夏の終わりの静かな風 5
「その子のお墓は海の見える、見晴らしのいいところにあってかいよ。」
と、妹は続けた。
「ちょっとした山の上にあっちゃわ。だから遠くに海が見えてかいよ、今日は天気が良かったらきれいに海が見えちょって、静かな風が吹いちょってかい、なんかそういう場所にいるせいか、妙に寂しいような気持ちになったね。」
「そっか。」
と、僕は妹の科白に頷いた。どう感想を述べたらいいのかわからなかった。
「・・わたしよ。」
と、少し間を置いてから妹は言った。
「その友達に聞いてみてぇことがあっちゃわ。」
僕は振り向いて妹の横顔を見つめた。俯き加減に眼差しを落とした妹の顔は、何かに対して腹を立てているようにも見えし、何かを考え込んでいるようにも見えた。
「あんたは自殺したことで幸せになれたてって訊きてぇねぇ。」
と、妹は言った。
「だって自殺したって何の解決にもならんわ。・・・ただ残されたひとたちが哀しいだけでかいよ。」
「・・そうだね。」
と、僕は同意した。でも一方で、そうとわかっていても、どうしようもないときもあるのだとも思った。でも、口に出しては何も言わなかった。
妹はしばらくの間黙ってテレビ画面を眺めていた。でも、それはただテレビ画面に視線を向けているだけという感じだった。妹の視線はそこにある映像を通り越して何か全然べつの風景を見ているようにも思えた。
「わたしよ。」
と、しばらくしてから妹はまた静かな口調で話はじめた。
「その子が自殺する一週間くらい前に朝学校で少し話したことがあるっちゃわ。わたし、そのとき宿題全然やってなくてかいよ、朝早く学校に来てやろうと思ったちゃわ。そしたらその子がわたしよりも早く教室にきちょってかいよ、勉強しちょったちゃわ。」
「うん。」
と、僕は相槌を打った。
「でも、その子は朝早く学校にきて勉強するような子じゃなかったっちゃわ。だかいよ、どうしたて。珍しいねってわたし声かけたっちゃわ。そしたらよ、その子、何て答えと思う?」
僕は妹の問いにわからないというように軽く首を振った。
「そしたらよ、その子、今度から俺心を入れ替えることにしたっちゃわって答えたっちゃわ。そう言ったときのその子の目がすごく澄んじょってかいよ・・・なんやろ、不自然なくらい静かで決意に満ちた目をしちょってかいよ・・もしかしたら、そのときにはもう、自分は自殺するって決めちょったのかもしれんねって今になってみると思うちゃわ・・だかい、そのときのことを思い出だすと、わたし、すごく哀しくなるね・・哀しくなるっていうか、その子の気持ちに何も気がついてあげられなかった自分が嫌になるっていうか・・上手く言えんちゃけど・・。」
「・・そっか。」
と、僕は頷いた。僕のなかには今妹が口にした科白に対して答えられるような確かな言葉というものが、何もなかった。
しばらくの沈黙があった。僕も妹も黙っていた。
沈黙のなかにつけっ放しになっているテレビの音と、クーラーの風の音が遠くに聞こえた。家の近所で犬がほえる声も聞こえた。部屋のなかに差し込む日の光は次第に紅の色素が濃くなってきていた。
「今日のお墓参りにはその子が付き合っちょった彼女も一緒に来ちょったっちゃけどよ。」
と、いくらか長い沈黙のあとで妹は口を開くと言った。
「うん。」
と、僕はまた相槌を打った。
「その彼女は、わたしたちと話しちょっときは全然明るくて普通やったちゃけど、いざお墓の前でみんなで手を合わせたときは、やっぱりちょっと泣いちょったね。」
妹は軽く目を細めて言った。いま目の前にその友達の泣いている姿が浮かんでいるといったふうだった。
「好きなひとを失ってしまったっていう喪失感は、簡単に乗り越えられるものじゃないんだろうね。」
と、僕は言った。そしてそう答えながら、僕は海の見える高台にある、ひっそりとした墓地を想像した。そこには夏の濃い緑の木々が生えていて、それらの木々は海から吹き上げてくる静かな風に揺られて優しい音を紡いでいる。
「・・・わたしよ、その泣いている友達を見ちょってかいよ、可愛そうになって、何とか慰めてあげたいなって思ったちゃわ。」
と、妹は言った。
「でもよ、なんて声をかけたらいいのかわからんかったね。」
と、妹は言った。
「・・わたしたちってよ、結局無力やがね。」
と、妹は五秒間ほど黙っていてから呟くような声で言った。そう言った彼女の声はひどく頼りなく響いた。
「すぐ近くで泣いているひとがいてもわたしたちは何もしてあげることができんわ。ただ見ていることしかできんくてかいよ・・でも、考えてみるとよ、世の中の大半のことがそうやなって思うちゃっわ。そのわたしの友達のことにしてもそうやけどよ・・たとえば今世界のどこかでは戦争が起こちょってかい、苦しんでいるひとたちがいるわけやわ、でも、そのひとたちのためにわたしができることって何があるっちゃろうかと思ってもよ、ほとんど何もないわけやわ。・・・わたしが現地にいってそのひとたちのために何かするっていってもよ、たかがしれてるやろうしよ・・。」
「・・そうだね。」
と、僕は妹の言葉に同意した。
確かに僕たちにできることなんてほとんど何もないのかもしれないな、と、思った。というか、日ごろの自分はもう自分のことだけで精一杯で、他人のことまで思いやる余裕がなかったりする。いや、余裕がないわけではなくて、僕は基本的に自分の興味のあることとか、どうやったら自分がもっと幸せになれるかといったことしか考えていないような気がした。
そう考えると、自分がすごく意地汚い人間のように思えて、嫌になった。そしてそのことに気がついた今この瞬間においても、そういった自分を積極的に変えていこうという意志を、僕は持てないでいた。要するに、僕は自分のことしか考えていない、最低の人間なのかもしれなかった。
そういう自分に比べると、妹はきちんと色んなことを考えているんだな、と、僕は感心して妹の横顔を見つめた。困っているひとたちや悲しんでいるひとの姿を見て、結果的にそのひとたちを救うことはできなかったとしても、そのひとたちのために何かをしようと、救いの手を差し伸べようと思うことができる人間なんだな、と僕は妹に対して尊敬の念さえ抱いた。
たとえ何もできなかったとしても、そんなふうに他人のために心を痛めたりすることができるということは、大切なことだし、尊いことだと思った。そしてそういう気持ちを持つことこそが、いつか何かの形で他の誰かを救うこともできるんじゃないかとも思った。
僕がそうやって思ったことを口にすると、
「そうやといいっちゃけどね。」
と、妹は頷いた。でも、妹は僕の言葉にあまり納得したようには見えなかった。難しい表情を浮かべて何か考え込んでいる様子だった。
どうやら彼女の心に広がった、暗く重い、湿度を持った感情は、僕の安っぽい理屈くらいではどうすることもできないようだった。だけど、それもそうだろうとな、と、僕は思った。僕だってもし、誰か大切な友達を、自殺という形で失ってしまったとしたら、きっといつまでもいつまでもその死んでしまった友達のことを考え続けることになっただろうと思った。
生きることの意味や、死ぬことの意味について。そしてそれらのことに対する答えというものは、そう簡単には見つからないだろうとも思った。もしかすると一生かかっても永久に答えなんて見つからないのかもしれない。そして、ときとぎ思い出したように友人の死が、あるいは死そのものよりも重く、激しく、自分の心にのしかかってくることになるんじゃないかと僕は想像した。
時と伴に夕暮れの光は濃度を増していき、やがてそれは手に触れることができるくらいの密度を持った。そんな深い夕暮れの光に包まれていると、ふと今自分がどこにいるのかさえもわからなくなってしまいそうだった。
夏の終わりの静かな風 5