Five!

学校誌に投稿。

※史実に基づいたフィクションです。

命がけの渡航

    
穏やかな海が眼前に広がっている。青い空には少しの白い雲があって、カモメが数匹、群れをなして飛んでいた。太陽は真上からやわらかな光を降り注いでいる。そんな大海原の真ん中を、一隻の英国(イギリス)船が風を切って進んでいた。その船首近くに、一人の男が座っていた。ボーっと進む先を眺めている。手にはたわしを持っていた。
「あーもう!いつまでこね―なことすればええんじゃ!」
甲板を掃除していた男がたわしを放り投げてバタンと仰向けになる。船首近くに座っていた男がチラリとその男を見る。そしてまた、進行方向に目を向けた。その男に、甲板に寝転んだ男が怒鳴る。
「聞多(もんた)!お主も掃除せぇ!もとはと言えば聞多のせいなんじゃからなッ!」
「うるせえな!くどいぞ俊輔(しゅんすけ)!何度も謝ったじゃろ?!」
ぎゃいぎゃいと言い争いを始めてしまった。

 この二人、名を伊藤俊輔、井上聞多と言う。後の伊藤博文と井上馨だ。
長州藩(現在の山口県)出身。聞多は上士、俊輔は農民から士分になったばかりという身分差にもかかわらず、自他共に認めるほど仲のよい二人である。彼らは今英国へ行く船で、帆走貨物船ペガサス号にて水夫として航海術を教わっていた。
と、言うよりも下働きとしてこき使われていた。
時は1863年、日本は世に言う幕末の動乱まっただ中で、当然まだ外国へ行くのは厳禁であった。無断での海外渡航がばれれば死罪は免れない。なぜ、彼らはその国禁を犯してまでこの船に乗っているのか、また、なぜこき使われているのか。
少し時をさかのぼってかいつまんでかお話ししよう。

 1862年―井上聞多はくすぶっていた。国元でも他藩でも攘夷、攘夷と叫んでは異人を切ったり館を焼いたりと大騒ぎしているが、本当にそれだけが攘夷なのか。先日12月12日に長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、井上聞多、伊藤博文らほか12名が品川にあったイギリス公使館を焼き討ちした。煌々と燃え上がる炎を見て、聞多はむなしい気持ちになった。その後組は解散して皆京に上った。聞多はそこで、松代藩(現在の長野県)へ佐久間象山を長州へ招くために行った玄瑞から非常に興味深い話を聞く。
「攘夷は不可能、西洋諸国と対等に渡り合うには向こうの技術を学び、まず陸海軍技術を習得させるのが先決だ」
その言葉(の後半)に心動かされた聞多は、藩主に当時国禁であった海外渡航の許しを請う。
  同じころ、海外渡航を夢見たものがほかにも2人いた。同じ長州藩出身の山尾庸三(ようぞう)と野村弥吉(やきち)である。庸三は公使館焼き討ちにも参加しており、弥吉は英学に長けていた。毛利家家臣の周布政之助も異国技術を学ぶのは重要であると感じていたから、藩主を説得し、彼らを「生きたる器械」として送り出すことを決めた。その下知が下ると、聞多は俊輔をさそい、同藩士が遠藤謹助(きんすけ)を推薦した。
  ここに5人の密航留学生が誕生したのである。一人千両もの大金をどうにかこうにか、やっとのことで工面し、1863年5月12日、侍をすて、命をかけて横浜の港を密かに出発した。目指すは英国である。横浜を出て、大嵐に遭いながらも上海に到着。そこは中国であるにもかかわらず、白人が往来を我が物顔で行き来し、港には各国の船が出入りしていた。横浜を出るまでは「攘夷」しか考えていなかった聞多はその様子を目の当たりにして考えを改めた。「攘夷は不可能」。まさに佐久間が言っていた通りであった。
  上海で5人は2隻の船に分乗し、それぞれ英国へ向かった。聞多と俊介は右記のとおり。庸三、弥吉、謹助は二人の十日後に出発する船に乗り込んだ。聞多と俊輔はペガサス号の船長に、我が国に何を学びに行くのか、と尋ねられた。まだまだ英語が達者でなかった二人は頭を絞って、とりあえず海軍という言葉をひねり出した。それを英訳したのは聞多である。
「『ねびげーしょん』じゃ!わしらは『海軍』を学びに行くんじゃ!」
――これがいけなかった。
英語が得意な方はお気づきであろう。『ネビゲーション』とは航海術のことである。すなわち、彼らは『海軍』を学びに行くのではなく『航海術』を学びに行くと言ってしまったのだ。そこから彼らの地獄のような4ヶ月間を過ごすことになる。

 さて、ここまで話してもまだ言いあいをしている二人。そんなところへ英国人水夫がやってきて、怒鳴りかける。
『Hey ジャーニー!ちゃんと仕事しやがれ!』
「わかっちょるわ!」
聞多も負けじと怒鳴り返した。ただし日本語で。
「今の英語分かったんか?」
俊輔が聞く。聞多はフンっと鼻息ふいて、わからんと言った。俊輔があきれる。
「じゃが、なんとなく言ってることはわかった」
「そんなんじゃからこき使われるんじゃ」
「まだ言うか!」
こいつ、と言って聞多が俊輔の首に腕を巻きつけて絞める。俊輔がその腕を叩いて、
「うげっ!すんませんすんませんもう言わんから離して!」
「分かればよろしい」
そう言って再び甲板掃除に戻った。俊輔がケホケホしながら空を見上げる。そして、はあ、と大きなため息をついた。
 長い航海なので割愛するが、本当に大変な航海だったようだ。言葉は分からない、待遇はすこぶる悪い。さらに悪天候で船が揺れる揺れる。俊輔は慣れぬ航海で腹を下したが、便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、聞多が縄で俊輔を縛り、海に落ちないようにしてやった、というほほえましい(?)エピソードが残っている。
 なんとかロンドンにたどり着いた時、聞多たちよりも後に出発した庸三らのほうが先に到着していた。
合流した5人はイギリスという国を見てただただ驚くばかりであった。
建物は石でできており、大きな鉄の塊が大勢の人を乗せて30年も前から英国を縦断している。工場の煙突からは黙々と煙が立ち上り、市街には高層の住居が立ち並ぶ。着飾った人々は往来を華やかに歩いていた。
「これが、エゲレス……か」
「すげぇのぉ……!」
「これがトレイン!」
「ちょっとほこりっぽいな」
「全部石でできちょるなんて……」
思い思いの感想を述べる日本人を、マセソン商会の支配人、ヒュー・マセソンは微笑んで見ていた。一旦彼の家に行き、そこで散髪をさせ、新しい洋服を与えた。5人はとにかく日常的なことを、例えば「洗濯はどうするのか」「靴はどこで買うのか」など質問攻めにした。
『では、皆さん。貴方がたはこれからウィリアムソン博士夫妻のお宅に世話になります。彼は化学教授で、ロンドン大学教鞭をとっています。そこでたくさん学んでください』
マセソンはそう言った。聞多ら5人は正座してマセソンを見た。そして聞多が代表して
「さ、サンキュー、ベリー、マッチ、フォー、エブリシング!」
お礼の言葉を述べ、深々と頭を下げた。マセソンはちょっと驚いたようだったが、やわらかな笑みを浮かべて両手を広げた。
『歓迎するよ。ようこそ我がイギリスへ!』
彼らは後に、英国で『長州五傑(Chosyu-Five)』と呼ばれるようになる――。

ウィリアムソン博士夫妻の家に着いた聞多らは、英語を勉強することから始めた。
博士の家は5人が一気にすむには手狭だったため、聞多と庸三はロンドン大学前のクーパー家に下宿し、俊輔、弥吉、謹助の三人が博士の家に残った。勉強するときは5人が集まり、日本から持ってきた英和辞典を頼りに英語習得に励んだ。
 英字新聞が読めるようになった頃、ようやく大学で学問を習い始めた。皆思い思いの学科を取り始める。学問だけでなく、上流階級の行儀作法も学んだ。さらには授業の合間を利用して、造船所、工場、造幣局、博物館などへ通い、彼らは「生きたる器械」になっていくのだった。ちなみに、ロンドンの造幣局には彼ら五人の名前が入った千ポンド札があるらしいが、著者は見に行ったことがない。是非とも見てみたいものだが見れるのだろうか……?
 英国に着て半年。ようやく慣れてきたころである。毎朝5人はそろって朝食を食べていた。今日も俊輔ら博士家組と、聞多らクーパー家組は大学の食堂で合流。朝食のスコーンをほおばりながら今日の予定を確認していた。弥吉はさっき買ってきた新聞を読んでいる。
「今日は授業が昼までじゃけぇ、俺はもう一度造船所に行ってくる」
庸三が今からうきうきした様子で言った。聞多がわしはーと言いかけた時、弥吉が青い顔をしてがたっと席を立った。新聞を持った手が震えている。4人は怪訝な顔をした。
「どねぇしたんじゃ、弥吉」
謹助が訊ねる。泣きそうな顔になりながら、弥吉は震える声で言った。
「長州が…わしらの故郷がのうなってしまう!」
 弥吉の見ていた新聞には、薩英戦争のことや、長州藩が下関で異国船を砲撃したことが書かれていた。近々長州に報復するということも書かれている。5人は呆然と新聞を見た。謹助がよろける。それを聞多が支えた。山尾が新聞に目線を落としたまま、
「俺らはどねぇすべきなんじゃろうか……」
愕然とつぶやいた。
皆が何も言えないでいると、一人冷静に考え込んでいた俊輔がこう言った。
「皆、僕は帰国しようと思う」
4人の視線が俊輔に集中した。俊輔は顎に手を当てて、新聞に載っているスケッチを見ている。弥吉が俊輔の胸倉をつかむ。
「なしてじゃ!わしらはっ!生きたる器械になって帰るんじゃろ!?それを……っ!」
「へーじゃが弥吉、考えてもみぃ!もし皆が技術を得て帰ってきたとしても、それを生かす国がなかったら意味ないじゃろ!わしは藩論を攘夷から開国に変える。そして、日本を大幅に変えちゃるんじゃ」
俊輔のまっすぐな瞳に、弥吉は何も言えなくなった。胸倉を掴んだ手が所在無さ気に離される。涙をこらえるかのように、肩を震わせた。
「俊輔、わしも帰るぞ。藩論転換ならわしに任せぇ!」
聞多、と俊輔が嬉しそうに言う。庸三、謹助、弥吉は黙ったままだ。俊輔たちは3人がどうこたえるのかを待っていた。口火を切ったのは弥吉だった。涙声になりながら、しっかりと帰国を決意した二人を見て言う。
「わしは、残るぞ……日本にトレインを走らせるんじゃ……っ」
謹助も
「俺も残る。まだまだやり残したことがあるし、何よりも技術者として日本に帰りてぇ」
そうか、と聞多が言う。山尾が二人に向かって言った。
「聞多、俊輔。お前らは帰って国を守ってくれ。俺らは初志貫徹するためにここに残る。 5人で帰れんのは残念じゃが……ここまで共に来れたことを誇りに思う」
5人は分かれる決意を固めた。聞多と俊輔はあわただしく帰国の用意をする。船を手配しウィリアムソン夫妻に深く礼を言った。 
 港に見送りに来た3人に、しっかりやれよ、と言葉をかけると、そろって親指を立てた。英国に来て半年。短いようで長く充実した半年だった。この後聞多と俊輔は日本の動乱に終止符を打つべく奔走するのである。

残った庸三たちは、聞多と俊輔の分まで必死に勉強した。しかし、
「……?!ごほっごぼっっがっ……!」
「謹助っ!」
謹助が体調を崩してしまったのだ。産業革命後の英国は工場からの煙でいつも灰がかっている。もともと体が弱かった謹助には空気が悪すぎたのかもしれない。世話人のマセソンに帰国した方がいいと勧められ、2年5カ月で無念の帰国となった。
残ったのは庸三と弥吉だけである。
「淋しゅうなったのう……」
「ああ、へーじゃが、3人の分まで俺らは残らにゃならん」
船が去った海を数秒見つめたあと、踵を返し、二人はまっすぐ前を見つめて歩き出した。
「生きたる器械」となって日本へ帰り、よりよい日本を自らの手で創っていくために――。

Five!

いかがでしたでしょうか…。
感想等お待ちしております。

Five!

無断で海外渡航をすることは、幕末当時、バレたら死罪でした。 そんな危険を知りながらなおも海外へ、「生きたる器械」として渡航した、 5人の志士の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-25

Copyrighted
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