夜明けのハイタッチ
お一人でも読んで下さる方がいらっしゃるなら、再生の思いを込めて、人生の哀歓を綴りたい。
夜明けのハイタッチ
立春が過ぎても、寒い日がつづく。
目が覚めた。散歩に出掛ける時間だと思いながら、サイドテーブルの上の時計を見る。丁度五時だ。頭はよく、起きる時間を知っていると、苦笑しながら、ベッドから起き上がる。
と、
枕元の携帯が鳴った。
会社を定年退職してから、自治会の会長を引き受けさせられているので、町内の誰かが急病にでもなったのかと、急いで、携帯を耳に当てる。
「もしもし、お父さん! 元気ですか」
電話は、結婚して隣県に別居している、一人息子からだった。
「どうした。朝早くから、急用か」
「ご無沙汰して済みません。実は、お母さんのことだけれど・・・・」
と、息子の声が低くなる。
「お母さんのことなら、もう、お父さんは関係ないよ。離婚したいといって、一ヶ月程前に、突然、家を出て行ったからね」
妻が持ってきた離婚届に、印を押してやったら、スーツケースに、身の回りの物を押し込んで、一人暮らしをしている、大学時代の女友達のところで暮らすのだといって、家を出て行ったのだ。
「そのことは、お母さんから一寸、聞いているけれど、実はね、お父さん」
と、息子の声が一層、小さくなる。
「実はね、お母さんが入院したんです」
「入院? 病気か」
共稼ぎで今も、五十歳半ばを過ぎても、勤め先を一度も休んだことがない位、健康な身体が、病気で入院したとは信じられない。
「車を電柱にぶつけて、右足を骨折して寝たきりなんです」
息子の話では、車が横道を出た途端、曲がり角の電柱に衝突したのだという。
母親から電話がかかってきて、救急車で自宅近くの病院に、入院したことを知ったというが、会社員の息子は、支社に転勤したばかりで、嫁は、乳飲み子を抱えている。
「お父さんが、お母さんの面倒を見てくれたら、助かるけれど、無理かな?」
電話は、自分の家から掛けているといった。
「病院には、散歩のついでに寄ってみるよ。お前は、会社を休まなくてもいい」
今朝は、新聞配達をしている加奈に、逢えないと思いながら、外出の支度をする。
テラスに、うっすらと雪が積もっている。珍しく、夜中に小雪が降ったのだ。
歩数計を腰にぶらさげて、二キロ程先の公園の廻りを一周して、病院に寄る。
病院内は、もう、係員が清掃を始めている。
妻の多代は、個室にいた。不安そうな目がベッドから見上げる。
「痛むのか」
声を掛けると、嬉しそうに表情を柔らげた。
「・・・・・・・・」
無言で頷く。無愛想な位、無口な性分だ。
「何か、いる物があったら、持ってきてやるよ」
「着替えのパジャマや、洗面道具がいるの」
と、いう。枕元のハンドバックから、財布を出して、
「これで、下着も新しいのを買って来てね。バスタオルは、貰い物が洋服箪笥の上に、箱のまま重ねて置いてあるから、二、三枚、持って来て」
と、いって、バックの中を掻き回している。
「何を捜しているんだ」
離婚しているはずなのに、そんなことは忘れた顔だ。
「これ、破いてね」
やっと、一枚の紙を見付けて差し出す。
「なんだ、届けなかったのか」
「捨てて頂戴」
怪我が骨身にしみたのか、しおらしく俯く。
家出したことを謝りもせず、勝手な奴だと思いながら、口に出せず目の前で、離婚届を二つに引き裂いて、ジャケットのポケットにねじ込む。
家に帰ってから、始末すればいい。
「金はいいよ。又、昼頃に来るからね」
財布は置いたまま、病室を出る。
門の郵便受けに、新聞が入っていた。
「加奈は、配達が終わった頃だ」
と、思いながら、新聞を片手に、玄関に入ろうとすると、
「おじさーん」
加奈が、大声で呼びながら、自転車を走らせてきた。
散歩の途中で、配達中の加奈と、公園で出会うのがだが、今朝は病院に寄ったので、顔を合わせていない。
「急用が出来て、公園に行けなかったんだ。済まなかったね」
家出を知っているが、入院のこと迄、話して心配をさせたくない。
「風邪を引いて寝ているんじゃないかと、心配したんよ」
寒さで、両頬を真っ赤にしている。
「あったかいコーヒーを飲むかね」
「加奈、朝はちょう忙しいじゃん。おじさんの元気な顔を見たら、安心したわ。じゃね、ハイタッチ」
友達にするように、ピタッと両手を合わせる。加奈独特の親しさの表わし方だ。
これから、おばあちゃんのいるホームに行くのと、ニッコリ笑って、身軽に自転車に飛び乗る。
加奈を見送って、家の中に入る。
「来月は、高校卒業か」
熱いお茶を入れながら、感無量になる。
祖母と二人で暮らしている加奈を知ったのは、自治会の会長を引き受けて、まもなくの頃だ。
三十数軒ある町内は、古い住宅が並び、子育ての終わった老夫婦や、男年寄りや,女所帯が多くなっている。年寄りと孫の加奈のところは、特に気を付けて見回っていた。
両親が若い時に、相次いで病死したため、祖母に育てられたというが、おばあちゃんの少ない年金で暮らしていることを知って、生活保護を受けることをすすめた。
「只で、お金を貰うのは嫌じゃん!」
と、いって、キッパリ断わった加奈は、やっと、中学生になったばかりだった。
クラスメートから、新聞販売所で、配達員を募集していると聞いて、早速、応募した加奈を、所長は、こんな小さな子供が勤まるかなと、思いながらも、人で不足でもあり、本人も、熱心に休まずに働くというので採用した。
加奈は、どしゃふりの雨の朝も、ずぶ濡れになりながらも休まず、小さな身体が吹き飛ばされそうな大風の朝も配達した。
ステーションの奥さんが、見兼ねて、
「無理せんでもいいのよ。天気の悪い時は、休むといってくれたら、私が代わりに配達に出るからね」
と、いっても、
「有難う。大丈夫じゃん」
と、大きな目をくりくりさせて、屈託なく明るく笑う加奈を、販売所や、町内の人達は、健気なしっかりした娘だと、感心している。
悪いと思いながら、聞いたことがある。
「亡くなったお父さんや、お母さんを思い出すことがあるかね」
「ううん、ちいちゃい時に亡くなったから、顔も知らん」
「淋しくないか」
「ぜんぜん、大きくしてくれたおばあちゃんがいるから、加奈、ちょうラッキーじゃん」
何時もの癖で、横を向き大声で笑う加奈は、暗さのみじんもない元気な娘だった。
去年の秋、祖母が脳梗塞で倒れた。救急車の手配から、入院の際、身寄りがないというので、保証人になってやった。
高校を卒業したら、働くという加奈は、本当は、看護学校に入りたいのだといった。
希望を叶えてやりたいと思い、市役所に相談して、学費を貸りられるようにしてやる。
「必ず、優しい親切な看護師になる」
と、加奈は、飛び上がって喜んだ。
試験に合格して、四月から、隣市の看護専門学校に入学して、学校の寮に入り、三年間、市の奨学金とアルバイトで頑張るという。
半身不随になった祖母を、特別養護老人ホームに入所出来るよう、身元引受人になってやり、住んでいた借家も家主に返して、加奈を同居人として、新しく住民届けを出した。
親代わりに、何かと力になってやれたことが嬉しい。加奈のために町内会で、送別会を開いてやりたいと思う。
三月に入ると、寒い日よりも、暖かい日が多くなった。桜の開花は早いかと、思いながら昼近く、洗濯物を持って病院に行く。
多代は、ベッドの端に掴まって、棚からパジャマや下着類を取り出していた。
右足のギプスは、二、三日前にとれている。今日、退院するという。
「大丈夫か、もう少し、病院にいた方がいいのと違うかね」
「あとは、リハビリだけだから、外来に通うことにしたの」
主治医に、退院の許可を貰ったといった。
友達が、結婚相手を連れて見舞いに来たという。
「一緒に、ハワイ旅行に行けなくなったけれど、ダンナと旧婚旅行もいいじゃない。多代のお陰で、やっと、気持ちが落ち着いたわ」
大柄な婚約者は、温和な感じがした。何事も自分の意思のまま、独身を通してきた友達と、案外、うまくいくカップルかも知れない。
「どうして、私のお陰で落ち着いたのよ」
友達を睨む。
「折角、自由になったのに、少しも嬉しそうな顔をしないし、何時迄も荷物を運んでこないで、スーツケース一つで暮らしているからね。離婚を後悔していると思ったのよ。なんだか急に、独りでいる自分がみじめになって、多代が来て、かえって老けた気がして、鏡を見るのが嫌な位だったの」
今の顔は、丁寧な化粧のせいか、晴れ晴れとして若々しい。
ハワイで二人だけで、結婚式を上げるといって、
「お土産を楽しみに待っていてね」
一週間したら帰ってくるといった。
多代の怪我など、眼中になく、自分達のことを話すると、照れている相手の腕を掴んで、颯爽と帰った、といって、
「早く、家に帰りたい」
と、多代は目を伏せた。
毎日、リハビリに連れて行くのが日課になった。
多代は、歩けるようになると、じっとして居らず、ガチャガチャと、騒々しい音をたてながら、掃除や洗濯をしている。
ふと、気付く、この騒々しい音が、家庭の音だったのかと思った。多代が離婚届を付きつけて、家を去ってから、家の中のもの音は、一切、無くなっている。
自分一人になったが、別に不便はない。もともと、自身のことはほとんど、妻の手を借りずに自分で出来た。
多代は、朝はさっさとパン食で済ませて、出勤する。
六十歳で定年退職後は、毎朝、味噌汁を作り、パソコンで習った簡単な惣菜で食事した。
何時も、ガチャガチャと音をたてる妻を、煩さく思っていた。多代がいなくなり、一人暮らしをしていると、静かで落ち着くと思う反面、家の中からもの音が消え、話を余りしない相手でもいなくなると、ものたりない感じがする。
滅多に、差し向かいになることがなかったテーブルに、多代は、コーヒーを運んで来た。
「一ヶ月余り、友達のマンションで暮らしたけれど、なんのために家を出たのか、分からない程、つまらない毎日だったわ」
コーヒーを飲みながらいう。
「自由になりたいと、出て行ったのと違うかね」
「それが、大間違いだったの」
多代は、熱ぽっく多弁になる。
大学の同期生で仲のいい友達は、五十歳を過ぎても独身だった。
「相棒も子供もいらない。せっせと働けば、それなりの貯蓄が出来るから、年をとっても、みじめに暮らさなくても済む」
というのが口癖で、
「ダンナ持ちは、何かにつけて不自由よ。長期の海外旅行だって、勝手に出来ないし、イケメンに出会っても恋も出来ないしね。独りがいいわよ。自由で、好きなことが出来る」
といって、独身生活を謳歌していたはずが、多代と同居するようになって、生活態度が変わったのだ。
特別に不満はなかったけれど、寡黙な夫が煙たかった。
会社で嫌なことがあると、家で、カチャカチャと、騒々しい音をたてて気晴らしした。
「もう少し、静かに出来んかね」
と、文句をいわれる度に、わざと、ガチャガチャと音をたてて反抗した。
息子が独立して夫婦だけになると、夫は益々、口数が少なくなった。夫の厳しい態度に気おくれがして、喋りたくなる。
退社後に、同僚とお茶でも一緒にと思っても、夫が自分で食事を作っているのを思うと、帰りを急ぐようになる。
若い社員が、グループで楽しそうに話しているのを見て、六十歳近くの自分を意識する。息子は結婚して孫も生まれて、親の務めは終わっている。自分もあと四、五年で定年になれば、この儘、夫と老いてゆくのは侘しい。
若さの少しでも残っている今なら、アバンチュールが楽しめると、独身を謳歌している友達の言葉に浮かれるように、深く考えもせず、離婚届に印を押させた。夫が何もいわずに離婚を承知したので、拍子抜けする程だったが、若さのまだある内に、気儘に暮らしたいと、胸を膨らませた。
ところが、友達は、独身がいいといっていた日頃の言葉と裏腹に、勤めから帰ってくると、
「疲れたわ。若い人はちっとも動いてくれないのよ。責任ばかり背負うわさせられて、全く嫌になるわ」
と、すぐソファーに横になってしまう。
仕方ないから、先に帰っている多代が、食事の支度をするようになる。食器の後片付けも、洗濯物も、洗濯機に放りぱなしなので、自分の物を洗濯するついでに、友達の分も洗うようになる。
「まるで、家政婦に来たみたい」
と、思いながら、
「どうしたのよ。愚痴ばかりいって、休暇をとって、ハワイに行く約束じゃなかったの」
と、なじると、
「旅行は、もう少し待ってね。考えていることがあるの」
と、数日、のらりくらりしていたが、帰宅が遅くなり、外泊をするようになった。
「何処に泊まったの?心配したわよ」
日曜日の朝、遅く帰って来た友達にいう。
「ご免ね。私、結婚することにしたわ。結婚式はハワイで挙げることにしたの」
友達は平然という。
「結婚する? 独身がいいといっていたのじゃなかったの」
と、憤慨するが、友達は声を上げて笑った。
「私ね、考え直したのよ。毎朝、鏡を見る度に、皺が増えているように見えて、気が滅入ってね。五十位迄は若い連中に負けないと思っていた位なのに、五十歳も半ばになると、ぐっと、顔どころか身体までが年とった気がしてね。多代の方が羨ましくなったの。お金があったって、老後を独りぽっちだと思うと、この頃、泣きたい程淋しくなったわ」
結婚相手は、前に入っていたフラダンスのサークルで知り合った、五歳年下の独身のフリーターだという。
「多代がこのマンションで住みたいなら、ここに居てもいいわよ。ダンナの元に戻ってもいいわね。私は、彼の家に住むわ」
なんて、身勝手なことをいうのだろう。死ぬ時も一緒だったらいいわね。と迄いっていたくせに、腹をたてる前に、あまりにも軽率だった自分の行動が情けなく、全身の力が抜けた。
「今更、あなたのところに帰れないし、友達のマンションなんかにいたくない。アパートの部屋でも借りようかと、迷っていたら事故をおこしたの」
怪我をして入院した時、息子に電話して、今後のことを相談した。息子は、我儘をいわずに、お父さんのところに帰りなさいと、いったという。
ガチャガチャと音をだてて、気晴らしの出来る、夫のいる家の方がどれ程、気持ちが落ち着いたことか。何故、それが分からなかったのだろう。
友達のいうように、六十近くになって、顔ばかりか、身体迄が若さが失ってゆくのが分かった。せめて少しでも若さのあるうちに、一人になって思う存分羽ばたきたいと、夫の元を飛び出したが、楽しいことは一つもなかった。今になって、独身生活を謳歌していた友達が、急激に、身の振り方を変更したことが理解出来る。
話を黙って聞いていた。
多代は、同じ会社に勤めていた。恋愛の経験はないといっていた。真面目に働く多代を、
上司が、
「おとなしいが、しっかりした娘だ」
と、結婚をすすめた。
二人共、晩婚で、甘い新婚時代などなく、息子が成人すると、互いに打ち解けて、話をすることもなくなった。
多代は、外では明るく、誰とも親しく話をするのに、自宅ではむっつりと、必要以外はものをいわなくなっている。
会社勤めの頃は、仕事に忙しく、多代の気持ちなど、考えたことはなかった。退職後、暇が出来ると、妻の不機嫌な態度に、何が不服なのかと不愉快になった。
無愛想な相手となるべく、顔を合わせないようになる。
多代に出て行かれて、一人暮らしの味気なさを知った。
ガチャガチャと騒々しい音は、直らなくても、むしろ、賑やかでいいかも知れぬーー
「一人でいるより、二人でいる方が喜びは倍になり、悲しみは半分になるというからね。年とってからか、共に暮す相手が必要なんだろうね」
と、優しくなる。多代は素直に頷いて、
「済みませんでした。ご免なさい」
と、初めて頭を下げた。
集会所の庭に、ソメイヨシノの桜が満開になっている。
この集会所が出来た時、まだ、若かった住人達が記念に植えたのだ。
古木になったが、今年も、暖かい日差しの中に、枝を広げて、淡いピンクの色の花を咲かせている。
町内会は、加奈の送別会で、久し振りに活気ついた。午後からの集会に、今迄あまり、会合に出席しなかった者も、杖をついたり、歩行車を押したり集まった。
多代は笑顔で、元気のいい女年寄り達と、散らしすしや、清まし汁を作る。
「奥さんのお清し汁、本当にいいお味ね」
と、手伝う老主婦を褒める。
「年の功ね、おだしは料理の基本だからね」
相手は、嬉しそうに答える。
町内会の会費からの出費なので、ささやかな宴だが、それでも、すしの他に果物や茶菓子が並んだ。
和気藹々のうちに、宴会が始まる。
「春爛漫の四月、加奈ちゃんは、隣市の看護学校に入学のため、町内を発ちます。思えば、加奈ちゃんは、ハイハイも出来ない乳飲み子の時に、おばあちゃんに抱かれて、この町内に来ました。それから十八年近く、加奈ちゃんは今春無事に高校を卒業しました。おばあちゃんは、当市の特養ホームに入所していますが、加奈ちゃんとおばあちゃんは、私共の同居人として、住民届けを新たに市役所に届けたので、加奈ちゃんは、我が家の娘と同じです。中学生の頃から新聞配達をして、自立している健気な加奈ちゃんを、今迄通りどうか、応援してやって下さい」
会長として、挨拶をする。
加奈が立ち上がる。
「おじさん、おばさん、今日は加奈のために、集まって下さって、有難うございます。
長い間、いろいろとお世話になりました。おじさんおばさん達も、身体に気を付けて元気で暮らして下さい。加奈も頑張ります」
しっかりした口調で、礼をいう。
「加奈ちゃんや、立派な看護師さんになって戻って来てや。おばさん達は待って居るんでな」
「本当に、加奈ちゃんはしっかりしている。背が高くなって、べっぴんさんになった」
学校を卒業したら、地元の養護施設に就職して、町内に帰ってくるという加奈に
「きっとだよ。立派な看護師さんになって戻ってくるのを、私等は待っているからね」
古びた家に住む人達も老いている。それぞれのこども達は大人になると、皆、親元を離れて独立する。
加奈が唯一の若い娘だ。帰るという言葉に、人々は生きる望みを託すーー
お盆が回ってきた。用意してきた餞別の包が盛り上がる。
「加奈ちゃんの門出に奮発したよ」
「少ないけれど、おばさんの気持ちだからね」
「困った時は、遠慮せんとおいで、加奈ちゃんは町内の娘だよ。会長さんと相談して応援するからね」
人々は、口々にいう。
「有難う。おじさんおばさんの役にたつよう、一生懸命勉強する」
陽が傾けかけている。
名残り惜しい宴は終わった。
薄暗くなりはじめた中を、住人達は、三々五々に連れ立って帰って行く。
加奈は、おばあちゃんと暮らした家に、最後の夜を過ごしたいといった。
荷物は、多代から貰った大型の旅行鞄一つだけで、既に宅急便で学校の寮に送ってある。
入学式の時の服は、多代が一揃新調した。
明日限りで、加奈の 住んでいた家は、家主に返すことになっている。家具やその他の不要な物は、適当に処分することにしている。
「おばさんをママと思って、頼りにしてね」
と、いって多代は、集会所に持って来たスーツケースを渡す。
「新しい着替えの洋服や下着類が入っているからね」
多代は、又、別に持ってきた彩りの美しい花模様のピースのバックを出す。
「送別会の時、皆と一緒にお祝金を出したけれど、このお金は、おじさんとママからのプレゼントよ。役にたてて頂戴。アルバイトは、ゆっくり捜したらいいからね」
「おばさんをママと思っていいのね、ちょう嬉しい。お金はいいよ。販売所の所長さんや、配達のスタッフから餞別を貰ったの。お金のことは心配しないで」
と、辞退する。
「お金は、いくらあっても邪魔にならないわ。取っておきなさいよ」
多代は、娘にするように加奈の世話をするのが楽しい。
最後の我が家で寝たいという加奈を見送って、二人は集会所を出る。
体重を気にしていたが、すっかり細身になり、多代は若く見える。
長身の夫の横顔を見上げる。穏やかな表情に安心して、そっと手を握る。
夕暮れの風は、まだ冷たいが、多代には心地よく感じる。
夜が明けている。
新聞配達を早目に済ませて、加奈は公園に着く。
桜並木の側のベンチで、おじさんのくるのを待つ。
明日の朝早く、特養ホームにいるおばあちゃんに逢って、すぐ、電車で隣市に行く。入学式は翌日なので、充分、間に合う。
その前に、世話になったおじさんと話がしたい。ぎりぎり迄、新聞配達をして、販売所の人達に礼をいって別れた。
誰にも、町内を発つ時は、見送らなくてもいいからと断わった。ママになってくれたおばさんにもそういった。おばさんの入院は後で知ったが、気付かないふりをしている。いろいろと親切にしてくれるが、余り喋らないおばさんなので、甘えるのがためらわれる。
おじさんも無口だけれど、黙って、加奈やおばあちゃんに、温かく気配りをしてくれた。おじさんに、加奈の本当の心の中を知って欲しい。出発する朝、散歩のおじさんに、何時も逢う公園で別れたい。
両親を知らない加奈に、
「親がいなくても、肩身の狭い思いをしなくてもいいんだよ。人さんに迷惑を掛けなければ、堂々と、胸を張って生きてゆける」
と、いう祖母に育てられて、いじけないで大きくなった。
小学生の時、同級生から陰口をいわれた。
加奈は負けない。
「口惜しかったら、テスト、一番になりなさいよ」
「小さくたって、加奈は、走るのは速いじゃん」
と、いい返す。相手はしゅんとなる。
実際、加奈は参考書もないのに、夜遅く迄勉強した。新聞配達を始めた中学生になっても、クラスで一番で通した。部活も休まず、陸上で常にトップを走った。
担任の先生が感心して、特別に力を入れて指導してくれる。
高校生になった加奈は、背丈が伸び、陸上で鍛えた均斉のとれた身体は、若さが漲っている。
だが、加奈は決して強い子ではない。人知れぬ悲しさが心にいっぱい詰まっている。
堂々と胸を張って、人に弱さを見せないのも、おばあちゃんの教えがあるからだ。おばあちゃんの年金が入る前に、米が無くなって、庭先で作ったじゃがいもや、菜っ葉を入れた味噌汁で食事を済ませたこともある。
運動会の時、祖母がおにぎりと玉子焼きの弁当を持って来てくれた。友達は、親達に囲まれて、海苔巻きやきつねすしゃ揚げ物などの折詰を開いて、美味しそうに食べている。
加奈と祖母は、離れたところで、ひっそりと、おにぎりを頬張った。弁当が粗末なのが辛いのではない。運動会に来てくれる両親がいないのが悲しいのだ。入学式や卒業式の時も、腰の痛いおばあちゃんが杖をついて来てくれた。
おばあちゃんは、食べ物を倹約してでも、給食費や学用品代を用意してくれる。
祖母の前では泣かない。加奈以上におばあちゃんは、息子夫婦に先立たれて悲しいのに、加奈にも他人にも愚痴をいわない。
「幸せも、不幸せも巡り合わせですけん。仕方ないですよ」
孫娘との生活わ慰められると、あっけらかんと笑って答える。加奈は知っている。横を向いて笑うおばあちゃんの両眼に、涙が浮かんでいるのを。加奈も正面を向くと涙が滲む。労わってくれると横を向く。そして、朗らかに笑う。
「ぜんぜん、おばあちゃんがいるから、加奈、ちょうラッキーじゃん」
夜がくると、布団にくるまって、おばあちゃんに分からないように、声を出さずに泣く。
「お父さん、お母さん、何故、早くあっちに逝ったのよ。加奈は悲しい。おばあちゃんが可哀想じゃん」
写真しか知らない両親に嘆く。
早く一人前の看護師になって、おばあちゃんをホームから引き取って、孝行したい。
加奈の目から涙が溢れる。
加奈の姿が目に入る。公園を廻るのを中止して、ベンチの側に行く。
「おじさん!」
いきなり、飛びつかれて、ビックリする。
「何か辛いことがあったのかね」
「加奈は、強くないじゃん。心の中で何時も泣いている、弱い子じゃん。おじさん、一回でいいから、お父さん呼ばせて!」
「いいとも、いいとも、これからはお父さんだと思いなさい」
屈託なく大声で笑っていた加奈に、涙を流して泣く程、悲しい気持ちがあったとは、迂闊だった。娘を持ったことがないせいか、女の子の心の内など、想像もしたことがなかった。
貧乏なんか、ちっとも辛くなかった。新聞配達をして働いても、少しも苦にならなかった。おばあちゃんは、加奈を大事に育ててくれたけれど、祖母との暮らしは淋しい。親のいるクラスメートが羨ましかった。
祖母のいう通り、堂々と胸を張っているけれど、心にみなし児の悲しさがいっぱい詰まっている。
「おじさんがお父さんになるといった。加奈はそれだけで満足じゃん」
独りで、耐えていた思いが込み上げてくる。
「お父さん! お父さん! 加奈のお父さん!」
加奈は泣く。声を上げて泣きつづける。心の底にたまっていた悲しさも、辛さも消えてゆくように、大声で泣く・・・・
横を向いて、快活に笑っていた加奈の孤独を初めて知る。
「加奈の気持ちが分からなくて、悪かったね。これからは、お父さんになんでも話して欲しい」
抱き寄せて、背中をさする。
肩を震わせて、泣いていた加奈は、両手で頬に流れる涙をしっかり拭く。
「思いっきり泣いたから、ちょう元気になったじゃん。有難う。お父さん、加奈、これから強い娘になる」
明るい清々しい笑顔に戻っている。
何も聞くまい。加奈は気丈夫な子だ。逆境をのり越えて、一層逞しくなる。
何時でも帰ってこれる、温かい家庭を用意してやればいい。
加奈は、ベンチから立ち上がる。
「お父さん、ハイタッチ」
両手をピタッと合わせる。
加奈の掌のぬくもりが両手に伝わる。この温かさが加奈の心と繋がっていたのかーー
「学校の休みの日に、帰ってくるからね」
「楽しみに待っている」
「ママによろしくね。グッバイ!」
片手を高く上げて、加奈は自転車に乗る。
「加奈!グットラック!」
後ろ姿に、声を張り上げる。
朝靄が広がっている。淡いピンクの桜の枝が、かすかに揺れる。
まもなく、朝日が昇る。
「サンキューお父さん!」
加奈の爽やかな声が、夜明けの空に吸われてゆく・・・・
「お父さーん、サンキュー」
明るい声は、自転車と共に遠ざかってゆく。目頭が熱くなる。娘が新しく授かったように心が躍る。
成人式も、花嫁姿も我が家から見送りたい。
加奈よ、優しい親切な看護師になれ。
公園を一周する足どりは軽い・・・・・
夜明けのハイタッチ