ビーグルの鼾は遠吠えより高く

2013年5月2日 ユダヤ人最後の拠点マサダがローマ軍により陥落し、ユダヤ戦争が終結。

 GWも後半に差し掛かる、誰もが浮足立つであろう夜。少し寒いけれどもとても風が澄んでいて、深夜にベランダに出ているとマイナスイオンをたっぷり吸いこめる(そんな気がする)夜。

 私とうちのビーグル犬の、夜が今日もくる。

 ここで彼女を簡単に紹介しておこう。
 彼女の名前はリンで、齢14歳。人間でいうとだいぶその…お姉さんだけれど…そう言うと睨まれてしまう。まったく、「婆で結構!」と憮然と答えるような貫禄がある。
 我が家にきた、初めての「犬」という種族であり、家族がおっかなびっくり育てたせいか、かなり破天荒…失礼。お転婆ガールとして育ってきた。
 散歩はもちろん3時間。食事は一日3回。遊ぶ時間はたっぷりと。テリトリーである小屋を、いち早く屋内に作ってもらい、「そこに入ったら触らない!リンが落ち着ける場所にしよう」という家族ルールのもと、「触られたくなければ部屋に入る」という絶対権力を行使して育った文字通り、「箱入り娘」である。

 そんな姉妹のようにともに過ごしてきた彼女とすごすのも、最近はめっきり夜が増えた。しかも二人きりで。家族が寝静まったほんのり闇色の時間を共有することが日課のようになった。私がまず社会人になって学んだことは、犬と一緒に過ごせるような自由な時間は、鈍色の曇った湖を覗き込むみたいな、予測不可能の不安にまみれた連休の前夜ぐらいじゃなければ訪れないということ。

 「グー。ググー。グー。ググー。」

 そしてそんな時間にふと気付くのだが、リンは鼾をかく。

 ◆

 この事実は最初に知ったとき、私はとても当惑した。驚いた。そしてそのまま心配した。犬が鼾をかくとは、聞いたことがない。見たこともない。
 だからどこか痛いのではないかと本気で心配したものだ。
 なぜなら、リンは普段ほとんど吠えない。鳴かない。目覚めているときは、まったくと言っていいほど、吠えないのだ。
 リンを我が家に迎えてから、犬を飼った経験のある父も驚くくらい、まったく吠えない。

 そんな犬である彼女が…!いったい何が彼女にそんな切なそうで苦しそうにも聞こえる、しかし規則的な音を出させるのだろう。

 「グー。ググー。グー。ググー。」

 私の心配やら当惑やらをよそに、リンは寝息をたて続ける。昏々と眠っている。

 ちょっと衝撃だったので近づいてみる。

 「…」

 気付いたらしい。規則的な音が止まればまもなくゆっくりと、白髪交じりの瞼をもたげて、「なんなのだ?」と言わんばかりに眉間にしわを寄せ、私を見る。
 とにかく昼間に彼女を起こしてしまう時より視線が痛い。突き刺さるようだ。なにぶん貫禄があって怖いのでこっちを見ないでほしいが起こしてしまって申し訳ない気持ちもある。

 「大丈夫?」と声をかければ、あきれたように「ふーん…」と鼻息をふく。彼女の深いそれは夜に紛れて消える。

 どうやら本当に健康で、問題ないようだ。鼾…。

 「犬も鼾をかくのか…」

 不肖、私も今まで生きてきて、義務教育を終え、新聞を読んだり、ニュースを見たり、本を読んだり、人に会ったり、とにかくそれなりに経験してきたつもりである。
 当たり前だけど、もちろん知らないことはたくさんある。その事実は文字では分かっているし、頭でも理解している。しかしまさかこんなに身近に未知との遭遇があるとは…不覚。

 遠巻きにリンを見つめていると、しばらくしてまた規則的な音が響く。

 「グー。ググー。グー。ググー。ッ…。クーン。…フー。グー…。」

 たまに高い音が混じる。そして深い『グー』を一息して彼女は寝返りを打った。かすかにリンの匂いがして、少しくすぐったい気持ちになる。

 やがて彼女と夜を過ごすことが増えた私にとって、「リンが鼾をかく」ということはもはや植物が二酸化炭素を吸って酸素を吐き出すぐらい日常となった。

 
 そんなある日、同じくビーグルを飼っていた以前の職場の同僚に、思い切って鼾について聞いてみると…

 「そうそう!ビーグルって鼾をかくのよね!かわいいよねー!」

 との反応。

 「よかった!うちだけじゃない!!」

 という…なんというか、「他人と一緒であればなんか安心!」というよくある感覚で安堵した私。そんな私を横目に、ふふっと嬉しそうに笑って同僚が続ける。

 「ビーグルの鼾っていいわよね。聴いていると、『あぁ平和だわ』って思うのよ。どんなに忙しくても、あの子の鼾を聴くと『はぁ…今日も平和でよかった』って気持ちになって、私は大好きよ。」

 優しく微笑む同僚を見ながら、その穏やかな声を聴きながら、私はほわっと「そうかもしれない。」と思った。感じた。まさしくこんな時間が平和で、穏やかで、私たちはしあわせだった。ここにはビーグルはいないけれど、ビーグルは確かに同僚と私を強く繋いでくれているし、ビーグルの鼾が私たちの時間を平らで優しいものへとしてくれる。笑顔がある。

 間違いなく、あの夜の、私を不安にしたビーグルの鼾は、この昼に響いている。

 ◆

 何百年も前の今日、ユダヤ人最後の拠点マサダがローマ軍により陥落し、ユダヤ戦争が終結したそうだ。
 しかし時を経て、我が家では今日もリンが眠る。穏やかに。夜深く。私のそばで。

 「知ってる?」

 心の中で、今も書き綴られ続ける歴史に語りかけてみる。 

 ビーグルの鼾は遠吠えより高く、夜深く響く音。
 

ビーグルの鼾は遠吠えより高く

ビーグルの鼾は遠吠えより高く

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-05-03

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