星の下の
君の存在がこんなに近くに感じたことなんてなかった。吹いているそよ風の心地よさを忘れるくらい、僕は今この瞬間、君だけに視線を注ぎ込んでいる。
それもそのはず、君が笑うことなんてなかったのに、お笑い番組を観てる訳でもなく、道端に落ちているバナナに滑って尻餅をついた僕を見てるわけでもなく、不意に草原の中にブルーのシートを敷いて、二人遠くの山を体育座りでただ無言で見ているこの瞬間に、君は笑ったのだ。
笑ったというより、クスクスと上品で控え目な動作で、小鳥が空を優雅に飛んでいるのを、安らかな表情で眺める場面にピッタリの、彼女らしい笑い方であった。
「どうして何も喋らないの?」
「喋らずにこの空気感を感じたくて」
問いかけに答える君は、もう笑ってはいなかった。
彼女と出会って一月。この公園で一人遊具に腰を掛けながら、天を見上げているところを、僕がフェンス越しに眺めていたのが、彼女を知るきっかけになった。疲れた表情の君が、一人孤独な日々を、街灯が切れかかるように息の感じられない閉塞感の中で身を小さくしながら生きていたように思えた。
「夜遅くにどうしました?」
「...」
「こんな時間に一人じゃ危ないですよ。最近、物騒になってきてますし」
「...」
それ以上、言葉を掛けようとも、きっと彼女はここを動きはしないと判断した僕は、"無言の"許しを得て隣に座らせてもらった。女性を夜の公園に一人でいさせることが、僕には出来なかったというか、彼女の独特な雰囲気に、まるで近くにいるのに遠くの彼方にいるような、異世界へと繋ぐ次元の入口を見つけたような、そんな感覚に似た何かを感じたから、この機会に彼女を「視る」時間を見つけたいと、僕は好奇心で彼女の隣にいることを選択したのかもしれない。
「一つ聞きたいのですが」
「...」
「いえ、やっぱり何でもないです」
「あなたはどうして声を掛けてくれたんですか」
予想外の一言であった。今まで声を掛けても、知らぬ振りで空を見上げては、明日が来ないことを祈っているような、ここにあってここにないような、そんな雰囲気を無言で僕に"伝えている"だけで、ぴくりともこちらを意識していないように感じられたからである。
「え ?あ、いや一人じゃ危ないと思って」
「…わたし誰からも話しかけられないタイプの人間なんです。別にそんなこと望んじゃいないし、気は人並みに使える方だとも思ってる。でも、そんなことも翻るように、わたしはわたしの中で人を拒絶しているわたしを拒絶していて、つまり、わたしはそんなわたしを受け入れられてないんです、きっと。それが無意識の内に誰かに伝わっちゃうんでしょう。空気感染で引き起こされるウイルスのように、わたしが"息をする"度に。」
僕は唖然としてしまった。彼女が論理的に自分を冷静に客観視していて、それを見ず知らずの他人にテンポよく語りかけることが出来る人だとは、出会ってから到底思うことはできなかったからである。
「僕もそうですよ。でもあなたみたいにそこまで自分自身を分析出来るほど、僕を見つめてはいないです。だからあなたを尊敬出来ます。いつもここに?」
「ええ、気が向いた時にというか、一人になりたい時にはここへ。わたしの部屋には思い出が住み着いて、壁からテーブル、カーテンにだって、ふとした瞬間にそれらが不意に顔を出すんです。これじゃ、どうあがいても一人なんかなれやしない。だからここにくるんです。わたしは、自分のことが好きでも嫌いでもない。」
そこから会話はピタリと止んでしまった。返す言葉が見つからないというより、これ以上話しをすることで僕は彼女から逃れられない気がしたからだ。何も彼女が僕を紐か何かでくくりつけようとしているわけではなく、彼女の底しれぬ魅力に、取り付かれそうになる僕がここにいるからだ。
星は変わらない輝きと眩さで、僕らの視界に広がり、欠けた月の下に流れる雲が、同じ方向に流れていく。星や月から見た僕らの存在には、一体なんの意味があるんだろうと、砂の上に行列をなして行進していくアリンコと大した差はないってことを、この無言の中で僕は大真面目に考えていた。
「今見上げてる星から見たわたしなんてきっとちっぽけ」
「でもきっと、生きてる者たちそれぞれに意味はあるんじゃないかなって僕は思う」
出会って一月も経てば、言葉に堅苦しさもなくなって、風船が空をゆらゆらと漂うようなふんわりとした彼女が顔を出し始め、僕らはすんなりとは言えないが、少なくとも片方が話している時に、横目でチラチラと目をやる仕草が増え、見えない距離が縮まってくような、そんな関係になれている気がした。
付き合ってるわけでもなく、友達といえる程、まだお互いをさらけ出せる状態ではないが、お互いが同じ類の何かに同時に引っ張られてるような、それをお互いが気付いてるような、そんな共通認識が無意識と意識に入り込んでいることを理解しているように感じられた。いわば僕らは"似ている"のである。
フェンス越しに彼女を見つけたあの日と同じように、見ている景色や空気感は違うものの、君は無言である一点を見つめている。
「ふふ」
彼女は不意に微笑んだ。僕は少しびっくりして、気恥ずかしさで見れなかった彼女の綺麗な横顔をまじまじと見てしまった。澄んだ瞳と少し上がった口角を維持したまま、先ほどと同じ方向を彼女はぶれずに見ている。
恋に似たような刺激であった。それまで僕が見ていた君とは違うのだから。思わず問いかけた。
「どうして何も喋らないの?」
「喋らずにこの空気感を感じたくて」
僕らはきっと言葉が多すぎて何も伝わらない。頭だけがやけに大きくなって、純粋な気持ちまでもが徐々に覆いかぶさっていく。君が伝えたかったこと。それはきっと言葉以上の思いだったに違いない。わかっていた。何となく、彼女が僕といること、ただそれだけが心地よい瞬間を演出する一つだってことを。それは僕が特別、彼女にとって有能な存在だからじゃなく、僕らは共通している部分が、その他の人間よりも多いというだけのことであって、それは好きとか恋とか、そういった特別な感情が一方にあるわけではないということを、僕は何と無く感じ取っていた。そしてその空気感を、僕らは共有しているのである。
「何も言わなくてもわたしはわたし。それだけはわかってくれますか」
「僕が今日見ていた景色は、何も語らずともここに広がっていた。あなたも僕もそうあるべきで、それ以上はいらないような気がするんです」
この心が生み出すものと、僕らが感じるすべて。そこに差異はない。
星の下の