さ傘
求むれば則ち之れを得、舎つれば則ち之れを失う ー孟子ー
プロローグ
月は冷厳と翳っていた。
見通しの悪い、真っ暗な舗装道路を心を高鳴らせながら榊原 司は駆け走っている。夜の三時台とあって人影は感じられないが、警察に職務質問されると面倒なので、事前に吟味して決めておいた、なるべく人目に触れない道筋で歩を進めていた。忍び足ではないが、足音はできるだけ消している。
ぼんやりと見覚えのある、輪郭だけの街並みに目をやる。
聞こえるのは虫の音と、ときどき通る車のノイズだけ。まるで町の全ての人間が死んだような気分になった。しかし、その非現実性に満ち溢れた幻覚は、チカチカと明滅する煩いパチンコ店によって拭い去られる。
段差のある道で躓きそうになるが、なんとかバランスを保った。
片手に持つ懐中電灯と電柱に首をぶら下げている電気灯、月明かりだけが暗夜の灯だ。
もう既に心臓が悲鳴を上げかけているが、目的地まであと少しである。こんな夜更けに、そして性善説に基づくシステム――――「学校」へ根限りで走っている自分自身を馬鹿馬鹿しく感じた。
しかし、真実に辿り着くための手段となるのであるなら、差し支えない。
鳴り止まない蝉の声を耳に残しながら、司は永遠に感じられる、静寂に包まれた道を走り続ける。
ふと顔を上げると、雲間から顔を出した満月は、鮮やかな血色に染まっているような気がした。
第一章
聞き覚えのあるメロディーが流れている。司は、その音は携帯電話の着信音だと思った。送信者の名前を見ずに切り、教室の窓に目を向けて、校庭の中庭を一瞥する。
外から吹く風が頬に少し冷たい。
もう、夏草が背丈よりも高く生い茂る季節であるが、日は斜陽で、辺りは残照としている。大半の生徒は帰宅したようで、他にちらほら見られる程度だった。
去年、中庭の造直しという項目で植えられた榎は絢爛と咲き誇り、とても趣がある。そういえば、柳沢たちと植えたな、と、今みたいにこうして心を落ち着かせている時間が恋しい。これからのこと、今の自分、過去の記憶。様々なものが頭の中を走馬灯のように去来し、思惟が堂々巡りする、これがいつもの日課だ。
そんなとき、不意に背後から自分の名前を呼び上げる声が聞こえた。
「どうしたの? そんな物思いにふけちゃって」
カーテンの隙間から差す陽が、辺りに光芒を放たせている。ガランとした、殺風景な教室に少女は立っていた。
柳沢 舞だ。中学二年の時にこの「輿谷市立緑山中学校」に転校してきた生徒で、今は司のクラスメイトである。転校を経験した人には分かるだろうが、大抵入級してばかりはクラスで浮いた存在になる。しかし、彼女にいたっては例外であった。人柄が良く、そして彼女の放つ、何か周りの人間を同調させるオーラのようなものが功を奏したみたいだ。
容姿に関しては、瞳は大きく、長く清潔感のある髪を左右の中央、あるいはそれより高い位置でまとめ、両肩に掛かる長さまで垂らしている。恐らく誰が見ても、いわゆる“美少女”の部類に入れざるを得ないだろう。地元の市立図書館で本を運んでいるところを偶然ぶつかる、というなんともメルヘンチック且つアニメのような現実で知り合った。中学で初めて面識を持ったはずだが、どこかずっと前から知っていたような気がする。
「こうすることが、俺の日課なんだ」
若干の焦りを彷彿させながら、それを悟られないように答えた。
「やっぱり榊原君って、面白い人だね」
柳沢が首を傾げ、微笑した。
「俺はごく普通の学生だ」
反論したつもりだったが、それを鵜呑みにはしてくれなさそうだ。
「文芸誌に載せる作品は順調?」
「ああ、快調だ。キーボードのホームポジションから指が全く動かないことに関しては」
「それって書けてないってことじゃん! 緑山祭まであと少しだよ?」
緑山祭とは、7月に地域の自治会なども参加する、緑山中で催される大掛かりな学園祭だ。一応、文芸部という名の元に、彼女とここにいない綾小路とで専断で色々な活動をしたが、「文芸部」と名に負っているので、年毎緑山祭で文芸誌を販売しなければならない。運動部を見て部活なんてただの時間の浪費だと思っていたが、家族が何かしらの部活に入ることを奨めてきたので不承不承、楽そうな文芸部に入ったのだ。しかし、自分の好きなことであったので案外慣れっこになってしまった。そして、たった今、スランプ状態にあるのだ。一度自分が書きたいように執筆した作品を、大学が開催しているエッセイに投稿して佳作を受賞してから、他人の目を気にするようになり、全く納得のいく文章が書けない。
「何とか緑山祭までには間に合わせる」
明日の身にも知れない言葉を出す。
「まあ、それなら良いんだけど……」
外のグラウンドからは、吹奏楽部のまだまだ未熟だが、気勢のあるリズミカルな曲節が聞こえてくる。
「忍くん、どこ行っちゃったか知らない?」
忽然と神妙な顔をして柳沢が言った。
「全く分からない」と返す。思い掛けない問いであったが、それは既知の事実である。一も二もなく答えられたが、少しばかり心がざわめく。
高崎 忍とは、中学に入学してからクラスが別々になり、接点はほぼなくなってしまったが、幼少時代は親密な仲だった。
山奥に遊びに行って迷子になり、二人で泣きながら帰った懐かしい憧憬が、波を打つように浮かんでは、また消える。
小学校の頃は真面目な生徒であったが、家庭環境のめぐり合わせが悪く非行少年になり、事あるごとに授業妨害や万引き行為を繰り返していたらしい。そして今、当の本人はここ一ヶ月ほど前から行方不明になっている。学校に来なくなってから、水面下で噂されていたみたいだが、ちょっと前までそのことを自分は知らなかった。担任教師の早水によると“家出”だという。彼の両親は家出はよくあることなので、警察に捜索願いは出していないそうだ。
「家出にしては少し長くないか」
「私もそう思う」と、柳沢が影のあるもの思わしげな顔で言う。高崎から『ちょっと野暮用でしばらく学校これないわ 悪い』といった旨のメールを受信した生徒がいたらしいが、高崎はそういう性格だったので自分はあまり“家出”に関しては、頓着していなかった。
「まあ、あいつのことだからなんとか帰ってくるさ」
「杞憂で終われば良いけど……」
何故柳沢がここまであまり自分とは関係のない高崎を心配するのか奇妙に思ったが、クラス委員としては当然のことなのだろうか。
そろそろ、と思いながら黒板の上にある時計に目を配る。あと十五秒……、八、七、六、五、四、三、二、一
キーンコーンカーンコーン
キーンコーンカーンコーン
「ウェストミンスターの鐘」が築四十年の古びた校舎に鳴り渡る。この号笛が、さっきまでのシリアスな雰囲気をざっくばらんに模様替えしてくれた。このごく一般的なチャイムが、学校だと、れっきとしたクラシック音楽であることを知らずに聞く人が殆どだろう。
ルイ・ヴィエルヌは時代や国境を超えて、自ら作曲した旋律が、平たい顔をしたアジア人に広く使われているなんて思ってもみないはずだ。どんな気持ちか、感想を聞こうと今さら屍に聞いても無駄だが。
「もうこんな時間か」
乱雑とした机達の真ん中で手を組み、時間の儚さについて哲学する。
ところどころ傷ついている木製の机に突っ伏しながら「あ~、今日はもう疲れちゃった」と、柳沢が吐き捨てる。様子からして、本当にお疲れのようだ。
「そんな疲れるほど動いてないだろ? バレーボールだし」
半身を影に委ね、もう一半身に陽射しを受けながら、答える。
「ひどーい、これでも一生懸命トスしてたんだからね!」
にきびのない、しなやかな頬っぺたが仄かに紅潮した。
彼女は球技が極端に苦手だ。だが、足は意外と速い。
「今秋はテニスだぞ」
含み笑いを込めた追い討ちをかける。
柳沢はさらに意気消沈とし、机にさらに深く突っ伏した。
そのあと、くだらない会話のジャブを交わしながら玄関口に足を運んだ。
「キクラゲはクラゲでしょうか、それとも山菜でしょうか?」と、ロッカーにある運動靴に手を取りながら、柳沢が少しにやりと笑い、言う。
一瞬意味の分からない、滑稽な疑問文に感じると思うが馬鹿にしてはならない。キクラゲとは、豚骨ラーメンの具として乗っているアレだが、見た目も歯ごたえも、いかにもといったもの。名前の通りクラゲを想起させられるが、クラゲではない、山菜だ。知っているとしても柳沢が期待しているだろう回答を発する。
「どう考えてもクラゲだろ?」
自分もナイキのシューズを手に取る。
「ブブ~山菜でした~。びっくりしたでしょ?」
「ああ、びっくりした。そんなの全く知らなかった」
あまりにも誇大表現すると嘘を悟られるし、恥ずかしいので適当にありきたりな返事をした。
「司、嘘は災いの元だよ!顔で分かるんだから」
嘘は災いの元じゃなくて口は災いの元だろ、と心の中で訂正する。
「じゃあ、そんな司にあるなしクイズ!」
「なんだよ、いきなり」
呆れ返った顔で首を横に振り、ぶっきらぼうに返したが、どんな問題かと期待して耳を立てる。
「難しいよ~、正午にあって、午前にないもの! 婦人にあって、夫にないもの! 目にあって、耳にないもの! レーダーにあって、X線にないもの! レベルにあって、ラベルにないもの! な~んだ!」
全身全霊で、柳沢の発した言葉の一字一句を持ち前の記銘力で海馬に刻み込む。
「明日までの宿題ね!」
「いや、今すぐ答えを出す」
「まさかもう覚えたの!?」
すぐさま視界に入った、校門前のベンチに座り、両手の中指を唇に当てて目をつぶる。大ファンであるシャーロックホームズが考えるときの癖をよく真似ていたら、いつしか自分の癖となってていた。
思考に齟齬を発生させる、邪魔な身体の五感がシャットダウンされる。脳の前頭葉をフルに駆使し、黒板に板書するように、まず情報を整理した。心中の真っ白な、何もない世界に黒い線が無造作に書き足されていく。
ある側 なし側
正午 午前
婦人 夫
目 耳
レーダー X線
レベル ラベル
これを読んでいる方もペンとメモ帳を持って考えて欲しい。
この羅列された単語達に存在する通有点……単語の意味においての関連性?字面の組み替え?画数?読みを使った言葉遊びか?正午、12時?ゴウショ?午前?
いくら考えても、何か閃くものはさらさら出てこなかった。
しかし、そんな曇天に一筋の光明が差し込む。吹き流れんばかりの情報の中から、記憶の糸を手繰り、この問題を解く唯一のキーを見つけた。
和英だ。暗号の指南書にある『全く法則性のない単語は英訳しろ』という一文を思い出した。
すうっと無自覚に言語が英語に変換される。
available side unavailable side
noon morning
madam husband
eye ear
radar X ray
level label
まじまじと確認するが、それでもしばらくはてこずってしまう。
読み方……か?
ここまでくれば、勘の鋭い読者には分かるだろう。
ある側に存在する共通要素――――
逆から読める。
ある側の英単語は頭から呼んでも語尾から呼んでも同じように読むことができる。なし側はそれが不可能だ。それがあるなしの答え。
目を開けると、点の雲もとどめぬ空は、さらに淡い茜色に染まっていた。熟考したため少し目が霞む。ベンチに座ってからかなり時間が経過したように感じたが、薄橙の壁にこびりつくかのように掛っている時計の短針は、まだ六時半を指している。
「分かった。“「ある」側の言葉は、英語に訳すと逆から読んでも綴りが同じになる”これが答えだろ?」
完璧な解答だ。手で鼻を擦りながら、得意げに答えてやる。
「すっごい惜しいっ!」
待ってましたと言わんばかりの、屈託の無い笑みを浮かべる。解答には一丁字も誤りはないはずだ。間違っているはずが無い。
「何が違うんだ?」
刹那の焦燥に駆られる。
「本っ当! 司はいつも抜けてるよね。“「ある」側の言葉は、逆から読んでも綴りが同じになる英単語に訳せる”これが一番正しい答え!」
やられた、と心の中でぽつりと呟く。
「そんなのただの屁理屈だろ……」と、言いながらも柳沢の言い分は正しいと思ってしまう、自分の腑甲斐なさに切歯扼腕する。
「ベンチで唸ってる司を見てみんな笑ってたよ」
その言葉を聞いて急速に羞恥心を覚え初め、それと同時に家に帰りたい気持が突発した。
リュックを背負い、サブバックを片手に「クラスのやつらに考える人の真似をしてたって言っとけ」と、その場限りの弁をする。
「なんか寒くない?」
「何言ってんだ、もう夏は始まってるだろ?」
急に何を言い出すのかと思った。
「じゃあ、明日みんなに言っとくね」
「勝手にしろ」
「勝手にする」
まさかオウム返しをするとは思わなかった。
「暗くなってきたし、そろそろ帰るか」
文芸誌の執筆が終わっていないことに気づく。
「うん! じゃあ明日は第四選択教室に集合ね」
白い歯をこぼし、飾り気のない笑顔で手を振る。
「あぁ、じゃあな」
二人とも、家が校門から反対方向なので、ここが岐路である。
後ろの曲がり角で見えなくなるのを、まばたきする間に見届けた。
アスファルトを踵で擦りながら、今日の夕飯を冷蔵庫の中身から予想しながら、漂々と小走りする。
このとき、夕空を劈くように鳴く蜩は、これから起こる惨劇を啓示しているかのようだった。
第二章
「緑山中の七不思議、覚えてるよね」
後ろの席から、耳元で囁かれる。
「散々俺たちが試したんだから、忘れてる訳ないだろ。旧校舎三階の魔の十三階段。理科室の人体模型が夜中、勝手に走り出す。音楽室にあるベートーベンの肖像画の目が動く。真夜中の二時二十二分二十二秒に、被服室の大鏡を覗くと自分以外に何かが映ってる――」
「他にもあったよ」
「くだらなすぎて忘れた」
今は緑山中伝統の七不思議なんてどうでも良い。暑い、暑すぎる。とにかく暑い。まるで光の中に棘があって、剣山で素肌を刺すような日差しだ。窓ガラス越しに聞こえてくる空蝉の声が、暑さをさらに耐えがたくする。
体内の水分が枯渇しつつあるのが火を見るより明らかだ。というより、巨大な火の塊なら有無を言わさず四六時中、この炎天にそびえた立っているので見る必要はない。
偶然とは恐ろしいものだ。炙るような太陽の照りつけが当たる窓際、そして綾小路の前の席。運が悪いことは重なる、というのはあながち本当なのかもしれない。
唐突に、「綾小路」といわれても誰が誰だか分からないであろうから、ここを先途紹介しておこう。
綾小路 充。簡単に言えば、「ひょうきん」「ミステリアス」「インフォーマント」をミキサーで粉々にし、ブレンドしたような人間だ。身長は自分より少し高く、割と細身である。最近、夏スタイルとかなんだかいって短髪にした。時折、この自分でも何を考えているのか推察ができなくなるくらい不思議なやつである。それでいてモテるのが無性に腹が立つ。
「まあ、司が筋道を立ててほとんど解決してくれたんだけどね」
「少し考えれば、誰にでもできる」
「ほらそこ、うるさいぞ」
担任の早水が流暢に三平方の定理を説明していたのを止め、形だけの注意を促す。
「普通、学校の七不思議って七つしかないよね」
注意されたばかりであるのに、再び話を続ける。
「七不思議なんだから、そりゃあそうだろ」
右端の席に座っている柳沢が、話を聞きたそうにこちらを幾度か見ている。
「普通は七つだよね。でも、この緑山中には八つ目があるみたいなんだよ。それがどんな内容かは誰も知らないんだけど」
八つ目がある、という事実さえ知らなかった。さすが、情報屋という異名を持つだけのことはある。
「誰も知らないのに、不思議と言えるのか?」
その内容が開示されていない時点で不思議でもあるが。
「それもそうだよね。それでも理由は分かってる、誰もが知らない理由を。最後の七不思議を知った人間は、必ず行方不明になるらしいんだよ。だからその八番目がある、ということしか知られてない」
ホラーものでよくある、最後の怪談を知ったら身に危険が迫るってパターンか。
「それじゃあ、知りたくても知りようがないじゃないか」
「そうなんだよね、でも――」
丁度良いところで午前の授業終了を告げる鐘が鳴ってしまう。
「起立、礼」
柳沢が毎時間、この台詞を言うのは何故か新奇さがある。学級委員長と部活とで気組みが違うから、そう感じられるのかもしれない。
「ちゃんと明日までにこの問題やっとけよ~」
早水が清爽に課題を押し付け、教室から去った。
授業が終わった途端、生徒たちが安心しきった草食動物のように、のろのろと駄弁り始める。
「さっきの話の続きなんだけどさ」
血色の良い唇を舐め、言葉を切った。
「授業中なのに、さっきから何をずっと話してたの?」
柳沢が割って入ってくる。やはり、こちとらの話が気になってしょうがなかったみたいである。
「緑山の七不思議だよ。それに八番目の」
「八番目、そんなのあった?」
ハトが豆鉄砲をくらったような顔をする。
「そう、あるんだよ。それで、この八番目の七不思議を知ってそうな人を見つけたんだ」
「誰だ?」
憶測だと、オカルト信奉者の淀川信子教諭だ。
「部活の時に教える、その後聞きに行こう」
何をそんなにもったいぶるのか、と考えるのと同時に、こんなくだらないことに教師を付き合わせて良いのか、という憂いが誘発される。
「分かった。それはそうと、お前英語の小峠に呼び出しくらってたよな?」
「やべ! すっかり忘れた!」
綾小路は、周囲の人間の目を丸くさせるほどの雑多な知識の持ち主だが、定期試験の点数は平均並で、その中でも頭抜けて英語が苦手だ。
「ちゃんと俺の分、給食のプリンとっといてくれよ!」
食い意地の張った捨て台詞を投げ、煙のように教室からいなくなる。
なんとなく、日本列島のすれすれを台風が通過した時のような気分だ。
「ほんと、落ち着きのない奴だな」
「司も人のこと言えないんじゃない?」
カドのある戯言ながら、自分の性格の的を得ていた。
ぽりぽりと頭を掻きながら言う。
「ああ、そうかもな」
普段意識して見ない、澄んだ青天に浮かぶ夏雲を、何かに模るように眺めた。
第三章
そこに立っていたのは予想外の人物である。
凍りついた表情をしたのは田宮麗子教諭だった。
「どうして、貴方達がそれを知っているの」
こういうときに口達者で、社交辞令に長けた綾小路が役に立つ。
「ただ、八番目がある、という噂を聞いたもので」
中学生にでも感じられる、妖艶な空気を漂わせた足を絡ませ、口篭る。
「どうしても知りたいんです、先生」
柳沢までもが便乗し、請う。
すると一瞬間、どこか遠くの歓楽街を羨望するような目を見せるや否や、虚空に包まれた曇った双眸になる。その下端にある口から零れた言葉は、泡のようであった。
「傘」
図書室に佇んでいた三人共々、すっとんきょうな顔になった。
「え?」
聞き違いかと思い、自らが聞く。
「田宮先生、今何ておっしゃったんですか?」
雷に打たれたかのようにはっとなり、首を振る。
「貴方達、今のは聞かなかったことにして。先生なんか疲れてるみたい。これから職員会議があるから、もう今日はおいとまさせて頂戴」
黒塗りのヒールで床の木目を踏みつけ、逃げるように西側にある扉へ駆け寄る。白衣をなびかせがら、閑散とした廊下に、霧に溶け込むようにいなくなった。
さ傘