いを恐れて教会が隠しただとかなんだとか、そういう話で長たらしいの)。
アリストテレスの詩学の骨子は単純明快でいて使いやすい。が、一言で言い表せる体裁はとっていない。よくまとまっているかわりに、部分だけ読んでも感心は呼ばない。残っているもので26章あるのでそれぞれの章を簡単に要約してみる。
1章 これから語ることは創作行為とその機能についての話だ。創作を一括して既定するならばそれは描写行為(まねること)である。描写は1、手段、媒体2、対象の性格、3、様式の三つの項目で分類できる。
1について、手段とは使う道具は何かという話だ。
2章 2について、対象の性格というのはこれは、人々の行為のことだ。
対象の性格として描かれる人間はかならず、自分たちにくらべて、すぐれた人間であるか劣った人間である必要がある。それの派生として自分たち並みの人物も描かれることもあるだろう。
悲劇は自分たちにくらべてすぐれた人間を描く性質があるし、喜劇は自分たちにくらべて劣った人間を描く性質がある。
3章 3の様式についてはi)作者が登場人物であるii)作者は作者として語るiii)作者は出てこないで登場人物だけで描写してみせる。という三つに分けられる。
4章 創作の起源は描写(まねる)ということで、それは人間の特性の一つであり。まねされたものを見るのを好む性質があるのが原因だと思う。
5章 喜劇というのは比較的劣悪な人物の描写をするものだ。
6章 つづいて悲劇について語るが、悲劇の本質はどのようにして定義されるかというとつぎのとおり。
「悲劇とはまじめで厳粛な行為の、そして一定の大きさをもって完結している行為の描写であり、その描写は快い効果を与えられた言葉によっておこなわれながら、人物たちが現に行動しているままを描写するのではなく、いたましさと恐れを通じて、劇中にある諸感情の清めを達成していく」
悲劇とは行為の描写であり、その行為する人間は性格と知性の面でかならず一定の資質をもっていなければいけない。性格と知性の面で一定の資質を持っている者の行為もやはり一定の資質を持つことになり、その一定の資質が成功したり失敗するのが行為を描写する意義だ。
行為そのものを抽出するものは物語であると言えて、これは出来事の組み立てのことである。これに対する性格というものは、行為する人間の資質がそれによってきまると我々が言うところのものである。また知性というのは、それら行為する登場人物が、論証をしたり、自分の見解を表明したりするすべての技術のことを言う。
悲劇の要素としては、描写に関するもの(措辞、視覚的効果)がふたつ、描写の方式に関するものがひとつ(音曲)、何を描写するかということに相当するもの(物語、性格、知性)が三つである。
このなかで悲劇にとって最も大事なものは物語である。悲劇とは単なる人間の描写ではなくて、行為の描写であるから、当然物語が大事になってくる。劇においてのひとは、人間の性格を描写するために行為するのではなくて、行為そのものを描写するために、性格のこともとりいれるのである。
たとえば行為なしには悲劇は成り立ち得ないけれども、性格を抜きにしても悲劇は成り立ちうる。実際大半の悲劇は無性格劇である。
あるいは、人物の性格が良く描かれていて、措辞としても知性においても申し分なかったとしても、それだけしかなかったなら悲劇は達成されない。むしろ、今あげた点において欠陥が多かったとしても、ひとつの物語と出来事の組み立てをしっかりもっている悲劇のほうが、悲劇本来の目的を達成することができる。
また、初めて創作を手がける人が、出来事を組み立てるよりも、語法や性格描写のほうで早くウデをあげることができるという事実も、同じ事を証明するとわかるだろう。
かくして、物語こそは悲劇の第一原理であり、いわば悲劇の魂にあたるものである。そして第二に重要なのが、登場人物の性格ということになる。三番目に重要なものは知性である。
知性というのは与えられた情況においていかにも語ることができること、語るにふさわしいことを語る能力を意味する。これに対して性格というのは、その人物が行う意図的選択がどのようなものであるかを示すところの要素にほかならない。無性格劇といわれるものには、語り手が何を選び何を避けるかという問題が含まれて居ない。
四番目に大切なのが措辞で、最後に音曲が大事である。
7章 悲劇がどのような要素によってなりたち、何が大切か分かったところで、最も大切とされる出来事の筋立てがどのようにあるべきかと論じる。
まず、物語というのは、一つのまとまりであり、一定の大きさを持っているので、当然始めと真ん中と終わりを持つ。
行き当たりばったりではなくて、始めと真ん中と終わりを持つことは物語のすぐれた構成には欠かせない。
美しくあるためには、生き物全般や、いくつかの部分からできているものもそうだが、美しくあるためには、それが持つ諸部分が一定の秩序を示しているだけではなくて、大きさにも一定のきまりがなければいけない。
たとえば人間の目には小さすぎて見えないものは、美しさの対象になりえないし、人間の目には大きすぎるものは、全体として見通すことができず、美しさの対象になりづらい。これと同じように、劇の物語の場合も、それはある長さをもちながら、しかもその長さは全体がらくに記憶のうちにおさまるほどのものでなければならぬ。
では、長さの限界を具体的にどこに置くかというと、それは上演する人や、観客に左右される。それとは別に、事柄の本性そのものにもとづく限界といえば、物語は、全体があきらかにつかめるかぎりにおいては、長ければ長いほど、その大きさのゆえにつねに美しいのである。
単純化した既定を与えるならば、つぎのように言うことができる。
「すなわち、その物語の中で、なるほどもっともな成り行きだと思わせるような仕方で、あるいは必然不可避の仕方で、いろいろの出来事がつぎつぎと進行することにより、主人公の運命が不幸から幸福へ、もしくは幸福から不幸へと転換することになるのにちょうど適当なだけの長さ、それが長さの限界として十分なものである」、と。
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