koji
作品自体は8年ほど前に、文学好きの彼女に薦められて書いたものです。
「同じ瞬間に、同じ場所で、色んな人間が、色んな事を考え、行動しているんだなあ」
といったことを表現したかったです。
同時進行の6つの物語
時計台
chapter 1
時計台の鐘が鳴っていたんだ。
その男達が私の勤めるオフィスに入り込んできた時に考えたのは、あの時計台のある公園での、自分の娘との時間のことだった。
ほんの数日前には、娘と一緒に、あの公園にいたんだぞ・・・・。
スーツ姿の男達はドアから次々となだれ込んできた。それを見た私は、自分でも驚くべきことに、安堵した。人間は極度に恐れていることが現実のものになったとき、安堵感を覚えるものらしい。
「何だ君たちは!」
大声が出た。他人が喋っているみたいだった。私はその男達が何者かを既に知っていたのだ。
「地検特捜部です。全員ここから動かないで下さい。」
書類をかざしながら、先頭の男はそう言った。
捜査中に、この部屋からの外出は禁じます、電話FAX等の通信も同様です、全ての書類には手を触れないでください、この部署の責任者は誰ですか?男は事務的に喋り続けた。
「・・・私だ。」
捜査令状であるらしいその書類を凝視しながらそう答えた。本当は書類の内容など読んではいなかった。恐怖感はなかった。
なんという事はない。
この瞬間が来ることを想像して怯え続けた、長い時間に比べれば。
記憶がどのように頭の中に保存されているのか、私は知らない。
音や匂いや、そういった五感に感じるものが鍵となって記憶が引き出されることは経験的に知っていて、だから私はこの街に足を踏み入れることを躊躇していたのかもしれない。見たことのある風景は、その中にいた過去の自分自身をも残酷なまでに蘇らせる。まるで無理やりに生き返らされた死者のように。
例えば、かつて家族一緒に暮らしていた街の、時計台のあるこの公園の風景だ。
娘は私の隣で、今日買ってやった赤いハンドバッグを嬉しそうに揺らせながら歩いている。
優しい娘だからな・・・、私はそう思いながら、大人びた自分の娘の横顔を見ていた。散々家庭を放っておいて、急に会いたいと言ってきた父親に、娘は愚痴ひとつ言わずに接してくれている。
「いくつになった?」
嫌だお父さん、自分の娘の歳も覚えてないの?娘はそう言って笑った。笑顔は若い頃の妻に似ていた。別れた妻とは離婚調停以来、電話でしか話していない。
「二十五よ。」
そう答える娘を見ながら、私は今日一日、何も大切な話をしていない事に気付いた。それどころか、何の話をしたのかさえ覚えていない。ただ娘と食事をし、買い物をしただけだ。そう考えて愕然とする私を見ずに、娘は、まだ結婚しないのかって言いたいんでしょ、とおどけて見せた。
「いい相手でもいるのか。」
私は胸中の動揺を完全に隠してそう言った。仕事で身につけた習慣だった。苦い思いが湧き上がってくるのを感じた。
「いないわ。外国人にプロポーズされただけ
。」
「何だそれは。」
「中東の方に旅行へ行った時に、土産物屋のハサン君に結婚してくれって言われたのよ。しつこかったわ。」
「そんなところへ行ってたのか」
「娘のこと、本当に何にも知らないのね。お母さんから聞いてたでしょう?」
一言も聞いていない、と言う言葉を飲み込んだまま、私は立ち尽くしていた。その通りだった。私は娘のことを何一つ知らない。
「晩ごはんも一緒に食べてく?大丈夫よ、お母さんには私からうまく言っておくから。」
いや、と時計を見ながら答える。
「もうすぐ社に戻らなければならない。五時になったら、時計台の鐘が鳴ったら、タクシーを拾うよ。」
私はそう言った。
「大丈夫かね?」
上司は深いソファに沈み込み、疲れているようだが、と続けた。
「ご心配をおかけして申し訳ありません。」
私はそう言った。頭は下げなかった。
だらしなく広がっているのは、午前中の白々としたオフィス街。我々の座っている応接室の、巨大な窓のはるか下だ。
昆虫の巣のようだ。
無数の窓を眺めながら、微かな嫌悪感と共に心の中でそう呟く。あの中に無数の、かつての私のような人間が蠢いているように思えた。他人の顔色だけを窺い、他人の評価だけを気にかけ、特定の組織の中だけで生き残ることに特化した種族だ。
私は、こんなところに、いたのだ。
「上層部にまで嫌疑が及ばないようにだね、なんらかの・・・。」
弾き出されてみて初めて、自分のいた場所を俯瞰できるのかもしれない。目の前で喋り続ける男を眺めながら、そう考えていた。常に核心を外して話し続けるこの男の言いたいことは分かっている。自身の保身だ。
社会は関連性の網の目で覆われている。
ある政治家が失脚した。私の知らない政界の中の力が、その男の抹殺を決め、その手段として不正な政治献金を選択した。公共事業にまつわる極めて賄賂性の高い金の流れの源流は、私の会社だった。下水と同じで、糞は下に向かって流れる。企業の中枢で行われた意思決定は、下位の人間によって実務化される。その下位の人間とは、今回の場合、私のことだ。
私はチェスでいうチェックメイトされた立場にいる。どう動いても勝機はない。企業という世界の中では、私は既に死んだも同然だった。目の前で喋り続けている男は、死者に向かって念押しを続けていた。
逆の立場なら私も間違いなく同じ言動をしていただろうな、形ばかりの同情の表情を浮かべる上司を見ながら、私は自嘲気味にそう考えていた。
「今日は会社を抜けるそうだね。」
「ここから一時間足らずのところに、別れた妻と娘が住んでいる街がありまして、そちらの方にちょっと。」
「六時からは役員会議に出席してもらうよ。」
「それまでには戻って参りますので。」
どんな隠蔽工作をしても、もう無駄だろう、私はそんな言葉を飲み込んでそう言い、席をたった。これ以上一秒たりともこの男と会話を続けたくなかった。
「大丈夫だろうね?」
上司は最後に、蒸発や自殺でもするんじゃないだろうな、という意味を込めて、もう一度そう言った。私は返事をしなかった。
「大丈夫なの?」
娘が今日初めて真顔でそう言った。新聞で大体の経緯は知っているのかもしれない。
交通事故でもあったのだろうか、通りの方で大きな物音がした。娘はそちらの方を振り向こうともせずに、私の目を見つめている。
娘の瞳に見たのは、遠い昔の思い出。私が、現在の私ではなかった頃。記憶の中の映像は、妻や娘と一緒に歩いた、この公園の夕暮れ。鐘の音と笑顔。今は失われてしまったものが、まだ私や妻の中にあった頃。それは時間の中に消え去って、今では失われたものが何だったのかさえ思いだせない。この二人の為に生きていこうと思っていた。己の地位の向上そのものが目的になってしまったのは、いつからだろうか?そして私は、大切なものを自分から手放した。家庭だ。
「心配ない。」
私は長い時間をかけて、自分と他人に嘘をつく技術だけを培ってきたのだ。答えながら、そう思った。自分の態度には、もう検察が動き始めていて、自分がその容疑者で、既に言い逃れができない立場にいることを、絶対に娘に悟らせない自信があった。
「小さい時によく連れてきてくれたわね。この公園。」
娘が呟くように言った時、時計台の鐘が鳴った。私は絶望と後悔の中でそれを聞いた。妻を犠牲にし、この娘を犠牲にして働き続けてきた結果が、これなのだ。鐘の音は私にそう宣告していた。
「・・・私のような男とは、一緒になるな。」
「お父さんに似た人を選ぶわよ。」
そう答えた娘を私は抱きしめていた。娘が物心ついて以来、初めてだった。
私たちの周りで、世間は荒れ狂っていた。
私はただ娘の体温を感じ、鐘が鳴り止まないことを祈った。
chapter 2
瞬いたのはほぼ完全な菱形に近い閃光で、俺は眩しさに目を細めた。
・・・そう言ってるわけじゃないんだけど、女の声が聞こえる。部屋の光源はつけっぱなしの無音のテレビで、青白い光に女の背骨の隆起が透けて見える。誰かが壁を一定の間隔でぶん殴っている。粉を吸い込むために、ストローを鼻の穴に入れた女の集中力が目に見えるようで、俺は眼を逸らした。
また窓の辺りが光ったような気がして、でも今度のそれはすぐに現実ではないことが分かる。脳が勝手に作り出した偽者だ。あまりキメるわけにもいかない、そう思いながら、俺もストローを持ち、白い粉を吸い込む。鼻の粘膜が弱くなっていて、擦ると薄い鼻血がついた。
死にたくなる・・何のために生きてるのか分からない・・・、女はそんな意味のことを喋る。いつもの事だ。昔は愛していた。今は愛していない。
「牛乳あっただろ?シリアルを食え。痩せすぎだよ、お前。」
頬骨の下に金属臭に似たものを感じながらそう言った。女の体は不健康に痩せ細っていて、浮き出た骨格は鳥類のそれを思わせた。そんなんじゃあ、ソープランドでだって働けないぞ・・・・。
ステレオの音量を下げると、壁をぶん殴る音も消えた。ベースドラムの反響だったらしい。変わりに、ドアを叩く音が聞こえてきた。今度はその音に機械的な反復性がないか耳を澄ませる。
「兄貴!」
ドアの向こうから知っている声がした。待ってろ、と言ってから服に手を伸ばす。
「いいか、生きてる意味なんてものはだな、」
上着に袖を通しながら言う。奥歯を磨り減るほど噛み締め続けたために、言葉が詰まる。不自然な興奮状態が続いているせいで、奥歯は実際にかなり磨り減っているかもしれない。
「ないんだよ。ないの。ただ生きてりゃいいんだよ、いいか?シリアル食えよ、もう手首切んなよ。」
俺はそう言って部屋を出た。急ぎの用だった。
「時間ありまへんで、兄貴。」
相棒は俺が乗り込むと、車を急発進させた。
「しかしツイてまへんなあ・・・ババ引く運命なんですかねえワシら。」
相棒は人ごとのようにそう言う。俺は振り返って、後部座席にある鞄を苦々しく見た。
「いいか、ツキはある。競馬で勝ったり、パチンコで負けたりするツキだ。ツかない日もある。しかしだ。運命はない。俺は信じねえ。運命は自分で変えられるものだからだ。自分の運命とはサシで闘うしかない。」
相棒は、そうか、と感心した目で俺を見る。馬鹿だけに素直だ。馬鹿で素直じゃなかったら、ぶっ殺している。
「分かったら急げ。死ぬ気で急げ」
言いながら、俺はもう一度黒い鞄を見つめる。中身を最初に見たときは、ツキが向いてきた、と思った。
「ええ車なんスよ。」
俺たちのシマの飲み屋街の駐車場で、相棒は嬉しそうにそう言った。それが、事の始まりだった。
「買ったばっかりの、ジャガーですわ。」
見てみると、緑色のその車のバンパーには横一文字の傷が走っていた。太い傷跡はドアを通ってリアにまわり、車を一周していた。
「・・・中古車か?」
俺がそう言った時には、相棒は地面に座り込でいた。ワシ、どんだけ苦労してこの車を手に入れたと思って・・・、涙ぐみながら、そうぶつぶつと呟いた。
ふと駐車場の端に目をやると、バイクを止めて座り込んでいるガキ共が見えた。
「お前らかっ!」
相棒は気がついた時にはもう、そいつらに襲いかかっていた。車に傷をつけた犯人が、同じ場所にとどまっているとも思えなかったが、俺もガキの一人を殴っていた。条件反射だった。
「お前らやろ、ゴルァ!」
相棒は気が狂ったように一人を殴り続けていた。俺の担当のほうは、ガキにしては抵抗が激しかった。それはそうだ。バイクの上に置かれた黒い鞄の中に、大事なものが入っていたのだから。
ガキ共を片付けて、傷の入った車に乗ったときには、相棒の手にその黒い鞄が握られていた。
「パクったったんや。当然や。」
相棒はそう言いながら鞄を開けて、奇妙な声をあげた。見慣れた白い粉が入っていたのだ。しかも鞄いっぱいに。俺たち二人の顔は、黄金の宝箱を開けた探検家のように輝いていたはずだ。BGMには賛美歌までが聞こえたような気がした。
「きょんれつ。」
「?」
「きょんれつ、やな。」
ああ、強烈、と言いたいんだな。白い粉を鼻の周りにつけたままの相棒の言葉を俺は頭の中で翻訳した。
過剰摂取は天国への近道だ。
俺の知り合いの何人かはこれで死んだ。運がいいのか悪いのかは知らないが、何人かは生き残って廃人になった。
今日の俺も過剰摂取気味だ。視野周辺は、不吉な乳白色。おそらく眼球に問題が生じてる。構う事はない。今日は記念すべき日だ。相棒のご乱交を眺めながら、俺はアルコールを飲み、またそれを吸い込む。頭の中のどこかで火花が散る。
拾ったブツは、純トロだった。純粋な結晶。混ぜ物をしても、いい値段で売れるヤクのことだ。末端価格でどれくらいになるのか見当もつかない。
記憶はフラッシュバックとの境界を失い始め、キャバクラだか風俗だかの女のバカ面や裸の胸や尻と、相棒の気が狂ったような笑顔と、子供の時の思い出らしき夕焼けの風景が交互に現れて、俺は混乱し始める。誰かが、俺の感覚を失った一物を弄んでいて、一応は奮い立たせようとするけれど、結局役にたたない。母親の作ってくれた夕食の匂いをはっきり感じて、でもそれはあり得ない幻聴や幻覚の一種だと思う。夕食の匂いが象徴するものから、ひどく遠く離れてしまったような気がして、限りなく心細くなる。その反動で、暴れてみる。何かが割れたり壊れるような音がして、誰かが俺を止めたり誰かに謝ったりしている。世の中のくだらないことが、懐かしくてたまらない。戻りたいと思うけれど、あまりに離れすぎていて、来た道をたどる術がない。宇宙空間では一つの方向に力を加えると、例えばボールを投げたりすると、力は衰えることなく、ボールは永遠にその方向に飛び続けるのだそうだ。そんな風に、宇宙船から切り離された宇宙飛行士のように、どこまでもどこまでも、どんどんどんどん大切なものから離れていく。離れ続ける。失っていく。不安でたまらない。
いや、違う。
俺は今、逆転の手掛かりを手に入れたんだ。成功への鍵は、すでにあの黒い鞄の中にある。なぜ、こんな事を忘れるんだろう?さっさとここから脱出する。中毒の河から這い上がる。俺は偉大な男になるんだ。いや、俺は生まれた時から偉大だった。状況が悪かっただけだ。偉大な男は今、どしゃぶりの雨の中。電話が鳴ってる。
叔父貴からですわ、傘を持った相棒はそう言って携帯を俺に渡した。
「ウチの組の若い衆が襲われて、ブツを奪われた。」
その言葉が聞こえたとき、突然雨音が現実感を持ち、俺は頭がクラクラした。
「どこかのチンピラらしい。緑色のジャガーの持ち主だ。」
電話の向こうはそう言った。俺は青ざめながら、まだ幸せの余韻に浸っている相棒の間抜けな顔を見ていた。車のナンバーも控えてある・・・電話の声を聞きながら、俺は立ち尽くしていた。俺たちは、俺たちの世界の中で、一番やってはいけないことをやってしまった。
飼い主から盗んだのだ。
夕暮れの空は残酷なオレンジ色で、俺は憂鬱になる。
キメているときは、いつもそうだ。自分の内側の混沌に比べて、外側の冷徹な整合性がたまらなく辛い。今目の前に見えている世界は本物なのだろうか、と取り留めのないことを考える。
本物ではない。
そうに決まっている。俺の脳がそう認識してるだけだ。世界から人間が絶滅して、人間の脳も消滅したら、世界は変わる。世界が存在しているかどうかも怪しい。人間の脳が消滅した後の世界がどうなっているのかというと、人間の脳の理解する能力を超えているので、未来永劫絶対に分からない。
キメている時は、脈絡のない思考につい集中してしまう。今はそんなことを考えている場合じゃない。俺の脳が認識している、このクソみたいな世界にいなければならない。時間は正確に進み続け、時計台のある公園は交差点を二つ超えて右折したところに必ず存在する。公園は周囲の見通しがよく、不審な車や人間がいればすぐ察知することができる。時計台の周囲は緑や構造物で外からあまり見えない。しっかりと考えられている。クソくらえだ。
夕方五時に時計台までブツを返しに来い、電話の向こうはそう言った。受け取り人には嫌な名前を告げられた。組の幹部の名前だった。
指を詰めたりするのは昔の話だよな、と俺はまた奥歯を噛み締めながら思う。指くらいで済めばいいほうだ・・・・。
「急げよ、てめえ。もう五時じゃねえか。」
俺はダッシュボードを蹴りつけながら叫んだ。
「蹴らんとって下さい!もう時計台が見えてるんや。」
そう言った時に何かが道路に飛び出してきて、すぐにそれは人間だと分かった。
「危ねえ!」
そう叫ぶと同時にタイヤの軋む音がして、目の前に現れたのは電信柱だった。ひどい衝撃があって、直後の記憶がない。
「俺の車がぁぁぁぁぁぁ!」
気がつくと、相棒がそう叫んでいた。電柱はフロント中央にめり込んで、まるで車から植物のように電柱が生えているみたいだった。時計台の鐘が鳴っていた。
持っていけ、走れ!俺は黒い鞄を相棒の胸に叩きつけて叫んだ。相棒が走り去った後、俺はドアを蹴り開けて、よろよろと車を離れ、公園の端に座り込んだ。頭が痛む。フロントガラスに打ち付けたらしい。時計台の鐘が鳴っていた。約束の時間だった。
・・・逃げよう。そう思いながら動けないでいた。何もかもが本当に嫌になった。同じ逃げるんなら、鞄を持ったまま逃げればよかった、としみじみ考えていると、目の前を綺麗なおねえちゃんが通った。赤いハンドバッグをさげたおねえちゃんはこちらを見ていた。
ヤク中の女に、馬鹿な相棒だ・・・もうたくさんだ。すべてをやり直したかった。新しくやり直すには、新しい女も必要かもしれない。いや、きっとそうだ。
「お嬢さん、お茶でもご一緒しませんか。」
俺は頭から血を流しながら、その綺麗なおねえちゃんに、そう語りかけていた。
chapter 3
学生時代の友人のことをよく考える。
彼は自殺した。奇妙な死だった。奇妙で、静かな死だった。
最初にその友人の死を知らされた時、正直に、そうなのか、という感慨以外のものは湧き上がらなかった。何かの感情が残るほど時間を共有したわけでもないし、これといった思い出があるわけでもない。テレビで見る著名人の訃報と同じだった。
「・・・さんは何月何日に・・・のため亡くなられました・・歳でした。葬儀は・・・。」
アナウンサーに十秒ほどで語り尽くされるコメント。実際に無関係な人間にとっては、他人の死はそれ以上の意味を持たない。自分で見つけ出そうとしない限り。
印象の薄い学生時代の友人の一人が自殺した、その事実はほんの小さな波紋を僕の心に残して、日常の煩わしさの中へ消えていった。
「・・・これくらい生きてくれば、そういう事もあるよね。」
何ヶ月かたってから、自殺した友人を知る旧友は、電話の向こうでそう言った。そうだね、と答えてしまってから、僕は心の中に再び小さな波紋が広がるのを感じた。その感情は自分でも説明のつかないものだった。僕は友人の自殺の原因を聞いてみた。その友人の自殺の原因を誰かに尋ねてみるのはこれが初めてだった。返事は予想していた通りだった。
「いろいろあったんだろう。」
それが返事だった。友人の自殺の原因を考えたことがないわけではなかった。ただ、あまり親しくない人間の自殺の原因の推論は、こんなものだ。いろいろあったんだ・・・。
僕は自殺した友人の家の住所を聞き、電話を切った。仕事も暇になってきていたので、位牌に手でも合わせてこよう。何となくそう思いたった。それは表向きだけの理由だろう、心のどこかで自分のそう言う声が聞こえていた。
では、本当の理由とは何なのだ?
自分でも分からなかった。表向きの理由、という言葉だけが空中に浮かんでいるような感じだった。僕は奇妙な思いを持ったまま、自殺した友人の家を訪ねた。
自殺した夫の妻、というイメージは、目の前の未亡人からは感じられなかった。まあ、命日から日にちも経っているし、こんなものなのだろう・・・、僕は葬儀に出席できなかった非礼を詫びながら、そう思っていた。通された部屋で仏壇に手を合わせた。飾られた友人の写真には確かに学生時代の面影があった。隣の廊下で彼の小さな二人の子供がじゃれあって奇声をあげている。友人の写真は僕に何も語りかけてはこなかった。
「・・・わたしには納得できないところがあるんです。」
形どおりのお悔やみと世間話を終えて帰ろうとしていた僕に、未亡人はぽつりとそう言った。
「・・・とてもいい夫でした。ただ、今になっても夫の自殺の原因が、どうしても分からないんです。」
言いながら、未亡人は振り向いて、はしゃぎまわる子供達を大きな声で叱りつけた。
「何も知らない妻だと笑われるかもしれませんが、わたし達は人並に幸せに暮らしていました。少なくともわたしにとってはそうでした。あの人がなぜ死んでしまったのか、本当に分からない。」
未亡人は最後まで涙声にはならなかった。感情的な声ではなく、試験問題の解き方が本当に分からない、そんな言い方だった。僕は、そうですか、と言って、友人の家を出た。
それから、僕は大学から資料を手に入れて、たくさんの同窓生に電話をかけた。死んだ友人の自殺の原因を尋ねるためだった。別の友人の一人は、そんな僕の行動を訝しんだ。そんなに親しくもなかった友人の死を執拗に調べる僕に不審の念を持ったのだ。
自分でも分からないんだよ、僕はそう答えた。本当だった。
自殺した友人の職場へも行った。学生時代の親友だと偽ると、職場の同僚は親切に答えてくれた。しかし、やはりそれでも友人の自殺の原因は見つからなかった。
誰でも、全てが嫌になり、ふと死んでしまいたくなる時はある。
僕はそんなことを考えながら、会社からのいつもの帰り道を歩いていた。不意に僕は思い出した。この風景の中に吸い込まれて、消えてなくなることができたらいいな、と幾度となく考えていたことを。
僕はただ、納得したかったのだ。
友人の死が、例えば家庭の不和や、仕事の失敗や、膨大な借金や、こじれた女性関係であったなら、僕は安心していただろう。いろいろあったんだ、そう言って納得できたはずだ。
ただ、自殺の理由が、何もなかったとしたら、どうだろうか?
その考えは僕を戦慄させた。
自分と同じだったからだ。
僕は毎日、仕事を終えて家へ帰ると、コンピュータの電源を入れる。
いくつかのメールをチェックする。多くは仕事関係のメールだ。中にはほんの少しだけれど、友人からのメールもある。必要があるものには返信する。友人には、必ず返事をするようにしている。しかし、実際に会うことはほとんどない。僕にはもともと友人が少ないし、本当に親しい友人はもっと少ない。いや、本当は、いない。親しかった友人がいるだけだ。みんな忙しいのだ。僕だってそうだ。暇じゃない。
メールを終えると、いくつかのサイトを見て歩く。深海に棲んでいるかもしれない巨大生物についてのサイトや、天体観測や天文学のサイトをよく覗く。見知らぬサイトにも行ってみる。パスタの詳しい作り方が載っているサイトがあって、冷蔵庫に入っているもので作ってみる。テレビを見ながら食べる。いつもより、うまい気がする。気が向くと、ビールを一本飲む。
チャットすることもある。しばらくの間、楽しく会話する。
『あなたは、どんな毎日を送っていますか?』
女性らしい相手に、そう質問される。ネットでは、本当に女性かどうか分からない。
チャットのページの一番上にある広告がチカチカと点滅している。僕は答えを考えながら、少し酔った頭でその広告を眺める。
『モア・ベター・ライフ!よりよい生活をあなたに!』
金融機関か何かの広告の文字は、そう点滅を続ける。
僕はどんな毎日を送っているのだろう?
僕は毎日歯を磨きます。僕は毎日ひげを剃って顔を洗います。土日以外は仕事へ行きます。僕は毎日コンピュータの電源を入れます。僕は毎日夕食を作って食べます。ときどきビールを飲みます。僕は毎日テレビを見ます。僕は毎日風呂に入ります。僕は毎日眠ります。僕は・・・・。広告が瞬いている。モア・ベター・ライフ!よりよい生活をあなたに!モア・ベター・ライフ!よりよい生活をあなたに!モア・ベター・ライフ!よりよい生活をあなたに!モア・ベター・ライフ!よりよい生活を・・・。
『毎日楽しく過ごしています。』
僕はそう返事をする。そして、コンピュータの電源を切る。
空はもう夕暮れで、名前のわからない鳥たちが数羽、黒いシルエットとなって木々の周りを飛び交っている。
僕は時計台の下のベンチにいた。このあまり広くない公園は、全体が円形で中央にこの時計台があり、周囲の花壇の間が遊歩道になっている。歩けば数分で一周することができる。それでも、公園の外周に沿って走る車道は背丈のある木で覆われているので、自然の中とはいわないまでも、街中にいることは忘れさせてくれる。
今日は仕事を休んだ。
駅への道の途中で足が止まり、適当な理由を会社に連絡した。そして着替えもせずに、この公園で一日を過ごした。ほとんどはベンチに座っていた。仕事へ行くのが嫌なわけではなかった。ただ、静かなところにいたかったのだ。
公園は平和な場所だった。腰を据えてみると、公園には実に様々な人間が訪れる。
散歩の老人や、ベビーカーに赤ちゃんを乗せた主婦や、ゴミ箱を漁るホームレスや、怪しい目つきのイラン人や、そういった人々が僕の前を通り過ぎていった。
それぞれの人々が僕と同じ視覚を持ち、思考を持っている。その中の一人から見れば、僕もベンチで休むスーツ姿のサラリーマンのひとりだ。公園の風景の一部に過ぎない。それぞれの人々が自分の人生を続けている。老人やお母さんと赤ちゃんは散歩を続け、ホームレスやイラン人は明日もここをうろつくのかもしれない。
僕も僕を続けなければならない。世間との関係を全て絶って、蒸発したり外国へ逃げたりしても、僕は僕でしかない。別人になることはできない。僕の外へは出られない。僕の連続性を断つことができる方法は、記憶を消すか、死ぬしかない。
例えば僕が戦場の兵士だったとしたら、こんなことを考えなかっただろう。圧倒的に危険な場所では、錯乱しないのなら、生き残ることだけを考えるはずだ。それは切実な目的になるだろう。
切実なもの。それが、僕には、ない。
そんなことを考えていると、僕の隣のベンチに、あまり公園には似つかわしくない強面の男が腰を降ろし、僕を見つけると、鋭い目で睨みつけた。そうされる理由は見つからなかったけれど、あまりにその時間が長かったので、僕は席を立った。
帰ろうか。
僕はそう思いゆっくりと歩き出した。しかし、思考は途絶えることがなかった。
生きているのが苦痛なわけではなかった。ただ時々、生きているという状態に、ひどい違和感を感じる。まるで陸に住んでいる魚のように。ここが自分のいるべき場所ではないと感じる時がある。生き続ける理由が、どこを探しても見つからない。
だらだらと間延びした生に、どんな意味があるのだろう?そして、酷いことに、自分が存在し続ける限り、それは続くのだ。
死が、全ての煩わしいことから開放してくれる唯一の方策なのかもしれない。
あの死んだ友人も、同じことを考えていたとしたら・・・・。
公園を出て車道にさしかかろうとした時、猛スピードで近づいてくる緑色の外車が目に入った。
事故なら、交通事故なら、誰にも迷惑をかけずに済む。
突発的にそう思った。体が勝手に動いていた。僕は目を固く閉じて、車道へ身を投じていた。自分の体を、他の誰かが操っているようだった。
何の衝撃もなかった。
ゆっくりと目を開けると、緑色の外車は電柱に正面からぶつかっていて、運転手はなぜかすぐにどこかへ走り去った。
僕は家へ帰ることもできずに、公園の入り口へ戻り、花壇のフェンスに座りこんで、ぼんやりと夕暮れの空を見ていた。
時計台の鐘が鳴っていた。
死ねないもんだなあ・・・。そう考えると、苦笑に似たものが込み上げてきた。
死のうとして助かってみると、空や空気が違ったものに感じられた。文字通り大気の色が変わったのだ。
いや、本当は何も変わっていない。
そう僕は思いなおす。世界はいつも変わらない。変わるのは、自分自身だ。
しばらく座ったままで、自分が原因の事故現場を眺めていると、時計台の方から赤いハンドバッグを下げた女性が一人で歩いてきた。その女性に、どこから現れたのか、頭から血を流した男が絡んでいた。遠くへ行こうよ、そんなくぐもった男の声が聞こえ、女性が悲鳴を上げた。僕にとっては見知らぬ大気を、その声は切り裂いた。
煩わしいことに、関わってみるか。
僕は腰を上げて、悲鳴の方へ走っていた。
chapter 4
彼との別れを受け入れた時、わたしは自分の涙が硬く組んだ手にこぼれ落ちるのを見た。
そして、悲しいときには、二度と泣かないと決めた。
それからの日々は虚ろだった。でも、自由だった。わたしは知らなかった。愛のない日々は、自由なんだ。
夏に長期の休暇を取ることができたので、わたしは海外に旅行した。一人旅は初めてだった。中東とヨーロッパの境目の国へ。美しくて、悲しげな街だった。
路面電車と、ケバブ屋の羊肉の匂い。旅行者と見ると見境なく声をかけてくる地元の自称ガイド達。夕方の決まった時間に聞こえてくるのは、悲しげなコーランだ。
自称ガイド達を避けて、わたしは比較的真面目そうなホテルマンや物売り達と話すようにしていた。土産物屋のハサン君とはかなり親しくなって、よく店先に座り込んで一緒にチャイを飲んだ。彼はこの国の人間ではないらしい。隣の、もっと危険な国から来たんだ、ハサン君はそう言った。職を求めて移り住んだらしいのだけれど、わたしには人種の違いが分からない。僕たちは元々国籍とは関係がない、所属する国がないんだ。ハサン君はそう説明したが、わたしにはよく理解できなかった。
無料のチャイの代わりに、わたしは自分の国の言葉を教えた。彼らは生活の手段としての外国語の習得に熱心で、ハサン君は驚くべきスピードでそれを習得した。恐らくわたしより若いであろうハサン君は優しくて、攻撃性が感じられなかったので、わたしも安心したのかもしれない。でも、別れる間際には、求婚された。わたしは笑ってやんわりと断ったけれど、別れのときまでに、それが正確に伝わったのかどうかは分からない。
その街を離れるとき、わたしは辞書を片手に、駅員やバスの配車係に目当ての観光地への行き方を尋ねていた。
~へはどうやって行くのですか?何時間かかりますか?どの交通手段が安いですか?
日が暮れてきて、その街の灯は、わたしの国の白っぽいものではなく、すべてが幻想的なブラウンで、そのせいかもしれないけれど、わたしは今のこの時間が現実なのか、自分の中の心象風景なのか分からなくなってきて、こう尋ねて歩きそうになった。
わたしは、どこへ行こうとしてるんですか?わたしは、誰なんですか?
帰国からしばらくして、わたしには新しい恋人ができた。
なぜ、わたしはこの人が好きなんだろう?
意地の悪い考えかもしれないけれど、わたしは常にそう自問するようになっていた。同じことを繰り返すのが嫌だったから。
彼はどちらかといえば、地味で平凡なタイプだった。それを女友達に伝えると、あまり良くない反応が返ってきた。非凡で派手なほうが、みんな好きなのかもしれない。
地味なところはともかく、彼の平凡な部分は、わたしにとっては魅力的だった。物事を普通に考え、普通に反応する。それは誠実さとも言えた。
もちろん彼の魅力的な部分は、わたしの錯覚なのかも知れない。実際のところ、わたしが彼に持っている人物像の一部分は思い違いなのかもしれない。恋愛のすべてが思い違いとはいわないけれど、その一部ではある。
わたしと彼は今、レストラン・バーのテーブルに飾られたオレンジ色のランプを挟んで向かい合っている。
彼の考えていることが、わたしにはだいたい分かる。それは彼の知性が私より劣っているとかいうことではなくて、わたしを安心させる要素の一つだ。彼はわたしと一緒の明るい未来、みたいなものを夢見ていた。明るい未来、という言葉がイメージさせるものは、綺麗な家とかピカピカの車とか週末のおいしい食事とかいったもので、彼はそういった漠然とした幸せと呼ばれる生活を実現させたがっていた。
わたしと彼の考えには隔たりがある。わたしは、うまく言えないけれど、悲しみのようなものを分かち合いたかった。わたしがそう考えるのは、父のことがあったからかもしれない。
わたしと彼とは、まったく違う人間なんだ。
わたしは、はっきりとそれを認識しながら、彼と付き合っていた。以前のわたしからは想像もできないことだった。昔のわたしなら、恋愛の相手との考えの食い違いを許すことができなかっただろう。
あの旅の途中、広い荒野を見下ろす高台の上で、きっとわたしの中の何かが変わったのだ。
有名な古代遺跡への長距離バスの中で、わたしは、ただひたすらに移り行く景色を見ていた。
見たことのない岩盤の形状と、異質な植物の分布によって、わたしは自分の家から、ここがどれくらい離れているのかを知った。
乗り合わせたバックパッカーから、わたしの国の雑誌を貰った。わたしは車中の時間つぶしに、その雑誌をめくった。その中にF1レーサーの記事があって、わたしはレースのことなど何も知らなかったけれど、なぜ外国へ行くのか、と質問される部分に興味を惹かれた。
『その必要があったからだ。』
わたしと同じくらいの年齢のF1レーサーはそう答えていた。
『僕の目標はF1レーサーになることで、その為にはF1と直結しているイギリスのレースで、しかもトップを走る必要があった。ただ早く走るだけではダメで、英語を習得してピットクルーと完璧に意思の疎通をしなければならなかった。慣れない外国で生活して、さらにレースで勝ち続けなければならなかったので、相当な苦労もしました。それは国内のレースで走っていたほうが楽だったけれど、F1に上がるためには、その選択肢以外になかったんです・・・。』
わたしはどうだろうか?わたしは外国へ来たかったけれど、このレーサーのように外国へ行く必要性は持っていない。旅をしている間、わたしはわたしと同じ国からやって来た他のバックパッカーたちとも話をしたことがあって、彼らはそれぞれ言葉は違うけれど、妙に緩んだ顔で、一様に自分探しをしたい、というような意味のことを喋った。わたしも、そんなところかも知れない、聞きながら、その時はぼんやりとそう考えていた。
ケバブの昼食にしようと立ち寄った古代遺跡近くの高台で、わたしの国ではあり得ない、見事に何もなく、歩いて横断したなら確実に数日はかかる広い荒野を見下ろしたとき、わたしは突然に、自分探し、などという言葉に何の意味もないことを知った。
自分、などというものは、どこを探したって、きっと見つからない。
わたしはそう思った。
この旅の間は思い出さないでおこうと決めていた、別れた彼のことを考えていた。わたしは彼に依存していた。彼の存在はわたしの支えで、わたしの一部分だった。それを失ったとき、わたしは自分自身をも失ったのだ。もう、わたしは彼と一緒にいるときのわたしでもないし、彼と出会う前のわたしでもなかった。わたしは自分を失くしてしまった。だからあんなに悲しかったんだ。
確固とした自分自身など、幻想に過ぎない。状況しだいで自分というものは変質してしまう。だから、自分探しという言葉は無意味だ。あの緩んだ顔のバックパッカーたちがやっているのは、単なる気分転換に過ぎない。いまのわたしにはそう思える。あのF1レーサーはそんな連中の対極にいる。レーサーは自分探しなどする必要がない。
わたしは高台に立って、ゆっくりと空気を吸い込んだ。
わたしの旅は多分、あの場所で終わったのだと思う。
僕は、死んでしまおうと思ってたんだよ、
彼の言葉にわたしは驚いた。まったくそんなことを考える風に思っていなかったから。彼の考えていることが分かるなんて思っていたのは、わたしのひどい勘違いなのかもしれない。
君と出会って、死ぬのをやめたんだ、
彼は冗談めかしてそう言って笑う。わたしも笑った。
父と最後に会った日、時計台のある公園で、怪我をして血を流している男の人に絡まれているところを、彼が助けてくれた。わたしたちは、そうやって出会った。
結局、と、わたしは考える。愛とは錯覚や孤独感や不安感や、そういった様々な感情が混ざり合ったものに過ぎない、と。でも、魔法だ。素晴らしい、魔法だと思う。
なぜ僕のことを好きになってくれたの?彼がそう聞いたことがあって、
「父に似ているから。」
わたしはそう答えた。あの日最後に抱きしめてくれた父のことを思い出した。時計台の鐘が鳴っていた。
テーブルの上のランプは、あの日の夕方の空に似た色の、柔らかな光を放っていた。
この夜、わたしたちは、一緒に生きていくことを決めた。
どうしたの?彼がそう尋ねた。わたしが涙を流していたからだ。
「本当に嬉しいときには、泣こうと決めていたの。」
わたしはそう言った。
chapter 5
死ぬのは怖くない。
いつか殺される日が来たとき、相手にそう言ってやろうと思っていた。
死ぬのは、怖くない。
「ありがたいぐらいだよ。」
そう口に出して言ってみる。半分本当で、半分は、嘘だ。
公園には約束の時間の十分前には着いた。変なサラリーマンの若造がベンチに座っていたので、ガンをつけて追い出した。
死ぬのが恐ろしくなるのは、銃を口に押し込まれて引き金を引かれようとしている時ではない。こうして、ただぼんやりとしている時だ。人が死ぬところは何度も見てきた。自分で殺したこともある。何人も。何人も。
普通に考えれば、死んでしまえばそれで全て終わり。後には何も残らない。そう思う。でも、実際に人が死ぬところを見ていると、それだけではないような気がしてくる。生きて何かを考えたり、何かを喋っている人間が、動かなくなって、肉の塊になる。何か別のものに変わる。魂が体から抜け出していって、とは思わないけれど、じゃあそいつを生きて喋らせていたものはどこへ行ったんだろう、という気はする。
・・・冷静に考えればコンピュータと同じで、ハードが死ねば、あ、ハードというのはコンピュータの実際の機械の部分なんですけどね・・・、組の若い衆が得意気にそう言っていた。ハードがぶっ壊れると、ソフトの部分、データとか人間の記憶に相当する部分とか、考えるところとか、全部消滅してしまう。その理屈と同じで、死んだ奴もコンピュータのハードに相当する脳が死んだ時点で、全部消え去るわけですよ・・・・。攫ってきた人間をコンクリートに詰めて港に沈めた直後で、おいらは若い衆が喋っているのを聞きがら、足元に広がる夜中の黒い海を眺めていた。
その若い衆も、つい最近拳銃の弾を腹に喰らって、泣き言を喚きながら死んでいった。死ぬ間際になってジタバタする種類の人間は、ロクなもんじゃない。ロクでもない人生を送ってきたんだ。ちゃんと生きてきた覚えがないから、死ぬときになって焦り狂う。おいらは好き勝手に精一杯生きてきた。だから、おいらが死ぬときは、毅然としていたい。
組の事務所で、金縁眼鏡を汗で湿らせながら、そいつはこう言った。
「兄弟、頼むよ。」
おいらは、こう答えた。
「てめぇが行けばいいじゃねえか。」
「今回の件で俺もオヤジにこっぴどく怒られてなあ、そんなガキにブツを持たせるからだって。まあパクった奴が偶然にウチの若い衆だったから、アレして今日の五時に、あの時計台の公園あんだろ?そこまで持ってこさせるんだけど、今さら使い走りみたいなのを走らせるわけにもいかないし、俺はオヤジについて会合に出ないといけねえしなあ。」
そいつは、情けない声を出した。
「事務所に持ってこさせりゃいいじゃねえか
。」
「そんなこと、できる訳ないだろう。」
玄関前の監視カメラには、二十四時間張り付いている機動隊の直立不動が映っていた。
「頼むよ、兄弟。恩は絶対に返すからさ。」
金縁眼鏡が舎弟に目配せしながらそう言った時、おいらの中の何かが疼いた。
仕方なく、その用件を引き受けることにした。その時には既に、おいらは他の何かも一緒に受け入れていたのかもしれない。
約束の時間が迫っていた。
振り返ってみると、少し離れた遊歩道に、女といる背広姿の男がいた。年齢はおいらと同じくらいに見える。背広の組んだ腕に女の持っている赤いハンドバッグが見えた。不倫かなんかか・・・。おいらは振り返るのをやめた。警察関係者には独特の匂いがあって、あの二人にはそれがない。
ベンチから立ち上がり、時計台の真下まで移動する。煙草に火をつけて、ふと空を見上げる。
夕暮れの太陽の、頼りない最後の光がおいらの顔に届いていた。人間には、見えない光というのがたくさんあるらしい。紫外線とか遠赤外線とか、宇宙線なんてのもあるって言っていた。NHKの教育番組とか、そういうやつで見た覚えがある。人間なんて偉そうにしていても、見えないものだらけだし、聴こえないものだらけだ。
宇宙の果てがどうなってるのかも知らないし、死んだ後のことなんてのも、誰にも分からない。そうすると、実は人間の頭なんてものも、おいらがミミズの行動を見て、馬鹿だなあと思うようなもんなんじゃないか。とんでもなく悪い頭なんじゃないだろうか。宇宙人みたいなのがいるとして、凄い知性を持っているとしたら、そこから見れば、人間なんてミミズが考えているようなことしか思ってないのかもしれない。そんな頭で理屈をつけたって、本当は何一つ分かっていないんじゃないか。その分からない馬鹿な脳で全てを考えているんだとしたら、その脳の考える限界に制約し続けられる。冷静に見なくても人間が間抜けなのは骨身に染みて分かっている。周りを見ても、ヤクザの抗争から国家間の戦争まで、あそこが欲しいからあいつを殺って取り上げちまえって、大昔からやっていることは同じじゃないか。その状況をすべて変えるには、自分の脳みそから自由になることだ。状況を一変させること。その方法は、死しかないんじゃないか。
時計台の鐘の音で、我にかえった。
その時には、現れた男が銃を持っていることに気づいた。間に合わないタイミングだった。
鐘の音の隙間に微かな銃声が聞こえて、三発が発射され、二発が俺の腹と胸に命中したらしかった。その部分がひどく熱い。
背広の内ポケットに手を入れたまま、おいらの足が崩れ落ちた。
これはダメだろう・・・・。おいらはそう思った。
その男は死んだかどうかを確認するように、ゆっくりとこちらに近づいてきた。あるいは、完璧に止めを刺しに来るかもしれない。もう、おいらにはどうでもよかった。
さあ、言ってやるぞ・・・。
おいらは死ぬときのための言葉を用意していた。
その男がすぐ近くまで来たときに、おいらは呟いた。
なんだ、外人じゃねえか・・・・・。
おいらはその男の目を見た。何のことはない、昔の自分の目だった。もう我慢できねえって目だ。
言葉が通じねえのに、何言ったってしょうがねえよな・・・。
おいらはそう考えていた。走馬灯なんて見えなかった。神も悪魔も現れてくれなかった。意識が暗くなり、途切れた。
chapter 6
ムハンマド・ハサンは公園のトイレで、慎重に銃へ弾を装填していた。
落ち着いて、やれ。
クルド語で自分に向かって言い聞かせた。
段取りをもう一度、自分の頭の中で復習してみる。昼間からこの公園の中を歩き回って、通路は完全に把握していた。この国は犯罪に甘い。でも殺人は別だ。サイレンサーも貰えればよかったが、それは無理だった。だから五時になって、時計台の鐘の音と同時にやる。終わったら、銃を分解して、河に捨てる。そして、残りの半金を貰いに行く。
金縁眼鏡の男から言われた手順の中で、ムハンマド・ハサンはこの部分だけを自分で変更した。銃は、金を貰った後に捨てるのだ。
金縁眼鏡の男から、既に半金は貰っている。また仕事をしたい、という意思を見せれば奴はオレを殺さずに残りの金をくれる。しかし、ムハンマド・ハサンは、この仕事の報酬を持って、他の国へ行くつもりだった。故郷へ帰るつもりはなかった。あそこへ帰っても希望はない。この国にもそれはなかったが、どこかにはそれがあるはずだ。
ムハンマド・ハサンに諦める気はなかった。今までの人生で酷い目には何度もあってきたが、絶対に諦めなかったし、これからもそうするつもりだった。
最初にこの国に来たときは、希望を持っていた。この国の美しい女を妻に娶り、スーツを着て、この国の企業に勤める。金持ちになったら、この国に自分の家族全員を呼び寄せる。
二週間で、そんな夢は絶対にかなわないことを知った。
ムハンマド・ハサンにとってこの国は、バンカーのような場所だった。
ゴルフというスポーツは、この国のテレビで初めて知った。砂はオレの国のほうが多い。でも、ここは、この国はバンカーだ。いくらあがいても、ボールは自分の足元に転がり落ちてくる。決して抜け出せない。前に土産物屋で働いていた国では、隣国の人間に対する明確な敵意があった。この国にはそれすらもない。あるのは冷たい無関心だけだ。それは敵意よりもたちが悪い。反撃のしようもないからだ。
ムハンマド・ハサンは、嫌な仕事をするときには、せめて頭の中だけでも楽しいことを考えるようにしていた。土産物屋で働いているとき、旅行者の美しいこの国の女性と結婚の約束をした。この国へやってきたのは、それも理由のひとつだ。彼女はまだあの約束を覚えているだろうか?彼女の笑顔を思い出す。この国にやってきてからは、誰かに微笑んでもらったことはない。
トイレの扉の奥から、スーツ姿の日本人がフラフラと歩いていくのが見えた。朝からずっとベンチに座っていた奴だ。ありがたい。ムハンマド・ハサンはそう思った。あのまま座っていられたら、あの男も一緒に殺さなければならなかった。奴らに俺たちの顔の見分けはつかないと言われるが、そんな事は信用できない。
トイレの扉をわずかに開けて、スーツ姿の日本人が歩き去っていくのを確認する。この男も死人のような目をしていた。この国の、それもスーツ姿の男たちが、そんな目をしていることがムハンマド・ハサンには未だに理解できない。
オレが奴だったら、そうムハンマド・ハサンは考える。故郷で桁違いの金持ちの家の人間を見るときも、大学に通う自分と同じ歳の奴らを、土産物屋の店先から見ていたときも、同じように想像する。羨望などではない。それは、楽しい想像で、ムハンマド・ハサンにとっての、日常の娯楽のひとつだった。
オレがもし奴だったら、飛び跳ねて歩く。笑いながら、飛び跳ねて歩く。間違いなくそうする。自由で、安全で、職がある。あんな目になる必要はどこを探したってない。なのに、この国には死んだ目の人間が多い。笑いながら、飛び跳ねて歩く人間はいない。
神がいないからだ。
ムハンマド・ハサンはそう思う。この国には神が本当にいないのだ。アッラーだけではなく、この国の神もいない。この国の人間は神を持たない。だから生きながら、死者のようになるんだ。
トイレの扉から身を乗り出して、スーツの男のあとにベンチに座った別の男を確認する。金縁眼鏡の男に渡された写真を取り出して、三度見比べる。間違いなかった。標的だ。
時計を見る。狂っていないなら、時計台の鐘が鳴るまで、あと三分だった。
楽しいことを考えるのはやめて、呼吸を整えた。人を殺すことに抵抗はない。まだどこへ行くかは決めていないが、あの男を殺さなければ、偽造パスポートと航空券のチケットを買うだけの金を手に入れることはできない。ムハンマド・ハサンはすでにオーバーステイの状態にあり、難民申請をしても無駄で、入国管理局に捕まれば監禁されて本国へ送り返されてしまう。ここに留まっていても、食いたいのならヤクザかイラン・マフィアの下で働くしかない。最終的には殺されてしまうだろう。
生まれたときから周りにはいつも死が溢れていた。ムハンマド・ハサンにとって、生きているという事は、常に死の危険性があるという事を意味した。命にも値段があって、ムハンマド・ハサンのような人間の値段はひどく安い。日本人やアメリカ人の何百分の一か、何千分の一か、もっとかもしれない。いずれにしても、ゴミのような値段だ。その値札を貼り付けられて、ムハンマド・ハサンのような人間は生まれてくる。
生き残るんだ。
銃を握り締めて、ムハンマド・ハサンは自分にそう言い聞かせた。
オレにとっては、オレの命は世界中の何よりも高い。ゴミのような命だろうがなんだろうが、絶対に生き残ってみせる。
鐘が鳴った。ムハンマド・ハサンは銃を手に走り出していた。
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chapter1の女性が旅行に行った国はトルコで、chapter6の外国人は、トルコ在住のクルド人を想定しています。
「で、何が言いたいの?」という質問に答えられる作品ではありませんが、楽しんでいただけたら幸いです。