うたをさがすたび 〜プロローグ − 旅立ち〜
初めまして。風の旅路です。
初めて小説を書いてみました。文字を書く事はずっと好きで、小学校の作文の授業なんかはノリノリで書いていたんですが、し物語を書いたのは今回が初めてです。
舞台がファンタジーなので、情景が浮かぶように細かく書いていますが、回りくどすぎて、読みずらいかもしれません。
まだまだうまい言い回しや奇麗な物語は書けないですが、楽しみながら読んでいただけたら幸いです。
プロローグ
−−『歌』って知ってる?
−−じゃあ『リズム』って知ってる?
−−じゃあ『詞』ってしってる?
−−『旋律』は?
−−『リズム』と『詞』と『旋律』が一緒になったのが『歌』なんだよ。
−−一緒に『歌』を探しに行こうよ。
『僕のほとんど』
レンガ造りの壁は大きな葉に覆われ、その一部にはこれまた緑に覆われた小さな木の扉が一つ。その緑に覆われた小さな扉を開けると広がる、薄暗い空間。スイッチを押すとやわらかいオレンジ色の光で空間は満たされてゆく。
外が暗くなる前に燭台に灯をともさなければ、暗くて身動きが取れなくなってしまう位薄暗いけど、僕にとってはすごく頼りになる明かりだ。
部屋の中も、外と同様にたくさんの植物であふれていて、壁に這っている大きな葉っぱの蔦が目立つ。そして部屋の真ん中少し左には、大きな木が一本立っていて、僕はその根元のスペースをベッドにして毎晩眠りにつく。
この木はとても大きくて、もちろん屋根の上までのびているけれど、静かな風とやわらかい雨以外は部屋には入ってこないものだから、部屋の中は汚れずにすんでいる。大きな風と鋭い雨は、どうやらこの木が避けてくれているみたいだけど、詳しい事は分からない。どうやら心地いいものだけを選んで届けてくれているみたいだ。
僕は部屋に置かれたキャスター付きの椅子に腰を下ろし、描きかけていた絵に視線を落とす。今朝描いていた絵は、僕がほんの4歳のときに散歩中に見つけた水たまりと、その水たまりに片手の先端だけ触れている、小さな野いちごの絵だ。
本当は、この水たまりと野いちごを見つけたときに描けていれば良かったのだけど、そのときはまだ絵を描く仕事はしていなかったものだから、想い出を描き止めるなんて思いつきもしないまま忘れていた。
今朝起きる前に見た夢に、少しだけ水たまりと野いちごがでてきたものだから懐かしくなって、今度は忘れないように少しだけ描いてから今朝は家を出た。
僕の机は木で出来た濃い麦色のものだけど、自分で作ったものだから売っているものと比べると少し大きい。
それでも絵を描く為に必要なものや、気に入りの絵本なんかが積んであるものだから、絵を描くスペースはそんなに広くはない。少し手を伸ばせば大概の必要なものには手が届く小さな作業スペース。その空間が今の僕のほとんど。
生きて行く為には何かを産み出さなくてはいけなくて、僕が選んだのは絵を描く事だった。パンや陶器を産み出す方が収入にはなるけれど、固いものを産み出すことに抵抗があったので、パンや陶器はやめて絵を描いている。他の絵を描く人たちは、緑色や黄色の淡い色の紙に黒いペンで絵を描いていくけれど、僕は黒い紙に白い色で絵を描いていく。
白い絵を描く人なんかほとんどいないものだから、白いインクはほとんど何処にも売っていないし、ひどく値が張る。それでも僕には白い絵が一番しっくりくるものだから、白いインクで、ひたすらに山や丘や湖の絵なんかを描き続けて行く。
はっきり言って、僕の描いた白い絵なんかほとんど収入の当てにはならない。それでも僕の絵を買ってくれる常連客のおかげで、どうにか毎日食事にはありつけている。最近では少しだけとお客さんも増えてきたおかげで、あと15年か20年もしたら、新しいソファーが買えるだけの貯金は出来るかもしれない。
そんな事を考えながら、僕は絵を描く事に没頭していく。収入の為に選んだ仕事だけれど、それよりも楽しくてひたすらに絵を描き続けた。そして明日売りに行く絵を仕上げて、家の真ん中にある木の根元のベッドで一日を終える。それが今の僕の生活のほとんど。
僕は一日にだいたい5枚の絵を描く。それは本で読んだり、昔見た景色の風景がほとんどだ。昨日は水たまりと野いちごの他に、川を流れてきたリンゴの絵と、土から頭だけはみ出してしまった人参の絵なんかを描いていた。
そうして描きあげた絵を持って丘を登り、知り合いのランプ屋の前に腰を下ろし、そこで絵を売る。
ランプ屋は丘の上にあるものだから、人通りが多い訳ではないけれど、彼のランプを目当てにやって来る人は多いので人通りが途切れる事は無い。僕の絵の常連客のほとんども、彼のランプを目当てにやってきたお客さんだった。彼は一日中店の中でランプを作ったり、来たお客さんと話したりしているもので、ほとんど店先には出てこない。
こもりっきりで息苦しくならないかとも思うのだけど、やっぱり息苦しいみたいで時々三日程店を閉めて、どこかに出かけたりしている。
そんな彼とは真逆で、僕は店先で一日中崖のほとりの湖の揺らぎを見て過ごす。そのおかげで風が吹いたときに出来た湖の凹みの深さや、波に反射した光がどのくらい遠くの木の葉を照らすのかを知る事が出来た。そうして僕の絵を気に入ってくれるお客さんが時々来て、一緒に絵を眺める。そうしてしばらくした後に僕の絵を買って、ランプ屋と会話した後に帰って行く。
僕は日が黄色からオレンジに変わる頃合いを見て、ランプ屋の彼に挨拶して帰路につく。その帰り道に、今晩食べるものの材料を買って家に帰る。今日は薄いパイの生地と、二切れのベーコンを買った。野菜は庭にあるし、卵も庭の鳥が譲ってくれる。それだけで今日の夜と、明日の朝の分は充分。
今日はとキッシュを作ろうと、ぼんやりと決めていた。
朝一番で庭を覗いたらトマト二つがなっていたから、今日はトマトを入れてみよう。そんなことを考えながら、また緑に覆われた扉を開き、スイッチに手を伸ばす。
食事を作る前に、今日見た庭のトマトを絵に描いておこうと、ペンに手を伸ばす。真っ赤に熟れた二つのトマトが隣の細い葉っぱをかき分けて片目で覗いている絵が誰かの部屋の額縁に収まっている事を想像しながら、白いインクで真っ赤なトマトを描いて行く。そうしてしばらくしてから、燭台に灯をつける。
オレンジ色の明かりが二回ゆらゆらと点滅した。そうしてすこししてから、今度は三回ゆらゆらと点滅した。
誰かが家のドアをノックすると、オレンジの明かりはゆらゆらと点滅する。
夢中になって真っ赤なトマトの絵の後に、三枚も絵を書き続けていた僕を、オレンジ色の点滅は現実に引き戻してくれた。
誰か来たのかな、と思いながら立ち上がって五、六歩先のドアノブに手をかけ、ドアを引いた。そうするとそこには、柔らかな雰囲気の、白いふわふわした服を着た少女が立っていた。
身なりからすると火屋みたいだけど、初めて見る少女だった。学校を卒業して、火屋に新しく弟子入りした子なのかもしれない。
「新しい火屋さんですか?」
そうたずねながら続ける。
「僕の家は水曜日に火を頼んであるので、今日は火の日ではないんだけど…」
少女に話しかけていると、とても不思議な事がおこった。
——『歌』って知ってる?
少女は透き通った、風が稲穂を揺らすような柔らかな声で、私に質問を届けた。僕はすごく驚いてその場に固まった。そうして3秒ほど少女の目を見つめた後に、少し震えながら彼女の質問に答える。
「……知らない」
しかし彼女は不思議な事に、すごく嬉しそうな顔をした。『知らない』と答えているのに、なぜ急に嬉しそうな顔をするのがすごく不思議だった。しかし少女は嬉しそうな顔を崩す事無く質問を続ける。
−−じゃあ『リズム』って知ってる?
これに対する僕の答えも「知らない」だった。
しかし再度『知らない』と答えているにも関わらず、少女は嬉しそうな顔を崩す事なく、次々に質問を続ける。
−−じゃあ『詞』って知ってる?
−−『旋律』は?
申し訳ない気持ちが膨らんでくるが、どれも知らないものばかりだ。知らない物は知らないし、持っていない物は持っていない。
「ごめん、どれも知らないし、知らない物は当然持っていないから、持ってくる事ができないんだ」
そう伝えても彼女は嬉しそうな顔を崩す事も無く、しばらく僕の目を見た後にまた言葉を届ける。
−−『リズム』と『詞』と『旋律』が一緒になったのが『歌』なんだよ。
「そうなんだ」
少女が『歌』が何かを教えてくれた後も、僕には『歌』や『詞』や『旋律』といったものが、どういう形をしているのかを考えていた。どうしても想像がつかめないで、粘土を当ても無くこねるような感覚を胸に抱いたまま少女を見つめ続けると、少女は再び僕に声を届けてくれる。
一緒に『歌』を探しに行こうよ。
『少女の声』
「それは形があるものなの?」
僕は思った事を質問しただけなのだが、少女は少し驚いた後、また嬉しそうな顔に戻る。
−−君っておもしろいね。
何の事か分からず、僕も少し驚いた後首を傾けて、少女を見つめ返す。
−−探すって言ったら、普通の人は『形があるもの』を想像するよ。私も形があるものだと思ってた。もしかしたら『形がないもの』なのかもしれないね。
と、また僕に言葉を届けてくれる。形があるものであれば、探せば見つかるかもしれない。しかし形がない物だとしたら、それを探すのは途方も無い事に思える。僕は途方もない物を探す少女に少しあっけにとられながらも言葉を続ける。
「でも、形のない物だとしたら、『世界に忘れられた形がないもの』は見つからないんじゃないかな」
その瞬間少女は悲しそうな目をした後に、少しうつむいた。そうして繋がれたままの僕と彼女の手を見つめながら言葉を続ける。
−−君って悲しいこと言うんだね。
僕は少女にとってすごく残酷な言葉を紡いでしまったのかもしれないと、少し罪悪感を感じていた。考えた事をそのままの言葉で伝えてしまったことは失敗だったかもしれないけれど、僕の言葉を僕自身が『その通りだ』と考えていたものだから、少女にかける言葉がみつからず、黙ったまま少女を見つめていると、しばらくした後に少女はまた僕に言葉をくれた。
−−もしかしたら、『歌』を探し続けたら、世界が思い出してくれるかもしれないよ。
だってそうでしょ?昨日食べたスープの味を忘れていても、もう一度食べたら思い出せるもの。
そう言って少女は再び嬉しそうな目を僕に向けたけれど、さっきとは違い少女の目は少し不安を宿していた。
一通りの会話が続いた後、燭台のろうそくが二、三滴滴るくらいの間ではあるけれど、僕と少女は無言で見つめ合った。そうした後に、ずっと不思議に思ってはいたけれど、当然のように流れて行く会話で忘れそうになっていた不思議を少女に投げかけてみる。
「どうして君の声は僕に聞こえるの?」
彼女がどうやって、僕の聞こえないはずの耳に声を届けてくれているのか、僕は不思議で仕方なかった。
僕が質問した後、少女は少し首を傾けたが、嬉しそうな顔は僕に向いたままだった。そうしてしばらくした後、僕は「耳が聞こえるようになったのかも」と気付いた。試しに少女の手を離し、そばにあったスプーンで少しさびた鉄の靴入れを叩いてみた。
二、三回叩いた後、スプーンは曲がってしまったし、指先はしびれていたけれど、何の音も僕には届いてこなかった。彼女の声以外は、僕には感じられる事が出来ない。
そうして再び少女に目をやると、少女は両手で耳を塞ぎながら、再び僕に声を届けてくれる。
−−急に鋭い音をあげるのはやめて…
少女の言う鋭い音は僕の耳には届かなかったが、なぜ彼女の声は僕に届くのだろうか。呆然と少女を見ていると、少女は両耳から手を離し、体の前で組み直したあと、微笑みながら言った。
−−……分からない。けど、私も声を失くしてから私の声が誰かに届いたのは初めて。
僕は耳が聞こえないし、彼女の柔らかな声は確かに僕に届いていたものだから、これにはひどく驚いた。音がある世界では、彼女の声は誰にも届いていなかったのだ。
僕はかける言葉が見つからず、しばらく少女を見つめ続けた後に、やっと言葉を絞り出した。
「僕は夕飯がまだなんだ。今日はキッシュを作って食べようかと思うんだけど、一緒におあがりよ」
そう言って少女を招き入れ、僕は扉を閉じた。
「えっと、とりあえず……」
−−私はカイネ。
「ありがとう。僕はシオンだ」
ろうそくの長さが半分になるほど話し込んだあとの、遅すぎる自己紹介が少し可笑しくて少し笑い合った後、角の削れた四角いテーブルと少し揺れる楕円の椅子を用意して、僕は晩ご飯の支度を始めた。
『僕のほとんどの中にやってきた少女』
−−私が『歌』を知ったのはね、おばあちゃんのおばあちゃんのもっとおばあちゃんの時代の人たちの童話の中に描かれていたからなの。
晩ご飯を食べた後は、少し絵を描くか、そのまま眠ってしまうのが僕の生活のほとんどだったのだけど、今日は隣に僕にずっと話しかけてくれる少女がいるものだから、僕はすぐには眠らずにいた。カイネはお話が出来るのが嬉しいのか、食事の後から寝るまで話しつづけた。
彼女の年齢が17歳ということや、仕事はやっぱり火屋だということはそのときに聞いた。僕も誰かの声が届いてくる事が嬉しくて、カイネのおしゃべりをずっと聞いていた。
−−どのくらい前の時代なのかはもう分からないけど、その頃の童話や小説の中には『歌』がたくさん出てくるの。『歌』はね、『歌う』って動詞と一緒に表すんだよ。これはね、『歌』と『歌う』って事が二つでやっと一つってことだと思うんだ。トーストとジャムみたいなものなのかな。それに気付いたときわくわくしたんだ。ほとんどの人たちや世界にも忘れられてしまっているけれど、もう一度『歌』と『歌う』を出会わせてあげたいって思った。
でも、家にあった本をどれだけ調べても『歌』のことも『歌う』のことも、詳しく書いてある本は見つからなかった。主人公の男の子は、火を吹く魔物に勝った後は『歌』を『歌う』し、母親は子供が眠る前に『歌』を『歌う』ってことは書いてあるけど、『歌を歌う』ってことが何なのかは書いていなかったの。『リズム』や『旋律』、『詞』は『歌』を調べているとき知った物で、それぞれが何なのかとか、どこにあるのかは分からなかった。
−−そして気になったら止まらなくなって、気付いたら家を飛び出してた。誰にも挨拶しないで出てきちゃったから、私の火を待ってた人たちは困ったかも。
そういってカイネはいたずらっぽく笑った。
−−でも、旅をしてみると火をほしがってる人はたくさんいたの。火を作る人が少なくなってるんだね。生活する為には必要なものなのに。谷の底にすんでいたおじいさんとおばあさんの所には一週間に一回、風曜日の日に火屋さんが来て火を作ってくれるみたいなんだけど、風曜日の前にうっかり消しちゃって困ってた。
そのときに私が火を作ってあげたら、すごく喜んでくれてキッシュをごちそうしてくれたの。あのキッシュが今まで食べた中で一番おいしいキッシュだった。
カイネはなおも喋り続ける。キッシュの話をしているときのカイネの目が、びっくりするくらいキラキラするものだから、僕はちょっと意地悪をしてみたくなった。
「今日の僕のキッシュは、今まで食べた中で何番目に美味しかった?」
少し考えた後にカイネは答える。
−−……4番目くらい?
そう言って楽しそうな、いたずらっぽい目を僕に向ける。今までカイネがどのくらいのキッシュを食べたかは分からないけど、4番目ならそんなに悪くはないのかな、と少し嬉しくなる。しばらくいたずらっぽい目を僕にむけたあとカイネはまたおしゃべりに戻る。
−−でも、そういう1番目や4番目に美味しいキッシュって、旅をしてみなければ知る事が出来なかったから、私旅に出て本当に良かったと思う。村の中だけで生活していたら、こんなに嬉しくなる事もなかったもの。もしかしたらこれが『歌を歌う』って事なのかもね。
そう言ったカイネは楽しそうにしていたけれど、僕は何の事か分からず「?」という顔をカイネに向けた。
−−感謝されたり、親切にされるとドキドキしてあったかくなるでしょう?『親切するとあったかくなる』って言うのが『歌を歌う』って事なのかもって思っただけよ。
もしそれが当たっていたとすると、カイネの旅の目的は達せられていて、旅を続ける目的がなくなってしまう気がする、などと考えていると、
−−まあ、そしたらそれが本当に『歌を歌う』ってことだっていう証明を探す旅になるんだけどね。
と付け加えた。僕が考えていた事はお見通しのようだった。
「それにしても」
僕はつぶやく。
「『歌を歌う』の為に必要な物って、たくさんあるんだね。それぞれが何なのかも分からないし、もしかしたらもっと必要な物があるのかもしれない」
そう言いながら僕はシチューを想像しながらうとうとしていた。『リズム』や『詞』や『旋律』といった奇妙な形をした野菜が、底の深い大きな鍋に入れられて、小さく揺れている様を思い浮かべていた。
煮込まれたそれは一体どんな色で、どんな味に仕上がるのだろう、と考えながら静かに眠りに身を沈めて行った。
−−きっと見つかるよ。
眠りに落ちる寸前に、カイネが小さくつぶやいたのを聞いた気がした。
『カイネ』
−−え?
「え?」
僕とカイネはお互いに驚いて、お互いの目を見つめ合った。僕がいつも通り絵を売りに行こうと仕度を整え、家を出ようとした時にカイネが驚いて声を出し、その声に驚いて僕も声を出してしまった。
−−『歌』探しにいかないの?
カイネはどうやら、僕が歌を一緒に探しに行くものだと思っていたらしい。昨日はカイネに『歌』がどういうものかを聞き、彼女の旅の話を聞いてはいたけれど、僕はいつも通りの日常を送るつもりでいた。
「僕は『歌』を探しに行くなんて一言も言ってないよ」
カイネは心から驚いたようで、しばらく扉の前で立ち尽くしたまま僕の目を見つめ続けていた。
「お金には困っていないけれど、それでも僕は絵を売らないと、今晩ドリアを作る事ができないんだ」
それでもカイネは立ち尽くしたまま、僕の目を見つめ続ける。扉は閉めているし、このままカイネに背を向け絵を売りに行く事は出来るけれど、僕には彼女を放っておく事がなぜか出来なかった。
僕が声を聞く事が出来る人間だからなのか、彼女の不思議な雰囲気を手放したくないからなのか、僕は僕の気持ちをうまく把握できてはいなかったけれど、とにかく彼女を放ったまま絵を売りに行く事が出来なかった。
「今から丘の上のランプ屋の前で絵を売りに行くんだ。カイネも良かったら一緒に行こう」
そう言って僕はカイネを誘う。
カイネは放っておかれる訳ではないと気付いたのか、急に笑顔になり僕の左側にふわりとやってきて僕の腕に抱きつき、楽しそうな笑顔を僕に向けた。そうした後に、僕は少し歩きずらかったけれど、カイネと一緒に丘の上のランプ屋に向かって歩き出した。
−−ランプ屋さんに『歌』あるといいね。
そうつぶやいたカイネに、ふと意識を向ける。昨日はお互いの目を見ながら話していたものだから気付かなかったけど、横に並ぶとカイネは僕よりも頭と首の分だけ小さくて、彼女の頭はちょうど僕の肩の当たりに当たるくらい小さい。
僕には歩き慣れた道だったけれど、初めてこの道を歩くカイネはとても楽しそうだった。
踏み固められた薄い黄色のあぜ道には、所々に実をつけた背の低い花が顔をのぞかせていたし、道の横の木には小鳥が葡萄をつつきにやってきていた。
僕にとってはどれも日常の光景なんだけれど、カイネは何かを見つけると僕から離れて近づいて眺めていた。
そうして僕にとっては日常の光景を少し観察した後に、また小走りで僕の左腕に戻ってきた。
そうしているうちに、丘の上のランプ屋にたどり着き、僕はランプ屋に声をかけて、店先に腰を下ろして絵を広げた。
カイネは珍しそうに僕の絵を眺めていた。そう言えば昨日の晩は、おしゃべりばっかりで僕の仕事の事とか、僕の絵を見る機会なんてなかったな、と思いながら、改めて見られる事が少し恥ずかしくなった。そうしてしばらく絵を眺めた後に、カイネは僕の隣に腰を下ろし、一緒に湖を眺め始めた。
日が東から少し西動き始めた頃に、カイネは急に立ち上がり、ランプ屋の中に入って行った。
僕は少し驚いたけれど、特に気にする事なく湖を眺め続けていると、常連の帽子屋が僕の絵を眺めていにやってきた。
僕は帽子屋と一緒にしばらく絵を眺めていると、帽子屋は昨日描いたトマトの絵を手に取って、僕に代金を渡して嬉しそうに帰って行った。今日はランプ屋には寄らないらしい。
そうして帽子屋が帰って行くと、帽子屋の後ろにカイネが立っていた事に気がついた。
カイネは少し寂しそうな顔をしながら、僕に話しかける。
−−『歌』が無いか聞いてみたんだけど、声が出ないこと忘れてた。
「僕も忘れてた」
そう言いながら僕は立ち上がり、カイネを連れてランプ屋に入った。
そうしてカイネの変わりにランプ屋に『歌』が無いか訪ねてみたけれど、ランプ屋も首を傾げるだけで、やはり知らないみたいだった。
昨日の僕と同じく、『リズム』や『詞』や『旋律』も知らないみたいで、ランプ屋は首を傾げるだけだった。
カイネはまた少し寂しそうな顔をしていたけれど、僕がランプ屋に『ありがとう』と告げると、店の中にあふれるランプを珍しそうに覗き込んでいた。ランプに映り込んだカイネの顔が、変な形に歪んでいるのが可笑しくて、僕は少し笑ったままランプ屋の店先に腰を下ろして湖を眺めていた。
そうして僕は少しカイネのことを考えながら、彼女の今までの旅を想像していた。
『歌』が何かが分からないのなら、彼女の家にあった文献以外を調べるか、『歌』を知っている人間に出会わなければ、『歌』を見つける事など出来ないだろう。
例えば偶然に、カイネが『歌』を見つける事が出来たとしても、彼女自身が『歌』を知らなければ、それが『歌』であると認識する事が出来ないのだ。
そんな事を考えながら、僕は彼女の旅の途方の無さに気付く。
彼女は僕以外の人間に声を届ける事が、どうやら出来ないらしい。それじゃあ彼女は一体どのように僕以外の人に『歌』のことを聞いて回っているのだろうか。筆談だろうか。耳は聞こえるみたいだから、相手が答えてさえくれれば筆談でも『歌』を探す事は可能かもしれない。
でも相手の声が聞こえても、相手に声を届ける事が出来ないカイネでは、それ以上の会話をする事が出来ない。
僕にあんなにも話しかけてくれるほど話す事が好きなカイネが、ほとんど誰とも話す事無く旅を続けてきた彼女の旅の孤独を思うと、なんだか悲しくなってきて、切なさが胸をかきむしった。
そんな事を考えているとカイネがランプ屋から出てきて、再び僕の隣に腰をおろした。
そうしてまた一緒に湖を眺めていたけれど、僕はなんだか切なくてカイネの顔を見る事が出来なかった。切ない気持ちを抱えてたままだったものだから、その後に来るお客さんに残りの絵を売る事は出来たけれど、うまく笑顔を作る事が出来なかった。
持ってきた絵を全て売ってしまった後も、なんとなく声をかけづらくて、しばらくカイネと湖をぼんやり眺めていた。
日が黄色からオレンジ色に変わってしまったことに気付いて、僕は急いで立ち上がり、なんとかカイネに声をかけた。
「今日は持ってきた絵も全て売れてしまったから、そろそろ帰ろう。帰りにはチーズを買って帰ろうと思う」
声をかけるとカイネも立ち上がって、僕の左側にやってきたけれど、今度は僕の手に抱きついてはこなかった。
僕はまだカイネの目を見る事は出来かったので、カイネがどんな表情をしているか分からなかったけれど、何となく笑顔ではないような気がした。
帰り道でチーズを二切れ買って、家に向かって歩きだそうとすると、カイネが急に僕の手を取り引っ張りだした。
−−近くで湖がみてみたい。
「湖って、さっき丘の上から見ていた湖?」
カイネは僕の問いに黙ってうなずいた。
「それは構わないけど……」
僕は「もうすぐ日がすっかり落ちて、真っ暗になってしまうから長居は出来ないよ」と言葉をつなげようとしたけど、思わず飲み込んでしまった。
僕を湖に誘ったカイネの声は、悲しい出来事を思い出してしまったときのような寂しさが含まれていたものだから、僕は言葉を続ける事が出来なかった。
そんな僕の想いを知ってか知らずか、カイネは僕の左腕に抱きつき湖の方へ引っ張って行く。
彼女は迷い無く湖の方へ向かって僕を引っ張って行くけれど、土地勘がないものだから、丘の上へ向かう道の中程まで僕を引っ張って行ってしまった。
僕はあわてて僕の左腕に抱きついたままのカイネを引っ張って、湖への道へ連れて行く。
そうして所々に細い草が生えた林道を少し進んで行くと、目の前が開け、湖を間近で臨む事ができる場所に出た。
カイネは初めて湖を間近で見たのか、湖の大きさに少し驚いて、僕の腕に抱きついたまましばらく静止していた。
そしてしばらくするとカイネは湖に向かって走り出していた。湖のほとりでカイネは靴を脱いで、それを両手に持ったままふくらはぎあたりまで湖の中に入ってはしゃいでいる。
日が落ちてしまうと危ないかな、とカイネを止めようとも思ったけれど、山の向こうに沈みかけた日の光は、とても力強く湖面を照らしている物だから、そのままカイネを眺めている事にした。
僕もこの町に引っ越してきたばかりの、ほんの少年だった頃はカイネのようにはしゃいでいた気がするな、と昔の自分とカイネを重ねて少し懐かしい気分になったりもしていた。
カイネはまるで10歳にも満たない子供みたいに、本当に楽しそうにはしゃいでいる。
僕にはカイネの声以外は聞こえないものだから、彼女が打ち寄せる波に驚いてあげた小さな声や、山に向かって叫ぶ大きな声も、彼女の声は全部聞こえていた。
僕にとっては、風に揺れた木々がこすれる大きな音も、砂利を打ち付ける波の小さな音も、カイネの声を遮る事ができなかったものだから、シオン君と呼ぶカイネの声には全部手を振って答える事が出来た。
カイネも僕に声が届いていると分かると楽しそうに手を振り返し、引いては寄せる波を追いかけて遊んでいた。
二つの月がやわらかくあたりを照らし始めた頃に、カイネははしゃぐことをやめて、立ったまま湖面を見つめていた。
暗くなってから湖で遊ぶのは不安だったので、僕は内心ほっとしていたけれど、彼女の物悲しい雰囲気に再び切なさが胸をかきむしった。
それでもそろそろカイネに声をかけないければならない。
「……カイネ」
小さな声で名前を呼んだ。僕の声が聞こえなかったのカイネは振り向かないで、湖面を見つめ続けていた。
聞こえなかったのかな、と思いもう一度声をかけようとすると彼女は答えた。
−−……帰るの?
なぜかカイネは、帰る事を拒んでいる。僕にはその理由が分からなくて、少し困ったけれど、僕も言葉を続けた。
「ドリアの仕込みには少し時間がかかるんだ。そろそろ帰らないと明日の朝が遅くなってしまう」
カイネは少し黙った後、こちらを振り返りつぶやいた。
−−……分かった。今日はこの木の下で寝る。
立派な木だから、多分雨も風もよけてくれると思う……
それを聞いて僕は、カイネが何故帰る事を拒んだのか分かった気がした。どうりでカイネは彼女の荷物を全部持ってきている。
「カイネ、一緒に僕の家に帰るんだよ。気なんか使わなくたって大丈夫——」
−−だって、二日連続−−!
それを聞いて僕は、思わす吹き出しながら言葉を続ける。そんな事を気にして、遠慮して、元気が無かったのか。
「僕が今日、チーズを二切れ買ったのをカイネは覚えてる?始めから僕とカイネの分で二切れだったんだ」
カイネは何も言わない。僕にはカイネの声以外は聞こえないから、聞き逃したりはしていない。カイネは黙って僕を見つめ続けている。
「だから遠慮なんかしないで、おいで」
それからしばらくカイネは僕を見つめた後、靴を履いて僕に駆け寄ってきて、少し寂しそうだったけど、笑顔で僕の左腕に抱きついた。
あたりはすっかり暗くて林道の先はほとんど見えなかったかけれど、二つの月の頼りない光のお陰で、なんとか僕とカイネは家に向かって歩くことができた。
家に帰りドリアを食べ終わると、思った通りいつもよりだいぶ遅くなっていた。
ジャガイモの仕込みに手間取ったのもあるけれど、窓から外をのぞくと、二つの月のかたっぽは、既に片頬を山に着けようとしていた。
僕は今日は絵を描く事を諦め、明日の朝の別れに想いを寄せながら木の根元のベッドに横になった。
カイネも湖で遊び疲れたのかほとんど話をする事も無く、既に寝息を立てている。
眠っているのかなと思ったけれど、カイネに小さく声をかけてみる。
「今日のドリアは、今まで食べた中で何番目だった?」
−−……にー…
寝ぼけながらもカイネは答える。二番。
僕は思わぬ順位に満足して、カイネに習って眠ろうと思い瞼を閉じたけれど、やるべき事を思い出して起き上がり、カイネが起きないように、半分になったろうそくの一本にだけ火を灯し、机に向かった。
「手紙を書かなくちゃ」
そうつぶやいて僕は、一枚の手紙を書き上げる。火をつけたろうそくがなくなる前に、なんとか手紙を書き上げる事が出来た。
「『お別れ』と『謝罪』」
僕は再び呟いた後にベッドに戻り、静かに眠りに落ちていった。
『きっと見つかるよ』
昨日の夜は遅かった事もあって、朝はあっという間にやってきて、二つの月は日にその席を譲っていた。
カイネはよっぽど昨日疲れたのか、今日はだいぶ遅い時間に目が覚めた。彼女があわてて顔を洗っている間に、僕は用意した荷物を背負って、ソファに座っていた。
戻ってきたカイネはそんな僕の姿を見ると、寂しそうに告げた。
−−じゃあ、私もそろそろ行くね。
彼女が寂しそうな理由は何となく察していたが、僕は気付かないフリをして、答えながら立ち上がった。
「その方が良いね。あんまり遅くなると、夜がつらい」
彼女はうなずくと自分の荷物を持ち、僕の左側に来た。
そうして一緒に緑に覆われた扉をくぐりドアを閉めると、僕とカイネは向かい合った。今日はカイネの目を見る事が出来ることに安心して、彼女に話しかける。
「これからどこに行くの?」
カイネは寂しそうな顔をしながら僕の質問に答える。
−−あっちから来たから、こっちに行ってみる。
「こっち……海の方だね」
カイネは「海」という単語に反応して急に笑顔になり、楽しそうに僕に話しかけた。
−−私、海って見た事無いの!昨日の湖が今まで見た一番大きな水だった!
僕は彼女のコロコロ変わる笑顔に、少し驚きながら言葉を続ける。
「海はもっと大きいよ。山に囲まれていないから、何処までも見渡せる」
−−山が無いの?……どうやって水が溜まってるの?
彼女は不思議そうに首を傾げながら僕に問いかける。
「……分からない」
僕がカイネにそう告げると、僕たち長く笑い合った。
ひとしきり笑い合った後にカイネはうつむき僕に告げる。
−−……じゃあ、そろそろ……
「うん。じゃあ行こう」
僕の答えを噛み砕くのに時間がかかったのか、カイネはしばらく固まった後、驚いて僕を見上げる。
「僕も一緒に『歌』を探しに行く」
僕は改めてカイネに告げた。それでもカイネは驚いた顔のままで、僕に問いかける。
−−だって昨日、『行くとは言ってない』って……
「うん。でも、『行かない』とも言ってない」
まるで小さな子供のやり取りみたいだ、と可笑しくなりながら、照れくさくて僕は言葉を続けた。
「白状すると昨日は、いつも通りの日常を抜けて、旅に出る事が不安で仕方なかった。でも昨日一日考えて、やっと日常を抜ける決心がついた。今朝早くに、ランプ屋のドアの隙間に手紙もはさんできた」
それでもカイネはまだ信じきれないようで、僕に質問を続けている。
−−でもシオン君の荷物、昨日と同じ絵の道具ばっかりだし……
確かにカイネの言う通り、僕は昨日絵を売りに行ったときと、ほとんど変わらない物しか持ってきていなかった。
「これが僕の生活の『ほとんど』だったから、僕の『ほとんど』は鞄につめて持ってきた。
あとは、コーヒーを飲むためのステンレスのマグカップと、ソファを買おうと思って貯めていた少しのお金、僕にはこれだけあれば充分」
それだけ告げてもカイネはまだ信じきれないみたいで僕を見上げて固まっている。僕は仕方なくカイネを促した。
「行こう。川沿いの道をずっと歩いて行けば、港町に着けるよ」
そう言って僕はカイネより先に歩き始めた。
しばらくすると後ろからカイネが走ってくる音が聞こえたけれど振り返らずにいると、急に背負ったリュックが重くなった。カイネが飛び乗っていた。
−−白状すると、私もシオン君とお別れたくなかった!一緒に旅ができて嬉しい!
カイネはリュックに乗っかったまま、僕の後頭部から声をかけた。
そういえば僕はカイネに大事な事を伝えるのを忘れていた。
「カイネ」
−−なあに?
カイネはなおもリュックに乗ったまま僕の呼びかけに答える。
「……同い年だし、『君』、はいらない」
カイネはまた、僕が言った言葉を理解するのに時間をかけた。
しばらくして、リュックから飛び降りると僕の少し前に来て、僕の名前を呼んだ。
−−シオン
「なあに」
僕が彼女の呼びかけに答えると、彼女は続ける。
−−『歌』、みつかるかな?
「……きっと見つかるよ」
初めて出会った夜にカイネが僕に呟いた言葉を、僕はそのままカイネに届けた。
うたをさがすたび 〜プロローグ − 旅立ち〜