入学式に桜は咲かない

 「春はまだかのう」
 これがうちの婆さんの最近の口癖らしい。
 昨日、空港まで迎えにきてくれた叔母の運転する車で、そう聞いた。
 たいていの人はこう聞いて、春の到来を待っているお気楽な婆さんだと思うのだろうが、そうではない。
 婆さんが待っているのは、僕だ。
 だって、僕の名前は、春だから。

 静岡の田舎から北海道に出てきた僕は、完全に北海道の春をなめていた。
 いや、これは春とは言わない。冬だ。
 四月なのに吹雪でバスが30分以上遅れるなんて、どこの静岡県民が予測しただろうか。
 予定の飛行機が飛ばず、入学式前日にようやく北海道入りした時点で薄々気づいていたが、よもやここまでとは。
 今日は雪が降るからコートを着ていけ、という婆さんの忠告はちゃんと聞き入れた。だから入学式の 為に買ったスーツの上から静岡に居る時はあまり着る機会のなかったモッズコートを羽織っている。
 北海道民の『雪が降る』は『吹雪』と同義なのか。全力で婆さんに問いたいところだが今はそんな場合じゃない。
 30分以上遅れているバスのせいで入学式に遅刻しそうだ。
 いや、遅刻確定だ。
 ここからこの雪道をいつも以上のペースで走れる自信も体力もない。
 二つ先のバス停で降りて徒歩7分の距離は、今の僕にとっては果てしなく遠い。
 半ば諦めて、バスの座席に深く座りなおした。

 ほどなくして目的のバス停に着いた。
 雪はやむ気配がない。
 モッズコートの襟を手繰り寄せて歩く、歩く。
 慣れない革靴に、慣れない雪道。見慣れない風景は僕を不安に陥れる。
 「なんだかとんでもなところに来てしまった気がするな」
 道すがらそんなことを考えた。
 この大学に入学するのを決めたのは行きたい学科と自分の学力、そして婆さんの家から通える立地を考えてのことだったが、もうひとつ理由がある。
 桜の木だ。
 キャンパスの真ん中にそびえ立つ樹齢100年は越えていそうなあの大木に、僕は心奪われた。
 散歩がてら一緒に見学に来ていた婆さんが言っていた。
 私が小さい頃からあの樹はあそこに立っている。きっと桜の神様が住んでいる、と。
 内心バカにしていたけど、受験の時は何かにすがりたくて、思わず桜の神様に合格を願った。

 足が雪道に慣れてきた頃、大学の無駄に立派な校門が見えてきた。
 時刻は10時をまわったところ。案の定、遅刻だ。
 中学や高校みたいに、遅刻したら怒られるだろうか。
 少し、足を速めた。

 その男の声が聞こえたのと、目の前にそれが見えたのはほぼ同時だったと思う。
 大学の真ん中にそびえ立つ、あの桜の木に、花が咲いていた。
 「おぉ、春が来た」
 やけにはっきりと男の声でそう聞こえた。
 辺り一面真っ白な雪景色のなかに、淡いピンクの満開の桜。
 自分の目と耳を疑った。
 けど、辺りには誰もいない。
 雪景色に、自分と、桜しか無い。
 「横内春くん、入学おめでとう」
 さきほどの男の声がまた聞こえた。
 僕の名前を知っている事も時期外れの桜が咲いていることも声の主もすべてがわからなかったけど、
それがどうでもいいと思ってしまうくらい、ただただ、目の前の光景に惹かれた。
 あのときの婆さんの声がよみがえる。
 「きっと桜の神様が住んでいる」
 これは神様の仕業なのだ。神様の起こした奇跡だ。

 吹雪の中、満開の桜が咲いた入学式の日。
 僕は、奇跡を見てしまった。

入学式に桜は咲かない

入学式に桜は咲かない

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-17

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