黒潮の街

人名ほかすべての設定は実在のものと関係がありません。性的表現にご注意ください。

プロローグ

 窓のないホテルに朝がきて、女を起こした。
「おはよう」と、野良猫のような女の耳元で告げた。「約束通り連れてってやる」
 女は目を開き、たいそうな勢いでしがみついてきた。「でもクラゲがいるよ」とすねるように言った。
「刺されても」と俺は笑ってこたえた。「ションベンかけたら、それでオッケーだからよ」
 あの街に帰ったら探してみよう、と思った。こいつのためにいつかのあのプラスチックの指輪を。


『黒潮の街』


 黒潮の街で生まれた。十八の春までそこで過ごして、それから街を出た。以来訪れていない。
 これは黒潮の街の物語である。十四歳の夏の物語である。
 街の空は広かった。ときに青く、ときに白かった。でもいつも変わらず広かった。街並みは低かった。ビルらしいビルはなかった。せいぜい四階建てまでだった。学校の校舎がそれだった。
 中学二年生だった。学校までは八キロの道のりだった。通学は自転車だった。学校向かいの『潮里中高前』というバス停に、青い自転車を毎朝くくりつけていた。都会ではドロップハンドルが流行っていて、コマーシャルなどでそれを目にしたが、田舎にはなかった。電車に乗って県庁の町まで行けばあるのかもしれなかったが、切符を買う金もなく、俺のハンドルはまっすぐだった。
 よく喧嘩をした。体のどこかしらをいつも擦りむいていた。勉強はできず毎週竹刀で叩かれていた。夏の浜で一度アカエイに刺された。高熱を出して死にかけた。足がパンパンに腫れて、その夏はパンツを履くのもつらかった。
 とうちゃんは暗いうちから船に乗り、明るいうちには帰宅して、毎日酒を呑んでいた。赤銅色の首をいつも後ろから見ていた。口うるさいことは言われなかったが、ときどき殴られた。分厚い手のひらは砂袋みたいに重かった。
 そんな夏、あいつがやってきた。転校生だった。白い開襟シャツを着て、教壇で名を礼子と名乗った。三年生の教室だった。俺は廊下からそれを見ていた。あまりの暑さに、こっそりと、いや半ば堂々と教室を抜け出し近所のカマジーにアイスを買いに出た帰りだった。カマジーは左親指のないおっさんのやってる店だった。指はどうしたのだと尋ねると、カマで落としちまったと答えた。だからカマジーと呼んでいた。あのときアイスを買う金はどうしたのだろう。貝を売った金でもポケットに入っていたのだろうか。腹が減るとよく潜った。漁協にバレたところで殴られて終わりなもんだから、岩根にたむろするサザエやトコブシを盗っては、タニシみたいな目をしたオヤジに売りつけ小遣いを稼いでいた。
 三年生の教室の廊下側の窓は半ばあいていて、俺はそこから礼子を見ていた。礼子は俺に気がついて、少しだけ目を丸くした。教師は、気がついたくせに俺を無視した。礼子が笑った。俺を見て笑いやがった。イワシみたいだと思った。海中のイワシは、キランとナイフみたいに光るのだった。アイスをくわえたまま俺は礼子を睨んだ。礼子は腰に手をあて、首をかしげて俺を見た。教師のことは無視して見た。堂々と、左右の足に均等に体重を振り分け立っていた。開いた窓から吹き込む風が髪を揺らしていた。風に乗って礼子の匂いが届くような錯覚を覚えた。校庭の土の香に混じってそれは青葉みたいな匂いに思えた。見ると、礼子の口は三日月みたいなかたちをしていた。面白くて仕方ない、という顔で笑っているのだった。なんて女だ、と俺は思った。
 夜、白い開襟シャツのことを思い出した。寝床の中で暗い天井を睨んだ。苛立ちを覚えた。はじめて感じる苛立ちだった。いや、苛立ちだと思っていたが違う。あれは衝動だ。衝動が八割、感情が二割。ガキの気持ちなんてそんなものだ。動物と変わらない。欲望、には達していなかったように思う。俺は恐れていた。見知らぬ対象に怯え、同時に強烈に惹かれていた。憧れ。そうだ。俺は憧れていたのだ。礼子がまとっていた風に。俺の知らない世界に。憧れて、同時に苛立った。腹が重苦しかった。熱のかたまりを呑み込んだみたいに。薬箱のありかはわからなかった。かあちゃんを起こすのはかわいそうだった。日中ずっとワカメを干していたんだから、ゆっくり寝かせてやりたかった。床を出て、流しに行って水を飲んだ。そして腕立てやら腹筋やらをして、それから寝た。
 机に腰掛けクラスメートと談笑している休み時間のすがた、スカートを軽くつまんでバスのタラップをあがる後ろすがた、いろんな礼子を俺は見た。空を見上げてもそこに礼子がいるようだったし、山を見てもそこに礼子を見るようだった。そんな夏だった。振り払うように海に潜った。水の中は心地よく冷たくて、キラキラとした光がゆらぎ、なんというかまっすぐだった。感情も衝動も消えて、ソラスズメダイやオヤビッチャに同化して礼子を忘れた。ソラスズメダイはコバルトブルーの熱帯魚だ。尻尾の先は黄色いが、他は全身鮮やかなブルーで、黒潮にのって毎年夏になるとやってきて、寒くなると死ぬ。だから死滅回遊魚などと呼ばれている。オヤビッチャも死滅回遊魚だが、こいつは黒と白のシマシマで、背中だけ少し黄色い。どちらも素速く泳ぎ、落ち着きがない。つり目で睨んで泳ぎ去る。俺はヤツらが好きだった。綺麗だし勝手だし気ままだし気が強い、そしてしかし死んでしまう、ひと夏過ごして消えてしまう。やつらを見てると自然を感じた。海に遊んで海に抗い海に抱か
れて消えてゆく。はかなくも強く、美しくもあり醜くもある、そんな命を感じた。
 礼子はテニス部に入部したようだった。放課後のテニスコートにいた。白いシャツと白いスカートでいた。ある日、コートの前を横切って帰宅しようとして目を留めた。礼子の足に目を留めた。包帯をしていた。右だったか左だったかどちらかの太ももに、白く包帯が目立っていた。立ち止まり包帯を見ていた。そこへボールが転がってきた。薄茶色に汚れた軟式ボールは俺の足元で止まった。礼子がやってきた。ボールと俺とを代わる代わるに見た。俺はボールと包帯とを代わる代わるに見た。
 どうしたんだよ、とかそんなふうに俺が言うと、ボールとってよ、とかそんなふうに礼子は言った。それを無視して俺はきいた。
「やられたのか?」
 クラゲに刺されたのかと思ったのだ。
 礼子は瞬間、眉を複雑にうねらせてから言った。
「意味わかんないわね」
 包帯を指差した。
「あ、これ」
 などと言いながら礼子はボールを拾い、クルリと背を向けながら斜めに俺を見て言った。
「ワンポイント」
 そして笑った。そして行ってしまった。
 ワンポイント?
 意味わかんねーよ、と思った。
 何か俺の知らない、隠された特別な意味でもあるのかもしれない。入学以来めったに開いたことのない辞書をその夜めくった。収穫はなかった。ある部分、と訳している箇所が目に留まった。
 ある部分。
 なんだか嫌な響きだった。


 とうちゃんと一緒に網をたたんでいた。学校は夏休みに入っていた。
「高校、行きてえか?」
 と、とうちゃんは俺を見ないで言った。横顔に汗が浮かんでいた。
 カモメが鳴いた。
「別に」
 とカモメに向かって答えた。
 海は凪いでいた。光の関係か鉛色に見えた。まだ朝早く、光は斜めに差していた。なんだか重そうな海だなと思った。空は晴れているのに。
「何、やりてえんだ?」
 とうちゃんは網をたたみ終えてから、煙草に火をつけ、また言った。
 何をやりたいか?
 わからなかった。
 だからまた言った。「別に」
 とうちゃんが珍しく正面から俺を見たのを覚えている。煙が真一文字にたちあがっていた。
 次の瞬間殴られた。砂浜にぶっとんだ。トンビの腹が見えた。
「海はな」と、とうちゃんが背中で言った。「ひれーんだ」
 とうちゃんが行ってしまってから起き上がった。あぐらをかいて沖を見た。
 海はひろいな、おおきいなあ、と歌ってから、鉄の味を飲み込んだ。
 その日の夕方、商店街で礼子を見た。小さな街だったから、夏休み中でも毎日のように知った顔に出会うのだった。礼子は自転車をこいでいた。普通のママチャリだった。風をきっていた。向こうから走ってきて、横を走り去る瞬間、チラリと俺を見てニコリと笑った。そしてあっという間に行ってしまった。風そのものみたいに思えた。礼子の笑顔だけが取り残されて、しばらくそのへんを漂っていた。夕暮れの街の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。海はひろいな、おおきいなあ、と歌った。商店街の通りの向こうにみかん色の夕日が見えた。その向こうにまだ知らない世界があるのだと思った。


「夏祭りどうする?」
 俊二が言った。
 俺たちは岩場にいた。象の肌のようにゴツゴツと力強く、岩場は美しかった。俺は貝を穫っていた。俊二は釣りをしていた。釣り上げた魚を網焼きにして食っていた。網に俺はサザエを乗せた。海水がジュッと音をたてた。
「どうするって何がよ?」
「おまえ、俺の火に挨拶もなくあがり込むんじゃねーよ」と、俊二は目先の問題に声を荒げた。
「じゃ、おじゃまします」と俺は二つ目のサザエをのせた。
「俺にもサザエ食わせろ」
「いいよ、いくらでも食え。足りなきゃまた穫ってきてやる」
「密猟者め!」
 釣り糸で魚を釣るのは許されるのに、素潜りで貝を穫るのがいけないだなんて公平じゃない、と当時は思っていた。
「サザエをやるから、醤油わけてくれよ」
「おまえ醤油もないのか?」
「醤油持って釣りするおまえが異常なんだ」
「それはなんだ?」
 俊二が指差したのは俺が持ってきた瓶だった。
「これは酢だ」
「おまえ、サザエを酢で食うのか?」
「なわけねーだろ。これはクラゲ用だ」
「クラゲの酢づけか?」
 そうじゃねえよバカ、と説明してやった。刺されたときに酢をかけるのだということを。
 漁師町にいる誰もが潜るわけじゃない。俊二は転校生だった。
「刺胞をとりのぞくには酢がいいんだ」
「刺胞ってなんだ?」
「毒の袋だ」
「クラゲの毒か?」
「そうだ」
 言いながら俺は、袖無しの海シャツを脱いだ。今でいうアンダーベストだ。冬場にダイバーがウェットスーツの下に着込むらしい。とうちゃんは海シャツと呼んでいた。クラゲやゴンズイから体を守ることができるし寒くない。海パンと海シャツ、それに軍手と水中眼鏡と足ヒレ、そのカッコでいつも潜っていた。海シャツはとうちゃんからもらった。俺にはかなりでかかった。でもないよりマシだった。
「ひでえ」と俊二が言った。
 背中のミミズ腫れはカツオノエボシにやられた痕だ。
 裸になると、風をよりはっきりと感じた。二の腕がジリジリと焼けているのも改めて感じた。風と日差しが気持ちよかった。
 俊二から奪った醤油を、魚とサザエに垂らした。香ばしい匂いがした。海風の匂いと混じって幸せな気分になれた。サザエのふたが自然と外れた。
「刺されたら痛いのか?」と俊二がきいた。
「痛いさ。クラゲの種類によるけど」
 軍手をした手でサザエを掴む。俊二は割り箸まで用意していたので、拝借してサザエの中身を引っ張り出した。グロテスクでワタは苦い。その旨さがまだあの頃は十分にわからなかった。腹が減ったから食う。それだけだった。
「死ぬか?」
「それも種類による」
「どんなクラゲがヤバいんだ?」
「カツオノエボシ」背中を見せながら俺は応えた。「それから夏がおしまいになると、アンドン」
「アンドン?」
「提灯みたいなやつだ」
「気をつけるよ」
「透明なんだ。よく見えない」
「困るな」
「足は薄いピンクだ。だから足を見るといい。四本足だ。横になって泳いでるから、ピンクのミミズが並んで四匹泳いでたらそれがアンドンクラゲだ」
「アンドンは何を食う?」
「ちっこい魚」
「ミミズが魚を食うのか?」
「そうだ」サザエを頬張りながら、指で大きさを示した。「これくらい。人差し指くらいの長さの足だ。やつらはチビなんだ。だから余計に見つけにくい。おい、ひっくりかえせ、焦げるぞ」
俊二は魚をひっくりかえした。「カツオノエボシってのはどんなヤツだ?」
「青いんだ。青い烏帽子をかぶってプカプカしてやがる」
「烏帽子って?」
「丸い帽子」
「広田みたいなやつか?」
 なるほど、と思った。教頭の広田はいつも鳥打ち帽みたいなのをかぶってハゲを隠していた。
「そうだ、あんな感じだ」
「わかった」と俊二は言った。「海で広田と小杉を見たら用心する」
 小杉はチビの学年主任だ。俊二はなかなか面白いヤツだ、と俺は思った。
 腹が満ちたところで、俊二はタバコを取り出した。眉を上げてタバコを差し出した。「吸うか?」
「吸わねえ」
「高校行ってよ」と、大人びた仕草で火をつけながら俊二は言った。目を細めて煙を吸い込んだ。「タンベも吸わなかったらバカにされっぞ」
 タンベという言い方がおかしくて笑いながら俺はきいた。「高校、行くのか?」
「おまえ、行かないの?」と俊二はまた眉を上げた。
「おまえ、なんで行くんだ?」
「そういうもんだろ?」
「そういうもんか?」
「夏が終われば秋が来る。そういうもんだ」
 うまいことを言う。俊二はやっぱり面白いヤツだ、と思った。
「ところで夏祭りだけどよ」と竿をたたんで俊二はきいた。「一緒に行かねえか?」
「綿アメなんざ嫌いだし」と俺は言った。今でも俺はやわらかいものや甘いものが好きじゃない。「盆踊りなんてクソクラエだ」
 俊二は俺を見た。そして言った。「おまえはガキだな」
「なんだとコノヤロ」
「添田だよ」
 礼子のことだ。
「添田がなんだ?」
「浴衣だよ」
 浴衣?
「たぶん来るぜ、あいつ祭りとか好きそうじゃん」
 思ってもみなかった。
「そしたらよ」と俊二は顔を近づけて言った。「浴衣だろ。祭りっていったら浴衣だろ」
「だったらなんだ?」
「なんで怒ってんだよ。おまえ添田嫌いなの?」
「怒ってねえよ」
「だったら来いよ。きっと綺麗だよ」
 ハッとした。コイツめ、と俊二のことを思った。なんて真っ直ぐなヤロウだ。
「魚くせえよ!」と、だから俺は負け犬のように吠えた。「あっち行きやがれ!」
「ガキめ!」言い捨てて俊二は行ってしまおうとした。
「よう。クラゲにやられて酢がなかったらよ」と、その背中に向かって俺は言った。「ションベンひっかけろ。いくらかマシだからよ」
 背中を向けたまま俊二は片手をあげてこたえた。


 海シャツと海パンを身につけてサンダルでペタペタ歩いていると、海を見下ろす道で礼子に出会った。
 北東からの風で波が抑えられ、海は静かに凪いでいた。ピョロピョロと鳶が鳴き、まるまった野良猫は陽を浴びて目を細めていた。猫の毛繕いを眺めていると、背後からニャーオと声がした。振り返ると、白い服をふわりと着た礼子がいた。
「よう」
 と俺は言った。
「よう」
 と礼子も言った。
 風で白い服がカーテンみたいにふくらんだ。空は青く、それを背負って礼子は雲みたいだった。フワフワで輝いていた。
「海を見てたの?」
「猫を見てたんだ」
「猫がどうしたの?」
「どうもしねえよ」と俺は言って、手にした足ヒレと水中眼鏡を振った。「海に行くんだ、これから」
「貝をとるの?」
「気が向いたらな」
「腹がへったら、でしょ?」
「そうだ」
「いいな」
「何がだ?」
「お腹がへったら貝をとる、ってそれが」
 都会育ちの女が、と意外に思った。
「来るか?」
「え?」
「おまえも来るか?」と言って俺は坂をくだり始めた。三歩くだって静かなうしろを振り向くと、満面の笑顔で礼子が息をすいこんでいるところだった。そして叫ぶように言った。「行くよ、わたしも行く!」
 俺たちは縦にならんだまま、電車ごっこのようにして海までの道をくだった。坂をくだりきると、ゴツゴツとした岩場に出た。それをのぼった。一歩進むごとにフナムシが逃げ出してゆく。穴があいたりねじれたり、歪んだり美しいスロープを描いたり、岩場は生き物を瞬間冷凍したかのように、躍動的なさまでかたまってそこにあった。陽の光を受け白く輝き美しく、しかしところどころに一目瞭然には把握しきれないような陰りもまた秘め、油断のならない凄みをみせる、そんな岩場を四つ足でしがみつくようにしてのぼりきると、やっと視界がひらけて海が一望できるようになるのだった。うねりがはいると、あちこちで高波がくだけてさながら眺めは地獄絵図だが、この日は水たまりのようにおだやかな海面で、抜けるような青空ともあいまって、眠気をさそうほどの平和な景色がひろがっていた。潜るにはよいコンディションだった。
「じゃあ待ってろ」と、水中眼鏡をでこにかけながら礼子に言った。「貝穫ってきてやるから」
「いいないいな」
 礼子は足ヒレをふたつペタペタとさせながら言った。
 足ヒレを取り返し海に投げ、海に飛び込みそれを履き、体をくの字に曲げると俺は落下するように沈んでいった。礼子から逃げ出すかのような、そそくさとした潜水だった。たぶん怖かったのだ。未知の礼子といることが、俺をおびえさせ息苦しくさせたのだ。田舎に生まれて田舎で育った俺とでは、あらゆる点で礼子はちがった。髪はサラサラでまっすぐで、近くにいるとシャンプーの匂いがただよってきたし、指は白くて細くて、その動きを見てるとなんだか心臓がしめつけられるような気がした。いつかのテニスコートで見た太ももの包帯も、思い出すとひどく落ち着かない気持ちになり下腹が熱くなって困った。礼子の肉体に俺は、こがれるような気持ちを抱いていた。それでいて、礼子は近寄りがたかった。その瞳はいつも風のように澄んでいて、どこか遠いところを見ているようだった。聡明さを感じさせる瞳に、矛盾なく釣り合った真っ直ぐな鼻は、かあちゃんのまるっこい鼻とは大違いで、美術の教科書で見た遠い昔の白い彫刻みたいに、都会的な上品さでツンときどっていた。
でも唇はふっくらと、透明感こそあれつやっぽく、花が咲いたみたいに魅力的だった。俺はその顔を、自宅の机で何度も何度もこっそりとスケッチしたりしていた。とうちゃんにバレたらカッコ悪いので、描き終えた絵はそのたびに小さくちぎってゴミ箱に捨てていたのだが、あまりに何度も何度も描いたので、その形や線はすっかり俺の中に居座っていた。その線や形は俺にとって、手の届かない金額をつけられたウィンドウの向こうの舶来人形のそれみたいに縁のないものであり、またイタリアあたりの教会に飾られていそうな宗教画のマドンナ像のように、犯しがたく神聖なるものでもあった。そんな礼子とふたりきりで海にいるなんて、俺には耐え難いことだった。
 ウツボの子供があわてたようにくねり、岩の隙間に逃げ込んだ。体感温度は非常に高く、透明度もその夏いちばんのクリアさで抜けていた。足ヒレの力で、浮き上がろうとする体をおさえつけながら、海底の岩場をひとつひとつ調べていった。岩場ごとにひとかたまりの群れがいた。いつものスズメダイ、いつものオヤビッチャ。赤い口をしたキュウセンが猫のようなしなやかさで足ヒレにまとわりついてくる。キュウセンの、脂ののったぽってりとした腹は旨そうに見えた。今度七輪のあるときに礼子に食わせてやろうかとチラリと思った。が、都会の女が七輪で焼き魚なんて食うわけがねえ、とすぐに思い返した。でも待てよ、礼子は意外と大胆なところがあるからな、なんて考えかけたが途中でやめた。海の中ではあまりものを考えることができない。酸素は貴重なのだ。
 海からあがると、礼子は膝を抱えて首を突き出すようにして俺を待っていた。
「ほら、持ってけ」
 俺はサザエをみっつ礼子の座る岩場に転がして、それからまた潜ろうとした。
「待ってよ」と背中から礼子が言った。
「なんだ?」と振り向く。
「綺麗?」
 俊二が礼子を綺麗だと言っていたのを突然思い出した。
「なんだって?」
「綺麗なの?」と礼子は俺をのぞきこむように見て言った。「海の中」
 海の中、と思った。そうだ礼子に見せてやりたい、熱帯魚が好き勝手に舞うそのさまを今日のこのコンディションのよい海の中で。
「あがってきて」と礼子が俺に手をのばした。
 さしのべられた手を不思議な気持ちで見た。こちら側とは明らかにちがう向こう側からその手はさしのべられていた。
 足ヒレを脱ぎ、岩場にあがって水中眼鏡を外し、海シャツを脱いで陽を浴びた。
「おまえ、水着とってこいよ」と、気がつけば俺は大胆なことを口にしていた。
「水着なんてないよ」と礼子はこたえた。
 あきれて礼子を見た。水着のない浜っ子がいていいものか。
「それ貸してよ」と礼子は足ヒレと眼鏡を指差した。
 波もない日で、眼鏡やヒレなどなくても俺は平気だったので「いいよ」と応えた。「でも水着がねえんだろ?」
「それでいいよ」
 礼子は、岩場にひろげた俺の海シャツを指差した。フナムシが一匹、海シャツの上を歩いていた。陽を浴びてムシのからだはつやつやと、ときに白く、ときに赤く輝いていた。
 シャツをつかむとフナムシをはらって礼子は言った。「あっち向いてな、こっち見ちゃだめだぞ、青少年」とかなんとか。
 あきれて俺は沖を見ていた。海は凪いでいたが、水平線の向こうから巨大なクジラかなにかがやってきそうな、そんな胸騒ぎを覚えた。それは決して不快ではなく、ときめきに似た喜びでもあったが、あまりにも新しいなにかだったので、やはり胸騒ぎと呼ぶべきものだった。
 大きな海シャツは礼子にはブカブカで、きっちりと腰までを隠した。袖無しの海シャツをダラリとはおった格好も、礼子がすると不思議とだらしなくもなく、なんだかイルカのように自然だった。
 礼子は、雲のようなワンピースを丸めて岩場に置き、風に飛ばされないようにその上に石を積んだ。浜の子のように屈託のない一連の動作で準備を終えて、眼鏡と足ヒレを持って俺を見た。
「おう」と俺は言った。おどろいてしまってそれ以上に言葉が出なかった。
 気がつけばふたりで海の中にいた。花びらの乱舞のようなスズメダイの群れをくぐり抜け、ちっちゃなトラ猫みたいなカゴカキダイを追いかけていると、いつの間にか巨大なクロダイの群れにとり囲まれていたりする、そんな水中散歩を楽しんだ。礼子は泳ぎがうまかった。でも潜ることははじめてだったようで、耳抜きができなかった。水中で耳抜きを教えた。礼子のとがった鼻をつまんでやり、つばを飲み込むやり方を教えた。水中だと余計なことを考える余裕がないぶん、俺は本来の俺でいられた。海面を貫いて届く陽光や、それに照らされてゆらめく海底の砂のようす、荒れた山肌とその向こうに広がる空のような、海中の岩と水の青との対比、そんなあれこれは心臓の鼓動のひとつひとつを手応えのある確かなものにしたし、何ものにもさえぎられることなく体が接している海水は、混じりけのない自然そのものの冷たさと温かさを、手抜きを決して許さない真摯さで間断なく伝えてくれた。海にいるとき人は考えない、考えずに感じる、そしてそのうち感じている主体そのものすら見失い、海そのものになってしまう。それはとても気持ちいいことで、そしてとてもまっすぐに正しいことなのだと、潜るたびに俺は感じていた。海はこの日、俺を包み、礼子を包み、俺たちの区別をなくした。俺たちは同化し、水任せに海になった。
 前を泳ぐ礼子の足の向こうに俺は礼子の黒い翳りを見た。礼子のパンツはワンピースにくるまれて岩場に残されてきたようだった。とても不思議な光景だった。陸上だったらたちまちうろたえてしまったであろう状況だったが、水の中にいるとなぜだかぜんぜん平気だった。礼子の白い手足から視線をはずすこともなく、俺は自由にのびやかに水とたわむれ、礼子とたわむれた。
 棒きれに擬態しているヤガラをつつくと、まっすぐに固く硬直していた棒きれが途端にニョロニョロとくねりだすので面白く、礼子は喜び何度もつついた。アオリイカはエイリアンが地球人を見る目で俺たちを凝視していた。ボラの大群は無関心なのか不用心なのか、単純にバカなのか、罪のないまんまるの目を見開いて、俺たちのすぐわきで岩についたエサをむさぼりくっていた。それを見て礼子は、俺の腹に指文字で書いた。く・い・し・ん・ぼ・う。
 チョウチョウウオが二匹、ひらひらと重なり合ったり離れたり、ダンスを踊るみたいにして泳いでいた。俺たちはそれを追いかけてどこまでも泳いだ。
「空をとんでるみたいだった」
 海からあがると礼子は言った。
 水中から見上げる礼子は確かにスーパーマンのように水面を飛んでいた。
「あんなに色とりどりだなんて知らなかった」
 海はひろいんだ、と俺は心の中で言った。色んなのがいるさ。
「すっかり濡れちゃった、どうしよう」と礼子が言った。
 バスタオルなんてもちろんなかった。太陽で乾かすだけだった。
 服を手にして、岩場のへこみに移動してから礼子は言った。「体拭くから目をつぶってな」
 長いこと目をとじてから、しびれをきらせて俺は言った。「まあだだかい?」
「ばっかじゃないの?」と笑い声がした。
 そうだった、まあだだかい、じゃない、もういいかい、のまちがいだった。でも礼子がバカにしたのはまたべつのことだった。
「マジであんた、バカ正直にずっと目をつぶってたみたいね?」
 なんだと?
「とっくに終わってるわよ」
 目をあけると、礼子はすでにフワリとしたワンピースを身につけていた。
「早かったじゃねえか」と負け惜しみみたいに言った。「もう乾いたのか」
 礼子の座る岩場を見下ろして俺は言った。
「これで拭いちゃった」と礼子はしぼったハンカチを見せた。「白いと透けるから、濡れてると」
「そうか」
「こっちにおいでよ」と礼子は言った。
 陸上の、バツの悪い重さを心に感じながらも、俺は礼子の隣に腰掛けた。陽が傾きはじめていた。水平線の青がオレンジを招きはじめていた。
「熱帯魚が綺麗だった」と礼子が言った。
「おまえも綺麗だったよ」
 言ってしまってからおどろいた。自然に出てきた言葉だった。
「あ」と礼子は言った。それからはじけたみたいに笑い出した。泣き笑いみたいにして笑った。ひとしきり笑ったところで、礼子は急に笑うのをやめて、とても近いところから、眉をちょっと八の字みたいにして、俺の目を見た。あっという間のできごとだったのだと思う、本当は。でも俺にはスローモーションのように感じられた。
 唇は想像した以上にやわらかかった。潮の味がした。ちょっとホヤみたいな食感だった。それを言うとのちのちまで笑われたが、ホヤを食うたびそれからも俺はこの日のできごとを思い出した。ともあれ、その日の俺にとっては爆弾が落ちたようなものだった。
「なんだよ」と俺は言った。
「お礼」と礼子は応えた。
「なんの礼だよ?」
「海を見せてくれたこと。ベストを貸してくれたこと。綺麗だと言ってくれたこと」
「そんな」と言いかけて言葉を飲みこんだ。そこから先を言ってしまっては今のこの雰囲気が壊れてしまいそうだと思ったのだった。
「なに?」
 だから俺はちがうことを言った。「夏祭りだけどよ」
「うん?」
「浴衣着るかよ?」
 海風が礼子の服をフワリとふくらませた。それを感じながら俺は沖を見ていた。空の青は紺色に変わりつつあった。
「浴衣かあ」と礼子は言った。それからしばらく黙った。
「いや、着なくてもいいんだ」と俺は言った。「俊二がよ、おまえが浴衣着たら綺麗だろな、って言っててよ」
「お金ないんだ」
 礼子はぽつりと言った。
 礼子を見た。
「お父さん、東京で商売に失敗してね、それでいろいろと処理しなきゃいけないことがあるんだってさ、だからわたしはおばあちゃんとこに来てるんだけど」
 そうなのか、と俺は思った。ぜんぜん考えたこともなかった。そういえば礼子のとうちゃんもかあちゃんも見かけたことがなかったなと俺は気がついた。
「来年の春になったら東京に戻れると思うんだ」と礼子は伸びをしながら言った。「それまでは、おばあちゃんにお金の心配とかさせないようにうまくやるんだ」
 来春、と思った。来春になったら礼子は都会に帰ってしまうのか。
「東京に帰ってどうすんだ、東京の高校に行くのか?」
「うん、たぶんね」
「そうか」
「でもね」と礼子は俺を見て言った。「この海のことは忘れないよ、ずっと忘れない」
「俺も」とまた自然に言葉が出た。「おまえのことは忘れない」
 またしばらく礼子は黙った。それからふざけたみたいに言った。「着てほしいか、浴衣」
「俺じゃねえよ、俊二がそう言ったんだ」
 礼子は沖のほうを見てしばらく黙っていた。それから立ち上がると、手にしていた白いハンカチをひろげて、なんとそれを履いた。
「まだ生乾きだから急いで帰る」と礼子は言った。
「おまえってやつはよ」と、なんだか嬉しくなって笑ってしまった。「パンツで体を拭いたのか」
「笑うな」と礼子は言った。「それから、ありがと」
 坂道をあがってゆく礼子を岩場から見送った。暗くなった道を真っ白な服が幽霊みたいにのぼってゆくのをいつまでも見送っていた。そしてホヤの味を思い出したら、さっき言えなかった台詞がまた自然と口をついて出た。
「そんなことで、そんなお礼なんて、すんじゃねーよ」
 小さな声だったので、礼子には届かなかった。
 うちに帰り、ひとりで机の前に座ると、急ににやけてきて自分を恥ずかしく思った。だけどよ、と心の中でいいわけをした。だけど添田とキスしたんだぜ、この俺があの添田とだぜ?
 思い出してみても本当のこととは思えなかった。
「いったいなんてえ夏だ」
 と声に出して言ってみた。急に大人になったような気がした。同級生の誰もがまだ知らない秘密を手にしたように感じて、おかしなめまいをおぼえた。
 歯を磨かないで寝た。
 夜明け前に目覚めて、浜でとうちゃんが戻ってくるのを待った。薄闇の中、とうちゃんの船がぼんやりと見えてきた。船が近づくにつれて朝になった。空は青くなりそうだった。蝉時雨がわんわんとわめきはじめた。青春のざわめきだ、などとわかったようなことを思いながら蝉時雨を聞き、とうちゃんをむかえた。
 網をおろすのを手伝いながらなにげなく、しかし決意をこめて言った。「東京に行く」
 とうちゃんの手が一瞬だけ止まった。「なんで?」
 今度は俺の手が止まった。女のケツを追いかけて、などとは絶対に言えない。とっさに口にしたのは、いつかのとうちゃんの言葉のオウム返しだった。「海はひろいから」
 とうちゃんは黙ったまま網をたたんだ。そして「おい、手ぇ止めんな」と言ってから、一呼吸置いて「行ってこい」と続けた。
「おう」と沖を見たまま、ほっとしてこたえた。「中学でるまでは、たっぷり孝行してやるからよ」
 余計な一言をつけくわえたため、拳固で小突かれた。ずいぶんと優しい拳固におそまきながら事の重大さを悟った。
 海はキラキラと輝き、太陽がまっすぐに道を作っていた。海の向こうに広がる世界を感じた。それは礼子のいる世界だった。


「よう、いるか、俺だ」
夏祭りの日の夕方、俊二がやってきた。
「おう」と俺は出迎えた。
「あ、なんだこいつ、やる気ねえとかぬかしてたくせして、甚平なんかで決めやがってよ」とか言う俊二は普通にジーパンとTシャツだった。
「だっせーな、おめえ」
「あ、なんだなんだなんだ?」と俊二は蝉のようにわめいた。
「夏祭り、行ってくる」と、かあちゃんに告げてから、草履を履いて外に出た。
 軒先で風鈴が鳴った。いつもなら気がつかないような風鈴の音が、この日はやけに綺麗に聞こえた。夏の夕方は、草の香りがかぐわしかった。蝉の声に虫の声が混じっていた。空はまだまだ明るく、入道雲も力をみなぎらせてそこにあった。目を細めるようにして俺は歩いた。半歩後ろを俊二が歩いた。
「なあよう」と、のろまの俊二がのろまに言った。「この前俺カマジーで広田に会ったぞ」
「ふうん」
 のろまな話題だった。
「広田のヤロウ、コーラ飲んでやがった、腰に手ぇ当てて、風呂上がりの牛乳みてえにグビグビとよう、で、ふぃ?とかやってやがった」
「コーラくらい飲むだろよ、教頭だって」
「だけどあいつもうエラいから、夏の見回り当番なんかしてねーだろうに、なんでカマジーなんて、あんなとこにいたんかな」
 そういえば先週だったか、俺もカマジーで広田を見かけたのを思い出した。アイスを買いにでかけたときだった。店の裏は小さな藪で、薮蚊が多いし、昼でも薄暗くて嫌な感じだったが、その薮からひょいと広田が出てきたところに出くわしたのだった。アイスを買い終わって、店の前に停めた自転車を押して帰ろうとしたら、薮の方からザワザワと嫌な風が吹いた、とそう思ったら違って、風ではなくて広田だったというわけだ。
「鳥でも撃ってたんか?」と俺は冗談を言った。
 小僧め、といつものようにどやされるかと思った。敬語を使えといつもうるさいヤツだったから。だがその日は違って、頭を掻きながらヤツは言った。「ちょっとションベン」
 ご苦労なこった、大人ってやつはこんな田舎町でもションベンひとつそこらじゃできねえのか、不便なもんだ、やがて俺もそんな大人になんのか、などと思ったら「海はひろいな」と口をついて出た。
 広田はキョトンとしやがった。
 カッコいいこと言っちまったと恥ずかしく思いながら俺は自転車を漕いだのだった。
「なんかよう」という俊二の声で、はっと回想から覚めた。「広田のヤツ、運動会で走り終わった生徒みたいに晴れ晴れとした顔で、ふぃーとかやっててよ、案外いいヤツなのかもなって思っちまったよ」
「スカッとさわやか、ってタイプじゃねえけど、まあ浜に根っからの悪党はいねーってことよ」と俺は寛容な気持ちで笑った。
 礼子とキスをした。たったそれだけのことで俺には余裕ができたのだった。それだけのことで今や俊二は俺よりずっとガキに思えた。
 夏祭りの会場は、混雑していて蒸し暑かった。太鼓の音やガキどもの高い声、焼きそばや焼きとうもろこしの香ばしい匂いに綿アメの甘い香が混じって、なんというかぐちゃぐちゃだった。
「俺、射的やるぜ」と俊二が言った。
 ガキだな、と思いながらも俊二の背中を追って、射的屋の前に出た。
「あんたら、やるのやらないの、見てるだけじゃとれないよ」と、でっぷり太ったおばちゃんが言って、猿みたいに笑った。
 そりゃそうだ、と思って鉄砲を掴んだ。俊二もそれに続いた。
「狙うはドラえもん消しゴム!」と俊二は叫んで引き金を引いた。タマは、マンガのキャラクターの形をした小さな狙いをわずかに外れて落下した。
「ちくしょう!」
「そんなもんとってどーする?」
「妹にやんだ!」
 俊二は次の狙いを定めながら叫ぶように言った。
「妹か!」
 祭りの雑多な音に負けないように怒鳴りあった。
「そうだ!」
「えらいな!」と言いながら俺は鉄砲を構え、片目をつむると狙いを定めて撃った。
 的を射た。
 指輪が落ちた。
「かーっ、何に当ててんだよ!」と俊二がそれを見て笑って言った。「かあちゃんにやんのかよ、そのプラスチックの指輪!」
 おばちゃんが景品を拾って手渡してくれた。
 バカめ狙いどおりだ、と心の中で思った。プラスチックだろうがなんだろうが今はいい、東京に出て一旗あげたらいくらでもホンモノを買ってやる、と俺は思った。
 ちょうどそのとき、ひんやりと心地よい手が後ろから俺の目をふさいだ。祭りの熱気の中でなんだかそこだけオアシスみたいだと俺は感じた。風の匂いですぐにわかった。礼子だ。
「添田」と俊二の声がした。
「解答者より先にあんたが答えてどーすんのよ」と礼子の声がして手がはずれた。
「すぐに俺にもわかった」と言いながら振り向いて、絶句した。
 綺麗だった。
 浴衣の礼子がそこにいた。あざやかに青く、ところどころが黄色い浴衣だった。
「綺麗じゃねえか」
 すかさず言ったのは俊二だった。
 礼子はにこりと笑ってうなづいて、それから俺を見た。
「おう」とか、いい加減に俺も同意した。
 礼子はひとりで来ていた。
 俺たち三人はヨーヨーを釣ったり、あぶらっこいなにかを買って食べたり、盆踊りの円の一番外にちょっとだけ入ったり、また出たりして、ガキにかえったみたいに遊んだ。
 浴衣の礼子といるだけで楽しかった。ぱっと笑ったり、ヨーヨー釣りかなんかのときむずかしげに眉をくねらせたり、音楽に合わせてふわりふわりと腕をくねらせたり、そんなあれこれを見ているだけで楽しかった。なにかのときに似ていると思ったが、それは熱帯魚を追いかけながら泳いでいるときだとわかった。
 小一時間もたってから礼子は突然、俺の腕をとった。俊二はそれを見ておどろいたようだった。礼子は俊二に、にっこりと笑って首をかしげるような仕草をしてみせた。
「おいおい」と俊二は言った。「いつのまに」
 俺はなにもする必要がなかった。礼子はあざやかに、しかし自然に、波音ひとつたてることなく、俊二を追い払ったのだった。
 腕をとられたまま、連行されるみたいにして祭りの会場を離れた。橋をわたり、川の反対側まで歩き、土手の上から祭りの会場を眺めた。どんちゃんとにぎやかなかたまりは川の向こうにあった。礼子と俺は静けさにくるまれていた。
「まるで月から」と礼子は言った。「地球を眺めているみたい」
 意味がわからず礼子の目を見た。
「さっきまであのにぎやかな祭りの中にいたのに、今はこうして離れて遠くから、俊ちゃんたちのいるあの場所をわたしたちは見てる」
 おおそうか、と思った。俊二はまだあの熱気の中にいるんだな、そして俺たちはそこから離れて、ここからそこを見ている。
「どう?」と唇が言った。
 ぼんやりと礼子の唇を見ていて、そのことに気がつきあわててこたえた。「どうってなにがだ?」
 礼子の唇はつややかでふっくらとして見えた。リップクリームだかなんだかを塗っていたのだろうか、なんて関係ないかもしれないが、なんだか甘そうに見えた。
「浴衣、似合ってる?」
「おう」
「おうって、なんだ、それだけかよ?」
 俺に対してだけだったのだろうか、礼子は男みたいな口のききかたをするのだった。仲良くなるにつれそれには拍車がかかっていった。
「似合ってるよ」と付け足すと、嬉しそうに笑った。
「綺麗か?」
 礼子は俺の目を覗き込むようにして尋ねた。
「おう、まあまあだ」
「まあまあってのはなんだ、このあたりじゃ最上級のほめ言葉なのか?」
「うん、まあ、そうだ」
 礼子は俺に体を押しつけるようにして言った。
「キスしたいか?」
 甘い匂いにくらくらとした。
「どうなんだ?」と礼子は重ねた。
「したい」とこたえた。めまいが続いているみたいにまだふらふらとしていた。
 礼子の顔が近づいた。
 唇はメンソレータムの味がした。風に揺れてる礼子の髪の向こうで、お月様が揺れていた。あれ、月って揺れるんだな、と驚いた。礼子の襟元に蚊にくわれたあとがあって、ほんのりとすこし赤かった。白い肌に、すこしだけもりあがったピンクの部分を見て、ワンポイントと出し抜けに俺は思った。
「なあ」と、少し赤い顔をして礼子が言った。その目はなんだかキツネを連想させた。「ギュッとしてキスしてくれてもいいんだぜ?」
 ますます男っぽくなるその言葉遣いに軽く苛立ちながらも、一方で全身の血が沸騰したように感じた。
「でもその前に」と礼子は言って笑った。「その鼻血は拭いてくれ」
 礼子の言うとおり俺は鼻血を出していた。
 それからしばらく、土手に腰掛け、暗い川に映る赤い灯を見ていた。鼻の穴にティッシュをつっこんでくれた礼子が隣にいた。幸せだった。
「なあ」と川を見たまま言った。「春になったらほんとに東京に帰るのか?」
「うん」と礼子はこたえた。
「そうか」
「さびしいか?」
「まあな」
「すぐに忘れるさ」
「そんなことねえよ」
 祭りの音がやけに遠かった。テレビの音みたいに迫力がなかった。うそっぽかった。ふたりしてほんとに月にいるみたいだった。
「そうだ」と礼子は言ってなにかを取り出した。「これプレゼント。さっき祭りで買ったんだ」
 半透明のプラスチックでできた小さなイルカだった。「あんたに似てると思ってさ」
「おいよせよ、このちっこいピンクのやつが俺だってか?」
「似てるよ」
「どこがだ」
「かわいいよ」
 どうこたえていいのかわからなかったので黙ったままでいた。そして俺にも指輪があったことを思い出し、甚平のポケットに手をつっこんで確かめた。しかし緊張するのだった。同じプラスチックでも、イルカの置物とはわけがちがう。なんたって指輪なのだ。どう切り出してよいのかわからないままに俺はうわごとのようにしゃべった。
「俺も行くんだ」
「どこに?」
「東京」
 礼子は少し黙った。それから言った。「いつ?」
「中学出たらさ」
「なんで?」
 今度は俺が黙った。ポケットの中で指輪を強く握った。
「どうして?」と同じことをまた礼子はきいた。その声はふしぎに甘くかすれていた。
 心臓がバクバクして、もう片方の鼻からも血が出るのではないかと思った。
「なぜなの?」とまた礼子は繰り返した。
 泣きたいような気がした。甘えたことを言ってしまいたい衝動にかられた。やばいと思った。フンと鼻のティッシュを飛ばして俺は衝動に打ち勝つと言った。「広い海に出るんだ」
 礼子は笑って、「やっぱりね」と言った。「やっぱりあんたはピンクのイルカだよ」
「どういう意味だ」
「かわいいってこと」そう言って礼子は指の先で俺の鼻をつつくと立ち上がった。
 カチンときた。「なにすんだ、てめえ」
「さてと」と礼子はのびをした。「たっぷり見たか、わたしの浴衣」
「おう、見た」
「そりゃよかった」と礼子はふしぎな響きで言った。「綺麗だったか?」
「しつけえな、おまえ」
 礼子は俺を見た。礼子の向こうに川があり祭りがあった。
 なんだか頭の中がジャングルみたいに熱気をはらんでごちゃごちゃしていた。
「東京でおぼれんなよ」と礼子は言って、くるりと背中を向けると手をふって、そして行ってしまった。
 闇に溶けてゆく青い浴衣を呆然と見送った。礼子の、いろんな後ろすがたを覚えている。俺はいつも見送ってばかりいたようだ。
 指輪を渡せなかったことに気がついた。祭りの音が急に大きく聞こえ始めた。夏休みも終わりに近づいていた。見上げると星があり、なぜだかほっとした。
 翌日、夏休み最後の海にひとりで潜った。ミズクラゲがいた。そのそばにイシダイの幼魚がいた。ちょろちょろと元気にかわいらしく泳ぐイシダイがクラゲの犠牲にならなきゃいいなと思いながら観察した。よく見て驚いた。食っていた。食っているのは小さなイシダイのほうだった。クラゲを食っているようだった。ちっこいくせして、なんとたくましく、したたかに生きているのだと嬉しくも感じ、また怖くも感じた。クラゲもなかなか大変なんだな、と俺は思った。


 学校がはじまってすぐのある日、事件は起こった。
 登校したときからすでにようすが変だった。さざなみみたいなものを感じた。教室のあちこちでひそひそ話がかわされているのだった。担任が入ってくるとさざなみは消え、普通に授業がはじまったので、おかしなざわめきのことをすっかり忘れたまま昼休みを迎えたのだが、そこへ津波がやってきた。隣のクラスから俊二がやってきて、似合わない小さな声で俺に言ったのだった。「聞いたか?」
「何を?」
「うわさ聞いたか?」
「だからなんのだ?」
「添田だよ」
 首のあたりがドクンとした。
「添田がどうした?」
 すると、いきおいこんでいたそのいきおいを急にしぼませて俊二はだまった。視線をそらせた。
 俊二の胸ぐらをつかんだ。「どうした?」
 こたえなかった。
「ちょっとこい」
 胸ぐらをつかんだまま俊二を引っ張るようにして廊下に出た。階段の踊り場で、また尋ねた。「添田がどうした?」
「単なるうわさだよ」
 まだ俺の目を見なかった。
「どんなうわさだ?」
 俊二は黙ったままでいた。
「コノヤロウ」俊二の腹を軽く蹴った。「とっとと吐きやがれ、でねえとつぶすぞ」キンタマをにぎっておどかした。
 五分後、俺は三年生の教室に向かって走っていた。そこらにいた女に礼子はどこにいるのかと尋ねた。礼子は早退したと女はこたえた。こたえた直後に変なふうに笑いやがった。俺は睨んだ。女は慌てて下を向いた。
 階段を降りて職員室を目指した。
 廊下を走っていると、前方左手の便所から、なんと広田が出てきた、いつだったか薮の奥から出てきたときみたいに。広田に駆け寄って、その胸を突き、便所に逆戻りさせた。
「広田てめえ!」と、便所の床に張り倒した。「礼子になにしやがった!」
 広田はおどろいていた。だがすぐに薄笑いをうかべるとこう返した。「困るな小杉くんたら、酔って話したことを」
「小杉におまえが自慢タラタラでほざきやがったとかいううわさのなかみ、ほんとうなのか?」
「教職者として、たとえほんとであろうが」と広田は立ち上がりながら言った。「ほんとでございますなんざ、口がさけても」
 蹴った。そして頭をつかんで怒鳴った。「さいてやろうか!」指をつっこみ、上顎と下顎を力任せに引いた。広田は手足をバタバタとさせて抗った。
「ほんとなのか!」
 尋ねながらまた床に転がした。
 すると、広田はおぞましいことを言いやがった!
「あいつが言ったんだ」
「なにをだ?」
「買ってくれ、ってあいつから言ってきたんだ」
 自分できいたくせに、きかなきゃよかったと後悔した。が、もう遅かった。広田のマタを蹴り上げた。グチャリとした感覚を足の甲に感じた。気持ちが悪かった。広田はマタを押さえて縮こまった。
「なにをだ?」と、よせばいいのにまた自虐的な思いで尋ねた。「なにを買えと言われたんだ?」
 広田が俺を見た。眉が八の字に歪んでやがった。そしてやつの口は!
 やつの口は、笑っていやがった!
「ぶち殺す!」
 また蹴り上げた。広田の絶叫が響いた。
「浴衣が」と広田は言った。「あいつは浴衣が欲しかったんだよう」
 絶叫に驚いて職員やら生徒やらがかけつけるまでの間ずっと、便所の床にへばった広田の背中を、俺は何度もしつこく踏みつけ続けていた。
 小杉を殴ったような気がした。他にも何人か殴ったかもしれない。便所の前に群がった職員やらガキどもやらを弾き飛ばして、校舎を走り出た。太陽が照りつける道をメロスみたいに走った。走れメロスとかそういうブンガクを、たぶん教科書かなんかでだろう、俺は読んで知っていた。体中の血液が沸騰したみたいに感じたとかなんとかメロスが言ってたような気がする、なんてことを走りながらずっと考えていた。
 礼子の家をなぜ俺は知っていたのだろうか。礼子の家まで一目散に走った。
 礼子のうちは町の外れにあった。思い出した。あいつが転校してきてすぐに俺は悪ガキたちと、都会の女の〈おしゃれな家〉をこっそりと見学に行ったのだった。おしゃれな、というのは俺たちの勝手な想像で、最初に見たときも、走り込んだそのときも、礼子のうちは小さく汚かった。トタン屋根の一軒家は俺のうちの四分の一もなさそうな平屋建てで、部屋はひとつ、多くてふたつくらいしかなさそうだった。庭ともよべない狭くて荒れた砂利の地面に赤く錆びた物干し台が十字架みたいに立っていて、ババくさいでかパンがそこで白旗みたいに揺れていた。
「添田!」
 と俺は叫んだ。
「いるか!」
 返事はなく、なので「開けるぞ!」と吠えながら玄関の開き戸を開けた。
 寝間着姿のババアがおどろいたような目で俺を見ていた。礼子のばあちゃんにちがいなかった。礼子にちっとも似ていなくて、年老いて薄汚れた野良猫みたいなばあちゃんだった。そういえばこれまでにも町で何度か見かけたような気がした。
「添田さんは」と俺は言った。「いや礼子さんはどこですか?」
 耳が遠いのか、ばあちゃんは目顔で俺に尋ねる仕草をした。
「礼子はどこに!」
 大声で繰り返した。
「ガッコウですよ礼子は、あなたはオトモダチ?」
 とかなんとか、ばあちゃんはもぞもぞと言った。
 帰ってない、礼子はまだ戻っていないんだと瞬時に判断してこたえた。「さよなら!」
 きびすを返す瞬間、部屋の中のいろんなものが見えてしまった。例えばふるぼけた鳩時計の針がいい加減な時刻を指していたこと、窓にぶらさがったカーテンがカビだらけだったこと、そして部屋のすみに青い浴衣がきれいにたたんであったこと。
 引き戸を閉めて、また駆け出した。
 海、と思った。理由はなかった。直感だった。海を目指して坂を駆けおりた。夏はまだ秋に屈していなかった。靴の裏でアスファルトが粘るようだった。平日の昼下がり、人は少なかった。そんなひとけのない町を走ったことはそれまでになかった。映画の中の町みたいになんだか町はうそくさかった。でも港までくるといつもの魚のにおいがしてなんだかうれしかった。潮のかおりに勇気づけられて、俺は浜に降り立ち、海にそってグングンと走った。動物の帰巣本能だとか、月夜の晩のなんたらの産卵だとか、そんなふしぎな能力が人間にもあるのだろうか、はたして俺はその無人の浜の真ん中あたりに白い開襟シャツの人影を見つけた。
 走りながら叫んだ。
「添田!」
 海風に声が消されてしまうのか、人影に動きはなかった。
 砂に足をとられて、夢の中のように進まなかった。それでもひたすらに、もがくように走りながらまた呼びかけた。
「添田!」
 人影は気がついたようだった。こちらを見ていた。開襟シャツと紺色のスカートから突き出ている白い手足。礼子だった。逃げるように駆け出した。
「おい待てよ!」
 懸命に追いかけた。
「待てよ!」
 砂浜に慣れていない都会育ちの女との距離はぐんぐんと縮まっていった。
 海沿いに砂浜を走りきって岩場に出た。いつかのあの岩場だ。まるで障害物競争がはじまったかのようだった。礼子は岩場をのぼりはじめた。危ない、と思った。岩場で転べば死ぬこともある。
「礼子!」
 苗字ではなくて名前を呼んだ。自分だけの部屋で深夜いつも心の中で呼んでいたように。
 岩にしがみつきながら一瞬礼子は振り返った。が、またくるりと顔をもどし、スピードをあげて岩場をのぼりはじめた。
 後を追った。
 岩場の頂上から、岩場を向こう側の浜に向けてくだってゆく後ろすがたを見下ろした。そしたら突然思い出した。俺の海シャツを着た礼子の白い足、それからホヤみたいな食感の唇。なぜだか急に怒りがこみ上げてきた。
「待てよコノヤロウ!」
 吠えるように叫んだ。
 礼子は振り向いて俺を見た。観念したのか、岩場を降りきったところで岩に腰掛け逃げるのをやめた。
 岩場を降りて礼子のわきに立った。
 俺を見あげる礼子を見おろした。白いシャツがびっしょりと汗に濡れて下着が浮いて見えていた。それを見るとなぜだかまた激しく苛立った。
「ちくしょうめ!」
 俺は叫んでいた。
「ちくしょう、ちくしょう!」とバカみたいに砂を蹴りまくった。
 礼子は黙ったままでいた。
「なんでだよ!」俺はまた叫んだ。「なんであんなクソジジイなんかに」
「軽蔑した?」
 礼子が小さな声で言葉をかぶせた。
 見ると礼子は薄く笑っているのだった。その口元を見て俺はぶちきれた。
「軽蔑だあ?」地団駄踏んでガキのように、発作のように、ひたすら吠えまくった。「したさ、おうしたとも、このクサレ女が!」
 礼子はアーモンドみたいな形の目に力を込めて睨むように俺を見ていた。
「金か、金が欲しかったのか、だからって、だからってあんなハゲチャビンと!」
「そうだよ、金だよ!」と礼子も叫んだ。「いいだろ、減るもんじゃなし、広田も喜んでたし」
 体が震えた。すぐには言葉も出なかった。海が白黒テレビみたいに色を失った。こめかみがズキズキといたんで、鉄砲の煙みたいな臭いを感じたかと思うと、次の瞬間俺は逆上していた。開襟シャツの襟元をつかんで引き寄せた。
「コノヤロウ」
「なんだよ」
 礼子は目をうるませながらも尖らせて、俺を見返した。綺麗だ、と俺は思ってしまった。
 そうだ、綺麗だった、礼子は綺麗だった、ソラスズメダイみたいに気が強く、自由で、スピーディーで、あざやかで、目を奪われるほどに綺麗だった。都会の女、というものに、田舎のガキである俺たちは激しく敵意を募らせると同時に同じくらいに憧れて、その視界の広さや、度量の深さや、考えのクリアさに嫉妬し、苛立ち、屈辱を感じ、己の狭さと暗さと汚さと未熟さを恥じいるような、そんな複雑な思いを抱いていた。そんなあれこれを一言で表現できる。
「綺麗だ」
 そう、あのような衝動にとらわれたとき、俺たち田舎のガキどもはバカみたいにつぶやいたのだ、「綺麗だ」と。
 気がつくと実際に俺はつぶやいていた。胸ぐらをつかんでいる、その相手に向かって「綺麗だ」なんてつぶやいていた。
 礼子は瞳を大きくした。瞳孔が開いてしまったように見えた。驚愕。または恐怖。最初は確かにそんな色をしていた瞳は、次の瞬間温度を取り戻し、また違う色を見せた。優越感。ないしは哀れみ。ピンクのイルカを見るような瞳。あのときの俺にはその色が、そして温度が、そのように読めてしまったのかもしれない。
 岩の影に突き倒した。礼子を突き倒したのだった。突然のことに我ながら驚き、しかし驚いている自分までもが、高波にさらわれたかのように別のなにかにあっという間にのっとられた。
「ちくしょう!」と別の何かはうなった。「ちくしょう、ちくしょう!」
 ちくしょうと、開襟シャツのボタンを飛ばす自身の手を見つめながら俺もまた思っていた。ちくしょう、なにやってんだ俺は、なんなんだ俺は。
 怒りだった。俺をさらった波は怒りだった。それはオス的な衝動だった。
 でも、と同時にはっきりと気がついていた。俺は礼子が好きだったのだ。憧れと嫉妬の対象である礼子を俺はとことん好きだったのだ。それは初恋と呼べるものにまちがいなかった。そうだ、俺は結婚したいと思っていたのだ。プラスチックの指輪を東京でホンモノに変えるつもりでいたのだ。もちろん勝手な思い込みだった。ノートに書きなぐった礼子のスケッチは、古代ローマの彫刻みたいにうそくさく、理想化されていて体温がなく、神様みたいでけがれなく、命をささげるようにしてひざまづきたい対象で、それは現実の礼子そのものではなかった。だが、それでもそのような理想を投影できるだけの美しさを、姿かたちや声やしゃべり方や立ち振る舞いや、指先の動きや息づかいや、潜り方や笑い声や、眉の動きや白さややわらかさや、眼差しや匂いや、生き方や風ぶりを礼子が持っていたこともまた事実だった。好きにならずにいられなかった。都会の風。みじかく言ってしまうなら、礼子は都会の象徴だった。未知の大海原をただよう人魚だった。どうしようもなく、ぶざまなまで
に、泣きたいくらいにまっすぐに憧れ、かつ恐れる、というかたちで純粋に好きで好きで好きだった。
「ちくしょう!」
 吠えながら、礼子をはいでいた。学生ズボンの中で怒りと欲望がかたまっていた。それまでに女を抱いたことなんてなかった。エロ本で見るのと実際に抱くのとではえらい違いで、俺はただただ必死だった。抱いている、というつもりもなかった。感じられるのは怒りと哀しみ、それだけだったが、それらは欲望にとても似たなにかでもあった。礼子の首を噛みそうだった。理性がかろうじてそれを押しとどめた。礼子の指をつかみ押さえつけ、自分の胸板で礼子のやわらかな胸をくみしいた。礼子は恐怖の表情を浮かべていた。それを見てますますちんぽはかたくなった。痛くなったからか、あるいは本能なのか、小さな岩陰ではあったが人目など露ほども恐れず、ズボンをおろし、パンツもおろした。するといくらか解放された。スカートをまくりあげ、白いパンツに自分をこすりつけた。
 礼子がなにかうめいた。
「礼子」と俺もうめいた。「ちくしょう、ちくしょう」
 礼子の腕が俺の支配から逃れて、俺の後頭部を抱いた。そしてひきよせた。ブラジャーのワイヤーがほほに痛かった。どうやってホックを外したらよいのかもわからぬままにじゃまものをはぎとった。おっぱいは熱かった。ノートの落書きとはちがって生身の礼子は熱かった。風の匂いなどもうしなかった。熱砂にのたうつマムシのようにうごめく体は、汗の匂いと焼けた砂の香を発し、まぎれもない肉であった。それを哀しく思った。と同時に猛りくるものがあった。
「ねえ」と礼子が熱っぽくかすれた声で言った。「好き?」
 答えられなかった。目を閉じて、礼子の首筋に顔を埋めた。
 また言った。「わたしのこと、好き?」
「好きだ!」反射的に俺は叫んだ、礼子の汗を舌に感じながら。「ちくしょう、好きだ!」
 ホヤのような唇をかじるようにとらえた。やわらかく、少し血のような味がした。礼子の舌が俺の口の中でうねった。ちんぽはがちがちになってしまった。礼子の指が、熱い胴体とは反対になぜだか冷たいその指が、ちんぽをつかんだ。ぞっとするほどの感覚だった。好きだ、と思った。すると、そのまま力尽きてしまいそうだった。
「ねえ」とまた礼子が言った。甘ったるい声だった。「さわって」
 俺の手はおっぱいにみちびかれた。それをつかんだ。丸いかたちをつかむと赤い乳首がツンと尖って、それを見るとちんぽがまたズキズキとした。礼子の腕にまたひきよせられて、おっぱいの山に顔をつっこんだ。乳首をくわえた。ひどくしっくりとくる感触がベロに伝わった。
「もっと強くて大丈夫」とかなんとか礼子は言って、そして続けて、言ってはならないことを言った。「そこはきれいだから、広田はブラ外さないで、下だけでしたから」
 一瞬なんのことだかわからなかった。
 ヒロタハシタダケデシタカラ?
 カマジー裏の薮を思った。祭の夜の首筋の、藪蚊にくわれたピンクの隆起を思った。うっそうとした藪の奥で下半身だけ露出した広田と礼子が立ったままでひわいな行為をしているところを想像してしまった。広田のみにくい顔。そして礼子の。
 ちんぽの血管がぶちきれそうになった。コノヤロウ!
「コノヤロウ!」
 礼子の指の圧力を感じた。
 乳首を噛んだ。
「ああ」と礼子は肯定的なうめきで応じた。ちくしょうめ!
「何回やった?」うわごとのように、バカなことを言った。「広田とあの藪で何回やった?」
「藪では二回だけ」
「他は!」
「他の場所でもう一回」
 礼子の指をはじきとばすほどに、俺のある部分は激昂した。そこは俺の一部でありながら俺ではなかった。ワンポイント、と突然英単語が浮かんだ。
 それで、と俺は変にさめた頭のかたすみで考えた。考えたままが自然に声に出た。「それで浴衣を買ったのか?」
「そう」と肉はこたえた。「綺麗だった?」
 海中のソラスズメダイがひらりとターンした。開襟シャツの礼子が白い歯をむきだすようにして笑った。そんなイメージを感じて、顔をあげるとそこに礼子の顔があった。
 生涯忘れられない女の顔があった。
 唇は上下にぶあつくふくらみ、ヌラヌラと輝いていた。下から見上げた鼻の穴はけいれんするかのようにヒクヒクと開いていた。キツネのようにひらたく左右にひきのばされたような目が見下ろすように俺を見ていて、その目には歓喜がやどり、欲望がやどり、理性のかけらもなく、男の体のなにもかもをのみつくそうとする貪欲さをたたえてギラギラと輝いていた。肌は紅潮し、髪は乱れて、すべての細胞からなにか得体の知れない妖しいものが吹き出しているかのようだった。
 礼子は自分で白いパンツをおろした。足の親指にひっかけるようにして器用に最後まで脱いだ。「来て」とギラギラとした瞳が言った。
 何かが弾けた。
 俺は立ち上がった。そして自分でも信じられないことをした。
 勃起したちんぽから激しくほとばしるまでには少々の時間がかかったが、礼子の下半身めがけてションベンをぶちまけたのだった。
 消防車のホースが火事を消すかのような勢いでションベンは礼子にぶちまけられた。
 すっかり出し切ると俺はパンツとズボンを履いて、後も見ないでその場を去った。


エピローグ

 ・礼子は、春を待たずに学校をやめた。何も言わずに東京に帰った。
 俺と広田は処分を受けた。広田は二度と教師にもどれないようだったが、俺は少しの期間のあと学生にもどり、三流のケツのバカ高校で三年間を過ごしたのち、十八歳で町を出た。たくさんのオスを殴ったし、たくさんのメスとやった。それだけの三年間だった。

 ・東京に出て、大学生を客にパー券を売る仕事をはじめ、三年ほどで三人のガキを使う会社の社長になった。ダンパでナンパしたバカ女の部屋を転々とするうちに、ホストの仕事にありついた。決まった場所で眠らない生活が続いた。

 ・三十歳の誕生日を迎えた先週のこと、俺ははじめて女を買った。金をはらってしたのは生まれてはじめてだった。
 神田駅のガード下、焼き鳥をかじって店を出たところでそいつに出くわした。女は俺の正面に立ち下を向いたまま小さな声で素早く言った。「わたしを買ってくれませんか?」
 普段なら無視するところだったが、あの日はどういう風のふきまわしか、女を観察した。若い女だった。細くて小さく、地味ななりをしていた。ノースリーブのアジアンカラーなワンピースにサンダル、髪はボブで肌は白く、下を向いているので表情ははっきりしなかった。カッコとはまるでちぐはぐなブルーのボストンバッグをさげていた。どうみても上京まもない家出娘を思わせる見た目だったが、あるいは何かの罠かもしれないと思った。それほど女は無防備で、そのあまりのたやすささがエサを思わせたのだった。
 神田のそっち側の出口には、あやしげなマッサージなど風俗店が多く、厚化粧の外国人が行き交うサラリーマンに熱心に声をかけていたりする。場末な、しかしそれが日常であるがゆえになんだかほっとする、そんな臭気のただ中に、場違いなたんぽぽを見たようでひどく新鮮で、そして柄にもなくなぜだか妙に心配になってしまったのか、よせばいいのに俺は尋ねた。「いくら?」
 女は顔をあげた。俺を値踏みしているようだった。用心深い野良猫みたいな表情だった。でも相場がわからなかったのだろう。トンチンカンな金額を言った。なにかの罠でも構わないと思った。女を連れて駅前をあとにした。ちょうどやってきたタクシーに手をあげ女をのせた。ボストンバッグをトランクにしまってやろうとしたが、女はそれを頑なにこばんで自分の膝の上に置いた。
 JRの駅をいくつかたぐったあたりの適当なネオンの下で車を降りた。バッグを持ってやろうとしたが断られた。ホテルのフロントで一番安いパネルを選んだ。それでも女の値段より高かった。
 部屋に入ると、女はそっと、しかし明らかにきょろきょろと部屋を見回した。
「風呂を入れてくれ」
 俺が言うと、女は風呂場に行ったが、すぐに「やり方がわからない」と言って戻ってきた。その手に変わらずボストンバッグをしっかりと握っているもんだから、笑ってしまった。
「おまえは、やるときでもそれを持ったままやるんだろう?」
 女は笑わなかった。
 俺も笑うのをやめて風呂場に行き、湯量のダイヤルをマックスに回してから部屋に戻った。すると女はすでにベッドの中にいた。ベッドサイドにはボストンバッグが置かれていて、その上にはきちんとたたまれてワンピースがあった。はやわざだった。滑稽といえば滑稽この上ないし、厳粛といえば厳粛この上ないような気もした。針金みたいな女を抱く気はさらさらなかったが、こう律儀に床入りされてしまうと、払うがやらず、では失礼だろうと思い直した。
 布団をはがすとパンツ一枚で女はいた。素早くパンツを脱がせて、俺も脱いだ。ゴムをかぶせているあいだ、女はパネルに手をやり電気を消そうとしているようだったが、こちらもやり方がわからないようだった。興味深かったので調光は手伝ってやらずに、両手を伸ばしたままの女を雑巾をしぼるようにぎゅっと抱いた。
 女の体は冷たかったが、つるつるとしていて見た目よりは張りがあり、なんだかイルカを抱いているようだった。予想に反して気持ちがよかった。女は何も特別なことはせず、俺の腕の中でくねったりはねたりしていた。いつになくリラックスして射精した。怒りもなければ苛立ちもなかった。なぜなのだろうかと考えた。女を買うとはこういうことなのだろうか。それまでに抱いた女たちに感じた敵意や恐怖をまるで感じなかった。
 続けざまにふたつめのコンドームに手をのばした。すると女は言った。
「お金まだあるの?」
 その真剣なトーンにまた笑ってしまった。
「金か」
「そう」と偽悪的な目を作って女は言った。「お金よ」
「金がいるのか?」
「うん」
「なぜ?」
「いろいろと事情があるのよ」
 なぜだろう、と思った。なんだか優しい気持ちになるのだった。
 小さな背中も、それなりの事情を背負っているのだ。青いボストンバッグの中にはそんな事情に絡んだ守るべき大切なものが秘められているのだろう。青い記憶。何かが脳裏をよぎった。
 懸命に生きている小さな命を愛らしいと感じた。
「金のことなんか忘れさせてやる」
 などとまったく柄にもないことを口走りまた体を抱き寄せた。女も少し熱を帯びてきたようだった。
 鼓動を波のように、呼吸を風のように感じながら、くぼみや隆起や翳りや段差を、指で舌で丹念に探っていった。瞬間瞬間にもれる息や、指先のうねり、のどのふるえ、瞳に浮かぶ色や影、それらすべてが女の秘密だった。大切にされるべき秘密だった。そのひとつひとつをこじあけ、眺め、味わい、追いかけ、楽しんだ。とてもリラックスしながら、溶けゆくように。それは何かに似ていた。
 一方のリズムは一方のリズムを確実にいざなう。女もとてもリラックスしているように見えた。女の背中が弓のようにしなって、クジラのジャンプのようにして体は布団に落ちた。
 青い空を見たような気がした。
 しばらくして、海からあがったばかりのような真っ白な気分で煙草をふかしていると、女が言った。
「わたしにもくれる?」
 煙草をわけてやった。
「ありがと」
 ホテルの名前が印刷された使い捨てライターで女は火をつけて吸った。そしてたちどころにむせた。
「気持ちよかったな」と俺は煙と一緒に気持ちをまっすぐに吐き出した。「おどろくほど」
「わたしも」と女は言った。別人のようにやわらかな表情をしていたので、それがうそではないとわかった。
「はじめてだったんだ」と女が言った。「売ったの」
「はじめてだったよ俺も」と笑った。「買ったの」
「ほんと?」と女は半身を起こして俺の目を見た。
「ほんと」
「まいどありっ」
 なかなか愉快な娘のようだった。
「あんたおっきな人だね」と娘は言った。「ぜんぜんケーベツとかしてないだろ?」
「してないな」
「どうしてかな?」
「年寄りだから」
「年寄り?」
「長く生きてりゃいろいろあるさ、そうだろ?」
「うん、いろいろあるね」
「一生懸命生きてんだろ、おまえ」
「うん」
「綺麗だよ」
 女は黙った。
「海はな」と無意識に出た。「ひれーんだ」
「街のじっちゃんみたいなこと言ってら」
「おまえ、どっから流れてきた?」
 街の名を聞いて驚いた。俺の街だった。黒潮の街だった。
「海の中、知ってるか?」
「知らないよ、だってクラゲがいるんだ」
 そうか、クラゲはそりゃいるわなあ、と思った。でもそのぶん回遊魚もあざやかに綺麗だ。
 この娘にあの海を見せてやろう、と思った。
「ゴムがもうない」と枕元を覗いて俺は言った。
「うん」
「でももうひと泳ぎしたい」
「わたしもしたい」
 娘は無邪気にその目を輝かせていた。
「いいのか?」
「いいよ」
「今度はもっと深く潜れそうだ」
 娘は笑った。
「じゃ素潜りで抱くぞ。そのかわり」
「そのかわり?」
「明日になったら車で海に連れてってやる」
 返事を待たずに唇をふさいだ。肉体の波に揺られながら、静かに丁寧に潜行した。白い足とその間の翳りを追いかけて、女の景色に沈んでいった。
「ありがと」
 声が聞こえた。遠くで女が、ありがとうとささやいていた。
「ありがとうはこっちのセリフだ」と浮上して言った。白い波間に女の顔が見えた。まさしくそれは女の顔だった。ぶあつくふくらんだ唇はヌラヌラと輝き、鼻の穴はけいれんするかのようにヒクヒクと動き、目には歓喜がやどり、欲望がやどり、理性のかけらもなく、男の体のなにもかもをのみつくそうとする貪欲さをたたえてギラギラと輝いていた。
「ありがとな、はじめて女をほんとうに」肉体の波に溺れそうになりながら懸命に息をつなぐ。「好きになれそうだよ」
 光がきらめいた。
「綺麗?」
 と、礼子の声で女が言った。
「ああ綺麗だ」
「綺麗?」
 とまた女は尋ねた。
「ぜんぶひっくるめておまえは綺麗だ」
 体がふるえた。女は安心したかのように俺の腕の中に溶けていった。

黒潮の街

黒潮の街

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-05

Public Domain
自由に複製、改変・翻案、配布することが出来ます。

Public Domain