冷たい予感

いくら妻の喜びそうな曲を流しても、話をしても、なにも変わりはしなかった。

 つめたい雨の中、ひたすら車を走らせていた。昼前に家を出発して、もう夕方になりかけていた。昼頃から天気がぐずつき始めて、今は鈍色の雲があたり一遍に敷き詰められている。気分まで降下しそうだった。生き行く車はみんな早めにライトをつけて走っている。海岸沿いは波が高く、その水もすべて鈍色にみえる。底なしの灰色。隣の妻はしずかに助手席に身を凭れ掛からせ、音楽を聴いている。
「こんなつもりじゃなかったんだけどなあ」
 そう愚痴をこぼしても、妻からは何も返ってこない。余程つかれているのだろう。白いワンピースを着た妻は、鈍色の空に照らされて肌まで透き通るほど白く見える。
「そういえば付き合っていた時にこういう風に海岸沿いをドライブしたよな。何時間も。夏だったっけ。窓を開けて、二人できゃあきゃあ言いながらさ」
 音楽が変わる。妻の好きな曲だ。何回も聞いているので自然と口ずさむ。雨が強くなってきたのでワイパーを切り替える。妻の好きな曲なのですこしは反応するかと思ったが、ちっとも反応しない。
「手紙、よんだよ」
 鈍色の空から降ってきた雨は次第に強さを増して、フロントガラスに殴りつけるようにザーザー降っている。雨はなかなか止みそうにない。
「ごめんな、おれがまちがっていたよ」
 時速65キロで。早くもなく、遅くもない速度でしかし確実な速度で道をひたすら走っていく。道はとてもすいていて、対向車以外の車が見当たらない。
「だから、やりなおそう。な」
 雨は強さを変えず、ずっと降りつづけている。明日あたり嵐が来るのかもしれない。
「おい、なあ、何かいってくれよ」

 瞬間、対向車のハイビームで妻が照らされる。その喉元には青紫色のあざがあった。白い光に照らされたその姿は神々しくもあった。だけど、妻は死んでいた。
「ああ」
 見てはいけない物をみてしまったような気がするので目をそらす。前だけを見て、また、ひたすら海岸沿いを走る。風が出てきたのか、波が高くなってきた。明日はきっと大荒れだろう。俺にも、妻にも関係ないが。
「そういえばお前海外旅行に行きたいって言ってたな。どこだっけ。ウユニ塩湖だっけか。あの景色がおそろしく綺麗な」
「馬鹿にしていたけれど、実際写真をみたら俺も行きたくなったよ。連れて行ってやれなくてごめんな」
 妻は何も言わない。静かに、すべてを許すような表情をしている。
「こんどいこう。今度」
「長い休みが取れそうなんだ。お前も暇そうにしていたし、行くのにはいい機会かもしれない。今度ゆっくり話そう」
 コンポがおかしいのか、車の振動でCDが飛んだのか、同じ曲が二度かかる。妻の好きな曲。なんだか妻が俺の言っていることに賛同してくれているようで、少し上機嫌になってまた歌詞を口ずさむ。
「あなたのことを、ふかく、愛せるかしら…」
 隣にいる妻は相変わらずなにも返さない。街灯に照らされる青白い、そして冷たいであろう頬。俺の頬も、雨に打たれたように、冷たい。曲が変わった。なんだっけこの曲。ああそうだ、付き合ってた時によく言っていたなあ、俺の車は青くなんかないぞって。笑っていたなあ。あの頃に、戻りたいなあ。
 雨に照らされて夜景は宝石のように滲んでいた。上手く前が見えなかった。これ以外方法が思いつかなかった。これ以上どうしようもなかった。

 曲が流れている間、車はだんだん街へと近づいてきた。俺はどうするか少し迷って、ガードレールに向かって思い切りアクセルを踏んで、ハンドルから手を放した。最後まで妻は何も言わずに静かに目を伏せていたままだったし、俺はそれをじっと見つめていただけだった。

 雨が、止まない。

冷たい予感

冷たい予感

  • 小説
  • 掌編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-21

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