夏の終わりの静かな風 3
そして会話がひと段落すると、僕たちはもう一度飲み物を汲むために席を立った。
僕はコカコラーで、狭山さんはメロンソーダだった。あまり身体には良くなさそうだけれど、グラスのなかに入った彼女のメロンソーダは透き通ったきれいなエメラルドグリーンをしていた。それは僕に夏の思い出のようなものを連想させた。
「だけど、吉田くんっていつぐらいから小説を書き始めたの?高校のときって確か書いてなかったよね?」
と、狭山さんは汲んで来たばかりのメロンソーダを一口ストローで啜ってから不思議そうに言った。
「いや、実はもう高校の頃から書いてたよ。」
と、僕は微笑して答えた。
「ただ恥ずかしいものだから誰にも見せてなかったけど。」
「そっか。」
と、狭山さんは頷いてまたメロンソーダを少し飲むと、
「何が切っ掛けとかあったの?小説を書いてみようかなって。」
と、僕の顔を見て興味深そうに尋ねてきた。
「いや、なんとなくだよ。」
と、僕はいいわけするように微笑して答えた。
「高校生くらいのときって、ついつい色んなことを深刻に考えすぎちゃったりするでしょ。生きる意味とか、そういうの。それでそのとき自分が考えたことや思ったことを何かの形に纏めてみたいなぁって思ったんだよ。それが切っ掛けといえば切っ掛けかな。それに、高校のとき、従姉妹のお姉ちゃんがちょっと重い病気にかかってたりして・・だから、余計そういうことを考える機会が多かったっていうのもあるんだけど。」
「そっか。」
と、狭山さんは僕の言葉に頷くと、目線を落として少しの間何かを考えるように黙っていた。そしてしばらくしてから顔をあげると、
「その従姉妹のお姉ちゃんって何の病気だったの?」
と、遠慮がちに尋ねてきた。
「ちょっと重い肝臓の病気。」
と、僕は答えた。
「でも、なんとか無事回復して、今は福岡の方でピアノの先生してる。一時期、ほんとにちょっと危ない時期もあったから、何事もなくてほんとに良かったんだけど。」
「そっか。」
と、狭山さんは頷くと、また目線を落として何秒間の間黙っていた。眼差しを伏せた彼女の顔は少し哀しそうにも映った。
「実はね。」
と、少し経ってから彼女は再び顔を上げると、いくらか言いづらそうに口を開いた。
「わたしのお姉ちゃんも今ちょっと重い病気で入院してるの。」
と、狭山さんは唐突に言った。
僕は彼女の突然の言葉にどう答えたらいいのかわからなかった。それで黙っていた。狭山さんはまたメロンソーダを一口口に含むと、
「・・お姉ちゃん癌なの。」
と、狭山さんはテーブルの上辺りに視線を落として少し小さな声で言った。
僕は驚いて彼女の顔を見つめた。
「会社の健康診断ときに見つかって。でも、まだ早い段階で見つかったからたぶん大丈夫だと思うんだけどね・・。」
と、狭山さんは半ば自分に言い聞かせるように言った。
「半年くらい前かな、癌の摘出手術をして。今は抗がん剤の治療で癌が再発しないようにしてるところなんだけど・・。」
僕は彼女が口にしたあまりにも重い事実にしばらくの間適切な言葉を見つけることができなかった。そしてだいぶ経ってから、
「大変なんだね。」
と、何の慰めにも、励ましにもならない言葉を言った。
「・・・だけど、さっき吉田くんのお姉さんが奇跡的に回復したっていう話を聞いてちょっと勇気づけられたかな。」
と、狭山さんは顔を上げて僕の顔を見ると、口元でいくらか無理に微笑んで言った。
「狭山さんのお姉さんも無事回復するといいね。」
と、僕は言った。
狭山さんは黙って頷いた。
それから狭山さんはメロンソーダをストローで少し飲んだ。僕もコカコーラを少し飲んだ。
僅かな沈黙があった。
「だけど、わたしもお姉ちゃんが病気になる一年前くらい前までは東京に住んでたんだよ。」
と、しばらくしてから狭山さんは深刻になってしまった雰囲気を変えようとするように明るい口調を装って言った。
「わたしも吉田くんと同じで大学で東京にいったの。そのあと就職してそのまま東京にいたんだけど・・だから、そのせいかな、東京にずっといたせいで宮崎弁ほとんど忘れちゃったの。」
狭山さんは微笑して言った。
「そうだよね。さっきから狭山さんってずっと標準語ぽい喋り方だなって思ってたけど。」
「無理に話そうと思えば話せなくもないんだけどね。」
と、狭山さんは微笑していいわけするように言った。「でも、そうすると、すごく変な感じになっちゃうの。宮崎弁と標準語がごちゃ混ぜになっちゃって。だから、最近はずっと標準語で通してるの。」
「べつに東京帰りを気取ってるとかそういうんじゃないんだよ。」
と、彼女は小さく笑って言った。
僕はわかっているというように微笑んだ。
「だけど、吉田くんも喋り方、なんか標準語ぽいよね?やっぱりわたしと同じで長く東京にいたせいで宮崎弁忘れちゃとか、そんな感じ?」
僕は彼女の言葉に苦笑して首を振った。
「いや、僕の場合は喋るひとに影響されちゃうだけだよ。」
と、僕は微笑しながら答えた。「狭山さんが標準語で喋ってるからついついつられて標準語ぽい喋り方になっちゃってるけど、家では普通に宮崎弁で話してるよ。」
「なるほど。」
と、狭山さんは小さく微笑して頷くと、もう残り少なくなったメロンソーダを飲み干した。
ウェイトレスがやってきて僕たちの食器を片付けていった。
狭山さんはウェイトレスの女の子が厨房に戻って行ってしまうと、
「そういえば気になってたんだけど、吉田くんっていま東京のどのへんに住んでるの?」
と、尋ねてきた。
「吉祥寺からちょっと離れたところかな。」
と、僕は答えた。
すると、彼女の表情に笑顔が広がった。
「わたしも吉祥寺の近くに住んでたんだよ。」
と、狭山さんはいくらか声を弾ませて言った。
「そうなんだ。」
と、僕も声を弾ませて言った。狭山さんが吉祥寺に住んでいたということを知って、急に親近感を覚えて嬉しくなった。
それから僕たちはひとりしき吉祥寺についての話題で盛り上がった。吉祥寺という町が適度に開けていながらそれでいて緑豊かな場所であること。交通の便が良いこと。お互いが知っているカフェや雑貨やさん等のことについて。
「・・狭山さんが宮崎に戻ってきたのは、やっぱりお姉さんの病気が関係してるの?」
と、僕はひとしきり吉祥寺という町について狭山さんと語りあったあとで、ちょっと躊躇ってから尋ねてみた。そして訊いてしまってから、やっぱりこういう質問はやめておくべきだったかな、と、僕は後悔した。というのは、僕がその質問をしたことで、狭山さんの顔からみるみる笑顔が失われていくのがわかったからだ。
「うん。だいたいそんなころかな。」
と、狭山さんは少しぎこちなく口元で微笑んで答えた。
「わたしの家って、お母さんが早くに病気で死んじゃってて、お父さんとお姉ちゃんとわたしの三人家族なの。」
と、狭山さんは軽く眼差しを伏せるようにして続けた。
「それで、お母さんが亡くなってからはお姉ちゃんがだいたい家のこととか面倒見てくれてたの。わたしとお姉ちゃんって七つも歳が離れてて、わたしにとってお姉ちゃんはお姉ちゃんっていうよりもお母さんみたいな存在だったんだけど・・。」
僕は答えようがなかったので、たた黙って狭山さんの話に耳を傾けていた。
「お姉ちゃんは宮崎の短大を卒業したあと、こっちで地元のスーパーに就職したの。わたしは大学で東京に行ったから、たまにしかこっちには戻ってこなくて・・だから家のことはお姉ちゃんに任せっきりだったの・・家のこととかお父さんのこととか。でも、さっきも話したけど、お姉ちゃん病気になっちゃったでしょ?だから、わたしが今度は宮崎に戻ってくることにしたの。家のこともあるけど、お姉ちゃんの看病とかもお父さんひとりじゃ大変だし。」
「・・・そっか。」
と、僕は頷いた。そしてそれから、
「何か余計なこと訊いちゃったみたいでごめん。」
と、僕は謝った。
「ううん。」
と、狭山さんは僕の言葉に口元で弱く微笑むと軽く首を振った。
しばらくの沈黙があった。
僕は何か話さなくちゃと思ったけれど、こんなとき何をどう言ったらいいのかわからなかった。沈黙のなかには店内に流れているBGMと食器の触れ合うと音と他のお客さんの話声が聞こえた。
いつの間にか蝉の鳴き声は聞こえなくなってしまっていた。
「・・・だけど、最近はこっちに戻ってきて良かったなぁって思うこともあるかな。」
いくらか長い沈黙のあとで、狭山さんは口を開くとそう静かな口調で言った。
「こっちは東京と違って食べ物美味しいし、自然はたくさんあるし。それに、こっちに戻ってきたことで、家族と一緒に過ごす時間も増えたしね。・・正直東京で会社勤めしてた頃は毎日毎日サービス残業の連続で疲れちゃってたし・・だから、かえって良かったのかなぁって最近は思う。」
「今はバイトだから比較的時間もたくさんあるしね。こうやって吉田くんとファミレスでゆっくり話す時間もあるし。」
狭山さんはそう冗談めかして言うと軽く笑った。
それにつられるようにして僕も少し笑った。そしてそれから、
「東京では何の仕事してたの?」
と、気になったので尋ねてみた。すると、狭山さんは、
「服飾関係の仕事。」
と、答えた。
「わたし、服のバイヤーの仕事がしたかったの。海外とかに行って売れそうな服を見つけてくるとかそういうの。」
「そっか。ずこいね。」
と、僕は感心して狭山さんの顔を見つめた。
すると、狭山さんは苦笑して首を振った。
「べつに全然すごくなんてないよ。」
と、狭山さんは笑って言った。
「そういうバイヤーになるためには最低でも二、三年は売り場に立って経験を積まないと駄目なの。でも、わたしの場合はすぐに会社辞めちゃったから、全然バイヤーとかの仕事はやれなかったの。」
「・・・でも、お姉ちゃんの病気が治ったら、これからまたいちからはじめてもいいんじゃない?」
と、僕は少し考えてから言った。
「そうだね。」
と、狭山さんは僕の科白に少し寂しそうに微笑んで頷いた。
「吉田くんは頑張って有名な小説家になってね。」
と、狭山さんは冗談めかして言った。
僕は曖昧に微笑して頷いた。
大きな雲が太陽を遮って、店のなかが暗く翳った。そして少し経ってからそれはまたもとに戻った。ふと窓の外の空に視線を向けてみると、ずっと遠くの空の高い場所に飛行機雲が細くたなびいているのが見えた。
夏の終わりの静かな風 3