芋虫の産声

「おはようございます。熱いタオル置いておきますね」
そういってカーテンを開ける看護師の声で目を覚ます。窓の外に目をやると、杉の一種だろうか、針葉樹の緑が目に入る。
四月二十五日。もう三カ月になるのかと思うが、特別な感慨はない。それよりも、導尿の面倒さが頭を支配する。下半身が部分的に麻痺し、尻が上がらない現状では、ズボンを下ろすのも一苦労である。右に寝返り、左に寝返り、少しずつズボンを下ろす。のたうち回る芋虫のようだと思うが、その滑稽さを可笑しいとも思わない。漸くズボンが下りると、カテーテルを性器に挿入する。尿瓶に流れ落ちる尿の音が静かな病室に響いた。
 歩道橋から落下したのだった。両足の踵の骨を複雑骨折、右腕も折れた。さらに腰椎の一つが破裂骨折したことで、排泄器官と両足の末端の感覚が無くなった。
手術は三回に分けて行われたのであるが、その間に二回は死を身近に感じる出来事があった。
一度目は、二度目の手術直後に呼吸器官に異常を来し、人工呼吸器に繋がれた時であった。後になって聞いた事によると、意識が眠っているようになる薬を投与されたそうであるが、自分自身を自動車の部品にされる、そんな幻覚を見たのである。そのビジョンから解放された際には、しばらくは嗚咽が止まらなかった。
もう一度は、三度目の手術の直後に血栓が幾つか出来て、医師から直接「死の可能性がある」と告げられた時である。助手に、心臓エコーのためのゼリーを塗り付けさせながら、医師は事もなげにそう告げた。ごりっ、ごりっと押し付けられる器具の感触を感じながら、涙を流したのである。
 会社でもそれなりの騒ぎになった様だ。半年前に妻を亡くしたからその後追いじゃないかとか、土日にも無理矢理仕事をさせる体質が問題だったんじゃないか等、憶測されたのであるが、そのどれも確信には至らなかった。何故なら、当の本人にも理由が分からないのである。どれも当てはまる気がするし、どれも当てはまらない気もする。
「起きてください。朝ごはんですよ」
導尿が終わり、少し眠っていたらしい。今はどうにか無事命の危機をやり過ごし、リハビリ専門の病院に転院している。窓の外に目をやる。さっきと変わらず、針葉樹の緑が目に入る。小さなマーガリンのパックを開ける。パックを指で押すと、ぶちゅ、という不快な音がした。窓越しの緑を横目に捉えながらパンを口に入れる。やはり、マーガリンを付けないパンよりもマーガリンを付けたパンの方が美味いな、と感じた。

芋虫の産声

芋虫の産声

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-29

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted