初雪

物心がついた頃から、息を吸うのも億劫だった。
夜寝る前には、このまま死ねばいいのにと願って、目が覚めると、まだ生きている事実に絶望する。一層の事、首でも吊って死んでやろうかとホームセンターで麻縄を買って、カーテンレールに括り付けたこともあった。がしかし、毎度毎度、意識を失う寸前で生存本能が働いて失敗してしまうのだった。どうやら、精神は死にたくて堪らない一方で、肉体は生きたいらしい。
どうしようもない八方塞がりな状態のまま、今日もベランダで煙草を吹かす。このまま肺癌にでもなってくれれば、どんなに嬉しいことか。深く呼吸をしてニコチンを肺に送り込むと、健康すぎる体はそれを拒絶して咳き込んだ。
窓硝子越しに携帯電話の点滅が見える。咳き込んで潤んでいた瞳には、それがプラネタリウムの輝きにも思えた。まだ半分以上残った煙草を、塀に押し当てて消火し、部屋に入る。受信メール一通。
『元気にしてる?』
サブディスプレイに表示された言葉が、なんとも愛おしく感じて無精髭の生えた薄っぺらな頬に、それを押し当てた。


 彼に関する一考察

兄が死んだのは、初雪が降った日だった。今年一番の寒波が三回目に訪れた日、なんとなく送らないといけない気がして送った他愛もない世間話のメールが、その引き金を引いたらしい。
彼と最後に話したのは、いつだっただろうか。大学で何の面白みもない講義を聞流しながら、そんなことを考えたのが始まりだった。三年と四ヶ月離れた兄は、俗に言うニートというやつで、昔から碌に勉強もせずに部屋の隅で蹲って新聞を眺め、分厚い小説を読んでいる、奇妙な人だった。友人の話をしていた記憶も、ましてや、学校の話をしていた記憶すらもない。高校を卒業して家を出るまで、彼は部屋の隅で活字を追うだけの人生を歩んでいた。それに対して妹である私は、彼と血が繋がっているとは思えないほど社交的な人間だった。これが反面教師というやつなのね、と去年まで彼の担任をしていた若い女教師が苦笑いしていたのを今でも覚えている。
 彼の眠る棺を右手でゆっくりと摩り、呟いた。
「ねえ、わたし、あなたの妹でよかったなんて、ちっとも思えないの」
 あなたは今まで私をどう見ていた? どう感じていた?
「わたし、あなたが彗星のように見えたわ」
 だって、あなた、まったく見えないまま、わたしの隣を通り過ぎてしまったのだもの。
「さようなら」
 右手で拳を作って、棺を軽く叩いた。カラン、人間が入っているとは思えないほど軽やかな音が鳴った。
 兄の骨を墓に納める頃には、もう今年一番の寒波も数えられないほど訪れていて、冷たく乾燥した風が私たちを迎えた。憔悴しきった母親の瞳には、かつての生気は全く感じられない。父親は心なしか頬がこけたように見える。隣に立つ私だけが平然として、両親と私の間には何も繋がりがないようにさえ思えた。両親の他にも、祖父母や、彼と接触がなかっただろう叔母たちでさえ、皆が皆、示し合わせたように両目を黒いハンカチで押さえて啜り泣いている。
どうして、この人たちは泣けるのだろう。気持ち悪い疎外感を抱えたまま、式は進んでいく。
早く終わればいいのに。
墓石を見つめ、一人呟いた。


 海水で川魚は生きられない

 決断を下した後の行動は、自分でも驚くほど速く、しかも段取り良く進んだ。まず、近所のドラッグストアへ行き、普段使っているものよりも、ほんの少し高価な剃刀と、最期の晩餐のためのつまみと酒を買う。そのままガソリンスタンドへ向かって灯油を買った。普段何もせずに過ごしている体にとっては重労働だったが、これで死ねるという安心感が疲労を麻痺させる。
部屋に入るとすぐにシャワーを浴びた。燃えてしまえば意味はないが、最期くらいは清潔にしておきたい。浴槽の小さな窓から見える忌々しい夕焼け空を睨みつけ、伸びきった髭を剃り落とすと排水溝に黒い塊ができた。自分の体から生まれたものとはいえ、いや、だからこそ醜く見えるそれらに、決して触れないようにして全身を清める。全身にこびり付いた垢を落とすと、皮膚が一枚捲れたようだった。
数週間ぶりに風呂上がりの後の風の心地よさを感じながら、紙コップに焼酎を注ぐ。普段は決して飲まないような銘柄だ。どうせ今日の夜に死ぬのだから、どこかの教主のように贅沢をしたところで、誰も咎めはしない。黄色いビニール袋に入ったスルメイカを取り出して口に含む。塩辛い味が口内を反響した。
自分が思い描く幸せを堪能したところで、ふと、脳内で「遺書は書かなくていいのか」という声がした。
自分が遺書を書けるような人間でないことは百も承知だ。俺は妹のように社会でやっていけるような人間でなければ、「恥の多い生涯を送って来ました。」と書いた文豪のように世間様に何かを残した人間でもない。遺書なんて大層なものを残せるような人生を送ってきていない自覚と自信だけは人一倍ある。
ならば書かなくていいのか。自分が死ぬ理由を明確にしなくてもいいのか。
脳内の問いかけに鬱陶しさを感じ、煙草を咥え、机の上に転がるサインペンを握ると、煙草のパッケージに「海水で川魚は生きられない」とだけ書いて、煙を吐き出した。


 春一番

 春一番が吹いたとニュースになったのは、つい先日のことだった。これでやっと暖かくなるのだと安心したのも束の間、それならば尚更、早く兄の住んでいた部屋を掃除しなければならないと母親が嘆いた。
遺族の務めですもの。そう言う母親を見て、改めて私が遺族だという事実を心底鬱陶しく感じた。血の繋がりしかない兄のために、私はどれだけのことをしなければいけないのだろうか。
そうして、嫌々ながら初めて立ち入った兄の部屋は、汚いの一言で全てを片付けられる部屋だった。まず、ドアを開けた瞬間に腐敗臭がするし、玄関さえも本が浸食していて、靴を脱げるようなスペースもない。
仕事があるから行けないと断った父親が、ひどく恨めしく思えた。私だって、授業さえあればこんなところに来なくて済んだのに。待ち焦がれていた春休みも、これでは台無しだ。
「……本当に、入るの?」
 母親に尋ねると、彼女は顔を引きつらせて、「当たり前でしょ」と答えた。
「ここで待っててもいい?」
「だめよ。お兄ちゃんのもの、片付けなきゃ、ね?」
「えー……。終わったらアイス買ってくれる? ハーゲンダッツだよ?」
「買ってあげるから」
「やった!」
 その言葉に釣られて、私はゴミ屋敷に踏み込んだ。廊下を進んだ先で待っていたのは、様々な種類のゴミと、塔のように高く詰まれた本たち。よくもまぁ、こんな場所で生活できたものね。私なら絶対に無理。と兄に言えるものなら言ってやりたかった。
 予め持ってきていた透明なポリ袋に、ゴミに見えるものを全て入れていく。食べかけのスルメイカ、吸殻の溜まった灰皿……目につくものを片っ端から袋に入れていく。袋が満杯になるのは、時間の問題だった。
「おかーさーん! いっぱいになった袋ってどうすればいい? 廊下?」
 袋からゴミが出ないように結んで母親の指示を待ってみたものの、一向に返事はない。
「お母さん……?」
 まさか、この悪臭に倒れてしまったのではないか。焦りを感じて辺りを見回す。窓の近くに高く詰まれた文庫本の塔のすぐ近くに母親はいた。
「どうしたの? 気分悪いとか?」
 散かるゴミとゴミの間を進んで母親の後ろにしゃがみ、背中を摩る。
「……大丈夫」
 そう答えた母親の瞳には水滴がついていた。
母親は、また兄のために涙を流していたのだ。そのことに気付くや否や、胸の奥がチクリと痛んだ。ごめんなさいね、と謝る母親も、その原因を作った兄にも、あまつさえ、ここにいない父親にさえ苛つきを覚える。ふざけないでよ、なんでこんな人のために泣けるの。舌先まで出かかった言葉を理性が塞き止めた。
「――ちょっと休憩しよう? 私、ハーゲンダッツ食べたい」
「そう、しましょうか」
 母親が立ち上がり、ドアに向かう。その後ろをついて出た先に見えた柔らかい日差しは、私達を労っているようだった。


 理想の形

 深夜、誰にも見られないようにアパートを出た。向かう先は三キロメートル程離れた空き地。近くに住居はなく、燃え移りを心配する必要はない。焼身自殺にはうってつけの場所だ。
俺のような社会のゴミが死なせていただくのだ。他人様に迷惑をかけてはいけないし、首つりや一酸化炭素中毒のように簡単かつ苦痛の少ないもので死んではいけない。きっと、今まで失敗し続けていたのは、お前にそのような方法で死ぬ資格などないということだろう。何もない空き地で焼身自殺をするならば、他人様に迷惑をかけることはないし、自分自身、存分に苦しむことができる。今日こそ、俺は海水しかない水槽から移動できるのだ。貧弱な両腕で満杯になった灯油缶を持ち歩くことは苦痛でしかないが、その苦痛こそが後で待つ極上の幸せに変わるのなら、腕の痛みなど、些細な問題でしかない。
高揚感に胸を躍らせ、空き地の前まで着いた。深く呼吸をしてから、神聖なそこへ足を踏み入れる。さあ、これで準備は全て終わった。あとは灯油を被り、ライターに着火するだけだ。
空き地の中央に胡坐を掻いて見上げた夜空は、手招きをしているようだった。


 ラッキーストライク

休憩を終わらせて、もう一度、今度は私一人で兄の部屋に戻った。母親には刺激が強すぎたらしい。一人で故人の部屋を片付けるのはなんとなく怖いけれど、また母親に泣かれるよりは何百倍もマシだ。最近テレビでよく聞くアイドルの歌を口ずさみながら、ゴミをまとめていく。深く考えずにゴミを判別しているせいか、部屋はみるみる内に綺麗になっていった。
残りはさほど物がない机の上だけ。あと一時間もあれば、ゴミ出しまで終わるだろう。机の上に散かるカップ麺の容器や紙コップを袋に入れる。中途半端に残った煙草もあるけれど、残りの家族は誰も煙草を吸わないから、これもゴミだ、捨ててしまおう。手に取って袋に入れようとしたところで、側面に書かれた文字が視界に映った。
『海水で川魚は生きられない』
 煙草のロゴが大きくて目立たなかったけれど、白い側面に細く小さな文字で、確かに、そう書いてあった。
「何これ」
 この言葉を書いたのは恐らく、いや、絶対に兄だ。遺書か何かのつもりだったのだろうか。それにしても、何を言いたいのかがさっぱり伝わらない。捨ててしまっていいものではないだろうが、気力を無くしかけている両親に見せられるものでもないだろう。ここに母親がいなくてよかった。ジャケットのポケットに煙草を入れ、残りのものは全て袋に詰め込んだ。
 ゴミをまとめる作業はこれで全て終わった。けれど、これで全てが終わったというわけではない。これから部屋中の本をまとめる作業と風呂場やらトイレやらの掃除が待っているのだ。
春一番が吹いたとはいえ、日はまだ短い。網戸越しに見える夕焼け空は、薄く群青色がかっていた。それだけ見て今日中に全てを片付けるのは無理だと悟った私は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して母親に電話をかけた。
「もしもし、お母さん? ゴミをまとめるとこまで終わったけどさ、今日だけで全部やるのって難しくない? 残りはまた今度にしようよ」
「……じゃあ、ゴミ出しだけお願いね」
「はーい」
 通話を切って、廊下にまとめたゴミ袋を見る。五、六袋のゴミ袋が、そこに鎮座している。片手に一袋ずつもってアパートの階段を下ったとして三往復くらい。正直、面倒くさいと思いつつアパートの階段を下る。
 全てのゴミを出し終わり、母親の待つ車まで着いた頃には、薄くかかるだけだった群青色が濃紺に変わっていた。
「お疲れ様」
 母親が車内に招き入れる。
「どうも」
 助手席に置かれたクリームパンをどかして、そこに座る。
「これ、食べていい?」
「そのために買っておいたのよ。当たり前じゃない」
「いただきまーす」
 クリームパンを頬張る私の様子を満足そうに見た母親は、車を出発させる。やっと日常に帰ってこられたような気がした。


 カストルとポルックス

 時刻は午前二時ちょうど。望遠鏡はないが、夜空の星々の煌めきは手を伸ばせば届きそうなくらい近くに感じる。死にたがりが三角定規の上に座って「はやく来いよ」と俺を呼んだ。彼を見つめながら、四方の隅によく見れば薄く積っている初雪を履き潰した青いスニーカーで踏むと、何の音もたてずに、それらは土に溶けた。
 さあ、そろそろ自分も溶けてしまおう。
空き地の真ん中で正座をして灯油を被る。刺激臭が鼻孔を刺した。数滴か体内に入ってしまったが、これから燃え尽きる身にとって支障はない。初めて煙草を買った時から使い続けて、傷だらけになってしまったライターに視線をやる。こいつで火をつければ全てが終わるんだ。石像のようになってしまった左手に右手を重ねてフリントを擦った。
瞬間、両手に激しい炎が襲いかかった。
「っわぁ」
 情けない声をあげてライターを放り投げる。それは火を灯したまま足元に着地して逃げ場をなくした俺を取り囲んだ。
後悔はないか、と炎が問う。
生まれてきてからずっと後悔しかしていないんだ。もう、何を後悔すればいいのかわかりゃしないさ。焼けた喉からは、もう声を出すことも、息を吸うこともできずに、吐き出されなかった言葉は灰に消えた。
痛覚が刺激され続ける中で意識を失うこともできずに、俺は自身の肉体が燃えていく様を感じていた。孤独や焦燥といった普段俺を追い詰めていた鬼たちは、もう逃げ帰ったようで、幸福が俺を優しく包み込む。いつまでも無意味に続くと思えた苦痛から切り離してくれた炎は、神様と呼べばいいのだろうか。
痛い苦しい痛い気持ちいい助けてたすけてたすけ――


 前略、お兄様へ

 地獄での生活、楽しんでいますか。自分の殻に閉じこもって窒息死した貴方には、さぞやお似合いの場所でしょうね。貴方の遺した本の中に死に関するものが多数あったと記憶しておりますので、きっと、この手紙がそちらへ届く頃には、それらの通りに舌を抜かれて火の海のバカンスを楽しんでいらっしゃることでしょう。

 貴方が死んでから、今日で五年の月日が流れました。
 私は無事に大学を卒業し、中小企業で働いています。定時で帰れることは滅多にない上に、上司に気に入られて不倫の誘いを受けました。勿論、お断りしましたが。全くもってついていません。
 お父さんは、もうすぐ定年退職の年になります。貴方が死んでから最初の二、三年こそは気が狂ったように毎晩泣いていましたが、今となっては、そんなことどうでもいいようです。最近やけに身なりに気を使うようになったので、どうせ浮気でもしているのでしょう。
 さて、時間もありませんので本題に入りましょうか。いえ、時間は十分あるのです。なんせ今日は日曜日ですから。ただ、貴方などに裂く時間がないだけで。

 つい最近のことです。お母さんが若年性アルツハイマーになりました。
前々から薄らとそんな予感がしていたのですが、この間、お医者様から言われてしまったのです。お母さんに残された時間は、多く見積もっても残り八年。今朝も鍋を焦がしながら貴方のことを探していました。最初こそは一々説明をしていましたが、今では二人とも見て見ぬふりです。そうすれば、誰も傷つかずに済みますから。お母さんの心臓が仕事を忘れてしまうまで、ずっと、貴方のことを探し続けるのです。手紙を書いている今だって、すぐそこでお母さんが貴方の名前を呼んでいます。イヤホンをつけて音楽を聴いていても、はっきりと聞こえます。

ねぇ兄さん。
 五年前にも言いましたけれど、私、貴方の妹でよかっただなんて、ちっとも思えないの。
 むしろ、他人であればよかった。
 そうすれば、こんな柵に苦しむこともなかったでしょう?
 貴方が自殺した時も、お父さんが浮気していることに気がついた時も、お母さんの病気が発覚した時も、誰も助けてくれなかったわ。だって、他人の家庭の事情に首を突っ込むなんて面倒でしかないもの。私がもし他人の立場だったら、絶対に助けたりなんかしないわ。
 だから、私は全部放り投げて家を出ます。
 両親と、貴方とも縁を切って、この牢獄から逃げ出すの。会社の独身寮に入れば、衣食住は保障されるわ。お母さんのことは可哀想だと思うけれど、治る病気じゃないのだから諦めるしかないでしょう。お父さんは厄介払いが半分終わったと喜ぶことでしょう。
 さようなら。
草々

 追伸。間違っても貴方に会いに行くことは有り得ませんのでご安心ください。


 白地の紙に灰色の罫線が引かれただけの味気ない便箋に近況を綴り、兄の写真が飾られた仏壇に供える。線香に火を灯し、鈴を鳴らす。我が家には不釣り合いな澄んだ音が部屋に響いた。これで全て終わらせたのだと思うと、心底笑いが込み上げた。
「あら、どうしたの?」
「なんでもないよ」
 不思議そうに私を見る母親に背を向けて、私は玄関の扉を開けた。

初雪

初雪

死にたがりの兄と、後片付けに追われる妹と。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-20

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