静かなエゴ
この胸を焦がすものが、愛だったら良いのに。
胎動
母が妊娠した。
その字面だけみれば、一見普通の出来事のように見える。けれど今回は違う。わたしは17歳。高校3年生になろうとしている。
思い返せば、幾度か気付く節はあった。毎晩飲んでいた缶ビールを飲まなくなったこと。具合が悪い、と毎晩トイレに行っていたこと。父が普段使いもしないようなリュックを買ったこと。
確信に変わったのは、父が放った一言である。
「いい加減にしろよ!妊娠しているんだろう」
その時わたしは三十九度六分の熱があり、ベッドで横になっていた。曖昧な意識の中でもはっきりと聞こえた怒声。一瞬、白昼夢でも見ているかと思ったが、この高熱による倦怠感と身体の痛みがそれを現実だと示した。目尻が熱くなる。高熱の所為で流れる涙だったのか。その事実に驚いたからなのか。何れにせよ、わたしの涙は重力に負けた。ああ、どうして。こうもわたしを苦しめたいのだろうか。窓から飛び降りてしまえばどんなに楽になれるだろうか。風邪を引き鈍った脳味噌が必死に動いた。とにかく寝てしまおう。そうして眠りについた。
翌日、その日は一年の最後の登校日、終業式の日だった。
案の定熱が引かなかったわたしは、欠席した。本当は行きたかった。こんな家にいるくらいならこの熱さえも我慢できる気がした。実際は立つことも侭ならなかったが、不思議と気持ちばかりが家から離れてゆく。
父がわたしを病院に連れて行く、と昼過ぎに妹を連れて帰って来た。父の顔や声がひどく醜いものに感じられた。汚らわしい。自分を生み出した親であるが、一人の男として激しい嫌悪を抱いた。気持ち悪い。雄の感じがする。一昨日までは尊敬できていたのに、今は一線を引いてしまった。
「どうする。病院にいくか」
私のおでこにおかれた手が生温かく、不快だった。
「嫌だ。行きたくない」
別に父と一緒だからなわけではない。数日後に友人との約束を控えている私にとって、インフルエンザの診断を受けることは許されないことだった。出席停止になり、週明けに控えている模試を受けなければ、再受験が待っている。それだけは避けなければならない。
「病院にいかないと。誰かに移したら大変だろう」
ああ。この人は母を心配しているんだ。あんなに嫌いだと私の前でだけ言っていたくせに、立派な夫の顔をしている。虫唾が走る。
「でも」
「今日はかかりつけ病院は院長先生じゃないってよ、明日にすれば」
最後まで言い終わる前に母が口を挟む。
「なら明日でいいか。あったかくして寝てなさい」
そう告げ、父は母の肩を抱いて私の部屋をあとにした。
誰もいない部屋。天井は白く、動かない。わたしが何をしたのだろう。なぜこんな仕打ちを受けなければならないのだろう。
尊い命。わたしもかつては母に孕まれ、そしてこの世に生まれてきた。わたしがこの小さな生命を否定する権利なんて与えられていない。夫婦の営みだもの。そう思っていたら無意識に涙が溢れてくる。もうわたしなど彼等には見えていないのだ。
わたしは透明人間なのだ。
拍動
「ねえ、みてみて。今時の産婦人科はすごいね。DVDまで貰っちゃった」
母が子供のように見せびらかしてきたもの、子供のエコー写真の入ったディスク。それを翻すと父の書斎においた。毎日記している日記の上に。これなら父もすぐにこの存在に気づくだろう。
こんなもの、わざわざ見せつけてくるあの女は心底鈍感だ。わたしが無反応だとわかるとつまらなそうに母子手帳を眺めはじめた。それが存在する限り子供の拍動がわたしを耳鳴りのように襲う。流産すればいいのに。そんな考えはふつふつと沸き起こる。わたしが母のお腹を殴れば、死ぬのだろうか。わたしが母が階段を降りている時に、背中を押しさえすれば、あの生物は死ぬのだろうか。いずれにせよ、わたしのこの手を使えばすぐに殺せるのだ。わたしの良心さえ飛べばわたしは殺人者になれるのだろうか。
父の車の音がする。犬が吠える。ああ、「いい夫」が帰ってきた。わたしがリビングで過ごす時間はお終い。これからは夫婦の憩いの場。テレビの電源を切って二階へ登る。玄関を見やると、父がグレープフルーツをたくさん抱えて入ってくるのが見える。なんとベタな。一瞥して足早に自室へ向かった。
静かなエゴ