私たちは私たちの行方を私たちの翼に任せた

劇中に登場する「埼京線」の小説内扱いに「埼京線」を不当に貶める害意があるとは思えませんが、投稿者はJR様になんらの許諾もいただいてもおりませんので、二次使用される場合は自己判断でお願いいたします。

A
 春の日の電車はカタコトと、穏やかなリズムで揺れていた。
 うまく書けないままの卒論を、捨て鉢になって提出しての帰り道、なにもかも諦めたような虚脱感にくるまれて僕は、振動に身を任せて微睡んでいた。
 ゼミは民法親族法。うちのゼミは、法学部としては異例なことだが、卒論を提出しなければならないのだった。通らなければ卒業できない。僕の卒論タイトルは『婚姻を継続し難い重大な事由、その解釈における包括説への、哲学的異論』。〈哲学的〉という形容詞を見た途端に、教授は採点を投げ出すだろう。法学者というのはそういうものだ。役にたたない思考はバッサリと切り捨てる。実利的で実用的で実践的なのだ。でも構うもんか。法律になんて元々たいして興味はない。
 卒業できなきゃ退学しよう。そして作家を目指すのだ。もう一度繰り返す。僕は作家を目指すのだ。
 そんな決意を心中で、しつこく毅然と唱えてみても、誰も相手にはしてくれない。当然だ。二浪の末やっと入学できた私大を二年も留年している、そんな臑齧りの決意なんかに誰も興味は持たない。それに決意の内容も、これまたあまりに貧弱だ。か細く、青く、逃避的で、金の匂いがしない。女の子の匂いもしない。汗の匂いもまたしない。キナ臭い匂いさえしないのだ。無味無臭。いや、ひょっとしたらわずかな腐臭。
 拳を振り上げ力いっぱい叫んでみても、それが心の中でじゃ、しょうがない。僕にはテレパシーもないし、知恵も勇気も力もない。誰にも何も伝わらない。まるで童話に登場する村人だ。小心で欲もなく名前もない。架空の人物。誰かの想像。それが僕だとわかってる。

 そんなわけで、浅い眠りから強引に引きずり出されたそのときも、朝日を浴びてチュンとさえずる雀のように、無関心な瞳でただただ状況を眺めるのみだった。つまりは、目を開けた、そんなふりして瞑っていたのだ、いつものように。傍観者。ありうべきでない世界の装い、に対しても、ありうべき働き掛けなどは決してせずに、あるがままを受け入れる。それが小さな、ありふれた鳥の処世術。
 ありうべき世界の理想が、ないわけではない。ただ諦めている、世界に働きかけるということを、無関心という鎧で心を守って。
 だから僕は小説を書くのかもしれない。

「ったくゴミくせえな、埼京線は!」と大声。
 突然響いたそんな大声が、僕の意識を揺さぶった。
 眠りは浅瀬を追われて浮上した。
 見ると、髪を半端に染めた男が、斜め向かいで足を組んでいる。みごとに牛を連想させる巨大なピアスを鼻にぶらさげ、薄っぺらい革ジャンの襟を神経質そうに立てていた。
「ビンボーニンの電車だからね、乗ってるやつらが汚ねえのさ」と女の声が続く。
 男の隣に、目が縦についたような女が、奇妙なまでに体をずらせて、殆ど背中で座っていた。投げ出した足はこちらのシートに届かんばかりだ。シリコンを入れたかのような唇は、某ハリウッド女優を連想させた。髪を無造作にカットして、似合わないブーツに似合わないコートを合わせたその姿は、そう思って見れば確かに某映画の某女優に似ていた。劇中で反社会的人格障害者を演じていたその女優を、女は演じているようだった。
 弱者は強者を演じる。同一化することで、弱い自分を自分の視野から消し去るのだ。演じることこそ生き延びるための条件。必死に演じる。
「んだよクソガキ、文句あんのか?」
 男が放ったノコギリのようなギザギザ音は、男の並びのシートで震える哀れな小学生に向かって尖った。
「文句あんなら言ってみな」と女が被せる。
 車両から逃げ出すこともかなわないまま、小学生は力なくその場で俯いた。黄色い帽子のてっぺんが僕を見る。
 タンポポみたいだな、なんて僕は思う。努力してそう思う。雀の瞳で僕は眺める、黄色い瞳を。
 男は車両の隅々までを、順番に睨みつけてから、ペッペッと唾を吐いた。二回吐き捨てた。床で微かに泡立つそれは、硫酸か塩酸のように見えた。
 硫酸のような男と塩酸のような女。いいコンビだ。と雀は思う。吐き捨てられた唾そのものだ。と僕は思う。そうだそうだと雀が同意する。
 誰も何も言わない。言う必要はない。やつらこそゴミなのだ。可哀想なゴミ。やつらの腹に満ち満ちた陰惨な呪い。苦しかろう。哀れだな。一言二言吐き出したってしょうがない。
 関わらないことだ。関わってやる意味がない。
「埼玉県人ってのは、ったく生きてて恥ずかしくないのかねえ」と硫酸はまた毒づいた。
 ちゅちゅんがちゅんと僕の雀は、とぼけたようにさえずった。やり過ごすのだ。
「ゴミと一緒に運ばれるだなんて、あー、やだやだ!」と塩酸も勇ましい。
 ゴミ呼ばわりされて僕らは、僕は雀は小学生はサラリーマンは老婆は女子高生は、どうするか。
 決まってるだろう。沈黙するのだ。目を合わせずに何か他のことを考える。例えば、小学生の隣で俯くあの老婆の髪はまるでタンポポの綿毛みたいだな、とか。
 男は音楽を聞き始める。安っぽいヘッドフォンから盛大に漏れ出す、死にかかった蝉の歯軋りのような、殺人的に耳障りな音。
 女はガムを噛み始める。くちゃくちゃくちゃ。ブルーベリーの香りが、体臭そのもののような香水の匂いに混じり、車両を漂う。
 無関心の裾を少しだけ捲って雀がさえずる。やつらの家に鏡はないのだろうか?
 いや、気がついているのだよ、やつらは。と僕は雀に教えてやる。自分の醜さに、愚かさに、無力さに。だから世間を呪うのだ。
 相手にしないこと。それがやつらをやつらから救うこと。
 救う? と雀が、らしくもなく能動的に僕に訊ねた。 本当にそう思う? やつらのために黙っているの? それとも?
 ガタンと小さく揺れて、電車は駅に停車した。

 開いたドアから、影のような男が染み込んだ。染み込んだという表現は悪くない。少なくとも僕にはそう見えた。
 烏(カラス)のような男だ。黒いコートに黒いパンツ。おまけに黒いニット帽。たった今銀行を襲ってきたかのような装いのその男はひどく大きく見えた。関わりあいたくないタイプの典型であることは一目でわかった。なのに。コートの裾を軽く羽ばたかせて男は、こともあろうに僕の隣に腰掛けた。
 いじましくも僕は体をずらせて、男との間にわずかな距離をこしらえた。ほんのわずかな距離を。

 駅を出るとすぐにまた、硫酸くんと塩酸さんの、歓迎できない掛け合い漫才が始まった。
 毎度馬鹿馬鹿しい挑発ですが、この車両の乗客はたいそう貧相でございますなあ。そうですなあ。汚いものを目にするのはたいそう不快なことですなあ。ほんまですなあ。消えてなくなればいいのにねえ。
 受けがないのを淋しく思ったのだろう。床に吐き出す毒素でまた、硫酸は拍手を要求した。
 陰惨な空気をこらえきれなくなったのか、白髪の老婆が席を立つ。強酸性ペアの前を、覚束ない足取りで横切ろうとする。隣の車両へ移動するつもりなのだろう。
 よくないな。と僕は思った。足を掛けられたら、たやすく転倒する。途中の退席を、ペアが快く思うはずがない。
 覚悟して目を閉じた。
「おい、ババア」と案の定硫酸の声が響いた。耳を塞ぎたかったが、iPodはあいにく鞄の中だ。目は瞑れるが耳は瞑れない。僕はいつものようにプラグを抜いた、自分の感情から。そして続きを待った。
「長生きしろよ、ゴミなりに」
 詠まれた一句は僕の覚悟に及ばず、幸いにもそれだけだった。老婆は倒されなかった。
 よかった。と僕は目を開ける。無事に難所を通過して、老婆は隣の車両に向けて、のろのろとながらも着実に歩みを進めている。
 よかった。と重ねて僕は思った。ペアとて、そこまで極悪非道なわけではないのだ。地球は一家、人類は皆兄弟。硫酸も塩酸も自然界に存在することを許されたまっとうな化学式なのだ。安定した構造体。

 なのに。
 なのになのに。

 よせよ。と僕は思う。やめとけ。と雀も祈る。
 僕の隣に不穏な動き。その動きを僕は全身で感じとる。
 烏が羽ばたいた。

 歌声。
 なんと。
 車内に響いたのは予想を裏切り歌声だった。音源は僕の隣。

 ばばんば、ばんばんばん♪
 調子っぱずれに、でも高らかに、烏は鳴いた。

 いーい湯だな、は、ははん、いー湯だな、は、ははん♪

 おいおい。と僕は思う。雀も思う。女子高生もサラリーマンもきっとそう思ったに違いない。我々は気持ちを揃えて思った。おいおい。
 硫酸も塩酸も、その表情で語っていた。おいおい。が、そこはさすがに強酸性。たちまち体勢を立て直す。思い出したのだろう、自分たちがここを舞台に定めたことを。
 スポットライトを浴びて硫酸は吠える。「よお、にいちゃん!」と、予想を上書きするダミ声だ。「っせーぞ、ゴミ!」
 語彙が乏しいあたりもさすがにさすがだ。
 は、ははん♪
 と歌声が応える。
 こちらも語彙に乏しいようだ。
「ったく、ガキかってえの、周りの迷惑考えな!」と塩酸。「公共の場で、いきなり歌い出しやがって!」
 ゴミとガキ。それが本日のキーワードだ。などと僕が感心していると、歌声はやんだ。
 純粋な沈黙をフランス製の天使が横切る。
 揺れは収まった。でもまだ余震の危険は去っていない。顔をふせたまま僕は様子をうかがう。亀の構えだ。
「なんとか言えよ、にいちゃん!」と硫酸の声。
 沈黙。
「下手くそな歌!」と塩酸も苛立っている。「あんたね、ゴミだよ、汚いゴミ!」
「資格ねえよ」と硫酸は歌い手の返事を待たない。「おまえ生きてる資格ねえよ!」
「死ねよ!」
「目障りだよ!」
「何様のつもり?」
「ここから出てけ!」
「あたしはあんたみたいな存在、絶対認めない!」
 素晴らしい。語彙が飛躍的に増えた。と僕は観察している、甲羅の中で。
「他の皆さんにも迷惑なんだよ」と硫酸が変化球を投げる。「おめえさえ騒がずに温和しくしてりゃあ、ここいらは平和だったのによ」
「ぶちこわしてくれるじゃないの、ったく!」と塩酸も被せる。
 まったくだ。とその意見に僕は同意の手を挙げたかった。雀は尻尾を立てたかった。サラリーマンも女子高生も小学生も同じ気持ちに違いない。その証拠に誰も何も語らない。酸性ペアとその他の乗客の一大連合軍は、空気を読めない黒い鳥を責めているのだ、無言の表明で。
 一体どうなる?
 男はどうでる?
 続きを見せてくれ。
 そうしたら僕は家に帰って書くだろう。今日この場で起こった一部始終を書くだろう。そうしてネットに晒してやる。世界に見せつけてやる。ごらん、これがおまえのハラワタだ。
 好奇心は恐怖心に打ち克つ。お化け屋敷の存在が証明している。なので僕は目を開ける。顔を上げる。ペアの赤くて青い顔、それを盗み見る。でも隣だけは向かない、向けない。
「黙ってねーでなんとか言えよ!」
 声の迫力に小学生が泣き出した。

 そして僕は、白い靴を見た。
 烏が立ち上がったのだ。前に歩み出す。僕は下を向く。烏の靴を見る。白かった。烏は白いスニーカーを履いていた。その白さが僕には不思議だった。
 烏はペアの前に立つ。
 ペアの顔が歪む。烏の顔は、僕からは見えない。
 硫酸の口がパクパクと動いた。その怒りが気化する直前、烏は静かに一声鳴いた。「どうもすみませんでした」
 抑揚のない声だ。烏の顔はやはり見えない。僕にはだからわからない。烏の考えが全く読めない。思いを少しも感じない。ただ空白を感じる。
 対するにペアの気持ちは痛いほどによくわかる。ペアの歪んだ表情がペアの気持ちを雄弁に物語っている。僕はペアに同情する。感情移入。ペアは僕らの側にいる。あの二人は人間だ。
「あ、あのね!」と、数秒間の沈黙を破り、まずは塩酸が空白に挑んだ。「あんた、ナニよ?」
 僕も訊きたい。一体ナニ?
「ふざけんなよ!」と硫酸も遅れて参戦。あとは酸性ペアのオンステージだ。怒りが気化する。
「いい加減にしろよ!」「自分が何したかわかってんの?」「ここはおまえん家かってーの!」「ゴミ!」「消えろ!」「迷惑なんだよ!」「生きてちゃいけない存在なんだよ、おまえは!」
 なんてことだ。地獄絵図だ。烏が乗り込んでくる前のほうがずっとマシだった。小学生は泣き続けている。サラリーマンも雑誌を閉じて胃をおさえている。女子高生は一心不乱にメールを打っている。逃げ場のない密室に毒ガスが充満してゆく。
「あたしたちは感じたことを、正直に言っただけじゃん!」「自由に喋っちゃいけねーのか?」「ここは刑務所かよ?」「あっち行け、うぜーな!」「無視無視、ほっときましょうよ、気分悪い!」
 もう一秒だってこの車両に居たくない。苦しい。痛い。もうたくさんだ。
だがやがてそして。どんなことにも終わりはある。
 密度濃く充満したガスを排出すべく、電車はホームに辿り着き、慈悲深く、オートマティックに扉を開けた。カタルシス。
 降りる駅だ。僕は席を立った。羨ましいと思われたかもしれない。あちこちからの、そんな視線を意識しつつ、出口に向かって一歩ずつ、確かに床を踏みしめる。一歩前を黒い男が歩んだ。烏もこの駅で降りるようだ。
 烏に続いてホームに降り立った。
 車両を振り返る。
 あのペアの後頭部が見える。この先二人はどうするだろう? 車両の中はどうなる?
 何かが変わるか? それとも何も変わらないか?
 ともあれ僕にはもう関係ない。僕には関係ない!
 雀の瞳で空を見上げる。暮れゆく空。これもまた世界。僕は家に帰るだろう。部屋にこもるだろう。PCを立ち上げるだろう。そして書いてやる。ありうべき輝かしい世界の姿ではなく、ありのままの醜い世界の姿を、たった今観察したその惨状を、今日もまた絶望的に描写するのだ。神様、これがあなたの世界です。人間ゆえに人間らしく、と念仏のように唱えて僕は書く。それを言い訳にして僕は書く。受動的に書く。被害者を演じて書く。哀れな存在の柔らかな腹を、神様に見せつけるようにして書く。
 つまりは、そうして求めているのかもしれない、僕は救いを。外から差し伸べられる手を。神様の責任を。
 だから、それゆえに小説を書くのだ。そんなスケッチを、世界の描写を、不特定多数の意識に向けて公示することで、つまりはネットに晒すそのことで、僕はなんとか支えているのだ、自分の心を。バランスしている、つもりになるのだ、偏りながら。
 そんな自分をまた自分が眺める、観察する。その視線が痛い。
 気がつくと、烏の姿はもう見えない。
 上着のポケットに、両手を乱暴に投げ込んで、背中を丸めて改札に向かう。

 駅から自宅までは、歩いて五分の道のりだ。
 途中に踏み切りがある。赤い点滅を眺めながら僕は遮断機の前に立つ。
 響き渡る断続音。
 俯いた僕の目は自分のスニーカーを眺めている。今はもう廃盤になったアディダスのカントリー。白い革に白い三本線。
 その脇にもう一対のアディダスが並んだ。
 お隣のアディダスもカントリーだ。白い革に白い三本線。
「世界を描写し続けて」とアディダスは言った。「楽しいか?」
 声には聞き覚えがあった。ついさっき聞いた声。地の底から響くような、赤黒い血のような、暗く湿った、そんな烏の鳴き声だ。
「なんで」と僕は下を向いたまま訊ねた。「なんであんなことをした?」
 二対のアディダス。踏み切りの断続音。
「ん?」とお隣さん。
「注意するとか、そうしたらよかったんじゃ?」と僕。
「想像してみろよ」
 僕は想像してみた、声に導かれて。
 乗り込んでくる烏。
 罵倒されている乗客。
 車両を移る老婆。
 烏がペアに向かって注意する。
 ここは電車の中ですよ、みんなの場所です、人様が不快に思うような発言はご遠慮いただけませんか?
 するとどうなる?
 みんなの場所なら俺たちの場所でもあるわけで、と硫酸は返すだろう。
 あたしたちはただ思ったままを発言しただけで、と塩酸も闘うだろう。
 憲法21条に関する〈解釈の問題〉になるわけだ。
 面倒なことになる。
 にいちゃん、おまえ何様だ? なんの権利があって文句垂れてんの? 因縁ふっかけやがって、偉そうに。
 と、そんな展開。
 大売り出しの喧嘩は高値で買われて、喧嘩は喧嘩を厭わない者のペースで、しつこく、より陰湿化するだろう。正義は正義であるがゆえに、偏らざるを得ないのだ。正義は別の正義にとっては、悪そのものなのだ。
 悪は正義に接してより悪質化する。悪は悪に接してときに正義に変わる。
 光は闇の中にある。闇が光の中にあるわけではない。光が闇を求めるほどには闇は光を求めない。
 光を支えているのは常に闇なのだ。
 闇の孤独に光は抱かれる。
「ほっとけばよかったんだ」と僕はそれでも言ってみる。
「浅瀬を泳ぐのは、もうよせよ」と声は、少しだけ躊躇うようにして応える。
 断続音が途絶えた。
 沈黙。
 そして街の雑踏。
 踏み切りが上がる。
「あんた、誰だ?」と自分の声。
「知らないふりか?」と黒い声。「知ってるんだろう?」
 僕は、大股で踏み切りを渡る。そうすればまるで、邪悪な影から逃れられるかのように。
 でも無理だ。
 踏み切りの中ほどで立ち止まる。
「ああ、知ってるさ、おまえは」と僕は振り向く。そこには誰もいない。
 もちろんだ。
 踏み切りを渡りきり、空を仰ぐ。昼は夜に。浅瀬は深海に。
 雀や烏、そしてまだ見ぬ燕や梟や。空にはいろんな翼が舞っている。
 僕は僕の空を見上げ、そして思う。
 もう書くのはやめよう。世界の描写はたくさんだ。
 僕は雀でもなく烏でもなく、燕でも梟でもない。
 帰ったら卒論を書き直そう。そして明日ゼミの教授に掛け合って、再提出を許してもらおう。
 赤い星と白い月を眺めて、僕はいったん目を瞑り、そして開けると、自分の翼を自分の意志で広げて、空に世界に、躊躇わず、懸命に羽ばたいた。


B
 と、以上のようなネット上の書き込みを見て、花街署の菅原刑事は首を捻った。「これは、もしや」
「間違いないな」と菅原の言葉を受けて宇宙刑事ロイドは頷いた。「もう始まっているのだ」
 太陽系第8極区の衛星間エレベーター内会議室は氷ついたかのように静まった。
 ……始まったのか。

 そんな会議を知らない井上剛25歳学生は同日同時刻空を見上げて溜め息をついていた。
 ああ。なんてつまらないんだ。僕は、世界は、なんてつまらないんだ。なのになぜ僕は僕なんだ。ちくしょうめ。
 多摩川の流れをしばらく眺めて井上は、腰掛けた川堤から一度腰を上げ、首をぐるぐる回し手を腰にあてて舌打ちしたのち万歳すると、今度は逆に手に腰をあてようとするもそれは適わず諦めて、キャホイ! と叫んで小さく咳き込み、また腰を下ろした。
 つまりあれだよ。と井上は呟いた。愛ってやつだよ。間違いない。
 でも問題は。とまた呟き井上は、少し悲しそうに眉をしかめた。対象が存在しないってことなんだ。
 風が吹いた。お陰で少し元気を取り戻したのか井上は、赤いほっぺを軽く膨らませ、堤に置いた赤茶色のへしゃげたデイパックから、そのウラ表紙に〈対象が現象なら愛は彷徨えど〉と書き殴られたコクヨのB5判ノートと、パイロットの青フェルトペン中太を取り出すと、ページを捲って堤を机にやおら何かを書き出した。


C

 水平線を見ている。
 水平線とは何か。と私は考える。空と海とを分かつ線である。と私は思う。    太陽系第三惑星的にいえば。

 地平線は見えない。
 地平線とは空と大地を分かつ線である。これもまた太陽系第三惑星的にいえば。

 太陽系第三惑星とは何か。と私は思う。広大無辺な空間を舞う丸いカケラである。現代を生きる人類の認識によれば。
 人類とは人間たちの総称であり、人間とは高等哺乳類の最たる生命体である。というのもまた人間の認識によれば、ということだ。
 人間の歴史をその人間の残した書物により紐解けば、そこにはデカルトと名付けられたところの人間が存在する。デカルトは人間の認識する対象そのすべての実在を疑った。人間もまた人間の認識によるものなので無論人間の存在も疑った。
 疑い得ないただひとつのものを、そのように思う己の意識と見いだした。とされている。人間による記録によれば。

 と、このような、不確かこの上ない大地に私は立っている。

 繰り返す。ここから地平線は見えない。

 私は大地に立っているが、その限られた私の大地の外には遥けく海の広がるばかりで、他に大地は見当たらない。すなわちここは私の島なのだ。ここが、この島が、すなわち私の根拠。

 小さな島だ。にも関わらず長い年月をかけて私はこの島を隈なく踏査した。
 そして今私の瞳は水平線に向けられている。
 白い砂の上に立ち、青い空と青い海のその境を私は見ている。
 リーフにときに白波が立つ。私の目は優れた動体視力を発揮してそのような白波を捉える。それは波だ。波に過ぎない。と私は知る。その白さ。白砂の大地を映す鏡なのかもしれない。
 ときに海鳥が空を渡りゆくこともある。決して見逃すことなく見つめても、その白さは大地の白さそのものではない。その白は大地の幻なのだ。

 海と空。その意味は何か。と私は考える。人間的にではなく私的に。太陽系第三惑星的にではなく私の島的に。
 広がる海は私の島の反対概念だ。海なくして島はない。闇なくして光がないように。
 だから私は潜る。潜ってきた。もう何年もあるいは何世紀も。私は私の島から眠り、私の底へとダイブした。潜り、浮上した、何度も、そう何度も。
 島を知ってしまったら海を知りたくなった。そういうことだ。言いようによっては、それだけのことだ。
 つまりは宝探しのようなもの。
 潜るその度ごとに宝はそこにある。宝を私はフックと名付けた。眠りの底に尖ったように輝く、おそらくは無数のフックたち。
 フックは美しかった。だから私は戯れた。フックを相手に踊った。つまりはそれは物語であった。私は、フックを相手に踊り、歌い、ともに食し、ともに飲み、抱き合い、殴り合い、様々なエピソードを分かち合い、要するに関わった。
 ダイブの度に互いにフックは関連しあった。私が繋げた。
 点と点とが関わると線ができ、線と線とはいずれは交差し角度を生んだ。
 角度。
 私は悟った。すなわち私は角度を求めていたのだ。
 なんのために?
 ここを割り出すために。この島を定位するために。

※※
 その朝白い砂を踏み、歩いていると、そこに見慣れぬものを見た。彼。
 彼は、白い砂の上に肌色で倒れていた。衣服はなかった。ために一目でわかった。彼には翼があった。翼は白かった。
 彼を助け起こした。彼は軽かった。
「君は?」と私は彼に訊ねた。
 彼は目を開け私を見た。
「僕は」と彼は応えた。
 私は黙って続きを待った。
「あなたは」と彼は訊いた。「あなたは誰ですか?」
「怪我はないか?」と私は訊いた。
 彼は半身を起こし、自分の手を見て、足をさすり、体をひねって、そして頷いた。「ここはどこですか?」と彼は新たな質問をした。
「ここは」と答えた。「ここはここだ」
 彼は私の瞳を見た。
「この島に、名前はないのですか?」
「あるよ」
「なんという島ですか?」
「サニーアイランド」と答えた。
「僕は」と彼はまた質問を変えた。「誰だろう?」
「誰なんだい?」
「わからない」と彼は応えた。「僕は誰で、僕はどうしてここにいるのだろう? どこからここにきたのだろう?」
 私は思った。(なぜ私は、もっと驚かないのだろう?)
 水平線を見た。その上に広がる空を見た。
 私は彼に言った。「案内しよう」
「どこへ?」
 笑って彼の手をとった。「立てるかい?」
 彼は立った。
 先に立ち案内した。小さな島にある唯一の建造物、三十階建ての白いリゾートホテルを。
 エントランスを抜けながら彼は言った。「驚いたな」
 彼と私はエレベーターで三十階に上がった。
 私の部屋に入ると彼は、白いソファに腰を下ろした。
「何か飲むかい?」と私は訊ねた。
「水を」と彼は答えた。
 冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをグラスに注ぎ彼に手渡した。
 水を一息に飲み干してから彼は訊いた。「あなたはここで何をしているのですか?」
「繋げている」
「何を?」
「フックどうしを」
「フック?」
「番地のことだ」
 彼は哀しそうに眉を寄せた。
「どうやってフックを繋げるのですか?」
「第三惑星高等哺乳類的に答えるべきか?」
 彼は肯定的に沈黙した。
「清潔なシーツの上に横になり、目を閉じ、顕在意識を消して無意識に潜る」
「つまり」と彼はさらに人間的に要約した。「眠る?」
「そうだ」と応えた。開け放った窓から波の音が聞こえた。
「どうなるのですか?」と彼はまた質問した。「フックを繋げると」
「物語ができる」
「物語?」と訊いて彼は軽く震えた。
「クローゼットの中に着るものがある」とクローゼットを示した。「翼を畳んで、何か着るといい」
 言われて彼は、初めて気がついたかのように、頬を染め、言われたとおりにした。
 白いバスローブを羽織った彼に言った。「ついてきたまえ」

※※※
 エレベーターを十八階で降りた。
「このフロアは・・・・・・」と彼は呟いた。
「そうだよ、この階は全体が・・・・・・」と応えようとすると、「図書館ですね」と彼が受けた。
「ある種の認識によれば」と私は補足した。
 白い書棚に囲まれて彼は少し嬉しそうに歩いた。
「大小様々な装丁の、とんでもない数の本ですね」と声が弾んでいる。
「増え続けてきた」と応える。
「あ!」と彼は純粋に驚いた声をあげてカウンターの方を示す。「あれは誰ですか?」
 カウンターに座るミルの方を振り返り、私はミルに呼びかける。「おいで」
 ミルはノートを閉じて立ち上がる。
「紹介しよう」と私は彼に告げる。「ミルだよ」
 彼はミルに軽く頭を下げる。そして少し照れたように笑う。
 ミルも照れたように笑いかえす。
 彼はミルに訊く。「あなたは?」
「私のメイトだ」と私が答える。
「メイト?」と彼はミルに訊く。
「このフロアではブックマーカーをしてもらっている」と私が答える。
「あの」と彼は少し困ったような声を出す。「ミルさんは、もしかして?」
「メイトは喋らない」と私が応える。「見るだけだ。メイトはダイバーの心的角度を違えないために、そのようなあり方で存在している」
「ダイバー?」
「インナーダイバー」と応える。「私はインナーダイバーだ」
「それは職業ですか?」
「かもしれない」と答える。「生業と形容してもいい」
「生業、ですか?」
「私の属性だ」
彼は少し考えてから言う。「メイトもまた属性ですか?」
「そう定義して差し支えない」
「見るだけ」と彼は、彼自身に向けて確認する。「喋らない」
「シャベルなら中庭の花壇の脇に存在している」と私は笑う。
「シャベルですって?」
「シャベルはモグラの手袋だ」
 彼はまた哀しそうに眉を寄せる。
「ブックマーカーは書棚を管理し、棚がひとつ埋まるとそれを報告してくれる」と私は彼に教える。
「それがブックマーカー?」
 私は頷く。
 彼は曖昧な表情で笑う。

※※※※
「さて僕は・・・・・・」と私の部屋で彼は呟いた。「これからどうしよう?」
 私と彼は、白いテーブルとビールを挟んで向かいあっている。
「ここに留まれば」と私は告げる。「陽は昇り、陽は沈む」
「波もまた、打ち寄せては返す」と彼も同意する。
「そのとおり」
「あるいは」と彼は、半ば自身に向けて問う。「帰るか?」
 私は頷く。
「どこへ?」と彼は呟く。
私は彼の言葉の続きを待つ。
「僕はどこからきたのだろう?」と心細げに彼は呟く。
 私はテーブルの上の瓶を掴みまた一口ビールを飲む。
「僕はどこへ行けばいいのだろう?」と彼は窓を見る。その視線の先に月。第三惑星の衛星。人間的な認識によれば。
 窓の向こうに吹く風を私は思う。
 風。
「翼があるね」と私は言う。
 彼は頷く。
 地平線について思う。空と大地を分けるもの。
「垂直に移動することに・・・・・・」と月に向かって私は言う。「飽きたのかもしれない」
 彼は私を見る。
「水平に移動してみてもいい」と私は続ける。
「陸地は他にないかもしれない」と彼は言う。
「私は頷く」とミルが言う。
 私はベッドの上のミルを見る。「見るか?」とミルに訊ねる。「ここにいては見えないものを」
「ないかもしれないものを」と“僕”は言う。
 “僕”は立ち上がり、白いバスローブを脱いだ。
 そうだな・・・・・・。と私は思う。空について私は考える。
翼があるんですもの。と“ミルは思う”。
“僕”は背中の翼を大きく広げる。
我々は窓辺に歩む。眼下は見ない。夜空を見上げる。波の音は聞こえない。風の音に耳を澄ませる。
 窓を大きく開け放ち、睨むように月を見た。次の瞬間“翼は、私を”夜に向かって運んだ。


D
 と、そのように井上剛26歳無職は書き終えた。
 書きながら井上はひとつ歳をとった。本日の夕刻が井上の誕生日時だったからである。
 また書き始める前に学生であったところの井上も書き終えた今は無職の輩となっていた。というのは学費滞納の罪による停学処分の仮決定が本日午後五時をもって実効したからである。

「臨界点を越えた!」とロイドが叫んだ。
「つまり?」と菅原はその獅子鼻を膨らませる。
「可能性の結節点としての番地同士を連繋させる世界像を保蓄する許容量がついに」と語り始めるロイドの言葉に被せて「できれば」と菅原は早口に懇願した。「わかりやすく!」
 ロイドは角膜をオレンジ色に瞬かせて菅原を見た。
 そしてロイドは「物語が増えすぎた」と優しく囁くようなモーター音とともに呟いた。「もう誰も潜らない。その瞬間ダイバーは皆パイロットに転向した」
「で、どうなる?」
「平たく言うべきか?」
「ヒラメのように言ってくれ」
「世界は終わる」

 音もなく。と井上剛は思った。
 それは音もなく始まった。つまらない自分とつまらない世界が崩壊してゆく様を井上は、河原の向こうに広がる夕映えの空をスクリーンに、その目でしかと見た。
 見た次の瞬間に井上はなく、世界もなかった。

 地球もなく、太陽系第8極区もない漆黒の闇は、その後わずかにたゆとうたのち消滅した。闇の消滅。


 私は、世界の痕跡を眼下にしばらく飛んだ。そうして痕跡もまたついには無に呑み込まれたのを確認してのち呟いた。「じゃ、行こうか」
 無は暗くなく、狭くも広くもなく、不快ではなかった。白い、と喩えることができそうな静謐さで満たされた“心情”、それが虚無の正体であったという意外さとあっけなさに“私は驚き、羽を震わせ独りで”クツクツと笑った。世界が終わっても心は笑うことができるのだった。「そのような存在および存在の仮定を罪だと思うかい?」と私は、“人間的な、あまりに人間的な”問いを呟いた。
「わからないな」と“僕は応えた”。「だからそこらへんのことを訊きにいくんだろう?」
「どこへ?」と私は僕に訊ねた。
「神様んとこへ」と僕が応えた。
 私たちは私たちの行方を私たちの翼に任せた。

 おしまい。

私たちは私たちの行方を私たちの翼に任せた

私たちは私たちの行方を私たちの翼に任せた

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-09

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