たまずさ

序盤は少し退屈だけど途中から加速します。
読んで頂けたら幸いです。

序章

  二〇〇六年二月十四日

 お久しぶりです。元気そうでなによりです。
 東京は寒さが一段と厳しいと思うけども、どうでしょうか。
 こちらの方は早くも桜が見頃を過ぎて、葉桜に衣替えを始めています。
 とはいえ、暖かくなった訳でもなく、南の島なりに寒い日が続いており、こたつで春を待ちわびる毎日です。
 さて、僕の近況だけれど、後れ馳せながら小説を書いています。
 もともと、生涯のうちに一つでいいからちゃんとした小説を書きたいと思っていたのだけど、突如そのきっかけが雷鳴を轟かせてやってきました。
 うちの田舎には、自分達の干支の元日に、出身中学に集まって旧交を温める、歳の祝い、という風習があるのね。
 で、去年が僕らの酉年で大いに盛り上がりました。
 当然ながら、今年は一学年下のお祝い、という事になります。
 という事は、初恋のコが帰ってくる!
 あっ、そうだ、約束があった!
 という訳で、急いで小説を書きました。
 でもいざ書き始めてみると思うようにはかどらず、予想以上にてこずって大変でした。
 
 せっかくなので美穂さんに書いた小説を添付します。
 暇な時にでも読んでみて下さい。
 小説というより、小説の形を借りた初恋のコ宛の手紙と言った方が正しいのかも知れませんが。

まえがき

   まえがき

 夏も過ぎた頃に思い立ち、仕事の合間を縫ってこの小説を執筆した。
 筆者の愚作が読了に堪えうるものであるのか、はなはだ疑問ではあるが、最後までお付き合いしていただけると幸甚の至りである。

 冒頭から言い訳がましくて申し訳ないが、本稿は当初、志保に感謝を表すために書き始めたのだが、書き進めるうちになにやら様相が様変わりしてしまった。さしずめ、若き悠次の苦悩、といったところである。
 美しく爽やかに書くつもりであったが、主人公の心理を描写しないと訳がわからなくなるために、重くならざるを得なかった。その重さといったら、書いた本人が途中で投げ出したくなったほどである。
 でもそんな事は気にせず、志保には軽い気持ちで読んでほしいと思っています。
 志保には遥か忘却の彼方の話だと思うけど、「そういう事もあったね」とか、「そんな事あったっけ」といった具合に読んでくれたら幸いです。

 この小説は志保に不快感を与える可能性があるので、帰郷している間は読まない方がいいでしょう。復路の機内で読んで貰って、羽田空港で本稿を遺棄してくれる事を希望します。

 主人公に都合よく解釈した部分があるかもしれないけれど、そこは小説として大目に見て下さい。

少年時代

   第一章

 少年時代の記憶はうたかたの夢のようで、もはやおぼろげである。
 小学校を卒業するころ、なにが楽しかったのだろう。
 友達とのお喋りは楽しかったが、それ以外で楽しかった事となると、たやすく思い浮かばない。
 家は居心地が悪かった。
 自分本位な父は煙たいだけで、しじゅう、いなければいいと思っていた。
 介護師をしていた母は、幼少の頃から仕事と家事に追い回され、なにかとせわしなく、休まる事を知らない人だった。
 二つ上の兄は、父の悪いところを倍加させた人間でうとましかったし、妹は女というのもあり、異質なものに感じられた。
 つとに僕の性格だけが際立って違っていた為に、疎外感に似たものを抱えていた。
 テレビは好きだったが、父が家にいる間は奥の部屋に隠れていたゆえ、テレビが楽しみというわけでもなかった。
 漫画やお菓子は一度も買って貰えなかったし、小遣いもなかったから、娯楽を楽しんだ記憶がない。
 当時は自分の部屋がなくて、一人の世界への籠城も叶わず、気持ちを窮屈にしていた。
 外に出ても戸数二百余りのひなびた集落には、さびれたお店が三軒あるだけで、楽しめるものは何もなかった。
 暇を持て余すと、家から少し歩いた海岸へ行き、退屈のほとりで海と語り合っていたのを覚えている。
 学校は先生が憂鬱にさせた。
 小学五年、六年と新卒の若造先生に受け持たれたのだけれど、僕は若造先生に嫌われていて、毎日のようにビンタされ、剣道クラブの練習中に、たびたび柔道の足払いで倒されていた。
 数年後に|端無(はしな)くも知る事となるが、休みの日に中学生が、若造先生を気に入らないと教室内に悪戯していたのを、若造先生は僕の仕業と思い込み、つらく当たっていた。
 そうされる意味も分からず、反抗する事も知らなかった僕は、いわれなき体罰をじっとこらえるほかなかった。
 現実を疑う事なく、降りかかる諸々の事柄を有りていに喫した学童の頃。鹿児島の南方に浮かぶ尾島の中でも、とみにはずれの藤木集落で育った僕は、集落だけが起き伏しで、鬱屈した日々が際限なく続くものだと思っていた。
 狭小な僕はいたいけな少年だった。

中学入学

   第二章

 小学校を卒業すると七キロ離れた東崎中学にバス通学となった。
 小学生時分ほとんど集落外に出られなかった僕は、他集落への通学に浮き足立っており、バスでの二十分はちょっとした旅行気分だった。
 東シナ海側から太平洋側へ、太陽の恩寵を受けた緑々とした狭山を越え、小さな集落を通り過ぎ、太平洋を左手に少し走った所で上り坂をのぼり、更にいくらか走って下り坂にさしかかると、藤木集落よりゆうにひらけた東崎集落がどっしり広がって見えた。
 ビルなど一つもない平屋並びの集落ではあったけれど、僕のまなざしは花の都への留学生だった。
 陽射しも山々もあまねく春で、雀のさえずりが雲を空高く押し上げていた。
 東崎集落でバスを降りた僕は体が膨らむほどの深呼吸をした。変わるはずのない空気さえ、どこか新味に肺胞を往来する。友人達も一様に頬を紅潮させていた。
 一つ上の先輩が、得意満面に高台を指さして言った。
「あれが中学校だよ」
 僕たちは指の延長線上に見える山中の建物を認め、互いに顔を見交わし、興奮と緊張をおぼえた。
 新しいステージはもうすぐそこなのだ。
 バス停からは、上級生の後ろについて足取り軽く歩いた。
 見慣れぬ家並みはそれだけで楽しく、学校のふもとに辿り着く迄にお店を六つも見かけた事で、僕の興奮はいよいよ高まった。
 山腹を開墾した中学に続く粗いコンクリート舗装の坂道を、歩き慣れた上級生の涼しい顔とは反対に、息を切らせてあくせくして登りきると、山を渡るすがやかな風に吹かれて東崎中学が凛としていた。

 進学にあたっては、他の集落へ行ける事と若造先生から離別できる事だけで満悦だったのだけれど、中学生活が始まると想像以上の壮快な日々が連続した。
 東崎中学の学区は東崎小と藤木小の二校だったのだが、東崎からの生徒達が思いのほか刺激的だったのだ。
 たとえば、先生が生きていく上で一番大切なものは何か、意見を求めると、抑圧されていた藤木小の生徒はさされない限り黙っていたのだけれど、東崎の生徒は「友情」だとか「夢」だとか、遠慮なく答えるのだった。そんな中、どんぐり体型の男子が、「えっちゃんが、カネが一番大事だって言ってたよ」とだみ声で答えた。先生が、「えっちゃんって誰だ」と聞くと、「俺のかあちゃんだよ」と得意になって言うのである。
 休み時間にもなると悪戯に追いかけっこで教室は半ば運動場と化していたし、動きまわらない生徒にしても、ある者は目当ての女子の所にいき、大げさに気取ってアプローチをしていたし、またある者は自作の猥本を誇らしげに見せびらかしていた。――性行為のたぐいはそれまで接した事もなかったので、下ネタを平然と言う彼らには驚かされたものである。
 じつに東崎からの生徒達は活動的な変わり種が多かったが、べつだん目立った行動をしない生徒達もそれぞれに、独特の人柄がにじみ出ていた。
 まったく彼らの奔放な個性の色合いは未知の生物に遭遇したほどの衝撃で、初めの頃は彼らと接しているだけで喜劇をみているような楽しさがあった。
 加えて、独裁色のない先生は毎日宿題を強要しなかったし、時折だされる宿題の不提出にもビンタする事がなかった。これは誠に大きな変化で、日課づいた暴力からの解放により、卑屈になっていた精神が蒼天にはばたくようであった。
 日々の歓楽を増すように、教室に敷きつめられた緑の絨毯はくつろいだ芝生をおもわせたし、見下ろせる太平洋は眺望絶佳にして、いかんなくダイナミズムを感じさせてくれた。
 おまけに入学と同時に入った野球部は、随分と大人びて見える先輩の話が新鮮で楽しく、先生や大人の悪口といった瑣末な事でさえ、目から鱗が落ちる思いだった。
 豊穣な自然に囲まれた東崎中学校は、開けっ広げの個性が縦横無尽に闊歩しており、みずみずしい感性が育ち盛りの体と一緒に、しなやかに飛び跳ねていた。
 僕は爽快感を全身の細胞で感受し、視界がぐんぐん開けていくのを実感した。

片想い

   第三章

 二年に進級したばかりの僕は学校が楽しくてしょうがなかった。
 二年生にもなれば学校の勝手も分かるし、一学年六十人の少人数のために、友達の性格もおおむね把握できていた。
 藤木小からの十二人と東崎小からの四十八人の六十人。一学年に二クラスしかなかったけれど、絆をつくるには丁度良い人数だった。

 新入生の入学式があった翌日の放課後、僕は学校の奥まった所にある野球部室周辺で、友達とふざけて駆け回っていた。部の練習が始まるまで、取るに足らぬことで盛り上がったり、悪い冗談を言っては相手を挑発して、逃げまわって遊ぶのが日常だったのだ。
 音楽室、生徒会室、野球部室だけの小さな校舎の一帯は、正門近くの職員室から離れている事で、僕をいっそう解放的にしてくれる場所だった。

 出会いは棒にあたるぐらいの些細なものである。
 近隣の草木が放つ鬱蒼とした山の匂いがたちこめる中、筋骨の躍動を楽しみながら音楽室前を走っていると、春の大気を伝導して聞き慣れぬ声が笑い声と共に僕を引き止めた。
「これだから藤木小の子は」
 ほがらかにからかった声柄だった。
 その声に四肢をひっつかまれたように、張り巡らせた僕の好奇心は敏感に反応した。
 瞬発的に足に力をこめて、水飲み場のコンクリートをすべるようにして止まり、声のした方を見た。すると声の源で、藤木小の後輩夏美が、二人の女子と真新しい出会いを楽しんでいた。
 初めて見る女の子は、一人が色白の痩せっぽちで、もう一人が黒々と健康的に日焼けした子だった。
 走っていたのに急に止まって振り返った僕を、何か起きたのかと三人が注意をむけた。
 とっさに僕は七十年代のロックンローラーよろしく、殊更に格好をつけて櫛で髪をとかす仕草をしてみせた。
「何それ。髪を整えてるつもりなの」
 道化がかったポーズに、痩せっぽちの子が笑みを|(たた)えて言った。色黒の子は目をしばたたかせて、横の夏美に、藤木小の人なの、と訊ねた。
 夏美は首を縦に振って僕を見た。
「悠次兄ちゃん、坊主頭でそんな事しても、藤木小から来た人は変ちくりんが多いってしか思わないよ」
 しょうがない先輩だと顔にあらわして言った。
 夏美の苦言に、うそ~、と大仰に驚き、間の抜けた顔をする僕を、くす玉を割ったように三人が笑った。笑いを得て満足した僕は、何も言わずにまた走り出した。
 これが志保との出会いである。
 うららかな陽だまりに、上部校庭との斜面からのびた琉球松を背景にして、やせっぽちの志保は、おさがりの使い古された制服をものともせず、つぶらな瞳で可憐な笑顔を咲かせていた。
 志保との出会いに、雷に打たれたような衝撃はまったくなかったのだが、二十年以上経った今でもその時のことをよく覚えている。

 志保は吹奏楽部に入部しようと、顧問の先生が来るのを夏美達と一緒に待っている所だった。

 翌日から志保は吹奏楽部の練習に参加し、以来、僕達は放課後によく顔を合わせるようになった。
 その頃の僕といえば、いつも軽薄に誰彼わかたず冗談を言っては笑わせていて、生き甲斐のようにふざけてばかりいた。
 気兼ねなく戯言をいうと、華やかなお祭り太鼓のように明るく響く志保は、ふざけるのに恰好の相手だった。
 出会ってから何日目かに、身長が百五十センチそこそこなのに靴のサイズが二十四半もあると気にする志保に、女って変なことを気にするんだな、と思いながら、「その長さ、ちょっと僕の身長に分けてくれ」無頓着に冗句を言うと、志保はふっと明るい表情になり、まばゆい笑顔を返した。
 僕は中学の三年間で毎年九センチずつ|身丈(みたけ)が伸びたが、入学時に百三十六センチしかなかったために、出会った頃は志保の方が大きかったのだ。

 うまが合っていたのだろう。河口から流れ出た淡水が海水と入り混じりあうように、間もなくして僕達はどこで会っても気安く言葉を交わしたり、手を振りあう親密さになった。まるで稚魚の|(たわむ)れのように、それはそれは無邪気に。


   *


 |萌芽(ほうが)は梅雨入りした五月の中旬だった。
 休み時間に友達とのお喋りに興じていると、吹奏楽部の哲也が、なにやら愉快そうに話しかけてきた。
「おまえ一コ下の志保と仲が良いよな。最近、志保が安幸の事ばかり聞いてくるけど、おまえにも聞いてくるか」
 突然の話に意味が分からず、きょとんと哲也をみた。
「前はな、悠次、おまえが好きだって言ってたけど、今は安幸に夢中らしいんだ。それでなにかと安幸の事を聞いてくるんだよ」
 哲也はたいそう面白げだった。
 僕は一瞬、脳回路がストップした。
「へえ、そうだったんだ。――俺には聞いてこないけどね」
 頭の整理がつかないままにこたえた。
「じゃあ今度志保に会ったら安幸の話をしてみな。きっと顔を赤くするから」
 哲也は歯をむいて、にやりとした。
「あっ、そう。――じゃあ志保を見かけたらやってみるよ」
 僕のこたえに哲也は親指を立ててウィンクしてみせ、緑の絨毯に|(きびす)を返し、やたら上機嫌にトイレを目指した。
 僕は奇妙な感覚をおぼえながら窓際の自分の席に戻り、次の授業の教科書を机に取り出した。奇妙な感覚がなんなのか、てんで分からないままに。
 外は土砂降りの雨だった。大粒の雨が屋外の山景をかすませ、雑音を奪い取り、世界を狭くしていた。

 雨上がりの放課後、音楽室の廊下に、譜面立てに挟んだ楽譜の音符を指で追いかける志保がいた。首からさがった黒のストラップがVの字にぴんと伸び、先端のフックにプラチナ色のフルートが四十五度にぶら下がっている。
 その姿を見かけるや哲也のにやけた顔を思い出し、通りがてらに軽く、おう、と声をかけた。
 志保は顔を上げて、にっこり微笑んだ。濡れた髪が天然でゆるやかにウェーブしている。
「安幸のこと好きなの」
 浅慮な僕は委細かまわず陽気にたずねた。すると志保は見る間に赤くなった。
「なんで知ってるわけ。――哲也兄が言ったんでしょ」
 はたして志保は目に見えて慌てふためいていた。
 僕は心の波動を笑顔で消して、こっくり頷いた。
 志保は、もう、と言ったなり、|(つくろ)う事もできず、恥じらいの膨れっ面で足早に音楽室に隠れ入った。
 すぐに志保の姿は他の部員の人だかりにまぎれた。
 校舎独特の匂いがする湿気た空気の中、僕は揶揄できずに志保の挙動を黙って眺めていた。
 放課後の緩慢な気配があたり一面を支配し、塾など無縁に、田舎ならではに、ゆったり時が流れていた。
 追いかけるまなかいの中心点を失って目線を上げると、一列に並んだ肖像画が生徒と好対照をなしていた。シューベルトが素知らぬ顔でベートーベンは何か言いたげだった。
 手持ち無沙汰になった僕は不思議な感覚をおぼえながら野球部室に歩きだした。
 後ろ髪を引かれる思いでゆっくりと歩く視界に、廊下に引かれた無意味なセンターラインが久しぶりに気になった。
 窓のむこうで雨に濡れた木々が色を濃く、質量感を増していた。
 新緑の微揺と近似に、胸の奥がかすかにざわついていた。


   *


 それからというもの、執心の隠し立てをなくした志保は、おのずと安幸と仲の良い僕に、安幸の事をさまざま聞いてくるようになった。
 そのたびに僕は気持ちを汲んで、あいつは成績がいいとか、面白い奴だとか、良い面だけを誇張して手放しで褒めた。
 志保は僕のする安幸の話を、興趣に瞳を輝かせ、至福顔で傾聴するのだった。
 思春期の恋は好きな人を想うだけで幸があふれだす。それを間近に感じる僕も、幸のお裾分けにあずかったようで気分がはなやぐのだった。
 邪心は爪の垢にもなかった。


   *


 日が経つにつれ、志保はますます安幸に熱を上げた。安幸が松任谷由実を聴くと聞けば松任谷由実を聴き、安幸がベルミーコーヒーを飲む姿を見れば、志保もベルミーコーヒーを飲んだ。純心はそうすることで、|無二無三(むにむさん)、安幸に同調していたのだろう。
 いじらしくも微笑ましい乙女心である。

 けれども、恋の女神は志保に微笑んではくれなかった。安幸はしらぬ間に、同じクラスの和美と付き合いだしていたのだ。

 安幸と和美の噂は、恋愛未経験者が大半を占める学校にあって、|(またた)く間に周知の事実になった。

 時を移さず、放課後の音楽室前で志保は事の真偽を聞いてきた。
「悠次兄、安幸兄と和美姉が付き合ってるって本当」
 僕は慕情を斟酌し、傷つけまいとしどろもどろに頭をひねったけれど、未熟さゆえ上手く言葉にできず、奥歯に物がはさまったような言い方で肯定するしかできなかった。
 近傍の証言に引導を渡された志保は、言葉もなくその場を後にした。
 その寂しげな様子に僕は己を悔やんだけれど、さりとてどうすれば良かったのかさえ分からず、ひとり困り果てた。

 それからの数日というもの、受け入れがたい現実に、さしもの志保も目を覆いたくなるほどにしおたれた。
 僕は沈んだ気持ちを持ち上げようと、折に触れては明るく話しかけたけれど、意図は空回りするばかりで、しばらくは痛ましいほどの落ち込みようだった。

 いくらかの時に希釈され、志保は元気を取り戻したが、恋慕は断ち切れず、けなげに安幸を想い続けた。
 僕は志保にことづかって、安幸に手紙を渡したり、誕生日プレゼントの宅配をしたり、時には志保の聞きたい事を代わりに聞いたりと、いとわず|黒衣(くろこ)に動いた。
 神社に参拝したりして、志保の恋が叶う事を僕も祈ったけれど、安幸は志保に興味を示さず、和美との交際を楽しむだけだった。


   *


 中学二年の夏休みは、はじけるような爽快さだった。午前に三年生が引退した|(おもり)のない部活でふざけ半分に汗を流し、昼すぎに帰宅すると、作り置きのごはんを食べて海水浴に行くのが日課で、珊瑚礁や熱帯魚と遊び疲れて家に帰ると、水浴びをして心地良い疲労感に朝顔を尻目にまどろんだ。
 学校で気心の知れた仲間とお喋りを楽しみ、家で一人の時間をゆっくり過ごせた日々は、黄金のように輝いていた。


   *


 永遠に思えた夏休みが終わり、迎えた始業式。放課後に志保が、東京に行ったおみやげと言って、ディズニーランドで買ったというドナルドダックの小さなぬいぐるみをプレゼントしてくれた。
 青い服に青い帽子のドナルドダック。
 悠次兄とどこか似てるから、と言って渡してくれたけど、どこが似ているのかさっぱり分からず、似ているか、と聞くと、うん、愛嬌のある顔が似ている、と、志保はにっこりした。
 似ているかについては釈然としなかったけども、志保からのプレゼントは特別な嬉しさで僕のもとに届いた。


   *


 快活な志保はいつもさえざえとして日なたの匂いがよく似合った。精気のつまった|華奢(きゃしゃ)な体には、山中の湧水がさらさら流れる清らかさがあり、それと共に、まっすぐな笑顔にも、フルートがうまくふけないと悩む顔にも、何を思ってか行方のしれない視線を空中に遊ばせている時にも、夏の木陰に吹く一陣の風の爽やかさがきらめいていた。僕はその快さについつい引き込まれ、話し込むのだった。
 なにぶん当時の志保ときたら、生来の朗らかさに加えて箸が転んでもおかしい年頃である。僕に限らず周囲の者がみな清友の感を抱いていた。


   *


 よしみを通ずるほどに、僕は志保の健全な明るさと純粋さに、心の中で何かが大きくなっていくのを覚えた。
 奇妙な感覚。仲の良い女子にも、きれいな女子先輩にも感じなかった不思議な感覚。心を歓喜で満たす感情。心を乱す感情。孤独とは質の違う淋しい感情。
 それが恋だと気付くのに、さして時間はかからなかった。


 十四の|(よわい)に、連綿とした愛恋の海鳴りは、ぼんやりと、しかし確かな霊妙で胸に押し迫った。


 恋心を自覚してからはのべつ幕無しの苦心である。生まれて初めての恋情であるから戸惑いはひとしおだった。
 至極当然、僕は心のありかを隠蔽し、志保と変わりなく接し続けた。そうしている限り、人に増して懇意にしていられたのだから。
 志保は僕の好きな女子が誰なのかを無性に知りたがったが、聞かれるたびに、そのうち教えるよと、おくびにも出さずにいた。


   *


 夏が遠のく平日の放課後だった。
 音楽室の裏側で僕達は話していた。
 音楽室裏は校舎の影になるうえに風の通りが良く、のぞむ緑の山並みも美麗に、休むにはうってつけの場所だった。
 その時に、志保がいつになく、誰が好きなのかを執拗に聞いてきた。
 相も変わらず、そのうち教えるよとしか答えない僕に、志保は口をとがらせた。
「悠次兄は私が安幸兄を好きだって知っているのに、私が悠次兄の好きな人を知らないのは不公平だよ」
「だから、そのうち教えるって言ってるじゃない」
「そのうちっていつなのよ」
「さあ。そのうちはそのうち」
「お願いだから教えてよ」
「内緒」
「教えてくれてもいいじゃない」
「いやだ」
 僕は本音を噛み殺し、ふざけた調子でいなすだけだった。
「じゃあヒントだけ教えて」
「ヒントなし。教えないよ」
 意地っ張りな幼児のしりとりのように、同じやりとりが何度か続いた。
「教えてよ」
 攻防のうちに、|溌剌(はつらつ)とした目がだんだんと|(うる)み、張りのある声が、いじけた淋しげなものに変わっていた。
 晩夏の空に蝉しぐれがひろがっていた。
 一メートル前の汚れのない哀愁に、ひた隠していた恋の心拍数が急上昇し、心が大きく揺すぶられた。それを、ひょっとしたらと淡い期待が後押しした。
「じゃあ、好きなコが今、どこにいるのかだけ教えるよ」
「今どこにいるのか分かるの」
「さっき見たばかりだからね」
「体育館ならバレー部、体育館の横ならきっとテニス部だね」
 一転して、志保の瞳は輝いた。
「俺の好きなコが誰なのか、分かっても、絶対だれにも言うなよ。まだ誰にも教えてないんだから」
 いかにも秘密めかせて言った。
「うん、約束する。で、誰」
 興味に満ちて笑顔が踊っていた。
「じゃあ耳かして」
 秘めやかに言うと、志保は決心が変わらぬうちにとうきうき近づき、そばだった右耳をひょいと傾けた。
 僕は耳元に口を近づけ、心持ち長めに間をとって、落ち着きはらった声で小さく言った。
「今、目の前にいる」
 その瞬間、志保の体がかたまった。それから、魔法がとけるようなスローモーションで姿勢をたてなおし、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で僕を見た。
 僕は目で、好きだよ、と告げた。
 口籠もった志保は、表情を変えずに下をむいて、二秒の後に足早に走り去った。あたかも一刻も早く難から逃れるように。
 フルスイングした打球はアウト濃厚だった。
 離れゆく|(うつむ)いた後姿に、後悔が突風になって吹きつけ、胸が潰れそうになった。たちまち不安の沼に足をとられ、なす術も知らず、喉の奥がからからに乾いた。


   *


 翌日、志保は意識的に僕から視線を外した。
 友達の顔も、こずえの囁きも、有象無象が悔恨の色彩に染まり、心臓は|(のみ)よりも小さく虚々弱々と、思慮は取り付く島もなく右往左往した。

 翌々日の放課後、野球部室横の空き地で、妙案も浮かばずひとり気を揉んでいると、志保がよそよそしくやってきた。
 志保はためらいがちに近づくと、困惑の顔で踏み切ってたずねた。
「悠次兄、このまえ言ったこと本当なの」
 心なしか雲影が高速で通り過ぎ、空気がかすかに乱れた。
 考える間もなく脊椎反射で危機回避力が跳躍した。
「ああ、あれ。冗談だよ」
 からかうように答えた。
 即応にしては上出来だった。熟慮したところで他にどう答えられただろうか。
 志保は緊張のとけたはしから相好を崩した。
「もう、どうしようか悩んだじゃない」
 安心の勢いあまって僕の体を叩いた。その潤んだ瞳からは涙の粒がこぼれ落ちそうだった。
 逃げ腰になった僕にがんばれと、背丈ほどもある生気にみちた雑草がいっせいに風になびいてエールを送った。
「もし俺が本気だったらなんて答えるつもりだったの」
 からかいの|風情(ふぜい)を崩さずに、他人事のように聞いた。
 返答に窮した志保は息をのんで俯いた。
「私は安幸兄が好きだから……」
 尻すぼみに言った先に、上手な言い回しが見つからないようだった。
 僕はあせって思考をさえぎった。
「そんなに真剣に考えるなよ。俺が好きなコは志保じゃないから」
 萎えた気持ちに鞭打って空元気で言うと、志保の顔に安心の表情と肩透かしをくらった表情が交差した。
 素直は往々にして残酷なものである。少女のまっすぐな気持ちは、そのまま真っ直ぐ少年に突き刺さった。
 僕のひしゃげた胸の内は冬の浜辺の寂しさだった。正面からぶつからなかった分、かろうじて踏み堪えたけれど、志保の恋慕はにぶい痛みで心に深くしみ込んだ。
 打ちのめされた僕は本心を気取られまいと下をみた。その両眼に意地悪く、皮肉な虚像が見えた。足元から伸びた二つの影法師は校舎の外壁で折れ曲がり、恋人のように寄り添っていた。

 その後の僕達は何事もなかったように先般と変わりがなかった。野球部室で一人で着替えているところに志保がひょっこり顔をだしてそのまま随分と話し込んだり、生徒があらかた帰った土曜の昼に、音楽室裏の犬走りに座って、年に一度しか使われない草の覆い茂った土俵を前に談笑したりと、はたから見たら付き合っていると勘違いされるほどに仲睦まじかった。お喋りの内容はどれも取り留めのないものだったけれど、元気な志保と話すのは何物にもまさって楽しかった。
 野球部室の汗とワックスの混ざった匂い。音楽室裏から見えた年季の入った焼却炉。枝葉のぎざぎざの濃緑と眩しい青をくっきり分断した稜線。光り輝く志保と戯れた日々の記憶は歳月が経っても色褪せることなく、何度となく鮮明に脳裏に蘇っては僕を和ませてくれた。

 ジレンマに陥った引っ込み思案の恋心は月のようだった。志保の光に照らされるとなりをひそめ、志保がいなくなると色を強くあらわになった。
 むろん僕は志保に照らされるのを断然好んだ。自分がなくなるぐらいに志保の光彩は明るく、自然で、気持ちが良かったから。
 僕は恋の引力に必死になって|(あらが)い続けた。それがただ一つの志保と仲良くしていられる道だと信じて。

 だけれども、冬休みを過ぎたあたりから慕情は理性を呑み込み、とつとつと発露した。
 季節が寒さを極めたのをしおに意識するあまり話しかけられなくなり、三年にあがる時分には志保から話しかけられても言葉少なに返事するのが精一杯になった。
 この頃、安幸はバレー部のキャプテンでエースアタッカーと大車輪の活躍で、片や僕は野球部のライト七番バッターと冴えなかった。
 まかり間違えてもそびえ立つ安幸から志保の心が動かないように思え、どうする事もできなかった。
 志保と恋仲になるなんて雲を掴むような話だったのだ。



   *


 思春期の只中で、ひそやかに志保への想いは山積した。
 海に沈む夕日を見ては、|(かたわ)らに志保の名を書き、溜息が洩れ、夜空に志保の顔を映し出しては、胸がきつく締め付けられた。
 焦がれる気持ちは心の中でこだまするばかりで、手だても思いつかず、歯痒いほど表出しなかった。
 恋愛と無縁に過ごしてきた僕は、初めて切ないという感情を実感し、言葉は心を超えないと知った。実るはずのない恋にどう対処してよいのか分からず、ひとり途方に暮れた。
 やがて、遠くからしか志保を見られなくなり、歩いている時に向こう側から志保がやってくると、すれ違う事さえできず、進む方向を変えるようになった。
 過度に肥大した恋心は、志保を前にした僕の機能を完全に麻痺させた。


   *


 時は移ろうも様相は変わらぬ或る日、数学の授業が終わった休み時間に真由美が話しかけてきた。
「志保がね、悠次兄が冷たいって寂しそうにしてたよ。――何かあったの」
 僕ととりわけ仲の良い真由美を志保は姉のように慕っていた。
「何もないよ」
 唐突に心の扉をノックされてひやりとしたけれど、僕は心想の施錠をきつくして役者顔負けにすっとぼけた。
「じゃあなんで志保に冷たくするの。何かあったでしょ。志保がすごく悩んでたよ」
 真由美は何か気にいらない事があってつれなくしていると思っているようだった。
「何もないよ。それなら今度、志保とゆっくり話すよ」
 何食わぬ口調に真由美は愁眉を開いた。
「じゃあ今日話してね。悩んでたからなるべく早く話して」
 きまりの悪い僕は真由美を直視できずに、近くでふざける友達を見て大げさに笑った。
「絶対にだよ」
「うん、分かったよ」
 面倒くさそうに応えると、安心した真由美は肩の荷が下りたように自分の席へと戻っていった。
 教室は授業明けの緩和よりも、蓄積した四十五分ぶんのエネルギー放出で活気にみちていた。
 応急の弁解が上手くいって僕はほっとしたけれど、すぐさま、志保と普通に喋れるだろうかと不安でいっぱいになった。

 その日の放課後、本校舎から音楽室に続く渡り廊下で志保が待っていた。
 廊下でふざけはしゃぐ生徒の向こうに、僕を待っているであろう志保の姿が目に入った途端、びくっと足がすくんだ。
 咄嗟の間に、教室に引き返そうと臆病風が吹いたけれど、ひとりで寂しそうに待つたたずまいに、自らを励まして歩を進めた。まるで検察官が待ち構える被告人席にむかうように。
 近づいた僕に志保は申し訳なさそうに話しかけてきた。
「悠次兄、私なにか悪い事した?」
 おずおずと言う志保の目は涙ぐんでいた。
 僕はありったけの精神力で平静を保った。
「いや、何も。俺はちょっと変わってるから、俺の事は気にしない方がいいよ」
 そっけなく答えて、それから何か冗談を言おうとしたけれど、面白い事がなにも思い浮かばず、気まずい空気が緊迫感を漂わせて|逆巻(さかま)いた。
 ぎこちない間の後、「じゃあ、また」とってつけたように言って、そそくさと部室に向かった。
 志保は困った顔をしていたけれど、僕はどうにもこうにも限界だった。話の|継穂(つぎほ)を失うと、だしぬけに心臓が乱れ、それ以上志保の前にいられなかったのだ。
 防空壕に逃れるほうほうのていで部室に入ると、急いで着替えを済ませて一目散に上部校庭に駆けた。
 部の練習はまだ始まってなかったけれど、動悸のやまない僕は心に吹き荒れる嵐を肉体を疲労させて鎮めようとひたすらランニングした。
 |土埃(つちぼこり)をたてながら友達に顔を見られないよう下をむいて走りにはしり、ようやく息があがって上気した顔をあげると、幾つもの綿菓子みたいな雲が空に貼りついたように止まっていた。

   *

 次の日の二時限目が終わった休み時間に、真由美に呼び出された。真由美の顔つきで志保の話だとすぐに分かった。
「志保がね、やっぱり私を嫌ってるって落ち込んでたよ。――ねえ、何があったのよ。教えてくれてもいいじゃない」
 いささか苛立った言葉つきだった。
 苦慮に僕は愚鈍としていた。志保に嫌なおもいをさせた事は申し訳なく思ったけども、頭では前みたいに話したいと欲求しているのに、心も体も分離したように言う事をきかなかったのだ。
 もうどうして良いのか分からず、|(とが)める真由美の視線に|懺悔(ざんげ)しながら悶々としていた。
 たゆたう僕を真由美はもどかしそうに見ていた。
「絶対に何かあったよね。――言ってよ」
 心中のありようを|吐露(とろ)すべきか、二の足を踏んだけれど、考えあぐねた僕は真由美に打ち明ける事にした。
「じゃあ後で話すよ。給食が終わったら図書室に来て。そこで話すから」
 いわくありげな物言いに真由美は何かを察したようだが、「うん、じゃあ昼休みね」曇った僕の表情を確かめて、おおらかに微笑んだ。

 図書室は資料室を挟んで職員室がある校舎にあるため、生徒が近づきたがらず、朝な夕な閑散としていた。ひねもす無人の寂しさに加え、軒先の高木の密生で日当たりが悪く、蔵書の古さも手伝って陰気な印象を与える場所だった。天井の至近で額に掛かった高村光太郎の道程が、湿った静謐さを増幅させている。『僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る …… 』
 給食を早めに済ませた僕は落ち着きなく図書室にむかった。
 さすがに誰もいないだろうと踏んでいたが、おとなしそうな一年生の女子が入口に近い席で文庫本に|(ふけ)っていた。
 僕は脇目もふらずに奥の席にむかい、近くの本棚で最初に目に付いた植物図鑑を手に、ぱらぱら適当にめくった。
 まだ迷いのある気持ちを落ち着かせようと、思わぬ所から救いの言葉が出てきはしまいかと、とびとびにページを|刮目(かつもく)してみたけれど、掲載されている写真も挿絵も説明文も、国会中継と同じぐらいに興味を惹かなかった。それでも、やる事もなくぼんやり図鑑に目を落としていると、あぶり絵のように志保の幻影が浮かび上がって、胸がきゅんと詰まった。
 本を閉じて深い溜息をついた刹那、真由美が入ってきた。
 観念した僕は|(ほぞ)を固めて、読書に没頭している女子から死角になる本棚の陰を指さした。
 真由美は自然な歩みで本棚にはさまれたスペースにまわりこんで、親密さがなしえる内緒話の距離で、|(かたく)なに閉ざした秘密をそっと|(うなが)した。
「俺、志保が好きなんだよ」
 ぼそっと呟いた。
「やっぱりね」
 真由美は小さなため息を洩らし、本棚の最上段を見上げて次の言葉を待った。
 僕はそれ以上言う事がなかった。
「いつ告白するの」
 沈黙にしびれを切らした真由美が視線を落下させながら聞いた。
 僕は不甲斐なくかぶりを振った。
「告白しない。志保には俺の気持ち、内緒にしておいて」
「なんで。告白すればいいじゃない。志保は悠次の事を良く思ってるよ」
 真由美はひそひそ声で背中を押したけれど、志保の気持ちを知っている僕にどだいその勇気はなかった。
「じゃあ、そういう事で」
 捨てるように囁いて、逃げるように友達がドッジボールを楽しむ体育館へと急いだ。
 体育館に躍り込み、始まったばかりのゲームに飛び入った僕は、奇声を発しながら頓狂に張り切ってゲームを盛り上げた。
 運動は他の事を忘れさせてくれるからいい。
 真由美に打ち明けた事で何が変わったという訳ではなかったけれど、胸のつかえがおりたようで随分と気持ちが楽になっていた。


   *


 太陽が東から昇るように、水が低きに流れるように、ごくごく自然に、真由美は志保を安心させようと、僕の気持ちを伝えたようだった。
 以来、志保の態度もぎくしゃくして、お互いに意識して避けるようになった。


   *


 片想いの渦中にあって幸いだったのは、学校がまたとなく楽しかった事である。
 同級生は純朴な人間がほとんどで、友達付き合いするのが楽しく、休み時間のたびに何かと体を動かしては有り余るエネルギーを発散させていた。
 まれに物思いに沈み、たそがれていると、「なに思春期小僧になってんだよ」と茶々を入れられたものだった。

 酔狂な僕はおどけてばかりの毎日だった。友達からは、おまえは悩みが何もないだろう、と言われていたほどの明朗さである。
 しかしその実、家では人生論と仏教書を|紐解(ひもと)いていたし、みる夢といえば、断崖から転落するものや、町中のみんなが追走してくるおぞましいものばかりで、目覚めるといつも孤独の深淵にいて、暗闇の中でぽつねんとふとんに座り、眠気がやって来るのをじっと待つのが常だった。
 僕の心にできた空洞には、いびつなおどろおどろしい|石筍(せきじゅん)が無数につらなり、じめじめと薄気味が悪く、心の粘膜に|()いた得体の知れない何かは、影のようにどこまでも脅迫の足音でまとわりついてきた。
 うわべのひょうきん者とは裏腹に、些細な事で傷つき、落ち込んで、人並みに生活を楽しむ友達が|(うらや)ましかった。
 僕は絶対に子供をつくるべきじゃない、と思い定めたのは、生物の授業で遺伝を学習したこの頃だった。

 どういう訳だか、同級の女子三人と一学年下の女子から真剣に交際を申し込まれたが、志保以外の女と付き合う気には到底なれなかった。


   *


 よどみなく中学生活が消化され、年が押し詰まると、三年生全体を高校受験の緊張感が包み込んだ。
 友達との会話を成績や高校の話題が占めるにつれ、抑えつけていた想いが日に日に|(たかぶ)り、焦り始めた。
 僕が受験する島央高校は、実家から離れた市内に所在していた為、進学が決まったら寮に入るか下宿するしかなく、東崎近辺を離れること必至だった。
 中学を卒業したら校内で志保に会う事もないし、校外で見かける事もそうそうないに違いない。
 志保との|今生(こんじょう)の別れが迫っているように思えた。
 焦燥感にせきたてられた僕は、|掉尾(ちょうび)の勇を奮い、告白の決心をつけた。
 敢行は、冬休みが近づいた期末テストの一週間前だった。
 学校が終わって帰宅すると、公民館入口の公衆電話へとおもむいた。
 当時は携帯電話がなかったし、母と妹がいた為に、家から電話するわけにもいかなかったのだ。
 本当は前日も前々日も公衆電話の前に来たのだが、受話器を手にしたとたん|怖気(おじけ)づいてしまって、番号を押せなかった。
 でも、今日は絶対に電話すると、決死の覚悟で|(はら)をくくっていた。
 帰宅のバスから速くなっていた鼓動は、公衆電話と対面し、最高潮になり、心臓が壊れる程の勢いだった。
 ためらいがちに受話器を手に、五枚の十円玉を、一枚ずつ想いを込めて投入し、ひとまず大きく深呼吸した。それから、ゆっくり、確実に、志保の家の番号を押した。
 走り出した回線が脈打つと、心の臓がきりきり締め付けられた。
 あまりの緊張に電話を切りたくなったけれど、それを|(こら)えて、身に伝う大きな鼓動と一緒に呼び出し音を聞いた。
 喉を鳴らして|固唾(かたず)を呑んだ後の、三回目の呼び出し音が途中で止まった。
「はい、原田です」
 |佳音(かおん)が|度胆(どぎも)をさわり、心臓が飛び出そうになった。
「あのう、志保さんをお願いします」
 声の主は分かっていたが、くぐもった|声音(こわね)でたどたどしく切りだした。
「はい、私です」
 透き通るような声で小さく応えた。声の調子で志保も緊張しているのがわかった。
「悠次だけど」
「うん」
「――俺と付き合ってくれないか」
 あらん限りの勇気をかき集めても、つたない僕はそれだけ言うのがやっとだった。
「えっ」
 小さな声が洩れた後、しばしの沈黙を挟んで志保は答えた。
「悠次兄の気持ちは嬉しいけど、でももうすぐ受験じゃない。今は私の事なんか考えないで、勉強を頑張らないと駄目だよ」
 志保の語調は優しかったけれど、僕はその瞬間、気持ちが|雪崩(なだ)れをうって、電話を終わらせたい衝動に駆られた。
「うん、分かった。ごめんね。じゃあ」
 志保は何か言おうとしたけれど、くじけた僕は言下に電話を切った。
 釣銭口に硬貨が乱れ落ち、あっけなく失恋の鐘が鳴り響いた。
 どんよりと分厚い曇り空の下、身じろぎもせず、立ち尽くした。
 潮騒をのせた風が、唸りながら遠くの山肌へ逃げるのを背に、所在なく、足下のひび割れたコンクリートを眺めていた。
 不思議と、悲しみはどこにもなかった。
 苦しいぐらいに志保が好きだったのに、一滴の涙さえ流れ出ようとはしなかった。代わりに、ニヒルな笑いが出て、地上から根こそぎ僕を消滅させた。
 |無粋(ぶすい)に時が経ち、寒気が|火照(ほて)った体を芯まで冷やしたところで、ここに居てもしょうがないと思い、のっそり、家にむかって歩き出した。
 うつむいて鈍重と歩く頬に、横殴りの北風がやけに冷たく吹きすさんだ。
 家に帰りつくと一直線に自室にむかい、がっくり勉強机の前に腰掛けた。勉強する気にはなれなかったけれど、そこにしか居場所がないように思えたのだ。
 心はぬかるみの墓場に立ち往生した。
 僕は生ける|(しかばね)だった。その時に何を考えていたのか思い出そうとしても、かけらも思い出せない。
 しょげ込んで教科書の背表紙を散漫に眺めていると電話が鳴り、何回かけたたましい音がした後に母がでて、「悠次、電話だよ」と大きな声をだした。
 友達と話す気分ではなかったけれど、居留守を使うのが嫌で、|不承不承(ふしょうぶしょう)、玄関近くの黒電話に重い足をむけた。
 |物憂(ものう)げに受話器をとり、はい、と暗い声をだした。
「――志保だけど」
 まさかの相手に、弱った心臓が止まりそうになった。
「……うん」
「本当に悠次兄の気持ちは嬉しいよ」
「うん」
「でも今は勉強を頑張ってほしいの」
「うん」
「もし私と付き合って勉強する時間が短くなったりしたら……」
「わかった、わかった」
 みなまで聞かずに、押し|(かぶ)せるように|(さえぎ)った。気遣ってくれていると思うと、いたたまれなかったのだ。
「私も悠次兄が好きだよ。でも今は勉強を第一に頑張ってほしいの」
 誠実な言辞も、もはや傷心を癒さなかった。僕はもう電話を終わらせたい一心だった。
「うん、分かったから。じゃあね」
 言うが早いか、電話を切った。
 志保のいたわりは残酷に胸をえぐった。志保が喋るほどに惨めになり、それ以上話したくなかったのだ。
 近くで聞いていた母が、友達にそんな物の言い方をするもんじゃないよ、と注意したけれど、ろくすっぽ返事もせずに、急ぎ足で部屋に引きあげた。
 部屋に戻った僕は、殻を堅く閉ざして篭もった。
 机に頬杖をついてうつむくと、俺みたいな人間と志保のようないいコが付き合う訳ないじゃないか、と自分に呟いた。それから何もしないまま、いたずらに時間だけが過ぎた。
 当時は自覚がなかったが、僕には宿命的に自己存在への劣等感が頑固に根付いており、とかく自己否定にはしってしまう。
 熟成された一途な想いはいつしか、僕みたいな人間はそぐわないと感ずるほどに志保を醇美にしていた。


   *


 年が明けて僕はやっと受験勉強にいそしんだ。
 三月の頭に入学試験があり、つつがなく試験を済ませた二週間後に卒業式があった。
 卒業を間近に中学生活を振り返り、やはり志保との思い出が一番大きかったなとしんみりした。卒業文集に書いた『三年間は十六ヶ月のためにあった』の意味を友達に聞かれても、適当な事を言ってごまかしていたけれど、ひそかに志保が気になりだしてから振られるまでの期間が十六ヶ月だった。
 あの電話から、志保とは一言も口をきかなかった。志保を見かけた|拍子(ひょうし)に、僕が目をそらせていたからだ。
 卒業式の日も志保と話す事はなかった。

 卒業式の翌日、高校の合格発表があった。僕は友達とバスに一時間半ゆられ、わざわざ島央高校の合格発表へと出向いた。
 バスの中ではおしなべて思い思いに話を楽しんでいたけれど、こぞってぞろぞろと山足の高校に着き、こくいっこく合格発表が近づくと、一様に緊張の糸が張りつめた。ただ一人、僕だけが早く社会人になりたいと思っていたから、落ちたら落ちたでいいやと思量していた。
 合格発表時刻ちょうど、即席で立てられたベニヤ板の前に、見るからに|生真面目(きまじめ)そうな顔をした先生が現れ出て、てきぱきと合格者番号が書かれた紙を貼り出した。
 ひしめく人垣からつま先立って探すと、ぺらぺら紙に連なった数字の配列に、僕の番号も含まれていた。
 自分の番号を見つけて声を上げて喜ぶ友達もいたけれど、僕に他の受験生のような歓喜はなかった。紫綬褒章の表彰式に迷い込んだほどの場違いな空気を感じながら、これから始まる高校生活をひとり漠然と想像していた。
 島央にのしかかる山のせいだろうか、妙な圧迫感と行きそびれた風が、鬱陶しく不快だった。
 鼻白んでいると、哲也が歩み寄って腕を掴まえ、いくぶん離れた所に僕を連れだした。
「志保からの伝言だけど、――いや、俺はそりゃおまえの妄想だろうって言ったけど、志保がどうしても伝えてくれって言うから、志保が言った通りにそのまま伝えるよ。――合格おめでとう。あの時はごめんね。でも本当に悠次兄に合格してほしかったから。私も悠次兄が好きでした。――だって。志保の妄想だよな」
 哲也は自分の喋った内容が恥ずかしいようで、照れくさい顔だった。
 思いもかけない言葉に僕は当惑した。
 伝言を額面通りに受け取るのなら、それはそれは嬉しい限りだが、あまりの事に戸惑いが先立ったのだ。
 すぐさま、そんなはずは無いだろうと記憶が盾突いた。脳裏に浮かんだのは安幸を想う志保の姿である。
 いったん疑うと、よもやの伝言は、卒業と合格を兼ねた祝い言葉にも思えたし、離別のはなむけ言葉とも受け取れた。
 表情の変わった僕を哲也がたまげながらはやしたてた。
「おまえ本当に志保が好きだったのか」
 わらべにもひけをとらぬ浮かれ気分のからかいは、春風と一緒に体をすり抜けた。
 僕は狐につままれたように|(まど)っていた。
 志保からの伝言も、いま自分が立っている場所も、どこかしっくりとこなかった。
 新生活の場となる馴染みのない|学舎(まなびや)の前で、どよめく歓声と悲しげな沈黙に巻き上げられ、志保への想いがぽっかり宙に浮いた。
 周囲のことごとくを置き去りにして、僕は高嶺に咲く一輪の花に実感のない想いを馳せた。あたかも天文を考察するように。
 志保が僕を好き……
 しばらく哲也は僕の様子を黙って眺めていたが、動かぬでくのぼうを見かねたようで、改まった顔つきになって橋渡し役を買って出た。
「で、どうする。志保と付き合うの。それなら俺が志保に伝えるけど」
 僕は親切心をありがたくも感じずに、少し考えて首を横に振った。
 変に男というものを意識していて、一度ふられた女に未練を持つのは男の恥だと思っていたのだ。
「志保とはとっくに終わったよ」
 すげなく言った。
 哲也の顔は理解に苦しんだ。
「どういう事」
「十二月、志保に告白して、ふられた」
 唇だけでこたえた。
「でも志保はおまえを好きだし、高校に受かってほしかったから……」
「もういい。――もう志保の事はいい」
 にべもなく言いのけた。
 僕は男としてそれが格好良いと思っていた。それに志保が優しさで言ってくれたような気がしてならなかった。
「おまえは今でも志保が好きなんだろ。本当にそれでいいのか」
 哲也は再考させようとしたが、僕は黙って頷き、友達の群れに溶け込んだ。

高校入学

   第四章

 春光が溢れる四月、通り一遍の厳粛な入学式があり、退屈な高校生活が始まった。
 僕は入学するまで高校は自由な所だと思い込んでいたのだが、現実は大きく異なっていた。なかんずく島央高校は校則が軍隊のように厳しく、角張った校風だった。
 毎日のおしきせの朝補習は、でばなから校門で待ち構える規律第一の先生にげんなりである。
 彼らは楽しみの一つみたいに、獲物を狙う目つきで服装チェックを行い、時には鞄の中を検査するのだった。
 その神経質さときたら、学ランの詰襟のホックが一つ外れているだけで、罪人をみつけたがごとく呼び止め、文句をつける異常さだった。
 時代遅れの学生帽を嫌った僕は、「なんで帽子をかぶらないんだ。君は島央の生徒じゃないのか」と、説教と一緒にげんこつを貰うのが毎日の挨拶代わりだった。
 週のオープニングである全校朝礼にいたっては、刑務所さながらで、うんざりする事この上なかった。
 ずらりと整列された生徒を見下ろしながら、教頭やら校長が仰々しい陳腐な訓示を垂れ流す間、担任はいかめしい顔つきで生徒をくまなく観察して回るのだが、その目つきは囚人を見る看守そのものだった。
 訓示では、「島央高校の生徒である事を誇りに」というフレーズが常套句のように使われていた。島内にある高校の中で一番偏差値が高い事で、先生にも生徒にもくだらないプライドがあったのだ。
 |矜持(きょうじ)の薄い僕はそれがたまらなく|厭(いや)だった。
 たしかに学年で上位を争っていた一握りの優等生は東京六大学に入れるレベルだったけれど、小さな尾島からそのレベルの人間が一学年三百人以上集まるわけもなく、大半の生徒はたいした学力じゃなかった。たいしたことのない連中に限って、自分は島央の生徒だと誇りにしていた。
 入学そうそう|固陋(ころう)な学校に失望し、他の生徒達に違和感を覚えた。
 もっとも、大学に進学する気がなく、高校には半分遊ぶつもりで行ったのだから、根本から島央の原則に反していたのである。当然といえば当然の話である。


   *


 くだんの味気ない学校生活で救いだったのは、暮らしのベースとなる下宿がそれなりに楽しかった事である。
 島央高校から五分歩いた山裾にある下宿先は、いっけん立派な面構えをした鉄筋コンクリートの三階建てで――実情は随分と前から下宿業を営んでいるせいで、古アパートのようにくたびれていたが――一階と二階が下宿用にあてがわれていて、口うるさいばあさんが一人できりもりしていた。
 建物の造りは、一階に食事をする大広間、お風呂、トイレ、下宿部屋が二つあり、二階部はトイレ以外、七部屋すべてが下宿部屋になっていた。
 僕は二階にある八畳の角部屋を、プロレス好きの同級生、和久と使う事になった。
 二人部屋はプライバシーがなくて快適とは言えなかったし、上下儀法が厳格で、三年生に屋上に呼び出されて殴られたりしたけれど、さりとて先輩に殴られるのははなから覚悟の上で造作もなかった。
 そもそも僕が島央を選んだのは、家を出たいというのが一番の理由だったのだから、下宿生活に苦痛を感ずるはずもなく、家族から離れられた事で小楽園に移住したほどの軽々とした心持ちだった。
 学校が終わって下宿に戻ると体を鍛えるのが楽しかったし、本と漫画を飽きる事なく不断に読んだ。漫画好きというわけではなかったけれど、一年生がお金を出し合って漫画週刊誌を調達するのが下宿の習わしで、毎週毎週、先輩が読み終わった週刊誌がまわってきたのだ。
 下宿仲間と学校の愚痴を言うのがストレスの捌け口にもなり、低落しそうな心柄を踏み留まらせてもくれた。
 ただ一つ、食事がどうしようもなくまずい点を除けば、案外と楽しい下宿生活だった。
 体が著しく成長した分、めっきり運動能力がたけ、一年終了時の体育の成績は5だったが、時間がもったいなくてクラブ活動には参加しなかった。
 読みたい本、聴きたい音楽、観たい映画が山ほどあったのだ。
 小遣いのほとんどがその三つに|(つい)え、おしゃれを楽しむ余地などどこにもなかった。
 学業もないがしろにして、視野を広げる本と、気分に抑揚を与える音楽と、別世界に逃避できる映画をむさぼっていた。
 中でも映画は格別に好きで、映画監督になれたら楽しいだろうなと、現実味のない空想を楽しむ事もあったが、家の台所事情では、大学はおろか専門学校にさえ行けなかった。


   *


 高校一年の夏といえば体育祭の応援団に選抜され、上級生からしごかれた事が思い出されるが、語るほどのものでもなかった。無尽蔵の好奇心は新たな生活を味わい尽くしておらず、あれやこれやと感興のうちに胎動はまだ小さかったのだ。

文通

   第五章

 夏休みあたりから受験勉強に潜心した三年生は、年が変わったのを機に、幾つかの大学を受験するため|頻繁(ひんぱん)に下宿を離れるようになった。
 そんな折、氷結していた記憶がふいに目を剥いた。
 志保はどこの高校に行くのだろう。
 一旦考えだすと、居ても立ってもいられなくなり、劣悪な下宿の夕食を済ませた後に、三分歩いた先にある駄菓子屋横の公衆電話へとおもむいた。
 毎日先輩と接しているせいか、格段に大人になったように感じていて、中学生の志保に以前のように緊張する事はなかった。
 少年のまどろみから青年の飛翔が芽吹いていたのだ。
 僕はただの友達に電話するのと同じ心地で、志保の家の番号を押した。
 お姉さんが取り次いだ志保に、「久しぶり」虚心坦懐に言うと、「お久しぶりです」と、志保も明るく返した。おたがい変に意識する事なく、かつてと同じ口ぶりだった。
 あいさつもそこそこに、どこの高校に行くのか訊ねると、
「本当は島央高校に行きたかったけど、親が反対で南高校に行く事になった。私を家から出すのが心配みたい」
 志保はつまらなそうに答えた。――南高校は東崎集落から車で十五分の距離にあった。
「おう、そっか。その方がいいよ。島央は校則が厳しいから来ない方が良いよ」
 |(てつ)を踏まないよう僕は本心から助言した。
「え~、なんで。校則ぐらいいいじゃない。悠次兄は島央高校楽しくないの。わたし本当に島央に行きたかったから、島央の事を教えてよ」
 たっぷりと憧れた声で、羨ましそうに聞いてきた。
 志保が島央に入りたいのは、さぞや安幸がいるからに違いない、と思ったが、意に介さず、理不尽な校則やつまらない奴が多いという話をなかば呆れ気味に話した。
「それじゃあ島央高校が楽しくないみたいじゃない」
「うん、楽しくないよ」
「全然?」
「――全然ってわけでもないな」
「じゃあ楽しい話もしてよ」
 志保が言うと、要求を拒否するように最後のコインを通知するブザーが無情に鳴り響いた。
「ごめん、十円玉が切れたからその内にまた電話するよ」
 びっくりするほど足早に時間が駆けていた。
「うん、分かった。また電話してね。待ってるよ。じゃあね、バイバイ」
 志保はさやかに言って電話をきった。
 一年前が絵空事のように拍子抜けするほど電話は円満に終わり、いつしか二人の間にできた垣根が実は幻覚にすぎなかったと喜びと共に明快になった。
 志保は少しも変わらぬ快活さだった。僕は夢中になって童話を聞き終えた幼児に復古していた。
 不通音に変わった受話器を名残惜しんで元に戻すと、中学時代の感覚がまんべんなく体を包みこんで幸福感がひたひた溢れ出した。
(俺、志保と楽しく話してたよな。さっき志保の声を聞いていたよな)自問自答し、しばらく外灯のきれた闇のむこうに志保の姿を探した。
 なんだか志保が現れ出てくるような気がしてならなかったのだ。
 しかし当然ながら志保が現れでてくる訳もなく、幸せな探索も寒さには勝てず、暖をもとめて帰路についた。
 そのまま下宿に帰るのがもったいなくて用もなく遠回りした。
 弾んだ心は鎮静どころか、足をいっそう|逸(はや)らせ軽やかにするのだった。
 寒風を気持ちよくうけて下宿部屋に戻ると、僕の顔をみた和久が、何かいい事があったのかよ、と、即座にたずねた。僕は、ちょっとね、と答え、心内で|快哉(かいさい)を叫び、歓天喜地に宙を躍り上がった。
 天候と逆さに心中は陽春である。自然と顔も緩んでいたに違いない。なにしろ志保と普通に話せたのだから、それはそれはとびきりの嬉しさだった。
 当然そうなると気がせいた。また志保の声が聞きたい、その欲求がうしおの如く迫るのである。
 だがそこは、しつこく思われて嫌われてはなるまいと我慢し、あんばいの良さそうな一週間後に、志保に続く回線に寄りついた。
「勉強がんばってるか」
 受験のプレッシャーにいるであろう志保に、先輩風を吹かせた。
「もう、ずっと電話を待ってたのに」
 沈着に言う僕とは反対に、感情むき出しに拗ねた言詞が返ってきた。
 予想だにしなかった苦情に、小さな驚きの後から大きな喜びが押し寄せた。
「いや、勉強の邪魔になると悪いと思って」
「全然邪魔じゃないよ。今日はちゃんと島央高校の楽しい話を聞かせてね」
 弾んだ声だった。志保の声はいつも耳に心地がいい。
「今日は三十円しかないからすぐに切れるよ」
 簡単に言って残数表示を見た。つつましく示された残り度数の2は、心の奥を映したように真っ赤だった。
「なんで三十円しかないの、色々聞きたかったのに」
 志保は落胆した声で抗議した。
 僕は実際のところ、いくらなんでも電話代ぐらいは持っていたのだが、元来の電話嫌いに加え、この一週間で志保への想いが膨らんだ事で若干の緊張があり、片時でいいから志保の声が聞きたいと思い、三十円をポケットに公衆電話に向かったのだった。島央の事は取り立てるほどの朗話もなかったから、もとよりその話をするつもりはなかった。
「手紙を書こうか」
 作文はちょっとばかし腕におぼえがあった。
「うん、書いて。島央の事とか下宿の事とか教えてよ」
 志保は機嫌を直して嬉しそうにリクエストした。
「分かった。じゃあ近い内に書くよ」
「楽しみにしてるからね」
「うん、それじゃ」
「バイバイ」
 次への橋がかかった電話が終わると、心が大草原を疾走した。
 嬉しさのあまり体もつられて|韋駄天走(いだてんばし)りにはしり、下宿部屋に戻ると、机の引き出しからお金を取り出して、ポケットに突っ込むや、便箋を求めてアーケード街へ長駆した。
 広げたプロレス雑誌を覗きながら一人コブラツイストを決めていた和久が、ぽかんと背中を見送った。
 天空を翔るように僕は走った。


   *


 慎重に書いた最初の手紙は、親しみとよそよそしさがないまぜになっていた。志保は島央の事が知りたいだけで手紙を催促したのかもしれないし、返事を貰える確証もなかったのだから。
 ぬか喜びにならない事を祈って、手紙の最後に遠慮深く、そちらの様子はどうですか、と暗に返事を求めた。

 足が地につかず過ぎた数日の後、待ちわびた志保からの手紙が届いた。
 胸を高鳴らせながら、嬉しさ半分、不安半分で封筒を開け、横書きされた書面をゆっくりと読み進めた。
 最初に|来簡(らいかん)へのお礼があり、次に下宿生活を綴った手紙の感想が羨ましそうに|縷々(るる)と書かれていた。それから、申し訳ていどに中学での近況が書いてあり、最後に健康への気遣いと共に、よかったらまた手紙をくださいと、小さな子犬の絵を添えて、可愛らしく書かれてあった。
 読み終えると、おもわずもろ手が上がった。いきおい天井を仰いだ顔は喜びに溢れ、しばらく動かなかった。
 いっときの後に、ふたたび福音の書簡を味読すると、歓喜に目尻が下がり、胸の中で輝かしい欣幸のさざなみが立った。

 清福の文通が始まった。志保の受験間近やお互いに忙しい時は控えたけれど、志保が南高校に入学した後も文通は途絶えなかった。

 僕がほどなく十七歳になる初夏の頃、たまの帰省でバスで実家に帰っている最中、自転車で友達の家に向かっていた志保から声をかけられた事がある。後日その時の事を手紙の最後に、おまけのような形にして書き送った。

 よく晴れた日の事だった。
 私は夢をみていたように思う。

 夢の中で天使が私の名を呼んだ。
 天使は何度も私に呼びかけた。
 その声で私は目覚めた。
 しかし夢から覚めても天使の声が聞こえてくる。

 私は車窓から声のする方を見た。
 するとそこに天使が立っていた。
「やっと起きたね。これから友達の家に遊びに行くところ」
 元気な声で彼女が言った。
 両手で自転車のハンドルを支え、愛くるしい顔で私を見ている。
 真っ白な開襟シャツが眩しい。

 古ぼけたコンクリートブロックに掛けてある植木鉢の中で色とりどりの花が咲いており、その前に自転車から降りた彼女が立っていた。
 映画のような素晴らしい出来の|()だ。
 彼女はさらに何か喋ったが、美しい画に見とれていた私は彼女が何を言っていたのか覚えていない。

 これは夢だろうか。
 寝ぼけ頭で考えると同時にバスが動き出した。

 思い返せば私は一言も喋らなかったようにおもう。

 バスが動き出してからしばらくの間、私はその光景を喚起していた。
 私には久しぶりに見た彼女の姿が幻に思えて仕方がなかった。

 いくらか経ち、頭がはっきりしてくるのと共に現実を理解し、嬉しさがじんわりとこみ上げた。
 彼女の笑顔が心に沁みる。

 バスが目的地に着くまでの間、私はその後の彼女の行動を想像して楽しんだ。

 その日の夜、彼女に電話をしようか迷った。
 結局、いつものように受話器は重たいままだった。

 ともすれば絶交を招きかねない赤面ものの文辞だが、志保はこの手紙を感動をもって喜んでくれ、僕はほっと胸を撫で下ろした。というのも先の手紙は特別で、平素は日常の何気ない出来事をユーモラスに綴っていたからだ。

 志保との文通は|()んだ島央の生活に張りをもたらした。
 手紙を書くたび、志保が楽しめるよう文章に工夫を凝らせるのが幸せだったし、手紙を書く事ですすけた心が志保の清雅に|濾過(ろか)され、すがやかになっていた。
 また志保から手紙が届くと、急いで部屋に戻って胸を高鳴らせながらこっそり読んで、甘酸っぱい愉悦にどっぷり酔いしれた。
 志保が僕をどう思っているのかは曖昧でわからなかったけれど、手紙で志保と繋がっているというだけで心がたおやかに潤うのだった。
 志保から手紙が届くごとに他の下宿生から、彼女からか、と冷やかされたが、僕は頑固に友達だと言い張った。
 内実は志保との恋愛願望に支配されていたが、それを切り出して文通が終わってしまうのが恐ろしかったのだ。


   *


 蝉がかまびすしく鳴き、太陽が眩しく燃えていた八月下旬、電話で志保に、会おうよ、と持ちかけた。一月分の小遣いをはたいた誕生日プレゼントを渡したかったのだ。もちろん高いものは買えなかったけれど、クラブ活動で使えるようにと、あらかじめ吟味してリュックサックを購入していた。
 卒然の誘いにも志保は快諾して、久しぶりに僕達は会う事になった。
 待ち合わせは、午前は僕が夏期講習でふさがっていた為、午後に市内の路地裏にある喫茶店で会う事にした。本当は海岸の方が良かったのだけど、束の間の夏休みが終わり、下宿生活に戻っていたため、バイクの免許がない僕の行動範囲は市内に限られていた。


   *


 約束当日の|()ざかりの時刻、冷房の効いた店内で僕は先に待っていた。志保との久方の再会に、少し緊張しながら。
 喫茶店の内装はありふれた木目を基調にしたシンプルなものだった。
 注文したコーヒーはすでに目の前に置かれていたが、口をつけずに、心を落ち着かせながら時を待った。
 ルーズな島時間にまちぼうけを覚悟していたが、待ち合わせ時間きっかりに志保はやってきた。
「もう来てると思わなかった。待った?」
 志保は驚いた顔をした後に微笑んで言って、爽やかな空気を振り撒きながら向かいの席に腰掛けた。清楚なブラウスに、薄いクリーム色のスカート姿で、全身から清潔感が漂って眩むほどの美しさだった。
「さっき来たところだよ。何飲む?」
「悠次兄はなに飲んでるの」
 外の熱気が入り込んだ体を冷房風で冷やすように、手をぱたぱたうちわ代わりに自分に風を送った。|(ひたい)がほんのり汗ばんでいる。
「ブレンド。同じにする?」
「――にがくない?」
「俺はブラックで飲んでるけど砂糖を入れたら大丈夫だよ」
「う~ん、でもにがそうだからレモンティーにする」
 志保がこざっぱりした店内を見渡したのを合図に、口髭をたくわえたウエイターが|颯爽(さっそう)とやってきた。
 テーブルに氷水を置いたウエイターがメニューを置く前にレモンティーを注文して、改めて志保と向かいあった。
 目が合うとおたがい妙に照れた。
(まるでデートしてるみたいだ。――志保とデート? まさか……)
 僕はおもはゆさをごまかすように、横の席に置いていた裸のリュックを、「はい、これ」と、事もなげにテーブル越しに手渡した。
 リュックを両手で受け取った志保は、矢庭に荷厄介を押し付けられたのかと訳がわからないようだった。
「これ、なに」
 手にしたリュックをためつすがめつ眺めまわした。
「もうすぐ誕生日だろ。俺からの誕生日プレゼント。――お金がなかったからこれしか買えなかったけど」
 気に入ってもらえるかの不安をポーカーフェイスで隠して言った。
 すると志保の表情がぱっと明るくなり、喜色満面に、ありがとう、と礼を口にした。
 そのとびきりの笑顔を見られただけで僕はこの上ない満悦だった。
 タイミングよく有線放送から、リリースされたばかりの渡辺美里のラヴィンユーが流れていた。
 志保のやわらかい前髪が冷房風になびいている。
 一刻あって志保が極上の笑顔で聞いた。
「何か気付かない」
 黒目の勝った瞳で真っ向から僕を見据えた。
 平静を装ってはいたものの、そのじつ舞い上がっていた僕は、現況にうつつを抜かすばかりで一切の配慮が欠けていた。
「何かって、何か変わった事があるの」
 しげしげ志保を見つめたが、いつにも増して可愛く見える従来どおりの志保だった。僕にとって志保はそこにいるだけで百花繚乱の美しさがあった。
 変化に気付かない僕に痺れを切らした志保は、横を向いて束ねた後ろ髪を見せてから、息つく間もなく正面に向き直った。
「悠次兄がポニーテールが好きって言ってたから結んできたんだけど、似合ってる?」
 花も恥じらう顔立ちで、うら恥ずかしそうに聞いた。
 一瞬しか見えなかったポニーテールを、もう一度ちゃんと見せて、と頼むと、志保はためらいがちにゆっくりと横を向いて、デッサンのモデルみたいに静止した。
 白肌のうなじは色気よりも清涼感が勝っており、|(つぼみ)の芳香を思わせる|澄明(ちょうめい)な美しさが|(かお)りたっていた。
 とりこになって見る僕に、志保は羞恥にうつむいた。
「そんなに見られると恥ずかしいじゃない。――どう、似合ってる」
「うん、似合ってるよ。でも志保は髪型に関係なくかわいいから」
 あまり気の利かないこたえで胸の内をみせると、志保は照れ隠しにふくれてみせた。
「それじゃあポニーテールが似合ってないみたいじゃない」
 僕は手振りをまじえて、おろおろ弁明につとめた。
 主導権を握った志保はやりとりを楽しむように、要領を得ぬ言い訳のあらを探しては釈明を求めるのだった。
 身辺はエアコンの冷気で高原のように快く、心は眼前の名花にさらわれていた。
 どうにか不器用な弁解が済み、それから今日の出来事をつまびらかに話していると、スライスレモンを縁につけたレモンティーが涼しげに運ばれてきた。
 それぞれの一杯の飲み物が二人に与えられた刻限の砂時計であるかのように、僕達は遠慮がちに飲みながら近況を交換しあった。
 ときおり話が途切れて、たがいの視線に戸惑いながら。
 命運はときに|(いき)なはからいをするものである。あらゆる苦悩をも忘却させてくれるような素晴らしいはからいを。
 途中から僕は志保と一緒にいる嬉しさに耐えられなくなり、たびたび顔をみられないよう下をむいては|破顔(はがん)するようになった。
 これ以上の幸があるだろうか。
 時が経つにつれ|嬉々(きき)とした感情はどんどん加速していき、しきりに下を見るようになり、しまいには秒針が半周する間、顔をあげられないほどの有り様になった。
 志保は僕の挙動を嬉しそうに見ていて、顔を上げた拍子に目が合った時には、志保も大照れの顔になった。僕は上げた顔をすぐさま下にむけて照れた。
 そんな風にしていると、ストローの袋を|(もてあそ)んでいた指をとめて、志保が上目遣いで訊ねた。
「悠次兄は私のこと好き?」
 瞬間、心臓が停止した。
 その問いは禁句では……
 しかもなぜにそんな和やかな顔で……
 僕は本音で答えていいものか躊躇したけれど、澄んだ瞳を見つめて|(いつわ)りなく答えた。
「好きだよ」
 真っ直ぐな返事に志保は顔をほころばせた。それから、わたしも悠次兄が好きだよ、と小さく言って頬を赤らめた。
 ひとたまりもなかった。震えるほどの嬉しさが頭のてっぺんからつま先まで一気呵成に走り抜け、卒倒しそうになった。
 頂点に達した僕は喜びに言葉が埋もれて何も喋れなくなった。
 のぼせた頬はでれでれと緩み、目線は志保を正視できず、下にいったりカウンターにいったり、落ち着きなくさまよった。
 僕が志保に惹かれる性分の一つはこの積極性だった。僕もおよそ積極的な人間ではあったが、こと志保に関してはからっきしおくてだったのだ。いや、おくてどころか、度を越した臆病者でさえあった。
 とにもかくにも、その時の僕は誰がなんと言おうと世界一の果報者だった。
 少時あって、いくらか落ち着きを取り戻してからは、会話が翼を得て更なる高みを滑空した。
 爆発した喜びを内に秘めて、そわそわしながら、僕は有頂天を夢心地で泳いでいた。
 志保は一緒にウィンドウショッピングしようよ、と提案したけれど、友達や先輩に目撃されるのが妙に恥ずかしくて、同意できなかった。季節の良い春や秋なら公園のベンチで話したかったのだけれど、夏の暑さ真っ盛りではそれも断念せざるを得なかった。
 不思議なぐらいに、キスや抱擁といった謎の世界に志保を当てはめる事がなくて、志保が言った、好きの一言だけで、胸がはちきれんばかりに歓喜でみたされた。
 めくるめく歓談の時間が薔薇色に過ぎ、バス停で志保を見送ると、自制の包膜が破裂して喜悦の粒子がたなびいた。みちみち私も悠次兄が好きだよと言った志保を|反芻(はんすう)し、狂喜乱舞に足取りは軽く、顔はめろめろだらしがなかった。


   *


 順風を満帆に受け、その後も僕達は文通を楽しむ純潔な付き合いを享楽した。


   *


 島央高校は三年生の受験にあわせて九月中に体育祭と文化祭を済ませてしまうと、あとは勉強色一辺倒となり、活気だっていた校内がぱたりと無風状態になった。
 日に日に暑さがひいていき、月めくりの|(こよみ)が残り二枚になると、南島の尾島にも秋の気配が色濃く垂れ込んだ。
 秋はなぜにかくも物悲しいのだろう。生命の|(はかな)さを思い知らされるからなのか、忍び寄る冬の足音が寒さに弱い僕を感傷へといざなうからなのだろうか。僕はこの季節になるときまって鬱症状に襲われる。
 気付かぬうちに現れ、自信と勇気を冷酷に粉砕する鬱は、例外なくこの年も|(つた)のように体を覆い、厚顔にはびこった。
 秋が深まるにつれ、僕は内側からゆらゆら衰微していった。
 時がかさむほどに、手書を交わすごとに、志保への想いは強くなったが、志保を好きになればなるほど、僕に巣食う自己否定は情け容赦なしに心を侵食していった。
(俺よりも好きな男がいるのに文通してくれているんじゃないのか。
 俺は子供を欲しいと思っていないじゃないか。
 志保の未来をおもえば俺みたいな人間は関わらない方がいいに違いない)
 僕の心は相手への気持ちが大きくなるほど、反比例して自分の価値を小さく感じるようにできているらしい。
 志保の清浄無垢な光に照らされて、ねじくれた僕はしおれて萎縮した。或いは、たわわに実った恋の果樹は、その重さゆえ惨めに自壊したと言うべきか。
 志保に迷惑をかけているように思えて仕方がなかった僕は、志保の重荷にだけはなりたくないと思い、やむにやまれず最後の手紙をしたためた。

『これまで文通の相手をしてくれてありがとう。本当に楽しかったよ。
 これを最後の手紙にします』

 川辺に立つ郵便ポストはガードレールに寄りかかるようにぽつんと立っていた。
 溜め息混じりに投函口に手紙を差し込むと、最後の書簡を持つ手は容易に離れなかったけれど、目を閉じて、祈るようにして、ゆっくりと指を離した。
 空っぽであろう底で悲しいぐらいに軽い音が響いた。
 辺りはすっかり夕暮れで郵便局員が収集に来るはずもなかったが、ポストを離れられずに、何をするともなくそこに突っ立っていた。
 川のせせらぎが生活の騒音にかき消され|悄然(しょうぜん)としていた。
 斜陽が曇り空の局部を明るませ、対岸にひしめく建物が秋風になぶられていた。
 早いたそがれに家路につく人々は忙しかった。
 川沿いに吹き上げる冷たい風に刺され、身をすくめていると、クラスメイトが自転車でやってきて、おう、と|(わず)かに手をあげ通り過ぎた。
 友達はしばらく行ったところで振り返り、僕の様子に自転車をとめた。
 僕はなんでもないというふうに手を小さく横に振って、やるせなく郵便ポストをあとにした。
 低くたれこめた曇り空の下、|(なまり)になった足で下宿に続くなだらかな上り坂をうなだれて歩いた。
 下宿の門をくぐった所でにきび顔の後輩に出くわした。
「悠次兄、新しいマガジン買ってきました」
「あっ、そう」
 一瞥もくれずにうわっつらで返して足を休めなかった。
 僕を浮き立たせるものは何もなかった。
 部屋に戻り、布団にくるまると、志保のためにはこれで良いのだと自分に言い聞かせ、果てしない絶望の深海に、十字のおもりに縛られ、気泡もたてずに沈みいった。

多情多恨の瀑布

   第六章

 高校生になってからの僕はよろめく思考の新陳代謝が目まぐるしく、急激に自我が芽生え、それでいて確立できずに複雑難解だった。
 平和的な心と暴力的な心が共存し、ファッション雑誌を興味深く読みながら乞食に憧れ、性欲を満たしたい欲求に駆られながらセックスを否定した。
 冷然と打算は常に対極にあり、絶え間なく、知識欲、好奇心、内省、絶望等が、かわるがわるどこからともなくさかんに噴出しており、小心と大胆、かび臭い思想と前衛思想、みなぎる活力と自殺願望が混迷として自分を持て余した。
 また、野蛮なふてぶてしさと気高い鋭敏な感性が急転する面妖さもあった。
 なりをひそめる鬱は膨張と縮小を繰り返し、僕を織りなす多様な人格は心棒が不安定なこまのように、ときに思考の重心をどちらか一方に傾斜させ、後悔を生んだ。
 理想に完全でありたいと希求していた僕は、当然の不可能を分からずに心を煩わせていた節もある。
 自己分析では僕は生きる価値のないクズでもあり、周囲が一目置くべき卓越した人物でもあった。
 旺盛な探究心でまがりなりに、茫洋たる社会や未知なる人間性をつらつら洞察するようにもなっており、理の当然として矛盾だらけの社会に抵抗を感じるようにもなっていた。
 毎日アフリカで餓死者がでる現実と、大金持ちが贅沢三昧の暮らしを送る現実が噛み合わなかったし、一機数十億円もする戦闘機が群れをなす現実も理解ができなかった。
 お決まりのコースを辿っていかれた社会に馴染むのが恐かったし、僕から見える世界だけが|(ひず)んで見えるのだろうかと、頭を抱える事もあった
 消化不良を起こした思索は独特の薬味で|攪拌(かくはん)され混濁していた。そしてそれは現実という分析材が増すほどに混迷の度合いを深めるのだった。
 加えて、どうしてそうなのか分からないが、僕には昔から夢がなく、『豊かな人生』『幸福な暮らし』そういった|(たぐ)いの観念が希薄で、泥や油にまみれた最低の生活だとか、野垂れ死にするのが自分の行くべき道だと感じていた。
 不安定な精神状態で育った人間は、不安定な生活に安堵を覚える、と何かで読んだ事があるが、そういったものが作用していたのかどうかは分からない。
 かと思えば、ややもすると日がな一日、空を飛びまわる空想に心を奪われる夢見がちな一面もあった。
 |(くすぶ)った情熱で羽根をばたつかせるだけの僕は、飛べない鳥であり、泳げない魚だと感じていたが、森羅万象を心が投影するのを一考するに、僕は高く飛びすぎたが為に薄れた酸素に息苦しむ鳥であり、深く潜りすぎたが故に水圧に悶え苦しむ魚であった。
 若者特有の強い欲求に、愛、自由、真実などがあるが、僕は真実と自由を求める気持ちが人一倍強かった。その反面、愛は縁遠いものに思えた。少なくとも僕は愛される資格のない人間だと感じていた。
 学校生活は、徒党は組まなかったものの、仲のいい友達もいて、相応の楽しさもあり、なまじ居心地が良くなっていた。
 それが土壌だった。
 僕は理想の一つだった求道者になるべく、真理を求めて旅に出る事にした。
 表面ではそう思っていたが、僕を動かした本質は次のものだったと思う。断言できないのは、当時の僕が非常に複雑なため、分析作業が困難を極めるし、その頃を思い出すのが大変な精神的苦痛で、深く踏み込めないからだ。入り組む地下水脈の思慮を集水した多情多恨の|瀑布(ばくふ)は、崩壊寸前の自我にあって、当人をもってしても明確にできない。
 僕には抱えきれないほどの雑然とした種々の思いがあり、その飽和した思考と感情は、孤独と虚無を伴って入り乱れ、分裂し、融合を試みると耐え難い耳障りな不協和音をがなりたてた。
 累々ともつれ氾濫したそれら一切合切から逃れ、しがらみのない世界にいきたかった。そうしたら僕を苦しめる呪縛から解放されると抱懐した。さもなければいっそのこと死んでしまいたかった。
 自分が変わらない限りどこに行っても一緒だというのに。


   *


 高校二年の一月下旬、親から預かった下宿代と、それまでに貯めたなけなしのお金を懐に、誰に話すこともなく僕は東京を目指した。
 平常どおりに授業を終え、下宿に戻ると、ひっそりと部屋を片付け、机の引き出しを整頓し、壁と畳に雑巾をかけた。それから、友達から借りたバッグに、衣類と日記と倫理の教科書と志保からの手紙を詰め込み、とっぷり日が暮れるのを待った。
 夜の|(とばり)がおりると、頃合を見計らって身支度をすませ、夜陰にまぎれて下宿を飛び出し、脱出口である港へと急いだ。
 常道を逸脱し、脱獄囚のように裏道裏道を抜ける道中、民家からもれる明かりが、真冬の寒さに温かそうで恋しかった。
 尾島は夏があざやかな分、反動のように冬がさびしい。空を覆う|鈍色(にびいろ)の雲は重く、吹きつける浜風は冬ざれの日本海をおもわせる荒らくれようである。
 知人に遭遇する事なく港に到着すると、受験生のていで偽名でチケットを購入し、長蛇の列に加わり、フェリーからおろされた安定感のない階段を颯々と未来にのぼった。
 首尾よく客室に入ったそばから周囲を見渡し、知った顔がないのを確認してやっと人心地がついた。
 ひとまずの安心に乗降口近くの自動販売機のカップコーヒーを飲みたかったが、見覚えのある人に会う恐怖と百円も無駄にできない懐具合に、バッグを深く抱え込んで体育座りに壁にもたれた。
 僕が入った広間の客室は思いのほか人が少なく、寒々とした空気だった。
 やつれた顔の中年女性が、はす向かいで荷を降ろし、膝を崩して座り、無言に俯いた。
 その時の心情を忠実に描写したいのだが、書こうにもはしょるほか方途がない。その時に何を考えていたのか思い出そうとしても、脳が拒否してあの時の僕に触れさせてくれないからだ。
 客室の床板から離岸する揺れが体に伝わった瞬間、未曾有の乾いた興奮が胸いっぱいに広がった。
 駆り立てられるように階段をかけ上がり、甲板にとびでると、船体が亀ののろさで旋回を始めていた。
 住み慣れた街は蛍がたむろしたほどのちっぽけさだった。
 特別な寂しさはなかった。いつもの寂しさがいつもどおり体を抱きしめていた。
 冷たい海風が吹き渡るデッキから遠ざかる黒い島影を見つめていると、不安と期待と感傷がごちゃまぜになった中で、志保の面影が頭をかすめた。
(もう志保に会う事もないだろう。いや、もしかしたら何年後かに、東京のどこかで偶然会う事があるだろうか)
 フェリーは漠々とした闇のうねりをつっぱり、見えない目的地へとしぶきを立てた。
 鹿児島港には翌朝入港し、港からは|(うと)い順路に通りゆく人に道を尋ねながら、徒歩で西鹿児島駅へとむかった。
 大きなバッグをかかえての歩行に距離はだいぶあったが、この先の苦労を思えば小さな事だと歯を食いしばり、バッグを持つ手を幾度となく変えながら、ジャンパーの内側を暑くして歩いた。
 花時計のある西鹿児島駅に着くと、不慣れに東京行きの切符を買い、夜行列車ブルートレインに乗りこんだ。
 車両内の小さく仕切られた部屋には、向かい合わせに二段ベッドがあり、僕のベッドは向かって右側の上部だった。
 僕の下のベッドにはすでに六十過ぎのばあさんが腰掛けていて、軽く会釈を交わした。
 狭い昭和風情の車内では、特にすることもなく、通路にでて窓の外ばかりを眺めていた。
 山間部のこぢんまりとした村や、海沿いの小さな町を通過するたび、こんな所にも何十何百の人生があるのかと、ぼんやり感心を積もらせていた。
 やがて日が暮れ、真っ暗になり、なにも見えなくなると、昼から辛抱していた胃袋の訴えに、しずしず食堂車へと向かった。
 二人がけの席が向かい合わせに並ぶ七時前の食堂車両は空席が多かった。
 その中で目立たなそうな席に座り、大きなメニューを開くと、一ページに二品しか載っていない写真付きの定食が貧寒の僕を|嘲笑(あざわら)った。
 軒並み千円を超える品々に僕は唖然とした。街中の食堂と同列に考えていて、五百円から七百円を目算していたのだ。
 品数の少ないメニューの中で、食べたいものは生姜焼き定食かハンバーグ定食だったが、高校生の僕に千五百円は高すぎた。
 ひとしきり考えた後に、唯一千円もしないサンドイッチを頼むと、ウエイトレスが、お飲み物どういたしますか、と聞いてきた。飲み物はいいですと答えると、ウエイトレスは不審な顔をして厨房へと引きさがった。
 ジュース一杯の値段で今後の一食分である。とても注文する気になれなかった。
 窓に反射する室内灯を見ながらしばらく待つと、愛想笑いをしたウエイトレスが、おやつかと見まがうものを持ってきた。
 大きなお皿に小さな二つのサンドイッチが四組、四方から中心に向かって整然と置かれていた。配置だけならフランス料理だ。
 そのなかの一つを口に入れると、中学の家庭科の時間に女子が作ってくれた素朴なサンドイッチと同じ食味がした。
 二つ目のサンドイッチを水と一緒に胃袋に流しこむと、これからの生活を暗示した味覚におもえて、ひどく惨めな気持ちになった。
 味わうほどのものでもない食事を早々に済ませると、寝台に戻ってカーテンを閉めた。
 狭い空間であぐらに座り、これからの事を考えようとするが、静かな興奮で頭がてんでまわらない。
 バッグの中から倫理の教科書を取り出して偉人の言葉を拾うが、何も心に届かない。
 教科書に散らばった数々の名言は、その時の僕には遠すぎた。
 常日ごろ僕が相談したいと思っていた相手は、ソクラテスでもプラトンでもなく、年老いた自分自身だった。時宜を得た自分にいろんな事を聞きたかったし、いろんな事を話したかった。ずっと見えない先の道標が欲しかったのだ。
 時間はまだ八時前だというのに、別段やることもなく、ふとんをかぶって横になった。
 僕が一番幸せを感じるのは寝ている時だった。
 何も考えなくていいのだから。
 幸いな事に寝付きは異常に良かった。
 僕は少しの間で眠りにおちた。

 目が覚め、バッグから安物の腕時計を取り出すとまだ四時前だった。
 今日の事を考えるに、体力を蓄えねばとまた横になるが、いっこうに眠れない。
 もともと二度寝をする習慣がなかったから、こうなるともう諦めるしかなかった。
 とりあえずトイレの横にある洗面所で顔を洗おうと、車両の端へと向かった。
 寝台部屋と車窓に挟まれた細長い通路は、蛍光灯の明かりが窓に跳ね返り、独特の雰囲気をたたえていた。
 自分以外には誰一人おらず、車輪の軋む音以外はなにも聞こえない。
 水だけでの洗顔を終え、寝台に戻ると、あぐらに座ってこの先の事を考えた。
 仕事はどうしようか……
 未成年でも出来る仕事って何だろう……
 その前に、どこの駅で降りようか……
 田舎者の僕はアルバイト情報雑誌の存在すら知らなかった。



 やがて外が白み始めた。
 僕は通路に出て、引き出し式の椅子に腰かけ、流れゆく風景を眺めた。
 通路にいるのは僕一人。
 寝台部屋の入口はすべてカーテンが閉まっている。
 ひんやりした空気の中、新しい一日が始まろうとしている。

 ここはどこなんだろう。愛知だろうか、静岡だろうか。
 田んぼの向こうに|疎(まば)らに民家が見える。
 
 まだ学校にはバレてないだろう。
 下宿の連中でさえ気付くのは明日以降だろう。

 相も変わらず、聞こえるのは車輪の音だけである。
 この空間を独り占めしていることが嬉しかった。
 やがて澄み渡った風景の向こうから、太陽がゆっくりと顔をだした。
 その光景は、素晴らしく美しく、幻想的だった。
 不安と期待が入り混じる中、僕はその光景をじっと眺めていた。



 人が洪水に押し寄せる東京駅。



 代々木公園の樹陰の残雪。



 喫茶店入口のアルバイト募集の張り紙に、飛び込みで受けた面接。
 


 お店に入ると爽やかな顔をした青年が、いらっしゃいませと愛想良く言った。
 小さなテーブル席に、お待たせしましたとコーヒーを置き、カウンターへ戻ろうとするその店員に近づくと、用ありげな僕の態度に、なんでしょうかと足をとめた。
「あのう、外のアルバイト募集の張り紙を見たんですけど」
「あっ、面接ですか」
「そうです」
「じゃあ、あちらの席に座ってお待ち下さい」
 店員が奥の席をさして言った。
 僕はバッグを両腕で抱きしめて、カウンターとテーブルの間を歩いた。
 カウンターでコーヒーを飲んでいた、四十過ぎの太ったおじさんが不審な顔で僕を見る。
 僕は一番奥の席に座り、足元にバッグを置いた。
 すぐに三十代後半にみえるマスターが急ぎ足でやってきた。
「面接ですか」
 向かいの席に座りながら穏やかな笑みで聞いた。
「はい、そうです」
「じゃあ履歴書みせてくれるかな」
 半可な僕は焦った。面接に履歴書が必要だとすら知らなかったのだ。
「すみません、持ってきてないです」
 僕はつかえた顔で答えた。
 マスターは驚いた顔をした後に、じゃあちょっと待ってて、いそいで言ってカウンターの中に戻った。
 常連らしき太ったおじさんの、警察に通報しろよ、という囁きが聞こえた。
 やさしい顔をしたマスターは、大丈夫だからと小さな声でこたえた。
 若い僕は、警察が来たところで嘘を通せば大丈夫だと思いこんだ。
 マスターが白い紙を手に戻ってきた。
「じゃあこれ書いて」
 テーブルに履歴書を置き、ボールペンを手渡した。
 すみませんと答え、僕はまっさらな履歴書を見た。
 生まれて初めて見る履歴書の空白が、何一つ誇るもののない自分の人生に思えて、気後れした。
「コーヒーでいいかな」
 マスターが穏和に聞いた。
「はい、お願いします」
 僕が答えるとマスターはカウンターの中に戻っていった。
 履歴書の名前欄に偽りなく名前を書き入れた所で、住所欄にペンが止まった。
『どうしよう』
 考えるが良案が浮かばない。
 とりあえず住所欄を飛ばして、年齢を一つさばよみ、三月に高校卒業予定にした。
 履歴に小学校、中学校、高校を書き入れる間ずっと住所をどうしようかと考えるが、妙案が出てこない。
 嘘の住所を書くにしても東京にある架空の住所の見当がつかずに書けなかった。
 特技や得意な科目を書き、住所欄以外を書き終わった所で答えを決めた。
 住所は、兄のアパートに住むんだけど、上京したばかりでこれから兄のアパートに行くのでまだ分かりません、にした。
 思い返すに、恥ずかしいほどにすぐに分かる嘘である。
 だけれどもマスターは優しい人だった。
 履歴書を書き終わったと見るや席にやってきて、僕の話を丁寧に聞いてくれた。
 おそらく僕がつくろう嘘を、嘘と分かっていながらも何も否定しなかった。
「じゃあさ、採用するにしてもなんにしても、住所が分からないとこちらも雇えないから、住所が分かったらまた来てくれるかな」
 優しい口調で言った。
「はい、すみません。住所がはっきりしたらまた来ます」
 僕はそう答えてコーヒー代を払おうとした。
「いや、お金はいいよ」
 マスターが笑って言った。
「えっ、いや、飲んだものは払います」
 僕は|律義(りちぎ)に言った。
「本当にいいから」
 マスターの言葉に、すみません、ありがとうございます、と僕はお礼を言った。
 緊張から解放されてお店を出ると、すぐそこにカウンターにいた太ったおじさんと警察が立っていた。
 おじさんが警察に何か言うと、険しい目をした警官が頷いて近づいてきた。
 そこから先はよく覚えていない。


 死のうかと思った。


 僕の身柄は埼玉に住む叔父宅に預けられ、尾島に帰される事になった。
 
 三つ上の従兄弟があまりの無謀さに呆れていた。
 
 尾島に向かう機内では、墜落して自分だけ死んでくれと、ずっと願っていた。


 結局、計画性のない暴挙ともいえる旅立ちは、|惨憺(さんたん)たる結末で幕を下ろした。


   *


 僕の奇行は担任の口からクラスのみんなに伝えられ、あっという間に方々に広がり、校内でちょっとした噂の種になっていたけれど、僕にはもう別世界の話だった。
 学校を辞める決心がついていたから、幾多の好奇の目も、まことしやかに広がるあらぬ噂もなんとも感じなかった。
 がらくたになるであろう知識を詰め込む勉強に意味を感じなかったし、がんじがらめの校則にも辟易していて、元々学校を辞めて働きたいと思っていた折、丁度良い機会だった。
 とはいえ、島に戻されてすぐは謝罪するにやぶさかでなかったし、退学の意志もぐらついていたのだが、先生らが悪意に充ちた親切心で退学を決定づけてくれた。
 二十代半ばの偏狭な正義感を振りかざす熱血教師の担任は、家出騒動と自主退学希望を教頭からこっぴどく叱られたらしく、おまえのせいで迷惑を|(こうむ)ったと、|不逞(ふてい)の僕を的外れの誹謗でさんざ責め立てた。
『真実を見つける為? お前が言っている事は詭弁だ。いいか、世の中はうまく回っているんだ。少なくとも日本の社会はうまくいっている。という事は、今の社会は正しいんだ』
『おまえは授業を受けたくなかっただけだろ』
『そうまでして目立ちたかったのか』
『友達からバッグを借りたと言っていたが、返す気なんかなかったんだろ。人はそれを泥棒と呼ぶんだ』
 それはまったくもって無礼きわまりない浅はかな訓戒だった。
 たかをくくった邪推に裏打ちされた空疎な説教は、担任がそうとは気付かぬうちに血気盛りの神経をこれでもかと逆撫でし、反目を煽りたてた。それでいて、自己評価の下落を嫌い、私に免じてこの騒動はなかった事にしてやる、と、恩着せがましく退学を引き止めた。
 僕は|省(かえり)みるどころか、愚かに心を傷付けた上で、狭い視野で体裁に囚われる担任を|烈(はげ)しく軽蔑した。ただでさえ、大人どもは自分が良ければそれでいいと考える偽善者の集まりだと感じていたのが、担任を嫌悪するのに拍車をかけた。
 もっとも、そうなる前から常々担任とはそりが合っていなかった。事の発端はクラスマッチのサッカーだった。
 一回戦は僕のアシストをクラスで唯一サッカー部に所属していた浩二がきめて一対0で競り勝ったので面倒はなかった。
 問題は次の二回戦である。サッカー部員が四人もいる三年のクラスと当たることになり、対戦前から敗色濃厚なこの試合が担任の感情をいたく害した。
 戦力を分析するに及ばず勝機は薄かった。いかんせんうちのクラスは僕と浩二の他はみんなサッカーが得意じゃなかったのだ。
 勝ち目を考えるにPK戦しかなかった。
 それゆえ僕は引き分けを狙って嫌いなディフェンスにまわり、PK戦に持ち込もうとたくらんだ。
 試合は予期したとおり終始劣勢に立たされたが、計略どおりにゲームは推移し、前半は無失点で凌いだ。
 ハーフタイムに、この調子なら番狂わせがあるかもしれないと色気をだしたのが間違いか、後半早々、もう一人のディフェンダーが振り切られ先制点を奪われた。
 失点の瞬間、グラウンド脇で応援していた女子達が一斉に溜息を漏らしたけれど、クラスの実力差を考えれば当然の結果で、がっかりする事もなかろうにと僕は冷静だった。
 作戦は変更せざるをえず、そこから僕は本来得意とするミッドフィルダーにポジションを上げた。点を取らないことには話にならない。一対0で負けようが三対0で負けようが、負けは負けだ。
 するとたちまち僕らのクラスはがらりと良くなり、攻勢にうってでた。
 真骨頂を発揮した僕は、オフェンスにディフェンスに、観衆を魅了する獅子奮迅の動きで何度も好機を演出した。
 その日の夕食時に先輩や後輩が、「友達が、あの人すごいねって感心してたよ」と興奮気味に話したぐらいだし、サッカー部の顧問からもベタ褒めで入部を勧められたほどだった。
 しかし抜きんでた奮闘もむなしく、試合は結局そのまま一対0でタイムアップした。
 歓を尽くした僕は、クラスマッチはみんなが楽しめればそれでいいものだと思っていたから|微塵(みじん)の悔しさもなく、体を動かした爽快さにさっぱりしていた。
 このクラスの顔ぶれで一勝できたのだから上出来だろう。それはクラスの男子みんなが共感するところで、試合の後はひとしく笑みを|湛(たた)えていた。
 しかれども、共感できない人物が一人だけ唇を噛んでいた。
 担任の機嫌はすこぶる悪く、腹いせに僕を非難の的にした。
 放課後前のホームルームで開口一番、「悠次、立て。みんなに謝れ」いらいらした気持ちを隠そうともせず、教壇から僕を見下ろした。
 僕は訳の分からない高圧的な態度に、
「なんで」
 反抗的に聞いた。
「おまえのせいでうちのクラスは負けた。みんなに謝れ。おまえが最初から頑張っていたらうちのクラスは勝っていたぞ」
 子供みたいな直情で敗退責任をなすりつけた。
 担任の感情計はすでに沸点を超していたようだが、僕はへつらう気などこれっぽっちもなかった。従順は腰抜けの異名だと思っていたからだ。
「ディフェンス頑張ってたよ」
 担任の機嫌などお構いなしに泰然と主張した。
「おまえは動くのが面倒だから後ろの方にいたんだろ。後半はそれまで遊んでいたおまえだけが元気だっただろ」
 担任は形相をきつくして、いかずちの語気をいっそう荒げた。
 僕はちゃんちゃらおかしかった。
「俺は中盤で動き回るのが一番好きだよ。後半も元気だったのは俺に持久力があるからだろ」
 持久力には自信があった。スポーツテストの長距離走で僕の前を走るのは陸上部の生徒だけだった。
「じゃあ最初からフォワードもディフェンスもやればいいだろ」
 しかめっ面で言う担任の無理に、
「そんな事できる訳ないだろ」
 あきれて不敵に答えると、浩二がとりなそうと割って入った。
「相手が強かったから負けたのはしょうがないと思います。最初から悠次を中盤においていたら、もしかしたらもしかしたかもしれないけど。――でも悠次はよくやってました。決定的な場面でミスした俺も悪いし……。悠次、おまえなら三年生を押しのけてレギュラーになれるよ。サッカー部に入らないか」
 公正に言った浩二の勧誘は担任の機嫌を余計に悪くした。
「おまえは黙ってろ。――悠次、前半が終わった時に変わったやり方でボールを浮かしただろ。あれはなんだ。みんなにそのやり方を教えたか」
 ともかく僕に文句を言いたいようだった。
「なんで教えなきゃいけないの。教えたところで出来ない奴は出来ないよ」
 飽き飽きして言う僕に、担任は尚も大変な剣幕で捲くし立てた。
「おまえは自分が出来る事を他の生徒はできないと思っているのか。いいからどうやるか言ってみろ」
 僕は露骨に嫌な顔をして、ぶっきらぼうに説明した。
「ボールを両足で前後に挟んで、持ち上げるように浮かして、ボールが浮いた所で、ボールの底を右足のかかとで蹴り上げて、自分の前にボールをだす」
 担任は下をむいて想像力を働かせた後に、僕を睨んだ。
「でたらめ言うな。おまえ今言った通りに自分でやってみろ」
 怒鳴りつける担任の顔は真っ赤だった。
「試合の時やっただろ。やれって言うならやるけど、できたら土下座して謝れよ」
 嘘だと決めつける態度に、半切れになって言い返した。
「おまえは先生に土下座しろというのか」
 担任が目を吊り上げて|躍起(やっき)になって言うと、浩二が助け舟を出した。
「悠次が言ったのは本当です。でもあんな風にあの技がきれいに出来るのは、サッカー部でも少ないです。俺でも調子のいい時に、きたない形でやっとできるぐらいですから」
 息巻く標柱を不意に失った担任は、返す言葉がなかった。
「おまえの友達をかばいたい気持ちはよくわかった。今日はもういい」
 いまいましげに言い、苦虫をかみつぶしたような顔で連絡事項を伝達し、むしゃくしゃ教室を後にした。
 先生を先生と思わぬ|不躾(ぶしつけ)な態度で僕は反感をかったが、屁とも思っていなかった。
 また、こんな事もあった。
 IQテストから数日たったホームルームの時間に、担任は僕をやり玉にあげた。
「悠次、おまえは学校が終わってから何時間勉強しているんだ」
 それまでの講釈とは脈略のない質問に虚を|()かれ、不可解に担任を見た。
「悠次、聞こえなかったのか。一日何時間勉強しているか聞いているんだ」
 担任は不機嫌に声を大きくした。
 僕は学業成績への競争心がまるでなかった為に、常ひごろ勉強したためしがなかった。勉強するのは判を|()したようにテスト前日で、赤点さえ|(まぬが)れたらそれでいいと思っていた。
「三十分」
 控え目に嘘をついた。
 担任は吐き棄てるように横をむき、あしざまに言った。
「そんな事だろうと思ったよ。つい先日、IQテストの結果が届いた。――悠次、おまえはトップクラスで上位を争っているべき結果だ。ところがどうだ。このクラスでもおまえの成績は|(かんば)しくない。十五番以内には入っているが、おまえならこのクラスで常にトップを争っているべきだ」
 気色ばんで強い言いぐさで説法する担任の意図とは|逆潮(さかしお)に、先立ったばかばかしさが奮起に蓋をかけた。たかだか五十人足らずで順番を競うだけじゃないか。
 |億劫(おっくう)な顔をする僕に、担任は尚もうるさい言葉を|()いだ。
「それにおまえは文系の科目より理数系のほうが遥かに得意なはずだ。――違うか」
(だからどうした)|惰気(だき)をありありと表情に浮かべ、こっくり頷いた。
「なんで文系にきたんだ」
「――好きだから」
 平然と言う僕に、担任は呆れ顔を深くした。
「将来のために自分の得意な分野に進むのが普通だろう」
 担任は|筋張(すじば)った声で更にくだらない|御託(ごたく)を並べ立てたが、僕はもう聞く気も失せていた。
 それはさておき、担任とは前々からそんな調子だった。
 加えて、|傲慢(ごうまん)な学年主任が留守にしている間に勝手に部屋にあがり込み、引き出しにしまっていた日記を読んだと知った時は、怒り心頭に発し、半殺しにしてやろうとはらわたが煮えくり返った。
 鍛え上げた|膂力(りょりょく)は先生を上回るし、下宿での楽しみの一つはサンドバッグを殴る事で、パンチ力には自信があった。殴り合いの勝負で負けるはずなどなかった。
 権威を疑わぬ学年主任はそれだけではあきたらず、クラスのみんなに日記の内容を公表しようかと横暴な態度で脅しをかけてきた。
 |憤懣(ふんまん)たぎる僕の返事は、一言でも喋ったらおまえを殺す、だった。怒髪天を衝く本気の言葉だった。
 |居丈高(いたけだか)に杓子定規の愚劣な説教をたれる先生を毛先ほども敬ってなかった僕は、教室であろうと、職員室で吊るし上げを|(はか)られた時だろうと、かまわず、憎悪をもって面罵した。
 教室で怒号をたてた時には、隣のクラスまで水を打ったように静まり返り、職員室においては、離れた席の先生までもが仕事の手を止めた。
 幸か不幸か僕は先生そこのけに口が達者で、それがなおさらに事態を悪化させた。
「先生に向かってその口の利き方はなんだ」と|横柄(おうへい)に叱責されると、「先生なら先生らしい事をしろよ」と|侮蔑(ぶべつ)をあらわにして|反駁(はんばく)し、「おまえは先生をなんだと思ってるんだ」と詰問されると、「その教科を教える人。人の生き方や生活にケチをつけるほど、あんたらはできた人間なのか」と、あけすけに盾突いた。
 おりしも一年前、小学生の時に毎日殴られ、たびたび足払いで倒されていた理由が、若造先生の勝手な思い込みだと知ったばかりだった。
 併せて、いかれた社会での権力などクソ食らえだと思っていたし、|権柄面(けんぺいづら)を見るだけで|虫酸(むしず)が走っていた。威厳を見せつけようとするそいつらは、コップの|水面(みなも)にでしゃばる氷と一緒だった。
 あからさまに不信感をみせ、いきり立つ僕に、おまえがどうあがこうが私の掌で暴れてるにすぎない、と担任が尊大にのたまった時には、兄の暴力によって|(つちか)われた反発心が|()ぜ、沸々とどす黒い殺意が芽生えた。
 僕は純粋なものには恐縮したが、よこしまなものには少しも臆さなかった。なぜなら僕の人格がゆがめられた|因果律(いんがりつ)をそこに見たからだ。
 職員室での説教の最中に憤然と席を立ち、入口のドアを壊して帰った事もあったし、舐めくさった担任を前に、肩まであがったわななく拳の中で爪が掌の皮にめり込んだ事もあった。
 帰る場所がなくて、旧港の朽ちた廃車の中で寒さに打ち震えながら夜空を眺めて寝た時には、世のすべてが敵に思えた。
 |(いばら)の心にそれまで鬱積していた様々な憤りが巨大な反骨の|(かたまり)となってほとばしり、その鋭利な|矛先(ほこさき)は荒ぶる感情のままに四方八方に飛散した。
 この頃の僕は是非もなく、誰にも止められないほどに|(とが)っていた。覚えているだけでも、数人の先生と、下宿の先輩と、親戚の大人と、何人かの同級生を相手に悶着を起こしている。
 ひるみ知らずのアウトサイダーは相手の不用意な言葉が癇に|(さわ)った次の瞬間、死をも恐れず発火していた。
 周囲との関係は好転どころか、併発に誘発を重ね、日に日に|軋轢(あつれき)が大きくなり、もはや退学の決意は揺ぎないものとなっていた。
 中卒の両親は、自分達が高校ぐらいは出ておいた方が良かったと思っていた為に、必死になって慰留したが、僕は頑として応じなかった。あんなクソみたいな人間にものを教わったら、自分もクソみたいな人間になると思い込んだ。
 困り果てた親は、島央高校がそんなに厭なら南高校に転入させて貰おうと言ったが、僕はもう先生という人種に関わりたくなかった。
 転入も依怙地になって拒否したが、親は勝手に島央の教頭に嘆願し、僕の知らない所で話は進んでいき、いつの間にか転入試験を受ける|手筈(てはず)が調っていた。
 僕は変わらず転校を拒否したが、厭になるほどの親の説得で、最後にはやむなく転入試験を受けるはめに|(おちい)った。
 渋々受けた試験はあまりにも気乗りがせず、よほど白紙で答案用紙を返してやろうかと思ったが、それでは親に悪いと思い、とりあえず試験は普通に受けた。
 数日後に南高校から合格の通知が入ったが、僕は気が重くなるだけだった。
 救いだったのは南高校にいる中学時代の友達が来て、また一緒に学校生活を楽しもうぜ、と言ってくれた事である。

 くされていたこの頃、心配した志保から電話があり、絶対に学校を辞めないでねと引き止めてくれた。神経がささくれていた僕は無愛想に対応したけれど、どこかで嬉しかったし、尖った心が軟化していく|(くさび)になった。

頭蓋骨骨折

   第七章

 ともあれ、三年から南高校に通う事になったが、新しい学校に期するところは何もなく、もう一年|唾棄(だき)すべき大人に制される悲観に暗然とするだけだった。
 同じ学校になった志保の事は禁断の園として、故意に無いものとしていた。
 ふさぎこんだ心は|常闇(とこやみ)の迷宮に|(はま)り、堂々巡りを繰り返すばかりで、進んではぶつかり、進んでは転び、闇雲にあざをつくっていた。
 七転八倒に光がさしたのは一学期が始まってからである。
 南高校は不必要な校則で生徒を束縛しておらず、それが為に解き放たれた情熱が軽風となって校内を吹き抜けていた。
 南高校に通うほどに、昔からの友達やクラスメイトのお陰で次第に心が軽くなり、十七歳の息吹を取り戻していった。
 矢先の五月。バイクの免許がないため、十キロの距離を自転車通学していた僕を|不憫(ふびん)に思った友達の雅也が、自転車に乗った僕の手をバイクで引っ張ってくれていた時に転倒事故を起こした。
 その頃の僕は向こう見ずに、豪雨に狭まった視界で百キロ近いスピードで改造バイクに引っ張って貰ったり、ヘルメットを被らずにスクーターを無免許運転しては最高速度で急カーブに突っ込んだりと、無茶な事ばかりしていた。死んだら死んだでそれまでの人生だと思っていたし、怖いものは何もなかった。心にうごめく|醜怪(しゅうかい)な何かから逃れるように、好んで危地にとび込んでいた。後で振り返るとその様は、破滅に向かって暴走しているようですらあった。
 事故を起こしたのは、小さな川とさとうきび畑に挟まれた交通量の|(とぼ)しい直線道を雅也とのんびり帰っていた時である。
 それほどスピードは出していなかったが、自転車の前輪とバイクの後輪が接触して、|巴投(ともえな)げをくらったように自転車ごと大きく前に投げ出された。
 宙を舞った僕はガードレールの柱に頭をぶつけて意識を失った。
 動転した雅也がくっつくぐらい顔を近づけて名前を呼んでも、瞳孔が開いた僕はピクリとも動かなかった。
 雅也は僕の両肩を掴んで、悠次、と叫びながら体を激しく揺さぶった。
 すると気絶した後頭部から、鮮血が果汁のようにしたたった。
 たまたま車で通りかかったおばさんが変事を察し、急停車して駆け寄ってきた。
 おばさんは頭部の流血を見たなり、
「動かしちゃ駄目。救急車を呼んでくるからそのままにしておいて」
 あわてふためいて言って、急いで近くの集落へと車を走らせた。
 雅也は揺さぶるのを止め、幾度となく、ありったけの声で意識を戻そうとした。
 そこに同じクラスの美香が帰宅のバイクで通りすがった。
 美香はただならぬ様子にバイクをとめて、おっかなびっくり雅也に近づいた。
 一歩近寄るごとに、雅也に隠れた人影があらわになっていき、ついに僕の面部を目の当たりにした途端、美香はさっと血の気が引いて|()てついた。死んでいる、と思った。今しがた話していた友達が、死体となって横たわっていた。美香はわなわな震え、涙が止め|()なく溢れ出た。
 すでに僕の頭部周辺には、血の海ができていた。
 雅也は体をふりしぼり、声をからして名を呼び続けた。
 夕暮れののどかな田園に、雅也の声がむなしく響き渡った。
 どうあっても微々たる反応もない友人に、雅也と美香が|(あきら)めの境地に達しかけていると、とつぜん瀕死にあった僕が、わめきながら狂乱に暴れだした。
 雅也は仰天して、今度は蘇生した僕が動かないよう全身の力で押さえつけた。必死になって押さえても、錯乱した僕は雅也を跳ね飛ばそうと暴れ続けた。
 くらいつくのがやっとの雅也に、美香も一緒になって押さえつけた。
「悠次、悠次、動くな」
 雅也は全霊をもって言い聞かせようとした。美香は顔色を失くして泣きながら訴えた。
 そうしていると、ようやく救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。
 それから到着までの数分は、一時間かと思うほどに長かった。
 僕は担架に乗せようとする救急隊にも抵抗したが、強引に救急車に運ばれ、市内の病院へと搬送された。
 救急車が行った後には、おびただしい流血痕と、美香のすすり泣く声と、雅也の絶望的な顔だけが残った。
 以上、後になって友達から聞いた話である。僕はその時とそれから二週間の記憶がとんとない。


   *


 |(あや)ぶまれた怪我は、ひびが入った程度の頭蓋骨骨折と、きれいに折れた右鎖骨の骨折だけで済んだのだが、手術後間もない頃に見舞いに来てくれた友達は、酸素注入器を鼻に、点滴を腕に刺され、虚空を見つめて仰臥する姿に、植物人間になったと思ったらしい。それから何日かして、おとぎの国を見ながら英語で訳の分からない独り言をいうようになった時に見舞いに来てくれた友達は、気がふれたと感じたようだった。
 しかし生命の力は自然治癒力を駆使し、やおらと脳を修復していった。
 事故から十日も過ぎた頃には、話しかけに反応するようになったのだ。
 怪我はゆっくり、着実に、快方へとむかった。
 話し始めの頃は、午前に話した事や見舞いに来てくれた友達を、午後にはもう忘れていたのが、何日かすると、その日の事を覚えられるようになり、それから更に何日か経つと、昨日の出来事も覚えられるまでに回復していったのだ。
 その頃の記憶はいまだ|蒙霧(もうむ)の中である。
 徐々に怪我が回復していくなかで一番困ったのは、文が読めない事だった。本はおろか、マンガの一コマのセリフを読むのでさえ、頭が痛くなり具合が悪くなる始末だった。一日中病院のベッドにいて本が読めないのはことのほかつらく、|無聊(ぶりょう)な日々を|閑暇(かんか)するしかやりようがなかった。
 そんな中、記憶が少しずつ復旧していた或る日、曙光がきざすように、脳内に|忽然(こつぜん)と志保が出現した。
 志保はすっと現れると、穏やかに頭の芯でたたずんだ。
 霞がかった中で、志保が一人。神々しく。ひっそりと。
 体も頭も満足に働かない僕は、うつつ幻にたたずむ女神を、どうしても具現化したかった。
 一縷の希みをたぐり寄せようと、友達に電話するからと母に十円玉をせびった。母は、長い距離を歩くのは無理だからやめなさいと止めたけれど、僕は大丈夫と言い張り、それなら付いて行くと言った母に、大丈夫だからとそれも断って、かろうじて動く体で幽閑とした夜の廊下によろけ出た。
 平衡感覚が正常に戻ってなかった為に、一歩進むごとに足元を安定させて、壁伝いに、ゆっくりゆっくり、おぼつかない足どりで一階にある公衆電話へむかった。
 エレベーターの前で下矢印のボタンを押すと、ひとつの達成からくる油断に|眩暈(めまい)をおこし、壁に体をもたげて休んだ。
 もう横になりたいと感じるほどに疲労していたが、どうしても志保の声が聞きたかったのだ。
 随分と時間を|(つい)やし、公衆電話にたどり着いた時には、乗物酔いに似た気分の悪さに襲われていた。
 昏倒しそうな頭の状態が安定するまで、僕は目を閉じてじっとするのを余儀なくされた。
 胃液が脳に這い上がってくるような気分の悪さを味わったのは、後にも先にもこの時だけである。
 多少気分が晴れたところで、左手で不器用に十円玉を投入した――右鎖骨が折れているせいで左手しか使えなかったのだ。
 万事が不確かなのに、志保の電話番号を覚えていたのには自分で驚いた。
 記憶に留まっていた番号をゆっくりと押して、祈りをささげるように、呼び出し音に身をゆだねた。
 呼び出しの信号音をこれほどいとしく感じたことはなかった。
 電話にはお父さんがでて、快く志保に繋いでくれた。
「はい、かわりました」
 懐かしい声は、天下った聖霊のものだった。志保の声は耳から入って全身に行き渡り、僕を言いようのない安心感に包み込んだ。
 声の余韻にひたっていると、聞こえなかったと思ったのか、「もしもし」再度、志保の声が体に反響した。
 僕が小さくこんばんはと挨拶すると、志保は死人に出会ったようなおののき方をした。おおかた、悠次はもう駄目だろうと耳にしていたからだろう。
「電話なんかして大丈夫なの。寝てないと駄目でしょう」
 志保は気遣ったが、僕は大丈夫と答えた。
「本当に大丈夫なの。もう元通りになったの。頭は痛くないの」
「字はまだ読めないけど、話なら出来るよ」
「それならまだ元に戻ってないじゃない。話が出来るのなら今度友達と一緒にお見舞いに行くから、もうベッドに戻って寝て頂戴」
 志保は今にも体調が急変してしまうのではないかと危惧しているようだった。
「うん、分かった。志保の声が聞きたかっただけだから」
 廊下の薄暗くなっている公衆電話の前で、僕は目を閉じて、受話器越しに聞こえる声をかみしめていた。
「絶対にお見舞いに行くから、今日はこれで切るよ。電話が終わったらすぐに寝てね」
「うん」
「それじゃあね」
 志保は優しく言って、すみやかに電話を終わらせた。
 僕はしんと静まり返った外来受付の待合室を遠目に、緑色のどっしりした電話を、安堵に浸って何を考えるでもなく見つめていた。
 感情に嬉しさや楽しさはなく、ただ安心だけがあった。
 何かあたたかいものに包まれたようで、しっとり気が安らいでいた。
 ややあって背後の人の気配に、手にした受話器を眺めて、それから元に戻し、ほっとして、殺風景な病室にふらふら引き返した。

 電話の三日後に、志保は授業が終わったその足でスクーターに乗り、はるばる見舞いにやってきた。
 制服姿でかすみ草の花束を抱えて病室に入った志保は、おそるおそる僕の頭を見て痛々しそうにした。剃られた坊主頭にはっきり見える大きく切れた生々しい傷跡と、傷のふちに沿って接触を拒むように荒れて捲れ上がったかさぶたが、見る者に事故の凄惨さを雄弁に物語っていた。
「気分は平気?」
 ショックのこもった潤んだ瞳で志保は尋ねた。
「大丈夫」
 平然と僕は答えたけれど、志保は懸念が消えないようで、浮かぬ顔がなごまなかった。
「本当はもっと早く来たかったけど、友達の都合がつかなくて遅くなっちゃった。ごめんね」
 謝ってから、志保は当たり|(さわ)りのない話をいくつかして、それ以上の会話を遠慮した。
 志保の顕現は、いわば昔日の花火のように儚く、回顧に鮮烈なあでやかさだった。
 多くは話せなかったが、僕はじんと嬉しかった。
「今日は時間がないから帰るけど、退院したらゆっくり話そうね」
 最後にそう言って、志保は病室を後にした。
 退院したら何をしたいと考えられるほど、僕の脳は回復していなかったけれど、体内に注がれた生温かいものを感じながら、志保の残像をぼんやり眺めていると、生きるってことはそう悪い事じゃない、と思えたのは確かだった。


   *


 入院から一月近く経つと、容体がだいぶ安定し、自宅療養を許された。
 退院しても相変わらず本は読めなかったけれど、音楽が聴けるようになった分、暇をつぶすによほど助かった。中学の頃から部屋にいる間はずっと音楽をかけていて、先輩や友達からダビングした洋楽のカセットテープは百本以上になっていた。
 僕は自由に動けない日々を横になって音楽を聴いてやり過ごした。
 窓の外に見えた抜けるような青空が、僕の高校三年の、夏の思い出である。


   *


 怪我は、二学期が始まる頃には支障なく会話が楽しめるまでに回復し、新たな命を授かったようでもあった。
 が、あいにく、奔流をなす僕の死生観にさほどの変化はなかった。頭蓋骨にひびを入れた程度では、心に屹立する腫瘍を崩せないらしい。
 一つあった変化といえば、かねてから気になっていた、志保に彼氏がいるのかをうずうず知りたくなった事である。
 されば友達の家で話をしている最中に、何人かの女子に交えて、志保に彼氏がいるのかを聞いてみた。
 順番に、あのコは彼氏いるの、と聞いていき、さりげなく志保の事も聞くと、たしか同級の|何某(なにがし)と付き合ってるんじゃないかなと機嫌顔で答えた。
 女の情報なら俺にまかせろと、得々と話す友達を頼もしげに見ながら、僕は他の女子の時と同じように、ふうん、と|鷹揚(おうよう)に感心してみせ、用意周到に次の女子に話を振った。
 その後の話を受け流す僕は幸福感に被覆されていた。
 志保に彼氏がいる事実に落胆もしなければ嫉妬もしなかった。
 幸いな事にその男を存知せず、率直に、いい男だったらいいな、と、父親のような温かい気持ちになった。
 しかるにその男の名前を記憶に留めなかったし、その男が誰なのか、知得しようとしなかった。
 登校できるようになり校内で志保を見かける事もあったが、いきおい僕は志保がいないものとして振舞い続けた。清純な恋心はこよなく志保を求めたが、同時に愛情はそれを凌駕し、志保を遠ざけた。


   *


 体が自由に動くようになってからは、バンドを組んで文化祭で下手なドラムを叩いたり、仲の良い友達と放課後を楽しんだりと、南高校での生活を満喫した。
 先生から就職はどうするんだとしつこく聞かれたが、のんきに、卒業したら決めるとしか答えなかった。東京で働いている兄の博を頼って行き、それから仕事を探すつもりでいたのだ。平凡に就職して、ありきたりの堅実な人生を歩む気など微塵もなかった。
 若いうちに人生を終わらせたいと思っていたのだ。
 僕の選んだ人生行路に目的地はなく、ただ無軌道に荒ぶる大海原に乗り出し、浮き世のあまたの波を感じ、いろんな海に行ってみたかった。料簡はそれだけで、旅なかばに頓挫し沈没するも本望だった。
 僕を未来に導いていたのは、世界と社会と人生への好奇心だった。
 進路を真摯に熟慮する他生徒を|傍目(はため)に、生きる概念を異にした僕は愚か者なのかと自問し、哲学的思慮と自嘲のはざまを行ったり来たりした挙句、最後はどうでもよくなり、なげやりに自分をせせら笑った。


   *


 南高校は実に楽しかったが、その間も僕は動脈を行き交う鬱に|(さいな)まれる事があった。高校三年の冬、鬱に堕ちた僕は高校生になってからの日記をすべて焼却している。後になってみると、もっとも感性が鋭敏だったこの時期の記録を永遠の闇に葬り去ったのは、悔やんでも悔やみきれない痛手であった。


   *


 春の陽気に迎えられた卒業式の晴々さは刑期を終えた囚人のようだった。心模様は雲頂に出で立ったほどの澄みようである。
 学生業と田舎の|(かせ)が外れたら世界を自由にはばたけると思っていたのだ。
 世間知らずの僕はあまい若者だった。

 卒業後の予定は白紙だったが、東京での生活が楽しみで仕方がなくて、|(はや)る気持ちを抑えきれずにあわただしく上京へと動いた。
 東京へ行くには飛行機を使うのが手っ取り早かったが、|()えて家出した時と同じルートを使った。
 出発の時日を友達に聞かれても、適当な言い訳をつけて誰にも教えなかった。出発当日に、親に、今日東京に行くからカネをくれと旅費を貰い、そのお金を懐に入れるや、二度とこの家とは関わらないからなと捨て台詞を吐き、誰にも見送られずに島を後にした。
 夜に出港したフェリーは、日が昇ってしばらく経った頃に鹿児島港に入港し、昼過ぎに西鹿児島駅を出発した夜行列車は、翌日の午前九時過ぎに都内にすべり込んだ。
『まもなく東京駅』
 下車準備をうながすアナウンスに、寝台のカーテンを開けて窓の外を見ると、林立するビル群に降る真白い雪が、新しい生活の幕開けを絶妙に演出していた。僕はあきれるほどの単純さで、これまでとは別世界で暮らせる喜びに胸を躍らせた。
 東京駅で列車を降りてからは、博から聞いたメモを頼りに、東青梅駅を目指した。
 JRの中央線に乗り、立川駅で青梅線に乗り換えて三十分。東青梅は都心からだいぶ離れた東京の片田舎にあった。
 東京はすべて新宿や渋谷のような街並みだと思っていた僕には、期待外れのちょっとした驚きだったけれど、それでも尾島よりも都会的な町並みと新生活に、沸き立つ|昂揚(こうよう)を抑えきれなかった。
 博の|住処(すみか)は東青梅駅から十五分歩いた木造二階建てのうら寂しい古アパートだった。
 一階に『ラーメン』の看板を掲げたみすぼらしい大衆食堂と空店舗が一つあり、錆びた鉄製の外階段を上がった二階にアパート部屋が三つあった。
 メモに書いてある二〇三号室は突き当たりの部屋で、食堂の真上に位置していた。
 六畳、四畳半、二畳の台所兼玄関、トイレとお風呂が別で月三万五千円と破格の家賃だったが、安いだけあって壁はベニヤ板のように薄っぺらだった。
 雨風を防ぐだけの壁は外気温を遮断せずに季節の寒暑をそのまま室内に運んできたし、空部屋を|(へだ)てた二〇一号室に住む六十過ぎの婆さんの、ときおり訪れる爺さんとの情事の声がしばしば睡眠を|(さまた)げた。

 アパート到着後、僕はさっそく近くのコンビニでアルバイト情報雑誌を購入し、当座の職探しをした。
 自分の適性を考慮せず、通勤時間、就労時間、時給を基に、おざなりに職を決めた。
 自分の可能性は無限大でなんでもできると思量していたのだ。
 社会経験のない|(おご)った若者の所業である。

挫折

   第八章

 四月の多摩地方は染井吉野が美しく咲きこぼれていた。尾島の緋寒桜と比較するべくもない絶美に、僕は目を見張ったものだった。
 東京で動植物に感動するなど、夢想だにしていなかったのだ。
 はたしてこれからどれだけの事に驚き、感動するのだろうか、そう思うと、いやが上にも期待は膨らんだ。
 しかしその思いもたまゆら、|徒桜(あだざくら)とひとしなみに、浅慮は泡沫と砕け散った。
 東京で暮らし始めて時を置かず、八方破れのなまっちょろい目論見は日ごとに砕かれ、嫌というほど現実の厳しさを思い知らされた。
 笑顔を心がける訛りの抜けぬおのぼりさんは、工場で働く下層社会の凡愚から格好の餌食にされたのだ。
 初めての労働に意気込んで働くも、周囲に気遣い、謙遜する態度が裏目にでて、雑魚程度に|(あなど)られ、踏みにじられた。
 それでも、尖っていた往時を断ち切り、理想の生活に一新しようと、負けん気の強さを抑え、極限まで辛抱を貫いた。
 自分が優しく生きている限り、万人が同じように温厚になると思っていたのだ。
『おい、ジュース買ってこい』
『おまえ給料でたら奢れよな』
『やっちまうぞコラ』
 胸ぐらを掴まれておどされた事もあった。
 それでも博愛の精神であざとい人間にも分け隔てなく接したが、結局はいつも損壊するだけだった。
 ジョン・レノンの世界はどこにもなかった。
 現実の壁が理想主義者だった僕の前に微動だにせず立ち塞がった。そしてそれは有無をも言わさぬ力で、無知で|(つむ)がれた強気の鎧をたやすく破壊し、内包された|脆弱(ぜいじゃく)な神経を無残に傷付け、なぶりたおした。
 我慢が限度に達し、たまらずぶち切れると、手の平を返したように尻込みする腰抜けばかりで、心の傷と虚しさだけがつのり、喧嘩に勝つ事にも、げすばった人間をねじふせる事にも、僅少の喜びも見出せなかった。
 それに加えて、田舎との文化の違いを把握していなかったのが|深傷(ふかで)を招いた。
 街頭で臆面もなく声をかけ、騙してでもカネを得ようとする恥知らずが平然といるのも、路傍にうずくまる人を横目に、そしらぬ顔で往来する人々も、みてくれだけの利己主義者がまかり通るのも、僕の目には異様に映った。
 ヤクザな新聞勧誘や|胡散臭(うさんくさ)いポン引き、|胡乱(うろん)なダフ屋にさえ、丁寧に愛想良く対応していたのだから、連中のカネにならないと見限るや豹変するえげつない態度に、理性の悲鳴は体をつんざく鳴動だった。
 弱り目に|(たた)り目、|十重二十重(とえはたえ)の憂き目に、しおしお気落ちしていく僕に、博が追い討ちをかけた。
 僕は家賃と光熱費の半分を負担したが、博は敷金礼金を自分が出したのを|梃子(てこ)に、家政婦代わりとして、あこぎに家事と使い走りを強要するのだった。
 足元を見られた僕は律儀に従う他なかった。
 あまつさえ自分を中心に地球が廻転していると思っている博は、東京の文化においそれと馴染まない僕を口癖のように馬鹿呼ばわりしては虚栄心を満たし、悦に入る酷薄ぶりだった。学校の成績はずっと僕の方が上だったが、昔から博はそんなふうだったのだ。
 外で傷付き、アパートに帰って傷口に塩を塗られる世知辛いどん底の日々だった。僕にこびり付いた暗鬱とした側面が博によって形成された事を今更のように感じた時期でもあった。
 あまりの窮状に、東京の街も人も冷たく感じられて失意に落ちたが、よしんば東京がクソみたいな人間の集まりでも、田舎に帰る気はさらさらなかった。何があっても実家にだけは帰りたくなかったのだ。
 よほど世捨て人として乞食になろうかと思い悩んだが、|二律背反(にりつはいはん)にそうする事もできず、仏道に|帰依(きえ)するには|(ちまた)への執着を捨て切れなかった。

 みそっかすにされた|単孤無頼(たんこぶらい)の自尊心は|完膚(かんぷ)なきまでに叩き潰され、世渡りのいろはも知らず、活路を見出せずに困窮しきっていた。
 人間の汚い部分ばかりが目に付く|模糊(もこ)とした霧中を、のたうちながらノイローゼ気味に徘徊した僕は、|煩悶(はんもん)のなれのはてに、あろうことか、志保に電話をかけてしまった。志保の事は禁忌にしたつもりでいたのだが、のっぴきならない程に打ちのめされ、救いがほしかったのだ。志保に厄介をかけると考えるゆとりはひとひらもなかった。ほんのひと時でいいから、人間の温もりを感じさせてほしかった――後になってそう思うのだが、その時は顕然としていなかった。|懊悩(おうのう)のきわみから、気が付くと指が覚えていた番号を押していた、と言ったほうが正しい。
 目を閉じ、耳を澄ますと、行き詰まった頭に呼び出し音は、果てしない螺旋階段の中心をまっ逆さまに落ちる擬似音に思えた。脳細胞の|隅々(すみずみ)まで響く等間隔の音響に、僕は溶け入るように、ずっぷり埋没していった。
 と、突然、聞き慣れた声がした。
「はい、原田です」
 はっとするより早く、志保の声は心の琴線に触れた。胸の底から熱いものがこみ上げた。
「こんばんは」
 一拍の後に、つとめて平静に言った。
「悠次兄? ――えっ……今どこから」
「東京だよ」
「そうなんだ。――東京はどう」
 いつもの明るい声だった。
「う~ん、色々たいへんだよ」
「色々って」
「――色々は色々だよ」
 僕は|苦衷(くちゅう)を見せまいと、はぐらかそうとした。
 志保は敏感に、精彩を欠いた|声音(こわね)に異変を感じたようだった。
「何かあったんでしょ。――何があったの」
「う~ん、――色々」
「悠次兄、私になら話せるでしょ。何があったのか話してよ」
 情感に直接ふれる声に、僕は泣けてきた。
 こみあげる涙に語句を継げずにいると、志保は破砕された気魂を優しく覆った。
「どうしたの。なんでもいいから話して」
 聖母をおもわせる慈愛にみちた声に、硬くなっていた心がとろけ、堪え続けていた都会生活の愚痴がゆっくりとこぼれだした。とぎれとぎれに、次から次に。
 志保は相槌を挟みながら包み込んで聞き、壊れそうになった僕を持ち前の明朗さで柔和に鼓舞した。
「悠次兄なら頑張れるよ。私もついてるから」
 遠く離れた電話の向こうで、志保はずっと優しかった。その心遣いに、声を殺して泣いた。孤独で屈折した骨身に、志保の|慰撫(いぶ)は痛いほどに染みた。
「こんな電話してごめんな。でも本当にありがとう」
 最後に心から言った。
「そんな暗い声だしてちゃ駄目だよ。元気ださないと。何かあったらまた電話ちょうだい」
 志保は|殊更(ことさら)に明るく励ました。
「うん、ありがとう。――それじゃ」
 勇を|()して言い、胸をいっぱいにして受話器をおいた顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃに崩れていた。
 |渺渺(びょうびょう)たる不毛の荒野で、僕は希望の聖水を|嚥下(えんげ)し、蜃気楼を見た。
 しばし|(いつく)しみのほとぼりに胸を|()いた。それから、消えなずむ感動に放心脱魂した。|程経(ほどへ)て、這いつくばっていた胆力がむっくと頭をもたげた。
 電話の数日後には、身の上を案じた志保から追い風の手紙が届いた。
 独特にたたまれた便箋を開き、びっしり綴られた励文を読み進むと、総身鳥肌立ち、手紙|(なか)ばにして、体の奥底から湧き上がった激情が五臓六腑を|(つらぬ)き、丸みをおびた懐かしい文字が|嗚咽(おえつ)にぼやけて震えた。
 僕はその時の尋常ならざる有り様をうまく表現できない。無二の狂ったような感銘、五体と情操が異常に乱れたさまを。
 その後、|艱難(かんなん)にめげそうになるたび、志保の声が聞きたくなったけれど、迷惑をかけると思い、拳を握りしめて、力ずくで踏み|(こた)えた。その都度、志保から貰った手紙を読み返し、尾島方角を遥拝して己を|(ふる)い立たせた。


   *


 東京での初めての秋、アルバイト暮らしにほとほと疲れはてた僕は、物は試しとソフトウェア会社の入社試験に臨んだ。
 慣れないスーツで受けた試験は|手応(てごた)えこそあったものの、どうせ駄目だろうと他のアルバイトに目星を付けていたのだが、これが予想外に受かりデスクワークにありつく事ができた。

 困難続きだった僕の生活はこれを機に安定していった。
 仕事は派遣とはいえ、大手企業での就労となり、職場の全員が大卒か専門卒だった為に、自分が最低レベルだという自覚と、負けず嫌いで、電車の中でも家に帰ってからも休みの日も、寸暇を惜しんで勉強に打ち込んだ。
 並行して、複雑怪奇な社会の仕組みを知るため新聞やニュースを精察し、世界情勢の雑誌や本を読みあさるようになった。
 これほどに強い欲求で勉強したのは初めての事で、知識が血肉になるのが至上の喜びだった。
 月百五十時間の残業もそれまでの苦境に比べれば物の数でなかった。
 飢えていた僕は水を得た魚の如く、生新と活力を取り戻していった。

再会

   第九章

 全国を網羅するシステム開発のたてこんだ労務に、こつこつ寝る間も惜しんで仕事と勉強に明け暮れていると|(またた)く間に四月が巡ってきた。
 たゆまざる努力は確かな実を結びはじめていた。仕事にも慣れ、エンジニアが見落とした設計ミスにも気付くようになり、多少の余裕と自信が付き始めていた。
 そんな頃、ラッシュアワーの通勤電車でもみくちゃにされているさなか、下ろしたてのスーツを着た新社会人に目がとまり、志保が卒業後どうしているのか、はたと気になった。
 矢もたてもたまらず志保の実家に電話を入れて話を聞くと、川崎でお姉さんと一緒に住んでいると、お父さんが親切に教えてくれた。
 川崎に志保がいる。電車で会える距離に志保がいる。
 それは大きな衝撃だった。来世に持ち越したはずの意中人がとつぜん間近に現れたように思えて、がぜん気がせいた。
 僕は迷わず――卒業おめでとうと言える口実があったから――川崎の志保の番号を押した。
 |滑稽(こっけい)なほどに行動が思考を先走っていたのだ。
 時ならぬ電話に志保はびっくりしながらも喜びをあらわにした。
 僕は志保の声を聞いて安堵と愉悦を覚えた。志保の声には僕を癒す何かが宿っていたのだ。その声音がひとたび耳に入ると、まるで鼓膜が心のひだに変化したように、僕の深いところに響いてくるのだった。
 歳月が遡ったような型崩れの挨拶をした後、何から何まで新鮮であろう志保に、川崎の生活はどうかと訊ねた。
「最悪」
 意外にも志保はうんざりした様子でこたえた。志保もまた田舎との文化の違いに戸惑っていたのだ。
「じきに慣れるよ」
 都会生活に順応した僕は|余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)に言った。
「悠次兄あんなに東京を嫌がってたじゃない」
 打って変わった様相に志保は驚いた声をだした。
「あの時は心配かけてごめんな。――でも志保のお陰でがんばる事ができたよ。ありがとう」
 感謝を|深甚(しんじん)に込めて言った。
「いえ、とんでもないです」
 役に立てたのが嬉しそうに志保は明るく謙遜した。
 それから志保は、中小企業に入社して事務をしているとか、会社がどうだとか、最近の出来事を問わず語りに話し、僕は志保の社会人生活を想像しながら|微笑(ほほえ)ましく聞いた。
 ひとしきり志保が話した後に、
「今度一緒に飲みに行くか」
 親友のノリで気軽に誘った。
「うん、絶対に連れてって」
 志保は上機嫌で賛同した。
 僕達はゴールデンウィークに飲みに行く約束を交わして電話を切った。
 受話器をおいた僕は|間髪(かんぱつ)入れず壁にかけてあるカレンダーを見た。今日はエイプリルフールじゃないよな。腕時計の日付をみた。――間違いない。それでも足りず、新聞の日付を確認した。
 記載された日付を穴があくほど見つめてから、間違いのない現実に思わずにんまりして、カレンダーにある約束の日を赤マジックでまるく囲った。

 指折り数えたゴールデンウィークまでの数日は待ち遠しかった。


   *


 待望の連休三日目の夜、僕達は渋谷で落ち合った。
 僕はリーバイスのジーンズに、Tシャツの上にデニムのシャツを着ただけのラフな身なりだったけれど、志保はベージュのスーツに|痩躯(そうく)を包んで薄化粧していた。
 はじめて見る社会人姿の志保は|初々(ういうい)しかった。垢抜けぬなりにめかしこんだ容姿は完璧に着飾るよりもむしろ僕好みで、シンデレラを思わせる原石の美しさがあった。
 思わず立ち止まり、|見惚(みと)れる僕に、志保はスーツのウェストのあたりを両の手で広げるように軽くつまんで、どう、と恥ずかしそうにした。
「化粧は必要ないだろう」
 シンプルな|(よそお)いに文句のつけようはなかったが、一つだけひっかかる点を指摘した。
「私の化粧、変? まだ慣れてないから上手くできないのよ。姉さんからいつも下手だって笑われる」
 通りゆく人さえも笑うのではないかと気にするふうに言った。
 僕はもともと化粧が好きじゃなかった。ましてや素顔のきれいな志保は化粧の需要がどこにもない。
「志保に化粧は必要ないよ」
「化粧が下手だからでしょ。次に会う時はバッチリ化粧できるようになってるから」
 ぷっくり頬を膨らませる志保はいじらしかった。
「志保は化粧をしなくても綺麗だよ」
 僕は素直に言って、ごったがえす喧騒を踏みだした。
 東京の狭くて明るい夜空の下を二人で歩いた。
 周囲をみるとどの方角にもカップルがみてとれる。しぜんと心もはなやいだ。
(まるでデートしているみたいだ。いや、ひょっとしてこれはデートなのか……)
 バブル景気に沸く渋谷の街は、つどう若者のエネルギーが狂騒の飛沫となり、叫喚にも似た地響きをたてていた。
 僕達は鈴なりになった群集に揉まれながら、ふんだんに装飾された騒がしい街中を洋風の居酒屋を物色してまわった。
 煩雑な店はどうあっても回避したかった。会話が楽しめる所でないと久しぶりに会ったというのに口惜しい。しかし探せども、渋谷で若者が静かにお酒を楽しめるお店が簡単に見つかるわけもなく、つきつけられた選択は妥協か別の街への移動だった。
 そこはかとなく移動を匂わせながら時間の都合を聞いてみた。
「門限とかあるの」
「今日は朝まで飲んでも大丈夫。どんとこい」
 志保は冗談めかせてこたえた。
 安心した僕はいくらかの距離はあったが比較的詳しい中野に移動する事にした。繁華街と色違いの中野なら間違いがないだろう。
 新宿駅で山手線から中央線に乗り換えてすぐの中野。
 平日よりすいた車内で吊革に掴まり、正面をみると、流れる闇と光を背景にした鏡が志保を映しだしていた。
 窓ガラスに映る志保の姿と、その向こうに見える高層ビル群が、現実とは思えない奇異さでシンクロしている。
 志保の隣には不思議そうな顔をした僕が立っていた。
 夜にコーティングされた街中を無数の光に見送られ、車輪の軋む音をとどろかせて突っ切っていく。(このまま二人だけの世界にいけたらどんなにいいだろう)談笑できぬ状況下で子供じみた空想に|(ふけ)るたけなわ、反射したガラス越しに志保と目が合い、お互いの顔に照れ笑いが浮かんだ。
 中野では労せず北口から二、三分歩いたあたりでショットバーに似たおあつらえ向きのお店を見つけ、そこに入る事にした。
 こじんまりとした店内は客もまばらにジャズが流れ、ガラス棚に並んだ多彩なお酒が|(つつし)みのあるきらびやかさで異国情緒を放っていた。五十がらみのバーテンダーが小さくいらっしゃい、と迎えた。二人掛けのボックス席が二つあったが、僕達は止まり木の一番奥に腰掛けた。
 座る前に志保はエスコートを要求したけれど、きざに思えて僕は出来なかった。
 細作りの椅子におさまると物珍しさに店内を見渡した。屋外の様子が分からないのが幸いして日常とは別世界にいるような錯覚に陥る。
 夢心地におもわず頬がゆるくなった。昔は考えもつかなかったシチュエーションが現実に展開されているのだ。
 |瀟洒(しょうしゃ)なバーテンダーが手慣れた動作でメニューを差し出した。
 もったいをつけたメニューを開いて目を通すと、初めて見るスペル達が安居酒屋しか経験のない僕に格の違いを見せつけた。
 僕は冗談交じりにバーテンダーに解説を|()い、その薦めに従ってハーパーのロックをダブルで頼んだ。水割りを飲みたいと言った志保にはシーバスリーガルを注文した。
「ここは日本なんだからメニューは日本語にしてほしいよな」
 僕はおどけていたが志保は初めての雰囲気に身構えたそぶりだった。
「悠次兄は何回もこのお店に来てるの」
「いや、初めてだよ」
「でもさっきバーテンダーの人と親しく話してたじゃない」
「バーテンダーは客に愛想良くするもんだよ」
 僕は東京で生きるための図々しさを習得し始めていた。
 志保と腰を据えて話すのは久しぶりだったけれど、時の隔たりが嘘のように、即座にしっくり|馴染(なじ)んだ。
「悠次兄はこの駅でよく降りるの」
「たまにね。俺けっこうこの街が好きなんだよ。歌舞伎町界隈の|鬱陶(うっとう)しさがないから歩きやすいし、モールもあるし。今は通勤途中駅だから定期券も使えるしね」
「今どこで働いてるの」
「王子駅前に三菱銀行の大きいビルがあるの知ってる? って、知るわけないよね。そこの七階で仕事してるよ。ワンフロアーぶち抜きの職場だからだだっ広いよ」
 僕は職場の雰囲気やプログラミングの仕事をあれこれ説明し、志保はゆかりのない話を興味深げに聞き入った。
「通勤時間はどれくらいなの」
「片道二時間」
「二時間? 私いまの一時間の通勤でも長いと思ってるのに」
 志保は目を白黒させた。
「東京じゃ普通だよ」
 バーテンダーが注文の品をカウンターにすべらせた。
「悠次兄はずっと二時間の通勤を続けるつもりなの」
「いや。今の派遣先は今年いっぱいの契約だから、来年は別の職場に移ってるはずだよ。それより、まず乾杯しよう」
 それぞれのグラスを手に、「再会を祝して」時間差で言って、ささやかに杯をかさねた。
 僕達の若さは店の|(おもむ)きから浮いていたけれど、いっこうに気にしなかった。時が経つのも忘れて酒を飲み、つまみを頬張り、山々積もった話をはずませた。
「私、平成第一号の卒業生だよ」
 志保が自慢げに言う。この年の一月、年号が昭和から平成にかわっていた。
「って事は、俺は昭和最後の卒業生って事か。――そのうち俺らの年頃の人間に、昭和卒業なんておじさんだねって言われるんだろうな」
「何おじさんになった話してんのよ。まだまだ先の話じゃない」
 志保は|可笑(おか)しそうにした。
「そうだな。でも俺は自分の三十歳が想像つかないよ」
 目線を上げ、空中に自分の三十歳を映しだそうとしたが、まったく無理な相談だった。
「なに見てるのよ。若い今の事を考えるのが先じゃない」
 都会生活と社会人、未知の世界に足を踏み入れたばかりの志保は、僕にというよりも毎日がそうであるように、最初はどこかに緊張をこしらえていたのだけれど、飲み始めてから小半時も経った頃にはすっかりリラックスしていた。
 僕はアルコールと音楽を浴びて気持ち良くなっていた。なによりも横にいるのが志保である。
 これ以上のセッティングはなかった。
 なんだか|桃源郷(とうげんきょう)にいるようで気分がふわふわした。
 軽快なジャズに慶福され、志保との|(うたげ)は優雅に経過した。
 覚えたての煙草をくゆらせると、煙のむこうで汗だくになったマイルス・デイヴィスがポスターの中からトランペットをファンクさせた。
 志保が相槌を打つと、その端整な輪郭を妖艶な照明が魅惑的に|隈取(くまど)った。
 琥珀色に光る芳醇な液体の中で氷が小気味いい音を立てるたびに、二人の仲は音もなく溶けていった。
 グラスも、ボトルも、ピンライトの光芒も、残らず|(きら)めいた素敵なひとときだった。

 |酩酊(めいてい)して店を出るとすでに通りは閑散としており、静かに浮遊する|糠雨(ぬかあめ)が、けぶった街灯と漆黒に濡れたアスファルトと相まって、ひとしお大人の世界を|(かも)し出していた。
 落ち着きを取り戻した街並は僕達とは無関係に突っ立っている。
 二人だけの時間がくっきりと浮かびあがった。
 心地良い雨に撫でられ、僕は恋人気分で歩いた。志保もほどよくアルコールがまわっているようで、婉然と気持ちよさそうに喋っていた。
 遠くに聞こえる車の騒音も、スナックから洩れるカラオケも、ムードを高める絶好のBGMで、まるでファンタジーを散歩しているかのようだった。
 酔いにまかせて僕は別天地を楽しんでいた。降って湧いた白昼夢を洗いざらい満喫するように。
 そうしていると、不意に暗闇に光るラブホテルのネオンが目に飛び込んできた。
 ネオンは暮夜に力を得て、けばだたしいブルーとピンクの蛍光色を組みつ離れつ、規則正しく踊っていた。
 夜光にひかれる昆虫みたいに僕の願望は軽やかなダンスに手招きされた。
「静かな所で話そう」
 喫茶店に誘うように言って、あたかもそこに行くのが当然であるかのようにホテルに足をむけた。
 それとなく志保の反応を|(うかが)ったが、志保は黙ってついてきた。
 ホテルの小さな窓口でお金を払って、エレベーターでキーに刻まれてある二階の部屋へと向かった。
 僕はまだ童貞だったしラブホテルに入るのももちろん初めてだったけれど、緊張はなかった。志保と情交を持つ事に現実感がなかったし、それよりも濃密な時間を過ごす事の方が大切だったのだ。
 部屋のキーをまわして重いドアを開けると、暗がりに廊下の照明を招き入れた室内は不思議な空気が漂っていた。小ぶりな部屋はベッドのサイズ以外は普通のホテルとさほど変わりなかったが、形容しがたい奇妙な雰囲気がたちこめていた。
 僕は室内灯のスイッチを押して先立って中に入り、デニムのシャツを脱いでベッドの上に放り投げ、ジーンズから財布を取り出してテレビの横に置いた。それからベッドにどすっと腰掛けた。後に続いた志保もバッグをクローゼットの上に置いて、一人分の間を確保しつつ、しとやかに腰をおろした。
 整頓の行き届いた室内は初めての二人だけの密閉に逃げ場のない簡素さだった。
 白地のTシャツに墨色で大きくプリントされた似顔絵を見て、
「その人だれ」
 しずしず志保が尋ねた。
「ジョニー・ロットン。パンクロックの第一人者だよ」
 僕はお気に入りのTシャツを得意になって説明したけれど、志保はパンクが分からないようで、想像がつかないという顔で首を小さくかしげた。
「悠次兄はよくこういう所にくるの」
 かぼそい声で聞き、戸惑いの混ざった表情で僕を見た。
「いや、ホテルは初めてだよ」
 つい見栄をはり童貞じゃないような言い回しをしてしまうと、それ以上の質問を避けようとつくろうように|饒舌(じょうぜつ)になった。
 酔っていたからなのか、浮付いていたからなのか、その時に話した内容を|(つゆ)いささかも覚えていない。
 感覚として残っているのは、人里離れたキャンプ地で、夜空の下、焚き火を前に同行を悦楽していたような、甘く切ない瞑想的な静けさである。
 いつそうしたのか、室内灯は消され、照明はスタンドライトから揺らめく|仄明(ほのあ)かり一つだった。
 望外のなりゆきに|娑婆(しゃば)の春を堪能するように僕は陶然と話していた。それはまぎれもなく、生まれてこのかた最も幸福な時間であった。
 まるで部屋そのものが夢幻の観覧車のようで、浮かれに浮かれ、舞いに舞い上がり、観覧車は星空の果てまで昇りつめた。
 上りきると、過ぎゆくほどに多弁が衰えていき、次第に抜き差しならぬほどの現実に緩降下していった。
 徐々に志保が生身の女性として実在感を増していった。
 憧れ続けていた志保を前に、だしぬけに心気が|騒擾(そうじょう)し、話と話の間にただならぬ沈黙が流れるようになった。
 信じがたいほどに志保は手近にいたのだ。
 と、突如、志保の様子がおかしくなった。緊張した心持ちが表情にあらわれ出たのだ。そしてそれは僕にも伝染した。――と思っているが、実際はその逆だったのだろう。
 |(せき)を切ったように鼓動が速くなり、心臓の動きがはっきりと感じ取れるまでに高鳴った。
 血潮は蒸気機関車の勢いで体躯を駆け巡り、内耳にドクンドクン重低音が押し寄せる。
 比類なき緊迫感が渾身にみなぎった。
 どれだけ酔っても正面きって志保にキスする勇気がなかった僕は、安易に行動に移れず、それが為に混迷の|坩堝(るつぼ)と化した。
 不詳の難題にほぼ思考停止状態である。
 考えあぐね、押し寄せる動揺に屈した僕は、ぎこちない沈黙に張りつめる緊張の|空隙(くうげき)をついて、おもむろに志保の後ろにまわり、ほっそりした双肩を両の手でそっと引き寄せた。
 疑う事さえ知らぬ子鹿のように、志保はされるがまま無言で引き寄せられた。
 時がゆっくりと進みゆき、僕の胸筋に志保の肩胛骨が重なって、そのままやわらかく抱きしめた。
 こまやかで弾力のある髪が頬を撫で、立ち昇る芳香が鼻腔にみちた。
 通常ならばここから夢にもまさる交情の始まりである。
 ところがその|馥郁(ふくいく)たる色香をも跳ねのけ、切願は|(いわお)に、|羽交(はが)い締めにされた。
 腕の中で志保は体をこわばらせていた。あたかも自分を守るように。あたかも怯えるように。
 かてて加えて、思った以上の細身がいたいけな少女を思わせ、尚更に僕をおののかせた。
 志保の感触がもたらしたものは性的興奮や歓喜とは乖離した戸惑いだった。
 心に大きくはだかったのは、やましい事をしているような後ろめたさである。
(一体どうすればいいのだろう……)
 凝固したまま深閑にじりじりと数秒が過ぎた。
 思い余ったまま、不安と戸惑いにこもごも苛まれながら、ゆっくりと体をずらし、志保の顔を覗き込んだ。
 目が合うと志保は困惑の表情で視線を逸らせた。
 僕のとまどいは深みを増した。
 考えまどい、それより先に踏み込めず、何か喋ろうと息を吸った瞬間、志保は|(はじ)かれたように飛び起き、元の場所に座り直した。
 それはみぞれまじりの石火の出来事だった。
 あっという間の事に、心肺に亀裂がはしり、窒息するほど空気がとどこおった。
 僕は金縛りにかかったように硬直し、たじろいだ。甘美な夢から叩き起こされると、現実で取り返しのつかない事をしていた夢遊病者のように。
 志保は猫背気味にうつむき、何も喋らず、同じ位置でじっとした。
 僕は志保の真意がわからず、心中を推察しようと、こわばった背中を凝視したけれど、いくら目を凝らして探ってみても、ようとして何も分からなかった。
 せめてテレビでもつけていて、バラエティ番組が場をほぐしてくれたらよかったのだが、あいにくテレビも有線放送も無用の装飾品にしていた。
 おそろしく重たい沈黙が不動に垂れ込んだ。
 不穏な室内に小さく唸りを上げる小型冷蔵庫の低いモーター音だけが、時が動いている事を示した。
 逡巡のうちに、つんのめった気持ちが体内のどこかに圧縮されていた志保への|憧憬(しょうけい)と自らへの劣等感をじわじわ拡散させていった。
 そこからはマイナス思考がドミノ倒しに連鎖した。
 手を伸ばせば届く数十センチの間に、途方もない渓谷が横たわり、いちだんと痩せ細った背中が遠ざかっていくようだった。
 |膠着(こうちゃく)した沈黙が拒絶を|示唆(しさ)すると、栓がはずれたように力が抜けるのを感じた。
 心が萎え、全身の筋肉が|弛緩(しかん)し、仰向けにベッドに倒れたが最後、無気力に思考と五感が薄れかすんだ。
(やっぱり俺じゃ駄目か)
 空虚に天井を仰いだ。薄明かりに照らされた天井には、中世の壁画のような絵が描かれてあり、その色褪せた印象が薄弱になった僕を大河の時流に呑みこんだ。
 根っからの歴史好きが災いした。
 永劫の歴史に埋もれていった限りない労働者達の無意味とも思える人生の虚しさに感応し、ますます空虚に陥り、気が遠のいた。
 何をも受け付けぬ悠久の歴史が僕を支配した。
 体の遠くで志保の思い出がモノクロの無声映画となって流れ、恋焦がれていた昔の自分を、無感覚に、他人事のように傍観していた。
 うつけになって視線を天井でぼやけさせていると、志保が肩越しにちらっと僕を見て、それでそこに志保がいるのを思いだした。
 我を取り戻した僕は、(志保に悪い事をしてしまった。志保は居づらいに違いない)そう考えるのがやっとだった。
「ごめん。――もう帰っていいよ」
 ぼんやりと天井を見たまま、ようやくの思いで呟いた。
 志保は押し黙ったままだった。
 僕はもう志保を直視できなかった。寝返りをうってうつ伏せになると、消えて無くなりたい気持ちで目を閉じた。
 ひどく酔っていた僕はたちどころに眠りこけた。

 どれだけの時間が経ったのだろう。
「もう、起きてよ」
 志保に背を叩かれ、眠りから覚めたが、嫌なおもいをさせてしまった悔悟に、その場から逃げ出したいほど自分が厭になっていたし、恥ずかしくなっていた。
 申し訳なさと自己嫌悪で心がいっぱいだった。
「俺の財布に三万以上入ってるから、それ全部持っていっていいよ。駅まで行けばタクシーがつかまるから」
 志保を見ずに財布をさして言って、また目を閉じた。
 アルコールはすぐさま僕を眠りに引きずり込んだ。志保はもう何も言わなかった。

 翌朝、静かな部屋で目覚めた。
 一人ぼっちの部屋はがらんとしていて、ときおり車のクラクションが小さく聞こえた。
 遮光カーテンの脇から僅かに陽光が洩れていた。
 覚えのない部屋で夢うつつに体を起こし、アルコールの残る寝ぼけまなこで、なんとなく、違和感に鎮座するテレビを見ると、その横のクローゼットの上に、丁寧にたたまれたデニムのシャツが目にはいった。
 とたんに昨夜の事を思い出し、ベッドに力なく崩れ落ちた。
 一瞬にして、この世の底まで墜ちた。
 濁った目でぐったり天井を見た。
 |朦朧(もうろう)と時が流れた。
 いくばくかしてもう一度クローゼットの上を見ると、志保の|痕跡(こんせき)を示すように、デニムのシャツがちょこんとたたまれてあった。
 おぼろげに視線を天井に戻し、どんより放心した。
 忘我から意識が戻ると、同じ所作に体が動いた。
 虚脱にさらされ奈落に沈殿した脳は、停止と混沌を繰り返し、|身体髪膚(しんたいはっぷ)は脱力に不随だった。
 |()てついた外界に、心模様は|阿鼻(あび)へ続く|焼野原(やけのがはら)で、ただ乾風が吹き荒れ、|砂塵(さじん)ばかりが舞っていた。
 まるで核戦争の人類滅亡に一人取り残されたように僕は往生していた。
 いくらか経ち、意識が厘毛に回生すると、混線した思考回路を収拾しようと、昨日の出来事を起床したところから、ひとつずつ確認するように掘り起こしていった。
 ……普段どおりに朝の六時に起きて――遠足の日に目覚めた子供のようだったな――、……ニュースを見て……インスタントのブラックでトーストを二枚食べて……洗濯をして……その間に読みかけの本を読んで……掃除をして……中華丼の美味しいお店で昼食をとって……書店で雑誌を買って……大型チェーンのレンタル店でビデオを借りて……アパートに戻って借りたビデオを観て――志保に会える嬉しさでストーリーが頭に入ってこなかったな――、……それからお風呂に入って……着替えをして……何度も読んだ志保からの手紙を読み返して……早めに渋谷に出かけて……それから……。
 こみ上げてきた。
 ……それから……
 まなじりから雫がこぼれた。
 ……それから……
 むせび泣いた。
 志保の男になれないと明白になった悲しさと、純真なものに性欲をむけた|下卑(げび)た自分の情けなさに涙が止まらなかった――愛と性欲は直結せず、|相反(あいはん)するものに思えていたのだ。
 枕に顔を埋めると、涙と一緒に志保の思い出が次々と溢れ出た。
 一つ一つの思い出が|(にじ)んで波状に揺れ、己の愚かさに瓦解していった。
 言葉にあたわぬ千切れるほどの悲しみに、僕は身を震わせて|慟哭(どうこく)した。
 泣くだけ泣いてしまうと今度は、もう会えないであろう寂しさと虚しさに、心が|(ほう)けた。
 僕には自分と志保の相関がどんな形状をしていたのか、まるきり分からなかった。
 後悔は千歳に降り積む雪のようだった。とける間もなく積もる後悔は、神経を麻痺させ、心を中枢から凍えさせた。
 悲嘆が充満する静寂に覆われた部屋にいられなくなると、ホテルを後に宛てもなく街をぶらついた。
 愁然とする僕を関知せず、街はいつも通りに活気だっていて、自分だけが社会の異邦人のようだった。
 店頭から流れ出る音楽がそらぞらしく上の空を奏で、行き交う人々が機械仕掛けの玩具のように動いていた。
 僕は無彩色になった街を|慙愧(ざんき)と絶望に打ちひしがれ、陽が傾くまで|彷徨(さまよ)い続けた。
 そうしていると夕暮れ時には、|憔悴(しょうすい)した虚しさの中でも、志保をおもんぱかれば深い関係にならなくて良かったと考えるようになっていた。
 |暮色蒼然(ぼしょくそうぜん)とした街角で、志保の人生に僕みたいな人間が|(たずさ)わってはいけないと強く心に思った。

 その日の夜、意に反して志保から電話があったが僕は理性を取り戻していた。
 志保は最初から涙ぐんだ声だった。
「……志保だけど」
「うん」
「ごめんなさい」
「……俺の方こそごめん」
「 …… 」
「もう二度と連絡しないから」
「ごめんなさい」
「志保が謝ることじゃないから。悪いのは俺の方だから」
「 …… 」
「 …… 」
「また会えない」
「――いや、もう会わないようにしよう」
「 …… 」
「体に気をつけて、このさき頑張ってな」
「 …… 」
「それじゃ」
 無感情に言って電話をきった。そして、泣いた。
 志保への真紅の言の葉は、ひらひら僕を切り裂いて舞い、咆哮をあげる情念の川面に着水し、もみくちゃにされながら切りたった永遠の崖を落ち、荒廃の滝壺に跡形もなく呑み込まれた。
「おまえ気持ち悪いな」
 畳に置かれた電話を前に、膝を折り、涙にくれる僕を、ぬけぬけと博が|(さげす)んだ。
 怨恨の地に、足がかかった地雷の、乾燥した金属音が背筋で聞こえた。
 座ったまま上体をひるがえし、そしりの主をたしかめた。
 博は赤ペンを片手に、競馬新聞に耽っていた。
「俺をこういう人間にしたのはおまえだろう。俺をいじめるのは楽しかったか。――どうせなら、完全に人格が分裂するまでやってほしかったよ」
 殺意の|(はら)んだ怒気を冷ややかに投げた。
 博は聞こえぬふりだった。
 博から目を外さずに立ち上がり、一歩二歩とにじり寄った。
 横手の棚から、無造作に置かれた焼酎の五合瓶が沈着に自己主張した。
 それを右手で鷲掴んでラッパ飲みにあおると、胃袋がかっと熱くなった。
 手にした瓶を大将気取りの脳天に渾身の力で振りおろそうかと見下ろした。
 博の死への憐憫は皆無で、無防備な頭頂部は些少の価値もないただの固形物だった。
 己の散りざまを不浄に考えた。スイカに海苔を貼り付けた程度のこいつを潰して行路を絶とうか……。
 思えば幼い頃から数えきれぬほど博の死を願っていた。
 さんざん殴られてきた中でも、ひときわ鮮烈に覚えている、倒れ際に体重のかかった蹴りをみぞおちに受け、息もできずに悶絶した記憶が頭をよぎった。
 次に、祖母の言葉が脳裏に浮いてきた。(悠次がまだ歩けもしないのに、博は目を離すといつも悠次をいじめていた)
 瓶を持つ手に力が入った。
 もしそこで、博が|迂闊(うかつ)に愚弄していたら、人格を蹂躙し、大切なものをむしりとった卑劣をあやめ、僕は自決していただろう。
 しかし博は何も言わなかった。
 死にざまへの美学が、人生を終わらせるにはちんけすぎる相手だと、すがって|()き止めた。
 座卓に瓶のあたる音を大きくしてあぐらに座ると博が顔を上げた。
 |足蹴(あしげ)にされてきた怒りが狂気に|孵化(ふか)した目で、死にたいか、と問うた。
 博は何も言わず競馬新聞に顔を戻した。
 しばらく阿修羅の如く博を睨みつけていたが、怨念の叫びは空を切るにすぎなかった。
 鬱憤のままに暴れる事もできず、はっぱをかけて気分転換する気概もなく、|困憊(こんぱい)のまま、立てた片膝に額をつけ、アルコールが血液を循環する感覚に神経を傾けた。
 博は新聞をたたんで寝床にはいった。
 真暗な夜だった。
 部屋の明かりを消すとボリュームを極限に絞ったテレビが青白い照明をつくりだした。
 陽気なタレントが楽しげに笑うブラウン管は見る気になれず、ちらつくテレビの明かりを受けた組立式の三段ボックスと、時代がかった安物の壁板を、まんじりともせず廃人のように眺めていた。
 無味無臭の|(しかばね)と化した志保の思い出を傍らに、霊安室にくずおれる僕は世界中からひとりぼっちだった。
 夜半になぐさめるように雨が降り出し、しじまの旋律を変えた。
 窓を開け、外を見やると、沼のような静けさに涙雨が降りしきっていた。
 さめざめとした降雨に心を|雨曝(あまざら)し、しこたま酒を|(あお)り、気が遠のくほど泣き、ぐでんぐでんに酔った。
 されど用をたす足が千鳥足になろうとも、嘔吐しようとも、頭の核は覚醒したままだった。
 廃墟の心に去来する想いは、雨の調べにただ悲しかった。
 空を黒く塗った暗雲が、丑三つ時に|雨脚(あまあし)を強めた。
 闇に街灯の光をはね、降り注ぐ雨がダイヤモンドに輝き、矢継ぎ早に路面に刺さり、無数の輪を描いた。
 アルコールでぬぐえぬ悲哀は衰弱した僕を|(とら)えて離さなかった。
 雨粒が路面を叩く単調なリズムはどこまでも静かで、普遍が故に優しくもあり、とわに孤独でもあった。
 両膝を抱えて顔を埋めると、|(うれ)いに溺れたしゃぼんだまの唄が口を流れた。
 震えるレクイエムは純色だった青春の終焉だった。
 雨がやみ、夜が白みはじめた頃、精も根も尽き果て、ようやくのこと、半死半生にとろとろと浅い眠りにおちた。

 翌日、志保からの手紙を捨て、新しいアドレス帳に志保の連絡先を写さずに古いものを捨てた。
 志保との訣別、それが僕の考える志保への精一杯の愛だった。
 死んでしまいたかった。なにもかもが厭になった。(生まれてこなければよかった)それまで何度もよぎった思いがひしひしと重くのしかかった。
 弧絶した霊魂は幾晩もかけて、万里の砂漠と一寸の光も射さぬ海底を漂流し、一旦は|黄泉(よみ)を伺い、すんでの所で再び目に見えぬなんらかの揚力で前へと押し出された時、僕は世俗の洗礼を所望し、望みはこともなく成就した。
 行きずりの女と初めての関係を持ち、その後も妄動に色欲に身を任せた。
 純情をかなぐり捨て、貞節を堕落させると、身が軽くなり楽になった。
 僕の人生には志保がいないのである。女の事はどうでもよかった。不潔な自分を笑い、志保と話す資格がないと言い聞かせた。それでもふと志保を思い出し、詩を書く事もあった。

三年後

   第十章

 疎遠になって三年が過ぎた。
 理不尽にみちた社会で、傷つき、汚れ、もがきながら、多くを学び、僕は別人になった。
 世には意地の汚い人間が腐るほどいると知り、嘗めた真似をされると我慢する事なく過剰に反発するようになった。
 いかれた社会のからくりも、あらかた苦汁をなめる思いで|咀嚼(そしゃく)した。
 国のお偉いさんも企業のお偉いさんも利益が第一で、人々は自分の生活が一番で、地球のどこかで何人餓死しようがなんだろうが、都合の悪い事からは目を|(そむ)け、感性を麻痺させるのが幸せに暮らす秘訣だと知った。
 先進国とアメリカ大企業のお偉いさんが利益のために当世の状況をつくりだしているのである。
 現状では誰にもどうする事も出来ないと悟った。
 怒涛に過ぎた三年で、僕は人にも社会にも冷めた人間になっていた。


   *


 ひどい鬱を|(わずら)った僕は尾島で安穏と養生していた。
 のんびりとした空気にあたり、たまにアルバイトをする気侭な暮らしを送った甲斐あって鬱が癒え、またの上京に思案をめぐらせていた。
 そんな折、新年度の始まりにあわせて、ゆくりなく安幸が帰島してきた。
 安幸は料理の専門学校を卒業したあと大阪のお店で働いていたのだが、田舎の食堂に就職が決まり、晴れて帰郷となった。
 男友達は滅多な事では変わらない。僕と安幸は昔と変わりなく話し、たびたび一緒に酒を飲んだ。
 友人宅でお決まりのように何人かの男友達と酒を飲んでいた時である。
 安幸が、大阪にいた頃の、遠くに住む女と身近にいる女の二股話をした。
 遠距離恋愛の女はそうそう会う事がないし、大阪に来るときは前もって連絡があるから、もう一人の女と鉢合せる事がない。遠距離との二股は便利だ、と話した。
 安幸は遠くに住む女がどこにいて何歳なのか言わなかったが、僕は遠距離の女が志保だとぴんときた。
 昔から一度として、志保への想いを安幸に話したためしはなかったが、長い付き合いで僕の本心を察知していたからこそ、尋ねても姑息な笑みでかわし、離れている女の詳細を喋らなかったのだろう。
 安幸は昔から幼稚で下劣なところがある。
 僕は直感的に二股の相手を|看破(かんぱ)したが、でもそれで|不埒(ふらち)な安幸に腹立ちはしなかった。
 今となっては僕と志保はなんの繋がりもないのだし、大多数の男が二股や浮気を平気ですると認識していた。
 二股を誇らしげに語る安幸に、おまえもそうなのかと失望感が湧いただけだった。
 酒宴は日付の原点でお開きになり、ほろ酔いで友人達と別れた。
 湿気をおびた肌寒い外気にすすがれながら、海岸沿いの外灯のない夜道を歩き慣れた勘に頼って家路についた。
 月明かりすらなく、山手の墓地が微明とするばかりで、不気味なほどに海が|()ぎ、吸いこまれそうな|群青(ぐんじょう)に弱小の光をぶちまけた空が悠然としていた。
 大自然の一片となり、天を見上げると、銀河の遼遠から志保の記憶がしめやかに舞い降りた。
 聖なる珠玉はセピアに|()せるどころか益々美しくなっていたけれど、なぞる追憶のそぞろ淋しさは晩秋に訪れる哀愁のようだった。
 だが、ひと時であれ、大好きだった安幸に抱かれた志保は幸せだったに違いない、とも思った。
 僕は擦り減った心で志保を遠い昔の人のように思い出した。


   *


 安幸の二股話を聞いてからしばらく経った夏の初めである。
 穏やかな昼下がりに、思いがけず志保から電話があった。
 志保はためらいがちに、お久しぶりです、と挨拶し、僕は、おう、久しぶり、と軽く|(こた)えた。
 志保は過去の人になっていたのだ。
 志保の声は懐かしかったけど、昔と違って心がときめかなかったし、あたたかさを感じる事もなかった。
「悠次兄がいま田舎にいるってきいたから、少し聞きたい事があって」
 暗く沈んだ、はばかった言い方だった。
「安幸の事だろ」
 見透かして言うと、志保は消え入るような声で小さく頷いた。
 志保は、会社の休みを使って田舎に帰ってきてるから悠次兄と会って話が聞きたい、と言い、僕はそれを了承して、三十分後に迎えに行くとこたえた。
 久しぶりに志保と会うというのに、僕は特別な感情にならなかった。あれからの三年で純情さもウブさもすっかりなくしていたのだ。
 洗面所で粗放に顔を洗い、髭を剃り、着替えもせずに軽トラックに乗り込み、|幾分(いくぶん)の思惑もなしに、志保の実家へとアクセルを踏んだ。
 車中、昔の友達に会うような懐かしさだけがあった。

 その昔、憧れをもって眺めた家は、庭先で赤紫のブーゲンビリアが咲き誇っていた。
 近づくことさえできなかった門の内側で、細い紺と白のボーダーのシャツに、七分丈のパンツをはいた志保が待っていた。
 志保の表情は沈鬱な面持ちだったけれど、特に変わった様子もなくて、胸の奥がほっと安心するのをおぼえた。
 うつむきかげんで助手席に座った志保に、出会った頃と同じように、「元気かよ」屈託なく聞くと、志保はいくぶん明るい表情になって、「うん。悠次兄は元気にしてるの」と返した。
 僕は、なんとかね、と答えて、近くの海岸に車を走らせた。
 天気はからりと晴れた薄暑で、車窓から吹き入る風が爽やかに体を横切って気持ちが良かった。
「すっぴんできたよ。悠次兄は化粧が嫌いでしょ」
 志保が遠慮がちに言う。
「うん、志保はその方がいいよ」
 僕は素直にこたえた。
 天与の清風が懐中にくすぐり溜まる。
 流れるさとうきび畑を見ながら志保は僕の近況を訊ね、てらう事なく僕はそれに淡々と答えた。
 志保の話し方になにか思いつめたものを感じたが、あえてそれには言及しなかった。
 海岸に到着すると車を海の正面にむけてエンジンを切った。
 波の音が辺り一面に響き渡っており、まわりには人影ひとつなかった。
 志保の表情が深刻になった。
「安幸と遠距離恋愛して、ふられたんだろ」
 海を見ながら言った。水中の珊瑚と海砂が綾なす海洋は、浅瀬から沖に順をおって色を濃くしている。
「安幸兄から聞いたの」
 志保は下を見て、小さく呟いた。
「いや。安幸から遠距離恋愛をしていたとは聞いたけど、その相手が志保だとは言わなかったし、具体的な話は何も聞いていない。でも俺とあいつは物心をつく前から付き合ってるんだから、口に出さなくても分かる事は分かるよ」
 煙草に火をつけて、煙を深く吸い込んだ。
「お願いだから本当の事を話して」
 志保は切実な顔で、まっすぐに僕を見た。
 僕は絶対に嘘をつかないと約束して、本当に聞いていない、と告げた。
「じゃあ安幸兄が今、和美姉と付き合ってるっていうのは本当」
 僕はゆっくり|(うなず)いて肯定した。安幸は中学の頃に付き合っていた和美とよりを戻していた。
「私が、和美姉と今でも連絡取ってるのって聞いた時は、取っていないって言ってたのに」
 志保は今にも泣き出しそうだった。
 いつからまた和美と付き合っているのか聞かれたが、僕は|(あずか)り知らなかった。
「私と付き合っている時からじゃないの。――なんか、そんな気がしてたの」
 志保はそう言ったなり、ダッシュボードを見つめて黙り込んだ。
 晴天のぼやけゆく飛行機雲を、米粒大の機体がくっきりした雲をつくりながら鋭角に交差している。先行の機体はもうどこにもなかった。
 僕は静まった志保をみた。
 端正な顔立ちは微動だにしていなかった。
 その姿をじっと見ていると、どうしてこんなに美しいのだろうと、改めて魅了された。
 光に飴色に輝くふわりとした癖毛。つぶらな瞳。ほんのりと赤みがかった頬。シャープな朱唇。調和のとれた顔立ち。すべてが変わらない美しさだった。
 離れた所で白砂と浜昼顔の葉がふちを彩っている。
 志保は神妙な|面持(おもも)ちで一点を見続けた。
 僕はそれまで質問にだけ答えていたが、やがてゆっくりと話しだした。
「厳しい事を言うけど、志保と安幸はもう終わったんだろ。安幸が誰と付き合おうと志保に文句を言う権利はないよ」
「でも私と付き合っている時は……」
「今も付き合っているのなら安幸を罵倒して構わないよ。でも、もう過去の話だろ」
 冷徹な物言いに、志保はうつむいて言葉をなくした。
 その横顔は純情な少女だった。うすい白光を帯びて|(はかな)くたたずむ、えもいわれぬ|清廉(せいれん)な美しさをたたえた乙女だった。
 くらむほどの陽光が車外に惜しみなく降りそそいでいる。
 壊れてしまいそうなほどの、消えてなくなってしまいそうなほどのしおらしい姿に、干からびた誠が|(うず)き、|(すさ)んだ心も情をほだされた。
「本当は友達を裏切る事になるから話したくないんだけど」
 前置きして、安幸が二股していた事を話し、悪く言った。
 あいつは陰口ばかり言っている腹汚い人間だよ。――最初の内はいいかもしれないけど、いずれ志保とは上手くいかなくなる。
 深い仲になってなければ可能性があるけど、そうなった上で駄目になったらもう無理だろ。
 もともとあいつの好きなタイプは志保じゃないし。
 話を黙りこくって聞いていた志保は、口をつぐんだまま膝の上で組んでいる手をじっとみた。それから顔を見られないように窓の外をみた。
 手の動きで涙を拭いているのがわかった。
 僕はなにか優しい事を言おうとしたけれど、どの言葉を選んでみても安っぽく感じられて、何も言えずに水平線の|彼方(かなた)を見た。
 久しぶりに接した純情に胸が痛かった。
 潮の香りが切なく志保を包んだ。
 九年の重みに僕はなすすべがなかった。
 絵はがきになりそうな景観が、知れきった人生を|俯瞰(ふかん)するように泰然としていて、片鱗で|有為転変(ういてんぺん)、白波がさざめいていた。
 いくらか経つと、志保は懸命になって気を持ち直して、精一杯明るい表情をしてみせた。
「なんかすっきりした。胸につかえていたものが取れたよ。どこかで覚悟していたんだけど、踏ん切りがつかなかったの。でももう大丈夫。悠次兄と話したおかげで踏ん切りがついた。ありがとう」
 そう気丈に言った笑顔から、涙がぼろぼろ|(こぼ)れた。
「いやだな、本当にすっきりしたのに」
 志保は笑顔を絶やさずに、とめどなく溢れ出る涙を拭いた。
 その朝露よりも透明な涙は、僕がそれまでに見たものの中で一番美しかった。
 濡れた|睫毛(まつげ)は一段と美貌を引き立て、拭った手の甲いっぱいの悲涙は、何度服に吸収させてもまたすぐに濡れるのだった。
 純情にまさる美徳があるだろうか。
 志保の心が抱きしめたくなるほど愛しくて、僕の目にも涙が|(にじ)んだ。
「なんで悠次兄が泣くの。せっかくすっきりしたのに。――なにか楽しい話をしようよ」
 泣きながらも志保の声は明るかった。
「うん、ごめん。俺が泣いてどうするんだって話だよな」
 僕は気持ちを元に戻そうとしたけれど、かえって涙が出てきた。
「もう、いいかげんにしてよ」
 下の睫毛を拭いながら志保が鼻声で泣き笑って言った。
 それにつられて僕も涙ながらに笑みがこぼれた。
 二人は可笑しくなって笑いながら涙が止まるのを待った。
 ようやく涙が止まると悩んでいるのが馬鹿馬鹿しくなるような底なしの明るさをした友達の話や、能天気で間の抜けた話を僕は選んで喋った。
 そうした話を幾つかしているうちに志保の涙もすっかり渇いて笑顔だけになった。
 それからの僕達は学生時代に時空が戻ったように取り留めのない話に花を咲かせた。
 無意識のうちにお互いの空白を埋め合うように。
 空の色も海の色も無邪気に戯れていた頃とちっとも変わっていなかった。少しだけ僕達が歳をとっていた。
 しかれども、何もかもがまるきり一緒というわけではなかった。波長の合致にとどまる事のない話の数々は、はからずも僕に新しい発見をもたらしたのだ。
 |肝胆相照(かんたんあいて)らし、ほがらかに談笑が積もるに従い、神秘のヴェールは一枚また一枚と溶けていき、ついに一糸まとわぬ志保本来の姿があらわになった時、僕は志保を美化していた事に気付かずにはいられなかったのだ。
 ただしそれは失望ではなく、志保が聖女でもなければ天女でもない、ごく普通の女だという当たり前の認識だった。
 その至極当然な認識は僕をすがすがしくさせ、さっぱりした気持ちをなめらかに言葉にかえた。
「志保をやっと普通に見られるようになったよ。――今まで迷惑かけてごめんな。これからは普通の友達として話せるから安心して」
 雲散霧消に、晴れやかに言った。
「全然迷惑じゃなかったよ」
 一抹の戸惑いをみせた後に志保はこたえた。
「そう言ってくれると助かるよ。でも俺は本当に志保が好きだった。あんなに人を好きになる事はもうないだろうな」
 狂おしいほどに志保が好きだった頃を思い出し、感慨を覚えた。
 遠い目をして言った僕の言葉を志保は不審がった。
「何言ってるの。悠次兄は私をふったじゃない」
 唐突の、そしてまったく心当たりのない話にわれ知らず、えっ、とだけ声が出た。
「高校の時に文通していたの覚えてるでしょ。悠次兄の方から文通をやめようって言ったじゃない」
「いや、あれは志保に好きな人がいたり、彼氏がいたりしたら、文通の相手をして貰っているのが悪いと思ったからだよ」
 文通していた頃の下宿生活を思い出して、懐かしさがこみ上げた。
 志保は僕の顔をまじまじと見た。
「私は悠次兄と付き合っているつもりでいたよ。仲の良い友達にも悠次兄と付き合っているって言ってたし。――悠次兄は私と付き合ってるって思ってなかったの」
 風が止まった。
 一面の景観が静止画になった。
 僕はまばたきすらできなかった。
 信じ|(がた)い事に僕を|(むしば)む自己否定は、志保が好意を寄せてくれていた記憶を脳髄の奥深くに封じ込み、その上に、一方的に志保に想いを寄せていた自分の姿を塗り固めていた。或いは、生きていくために、志保が良く言ってくれた思い出を心が淘汰していたのか。
 志保からの手紙を心躍らせて読んだ記憶と、最後の手紙を書いた記憶が同時に流れ込んで|(うず)を巻いた。
 志保と繋がった喜びと、ぷつりと途絶えてしまった寂しさは複雑に|(から)み合った。
 愕然として、大きな溜息がでて、こうべが|()れた。
「島央高校で好きな人ができたんでしょ」
 僕は志保の問いに反応できなかった。
 どうしたの、と、腕をつかまれ、また溜息が洩れた。
「好きな人ができたんでしょ」
 わだかまった顔で志保はもう一度いった。
「志保に悪いと思ったから文通をやめようって書いた」
 腑抜けに答えた先で、また一つ溜息が洩れた。
 ありていのこたえにも志保はてんで納得しなかった。
「嘘だよ。だって中野で……」
 言いよどんでから、苦渋の過去を絞り出すように言った。
「もう帰っていいって言って、寝ちゃったじゃない」
 乾いたはずの目に涙がふたたび浮かんで、顔を伏した。
 僕の脳裏に忌まわしい記憶がありありと蘇った。志保に嫌な思いをさせてしまった事。白々とした一人ぼっちで迎えたホテルの朝。この世が終わってしまうような寂しさ。いまだかつて、あれほど|(みじ)めで虚しい時はなかった。
「あの時はごめん。本当にごめんなさい」
 抗弁もなく頭を下げて謝った。謝るしかなかった。
「あの時なんで帰っていいって言ったの。私なにか嫌われる事した」
 清らかな瞳から一筋の涙がこぼれた。
 僕は|暗澹(あんたん)としてこたえた。
「いや、何もしていない。――俺が志保を抱きしめたとき、嫌がったでしょ。体を離したじゃない。それで、|嗚呼(ああ)嫌なんだなと思って、もう一緒に居たくないだろうと思ったから、帰っていいよって言ったんだよ」
 自分が生きる価値のない犯罪者に思えて消沈した。
 志保は信じられないといった|面差(おもざ)しで僕を見た。
「私あの時が初めてだったのよ。男の人とそういう経験がなかったからついああしたけど、女の子は最初の時ってみんなああいう風になるんじゃないの。本当にそうなるのが厭ならホテルについて行く訳ないじゃない」
 砂浜に|(くだ)ける波の音がひときわ大きく聞こえた。
 僕は時間が止まった。
 脳細胞がフリーズして、頭の中が真っ白になった。
 風が鳴り、僕をよそに波は同じ動きを繰り返した。寄せては返す波の音は昔から耳にしているものと同じだった。
「私、寝ている悠次兄に、ごめんなさい、もう帰ります、って言って、泣きながら夜の街を歩いて帰ったのよ」
 志保は僕を責めた。
 僕は何も言えず茫然自失した。
 志保は放心した僕を見ていたが、だめを押すように言った。
「それに電話で、もう会わないって言ったじゃない」
 その言葉でようやく僕は正気を取り戻した。
「あれは志保のためにはその方がいいと思ったからだよ」
 弱々しく呟いた。
「なんで」
 いぶかった|眼差(まなざ)しだった。
「俺みたいな人間は関わらない方がいいと思ったから」
 うつろにこたえたが志保は信じなかった。
「本当のことを言ってよ」
「本当だよ。俺はずっと志保が好きだった。これまで一瞬たりとも志保以上に他の女を好きになった事はない。神に誓ってもいい」
 言い切ると、強烈な感情の記憶と、志保の言葉の衝撃が重なって頭が混乱した。それからまた、ホテルでの出来事を思い出し、|呆然(ぼうぜん)とした。
「本当に嫌じゃなかったの」
 僕の様子に志保は顔つきを変えて|(ただ)した。
 僕の目は焦点が合っていなかった。
「もちろんだよ。志保は嫌がったって、ずっと思ってた」
 うわごとのように答えた。
「本当に」
 志保は再度、あきれたように聞いた。
 僕は脱力して小さく頷いた。
「悠次兄はもっと自信を持たないと駄目だよ」
 励ますように僕の腕を叩いた。
「うん、俺もそう思うんだけどね。他の男を見ていると俺もまんざら捨てたもんじゃないって事は分かるんだけど……。ああ、もう」
 つくづく自分が厭になった。
「悠次兄は女の人に対していつもそうなの」
 志保は僕という人間が分からないようだった。
「いや、他の女なら平気でセックスする。でも志保は特別なんだよ」
 やりきれずに、またひとつ溜息が洩れた。
「私が」
 志保は胸に手をあてがい、驚いた表情で目を見開いた。
「うん。俺にとって志保は、クリスチャンがキリストを崇拝するような、そんな存在だった。志保をずっと女神のように感じていたよ」
 へたりこんで力なく天を仰いだ。間近に見える車の天井は無機質な鼠色で、何も語ってはくれなかった。僕はぼんやりと、無表情をきめこんだ鼠色の天井を見るでもなく眺め続けた。
 そよ風に吹かれて、|昔年(せきねん)の志保の思い出が薄い雲状に眼前を流れた。
 かえすがえす、過ぎ去りし日を悔やんだ。
 できるのなら、中学生の自分の助太刀をしたい。
 可能なら、投函口にさしこんだ最後の手紙を無理矢理にでも奪い取りたい。
 叶うのなら、あの夜ホテルに入る僕に勇気を与えたい。
 心の雄叫びは、やまびこ同然にいずこへともなく亡失し、ただ静寂だけがあった。
 枯れた枝くずが風にあおられ、方向も定まらず、頼りなく浮動していた。
 志保は抜け殻になった僕の横顔を長らく見つめていたが、やがて意を決したように、明るい声で停滞した静けさを破った。
「じゃあ、中野の続きをしてみる?」
 さも熱愛中の恋人に言うような|悪戯(いたずら)っぽい言い方だった。
 不測の|隻句(せっく)に、僕は息の根がとまった。ほどなく、にわかに胸が熱くなり、きつく締め付けられた。志保が好きで好きでどうする事もできなかった頃の情念が喚起され、鼓動が速くなるのをおぼえた。
 志保が放った文句は、想像を絶していた。
 耳を疑いつつ、おもむろに志保を見た。
 僕を見る笑顔には、優しさと清潔な美しさがあった。まるでそれは夢のようだった。
 もう僕と志保を|(さまた)げるものは何一つなかった。
 |(たか)ぶる気持ちを抑え、現実を確かめるように、志保の瞳をそっと覗き込んだ。どこまでも澄んだ美しい瞳を。
 するとその美しさがあまりにも昔と同じで、僕はかえって、まじりけのない中学生の自分を思い出してしまった。
「いや、やめとく」
 振り払うように言った。
 翻然とした物言いに、志保は|怪訝(けげん)な表情になった。
「私が安幸兄と関係を持ったから」
「いや、ちがう」
「私が処女じゃないから」
「ちがうよ。俺だって童貞じゃないし、そんな事はどうだっていい。――今の気持ちじゃだめなんだ。|一途(いちず)に志保が好きだった頃の自分に申し訳がない。出来ないよ」
 一羽の海鳥が砂浜に舞い降りて、辺りをきょろきょろ見回し、不器用に歩き出した。その|滑稽(こっけい)な歩みに自分を重ねた。
 志保は|(はか)りかねた顔で僕を覗き込んだ。
「じゃあ、キスする?」
 動揺が全身を|(つらぬ)いた。
 志保を見ると、その血色の良い唇に目がいった。しかしやはり、僕が触れてはいけない神聖なものに感じられて出来なかった。
 志保の顔に、|(わず)かに苛立ちの色が浮かんだ。
「本当は私が嫌いになったんでしょ」
 心外な推測に、ゆっくりとかぶりを振った。
「志保とキスするなんて夢みたいな話だよ。それが出来たら天にも昇るほどに嬉しい。でも、今の気持ちでは出来ない」
 志保は複雑な顔をした。それから、
「勝手だね」
 ぽつりと言って、淋しそうに海を見た。
 まったくその通りだと思った。志保は僕の葛藤に|翻弄(ほんろう)された受難者だった。
 我が儘ここに極まり。
 がしかし、僕は不義理な身勝手さを重々わかっていたが、それでも志保には触れないのが一番正しいように思えた。
 思春期から青春期にかけての最も多感な時期の、志保への想いが並外れて大きすぎたし、僕には志保が純粋に生きた|(あかし)に思えていたからだ。
 自我が芽生えてからというもの、このおかしな社会に染まってしまうまで、壊れそうになるたびに志保に支えられた。
 他の女と同じように関係を持ってしまったら、たとえ他人とは違えど、己の純粋な感性を信じて生きた昔の自分を否定するように思えたのだ。
 純粋さを失くした僕に志保は抱けなかった。
 沈黙が続いた。
 晴れ渡った夏の陽射しの中、嫌になるほど砂浜が白く、海が青かった。
 ゆったりと波の音だけが聞こえていた。
 沈黙の果てに、志保が小さく言った。
「じゃあ、もう帰ろうか」
 僕は黙って頷き、車のエンジンをかけた。
 志保との完全なピリオドを感じ、万感胸に迫って言葉がなかった。
 もし僕が、いつか誰かと結婚しようと思っていたら違う態度を取っていただろう。しかし僕は誰とも結婚するつもりがなかった。ひとりで生きていくつもりだった、というより、天命をまっとうする自信がなかった。
 二人の最初で最後のドライブは無口のまま終わりにむかって走った。
 山の緑が力強く燃え、蝉々が満身で薄命を叫喚していた。不思議な和合で、それらが余す事なく融和し、|(さと)りの静けさを奏でていた。
 志保の家が近づいた。
「志保にはすぐにいい男が出来るよ」
 励ますでもなく本音から言葉がころがり出た。
「うん、頑張る。悠次兄もいい人を見つけてね」
 志保は僕の横顔を見て応援するように言った。
「俺は結婚する気がないし、志保以上の女はいないよ」
 直線道の先を見たまま呟くと、志保は困った顔をして視線を前に戻した。
 門前で車を降りた志保は、ありがとう、と礼を言い、僕は、うん、じゃあね、とだけ言って、アクセルを踏んだ。
 見送る志保の姿がバックミラーの中で徐々に小さくなっていき、ゆるやかなカーブに入って消えた。
 一人になった僕の心は空っぽだった。胸の奥にしまっていた大切な宝物をなくしたような喪失感にぽつんといて、なにも考えられなかった。
 さっきまで志保が座っていた助手席に目をやると、すべてが幻想だったように思えた。


   *


 あれから十年以上経つが、それっきり僕と志保は一度も会っていない。
 幸いにも最後に会った日から二年と経たず、風の便りで志保が結婚したと知った。
 配偶者とは知り合って半年だという。
 |(かたく)なに結婚を拒否し、自分の血を子孫に残したくないと、断固と思っていた僕も、今は結婚して一児の父親になっている。
 おしどり夫婦とはいかず、不和を起こす事も|間々(まま)あるが、とにもかくにも子供は可愛い。
 若い頃は好奇心と困難への欲求から波瀾にとんだ生活を送っていたが、今はサラリーマンになり、平凡に、幸せに暮らしている。
 きっと志保も幸せにしていると僕は信じている。

 志保にとって僕は迷惑以外の何物でもなかったのかもしれないけれど、僕には志保との思い出がかけがえのないものとして残っている。

 志保にはもう会う事はないのかもしれないが、それは問題ではない。
 純粋に生きていたあの頃、僕のそばに志保がいてくれた事が大切なのだ。

 志保との美しい思い出は今でも心の中にひっそりとあり、それは終生消え去る事はないだろう。

あとがき

   あとがき

 最後まで読んでくれてありがとう。
 この小説を読んで貰う事で、嗚呼これで志保と|永久(とこしえ)に話せなくなるだろう、と思ったが、志保にはどうしても読んで貰いたかった。
 筆者は志保から計り知れない恩恵を受けたからです。それに、筆者に文才があると言ってくれたのは志保です。覚えてないと思うけど、その時に、小説を書いた|(あかつき)には最初に志保に読ませる、と約束しました。
 この小説を読んで文才があると言った事を後悔したかもしれないけれど、筆者は小説を書こうと思う機会を与えてくれた事に感謝しています。
 いやしかし、なにかと参りました。
 最初は軽い気持ちで書き始めたのが、書き進むうちに気持ちがきつくなっていった為、困窮する事しきりでした。
 私小説を書くには素っ裸の自分を観察しなければならないのだけれど、欠陥人間である筆者には自分を観察する作業が大変な苦痛だったし、上京したての頃を描写しようと思えばその当時を|(かえり)みなければならないため、激痛の記憶を引き出す作業に身悶えた。
 上京後の進退|(きわ)まった場面で電話と手紙に涙するくだりがあるが、そこは推敲するたびにその時の事を思い出して泣き崩れ、しばらくのあいだ何もできなくなったほどです。
 改めて、本当にありがとう。助かりました。
 泣けて書けなかったといえばもう一つ、志保との訣別を決心する場面。そこも駄目でした。
 この小説を書いている間に何回泣いたか分からないぐらいに泣けました。今でもそんな気持ちにさせてくれる思い出がある事を幸せに思っています。
 志保には本当に迷惑をかけたけど、精神状態があやふやだった若い頃、どれだけ志保に依存していたか執筆して再認識した次第です。まったくもって感謝の言葉もないです。

 なんだか悲痛な事ばかり書いてますね。申し訳ない。
 思い出すのに苦痛を伴う場面が多かったのは事実だけれど、しかしそればかりではありませんでした。中学生の頃を書いている時に、当時流行っていた村下孝蔵の初恋が、高校時代を書いている時にはその頃よく聴いていた渡辺美里が頭の中でリフレインして、切ない気持ちになれたり、幸せな気持ちを思い出したりで、有意義な時間を持てたのも確かです。

 実際のところは、最後に会った時はまだお互いに若く、悠次が気のきいた態度じゃなかった事もあり、志保は機嫌を悪くしました。
 最後の沈黙の場面でこんなやりとりがありました。

「結婚する気がないのに付き合うのは相手の人に失礼だよ」
「でも付き合う前に俺は結婚する気がないってちゃんと言ってるよ」
「悠次兄は女の気持ちが分かっていない。結婚しないなら付き合うべきじゃない」
「――そうかもね」
「本当にそう思ってる?」
「うん、じゃあ二度と付き合わない」
「約束できるの」
「約束できるよ」
 志保は僕の言葉を信じていないようであきれた顔をした。
   ―― 中略 ――
「俺はいつか志保の事を小説に書く」
「それじゃあ私が馬鹿みたいじゃない」
「そんな事ないよ。少なくとも俺の中では、志保は世界で一番美しいから」
 僕は正直に言ったが、志保は|合点(がてん)のいかない様子だった。

 悠次は約束を守りました。その日のうちに付き合っていた彼女に別れを告げて、それから女房となる女と付き合うまでの九年間、誰とも付き合いませんでした。

 志保はこの小説を読んで、私はそんな良い女じゃない、と思っただろうけど、それは筆者も承知しています。筆者自身、いい人でもなければいい男でもありません。
 あれから志保がどう変わっていようと、この先どう変わろうと、幸いにして過去は変わる事がない。
 もし、いつかどこかで会う機会があったら、おっさんとおばさんとして、もしくは、おじいさんとおばあさんとして、普通に話せたらいいなと思っています。


    志保へ
     悠次より    
          二〇〇五年十二月

小説に入れなかった会話の断片

 小説に入れなかった会話の断片


  最後に会った日

「やっと普通に話せるようになったと思ったけど、駄目だ。話しているとやっぱり志保が好きになる」

   ―

「中学の時から今の今まで、ずっとずっとず~っと、死ぬほど志保が好きだった」
「その言葉が聞きたかった。嬉しい」

   ―

「何年もかかったけど、志保と心が通じあえて本当に嬉しいよ。会うのは今日が最後になるけど」
「どういう事」
「これまで志保の人生に脇役として登場してきたけど、今後はいっさい登場しないから」
「なんで」
「志保に迷惑かけたくないし、幸せになってほしいから」

   ―

「悠次兄の人生の舞台で私はどんな役だった」
「舞台の上のほうでいつも輝いている聖母マリア様」

   ―

「俺はいつか志保の事を小説に書く。そういえば高校の時に、小説を書いたら最初に志保に読ませるって約束してたな。俺は志保との約束は絶対に破らないから、もし小説を書いたら、志保の友達にでも頼んで郵送させるよ」
「それじゃあ私が馬鹿みたいじゃない」
 志保は不満げに言った。
「そんな事ないよ。少なくとも俺の中では、志保は世界で一番美しいから」
 僕は正直に言ったが志保は合点のいかない様子だった。
「その約束はいいから私をお嫁さんにするって約束して」
「……夢だよなあ。――でもその約束はできない」
「どうして」
「志保は俺みたいな人間と一緒になっちゃ駄目だよ。もっといい男と結婚してくれ」

   ―

「中野でそういう仲になっていたらその後はどうするつもりだったの」
「結婚してくれってプロポーズしていただろうな」

   ―

「惚れたら負けって言うものね」
「――なにそれ」
「惚れた方は相手の言う事を聞かなくちゃいけないから負けっていうじゃない」
「そうなの? ……腑に落ちないな。俺は惚れた方が勝ちだと思うけどね。だって惚れてなければこうやって話しているのもただの話になるじゃない。でも俺は志保が好きだから今すごく楽しいし夢みたいだよ。惚れるのを負けと言うなら俺は死ぬまで負け続ける自信がある」

   ―

「それにしても志保は相変わらず細いな。ちゃんと食事してるか」
「うん、ちゃんと食べてるよ。今が私の普通の体重だから。一時は三十八キロまで落ちたけどね」
「何かあったのか」
 見る間に志保の表情が|(かげ)り、注意深く言葉を探しはじめた。その目に涙の膜が厚くなった。
「うん。――なんだと思う」
「……病気?」
「う~ん、病気のような病気じゃないような」
「……仕事のストレス?」
「――ううん。三年前、悠次兄と別れた後」
 絶句した。

   ―

「私は悠次兄の一番の理解者でいたいのに悠次兄は誰にも心の中を見せない事が多いよね」
「俺の事なんか理解しなくていいよ」
 自分に存在価値を感じていなかった僕は捨て鉢に言った。
 ぞんざいな態度に志保は機嫌を損ねた。

   ―

「俺の記憶は消し去ってくれ」

   ―

「いつか俺の言っている意味がわかる日がくるよ」
「今わかるようにしてよ」
「そんなに怒らないでくれ。今は分からなくてもいつの日か必ず俺の言っている意味が分かるから」
 深い愛情はかえって冷酷に受け取られた。

   ―

 試すように志保が言った。
「じゃあ、もう帰る?」
 僕は黙って頷き、車のエンジンをかけた。
 ギアをローにいれると志保が口をはさんだ。
「私が一番好きって言ったけど、いま彼女いるんでしょ。私とは付き合えないのに彼女とは付き合えるっておかしいじゃない」
「彼女はまだ結婚したいと思ってないし、志保のようないい女じゃないから付き合えるんだよ」
 アクセルをゆっくり踏み込んだ。
「じゃあ結婚しなくていいから私と付き合って」
「志保とは付き合えない」
「やっぱり安幸兄と関係を持ったのが嫌なんでしょ」
「それは絶対にない。他にどう誤解されようと構わないけど、それだけはない。俺はそんな器の小さい人間じゃないよ」
「じゃあもし今の彼女が結婚したいって言ったらどうするの」
「俺は結婚願望がないって知ってるから言わないよ」
「言ったらどうするの」
「結婚できないって謝る」
「そのコなら傷つけてもいいってわけ」
「彼女がいいコなら話は別だけど、別れたくなるような事を何度もやられてるからね」
「だから傷付けてもいいと思ってるの」
「――俺は結婚願望がないって知ってるから結婚したいなんて言わないよ」
「悠次兄は女の気持ちが分かってない。結婚しないなら付き合うべきじゃない」
「――そうかもね」
「本当にそう思ってる?」
「うん、じゃあ二度と付き合わない」
「約束できるの」
 ブレーキを踏んで、ギアをニュートラルに戻した。
 かりそめの約束をしたくなかった僕は、熟考した末に、約束できるよ、と答えた。
 志保はあきれた顔をした。

   ―

「好きになってごめんなさい。生まれてきてごめんなさい」

   ―

 志保はいじらしいほどに恋愛に純粋で、結婚願望が強かった。

   ―


 最後に会った日から何日かして、東京に戻った志保から電話があった。
「付き合おう」
「いや。俺は志保を幸せに出来ないから」
「幸せにするように頑張ってよ」
「今の状態なら頑張れるけど、鬱状態に陥ったらどうしようもなくなるんだよ」
「その時は私も一緒に頑張るから」
「その状況に志保を巻き込みたくない。俺が一番望んでいるのは志保が幸せになる事だから、幸せにしてくれる男を探してくれ」
「私のこと嫌いになった」
「志保を嫌いになる事はないよ。絶対に。何をしようとも。たとえ人を殺したとしても志保を嫌いになる事はない。嫌いになれるはずがない」
「それならどうして」
「さっき言った通りだよ。本当に志保に幸せになってほしいから」

 しばらく志保は口説いてくれたが僕の返事は同じだった。

「私が好きなんでしょ」
「好きとかそういうのは超越しているんだよ」
「愛しているってこと」
「愛というのがよくわからん」
「世界で一番私が好きって言ったじゃない。そういうのを愛しているっていうんじゃないの」
「それを愛というなら、そうなんだろうな」
「じゃあ、気持ちをこめて愛してるって言って」
「やだよ」
「お願いだから言って」
「――愛してる」
「――志保、愛してる、って言って」
「もういいだろ」
「お願いだから言って」
「――志保、愛してる」
「私も悠次兄を愛してる」
 僕が心を込めて愛してると言ったのは、生涯でこの時だけである。

「じゃあ私の電話番号を言うから、気が変わったら電話ちょうだい」
「電話しないから教えなくていいよ」
 志保はかまわず番号を口にした。
「わかった?」
「番号を覚えなかったしメモもしてないから、俺から電話がいく事は絶対にないよ」
「なんで」
「番号がわかっていたら電話したくなるから」
「その時は電話すればいいじゃない」
「いや。俺は|金輪際(こんりんざい)、志保と関わらないから」
「悠次兄はそれでいいの」
「しょうがないよ。俺はひとりで生きていく。志保ももう電話しないでくれ」
「じゃあ、もうこれが最後だね」
「うん。今まで本当にありがとう。このさき体に気をつけて頑張って」
 言い尽くせぬ感謝をこめて受話器を置いた。

終章

 二〇〇六年二月十六日

 志保は帰ってこなかったので、後輩に小説を郵送させました。
 最近は小説を書いているってメールしたけど、それは志保との小説ではありません。
 あの話は詳細に書くべき箇所が沢山あるのだけれど、書けません。
 一通り書き終えた頃にはまぶたが痙攣しはじめる始末で、泣き伏しの日々でした。
 かさぶたを剥がした痛みに酒と煙草の量が増え、精神的にかなり参ってしまったので放り投げました。
 それでもつい最近まで、たっぷり一月以上、毎日泣き沈んでいました。
 思い出が美しすぎるから志保とはもう会わなくていい、と思ってはいるのだけどね。
 お互いの気持ちが頂点に達した所で終わらせたので、あれ以上良くなるはずもないし、僕も志保も歳をとっていく一方だし。
 それでもどこかで、もう一度会えないかな、と渇望しているのも確かです。
 男って馬鹿だよなあ、と自分でも思うのだけどね。
 長々と僕の初恋話に付き合ってくれてありがとう。美穂さんは好きな人と結ばれるよう頑張って頂戴。
 ではでは。

 追伸
 後生大事にしていたドナルドダックのぬいぐるみは、どこに引っ越してもずっとメインルームに飾っていたけど、結婚後の二回目の引越し時に処分しました。なので志保との思い出をしめすものはもう何も残っていません。



 二〇〇六年三月二日

 美穂さんが薦めてくれた本、読み終えました。
 その本を読んでいる最中、幾度となく志保と最後に会った日の事を思い出した。
 安幸兄より悠次兄の方が好きだった、と言っていた事。何度もキスを求められた事。それをことごとく|(こば)んだ事。せがまれてしたハグの終わり際に、頬にキスされた事。僕に抱かれたがっていた事。少女のような無邪気さで、僕との生活を夢見るように語っていた事。私の青春を返して、と言われた事。
 あまりにも美しく、残酷で、消える事のない傷跡。あの日の事をそう思っていた。勿体無くて、壊れてしまいそうで、その日の出来事を誰にも話せなかった。
 だけれども、時と共に風化していた。
 忘れていた事が結構あったからね。
 志保とキスできなかったのは、神聖化していたかった、というのが本質だったと思う。
 その時は明確にわからなかったけども、がんとした意思のような直感で、志保とキスするべきじゃない、と感じていた。
 当時の僕は、社会や人間に失望していたのだけれど、そんな中で、志保は神であり、最後の|(とりで)だった。
 美化しているのは分かっていたけど、それでも美化したままでいたかった。
 無神論者で、心を許せる家族もなく、精神状態が不安定だった僕の、永遠の心の|()り所にしていたかった、のだと思う。
 それに、キスしてしまうと志保への慕情に耐えられなくなりそうで恐かった。
 志保にしてみたらほんといい迷惑だよね。

 深い仲になれなかった件も、小説に書いた以外の要因を思い出しました。
 一つは、僕のセックスはそれまでの女性達から気に入られていたので、深く交わると女は別れたがらないというのを経験から学習していたからです。
 僕は誰とも結婚するつもりがなかったから、傷付けるとわかっていて志保を抱けるはずがなかった。
 |自惚(うぬぼ)れが強いと思われそうだけど、体のテクニック以外をも含めて、セックスで女性を満足させる自信がありました。
 もう一つは、深い関係を持つと僕が自殺した時に途轍もないショックを受けるだろうと思ったからです。

 最後に会った日の僕の判断に後悔があるかと聞かれると、答えはノーです。そりゃあ何度も後悔したよ。時間が巻き戻せるのなら、あの日にかえって求婚したいって。
 でも、今の経験値をもってあの日に帰れるのなら、付き合ってくれ、結婚してくれって言えるけども、あの頃は精神状態が不安定すぎたから、ああする他なかった。僕の二十代は本当にきつかったからね。
 あの苦しみに志保を付き合わさなくて良かったと心の底から思っている。
 そう思っているけども、一人で生きていたからあんなにつらかったのかなと、結婚して感じるのも確かです。
 でも今更そう感じても、当時の僕にそれがわかる訳もないので、やはりあの対応が当時の僕ができうる最善のものだったと思います。
 それに、というより、なによりも、心の中の神話は今も脈々と息づいてるからね。

 いつの日か、志保と再会する事があれば、またメールします。


 〈 了 〉

たまずさ

最後まで読んでくれたあなた、ありがとう。心から感謝です。

たまずさ

自己存在への劣等感を持つ悠次の初恋物語。 出会い、片想い、文通、家出、頭蓋骨骨折、再会、約束、……。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-04-25

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 序章
  2. まえがき
  3. 少年時代
  4. 中学入学
  5. 片想い
  6. 高校入学
  7. 文通
  8. 多情多恨の瀑布
  9. 頭蓋骨骨折
  10. 挫折
  11. 再会
  12. 三年後
  13. あとがき
  14. 小説に入れなかった会話の断片
  15. 終章