二十歳の短篇集
いつかはそこに還るのだ、と思う。そこは、寒い朝、十八歳の小部屋。立て掛けられた古い写真が、私たちをじっと見つめることだろう。
北が南に、南が北に変わったような、レンズの焦点のようなあの日から、二年ほど時を順行したあたりに位置する彼らの短い文章を、私は編んだ。いつかは還る場所の道標、みたいなものだと思う。
『弥子(ひさこ)』 Aki
彼がその女を「選択」したのは死期を思ってのことに相違ない。死期なるものが彼個人の死期なのか、あるいはこの世の諸々全ての崩壊なのか彼には判然としなかった。弥子は日常生活になんら益するところがなかった。そして彼は少しも彼女を好いてはいなかった。霊感はある日突如として彼を襲った。頭に浮かぶ知人の顔の中で唯ひとり弥子だけが数百年の齢を数えていた。彼は火中に投じられる一対の藁人形を見ていた。しかし彼が弥子を貫いても、あろうことか世界は了らなかった。そうして時が経ったが世の終焉はおろか彼自身の死もいっこうにやってこなかった。結局のところ弥子がいったい存在していたのかどうか彼にも疑わしく思えてくるのであった。了
『198×』 M.Arita
けだるく歩いていた。右手に県道が流れている。ピンクとブラックのツートーンのスクーターが右目の端に止まった。髪の涼しげな若い女の子がメットを外して笑った。ヘルメットを受け取ってスクーターのキーを回す。アニマは俺に手を振って笑った。レッドゾーンで走ってゆくと踏み切りに出た。踏み切りの断続音の中にまた暗い影が過ぎった。
「有難う。お陰で間に合ったよ」アニマは笑っていた。髪は短くサイドに流していた。瞳は大きくややきつかったが笑うととても快活に見える。色が白くて歯は更に白かった。アニマの買ってきた差し入れが皆に配られた。その日買ってきた装飾品は全てアレンジし終えていた。ミラーボールがよくできていると誉められた。フラッシュバックを試してみる。その中でアニマと踊った。アニマはやはり笑っていた。文化祭の前日の正午過ぎのことだ。
(更にけだるくクォーターバイクを転がしていた。県道で左眼の端にアニマを捉えた。メットを外してニッと笑った。アニマも嬉しそうに笑ってタンデムした。身体のとる位置を指で示した。夕暮れ時を疾走した。そして踏み切りを渡ろうとするとき、その遮断機の制動がイかれていると頭の中に声が叫んだ。断続音は鳴っていた。が、踏み切りは遮断機を降ろしていなかった。バイクはその四分の一のところまでノーズを踏み込ませていた。視界の右端に白い車体とそのブレーキ音が間延びしたように認められる中、ブレーキかアクセルか一瞬躊躇った。ばかな! 進む以外にないだろう。アクセルした。衝突した。バイクの尻のあたりが電車のスラストに引き摺られるのを感じた。そしてアニマは―――)
思い出したのだった。フラッシュバックの光りの中で踊っている俺のアニマ。その妹を俺は二年前に事故死させていた。双子のような妹を俺は殺してしまっていた。アニマは俺のうちで育った。二年前からアニマは俺のうちに棲み附いた。俺の中にアニマがいる。
アニマの本宅にはアニマとそっくりの妹の写真が黒い額の中で笑っている筈だ。季節は夏。ディスコホールの中で俺と俺のアニマは踊り続けていた。そしてやはりアニマは明るく笑っていた。【終わり】
『エピローグ』 Tarou
1
春だ。目を覚ますと、外は雪だった。春の嵐に雪がミックスされたような日だった。ブリザード。それ程ひどい一日だった。
「春だっていうのに、全く」
僕は、二年目の春をこうして迎えた。後ろを振り返ってみようとしなかったためか、あるいは振り返りようにもそれができなかったのか? とにかく、二年間の記憶というものは僕の頭の中にまともに残ってはいない。
何か が あった
それだけが分かっていて、その何かが自分を変えたことも、なんとなく分かった。
僕は 今 ここに いる
それだけだ。思い出の優しさがどんなものであるか、今の僕にはわからない。ノスタルジアという言葉も、妙に乾いた気取った調子に感じられる。それだけのことだ。
身辺に自殺した者が、この年目立った。死ぬということもわからない。今生きているのか死んでいるのか、その辺もよくわからない。わからなくなってしまった! 狂うということは消化し終えた陳腐な状態をさしているように思えるが、それだけだ。
2
空がとても高い。
春、大学生活のはじまったころのある休日。僕は新宿まで出掛けた。買ってしまいたい本があった。それにあともうひとつ、その日は彼女に逢える、という予感が強くした。そのためだ。
朝、目を覚ましたときからその予感はあった。近い過去からくる懐かしさが、その朝部屋に満ちていた。昨日眠っている間に唄を聞いたような気がする。久しぶりに昨夜は彼女の夢をみたのかもしれない。夢の中の川の流れが瞼の裏に残っている。私鉄の窓から見た川が陽光に煌いている。そんな景色は確かに二年前の春を物語っていた。当時目に映っていた、唯それだけの春の陽光がまだ心のどこかに残っていたのだ。
―――きらめく陽光
五月の青葉
私鉄の沿線の川のほとり
子供たちの草野球
買い物かご提げたおばさん
光り反射するペンダントウォッチ
時がひきのばされたようなアンニュイ
(反する痛み
反する不安
反する恐怖
あ ら が い)
ふり返ると
冬の店先で売っていたハムスターが五百円
国道を走って横切るのがウエスタンブーツ
春浅い日の大きく周る小さな部屋は観覧車
青春18キップで折り返す駅が高松駅
封筒の匂い
弦の音
そして 全肯定の瞳―――
時刻は十時少し前、机の上のデジタルが示していた。買いたてのシェーバーを手にとって、やめた。かわりに、自分の口が薄く笑っているのを確かめた。
部屋を出て階下に下りた。母親は父の単身赴任地へ行っている。弟は出掛けたのかそれともまだ眠っているのか。階下はひっそりとしていた。
空気が少し湿気を帯びて重く感じられるような朝だ。冷蔵庫からカスタードクリームを先ず取り出して、それから湯を沸かす。クラッカーにクリームをつけてコーヒーといっしょに立ったまま口に運ぶ。
ひどく、ぼうっとしていたのだろう。雨戸を閉めたまま電気も点けずにいることに気がついた。
窓を開け放つと、頭の中にあった香りとそっくりの春がそこにあった。庭の桜にはもう緑の葉が濃い。春の陽に空色がかって見えるブルーの物干し台の陰には、黄色く、小さなタンポポがある。かきねの隅から、今はもうすっかり大きくなった、トラ猫のまるまったしっぽが、黄色くこれも陽を浴びていた。
予想通りに空は澄んでいた。かすみがかった雲が浮かんでいる。すずめより大きめの知らない鳥が二羽、桜の枝で春を鳴いていた。何もかもが活気づき、息づいていた。風は、やや湿気を含んで、とてもゆっくりと移動している。時がひきのばされたような穏やかさがそこにあった。
洗面所で歯を磨き終えたのち、戸だなを開けて探してみた。矢張り、あった。二年前に使っていたシェービングクリームの缶が冷たく残っていた。使い捨てのカミソリで髭をおとした。南に旅していた頃の記憶か、あるいは、二年前の今ごろちょうど同じような時刻に繰り返していた習慣の匂いか、シェービングクリームは香った。
わけもなく浮ついた気分になっている自分に少々驚いてみたりしながら、すっかり忘れていた甘い空間を愉しんだ。鏡の中の顔は、泣き笑いのような、気弱そうに照れた妙な笑いを浮かべ、それを見た僕は、一人で声を出して笑った。
(時間の感覚が戻ってきた)
そんな感じが体の内部をめちゃくちゃに走り、駆け抜けて、本当に久しぶりに周囲の全てを優しくながめることができた。手にしたカミソリは、確かにその手中にあった。その実在は疑いようもない手応えとして、文句なく受け入れられた。歯ブラシも、濡れたタオルも、ガス湯沸し器も、ヘアリキッドも、よく見えた。それらのものと自分との間には何のしきりもなく、突き刺さるように、目が受け止めている。
鏡の中の男は、そう、自分だ。僕だ。ああ、僕はここにいる! そう叫びたい程だった。全てがリアルだった。いきづいていた。幼少の頃と同じように。
身支度をして、何かに急き立てられるようにして、家を出た。
私鉄の車窓からの眺めは、今朝方、頭の中にあったそのイメージとぴたり重なり合っていた。そして、矢張りしごく当然のことのように僕には感じられたが、この日、彼女は、いた。
新宿で予てから探し求めていた本を一冊買った。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』。二年前の僕に似ていると友達が話してくれた。他にすることもなく、すぐに、下りの電車に乗りこんだ。車窓から春を眺めることが、この上ない歓びに思えたからであろう。
その電車の中に、彼女がいた。
僕と同じように、開閉ドアの横にもたれて、外を見ていた。彼女が私鉄を乗り換える駅まで、僕は彼女と外とを半々に見ていた。ふと外にやっていた目を戻すと、彼女は煙のように消えうせているのではないか、妙な感じが、しきりとした。
二年間というものを思い出してみようとも努めたが、なぜだかそれは、してはいけないことのように思われた。この平穏な気分と甘い空間を壊してしまうのが何よりも恐かった。
(ひとつ、訊きたいことがあるのだけれど、
二年前つきあっていた頃のことだけど、
あのとき、僕は、狂っていた?
そう思った?
そう思っていたのかい?
それとも、君も一緒に狂っていた?
―――僕はふたりとも同じことを考え、感じていたのだと確信してた。
今でも、きっと、そう思っている。
そうだろう?
夢を見ていたのは僕だけ?
夢の中の荒野を、
君と一緒に歩いているつもりになって、
ホントはひとりで狂っていたのかい?
ふたりで全世界を否定したことはなかった?
どこまでもゆこう、
という言葉の裏に、別天地と過去と未来をみなかった?
僕?
僕はいろいろあったよ。
いろいろな目に遭ったよ。
僕はもうわかってる。
分かってる。
何も疑ったり、悩んだりしなくても、
体でいろいろ覚えたことがある。
そんなことは誰にも言いやしない。
必要ないなら黙っていようと思う。
―――だから、僕のことは何も訊いてほしくはない。
二年前、君はどうだった?
君はずっとこの平穏な気分の中にいたのかい?
このゆっくりと流れる時間の中にいた?
前と後ろのある世界にずっといたのかい?
恋や受験や自分が悩みになるような甘い空間から、
僕と語り合っていたのかい?)
電車の振動は眠気を誘っていた。車内はとても静かで、約半数の人が眠っていたのではないかと思う。車窓に映る緑の向こうに、太陽の三倍くらいの大きな円が、見えはじめた。遠い昔のことのように思う。あの観覧車。大きく周る円環の小さな部屋。そこで、僕とあの女は何を喋ったのだったか?
―――何が起こったのか
誰も知らない
あの日から
あの冬から
あの雪の世界を旅にして
遠いところに
僕が
ある
ずっと昔から
そこに
ある
そうかい
君 ずっと ここにいたんだね
僕は 君です―――
冬の世界は真っ白で
四輪駆動の車の外に
歩く人影も見えませんでした
僕は ずっと高いところにあること を
知っていました
けれども
車の中の僕は
唄いつづけていました
モウスグ ハルガ クルノダカラ
そうすると もう僕は
僕のところへ
往かなければ
ユク のです
呼ばれる声は
真っ白に固まって
そのまま
雪になって
しまいます
どうしたら―――
笑ってる女の子がいます
とても懐かしそうに笑っているのです
―――ひとりよりもふたりのほうが遠くまでゆけるんだよ
ひとりでは駄目さ―――
笑っているのはリスの瞳で
やっぱりあの少女も 僕 なのでしょう
か
僕の分身は
一人ずつ消えてゆくようで
最後に残って寂しいのは
大きな古ぼけた時計塔を背に
待つ 少女 です
門まで走って!
あの門くぐって少女の側に
「コレハ ゲンジツ ナンダネ」
少女は Noと思って頷いて
駅の朝
待つ 僕
「逃げてきちゃった」
そう言った彼女
とても
とても よく似合う情景で
あの周る大きな小部屋のてっぺんで
「解らないだろう
そうさ
解るわけはない」
「解る、……と言ったら、ウソだと思う?」
小さな鈴が
地の果てで
響いた
幽かに
ワカル
だってさ!
ワカル、だって!
二人の誕生日から、一年経った誕生日に、
「私は正気に戻りました」
春の彼女と秋の彼女は別人のように思える。でも、ほんとうに?
オレはマチガッテいたのだろうか?
いったい誰が 狂っているのか?
いったい何が 狂っているのか?
平穏な気分に、二年間の記憶がいつのまにかわりこんできている。
電車の外は川。三台の車と、男女の乗り合わせた幾つものボート。耳の中にその日の朝からの可愛らしいリズム。僕を救ってくれているように思えた。
目の前に彼女。今朝、鏡を覗きこんで、声を高くして笑ったこの僕。外は春。電車が大きくカーブした拍子に、春の陽射しが、眼に届いた。眩しさに、一瞬、失った視界。その眩しさが、全ての嫌な思いと記憶に作用して、一瞬にして溶け失せるような気分。
神に近づこうとする季節―――十八を過ぎて、今、僕は、もう、クエスチョンマークを放つ必要はない。肩の力が急に抜けて、(終わった)とそう思った。何かに(許された)ような解放感の中で、春を見つめる僕の耳に、電車のリズムが、再び、戻ってきた。
3
彼女の乗り換え駅で、僕も降りた。僕の想像上の産物であるような彼女の肩を叩いてみる。大きな瞳がいっそう大きくなって、口元が弛んで小さな前歯がのぞいた。
彼女は ここに いる
高校時代と同じように彼女は地球の万有引力に従っていた。
店内には古めかしいBGMが流れていた。時が逆戻りして流れているように思う。壁もテーブルも、パステルホワイトで統一されていた。清潔で簡素な空気が対流している。
彼女は二年前の日々と同じようにうつむいている。時々深く瞬きして、あげる瞳は茶色い。眉を軽くよせている。肩に幾分、力が入っているようで、ストローの先をマニキュアのない指でいじっている。
話したいこと。訊ねたいことは沢山あるように思われた。預けてあったノートと鍵は捨ててしまっただろうか? 謝らねばならないことは、お互いにあるように思われた。若い日に、見上げた空は高すぎた。僕の失ったもの、彼女の失ったもの。どこからどこまでが、正気だったのか?
―――妙に透明な 量感を感じさせない娘であった
真っ直ぐに伸ばした背すじ 肩から胸にかけての線が
繊細に美しかった
ガラス細工のように手を操っていた
それだけで
たとえば
そういう少女が 銀杏の並木の下にたち
黄色く とびはね まわり おちる 葉
を背景に 学生カバンを胸に抱き 微かにはにかんでみる
としたら それだけで 充分 なにか
ノスタルジアを なんとなく そういったものを
醸し出すだろう
まちがいない
側によって よく見ると
その白さは かえって色を失い
ほくろのひとつもない真っ白な肌は、膚は
白い というより むしろ 雪の結晶のように 透明で
いくらか 血色の悪い すきとおった ブルーの光りをおびた
それでいて 少しも 病的な素質の認められない
と いうことは
そう 病人というよりも 美しい死に顔を 思わせた
そして
何よりも瞳が よかった
鳶色とか茶褐色の瞳とするには あまりにも 徹底して こげ茶色をしていた
何も考えず 悩まず 欲せず かといって
諦めたような淋しさを ひきずってもいず
少なくとも傍目には 奇妙に落ち着いた やすらいだ 悟り人のイメージが
あった
そういう少女のことばを
どう形容したらよいものだろう
ないしょの話をする ことば
軽く乾いて 落ち着いていて 語尾を尻上がりにいくらか強調するその話し方
バカな小娘 夢みる乙女 と微かなところで ちがう と分かる
その存在は 永遠を約束する やすらぎに満ちた風そのものだ
そういった少女が、自分というものの人生の糸に絡まってきたばあい、自分というものに、なんらかの疑念を持ち、人生のおわりをリアルに想像できていて、尚且つ、そこに、小さなビー玉の億分の一の素なる生命の流れ、存在、つながりを感じるような者なら誰だって、(あること)に気がつきはじめるのである。そして、たとえば、その神秘の天使が、あるいは悪魔が、自分と同じ星を持ち、自分と同じものを身につけていたとするなら、
【彼はその向こうにつらなる広大無辺の事象を予期するだろう。】
そして、たとえ、それが嘘であっても、真実は、彼の誠実をもって真実であり、
【事実という現実世界を映しただけの水面(その平面的事実の世界は、人間が創りだした人間社会という名のツクリモノ)に、小さな石をそっと投じることになるのである。波紋は広がり、もはや、ジョバンニとカンパネルラの世界のように優しくはあるまい。】
―――喫茶店の風景描写(略)―――
重い空気→Jokeと笑い(意図的→自然)
「小説は?」
「いや、二年程何も」
「書いたらいいと思うよ」
「書いてほしい?」
(訊こうと思ったことは何も訊かずに
―――それでよいと思った)
―――あっけない時間を平穏に過ごす―――
店の外に出ると、陽射しが思いの外きつかった。初夏を思わせるような空気に汗の匂いも、少し感じた。店のドアに陽射しがシャワーのように線を描いて、閉まると同時にとりつけられた小さな鈴が、心地よく鳴った。
通りを歩く人も上着を抱えている。金属音に振り返ると、高校のグラウンドだと思う、ソフトボールをやっているのが見えた。更にその向こうのトラックをランニングショーツで走っている姿も見えた。
「平和だね」
「そうだね」
去年の夏から持ち歩いていたサングラスをとりだす。
「似合うよ」
彼女が言って、笑った。
「去年の夏にさ、原宿の店頭に1,000円均一で並んでたんだ。おもちゃなんだよ、コレ。どの店でも1,000円に統一されててさ」
「うん」
「でさ、一軒だけ980円で売ってたんだな。だから買ったんだ」
他愛もない話をしていると、去年の夏も今みたいに平和だったように思える。
―――「何もかも、リアルじゃないんだ」
「要はアンタ、死にたいの? 死にたいってことは、もうヤリタイことみんなヤっちまったってことなの?」
わかってない女が、白いマニキュアをみせて唇を動かす。―――
去年の夏も今みたいに優しかったように思える。思う。忘れる。それでいい。
「時々、訳もなく電車に乗って勉強してた。そっちの方が気分転換になったし、上りだとみんなに会っちゃいそうだから。下りで小田原の海を見にいってた」
「ふうん」
そんなふうだったのかあ、というような意外と安心の入り混じったジェスチュアを彼女はとった。
「浪人の身分の悲しさでさ。人目を避けるようにつけてたんだな、コレ」
らしくないなあ、と彼女は笑った。それでいい。
駅に入ると、急に涼しくなった。
「じゃ、また」
と彼女が、おそらく笑顔をつくってそう言った。
「うん」
サングラスを外さずに、笑い返した。
乗り換えの改札に向かう彼女を見送った。
4
駅で貰った何かのパンフレットを、電車の中で丁寧に折りつけて、それからちぎりはじめた。紙吹雪が、両手に軽くおさまるくらいに出来上がったところで、電車から降りた。
初夏のような陽射しの外に出る。
駅前の音楽に囲まれて、信号の変わるのを待つ。スクランブルに人間がアメーバのように動きはじめる。いつかの喫茶店から見下ろせば、人が磁石のように吸い付き合い、スクランブルの中央でアメーバ状に変形しながらうごめいたあと、再びきれいに何も残らなくなる、そういう光景として映るはずだ。
まさにスクランブルをアメーバが覆い尽くしはじめたその中央に、僕は無表情でいる。自分が無表情でいることを確かめたのち、ポケットにつっこんでいた両手を出して、紙吹雪を空高く投げ放った。
宣伝文句の一部や、白や赤や黄色の破片、比較的地味なクラッカーが飛び出したようなものだ。
紙吹雪は予想通りに春風にのった。意外と思える程高く舞い上がり、陽の光りをバックに、鈍く光りを照り返して、遠くに舞い降りていった。
その間僕は上を見たまま、殆ど立ち止まっていた。眩しさに細めていたその眼をおとすと、幾つもの咎めるような視線にぶつかり、突然、
【恥ずかしさ が こみあげてきた】 実感した。
(せめてサングラスを外さなければよかった)
と、心の隅で愚かしいことを呟きながら、足早に交差点を渡りきろうとする自分に、僕は、満足した笑みを送っていたのだと思う。
あの喫茶店から、今、このスクランブルを眺めていた者が、誰か、いたことだろう。
そして、きれいに何も残らなくなった白いコンクリートを、見ただろう。―――了―――
二十歳の短篇集