レッドストライプ
【レッドストライプ】れっどすとらいぷ(名)-ジャマイカ国原産のボトルビール
この部屋は。本当は一体何のために用意されているのだろうと、考えると私はいたたまれなくなる。
無機質な、多角形の部屋。
この部屋から海が見えるとしたら、果たしてどの方角の壁なのだろうと考えて、初めて気がついたことがある。この部屋には、窓がひとつもない。
それじゃあこの光は、どこから射しているのだろう。
二時間前、この部屋に入るときに靴を脱いだ、その場所の壁に取り付けられているセンスの悪い間接照明の光が、私がベッドに潜り込む前に外した、銀の、純銀ではないけれど銀の、指輪に反射して、私の目を眩ませているのだろうか。それとも、ストロボを焚かれた後みたいにしつこく視界につきまとう、ただの残像。真っ暗闇の中で発光体は一筋のラインを引き、まるでお釈迦様が蓮の葉の間から垂らす銀色の蜘蛛の糸のようだ。
何にしても、この細い光が、カーテンの隙間から入ってくる、一日の始まりの合図みたいなものとは違う種類のものだってことはわかっている。
そんなことはどうだっていいのだ。私を盲目にさせようとしている光の発信源なんて、知らなくていい。
私が今、考えるべきことは、この部屋の存在している理由を見つけることだ。この部屋で一体何をすべきなのかを、知ることだ。
ベッドの隣に、テーブルとソファがある。テーブルの上にはポットとトレイがあって、ソーサーに伏せられたコーヒーカップが二組。それから、指輪と腕時計と煙草。男物の、飾り気の無い黒いレザーの財布と、キーのたくさん付いたチェーン。その正面には五十五インチくらいのテレビがあって、テレビのすぐ横には両開きの扉が見える。小学校の校庭にあった、百葉箱を思い出させるそれは、きっとクロゼットだ。部屋の隅っこには、高さ一メートルくらいの無愛想な白い箱。これは、冷蔵庫。
入り口から部屋までの通路には、まだ開けたことのない扉がひとつある。開けなくてもそこがバスルームだということが、私にはわかる。そしてトイレがあって、そのドアには最初から鍵がないことも、私は知っている。
今、私がいるこの部屋の、壁を一枚隔てたその向こう側では、何が行われているのだろうと、ふと考えてみる。全く様子をうかがい知ることが出来ないことから、この建物の壁の厚みを知る。私はこの部屋に足を踏み入れてから、一度も外部の音を聞いていなかった。全ての音を吸い込んでしまう、分厚い壁。私はさっき、その壁に、快楽が押し出す小さなうめき声を染み込ませた。
瞳を刺激する光の筋から目を逸らし、暗闇にやっと目が慣れてきた。
天井に、ぼんやりと人の顔を見たとき、私はぞっとして身震いしたが、今となってはそれが自分の顔だということがはっきりとわかる。
自分の、仰向けになったときの顔を自分で見る機会というのはそう滅多にない。仰向けになると重力のせいで、いつもとは違った顔になる。
だけど私はこの顔は嫌いだ。だって、少し蛙に似ている。そして蛙のような私の顔は、随分と疲れきっている。顔を洗って、化粧をし直したいとぼんやり考える。本当は、顔を洗った後に、最近買ったばかりで気に入っているローションとナイトクリームが塗られればもっといい。だけどそれは無理な話。この部屋は私の部屋じゃない。
そういえば、天井に映る私の顔の横には、もうひとつの頭が横たわっている。ふと右を向けば、その頭の持ち主が平和な寝息を立てている。少し長めの髪は、柔らかくうねっていて、白い枕に波模様を描いている。
寝顔の美しい男は最高だ。天使のようにだなんて贅沢なことは言わない。私の好みにかなっていればそれでいい。
まずは、一ミリの隙間もなく、瞼がしっかりと閉じられていること。ごくたまに、目をうっすらと開けながら寝ている男がいるけれど、どんなに格好が良くても、どんなに私を心地よくさせても、そんな寝顔を見たときには、いっぺんで興ざめだ。
でも唇は、ほんの少しだけ開いていて欲しい。飲み込まれそうなほど大きく開けていても、逆にきゅっと結ばれていてもいけない。わずかに開いた唇の隙間から見える暗闇には、色気がある。そういう唇を見るとき、私は思わず自分の舌を押し込みたくなる。物欲しそうに小さな空洞を作る唇。
つまり、死人のような寝顔が、私の理想なのだ。何も必要としない、死人のように無欲な顔。だけど唇にだけは欲をたたえた顔。唇に、後悔の念をのせた、哀れな死に顔。
呼吸を続けていたかったのか、最後に自分の一番好きなものを食べておきたかったのか、言い残した言葉があったのか、それとも、誰かの舌を味わいたかったのか。
この、私の隣にいる男は今、何も知らずに惜しげもなく、最高の死に顔を私に見せている。この男について、趣味よりも血液型よりも家族構成よりも、本当の名前を知るよりも先に、こんな無防備な姿を見られたことを嬉しく思う。しかもそれは私の想像よりもはるかに上質で、私はこんなときだけ、調子よく神に感謝する。神様こんなに素敵な男の死に顔をどうもありがとう。
私が初めて彼の存在を知ったとき、彼はこの世の全ての不幸と悲しみと弱さと情けなさを背中に貼り付かせていた。
それは、宿命のように、彼に課せられたものではなく、貼られたばかりのタトゥシールのような、他人の爪で簡単に剥がすことが出来そうな類のものだった。
初めて会ったばかりの私が、そこまで見抜けたのには、それなりの物的証拠があった。
バーカウンター。私と彼の他には誰も座っていない。暗黙の了解のような、彼が所有出来るカウンターテーブルの範囲の中には、汗をかいたロンググラス。取り残されたマラスキノチェリーが唯一、グラスに色を添えている。彼はそのグラスについて、こう思っている。何故バーテンダーは空のグラスを早くさげないのだろうかと。
彼の手元には、使い込まれたシルバーのオイルライターと、ブルーのハイライト。だけど灰皿からの吸殻からは、メンソールの香りが漂う。細い細いヴォーグ。私の大嫌いな煙草だ。
私と彼の間のスツールには、まだきっと、温もりが残っているはずだ。小さなヒップを持つ、痩せた女の。スツールに張られたレザーが、まだ少しへこんでいる。そのへこみに、彼女は彼に対する過去の愛情と、そして生まれたての新鮮な憎しみを注いで去ったのだ。多分。
彼は、決して自棄になるわけでもなく、きっと、ひとりきりになる前と同じような調子でレッドストライプを飲んでいるに違いない。そして、少しの間、貼られたタトゥシールに微かな愛着を持ち、それから誰かに爪で削り取ってもらいたいと考えている。自分の爪では短すぎて、完全に剥がすことは出来ない。それが出来るのは、長い爪を持つ女。
バーテンダーは、私にばかり話しかけるので鬱陶しく思う。今日のお客は、ボックス席に二組と、カウンターに私、そしてタトゥシールの男。
こんなときの、バーテンダーの手持ち無沙汰を解消するには、私のような客は格好の相手だ。さしたる目的もなく、誰かを待つわけでもなく、時々来て、顔見知りになり、素性も少しだけ知っているような、若い女。バーテンダーは、私のふたつ隣のスツールに座る男に話しかけられずに、少々戸惑っているようで、そりゃあそうだろうなと、私は軽く同情してみせる。
男が、レッドストライプのおかわりを頼んだとき、初めて私は彼の声を聞いた。まるで患者に不治の病名を宣告する神経症の医師のように静かに、それでいて全く正反対の、淫靡な響きを持つその声は、カウンターをすっと滑べるようにして私の耳にも届いた。私は思わず、その声帯が発する音をバラバラにして言葉を組み立てる。
例えば、愛を囁くための単語。私は残酷な想像を繰り返す。彼らの愛が破綻する前の、甘いシーン。彼に抱かれる女の体には、顔がついていない。チェリーのように鮮やかな色の下着を身に着けて、女は男の首に腕を絡ませ、ねだる。ねぇ、愛してるって言って。彼は言われるがままに、惜しみない愛情を込めて囁く。そのうち、その囁きが甘さを持ちすぎて、女が胸焼けを起こすことも知らずに。
私は、想像の中で罪のない彼を手痛くいたぶった。どんなに女からなじられようと、彼はただただ眉間に微かな皺を寄せて微笑するものだから、さすがに罪悪感にさいなまれた。空想上の健気な彼をいとおしいと思う気持ちが、ミクロの単位で動き出す。
バーテンダーがお客の注文に応えるべく、レッドストライプの栓を抜いている隙に、私はスツールをひとつ、移動した。
「お帰りの際は、レッドストライプに気をつけて」
唖然とする彼の隣の席を自分のものにして、私は緑色のキャメルに火をつける。
「このビールの名前の由来を知っている?」
男は一瞬、間を置いて、首を横に振る。
「原産国のジャマイカでは、警察官の制服に赤い線が入っているの。お酒を飲むときには警察官に注意、って意味」
そう言ったところで、彼の注文したレッドストライプの瓶がカウンターに置かれた。自分が目を離した隙に、カウンターの席の状況が変わっていることに気づいたバーテンダーは、私に苦笑して、取り残されていた私のグラスを、レッドストライプの横に移動させた。
「それじゃあ、あなたもレッドストライプに気をつけて」
そう言って乾杯を促したのは、彼の方だった。グラスを合わせたとき、彼の背中に貼り付けられたタトゥの、悲しみという名前の着いた部分が剥がれ落ちる音がした。
レッドストライプに気をつけて、だって。陳腐にも程がある。後になって私は思う。だけど始まりの言葉なんて、大抵はくだらなくて、後から思い起こせば思わず赤面してしまうようなものばかりじゃないの。「ひとり?」よりずっといい。「ここへはよく?」よりはもっといい。私は自分を慰める。
そのあと私は、彼の肩越しに半分欠けた月を見て、彼の唇を味わった。それまで苦くて嫌いだったビール。だけど次にお酒を頼むとき、私はバーテンダーにこう言うだろう。レッドストライプをちょうだい。ビールは苦手。でもこれは別。そして私も自分の舌を使い、彼が、今までクセを感じて敬遠していたラムを好きにさせた。
そのとき、夢中になりながらも少しばかり気にするのが、深夜の街を徘徊するレッドストライプ。キスをして逮捕される筋合いは無い。そんなことをぼんやりと考えながら、私は彼と寝たいと、強く思ったのだ。
相変わらず、私の瞳孔を縮ませる光の筋が消えないこの部屋で、私は、この部屋、この空間の存在理由を考えている。
何人もの人間が横たわってきたこのベッドの上で、するべきことはひとつなのだろうか。私も素直に、その行為だけを部屋の存在する理由として納得すればよいのだろうか。私の流した体液は、シーツに染みこんで、その他大勢のものと一緒に埋もれてしまえば、こんなことに心を悩ませなくて済むのだろうか。
全てのものに時間が平等に流れるように、全てのものに、存在する理由があるはずだと、私には思えて仕方がない。
私は、彼の言葉を思い出す。
「俺、このまま腹上死してもいい」
彼は私に体重をかけながらそう言った。
「いまここで死んだら、親は泣いてあなたの友達はあなたを笑うわよ」
途切れ途切れの息で、私は言った。彼は、泣かれても笑われてもいい、と息絶える代わりに、私の腹の上で射精した。
これがもし、彼自身の部屋や私のアパートの狭いベッドの上、海岸に停めた車の中、深夜のマンションの非常階段だったとしたら、彼は腹上死という単語を使っただろうか。同じ行為を同じ相手としても、この空間では何か、特別なものが付随する気がしてならない。彼に腹上死してもいいと思わせるほどの、何か。そして、私の腹の上で、何億もの精子たちが死んでゆく。死ぬ場所は選べないということか。
愛を語らうにはあまりにも演出されすぎたこの部屋で、私たちは一体、何について語ればよいのだろう。余計なものが多いから、困惑してしまうのだ。
私は、テーブルの上のコーヒーカップでまずいインスタントコーヒーなんか飲まないし、テレビのアダルトチャンネルで他人のセックスだって観なくたっていい。洗面所のシャワーキャップも安っぽいヘアブラシも、化粧水もドライヤーも、天井の鏡だって、必要ないのだ。
要らないものばかりあるくせに、トイレには鍵が無い。第三者が作り上げた不自然な空間では、全てが日常とかけ離れていて、本当に必要としているものが見つけられなくなる。
私は彼に、愛の言葉など囁かないし、彼だって、そんなことを言おうとはしないだろう。口に出せばそれらの言葉は、この空間で信憑性をなくすのだ。
厚すぎる壁は、溜息や蒸発した体液や肌の擦れ合う音を吸収するだけでなく、ふと我に返ったときに図らずも考えてしまうこと ―今の気持ちやごく近い将来について、二人で店を出たときのバーテンダーの苦笑の意味― そして相手の言葉から本心を推し量る術までも、容赦なく吸い込んでしまう。
この男といま、この部屋にいること。これは私にとって、単なるエクスペリエンスでしかないのだろうか。日記代わりの手帳に、三行程度の文で記される、そんなものでしかないのだろうか。
隣では、相変わらず、幸福な死人が寝息を立てている。私は、彼の寝顔が好きだ。そして、その幸福な寝顔を見るときの自分も、同じように幸せでありたい。けれどもここではそれすらもままならない。このまま、無欲で貪欲な彼の顔を見続けていても、それは甘い未来へは繋がらずに、私の視線には少しずつ、彼に対する同情がのせられていくだろう。
彼の背中に貼り付いた、いくつかのネガティヴな感情をひとつずつ剥がしてゆくとき、こういうときのために私は爪を伸ばしていたのだと思った。だけどその長い爪は、加減ひとつで、彼の背中に傷をつけることも出来る。そしていま、私はこの部屋の存在理由がわからないがために、彼の背中に立てた爪に、八つ当たりのように力を込めようとしている。
ふとよぎった、少なすぎる彼についての情報。こんなときに限って、スツールをへこませて去った、見たことのない女の姿ばかりが、3Dの幾何学模様の中から浮かび上がる。残されたマラスキノチェリーの、人工的な赤い色。大嫌いなヴォーグ。そんな女に、彼は捨てられた。そして、私が拾った。
「痛いよ」
そのとき、寝ていたはずの彼が、突然声を発した。
「爪、痛いよ」
はっとして手を引っ込めた。彼の背中には微かに赤く筋が残った。
レッドストライプ。
彼は気だるそうに寝返りを打ち、私の方に身体を向けると、おもむろに腕を回して私を抱きしめた。
「目が覚めて、きみがいなくなっていたらどうしようかと思った」
「そんなに冷酷な女じゃないよ、私」
考えていたことを見透かされたようで、きっと私の声は震えていた。
短すぎる眠りから覚めた彼の表情は、完全に無防備で、それは素顔以外の何ものでもなく、私は、こんな顔で彼は毎朝、仕事に出かけるために目覚めるのだろうかと思った。
聞き慣れたアラームの音で無理やりベッドから抜け出し、朝の情報番組の星占いが十一位だったと、少し不機嫌にコーヒーをすすり、新聞に目を通して、NBAの試合結果をチェックする。足元にまとわりつく猫をよけながら白いシャツを羽織る彼の姿。
想像しようとすればするほど、下品なベルベット調のカーペットが、窓のない壁が、天井の鏡が、それを邪魔する。私の作り上げた彼の姿は、あと一歩のところで、点描画のドットが散り散りになるように、消え去ってしまう。
もう、時間が無い。朝が来たら、私はここを出る。何も得られないまま。思い出にすらないない、エクスペリエンス。
いつだって、今度こそは、と思っていた。この部屋で、知りたかった。何を? この空間と私の、存在の理由。腹上死を望んだ彼と、死にゆく精子たちの魂の行方。
失望に頭を抱える私の耳に、彼の声が静かに流れ込んだ。
「朝になったら、一緒に飯を食おう」
はっとして、宙を見つめる。
「そんで、夜まで一緒にいて、夜は二人でレッドストライプ、飲もう。いい?」
彼は、ハイライトに火をつけながら、ごく当たり前のように言った。バーテンダーにおかわりを告げた、あの声で。
この空間で交わされる言葉なんて、いままで全部、信じてこなかった。だって、日常じゃないから。嘘をつき、つかれて、私は幾度と無く後悔を積み重ねてきた。「じゃあまた今度電話するから」。それは関係を無かったことにするのと同意語だ。私の学んできたこと。そしてそれは、いつも予定調和の中で、自分が学んだことが間違いじゃなかったという事実だけを、植え付けてきた。
私は、ずっとこの部屋で頭を悩ませていた問題が、実に馬鹿げたものだったと、そのとき初めて気がついた。この部屋の存在理由? 立派に、あるじゃないか。
私は彼を選び、彼に私は選ばれた。この選択が正しかったことを、「この部屋で」私は確信したのだ。
テーブルの上のコーヒーカップもまずいインスタントコーヒーも、洗面所のシャワーキャップも安っぽいヘアブラシも、化粧水もドライヤーも、天井の鏡も、全ては私を試すためのツール。それらを受け入れ、乗り越えてもなお、隣にいる人と一緒にいたいのか。それを見極めさせてくれたのが、この部屋だ。
まだ起き切らない街に出て、排気ガスにも人混みの二酸化炭素にも汚染されていない空気を切りながら、二人で歩く。コンクリートの壁に反響して、通りの先まで響く私のヒールの音。乱れた髪で落ちかけたメイクをを隠しながら、ひとりでバスを待つ必要もない。
私たちは、手をつないで、二人で日常に帰る。
私は、彼を自分の腹の上で死なせたりなんかしない。もっと彼のことを知りたいし、毎晩、あの寝顔を見ながら眠りに就きたい。そんな純粋な思いが、私の手に力を込めさせた。ぎゅっと握り返すこの手のひらを、離してはいけない。
「レッドストライプ飲んだあとは、どうするの?」
「そうだな、どうしようか」
「また、一緒に寝ることにする? 今度は、私かあなたの部屋で」
私はシャツの上から彼の背中のレッドストライプをこっそりと撫でながら、唯一、飲むことの出来るビールの味を、恋しく思った。
レッドストライプ