失敗に付随する迷惑について
渡辺力と高島恵がひょんなことから恋人になり、性格が異なるため、関係が難航するのだが、大体は良好な関係を築いていた。そんなある日事件が起こり、渡辺の身に災難が降りかかることになった。
渡辺力は真面目だけが唯一の取り柄のような人物で、性格は杓子定規であり、遊び心はなく、余裕が全く感じられないのであるが、会社ではそのおかげで信用を得ている様なものである。遅刻、欠勤はもちろん皆無で、他の同僚は表面上は尊重しているが 陰では陰口を叩いている。特に遅刻常習者にとっては自分の遅刻が際立って目立つようになるために、渡辺は頭の痛い存在なのである。渡辺が無駄口を効かないのも、その嫌われる一因になっている。
そのような同僚の態度から、最初上司は渡辺の勤務態度に感心していたが、段々その生真面目さが逆に居心地が悪いように感じられてきて、表面的には尊重しながら接しているが、本音では悪口が頭の中だけで浮かんでくるのだった。上司としてそういう態度はどうかと思うが、部下の手前、だらしない所をほとんど見せた事がないため、部下の渡辺がそういう勤務態度だと、窮屈な思いをせざるをえないということもあるのだった。
しかしプライベートでは、渡辺の容貌は見栄えはしないが、ひょんな事から切っ掛けを得て、恋人を手にした。驚嘆すべき事だが、渡辺の彼女の容貌は素晴らしく、すれ違う人が振り返る程である。渡辺は鼻が高く、少々性格は強気で難渋するものの、なんとか二人の関係は上手くいっている。
もちろん会社の同僚には恋人の存在を秘密にしているため、そためかどうかわからないが、信用がある。プライベートでは親孝行を律儀にこなしている、ぐらいにしか思っていない。一方友人、家族には仄めかしているものの、全貌は打ち明けていないので、美人の彼女がいるということは露ほども思っていない。むしろ女の気配など、微塵もないと思っている。
美人の彼女というのは、職業がホテルの従業員で、職業柄なのか、容貌もスタイルも抜群なのだが、プライドが高く、渡辺の性格に頼りなさを感じているものの、彼女は自分の性格の悪さを自覚しているため、渡辺の勤勉さを軽んじてはいず、むしろ尊重している。そして常日頃から羨んでいて、自分にその資質があれば、もっといろいろな事が出来ただろうし、失わずにすんだ物も、少なくないと思っている。
彼女の名前は高島恵と言い、家柄は普通の家庭だが、父親の職業が自衛隊員、母親は専業主婦をしており、厳格な環境に育っていて、両親には渡辺の存在を秘密に出来ず、彼の人となりは報告していたので、両親もまた性格には頓着せずに、彼の頼りなさのため、真面目であるにもかかわらず、あまりいい印象は持っていなかった。高島は渡辺に対する評価を不満に思っていて、前々から抗議の声を上げているが、両親は高島もまだ子供だと思っていて、親に向かって抗議するなど、百年早いと高を括っている。
高島は口癖のようにいつも言うことがある。
「渡辺君、真面目なのはよくわかってるけど、どうして抜けてる所があるの?」
渡辺はこう言われると、決まってこうやり返す。
「それは僕の気にしている事で、どうしても直らないんだ。気を付ければ気を付ける程、どこかが抜けてるんだ。要するに僕は真面目な人間なんだが、間抜けな人間でもあるんだ」
高島は言う。
「あたし時々不安になるんだけど、今までは小さい失敗ばかりで、何の問題もなかったんだけど、そのうち渡辺君の抜けてる性格のために、何か事件を起こすとか、事件に巻き込まれたりするんじゃないかと心配なんだよ」
「うん……」
渡辺はこう言われると、何か言いたいのだが、自然と言葉に詰まるのであった。
渡辺の職業は事務員で、高島の職業とは対極的なのだが、二人は仕事の事について、よく話し合った。人間関係、仕事、上司との関係、待遇など、二人の性格が混ざり合って、会話が途切れる事はなかった。衝突があり、相互理解を度々繰り返すというもので、いい刺激にはなっていたのだが、最終的には渡辺が言い負かされるために、高島は物足りなさを感じていた。
また渡辺は真面目な性格のため、会社の同僚とプライベートで遊ぶということはなかったが、高島は積極的に同僚を誘って、遊びに行き、休日を楽しんでいたので、渡辺の人付き合いに物足りなさを感じていたものの、そのことで二人の関係にひびが入ることはなかった。しかし高島は両親の渡辺に対する評価に同意せざるをえず、悔しい限りで、この不満をどこにぶつけていいか、わからず、途方に暮れる思いだった。
一方渡辺の家族は幾分裕福な家庭で、両親は共に仕事をしており、もう定年間際を迎えていた。子供は渡辺と兄と姉がいて、兄は結婚して、子供を儲けて、実家で過ごしている。姉は他家に嫁いでいるが、夫婦仲があまりよくなく、度々実家に戻っている。渡辺はこの兄と姉に挟まれて、気の弱さのため、発言力を持ち合わせていず、また弟ということもあるが、全く家の実権を持ち合わせていなくて、独身ということもあり、肩身の狭い思いをしていた。
そんなある日のことだった。渡辺がスーパーで買い物をしていると、本当に偶然で、渡辺にとっては理解に苦しむことだが、中年男性が卵一パックを万引きしているのを発見したのである。そんな現場を目撃してしまって、対応に困り、焦るばかりで、何も出来ないでいると、中年男性はその場に立って、キョロキョロしている。そのうち渡辺の視界の隅に女子高生が入り、彼女も困惑しながら、中年男性の挙動を擬視している。ふと彼女と目が合うと、彼女はそそくさと立ち去り、渡辺もトラブルに巻き込まれるのは御免だとばかりにその場を立ち去った。
しばらくして渡辺はあの中年男性に思いを巡らし、面倒事に関わりたくないという思いと、やはりスーパーの店員に万引きの事を告げなくてよかっただろうかという後悔が渦巻いて、悶々としていると、ふと女子高生はどうしただろうかと思った時、背後から声を掛けて来る人がいるので、誰だろうと振り返ると、店員だった。
「すみません。ちょっと奥の部屋までよろしいでしょうか」
「えっ。どうして?」
「伺いたい事がありまして」
「…………」
渡辺は嫌な予感がしたものの、店員に促されるままに、歩いて行った。
奥の部屋へ通されると、店長らしき人物が厳しい表情で座っていて、渡辺を認めると、言う。
「そこへお掛けになってください」
「一体全体何なのでしょうか。私に何の用ですか?」
渡辺は堪らなくなって言うが、店長は涼しい表情のまま、向かいの席にどうぞと手振りで示す。
「こういうことは簡潔にした方がいいと思いますので、率直に言います。盗った物を出してください」
店長は穏やかになるように言う。
「えっ」
渡辺は店長が何を言っているのか、皆目わからず、きょとんとした表情のまま静止してしまった。
「率直に出した方がいいですよ。もうあなたも大人なんだから、嘘をついたって、自分のためにならないとわかっているでしょ」
「僕が万引きしたって言うんですか?冗談はやめてください。僕じゃないんです。僕はこの目で中年男性が万引きするのを目撃したんです。だから僕じゃない。まだその男は店内にいるかもしれない。早く探しに行った方がいいですよ」
「はぁ~」
店長は溜め息をつくと、続けて言う。
「仕方ありません。警察を呼びましょう」
「ちょっと待ってください」
渡辺は慌てて言うが、店長は無視して、電話を取り上げた。
数分後交番の警察らしき人物が姿を現して、渡辺に一瞥をくれと、店長の許へ歩いて行った。二人でひそひそ話をして、警官は渡辺に向き直ると、言った。
「署までご同行願います」
「ちょっと待ってください。僕の話を聞いてください。ちゃんと聞いてくれたら、わかると思いますが、自分は万引きなどしていません。何かの間違いなんです。多分店員の手違いだと思います」
警官は静かに渡辺の言うことを聞いていたが、言う。
「店長の話では、あなたが万引きしている所を女子高生が目撃していたという証言が取れているんです」
「女子高生…………」
「とにかく署までご同行してもらいます。ここでは話がつかないですから」
「…………」
渡辺はまだ言いたい事が山ほどあったが、今どんなに話しても無駄だと諦め、警官が促すままに、店を後にした。
到着した所は警察署で、奥の部屋へ通されて、数分程待たされた後、先刻の警官が現れて、ファイルを抱えているので、渡辺はこの人が対応するんだなと思った。警官は普段と同じような態度で口を開いた。
「名前は渡辺力さんですね」
「はい」
「あなたは先刻から言うように、万引きしたという犯行は認めない訳ですね」
「もちろんですよ。自分はやってないんだから」
「もうわかってると思うんですけど、目撃者がいるのですよ」
「その人が間違った証言をしているんです。その人をここに呼んでください」
「念を押しておきますが、変な悪あがきは止した方がいいですよ。自分の立場を悪くするだけですよ」
「とにかくその女子高生をここに呼んでください。僕の潔白が証明されるはずですから」
「わかりました。彼女に連絡してみましょう。それと両親の連絡先を教えてください」
「家に連絡するんですか」
「もちろんです」
「…………」
渡辺は警官にわからないように舌打ちすると、渋々自宅の電話番号を教えた。
次は警官は渡辺に質問してきた。
「万引きはしていないということですが、なぜこんなことになったとお考えですか」
「多分店員か目撃者の手違いなんです。目撃者の言った人と、店員が把握した、自分ですけど、それが食い違っているんです」
「心当たりでもあるんですか」
「僕は中年男性が万引きしている所を目撃したんです。それを店員に知らせれば良かったのですが、面倒事に巻き込まれたくないと思って、そのままにしていたら店員に声を掛けられたのです」
警官は無表情で聞いた後言う。
「あなたの言う事が本当ならば家へ帰ってもいいですが、目撃者の話を聞かないといけないですから。それを聞いて、潔白が証明されれば、両親と帰っていいです」
しばらくして目撃者の女子高生が姿を現した。彼女は澄ました顔で、呼び出された事を怒っているというより、面倒くさいといった様子である。
警官は渡辺の隣の席を勧め、話しかける。
「学校で忙しい所、ありがとうございます。実はあなたが目撃したという人物がこの人であるかをもう一度確認していただきたいのですが」
「えっ。どの人?」
彼女はきょとんとして、聞き返す。
警官は渡辺を指して言う。
「この人です」
「この人じゃないわよ。あたしはもっと中年男性の人と言ったと思うけど」
「この人じゃないんですか」
「何度も言わせないでよ。この人じゃないわよ」
渡辺はここぞとばかりに言う。
「ほら言った通りでしょ。僕じゃないんですよ。早く店に電話して、誤解を解いてください」
「二人共ここを動かないでください」
警官は間違えてしまったかなと焦って、急いで部屋を出た。
数分後警官が現れて、女子高生を手招きして、二人は部屋を出た。
しばらくすると二人共戻ってきて、女子高生は相変わらず気だるい様子だが、警官は渡辺の方を見て、本当に申し訳なさそうな表情になり、
「申し訳ありませんでした。店員が思い違いをしていたようです。店長から厳重に注意するように言いましたから」
「気をつけてくださいよ」
警官は深々と頭を下げて、
「こちらの手違いで、こんなことになってしまって、申し訳ありませんでした。先刻両親が見えられたので、もうこのことは気兼ねなく安心して、一緒に帰られてください」
渡辺は席を立つと、無愛想に部屋を出た。
警察署の入口に両親が立っていたので、渡辺が近づくと、母親が先に気づくや否や、不快な表情を浮かべて言う。
「力、あなた何したの?」
「手違いで万引き犯にされてしまったんだ」
「万引き犯!?力、そんなことしたの?」
「違うって。俺は何もしていないんだ」
父親は無表情のまま言う。
「そんなことだろうと思った」
「あなた何呑気な事言ってるの。警察に連れていかれたのよ。近所の人が何を言い出すか、わからないわ。ばれてなきゃいいけど」
「大丈夫だ」
「何が大丈夫よ。ああ、多分もうばれてるし、明日から下向いて歩かなければならない」
渡辺は警察署に連れていかれたという実感が湧いてきて、知らず知らず両親に言う。
「お父さん、お母さん、すいませんでした。誤解とはいえ、こんなことになってしまって」
「とにかく帰ろう」
「そうね」
「御免」
三人は一言そう呟くと、警察署を出て、家路に着いた。
しばらくして渡辺は隣近所の人が自分に対して、冷ややかな態度なのに気づいたが、それで何かあるということはないので、気にしなかった。
ところが母が近所の人から聞いてきたと言って、興奮気味に家族に漏らす。
「力、あなた痴漢して警察署に連れていかれたと噂されているそうよ」
渡辺は驚いて、一瞬聞き違えたかと思って、聞き返す。
「えっ。何て言ったの」
「だから痴漢扱いになってるの」
「どうして?」
「どうしてって。警察署に連れていかれたということに尾ひれがついて、噂になってるのよ」
渡辺は絶句した。
「嘘だろ?」
「本当だよ」
父も言う。
「母さんの言う通りだ。私も近所の人から聞いて、驚いた。一応釈明して説明したのだが、その人が言うにはここらへんの人に広まってるという噂だ」
渡辺は何て言っていいか、わからず、呟く。
「俺はどうすればいいの!?」
母は半分面白がって、からかうように言う。
「力どうするの?」
渡辺は本当に困ったように項垂れて、言葉を発することが出来なかった。
父はしばらくして言う。
「力、そんなに気にすることはない。人の噂も七十五日と言うから、そのままにしていれば、自然と人の口も収まってくるよ」
「そうなの………」
渡辺は言うが、まだ不安な表情を浮かべているので、母は言う。
「何か言ってくる人はいると思うけど、無視すればいいよ。そのうち真相がわかってきて、皆そんなこと忘れ去っていくよ。心配しなくていいから、そのままにしていればいいよ」
「うん」
兄と姉は黙って聞いていたが、その時力に頷いて、頑張れよと目配せした。
渡辺は励ましの言葉を受けても一向に元気が出る気配はなかった。
それから渡辺は注意深く近所の人達の視線を見回していると、確かに自分に対して、囁き合っているのがわかった。特に年配の人が執拗に視線を絡ませてくるので、対応出来ずに、何も出来なかった。
子供も訳がわからないながら、渡辺の前で騒ぎ立てる。
女性は渡辺の前を何気ない表情で避けながら、素通りして行く。渡辺が一番傷つけられたのは、綺麗な女性が自分を見ると、嫌なものを見つけたように、嫌な表情を浮かべて、通り過ぎて行くことだった。
渡辺はこのような事態になって、本当に困ってしまって、甚だ気落ちしてしまった。
そのうち渡辺の許に高島から連絡があった。渡辺が電話に出るなり、高島の口調は慌てている。
「渡辺君、警察署に連れていかれたって本当?」
「どうして知ってるの?」
「どうしてだかわからないけど、あたしの耳にも入ってきた」
「どうして連れていかれたのは聞いたの?」
「…………」
「まさか痴漢?」
「違うの?」
「違うよ。当たり前だろ。警察署に連れていかれたのは本当だけど、手違いで万引き犯にされてしまって、でも僕は何もしてないんだ」
「やっぱりそうなの。何かの間違いだと思った」
「でも参ったよ。痴漢なんて。僕にとっては前代未聞の出来事だ。隣近所の人に知れ渡っているから、おちおち家の近くを歩くことも出来ない」
「これからどうするの?会社にはちゃんと出勤できる?」
「頑張って行くしかないよ」
「誰かが何か言ってくるかもしれないけど、気にすることはないよ。無視してればいいよ」
「うん」
それから渡辺と高島は以前通りデートを重ねていたが、段々高島の態度が変化してきて、渡辺に対して、冷ややかになってきたのである。渡辺は最初疲れのせいだと思っていたが、段々事実だとわかってきて、問い質した。
「高島さん、最近態度がつれないけど、どうかしたの?あの事件のせいで自分に対する気持ちが冷めてきたの?」
「そういう訳じゃないけど、いまいち気分が乗らないの」
「気分転換に旅行でも行ってみる?自分もこのもやもやした物を吹き飛ばしたい」
「いい。あたしはやめておく。そういう気分じゃない」
「…………」
「あたし、今日はもう帰るね」
渡辺と高島はしばらくそういう関係が続いた。
渡辺は高島との関係が疎遠になってくると、気分が沈んでいき、会社で仕事も捗らなくなり、同僚、上司との関係もぎくしゃくしてきた。
渡辺はもちろん警察署に連れていかれたことは秘密にしていたが、ある時同僚が気にかかる言葉を漏らした。
「渡辺さん、小耳に挟んだんだけど、何か変な事に巻き込まれたんだって?」
「えっ。変な事って?」
渡辺は警察署の件を思いだし、ギクリとしたが、会社にまで聞こえてるはずはないと考え直す。
「いや、自分も噂のように聞いただけなんだけど、警察に厄介になったって」
「誰がそんなこと言ったの?」
渡辺はムキになって言ったので、同僚は慌てて、言う。
「誰ってことはないんだよ。自分もちょっと聞いただけだから」
同僚は慌てて、去って行った。渡辺はぶつけようのない怒りを覚えて、地団駄を踏んだ。
渡辺は高島との関係、会社での人間関係が警察署の件から悪化して、吐き出しようのないストレスを抱えてしまい、塞ぎこんでいると、家族の者までが自分に対して、冷ややかな態度を取るようになり、堪らなくなって問い質す。
「母さん、どうしてそんなに冷たいの?」
「力、あなた隣近所に評判悪くなったよ。ほら今までいい年をして、結婚しないで遊んでいたし、それにこの前の事があったでしょ。だから今になってそのつけが来てるのよ」
「そんなこと言われたって、俺は結婚したくなくて、結婚していない訳じゃないし、遊んでいる訳じゃないよ」
「でも世間はそう見ないのよ」
「そんなにひどいの?」
「うん。父さんも母さんもつれない態度でしょ。力は悪くないから、文句は言わないけど、どうしてもそういう態度になってしまうのよ」
「じゃあ、俺はどうすればいいの?」
「今はついてない時期だと思って、我慢してなさい。そのうち状況も改善されてくるわよ」
「そうかな~」
「そう思ってないと、そうならないよ。そうなるように生きていきなさい」
「わかったよ」
渡辺は我慢して会社に出勤していたのだが、休日になると、家に籠るようになった。部屋で悶々として、口数も少なくなっていった。
時々高島に連絡するが、段々通話時間は短くなっていき、しばらくすると渡辺からの電話に出ることはなくなっていった。
家族にも話しかけることはなくなっていき、八つ当たりすることが多くなっていって、迷惑がられる事が多くなっていった。立場というより、渡辺の家での存在感がなくなっていった。
渡辺はそういう日々を過ごすうち、家出を考えるようになり、それが素晴らしい思いつきに思えてきて、家出の算段をするようになっていた。両親にはその事をおくびにも出さないようにしていた。母には感づかれたように感じたが、何も言わないので、気にしない事にして、大きめのバックを購入して、日用品、必需品を詰め込んだ。
家出を決定した日時の深夜、渡辺は部屋に立ち尽くして、気持ちを整理するために深呼吸を繰り返した。
家族に何も言わないで、家出するのは憚られたので、手紙というか、書き置きをしたためた。
父さん、母さん、家族の皆さん、迷惑をかけてすいませんでした。この罪を償うために家を出て、自分を凝らしめようと思います。
渡辺はそれだけ書いた。まだ言いたいことは山程あったが、いくら文章を連ねても言い訳になりそうで、単純明快にして、家族、友人、知人に訴えたかった。
しばらく心の準備をして、忍び足で家を出た。家の中は寝静まっていて、夜のしじまが響き渡り、渡辺を攻めてきたが、決心が鈍くなることはなく、玄関で自分自身を鼓舞して、勇み足で出発した。
渡辺はあらかじめビジネスホテルを検索していて、目星をつけていたので、駅のプラットホームで深夜の寒風に耐えた後、到着した始発電車に乗り込んで、目当てのビジネスホテルへ向けて出発した。
道順も下調べしていたので、難なくビジネスホテルに到着して、受付でチェックインした。
部屋に入ると、実家生活が長いので、こういう環境は新鮮で、気分が高揚するのを感じたが、しばらくすると自分の置かれた状況に思い至り、気持ちが塞がっていく。
朝になり、家族に思いを巡らすと、家族の対応が気掛かりになり、いつ連絡があるだろうかと思っていたが、電話はシャットアウトするつもりだった。
しかし一向に連絡が来る気配はないので、苛立っていると、ようやく夜になって携帯に着信があったので、表示された名前を見ると、母だった。
もちろん電話に出るつもりはなく、そのままにすると、しばらくして着信音は止んだ。一時して今頃電話してくるなんてと憤慨した。
その後父、兄、姉からも連絡があり、渡辺は出なかったが、その日は夜遅くまで、家族からの着信音は止まなかった。
翌朝起床すると、留守電にメッセージが残っているので、再生してみる。母からだった。
力、あなた何してるの?訳のわからない手紙残して。どこへ行ったの?噂気にしてるの?そんなこと気にしても仕方ないじゃない。あなたも子供じゃないんだから、しばらくぶらついてもいいから、早く帰ってきなさい。とりあえず連絡してちょうだい。
渡辺はこれを聞いても、決心を変えることはなく、連絡するつもりはなかった。その後何気なく携帯の着信履歴を見ると、高島からの着信がある。渡辺は一瞬嬉しくなったが、その後着信はなく、留守電にもメッセージは残っていなかったので、落胆して、ホテルの部屋に籠り続けた。
部屋に居続けると、空間の閉塞感が高まり、それに比例して、気持ちも塞ぎこんでいき、母からは絶えず着信があり、落ち込む気持ちのために、電話に出る衝動に駆られるが、渡辺の決心は固く、着信を拒否し続けた。
そうこうするうち高島からの着信があり、思わず出ようとしたが、寸前に思い留まり、そのままにすると、着信音は止んだが、留守電を知らせる音が鳴ったので、慌てて確認すると、留守電が入っていて、高島からだったので、再生してみた。
渡辺君、家出のことを聞いて、驚いた。あたしが思ってるより、深刻に悩んでいたんだね。電話に出てくれないということはあたしの態度を恨みに思ってるのね。渡辺君も大変だったろうけどあたしも会社での人間関係に悩んでいて、どうしようもなかったのよ。渡辺君に相談してみようと思ったんだけど、その気にもならなくて。でも渡辺君がいなくなって、改めて渡辺君の存在の大事さがわかったの。だから早く帰ってきてください。そして戻ってきたら、二人で人生を立て直してみましょう。二人力を合わせれば、困難な事でも何とかなるわよ。連絡待ってます。
渡辺はそれを聞いて、外に出てみたくなり、ホテルを出た。少し歩いていくと、公園があり、若い恋人や、若い母と子供がおり、はしゃいで騒いでいる。渡辺はベンチに腰掛けて、それらを眺めていると、涼しい風と肌寒い気候のために、気が引き締められてきて、自分の行為が馬鹿らしく感じられてきて、高島に連絡してみる。
「もしもし」
「俺だけど」
「ああ、渡辺君、今どうしてるの?」
「今ホテルにいる」
「大丈夫なの?」
「うん。気持ちが塞ぎこんでいるけど、なんとか過ごしてる」
「留守電聞いてくれた?」
「うん」
「渡辺君の気持ちはわかるけど、早く帰ってきて、また一緒に過ごしたいと思っている。電話で言った通り、連絡出来なかったけど、今度はちゃんと連絡するつもりだから」
「うん。俺も頭を冷やして考えていると、馬鹿馬鹿しくなってきた。一時ホテルで充分休養して、帰ってくるよ」
「うん」
今度は母に電話する。
「もしもし俺だけど」
「力、あなた一体何やってるの?家出なんて、馬鹿げた事を、何歳だと思ってるの?」
「うん。冷静になってみると、そう思えるようになった。でも俺もパニック状態になって、何が何だかわからなくなっていたんだ」
「もう帰ってくるのね」
「うん」
「それを聞いて安心した。父さんも兄さんも姉さんも心配してたんだよ。それを無視して、電話に出ないなんて」
「悪かったよ」
「もういいから。早く帰ってきなさい」
「うん」
渡辺はそう決心すると、肩の力が抜けて、もう家に帰るんだと思うと、このホテルにいる事が、実家以外はあまり過ごした事がないので、新鮮で、貴重な体験であるように感じられて、しばらくここに滞在して、ホテル暮らしを満喫しようと思った。
それからベッドに寝転がったり、冷蔵庫を開けて、缶ビールを飲んだり、大きい窓ガラスから外の景色を眺めたりして、2、3日そうやって部屋の中で過ごした。
ふと視界に電話が入り、アイデアが浮かんできて、フロントに連絡して、この近辺でいい観光スポットはないかと打診すると、ホテルマンは丁寧に教えてくれた。渡辺は頭の中で計画して、明日荷物を纏めて、ホテルをチェックアウトしてから、観光スポットをぶらついて、家へ帰ろうと決めた。
その夜は缶ビールを飲んで、寛いで、過ごした。
翌朝チェックアウトを済ませると、教えられた道順通りに観光スポットを散策した。普段目にも留めないような物ばかりで、渡辺の最近の心の状態もあって、ホテル暮らしと同様に新鮮に感じられて、心が癒されていくのを感じた。
高島に見せるために携帯カメラで写真を撮り、保存しながら、出来上がった物を見ていると、こういう生活も悪くないなと思った。
教えられた所を一巡すると、渡辺は満足な気分になり、後腐れなく、下を向くことなく、家路に着いた。
帰宅してからの渡辺は今まで仕方なく義務であるかのように会社に出勤していたのだが、自発的に元気に明るくなるように出社して働くようになり、悪い評判で悪化していた会社の人間関係が改善していき、同僚は渡辺に対する見方が変わって、度々会社帰りに飲みに誘われるようになった。上司もそのような変化を感じ取って、目をかけるようになり、大事な仕事を任せるようになった。
家の中でも渡辺は積極的に発言するようになり、家族の、渡辺に対する態度が軟化してきて、度々話しかけるようになり、家の雰囲気も賑やかになってきた。実権も持つようになって、意見を求められるようになった。
隣近所の人も何を聞いたのかはわからないが、冷ややかな態度は取らないようになり、挨拶もされるようになり、噂は吹き飛んで、良好な関係が築かれた。
高島は渡辺の家族の話に興味を持つようになり、家に挨拶を兼ねて、訪問して、両親の御機嫌伺いをするようになった。両親は喜んで、渡辺を以前よりも可愛がり、渡辺は弟ながら、家でも実権を握ったかのようだった。
そうして渡辺と高島は良好な関係を築いて、未来ある人生に向けて歩き出した。
失敗に付随する迷惑について