雨の日の臆病者
ぽつん
水滴が頬に当たった。僕は空を見上げる。西の空から黒い雲がたれ込んでいた。
学校からの帰り道、ミサトさんのマンションまで歩いて40分。頑張って走れば25分くらいだろうか?それまでに大降りにならなきゃいいなとショルダーバックのベルトをかけなおし歩く速度を速めた。
ぽつん
ぽつん
ぽつん
ぽつんぽつんぽつんぽつんぽつぽつぽつぽつ……
早歩きが小走りになり、いつの間にか全速力。
水滴は徐々に数を増やし途切れない連打、雨となり地上へ降り注いだ。半そでの白いTシャツと黒いズボンはびっしょり濡れ肌にぴったりくっつく。髪もすっかり濡れて前髪が額に張り付いた。髪から顔に流れた雨水を何度か拭ったが流れは止まらない。「まったく、ついてないや」と独り言をつぶやいた時、雨水が口に入った。少ししょっぱかった。
濡れた制服の重みと雨による体力の消耗、そしていきなり全速力で走ったことによる呼吸困難。
マンションまでは一気に走ろうと思ったけど体力の関係上やっぱり無理。
どこかで一旦雨宿りしたい。
僕は少し速度を落としながらこの近くに軒下などの雨が凌げそうな場所を考えた。頭に浮かんだのはここから300、いや500mくらい先にある、とある店の軒下。
そこの軒下には数時間に一本しかこないバスの停留所と古ぼけたベンチがある。その場所が今みたいに雨宿りを望んでる僕にとっては砂漠のオアシス的な場所になるのではないだろうか?状況は全く逆だけど。
そんな事を考えていたらバシャっと水溜りに足を踏み入れてしまった。もとより濡れた靴、どってことない。雨水ごとアスファルトを蹴り前へと駆ける。僕はショルダーバックを小脇に抱えなおし雨宿りと定めた古ぼけた休憩地点まで先を急ぐことにした。
だんだんと激しくなる雨、ようやく「雑貨屋」と書かれた大きい看板が見えてきた。その場所目掛けて僕は最後の力を振り絞って走る速度を上げる。
目的地まであと少し、なところで僕は店の軒下に先客がいる事に気づいた。誰だかを確認するよりも前に僕は雨からの避難を優先させ軒下へゴールする。ようやくの雨から開放に息を吐き出す。ショルダーバックをアスファルトの地面に下ろし、両手で足の膝を掴んで――体を逆「く」の字の状態で大きく息を吸って、吐いて、吸って、吐いてを繰り返した。
落ち着いたところで膝から両手を離し髪をかきあげる。体を起こして先に居た雨宿り仲間を確認する。
透明な水色のショートヘア、真っ白で綺麗な肌……ベンチに座る彼女は宝石のような赤い瞳でじっと僕を見ていた。
彼女と僕は数ヶ月前に知り合ったばかりのクラスメートであり、共に戦う仲間……なんだけどタイミングがずれて、というか話すきっかけがないというかで今の今までまともに話したことはない。一度あったけど、あの時ビンタされたし。いや、あれは僕の言葉運びが悪かったんだけど。
声をかけるか迷い、悩み、そして決意して僕は彼女の名前を呼んだ。
「綾波」
「碇君」
綾波は僕の名を呼んでくれた。僕の名を呼んでくれた事に嬉しさを感じ口元が緩んだ。
タンタンタンタタッタン
タタタタッタンタンタッタン
朽ちかけたトタン屋根に降り注ぐ雨。音が不規則に鳴り響く。音楽にならない音、だけどそれは一種のリズムとなり僕の耳に届く。
僕の後ろのガラス張りの引き戸を見た。頑丈に閉まった扉、僕がこの街に来た時から常にカーテンが引いてあり開いている場面を見た事がない。使徒の影響か分からないけど閉店してるようだった。
僕の名前を呼んだ綾波はすぐに視線をそらし雨が降る景色を見ていた。
僕は再び声をかけようかと思ったけど何回かのくしゃみと共に全身を襲った寒気で自分が風邪を引く手前だと気づき、大慌てで制服のYシャツを脱いで絞った。本当はTシャツも脱いで絞れればいいんだろうけど綾波がいる前でそんな事恥ずかしくてできないし……脱いだYシャツで体を拭いたりバックの中身が濡れてないか確認したり思いつく最善の事はした。でも、早く帰ってシャワーでも浴びないとヤバイんだろうなぁ……。
綾波が座ってるベンチを見た。誰かと誰かの相合傘、アニメのキャラクターやバカヤローの文字、いろんな落書き。僕は少しずつ、少しずつ自分の視野に綾波を映していく。あと少しで僕のフィルダーに綾波を捉える事ができる……
ゴロゴロゴロッ
いきなり大きな音が辺り一帯に鳴り響いた。その音に体を震わせ肩を強張らせた。僕は惜しみながら綾波から視界を外し雨が降る外の景色を見定めた。
辺りは水煙と雨粒しか見えない、違和感を生じるものは確認できない。音に不安を感じながら周囲に気を配り地面に放置したままの濡れたバックに手をかけた。
連絡手段である携帯を捜してる時、西の空がピカッと光った。そして山に雷が堕ちる。
使徒を連想させた大きな音の正体は雷だった。携帯にはネルフからの着信履歴は入ってない、使徒でない事を確認できた僕は緊張を解いた。
再び雷音が鳴り響いた。何度聞いても耳に慣れない音に内心ビビリながら綾波を見た。
綾波は毅然とした態度でベンチから微動だにせず西の空を見ていた。
彼女の左隣に大きな雫が落ちた。ベンチに落ちた雫が跳ねて彼女のスカートにかかる。その小さな水しぶきに気付く事無く、ただじっと雨の情景を見つめている。
ゴロゴロゴロッ
先程とは比べられない大きい音。耳を塞ぎ目をしかめた。両手で音をさえぎっていても雷音は聞こえる。長く続いた音がようやく聞こえなくなり静かに目を開いた。綾波は音に怯える事無く、雷の全てを受け入れるかのようにじっと西の空を見つめていた。
その姿を見て思った。
綾波の中に僕は存在しない。
雨に濡れた体が冷え全身に寒気がした。いや、体じゃない。心が冷えたから寒気がしたんだ。
寂しさに目に涙が溢れそうになる。
僕を見て欲しい、どうすれば綾波は僕を見てくれる?
「…………綾波は雨が好きなの?」
「どうしてそう聞くの?」
「あ、いや……」
僕が取った手段は抱きしめる事でもなく手を繋ぐ事でもなく、綾波に小さな質問をすることだった。
僕の言葉に反応して、と願いを込めた質問は綾波に届いた。
質問に対して質問返しをしてきた綾波。僕は言葉を詰まらせた。どうしよう、振り向いて欲しかったが故の質問だから実際のところ意味はまったくない。でも、ここで曖昧な事を言ったらせっかくの繋がりが消えてしまう。僕は体の冷たさを振り切るように下唇を強く噛み『意味』を考えた。
「あー、うん……そう、雨を受け入れているようだから」
必死で考えた綾波の質問への答え。さっきの綾波を見ての綾波のイメージをなんとか言葉にしてみた。僕の気持ちは伝わっただろうか?
「分からない」
だ、だよね……ごめん、と謝ろうとした、でもそれよりも先に綾波の言葉が続いた。
「でも、綺麗だと思う」
綾波は聞き返した。
「碇君は?」
「え?」
「碇君は雨、好き?」
綾波は雨を『綺麗』と表現した。
僕は雨をどう思っているのだろうか。
好きなのだろうか?嫌いなのだろうか?
綾波から目を逸らし、外を見た。先程から降り続ける雨。
目だけではなく五感を研ぎ澄ませる。
冷たい風が頬に触れた。
屋根から落ちた雫が肩に落ちた。
地面から立ち上がる雨独特の匂いを嗅いだ。
そして雨音、
そう、雨音。
「雨の日は音がしないんだ……雨の音は周りの音を吸収してくれる。雑音がない世界に落ち着いてる僕がいる」
雨の冷たさ、濡れた感触は好きになれない。今も早く帰ってさっぱりしたいと願っている自分がいる。でも、嫌いではない。雨が作り出す世界に惹かれている事に僕は初めて気づいた。
僕はその事に気づかせてくれた綾波を見た。綾波は僕を見つめていた。その視線に少し照れながら目を合わせ笑いながら答えた。
「僕は雨が好きだと思う」
その答えに綾波は笑ってくれた。その笑顔はヤシマ作戦の時に見た笑顔とはちょっと違って、僕の言葉に肯定を表す優しい笑顔だった。
今なら聞けるかもしれない。綾波に聞きたい事、聞けるかもしれない。
「ねぇ、綾波。綾波は――」
ビビーッ、ビッ
僕の言葉は車のクラクションに遮られ声がかき消された。雨が降る方を見るといつの間にか黒い車が止まっていた。運転席から黒服の男の人が降りてくる。
「ごめんなさい」
綾波は静かに立ち上がると僕に謝る。
黒服の人は傘を差しこっちへ歩いてきた。傘を差したまま軒下へ入るとその傘の中に綾波は当たり前のように入った。黒服の人そのまま振り向き、綾波と共にゆっくりと黒い車に向かっていく。僕は綾波が去るその姿をじっと見つめることしかできなかった。
後座席の車のドアが開き、綾波は車に乗り込む。
「……父さん」
綾波が乗り込む時に見えた。父さんが車に乗っている。綾波だけをじっと見て僕を見てくれない。父さんは僕に気づいていないのだろうか、それとも……いや、気づいていないだけだ。きっとそうだ、そうだと思い込む僕。
綾波が車に乗り込むと車は静かに立ち去っていった。
僕は雨から目を逸らし、綾波が座っていた場所を見つめた。
『綺麗』の言葉、優しい微笑み、聞きたかった事、車に乗っていた父さん――
父さんは僕を見てくれなかった
僕は頭を振った。さっきも思ったじゃないか、父さんは気づいてくれないだけだって。
ショルダーバックのベルトを手に握るとそのまま肩にかけた。そして迷いなく激しく降り注ぐ雨の中に飛び込む。
僕は、ただ走る。
綾波の笑顔を胸に秘め、それ以外何も考えず、ただひたすらにひたすらに――
きっと、雨は嫌な事を洗い流してくれる。
少女は車の窓から流れ行く景色を眺めていた。空は黒い雲、いつ止むか分からない雨が降り続く。
少女はぼそっと何かを呟きは。呟きは隣に座る黒ひげのサングラスの男に音として聞こえた。言葉が聞き取れなかった男は少女に声をかける。
「どうした、レイ」
「……何でもありません」
少女がそう答えると男は「そうか」と呟き、少女から視線を外し運転席に座る男になにやら指示を出していた。
少女は、彼の言葉が気になっていた。
碇君は私に何を言おうとしたのだろう。
私の名前を呼んで、何を聞こうとしたの?
少年の言葉を思い出す。
雨、音、落ちつく、私の名前
そして『好き』
雨に対しての言葉に少女の心が反応する。
少女には駆け抜けてく景色を映っていない。彼女の目には一人の少年が焼きついた。彼の事を思う事で胸に秘めた違和感が芽生える。それは寒々とした空気を感じさせない暖かな気持ち。
この気持ちは何?
少女の持ちゆる知識を持っても違和感に対する答えは出ない。彼女は口を動かす、声にせず名を呟く。それはさっきまで目を合わせていた優しき笑みを表現できる少年の名前。彼の事を何度も思う。その度に胸に暖かさを宿らせた。
彼女が違和感の名前と意味を知るのは、もう少し先の話である。
雨の日の臆病者