0時01分新宿発急行列車に乗ったのは

新宿を出る京王線に、私、柳井の順で駆け込んだ。
私達が駆け込んだすぐ後にドアが閉まり、発車した。
腕時計は深夜の0時を少しだけ回っている。終電近くの電車ではあるが、座ることは出来ないものの車内はまだ余裕があった。
私は手すりに寄りかかり、息を整えながら、若者は違うね、オッサンには辛いわ、と柳井に声をかけた。柳井の息は全く上がっていない。
「オッサンって、井上さん俺と三つしか違わないじゃないですか」
柳井のその言葉に、二十も後半になるとガクッと来るから気をつけな、といいつつワザとらしく肘で彼の胸を小突いて先輩風を吹かせてみる。
柳井は曖昧な笑顔で私を見返している。
列車は最初の停車駅である笹塚駅に停車した。
「終わりそう?」
息を落ち着かせて、照れ隠しも含めて一応聞いてみる。
「まさかっすよ。今日データもって帰ってるんで、明日の昼までには何とかします。井上さんこそ調整大丈夫ですか?」
「まさかっすよ。今日も委員の先生とお客様からお叱りの電話を頂戴しましたよ。お蔭で時間がないのに、馬鹿富から、お叱りの電話を頂戴したことに関してのお叱りを頂戴したので、全く何も一ミリも進んでおりません。俺も『偶然にも』データを今日持ち帰ってるから、明日柳井さんからデータ貰うまでには骨だけは構成しておくよ。」
少し間を開けて、こう続けた。
「お互い苦労が絶えませんわね。」
柳井はまた曖昧な笑顔で私を見ている。
柳井と私は、会社内の同じチームで働いている。日本、韓国、台湾の1000人の消費者に対する意識調査アンケートのデータとりまとめ及びそのデータを基に有識者の意見を求め、報告書として取りまとめるという、定数的には不十分で、定量的に分析するには専門性が足りないという、いかにもなお国の事業だった。
ただ、その手の事業として、決定的に他の同種の調査関係の仕事と違ったのは、わが社、とも言いたくないような、私の勤めている会社が受注しているということであった。私の勤めている会社はイベントの運営会社であり、調査業務のノウハウを持った会社ではない。それを、社長の富岡の一存で、『実績になる』という理由から、入札にて赤字前提で受注したのである。これはさすがの省庁の担当者も予想外だったようで、受注を取り止めるように勧告があったほどであった。それがあの馬鹿富にはまた火に油だったようである。
どんな腐った仕事でも、受注した以上は実施しなければならない。それで、私をチームのリーダーとして、柳井他二名だけのチームが編成された。柳井は留学の経験から英語が堪能であるという理由だけで編成されたようであった。今は、柳井がデータ処理、私がクレーム処理と納期の引き延ばしという役割分担でその日その日をどうにか潜り抜けているという状況だった。
千歳烏山の駅を過ぎた。少し人が減る。柳井が口を開いた。
「井上さん、この世で一番つらい刑って知ってますか?」
「知ってるよ。訳の分からん会社で訳も分からぬ調査を不眠不休で・・・ってちがうな。聞いた事ないけど。」
「実際刑務所で実施されたことがあるらしいんですが、まず受刑者に一日かけて思いっきり大きな穴を掘らせるんです。で、次の日にはその掘った穴を埋めさせる。これを数週間繰り返すと、受刑者の大半の精神がおかしくなってくるらしく、これが一番つらい刑らしいですよ。」
つつじが丘駅。更に人が減る。今日の柳井は妙に良くしゃべる。
「俺、井上さんのこと嫌いだったって話しましたよね。」
「聞いたよ。そんな君も今ではすっかり曖昧な笑顔が似合う男になったよね。その点は、影響を与えているんだったら申し訳なく思わなくもない。」
その話はこれまでも何度か聞いたことがあった。富岡の独善的な要求にも曖昧な笑顔で応えている私を、入社直前までアメリカに留学していた柳井は、自分の意思のない薄気味悪い男と思ったようである。それが、富岡と私と一緒に仕事をするうちに、「あぁ、世の中には言っても通じないってことがある」と知り、私の態度に理解を示すようになったということである。
調布駅。柳井が電車を降りない。柳井の最寄り駅は多磨霊園駅なので、ここから乗り換えのはずなのだが。柳井に、降りないのか、と聞いても、曖昧な笑顔で見返してくる。見慣れた笑顔、覗かせる八重歯が、今は得体のしれないものに見える。ついに柳井を乗せたまま、電車は調布駅を出てしまった。
調布駅を出ると、柳井は一変して無口になった。私は、降りるべき駅で降りなかった柳井を不気味に感じながら、彼が一時期少年院に入所していたことなどを思い出していた。
「井上さん」
不意の柳井の声に、反射的に身構えてしまった。
「府中っすよ。降りないんですか。」
いつの間にか府中駅に着いていた。私は慌てて網棚に乗せてあった鞄を持ち、電車を降りた。閉まるドアの向こうの柳井は、やはり曖昧な笑みを私に向けていた。

0時01分新宿発急行列車に乗ったのは

0時01分新宿発急行列車に乗ったのは

  • 小説
  • 掌編
  • ホラー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-29

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