詩篇 3 断続、どどどど、どん
わたしが住むアパートの二階に住人がやってきた。確か今から一年ほど前。それまでは、わたしの上空には誰も足を踏み入れず、誰も存在しなかった。
だから、木造アパートのこの音の響きを、まったくもって舐めていたのです。もう本当に、ヨーロッパ直輸入のアイスクリームを舐めるくらい、激甘に、舐め舐め。
足音が。どどどどどん。ねぇあなたの足はそんなに巨大で質量があるのですかと問い詰めたくなるほどの、音量。そして天井が、揺らぐ。目で見て揺らいでるわけではなく、木がね、空気がね、揺れているのよ、でなければ蛍光灯から垂らされた堕落のようなあの白い紐がひとりでに揺れるはずがないでしょう。
音の塊は断続的に衝撃を与え、なんといいますか、わたしの頭がダンボールに詰め込まれ、四方から蹴られているようで。不快。
掃除機や洗濯機の音などは、それはそれは鮮明に聞こえ、お風呂やトイレの水の音までもが、テレビも何も付けていない状態だとはっきりと耳に入ってくるわけで。そんなに私生活を披露してしまっていいのですか。
まるで張り込みの警官にでもなったかのように、知らない人の生活が勝手に繰り広げられてゆくのです。
極めつけは携帯電話。バイブレーターが、ブーブーって。床がブーブーってすれば、必然的にわたしの部屋の天井までがブーブーって。あの、わたくし、そこまで知る必要はどこにもないのですが。
だけど音って暴力的であり、支配的であり、きっちりとこの空間を力で持って制圧。
故にわたしは今制圧された空間に身を置いているのです。しかしその制圧に悪意は無く、ただの偶然の産物であり、生活の結果であり。
善意ではないにしろ、その悪意の無い行為に立ち向かう勇気はわたしには無く。そして何よりも、被害者でいることの楽ちんさ。
嘆いていればいいのですから、うるさいと思っていればいいのですから、誰か助けて下さいと懇願すればいいのですから、泣いてしまえばいいのですから。
加害者になることのそれはわたしには想像もできないほどの苦であり、ただただ謝罪あるのみで、助けを求めることは許されず、泣けば非難、非難。
非難されるくらいなら、同情を。この逃げ腰。この安易。この消極。
でも、どうしてもどうしても加害者になるのは嫌で、だからわたしは一階に住んでいて本当に助かったと思うわけで。もしも誰かがわたしの生活のせいで迷惑を被ったならと考えると、それはもう目眩必死。
誰にも迷惑をかけずに生きてゆくことは不可能でも、でもなるべくならその迷惑を最小限に留めたく、だけどそれって一体どうなの、それって損ではないの、でも加害して罪の意識に苛まれてしまうくらいなら損でも安泰な道を選びたいけど、でもやっぱりそれってどうなのかしら。といつまでも終わらない輪の思考。
二階の住人もきっと誰にも迷惑なんてかけたくないはずなのに、ただ木造だったというだけで、わたしに罪人呼ばわりされる筋合いも無いわけで。
そう考えると、この騒音を迷惑だと思ってしまっているわたしの嫌らしい感情が憎い。わたしが迷惑だなんて思わなければ、誰も加害も被害もせず、安息の日々があり。
だけどやっぱりそれってどうなの。
どんなに思ってもやっぱり絶対に口には出せず行動にも表せず、ああやっぱり被害者でいるのは楽ちんで、だけど被害者でいること自体、加害者にとっての最大の加害であり、わたしは被害者を装っている加害者になるわけで。そんな追いかけっこをしていると生きていることがもうすでに害なのではないかと思えてくるこの不始末。
人という字は支えあいで出来ている、と金八先生は素晴らしい言葉を言い放ったけれど、だけど支えあいって何。迷惑をかけたりかけられたりして、時にはそれを許して、時にはそれを諭して、そういうの、そういうのってどうやったら出来るの。
そんなことを考える今日もわたしは誰かの迷惑になっているに違いなく、そしてその逆も然りで、天井はやっぱり揺れて、白い紐は小刻みに振るえ、どうにかして被害者の位置を固守しようと、しかしそれが最も卑しく、結局わたしは卑しく、足音が頭に響き、うるさいなと呟き、そんな自分が嫌らしく、嘆くことも憎らしく、携帯のバイブが鳴り、音の塊は断続的に、どどどどどどどん。
詩篇 3 断続、どどどど、どん