1月13日

※この作品はフィクションです。創作です。作者の想像です。
 苦情は受け付けません。

私は行くが、君が待っていてくれるなら――……

それは寒い朝だった。

江藤新平は東の空が白み始めたころ、すっと目を覚ました。
今までにないすっきりとした目覚めであった。
むくりと布団から起き上がると、隣で寝ていた千代子が目を覚ました。
「起こしてしまったか」
「……お早うございます」
千代子は少し眠そうに言うと、物憂げに支度を始めた。江藤も顔を洗い服を着替える。
着付けは千代子がした。別に着れないわけではないのだが、千代子がやると言ったのでやらせた。
その間、二人は終始無言でただ黙々と準備をしていた。千代子が必要な荷物をまとめながら、
ぽつりと言った。
「本当に、行ってしまわれるの?」
江藤は荷支度をしている千代子を見た。小さな背中はより一層小さく見えた。
「私が行くしかないのだ」
そして小さく、しかしきっぱりと言った。迷いのない言葉だ。
「……そう、ですか」
千代子は荷物を丁寧にまとめる。江藤は目をつむって瞑想しているようだった。
「……なぜ」
千代子の荷物をまとめた手が微かに震える。
声にただならぬ様子を感じた江藤は目を開き、千代子を見た。
妻の小さな背中が微かに震えていた。外は少しずつ白さを増している。江藤は黙っていた。
「なぜ、貴方が行かなければならないのです」
千代子は声を振り絞って言った。江藤は解せぬ体である。千代子が続けた。
「佐賀は、肥前は、今はとても危険だというではありませんか」
「そうだ。だから私が抑えに行くのだ」
ようやく江藤が口を開いた。淡々とした口調だった。
千代子は震えてうまく回らない口で言う。
「皆様もお止めになられたのでしょう」
千代子の言うように、江藤は板垣退助や大隈重信、大木喬任らに再三止められた。
今江藤のような政界にいた人物が佐賀に戻れば、火に油を注ぐようなものだ、
ミイラ取りがミイラになる、と。ましてや江藤は政変で政界を追われた身。
大将に担ぎあげられるのは目に見えていた。
それに加えて、大久保利通と敵対していたことも、江藤を東京にとどめる要因だった。
佐賀での反乱は不満を持つ士族達への脅しになる。そして江藤が首謀者に担ぎあげられれば、
大久保にとって邪魔な存在である彼も排除できると考えていた。
そんなことにはさせたくないと皆が必死になって止めたのだった。
しかし江藤は断固として意見を変えなかった。
「しょうがないのだ。私が抑えに行かなければ彼らは暴発する。そこには私の教え子もいる。仲間もいる。見捨てるわけにはいかないのだ!」
江藤が千代子にかぶせるように言う。少々声を荒げた。千代子はなおも食い下がる。
「だからとて、貴方が行く道理などないでしょう?!」
「私が行かずしてだれが行く?!私しかいないのだ、彼らを食い止めるには私の力が必要だ。
 君なら分かってると思っていたが」
「でもっ……」
ばっと千代子が振り向いて言いかけたことをやめた。江藤の顔が怒っているように見えた。
彼女はうつむいた。江藤はそれを不審におもった。そして一寸考えた後、
「千代子、おいで」
と妻を呼んだ。夫の聞きなれぬ言葉に彼女は戸惑ったが、大人しくそばに寄った。
前に座ると、急に抱きしめられた。江藤は慣れぬ手つきで千代子を抱きしめる。
そして努めて優しく言う。
「言いたいことがあったら、言いなさい」
千代子の目から、耐えきれなくなった涙が頬を伝い始めた。
江藤は優しく頭をなでる。ゆっくり、ゆっくりなでた。妻はぽつり、ぽつりと話し始めた。
「私、怖いの。貴方が向こうで巻き込まれて、帰ってこなくなるんじゃないかって」
本当に、怖いの。そこまで言って、泣きだした。江藤は黙っていた。
赤子をあやすように手だけは動かしていた。

しばらくして、千代子が泣きやんだころ合いに、江藤は妻を抱きしめながら言った。
「大丈夫だ。私は帰ってくる」
「……ホントに?」
千代子は江藤の胸に体を預けたまま、甘えるような声で言った。江藤は頷く。
「本当だ。君がここで待っていてくれるなら、私は必ずここへ帰ってこよう」
力強く言った。千代子を抱きしめる力も少し強めた。千代子も江藤の背中に手を回し、
ぎゅっと強く抱きしめる。
「帰ってくる、必ず」
遠くを見据え、江藤は妻に、そして自分自身に言い聞かせるようにもう一度言った。
外はもう白く染まっていた。

出立の時刻。玄関で靴を履く。履きながら江藤は思いついたように言った。
「君に、私の知ってる和歌(うた)を贈ろう」
そう言って、照れくさそうに小さく、朗々とした声で詠いはじめた。

立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる
 まつとし聞かば 今帰り来む

「まあ、私が行くのは因幡ではないがな」
江藤が苦笑しながら見ると、千代子はきょとんとしていた。なんだ、知らんのか
と江藤が問うと、千代子はゆるゆると首を振って、くすくす笑い出してしまった。
「な、なぜ笑う?!」
江藤は顔を真っ赤にして言った。千代子はもう笑いが止まらなくなってしまった。
朝が早いのでそこまで大きな声ではないが、楽しそうに笑っている妻を見て、江藤は少しほっとした。
「あまりにも似合わないので……っふふふ」
「ひ、否定はせんがなっ!」
「ありがとうございます」
千代子は三つ指をついてお礼をした。江藤はうむ、と言ってさっと立ちあがった。
千代子が顔を上げる。
江藤はちょっとためらった後、千代子に顔を近づけた。
そのまま唇を重ね合わせ、やがてゆっくりと離した。
くるりと背を向けると、江藤は言った。
「行ってくる」
決して高くはない夫だが、その背中が大きく、たくましく見えた。千代子は涙をこらえ
「行ってらっしゃいませ」
深々と頭を下げた。足音が遠ざかっていく。
その音が聞こえなくなるまで千代子は頭を下げ続けた。
一粒のしずくが、静寂とともに地面に落ちた。


1874年、明治7年1月13日の早朝だった。

1月13日

いかがでしたでしょうか…。
感想等お待ちしております。

1月13日

明治時代に活躍した司法卿:江藤新平 彼とその妻のある朝の話。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-24

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted