悪魔と少女
悪魔と少女
No1
しんしんと雪の降る寒い早朝のことです。
村の外れにある一軒の小さな家の屋根に、真っ黒な翼を生やし、頭に大きな角と、お尻に尻尾を生やした悪魔が舞い降りました。
悪魔が鋭い目で屋根から辺りを見下ろしますと、お日様が昇ったばかりの薄暗い時間帯の為か、人の姿はありませんでした。
「しめしめ。村人は誰もいないぞ。誰も見ていないぞ。俺様はこの村を魔王様の住処にする為にやって来た悪魔だ。まずはこの小さな家の住人から追い出してやろう」
悪魔は煙突の中からするりと家の中に忍び込みました。
煙突を下りると、悪魔は灰になった薪木を踏みしめ、どかどかと足音をたてて、あたりをぐるりと見回します。
部屋の隅にベッドが一つ。壁には小さなサイズの毛皮のコートと、ピンクの毛糸で作られた帽子がさげられています。
どうやらここは子供部屋のようです。
「小さなものからこつこつと。この家を奪う為に、大人よりも先に子供から追い出してやろう」
悪魔はベッドの脇に立ち、そこですやすやと寝息をたてている少女を見下ろしました。
眠っている少女は悪魔に気付く様子はありません。悪魔はベッドの毛布を乱暴にはぎ取ると、大きく息を吸い込みました。そして、家がぐらぐらと揺れるような大声で叫びました。
「おい! 起きるんだ! この寝坊助め!」
悪魔の大声に少女はベッドを跳ね起きました。
悪魔は真っ黒な翼を部屋いっぱいに広げて風をおこし、背筋も凍るような恐ろしい顔で少女を睨み付けます。
「俺様はこの村を魔王様の住処にする為にやって来た悪魔だ! これ以上恐ろしい思いをしたくないなら、この家を出て行け!」
ところが、どれほど悪魔が必死に怖がらせても少女はまったく怖がりません。
それどころか、まるで悪魔の姿が見えないように辺りをキョロキョロと見回すばかりなのです。
普通なら悪魔の姿に驚いて、一目散に逃げ出してしまうでしょうに、少女はちっとも逃げ出す様子はありません。
悪魔は首を傾げます。
「いったいぜんたい、お前はどうして俺様を怖がらないんだ?」
調子を狂わされた悪魔は翼を折りたたむと、少女の耳元で囁きました。
少女は口を開かず、なおも顔をあっへちこっちへと向けるだけです。
少女の顔をじっと見て、悪魔はある事に気付きました。
よく見ると少女の小さな両目は閉ざされていたのです。
「おい寝坊助。お前、どうして目を開かないんだ?」
悪魔が訊くと少女は答えます。
「あなたは誰? 私は目が見えないから、あなたが誰なのか、どんな姿なのかわからないの」
少女の言葉に悪魔は大きく頷きました。
「なるほど。なるほど。お前は目が見えないから、俺様を恐がれないのか……」
悪魔は顎をさすりながらぶつぶつと呟くと「よしわかった」と手を打って、少女の額にそっと手をかざしました。
「俺様が学んだ癒しの魔法で、お前の目を見えるようにしてやろう。目が見えるようになれば、お前は俺様が怖くなって、たちまち逃げ出してしまうだろう」
「えぇ? あなた、魔法が使えるの?」
「使えるとも。使えるとも」
「私の目が見られるようになるの?」
「なるとも。なるとも。少し待っていろよ」
悪魔は呪文を唱え始めます。
すると悪魔の掌に青白い光の玉が宿りました。
光の玉は粘土のようにぐにゃぐにゃと形を変えたと思うと、やがて二つに分かれました。
二つになった光りは蝶々へと形を変え、ぱたぱたと翼をはためかせ少女の瞼の中にとけていきました。
「そら。ゆっくりと目を開けてみろ、お前の目は見えるようになったはずだ」
少女の両目がゆっくりと開かれます。
きっと少女にとってこの部屋の中を見るのも初めてなのでしょう。少女は珍しげに辺りをきょろきょろと見回します。
やがて少女は見回すのを止め、悪魔をじっと見つめました。
待っていましたといわんばかりに、少女を怖がらせようと悪魔が翼を広げ、得意技の恐い顔をします。
ところが少女は大喜びで悪魔に抱きつきました。
「何をするんだ! 突然ぶつかってくるなんてびっくりするじゃないか!」
それからベッドを飛びはね、部屋中を走り回り、窓から外の景色を眺めては感嘆の声を上げるのです。
その様子を見て悪魔は困ったように頭をぼりぼりと掻いています。
「弱ったな。目が治れば俺様を見て怖がると思ったんだが、この様子だと逆に喜ばせてしまったようだぞ。かといって、せっかく治した目を見えなくするのも不憫だし……」
悩ましげな顔をする悪魔に、少女が呼びかけます。
「悪魔さん。お礼にこれをあげる」
少女は毛糸の帽子を悪魔に差し出しました。
「なんだこれ?」
「お母さんが編んでくれたお帽子よ。悪魔さんはお洋服を着ていないからとっても寒そうだし、これがあれば温かくなれるわ」
少女はベッドの上に背伸びで立ち、悪魔の頭にその帽子をのせました。
「へん。こんなちっぽけな帽子で温かくなれるもんか。俺様達が暮らしていたニヴルヘイムの寒さはこの村とは比べものにならないぞ」
悪態をつく悪魔に、少女は残念そうな顔になり、少しだけ涙声になります。
「悪魔さん? 嬉しくないの?」
「嬉しくなんかないやい!」
悪魔はあっかんべーをすると、どかどかと足音をたてて暖炉へ歩き、灰になった薪木を踏みしめ、煙突を昇っていきました。
屋根に昇ると、すっかりとお日様が昇っていました。村人の姿もちらほらと見えます。
「まったく。あの子供のせいで調子が狂ったじゃないか。まぁいい。今日のところは失敗したが、明日はこんなヘマはしないぞ」
悪魔は真っ黒な翼を広げて飛び立ち、村を去りました。
No2
翌日のお昼です。
村の北側にある教会の屋根に、真っ黒な翼を生やし、お尻に尻尾を生やし、頭に毛皮の帽子を被った悪魔が舞い降りました。
悪魔は雪の積もった屋根に降り立つと、鋭い目で辺りを見下ろします。
「しめしめ。今は教会の祈りの時間だから誰もいないぞ。誰も見ていないぞ。俺様はこの村を魔王様の住処にする為にやって来た悪魔だ。昨日はしくじってしまったが、今日は教会で祈る村人全員を怖がらせて追い出してやろう」
悪魔は窓からするりと教会に入り込み、天井の梁に乗って教会の礼拝室を見下ろしました。
礼拝室の長い通路は祭壇へ繋がり、その通路の両脇には長椅子が列を作っています。
そこで悪魔は首を傾げました。
どこを見ても、村人の姿が無く、礼拝室には人っ子一人いないのです。
「祈りの時間なのに教会に来ないなんて。なんて不謹慎な村人だ」
悪魔は腕を組んでむっつりと呟きました。
そこへどこからか話し声が聞こえます。
誰もいないと思っていた礼拝室ですが、祭壇の演説台に眼鏡をかけた中年の神父と、金髪の若いシスターが立っていたのです。
シスターは神父の耳元で何かを囁いています。
神父に何かを報告している様子でした。
「俺様の地獄耳なら離れていても声は聞こえるのだ。はてさていったい何を話しているんだ」
悪魔は神父とシスターの会話に耳を傾けました。
「いったいぜんたい。どうして誰も教会に来ないのか?」
首を傾げる神父に、シスターは慌てた声で答えます。
「村の石囲いの井戸が壊れてしまい、村人達はその修理に時間を割いています」
「井戸の修理だと?」
「はい神父様。お日様が沈めば暗くて作業が出来ませんし、お日様の出ている間で無ければ寒くて修理をする事ができないから、仕方無く祈りの時間を割いてまで修理しているようです」
事情を知った悪魔は大きく頷きました。
「なるほど。なるほど。井戸の修理をしているから誰も教会にやって来ないのか……」
悪魔は顎をさすりながらぶつぶつと呟くと「よしわかった」と手を打ちました。
「俺様がその井戸を元通りに直してやるとしよう。そうすれば村人は教会にやって来る。集まったところで、俺様が怖がらせて一網打尽にしてやろう」
悪魔は窓から飛び立ち、村の様子を見に行きました。
井戸は村の中央にありました。
空から見下ろすと、井戸の回りはたくさんの人だかりになっています。
悪魔は井戸をじっと見下ろします。
石囲みでできた井戸の回りには、金属できた滑車と、丈夫なオークの木でできた立派な柱と屋根があったのですが、それがボロボロに壊れていました。
どうやら屋根と滑車を支えていた柱の一本が折れてしまったようです。
悪魔は地上に降り立ちましたが、村人達は全員井戸の事に集中して悪魔に気付きません。
「俺様の姿に気付けないとは。それほど井戸水は人間にとって大事なのか。それならば祈りに来られないのも仕方ないか……」
人だかりに紛れて修理を見物しますが、作業ははかどっていない様子です。
見かねた悪魔は人混みをかき分け大人達に代わって工具を掴み取りました。
突然の悪魔の姿に村人達は驚きます。
「修理一つにかなり手こずっているようだな。魔法を使うまでもない。日曜大工が得意なこの俺様が手伝ってやろう」
悪魔はてきぱきと作業に取りかかります。
新しい柱にする為の木を削り、表面にカンナをかけ、壊れた部分にトンカチで打ち付けます。
その素早くきめ細かい悪魔の姿に、村人達も魅了されています。
あっという間に新しい滑車小屋が完成しました。
「どんなもんだい。さぁ。井戸を直してやったぞ。みんな教会に集まるんだ。祈りの時間はとっくに過ぎてしまったぞ」
悪魔が呼びかけましたが、その声は村人達の歓声に打ち消されてしまいました。
いくら悪魔が教会に集まれと叫んでも、村人達のお礼を言う声や、喜びの声にかき消されてしまうのです。
悪魔は困ったように頭をぼりぼりと掻いています。
「弱ったな。井戸が直ればみんな教会に集まると思ったんだが、この様子だとこいつらみんな大事なお祈りをすっぽかしてしまいそうだぞ。かといって、せっかく直した井戸を壊すのも残念だし……」
悩ましげな顔をする悪魔に、一人の子供が歩み寄りました。
見るとその子供は、先日目を治してあげた少女でした。
「なんだ寝坊助。俺様に何のようだ?」
「親切な悪魔さん。お礼にこれをあげる」
少女は毛糸の手袋を悪魔に差し出しました。
「なんだこれ?」
「叔母さんが編んでくれた手袋よ。悪魔さんはお洋服を着ていないからとっても寒そうだし、これがあれば温かくなれるわ」
女は悪魔の手にそれをそっと差し込みました。
「へん。こんなちっぽけな手袋で温かくなれるもんか。俺様達が暮らしていたニヴルヘイムの寒さはこの村とは比べものにならないぞ」
悪態をつく悪魔に、少女は残念そうな顔になり少しだけ涙声になります。
「悪魔さん? 嬉しくないの?」
「嬉しくなんかないやい!」
悪魔は少女にあっかんべーをすると、その場から飛び去ってしまいました。
「まったく。今日も失敗したが、明日こそはこんなヘマはしないぞ」
No3
翌日の夜の事です。
村の中央にある井戸の滑車小屋の屋根に、真っ黒な翼を生やし、頭には毛皮の帽子、手には毛糸の手袋をはめた悪魔が舞い降りました。
「しめしめ。今は夜だから外に人の姿は無いぞ。俺様はこの村を魔王様の住処にする為にやって来た悪魔だ。昨日も一昨日もしくじったが、今日は闇に隠れて村人全員を怖がらせて追い出してやろう」
悪魔が鋭い目で辺りを見回すと、闇の中に鋭い眼差しが二つ浮き上がります。
しかし真っ黒な悪魔の姿は闇に紛れて見えません。
悪魔は村で一番偉い村長が住む家に向かいました。村で一番偉い人が逃げ出せば、一番手っ取り早く村人達を追い出せると思ったからです。
悪魔は村長の家を見つけると、壁にはりつき、窓から中をのぞきました。
そこで悪魔は首をかしげます。
家の中は真っ暗で灯り一つありません。
人の気配があるのですが動く気配は無く、室内は外と変わらず凍て付いた空気が張りつめています。
「どういう事だ? 人がいるのに動かないし、灯りも暖炉も焚かれていないとは……」
不審に思いながらも悪魔は村長の家に忍び込みます。
暖炉のあるリビングと、お皿とマグカップのかけられたキッチンを抜けて、ぎしぎしと木板の響く廊下を歩いていると、奥の扉からうめき声が聞こえてきます。
声を辿って扉を開ると、そこには毛布にくるまった白髪のおじいさんが座っていました。
「おい。お前が村長だな?」
と悪魔が呼びかけると、おじいさんは震えた声で返事をします。
「ええ。私が村長です。あなたは誰ですか?」
部屋には灯りが無い為、村長には悪魔の姿が見えません。
「俺様はこの村を魔王様の住処にする為にやって来た悪魔だ。村で一番偉いお前を追い出せば、他の村人も逃げ出すと思って来たのだ」
悪魔の言葉に、村長は否定の言葉を返します。
「私は偉くなんてありません。こんな事になってしまった村を救う事もできないただの老いぼれです」
悲痛な村長の声に、悪魔は問いかけます。
「こんな事にって、どういう事だ?」
「凍える夜を迎える事になったという事です」
「凍える夜?」
「寒い夜を過ごすには暖炉の火が不可欠です。その為には薪が必要です。ところが今日一日。どれ程森の中を探しても薪が見つからず、村に蓄えていた薪も湿気ってしまって使えないのです。このままでは火がつけられず、もしかすると寒さのあまり、誰かが死んでしまうかもしれません」
事情を知った悪魔は大きく頷きました。
「なるほど。なるほど。乾いた薪が無くなって、みんな寒い夜を過ごしているという訳だな……」
悪魔は顎をさすりながらぶつぶつと呟くと「よしわかった」と手を打ちました。
「俺様が火を用意してやろう。全ての家が温かくすればお前も満足に動けるようになるし、そうすれば俺様を怖がって逃げられるだろう」
悪魔の言葉に村長はとても驚きます。
「そんな事ができるんですか?」
「できるとも。できるとも」
そう言うと悪魔は真っ黒な翼を広げ、両手を左右に広げました。
するとその両手の平から火の玉が現れたのです。
「この炎で湿気った薪を乾かして、村中に配ればいい。そのために薪の在処を教えてもらおう」
村長から薪の在処を教えてもらった悪魔は早々と飛び立ち薪の保管されている小屋に向かいました。
小屋の中はじめじめした陰気な空気が満ち、積み上げられた薪も湿気っていて火がつきそうにありません。
悪魔は薪の山の前に立つと両手の平に火の玉を宿らせました。
「この小屋の空気を温かくすれば薪も乾いて火がつけられるだろう」
悪魔の手にした火の玉は一見するととても小さなものでしたが、勢いはごうごうと激しく、木でできた小屋からはバチバチとかバキバキといった軋む音が響き始めました。
「そろそろ薪に染みついた水気も取れただろう。さぁて、次はこの薪を配達してやらないとな……」
悪魔は薪を両手一杯に抱えると、村中の家という家の中を訪ね、暖炉の中に薪を放り込み、そのついでに火をつけました。
ようやく全ての家に薪を届けると、悪魔は最後に村長の家の暖炉に火をつけました。
「どうだ村長。これでお前も温かくなれて動けるようになるだろう。そうすれば俺様が怖くて逃げ出すだろう」
ところが村長は涙を流して頭を下げるばかりです。
「あなたは村を救ってくれた恩人です。ぜひお礼をさせて下さい」
村長は悪魔の手を取ってリビングへと招くと、悪魔をソファーの上に座らせました。それから家を出て行き村人達を呼び集め始めました。
「弱ったな。温かくなって動けるようになれば俺様を怖がって逃げ出すと思ったんだが、この様子だとそうはいかないな。かといって、せっかく乾かした薪や、火を灯した暖炉を消すのは虚しいし……」
夜だというのに大勢の人が村長の家に集まり、悪魔をもてなしてくれたのです。
「聞くところによると、あなたは井戸の修理や、子供の病も治してくれたというではありませんか」
悪魔の為に温かいスープや、油のしたたる大きなお肉や、お砂糖のかかったパンケーキが振る舞われます。
「まったく。この村の住人はお礼ばかり言いやがって、俺様をちっとも怖がらないな。まぁ。せっかく作ってくれたんだから、食べないと罰が当たるよな」
料理の最後に、悪魔は村長とワインを酌み交わしすっかり満腹です。
「ふう。たらふく食べたな。ごちそうさん。とっても美味しかったよ」
ゲップをする悪魔に、一人の子供が歩み寄りました。
見ると、一昨日治してあげた少女が悪魔の前に立っていました。
「なんだ寝坊助。俺様に何のようだ?」
「親切な悪魔さん。お礼にこれをあげる」
少女は毛糸のセーターを悪魔に差し出しました。
「なんだこれ? 毛皮のお饅頭か?」
「私が編んだセーターよ。悪魔さんはお洋服を着ていないからとっても寒そうだし、これがあれば温かくなれるわ」
少女は悪魔の頭からすっぽりとそれを被せました。
「へん。こんなへたくそなセーターで温かくなれるもんか。俺様達が暮らしていたニヴルヘイムの寒さはこの村とは比べものにならないぞ」
悪態をつく悪魔に少女は残念そうな顔になり、少しだけ涙声になります。
「悪魔さん? 嬉しくないの?」
「嬉しくなんかないやい!」
悪魔は少女にあっかんべーをすると、村人達をわきわけ村長の家から飛び去ってしまいました。
「まったく。今日も失敗したが、明日こそはこんなヘマはしないぞ」
No4
翌日。
悪魔は村から離れた岩山に、ぽっかりと口を開いた小さな洞窟の中にいました。
洞窟の中では雪は降らないもののぴゅうぴゅうと冷たい風が入り込みます。
天井の岩の割れ目からは雨漏りがし、そこかしこにはられた蜘蛛の巣に真珠のような水滴をくっつけています。
この洞窟に住み着いてからというもの、悪魔は朝日が昇るよりも早くから目を覚まし、どうやって村人達を追い出そうかばかり考えていました。
ところが今日はまったく別の事を考えていました。
「なんだか俺様、村人達を怖がらせるつもりが、素敵なプレゼントを貰ったり、お礼を言われたり、ご馳走してもらってばかりじゃないか。あいつらちっとも俺様を怖がってくれないぞ。はてさて、どうすれば村人達を怖がらせる事ができるんだろう」
悪魔は頭をぼりぼりと掻きながら一人で考え込んでいると、かつぅん、こつぅんと、洞窟の入口から妙に響く足音が聞こえてきました。
それから風の音に紛れてきぃきぃという動物の鳴き声のような音が聞こえてきます。
「この音はきっと、魔王様が訪ねて来たに違いない」
悪魔が出迎えると、そこには真っ黒なマントをまとい、雌山羊のしゃれこうべを被った魔王様が立っていました。
きぃきぃと泣いているのは魔王様の回りを飛び交う蝙蝠達の鳴き声です。
蝙蝠達は悪魔を見つけると、口々に文句を言いました。
「おい悪魔。いったい何時になったら村人達を追い出すんだ?」
「いったいいつまで魔王様を待たせるつもりだ?」
「小悪魔族 (こあくまぞく) 一同、首を長くして待っているぞ」
悪魔よりも遙かに小さな蝙蝠達が、群れになって文句を言う姿はしゃくですが、悪魔の主である魔王様がいる手前では言い返す事はできません。
魔王様は片手を上げて蝙蝠達を黙らせると、低い声で悪魔に喋りました。
「村人を追い出すのに随分と時間がかかっているな。お前が一人でやると言い出したから任せたが、力不足だったのかな。蝙蝠達が言う通り、他の者もたいそう首を長くしているぞ」
魔王様の言葉に、悪魔はへこへこと頭を下げて謝ります。
「我が僕の悪魔よ。我々がニヴルヘイムから遙々人間の世界にやって来た理由を忘れた訳じゃないだろう」
魔王様の言葉に、悪魔も人間の世界にやって来た理由を思い出します。
「古里を奪われ、寒い世界に閉じこめられた我ら自身の為に、一刻も早く皆で一緒に暮らせる暖かい居場所を手に入れようではないか」
魔王様の言葉に蝙蝠達が歓喜の鳴き声をあげます。
「万歳魔王様」
「万歳」
「万歳」
そこで悪魔が顔を上げ、魔王様を見上げました。
「魔王様。お聞きしたい事があるのですが」
「どうした悪魔よ?」
「村から追い出された人間達はどうなってしまうのでしょう?」
悪魔の言葉に魔王様は黙ります。
「なんだお前?」
「ひょっとしてお前?」
「人間の事なんか気にしているのか?」
蝙蝠達がきぃきぃと鳴きます。
魔王様は蝙蝠達を黙らせると、悪魔に歩み寄りました。
「悪魔よ。他の種族を考えていれば、我らが生きる事はできないではないか」
悪魔を諭すように魔王様は言いました。
「それに悪魔よ。掟を忘れた訳ではあるまいな。我ら『小悪魔族』は約束を破る事があってはならない。もしも約束を破る者がいれば、その者は吾輩の手によって死の制裁を受けるのだ」
魔王様の両目が赤々と炎のように光ります。
脅すような眼光と魔王様の放つ目には見えないおそろしい雰囲気に、悪魔は背筋がぞくりとし、蝙蝠達も黙ります。
「お前は自分から村人を追い出すと約束したのだ。それができないのであれば、命は無いと思え」
魔王様の言葉に悪魔も怯えます。
しかし怯える悪魔の顔はすぐに戸惑うような顔になりました。
脅されてもなお、村人を追い出す事に躊躇っているようです。
そんな悪魔の姿を見つめ、魔王様はこんな事を言いました。
「悪魔よ。お前が仕事に精を出しやすいように見張りを残そう」
魔王様が言うと、一匹の蝙蝠が悪魔の角の上に止まりました。
「きぃきぃ。俺がお前を見張るからな。ヘマするような事があれば魔王様に報告するぞ。きぃきぃ」
蝙蝠は真っ赤な瞳で悪魔を睨み、小さな口に生えた牙をみせつけます。
「悪魔よ任せたぞ。我が輩は別の大陸に降り立った僕達の様子を見に行かなければならない。数日後の吉報を待っている」
魔王様は足音を響かせて洞窟を去ってしまいました。
悪魔は洞窟の中でごろんと横になって考え込みました。
村人を追い出さないと自分は殺されてしまいます。
しかしあの村人達を追い出す気持ちにはなれません。
そうして考え続ける間に、いつの間にかお日様は天辺を通りすぎていました。
「きぃきぃ。朝が終わってしまうぞ。村に行かなくていいのか? きぃきぃ」
蝙蝠の言葉に悪魔は返事をします。
「朝に行っても誰も彼も寝ているから、脅かす相手がいないのさ」
悪魔の言葉に蝙蝠の納得したように頷きました。
やがて太陽は東に沈み岩山は夕焼けに染まりました。
「きぃきぃ。昼が終わってしまうぞ。村に行かなくていいのか? きぃきぃ」
蝙蝠の言葉に悪魔は返事をします。
「昼は教会でお祈りに集中しているから、村人達は俺に気付いてくれないのさ」
悪魔の言葉に蝙蝠の納得したように頷きました。
やがて夕闇が光りを覆い隠すと、細い三日月がでていました。
「きぃきぃ。夕刻が終わるぞ。そろそろ村に行こうじゃないか。きぃきぃ」
蝙蝠の言葉に悪魔は返事をします。
「今は真っ暗だから、俺様が行っても姿が見えなくて誰も気付いてくれないのさ」
悪魔の言葉に蝙蝠はとうとう怒り出しました。
「きぃきぃ! お前さんやる気はあるのか!? 早くしなければヴィナヘイムにいる神々に見つかってしまうんだぞ!」
金切り声をあげる蝙蝠を前に悪魔は渋々村へと向かう準備をします。
「きぃきぃ。お前、何をしている? さっさと村に行けよ」
「慌てるな。冷たい雪から身を守る準備さ」
悪魔は岩の上に畳んでおいた、毛皮の帽子と手袋とセーターを着ました。
「へぇ。随分と変わった着物だな」
「親切な女の子が俺に編んでくれたのさ」
「ふぅん。俺にも編んでくれないかな」
着替えをしながら悪魔はどうすれば村人達を追い出せるのかと必死になって考えますが、いっこうにいい考えは浮かびません。
いえ。
それどころか追い出そうとする気分になれないのです。
悪魔の頭の中には井戸の修理に嬉しそうな顔を浮かべる村人の事や、村長達が振る舞ってくれたご馳走の事ばかりが浮かびます。
そしてあの少女の事も。
「あんなに俺様の事を喜んでくれたのに、追い出すなんて忍びないな……」
「きぃきぃ。何をぶつくさ言っている? 俺は洞窟にいるから、村人を追い出したら報告しに来いよ。きぃきぃ」
悪魔が洞窟から出ると辺りはどっぷりと暗くなり、お星様がちらちらと光っていまいした。
「西から大きな雲が近づいてきた。それから北風が強くなっている。そろそろ吹雪がきそうだぞ。気を付けて飛ぶことだな。きぃきぃ」
悪魔が翼を広げると同時に、ひとすじの光が星の瞬く冬の夜空を駆け抜けました。
「きぃきぃ。縁起がいいな。きっと俺様達の願いを叶える為の流れ星だ」
No5
村へ飛びながらも悪魔は考え込んでいました。
悪魔は今までプレゼントを貰った事やご馳走をもらった事はありません。
人間は暖炉が無ければ寒くて震えてしまうようなものですから、村から出れば凍え死んでしまうに違いありません。
しかし魔王様が言ったとおり、人間の事を考えていれば自分が命を落としてしまいます。
二つの考えがごちゃごちゃに入り混じり、悪魔は何をすればいいかわからなくなっていました。
悪魔が村にたどり着くと村には異様な光景が広がっていました。
村人全員が家から出て、松明を片手に誰かの名前を呼んで村中をしらみつぶしにしていたのです。
松明に照らされた村人達の形相を見るとただ事ではないようです。
「こんな真夜中に何をしているんだ。かくれんぼでもしているのかな?」
悪魔は地上へ降りて村人から事情を訊きました。
「いったいぜんたい。これは何の騒ぎだ?」
「おお。あなたは先日の親切な悪魔さんではありませんか」
村人達は悪魔を取り囲み、全員が全員、頼るような眼差しをしていました。
「何があったか聞こうじゃないか」
「実は村の娘が朝に家を出て行ったきり戻らないのです。それで村中の大人達が総出で娘を探しているのですが、どこにも手がかりがないのです」
「村の娘だと? まさか最近目が見えるようになった娘じゃないだろうな?」
悪魔が聞くと村人達は頷きました。
「きっと目が見えるようになって嬉しさのあまり村を飛び出してしまったのではないかと思います」
「なるほど。なるほど。そういう事か……。あの寝坊助め……」
悪魔は顎をさすりながらぶつぶつと呟くと「よしわかった」と手を打ちました。
「俺様が手伝ってやる。お前達はこれまで通り村の中を探せ」
悪魔の頼もしい言葉に村中から歓声があがります。
「ありがとうございます! 娘が見つかったあかつきにはどのようなお礼もしますよ!」
ところが誰かが悪魔を咎めるような事を言いました。
声の方を見るとそこには十字架を握った教会の神父が立っていました。
「お待ち下さい皆さん! 騙されてはいけません! この悪魔は人々を惑わす悪者に違いない! ひょっとすると少女がいなくなったのも悪魔の仕業かもしれません!」
神父の声で歓声は止み、辺りはしんと静まりました。
村人の中には悪魔から一と足退がる者もいます。
悪魔は何も言い返せません。
神父の言葉は正しくもありませんが、間違ってもいません。
悪魔はこの村から人々を追い出す為にやって来たのです。本当の事を言われては何も言えないのは当然です。
神父の言葉を否定する事無く、悪魔は複雑な思いを抱えたまま翼を広げて舞い上がりました。
宙に浮かぶ悪魔を村人達は半ば不安げな顔で、半ば祈るような顔で見上げていました。
悪魔は少女を探し始めますが手がかりは見つかりません。
さすがの悪魔も、闇夜の中で、どこにいるかもわからない少女一人を見つけるのには骨が折れます。
村の四辺を、それこそ野ウサギ一匹見逃さないようにくまなく探しましたが、少女の姿は見つかりません。
姿が見えないどころか足跡一つ見つからないのです。
困り果てた悪魔は、宙に浮かんだまま頭を捻ります。
悪魔一人で少女を見つけるのには骨が折れます。
もっと大勢で探さなければ見つかりっこありません。
かといって村人達を外に出せば凍えてしまうでしょうし、まして神父の言葉を聞いてしまった以上、協力してくれる者も少ないでしょう。
「早くしないとあの娘は寒くて死んでしまうぞ。だがいったいどうすればいいのだ」
あの少女は村の外で震えているに違いありません。
急がなければ凍え死んでしまうでしょう。
ちらちらと降り出した雪が悪魔を焦らせます。
ふと。
悪魔はある考えがひらめきました。
「むむむ……、上手くいくかどうかはわからないが……。今はそれに頼るしかない」
後先の事を考えられない程に大慌てだったので、悪魔はその考えにすがりました。
悪魔は少女探しを中断し、洞窟へ舞い戻りました。
中では蝙蝠がぐぅぐぅと寝息をたてています。
悪魔は指先でちょんちょんと蝙蝠の背中を叩いて起こします。
「むにゃむにゃ。なんだよ。せっかく猪のシチューを食べられる夢だったのに……」
「村人達は出て行くと言った。だけど条件があるらしい」
「ほほう。条件があるのか。訊いてやらん事もないな」
「村の少女がどこかで迷子になっているらしいんだ。無事に村まで連れ戻してくれれば、村を出て行ってくれるらしい」
それは悪魔の嘘でした。
人間達はお礼をくれると言いましたが、村を出て行くとは一言も言っていません。
その事を悪魔もしっかりと覚えています。
「それは本当だろうな?」
蝙蝠が疑うような目つきで悪魔を見ます。
少女を見つければ悪魔の嘘はすぐにばれてしまうでしょう。
それが蝙蝠に知られれば魔王様に見つかってしまうでしょうし、そうなれば村人を追い出せなかった罪に加え嘘をついた罪まで被せられてしまうでしょう。
そうとわかっていながら、なぜそんな嘘をついてしまったのか悪魔にもわかりませんでした。
「悪魔よ。本当だろうなと訊いているんだ?」
蝙蝠の問いかけに、悪魔はゆっくりと頷きました。
「ふむふむ。なるほど。わかったぞ。人間界にいる蝙蝠という蝙蝠を動員して、その娘を見つけてやろう」
蝙蝠はぱたぱたと飛び上がり洞窟の入口へと向かいます。
蝙蝠は入口の天井にぶら下がると金切り声のような鳴き声を上げました。
吹雪の音に負けないくらいの、耳の奥まで届くような高く鋭い声です。
その声が洞窟から見える地平線の彼方まで響き渡ったのです。
するとどうでしょう。
南の空が怪しく蠢いたのです。
空が動いたわけではありません。
よっく見ると真っ黒い波が押し寄せてくるではありませんか。
その黒い波は雪雲でもカラスでもありません。
数百、いえ数千以上の蝙蝠達が、闇の中からこちらに向かって来ているのです。
黒い波の上にはギラギラと真っ赤な蝙蝠の目の光りが輝いていました。
「きぃきぃ。あいつらに手伝ってもらえればすぐに見つかるだろう。おや? どうやらもう少女を見つけたらしいぞ」
「どこにいる?」
「森の中にある頭が三つに分かれた白樺の木の前だ」
「よしわかった!」
「急げよ悪魔! もうじき吹雪がくるぞ!」
悪魔は森を目指して飛び立ちました。
洞窟を飛び出してからしばらくすると蝙蝠の言った通り凍て付くような吹雪がおこりました。
悪魔は森中を飛び回り少女を探します。
尻尾の先が氷つき、目を開けられない程の凍て付いた風が、セーターを着た身体すらも震わせます。
寒さのせいで手足の感覚が失せ、翼も思うように動かせず、悪魔は途中で何度も木の枝にぶつかりかけました。
「ますいな、満足に飛ぶことも出来なくなってきた。しかも吹雪の音がすごくて地獄耳も使えないぞ……」
悪魔は飛びながら森の中を進んでいましたが、やがて翼の力を失い、ふらふらと歩きながら進み始めました。
吹雪はますます強まり、声は吹雪の音にかき消され、目を懲らしても横殴りの雪が遮ります。
どうすればいいのかと、一歩足を上げた時。
ふと。
悪魔は自分の足下に一本の花が落ちている事に気付きました。
それは降り積もった雪から顔を覗かせているわけではなく、根元から抜かれた状態で雪の上に落ちていたのです。
はて? と思ってその花をしゃがんで取ると、雪の上に小さな足跡が残っていた事に気付きました。
吹雪によって埋もれかけていますが、間違いなく足跡です。
それを目で追った先に一本の木が立っていました。
頭が三つに分かれた白樺の木です。
とうとう悪魔は蝙蝠達が教えてくれた木を見つけたのです。
走り寄ってその根元を見ると少女がちょこんと、背中を猫のように丸めて座っていました。
「おい寝坊助!」
悪魔が怒鳴ると、少女はびくりと顔を上げ、まん丸く見開いた目を悪魔に向けました。
悪魔は自分の被っていた帽子を少女に被せ、小さな手に手袋をはめ、セーターを脱いで少女に着せました。
「寒かったろう。お前がくれたものだけど、お前に返すよ」
悪魔は少女の前に屈んで問いました。
「どうしてこんな森の奥深くまでやって来た? 村の連中も心配しているぞ」
少女は顔を下げもじもじとした後、叱られるのを怖がるように答えました。
「お花を探すのに夢中で気が付いたら森の奥まで来ていたの」
「どうして花なんて探していたんだ?」
「悪魔さん。私があげた帽子も手袋もセーターも嬉しくないって言ったから、森に生えている綺麗なお花なら喜んでくれると思って探していたの」
それを聞いて悪魔は言葉を失いました。
少女は自分の為に、寒い森の中へやって来たのです。
悪魔はなぜか、とても不思議な気持ちになりました。
自分の心を囲んでいた柵のようなものが無くなったような、とても素直な気持ちになれたのです。
「ごめんよ。本当はとっても嬉しかったんだ」
「本当に?」
「本当さ。お礼を言うのが恥ずかしかっただけなんだ」
No6
悪魔は少女の身体を抱きしめます。
「ごめんな。俺様が恥ずかしがらずにちゃんとお礼を言えば、こんな事にならなかったのに」
「悪魔さん寒くないの?」
「なんのなんの。へっちゃらさ」
悪魔は少女を抱えて村に飛ぼうと考えましたが、吹雪の中では満足には飛べません。
火の玉で暖を取ろうとも考えましたが、ここまで飛んできたため疲れていたので魔法も使えませんでした。
悪魔はここで少女を守り、吹雪が止むのを待つ事を決めました。
吹雪は一向にやむ気配がありません。
それどころかますます強くなっていきます。
「ねぇ悪魔さん。どうして私達の村を助けてくれるの?」
「助けに来た訳じゃない。俺様は住む場所を手に入れる為に、ここの村人達を追い出す為にやって来たんだ」
「悪魔さん、お家がないの?」
「話せば長い事になる。俺様達は悪い神様によってニヴルヘイムという霧と氷に支配された寒い寒い世界に追放された小悪魔族という一族の末裔なんだ」
「う~ん。なんだか難しそうだね」
「ふん。子供には難しい話だろうから、止めておこうか?」
「こ、子供じゃないもん!」
からかうような悪魔の言い方に、少女は頬を風船のように膨らませて怒りました。
「わかったわかった。話してやろう……。お前達は毛糸の服を編んだり、羊を放牧するのが仕事だろう。小悪魔族は不思議な道具を作るのが仕事だった。雷をおこす槌に、黄金を無限に生み出す指輪に……。俺様も昔は道具を作っていたから、井戸を直す事なんて朝飯前なのさ」
悪魔の話に少女は寒さも忘れて興味津々に聴き入っています。
「実は、俺様が火の玉を出す魔法や、癒しの魔法を覚えたのもある不思議な道具、『魔法の本』の恩恵があってこそなのさ」
「へぇ。その本を読んだら、私も炎を出せるようになるの?」
「それは無理だな。ルーン語という大昔の言葉で書かれているから、お前にはわからないだろう」
「そんな事ないよ! 目も見えるようになったからわかるもん!」
少女はむっつりと言い返します。
元気に怒る少女を見つめ、これなら凍える事はないだろうと、悪魔は内心安心していました。
「話を続けるぞ。俺達は不思議な道具を作っていたが、そこへ悪い神様が現れて道具を奪い取ってしまった。魔王様を筆頭に俺様達が反発すると、それが神々の怒りを買い、俺様達はもといた世界から『虹色の橋』を無理矢理に歩かされ、霧と氷の世界へと追放された」
「そこが、寒い寒い世界の、ニヴルヘイムなの?」
「よくその名前を覚えていたな。俺様達の世界の名前は、人間達には聞き慣れないだろうから覚えるのは難しいだろうに」
悪魔は少女の背中に回した手を少しだけ引っ込めると、帽子ののった少女の頭にのせて撫でました。
悪魔の誉めに、少女は嬉しそうに笑います。
「でも、神様なのに悪魔さん達が作ったものを奪ったの?」
「神様にだって悪者はいる。お前達の世界でも、下っ端の事を考えない海賊の船長や、王様なのに自分の好きかってに税金を無駄遣いする者もいるだろう。名前が格好いいからといって、中身までもが格好いいとは限らないのだ。神様だって同じさ。こういうのを理不尽というのかもしれないな……」
悪魔の言葉に少女は考え込むような表情を浮かべました。
「魔王様は悪い神に見つからないように、こっそりと虹色の橋を渡り抜け、人間の世界に移り住む事を提案した。そこでこの村に遣わされたのが俺様なのだ」
悪魔が話を終えると、少女は黙りこくってしまいました。
「悪魔さん。私達を追い出してしまうの?」
「そんな事はしたくないよ。自分達の為に別の誰かを追い出すなんて、そんな事をすれば、悪い神と何ら変わらない」
少女は半ば安心したように、半ば心配するような顔で悪魔を見ました。
「でもここに住まないと、悪魔さんは寒い世界で暮らす事になるんでしょう?」
問いつめる少女に、悪魔は何も答える事ができませんでした。
何も答えられない悪魔を前に少女も黙り、吹雪の音を聞き続けました。
もうじきに明け方でしたが、吹雪はますます強くなっていました。
「悪魔さん震えているの?」
少女が問うと悪魔は「なんのなんの、こんなのちっとも寒くない」と言い、少女の身体が冷えないように真っ黒な翼で少女を包み込みました。
吹雪に混ざって雪や氷が飛び交い、悪魔の身体を凍えさせます。
「悪魔さん大丈夫?」
少女が問うと悪魔は「なんのなんの、翼が凍りついただけさ」と言い、少女の身体が冷えないように、はーはーと息を吹きかけます。
吹雪で積もった雪は、悪魔の足腰まで高くなり尻尾も毛先からじわじわと凍っていきます。
「ねぇ悪魔さん……」
少女が問うと悪魔は「なんのなんの、お前が暖かければそれでいい」と言い、少女を強く抱きしめました。
それからしばらくして。
吹雪の音が止んだことに気付き、少女が悪魔の身体からもずもずと顔を出すと東の空から朝日が昇るのが見えました。
太陽の光が悪魔を照らし、悪魔の両足を埋めていた雪もみるみると溶けていきます。
どうやら悪魔と少女は無事に生き延びる事ができたようです。
悪魔と少女が安堵したのも束の間、「きぃきぃ。ここにいますよ」と、頭上で蝙蝠の声がしました。
見上げると洞窟で見張りをしていた蝙蝠がぱたぱたと飛んでいました。
蝙蝠が何かを報せるようにきぃぃと鳴くと、四方から村人達の姿が現れ、悪魔と少女のもとへ集まって来ました。
少女は駆け寄ってきた母親らしき人の胸に飛び込み、父親らしき人と村長が悪魔に礼を言いました。
お礼を言うだけでなく、悪魔の様態を気遣う村人もいましたが、悪魔はへっちゃらだと平然と振る舞いました。
自分達のもとへ集まって来る村人達。
おそらくずっと少女の事を心配していたのでしょう。
皆が皆安堵したような表情を浮かべています。
「きぃきぃ。悪魔よ悪魔。少女は無事でも、お前は安心できないぞ。なんたって魔王様がお怒りだ。きぃきぃ」
「なんだと?」
辺りを見回しあるところへ顔を向けた時、悪魔は我が目を疑いました。
なんと村人達に紛れて魔王様の姿があったのです。
魔王様は村人とは違い、ゆっくりとした足取りで悠々と近づいてきます。
一歩二歩と魔王様が自分に近づく度に、悪魔の心臓が爆発するように脈打ちます。
「悪魔よ。お前は約束を破りそればかりか蝙蝠達をも騙した」
離れていても魔王様の声はよく聞こえました。
「その罪を償ってもらうぞ」
魔王様の着ているマントの、両手の袖から何かが飛び出すと見えた瞬間、悪魔が悲鳴を上げました。
村人達と少女が悪魔を見ると、悪魔の首と両手には、分厚い鉄の鎖ががっしりと巻き付いていたのです。
「幸い、他の大地へ遣わせた第三の僕が人間を追い出す事に成功した。我ら一族はそこで暮らす事になるだろう。お前もそこへ連れて行ってやるが、だが悪魔よ。そこで暮らしてもお前だけは罪の償いの為厳しい生活を送る事になる。覚悟しておけ」
鎖に縛られて苦しむ悪魔。
それを助けようと少女が駆け寄ろうとしますが、母親が少女の肩をつかみ止めました。
「どうして止めるの?」
涙声で訴える少女に母親は声を忍ばせて言いました。
「神父様のおっしゃった通り。悪魔さんは、本当は悪者なの。あの魔王様という方の僕で、私達を追い出す為に遣わされた悪者なのよ」
「違うもん! 村を何度も救ってくれたいい人だもん! 顔と名前がちょっと恐いだけのいい人だもん!」
少女は母親の手を振り払い、鎖に繋がれ引きずられる悪魔のもとへ、とてとてと駆け寄りました。
「寝坊助……。近づいちゃダメだ」
「きぃきぃ。魔王様。娘が近づいてきますよ。きぃきぃ」
「ふむ。名残惜しいのであろう。少しぐらい待ってやるか」
魔王様が足を止めるとその鎖に繋がれていた悪魔も止まりました。
少女は悪魔の腰に抱きつき、目尻を潤ませて見上げました。
「悪魔さん。どこかへ行っちゃうの?」
「ああ。俺様以外の僕が住処を見つけたらしいから、俺様達はそこで住む事になる……。お前達の村が無事なのは嬉しいが、その代わりに別の土地に住む人間が追い出されたという事だろう」
少女は仕方ないような気もしますし、間違っているような気もしました。
悪い神様に追放された魔王様達を咎めるわけにもいきませんし、かといって別の土地で追い出された人々に代わって自分達が追い出されては、生きてはいけないでしょう。
少女は悪魔の教えてくれた理不尽という言葉の意味が、少しだけわかったような気がしました。
「悪魔さん、これをあげる」
少女は涙をぬぐうと、あるものを悪魔に差し出しました。
「これは……」
それは少女が森の中で探し当てた青紫色のお花でした。
悪魔は鎖に繋がれた両手でそれを受け取りました。
「ありがとう。嬉しいよ」
「本当?」
「本当だとも。俺様もお前にお礼がしたいが、なにせ鎖に繋がれているから何もできないな……」
力無く笑う悪魔を前に、少女は再び目を潤ませました。
「きぃきぃ。いつまで待たせるつもりだ。別れの挨拶が済んだのならさっさと離れておくれ」
蝙蝠が悪魔と少女の間に割り込み、少女は仕方なく悪魔から離れました。
「さようなら。悪魔さん」
「さようなら――」
「きぃきぃ。魔王様。別れの挨拶が終わったようです」
「そうか。ならば行くぞ」
魔王様が悪魔を繋ぐ鎖を引っ張る直前。
悪魔は目にも止まらぬ早さで少女に顔を近づけ、少女の耳元で何かを囁きました。
それを聴き取る事ができたのは少女だけでした。
周りで見ていた大人達は、きっとそれが分かれの挨拶か何かだと思っていましたし、魔王様も蝙蝠も同様でした。
「きぃきぃ。集まれ蝙蝠達よ。我らが手に入れた新たな土地へ旅立つ準備を整えよ」
蝙蝠が鳴くと、どこからともなく蝙蝠達が集まり、魔王様と悪魔の周りをぱたぱたと飛び回り始めました。
渦をまくような動きで悪魔達の周りを飛び続け、蝙蝠の数は徐々に増えていきます。
小さな羽音はばっさっばっさと豪快な音に変わり、蝙蝠達の鳴き声も単なる鳴き声を通り超し、耳を塞がなければいけないような鋭く大きな音に変わります。
魔王様と悪魔の前に飛ぶ蝙蝠達は、やがて隙間の無い真っ黒な壁のようになったと思うと、いつの間にか魔王様と悪魔の姿は消え、二人が消えると同時に、蝙蝠達も散り散りに消え失せてしまいました。
後に残ったのは雪の上に残された二人分の足跡だけでした。
その後、村に悪魔も魔王様も現れる事はありませんでした。
悪魔がどうなったのか。
魔王様達が何処で暮らしているのかという事はわかりません。
ですが、村で困った事があると、例えば暖炉の薪が手に入らなかった時には、知らず知らずの間に家の中に薪が置かれていたり、井戸の滑車が壊れたりした時はいつの間にか直っていたりするという事です。
そういう時には必ず、村人達は親切な悪魔がやって来てくれたのだと思い、神父に隠れてこっそりと感謝しているとのことです。
おしまい
悪魔と少女
The devil and girl will return to anothor story