ブルーチーズ
しがない公務員にとって、休日というのはなによりの魂の療養である。
もし神様がこの週末を創造されなかったら、公務員などわずか二週間くらいでストレスが溜まったウサギのように絶命してしまうだろう。
彼もそのご多分にもれず、この毎週訪れる週末を恋人との逢瀬のように待ち望んでいた。
遼太郎は、家のソファーにまるでゼウスのようにどっかり座って、たった二日きりの休日を謳歌していた。
テレビはつまらん番組だらけだったが、彼はテレビをみているのではなくてある計画を頭の中で練っていた。
それを想像するたびに、彼の下僕めいた目尻のしわがほころぶのだった。
その計画というのは他でもない、彼の大好物であるブルーチーズを白ワインと一緒に味わうといういかにも質素な歓楽のことであった。
「ああ、この時をどんなに待ったことか」と彼は思った。
ブルーチーズというのは一般的に滅多に食べれるものではない。食のなかでこれほどひねくれもので、変態的で、嫌われものの食べ物も他ではちょっと見当たらないだろう。
彼は公務員だから、もちろん、職務中にあのきつい臭いを愛でることはご法度であったろうし、まず、なにより彼の嫁がこれを嫌った。
「そんなゴミ箱から拾ってきたみたいなものを食べるのはあたしは構いませんけどね」と嫁は言うのだった。
「そう毎日たべられちゃあこっちの鼻が持ちません。臭くってたまんないわ」
というわけだから、彼がブルーチーズを食べていいのは週末の日のみ
と、役所仕事よりもはるかに迅速にとりきめられた。
彼はかちかちいう壁にかかった丸い時計を見た。「早く6時になれ!」と彼は強く念じた。
嫁は慌ただしく掃除機をかけていた。
これもこの家庭の一つのルール、というよりも嫁の支配がそこまで及んでいるといった方が正しいかもしれないが、彼は陽の落ちる6時になるまで、一滴たりとも飲酒を禁じられていたのだ。
彦星だってこれほど時を待ち焦がれないだろう。彼にとって織姫はブルーチーズとワインに他ならなかったし、冷蔵庫は、いうならば天ノ川だった。
「そんなに貧乏ゆすりしないでよ、みっともない」
「うるさいな、誰のせいだと想っとるんだ」
時刻は6時となった。六つ鐘がなる頃、彼はすでに冷蔵庫の前に立っていた。
それを見て嫁は呆れたように首を降った。
彼は極めて慇懃に冷蔵庫を開いた。
そこには青いパックに詰められたブルーチーズと、よく冷えた上等の白ワインのボトルががあった。
彼はまるで恋に落ちたかのような深いため息をついた。
待ちに待った瞬間だ。思えば長かった。何度も絶望したものだ。
火曜日は主任にどやされたっけ。
まだ週が始まったばかりであのつまづきは危なかった。
よくもあれほどの負傷を負いながらも役所という戦場の4日間を過ごせたものだ。
私が軍人なら名誉賞ものだな。
彼はチーズの箱と白ワインのボトルを手に持ち、それをテーブルにかけてあるチェックのクロスの上から置いた。
すでに宴の準備は整っている。
ワイングラスにチーズを切るナイフとフォークはかしこまった風に整列して御主人を待ちわびていた。
彼はそっとテーブルに着席し、チーズの箱を開けた。
ブルーチーズの香りは一挙に部屋中に押し寄せた。
丹念に掃除機をかけていた嫁はその臭いを察知すると、
たまらないといった表情でどこかへ退散していった。
「お互い嫌われたものだな」と彼は優しくチーズに話しかけた。
「そういえば」と部屋の奥から嫁の声だけが聞こえてきた。
「あなたティッシュは買ってきてくれましたか?」
彼の動作が止まった。しまった、と彼は思った。
昨日買い物を頼まれたとき、チーズのことばかり考えていてチーズは買ったが、肝心のティッシュを買い忘れてしまったことにやっと気がついたのだった。
「もうないのかい?」
「つまらないこといわないで、あったら買い物なんて頼まないわよ」
「それもそうだな…」
彼は裁判官に自分の罪を自白するような気持ちで恐る恐る言った。
「すまない、実は…忘れたんだ。なに、1日ぐらい構わんだろう?」
すると奇妙にも返事はなかった。恐ろしい静けさだ。嵐の予感。
やがてどたどたと彼の方へ駆け足でやってくる物音がした。
「きたぞ…」
彼は覚悟を決めたようにかちかちになって下を向いた。
鬼のような形相で妻は現れた。
「どうして忘れるのかしら?私、怒りを通り越してあなたが心配になっちゃったわ」
「ありがとう」彼は力なく手を上げた。
「いいですか?私が頼んだのはティッシュだけなんですよ?そりゃあ色々他のものも頼んだとして一つぐらい見落としがあるくらいならあたしだってとやかく言いませんけどね。
でも、ティッシュひとつを頼んであなたは外へ出てゆかれたんですよ?
どういうことか説明してちょうだい。ことによったら私あなたをお医者にかけなければなりませんわ」
「いや、スーパーには行ったんだがね」
嫁は目をひんむいて言った。
「それなら尚更変じゃない、何も買わないで出ちゃったの?」
「いや、買うには買ったんだ、私の欲しいものをね。それでおまえに頼まれていた買い物の方を忘れてしまったってわけで…」
「いったい何を買ったの?」
嫁は腰に手を当てて言った。
彼はまるで罠にかかってすでに観念している憔悴したネズミのような眼でじっとチーズを見つめた。
「ああ、もううんざり、うんざりです。あなたのだらしなさにもそのチーズにも」
彼は黙っていた。実はこの時、彼は密かに職権を濫用していた。公僕の職権とは黙って何とも思わず聞いているふりをすることに他ならないからだ。
「買い物を忘れるどころかそんな変なものまで買ってきて、私の身にもなってちょうだい。まったく、そんなことでよくお役所仕事が務まるものだわ、私が心配なのはまさにそれよ」
「仕事と今回のことは無関係じゃないか」
「おおありよ、すべてあなたのだらしなさに繋がってるんだから」
「なんだと」
彼は腹を立てた。
「それならいますぐお前が買いにいってくればいいじゃないか、何だって私がお前の買い物を遂行しなければならん義務でもあるみたいに扱われなければならんのだ」
「ええ、結構です。今から買いにいきましょう。でもあなたは使っちゃダメですよ、あなたの論理だとティッシュというのは家族が共有するものではなくて、個人が使うものらしいですね、だから私のティッシュは私が自分で買う。これで満足なの?あなたも自分の分を買いにいくなら急いだ方がいいわよ、今日は大特価の日ですからね」
こうした嫁の言葉は腹が煮えくり返るほど憎たらしかった。
女の論理的な、子供に諭すような調子のしゃべり方とは一般的に男の神経を逆撫でするものだが、この場合もそれと同じような効果を挙げていた。
「ええい、気分が悪い、せっかくの休日をお前なんかに邪魔されてたまるか」
彼はそそくさと逃亡の準備をした。形成が悪いと逃げ出すのも男の特徴である。
彼は急いで家の外へ出た。陽もすでに落ちて、あたりはすでに薄暗くなっていた。
彼はむしゃくしゃしてタバコをふかした。
辺りの住宅からは晩御飯の香りが漂いとても幸せそうだった。
きっと、器量もいい、態度もしなやかな嫁がおいしい料理を作り、子供たちは父親と風呂に入って、風呂から上がると食卓をみんなで囲んで、父親は幸せそうに嫁に酒をついでもらうのだろう。
それに比べてわたしのこの様はなんだ。
彼はその瞬間激しく後悔した。もちろん嫁とケンカをしたからではなく、どうせ家を出るならせめてブルーチーズを持ってきたらよかったと悔恨したのだ。
これからチーズを買いにいくとしても彼はすでにワインを飲んでしまっているから車は使えない。いつもチーズを買うスーパーは歩くには少し遠いようだった。
仕方がない。彼はつかつかと歩いて見当のつく近場のスーパーを目指した。
そこへたどり着き店内へ入るとチーズのコーナーを覗いた。
しかし、カマンベールやプロセスチーズなど、本当のチーズ通にはなんともしゃらくさいチーズばかり取り揃えていて彼の満足のいくようなチーズが見当たらなかった。
「もしもし」彼は近くにいた店員に声をかけた。
「ブルーチーズは売ってないのかね」
「はあ、申し訳ありませんが当店では扱っておりません」
「すると、いつもここにはブルーチーズがないというのかね?」
「ええ、そうです」
なぜだ?と彼は思った。こうして赤ん坊が食うようなチーズはたくさん取り揃えていてあるのに、なぜブルーチーズがないのだろうと思った。
「どうしてかね」と彼は幾分すっとんきょうな事をきいたが店員は親切だったために気さくに答えてくれた。
「ブルーチーズはチーズのなかでも売れ行きがよくありませんから取り寄せていないみたいですね。きっと日本人の口には合わないんでしょう、香りも独特だし」
「はあ」彼はやや落胆して店を後にした。
なるほど、つまりあのみかけはしっかりしてるが実際食べてみるとなんて事はないチーズばかりが食卓に人気であって、あの荘厳な味わいのブルーチーズはただ臭いという理由で嫌われてしまっているのだな、と彼は道々考えた。
けしからんことだ。まさになにも知らんやつらだ。
人間とチーズはよく似ている。ただ見かけばかりよくって人に気ばかり使っている安物よりも、多少癖があるほうが魅力的というものだ。
彼はいつの間にか自己弁護をするようにブルーチーズのことを考えた。
彼は次にレストランを目指した。洋食店ならきっと色々の種類のチーズがあるだろうとの見通しだったが、店に着いてから彼はまた失望した。
「当店ではブルーチーズはちょっと…」
「ちょっとなんだね?ちょっとならあるのかね?」
彼は腹をたてて作り笑いをする以外には何の罪もないレストランの店員に八つ当たりして困らせた。
公務員というのは実は実生活においてはジキルとハイドのように抑圧された人格が顔を覗かせるものだ。
彼も日頃の鬱積も手伝い、すっかり嫌なやつになっていた。
「いえ、そういうことではありませんのでして…扱っておりません」
困惑したようにチョッキ姿のフロアーマネージャーは言った。
「どうして?ここは洋食を食べさせてくれる店だろう?
他のチーズはあるのにどうしてブルーチーズは置いてないんだ?」
彼はどこにいっても嫌われもののブルーチーズが哀れになり、まるで弁護をするかのように言うのだった。
「そう申されましても、ブルーチーズの香りは他のお客様のご迷惑となることもありますので」
彼は憤慨して顔を真っ赤にした。
「ブルーチーズの良さも知らんやつなどフレンチもイタリアンも食う資格はない、君もそうだ、恥を知りたまえ」
彼は怒鳴って店を出ていった。
彼が去ったあと、他の店員がマネージャーに歩み寄った。
「なんです?ありゃいったい」
「知らんな、どうせただの変人だ、どうしてもブルーチーズを食わせろと言うんだ」
「へえ、変わり者ですね」
「ブルーチーズと一緒さ」
遼太郎は気が晴れないまま、こうなったら意地でもブルーチーズを食ってやるとやっきになっていた。
彼は手当たり次第の店を睨み付け、ブルーチーズを置いてありそうな店を見つけると中へ入っていった。
「もしもし、この店にブルーチーズはあるかね?」
「ここはバーだぞ、ないね、あんな臭いもの」
彼はまたむかっとしたがなにも言わず店を出た。
店の中の酔った客が彼に向かってなにかヤジを飛ばした。
それを背に彼はまた外に出てブルーチーズのありそうな店を探した。
ブルーチーズはいったいどこにあるんだ?
彼は歩き慣れない街を彷徨していると、いつの間にか路地裏に入ってしまっていた。
酔っぱらって道にぶっ倒れたのや、乞食同然の男たちが道端に座り込んでいる怪しい雰囲気の路地だった。
こんなところに用はない。
彼が引き返そうとすると、ふととんでもない光景が目にはいった。
まさに場末も場末。世界の果てのようなこの場所に、一つの看板がちかちかと夜の闇に
点灯しており、そこに「チーズ専門店」とあった。
彼は歓喜してすぐさま店の扉の前まで駆けつけた。
思い切って扉を開くと、店の中からなんともいえないあの愛しいブルーチーズの香りが強烈に漂った。
まるで店そのものが巨大なチーズ箱である。
店のなかには何人かの客がいて、ワインとチーズを一心不乱に食べたり飲んだりしている。
「ああ、友よ」彼は心のなかで思った。
君達はきっと私のようにブルーチーズを探し求めてやっとのことでここにたどり着いたのだろう。
あのスーパーで売っているようなチーズでは満足できない真実を知る者達の舌がここに集結しているのだ。
そんな君達をこんなネズミの巣のような路地裏に追い込むなんて、なんてけしからんことだ。
いつの時代でも真実を知るものはなにも知らない民衆に駆逐されるものだ。
まさにネズミのように。
彼は店にいる客の一人一人に親密さを感じずにはいられなかった。
店のなかに入り、手前のテーブルに腰を掛けているやぶにらみのひどい老人に一言声をかけた。
「やあ、それは何のチーズですかな」
老人は彼の言葉を無視するようにチーズをまた一口食べた。
「静かにしてくれないかね、チーズを食べているときに話しかけるなど非常識も甚だしい」
老人はきっぱりと冷たくいい放った。
「はあ、それは申し訳ないことで…」
彼は思いがけない老人の冷淡さに多少ひるんだ。
まさかそんな常識がチーズの世界にはあるなんて。なるほど、奥深いものだと彼は考えた。
彼は適当に空いているテーブルに腰かけたが、どこにもメニューが見当たらない。
それどころか待てども暮らせども店員がやってこない。
「おい!君!」
彼は腹がたって店員をよびつけた。
「全く、客の出入りぐらいちゃんと見ておくんだな」
「どうして?」
チーズの絵が書いてあるエプロンをしたとぼけ顔の店員は言った。
遼太郎は店員の質問の意味が理解できなかった。
「君がここへ来てくれないと注文できないじゃないか」
「逆だよ。お前さんが注文をしに来ないと。チーズを食えるだけありがたいと思うんだな」
遼太郎はぽかんとした。
「さあ、なににするんだ」
「あ、ああ、そうだな。じゃブルーチーズ…」
「どうして?」
「どうして?」
遼太郎は思わず吹き出してしまった。
「食べたいからさ」
「ワインは?」
「そうだな、白ワインの…」
「どうして?」
「ふざけるな、チーズと合うからに決まっているだろ」
すると店員はすたすたと店の奥へ引っ込んでいった。
全く、なんて店だ。
こんな偏屈な店は聞いたこともないぞ。
それにあの客達の様子はなんだ。
さっきから一言も喋らないでもくもくとチーズを食べてる。
友達連れや家族連れがただの一組もないじゃないか。
そう思うと彼はぴんときた。なるほど、ちょうど私の妻のように、チーズの香りを厭うひとが身近にいるから彼らはお忍びでやってきてるというところだろう。
つまり、私と全く同じ境遇の人たちということだ。
「はいよ」
店員は乱暴に皿をテーブルに投げ出し、ボトルとグラスも割れんばかりだった。
皿がぐわんぐわん回ってチーズが踊っている。
「君、もうちょっと丁寧にやってくれないと…」
「チーズが食えるだけありがたいと思うんだな」
「わかったわかった、ありがとさん」
彼は長いこと外を歩いて喉が乾いていた。
手慣れた手付きで開封もされず当然のようにコルクが窮屈そうに挟まっているままのボトルを、自前のコルク抜きで開封してグラスに注いだ。
十分に香りを楽しむと、それを一口飲んだ。
すると、店中の客が彼を一様に見つめていることに気がついた。
ごくり。
喉元の音がすると、店の奥から大きな体のエプロン姿の店員が何人も現れ、チーズ臭い手に彼は軽々とかかえられた。
「何をするんだ!」
そう言い終わらないうちに彼は店の外に放り投げられてしまった。
「先にワインを飲むなんて、お前さんにはチーズを食う資格はないね」
そう言い残し、店の扉は固く閉じられた。
「まだ一口も食べてないのに!」
彼は泣きそうになりながら懇願したが、店の扉が開かれることはなかった。
なんてことだ。
彼は呆然自失のまま歩き始めた。私はチーズのことをなにも知らなかったのか。彼は自分を恥じた。
それなのに私は散々説教をたれたというわけだ。
フレンチもイタリアンも食う資格がないといい放った相手を思い出しながら彼は考えた。
愚かなことだ。
惨めな自分を省みると彼は反省せずにはいられなかった。
だが、やがてそれもあの訳のわからないチーズ店や、店員のみならずそのうちの客に対する怒りに変わってきた。
彼は腹が立ちながら考えた。あそこまで変わり者だと魅力を通り越して腹が立つだけだ。
やあ、今わかったぞ。閃いた彼は一人でうなづいた。
あいつらは嫌われものなんだ。
そうさ、社会から嫌われている自分と、自分とそっくりなスーパーの棚に並べられない、誰も手をとらないブルーチーズに自分を重ねて哀れんでいるんだ。
まったく、哀れなやつらだよ。
そう思うと彼は知らずに涙が出てきた。
そうさ、私は哀れなやつさ。
私には友もいなければ、役所ではやっかみを受けて上司にも嫌われるし、憎まれものなんだよ私は。
ブルーチーズそっくりだ。誰からも嫌われるんだ。
しかし、彼はある思いにたどり着いた。
いや、私を愛してくれる人が一人だけあった。
彼は思いきり駆け出した。
息を切らしながら出ていった家に戻ると、多少の妻に対する心苦しさがあったが、意を決して扉を開いた。
家のなかに入ると、そこには愛しい妻の姿と、ブルーチーズとワインがそのままに残っていた。
「すまない、私が悪かったよ。お前こそ私の魅力を見抜いてくれる数少ない唯一の人なのに私はついかっとなって…」
「なんのことよ」
妻は美しく笑った。結婚前のままの愛しい笑顔だった。
「いいのよ、許してあげるわ、それよりお腹へったでしょう?そこにおかけになって。大好きなブルーチーズを食べるといいわ」
彼は久しぶりに感じる胸の暖かみを胸に思わず笑みを浮かべて席についた。
なんてことだ。と彼は思った。
私は大きな考え違いをしていたぞ。
本当に魅力を見抜くことができたのは私ではなくて妻の方だったのだ。
彼はチーズとワインを味わいながら、家を出てからのことをすべておしみなく語った。
妻はやはり美しく笑いながら話を聞いていた。
「じゃあスーパーには行ったのね?」
「うん、でもチーズはなかったよ」
「ティッシュは?」
ブルーチーズ