始まりは腕相撲

きっかけは『腕相撲クイーン』という二つ名。
進路に悩む中学生のお話。

一年後の私はどんなだろう?

きっかけ

一、
「ねえ、二年三組『腕相撲クイーン』さん。その握力と腕力を見込んで君をスカウトする」
「はい?」
 渡里菜々衣(わたりななき)中学二年生、人生初のスカウトは全くうれしくないものだった。



 『腕相撲クイーン』。
 それは今や菜々衣の二つ名となっている。どうしてこんな異名が付けられることになったのか。
 それは一月程前、丁度冬休みが明け三学期が始った頃に遡る。

 昼休み、菜々衣は同じクラスの秋野里美(あきのさとみ)信楽弥(しがらきやよい)と一緒にお弁当を食べていた。
 それぞれの冬休みについて、思いつくまま報告し合っていた。
「もうお正月は食べすぎちゃってさー。体重計乗るの怖くて、結局乗ってない」
 里美がため息を吐きながら、やれやれと肩をすくめた。
 里美は同じソフトテニス部で、別に肥満でも痩せすぎているわけでもない。だけどそう言われると、少しふっくらしたように見えなくも無かった。
 弥が里美の右二の腕に手を伸ばした。そしてニタリと笑う。
「おや? 何かぷよぷよしてますねー」
「ちょっ、やめっ……」
 里美がこそばゆそうに弥の手から逃げた。そして自分でも同じところをつまんで軽く眉をしかめた。
「うーん、そう言われてみれば確かに……」
「じゃあ試しに腕相撲しようよ!」
 弥が楽しそうに提案した。彼女の脳内では、腕相撲で筋肉の劣りを測れると思っているようだ。
 菜々衣は背筋に流れた冷たいものを無視し、黙って二人を見物していた。そう、単にこの二人との遊びで終わるものと思っていたのだ。
 しかし菜々衣の想像も虚しく、事の運びはそうは問屋が卸さなかった。
 里美と弥がお互いの右手を握り合い、菜々衣がその上に手を置いて審判を務める。
「レディ……ゴー」
 今か今かとにらみ合う二人の間で、菜々衣はやる気のない声で言い手を離した。
 その瞬間、二人が「ぐぐぅ……」と変なうなり声をあげながら戦い始めた。
 勝負がついたのは三十秒後。里美が弥の腕をねじ伏せた。
「よっしゃ!」
「……くっそー。でも私美術部なんだからねー」
 弥が手首を振りながら、悔しそうに唇を尖らせた。里美は構わずフフンと鼻を鳴らした。
「じゃー次は同じテニス部同士、ナナとやってやろうじゃないの」
 当然の如く菜々衣も引っ張り込まれた。しかしこれはまだ想定内だ。
 菜々衣はしぶしぶという感じで右手を出し、肘を机につけた。里美と拳を握り合う。
「レディー……ゴー!」
 弥の元気良い声を聞いて、ぐっと力を込めた。
「えっ、ちょっ、ナナ――」
 里美が目を見開いた次の瞬間、菜々衣は彼女の手の甲を机に押し付けていた。時間にして、約三秒か。
 弥がきょとんとした表情で菜々衣を見ている。……しまった。早く終わらせたくて速攻で決めてしまった。もう少し粘ったふうに見せるべきだったか。
「あー、里美二連チャンだったからね。疲れてたんだよ」
 慌てて取りつくろった菜々衣は、逆に泥沼に足を突っ込んだ。
「ちょっとナナ! あんた握力強くない? どんだけあんの?」
「え、普通――」
「あ、空田君、空田君。ちょっとちょっと」
 弥があらぬ方に声をかけ、呼ばれた男子が他の友達数人と共に集まって来た。
「どうした? てか何やってんの?」
「あのね、今腕相撲やってたんだけど、ナナがあっという間に里美を倒しちゃって」
 おいおいおい。何か話がひろがりつつある。
 菜々衣は話を広げている張本人の弥生に半眼を向けた。彼女は何か発見したりすると、誰ともなく周りにいる人に話したがる癖を持つ。
 だが今回は声をかけた相手が悪かった。
「おっ、腕相撲か。久々に俺もやりてぇ」
 野球部キャプテンの空田翔介(そらだしょうすけ)が腕まくりをした。それを見た他の男子たちも、「久しぶりだな」とか何とか言いつつやる気満々な表情だ。
 何か嫌な予感がする、と思った時にはもう遅かった。クラスの中でもみんなを引っ張って行くタイプの空田が腕相撲をするという時点で、その先の展開は決まっていたと言っても良い。本当、弥を恨む。
 そこからあれよあれよとあちこちで腕相撲が始り、知らぬ間に『二年三組腕相撲大会』が開催されていた。
「渡里、俺とも一戦やろうぜ」
 空田がさわやかな笑顔で菜々衣に言う。このさわやかさを、なぜこの場面で使うのだろうと思いながら、菜々衣は回避の道を探していた。
 しかし周りは里美や弥を始め、複数の見物人に取り囲まれていた。とても逃げ出せそうにない。何でこうなるんだろう……。
 菜々衣は小さくため息を吐き、空田に右手を差し出した。彼もそれに応じる。
 背後で「空田くーん、次は私とー」なんて声が聞こえてきた。
(……よろしければ今すぐ代わって差し上げますが)
 久し振りに握った男の子の手は案外大きくて固かった。空田は野球部で毎日バッドを振っているからか、手の平を通して豆の感触も伝わってきた。
「レディ……」
 弥が握り合った拳の上に手を置く。菜々衣は空田の目を見た。向こうは真剣な眼差しでこちらの目をじっと見ていた。ただし照れるようなそれではなく、まるで何か獲物を見つけたチーターのような目だ。
 ……そこまで真剣にならなくても。でも女子に負けるのはやっぱりカッコ悪いと思っているのかもしれない。
「ゴー!」
 弥の手が離れる。菜々衣は反射的に力を込めた。
「おおっ!」
 周りがどよめく。菜々衣と空田は互角の力で渡り合っていた。里美とは比べられないくらいの強さだったが、これくらいならまだいける。
 そう、もうこれまでの流れで分かっていると思うが菜々衣は握力が強かった。多分小さい頃、鉄棒や雲梯、登り棒が好きで毎日のようにやっていたから、腕力も合わせて鍛えられたのだと思う。そしてそれは密かに彼女のコンプレックスであった。
(だけどどうしようか。ここで私が勝ってもいいのだろうか)
 菜々衣は少し眉をひそめて空田を窺った。すると彼はそんな気持ちを見透かしたように、
「わざと負けるとかないよな?」
 相変わらずさわやかに笑って、ぐっと力を込めてきた。まだ余裕があったらしい。
 しかしこの彼の余裕を前に、あろうことか菜々衣の心のゴングが鳴ってしまった。今になって思う。自分の負けず嫌いはそこで発揮されてはならなかったのだと。
 だがもう遅い。その時の菜々衣を止められるものは誰もいなかった。
 気付けば空田の腕をねじ伏せていた。
「わあー! ナナが勝っちゃった!」
 里美が声を上げる。
「おいおい空田。何やってんだよ」
 男子たちもざわざわし始めた。――ああ、やってしまった。
 菜々衣は呆然と自分の手を見つめ、心の中で頭を抱えた。対する空田も、あ然として豆のある自分の手を見つめていた。
 
 その後の説明は特に必要ないだろう。空田に勝ってしまった手前、わざと負けるわけにもいかず、結局『腕相撲クイーン』という名がついてしまったのだった。まだ『怪力女』と呼ばれなかっただけましだったと自分を慰めるしかない。
 だいたい腕相撲は握力だけで何とかなるものではないはずで、コツというものもあるそうだ。ただ残念なことに、そこまで腕相撲にのめり込みコツをマスターしたクラスメイトはいなかったのである。



 話をもとにもどそう。
 先に話した不本意な出来事から、菜々衣は『腕相撲クイーン』と呼ばれることになってしまった。そして今、顔も名前も知らない男子から、『腕相撲クイーン』としてスカウトされている。
 一体何なのだ。握力と腕力をスカウトする? 何気に気にしていることだと知って言っているのだろうか。この二つ名を得てから、色々力仕事の雑用を任されるようになってしまったというのに。
 菜々衣は目の前でにっかり笑う少年を半眼で見返した。細身で、身長は菜々衣より少し高いくらい。肌の色はあまり焼けていないが、健康的に見えた。少し茶がかった髪はあちこちに跳ねている。寝癖というよりは多分天然だろう。
 学ランの胸ポケットについたネームプレートの色は緑なので、同じ学年には違いない。
 数分前に二月の二者面談を終え、期末テスト前最後の部活に向かう途中だった。昇降口の手前の渡り廊下で、この少年に声をかけられたのである。
「えっと……腕相撲部か何か? 悪いけど私、テニス部で手いっぱいだから」
 『腕相撲クイーン』でスカウトされて何か良いことがあるとも思わない。菜々衣はさらりと適当にやりすごすことに決めた。
 対して少年は、
「え、腕相撲部なんてあるの?」
 きょとんとして訊き返してきた。……おや、これは冗談が通じない部類か。
「ううん、私も聞いたことないけど」
 菜々衣は愛想笑いで首を横に振った。この中学にそんな部活は存在していなかったと思う。あったとしても絶対入らないが。
 少年は「なーんだ、無いのか」と少し残念そうな顔をした。それを見たら、なぜかこっちが申し訳ない気持ちになってしまった。
(いやいや、そうでなく)
 菜々衣はコホンと咳払いをした。
「ねぇ、何組の誰?」
 仕方なく相手に尋ねる。普通はスカウトする方から名乗るものだと思うのだが。
 少年は、「あれ? まだ言ってなかったっけ?」と言うように軽く首を傾げ、
「僕は二年五組の槇梓(まきあずさ)
 遅ればせながら自己紹介をした。
 槇梓。知らない。まず五組に行かない。菜々衣と仲の良い友達は二組と四組に多いのだ。
「その五組の槇君が、『腕相撲クイーン』に何の用?」
 菜々衣は改めて一番の疑問を口にした。そもそも自分があまり関わりないと思っていた五組にまでその名が知れ渡っている事実が恐ろしい。広めているのは一体誰だ。
 槇は初めの時と同様にっかり笑って言った。
「君のその握力と腕力が欲しいんだ。二、三日でいいから」
 力だけなら生活に支障を来さない限り全てあげてしまっても良い。しかし現状、力だけを渡すのは無理だ。つまり菜々衣本体も必要ということである。 菜々衣は訝しげに彼を見遣った。
「その使い道は?」
「宝物運び」
 は? 宝物……? 意外な返答に菜々衣は目を見開いた。
 その時、キーンコーンカーンコーンと三時五十分のチャイムが鳴った。いけない、後一時間ちょっとで部活が終わってしまう。
 菜々衣が口を開く前に、彼の方が半身を翻した。
「じゃあ明日、授業が終わったら特別棟三階の理科準備室に集合。よろしくね」
「え……」
 菜々衣が理解するのを待たず、槇は片手を上げて昇降口とは反対方向へ歩いて行ってしまった。
 気付いた時には菜々衣一人がぽつんと取り残されていた。彼の言ったことを反芻する。
 明日? 特別棟三階? 理科準備室?
(――っていうか)
「私の答えは無視?」
 今さらながら、彼の勝手さに少し憤りを覚える。
 菜々衣はまだ整理のつかない頭で、雑に上履きを履き替えた。実は二者面談でも、もやもやすることがあったのである。さっきのスカウトと槇の件といい、早くラケットで思いきり球を打ってすっきりしたいと思った。
 そしてバンと音を立てて靴箱のロッカーを閉めた時、そこでふと気付いた。
「ちょっと、明日から期末テスト一週間前じゃないのよ」
 これは行くべきなのかどうなのか。



二.
「そういえば菜々衣、今日二者面談だったんでしょ。どうだった?」
 夕食後、食器を流しに運んだところで母親から尋ねられた。
「どうって……別に。成績も特に問題ないって言われたよ」
 菜々衣は当たり障りない返答をした。
「もうすぐ三年生になるじゃない。進路については何も話さなかったの?」
 母親の問いは鋭い。菜々衣の胸の内で、またもやもやとしたものが湧き上がってくる。
「志望校はまだ未定です、って答えたけど、とりあえず文系志望かな」
「そう」
 母親は軽くうなずいただけだった。
 菜々衣はそれ幸いと、心なし早足で自分の部屋に向かった。自分の部屋と言ってもマンション暮らしなので、弟妹の勉強机やタンスもある。今弟たちは居間でテレビを見ているため、部屋は静かだった。
 椅子に座ると、机にだらりと腕を預けた。机上の写真をボケーッと眺める。去年の秋、スピーチコンテストの時の写真だった。
 進路。
 ぼんやりと先程の母親との会話から、昼間の担任との二者面談へとさかのぼって辿って行く。この時期の面談と言えば、やはり三年生に向けての進路相談が主な目的だ。一通り学校生活や部活動の話を終えると、担任の坂崎先生はその話題に入った。
「なるほど部活も順調、と。で、もうすぐ三年生になるわけだけど、渡里さんは進路について考えてる? 志望校とか、文理とか、もしくは就職とか」
「いえ、特には……」
 今まで滑らかに話していた菜々衣は、ふいに口ごもった。このことについて訊かれると分かっていたものの、きちんとした答えはまだなかった。歯切れ悪く、正直に今の状況を告げる。
「一応進学するつもりでいますけど……まだ志望校は決めてません。あと、多分文系です」
 坂崎先生はふんふんとうなずいた。まだ若い国語の教師だか、「お母さん」という雰囲気がある。
「まだ二月だけど、三年生になるのはあっという間だからね。少しずつ、資料とか集め始めた方が良いと思うの」
「はあ……」
 面と向かってそうは言われても、まだ実感と言うものが湧かないのでよく分からない。菜々衣の返事は曖昧なものになってしまった。坂崎先生は構わずに続けた。
「今の渡里さんの成績と内申は特に問題ないから、三年生になっても維持できるよう頑張ってね。行きたいところが見つかった時、選択肢が広いのは良いことだから。それからあとは、行きたいと思う分野を見つけること」
「……はい」
 菜々衣はうなずいたが、やはり『受験』という実感や焦りはなかった。ただ心の中に何かもやもやとしたものが立ち上っていた。
 はあーっ。大きなため息を吐く。
 まだ中学二年生。二月初めに十四歳になったばかりだ。学校ではそわそわとした三年生たちを見かけるけれど、一年後の自分もそのようになっているのだろうか。そのそわそわは一体何なのだろう。……分からない。菜々衣はしゃきっと背筋を伸ばした。
「とりあえず期末テスト頑張ろう」
 気持ちを切り替え、学校の鞄から日本史の教科書とノートを取り出す。約一週間後の期末テスト第一弾は日本史だ。

彼の宝物

三、
 本日から期末テスト一週間前のテスト週間に入る。各部活動は停止するが、野球部については今週末に遠方の学校と練習試合を控えているため、例外的に活動を認められている。
「じゃーなー」
 野球部のユニフォーム姿の空田翔介が、クラスメイトに手を振ってグラウンドへ駆けていく。
「ナナ、帰ろー」
 里美が鞄を手に菜々衣の席にやってくる。鞄のチャックをしめると自分の席を立った。里美とは家が近く、小学校の登下校からの付き合いだ。
 昇降口近くの渡り廊下まで来て、ふと何か忘れているような気がした。一体何だったっけ……。
「ナナ?」
 早くも靴を履き替えた里美が、立ち止まった菜々衣を振り返って首を傾げた。
「あ」
 思い出した。『腕相撲クイーン』へのスカウトの件だ。でも正直、思い出したくなかったかもしれない。頼まれると放っておけない性格が少しうらめしい。
「ごめん、サトちゃん。私、用事思い出したから、先帰ってて」
「何、用事って」
 里美がきょとんとする。
「さあ、よく分かんない」
 私はくるりと下駄箱に背を向け、自分たちの教室のある棟とは反対側の渡り廊下へと向かった。特別棟の階段を三階まで上る。特別棟三階は理科室が三つと、一番奥に目指す理科準備室がある。理科準備室の前まで行くと、タイミングを見計らったかのように扉がスライドしてひょっこり少年が顔を出した。
「お、来た来た『腕相撲クイーン』さん」
「……どうも」
 菜々衣は露骨に渋い顔をした。でも少年――槇梓は、昨日会った時のようににっかり笑っていた。



「これが宝物?」
 大小の段ボール箱計十個ほどを、特別棟一階の空き教室から運び終えた後、その中の一つを開けて菜々衣は呆然とした。
 開けたのは最後に運んだわりと大きめの箱。中に入っていたのは、ゴツゴツとした大量の石……。
「ああ、それは火成岩の箱だよ」
 槇が何ともないように言って、満足そうに息をついた。
「ありがとう、助かったよ。一人で運んでたらと思うとぞっとするね」
 いや、今目の前の光景に、菜々衣自身がぞっとしている。
 一体何なのだ、これは。
 一階から三階まで、何往復したことだろう。菜々衣は必死になって、この岩石たちを運んでいたのだ。重いはずである。
「ちょっと、これ何なのよ。何が宝物?」
「何って岩石だよ? 地学でやるやつ。ここにあるもの全部が宝物だよ、僕の」
「……」
 こいつは一体何を言っているのだろう。菜々衣は何も言えなくなった。
 宝物だと言われ勝手に浮かれていたのは自分だが、それにしても何だってこんな重労働をさせられなければならなかったのか。
「後は整理していくつか並べるだけだな。渡里さん、そこの火成岩良さそうなの二、三個取ってくれる?」
 槇は楽しそうに菜々衣の方に手を出した。
(良さそうなのってどれよ)
 菜々衣は渋りながらも、適当に上にあった数個を彼の手に乗せた。
「ねえ、この箱のどれかに、宝石とか眠ってたりしないの?」
 半ばどうでもいいやと言う気持ちできいてみた。
「うーん。岩石の中に含まれる鉱物をセルフサービスで取り出したいならどうぞ? てか宝石そのものがあったら、学校に寄付しないで僕がもらってる」
 槇は答えながら、渡された火成岩を丁寧に台の上に置いていく。台は教室の壁際にある棚に設置された取り外し可能なもので、上に置いたものをまとめて移動できる。どうやら棚にこれら岩石が並ぶらしい。
 理科準備室の中は真ん中に仕切りを挟み、薬品類や顕微鏡が保管されている方と、人体模型や虫の標本などが並ぶ、今菜々衣たちがいる方とに分かれる。
「寄付って、これあんたのなの?」
 菜々衣はぎょっとした。これらは全て槇家にあったものなのか?
「じいちゃん家の裏山に地層があって、そこから取って来たものなんだ。あまりにも多いから、今回先生に相談して少し寄付することになった」
「へえ、地層かあ。私、生では見たこと無いな」
「興味があるなら今度招待するけど」
 槇はせっせと並べながら、弾む口調で言った。
 あーでもない、こーでもないと菜々衣にはどう並べても一緒のように思える岩石を熱心に並べる彼は、パズルに熱中する小さい子どものようだった。  その姿を見ているとなぜか心の中にあったもやもやも薄れてきて、菜々衣は時間の許す限り段ボールの開封やらを手伝うことにした。全く、自分はどこまでお人好しなのだろう。
 開け放された窓から、冷たい風と共に威勢のいい声が聞こえてくる。野球部だ。
「あ、寒かったら窓閉めていいよ。ここストーブ使えないし」
 槇が菜々衣の視線に気付いて言う。
「ううん、大丈夫。往復したせいで暑いくらいだから」
 菜々衣は多少皮肉っぽく言って、外の声に耳を傾けた。


「本当ありがとう、助かったよ」
 学校を出る時、時計の針は五時を指していた。授業を終えたのは二時半のはずだから、二時間半は経過している。
 今頃他のクラスメイトたちは、せっせと期末テストの勉強に励んでいるに違いない。菜々衣はふうと息を吐いた。
「女子にあんな力仕事させるなんてどうかしてるわよ、槇」
 今日ですでに君付けする相手でもないと思った菜々衣は、平然と彼を呼び捨てにした。槇は特に何も言わず、ふふとうれしそうに笑っている。
「さすが『腕相撲クイーン』だね。僕の見込みは正しかった」
「ねえ、それケンカ売ってるの?」
 菜々衣は彼に半眼を向けた。テスト勉強もできず肉体労働をさせられるとは、いい迷惑であった。しかし彼には全く悪びれた様子もない。
「理科講義室の方にも少し展示するつもりだから、また見においでよ」
「……気が向いたらね」
 三つある理科室のうち一つは講義室になっていて、たまにそこで授業をする。準備室よりは入る機会が多いかもしれないが、学期に数度だろう。しかも二年の授業はもう終わりも同然なので、三年のことになる。
「講義室は科学部の活動場所になってるから、だいたい開いてると思うし」
「え、あんた科学部だったの」
 そういえばそんな部活もあったかもしれないと今思う。詳しい活動はもちろん知らない。
先程まで、楽しそうに火成岩だか深成岩だかの説明をしていた槇を思い出すとまあ納得だった。実験とかも好きなのだろうかとちらと思う。
 ふと、正門を急ぎ足で出て行く女子生徒に目を遣る。彼女は全く知らない人だった。しかしその独特の雰囲気を持つ姿を、目で追ってしまう。
 槇がその視線に気付いたのか、さりげなくつぶやいた。
「三年生だね。こんな時間まで残って勉強かな」
 もしくはこれから塾に行くのか。
 菜々衣の胸に、また何とも言えないもやもやがせり上がってきた。
 二月下旬。三年生たちは、私立高校の受験は終えたようだが、まだ公立高校の受験が待っている。
(私も来年はあんなだろうか)
 日々張りつめていく空気。自分もそれをまとうのだろうか。――全然想像できない。
「槇」
 思わず彼を呼んだものの、その後の言葉は続かなかった。何を言いたかったのか、菜々衣にも分からない。
「どうしたの」
 槇は不思議そうに首を傾げてこちらを見た。
「……ううん、何でもない。じゃあ」
 菜々衣は首を横に振り、彼に向かって片手を上げた。
 早く帰ってテスト勉強をしよう。今日は昨日の日本史の続きと、少し数学も始めなければ。
「バイバイ。あ、このお礼はいつかするから」
 後ろから、とってつけたようなセリフが聞こえた。



 マンションの自分の家の前まで来た時、ガチャリと扉が内側から開いた。
「あ、おねえちゃんお帰りー」
 妹の紗衣(さき)が勢いよく飛び出してくる。そのすぐ後に母親も続いた。
「あ、菜々衣お帰り。丁度良かったわ。今からピアノ教室に行ってくるから、お父さんと夕樹(ゆうき)が帰ってきたら夕食お願いね。いつものようにメモ貼ってるから」
「うん、分かった。いってらっしゃい」
 菜々衣は慣れたように返事をし、彼女たちを見送って家に入った。
 紗衣は小学三年生で、幼稚園の年長から週に一回ピアノ教室に通っている。少し遅い時間且つ距離もあるので、毎回母親が送迎として付き添っているのだ。
 菜々衣が制服を着替えて居間のソファに腰を下ろした時、玄関の方でガチャリと鍵が開く音がし、騒々しい足音が近づいて来た。
「たっだいまー」
「お帰り、夕樹。うわ、何その砂まみれ! さっさと着替えてきなさい」
 小学五年生の弟の夕樹である。毎日毎日、友達とサッカーに明け暮れている。土日はスポーツ少年団で活動していた。
 彼が帰って来たと言うことは、そろそろ父親も帰ってくる頃だろう。菜々衣はよいこらせと立ち上がり、台所に向かった。
「そーだ、聞いてよ姉ちゃん。今日オレ、ゴールいっぱい決まったんだー」
 洗濯機のある風呂場の方から、夕樹の得意げな声が聞こえてくる。
「へえー、そうなんだ」
 いつも夕樹は母親や姉にその日の報告をする。そのほとんどがサッカーのことである。本当に楽しそうに、ずっと一人で喋っている。菜々衣はたまに相槌を打ちながら、夕飯の準備をすすめた。
「あんた、ほんとにサッカーばっかりね……。学校はどうだったの」
「え? 学校? あ、体育も今サッカーやっててー」
「またサッカー!? 他の授業は!」
 さすがの菜々衣も呆れ、小さくため息を吐いた。
(マジでサッカー馬鹿か)
 そう思いつつ、しかし菜々衣の心の中には少しうらやましい気持ちもあった。
 夕樹にはそれだけ夢中になれるものがあるのだ。菜々衣にはそういうものが思いつかない。
(そういえば槇は岩石とか好きそうだったな……)
 ふと、今日の彼のことを思い出す。槇も楽しそうに火成岩について喋っていた。
 好きなことについて話す槇も夕樹も同じ顔をしていた。
(私には、何かあるだろうか……)
 少し考えてみたが、やっぱり何も思い浮かぶものはなかった。

縁と翡翠

四、
 金曜日の最後の授業は理科だった。もうテストも間近なため、内容はこれまでのまとめだ。
「では先週出した課題を回収する。悪いが日直は職員室まで持って来てくれ」
 理科の倉橋先生は、薄くなった頭を申し訳なさそうにかきながら言った。
 なぜ今日に限って。日直は菜々衣であった。
 号令をかけた後、クラスメイトたちが次々と前の教卓の上に課題プリントを置いていく。先生は慌しく教室を出て行った。普段ならみんなが出すまで待って自分で回収していくのに、今回は余程急ぎのようがあるのか。提出し終えた生徒は次々に教室を後にする。
「ナナ、今日塾だから先帰るね」
 里美が片手で拝みながら言い、先に出て行く。彼女は二年生になった頃から、週に二日塾に通っていた。
 菜々衣は周りを見回しながら、自分もプリントを持って教卓へ向かった。もうだいたい提出しただろう。一応念のため声をかけてみるが、その場にいたものからはオッケーと返事があった。
 明日の日付や日誌を書いたりと一通り日直の仕事を済ませ、窓の鍵は教室に残っている友達に頼んだ。帰る用意をして、プリントを手に教室を出る。教室のある棟から二階の渡り廊下を渡って、丁度昇降口の上の階にあたる職員室に向かった。
「失礼しまーす」
 ドアを横にスライドさせると、一番手前の机に座っている女性教師がこちらを向く。女子体育担当で、一年生の担任を受け持つ先生だ。面識は一応ある。
「日直?」
「はい」
 菜々衣は担任を探したが見当たらなかったので、日誌を机の上に置き、続いて理科の倉橋先生の姿を探した。しかし彼も見当たらない。仕方なくそちらも机の上に置いておくことにして、「失礼しました」と職員室を出た。
 
 もう階段を下りれば昇降口のはずだった。菜々衣は階段に足を向けたものの、ふと教室棟とは反対側に続く渡り廊下に目を留めた。そっちは特別教室棟で、数日前に何度も往復した階段がある。そういえばあれから学校で槇を見ていない。菜々衣は今まで通り彼のいる五組には行く用がなかったし、特に合同授業もない。校内ですれ違うこともなかった。
 ヤツは生きているだろうかと心の片隅で思った時には、もうすでに足はそちらを向いていた。折角だから、私が運んだ岩石を見に行こうか。
 特別棟四階の一番手前が理科講義室になっている。確か槇はここが科学部の活動場所だと言っていた。菜々衣はドアに手をかけて思い出した。今はテスト期間中。各部活動は野球部を除いて停止中である。
 しかし予想に反して、ドアはするりと横にスライドした。何と不用心な、と思ったところへ、
「あれ、渡里?」
 どこか間の抜けた声がかかった。
「え?」
 菜々衣も間抜けな顔をしていただろう。講義室の窓際に、まさかここで出会うとは思わない姿があった。
「野球部キャプテンがこんなとこで何してるの?」
 そう、そこにいたのはユニフォームを着た、同じクラスの空田翔介だった。野球部はもう明日に迫る試合に向け、今日も練習のはずだ。こんなところで爽やかに油を売っている場合ではないだろう。
「俺はちょっと友達待ってるんだけど……渡里こそどうして」
 空田が首を傾げる。
「え、私は――」
「うわ、お客がいっぱい。あ、渡里さん、入るなら入りなよ」
 突然後ろから声がして、菜々衣は慌てて講義室に入ってふり返る。
「槇! 驚かせないでよ」
「ごめんごめん。翔介も待たせてごめん」
 槇は菜々衣の前を通り過ぎると空田の方に歩いていき、手に持っていた小さな紙袋を渡した。
「頼まれてたDVD」
「悪いな。忙しい中ありがとうって伝えといて。てか今度一緒に練習してって遊びに行く」
「うん。喜ぶと思うよ。明日頑張ってね」
「頑張ってねって、うちの学校でやるから見に来いよ」
「起きれたらね」
「お前昼まで寝るつもりか。テスト勉強はいいのか」
 空田が呆れたように槇をみやる。菜々衣はそんな二人をポカンと見つめていた。
 空田が待っていた友人とは槇のことで、彼らはこんなに仲良しだったのか。というより、一体どういう接点が?二人が話している所など見たことがない――といっても槇を認識したのはつい最近であったが。
「お、じゃあ俺練習もどるわ」
 空田が時計を見てはっとした表情をする。彼は菜々衣に向かってにっと笑った。
「渡里が梓と知り合いだとは思わなかった。今度また話聞かせてな」
「あ、うん」
 菜々衣はとっさにそれだけしか言うことができず、気付くともう彼の姿は見えなくなっていた。
「何呆けた顔してるの、渡里さん」
「……」
「全く接点がなさそうな僕と翔介がどうしてこんなに仲がいいんだ? って思ってるでしょ」
「分かってるなら説明してよ」
 菜々衣はふうといきを吐き、やっと槇に向き直った。手近な机の上に鞄を置き、イスを引いて座る。
 槇もそばのイスに腰掛け、軽い口調で言った。
「簡単な話だよ。僕と翔介は幼稚園からの馴染みなんだ」
「え、そうなの!?」
 この岩石博士と、あの野球部新キャプテン候補が。菜々衣は再びポカンとする。
「そんなにおどろくことでもないと思うけど」
 槇が心なし唇を尖らせたように見えた。
「仲良いんだ?」
「まあね。いつも一緒にいるわけじゃないけど、たまに話したりする」
「へえ~」
 人と人のつながりにはいつもびっくりする。思いもかけず、実は接点があったりする。その偶然は何とも興味深い。
 そんなことをつらつらと思っていたら、意外な言葉が飛んで来た。
「でもあの翔介に勝っちゃうんだからすごいよね」
「は?」
「三組の腕相撲大会だよ。渡里さん翔介に勝ったでしょ?」
「何でそれを……」
 もしや空田に聞いたのだろうか。いや、『腕相撲クイーン』と呼ばれている時点でクラスナンバーワンになっていることは知れる。
「僕あの試合見てたから」
 ふふと楽しそうに微笑む槇。――はい? 菜々衣の顔が凍りついた。
「ホント偶然、翔介に借りてた教科書返しに三組に行ったんだ。そしたら丁度君たちが腕相撲を始める所で……」
「あんたもあの観客の中にいたのか!」
「まあ、そういうことになるね。でもあれは見ごたえあったよ」
 槇は感心しているのだろうが、菜々衣はちっともうれしくない。文字通り頭を抱えた。
 五組にまで二つ名が広まっているなんて余程のことだと思っていたら、彼はまさにその場にいたのだ。はあ。ため息しか出ない。
 全く、人とはどこでどんなつながりがあるのやら、さっぱり分からない。
「ところで渡里さんはどうしたの?」
 槇が改めて尋ねてくる。
(どうしたの、って――)
「あんたが生きてるか見に来たのよ」
 菜々衣が嫌味っぽく言うと、彼はなぜかうれしそうに笑った。
「生きてるよ。失礼だなあ。あ、そうだ。この前のお礼しないと」
 槇はイスから立ち上がり、教壇の近くに置かれた彼の鞄の中をごそごそと探った。
 先程空田に渡したのよりは少し大きめの紙袋が出てくる。
「はい。この前はありがと」
「あ、ありがと」
 菜々衣は受け取って、がさごそ中身を取り出した。出てきたのはクッキーの詰め合わせ袋と、それから……。
「石?」
 少し緑がかったその石は、親指と人差し指を丸めてオーケーサインをつくった時のわっかくらいの大きさだった。
「翡翠と呼ばれてるものだよ。まあ、それは宝石とは呼べないみたいだけど」
 槇がその石の正体を教えてくれる。
「キレイ……」
「うん。僕も気に入ってる」
 彼は菜々衣の感想に、満足そうにうなずいた。
「これ、くれるの?」
「うん。お礼。それも僕の宝物の一つだからね。大事にしてよ」
 菜々衣は窓から入ってくる光に翡翠を透かし見た。キラキラと光が反射して、万華鏡みたいに変化する。面白い。
 そんな菜々衣を槇は黙って見ていた。

迷子

五、
「ねえ槇は進路とかもう決めてるの?」
 菜々衣はまだぼんやりと手の中の翡翠を見つめながら言った。勝手に口を突いて出た、と言う方が正しいかもしれない。
 槇は講義室に展示されている岩石――今さら説明をするまでもなく数日前菜々衣が運んだものたちである――を、一つ一つ眺めている。
「んー? 一応進学しようとは思ってるよ。そうだなあ、地球科学部、的な部活があるとこがいいな」
 槇は岩石の一つを手に取りながら楽しそうに言った。地球科学部。確かに地学方面に興味があるという槇にはぴったりかもしれない。
「渡里さんは?」
 当然のように質問をリターンされる。菜々衣は黙った。二者面談の時のように、はっきりした答えが見つからないので言葉が出てこない。槇は返答が無いのを特に気にしたふうもなく、火成岩に見入っている。少しして、
「進学、はするつもり、だけど」
 詰まり詰まり声を押し出すと、
「ふうん」
 という気のない返事があった。少しイラッとする。ふうん、って何だ。
 胸の中にあるもやもやも手伝って菜々衣が思わず眉を寄せると、槇は岩石をゆっくりとなでながら言った。
「渡里さんはこれからしたいなあーって思うこと、何かある?」
「これからしたいこと?」
 菜々衣は軽く首を傾げつつ考えた。これからやりたいこと。……そんなことは決まっている。
「期末テストの勉強」
 こうして菜々衣が槇と喋っている間にも、他の生徒たちは家や塾でせっせとテスト勉強に励んでいる。自分はどうしてここでこんな話をしているのだろう。坂崎先生にも言われたが、今の成績を維持するためにも早く帰って勉強しなければならない。菜々衣の答えに槇は苦笑した。
「それはやりたいことというより、やらなきゃいけないことなんじゃないの。僕はもっと君自身の意志と未来のことをきいたんだけど」
「意志? 未来?」
「そ。例えばこんな勉強をもっとしたいとか、将来こんな仕事に就きたいとか。僕みたいに、高校でやりたい部活でもいいよ」
 もっとやりたい勉強。就きたい仕事。高校でやりたい部活。
(うーん……何だろう)
 考え込む菜々衣を放って、槇は火成岩からアンモナイトの化石に目を移した。
 外から野球部の声が聞こえる以外、二人とも黙っているので教室は静かだ。だがこの沈黙は不快なものではない。むしろ自分の時間が流れていて安心する。槇がいるのに、空気の一部のように気にならない。
(私がしたいと思うこと、か……)
 仕事となると全然思い浮かばないので、興味のある分野を考えてみる。そういえば昔から本を読むことが好きだ。イラストを描くことも好きだ。でも小説を分析してどうのこうのと言うよりは、自分の好きなものを好きなように読みたいと思う。イラストももっと上手く描きたいと思うけど、デッサンなどの勉強をするよりも自分の好きなものを自由に描いていたい。別に文学研究者やイラストレーターになりたいとは思わない。息抜きとなる趣味でいい。
 部活のテニスはどうか。正直、学校生活の中で一番楽しいのは部活だった。相手と打ち合うラリーが楽しい。ラケットを思いきり振りきってコースに決まった時の快感。高校からは公式テニス部があると聞いた。もちろんこのままテニスを続けるのも良いかなとは思う。でも他にも、例えば楽器だとか、武道だとか、新たなことに挑戦してみたいという気持ちもある。
(やりたいことってこんな漠然としてるものなんだろうか……)
 他にも考えようとしてみたものの、考えれば考えるほど自分のことが分からなくなってきた。そしてそのほとんどは、本当に漠然としたものだった。
 こんな時、弟の夕樹と妹の紗衣がうらやましい。気付くと素直に声に出していた。
「あー、夕樹や紗衣がうらやましいなあ」
「誰?」
 槇がアンモナイトの化石から菜々衣の方へ視線を向けた。
「私の弟と妹。弟の夕樹は小五のサッカー少年。妹の紗衣は小三のピアノ少女なの」
 夕樹は毎日のように外でサッカーボールを蹴り、土日はスポーツ少年団の練習や試合に駆け回る。
 紗衣も毎日かかさずにピアノを弾き、週に一回ピアノ教室に通っている。
 二人とも大好きなサッカーとピアノに一途に取り組んでいた。将来の夢はそれぞれサッカー選手とピアニストらしい。大変わかりやすい夢であるが、そうなるために日々奮闘している二人は眩しくうらやましい。
「本当になれるかどうかはおいといてさ、そんなふうに夢があって一生懸命取り組めるのいいな、って思う。何か目標がはっきりしてれば、真っ直ぐそれに向かう道を選べるのに」
 菜々衣にはこれという一つの夢はない。だからこそ、どの道に行ったらいいかわからなくなる。可能性は無限だというが、こうも取っ掛かりがないとただの迷子だ。
「渡里さんは何か夢があれば悩まないと思ってるの?」
 槇が真顔で尋ねた。
「少なくとも、進む方向くらいは決まるでしょ。私は勉強が少し得意だと思ってるけど、いい成績をとって選べる高校の幅が広がっても、逆に多くて迷ってしまう」
 菜々衣は正直な胸の内を吐き出した。そう、勉強をしていて損をすることはないとは思う。だけど方向性が決まらない菜々衣には、それが返って悩ましい。何て贅沢な悩みだろう。それを聞いた槇が苦笑した。
「ははは。渡里さんのその言葉、すっげーうらやましい」
「私は槇みたいに部活でもなんでもやりたいと思える分野を持っているのがうらやましいけどな」
「まあ確かにもう既に何か目標がある人は進路も決めやすいね。でも、その人もその人で苦悩してる部分はあるよ」
 槇はグラウンドに面した窓を開け放った。ぶわっと冷たい風が教室に吹き込んでくる。同時に賑やかな掛け声と気持ち良い金属音。彼は野球部が練習するグラウンドを見下ろしながら言った。
「例えば、僕には高二の兄さんがいるけど」
 槇の兄弟の話を聞くのは初めてだった。
「兄さんは小二の時から野球に一直線で、中学でもいつもボールを追ってた。僕もよくキャッチボールの相手をさせられたなー」
 彼にそんな兄がいたとは。どちらかというとインドアな弟とはタイプが違うようだ。
「高校へは野球の推薦でスポーツ科に行ったんだ。今は春季大会に向けての練習みたいだけど、兄さんはレギュラーか補欠か、ギリギリのところにいる。もう三年の夏の大会で最後だからね」
「そっか。レギュラーとれたらいいね」
 菜々衣は思ったことを自然に口に出した。でも槇は眉を下げて、困ったような、何ともいえない表情をした。
「うん、まあ普通はそう思うんだけど」
「どうかしたの?」
「高三って大学受験だろ? 兄さんはずっとプロ目指して野球やってきたけど、周りの才能ある選手なんか見てきて、そろそろ自分の実力と現実がはっきりしてきている。大学でも野球をやるつもりみたいだけど、野球で推薦をもらうにはレギュラーになれても相当目立たないといけない。でも推薦でなければ試験を受けないといけない。大学の野球部のレベルも考えてね。で、夏の大会が終わると必死に勉強、と」
 槇がそこで一旦、言葉を区切った。菜々衣は何も言えず、ただあ然と彼を見ていた。
 高校受験でさえまだパッとしないのに、大学受験の話をされても分かるはずがない。正直頭の中はいろんな言葉にぐるぐるしていた。
「あ、ごめん。頭パンクしちゃった? 別に、大学受験の話は深く考えなくていいんだ。正直僕もよく分からないし。ただ、兄さんが悩んでるって話をしたかっただけ」
 槇が慌ててフォローを入れる。
「別に渡里さんの弟君や妹ちゃんがこうなる、なんて思ってるわけじゃないよ。でも、ある一つのものに一直線でやってきて、その現実が見えて来た時、それしかないっていうのもやっぱりすごく悩むことになると思うんだ。今渡里さんが悩んでいるのと同じくらい」
 菜々衣は知らず知らずのうちにごくりと唾を呑み込んでいた。そんなこと、考えもしなかった。何か熱中できる一つのものがあるのはとても素晴らしいことで、うらやましいと思っていた。
 いや、それは確かに素晴らしく、うらやましいことだ。でも槇の兄のように、それが自分を苦しめることもあるのだ。
 今の自分と同じくらい。槇はそう言ったけど、実際はもっと辛いかもしれない。
(夕樹と紗衣にもそんな時が訪れるのかな……)
 ふと思う。まだ二人とも無邪気に楽しんでいる要素の方が大きい。中学生になって、高校生になっても、彼らは笑ってその道を突き進んでいるのだろうか。それとも、思いきり方向転換するきっかけが何かあるのだろうか。……分からない。未来は未定だ。私が今悩んでいるように、道は無数に広がっている。
「そう言った意味では、一つのことに捉われない強みを渡里さんは持ってるよ。もちろん向き不向きや才能が関係してくるのもあるけど、やっぱり選択肢があるのっていいと思う」
 槇のポジティブな言葉が、菜々衣の心の中のもやもやを、少しだけ吹き飛ばしてくれる。今の状況が良いことのように思えてくる。
「……私、勉強だけは頑張ろうって思ってたから」
 ぽつんとつぶやいていた。槇を相手にすると、余計なことまで口が滑る。けれどそれも悪い気分ではない。むしろすっきりする。
「夕樹のサッカーの試合の応援に、紗衣のピアノ教室の送り迎え。お母さんもお父さんも二人のことでいっぱいだって私には見えた。土日なんか部活から帰ったら誰もいない、なんてよくあった。でも、勉強だけは誇れるものだったの」
 いい成績に「頑張ったね」と褒められるのはもちろん、親から、または弟や妹直接から、勉強を見てくれと頼まれるのはうれしかった。
「今思うとかまってほしかったって気持ちもあったと思うけど、そのおかげかやればやるほど勉強が楽しくなった」
 槇は黙って聞いている。少し微笑んでいるように見えるのは菜々衣の目の錯覚だろうか。
「さっきまで勉強ができたってな、って思ってたのに……不思議だな。あんたの話聞いてたら、少し勉強頑張って来て良かったって思えてきた」
「何でも、一生懸命やったことに無駄なことはないと思うけど。小さなことでも思わぬところで活かされたりするよ」
 槇の言葉はたまに同い年の子が言うこととは思えない。どこか人生の先輩、という感じがする時がある。
「じゃあ――」
 ふいに思ったことを言いかけて、やっぱりやめた。槇が不思議そうに菜々衣を見る。
 菜々衣が彼のおかしなスカウトに応え、一生懸命岩石などを運んだのは無駄ではなかったかもしれないと思ったのだ。それがあったから、こうして彼と過ごす今がある。『腕相撲』が運んできた、おかしな縁。
「渡里さん?」
「何でもない」
 菜々衣が笑うと槇はさらに首を傾げた。
「あ、そうだ。槇」
 一つ訊きたいことがあった。
「今度は何」
 槇は首を傾げたまま聞き返す。
「槇は、お兄さんみたいな人、うらやましいって思わなかったの?」
 彼は束の間沈黙した。そして、呆れたように菜々衣を見た。
「そりゃ今でも思ってるよ。翔介なんかは才能もあるから、余計うらやましい」
 突然、彼の幼馴染みのことが出てくる。野球部キャプテンの彼は、才能もあり且つ努力家だ。そういえばこの前、もうすでに野球での推薦の話が来ているとうわさに聞いたような気がする。
「そういう槇だって地球科学の分野があるじゃない」
「それとはちょっと違うんだよ。多分俺は翔介が野球を愛してるほど、地球科学を愛してない。ただの興味だから」
「は……?」
 槇のたとえはよく分からなかった。そもそも彼の口から「愛してる」なんて言葉を聞くとは思わなかった。
 何となく引いて距離をとった菜々衣に、槇がはっとして言う。
「いや、例えばだよ、例えば。質が違うってことを言いたかっただけで……」
「その例えばにどうして愛してるとか使ったのよ。意味が分からない」
 菜々衣は「気にしてない」と精一杯微笑んで、すっと立ち上がった。内心ではだいぶ距離を取りたい気持ちだ。
 そして鞄を引っ掴むと、言葉を失った槇を置いて教室を後にした。
(一体何なのよあいつは)
 ますます槇梓という男子がよく分からなくなった。もうどこにどう突っ込んでいいのやら分からない。
 しかし不思議と心の中はどこかすかっとして、階段を下りる足取りは軽かった。

 さあ、帰って期末テストの勉強をしよう。

意外とbetter

六、
 とうとうテスト最終日を迎えた。今日から部活動解禁だ。
 テスト返しのことなど考えずに、開放感に包まれながらお昼を食べる。いつものように里美と弥と共にお弁当を囲んでいた。
「はあ~、やっと部活だー。楽しみだけど鈍ってそー」
 里美がうれしいのか困っているのか分からない表情をする。
「ウオーミングアップの外周がしんどいよね、絶対横腹痛くなる」
 菜々衣も苦笑した。しかしそれを乗り越えれば思いきりラケットが振れる。その楽しみの方が勝っていた。
「私は絵描きながら舟漕ぎそうだなぁ」
 弥がのほほんとして、ご飯を口に運んだ。彼女は美術部なので、菜々衣たちのように走って横腹が痛くなることはない。だが彼女の作品は細部まで丁寧に描きこまれたものが多く、それには結構神経を使っていると思う。
 ご飯を食べ終わり、早くも更衣室に向かおうとしていたら、誰かの声が菜々衣を引き留めた。
「渡里」
「あ、野球を――」
 言いかけてすぐにはっとし、口を閉じる。
「野球が何?」
 空田が不思議そうに首を傾げた。菜々衣はあははと乾いた笑いをもらす。
 危ない。思わず、「野球を愛している空田君」と言いそうになっていた。
(全くどこかの誰かのせいで……)
 ここにはいないそいつに責任を押し付けておく。
 空田はもうユニフォーム姿で、片手に野球帽を持っていた。そういえば先週末の遠方との試合は、練習の成果か我が校が大勝であったそうだ。
「それでどうしたの?」
 空田は教室の誰とでも喋る人物であるが、ちらちらとこちらを窺っている女子もいる。あまり勘ぐられたくもない。菜々衣はさくっと尋ねた。
 相手は「うーん」と気づまり気味に、言う。
「えっと……もう一回梓と話してやろうって気はない?」
「え? 梓?」
 出てきた名前に、一瞬誰だったかと思う。
「梓、槇梓」
「ああ、槇」
 空田の言い直しに菜々衣はうなずいた。そうだ、槇の名前だった。それにしても。
「何? もう一回話すって? 槇がどうかしたの?」
 彼の言う意味が分からない。すると、空田もきょとんとした。
「あれ? けんかしたんじゃないの?」
「けんか……?」
 菜々衣はさらに首を傾げ、眉を寄せた。槇と話したのは先週の金曜日が最後だった。あの「愛してる」事件以来だ。
「梓がさ、くっらい顔して、渡里に嫌われたとかなんとかほざいてたからどうしたのかと思って。けんかかと」
「ああー、そんなことに……」
 槇がそんなことをほざいていたとは露知らず。菜々衣はあれからすぐテスト勉強に打ち込んで、今日まで持てる力を全て注ぎ込んだつもりだ。申し訳ないが、槇のことなど念頭になかった。
 菜々衣が金曜の出来事と共にそんな正直な気持ちを話すと、聞いていた空田はぶっと吹き出した。
「あははははっ、何だそれ。あいつが勝手に落ち込んでるだけか」
「そういうことだよ」
「しっかし俺が野球を愛してる、ねえ。まあその通りだけど」
 空田はそこで「あ、だからさっき……」と菜々衣の失言に気付いた。菜々衣は少し照れたように横を向いてごまかす。
「あいつたまに照れとかなくとんでもないこと言いだすからなあ。むっちゃ分かりやすい言葉なんだけど、聞いてる方はぎょっとする」
「そう、それ!」
 さすが長年槇と付き合いがある幼馴染みだ。よく分かっている。きっと彼らはずっとそんな会話をしてきたのだろう。
「そか。じゃあ別に嫌いになったわけじゃないんだな」
「別に好きでも嫌いでもないけど。槇ってよく分からない」
「じゃあそう伝えとく。あいつなかなか喋りかけるの迷ってたから。渡里もまた気が向いたら理科室とかのぞいてやって」
「いいけど今日は部活」
 菜々衣が苦笑すると、空田もふっと笑う。
「確かに。待ち遠しかった部活だもんな。野球部のボール飛んでったら悪い」
「なるべく気を付けてよ」
 菜々衣がわざと唇を尖らして言うと、空田もわざとらしく敬礼し「気を付けます!」と返事した。とは言っても、これは彼だけに言っても仕方のないことだ。
 それから空田と別れ、今度こそ更衣室に向かう。里美は副部長だから、もうとっくにグランドに出ているだろう。
 ラケットとタオルとお茶を持って外に出る。ふとグラウンドから、特別棟の四階を見上げた。理科講義室の窓が開いて、カーテンが揺れているのが分かった。槇はいるだろうか。今日も岩石を手入れしているのだろうか。
「女子テニス部集合―!」
 部長の声が聞こえ、菜々衣は特別棟に背を向け走り出した。



 結局、槇の姿を再びちゃんと見たのは三年生の卒業式も間近に迫った球技大会だった。
 期末テストの結果はまあまあ満足する出来で、テストが終わった後の菜々衣は専ら部活に熱中していたのだ。朝練も毎朝参加し、短縮授業の後の長い部活に汗を流していた。
 別に槇の方から話しかけてくることもなく、菜々衣が五組や講義室に行くこともなく。たまに空田と喋っている所は見かけたが。
 菜々衣の中学の球技大会は、学年でのクラス対抗であるものの、全学年一斉に行われる。体育館と運動場を上手いこと仕切って行われる。
 種目はバレー、バドミントン、卓球、バスケ、サッカー、ソフトボール。菜々衣の種目は女子サッカーだった。本当はラケット競技が良かったが、あまりにも希望者が多く、じゃんけんで敗退した。腕相撲なら負けなかったのに、と調子のいいことを思う。
 グラウンドに出ると、受験から解放された三年生たちが元気よく駆け回っていた。テニス部の先輩を見つけて少し話す。彼女は先週公立高校の受験を終え、体が鈍ってしょうがないと言った。本調子とはいかないだろうが、身体を動かせるのがうれしいとも。
 先輩に試験の手ごたえはどうだったかとは訊けなかったものの、彼女の晴々した顔から、満足いくものだったのではないかと勝手に想像した。
(受験って、体が鈍ることだけじゃなくって、気持ちもしんどいんだろうな……)
 期末テストとはまた別の、いやそれ以上のプレッシャーが圧し掛かってくるのだろう。それを考えると、菜々衣は少し心が重くなったような気がした。
「菜々衣、ほら一回戦行くよ」
 同じくサッカーの里美が菜々衣の腕を引っ張って行く。ちなみに弥はバドミントンである。

 夕樹と違ってサッカーが得意でない菜々衣は、ほどほどに走り、パスを出し、相手と競り合って一回戦を終えた。
 幸い菜々衣のクラスには女子サッカーをやっている子がいて、その子を中心に展開することができた。
 とりあえず足を引っ張らなかったことにほっとする。菜々衣はスポーツができる方ではないのだ。
「あ、空田君の試合始まるよ」
「ホントだ」
 二試合目まで暇なので、里美とグランドの一角で行われているソフトボールの応援に向かう。丁度三組の試合が始まる所で、相手は――
「五組だ……」
 向かい合って整列するナインたちの一方に、槇の姿が見えた。
「あいつソフトボールだったんだ」
「あいつ?」
 訊き返す里美に曖昧に笑い返し、応援席に収まった。当然三組側である。
 体育館からも応援が来て、今の試合の結果報告会が行われる。三組は今の所勝ちの方が多いようだ。
 三組と五組には、野球部がそれぞれ三人ずつ入っている。今日はみんな学校指定のジャージ姿だが、空田はさすがキャプテンらしい風格が漂っていた。野球部の彼らは普段ないお互いの対決を楽しみにしているように見えた。
 三組は先攻だったので、号令後一度下がる。一番、二番打者を除いて、他のメンバーは応援席の前あたりに待機した。
 槇は一塁と二塁の間くらいの位置、セカンドのポジションにいた。屋内にいる時はあまり思わなかったが、彼の肌は白っぽく見えた。一塁にいるチームメイトとキャッチボールをしている。意外にも滑らかだった。
「梓、上手いよ。小学生までは俺と一緒に野球やってたからな」
 いつの間にかそばにいた空田が、菜々衣にこっそりつぶやく。
「マジで?」
 確か兄は高校球児であると聞いたが……。
「あいつインドアに見えるけど、だいたいのスポーツは難なくこなすぞ。まあ際立って上手いとかはないけどな。勉強も、ブッチギリ高得点の理科以外もまあまあだし」
「へえ~」
 意外、と言っては失礼か。本当に槇という男子は分からないやつだ。
「まあ楽しんで見てろよ」
 あっという間に一番打者が空振りに終わり、四番の空田も一応準備に入る。
 二番打者が鈍い音を立てて、ボールを飛ばした。飛んで行った先は、槇のいる方だ。
「――あ」
 槇の動きは鮮やかだった。何の苦もなく、丁寧にボールを処理した。一塁にいるのは野球部ではなかったが、槇の返球はそのグローブにすっぽり収まった。五組から、「おお~」と歓声が上がる。菜々衣の目も見開いたままだった。
 微かに、槇が菜々衣を見たような気がした。一瞬、軽く唇の端に舌を出す。やっちまった、というような。でもその表情は後悔ではなく、どこか楽しげだった。
(槇は野球をやってたのか……)
 どうして中学では続けなかったのか。ふとそんなことを思う。
 結局、空田の出番は次の回にお預けとなり、三組の守りの番になった。
 


 最終報告をするならば、三組は二年の部総合で準優勝であった。ソフトボールは優勝、菜々衣たち女子サッカーは何と準優勝だったのだ。
 そして、菜々衣たちの学年総合優勝は、
「おめでとう、五組さん」
 菜々衣は特に感情も込めず、校舎の陰でお茶を傾ける槇に声をかけた。今日は各委員会があるので、放課後の部活動はない。
「三組こそ準優勝おめでとう」
 槇は一瞬驚いた表情をしたが、微かに笑みを浮かべて返してくる。
「見てたよ。渡里さんサッカーもできるんだ。弟君の相手とかしてるの?」
「それはどうも。生憎あいつの相手をするほど物好きではないわ」
 菜々衣は軽く肩をすくめた。
「それよりあんた野球やってたんだって? 空田君が、槇さえいなけりゃもっと楽に勝てたのに、って言ってたよ」
「それは光栄だなあ」
 槇はふふと笑いをもらす。菜々衣は少し小さな声でつぶやいた。
「……ホントに上手かったよ? びっくりした」
「ありがとう」
 彼は素直に礼を言って、ペットボトルのふたを閉めた。
 体育館から少し離れた場所だったが、まだ賑やかな声が聞こえてくる。きっと主に三年生だろう。彼ら彼女たちは、もう後数日で卒業していく。卒業式を除けば、最後の学校行事である。優勝したクラスも、残念ながら取れなかったクラスも、声を上げ、抱き合い、お互いの頑張りを称え合っていた。
 そんな光景を見ていると、やはりまた想像してしまう。
 来年の自分もあんなふうなんだろうか。先輩のように鈍った体と圧力に耐えた心を思いきり解放し、クラスのみんなで、またはクラスを越えて、喜び合ったりしているのだろうか。
「来年の僕たちもきっとあんなんなんだろうね」
 槇がポツリとつぶやいた。
「でもまだ来年の今頃まで、時間はある」
 菜々衣がじっと槇を見ると、彼もじっと菜々衣を見返した。
「きっと渡里さんが不安に思う程の一年ではないよ。高校に行くなら受験は絶対乗り越えないといけないものだし、確かに迷うこともある。でもいつかは来年の球技大会がやって来て、卒業式が来る」
 時間は待ってはくれない。果たして来年の球技大会を、菜々衣はどんな気持ちで迎えるのだろう。
 あんなふうに、みんなと楽しい思い出を刻めるだろうか。
「やりたいことだって、まだまだ見つけることができるよ。改めて気付くことだってあるだろうし。高校見学もして、漠然とでも興味のあることに足突っ込んでみたりして、行く方向が見つかればいいね」
 槇の声は心の中に優しく響く。
「僕は、bestの道なんて滅多にないと思ってる。だからその時のbetterな道を進みたい」
 Bestは無理でもbetterな道を。菜々衣の心の中に、何かがすとんと落ちた。
「……槇、英語できるんだね」
「え、もしかして僕は理科しかできないと思ってる?」
 菜々衣がくすくす笑うと、槇は「失礼な!」とわずかに眉をしかめた。菜々衣は首をふるふると横に振った。
「ううん。冗談だよ。勉強はまあまあだって聞いた」
「……翔介、だね」
「うん」
 槇はやれやれとため息を吐くと、少し春めいた風に目を細めた。早くも桜が蕾を膨らまし始めている。卒業式にはちらほら咲き始めるかもしれない。
「槇、ありがと。あんたのおかげで、少しは胸の内が軽くなったような気がする」
 菜々衣は空を見上げたまま、思っていたことを口に出した。
「私もう少し探してみる。中学生を楽しみながら」
「うん。何か見つけたら聞かせて。まあ、中学で見つけられなかったら、高校でもいいんじゃない?」
 槇が何でもないことのように言う。
「迷わない人なんていないし、人生何が起こるか分からないし、これだと思ってもやっぱりなあって思うかもしれないし。僕だってまだまだ分からないよ」
 菜々衣はそれを聞いて、改めて思った。
(こいつ、たまにおじいちゃんみたいなこと言うわね)
 人生の先輩みたいな。もしかして十四歳の仮面を被ったおじいさんなのか。
 
 菜々衣は来月には始まる中学最後の一年に思いを馳せた。

よろしく

七、
 菜々衣は職員室に行って担任に結果を報告すると、特別棟の四階にある理科講義室に向かった。
 卒業した後の校舎は、どことなくよそよそしく、こちらの肩身が狭い。まだ身分的には中学生のはずなのに。
 講義室のドアの前に立ち、ドアをゆっくりスライドさせる。
 多分と言うか絶対ここにいるはずだ。
「槇?」
 講義室の窓際で、グラウンドを見下ろしている男子生徒がいる。ほっそりした身体に、どちらかと言うと白い健康的な肌。少し茶がかった髪はあちこちに跳ねていて、寝癖というよりは多分天然だろう。菜々衣と同じように、制服姿では無くて、私服だ。
「あ、渡里さん」
 槇が菜々衣に気付いて振り返る。
「その顔は合格だね」
 菜々衣が言う前に、先に言われた。
「何であんたが先に言うかな。ていうか、あんなに頑張った私が落ちるわけないでしょ」
「うわー、すごい自信。渡里さんますます強くなったよね。何というか、図太くなったというか……」
 槇は失礼なことを遠慮なくずけずけと言い放った。彼の方こそ口が悪くなったような気がする。
「で、あんたはどうなったのよ」
「僕? もちろん合格したよ。国語と数学は渡里さんに感謝してる」
 槇はふっと微笑んだ。この笑いは初めて会った時と変わらない。
「そ。それは良かった」
 菜々衣は満更でもなくうれしい気持ちになる。自分が役に立つのはうれしいものだ。
「そういえば渡里さんはどこに受かったの?」
 今さらながら槇が尋ねてくる。だがそれも当然だった。同じクラスでもなく、出願からはあまり会う機会が無かった。また会ったとしても受験校について話さなかったのだ。
「もう教えてくれてもいいでしょ」
 槇の声がこころなし尖っているように聞こえる。
 菜々衣は苦笑して、小さく息を吐いた。
「市立○×高校」
「え?」
 槇が一瞬きょとんとする。そのリアクションが面白くて、菜々衣は吹き出した。
「何その顔!」
「え、だって……」
「あははは。――というわけで」
 菜々衣はまだおかしさを堪えられないまま、槇に右手を差し出した。
「私は特進科クラスだけど。高校でもよろしく、槇?」
 槇が気の抜けたような顔で苦笑しながら、右手を握り返した。
「うん、よろしく――って、痛い痛い!いったいよ、渡里さん!」
 気を抜いた槇が悪い。菜々衣は自慢の握力で思いきり彼の手を握ってやった。
 そういえば一度槇とも腕相撲をしなければ、と思う。
 槇の情けない声に、菜々衣は遠慮なく爆笑した。
 

 あの頃不安だった一年は、本当にあっという間に過ぎ去ってしまった。
 そして思ったよりも不安でなかったような気がする。
 まだまだ自分のやりたいことはよく分からなかったりするけれど、今の時点でのbtterな道を真っ直ぐ進んでいこうと思う。



 そして、どうやら新しい世界でもまた、『腕相撲クイーン』は彼のスカウトに応え続けることになるようだ。


Fin.
 

始まりは腕相撲

読んでいただきありがとうございます。
自身も懐かしくなりながら執筆していました。
色々と考えていたのに、何だかあっさり終わってしまいました。
特に山場も無く……。

ただ、いつまでも悩みはつきものなんだよと、答えが出ないお話を描いてみたかったのです。

稚拙な物語に、
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

始まりは腕相撲

少女についた二つ名、『腕相撲クイーン』。 進路に悩む中学生のお話です。 一年後の私はどんなだろう?

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. きっかけ
  2. 彼の宝物
  3. 縁と翡翠
  4. 迷子
  5. 意外とbetter
  6. よろしく