HOPE

暇な時に読んでみて下さい。
きっと何かを感じるはずです。

失恋後や鬱な時には読まない方が良いかも……

Prologue 夕暮れ

 夕暮れ時の真っ赤な空は、とても眩しかった。
 所々に植えられている枯葉が茂る木蓮からの木漏れ日が、ぬかるんだ地面をオレンジ色に染めている。
 あまりの眩しさに、思わず目を瞑った。
 目を瞑れば何も見えなくなる。
それと同じ様に、自らが抱く悩みさえも見えなくなり、忘れる事が出来るような気がした。
 しかし、それはただの現実逃避だ。
 こんな無意味な事をしている自分が、情けなく思えてくる。
「馬鹿らしい」
 そう呟いて、目を開けた時だ。
 逆光で良くは見えないが、何かが地面を目指して落下するのが見えた。
「何だ? あれは」
 地面がぬかるんでいる上に、枯葉が大量に散らばっている為、あまり衝撃のある音は出なかった。
 落下したそれが気になり、恐る恐る近寄ってみた。
 ほんの少しの恐怖心と好奇心が混ざり合った様な、妙な感情が僕を動かす。
 少しずつ近付いて行く度に、それの正体が明らかになっていく。
 腰まである長い髪を乱れさせ、地面にうつ伏せで横たわる細い少女の体。
 頭から鈍く流れる真赤な血。
 そして、左腕に巻かれているリストバンド。
 頭の中に一人の少女の名が浮かぶ。
 沙耶子。
 ここに倒れている少女は沙耶子だった。
「あ……あああぁぁ」
 喉の奥から押さえる事の出来ない悲痛な声が出てくる。
「ぁぁああああ?」
 やがて、その声は絶叫に変わった。
「どうして……」
 どうして、沙耶子はこんな所で倒れているのだろう。
 どうして、こんな事をしたのだろう。
 数々の疑問が頭の中に浮かび、ある考えに直結する。
 ここ最近の彼女の行動。
 それは常に僕と共にあった。
 ならば、こんな行動を取った原因は……全て僕にあるのではないか。
 僕の抱いた疑問は恐怖へと変わり、やがて罪悪感へ変わった。
 とても嫌な気持ちで胸が一杯になり、この場から早く逃げ出したいと思う感情が、僕を無意識の内に走らせていた。
 走る度に吐き気が込み上げて来る。
 必死に口を抑え、込み上げる吐き気と格闘しながら、一目散に走った。

Episode1 平野隼人

 事の発端は、高校へ入学した直後の事だった。
 教室で授業を受けていると、突然来た担任が息を荒げて僕を廊下に呼び出した。
「平野君、落ち着いて聞いて。あなたの御両親が交通事故で亡くなったわ」
「は?」
 突然の話に、そんな間の抜けた声を上げていた。
 正直、信じる事が出来なかった。
 その場では……。
 
病院で両親の亡骸を見た。
 顔には一枚の白い布が掛けられていて、体は冷たくなっている。
 それを見た瞬間、背筋に悪寒が走った。
「どうして、僕がこんな目に……」
 涙を流しながら、そう連呼し続けた。
 頬を伝う涙は、この冷え切った空間の中では、とても温かく感じられた。
 
その後は、親戚からの仕送りで自分の生活を維持している。
 普通に生活をする分では、何も変わらない。
 ただ、両親がいなくなっただけ。
 そう考えれば、孤独な思いをせずに済む。
 しかし、学校で接する友人同士の明るい空間には、馴染む事が出来なかった。
 だから昼休みは校舎裏で過ごしている。
 この場所こそ、僕が馴染む事の出来る唯一の空間だから。

   ♪

 校舎裏に降り注ぐ真昼の明るい日射しは、青葉が茂る数本の木蓮を通して、綺麗な木漏れ日を作りだしていた。
木漏れ日の下に少女が一人、腰まで伸ばした黒い髪を、微かな風に靡かせ佇んでいる。
 細い彼女の体を包む制服の袖やスカートから覗く肌が、とても白くて綺麗だった。
左の袖から覗く腕には、リストバンドが着けられている。
 それがどこか印象的だ。
 珍しいな。
 こんな所に僕以外の誰かがいるなんて。
 彼女に声を掛けてみる事にした。
「なあ、ちょっと」
 声を掛けてみると、少女は肩をビクリとさせて、こちらを振り向いた。
「あ、えっと……」
 突然、声を掛けたからだろうか。
 困ったような素振りを見せる。
「えっと……」
 よく見ると、目には涙が溜まっている。
「どうかしたのか?」
「何でも、ない」
 それは、何かに怯えている様な震えた声だった。
 何かあったのだろうか。
「よかったら、話してくれないか?」
 彼女に対して、そんな事を言っていた。
 僕は何をしているのだろう。
 他人の事情に首を突っ込むなんて、僕らしくない。
 しかし、この少女はどことなく自分に近い。
 根拠はないけれど、そんな気がした。
「無理にとは言わないけど、話して楽になる事もあると思うから」
 彼女は軽く頷いてくれた。
 
二人で木蓮に背を預け寄り掛かる。
 僕の隣で、彼女の重い口が開いた。
「先月、私の母さんが亡くなったの」
「え?」
 自分と同じ境遇の人間が、こんなに身近にいるとは思ってもみなかった。
 彼女は少々驚く僕を余所に、話を続ける。
「父さんは……元々いなかったから、私は一人ぼっちになっちゃったんだ。だから、なんだかクラスの人達とも馴染む事が出来なくて、時々、ここに来るの。この場所って、不思議と凄く落ち着くから」
 悲しそうな顔をしている。
 それは、見てすぐに分かった。
 僕だけじゃない。
 こんな思いをしているのは、僕だけじゃなかったんだ。
「僕にも、両親がいないんだ。先月、交通事故で亡くなって」
 その言葉を聞いて、彼女の表情が驚きに変わる。
「まあ、普通に生活をする分では、特に問題はないんだ。親戚からの仕送りだってあるし」
「大丈夫」、そう言いながら強がっていると、彼女は僕の右手に両手を添えて優しく握った。
そして、僕の目を見て微笑む。
「悲しい時は肌と肌で触れ合っていると、凄くホッとするんだよ」
 恥ずかしくなって、少しだけ彼女から目を反らし、僕はボソボソと感謝の言葉を口にした。
「……ありがとう」
「母さんと父さんは、優しかったの?」
「ああ。凄く優しくて、僕の事を第一に考えてくれていた」
「そうなんだ」
 気が付くと、目には僅かに涙が溜まっていた。
 少しだけ姿勢を低くし、慌てて涙を拭う。
「ごめん、みっともないよな。男のくせに……」
「そんな事ないよ」
 彼女は爪先立ちで、僕の頭を両腕で軽く抱きしめる。
「泣いても良いんだよ。誰だって、泣きたくなる事はあるから」
「うん、ありがとう」
 暖かな腕に抱かれ、これでもかと言う位に泣いた。
 そんな僕を見て、彼女は穏やかに微笑んでいる。
 微笑む彼女の目には、先程まで流していた涙は見られなかった。

 一生分は泣いた様な気がする。
 そして、自分の泣き顔を見られていた。
 そう思うと、先程の出来事が何だか恥ずかしくなってくる。
 少しだけ彼女から目を反らして、僕は言った。
「ありがとう。なんだか、凄く安心した」
「そんな事ないよ。えっと……そういえば名前……」
「ああ、平野隼人。君は?」
「宮久保沙耶子だよ。 よろしくね」
 宮久保沙耶子と名乗る少女は笑顔を作る。
 その笑顔はとても明るくて、僕には眩しい位だった。
 笑う。
たったそれだけの事が、僕には凄い事だと思えた。
 あれだけ絶望的な状況にありながらも、こんなに明るくなれるのだ。
 僕はというと、笑う事もなく、ただ毎日を惰性の様に過ごしている。
 もしかしたら、今ここで宮久保に出会った事で、何かがこれから変わるのかもしれない。
 そんな希望を抱いて、僕は不器用に笑い返した。

 放課後の、いつもと同じ一人だけの帰り道。
 道の両脇には、ファーストフード店等の賑やかな店が建ち並んでいる。
 学校帰りの学生達が集まるには、こういった道はとても便利だ。
 僕はどこにも寄らずに真っ直ぐ帰宅するのだけれど。
 周囲では友人同士で騒ぎながら、帰宅している生徒達が見られる。
 なんだか、とてつもなく居心地が悪い。
 まったく、群れる奴の気持ちが分からない。
 しかし、そんな事を考えている自分は、我ながら相当病んでいると思う。
「ハア……」
 軽く溜息を吐いて、自分の前を歩いている生徒達の一団を追い越す。
 一人でこんな行動を取るのは容易く思えるが、実際は難しい事だ。
 無愛想に横切って抜かれた相手は、どう思うのだろうか。
 きっと、あまり良い気持ちはしない筈だ。
 この行為その物が、相手に邪魔だと告げる意思表示なのだから。
バスに乗って帰れば良かった。
 そんな事を思っていると、ポンと肩に手が置かれる感触がした。
 振り返ると、昼休みに出会った少女がいた。
「こんにちは。平野君」
 宮久保は明るいな。
 見習わなければいけないと思ってしまう。
なんだか、彼女の息が少しだけ荒い。
「どうした? そんなに息を切らせて」
「だって、平野君、歩くの凄く早くって」
 それは、たぶんこの場の空気に馴染めなかったからだろう。
「ああ、きっと、僕は都会人なんだよ」
 とりあえず、そんな事を言って誤魔化してみた。
「え?」
 彼女の表情に疑問が浮かぶ。
「都会人っていうのは、歩くのが凄く早いんだよ。東京の方とか行くと、皆サッサと歩いてるだろ。それは、仕事とかしてる人が多いから。それと同じだ」
「へー。平野君って、学校の勉強そっちのけで、雑学とかに詳しそうだよね」
「それって、誉められてるのかな?」
「うーん……半分」
「そっか、半分か」
 こんな他愛もない会話をしたのは、かなり久しぶりだ。
「そうだ! 私も雑学知ってるよ」
「どんな?」
「クラスの男子が話してるのを聞いちゃったんだけど、コンドームを財布に入れると、お金が溜まるんだって!」
「!?」
 そんな話を笑顔でされて、どう対応して良いのか困ってしまった。
「え、えぇっと……宮久保、コンドームって何か分かるか?」
「そこが問題なんだよ! 何? コンドームって」
「えっと……知らない方が良いと思うぞ」
「えー!? 教えてよ!」
 教える事を躊躇ったが、何度も粘るので仕方がない。
「宮久保。耳を貸して」
 彼女の耳に、今までの経験を活かした知識を吹き込む。
 すると、宮久保は僕から目を反らし、恥ずかしそうに頬を真赤に染めた。
「ひ、平野君」
「何?」
「ごめん」
「いや、どうって事ないよ……」
 少しだけ、気まずい空気を作ってしまった。
 どうにかして、この……何て言うか……エロい話から離れないと。
「そういえば、宮久保って家はどの辺?」
「この先の駅から電車だよ」
「電車か。毎日、大変だろ?」
「そうでもないよ。それに、長い道を歩いてるから、色々と面白い発見があるんだよ」
「発見?」
「ほら! あれ」
 そう言って、ある方向を指差す。
「あの木」
 宮久保が指差した木は、太い木の棒で補強されていた。
「あれが、どうかしたのか?」
「この前までは、今にも倒れそうだったのに、支える事で立ち上がり始めてる。なんだか、あの木を見ると、やる気が出るっていうか……。これからも頑張って行けそう、みたいに思えるんだよね。はは、ごめんね。なんか自分で言ってて、ちょっと恥ずかしいかも……。他にも、この時間にこの場所を歩いて来る人の服装とか。……私って、ちょっと変かな?」
 そんな事はない。
 毎日、この道を通っているけれど、そんな事に関心を持った事など、一度もなかった。
 宮久保は、なんて前向きなんだ。
 つくづく感心してしまった。



 宮久保と出会って、一週間程経っただろうか。
 だいぶ僕に馴染んだ様な気がする。
 休み時間になると、宮久保は僕に会いに教室へ来るようになっていた。
 同じ学年で、クラスも近いからだろう。
「平野君」
 教室のドアから、宮久保が呼んでいた。
 立ち上がり、教室から出る。
「おお、宮久保」
「ねえ、テストどうだった?」
 今日は授業が潰れて、丸一日がテストになっている。
 あまり自信のない僕には、突然その話題を出されるのは少々きついかもしれない。
 なんたって、あと三つもテストが残っているのだから。
「まあまあ、かな」
 とりあえず、そう答える。
 それを聞いた宮久保は、ややからかい気味に言う。
「ふーん。じゃあ、そんなに良くはなかったんだね」
「えっと、まあ、僕は赤点さえ取らなければ、それで良いから」
 と、胸を張って言ってみた。
「あー、そんなんじゃあ、良い大学には入れないよ」
「良いんだよ。僕は付属の大学に行くんだから」
 気のせいだろうか。
 少しだけ彼女の表情が暗くなる。
「そっか。私は、出来れば他大に行きたいなあ、なんて思ってるんだけどね」
「え!? 凄いな」
 ふふん、と宮久保も胸を張って見せた。


 答案は、三日と経たずに返却された。
 テストは全部で五教科ある。
 先に返却された四教科は、赤点にはなっていなかった物の、平均点超えもしていなかった。
 そして、最後の一教科が返された。
「うわ……」
 それは、真赤なバッテンだらけの答案用紙。
 まさしく赤点だ。
 教師は容赦なく言う。
「赤点だった奴は追試だからな」


「へー、大変だね」
 帰り道、宮久保にテストの事を話すと、そんな返答をされた。
「ちゃんと勉強したのになあ……」
「うーん、勉強の仕方なんて、人それぞれだから」
「そういえば、宮久保はテストどうだったんだ?」
「私? 私は全部平均点超えだよ」
「う……そっか」
 僕は少々顔を引きつらせる。
「そういえば、赤点取ったら追試だよね?」
「ああ」
「私が勉強教えてあげようか?」
「いいのか?」
「もちろん!」
 宮久保は嬉しそうに頷いてくれた。


 休日に、駅近くの図書館で勉強する事になった。
 勉強はあまり好きではないが、なんだか待ち遠しい。
 宮久保を駅まで送った後、今にも騒ぎ出したい気持ちを抑えながら、僕は思いっ切り家まで走った。


 
その日、宮久保は制服で来た。
 彼女曰く、制服の方が気合いが入るそうだ。
 まあ、僕もそんな気分で制服を着て来たのだけれど。
 図書館の隅の机に二人で腰掛けた。
 勉強の為、止むを得ないのは分かるのだが距離が近い。
 彼女の呼吸の音が聞こえたり、長い髪が時々頬に触れる。
 その度に、少しだけ赤面した。
 勉強の方はと言うと、教え方がとてもうまく、すぐに問題を理解する事が出来た。
始めてから二時間程して、宮久保は伸びをした。
「んー! そろそろ休憩しようか」
「ああ。そうしよう」
 僕と宮久保は外の自販機でジュースを買った。
 授業料として、彼女の分の代金は僕が出した。
 缶を開けて、口に運ぶ。
 その時、彼女の腕に着いているリストバンドが目に止まった。
「なあ、気になってたんだけどさあ、そのリストバンド。いつも着けてるけど、何?」
「ああ、これ? これは、前に大事な人から貰った物なんだ。大事な人から……」
 儚げな表情を作って、リストバンドを見る。
「大切な物なんだな」
「うん、とっても」
 宮久保にも、過去にそんな人はいた。
 自分が関わる事の出来ない彼女の過去。
 そう思うと、少しだけ悲しくなった。
 雲に隠れていた太陽が顔を出し、眩しい日差しを放つ。
 宮久保は左手を広げ、宙にかざして言った。
「もう夏だね」
「うん」
「夏休みになったらさ、二人でどこかに行かない?」
「どこかって?」
「どこか!」
 笑う宮久保に僕も笑い返す。
「そうだな。夏休みになったら、どこかに行こう」


 勉強の成果もあり、追試は見事に合格だった。


 テストも終わり、高校一年生の夏休みが間近に迫っていた日。
 帰り道にあるファーストフード店で、僕達は夏休みの予定について話し合っていた。
「平野君は、夏休みは予定とかある?」
「んー、そうだな、特に予定はないな。旅行にも行かないし」
「じゃあ、二人で行こうよ」
「どこに?」
「電車で、凄い田舎に」
「田舎?」
「うん。凄く良い所」
結局、宮久保は詳しい行先は教えてはくれなかった。


 夏休みに入ると、宮久保と会う回数も減ってきた。
 学校に行く事はないから、仕方がない事だが……。
 しかし、旅行はあと数日後だ。
 あと数日……そう思う程、宮久保に会いたくて仕方がなかった。


平日の午前十時という、あまり人のいない駅の改札前で、宮久保は僕を待っていた。
いつも学校で見る様な制服ではなく、白のワンピース姿に、やはり腕にはリストバンドを着けている。
 手には軽い荷物を持っている。
 日帰りだと言っていたから、実はそれほど遠くはないのだろう。
 まあ、夏休みだから帰りなんて何時になってもいいのだけれど。

 数本の電車を乗り継ぎして二時間程の所に、目的地はあった。
 そこは、彼女の言う通り、まさしく田舎だった。
 自分の住んでいる街とは違って、太陽は照り付けてはいるが、とても涼しくて過ごしやすそうな所だ。
 辺りは見渡す限りの田園が広がっていて、その間に一本の舗装された道がある。
「本当に田舎だな」
 驚いている僕を見て、宮久保はクスクスと笑う。
「こんな田舎は初めて?」
「うん、そうかも」
コンクリートで舗装された一本道を二人で歩く。
 真夏の日差しは、僕達を明るく照らし出していた。
 時折、地元のケートラが通るくらいで、他には何もいなかった。
 ただ聞こえてくるのは、蝉の鳴き声や風の音だけ。
 しばらく歩いた所に村があった。
 藁で作られた屋根のある家々が連なり、一つの村を作りだしていた。
 いや、こういうのは村と言うよりは、集落と言うのかもしれない。
「なあ、ここに何かあるのか?」
「まだ先だよ」
 そう言って、宮久保は再び歩き出す。


 村を抜けた所に西洋風の大きな屋敷があった。
 見てすぐに、白というイメージを定着させる様な、真っ白な柵に囲まれた屋敷。
 大きな庭には、かつては芝生があったのだろう。
 今は雑草がボウボウに茂っている。
「ここだよ」
 宮久保は、そう言った。
「え?」
「ここが目的地」
 ここは、どう見ても空家だった。
 以前に、どこかの金持ちでも住んでいたのだろうか。
「ここって……」
 彼女の表情に影が差し込む。
「昔、私が住んでた家」
「こんな凄い所に……。どうして?」
「とりあえず、中に入ろう」
 ポケットから鍵を取り出し、門の鍵を開けた。
「昔、合鍵を貰った事があって、そのまま持ってたの」
 屋敷に入ると、高い天井や所々の大きな扉が目に着いた。
 驚いている僕を余所に、宮久保は語りだす。
「私は、父さんの不倫相手との間にできた子供だったの」

   ♪

 宮久保沙耶子は、世間で名を轟かせる程の富豪の家に生まれた。
 しかし、それは宮久保にとっては、とても不幸で可哀想な事だった。
 宮久保は父親と、その不倫相手によってできた子供なのだ。
 別荘であるこの屋敷に、宮久保は父方の親戚の叔母と住む事になる。
 しかし、その生活は中学一年生に進級したある日、終わりを迎える。
 不倫相手は疾走し、その後、父親は事業に失敗して自殺。
 その為、会社は倒産し、叔母は私を一人残して失踪した。
 残ったのは、宮久保とその母親、それと多額の借金だった。
 そして、宮久保はこの屋敷を離れ、あの街で母親と住む事になったのだ。

   ♪

「ここが、私の部屋」
 かつて、宮久保が住んでいた部屋は閑散としていて、中央にあるピアノとベットと机、他に家具の様な物は、一切置かれていなかった。
 それを見て、宮久保は安心した様に胸を撫で下ろす。
「良かった。ピアノだけは残っていたんだ」
「?」
「殆どの家具は、差し押さえられちゃったんだ。でも、良かった。本当に良かった」
 宮久保は全身の力が抜けた様に、その場に倒れ込む。
 僕は慌てて、彼女の体を支えた。
「大丈夫か?」
「うん、ごめんね」
 彼女の声が、しだいに震えだす。
「ずっと、怖かった。このピアノがなかったら、どうしようって……ずっと怖かった」
「ピアノ?」
「うん。叔母さんは、引っ込み思案な私にピアノを教えてくれたの。毎日、家事の合間を縫って……」
「優しい、叔母さんだったんだな」
 そう言って、僕は頭を撫でてやる。
「?」
宮久保は少しだけ頬を赤くした。
「こうしてると、ホッとするって、教えてくれたろ?」
「うん、ありがとう」
 僕は彼女の小さくて細い体を、力一杯に抱き締めた。
 彼女の流した涙が僕の肩に落ち、温かな温度を伝える。
 あの日の僕とは違う。
 そう思う事が出来た。
「なあ、宮久保」
「やめて!」
「え?」
「名前で……呼んで……」
 その声には、少しだけ恥じらいがある。
「うん。沙耶子」
「何? 隼人君」
「キス……しても良いかな?」
 僕の問いに、頬を真赤に染める。
「キス? じゃあ……私、隼人君の……その……恋人になっても良いのかな?」
 鼓動が少しずつ高まり、胸がキュッと締め付けられる様な想いだった。
「ああ、もちろんだ」
「じゃあ、私……欲しいの……平野君が……」
「うん」
 唇に触れた柔らかい感触を感じながら、ゆっくりと目を瞑った。

 どれ程の時間が経ったのだろう。
「こんばんは、隼人君」
 ベットの上で、重い目蓋を開けて横を見ると、沙耶子はピアノに手を添えていた。
 部屋の中は既に暗くなっていて、唯一の明かりは外からの月光だった。
「お洋服、そこに置いてあるから」
「ああ、ありがとう」
 モゾモゾと服を着る。
「今から帰ると、大分遅くなるな」
「隼人君」
「ん?」
「今夜は、ここに泊まろう。お弁当もあるから」
「……うん」
 どうしてだろうか。
 あまり沙耶子に対しての恥じらいを感じなかった。
「ねえ、ピアノ弾いても良いかな?」
「ああ、頼む。僕も聞きたいから」
 鍵盤の蓋を開けて、椅子に座る。
 真っ白な鍵盤が月光に照らされて、眩しく光った。
 鍵盤の上で、彼女の指が踊りだす。
 その度に、綺麗な音が部屋の中で響いた。
曲自体は聞いた事がなかったが、何度でも聞きたくなる様な、そんな音色だった。
「この曲は?」
「昔、私と叔母さんで作った曲なの。曲名はホープ」
 ホープ、日本語訳は希望。
 曲名を考えるに当たって、彼女の叔母は沙耶子の未来に希望を託したのだろう。
 根拠はないが、そんな気がした。
「ホープ……希望か。良い曲だな……」
音色を奏でながら、沙耶子は言った。
「いつか……会えると良いな。本当の母さんに……」
「会えるよ。希望を捨てなければ」
その音色を聞きながら、僕は沙耶子と共に夜を過ごした。
これからの僕達に希望がある事を願って。


「じゃあね、隼人君」
「ああ、またな」
 駅で沙耶子と別れた後、自分のいる世界が変わった様な気さえした。
 上手くは言えないけれど、前と違って、どこか透き通っている。
 そんな感じがしたのだ。


 夏休みも終わり、秋が近付いていた。
 涼しい風やカラカラに枯れた葉が、その事を証明している。
 そして、秋になってから変わった事が一つだけあった。
「ごめんね」
 沙耶子は申し訳なさそうに、僕に謝罪する。
「どう言う事だよ!? 別れようなんて……」
「ごめんね」
 そう言い残して、僕の前から去って行った。
 別れを告げるに至った訳すらも、一切見当が付かなかった。


 それからというもの、僕は毎日校舎裏へ来た。
 結局、前の自分に戻ってしまったのだ。
 何も変わってなどいなかった。
 でも、一つだけ感じている事がある。
 ポッカリと穴が開いた様な感覚。
 それは喪失感。
 そして、この時、僕は見た。
 屋上から落下する彼女の姿を……。



 帰宅して早々、トイレに籠った。
便座に手を着き、そのまま一気に嘔吐する。
 涙や鼻水で、僕の顔はもうグショグショだ。
 汗で貼り付くシャツが、異常にヌルヌルしていて気持ちが悪い。
 自室へ戻り、布団の上に倒れた。
 今日までの出来事全てが、夢であれば良いのに。
 そんな、ありもしない事を思いながら、ゆっくりと目を瞑った。


翌日の学校では、昨日の出来事の噂で持ちきりだった。
「隣のクラスの宮久保って子、昨日の放課後に屋上から飛び降りたんだって」
「えー、マジで!? どうして?」
「うーん……私が思うに、宮久保ちゃんって平野君と仲が良かったじゃん。たぶん、それに関係してるんだと思うよ」
 僕に聞こえないように言ってはいるようだが、ほぼ聞こえていた。
 そんな面白半分に話すクラスメイトに、段々と怒りが募っていく。
 そして、屋上から落ちた沙耶子を見捨てて、逃げた自分への怒りも……。
 あの後、沙耶子はどうなったのだろう。
 血はそれ程出ていなかったから、もしかしたら職員か誰かが早く見つけていれば、死んではいないかもしれない。
 でも、もし死んでいたら……。
 そう思うと、気分が悪くなってきた。
 もういっその事、今日は早退しよう。
 そう思い、だるい体を起こして廊下に出た。
 丁度、チャイムが鳴る寸前だった為、昇降口には誰もいない。
「平野さん」
 後ろから呼び止められた。
 振り返ると、そこには見覚えのある少年が立っていた。
 上履きや名札の色から察するに、三年生の先輩だろう。
「何か用ですか?」
「ああ、やっぱり。君が平野君か」
「そうですけど……」
 僕とは対に、少年はとても涼しげな表情をしている。
 何だ? この人は。
 今は誰かと話すなんて気分じゃないのに。
「宮久保さんは生きているよ」
 その言葉が、今にも立ち去ろうとしていた僕を止める。
「どう言う事ですか?」
「僕は光圀幸太。知らないかい? よく全校集会では、壇上の上で挨拶をしてるんだけど」
そういえば、光圀幸太といえば、この学校の生徒会長だ。
「どうして、沙耶子の事を?」
「昨日あった事は、先生から聞いていたんだ。まだ、ニュースにもなっていない。とりあえず、宮久保さんと一番仲が良い君に伝えておこうと思ってね。行ってあげな。宮久保さんの為にも。きっと喜んでくれるよ」

 彼が言っていた病院は、バスを何本か乗り継ぎした所にあった。
 駐車場も大きく、病棟もいくつかある大きな病院だった。
 病院内は平日という事もあり、とても閑散としていた。
 受付を済ませ、彼女の病室へ向かう。
 受付の看護師が言うには、先程、僕と同い年位の少年が来ていて、今もいるそうだ。
 その少年というのがいったい誰なのか、そんな事は気にならなかった。
 ただ、沙耶子が無事で良かった。
 それだけだ。
 僕の心臓はバクバクと、大きな鼓動を鳴らす。
 鼓動だけで分かる様に、とても緊張している。
 いや、逆に怖いくらいだ。
 それでも、僕は沙耶子に会って、どうしてあんな事をしたのか聞かなければならない。
 それが、今しなければならない事だと思ったから。
 部屋の番号と名前を確認し、ゆっくりとドアを開ける。
 そこには、ベットに横たわる彼女の姿があった。
 隣の椅子には、見知らぬ少年が座っている。
 確かに、受付で看護師が言っていた様に、僕とそれほど年は変わらないだろう。
 現に、彼は隣町の私立高校の制服を着ている。
 どこか、大人びた顔立ちからは、悲しげな表情を隠し切れていないのが覗える。
 やはり、彼も僕と同じで、沙耶子がこうなってしまった事に苦悩しているのだろう。
 彼は数秒間、僕を見て決心した様に言った。
「君が来るのを待っていたよ」
「?」
「俺の名前は烏丸綾人」
「僕は」
 彼は僕の言葉を遮る。
「知っているよ」
「?」
「平野隼人だろ。全て、沙耶子から聞いている」
 烏丸と名乗る少年が言う沙耶子という名前に、胸が軋む。
「沙耶子とは、どんな関係なんですか?」
 彼は少しだけ言葉に間を置いた。
「中学時代の、ただのクラスメイトさ」
 彼はバッグから、何かを取り出した。
「とりあえず、これを見てくれ」
差し出されたのは、一冊の日記帳だった。
 可愛らしい、いかにも女の子が使う様な留め具の付いた物だ。
 唾を飲み込み、最初のページをめくった。

   ♪

 中学一年生に進級したある日、父さんは多額の借金を残して自殺した。
 別荘で、父方の叔母と暮らしていた私は、屋敷を離れ、父の実の妻と二人で住む事になったのた。
 この人が私の母。
 そう思う事にした。
 母は、無愛想を絵に描いた様な人間で、私をここまで育ててくれた叔母とは違って、一欠片の愛情も感じなかった。
 当然だ。
 父が死んで、その不倫相手の子供を押し付けられたのだから。
 こうなっても仕方がない。
 それでも、母に好きになって貰いたくて、愛して貰いたくて、努力した。
 仕事へ行く母に代わって、掃除や洗濯の様な、自分で出来る最低限の事はしていた。

 でも、この街に来て、良い事もあった。
 烏丸綾人君との出会いだ。
 クラスメイトが私の家庭事情に関して、ヒソヒソと悪口を言っているにも関わらず、綾人君は気にする事なく話し掛けてくれた。
 学校では殆ど、綾人君と一緒に過ごした。
 綾人君がいるから、毎日頑張って学校へ行く事が出来る。
 そう思えた。
 綾人君こそが、私にとっての希望であり光であったのだ。

 家に帰ると、母がグッタリと布団の上に倒れていた。
頬には大きな傷がある。
「どうしたの!? それ!」
 驚く私の質問に、母は面倒臭そうに唸る。
「何でもないわよ」
「何でもなくないよ! 仕事で何かあったの?」
 母は軽く舌打ちを鳴らし、私の頬を叩いた。
 私の体は床に倒れる。
「痛っ、何するの!?」
「いちいち、うるせえんだよ!」
 そう言って、私の髪を引っ張り、風呂場に連れて行った。
「痛い、やめて! いやっ」
 私の声は、しだいに震え始める。
「……か、母さん……何? 何をするの?」
 母は私の顔を、そのまま水の張った浴槽の中に叩き付けた。
 息が出来ない。
 辛い。
 苦しい。
 髪を上に引っ張られ、浴槽から引き上げられる。
「やめて……母さん。お願い……やめて」
 か細い声で、そう言い続けた。
 その言葉を聞いた母は眉にシワを寄せる。
「私を……私を母さんなんて呼ぶなああああああああ!!」
 そう言って、再び私の顔を浴槽に突っ込んだ。
「ごめんなさい! もう、何も言いませんから! お願い! やめて!」
 同じ様な事を数十分繰り返され、その度に私は叫び混じりに、そんな言葉を吐き続けた。

それからというもの、母は毎日の様に、私に暴力を振るい続けた。
 悪いのは母ではない。
 生き残ってしまった私なのだ。
 左腕を何度もカッターナイフで切った。
 それでも死ねなかった。
 いつも刃を深く皮膚に入れていないからだ。
 ならば、私は何の為にこんな事をしているのだろう。
 そんな事をよく考えてしまっていた。
 それに呼応するかの様に私の左腕には、たった数日で幾つもの傷が出来上がっていた。


とある休日の事だった。
綾人君は、私を買い物に連れ出してくれた。
たぶん私を元気付ける為だろう。
「はい、沙耶子にプレゼント」
 綾人君は、私にリストバンドを買ってくれた。
 きっと、私の左腕の傷に気を使ってくれたんだと思う。
「これ……」
「ほら、俺とお揃い」
 無邪気な顔で、左腕に着けたリストバンドを見せる。
 つい笑ってしまった。
「今時、お揃いなんて……」
「あ、笑うなよ」
 綾人君は少しだけ照れた顔をする。
「でも、ありがとう。大事にするね」
「ああ」
 その笑顔を見るだけで、勇気付けられる。
綾人君となら、どんな困難も乗り越えていける。
そんな気がしていた。
それでも、現実は甘くない。
 家に帰ると、母さんはどこかの知らない男の人を連れていた。
 二十代後半くらいだろうか。
 年齢独特のいやらしい目で、男は私を見ていた。
「沙耶子。この人、今日はうちに泊まってくから」
「……うん」
 何も言えなかった。
 下手に何かを言えば、また暴力を振るわれるからだ。
 母さんの暴力に怯えて、何も出来ない無力な自分が、情けなくてたまらなかった。


その日の深夜。
 自室でガタガタと物音がするので目を開けてみると、目の前には母さんが連れて来た男がいた。
「あ、あ……」
 男は私の悲鳴が出る寸前の口を片手で塞ぎ、もう片方の手で私の両腕を掴んだ。
 荒い息を吐きながら言う。
「大人しくしてろよ。そうすれば、痛くしないからさあ」
 悲鳴も上げられなければ、身動きもとれない。
 最悪な状況だ。
「借金があるんだろ。俺がその借金を肩代わりしてやってもいいんだぜ」
「?」
「ただし、今から俺の言う事を全部聞いてくれたらな!」
 私は男に怯えながらも、その要求を承諾してしまった。


「まったく、中学生がこんな事を平気でするなんてなあ。『借金を返して普通の生活?』 ハハハ、笑わせんなよ。俺みたいな奴とこんな事をして、元に戻れる訳ないだろ。バーカ」
 男は父さんが残した借金を、肩代わりしてくれた。
 その代償に、私は汚されてしまった。
 それでも、普通の生活を送る為には仕方のない事だ。
 結果的には、普通になった筈だった。


 数日後、母は睡眠薬を大量に飲み、自殺した。
 冷たくなった母の隣には、遺書が置かれている。
『娘を差し出した自分が情けない。あの夜の事を深くお詫びします。本当にごめんなさい』
 遺書は、私への謝罪の手紙だった。
 少しだけ嬉しかった。
 母さんの中には、私を気遣う心があった事を知ったから。
 それでも、毎日のように続く暴力から解放された事を、私は一番の喜びとして感じてしまっていた。
その時、初めて気付いた。
 私は最低だと。
 生きる価値もない人間だと。
 汚れた女なのだと。
 もはや普通の日常など、見る影もなく消えていたのだ。

   ♪

 日記はここまでで終わっていた。
こんな事があったなんて、全く知らなかった。
沙耶子は、僕なんかより何倍もの苦労を重ねていたのだ。
それなのに僕は……。
烏丸は俯いている僕に、平然と質問を投げ掛ける。
「しょうがないさ。沙耶子は何も言っていなかったんだろ?」
「ああ。でも」
「?」
「僕が気付いてあげるべきだった。そうすれば、こんな事にはならなかったのかもしれない」
「……そうかもな。沙耶子が俺にこの日記帳を渡したのは、先週の事だったんだ。こんな事を頼めるのは、俺しかいない。そんな事を言っていた。沙耶子に言われた通り、俺は君にこれを渡した。沙耶子なりに、何かを考えていたんだと思うぞ」
 彼の口からポンポンと出る言葉に、僕は不信感を抱いた。
「どうして、そんなに落ち着いていられるんだ? あんたも、ここにいるって事は、沙耶子と親しい仲だったんだろ?」
 僕の言葉に、少しだけ表情が暗くなる。
「そうだとしても……だからこそ、俺は沙耶子の最後の願いを聞いてやったんだ」
 烏丸はこんな態度を取っているが、心の底から悲しんでいる。
 それは表情を見ただけで明白だった。
 沙耶子が目を覚ましたら、思いっ切り抱き締めてあげよう。
 そして、思いっ切り叱ろう。
 そう思っている僕を余所に、言おうかどうか迷っていたのだろう。
 少しだけ彼の声が低くなる。
「落ち着いて……聞いて欲しいんだ」
「?」
「沙耶子は、もう目を覚まさない」
 その言葉に、不安が募る。
「え? それって……」
「俺も詳しい事は分からないが、医者の話では、奇跡でも起きない限り、目を覚ます事はないそうだ」
 衝撃の事実に、僕は愕然と肩を落とした。
 しだいに溢れて来る涙を、僕は手でこすりながら一生懸命に堪えた。
「そんな……」
 息が詰まり、うまく言葉が出せない。
 烏丸は僕に左腕を見せた。
 左腕にはリストバンドが着いている。
 これは沙耶子と同じ物だ。
「あの日から、肌身離さず持っていた。それも今日で終わりだ」
 腕からリストバンドを外して、僕に差し出す。
「今の沙耶子には、君が必要だ。本当に沙耶子の事を思う気持ちがあるのなら、受け取ってくれ」
「……ありがとう」
 僕は迷う事なく、リストバンドを受け取った。
「俺はしばらく、ここに通う事にするよ。また、そのうち会おう」
 そう言い残して、烏丸は病室から去って行った。
 僕と沙耶子しかいない病室は、静寂に包まれていた。
 ヒューと吹いてくる風が、僕の頬を撫でる。
 涼しいと思ったら、窓が全開に開かれていた。
 床には数枚の枯葉が落ちている。
 風に吹かれて、どこからか飛ばされて来たのだろう。
 もし、沙耶子が落ちて来たあの場所に、枯葉が溜まっていなかったら、沙耶子は死んでいただろう。
 枯葉は彼女の命を救ったのだ。
 それでも、沙耶子は目覚めない。
 これが結果だ。
 全開に開かれている窓を閉め、ベットの横に置いてある椅子に座る。
 布団から覗いている彼女の左手首には、幾つもの傷がある。
 僕はその手を握った。
「沙耶子、君は最低でもなければ、汚れた女でもない。君は君だ。だから、僕は君が目を覚ますのを待ち続ける。十年でも二十年でも、それ以上でも待ち続ける。君が目を覚ますまで……」
 彼女の寝顔は、とても穏やかで幸せそうだった。

Episode2 変化

 私は見ていた。
 真昼の日射しが降り注ぐ校舎裏で、自分を抱く様にして蹲り泣いている一人の少年を。
 ただ、見ている事しか出来なかった。
 私はあまりにも無力で、彼の世界に入る事すら出来なかったから。
 いつからだろう。
 私から見て、彼が変わった様に感じたのは。
 もしかしたら、あの日からかもしれない。
 あの日、学校では自殺未遂をしたという女子生徒の噂で持ち切りだった。
 きっと、その日からだ。
 彼が……私の見る平野隼人が変わったのは……。

   ♪

 ただ、何の意味もなく毎日を過ごしていた。
 朝起きて、行きたくもない学校へ行き、誰もいない家に帰る。
 そんな生活が始まって、もう一年以上は経った。
 沙耶子の目は未だに覚める気配がない。
 もう、待っていても意味がないのかもしれない。
 そう思った僕は、最近まで続けていた彼女への見舞いにすら行かなくなっていた。
 入院費等の細かい事は全て綾人に任せ、僕はというと、ただ日々を惰性の様に過ごしているだけだ。
 こんな事をしていて良いのか。
 度々そう思う。
 しかし、そんな事はなるべく考えない様にしていた。
 もし、そんな事を考えた先に、ある答えを見つけたとして、それが何であるかが分からないからだ。
 最悪、今の僕なら学校だって辞めかねないから……。


 一週間程前、学校からの帰り道でタスポを拾った。
 このカードは、法律に反して煙草を買う未成年者への対策として作られた物だ。
 これがあれば、カードの中に入っている金額が尽きない限り、自販機で煙草を買う事が出来る。
 しかし、それも僕の様な学生が拾ってしまえば意味はない。
 カードを拾った帰り道、試しに煙草を一箱だけ買ってみた。
 別に吸いたかった訳ではない。
 ただ、何かに依存したかったとでも言うべきか。
 煙草は寂しさを紛らわすには打って付けだったから。
 今になって、ようやく分かった様な気がする。
 僕は沙耶子に依存していたのだという事に。


一本の煙草を口に銜え、火を点ける。
副流煙は空に向かって、ゆっくりと登って行った。
今は昼休みでもなければ、放課後でもない。
皆が授業を受けている時間だ。
そんな時間に、この屋上で煙草を吸っている自分は、おそらく傍から見れば不良と思われても仕方がないだろう。
しかし、それでも良かった。
こういう行動を取っていれば、他人が寄って来る事がないからだ。
今年のクラスは、やけに積極的に僕に関わろうとする奴が多かった。
まあ、今となってはおそらく全員が僕と関わる事なんて諦めているのだろうけど。
何しろ、今は高校三年生の秋。
クラスメイトの大半は大学へ進学する。
 それ以外の者は就職活動に勤しんでいる。
 そんな奴等が、こんな僕と今更友情を深めようとなんてしないだろう。
 もう、嫌という程思い知った。
 他人と関わるとどうなるか。


 気が付けば、吸い掛けの煙草は、もう半分もなかった。
 その場に煙草を捨てて、軽く溜息を吐く。
 今から授業に行ってもしょうがない。
 昼休みになるまで、ここにいよう。
 あの日、沙耶子はここから落ちたのだろう。
 沙耶子の事を思い返す事のない場所を探して、ここまで来たのだが、結局は彼女の事を思い出してしまった。
 金網に背を預けて、緩やかな秋の風を受けながら目を瞑った。


 真昼の眩しい光で目を覚ました。
 太陽は丁度、僕の真上に位置している。
「おはよう!」
 隣から、少女の声がした。
「え?」
 振り向くと、僕のすぐ隣で一人の少女が片手で携帯をいじっていた。
 その携帯を見て、僕は自分のポケットを確認した。
 ポケットに携帯がない。
 もしかして……。
「なあ、それ僕のじゃないか?」
「ああ、そうだよ」
 彼女は淡々と答えた。
 あまり面倒な事にはしたくないな。
 なるべく丁重に返して貰おう。
「なあ、返してくれないかな?」
「ちょっと待ってくれ」
「いや、そう言われても……そもそも、僕の携帯で何をしてるんだ?」
「ちょっとな」
 暫くの沈黙が続いて、彼女は僕に携帯を差し出した。
 僕は彼女の行動に疑問を抱きながらも、携帯を受け取る。
「メルアドを入れておいた」
「は?」
「だから、メールアドレス。ああ、大丈夫。電話帳とメールボックスは見てないから」
 そういう問題じゃない。
 僕にとって、自分に関わろうとする存在その物がイレギュラーなのだ。
「どういうつもりだよ?」
 彼女は少しだけ難しい顔をする。
「君に興味を持ったんだ」
「興味? 僕なんかに興味を持ったら、会く影響しかないぞ」
「ああ、そうかもな。例えば」
 彼女は短いスカートのポケットから、何かを取り出した。
 それは煙草の箱だった。
「おい、もしかして、それ僕の……」
「ああ、そうだ」
「返せ!」
 立ち上がって彼女から煙草を取り上げようとしたが、彼女はそれをポケットの中にしまってしまう。
「なんなんだよ!?」
 つい彼女に怒鳴ってしまった。
 しかし、彼女は動じる事はない。
「こんな所で煙草なんか吸ってるから、取り上げてやったんだろ」
「吸うも吸わないも、僕の勝手だろ!」
「私が嫌なんだ。知ってるか? 副流煙は主流煙よりも毒性が強いんだぞ」
「知らねえよ! 第一、僕は誰にも迷惑を掛けない様に、ここで吸ってるんじゃないか!」
 僕が意見に対して、彼女の意見も止まらない。
「そもそも、どうして煙草を吸っているんだ? 格好良いからか?」
「違う……ただ……」
 言葉に詰まってしまった。
 なぜ僕はこんな事をしているのか。
 その事を考えていると、なぜか沙耶子の事を思い浮かべてしまった。
「ただ……何かに依存したかったんだと思う。前に、大事な物を失くしたから」
「その大事な物は、煙草なんかを代わりに出来る様なちっぽけな物だったのか?」
「そんな事はない。本当に……大事な物だったんだ」
「なら」
 彼女は僕の顔をジッと見る。
「何だよ」
「煙草以外に依存する物を見つければ良いんだ。それか、何かに依存しなくても大丈夫な様になる事だ」
「僕は……そんなに弱い人間なのか?」
「少なくとも、私から見たらな」
 何も言葉が見つからなかった。
 彼女の言う事全てが正し過ぎて。
「見届けたいんだ。君がどう変わって行くのかを」
 校舎にチャイムが鳴り響く。
 すると、彼女は僕に「じゃあ、また後で」とだけ言い残して屋上から出て行った。
 また、後で……。
 こんなまともな会話をしたのは久しぶりだった。
 携帯を開き、電話帳を見る。
 そこには、新しいアドレスと電話番号が登録されていた。
「天道……美雨……」


 ホームルームが終わった時間を見計らって、教室へ戻った。
帰り支度をしていると、担任の琴峰に準備室へ連れて行かれた。
 まったく、琴峰の様な新任の教師は、無駄にやる気があって困る。
「なんですか? そろそろ帰ろうと思ってたんですけど」
 皮肉たっぷりに言ってやった。
 すると、琴峰はさっそく話を切り出す。
「平野君。将来の事は考えてるの?」
「まだ、特には……」
 そんなあやふやな返答しか出来なかった。
 当然だ。
 日々を何も考えずに過ごしている僕に、そんな事を考えていられる余裕なんて、ないのだから。
 担任は見計らっていた様に、ある書類を僕に突き付けた。
 そこには、ここ最近の定期テストの結果が載っていた。

国語 18点 
英語 19点
数学 8点
地理歴史 23点
理科 4点
公民 9点

「このままじゃ、付属の大学どころか多大にも行けないわよ。就職するにも、この内申じゃ雇ってくれる所があるかも分からないし」
 三年生の二学期の、この時期に僕を呼び出したという事は、琴峰はおそらく真剣に進路について、僕と話し合うつもりだ。
 長くなりそうだな。
 そう思い、僕は短く溜息を吐いて言った。
「話はそれだけですか?」
「は?」
 信じられない、とでも言いたげな顔をして、琴峰は呆れた様な顔をする。
「ちょっと、分かってるの? あなたの将来の事、つまりこれからの事を話してるのよ! もう三年の二学期なんだから、そういうのも決めておかなくちゃいけないの! ちょっと、聞いてるの!?」
 そんな話には興味がなかった。
 ただ、その日を生き抜く事が出来れば、それで良い。
 そう思っていたから。
 僕は琴峰を横切って、準備室から出た。
「ちょっと!」
 呼び止める声が後ろから聞こえたが、完全に無視を決め込んだ。
 

 秋の乾いた風が、昇降口に吹き抜けていた。
上履きから靴に履き替ていると、後ろから声を掛けられた。
「よ! 気偶だな!」
 彼女は僕に対してそんな事を言う。
「天道……美羽?」
「そう、天道美雨だ」


 どうして、こうなった?
 どうして、僕は天道と帰り道を共にしているのだろう。
 僕に対してペラペラと話をする天道。
 その話に、適当に相槌を打って対応する僕。
 やはり、何かがおかしい。
「君に興味を持ったんだ」
 屋上で言っていた彼女の言葉を思い出す。
 いったい、天道は僕の何を気に入って、こんな事をしているのだろう。
「お前、僕と一緒にいて何か楽しいわけ?」
 天道は少しだけ考える様に腕を組んだ。
「というより、最近は暗くなるのが早いからな。隣に男がいた方が何かと安心なんだ」
 そんな訳がない。
 そんな理由だけで、僕なんかと一緒にいるわけがない。
「お前みたいな、男口調してる奴を狙う物好きはいないと思うぞ」
「口調なんて関係ないだろう。世の中には男で女口調な奴がいるんだから」
「それって、ただのニューハーフだから!」
 つい、突っ込みを入れてしまった。
 まったく、どうも調子が狂う。
 天道はクスクスと笑う。
「何だよ?」
「お前といると面白いなって。そう思っただけだ」
 僕は、フンと鼻を鳴らし、天道から目を反らした。


「明日もちゃんと学校に来いよ」
「まあ、その日の気分次第だな」
 そう言って、僕は天道と別れた。
 後ろから彼女の声が聞こえて来る。
「遅刻するなよー!」
 彼女の声に、適当に手を上げて合図をした。
 

天道と別れた後、いつも煙草を買っている自販機へ寄った。
いつもなら迷わず購入するのだけれど、なかなか手が伸びない。
 数十秒悩んだ後。
「今日は止めておこう」
 結局、煙草は買わなかった。


 コンビニで適当に弁当を買って帰宅した。
 家の中には誰もいない。
 聞こえて来る音といえば、時計の針が秒針を刻む音くらいか。
 机の引き出しを開けると、そこにはリストバンドが一つ入っている。
 これは、かつて綾人の物だった。
 そして、これは僕に渡された。
 綾人は沙耶子を僕に託したのだ。
 それなのに……僕は……。
 自分の情けなさに、目蓋がじんわりと熱くなり、やがて涙が出て来た。
 いつもの事だ。
 こんな事。
 でも、本当にこれで良いのか?
 僕は……。


 翌日、学校には盛大に遅刻した。
 休み時間になったのを見計らって、教室へ入ると、何故か天道は僕の椅子に座っていた。
 しかも、かなりきつい表情をしている。
 なるべく天道と目を会わせない様に、僕は渋々と自分の机のフックに荷物を置いて、教室を出ようとした。
 しかし、教室を出ようとした時、天道は僕の腕を掴んだ。
「……何だよ?」
 天道は周りを少しだけ見渡し、軽く舌打ちをする。
「ちょっと来い!」

 そこは屋上だった。
 午前中という事もあり、とても空気が澄んでいる。
 僕の目前にいる天道の空気は、かなり淀んでいるけど。
「どういうつもりだ!?」
「何が?」
 その返答に、天道はきゅっと拳を握る。
「約束したのに……」
 次の瞬間、もう言葉を発する余裕はなかった。
 なぜなら、彼女の拳は僕の腹を直撃していたからだ。
「痛ってぇ……」
 腹を抱えて、その場に蹲る。
「な、何するんだよ!?」
「昨日……言ったのに……」
「は?」
「遅刻するなって……」

『遅刻するなよ』

 昨日の別れ際、確かに天道はそう言っていた。
 それなら、怒るのもしょうがないかもしれないが、さすがに腹パンはない様な気がする。
 僕は痛みに耐えながらも立ち上がった。
「なあ、どうして僕に構うんだ? 遅刻するもしないも、人の勝手だろ」
「今、なんて言った?」
 彼女の声はどんどん低くなっていく。
「は? だから遅刻するもしないも人の勝手なのに、どうしてお前はそうまでして僕に構うんだ?」
「それは……お前が、あまりにもダメな奴だからだよ! 宮久保さんが屋上から飛び降りてから、ずっとこんな調子じゃないか! 成績も下がる一方だし、ろくに授業にも参加しないし、それに」
 途中で彼女の言葉が途切れる。
 そして一気に赤面し、僕から目を反らした。
「どうして……沙耶子の事を……」
「まだ……高校に入学してすぐの事だったんだ」

   ♪

 入学して間もない頃の事だった。
 いつもと同じ昼休み、いつもと変わらない友人との他愛のない会話。
 途中まではそうだった。
「平野隼人って子、知ってる?」
 まだ、その頃の私は平野隼人という存在すら知らなかったのだ。
「さあ、知らない。誰?」
「あんまり言っちゃいけないんだけど、先月だったかな。両親を交通事故で亡くしちゃったんだって。高校に入学して早々なのに、可哀想だよね。で、いつも校舎裏で泣いてるらしいよ」
 少しだけ嫌な気分になった。
 そんな話、面白半分でする物じゃない。
「へえ」
 とりあえず、適当に相槌を打った。


 非日常へ行きたかった。
 ただ同じ事を繰り返す毎日に終止符を打ち、何かを変えたかったのだ。
 そして、気が付けば、私にとっての非日常、そう、その子がいる校舎裏に来ていた。
 校舎の物陰に隠れながら、そっと顔を覗かせる。
 木蓮の下に座り、頭を抱えている少年がいた。
 おそらく、あれが平野隼人だろう。
 話し掛けようかと思った。
 でも、何を話せば良い?
 そもそも、私が平野に話しかけたとして、彼はどう思うのだろう。
 お節介?
 迷惑?
 きっとそうだ。
 平野は私をその様な存在としてしか見ない筈だ。
 それでも、出来る限り遠くから見守っていよう。
 平野が笑えるその日まで。


 ただ、純粋に側で守ってあげたかった。
 理屈はないけれど、平野を見た時にそう思った。


 平野を初めて見た日から、私は校舎裏で彼の泣く姿をただ見ていた。
 しかし、それから数日後、転機が訪れる。
 彼の一人の少女との出会いだ。
 彼女こそが宮久保さんだった。
 その日から、平野は少しずつ笑う様になった。
 もう、終わりにしよう。
 私が彼らの世界に入り込む事なんて、もう絶対に出来ないのだから。
 別に悲しくなんてない。
 逆に嬉しかったのだ。
 彼の笑っている顔を見る事が出来て……。

   ♪

「ごめん」
 なんだか、天道に対して申し訳なくなってきた。
「どうして謝るんだ?」
「気付いてあげられなかった。あの時、僕は自分の不幸ばかりを呪って、周りを見ていなかったんだ」
「それでも、お前には宮久保さんがいたじゃないか。宮久保さんをしっかりと見てあげていた」
「でも、沙耶子は眠ったままだ。それに最近、もしかしたら沙耶子はずっとあのままなんじゃないかって……そう思うようになったんだ」
 話していく内に、顔が火照り、自分の声が段々と震えていくのが分かる。
「嫌なんだよ。もう、自分で自分が信じられない……」


 数秒間の沈黙が続き、天道は僕を真っ直ぐに見つめた。
「なら、私は信じてる」
「?」
「宮久保さんの目が覚めて、いつかお前と一緒にいられる日が来る事を」
 なぜか、彼女の言葉は確信的だった。
 いや、というより説得力があるとでも言うのだろうか。
「もし、沙耶子が目を覚ましたら、僕と一緒にいてくれるのかな……?」
「たぶん、それはないな」
「え?」
「とりあえず授業にはしっかり出て、勉強して成績を上げて、煙草をやめる。私から言えるのはそれだけだ」
 本当に、彼女の言う通りに事が進む様な気がして来る。
 僕は天道に対して笑って見せた。
 それは本当に久しぶりの、今の僕にとっては精一杯の笑顔だった。
「ありがとう。とりあえず付属は無理かもしれないけど、大学でも目指してみようかな」
「よし! その息だ!」
 天道は高く手を掲げる。
「え、何?」
「ハイタッチだよ! ほら!」
 天道に促されながら、僕は彼女とハイタッチを交わした。


 高校生最後の冬休みが間近に迫っていた。
 僕の周りでは、皆が進路を決め始めている。
 大学へ進学する者もいれば、就職する者もいる。
 僕の場合は進学だが。
 天道に悟られたあの日から、僕は彼女に勉強を教わっている。
 今まで知らなかったのだが、彼女の成績は学年トップだ。
 そんな人に教わっているのだから、とても心強く感じる。
 何もかもが上手く行っている様な気がした。
 しっかりと授業にも出ているし、その甲斐あって成績は天道程ではないが、徐々に上がっている。
 そして、もしかしたら沙耶子の目が覚めるかもしれない。
 そんな淡い期待すら抱いていた。

「起きろ!」
 微かにそんな声が聞こえた、そのすぐ後に頭の上に大きな衝撃が起こる。
「痛ってぇ!」
 慌てて顔を上げると、全訳古語辞典を右手に持っている天道がいた。
「まったく、せっかくホームルームが終わった後に、急いで学校の図書室の席取って勉強を教えてやってるのに、どうして途中で寝るんだ?」
「ああ、ごめん」
 まだ焦点のはっきりしない目蓋を擦りながら、とりあえず謝罪する。
「そんなに眠いのか? ちゃんと寝てるのか?」
「まあ、一応な。なんか、夜に勉強すると止まらなくてさ」
「凄いな! あの頃のお前が嘘みたいだ!」
 なんだか少し照れる。
「でも、これもお前がいてくれたおかげだから。ありがとう」
 その言葉を聞いて、天道は少しだけ赤面し、参考書に目を落とした。
「そ……そそ、そうか。ああ! そういえば」
 彼女は携帯を開き、時間を確認する。
「先生に呼ばれてたんだ。先に帰ってて良いぞ。それじゃあな!」
 天道はさっさと荷物をまとめて、図書室から出て行ってしまった。
「あいつ……少しだけ性格が丸くなったかも」
 最近、天道を見ていると、そう思う。
「帰るか」
 荷物をまとめていると、先程の古語辞典が僕の教科書の束と混ざっているのに気付いた。
 天道の机の上にでも置いてから帰るか。
 持ち帰るのも悪いしな。
 

 三年生の教室が並ぶ階には、放課後という事もあって、全く人がいなかった。
 受験の近いこの時期なら、学校に残ってる三年生なんて、何か用のある人くらいだ。
「良かったわ。あなたのおかげでクラスの問題子がいなくなった」
 準備室の前を通り掛かった時、中から琴峰の声が聞こえた。
「……そんな、問題児なんて……」
 天道の声がして、僕はその場で足を止めた。
「あら、言い方が悪かったかしら。でも、あなたのおかげよ。そろそろ、あなたが二年前にした事も、あなた自身の事に関しても考え直さないといけないわね」
なんだ? これは……。
 担任と天道の会話を聞いて、ある考えが頭の中に浮かんだ。
 天道が僕に近付いた理由。
 それは担任に何かと引き換えに、頼まれた為。
 僕は、始めから利用されていた。
 天道は僕の事を信じてなどいなかったという事に、やっと気付いた。


 とにかく全てが嫌になった。
 フラフラと何時間か街を彷徨っていると、空はすっかり暗くなっていた。
 道を照らすのは、端に取り付けられた街灯くらいだ。
 孤独。
 そんな感じがした。
 携帯を開くと、時刻は深夜の一時を回っていた。
 そして、メールが三件。
 それらは全て、天道から送られた物だった。

 一件 私の古語辞典がないんだが、知らないか?

 二件 おい、無視するな!

 三件 大丈夫か? 何かあったのか?

 携帯を強く握りしめた。
 みしみしと、今にも砕けそうな音が鳴る。
「どうして……」
 天道は僕を利用していただけなのに、どうして僕なんかの心配をするんだ。
 
 数回のコールが耳元で鳴る。
 僕は無意識のうちに、天道に電話を掛けていた。
 コール音が途切れ、彼女の声が聞こえて来る。
「もしもし? 平野?」
「……っ……っ、っ」
 彼女の声を聞いた瞬間、声が出なくなり、電話を切ってしまった。
 どうして?
 いつも普通に話しているのに。
 
 もしかしたら、もうダメなのかもしれない。
 両親を亡くして、大切な人を手放して、信じていた人に裏切られた。
 もう嫌だ。
 いっその事……。
 赤い光が視界に入る。
 それと同時に、カンカンカンと耳に響く音がしている事に気付いた。
 目の前には発光ダイオードを赤く光らせる踏切がある。
 辺りを見渡して、人がいない事を確認すると、僕はそこへ進んだ。
 ふらふらした足取りで線路の真ん中に立ち、ゆっくりと目を瞑った。
 
「やめろー?」
 電車の轟音が近付いて来ると同時に、天道の声が聞こえた。

 気付くと、僕は踏切の向こう側に突き飛ばされていた。
 そして、僕に覆いかぶさる様な状態で、息を切らしている彼女の姿があった。
 天道は僕の胸倉を掴む。
「何て事をするんだ!? 死んだら全部終わりなんだぞ!! 死んだら……宮久保さんにも会う事だって出来ないんだぞ!!」
 その言葉に、ハッと我に返った時には、僕の体はがたがたと震え、頬には涙が伝っていた。


 街灯だけが照らす夜道を僕等は歩いていた。
今更気付いたのだが、彼女の服装は制服だ。
まさか、こんな時間まで僕の事を探していたのだろうか。
「ごめんな。変な事して……」
「いや。もしかしたら、私にも非はあったのかもしれない」
 彼女の声には、いつもの様な活気はなかった。
「私は、この高校にバスケ部の推薦で入学したんだ。でも、他のメンバーの性格がかなり悪くてな。虐めのターゲットにされてたんだ。靴に穴を開けられたり、トイレで服を脱がされたり、あの頃の私は本当に惨めだった」
 以前、聞いた事がある。
 女子バスケットボール部の噂。
 それは部内での壮絶な上下関係、俗に言う虐めだった。
 先輩と後輩の間で問題が起き、体育館で全校生徒が集まっての集会が開かれた程だ。
「一学期の総体が迫っていた時の事だった。もう限界だった私はその虐めの首謀者に怪我を負わせた。知ってたか? うちのクラスの担任は、その子の姉だったんだ。だから、私は担任に頭が上がらなくて」
「もう良い!」
 僕は彼女の言葉を遮った。
 そんな汚れた話は、聞きたくなかった。
 天道が……そんな事の為に琴峰の犬になった話なんか。
「もう良いんだ。大体分かったから」
 彼女の僕を見る表情は、驚いている様にも見える。
 そして、彼女の頬に涙が伝う。
「初めてだ。お前みたいな奴……。あの日から……その事を知った奴は、皆が私を軽蔑したのに……」
 初めてだった。
 こんなに天道がか弱く見えたのは。
 僕は彼女の手を強く握った。
 手の温度や感触が直に伝わって来る。
「大丈夫だ。僕はそんな事、気にしないから」
「うん。ありがとう」


 三学期になり入試が終了すると、天道に会う事も少なくなった。
 最後に天道に会ったのは、始業式の時か。
 話しによると、かなり偏差値が上の方の大学を受けたらしい。
 三年生は自由登校という事もあり、殆どの生徒が学校へ行っていない。
もちろん、僕もそうだ。
それに学校へ行って、天道がいないのなら、行っても意味がない。
机の上のノートパソコンを開き、試験結果の確認サイトを開いた。
今日は合否の結果発表だ。
滑り止めとして受けた、第二希望の大学は受かったのだが、今回はとても不安だ。
何しろ、第一希望。
つまり最も偏差値が高いのだ。
恐る恐るマウスを動かしていると、携帯のバイブレーションが突然鳴りだす。
何事かと携帯を開くと、天道からメールが来ていた。

今日は合格発表だろ? 一緒に行ってやる。

「ネット使って見ようと思ったんだけどな……」
 折角の誘いだ。
 一緒に行く事にしよう。

 合否の発表場所となる大学は、近所のバス停から一本で行く事が出来る。
 天道にメールを返信し、財布と受験票を持って家を出た。
 
天道は僕よりも先にバス停にいた。
「久しぶりだな」
 そう言って、天道はコートのポケットからカイロを取り出し、それを僕に差し出す。
 カイロの袋には、この時期流行りの合格という印字がされていた。
「ありがとう」
「油断するなよ。結果はまだ分からないんだから」
 天道と話したのは久しぶりだ。
 だからこそ、なんだか安心した。
 丁度、バスが来る。
 平日の昼前という事もあり、バスの中には僕達しかいない。
「なあ、天道」
「何だ?」
「お前のおかげでここまで来れた。本当にありがとう」
 その言葉に、天道は赤面する。
「ま、まだ早いぞ。とりあえず、合否を見ないとな」


 合否の結果が並べられている掲示板は、バス停のすぐそこにある大学の門前にある。
 僕と同い年くらいの男女が、そこら中に何人もいる。
 段々、緊張して来た。
 少しずつ息使いが荒くなる。
 天道は穏やかな口調で「大丈夫だ」と言って、ぽんぽんと背中を押してくれた。
「きっと受かる。あれだけ勉強したんだから」
「……そうだな」
 僕は込み上げる緊張を抑えながら、合否の結果が貼り付けられている掲示板を見た。
 手に持っている受験票に記載されている番号と、掲示板を何度も見比べた。
「あった」
「え?」
「あったんだよ! やったよ!」
 僕の緊張は一気に解れた。
 そして、彼女の緊張も解れた様に、表情が緩む。
「やったな!」
「ああ。お前のおかげだ! 天道!」
「そんな事はない。私はただ、お前の背中を押してやっただけだ。これで、宮久保さんに胸を張って、会う事が出来るな」
「そうだな」
 沙耶子が眠り始めてから、ただ、何の意味もなく毎日を過ごしている。
 今までそう思っていた。
 しかし、天道と出会ってからの、一分一秒には大きな意味が込められていた。
 それは、希望も持てず大きな過ちを犯していた僕の変化。
 そして、僕が変われた理由こそが天道だったのだ。
「ようやく決心が出来た」
「何の?」
「明日、沙耶子のお見舞いに行ってみようと思う」
 天道は少しだけ悲しげな表情を浮かべ、そして笑い掛けた。
「そうか。きっと……宮久保さん……喜んでくれるぞ」
 彼女の頬に一滴の涙が伝い、やがて涙が溢れ出す。
「おい、天道……」
「何でもない。大丈夫だ」
 天道は涙を流しながらも、僕に笑顔を絶やさなかった。

Episode3 芽生えた希望

 大学のキャンパスから出ると、冬場の寒々しい風が頬を撫でた。
 腕に巻いているリストバンドが、ふわふわしていて妙に温かい。
 首にマフラーを巻きながら呟く。
「寒いなあ……」
 吐いた白い息は、ゆっくりと寒空へ消えて行った。

♪ 

あの日、沙耶子が眠り始めてから三年が経ち、僕は大学に進級していた。
 沙耶子は未だに目を覚ます事はない。
 それでも週に一度、必ず彼女の見舞いに行く。
僕は信じているから。
天道が言っていた事を。
高校を卒業して以来、天道とは連絡も取り合っていないし、会ってもいない。
甘えたくなかった。
僕は、あの時とは違うから。

               

 受付を済ませて、彼女の病室へ行った。
 やはり、そこにある光景はいつもと同じ。
 ベットの上で横たわる沙耶子だけだ。
 しかも、彼女の姿は成長する事もなく、高校時代の容姿を、そのまま保っている。
「沙耶子……」
 その名を口にしてはみたものの、何も反応がない。
 あの日、沙耶子と共に過ごした日々。
 笑ったり、泣いたり、怒ったり、あの頃はとても楽しかった。
 それなのに、ここ最近では、笑ったり、泣いたりする事も出来ない。
「隼人」
 後ろから声を掛けられた。
 振り返ると、そこには綾人がいた。
 なんだか元気がない。
「どうした? 大丈夫か?」
「ああ……ちょっとな。さっき、院長に呼ばれたんだけど……」
「何か言われたのか?」
 綾人はゆっくりと頷く。
「実は、沙耶子の入院の事なんだが……」
「入院費は僕と綾人がバイトで、稼いでるじゃないか」
「いや、入院費の事じゃないんだ」
「じゃあ、なんだよ?」
 綾人は拳を握って、言葉を絞り出す様に言った。
「このままじゃ、回復の見込みはないから、来月に県外の病院へ移すそうだ」
 それは、つまり彼女の顔を見る事すら出来なくなる、という事だった。
「どうにかならないのか?」
 綾人は申し訳なさそうな顔をして黙ってしまう。
「僕が院長と話して来る」
 病室を出ようとすると、強い力で腕を掴まれた。
「やめておけ。その病院へ行けば、沙耶子が目を覚ますかもしれないんだ。俺達は、入院費の事だけを考えておけば良い!」
 その言葉に、抑えようのない怒りが込み上げて来た。
「何を言ってるんだ!? お前はあ!」
 勢いのあまり、僕は思いっ切り彼の頬を殴った。
 しかし、綾人は動じなかった。
「ちょっと、何やってるんですか!?」
 廊下にいる看護師が、驚いた顔をして怒鳴る。
「いえ、何でもないです。ご心配なく」
 綾人は愛想笑いを浮かべながら誤魔化す。
 僕は病室から一目散に駈け出した。


 行く所もなかったから、とりあえず家に帰った。
 家には誰もいない。
 当然だ。
 僕だけしか住んでいないのだから。
 部屋の中は冷え切っていて、とても寒い。
 突然、頬を温かい何かが伝った。
 頬に手を当てて、それが何であるかを確認する。
 これは涙だ。
「おかしいな。ここ最近、涙なんて出なかったのに……」
 久しぶりに流した涙を見て、僕は泣く事が出来るのだと、少しだけ安心した。


 翌日の朝、突然電話が掛かって来た。
 時計を見ると、まだ五時を回ったばかりだ。
 眠気の残る目蓋を擦り、布団から這い出る。
 寒々しい空気が体を包んだ。
 受話器を取り、眠そうな声で応答する。
「はい、もしもし」
「隼人か?」
 電話の相手は綾人だった。
「何だよ? こんな朝早く。何時だと思ってるんだ」
「大変なんだ!」
 彼の声は、珍しく活き活きとしている。
「沙耶子が目を覚ました!」
「え?」
 その知らせは、僕の眠気を一気に覚まさせた。


 病院内は早朝という事もあり、看護師が所々で忙しそうにバタバタとしていた。
 彼の姿がない事を察するに、まだ来ていないらしい。
 とりあえず、先に病室へ行く事にした。
 正直、怖かった。
 沙耶子と会うのは三年振り、という事になる。
 僕は恐れを振り切り、病室のドアを開く。
 部屋の中は、朝方の明るい光で満ちていた。
 窓際に置かれたベットの上に、半身を起こして外を眺める沙耶子の姿がある。
「沙耶子……」
 その名を呼んで、すぐ側へ行った。
 沙耶子はこちらを振り向き、ゆっくりと口を動かした。
「……誰?」
「え?」
 嫌な予感がした。
 まさか、そんな筈はない。
彼女の事だ。
 きっと、ただの冗談に違いない。
「沙耶子、僕だよ。隼人だよ……」
 沙耶子は困った様な顔をしてしまう。
「あの……ごめんなさい」
 一歩ずつ後ずさり、逃げる様にして病室から抜け出した。
 せっかく、会えたのに。
「隼人、どうだった?」
 廊下で綾人に会ったが、そのまま横切って病院の外へ出た。
 沙耶子、綾人、僕、自分達の不幸を呪う様な気持だった。


 もう、動く事も嫌だった。
 病院の中庭のベンチで、ただ頭を抱えて蹲る。
 何もしたくないし、何も考えたくなかった。


ベンチに座っている僕の直下に、野球ボールが一つ転がって来た。
手を伸ばし、それを拾い上げる。
かなり使い込んでいる様で、縫い目は所々が千切れ、全体的に剥げていた。
「これは……」
「ほんの少しの間だったけど、俺が一生懸命になっていた時の宝物だ」
 涙のこびり付いた顔を上げると、目の前には綾人がいた。
「沙耶子、記憶がなかったな……」
「もう駄目かもしれない」
「?」
「僕は……これから沙耶子といられる自信がない」
 綾人は少しだけ苛立った表情を浮かべて、僕に近付き、頬を強く叩いた。
 痛みがジワジワと湧いてくる。
 その反動で、思わずボールを落としてしまった。
 落ちたボールを拾い、綾人は言う。
「昨日のお返しだ。それと、俺をガッカリさせるな。どうして、俺がお前にリストバンドを渡したか分かるか? あれは、俺がお前に期待していたからだ。お前なら沙耶子を救える。そう思っていたから」
「でも……僕は……」
 僕の眼前に、綾人はボールを勢いよく差し出す。
「このボールは、短い間だったが、同じ夢を追い掛けていた奴から貰った物だ。こんな有様だけど、自分なりに大切にしている。あいつは信じていた。俺が夢を諦めても、いつか対等な場所で遭える事を。人に大切な物を託すというのは、そう言う事だ。俺がお前に、リストバンドを託したのも同じ事」
綾人は、僕に大切な沙耶子との思い出、リストバンドを託した。
それが彼にとって、これ程の意味を成していたという事に、ようやく気付いた。
 もし綾人が望む様に、僕といる事で彼女の記憶が戻り、僕達が元に戻れるのなら……。
「……そうだな。沙耶子の側に一番いなきゃならないのは、僕なんだよな」
 頬にこびり付いた涙を拭い、断言した。
「僕が側で沙耶子を守る。どんな事があっても。絶対に、沙耶子に辛い思いはさせない」

Episode4 宮久保沙耶子

「おい! 沙耶子。初日から遅刻するつもりか? せっかく綾人が車で送って行ってくれるのに」
 部屋の外から、兄の声が聞こえた。
「ごめん。隼人お兄ちゃん。先に外に出てて。すぐに行くから」
「しょうがないな。早くしろよ」
 兄に急かされながら、机の上の教科書を鞄に詰め込む。
 時間はまさに遅刻ギリギリだ。
 玄関から出ると、真新しい初心者マークのステッカーが着いた車があった。
 綾人さんが窓から顔を出して言う。
「沙耶子、早く乗れ。飛ばしてくから」
「おい、免許取ったくらいで調子に乗るなよ」
 後部座席から兄が突っ込みを入れる。
「大丈夫。俺は未だに無事故無違反だからな」
 そんな愉快な会話を聞きながら、私は後部座席に腰を下ろした。

   ♪

 二週間ほど前の事だ。
 私は病院のベットの上で目を覚ました。
 兄や綾人さんの話では、私は交通事故による三年間の昏睡状態から、奇跡的に目を覚ましたらしい。
 しかし、私には今までの記憶がなかった。
 医者の話では、事故で頭を強打した為に、記憶障害を起こしてしまったそうだ。
 一つだけ、気になっている事もある。
 それは左手首に付いている傷跡だ。
 この話を兄に持ち掛けると
「お前はドジだったからなぁ。料理とかしてる時に、包丁で切っちゃったんだよ」
 ありえない。
 ただ料理をしただけで、こんな所に傷が付く筈はない。
 兄は何かを隠している。
 そう思っているのだが、それ以上は兄に聞く事が出来なかった。
 とても苦しくて悲しそうな表情を浮かべるから。
 前の私がどんな人で、どんな事をしていたのか、考えると少しだけ怖い。
 それでも、隣に座っているこの青年が兄という事だけは、変えようのない事実だ。

   ♪

 学校に着くと、少しだけ緊張してきた。
 会った事もなければ、話した事もないクラスメイト達と、私は共に学校生活を送れるのだろうか。
 それに、左手首のこの傷だって、いつ他人にバレるか分からない。
 少しだけ不安が募る。
 そんな私を見て、兄は優しく言葉を掛ける。
「大丈夫。お前なら大丈夫だ」
 そう言って、ポケットから何かを取り出した。
「これ、御守りだから持って行ってくれ」
 それは、兄の腕に巻かれている物と同じリストバンドだった。
「これ、隼人お兄ちゃんと同じ……」
「これなら、その傷も隠せるだろ」
 少しだけ緊張が解れた気がした。
 私は兄へ感謝の言葉を言い、車を後にした。


 担任は黒板に私の名前を書いた。
「平野沙耶子だ。皆、仲良くしてやるんだぞ」
 所々から珍しい物を見る様な、好奇心の含まれた視線が私に集中する。
「平野沙耶子です。よろしくお願いします」
 とりあえず一礼した。
 クラスの雰囲気は、思っていたよりもすんなりと私を受け入れた。
 例えば昼休み。
 一人でお弁当を食べる事になると覚悟していたが、数人のクラスメイトの女の子が「一緒に食べよう!」と誘ってくれた。
 教室の片隅で、机をくっつけ合う。
「平野ちゃんって、前はどこの学校に行ってたの?」
 一人が私に質問した。
「えぇ? えーと……」
 つい言葉に詰まってしまう。
 三年前に事故に遭って、それからずっと眠り続けてたなんて、言える訳がない。
「えっと、き、九州の方の……」
 つい、そんな大胆な嘘を吐いてしまった。
「へー。凄いね! そんな遠い所から来たんだ!」
「う……うん。まあね」
 私って、嘘吐くの下手だな……。
 そう思うと、これからの事が少しだけ不安になった。


「学校はどうだった?」
 家に帰ると、兄は心配そうな顔をして、そんな事を聞いてきた。
「え? うーん、まあ、楽しかったよ。友達もできたし」
 兄の表情が少しだけ緩む。
「そうか。まあ、虐められたりとかしたら、僕に言うんだぞ」
「心配し過ぎだよ。でも」
「?」
「ありがとう」
 その言葉を聞いて、兄は嬉しそうに笑った。

   ♪
 
不思議な夢を見た。
 外からの月光が照らす部屋の中で、私はピアノを弾いているのだ。
 そして、部屋の隅に置かれているベットに座って、一人の少年が私の演奏を聴いている。
 彼の顔は、モザイクの様な何かがぼんやりと掛かっていて、確認する事が出来ない。
 少年は穏やかな声で言う。
「この曲は?」
「昔、私と叔母さんで作った曲なの。曲名はホープ」
「ホープ……希望か。良い曲だな……」
 少年はしんみりと呟き、私の演奏を延々と聞いていた。


 真赤な色で空が染まる放課後、廊下で不思議な音色を聞いた。
 廊下に響くこの音は、ヴァイオリンで曲を奏でていた。
 しかも、どうしてか知らないが、私はこの曲を知っているのだ。
 少しだけアレンジが加えられているけれど、昨日の夢に出て来た曲、ホープだった。
 いったい誰がこの曲を弾いているのだろう。
 もしかしたら、夢の中で私の演奏を聴いていた少年かもしれない。
 私は引き寄せられる様に、その音を追っていた。
 そして、廊下の隅の音楽室に辿り着いた。
 未だに曲は鳴り止まない。
 私は躊躇う事なくその扉を開いた。
 音楽室の中には一人の少年が、燃える様に赤い空へ向かって、ヴァイオリンを弾いていた。
 上履きの色をから察するに、二年生の先輩だろう。
 少年はこちらに気付いていない。
 私は、そのまま彼の音色を聞き入ってしまっていた。
 やがて演奏が終わると、少年がこちらの存在に気付く。
「君は?」
 そう言って、ヴァイオリン立てにヴァイオリンを置く。
 夕日に照らされたヴァイオリンは真赤に彩られ、オレンジ色に輝いていた。
「あ……えっと、ごめんなさい。凄く良い音が聞こえて来たから」
「ああ、この曲か……」
「この曲の名前、もしかしてホープっていいませんか?」
 彼の表情に驚きが混じる。
「え? そうだけど、この曲を知っているのか?」
「はい」
 この曲は私と叔母さんで作った曲。
 知っているのは私と叔母さん、そして……夢の中にいたあの少年くらいだろう。
「この曲をどこで?」
 彼は音楽室の隅に置かれた本棚を指差す。
「この音楽室の本棚の本の間に挟まれていたんだ。たぶん、卒業生の誰かが入れて行ったんだろ。あの本棚は卒業アルバムとかを保管しているから」
 もし、ここにかつての私の記憶に関する手掛かりがあるのなら……。
「私、この曲について気になっている事があるんです。だから、えっと……明日もここに来て良いですか?」
「もちろん。放課後は毎日ここでヴァイオリンを弾いているから」
「ありがとうございます!」
 ふと、隅に置いてあるグランドピアノが目に入った。
「あのピアノ……弾いてみても良いですか?」
 そんな事を聞いていた。
 夢の中では弾けていたけれど、自分が弾けるかどうかも分からないのに……。
「どうぞ」
 蓋を開けると、白い鍵盤が露わになり、夕日を浴びてオレンジ色に光った。
 譜面台には、ホープの原楽譜が置かれている。
 鍵盤の上に手を置き、そして指を躍らせる。
 どうしてだろう。
 手が勝手に動く。
 記憶をなくす前の私は、このホープという曲を演奏していたのだろうか。
 ここにいる私は、演奏する事に関して頭を使っていない。
 ただ、鍵盤の上に置いてある手が勝手に動くのだ。
 手が感覚を覚えているとでも言うのだろうか、上手く説明出来ないけれど、そんな感じがした。
 演奏が終わると、少年は言った。
「君……本当に……この曲をどこで……」
「この曲は、私と私の叔母さんで作った曲なんです」
「その楽譜がどうしてここに……」
「最近、夢で見るんです。月明かりだけが照らす部屋の中で、私は一人の男の子にピアノを聞いてもらってるんです」
「もしかして、その人が?」
 私はゆっくりと頷く。
「はい、たぶん」
「なら、一緒に探さないか? この曲の手掛かりを」
 彼の表情には、悪ふざけや面白半分な雰囲気はなかった。
 その表情は真剣その物だ。
「はい! えっと……名前……」
「ああ、名乗るのが遅かったね。僕の名前は宮村想太。君は?」
「平野沙耶子っていいます」
 

 その日から、放課後は毎日ここに通った。
 とは言っても、ホープという曲の楽譜を、ここに置いて行った卒業生に関する手掛かりは、何も見つからないが。
 だから私達は、とりあえず二人でホープを演奏した。
 宮村先輩はヴァイオリン。
 私はピアノ。
 兄に、その日あった事を話す。
 すると、少しだけ寂しそうな顔をした。
 やはり、兄として妹が他人の元にいる事は、悲しい事なのだろうか。
 兄の事を思うと、少しだけ胸が痛んだ。
 それと同時に、宮村先輩へ向ける私の思いも、少しずつ変化していた。


「ねえ、沙耶子。宮村先輩って知ってる?」
 クラスメイトは、私に彼の話題を持ち掛けた。
「知ってるよ。いつも音楽室でヴァイオリンを弾いてるよね」
「あの人、格好良くない? 凄く爽やかっていうか、文化系男子の格好良さがあるっていうか」
「その先輩って、モテモテなの?」
「そうだよ! やばいよ! ファンの子が一杯いるんだから」
 あの人、そんなに人気があるんだ……。


 宮村先輩に出会ってから、毎晩あの屋敷の中で少年といる夢を見る。
 しかし、その日の夢は違っていた。
 床に裸で倒れている私。
 そして、すぐ隣に私を見下ろして嘲笑っている男。
 とても怖くて、それと同じ位に憎しみも湧いていた。
「沙耶子!」
その声で、私は目を覚ます。
すぐに兄の顔が視界に入った。
「大丈夫か? なんか、凄い魘されてたけど」
 冬の朝だというのに、私のパジャマは汗で濡れていた。
 昏睡状態から目覚めて、もう大分経つ。
 兄には、もう心配は掛けたくない。
 だから私は
「何でもないよ。大丈夫」
 そう言って誤魔化した。
 本当は不安で溜まらないのに。


放課後、音楽室の前で、数人の男女が宮村先輩に詰め寄っていた。
「宮村、お前は何を考えているんだ?」
「そうよ。どうしてヴァイオリンなんて……。あなたはクラリネットでしょ」
 先輩は冷静な口調で言葉を返す。
「この音楽室は僕が使っています。吹奏楽部は専用のプレハブがあるでしょ。もう、僕に構わないでください」
 数人の男女は、残念そうにその場を去って行く。
 私はその集団の横を通り、宮村先輩の元へ行った。
 彼がこちらに気付く。
「ああ、平野さん」
「宮村先輩……今のは……」
「……友人さ」
 彼の口調が、少しだけ重い。

 いつもの様に、私達は演奏を始める。
 しかし、少しだけ経って、宮村先輩はヴァイオリンの弓を床に落としてしまった。
 それに動揺するかの様に、その場でヴァイオリンを抱いて蹲ってしまう。
 私は慌てて伴奏を止め、宮村先輩に駆け寄った。
「どうしたんですか!? 大丈夫ですか!?」
「……」
 彼の目からは、頬を伝って涙が流れていた。


「落ち着きましたか?」
 宮村先輩をとりあえず、椅子に座らせて休ませた。
 こんな宮村先輩を見た事はなかった。
 彼の声は震えていて、そして寂しそうだった。
「話してくれませんか?」
「君には……関係ない事だよ」
「そんな事ないです。私はこうして、宮村先輩の隣にいるんですから」
 彼は緩やかに頷いた。

   ♪
 
 ホープという楽譜を見つけたのは、高校一年生の終わりの事だ。
 始めはクラリネットを使って、興味本位で練習していたこの曲に、僕は徐々に引かれていった。
 こんな音色は聞いた事がなかった。
 僕は吹奏楽部でクラリネットを担当していた。
 音楽家である父へ反抗できずに入部した、吹奏楽部。
 そこで得たクラリネット。
 大人の考えに振り回される事が嫌だった。
 父の意見に反抗出来ずに、小学校卒業と共に諦めたヴァイオリン。
 長い間、再びヴァイオリンを弾く事を願っていた。
 だから、ホープの楽譜を自分なりのヴァイオリンの音として、アレンジを加えたのだ。
 それからというもの、僕は部活へ行く事もなく、放課後になると、この音楽室に一人で籠り、毎日ホープを弾いている。
 丁度良かったのだ。
 その年の始めに、両親は海外で音楽活動を始める為に、日本を離れたから。
 度々、吹奏楽部の以前の仲間達が僕を訪ねて来た。
「戻って来い」
 そう言われた。
 おそらく、皆は僕に対して怒っているだろう。
 いや、もう呆れてしまっているのかもしれない。
少数先鋭のこの部活で、クラリネットが一人消えた。
それは、大会を前に控えた吹奏楽部では、大きなダメージだった筈だ。
 申し訳ないと思っている。
 それでも、僕がホープやヴァイオリンに抱く思いは止められない。
 初めてだった。
 こんな曲に出会ったのは……。

   ♪

 蹲る宮村先輩に、私は掛ける言葉を必死に探した。
 しかし、言葉が見つからなかった。
 こんな時、何て言えばいいのか、どう接してあげればいいのか見当も付かない。
「あの……」
「未だに……迷っているんだ。まだ部活も辞めていないし。それに、父さんは、僕がこんな事をしていると知らない」
「好きにすれば良いんです」
「え?」
 キョトンとした顔で私を見る。
「したくない事はしなければ良いんです。無理してする事はないんです」
「でも……」
「いっその事、バシッと言ってやりましょうよ。もう、部活には行かないって。はっきりと」
 宮村先輩は涙を拭う。
「……ありがとう。僕は、僕のしたい様にする。そんなに簡単な事じゃないんだけど、頑張ってみるよ」
「その息ですよ!」


 その後、宮村先輩一人だけでは、なんだか不安なので彼を家まで送って行く事にした。
 そういえば、二人で帰るのは初めてだ。
 先程までオレンジ色だった空は、完全に暗くなっていて、微かに雪が降り始めていた。
道を照らす所々に備え付けられた街灯が、降って来る雪をキラキラと照らしている。
「すまないな。先輩の僕が君に迷惑を掛けてしまったみたいだ」
「いえ、そんな事ないです。私は好きでこうしてるんですから」
 そう言って、宮村先輩の手を握った。
「……?」
「寒いですから……」
 手袋をしていない互いの手は、温かい体温を直に感じ取る事が出来た。
 宮村先輩も私の手を握る。
 彼の温かい手。
 握っていて、なんだか安心した。
「平野さんは偉いな」
「何がですか?」
「何て言うのかな……」
 頬をポリポリと掻きながら、照れた口調で言う。
「平野さんには、僕にはない何かがある。……その、大人らしさっていうのかな……」
「大人らしさ?」
 宮村先輩はそっぽを向いた。
「ああ、すまない。なんだか、恥ずかしい事言ったかもしれない」
 なんだか、宮村先輩が可愛い。
 そんな事を思ってしまった。
「そうかもしれませんね。嬉しいです。先輩にそう言ってもらえると」
 その場で立ち止まり、互いに見つめ合う。
 キスしてしまいそうな程、距離が近い。
「宮村先輩」
 その名を呼ぶ。
「平野さん」
 彼も私の名を呼び返してくれる。
 こうしていると、なんだか幸せだ。
 退院して間もない、まだ学校へ通い始める前、兄はこんな話をしてくれた。
「沙耶子。一番幸せな時っていうのは、大事な人や大好きな人といる時なんだ」
 ようやく気付いた。
 私は彼の事を好きになっていたのだ。
 爪先を立たせて、彼の唇に自分の唇を重ねた。
 温かい感触が唇から体に広がる。
 ゆっくりと目を瞑った。
 宮村先輩は私の腰を抱く。
 周りに人がいなくて良かった。
 路上でこんな事をしていたら、警察でも呼ばれそうだ。
 互いの唇を離し、再び見つめ合う。
 本当に、この人が愛しい。
 目をギュッと瞑り、また自分の唇を彼の唇に重ねた。
 再び先程と同じ感触が蘇る。
 しかし、妙に鈍い音がして、その感触はすぐに私から離された。
 目を開けた時には、世界が変わっていると言っても良い程の光景が広がっていた。
 彼の右肩には、煌びやかに光る刃物が刺さっている。
 これは包丁だ。
 宮村先輩の背後で、黒いジャンパーを着て、フードを深く被った人影が、肩に刺さっている包丁の柄を握っていた。
 その人影は小さな声で不気味な笑い声を上げる。
 声の高低からして、おそらく男だろう。
 包丁が彼の肩から抜かれた。
 その瞬間、肩の切れ目から勢い良く真赤な血が飛び出してくる。
 その血が私の顔や体に飛び散った。
 宮村先輩はその場に崩れ落ちる様に倒れ込み、息を切らしながら言った。
「逃げて……早く?」
 何が起こったのか分からない。
 私はどうすれば良いのか、彼の言う通り、この場から逃げて良いのか。
 気が動転してしまって、何も考えられない。
 男は倒れている宮村先輩を跨いで私に近付く。
 ただ恐怖だけが込み上げて来て、声が出せなかった。
 私は震えながら、少しだけ後ずさる。
 男はまた一歩近付き、私の左腕を掴んだ。
「いやっ……」
 ようやく出て来た声は、こんなにもか細く弱々しい物だった。
 いくらもがいても、この強い力には逆らえない。
「いやっ! やだ……」
 男は容赦なく、私の左腕のリストバンドを外した。
 左腕の痛々しい傷跡が露わになる。
 確認する様にそれを見て言った。
「久しぶりだなあ。宮久保沙耶子ちゃん」
 宮久保? 
私は宮久保なんて言う名字じゃない。
この男は人違いでもしているのだろうか。
「ああ、そうだ。宮久保じゃない。今は平野沙耶子ちゃんって呼んだ方が良いのかもな」
 その名を呼ばれて、恐怖が増幅する。
「見ろ!」
 そう言って、男は私の左腕を彼のすぐ目の前に引っ張った。
 その為、私の体は地面に打ち付けられる。
「痛ッ!」
 聞こえて来る男の呼吸音や声から察するに、楽しんでいる事が分かる。
「ほら、沙耶子ちゃん。君の大事な先輩の意識があるうちに見てもらいなよ。この傷をさぁ!」
 私は必死で弁解する。
「違うんです! この傷は……」
「この傷はなぁんなぁんだぁい?」
「こ、これは……」
 宮村先輩は這いつくばりながらも、片手で男に掴みかかる。
「やめろっ!」
 男はチッと、舌打ちを鳴らして宮村先輩を強く蹴った。
 悲痛な声と共に、彼から声が聞こえなくなる。
「先輩っ!」
 叫ぶ私を余所に、男は見せ付ける様にして、被っていたフードを取った。
「沙耶子ちゃん」
 露わになった顔が不気味な笑みを浮かべる。
 男の顔を見た瞬間、私は驚愕した。
 それは紛れもなく兄の顔だった。
「は、隼人……お兄ちゃん……」
 つい、そう言ってしまった。
 しかし、纏う雰囲気が全くと言って良い程、兄とは違っている。
 喋り口調は勿論の事、体付きもそうだ。
 更にこの男には、所々に不審な点が見られる。
 ボロボロになっている数本抜けた歯、黒ずんでいる肌の色、それらの特徴がこの男が本当に兄ではないと、確かに証明していた。
「違うんだよ。僕は君の大事な大事な隼人お兄ちゃんとは違うんだよ。僕の事を覚えていないのか?」
 男は私の髪の毛を掴んで顔を向けさせる。
「いやっ!」
 私の声に、興奮した様に息を荒げて反応する。
「こういう姿も可愛いねぇ」
 怒りが満ちて来る。
 私は男を睨んだ。
 これが私に出来る唯一の抵抗だった。
 そんな事を気にもせず、男は続ける。
「君はあの日もこんな顔をしていたね。あの日、あの学校の屋上で、君が僕に対してあまりにも無愛想だったから」
 男の手に力がこもる。
「どうして? どうして君は、平野隼人を選んだんだ。どうして君ばかりが、そんなに幸せでいられるんだ!? ねえ、どうして!? どうして!?」
 どうして!?
 男は、その言葉を連呼し続けた。
 何を言っているのか、さっぱり分からない。
 そして、左腕を握っていた手を離したと思うと、私の首に手を廻して、力強く締め始めた。
「うっ……ぐっ、く……っは」
 しだいに意識が薄れて行く。
 遠くの方からパトカーのサイレンの音がした。
 男はそれを聞くと、私の首から手を離し、慌てて逃げて行った。
 隣に横たわっている宮村先輩は、もう動く気配すらない。
 立ち上がろうとしても、体が動かない。
 周りの景色が白くなり、やがて見えなくなる。
 降り続く雪を一身に受けながら、私の意識はゆっくりと消えて行った。

Episode5 潰えた希望

 沙耶子が病院に運ばれた。
その知らせを聞いたのは、沙耶子を探し回った後に家の留守電を聞いた時の事だった。
幸いにも外傷は掠り傷程度だったそうだ。
 どうして、こうなったのだろう。
 沙耶子には不幸な事など起こさせないと、あの時誓ったのに。
 どうして?
 誰がこんな事を?
 彼女の身に起きた出来事、それは僕の気持ちを不安から、誰かへの憎しみへ変えていた。
 

翌日、沙耶子が目を覚ました。
 大学へ休みの電話を入れて、朝一番で病院へ行った。
 受付を済ませて彼女の病室へ行く。
 前にも同じ様な事があった。
 確か、あの時の沙耶子は記憶を失っていた。
 不安が胸を過ぎる。
 あんな事が二度もあってたまるか。
 きっと大丈夫。
 きっと大丈夫。
 そう自分に言い聞かせて、病室のドアを開けた。
 病室内は、朝方の眩しい光に照らされていた。
 その隅のベットに沙耶子がいる。
「沙耶子……」
 彼女はゆっくりと、こちらへ視線を向ける。
「分かるか? 沙耶子」
 うん、と軽く頷いた。
「分かるよ。隼人君」
 隼人君。
 それは、かつての僕に対しての呼び名だった。
「沙耶子、記憶が戻ったのか?」
 再び軽く頷く。
「沙耶子……」
 そう言って、僕は沙耶子に手を伸ばした。
 沙耶子も僕に手を伸ばす。
 嬉しさを通り越して、感動が僕の体を動かしていた。
 しかし、互いの手が触れ合った瞬間、沙耶子はすばやく手を離し、僕から後ずさる。
「どうしたんだ?」
 声を掛けた瞬間、悲鳴を上げる。
「ぁぁぁああああああ!」
「おい! 沙耶子。どうしたんだ?」
 呼び掛けてみても悲鳴は止まらない。
 沙耶子は暴れる様にして、ベットから落ちた。
 這いつくばりながら部屋の隅へ行き、自らの肩を抱く様にして、ガタガタと震え出す。
「いやっ……こ、殺さないでぇ……ぁあああ!」
「どうしたんだよ!? 僕だよ。隼人だよ。分からないのか?」
「いやあああああああああ!! 殺される! 光圀が! 光圀が来る?」
 悲鳴を聞き付けたのか、数人の看護師が病室に入って来る。
「これは、どういう事ですか!?」
 看護師等は僕の言葉を無視し、沙耶子を取り押さえる。
「宮久保さん! 落ち着いてください!」
「いやああああああああああああああ!!」
「鎮静剤を打ちます」
 一人がそう言って、注射器を彼女の腕に打ち込む。
 しだいに悲鳴は止み、沙耶子は眠りに着いた。
 看護師が僕に言う。
「しばらく、そっとしておいてあげて下さい」

 
一人の少年が沙耶子と一緒に、昨夜この病院に運ばれたそうだ。
 少年の名は宮村想太。
 最近、沙耶子の話の話題に出て来る、彼女の先輩だ。
 とても面倒見が良く、頼れる先輩だと言っていた。
 彼の病室は、彼女の病室のすぐ隣にあった。
 病室の中で、宮村はただボーっとしている。
 肩には大量の包帯が巻かれていて、とても痛々しい。
「君が宮村君か?」
 はい、と彼は小さい声で呟く。
「僕は平野隼人。沙耶子の兄だ」
 とりあえず、素性は兄という事で話を進めた。
 兄という言葉を聞いて、少しだけ彼の態度が変わる。
 僕はベットの横に置いてある椅子に座り、本題を切り出した。
「話して欲しいんだ。昨夜あった事」
 宮村は躊躇いながらも、小さい声で話し始める。
「昨夜、僕と平野さんは二人で帰ったんです。でも、その帰りに変な男に襲われて」
「変な男?」
「はい。なんか、平野さんの事をよく知っているみたいで……」
 彼女の知り合い。
 そう考えるのが妥当だろう。
「その男は、沙耶子に何か言っていたのか?」
「はい。平野さんの左腕に着けてあるリストバンドを取って、僕に見せたんです」
 声が震え始める。
「そこには……幾つも……刃物で切った様な跡があって……」
 僕の服の袖を掴んで、宮村はすがる様に言う。
「僕、何も出来なかったんです。包丁で肩を刺されて、全く動けなくて……それで……」
 彼の言い分は良く分かった。
 宮村は必死で沙耶子を守ってくれたのだ。
「ありがとう。沙耶子を守ってくれて」
 そう言い残して、病室を後にした。


 待合室の椅子に座って早々、僕は頭を抱えた。
彼の話だけでは、それなりの収穫は得られなかった。
 おそらく、沙耶子は僕と話せる様な状況ではないだろう。
 ただ、沙耶子は聞き覚えのある名前を叫んでいた。
 
 光圀。

 沙耶子はその名を叫び、震えていた。
あの日、沙耶子が屋上から飛び降りた翌日の朝、光圀は僕に彼女の生存を告げた。
 もしかしたら、光圀は沙耶子と何らかの関わりがあったのかもしれない。
 ならば、今の僕に出来る事はただ一つ。
 光圀幸太に会う事だ。

 
 たしか光圀幸太といえば、かつて僕のいた学校の生徒会長だった。
 それなら、まずは学校に行って手掛かりを探るしかないだろう。
 しかし、もし光圀を見つけ出したとして、会ってどうするんだ?
 何を話すんだ?
もし、沙耶子があんな風になってしまった原因が、光圀にあるのなら、僕は彼に何をしでかすか分からない。
それでも、じっとなんてしていられない。
彼女の為に何かをしなければならない、自分自身の感情がそう告げていた。


吹奏楽部の楽器の音や、野球部の掛け声が聞こえて来る。
時間帯は丁度良く放課後だった。
とりあえず、職員用玄関にある受付で客用の名札を貰った。
ここの卒業生という事も幸いして、簡単に通して貰えたようだ。
「さて、とりあえずどこへ行くか……」
 少しだけ内装が変わっているが、教室の位置やどこに何があるかは大
体把握している。
光圀は、かつて生徒会室に所属していた。
「となると、生徒会室か」


 生徒会室は、校舎とは別のプレハブに位置している。
 横開きのドアをノックすると、中から一人の少女が出て来た。
 普段着を着ている所を見ると、生徒会のOBか何かだろうか。
「君は……?」
「それはこっちの台詞。あなたは誰? 私服って所を見ると、生徒って訳ではなさそうだけど」
 その無愛想な発言に、少しだけ空気が重くなる。
「いや、君も私服だろ」
「私は生徒会のOBとして、ここに来たの。来週から文化祭なんでね。あなたは?」
「僕も卒業生。ちょっと、光圀幸太っていう人について知りたい事があって来たんだ。生徒会に行けば何か分かると思ったんだけど……」
「光圀……先輩」
 彼女の表情に影が差す。
「知ってるのか?」
「一応……。あ、立ち話もなんだし、とりあえず中へ」
 室内へ招かれ、二人で向かい会い椅子に座った。
 彼女は重い口をゆっくりと開く。
「光圀先輩は、とても真面目な人だったの。成績だって上位者だったし、私がどんなミスをしても、笑って受け流してくれたわ」
 確かに。
 あの日の朝、沙耶子の生存を逸早く教えてくれた光圀幸太には、とても感謝している。
 僕から見ても、あの人はとても優しくて穏やかそうな人だった。
「でも……」
 彼女の声が段々低くなっていく。
「光圀先輩は、あの日から学校に来なくなった。あの日の事はよく覚えているわ。印象的だったの。前日に学校の屋上で自殺未遂をした子がいたから……」
 心なしか、その話をされると心が痛む。
「沙耶子……」
 無意識のうちに、その名を呟いていた。
「え?」
「いや、何でもない。続けて」
「いつも通りの休み時間、生徒会室に行ったの。でも、いつも一番乗りの筈の光圀先輩はいなかった。いつまで経っても来ないから、皆で校内を探したの」
 じゃあ、あの日の翌日から来ていないのだろう。
「翌日、先生に光圀先輩の事を聞いたわ。そしたら、退学したって……」
 数秒間の沈黙が続き、彼女が呟く。
「どこへ行ったんだろう。光圀先輩……」
「家には行ったのか?」
「行ったけど、光圀先輩は出て来なかった。というより、震えた様な声で「帰れ」って怒鳴られた。その日から、皆は怖がって光圀先輩の家には近付いてないわ」
「家の場所を教えてくれないか?」
「……私は光圀先輩の家には行けない。でも、住所なら教えてあげる」
 彼女は近くに置いてあるバックから手帳を取り出し、一枚の紙切れを差し出した。
「光圀先輩の住所。お正月前に、聞き出すのに苦労したわ。結構、人気があったから、なかなか聞き出せるチャンスがなかったの。もう、意味はないけど」
「ありがとう。そろそろ行くよ」
 立ち上がると、彼女は一言だけ僕に忠告した。
「気を付けて。たぶん、今の光圀先輩は前とは違うから」
 彼女は僕に、詳しい詮索はしなかった。
 もしかしたら、あまり光圀幸太に関わりたくなかったのかもしれない。


 住所を頼りに着いた場所。
 そこは、どこにでもある様な集合住宅の一軒家だった。
 家の表面にはコケが生えていて、小さな庭には虫が湧いている。
 一目見て、人が住めるような場所ではない事は確かだ。
 それでも、ほんの少しの期待を捨てずに、インターホンを押した。
 数秒してから、もう一度押してみる。
 誰も出て来ない。
 やはり、もう誰も住んでいないのか。
 あの日から二年以上は経っている。
 当然だ。
 振り返り、家から出ようとすると、足元に置いてあった植木鉢を倒してしまった。
 ガシャンと鋭い音が響き、中に入っていた土がこぼれ出る。
放っておいても誰も気にしないだろう。
 そう思っていると、銀色に光る何かが土の底に落ちている事に気付いた。
 軽く土を払って、その銀色の何かを取り出す。
 これは鍵だ。
 ここに置いてあるという事は、おそらく家の物だろう。
 家の扉の鍵穴に入れてみると、ぴったりと一致した。
 少しだけ嫌な予感がする。
 この中には何があるのだろうか。
 何もないのなら、それで良いのだけれど。
 ゆっくりとドアを開くと、きつい臭いが鼻を突いた。
 妙に鉄臭かった。
 所々にゴミ袋や屑ゴミが溜まっていて、とても靴を脱いで入れる様な場所ではない。
 靴を脱がず、土足で上がる。
 廊下を進み、リビングと思わしき部屋に入ると、そこにはあまりにも不気味で気分の悪くなる様な光景が広がっていた。
 壁一面に貼られた写真。
 その写真の中には、沙耶子の姿があった。
 普通に撮影した物ではない。
 遠くから望遠を効かせて、撮った様な写真ばかりだった。
 僕や綾人の写真もある。
「何だ……これは……」
 一枚の写真が目に入った。
 夕暮れの屋上で、怯える様にして鉄柵に縋り付く彼女の姿。
 まさか、沙耶子が屋上から落ちたのって……。
 それを見た瞬間、光圀へ向ける怒りが込み上げて来た。
「クソッ」
 そう叫んで、壁を強く叩いた。
 写真と埃が宙を舞う。
 机を見ると、数冊のメモ帳や本が重なっていた。
 その下に路線図が敷かれている。
 本やメモ帳をどかして路線図を見てみると、ここから五分程の場所にある駅に、蛍光ペンで印がされていた。
 そこから路線を伝って線が引かれている。
「この場所は……」
 線が止まった場所、それは以前に僕達が訪れた場所だった。
 あの夏の日、二人だけで過ごしたあの屋敷がある村の駅だ。
 そこへ行くとしたら、居場所は明らかだ。
 あの屋敷しかない。


 村に着いた頃には、既に時間は終電だった。
 しかも地方の違いか、雪が降っていてかなり寒い。
 積もる雪を踏みしめながら、屋敷を目指して歩き出す。
 夏に来た頃とは大分違っていて、虫の音すら聞こえない無音の世界が広がっていた。


 屋敷に着いた頃には、あまりの寒さに手は悴み、耳は千切れそうなくらい痛かった。
 見ると、門の鍵は壊され、強引に開けられていた。
 窓ガラスが割られている。
 おそらく、ここから入ったのだろう。
 中は夏に来た時と、何も変わっていない。
 光圀がいるとしたら、おそらくピアノがあるあの部屋だろう。
 階段を上り、部屋の戸を開けた。
 室内は暗くて何も見えない。
 あの日の様に、月が出ているという訳ではないのだ。
 部屋の隅の闇で、微かなロウソクの明かりが点く。
 ロウソクの側には、ピアノに背を預けて座っている影があった。
 顔はよく見えないが、おそらく光圀だろう。
「君が……光圀幸太か?」
 恐る恐る聞いてみた。
 すると、気色の悪い声で笑い出す。
「くっへっへっ……くっきゃっはっは」
「何が可笑しいんだ?」
 怒り交じりに質問をぶつけると、その影は立ち上がり、一歩だけ前へ出た。
 それと同時に顔が露わになる。
 僕は驚愕した。
 その顔は、まるっきり自分と同じなのだ。
 しかし、何本か抜けた歯、青ざめた肌の色、血走った目、まるで自分の衰えた姿を見ている様な、そんな感じがした。
「お前は……」
 彼は口元を吊り上げて、不気味に笑う。
「僕を、光圀幸太を追って、ここまで来たんだろ? 平野隼人。どうしたんだ? そんな顔をして。僕の顔か? ああ、これはねえ、かなり前になるけど、整形手術をしたんだぁ!!」
「どうして、そんな事を?」
 僕の声は恐怖のあまり震えていた。
「君と沙耶子ちゃんを離す為だよ。僕は、ずっと君が気にくわなかった! どうして!? どうして沙耶子ちゃんは、君を選んだんだ!? どうして君は、あれだけの出来事を経て、そんなに沙耶子ちゃんの事を想えるんだ!? どうして!? どうして、そんなに君達は幸せそうなんだ!?」
「……」
 数秒間の沈黙が続き、光圀は口を開く。
「久しぶりだね、平野さん。あの日の朝以来、君は僕には会っていなかったよね。でも、僕はずっと君を見ていたよ」
 彼の言動に、今までにないくらいの恐怖を感じた。
「じゃあ、あの部屋の写真も……」
「そうさ。全部、僕のコレクション。本当に可愛いよ。沙耶子ちゃんは」
「昨日、沙耶子を襲ったのはお前か!?」
「ああ」
「まさか……あの日、沙耶子が屋上から落ちたのも、何か関係があるのか!?」
 光圀はにたりと吊り上げた両方の頬を下ろし、目をぱっちりと開いて僕を見る。
「ああ、あれは……僕が落としたんだ。沙耶子ちゃんの中学時代、繫華街のゴロツキに沙耶子ちゃんをレイプさせる様に仕向けたのも僕」
「……!?」
「抵抗する沙耶子ちゃん。可愛かったなあ……。繁華街の裏にいる連中は金や薬を渡せば何でもしてくれる。それに運が良かったよ。屋上から飛び降りた日、沙耶子ちゃんには身内がいなかったから、警察の捜査も手薄だった。先生も皆、自殺って決め付けていた。その後だよ。顔を変えたのはね。本当に近頃は便利だよねぇ」
 光圀はポケットから紙の包みを取り出した。
「覚醒剤。繁華街の路地裏とかで流行ってるんだ。飢えてる奴には、かなり高く売れるんだよ」
 手に持っていた紙の包みを舌で舐め取る様に、光圀はそれを丸ごと飲み込んだ。
 やがて、口からは涎がこぼれ不気味に笑い始める。
「そんな事を繰り返して、顔を変えたって訳か……」
「そうだよ。どうだった? 僕の顔を見て、その後に君の顔を見た、沙耶子ちゃんの表情はぁ!?」
 沙耶子は……こんな奴に……。
「お前が……沙耶子を……沙耶子をぉ!!」
 僕は光圀に飛び掛かり、胸倉を掴む。
 言いたい事があり過ぎて、何を言ったら良いのか分からず、ただ光圀を睨み据えた。
「何だよ? 僕が憎いのか?」
「……」
「殺せよ。ここで僕を生かしたら、次は何をするか分からないぞ。ほら、殺してみなよ。殺せよ?」
 拳を強く握り、光圀の顔面へ真っ直ぐに打ちつけた。
 顔を押さえて数歩後ずさる。
「なんだよ……これだけか? まったく、これじゃあ、死ねないよ」
 そう言って、光圀は手を広げて笑って見せる。
「ああ、そうか。お前に人を殺す様な度胸なんてないよな!? 親が死んだくらいで、あれだけ動揺していたんだから。沙耶子ちゃんに抱き付いて泣いたりして、馬鹿じゃねえの!」
 本気で、光圀への殺意が湧いて来た。
 僕は彼の首に手を掛け、床に倒す。
 彼の体は薬でボロボロだ。
 その為、体力で負ける事はない。
 震えた声で、しかし怒りの混じった声で言ってやった。
「教えてやるよ。人の痛みをなあ!」
 指に力を込める。
 指先に触れる脈の鼓動が速くなっているのが分かった。
「これが、お前が今まで人に与えてきた痛みなんだよ! これが、僕達がお前から受けてきた痛みなんだよ!」
「うっうぅ」
 光圀は苦しそうにうめき声を上げながら、必死に訴えた。
「僕も……僕も辛かったんだよ。たまに思うんだ。自分は何をしているんだろうって。こんな事をして意味があるのかって……」
 彼の目から涙がこぼれ始める。
「く、苦しいぃ。お願いだ。警察にでも何でも行くから、もう、放してくれよ。もう、君達には近付かないから。殺せなんて自分で言ってたけど、やっぱり死にたくないんだよぉ……」
 こんな男でも、やはり人間だ。
 良心もまだ残っていたのだろう。
 そう思い、指から力を抜いた。
 そして、ゆっくりと彼の首から手を離してやる。
「だから、お前は弱いんだよ」
次の瞬間、彼の口から出た言葉はそれだった。
腹部が熱い。
見ると、腹には一本の包丁が刺さっている。
寒さのせいか、あまり痛みは感じないが、体が思う様に動かず、大きな声も出せなかった。
腹から血がドボドボとこぼれていく。
「光圀……お前……」
 僕の体はその場に崩れる様に倒れた。
「は、はっはっはっは。このバアーカ! 僕がそう簡単にお前の言葉を受け入れるとでも思ったのか!? 僕はお前と違って強いんだよ! 僕はなあ! 親を殺したんだ。その後、繁華街の路地裏で何人も失心させてやったよ! 僕は強いんだ?」
 彼の声が段々遠くに聞こえて来る。
 視界が霞む。
 僕はここで死ぬのだろうか。
 僕は光圀を生かして、こんな所で死んでしまうのか。
 もし、そうなら沙耶子の幸せの為に、最後の力で僕は光圀を殺す。
 僕はよろけながらも立ち上がった。。
 それを見て、光圀は怯え出す。
 僕が前へと歩を進める度に、光圀は一歩ずつ後ずさり恐怖の混じる声で叫んだ。
「な、なんで立てるんだよ!? おぉい?」
「思い知らせてやる。人の痛みをなあ?」
 そう叫んで、最後の力を振り絞り、光圀を押し倒して首を締め上げた。
「うっく、苦しい」
 もう、容赦はしない。
 僕がここで全てを終わらせてみせる。


 光圀は、やがて動かなくなった。
 そして僕の意識も遠くなり、彼の隣に倒れた。
 視界が白くなり、頭がぼんやりとして来る。
 沙耶子に会いたい。
 せめて、死ぬ前には沙耶子と笑っていたかった。
「沙耶子……君が見えないよ」
 霞む視界の中で、部屋に置いてあるピアノだけが見えた。
 出来る事なら、あの夏に戻りたい。
 沙耶子と二人で過ごした、あの夏に……。

True episode 烏丸綾人 前篇

 隼人が死んでから、もう三ケ月は経つ。
 凍る様に寒々しい季節は、温かな春の季節に変わっていた。
 変わったのは季節だけではない。
 俺の周りで変わった事が幾つかある。
 隼人の死後、沙耶子は学校を辞め、バイトをしながらピアノ教室へ通う様になった。
 以前の様に、放課後に音楽室でピアノの練習をする事は当然ない。
 かつて沙耶子が記憶を取り戻す前まで、好いにしていた宮村という少年は、肩の治療を終え、彼女との事を思い返す事なく部活に励んでいるようだ。
 最近、この二人には会っていない。
 会えば、思い出してしまうからだ。
 あの日々の事を。
 忘れた方が良い。
 あんな日々は。
 それでも、どうせ忘れられないのだろ。
現に俺は毎月、隼人の墓参りへ行っている。
 隼人が自らの死を持って、俺達に今の様な安息を与えたのなら、花を手向ける事はしておかなければならないと思ったから。
 だから、今日もこの霊園に来た。
 郊外にあるこの霊園は、街全体を見渡す事が出来る、とても眺めの良い場所に位置している。
 枯れた花を新しい物に交換し、線香を置いて墓石の前で手を合わせる。
 ありがとう、守ってくれて。
 そう心の中で念じ続けた。
「綾人君」
 背後から声がした。
 振り向くと、そこには沙耶子がいた。
「どうして、ここに?」
 たしか、沙耶子は葬式の日から、ここには来ていない筈だ。
 それなのに、どうして今になって?
「私、やっと気付いたの。いや、もしかしたら前から分かっていたのかもしれないけど、今の私があるのは、隼人君のおかげなんだよ」
「ああ、そうだな」
「それなのに……あの記憶が戻った日、私は隼人君を拒絶した」
「それは、光圀のせいだ」
「うん。でも、そんな私を隼人君は守ってくれた。今日まで悩んで、やっとここに来れたの」
 沙耶子は俺の隣に来て、墓石の前で屈んだ。
「私の為に、凄く頑張ってくれたんだね。本当に……ありがとう。それと、ごめんなさい」
 彼女は儚げな表情を浮かべていた。
「そういえば、お前の名字は平野のままなんだな」
「うん。私の名字を宮久保に戻したら、きっと……私は隼人君の事を忘れてしまうから」


 この数年間に渡る出来事は、俺達の心に深い傷を負わせた。
 それだけでなく、当事者の親類には死亡者もいる程だ。
 光圀幸太の両親の遺体は、警察の家宅捜索の結果、二階の部屋の天井に隠されている事が分かったそうだ。
 それと同時に、沙耶子を盗撮した写真や、繁華街で手に入れたと思わしき覚醒剤も警察に見つかり、光圀の罪が一気に明かされた。
 これが事の顛末だ。
 実を言うと、俺にも非はある。
 俺や沙耶子が隼人と出会う前、その頃から光圀は沙耶子に接触していたのだ。
 もしかしたら、俺がその事を察して行動を起こしていれば、隼人があんな事をする前に、この件は終わっていたのかもしれない。
 それに、もしかしたら俺の思いも伝えられたかもしれないのに。
 隼人にも、誰にも話す事はなかった彼女への想い。
「じゃあ、私はもう帰るね」
 沙耶子は立ち上がり、去って行く。
「待ってくれ」
 俺は意を決して沙耶子を呼び止めた。
 彼女はこちらを振り向く。
「沙耶子、今まで、すっと言えなかったけど、俺はお前の事が好きだった」
 俺はポケットに入っているリストバンドを、沙耶子に差し出した。
 そして、もう一つ。
 それは今、彼女の腕に着いている。
 俺はリストバンドを墓石の上に置いた。
「お前の事が好き、そう言いたくて、この数年間を過ごして来た」
 沙耶子は申し訳なさそうな顔を見せる。
「綾人君……私は、まだ隼人君の事が……」
「いいんだ。もう、いいんだ。俺はただ、この言葉をお前に伝えたかっただけだから。それに……」
「?」
「それに、これでお前との関係を清算出来た。もう、俺とお前は赤の他人だ」
 沙耶子は俺の服にしがみ付く。
「どうして!? どうして、そんな事を言うの!?」
「お前の為だよ。もう、お前は一人で生きていける筈だ」
「嫌だよ!」
 喚く彼女の頭を、軽く撫でてやる。
「あんな事があったんだ。俺とお前が一緒にいたとしても、辛いだけだ」
「嫌だ! 嫌だ!」
 彼女の喚きは止まらない。
「大丈夫だ。お前には隼人がいる。あいつが見守っていてくれる。大丈夫だ」
 彼女の目からは、やがて涙がこぼれだす。
「嫌だ……嫌だよ……」
 小さくて細い彼女の体を優しく抱いた。
「大丈夫。お前なら大丈夫だ」
「でも……」
「待っている……人がいるんだ……」
「え?」
「とても大切な……俺の……大好きな人なんだ……」
 諦めてくれたのだろう。
彼女は涙を流しながらも小さく頷いた。
「沙耶子、今までありがとう。辛い事も多かったけど、割と楽しかったよ」
 その言葉を最後に、俺は沙耶子と別れた。
 今までの出来事は全て、自分の人生の一部に過ぎない。
 俺にとっても沙耶子にとっても、どんな人にとっても、それは同じ事。
 だから人は前進を止めない。
 かつて、隼人がそうだったように。
 勿論、俺もそうだ。
 隼人の取った行動、あれは自己犠牲であって、決して最善の行動とは言えなかった。
 しかし沙耶子や俺、他の連中が今こうしていられるのは、隼人のおかげだ。
 だから俺は沙耶子の側にいる必要は、もうない。
守ってやる必要も、元気付けてやる必要もない。
 ポケットから携帯を取り出し、日付を確認する。
 今日は四月三十日。
 あと、約一カ月。
 その期間が来たら、俺は療養中の妹の元へ行く。
 これが、俺にとっての前進だと信じているから。
 真っ青に澄んだ青空を見上げ、呟いた。
「ありがとう。隼人」

Episode6 天道美羽

 部屋を掃除していると、高校時代の卒業アルバムを見つけた。
 と言っても、卒業したのは去年の事なのだけれど。
 服や本が散らばった床に座り込む。
「まだ、年も経ってないのに、どうしてだろう……懐かしいな」
 ページを開くと、高校一年生の頃の私の姿が写っている。
 写真に写る私は、今よりもずっと髪が短くて、まだ幼さが残っていた。
 あの日、入学した時の自分を思い出す。
 これからの高校生活に、大きな夢を馳せていた私の姿を……。

   ♪

「凄い! チョー上手いじゃん!」
「さすがスポーツ推薦だな!」
 女子バスケ部で、一年生の活動が始まって早一週間。
 スポーツ推薦でこの学校に入学した私は、先輩達からの注目の的だった。
 コーチから部活終了の合図か掛かる。
 常識として二年生と三年生は、一年生に片付けを任せて帰る事になっている。
 先輩達は、そそくさと荷物をまとめて帰宅して行く。
 それに続いて、コーチも体育館から出て行く。
 体育館の中には、私達一年生の女子だけが残った。
「おい、美羽」
 一人が私に声を掛ける。
 それと同時に、数人が私を中心に円を作った。
 皆、それぞれにモップやバスケットボールを持っている。
「何?」
「あのさぁ、なんかだるいからぁ、これやっといてくんないかなぁ」
 そう言って、モップを私の足に倒す。
「痛っ」
 足の痛みに反応して声を上げると、モップ以外にもバスケットボールやスパイクが私の体に飛んで来た。
 体中が痛くて、その場に蹲る。
 皆はそれを見て嘲笑し、私を置いて体育館から出て行った。
 いつもの事だ。
 こんな事……。
 私は渋々と、散らばった道具を抱え、ぼそぼそと呟く。
「何がスポーツ推薦だ……。私じゃなくて、他の奴がスポーツ推薦だったら、同じ扱いをするくせに……」
 そう、彼女達が私にこんな事をする原因は、ただ一つ。
 私がスポーツ推薦で入学した、という事だけだ。
 恐らく、先輩達や先生のお気に入りにされている私を、妬んでいるに違いない。
 しかし、私は気取る様な事はしていない。
 ただ、普通にバスケをしている。
 それだけなのに……なんて、理不尽なのだろう。


 翌日、一限から授業をサボった。
 理由はただ一つ。
 ダルいから。
 それは、全国の高校生が授業をサボる時に使う理由ナンバーワンに違いない。
 そして、この学校でサボれる場所といったら、ここが一番だ。
 校舎裏。
 木蓮が生い茂っている割には、気持ち悪い虫もいない。
 更に上からの木漏れ日が、なんとも綺麗で気持ちが良さそうだ。
 ふと、木蓮の下に誰かがいる事に気付いた。
 私は反射的に後ろへ下がり、物陰に隠れる。
 良かった。
 向こうは気付いていない。
 木蓮の下にいるのは、一人の少年だった。
 私と同じく授業をサボっているのだろう。
 ジーっと見ていると、彼が泣いている事に気付いた。
 そういえば、クラスの友達から聞いた事があった。
 入学して早々、両親を亡くした可哀想な男の子が、校舎の裏で一人で泣いているという噂を……。
「本当だったんだ」
 ただの噂だと思っていた。
 もしかしたら、彼と哀しみを分かち合う事が出来たら……。
 駄目だ。
 私なんかじゃ、彼には近付けない。
 それに、私に関わった事で、彼にまで何かしらのリスクを背負うのなら、このままで良い。


 放課後になると、皆が急いで部活へ行く準備をしている。
 勿論、私もそうだ。
 女子バスケ部の部室へ行くと、まだ誰もいなかった。
 自分専用のロッカーを開けた。
 すると突然、幾本の画鋲が私の頭に落下した。
 その直後、部室のドアが開き、高笑いが私に浴びせられる。
 声の主は、女子バスケ部の私を覗いた一年全員だった。
「マジ! ウけるんだけど!」
 一人がそう言い放ち、持っていたバケツの水を浴びせる。
 笑いは更に大きくなった。
「うわぁ! 汚ねぇーんだよ!」
「美羽ちゃん、今日は帰った方が良いんじゃないのぉ?」
 もう、嫌だ。
 私はバッグも持たずに、高笑いを背に受けながら、部室から逃げ出した。
 
 そのまま学校から抜け出した。
 濡れたままの制服。
 履き替える事すら忘れていた上履き。
 こんな姿じゃ、家には帰れない。
 ふらふらと歩いて、店が並ぶ大通りに来た。
 日も暮れ始めていた為、所々に明かりが点き始める。
何をやってるんだろう……私は……。
 学校を抜け出したところで、何かが変わる訳でもないのに。
「ねえ、君」
 後ろから、低い男の声がした。
「君、いくら?」
「は?」
 振り返ると、男は私の腕を掴み、いやらしい目付きで私を見ていた。
「ちょっ……何なんですか!?」
「良いじゃん。少しくらい」
 何を言っているんだ? この男は!?
 私は男の腕を振り払い、必死に走った。
 見た所、酔っていたらしく、追い掛けて来る事はないだろう。
 電柱に手を付いて呼吸を整える。
「ちょっと、君」
 また、後ろから声を掛けられた。
「いやっ!」
 声の主が誰かも確認せずに、私は思いっ切り腕を振り回した。
 瞬時に、軽々しくそれを制止される。
「ああ、いきなりごめんね」
 声の主は、私と同じ制服を着た少女だった。
「君、天道美羽さんだよね?」
「は、はい」
 私の名前を確認すると、彼女は笑顔を作る。
「私は三年の琴峰由佳。あなたと同じバスケ部員よ」
「え?」
 彼女の正体を知って、なぜか安心した。
 しかし、どうして彼女は部活をやっている筈のこの時間に、こんな所にいるのだろうか。
 それに、琴峰由佳なんて言う名前は、あまり聞かないし、こんな人は見た事もない。
「あの……琴峰先輩は、本当にバスケ部員なんですか?」
「そうよ。どうして?」
「だって、部活中とか……見た事ないし」
「ああ、それは……」
 先輩は、私から少しだけ目を反らす。
「……最近、私が部活に出てないからじゃないかなぁ……」
「どうして?」
「なんか、部活に出るのが面倒でさぁ。まあ、正直に言うと……だるい」
 私と同じだ。
 だるい。
 それだけの理由で、物事を済ませている。
「もしかして、君もサボり」
「……はい。そんなところです」
「じゃあさ」
 琴峰先輩は私の手を取る。
「二人でどこかに遊びに行こうよ」
「え? どこかって?」
「うーん……とりあえず、その濡れた服をどうにかしないとね。風邪引いちゃうから。私の家にでも来る? すぐ近くだから」
「……はい」
 こんな先輩に出会ったのは初めてだ。
 なんだか、一緒にいると安心した。

 服を貸してくれるという行為に甘えて、彼女の家に上がらせて貰った。
「ここが私の部屋」
 部屋に入るなり、琴峰先輩は一枚のタオルを私に掛け、洋服ダンスをあさり始めた。
「うーんと……これなんて、どうかな?」
 そう言って、上下ジャージと下着を引っぱり出す。
「悪いね。小さい服なくて」
「いえ、大丈夫です」
 ブラウスのボタンを外し、スカートを脱ごうしたが、彼女の視線が真っ直ぐに私を捉えている事に気付いた。
「あの……先輩……」
「ん? どうした?」
「いや……何て言うか……その……」
 琴峰先輩は察してくれたのか、私に背中を向ける。
「まあ、そうね。いくら同姓とは言っても、さすがに下着までは着替えにくいよね」
「すいません」
「いやいや、いいって」

 着替えを終えた私を見て、琴峰先輩はからかい気味に微笑む。
「まるで昔の私を見てるみたいだ。胸とか」
「え!?」
 私の視線は、真っ直ぐに彼女の膨らみのある胸部へ行っていた。
「私も……そんな風になれますか?」
「ああ、大丈夫。一年生の頃の私の悩みは、乳が小さい事だったんだから」
「へぇ」
 昔の琴峰先輩。
 この人も、部活内で私の様な境遇にいたのだろうか。
「あの……どうして、聞かないんですか?」
「何を?」
 キョトンとした顔をして、聞き返された。
「だって、あんな濡れた格好で街にいて、部活をサボったなんて……」
「だから?」
「……」
 僅かな沈黙が生まれる。
 黙り込む私に、琴峰先輩は励ます様に言った。
「私は、何も気にしない。でも、何か悩みがあるなら言って欲しいな。私で良ければ、力になるから」
「……」
「ちょっと! どうしたの?」
 先輩は、私の顔を見て驚いている。
「あの……私の顔に何か付いてますか?」
「いや……だって、涙が出てる」
「え?」
 頬を触ると、温かい涙が流れていた。
「あ、えっと……ごめんなさい。なんか……私……」
 慌てて涙を拭う私を、琴峰先輩は優しく抱き締めた。
 彼女の柔らかく温かい胸部が、私の顔面に当たる。
「琴峰先輩……」
「由佳でいいよ」
「由佳先輩……」
「何?」
「聞いてください。私の悩みを……」

 私は由佳先輩に全てを打ち明けた。
 バスケ部での私に対する虐め。
 これから私は、この部活でやっていけるのだろうか。
「じゃあ、私も一緒に部活へ行くよ」
 必死に訴える私に、由佳先輩はそう言ってくれた。

 空はすっかり暗くなっている。
 一人だけの帰り道、どうしてか足取りが軽かった。
 ジャージを着ているからだろうか。
「返すのはいつでも良いよ」
 由佳先輩はそう言っていたけれど、明日には返そう。
 本当に良かった。
 あんな優しい先輩に出会えて。

 
翌日の昼休み、校舎裏へ行ってみた。
 あの少年が気になったからだ。
 クラスの友達から聞いた話によると、少年の名前は平野隼人というらしい。
 物陰から、こっそりと顔を覗かせる。
 木蓮から降り注ぐ木漏れ日の下に、少年と少女がいた。
 二人は仲睦まじく、楽しそうに話している。
 その光景を見て私は思った。
 ああ、きっと彼は信頼できる人を見つけたんだな。
 私と同じ様に。

 部活へ向かう私の気分は、珍しく軽快だった。
 今日は由佳先輩がいるからだ。
 あの人がいれば、きっと大丈夫。
 そんな気がした。
 部室の前で、少しだけ深呼吸をする。
「よし!」
 思い切って、ドアを開けた。
 室内には、既に私以外の一年生や二年生の部員がいる。
 由佳先輩は、まだいないようだ。
「こんにちは」
 とりあえず軽く挨拶をしただけなのだが、全員の不気味な視線が私に集中した。
「ちょっと、天道」
 先輩の一人が私に声を掛けた。
 なぜか、彼女の声は沈んでいる。
「これ」
 私に何かが差し出される。
 それはボロボロになった、数人分のユニフォームだった。
 袖等の至る部分が裂けていて、もう使い物になりそうにない。
「あの……これは?」
「もう全部分かってるんだよ! あんたでしょ!? これやたの!」
「え?」
 そんな事、全く身に覚えがない。
「このユニフォームがあんたのロッカーから出て来たのが、何よりの証拠だよ! それに商人だっている」
「そんな……」
 どうして?
 一体、誰がこんな事をした?
 もしかして、私以外の一年生の仕業だろうか。
 きっとそうだ。
 それしか有り得ない。
「私じゃありません! それは」
「いや、それは天道の仕業だよ」
 私の意見を遮る様に、後ろから声がした。
 振り返ると、そこには由佳先輩がいる。
「由佳先輩! これは、どういう事ですか!?」
「昨日、久しぶりに部活に顔を出そうかと思って、ここに来たんだよ。でも、誰もいなかったからすぐに帰る事にした。私が部室から出た時、天道は私とすれ違っただろ」
 嘘だ。
 そんな筈はない。
 私は昨日、由佳先輩の家にいたのだから。
「嘘です! そんなの!」
 必死に否定する私の意見を、他の一年生が否定する。
「嘘付いてるのは天道なんじゃないの」
「先輩に濡れ衣着せるとかサイテー」
 どうして?
 由佳先輩……どうして……私を裏切ったんですか?

 もう、私を虐めのターゲットとするグループは、一年生だけに留まってはいなかった。
「ほら! 飲めよ!」
 彼女達は、私の顔面を便器の中へと突っ込んだ。
「あっはっはっは! 汚ねぇ!」
 立て続けに、背中に大量の水がホースを通して掛けられる。
 どうして?
 私は何もやていないのに、どうしてこんな事になるんだ?
 便器から顔を引き上げられ、数人が私の頬をビンタする。
「こんな物じゃないんだよ! あんたがした事はね!」
 何も言い出す事が出来なかった。
 と言うよりも気力がなかった。
 どうせ、彼女達は私の意見なんて、もう聞かないのだから。
「先輩、天道の服も裂いちゃいましょうよ!」
「ああ、でも……こいつの制服を裂いた後にチクられても困るしなぁ。おい、天道。脱げよ!」
 そう言うと、私の服を四方八方から掴み、ブラウスのボタンやスカートのチャックを強引に外し始める。
「もう……止めて下さい」
 そんな訴えも、彼女達の笑い声で掻き消された。

 彼女達がいなくなって、私はトイレの床に下着姿で横たわっていた。
 脱がされた制服は、全て便器の水に浸されている。
「本当に惨めで汚ないわね」
 上から由佳先輩の声がした。
「どうして……折角、優しい先輩に出会えたと思ったのに……」
 フンっと、由佳先輩は私を鼻で笑う。
「もう、誰も天道の事なんて信じないよ。この際だから言うけど、ユニフォームを裂いたのは私だよ。普段、あれは試合でしか使わないから、部室に置きっ放しで都合が良かったんだよ。だから、今日の朝早くに部室に忍び込んだの」
「どうして、そんな事を?」
 由佳先輩は制服のボタンを外し、右肩をさらけ出した。
 彼女の右肩には、何重にも包帯が巻かれている。
「あんたが来る前、試合で肩をやっちゃってね。それっきり腕が上がらないんだよ。だから、たまに部活に顔を出してる。サボりなんていうのは嘘。ただ、天道が羨ましかった。まるで、昔の私を見ているみたいで。でも、あんたのバスケも終わりだね」
 今、私の中で一つの感情が生まれた。
 それは、私を妬むが故に貶めた、この女への抑え切れない程の怒りだった。


 翌日の朝、私は由佳先輩を昇降口で待っていた。
 昨日のままでは、収まりが付かなかったのだ。
 当の本人が来た。
澄ました様な顔で、チラッと私を見る。
 そして鼻で笑った。
 彼女の行動が、私の怒りを脹らませる。
 私は彼女の直ぐ前に駆け寄り、行く手を阻んだ。
「おはよう。天道」
 爽やかに挨拶をされた。
 そんな由佳先輩にはお構いなしに、私は彼女に言う。
「ちょっと用があるんですけど、一緒に来てくれませんか?」

 私が由佳先輩を連れて来たのは、体育館の倉庫だ。
 この時間、ここには誰もいない。
 つまり、それは何も遠慮する事がないという事だ。
 今の私は、由佳先輩に何をしでかすか分からないから。
「用って何?」
 由佳先輩は、私に対して気取る様な笑みを向ける。
「私は……あの日だけでしたけど……由佳先輩を本気で信頼していました。でも、それも昨日で終わりました」
「そんなつまんない話をするのに、私を呼んだの?」
「いいえ。ただ、収まりが付かないんです。とりあえず、由佳先輩を殴りでもしないと……気が済まない」
 私の言葉に、彼女は嘲笑する。
「へぇ、やってみなよ。ユニフォームを裂いて悪者になった上に、私を殴ったりしたら、天道は本当に終わるよ。ああ、そうか。もう天道に居場所なんかないか」
「黙れ!」
 そう叫び、彼女の頬を強く叩く。
 由佳先輩は唖然とした表情を浮かべる。
 そして、その表情はやがて怒りの籠った表情へと変わった。
「天道……テメエ! 先輩にそんな事して良いと思ってんのかよ!?」
 私は構わず彼女の頬を再び叩く。
「死にてえか!? コラッ!」
 由佳先輩は脇に立て掛けられている金属バットを左手に取ったかと思うと、それを思いっ切り私の手前に振り下ろした。
 鋭い金属音が部屋に響く。
「舐めてんじゃねぇぞ! 右は駄目でも左は使えるんだよ」
 彼女のバットを振り回す手は止まらない。
 やがて、私は奥に追い詰められ、右肩を思いっ切り強打された。
 あまりの激痛に、その場で蹲る。
 それに続けて、一気に右肩の感覚がなくなった。
「あんたも……私と同じ様にしてやるよ。二度とバスケが出来ない様にね!」
 由佳先輩は金属バットを高く上げる。
「いや、ぶっ殺してやる」
 その沈んだ彼女の声は、根拠はないけれど、本気で言っている様に感じられた。
 このままでは、本当に殺される。
 何かないかと手を這わせていると、バスケの試合に使われるラック式の点数版がすぐ隣にあった。
 金属バットが振り下ろされると同時に、手前に点数版を引っ張る。
 彼女の振り下ろした金属バットは点数版に直撃し、大きな金属音を上げた。
 その瞬間、由佳先輩はバランスを崩し、尻もちを着く。
 左手だけで金属バットを持っていたのだ。
 無理もないだろう。
 私はよろめきながらも、転がっている金属バットを左手で拾い上げ、彼女の前に立った。
「ちょっと……天道。何をする気?」
 私は彼女の言葉に耳も貸さず、金属バットを彼女目掛けて強く振った。

   ♪

 卒業アルバムの女子バスケ部の集合写真に、私の姿はない。
 その理由は多々ある。
 体育倉庫での一件で右肩を壊した為、私はバスケ部からの退部を余儀なくされた。
 更に、それに続けての停学だ。
 学校側が女子バスケ部に探りを入れる内に、真実が徐々に明かされた。
 例えば、私に対する濡れ衣。
 そして琴峰先輩の素行。
 一年の中での虐め。
 それを理由に全校生徒揃っての学年集会が開かれた程だ。
 その後、由佳先輩には会っていない。
 教師から聞いた話によると、私と同様に停学を受けた後、自分から退学したという話だ。
「まったく……私の高校生活はろくな物じゃないな」
 どうしてか、今では笑いながらそんな事を振り返れる。
 それは、高校三年生の二学期、ようやく彼に出会う事が出来たからだと思う。
 いつも悲しそうな表情をしていて、誰かと関わる事を拒み続けて来た少年。
 私の知らない間に、彼も一人ぼっちになっていた。
 あの日、学校で起こった悲劇。
 一人の女子生徒の自殺未遂だ。
 その日を境に、彼は心を閉ざした。
 誰とも関わろうとせず、人を寄せ付けまいと煙草まで吸って。
 そんな彼の心を開きたい。
 そう思い始めていた。

   ♪

「天道さん。ちょっといいかしら?」
 三年生の夏休みが終わって早々、クラス担任の琴峰は、私を準備室へ呼び出した。
 これと言って、呼び出される理由なんてないのだが……。
「あの……私、何かしましたか?」
「いいえ。そう言う事で呼んだんじゃないの」
「じゃあ、何ですか?」
 私の問いに、琴峰の表情に影が差す。
「二年前、一年生の頃の事、覚えてる?」
 二年前……おそらく琴峰先輩に関しての事だろう。
「えぇ。まあ」
「大変だったわね。全校集会まで開かれちゃって」
 この人の口調は、どこか不自然だった。
「あの……どうして今、そんな話をするんですか?」
「あの子のフルネーム、覚えてる?」
「琴峰由佳」
「じゃあ、私の名前は?」
「琴峰……」
 この時、前々から抱いていた疑問が解けた。
 この人が新任して来た一年前、琴峰という名字を聞いて、少しだけ胸が痛んだ経験がある。
「あなたは……」
「そう。私は琴峰綾。由佳は私の妹よ」
 背筋に悪寒が走る。
 おそらく、この人は私を憎んでいる。
 だから私をここへ呼んだ。
 頭の中で勝手にそんな考えが浮かぶ。
 琴峰から一歩引く。
「どうして……私をここに呼んだんですか?」
「あなたを許す為よ」
 彼女の言動に不信感を抱きながら、質問を続ける。
「どういう意味ですか?」
「あなたを許す。そのままの意味じゃない。でも、一つだけやって欲しい事があるの。クラスに一人、平野隼人っていう問題子がいるでしょ?」
 問題子!?
 その言葉に、怒りが募る。
「平野君、授業にも出ないし、遅刻ばっかりするし、本当に困ってるのよ。それに私って新任でしょ? 初クラスでいきなりニートを出す訳にはいかないのよ。私の立場上ね」
 平野は、好きであんな事をしている訳ではない。
 それなのに、この女……。
 直ぐにでも殴ってやりたかった。
 しかし、由佳先輩の話をされた今、そんな事をする勇気が私にはなかった。
「とりあえず、あの問題子をどうにかしてちょうだい。お願い出来るかしら?」
「……はい」


「平野!」
 何度も私はその名を呼び、彼に近付いた。
 最初は私を突き放していたけれど、彼は少しずつ私を受け入れ、笑う様になっていった。
 彼の笑う顔が可愛くて、何度も胸が苦しくなった。
 琴峰の思惑通り……しかし事は全て良い方向へ向かっている。
 本当にこれで良いのか、私にはよく分からなかった。

「平野君、大学入試に向けて猛勉強しているらしいじゃない。まあ、入試に間に合うか知らないけど」
 投げやりな琴峰の口調に、怒りを覚えつつ、私は込み上げる怒りを抑え続けた。
「あいつは、よく頑張っていますよ」
「でしょうね。良かったわ。あなたのおかげでクラスの問題子がいなくなった」
「……そんな、問題児なんて……」
「あら、言い方が悪かったかしら。でも、あなたのおかげよ。もう、あなたが二年前にした事も、あなた自身の事に関しても考え直さないといけないわね」
 由佳先輩……そういえば今はどうしているのだろうか。
「あの……由佳先輩は今、何をしているんですか?」
 あの日、停学処分が終わった後に聞いた話では、自分から退学したと聞いているが。
 その問いに、彼女の目付きが変わる。
「由佳は……ずっと家にいるわ。あの日以来、由佳は部屋に籠りっぱなし」
 私のせいなのだろうか。
 しかし、彼女が原因で、私はバスケが出来なくなった。
 それを考えると、当然の報いだと思えてしまう。
 琴峰は低い声で、何かをぶつぶつと言い始める。
「……全部……全部、あなたのせいよ。あなたのせいで、由佳は! ねえ、これを見てよ!」
 そう言って、自分の左腕を私に突き出してくる。
 そこには、幾つもの痣があった。
「由佳にやられたのよ! 最近はなくなって来たけど、あの日から、由佳は私に暴力を振るう様になったのよ! それも全部、あなたのせいよ! クラスの問題子をどうにかする!? そんな事、二の次よ! 由佳の事を忘れて日々を過ごしているあなたが許せなかったのよ!」
 そんな事はない。
 あの日、由佳先輩との一件を忘れた事など、一度もない。
 きっと、これからも忘れる事はないと思う。
 琴峰は言いたい事を言い切ったのか、肩で息をしている。
 やがて、彼女の目が潤む。
 彼女なりに辛かったのかもしれない。
「先生……もし、良ければ……今度、琴峰先輩に会わせて下さい。私なら、本人なら何かが変わると思うんです」
 どうして、こんな事を言ってしまったのだろう。
 おそらく、由佳先輩に会い、二年前の事を清算しなければ、一生その事を引きずって生きて行く事になる気がしたから。



 受験が終わり、平野に会う事もなくなった。
 最後に会ったのは、彼の合否の結果発表の日だ。
 結果は見事に合格だった。
 あれだけの短い期間で猛勉強して、志望の大学に合格してしまうのだから、本当に凄いと思う。
 私も大学が決まり、ようやく一息付ける所だが、まだ早い。
 何しろ今日は、由佳先輩に会う事になっている日だからだ。
私は今日という日を待ち侘びてもいたし、恐れてもいた。
学校の校門で、琴峰と待ち合わせる事になっている。
休日の昼下がりの校舎は閑散としていて、校庭や体育館から僅かに部活動の掛け声が聞こえて来る。
一台の車が私の横に停まった。
 硝子窓が開き、琴峰が顔を出す。
「乗って」
「はい」
 ドアを開け、彼女の隣の助手席に座る。
 そして、車は走り出した。

 車は二十分程走り続け、住宅街のとある一軒家の前で停まる。
 琴峰は車から降り、玄関へ向かった。
 私もそれに続く。
「あの……御両親は?」
「両親は、仕事で殆ど家には帰っていないわ」
 用意されたスリッパを履き、由佳先輩の部屋の前へ案内された。
 縦開きのドアには、由佳と書かれた木版が掛けられている。
 琴峰は軽くドアをノックする。
「由佳。天道さんが来てくれたわよ」
 一切の物音がしない。
 本当に、この部屋に由佳先輩はいるのか、そんな疑問が浮かぶ程に静かだった。
「琴峰先生。ちょっと、外してくれませんか?」
「分かったわ」
 彼女も理解しているのだろう。
 自分では、由佳先輩をどうにかする事は出来ない。
 ならば、この場では私に由佳先輩を託すしかないと。
「由佳を……お願い」
 そう言い残し、琴峰は俯いて部屋の前から離れて行った。
 私は軽く部屋のドアをノックした。
「由佳先輩、私です。天道です。久しぶりですね」
 やはり、部屋からは一切の応答がない。
「あの……聞こえてるのなら良いんです。私の話を聞いて下さい。あの日、私が由佳先輩に大怪我を負わせてしまった日。あの時の私は、本当にどうかしてました」
 最初に言っておきたかった。
「本当に、ごめんなさい」
 彼女への謝罪。
 それこそが、まず私が彼女にする事だったのだ。
 数秒間の沈黙が続いた後、部屋の扉が開いた。
 部屋から出て来た由佳先輩は、今にも泣き出しそうな目で私を見ていた。
 痩せこけた頬や腕が、とても痛々しい。
 彼女は震えた声で嘆く。
「天道……どうして、あんたは、そんなに優しいの? 可笑しいよ。私は、あんたにあれだけの事をしたんだよ?」
「どうって事ないですよ。私には、バスケ以外にも道はあるんです。勿論、由佳先輩も」
 私は彼女の痩せ細った体を優しく抱いた。
 あの時、由佳先輩は悩み苦しんでいる私を、優しく抱きしめてくれたのだ。
 たとえ、それが本心ではなかったとしても、確かに私は元気付けられた。
 ならば、今度は私の番だ。
 私が由佳先輩を元気付ける番なのだ。
 彼女の温かな涙が、胸に沁み込むのを感じながら「ありがとうございました」と言い続けた。

   ♪
 
卒業アルバムを閉じ、棚の隅にしまった。
「波乱万丈な高校生活だったなぁ……」
 それでも、楽しかった。
 部屋の窓を開けると、心地良い涼しい風が頬を撫でる。
 その風は、秋の訪れを予感させていた。
「平野、お前がいなかったら、たぶん私は途中で学校を辞めていた。今、私がこうしていられるのもお前のおかげだ」
 見上げた雲一つない空は、平野と出会った日と同じ様に青く澄んでいた。
「きっと、上から見守っていてくれてるんだよな?」

Episode7 宮村想太

 目覚めると、病室の真っ白な天井が見えた。
 朝の眩しい光が僕を照らす。
 こんな朝を、どれだけ繰り返したのだろうか。
 看護師の話では、明日から右肩のリハビリが始まるらしい。
 周りの人の口振りからすると、あの日の夜から一週間も経っていない様だ。
 あの日の夜、僕と平野さんが襲われた日の翌日、彼女の兄、平野隼人と名乗る青年が僕を訪ねて来た。
 彼は言ってくれた。
『ありがとう。沙耶子を守ってくれて』
 嬉しくなんてかった。
 逆に自分が情けなかった。
 僕は平野さんを守る事なんて、出来やしなかったのだから。
 あの夜以来、平野さんには会っていない。
 気が狂ってしまっていて、面会が出来ないと聞いている。


 看護師が持って来た昼食を済ませた昼過ぎ、吹奏楽部の友人、岸堵真由が見舞いに来た。
 彼女は重い足取りで、ベットの横の椅子に腰掛ける。
「想太……腕の調子は……」
 僕は真由から目を反らし、無感情に返答する。
「順調さ。明日にはリハビリも始まるし」
「そうなんだ」
 彼女の表情は安堵に満ちていた。
 その表情が、どうしてか憎たらしい。
「どうして、そんなに安心しているんだ?」
「……当たり前の事だよ。私は……想太が無事で本当に良かったと思ってるから」
「……嘘だね」
 僕の一言で、病室にポツリと沈黙が落ちた。
 真由はスカートの裾を強く握る。
「どうして、そんな事を言うの?」
「本当は、分かっているんだ。君は、僕にクラリネットをやらせたがっている。今の僕は、こんな状態だ。看護師の話によると、平野さんも気が狂ってしまっているそうだ。なら、君はこの機を逃す事はないんじゃないのかな?」
「何を言っているの……?」
 彼女の声が、段々と震えていくのが分かった。
 それでも、僕は言葉を続けた。
「つまり君は僕に、こう言いに来たんだ。『もう、放課後にヴァイオリンを弾く意味なんてない。吹奏楽部へ戻ろう』って」
 彼女の声が震えていく。
「どうして……どうして、そんな事を言うの!?」
「真由が言いたかった事を、代わりに言っただけさ」
「想太なんて……もう、知らない!」
 泣きそうな声で叫んだかと思うと、真由は病室から飛び出して行ってしまった。
 あれだけ言ったんだ。
 彼女がここに来る事は、暫くないだろう。
 一息吐き、窓の外を見る。
流れて行く雲。
 いつも通りの街。
 真由が来た事以外は、いつもと変わらない。
 する事もなく、ただベットの上にいるだけ。
 なんだか、気が狂ってしまいそうだ。
 そんな矢先、一人の青年が病室を訪ねて来た。
 平野さんのお兄さんと同じ位の年齢や容姿だが、どこか大人びていて身長も高い。
「君が宮村想太……君だね?」
「はい。あの……あなたは?」
 青年は少しだけ考える様な素振りを見せる。
「俺は烏丸綾人。沙耶子の事を知っているだろ。あいつとは……まあ、友達みたいな者だ。本当なら、もっと早くここに来るべきだったんだが……」
「僕に何か?」
「……平野隼人って、知っているだろ?」
「はい」
 彼の声が低くなり、少しだけ顔色が悪くなる。
「あいつが死んだよ」
「え!?」
 数日前、僕の病室を訪ねて来た青年、あの平野さんのお兄さんが死んだ?
 突然の知らせに驚きを隠せなかった。
「どうして!?」
「あの日の夜、君達を襲った男。平野は、その男と二人で死んでいた。警察の捜査によると、男を殺したのは平野だそうだ」
 全く分からない。
 僕が眠っている間に、何が起こったというのだろうか。
「どうして、あの人が……」
「テレビや新聞を見ていないのか?」
 ここ数日、僕は新聞やテレビの様なメディアには全く関わっていなかった。
 彼は僕の唖然とした顔を余所に、話を続ける。
「君達を襲った男。あいつは、沙耶子をストーカーしていた危険人物だった。だから、平野は一人で手を討ったんだろ」
あの日の夜、側にいながら彼女を守る事の出来なかった自分。
そんな自分が、どうしようもなく情けなく思えた。
 もしあの時、僕が何かしらの手段を取っていれば、今の様な結果は免れる事が出来た筈だ。
 後悔が押し寄せて来る。
 目蓋が段々熱くなり、堪える事の出来ない涙が溢れ出て来た。
 僕は左手で、涙の溢れる目蓋を覆い隠す。
「全部……僕が悪いんです。僕が無力だったから、平野さんのお兄さんは……」
「そんな事はない。隼人は死ぬ事を覚悟していたんじゃないか? だから、一人で行った」
 彼は考えていたのだろうか。
 友人や親、残された人達の事を。
「そんなの、只の自己犠牲です」
「?」
「残された人達は、どうなるんですか? これから、ずっと死んだ人の事を考えて生きて行くんですよ。友人や家族、あなたも」
「確かに、そうだな。君の御両親は?」
 ここ数日、僕の両親が見舞いに来る事はなかった。
 仕方のない事だと思っている。
 去年から、二人は海外で音楽活動を行っていて、殆ど日本にいる事はない。
 父は僕にクラリネットを託して、吹奏楽を続ける事を望んでいた。
 それなのに、僕は夢を見続けて……ヴァイオリンを続けていた。
 あの日の出来事は、ヴァイオリンを続けて来た自分への罰だったのかもしれない。
 馬鹿みたいだ。
 僕が続けて来たヴァイオリンの練習なんて、只の子供の反抗みたいな物なのに。
「……」
「俺の両親の話をしよう」
 気のせいだろうか。
 彼の声が少しだけ、優しくなった様な気がした。
「俺の親父は、プロの野球選手なんだ。おふくろは有名女優。二人とも、忙しくて俺の面倒なんて全く見る事が出来なかった。それが嫌でな。小学生の頃、野球を始めたんだ。親父に見ていて欲しくてな」
 彼は僕とは逆だ。
 父親に期待されたくて、彼は野球を始めた。
 僕はというと、親に流されるようにして吹奏楽を始めた。
 しかし、楽しいと思える事はあったのだ。
 それは仲間という存在が、あってこその事だった。
「野球を始めて、仲間も出来た。親友と呼べる奴が一人いたんだ。そいつとは、同じ高校へ進学して、同じ野球部で野球をした」
「僕にも、そんな人はいました。でも、彼女は僕の事を何一つ分かっていなかった。僕の事を理解もせず、ただ自分の考えを押し通そうとしていた」
 僕は何を言っているんだ。
 彼に真由の話なんかをしても、どうにかなる筈がないのに。
「その子は、君を思ってはいるけれど、空回りしているんじゃないのか?」
「どういう意味ですか?」
「つまり、お互いにしっかりと話し合わなければ、お互いを理解し合う事はないって事だ」
「……」
 考えてみると、意見を押し通そうとしていたのは、僕なのかもしれない。
 真由に対して嫌味な態度を取り続け、彼女を追い返してしまった。
「もしかしたら、彼女を理解していなかったのは、僕なのかもしれない」
「それなら、君は彼女に再び会って、話をするべきなんじゃないのか?」
 彼の言う通りだ。
 彼女に会って、しっかりと話をして……。
 何を話せばいいんだ?
 これからの事……僕のヴァイオリン?
 吹奏楽の事?
 悩んでいても仕方がない。
「彼女は、たぶん会いに来ません」
「?」
「でも、明日からリハビリが始まるんです。リハビリが終わったら彼女の所へ行って、しっかり話をします。それで、何かが解決するか分からないけど……」
「そんな事はない。きっと、その子は分かってくれるさ」
 青年は僕に笑い掛ける。
 どこか不器用な笑顔だったけれど、とても気分が晴れた気がした。
 青年は病室の壁に掛けられた時計を見上げる。
「もう時間だ。そろそろ行くよ」
「あの!」
 部屋から出ようとする彼を、僕は引き止めた。
「何だ?」
「あの……あなたは、まだ野球を続けているんですか?」
 背を向けていた彼は、ゆっくりと僕の方へ振り返る。
「キャッチボール程度ならな」
 それだけ言うと、彼は病室を去って行った。


 リハビリは昼過ぎから始まった。
 肩を曲げたり腕を回したりする様なストレッチが、主な内容だ。
 聞こえは単純で簡単そうだが、実態はとても辛い。
 普段は自由に動いていた肩を動かす度に、激痛が走るのだ。
 それでも、リハビリを止めてはいけない。
 リハビリを終えて一日でも早く、僕は真由に会いに行くと決めたのだから。


 三学期、気付けばそんな時期になっていた。
 医者からは、もう学校に行っても問題はないと言われている。
 だから今日、僕は学校へ行く事にした。

 昼過ぎという事もあって、生徒は全員が授業を受けている。
 その為、校門や昇降口には誰もいない。
 約一カ月半しか、ここを訪れていなかったというのに、校門、昇降口、廊下、それら全てがとても懐かしく感じられる。
 とりあえず職員室へ行き、担任と話をした。
「肩の調子はどうだ?」
「ええ、かなり回復しましたよ」
「そうか。今は五限目の授業だけど参加していくか?」
「いえ、いいです。今日は、荷物の整理と……人に会いに来ただけですから」
 担任は「そうか」とだけ言い、それ以上の詮索をする事はなかった。

 幸い、音楽室は解放されており、授業として使っているクラスはいないようだ。
 隅に寄せられた机の上には、僕のヴァイオリンとホープの楽譜が置いてある。
 あの日、ホープを弾いていたヴァイオリン。
 ケースを開けて手に取ってみると、なんだかズッシリとしていて重い。
「こんな肩じゃ、まだこれは弾けないな」
 ゆっくりとケースの蓋を閉めた。
 壁に掛けられている時計を見ると、時間は五限の終了間近だった。
 真由に会うなら、授業間の休み時間である今か。
 いや、あと一限待てば放課後だ。
 真由に会うのは、それからで良い。

 誰も来ない事を察するに、どのクラスもこの時間は音楽室を使う事はないようだ。
 あの日の夕暮れ時、平野さんとホープを弾いていた、あの時間を思い出す。
 結局、ホープという楽譜が誰の手を渡り、どうしてここに置かれていたのか、分からず終いになってしまった。
「本当に……不思議な曲だったな……」

 強い西日が窓から差し込む。
 ボーっとしている間に、放課後になってしまっていたようだ。
 チャイムに気付かないなんて、どうかしてるな。
「想太」
 ドアの方から声がした。
 長い間、聞く事のなかった声。
「真由……。どうして、ここに?」
「こっちの台詞だよ。肩は大丈夫なの?」
 彼女に対して、あんな冷たい態度を取ってしまったというのに。
真由は本当に僕の事を心配してくれている。
 それは表情をみただけで分かった。
「もう大丈夫だ。それより、今日は話があって来たんだ」

 真由は僕のヴァイオリンを見つめていた。
「ねえ、これ……触って良い?」
「うん」
 ケースを開けて、真由はヴァイオリンを手に取る。
「私は……ヴァイオリンを弾く事なんて出来ないけど、吹奏楽部で頑張ってる。それと同じ様に、想太もヴァイオリンを頑張ってたんだよね……」
「でも、何も成果はなかった。それに、皆に迷惑を掛けた。皆、怒ってるよな。真由……お前もそうだろ?」
「私は……凄いと思ってた」
「?」
「並じゃ出来ないよ。コンクール前に自分の居場所を飛び出して、一人でヴァイオリンを弾くなんて……」
 真由は僕を真っ直ぐに見据える。
 その瞳には、僕と病室で話していた時の様な弱々しい雰囲気はなかった。
「想太がしたい事をすれば良いんだよ。私は、何も言わないから」
 彼女の声はとても優しくて、聞いていて泣きそうになってしまった。
「僕は……戻りたい。真由や皆の所へ……。でも、皆は……こんな僕を受け入れてくれるか……」
 泣き出しそうな僕に、彼女は笑い掛ける。
「大丈夫だよ。想太は、皆とは違う形で頑張っていたんだから」
「真由……。今度はクラリネットを諦めないで続けてみるよ」
 彼女から目を反らし、付け加えた。
「あと……ヴァイオリンも」
 真由は嬉しそうに笑い、僕の手を取る。
「行こうよ! 吹奏楽部!」
「ああ!」
 果たして、皆が僕を受け入れてくれるのかは分からない。
 それでも、真由がいれば吹奏楽を諦めずに続けていける。
 そう思えた。

        ♪
 
 やっと、平野さんに会う決心が着いた。
 それなのに、病院に平野さんの姿はなかった。
 看護師の話では、とっくに退院していて、今は家にいるそうだ。
 その事を聞いて、とても安心した。
 しかし、退院したというのに、どうして彼女は学校に来ないのだろう。
 ただ、僕が彼女を見掛けなかっただけなのか。
 それとも……。
 妙な胸騒ぎがしていた。

 三月も終わりだというのに、病院からの帰り道はとても寒かった。
 結局、平野さんには会う事が出来なかった。
 もしかしたら、これからも会う事は出来なのかも。
 そんな下向きな考えしか出来ないでいた。
 その時だ。
 どこからか、聴き覚えのある音色が聞こえて来る。
 夕日が空を真赤に染めた、夕暮れ時の音楽室。
 そこで彼女が奏でいたピアノの音。
 聴こえて来る曲名は、すぐに分かった。
 いや、分からない筈がない。
 これはホープだ。
 いったい誰が?
 考えるまでもない。
 これを弾いているのは平野さんだ。
 彼女以外にありえない。

 ひたすら音を辿って着いた場所は、郊外に位置する一軒家だった。
 小さな門の脇には、ピアノ教室と書かれた看板が立て掛けられている。
 もしかしたら、平野さんはここに通っているのかもしれない。
 ほんの少しの期待を抱き、インターホンを押した。
 すると、ホープの音色は突然止まった。
『はい』
 スピーカーから老婆の声が聞こえて来る。
「あの……、えっと……。そちらに、平野さんという方は……」
 彼女に会う事だけを考えていた為、上手く応答する事が出来なかった。
『もしかして、沙耶子さんの御友人の方ですか?』
「まあ、そうですけど……」
『では、どうぞ。ここはピアノ教室なので、勝手に上がって来て構いませんよ』
 老婆に言われた通り、僕は門を開けて家に上がった。
 玄関や廊下には、アジアの国で手に入りそうな、珍妙な仮面や楽器が壁に据え付けられている。
「こちらですよ!」
 奥の部屋から老婆の声が聞こえた。
 真っ直ぐに廊下を進み、奥の部屋へ入ると、割と広い部屋に出た。
 部屋の中央には、グランドピアノが一つ置いてある。
 その隣に老婆が一人。
 とても穏やかな雰囲気を纏っていて、優しそうな人だ。
「椅子に座って待っていなさい。すぐにお茶とお菓子の準備をしますからね」
 そう言うと、老婆は部屋から出て行ってしまった。
 窓際には椅子が三つと大きな机が一つ、向かい合う様にして置いてある。
 そこに腰を下ろした。
 中央に設置してあるピアノ以外にも、あらゆる楽器が壁に飾られている。
 ヴァイオリンは勿論、クラリネットやトロンボーンの様な吹奏楽器もだ。
「凄いでしょう。これら全ては、私が若い頃に集めた物なんですよ」
 彼女は二人分の紅茶が入ったティーカップと、数枚のビスケットの乗った皿をトレイに乗せて、部屋に戻って来た。
 それを机の上に置き、僕の向かいの椅子に座る。
「沙耶子さんに用があって来たんでしょ?」
「はい」
「ごめんなさいね。沙耶子さん、今日は来ない日なのよ」
 やはり、平野さんはここに通っていた様だ。
「あの……最初に聞きたい事があるんです」
「何でしょうか?」
「さっき、ホープを弾いていたのは、あなたですか?」
「ええ、そうですよ」
 そう言うと、老婆はゆっくりと立ち上がり、ピアノの譜面台に置かれている楽譜を持って来て、それを机の上に置いた。
「これ……」
 老婆が持って来た物は、ホープの楽譜だった。
「これはね、沙耶子さんが私に教えてくれた曲なんですよ。聞く所によると、彼女の叔母さんと二人で作った曲とか。あなたは、これをどこで?」
「音楽室で見つけました。たぶん、前の卒業生が記念か何かで置いて行った物だと思って、僕はそれをヴァイオリンで弾いていたんです。それから暫くして、平野さんが音楽室を訪ねて来たんです」
「そうですか。じゃあ、次は私が質問しますね」
 老婆は紅茶を啜り、数秒の間を置いた。
「沙耶子さんに会って、何を話すつもりだったんですか?」
 もしかしたら、彼女は知っているのではないだろうか。
 あの日の夜にあった出来事を。
「あの、あなたは」
 老婆は僕の言葉を、相も変わらぬ穏やかな口調で遮る。
「今は、私が質問しているのですよ」
 僕の目を見る老婆の瞳は真っ直ぐで、視線を反らす事が出来なかった。
「……僕は……平野さんに会って……」
 会って、どうしようとしていたのだろう。
「それが分からない様では、あなたが沙耶子さんに会う資格はありませんよ」
 何も言い返す事が出来なかった。
 しかし、俯く僕に彼女は言ってくれた。
「でも、私が沙耶子さんの代行として、あなたと話す事なら出来ますけどね」
「じゃあ、教えてください。今、平野さんは何をしているんですか?」
 老婆は軽く息を吐く。
「その質問に答えましょう。ですが、誓って下さい。どんな事を聞いても、沙耶子さんが望む通りに事を済ませると」
「誓います」
「では、教えます。沙耶子さんは、私以外の人間に会う事を拒んでいます」
「どういう事ですか?」
「今まで関わって来た人との関係を清算した、という事です。だから、彼女は学校を辞めて、ここに通っているのですよ。ピアノを練習する為にね」
「え」
 老婆の話からするに、平野さんは関わって来た人達との関係を清算する為に、学校を辞めたという事になる。
 それなら、僕が彼女を学校で見掛けなかった事の説明も付く。
「でも、それだけの事で学校を辞めるなんて……」
「沙耶子さんなりの考えだったのでしょう。それに、彼女は凄腕です。あの調子ならプロだって夢ではありません」
 全ては平野さんの決断した事。
 なら、僕は何も否定しない。
「もう僕がホープを弾く事は、ないと思います。あれは平野さんの曲ですから」

 窓からオレンジ色の光が差し始める。
 立ち上がり、軽くお辞儀をした。
「ありがとうございました。そろそろ帰ります」
「では、紅茶くらいは飲んで行って下さい。とても美味しいので」
 そういえば話に夢中で、出された紅茶やビスケットを口にしていなかった。
「すみません。せっかく、出して下さったのに……」
「良いんですよ。うちの生徒さんは、紅茶やお菓子を出しても口にしない人の方が多いですから」
 飲んでみると香りが鼻を刺す様な、若者には飲みにくい様な紅茶だった。
「美味しいですか?」
 苦みに耐えながらも、少しだけ苦笑して見せる。
「ええ、とっても美味しいです」
 僕の反応を見て、老婆はにっこりと笑った。


「忘れないで下さいね。今日、ここに来た事を」
 そう言って、老婆は帰り際に大きな紙袋を僕に渡した。
「何だろう……これ」
 帰り道で、少しだけ中身を覗いてみた。
 中には大量のビスケットが、ぎっしり詰められている。
 一つだけ抓まんで、食べてみた。
「……」
 あの紅茶と同じ様な、若者には食べにくい様な味だ。
「一人で、これを食べるのは厳しいな。捨てるのも勿体ないし……」
 ポケットから携帯を取り出し、真由に電話を掛ける。
 数階のコールが鳴り、真由の声が聞こえた。
『もしもし、想太?』
「なあ、真由。今から僕の家に来れるか?」
『良いけど、どうして?』
「近所の人から、美味しい菓子を貰ったんだ。一緒に食べないか?」
『分かった、お茶会だね! じゃあ、私は紅茶を持ってすぐに行くから、準備よろしく!』
 それだけ言うと、彼女は電話を切ってしまった。
 張り切っていたな。
 なんだか、真由にこのビスケットを食べさせるのが可哀想に思えて来た。
 仕方ない。
 帰りにコンビニに寄って、市販の菓子でも買って行くか。


 絶対に忘れはしない。
 平野さんと過ごした放課後、そして今日の出来事を。
 見上げた夕焼け空は、彼女と出会った日の様に真赤に燃えていた。

True episode 烏丸綾人 後篇

 俺が彼女と出会ったのは、中学二年生の夏休み直前の事だった。

「転校生が来るらしいよ」
「こんな時期に?」
 教室では、朝からその話題で持ち切りだった。
「なあ、綾人。転校生は女の子らしいぜ」
 俺の机に乗るなり、蓮はそんな事を言って来た。
「どうでも良い。まだ知り合ってもいない女の話なんかで、盛り上がってんじゃねえよ」
「はいはい、分かったよ。お前は女になんて興味ねえよな。野球一筋のスポーツバカなんだから。でも、そんなんじゃあ、彼女とか出来ないぜ?」
「だから、そんなの興味ないって」
 教室のドアが開き、担任が入って来る。
「お前等、席に着け」
 騒がしかった教室が静まり、皆が席に着く。
「今日は時期外れだが転校生が来ている。さあ、入って来なさい」
 ドアが開き、一人の少女が入って来る。
 同時に、クラスメイト全員の視線が彼女に集中した。
 腰まで伸びた長く綺麗な髪や、細くて白い体。
 彼女の印象に対して、皆がこそこそと話し始める。
「凄い綺麗な髪。手入れとか、どうしてるんだろう」
「県外? どの辺だろう」
「やべぇ、めちゃくちゃタイプなんだけど」
 クラスメイト達の反応に動揺したのか、彼女は俯いてしまう。
 知りもしない連中の前に立たされて「自己紹介しろ」だなんて、転校というのは残酷な物だ。
 最も俺だったら、適当に自己紹介してさっさと席に座る所だけど、動揺してしまった彼女にとっては、そうもいかないようだ。
「み、宮久保沙耶子……です。……えぇっと……あの……」
 察したのか、担任は黒板に彼女の名前を書き、代わりに喋り出す。
「夏休み直前で時期は外れているが、家の事情で県外の学校から来たそうだ。皆、仲良くしてやるんだぞ」
 担任は辺りを見回し、俺の隣の窓辺に位置する空席を指差す。
「宮久保の席は一番後ろのあそこだ。分からない事があったら、隣の烏丸に聞きなさい」
 勝手な事を……。
 宮久保は席に座ると、少しだけ俺を見て視線が合うと肩をビクリと揺らし、前を向いてしまった。
 隣である俺に、何かを言わなければいけない。
 そう思ったが、話し出す切っ掛けを見つけられずにいる、といった所だろうか。
 俺から何か言うべきか……。
『分からない事があったら俺に聞け』
 ベタ過ぎないか?
 いや、それが普通か。
「なあ」
 話し掛けようとした瞬間、校舎にチャイムの音が鳴り響く。
 結局、話し掛ける事も出来ずに朝のホームルームを終了した。


 休み時間になるなり、数人の男女が宮久保の席を囲っていた。
「ねえ、県外ってどこから来たの?」
「その髪綺麗だよねぇ。手入れとかどうしてるの?」
 一斉に質問をした為、宮久保は困ってしまっているようだ。
 彼女は助けを求める様に、俺の方に少しだけ視線を移す。
 ただ隣というだけなのに、迷惑な話だ。
 俺は立ち上がり、その場から逃げる様に蓮の席へ向かった。


 教室の窓から差し込む陽の光は、昼に近付くにつれて強さを増していた。
 エアコンや扇風機の様な空調設備も取り付けられていない為、とても蒸し暑い。
 そんな教室で、皆は必死に黒板に書かれた内容をノートに書き写している。
 俺は一通りを書き終え、ノートの上にシャーペンを転がした。
 意味もなくシャーペンを転がしていると、隣から妙に苦しそうな声が聞こえて来る。
 何事かと思い振り向いてみると、宮久保は苦しそうに顔を火照らせながらも、必死に黒板の文字をノートに書き写そうとしていた。
 見るからに、授業どころではなさそうだ。
 しかし、転校初日とは気の毒に。
辺りを見る限り、今の宮久保の状態に気付いているのは俺しかいないようだ。
 気付かない振りをするのも……気分が悪いし……。
 とりあえず先生を呼ぶか。
 そう思った時だ。
 彼女の体が傾き、椅子から落ちる。
 俺は咄嗟に自分の椅子を蹴り出し、彼女の体を受け止めた。
 それに反応して、皆が俺を見るなり唖然とする。
 前で板書をしていた教師も驚いたせいか、持っていたチョークを床に落としてしまっていた。
「烏丸、どうしたんだ?」
「え? あぁの……えっと、宮久保さんが倒れたんです。この暑さですから……まあ、しょうがないと思いますよ!」
 俺の口調はかなり慌てていた。
「じゃあ、宮久保を保健室に」
「あ、はい! 連れて行きます!」
 彼女の体を持ち上げ、肩に抱える。
 態勢を安定させ、俺は保健室まで走って行った。


 保健室の先生は、宮久保をベットの上に寝かせた。
「ただの熱中症ね」
「そうですか。……良かった」
 保健室は空調が完備されていて、教室とは違いとても涼しい。
 ここにいれば、彼女も大丈夫だろう。
「それにしても、ビックリしたわよ」
「何がですか?」
「だって、彼女を自分の肩に担いでるんですもの」
 いったい周りからは、どんな風に見えていたのだろう。
 そう思うと、教室へ帰るのが億劫になってきた。
「すみません。さっきは、無我夢中で……」
「まあ、いいわ。授業も終わる時間だし、そろそろ教室へ戻りなさい。彼女の事は私に任せて」
「はい、お願いします」
 保健室から出ると、夏場の熱気が一気に俺の体を包んだ。


「なあ、あの子と何かあったんだろ?」
 教室に帰って来て、それと同じ質問をされたのは、これで何度目だろう。
 他の連中も先程の事が気になっているらしく、さっきから同じ事の質問責めだ。
「さっきから他の奴にも言ってるけど、何もないからな」
 蓮は不敵に笑う。
「おいおい、隠すなよ。ていうか、女の子を肩に担ぐのって男として邪道じゃね? 宮久保のパンツ見えそうになってたぞ。そんでもって、宮久保を担ぐお前を見て、皆が顔真っ赤にしてやんの」
「それは、拙かったかもな……」
 実際にスカートの中が見えていたのかは、知らないが……。
 根も葉もない噂を発てられて、肩身の狭い思いだけはしたくはない。
「妙な噂だけは発てるなよ」
 蓮はニカニカと笑う。
 本当に分かっているのだろうか。


昼休みになると、俺は流されるがままに、宮久保の分の給食を運ぶ事になった。
「どうして俺なんだ?」
「だって、宮久保さんと一番仲良いのは烏丸君じゃん」
 そんな理由で、宮久保の分の給食が乗ったトレイを笑顔で押し付けられた。
 まったく、本当に良い迷惑だ。
 保健室のドアを軽くノックして、中に入る。
 先生はいない様だ。
 ベットのカーテンが閉まっている事を察するに、宮久保が寝ているのだろう。
 とりあえず、近場の机にトレイを置いた。
 さて、やる事はやった。
 教室へ戻ろう。
 そう思った時だ。
 カーテンが開き、中から宮久保が出て来た。
 驚いた様な表情を浮かべ、俺を見るなり彼女は目を反らす。
 どうにも話しづらいな。
「もう大丈夫なのか?」
「……大丈夫」
「そうか。お前の分の給食を持って来たんだけど、食えるか?」
「……少しだけなら」
 宮久保は椅子に座り、箸に少量のご飯を摘まみ、ゆっくりと食べ始める。
 給食は届けたし、もう教室に戻っても大丈夫だろう。
「じゃあ、俺は教室に戻るよ」
 そう言い掛けた時、彼女の箸は止まっていた。
 見ると、宮久保は俯き涙を浮かべている。
 何か泣かせる様な事をしただろうか。
 そんな覚えはない。
「ちょっ……どうした? 大丈夫か?」
「……ごめんなさい」
 震えるか細い声で彼女は、そう連呼し続けた。

 保健室にあったティッシュで涙を拭かせ、宮久保を落ち着かせた。
「何か……嫌な事でもあったのか? 悩みがあるんなら、言ってみろよ」
「でも……」
 本当に鈍臭い奴だ。
 しかし、ここで怒鳴ったりしたら、もう顔も遭わせられそうにない。
 俺は不器用にも笑って見せた。
「話して、楽になる事もあるんだからさ」
「これから、この学校にいられる自信がなくて……」
「どうして?」
「転校初日なのに、授業中に倒れて皆に迷惑掛けたし……」
 ああ、確かに迷惑だった。
「でも……まあ、運んだのは俺だし……皆には、迷惑は掛かってないと思うぞ」
「そうなのかな……」
「そうだって」
「でも……」
 まだ何かあるのか。
「クラスの人達とも、あんまり話せなかった」
 たしかに、皆が宮久保に詰め寄っていた時、彼女は話し出す切っ掛けを見つけられずにいた。
「それは、お前次第なんじゃないか? 現に、俺と喋ってるだろ」
「そういえば……」
「まずは気軽に話せる友達を作れ。話はそれからだ」
 宮久保にそれだけ言い残して、俺は保健室を後にした。


 七月という事もあり、放課後になっても暑い日射しが弱まる事はなかった。
 きっと、これからもっと暑くなるのだろう。
 窓から差し込む日射しは、宮久保の机を容赦なく照らしている。
 結局、宮久保は最後の授業の時間になっても、戻って来る事はなかった。
 彼女の鞄がロッカーに入っているのを見るに、まだ帰ってはいないのだろう。
「綾人、そろそろ部室に行こうぜ」
 部活へ行く用意を終えたのか、蓮が俺を呼ぶ。
 時計を見ると、部活開始の時間が迫っていた。
 俺は荷物をまとめ、蓮と教室を後にした。


 野球部の練習は、まず部室に集まり、全員で挨拶をしてから始まる。
 その後に、一年生はランニング。
 二、三年生はキャッチボールをする事になっている。
 俺はいつも通り蓮とペアを組み、キャッチボールを始めた。
 俺と蓮は、野球部の次期一軍バッテリーだ。
 だから、このペアは自動的に決まる様な物だ。
「宮久保と何かあったんだろ?」
 そんな事を言いながら、蓮は俺にボールを投げる。
「まったく、しつこいぞ! 何もないって!」
 ボールと返答を同時に返す。
「だってさぁ、お前が宮久保に給食を持って行って、給食の時間が終わる頃に戻って来るなんて、明らかに何かあるだろ?」
 たしかに、何かがない事もない。
 宮久保に給食を届けた後、教室へ戻った頃には既に給食の時間は終わっていた。
 その為、俺は給食を食べる事が出来ず、空腹の状態で午後を過ごしている訳だ。
「さっさと吐け! この野郎!」
 蓮の投球が段々と荒くなって行く。
「分かったよ! 言えば良いんだろ! 言えば!」

 俺は昼の出来事の全てを蓮に打ち明けた。
「へぇ、じゃあお前が、宮久保が皆と馴染める様に、協力してやれば良いんじゃねえの?」
「総体前に、そんな事に気を使ってられるか! 全部、宮久保次第だよ」
 蓮は口元を綻ばせる。
「相変わらず厳しいねぇ。まあ、お前らしいけどな」
「キャッチボール終わり! 集合だ!」
 数本のバットを用意して、監督は皆を集めた。
「二年はバッティング練。三年は守備に着け!」
 皆が一斉に「はい!」と返事をする。
「まずは二年の烏丸!」
 俺はバットを持ち、ホームベースに立った。
 ボールを投球するのは、現投手である鈴木先輩だ。
「すげーよ。現投手と次期投手の勝負だぜ」
「これ、烏丸が鈴木先輩のボール打っちゃったら拙いんじゃないの?」
 周りから、そんな小声が聞こえた。
 現投手?
 次期投手?
 そんな事は関係ない。
 相手が誰であろうと、可能な限りベストを尽くすだけだ。
「お願いします!」
 俺の挨拶と共に、鈴木先輩はボールを投球する。
 やはり速い。
 しかし打てる!
 そう確信してバットを振った。
 鋭い音が鳴り響くと共に、ボールは高く飛び上がり外野へ落ちる。
 皆が唖然とする中、ボールを投球した鈴木先輩だけは、どこか嬉しそうに俺を見ていた。


 陽が落ちた頃、俺はようやく帰宅した。
 家の隅に帰宅用の自転車を止め、ポストを確認する。
 中には手紙が数枚。
 大抵は、プロ野球選手である親父や、女優であるおふくろ宛だ。
 しかし、そんな手紙の中に一枚だけ俺に宛てられた物がある。
 差出人は烏丸雫。
 現在は別居中である、俺より一つ年下の実の妹だ。

 汗だくのユニフォームを脱いでシャワーを浴び、ジャージに着替えた。
 自室でサッパリとした体を冷房に晒し、俺に宛てられた手紙の封を開く。
 中には用紙が一枚。

 七月十三日 晴天
お元気ですか?
こちらは相変わらず暑いです。
部屋の窓からの日射しは、容赦なく室内を照らします。
お兄ちゃんの教室も、そんな感じなのかな。
くれぐれも体に気を付けて、野球も良いけど無理はしないで下さいね。
倒れてしまったら、野球どころではありませんから。
私がお兄ちゃんに宛てられるのは、これくらいです。
お兄ちゃんからの手紙、心待ちにしています。

 体に気を付けなくてはならないのは雫の方だ。
 でも、俺の心配までしてくれるなんて、雫は優しいな。
 それが彼女の良い所だ。

 広いリビングには誰もいない。
 ただ、テーブルの上に大量のインスタントラーメンが置かれているだけ。
 いつもと同じ事だ。
 部屋の静けさに耐え切れず、テレビを点けた。
 そこには、よく見知った顔の女優が映画出演に関しての、インタビューを受けている。
『さて、今冬の上映を予定している映画に出演される烏丸佳代子さん、息子さんと娘さんがいるんですよね?』
『はい。撮影や舞台挨拶で会えない事は多いと思いますが、出来るだけ子供達と一緒にいられる時間を作りたいと思っています』
『やはり、お母さんですねぇ。お料理とかも、なさるんでしょ?』
 質問された烏丸佳代子は笑顔で答える。
『ええ、勿論! たまに会える日には、私が料理を作ってあげているんです。とても喜んで食べてくれるんですよ』
液晶に映し出されている女の顔に、俺は未開封のインスタントラーメンを投げつけた。
「お前の料理なんて、もう十年以上は食ってねえよ……」

   ♪

 俺が小学五年に進学して間もない日の事。
 大きな転機が訪れた。
 妹である雫の病が発覚したのだ。
 
 
彼女の様態を医師から聞いたのか、父は青ざめた顔で俺に告げた。
「十八歳まで生きるには、難しいそうだ」
「そんな……」
 今まで、雫とは些細な事で喧嘩になっていた。
 だから、いなくなれば良い。
 雫を見る度に、そんな事を思っていた。
 しかし目の前の現実は、俺の冗談半分の願望を叶えてしまっていたのだ。
 全ては自分のせい。
 俺が彼女の体を壊してしまったのだ。
 罪悪感で胸が痛み、やがて堪え様のない涙が溢れて来た。
「俺……いつも雫と、喧嘩ばっかりしてたから……雫の事、いなくなれば良いって……思ってて……」
 父は俺の頭を強く撫でる。
 プロ野球投手である彼の手は、とても大きくて、どこか温かかった。
「お前のせいなんかじゃない。タイミングが悪かったのさ。だから、雫と喧嘩した分、今度はお前が雫の力になってやるんだぞ」
 目蓋に涙を溜めながらも、父は俺に笑顔を絶やさなかった。


 それから毎日、学校が終わると雫のいる病院へ通った。
 最初のうちは照れ臭かったけれど、日を積む毎に、雫に会う事が楽しみになっていたのだ。
 学校での出来事。
 家での出来事。
 そんな他愛もない会話を二人で楽しみ、共に笑い会った。
 
喧嘩をし合っていた、あの頃が嘘の様に感じられる時間を雫と過ごす中で、やがて俺の中である感情が芽生え始めた。
 きっと、雫も俺と同じだったと思う。
 俺と彼女の中で芽生え始めた、ある感情。
 それは兄弟間では、絶対にあってはならない、互いを異性として好いてしまう事だ。
 雫を見る度に、胸が締め付けられるような感覚が俺を襲う。
幼かったあの頃の俺は、それが何であるかすら知らないでいた。

 雫へ対する、この衝動は日に日に増して行った。
 いつか彼女は、俺の前からいなくなってしまう。
 そう思うと、自然と涙が頬を伝った。
 ポロポロと涙を零す俺を見て、雫は優しく問い掛ける。
「お兄ちゃんは、私の事が好き?」
「……当たり前だろ」
「じゃあ……」
 雫は俺の手を取った。
 彼女の冷たくて細い指が、汗の滲む俺の手に絡む。
「来て……お兄ちゃん……」
 その声と共に、俺は人形の様に小さな雫の体を強く抱いた。
 彼女の唇に自身の唇を重ね、ゆっくりと目を瞑り、そのままベットに倒れた。
 細くて小さな彼女の腕、胸、足。
 それらが俺の体と絡み、今までになかった様な感情が溢れ出て来る。
 ずっと一緒にいたい。
 もっと触れていたい。
 俺は彼女のパジャマの一番下のボタンを外し、そこに手を入れた。
 その行為に答える様に、可愛らしい声が聞こえて来る。
 更に再び彼女の唇に、自分の唇を重ねてみた。
 先程とは違い、今度は舌が絡んで来る。
 互いの唾液が交わり乱れる音が、室内に響く。
 今がずっと続けば良いのに。
 いつか訪れるであろう雫との別れに目を背け、俺はこれでもかという位に彼女と乱れた。


 暫くして、珍しく両親が家に帰って来た。
 雫に関しての大事な相談があるのだそうだ。
「綾人は部屋にいなさい」
 父にそう言われ、俺は自室に入れられた。
 どことなく違和感のある、両親の行動に違和感を感じた俺は、こっそり部屋を抜け出して両親の話を盗み聞きした。
 父は沈んだ声で話を切り出す。
「この前の検査で……雫の子宮に異常があったらしいんだ」
「どういう事?」
「赤ちゃんが……いたらしい」
 母はテーブルを強く叩く。
「赤ちゃん!? どうして、あの子に赤ちゃんが出来るの!? あの子は、ずっと病院にいたのよ! 父親は誰なの!?」
 その問いに父は黙り込む。
「あー、もう! どうするのよ!? こんな事を公にしたら、私やあなた、それ以外の人間にも大きな迷惑が掛かるのよ!」
「……」
分かっていた。
 父親は俺だ。
 こうなる事は、分かっていたのだ。
 しかし俺と雫は、分かっていながらも関係を持った。
 この頃の俺達は、自分が思っている以上に幼い子供だったのだ。 
「父親は誰なのよ!?」
「……見当は付くだろ」
「まさかっ!」
 立ち上がった母を、彼は制止する。
「綾人を責めても何も変わらない。まず、これからの事を考えよう」
「……」
 僅かな沈黙が続いた後、父はある決断を下した。
「子供……降ろすしかないな。その後は、雫を県外に住まわせよう。それしかない。綾人と雫の為にも……二人を離さないと……」
 母は俯き泣いている。
「ありえないわ……。こんな事が……あって良い筈ないわ。兄妹同士なんて……」
 母さん、父さん、そして雫……ごめんなさい。
 頭の中で、その言葉を連呼しながら、ドアに手を付き息を殺して泣いた。


 数日後、親戚の叔父が車で俺の家を訪れた。
 きっと雫を迎えに来たのだろう。
 あの日、両親が家に揃ってから、雫とは会っていない。
 会えば、今以上に雫や父や母に罪悪感を感じてしまいそうだから。
 二階の自室の窓から外を見ると、雫と叔父、父と母が庭にいた。
 叔父が雫を病院から連れて来たのだろう。
 そして、彼女を遠い所へ連れて行く。
 もう二度と会う事は出来ない。
 そんな気がした。
 悲しげな表情を浮かべている雫。
 両親と何かを話している叔父。
 そんな光景を見ていると、この場にいても立ってもいられなくなった。
 部屋を飛び出し、階段を駆け降りた。
 玄関で靴を履き庭へ出ると、四人の視線が俺に集中する。
 俺は雫の側へ駆け寄り、彼女を後ろに叔父の前に立った。
「ちょっと、綾人!」
 怒鳴る母を、父は制止する。
 俺は震える声で叔父に言った。
「俺には……雫が必要だ。だから、あんたに雫は渡さない!」
 彼は俺の前に屈み、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。
 それを俺に手渡す。
 紙切れには、どこかの遠い街の住所が書かれていた。
「そんなに雫に会いたいのなら、もう少し大人になって、誰にも頼らず自分の力で会いに来るんだ」
「……」
 俺は雫の前を退いた。
「忘れないから……雫……」
「うん。お兄ちゃんが来るの……待ってるから……」
 彼女の表情は、どこか儚げで辛そうに見えた。
 だから直視する事が出来ず、俺は目を反らした。

 後部座席の窓から、雫が顔を覗かせる。
 走り出す車に、俺は必死に叫んだ。
「絶対に会いに行くから! 手紙も書く! 絶対だ!」
 車が遠くの方に消えて見えなくなるまで、俺は同じ言葉を叫び続けた。


 雫が引き取られて以来、両親が家に帰る事はなくなった。
 俺は雫に会いに行く事も許されなかった。
 唯一、許されたのは手紙を送り合う事だけだ。
 家には俺だけ。
 悲観しても仕方がない。
 こんな状況を作り出してしまったのは俺なのだから。
 それでもテレビ等の公の場で、両親が並べる嘘八百な家族談義を聞いていると、どうしようもない怒りが込み上げた。

   ♪

 朝早くからの野球部の練習を終え、俺は誰よりも早く教室に来ていた。
 蓮は一度、家に帰ると言っていたから、教室には俺しかいない。
 宮久保のロッカーを見ると、彼女の鞄はなくなっていた。
 昨日、俺が部活へ行った後に取りに来たのだろう。
「あいつ……来るかな……」
 つい、そんな事を呟いてしまっていた。
 まったく、俺は何を考えているんだ。
 別に宮久保が来るか来ないかで、俺が悩む必要なんてないじゃないか。
 自分にそう言い聞かせてみる。
 とりあえず、あいつは気軽に話せる友達を作るべきだ。
 そうすれば、俺が世話を焼く必要もなくなるし。
 そんな事を考えているうちに、クラスメイト達が登校し、教室は徐々に騒がしくなっていった。
 暫くして、宮久保が後ろのドアからこそこそと入って来る。
 覚束ない足取りで俺の後ろを通り、隣の席に座った。
 そして、ぎこちなく俺に言う。
「……お……おはよう」
「あのさぁ……どうして俺に挨拶するんだ?」
「え? あの……えっと……」
「他にいるだろ、挨拶する奴。あの辺に」
 俺は前の方の席で固まって話している、数人の女子グループを指差した。
「あの辺の奴と絡んでこいよ」
「む、無理! 絶対……無理だから!」
 大きく首を横に振る。
「なんで?」
「だって……何を話せばいいか……分からないし……」
「そんなの世間話で良いんだよ」
「で、でも……」
本当に、鈍臭くて面倒な奴だな。
「お前は、只でさえ転校初日に転んでるんだ。こうなったら、自分から話しかけるしかないぞ?」
「……頑張ってみる」
「頑張ってみるんじゃなくて、頑張るんだよ」
 不安げな表情を浮かべながらも、宮久保は頷いた。

 授業や間の休み時間を経ても、宮久保は俺以外の誰かに話し掛ける事は出来なかった。
 そして、とうとう一日の半分を過ぎた時間、昼休みになった。
「結局、ダメかぁ……」
「ごめん……」
 彼女は、俺に対して申し訳なさそうに俯く。
「謝ってもしょうがないだろ……」
 昼休みという事もあって、教室内はかなりざわついている。
 話し掛けるとしたら、時間が長く教室のざわめきに溶け込めそうな、この時間が最適だ。
 おまけに俺を除く大抵の男子は、外でサッカーやキャッチボールをして遊んでいる。
 クラスメイトの人数が少なければ、宮久保の負担も減るだろう。
 それでも彼女は、集団を作って笑い合っている、女子グループの一団を眺めているだけだった。
 どうしたものか……。
 俺が仲介に入っても良いのだが、それではどこか後味が悪い。
 こうなれば強引だが、あの策を使うしかない。
「よし!」
 俺は掛け声を上げて立ち上がった。
「な、何?」
「俺は外の皆とサッカーをしてくる!」
「え?」
「だから、お前の相手をしてる暇はない。とりあえず、あの辺の女子に話し掛けてみろ。 もしダメだったら俺は、暫くお前と距離を置く事にする。男子の中の付き合いもあるしな。 じゃあな!」
 それだけ言って、俺は教室を飛び出し校庭へ向かった。

 我乍ら酷い事を言った気がする。
 しかし、こうでもしないと彼女はクラスに溶け込めない。
 この方法が最も最適なのだ。

 校舎に昼休み終了のチャイムが鳴ると、俺は教室へ戻った。
 今、俺の隣の席に宮久保は座っていない。
 辺りを見回してみると、彼女は数人の女子と笑いながら楽しそうに会話をしている。
 あの女子グループは、クラスではあまり目立つような奴はいなかった様に思える。
 それほど性格の悪い奴はいないから、宮久保なら大丈夫だろう。
彼女が、あんな風に友人に囲まれ笑っていられる事に、なぜか自分自身が安心してしまった。
「よかった……」
「ああ、本当によかった」
 俺の隣で、蓮が宮久保を見て笑う。
「お前は何もしてないだろ」
「何もしてなかった訳じゃねぇよ。少しだけ、お前等のやりとりを見てたんだよ。なんとなく分かったよ。お前が誰かに惚れるなんて、ありえないからな。あいつの手助けをしてただけだったんだな」
「俺は手助けなんてしていない。全部、宮久保が自分でやった事だ」
 そう、勇気を出してクラスメイトと接したのは彼女だ。
 宮久保が転校して来てからの二日間、彼女は俺に頼りっきりだった。
 しかし、宮久保は他に頼る相手を見つける事が出来た。
 きっと、もう俺を頼る事もない。
 そんな予感がしていた。


 俺の予感は的中し、それから数日間、宮久保とは隣の席でありながらも、一言も言葉を交わさなくなった。
 もう、彼女の面倒を俺が見る必要はない。
 そう思ったから。
 授業が終わると、宮久保は友人の所へ行ってしまう。
 そんな宮久保を見ていると、なぜか寂しくなった。

 宮久保と一切話す事なく、一学期の最終日がやって来た。
 帰りのホームルームで担任から通知表を渡され、クラス全体が賑わう。
「明日から夏休みだ!」
「明日から何しようかなぁ」
 そんな声が教室の中で飛び交う中、俺は席に座り、野球部の夏休みの練習予定表に目を通していた。
「休み少ないなぁ……。まぁ、今日は練習なしで帰れるわけだし、我慢しておこう」
 そんな事をぐちぐちと言っている間に、一学期は終了した。
 俺は荷物をまとめ席を立った。
「蓮、帰るぞ」
 どういうわけか、蓮は教科書と筆記用具を持っている。
「何で、そんなの持ってるんだ?」
「補習があるんだよ。悪いけど、今日は一人で帰ってくんねぇか?」
 彼はスポーツ等の体を動かす事には長けているが、どうも頭を使う事に関しては疎い。
「分かったよ。今日は部活がないから良いけど、活動日に居残りになる事だけは、やめてくれよ」
「ああ、マジで気を付けるよ」

一学期の間に溜めこんだ、教科書や部活の用品を自転車の荷台に積み、自転車を出した時だ。
 すぐ向かいの駐輪場に、宮久保がいる事に気付いた。
 そういえば、彼女も自転車登校だったのだ。
 声を掛けておくべきだろうか。
 しかし、宮久保が女子グループの友人と打ち解けてから、全く会話をしていない訳だし、今日になって突然話し掛けるのも不自然かもしれない。
 そんな試行錯誤をしているうちに、俺は衝動に任せ自転車を元の位置に停め、宮久保の元へ歩きだしていた。
 彼女がこちらに気付く。
 やばい、どんな事を話すか何も考えていなかった。
 しかし、もう後戻りは出来ない。
 何か話さないと……。
「なあ、宮久保」
「大丈夫だから!」
 宮久保は俺の言葉を遮って、そう叫んだ。
「え……何が?」
 訳も分からず問う俺に、宮久保も問い返す。
「え? あの……これの事じゃないの?」
 宮久保は自転車の前輪を指差した。
「自転車の……タイヤ?」
 自転車の側に屈んでタイヤを触ってみる。
 触った時の抵抗が全くない。
 これは明らかにパンクだ。
「パンクしてるよ……」
「本当に、大丈夫だから」
 俺はようやく理解した。
 宮久保は自転車がパンクしていた事に関して、俺に世話を焼かせたくなかったのだろう。
「家は、ここから何分?」
 俺の言葉に彼女は焦り出す。
「本当に大丈夫だから……」
 このままじゃ、「大丈夫だから」の一点張りだ。
 仕方がない。
 屈んだまま周りを見渡した。
 どうやら、こんな然う斯うをしているうちに、かなり駐輪場から人が減った様だ。
「なあ、宮久保」
再び彼女の名前を呼んでみた。
「……何?」
「家は、ここからどれくらい?」
「だから……大丈夫だって……」
 俺は屈んだまま、強がる彼女のスカートの裾を握った。
 数秒もしないうちに、宮久保は一気に赤面する。
「か、烏丸君……これは……何?」
「家、ここから何分?」
 俺の問いに、彼女は小さく呟いた。
「……歩いて……四十分くらい……」

 二人分の荷物を前籠へ、収まり切らなかった荷物を背中に背負い、宮久保を荷台に乗せて学校を出た。
 あの後、親を呼ぶ事を提案したのだが、彼女の親は夜遅くまで仕事をしていて、こんな事をしている余裕がないのだそうだ。
 中学校の周辺には、広い田園が広がっていて、そこを抜けるとようやく商店街へ出る。
 宮久保の家は、その先のマンションの密集地を通り越した住宅街にあるそうだ。
 田園を吹き抜ける風は、とても涼しくて気持ちが良かった。
「お前さぁ、俺がいなかったらどうするつもりだったんだ?」
「……歩いて行くしか、なかったかも……」
「ハァ!? こんな道をずっと歩いて行く気だったのか!?」
「……」
「お前、また倒れるぞ」
「……ごめん」
 二人で自転車に乗っている為、宮久保の顔は見えないが、なんとなく彼女の表情が目に浮かんだ。
「大丈夫。別に、気にしてないから。それに……」
「?」
「ある意味、良い経験になった」
「ある意味?」
「ああ。こんな日があっても良いなって……そう思えたんだ。いつもこの田園に囲まれた道を通って、学校へ行って、勉強して、部活をやって……同じこの道を通って帰る。毎日が同じ事の繰り返しだからな」
「烏丸君は……この道は嫌いなの?」
「別に、嫌いじゃないさ。お前は?」
「私も嫌いじゃないよ。いや、好きかもしれない。前に住んでいた所に、似た様な景色があったから」
 どうしてだろう。
 後ろから聞こえて来る彼女の声は、なんだか悲しそうだった。
 前に住んでいた街に、心残りでもあるのだろうか。
 まあ、余計な事は聞かない方が良いな。
 聞いたが為に、彼女を嫌な気分にさせる事があるかもしれないし。

 住宅街に出ると、宮久保は俺の背中を軽く叩いた。
「どうした?」
「停めて」
 彼女の言う通り、その場で自転車を停めた。
「ここまで来れば大丈夫だから。もう降りるね。ありがとう」
 そう言うと、宮久保は鞄を持ち自転車を降りた。
「家はこの辺なのか? 急いでる訳じゃないし、家まで乗せてっても良いんだぞ?」
 彼女は首を横に振る。
「大丈夫。ここまで来れば大丈夫だから」
「……そうか」
「また二学期にね」
「ああ。またな」
 その言葉を最後に、俺は彼女と逆方向の道を走って、家に帰った。


 野球部の練習は朝から始まった。
 日射しの強まる炎天下の下、俺達は練習に励んだ。
 類を速く走る度に、心地の良い風が吹く。
 バッティングをすれば、ユニフォームの露出した肌から汗が飛ぶ。
 達成感のある練習が出来て、俺はとても満足していた。

 休憩時間になると、俺は木陰に置いたバックからスポーツドリンクを取り出し、一気に口に流し込んだ。
 氷で冷えたスポーツドリンクが、乾いた喉によく沁みる。
「くっはあ?」
 つい、そんな声を上げていた。
 隣で蓮が、飲んでいたスポーツドリンクを噴き出す。
「親父かよ!」
「ああ、こうやって俺達は親父になっていくんだろうな」
「急に、どうしたんだよ? 俺達、まだ中学生だぞ」
「あれ見てみろよ」
 俺は木陰の外を指差した。
 その方向には、現投手である鈴木先輩が熱心に投球練習をしている。
「鈴木先輩が進路の事について言ってたんだよ。この街の私立高のスポーツ推薦狙うって」
「あの人なら、出来るんじゃないか?」
「そうかもな。来年は俺もスポーツ推薦で、そこへ行こうと思ってる」
 蓮が苦笑いを浮かべる。
「マジかよ……。俺はどうしようかなぁ。あの学校、学力高いし」
「頑張って、お前も来いよ」
「え?」
「俺、ずっとお前と野球をする気でいるから」
 蓮は頬を真赤に染め、俺から目を反らした。
「な、何だよ……急に」
「なんかさ、鈴木先輩を見てたら、そんな事を考えてたんだ。来年の俺達は、どうしてるんだろうなって」
「たぶん、受験に燃えてる」
「だろうな」
 木陰の外から「集合」と掛け声が掛かる。
 蓮は立ち上がり、俺に手を差し出した。
「とりあえず、今は野球で燃えておこうぜ」
「そうだな」
 短く答え、彼の手を取った。


 部活を終えて、帰宅した頃には夕方になっていた。
 ポストには手紙が数枚。
 雫からの手紙は、今日は来ていない様だ。

 インスタントラーメンのお湯を沸かし、冷蔵庫の中の飲み物を確認する。
 コーラやサイダー、殆どの飲み物がきれている。
 時計を見てみると、まだ七時前だ。
「買いに行くか」
 お湯を沸かしている火を切り、財布を片手に家を出た。
 
道の端に位置している街灯と、空に光る数個の星だけが、夜道を照らしていた。
そんな道を数分歩いた所に、スーパーマーケットがある。
近隣の住民は、大抵がここを利用している。
入り口に置いてある買い物かごを手に取り、まっすぐジュースの売り場へ向かった。
並んでいる炭酸飲料を数本ほど、かごに入れる。
これだけあれば、三週間は持つな。

 レジで会計を済ませ外へ出ると、意外な人物に出くわした。
 片手に重そうな買い物袋を抱えた宮久保だ。
「宮久保」
「え? 烏丸君」

 星と街灯だけが照らす夜道を、二人だけで歩く。
「こんな時間に買い物か?」
「うん。仕事から母さんが帰って来る前に、夕飯の買い物をしておこうかと思って。烏丸君は?」
「冷蔵庫の中身がなかったからな」
 数本のペットボトルの入った、買い物袋を彼女に見せる。
「炭酸ばっかり……」
「ああ、好きだからな」
 彼女の顔が少しだけ引き攣る。
「もしかして冷蔵庫の中身って……炭酸のジュースしか入ってないの?」
「まあ、そうだな」
「食事は、どうしてるの?」
「インスタントラーメンで充分だろ」
「えっ!」
『信じられない!』とでも言いたげな顔をされた。
「体とか大丈夫?」
「今のところは。まあ、運動だけは欠かしてないから」
 宮久保は俯き、その場で歩を止めてしまう。
「どうした?」
「そんな生活してたら……そのうち死んじゃうよ……」
「大丈夫。運動だけは欠かしてないから」
「駄目だよ!」
 宮久保は俺の手を握り怒鳴った。
「インスタントラーメンばっかり食べて、炭酸ばっかり飲んでたら、そのうち死んじゃうよ! ちゃんとした物を食べないと駄目だよ?」
 こんなに感情的になった宮久保を、俺は初めて見た。
 今まで大人しい奴だと思っていたが、怒鳴る事もあるんだな。
「もしかして、俺の事を心配してくれてるのか?」
 冗談混じりの言葉に、宮久保は一気に赤面し、そっぽを向いた。
「そ、そんな……当たり前だよ!」
「え?」
「烏丸君がいなかったら……私……。何も出来ずに、ずっと一人でいたと思う。だから……」
「だから……何?」
「今度、烏丸君の家に、お料理しに行っても良いかな?」
「どうして?」
「お礼がしたいから。それに、烏丸君には、美味しい物を食べて欲しいから」
 そう言って、宮久保は俺に笑い掛けた。

 時間の空いている日と家の住所を教え、彼女と別れた。
 こうして、夏休みの初日の夜は更けていったのだ。


 一週間程が過ぎた日の昼頃に、宮久保は俺の家を訪ねて来た。
 彼女の手には、大きめの買い物袋が一つ。
 中には食材が幾つか入っていた。
「いらっしゃい。散らかってるけど……」
「大丈夫。常識の範囲内なら気にしないから」
 そうは言った物の、俺の常識が彼女の常識の範囲内に収まるかどうか……。
 特に、リビングのテーブルの上に置いてある、インスタントラーメンの山を見たら、どう思うだろう。
 自虐的な考えを展開させながら、宮久保をキッチン隣のリビングへ案内した。
「やっぱり」
 部屋に入るなり、宮久保は呟いた。
「何が? もしかして……テーブルの上の、あれか?」
「うん。まあ、なんとなく見当は付いてたんだけどね」
 彼女は呆れた様に振る舞う事もなく、持っていたスパーの袋を床に置いた。
 そして、背中に垂らしてある長髪を後ろで結び、腕捲りをする。
「じゃあ、始めようか!」
「おう、料理か」
「違うよ」
「え?」
「お料理の前に、やっておく事があるでしょ?」
 料理の前にやっておく事……。
 家事経験のない俺には、全く見当が付かない。
「何だよ?」
「掃除。こんな部屋じゃ、どんなに美味しいご飯を食べても、気分は晴れないから。それに、なんか埃っぽいし」
 料理をしに来てくれたというのに、なんだか宮久保に対して、とても申し訳ない。
「……悪いな」
 彼女はにっこりと笑う。
「大丈夫。でも、烏丸君も手伝ってくれるよね?」
「ああ、勿論」

 二人で床に散らばった雑誌や菓子袋のゴミを分別し、物置きの奥底に仕舞ってある掃除機を引っぱり出した。
 床一面に掃除機を掛けたかと思うと、次は宮久保に雑巾掛けをさせられた。
 腕や足に負担の掛かる事は、男の仕事なのだそうだ。
 最後に、テーブルの上に積まれたインスタントラーメンは、どうにか段ボールに詰め込み、物置きに仕舞った。

 掃除を終えた頃には、既に午後の二時を過ぎていた。
「じゃあ、お料理しようか」
 ゴミ一つない部屋で、爽やかな笑顔を俺に向ける。
「……ああ、そうだな」
 少々、疲れ気味に返答した。

「烏丸君はご飯ができるまで待ってて。疲れたでしょ?」
「ああ、そうだな……。たしかに、疲れたかも」
 部屋の隅に置かれているソファーに、仰向けで転がった。
 キッチンの方からは、袋から食材を出す音や水を流す音が聞こえて来る。
 あのキッチンで、誰かが料理を作るのなんて何年振りだろう。
 この家に雫がいた頃は、仕事で帰って来れないおふくろの代わりに、よく彼女が料理を作ってくれてたっけ。
 でも、どんな味をしていたんだろう。
 それすらも、思い出す事が出来なかった。

 重い目蓋を開け、半身を起した。
 どうやら、ソファーに横になっているうちに、寝てしまっていた様だ。
 キッチンからは、何やら水を切る音や、どことなく香ばしい香りがしてくる。
「できたよ」
 キッチンから彼女の声が聞こえた。
 ソファーから重くなった体を起こし、テーブルの椅子に座った。
 テーブルの上には、二人分の冷やし中華と、焼きおにぎりが二つ乗った皿が置かれている。
「これ、一人で作ったのか?」
「うん。おいしいと……良いんだけど」
 よそよそしい落ち着かない素振りを見せながら、宮久保も向かいの椅子に座った。
「食べて良いか?」
「うん、どうぞ」
「いただきます」
 彼女の視線が、俺に集中する。
 そこまで深刻な表情をされると、何から食べたら良いのか迷ってしまう。
 とりあえず箸を取り、冷やし中華に手を付けた。
 麺の上には細く切り分けられた、トマト、キュウリ、ハム、焼き卵が、乗せられている。
 具と麺をバランス良く箸に取り、口へ運んだ。
 甘酢の味が、口の中へ広がる。
「……旨い」
「本当!?」
 強張っていた彼女の顔が、明るく晴れる。
「ああ、旨いよ」
 毎日、口にしている油濃いインスタントラーメンの、揚げられた麺や乾燥された野菜とは違い、どこか新鮮な味がした。
「焼きおにぎりも食べてみて!」
「おう」
 焼きおにぎりを取り、上の方を一口かじってみる。
 ご飯によく醤油が滲みこんでいて、とても旨い。
 学校の給食以外で米を食べたのなんて、何年振りだろうか。
 感動しながら、おにぎりを頬張る俺を、宮久保は嬉しそうに眺めている。
「お前は、食わないのか?」
「え? ああ、そうだね。いただきます」
 そう言うと、彼女も食事を始めた。

「普段から、こんな風に家事をしてるのか?」
「うん。お母さんは、仕事で忙しいから」
 母の話をする宮久保は、どこか悲しげだった。
 もしかしたら、あまり他人には話したくない事があるのかもしれない。
 これからは気を付けた方が良いな。
 下手に詮索をして、宮久保を不快な想いにはさせたくないし。

「ご飯は栄養を考えてね。あと、雑誌はちゃんと読む物と読まない物に分けてね」
 帰り際、家の前で宮久保は俺に念を押した。
「分かってる。これからは気を付けるから、大丈夫だ」
「ちゃんと続くのかなぁ……」
「大丈夫だって。俺を信じろ」
 宮久保は頬を赤らめて言う。
「だって……散らばってた雑誌の中に、女の人の裸が写ってる物があったし……。普通、女の子が家に来るのなら、前以て片付けておくでしょ?」
「え? み、見たのか! あれを……」
 少しは片付けておけば良かった。
 
妙な空気が出来上り、数秒の沈黙が続く。
「やっぱり、男の子は……ああいうのが好きなの?」
 沈黙を破ったのは、そんな宮久保の言葉だった。
「し、知らねぇよ!」
 とてつもなく恥ずかしくなって、顔を真赤にして俺は怒鳴った。
「まあ、男の子だからしょうがないかもしれないけど……」
「お、おう。まあな」
「次からは気を付けなよ?」
「分かってるって」
「じゃあね」
「ああ、じゃあな」
 宮久保は夕日の照り付ける道を、自転車で走って行った。

  ♪

 夏休みが終わっても、暑い日射しが止む事はなかった。
 いったい、この暑さはいつまで続くのだろう。
 野球部の夏の総体は県大会まで進んだ訳だし、きっと練習量が増える筈だ。
 そう思うと、とても憂鬱になってくる。
「なあなあ、綾人。夏休みの間に宮久保と何があったんだよ?」
 野球部の朝練を終えた後、まだ人気の少ない渡り廊下で、蓮は陽気な態度で話し掛けて来た。
「何もねぇよ」
「嘘だぁ。夏休み前までは、気まずそうにしてたくせに」
「まあ……夏休みの間に、宮久保が俺の家に来て、何回か飯を作ってくれた事はあった……けどな……」
 冷やし中華を食べた日以来、宮久保はよく俺の家に来ては、飯を作ってくれる様になった。
 そんな彼女との出来事が、自身の中ではどことなく楽しみとなっている。
「この幸せ者めぇ!」
 蓮が俺の背中に飛び乗る。
「ちょっ、お前……重いって! それに汗臭い!」
「それはお互い様だろ!?」
 確かに、俺の体も汗でいっぱいだ。
 それにしても最近、俺に対する蓮のスキンシップが、日を増す毎に激しくなっている様な気がする。
 気のせいなら良いのだけれど。

 教室に入ると、やはり蓮と俺以外には誰もいない。
 まだ登校には随分と早い時間だから、当然か。
「あ」
 蓮が何か思い立った様な声を上げる。
「どうした?」
「これ」
 彼が見ていたのは、後ろ黒板に貼り付けられている文化祭のポスターだ。
「もう、こんな時期が来たんだな」
 文化祭が始まる次期。
 それは、部活内で三年生が引退する時期でもある。
 この時期が来る頃には、一軍入り確定の俺達は、より練習に励んでいるのだろう。
 三年生がいなくなる。
 部活内で優位な立場に立てる事を嬉しく思いつつも、そんな自分達をどことなく不安に感じていた。

 そんな時期が近付いているからだろうか。
 俺のクラスでは、朝のホームルームで文化祭の話し合いが行われた。
 委員長が黒板に、クラスで可能な出し物を書き込む。
「これが、うちのクラスで出来る出し物なんだけど、皆はこの中で何が良い?」
 黒板には右から、演劇、合唱、ダンスと書かれている。
 こうして見ると、小学校の御遊戯会と何ら変わりない。
 まあ、中学二年生の文化祭なんて、こんな物だろう。
「合唱で良くね?」
「たしかに、演劇は台本とか面倒だし」
「ダンスとか普通に無理」
 個人が何かをしなくても、物事は勝手に進んで行く。
 それが学級活動だ。
 クラス委員長が、度々出される意見を聞き、結論に持ち込む。
「じゃあ、順番に聞いて行くね。まず、クラス合唱が良い人、手を上げて」
 ほぼ全員が手を上げた。
 俺も周りに会わせて、手を上げる。
「決まりだね。問題は指揮者と伴奏なんだけど……」
 すると、クラス全体がいっそうざわめき始める。
「おい、お前がやれよ」
「指揮者って歌わなくて良いのかな?」
「皆の前は、ちょっと恥ずかしいな」
 全体の反応を見て、委員長は僅かに笑みを浮かべる。
「仕方ないなぁ。じゃあ、私がやってあげても良いけど、皆はどうしたい?」
 ただ、自分がやりたかっただけだろう。
 と、内心で思いつつも、俺自身は指揮者なんて誰でも良かったのだ。

 結局、指揮者は委員長と言う事で話はまとまったが、問題は伴奏者だった。
どうやら、このクラスにはピアノの経験がある奴がいない様だ。
いや、いたとしても、おそらく手を上げないだけなのだろう。
「明日のホームルームで、伴奏者を決めるから。あと、合唱で歌いたい曲も考えておいてね」
 その言葉を最後に、朝のホームルームは終了した。

 一限目の授業は音楽だった。
 皆がせっせと教科書や筆記用具を揃えて音楽室へ移動する中、なぜか宮久保だけは落ち着きがない様に見えた。
 何と言うのだろう。
 何か考え事をしていて、他の事に手が回らない、といった感じだろうか。
 椅子から立ち上がり、歩き出したかと思うと太股を机の角にぶつけてしまい、とても痛そうに涙を浮かべている。
 それを見た彼女の友人が駆け寄って、心配そうに声を掛ける。
 なんだか、遠目に見ていて面白い。

 音楽室でも、宮久保の態度は変わらなかった。
 話し掛けてみても、上の空でまるで人の話を聞こうとしない。
 いったい何を考えているのだろうか。

 放課後、宮久保は俺を音楽室へ呼んだ。
 俺には部活があるだろうから、そんなに時間は取らせないと言っていたが、どんな用があるのだろう。
「どうしたんだよ? こんな所に呼び出して」
 やはり、宮久保の様子は未だに落ち着きがない。
「あの……えっと……聴いて欲しいんだけど……」
「何を?」
「私の……」
 声があまりにも小さいので、何を聴いて欲しいのか分からない。
「え? 何?」
「だから……聴いて欲しいの。私の……ピアノ」
「ピアノ?」
 宮久保は頷くと、隅に置いてあるグランドピアノの椅子に座った。
 蓋を開けると、白い鍵盤が露わになる。
「おいで」
 そう言われ、俺もピアノの側に寄る。
 彼女は一回だけ息を吐き、鍵盤に指を躍らせた。
 綺麗な音色が音楽室に響く。
 それは聴いた事もない曲。
 しかし、どうしてか聴いているだけで安心する。
 楽譜もなく、まるで歌う様に、宮久保は音を奏でていた。
 演奏が終わると、彼女はゆっくりと鍵盤蓋を閉じた。
 宮久保は、ポカンと口を開けている俺に笑い掛ける。
「こんな演奏が出来るのに、どうして伴奏者に名乗り出なかったんだ?」
「不安だったから。私のピアノが、他人からはどう聴こえているのかなって」
 そんな彼女の内気な性格が、折角の才能を隠していたのだろう。
 しかも、それが影響してあのドジっぷり。
 とりあえず、自信を付けさせる事が重要だな。
「凄く上手だ。お前なら、出来るんじゃないか?」
「出来るのかな? 私に……」
「ああ、とりあえず、委員長に話を付けよう。すぐに呼んで来るから」

 委員長を音楽室に呼び出し、ピアノを聴いて貰った。
 暫くして、なぜか蓮も音楽室に入って来る。
 普段は見せる事のない、ピアノを弾く彼女の表情。
 俺達は、それに魅入られていた。

「凄いよ! 宮久保ちゃん!」
 伴奏が終わると、委員長は宮久保の元へ駆け寄り、彼女の手を握った。
「え? あぅ……」
 委員長の態度に動揺しつつも、宮久保は嬉しそうに笑っている。
「宮久保ちゃんのピアノがあれば、充分な合唱が出来るよ」
 隣で、蓮が突然騒ぎ出す。
「よっしゃ! なんか皆で頑張ろうぜ!」
 蓮が俺の肩に手を廻して言う。
「俺達も協力するから!」
「え!?」
「本当!? 良かった。これで文化祭の実行委員が揃った」
「実行委員? 誰だよ?」
 委員長は俺を指差し、宮久保、蓮と順に指差した。
「おい、委員長。俺は……」
 クラス活動をしている余裕があるのなら、部活へ行きたい。
 そう言おうとすると、委員長は俺の言葉を遮った。
「名前!」
「え?」
「委員長っていうの、堅苦しい。私は橘美咲。美咲で良いよ!」
「おお! いきなり名前呼びか! いいね、いいね!」
 蓮はどこか嬉しそうだ。
「俺は藤堂蓮。蓮で良いぜ」
「はい! 次は宮久保ちゃん!」
 宮久保は戸惑った様な表情を浮かべ、俺を見る。
 どうして、ここで俺を見るんだ……。
 とりあえず、宮久保に向かって頷いてやった。
 すると、彼女も俺に対して頷く。
「……み、宮久保沙耶子。さ、沙耶子で良いから」
「うん! 沙耶子ちゃん!」
 橘は俺に笑顔を向ける。
「え?」
「自己紹介!」
「ああ、烏丸綾人だ。綾人……って呼びたいなら、そう呼べ」
「うん……綾人君」
 真っ先にそう言ったのは、宮久保だった。
 蓮と橘は、にやけながら俺達のやり取りを見物している。
「え? 宮久保……」
 彼女は首を横に振る。
「沙耶子だよ」
 少しだけ息を吐き、俺は彼女の名前を呼んだ。
「ああ、沙耶子」

 彼女達と別れた後、夕日の差す帰り道を、蓮と自転車で走っていた。
「おい、どうして文化祭の実行委員の話なんかに賛成したんだ? しかも、俺まで巻き込んで」
「まあ、しょうがないじゃん。沙耶子ちゃんが伴奏で、美咲ちゃんが指揮者なんだから」
「別に、沙耶子が実行委員になるからって、俺達も協力する必要なんて、なかったんじゃないか?」
 蓮の声が突然、低くなる。
「仕方ないだろ……」
 雰囲気が、どこか重苦しい。
「知ってるか? 美咲ちゃんの事」
「あいつが何だよ?」
「お前は知らないだろうけど、俺達の学校には、女子間の虐めが裏ではかなり頻繁に起こってる。ターゲットを無視し続けるとか、そんなレベルじゃない。しかも、その虐めてる方のグループには、美咲ちゃんもいる」
「……」
「沙耶子ちゃんを、そういうのに巻き込みたくはないだろ? だから、念の為、俺達が沙耶子ちゃんに付いていた方が良いと思ってさ」
 どうして、蓮があんな行動を取ったのか。
 ようやく分かった。
 沙耶子を守る為だ。
 そんな事にも気付けなかった自分が、とても情けなく思えてくる。
「蓮、ありがとうな」
「どうって事ねぇよ。ジュース一本の貸しだからな!」
 その言葉で、重苦しかった雰囲気が、一気に解れた様な気がした。

  ♪

 文化祭の準備期間は二日間だ。
 その後に、一日の公開日がある。
 クラス合唱で歌う曲は全員の了承を得て、想い出がいっぱい、という曲に決まった。
 一九七〇年から八〇年代に掛けて流行した、H2Oという歌手グループの曲らしい。
 俺は、こういった話題には疎い。
 野球選手の背番号や名前やチームなら、いくらでも言えるのだが。
 今日は準備期間の二日目という事もあって、クラスは全体的に活気付いていた。
 合唱練習も、皆はそれなりに熱心で、沙耶子も難なく伴奏をこなしている。
 この分なら、無事に文化祭を終える事が出来そうだ。
 
合唱練習が終わった後、蓮、沙耶子、美咲で他のクラスを見回る事になった。
三年の教室がある階は、喫茶店の様な飲食店が主な様だ。
文化祭の当日は、この辺で飯を食べる事にしよう。
「美咲!」
 後ろから、誰かが美咲を呼び止める。
 振り向くと、そこには三年生の先輩がいた。
 とても上品な雰囲気のある、爽やかそうな出で立ちだ。
 美咲は満面の笑顔を浮かべて、両腕でギュッと彼の右腕を掴んだ。
「美咲、その人は?」
 蓮が彼女に訊ねた。
「私の彼氏!」
「こら、そんなに大きな声で言う事じゃないだろ。皆が見ている」
 美咲に腕を抱かれている先輩が、恥ずかしそうに注意する。
「あ、ごめんね。幸太」
 ポカンと口を開けている俺達に、彼は言う。
「僕は三年の光圀幸太。ちょっと、美咲を借りて行って良いかな? せっかく会えたから、一緒にいたいんだ」
「俺達は構いませんよ」
「そうか、よかった。じゃあ、美咲。行こうか」
「うん!」
 美咲はベタベタと光圀先輩の腕に抱き付きながら、どこかへ行ってしまった。
「さぁーて、俺も退散するとしますかぁ!」
 蓮はそう言うと、俺の静止も無視してサッサとどこかへ行ってしまう。
 三年生で賑わっている廊下に、俺と沙耶子だけが取り残された。
 ふと、制服の裾を後ろから引っ張られる感触がした。
 振り返ると、沙耶子は頬を赤くして、俺の制服の裾を掴んでいる。
「どうした?」
「あ、あの……えっと……明日のクラス合唱が終わったら……」
「何だよ?」
「文化祭、一緒に周ってくれないかな……なんて……」
 それは裏返り気味な声での、彼女なりの精一杯な頼みだった。
「良いぜ。俺、一緒に周ってくれる奴なんていないから、助かるよ」
 俺の言葉に、沙耶子はホッとした様に胸を撫で下ろした。


 翌日、クラス合唱の練習は、朝一の体育館で行われた。
 音楽室とは違って体育館は広い為、全員の声が良く通る。
 練習の後、沙耶子の元へ行くと、彼女は酷く緊張していた。
 練習では、難なく伴奏をこなす事が出来ていた様だが、いざ本番を前にすると不安でしょうがないのだろう。
 こんな時、どう声を掛けたら良いのか、よく分からない。
 彼女の右肩に、後ろから軽く手を置いた。
 こちらを振り向く時、それを見計らって指を立てた。
 柔らかな彼女の頬が指先を覆う。
そのまま笑い掛けると、沙耶子も笑い返してくれた。
彼女の緊張が解れれば良い。
そう思っての、俺らしくもないおふざけだった。

 本番になると、体育館内部の明かりは消され、窓やカーテンも締め切られる。
 誰もの視線が集まる舞台だけに、明かりが付いていた。
 合唱をするのは、俺達のクラスだけではない。
 勿論、他のクラスでも合唱はするのだ。
 二、三程のクラスの合唱が終わり、ついに俺達のクラスの出番がやって来た。
 皆が指揮者である美咲を先頭に、舞台へ上がる。
 部隊の上に全員が並ぶ。
 沙耶子はピアノへ、美咲は全員の視線が集まる前へ。
『合唱。想い出がいっぱいです』
 放送が掛かり、沙耶子はそれを合図にピアノを弾き始めた。
 伴奏が始まり、全員の歌声が体育館に響く。
 女子と男子の高低のパート。
 それらが綺麗に混ざり合う。
 俺、蓮、沙耶子、美咲、皆、どこか嬉しそうだった。

 合唱が終わった後、俺達は教室へ戻った。
「ありがとう」
 俺達に、最初にその言葉を言ったのは美咲だった。
「ああ。でも、本当に頑張ったのは美咲と沙耶子だ。俺がやったのは、合唱の順番決めや練習の時間決めくらいだから」
 蓮は頬をぽりぽりと掻く。
「まあ、俺は何もしてないんだけどねぇ」
「そんな事ないよ。皆、頑張ったんだよ」
 沙耶子は、そう言って笑っている。
 知り合いもいない学校に転校して来て、今ではこんなにクラスに打ち解けて、皆の前でピアノまで弾いた。
 そんな沙耶子が、俺は本当に凄いと思えてならなかったのだ。

 蓮は野球部のメンバーと、学校を抜けて飯を食いに行くそうだ。
 美咲は光圀先輩と文化祭デート。
 俺は昨日の約束通り、沙耶子と文化祭を周った。

 夕日の差す帰り道。
途中にある土手道に自転車を停めて、俺と沙耶子は芝生に座った。
「今日はありがとう」
沙耶子は俺にそう言った。
「どうって事ない。それに、それは俺の言いたかった事だ。今日はありがとうな」
 沙耶子は照れ臭そうに、目を反らして笑う。
「……うん」
「気付いた事があるんだ」
「何?」
「お前、転校して来た時と比べて、笑う様になった」
「……そうかも。最近、毎日が楽しいから」
 俺も同じだ。
 毎日が楽しくてしょうがない。
 前までの俺には、野球しかなかった。
 友達なんて、バッテリーを組んでいる蓮だけで良いと思っていた。
 しかし、それは間違っていたのだ。
 沙耶子、美咲、蓮。
 三人とも、大切な友達だ。
 今がずっと続けば良い。
 二人で夕焼け空を見ながら、俺はそんな事を考えた。
 沙耶子は、この真っ赤な空を見て、いったい何を思っているのだろう。



  ♪



 いつからだろう。
 俺達が笑わなくなったのは……。



 昇降口には、何枚もの枯葉が散っていた。
 もう、秋が来た。
 そんな季節を予感させている。
 野球部の三年生は受験勉強の為に引退し、俺や蓮や他の二年生が部活のトップに着いた。
 引退していった三年生など、俺にとってはどうでも良かった。
 皆は記念に野球ボールを先輩に渡したりしていたけれど、俺はそんな事はしなかった。
 どうせ、会う機会もかなり減るだろうし。

 二年用の靴箱に、沙耶子が茫然と立っていた。
「沙耶子、どうした?」
 沙耶子はビクッと肩をならし、こちらを振り向く。
「な、なんでもないよ」
 明らかに、何でもない様には見えない。
「ほら、行こうよ。早くしないとホームルーム始まっちゃうよ」
 何かを隠している。
 彼女の態度を見るだけで、それは明白だった。

 休み時間になると、沙耶子は周りの目を気にする様に俺の元へ来た。
「綾人君。見て欲しい物があるんだけど」
 差し出されたのは、四角い封筒に入った便箋だった。
「読んで良いか?」
「うん」
 読んでみると、その手紙の内容からして、ラブレターだという事が分かる。
 沙耶子は、俺の目から見て、性格は良いし容姿も可愛らしい。
 好意を持つ奴がいてもおかしくはない。
 相手は誰なのだろう。
 そう思い、便箋の一番下の行に目を落とした。
 光圀幸太。
 便箋の一番下には、その名前が書かれていた。
 
沙耶子と話し合った結果、蓮と美咲にこの件は話さない事にした。
 もし、美咲の耳に入ったら、俺達の関係が危うくなってしまうかもしれないから。

 手紙には、昼休みに校舎の裏で会いたいと書かれている。
 昼休みなると沙耶子は、一人で光圀先輩の元へ向かった。
 光圀先輩が、沙耶子に何か変な事をするとは思えない。
 しかし、とてつもなく嫌な予感がする。
 いったい、光圀先輩は何を考えているのだろう。
 美咲という彼女がいるのに、どうして沙耶子を……。

 昼休みの終わるチャイムが鳴る頃、沙耶子は教室に戻って来た。
「どうだった?」
 心配そうに問う俺に、沙耶子は微笑む。
「特に何もなかったよ。私なんかじゃ、光圀先輩みたいな人には吊り合わない。やっぱり、美咲みたいな素敵な人と一緒にいるべきです。そう言って来たの」
 なんとなく安心した。
 沙耶子が俺から離れてしまう。
 そんな気がしていたから。
「そういえば、光圀先輩には美咲がいるのに……どうして沙耶子を?」
「分からない。でも、美咲を大事にしてって言って来たから、大丈夫だよ。きっと」
「……そう、だよな……大丈夫だよな」
 きっと、大丈夫。
 思い続け強がる事しか出来なかった。

 放課後、俺は部活をサボり、沙耶子と二人で帰り道を共にした。
 いつもの土手道に自転車を停め、二人で芝生に座った。
「ねえ、どうして今日は部活をサボったの?」
 ただ、沙耶子と一緒にいたかったから。
 そんな事を、面と向かって言える筈もなかった。
「さぁな。なんとなく、今日は部活へ行くのが面倒だったんだよ」
 彼女の手が、俺の手の甲に添えられる。
「?」
「正直に話して」
 俺を見る瞳は真っ直ぐで、全てを見透かされている様な気がした。
「……怖かったんだ。このまま、お前が俺の前からいなくなりそうで……」
 俺の声は震えていた。
 なぜ?
 何も分からない。
 ただ言える事は、沙耶子が隣にいるだけで安心する。
「大丈夫だよ。私はどこにも行かないから」
 その言葉だけで、世界が晴れて見えた。
 その言葉を聞けただけで、心が満たされたのだ。


 翌日、学校へ行くと美咲が泣いていた。
 周では彼女の友人達が、優しい言葉を掛けている。
 美咲は、手で顔を覆い、鼻を啜り、まるで周りの言葉を聞いていない様に見える。
 近くに蓮がいたので、事情を聞いてみた。
「美咲、光圀先輩に振られたらしいぜ。受験に集中させて欲しい。美咲といると、疲れるって。そう言われたらしい。まあ、中学生の恋愛なんて、そう長続きする物じゃない。美咲にそう言ったら、物凄い顔で睨まれたよ。今は、そっとしておいた方がいいぜ」
「……そうだな」
 先日の、沙耶子に宛てられたラブレター。
 なんとなく、それに関係していると思った。

 一時限が終わった頃に気付いた。
 沙耶子が学校に来ていない。
 風邪でもひいたのだろうか。
 それなら良いのだけれど。

 三限目の眠くなる様な授業を終えた頃、沙耶子が教室に入って来た。
 沙耶子は、どこか疲れ切った様な表情で机に鞄を置いたと思うと、教室から出て行ってしまった。
 それを追い掛けて、俺も教室から出る。
「沙耶子!」
 呼んでも、沙耶子は振り向かない。
 駆け寄って、彼女の背中を軽く叩いた。
「綾人君……」
 ようやく振り向いてくれた。
 近くで見ると、彼女の目元には隈ができ、とても血色が悪そうだ。
「今日はどうしたんだ? 遅刻して来たと思ったら、いきなり教室を出てくし」
「何でもないよ。ちょっと、授業を受ける気分になれないから、保健室に行ってくるだけ。本当に、何でもないよ」
 か細い声でそう言い、俺の前から立ち去ろうとした。
 俺は立ち去ろうとする、彼女の左手首を咄嗟に掴んだ。
「痛っ……」
 それと同時に、沙耶子は悲痛な声を上げる。
「?」
 何かがおかしい。
 彼女の制服の左袖をまくった。
「……」
 俺は言葉を失った。
 なぜなら、そこには幾つもの傷があるのだ。
 生々しく赤い色をした傷、直り掛けの傷、そんな傷が幾つもある。
 沙耶子は瞳に涙を浮かべ、俺の手を強く払い退け、呼び止める間もなく走って行ってしまった。
「何だったんだよ……あの傷……」
 俺達の関係は、次第に狂いだす。
 いや、もしかしたら、もう既に狂いだしていたのかもしれない。


 二週間程の間、俺は沙耶子に話し掛ける事が出来なかった。
 左手首の傷を見られた時の、彼女の表情。
 あんなつらそうな沙耶子を、俺は初めて見た。
 だから、近付きにくかったのだ。
 美咲はというと、以前よりは活気を取り戻した様だが、やはり元気がない。
 どこで、間違ってしまったのだろう。
 俺達の日常は、どこで狂いだしてしまったのだろうか。

 クラス内で、こんな噂を聞いた。
 沙耶子には自殺願望がある。
 こんな噂、信じたくはなかった。
 それでも、信じずにはいられない様な、とても現実的な訳があるのだ。
 現在、沙耶子と共に暮らしているのは、本当の親ではない。
 沙耶子の両親は既に死んでいて、現在は親戚の叔母と二人暮らしなのだそうだ。
 叔母からは毎日の様に暴力を浴びせられ、その度に自分だけが生き残ってしまったという自責の念に駈られ、左の手首を何回も切っているのだという。
 こんな話は信じたくない。
 それでも、あまりにも事情が現実的過ぎて、信じずにはいられないのだ。

 やがて、沙耶子はクラス内で一人でいる事が多くなった。
 皆、沙耶子が物騒だと言って近付かないのだ。
 俺は何度も彼女に話し掛けようとした。
 しかし、周りの目がどこか怖くて出来なかった。
 自分まで、同じ様な人間だと思われそうで。


 俺達は、そんな険悪な状態で中学三年生へと進学した。
 蓮とは同じクラスになれたのだが、美咲と沙耶子とはバラバラになってしまった。
 蓮は俺に問う。
「あいつらの事、心配なのか?」
「……」
 何も、答える事が出来なかった。
 こんな自分が情けなくてしょうがない。
 沙耶子、蓮、美咲に対して、本当に申し訳がなかった。

  ♪

 中学三年生の夏前。
 皆が夏服である半袖に衣替えをする時期。
 沙耶子だけは、長袖のブラウスを着ていた。
 おそらく、左手首の傷を隠しているのだろう。
 徐々に傷付いていく彼女を見ている事しか出来ない。
 そんな自分に失望していた矢先、蓮は周りの目を気にする様に、俺を屋上へ連れ出した。
 夏の生温い風が吹く屋上で、蓮は俺に告げる。
「お前は野球部のピッチャーだ。だから、あまり下手に行動して問題は起して欲しくない。俺自身、正直に言うと怖いんだ。でも、俺自身が落ち着いていられない。だから、言うよ」
 やたらと長い前置きにイライラしつつ、俺は怒り交じりに訊く。
「何だ? お前は俺に何が言いたいんだ?」
 蓮の顔が徐々に強張っていく。
「野球部のマネージャーの奈菜ちゃんから聞いた話しなんだけど……沙耶子ちゃん、虐めに遭ってるらしいんだ」
「!?」
「しかも、虐めてるのは美咲がいる女子グループらしい」
 その言葉を聞いた瞬間、俺の中である衝動が芽生える。
 俺は蓮の胸倉を掴み、声を荒げた。
「誰だ!? 美咲以外にも虐めてる奴がいるんだろ!? 誰だ!? そいつらは、どこにいる!?」

 蓮から訊いた話によると、三年生用の女子トイレで、しょっちゅうそんな事が起きているらしい。
 周りの目なんて気にしていられない。
 沙耶子を守ってみせる。
 ただ、それだけの衝動が自分自身を動かしていた。
 俺は女子トイレのドアを容赦なく蹴り開けた。
 トイレの中では、数人の女子が床に倒れている何かを囲んでいる。
 そこら中には、ブラウス、スカート、上履きやハイソックスや下着が散乱していた。
 俺は数人の女子を強引にどかし、床に倒れている何かに近付いた。
 近付いて、すぐに分かった。
 沙耶子だ。
 乱れた長い髪、剥き出しになった色白で細身な胸や腰。
 彼女は全裸だった。
「どうして……こんな……」
 屈んで彼女の体を優しく抱き、俺を上から見下ろしている数人の女子に怒鳴った。
「どうして……どうして、こんな事をした!? こいつが何をしたってんだよ!?」
 よく見ると、数人の女子の中に美咲がいる。
 彼女の俺を見る目は、どこか悲しげだった。
「おい!」
 女子の集団へ怒鳴る俺に、沙耶子のか細い声が掛かる。
「綾人君……ここ、女子トイレ……だよ? 駄目だよ……こんな所に入って来ちゃ……」
 どうして、こんな時にそんな事を言っていられるんだ。

 その後、ふらふらな沙耶子に服を着せ、茫然と立ち尽くす女子の集団を横切り、彼女を保健室へ連れて行った。
 前にも、沙耶子を担いで保健室に行った事があったなぁ。
 あの頃は楽しかった。
 いつから、俺達の日常は変わってしまったのだろう。

 保健室のベットに沙耶子を寝かせた。
 幸い、先生はいない様で、面倒な事にはならなかった。
 しかし、この事は学校側に報告するべきだ。
 俺が彼女達に怒鳴り付けても、おそらく虐めは終わらないのだから。
 立ち去ろうとする俺を、弱々しくて細い声が呼び止める。
「待って……」
 振り向くと、沙耶子は立ち去ろうとする俺に手を伸ばしていた。
 その手を、俺は両手で握る。
「ねぇ……どうして、美咲ちゃんは……私を虐めるのかなぁ……。私が、光圀先輩に告白されたから? それとも、私が気味悪いからかなぁ……。もう、文化祭の頃には戻れないのかなぁ……」
 沙耶子は今にも泣き出しそうな目で、俺を見ている。
「大丈夫。きっと、戻れる。お前に辛い想いはさせないから。だから、今はゆっくりと……おやすみ」
 彼女の手を優しく置き、俺は保健室を後にした。

 職員室へ行き、沙耶子のクラス担任へ、彼女に関する虐めの事を話した。
 すると、担任はまるで興味がなさそうに「ああ、そうか。それじゃあ、きつく言っておくよ。他に用は?」
「いえ……特には……」
「そうか。じゃあ、早く出て行ってくれ。忙しいから」
 渋々と職員室を出ると、数人の教員の声が職員室から聞こえた。
「それにしても、クラス内での問題も面倒なものですね。まったく、虐めだなんて。うちの学校にある訳ないのに」
「最近の子供は、ドラマやアニメの影響が強いですからね。まあ、しょうがないのではないでしょうか。それに、虐めが本当にあったとして、うちのクラスの宮久保さん。友人関係や社交性を見ても、あれほど虐められっ子として当てはまる生徒はいないと思うんです。だから、ある意味で良い経験なんじゃないですかねぇ。虐めというのは」
「そうですね。どうせ、卒業してしまえば、虐め自体が続く事は、そうありませんからね。まあ、時間が解決してくれるでしょう」
 俺は悟った。
 大人は役に立たない。
 俺には親がいるが、いつ帰って来るかも分からない。
 友人に言うにしても、蓮に迷惑は掛けたくない。
 こうなったら、俺自身が動くしかない。

 美咲のいるクラスは、男子よりも活発な女子の方が多いようだ。
 美咲の元へ行き、先程の沙耶子に関する話を持ち掛けた。
 周りには、トイレにいた連中が白い目で俺を見ている。
 全員が女ながら、どこか怖い。
「美咲、さっきはトイレで何をしていたんだ?」
「……」
「沙耶子が、お前に何かしたのか?」
「……」
 美咲は黙ったまま俯いている。
「なあ、美咲。答えてくれよ」
 俺を囲む女子の中の一人が言った。
「宮久保が美咲の彼氏を奪ったからだよ」
 おそらく、光圀先輩が沙耶子に告白した事か。
 噂は筒抜けだった様だ。
 しかし、沙耶子は受け入れてはいない筈だ。
「そうでしょ? 美咲」
「う……うん」
 美咲は怯える様に頷いた。
「全部、宮久保が悪いんだよ!」
「あの女、マジきもい。美咲の彼氏を寝取ったりしてさぁ」
「え? 寝取ったの!? やべぇ、超ビッチじゃん。きーもーいー」
「そうでしょ? 美咲」
 再び問われた質問に、美咲は頷いた。
 その瞬間、俺を囲む女子がケラケラと黄色い声を上げる。
「ほら、宮久保が全部悪いんだよ」
「あんた宮久保の彼氏? じゃあ、私達に怒鳴る前に宮久保を怒鳴ったら良いじゃん」
 なんとなく分かった。
 こいつらは、宮久保を虐める為の口実が欲しかったのだ。
 ただたんに、宮久保を虐めたかっただけ。
 それだけの為に、美咲を利用して……。
「ほら、さっさと帰れよ」
 すぐ後ろの女子が、そう言った。
「帰れよ!」
 一人が俺の肩を強く押す。
 野球部のピッチャーである俺にとって、肩は命の次に大切な体の一部。
 さすがの俺も、堪忍袋の緒が切れた様だ。
 低い声で言う。
「てめぇ、怪我したらどうすんだよ……」
「え?」
 力任せに、先程から俺を罵倒する女子の一人の顔面に拳を打ち込む。
 飛び散る僅かな唾液と血。
 それを見た周りの女子は一歩後ずさる。
 しかし、美咲だけは真っ直ぐに俺を見ていた。
 その光景を見ていた周りの男子が俺を取り押さえる。
 腕や足を掴む男子達を、俺は一気に振り払い、次に二人の女子の胸倉を掴み、壁に叩き付けた。
 もう、自分という人間が分からない。
 皆、死ねば良い。
 沙耶子や俺を苦しめる奴は、死ねば良いんだ。

 気付いた頃、周りには俺に殴られて伸びている数人の女子と男子。
 それと、ただ俺を茫然と立ちながら見つめる美咲の姿だけがあった。
 倒れている女子の一人の上に座り、顔面を殴り続ける。
「沙耶子を虐める為だけに、美咲を利用したんだろ!? そうなんだろ!?」
 力任せに殴り怒鳴る俺に、下で伸びている女子は掠れた声で泣き啜りながら言う。
「ごめんなさい……全部、私達が悪いんです。宮久保を虐める為に、美咲を利用して……。光圀先輩は何も関係ありません。私達が悪いんです」
 彼女の胸倉を掴み訊く。
「どうして、沙耶子を虐めた!?」
「だって……ムカついたから……。あんなに可愛くて……。でも、左手首には傷があって……。それを見ていたら、あんなに虐めがいのある子はいないと思って……」
 もう、まともに会話すら出来ない様だ。
 現に、俺が殴り続けている彼女の顔面は、血や痣で埋め尽くされている。
 彼女の眼球が虚ろに上を向く。
 俺は、殴り続けた女子を床に捨て、次は手身近で倒れている女子にまた同じ事をした。
 それを繰り返しているうちに、数人の教員が来る。
「烏丸! 何やってるんだ!?」
 一人が怒鳴り、俺を羽交い絞めにする。
「おい、放せよ! このセンコーがよぉ!」
「落ち着け! 烏丸!」
 他の教員が、そこら中に伸びている女子や男子に駆け寄った。
「おい、大丈夫か!?」
 教員に起こされた女子や男子は、虚ろな目で教員にせがむ。
「先生……違うんです。全部、私達が悪いんです。烏丸君は……悪くないんです……」
「烏丸君は、悪くありません。僕達が悪いんです……。何もかも」
 俺は一気に脱力した。
 先程までの活気が嘘の様だ。
 俺の起こした暴力の後に残った物、それは自身の中にだけある達成感だった。

 その後、二週間の自宅謹慎を余儀なくされた。
 あれだけ暴れれば当然だろう。
 しかし悔いはない。
きっと沙耶子に手を出す奴はもういないから。

 
日中の家の中は、叫びたくなるほど静かで、寂しかった。
 音のない家の中に俺は一人。
 静か過ぎて、気が狂ってしまいそうだった。

 昼間の街を、ただテキトウに歩く。
 街を巡回する警察やパトカーの影に怯え、結局は家に戻る。
 そんな事を繰り返して、謹慎期間を過ごした。

 謹慎の最終日の夜、俺の家に沙耶子が来た。
「学校で渡されたお手紙とか持って来たんだけど……」
「おう、入れよ」
 沙耶子を家に上げた。
 彼女が俺の家に入るのは、もう数カ月振りになる。
 あの頃を思い出すと、なんだか寂しくなった。

「これ、学校で貰ったお手紙。あと、蓮君が今日までの分のノートのコピーを作ってくれたの」
 数枚の手紙と、蓮がコピーしてくれたノート。
 まさか、あの勉強の苦手な蓮が、こんな事をするなんて。
「ありがとう。学校は、どうだ? 何かされたりしてないか?」
「私は大丈夫。でも、蓮君と美咲ちゃんが……」
「あいつらが、どうかしたのか?」

 俺が謹慎で野球部から抜けた為、夏大は初戦からボロ負けだったらしい。
 皆のモチベーションが下がっていた事もあるが、蓮は俺の不在が一番の敗因だと言ったそうだ。
 彼女の話によると、先日から蓮が美咲を拒絶する様になった。
 俺が暴力を起こした原因が美咲を含む、あの集団の女子グループだと判断した蓮は、彼女を憎む様になったのだそうだ。
 更に、夏大の初戦敗退。
 蓮にとって、それは本当に残念な事だったのだろう。

「美咲は、ただ利用されてただけだ」
「うん。でも、蓮君は本当に美咲を恨んでる。何とかしなくちゃ……」
 他人を気遣っている余裕なんてないだろうに、沙耶子は必死だった。
 俺は彼女の手を握る。
「俺達で、あの頃を取り戻そう。四人で笑い合っていた、あの頃を」
「うん」
 沙耶子、蓮と美咲、四人で過ごした、あの日々を守りたい。
 ただ、それだけを願っていた。

 翌日、俺は蓮に美咲の事を話した。
 すると蓮は、いつもとは違った冷めた表情で「……そうか」とだけ言い、俺の前から去ってしまう。
 久しぶりに会った蓮は、どこか抜け殻の様な目をしていた。

 夏が終わり、受験の時期が迫っていた。
 俺達の様な三年生は部活を引退し、受験勉強に励んでいた。
 放課後に、沙耶子と図書室で勉強するのが最近の日課だ。
 俺と蓮は、前から目標としている高校へ行く事に決めている。
 蓮はスポーツ推薦で行くそうだ。
 俺も推薦を狙っていたが、謹慎を受けた身だ。
 そんな我儘は言っていられない。
 美咲はと言うと、俺と蓮が行くのと同じ学校へ学力推薦で入るそうだ。
 同じ学校を目指す事を期に、仲直りしてくれれば良いのだが、そうもいかない様だ。
「沙耶子は、どうするんだ?」
「私は、隣町の高校に行こうと思ってる。知り合いの少ない新しい所から、また始めたいの」
 たしか、その学校って光圀先輩が行った学校だった様な……。
「その学校って、光圀先輩が行った所じゃないか?」
「うん。でも、たぶん会う事はそんなにないと思う」
 そういえば、どうして光圀先輩は、沙耶子に告白なんてしたのだろう。
 それに、美咲を振った理由も、結局は分からず終いだ。


 三月を過ぎると、重くなっていたクラスの雰囲気が活気付いてきた。
 蓮や美咲は、愛でたく推薦に合格した様で、だいぶ気が軽くなったようだ。
 早速、蓮は高校野球に向けて体力の向上に励んでいる。
 美咲はというと、逆にする事がなくて困っているという。
 俺や沙耶子も一般入試を終え、後に訪れた合否の結果は合格だった。

  ♪

 沙耶子の様子がおかしい。
 それに気付いたのは、受験が終わって間もない日の事だった。
 俺と話している時も、どこか上の空で、ずっと左の手首を押さえている。
 そういえば、左手首の傷はまだ癒えていないのだろうか。
 沙耶子の家庭事情や色々な事を察するに、あまり深入りは出来なかった。
 しかし、今ならその事に関しても支えになってあげる事が出来る。
 そう思えた。

 土曜日に沙耶子と街へ出掛けた。
 少しでも、沙耶子に笑っていて欲しかったから。
 一緒に映画を見て、食事をして、何件か店を周って買い物をして、本当に楽しかった。
「沙耶子。これ取っとけよ」
 俺は沙耶子に、先程の店で買ったリストバンドを渡した。
「これ……」
 もう一つ、同じ物を俺は自分の腕に着けている。
「ほら、おそろい」
 沙耶子は嬉しそうに笑う。
「今時、お揃いなんて……」
「あ、笑うなよ」
「でも、ありがとう」
 沙耶子は左手首に、俺と同じリストバンドを着けた。
 傷を隠せれば、辛い気も紛れるだろう。
 そう思っての、彼女への初めてのプレゼントだった。

 休み明け。
 昼休みの屋上で、俺は沙耶子と二人で話をした。
「なあ、そろそろ話してくれないか? その……傷の事……」
 沙耶子は俺に背を向ける。
 その瞬間、強い温風が吹き抜けた。
「知りたい?」
「ああ。それで、俺がお前の力になれるかもしれないから」
「……今回ばかりは、どうにもならないと思うの」
「どうして?」
「だって……」
 彼女は俺の方へ向き直る。
「全部、私が悪いんだから」

 沙耶子の左手首にある傷の原因。
 やはり前に聞いた噂通りだった。
 今の母親への、自分だけが生き残ってしまった罪悪感。
 それが沙耶子の腕に自ら傷を作らせていたのだ。

「最近……母さんからの暴力が毎日の様に続いている。でも、それはしょうがない事だと思ってる。だって全部、私が悪いんだから」
「そんな事……」
 俺が喋り出した瞬間、沙耶子は大声で叫ぶ。
「全部、私が悪いの!」
 彼女はブレザーを脱ぎ、ブラウスの前ボタンを外した。
 白くて細い体。
 そこには幾つもの痣や傷痕が浮かび上がっていた。
「これ……」
「母さんに付けられた傷」
 体に浮かび上がる線状になっている痣を、沙耶子は鎖骨から胸の下に掛けてなぞる。
「これは、縄で縛られた痕」
「……」
「これは瓶で殴られた痕」
「……」
「これは母さんが連れて来た男の人に、襲われた痕」
 震える声で俺は言う。
「やめろ」
 俺の言葉を無視して、彼女は続ける。
「痛くて、辛くて、苦しくて」
「やめろ!」
「それでも、しょうがない事なの」
 苦悩の言葉を連呼する沙耶子の体を、俺は優しく抱いた。
「無理する事はないんだ! 俺の家で、一緒に暮さないか? そうすれば、辛い思いをする事もない」
「……」
 沙耶子は無言で俺を引き離す。
「?」
「ありがとう」
 沙耶子は笑っていた。
 しかし、とても苦しそうに見えた。

 互いの関係がギクシャクしたまま、俺達は中学を卒業した。
 これから入学する高校に想いを馳せる時期に、俺達は悲しくて辛い経験をした。
 蓮、沙耶子、美咲。
 俺達が再び、笑い合える日は来るのだろうか。

  ♪

 高校へ入学しても、中学の頃とは何も変わりはなかった。
 ただ、沙耶子がいないだけ。
 それでも、彼女はたまに俺に会いに家に来てくれる。
 最近、野球とそれだけが楽しみだ。

 二人で食卓を囲み、互いの学校の話をした。
「そっちの学校は、どうなんだ? 楽しいか?」
「うん。新しい友達もできたし」
 沙耶子の新しい友達。
 変な奴じゃなければ良いんだが。
「変な奴とは関わるなよ?」
「大丈夫。平野隼人君っていうんだけど、とっても優しい人なの」
「え? 男?」
「うん」
「へぇ……」
 よりによって男か……。
 まあ、沙耶子は可愛いし、男の友人がいれば何かと安心だろう。
 沙耶子と仲の良い、自分以外の誰か。
 それを考えると、なんだか寂しくなった。

 帰り際、沙耶子は俺に言った。
「綾人君、もう、私は大丈夫だよ。心配しないで」
「え?」
 彼女の言葉に、一体どんな意味が込められていたのか、よく分からなかった。
 しかし、次の瞬間の言葉で、その意味がようやく理解出来た。
「この前、お母さんが自殺したの」
 沙耶子は、とても虚ろな目をしていた。
 唐突な話に、俺は戸惑いを隠せない。
「今日は、これだけを伝えたかった。でも、随分と長居しちゃったね」
「なあ、沙耶子……」
 数秒の沈黙が続き、沙耶子は俺に笑い掛ける。
「じゃあね、綾人君」

 どうして、笑っていたのだろう。
 母親の死の報告をする直前までの沙耶子は、どうしてあんなに楽しそうに、自分の学校での境遇を語っていたのだろう。
 沙耶子が分からない。
 しかし、母親の死が切っ掛けで、家庭内暴力は消えた筈だ。
 もしかしたら、沙耶子はそれが嬉しくてたまらなかったのかもしれない。
 そんな考えが、俺の背筋を凍らせた。

 
高校野球の練習は、中学野球と然程変わりはなかった。
 キャッチボールで肩を慣らし、本格的な練習に入る。
 基本的な練習は中学と一緒だ。
 中学時代の先輩でありピッチャーでもあった鈴木先輩は、やはりここでも一軍ピッチャー候補の座を勝ち取っていた。
 来年には、一軍入りは確定らしい。
 中学時代と同様、俺のキャッチボールの相手はやはり蓮だ。
 彼の野球に対する執着心や実力は、以前よりも更に上がっていた。
 そして、性格も少しだけ固くなった様な気がする。
 俺の暴力沙汰、沙耶子や美咲の一件を、未だに忘れられないでいるのだろう。



 転機というのは、何の前触れもなく訪れる。
 そういう物だ。
 沙耶子は、俺に一冊の日記帳を手渡した。
「これは?」
「日記帳」
 その日記帳は、とても可愛らしい装飾が施されていて、いかにも女の子が使う様な物だ。
 所々に見られる傷や汚れを見るに、かなり昔の物というのが分かる。
「お前、日記なんて書いてたんだ。読んで良いのか?」
「まだ、駄目だよ」
「じゃあ、いつなら良いんだよ?」
 沙耶子は悲しげな顔をする。
「私に……何かあった時」
沙耶子とこんな会話をしたのは、夏休みが過ぎた、ある土曜日の事だった。
その時、俺は知らなかったのだ。
後に、沙耶子が俺の前からいなくなってしまう事を……。


 数日後、沙耶子は学校の屋上から飛び降りた。
 幸い、命だけは助かる事が出来た。
 しかし、医者の話では奇跡でも起きない限り、もう目覚める事はないのだそうだ。
 涙が溢れて来る。
 涙で、世界が歪んで見える。
 いや、涙で歪んでいるんじゃない。
 世界その物が歪んでいるのだ。

 病室の中には、俺と沙耶子が二人だけ。
 どうして、こんな事になった。
 どうして、沙耶子はこんな事をしたんだ。
 母親が死んで、沙耶子を苦しめる者は誰もいない筈なのに。
「……日記……」
 そうだ、沙耶子の日記を見れば、何かが分かるかもしれない。
 あの日以来、俺は日記を手放した事はなかった。
 バックから日記を取り出し、最初のページを捲った。

 書かれていたのは、沙耶子の過去。
 中学時代、沙耶子がこの街に転校して来る前の出来事も書かれている。
 両親の死。
 両親の代わりに、沙耶子の保護者役を務めた祖母の失踪。
 そして、この街に引っ越して来てからの出来事。
 俺、蓮、美咲との楽しかった日々。
 その裏にあった、義理の母親からの家庭内暴力。
 学校での虐め。
 高校に入学してからは、殆どが平野隼人という少年に関する事が書かれている。
 よっぽど、この少年が好きだったのだろう。

 もしかしたら、平野隼人はこの病室に来るのではないだろうか。
 沙耶子の想い人。
 沙耶子の希望。
 なら、俺が気付きあげた沙耶子との日々。
 それを彼に託そう。

 予想通り、平野隼人はこの病室に来た。
 どこか守ってやりたくなる様な、幼さの残る少年だった。
 どうやら、彼はこの一件について何も知らなかった様だ。
 だから、俺はこの日記帳を渡した。
「沙耶子に頼まれたんだ。君に、これを渡して欲しいと」
 そんな嘘をついた。
 彼を、沙耶子から離さない為に。

 日記を読んだ後、彼は涙を浮かべていた。
 沙耶子の為に本当に悲しんでいる。
 そう思えた。
 だから俺は、彼に沙耶子とお揃いのリストバンドを託した。
 俺は、彼に沙耶子を託したのだ。

  ♪

 学校で、退学届を提出した。
 沙耶子の入院費の為に、幾つかバイトをしなくてはならないからだ。
 沙耶子には身内がいない。
 だから、俺がやるしかないのだ。
 平野も、学校を辞めてバイトをしたいと言っていたが、俺が止めた。
 こんな苦労をするのは、俺だけで充分だから。

 学校側は、俺を止めなかった。
 しかし、部活側はそうもいかないようだ。
 特に蓮は……。
「どういう事だよ!?」
 蓮は俺に詰め寄る。
「沙耶子の為だ。仕方ないんだ」
「お前、どうかしてるぜ!」
「……すまない」
「どうして謝ったりするんだよ!? お前らしくねぇよ!」
 蓮は今にも泣き出しそうだ。
 当然か。
 中学から、今までずっと一緒に野球をしてきたんだから。
 泣き出しそうな蓮の横に、先輩が一人分け入って来た。
 鈴木先輩だ。
「烏丸綾人……。俺はお前が学校と部活を辞める事を、止めはしない。でも、勝ち逃げは許さない」
「勝ち逃げ?」
 訊き返す俺に、鈴木先輩は苦笑する。
「覚えていないのも仕方がないか。一昨年の夏。俺が中学三年生の時の夏だ。バッティング練習で、お前は俺のボールを打った」
「あ!」
 確かに、かつてそんな事があった。
 投球を討たれた時の鈴木先輩の表情はよく覚えている。
 楽しそうに笑っていたのだ。
「勝負だ。烏丸」

 投球三本勝負。
 俺はホームベースでバットを構えた。
 周りでは、野球部の全員が俺と鈴木先輩の勝負を見物している。
 キャッチャーには、蓮が着いてくれた。
 鈴木先輩は大きく振りかぶる。
 速球が蓮のキャッチャーミットに入る。
 速い。
 中学時代と比べると、格段に速さが増している。
 二球目。
 俺はバットを振った。
 しかし、その速球は、また真っ直ぐにキャッチャーミットへ入る。
 三球目。
 ボールの見送りは終わりだ。
 この一級に賭ける。
 速球が飛んで来る。
 俺が力強くバットを振ると共に、鋭い金属音がグラウンドに響いた。
 鈴木先輩は、やはり負けたというのに笑っている。
「あいがとう。もう、悔いはない」
「そうですか。俺は、今日までずっと野球をしてきました。でも、もう終わりです。楽しかったです」
 鈴木先輩に一礼した。
 立ち去り際に、ふてくされた様な蓮の肩に軽く手を置き「じゃあな」とだけ言って、その場を去ろうとした。

「綾人!」

 後ろから、蓮が俺を呼ぶ。
 振り返ると、蓮は俺にボールを投げる。
「ぅお!」
 素手で硬式ボールを取った為、手がじんじんと痛んだ。
 蓮は頬に涙を伝わせ、叫んだ。
「いつか、また野球するぞ! 絶対に忘れんなよ!」
 あいつ、昔から子供っぽい所はあったけど、泣き出した所なんて初めて見たなぁ。
「ああ! その時はよろしくな!」
 泣きながら叫ぶ蓮に、不器用ながらも俺は思いっ切り笑ってやった。



 スーパーの裏方、コンビニの店員、出版社の原稿回収、引っ越し業者のバイト。
 特に、深夜のコンビニは大変だ。
 時々、立ちの悪い不良共が店内を荒らしに来るのだ。
 そういう奴等と暴力沙汰を起こして、もう何件かはバイトをクビになっている。
 それでも、俺はまた新しいバイトを探す。
 そんな事の繰り返しだ。

 引っ越し業者のバイト先での事だ。
 その日は、午前中だというのにとても日射しが強く、肉体労働をするにはかなり厳しかった。
 業者の大型トラックには、棚やソファー、ピアノと幾つもの楽器類がある。
 いったい、引っ越しする人はどんな人なのだろう。
 引っ越し先の家に着くと、一人の老婆がいた。
 見た感じ、七十過ぎだろうか。
「ああ、業者の方ですか。お願いしますねぇ」
 老婆の家は、わりと大きく広かった。
 業者の先輩と、幾つかの家具や楽器、ピアノを家の中に運び、作業が終わった頃には午後になっていた。
「皆さん、疲れたでしょう。どうぞ、上がって下さいな」
 俺や業者の先輩は、老婆の家に上げて貰った。
 そこで茶菓子が出された。
 クッキーと紅茶だ。
「ありがとうございます」
 俺達は、そう言ってクッキーに手を出した。
 苦い。
 食べて後、すぐにそう思った。
 こんな苦いクッキーは初めて食べた。
 口直しに、紅茶を一杯だけ飲んだ。
「うぅ……」
 これも苦い。
 お年寄りは、こういうのが好みなのだろうか。

 手続きや書類上の処理をし、俺達はトラックに戻った。
 トラックを運転するのは先輩の役目だ。
 車の中にいる間、俺は書類に目を通す。
 書類を見ていると、知っている名前がある事に気付いた。
 宮久保。
 さっきの老婆の名字、宮久保っていうんだ。
 沙耶子と同じ名字。
 沙耶子の名前が浮かんだだけで、なぜか胸が痛んだ。

 とある休日。
 この日はバイトがなかった。
 先日の宮久保という名字の老婆の家。
 俺はそこに来ていた。
 インターホンを押し、家に上げて貰う。
 老婆は茶菓子をテーブルの上に置く。
 やはり、先日食べたクッキーと紅茶だ。
 俺は、それに手を付ける事なく話を切り出した。
「あの、一つ訊きたい事があるんですけど……。もし、間違っていたらごめんなさい。すぐに帰りますんで」
「先日の業者の方でしょ? どうしたんですか?」
「あなたの親類に、宮久保沙耶子という女の子はいませんか?」
 老婆は表情を変えず、動揺する事もなく答える。
「ええ。いますよ。沙耶子は、私の孫娘です」
「えぇ!?」
 動揺してしまったのは俺の方だった。
 確か、沙耶子の日記には祖母の事も書かれていた。
 失踪したと。
「じ、じゃあ、沙耶子の居場所も知っているんですか? 沙耶子の境遇も?」
「ええ、知っていますよ。ここからすぐ近くの病院で眠っているんでしょう」
「どうして、そんなに落ち着いていられるんですか?」
 沙耶子の保護者は家庭内暴力を振るい続けた、あの義理の母親だけだった。
 それなのに、どうしてこの人は、今まで沙耶子に会う事すらしなかったんだ。
「今まで、何をしていたんですか? 沙耶子をほったらかしにして」
 老婆は少しだけ考えて、口を開いた。
「信じていますから。沙耶子ちゃんの事を。
私達、宮久保の家は、かつてはとても大きな
富豪だったんですよ。でも、私の息子。沙耶子の父の企業の失敗により、会社は倒産。沙耶子の父と母は、共に自殺してしまいました。この街には、宮久保の遠い親類がいたんです。だから、沙耶子に人並みの生活をさせてあげるには、その人に預けるしかなかったんです。私がいると、向こうの家にも迷惑が掛かってしまいますからね。だから、失踪したという理由で、かつてお世話になっていた大阪の音楽教壇に居座っていました」
「それで先日、ここに引っ越して来たんですか……」
「ええ、そうです」
この人も、今まで苦労していたんだな。
「沙耶子、とても頑張っていました。中学の頃の文化祭では、ピアノ伴奏までして」
「へぇ。あの子がピアノの伴奏を。それじゃあ、私があの子にピアノを教えたのも、無駄にはならなかった様ですね」
 なるほど。
 沙耶子のピアノの才能は、この人からというわけか。
 部屋を見回すと、中心にはピアノ、壁には幾つもの楽器が据え付けられている。
「そういえば、ここで何か音楽関係の仕事でもするんですか?」
「ええ、そのつもりです。ピアノ教室でも始めようかと」
「そうですか」
 俺は立ち上がる。
「そろそろ、帰ります。今日はありがとうございました」
「いえいえ。ああ、そうだ。よかったら、これを食べて行って下さい」
 クッキーと紅茶を差し出された。
 俺は苦笑しながら、渋々とそれを食べた。

  ♪

 気が付けば、フリーター生活にもだいぶ慣れていた。
 バイトの幅を増やす為に、車の免許まで取った。
 仕事以外で、あまり乗る事はないのだが。
 そういえば、隼人は大学に進学し、現在は大学一年生だ。
 俺も、高校に生き続けていれば、大学へ進学できたのかもしれない。
 いつもの様にバイトを終え、沙耶子のいる病室へ行った。
 やはり見る光景はいつもと同じ。
 ベットの上で穏やかそうに眠る沙耶子の姿。
 それだけだ。
「……沙耶子……」
 そう呟いた時だ。
 彼女の目が、ゆっくりと開いた。
 俺は驚きの余り、看護婦の呼び出しブザーを押す事も忘れていた。
「沙耶子……良かった。本当に良かった!」
 喜んでいる俺を余所に、沙耶子は虚ろな目で俺に問う。
「あなた……誰?」

 何もかもが、うまくいくとは限らない。
 沙耶子は、今までの記憶を失っていた。
 隼人は、そんな沙耶子を見て悲観していた。
 俺が、しっかりしなくては。
 そう思った。
 俺が折れたら、沙耶子は誰にも救われない。

 
 数年間、使われる事のなかった沙耶子の体は、リハビリなしに動ける様な状態ではなかった。
 彼女のリハビリを終えた後、沙耶子は隼人の家で、彼の妹として暮らす事になった。
 俺も、隼人も、それを望んでいたから。

 二週間程して、沙耶子は再び高校へ通う事を決意した。
 勿論、学校は沙耶子が以前通っていた所だ。
 沙耶子にとって、知り合いも誰もいない学校。
 良い友達が出来ると良いのだが……。


 沙耶子には今までの記憶がない。
 俺や隼人にとって、それは悲しい事だ。
 しかし、沙耶子にとっては今の生活が幸せな筈。
 なら、今のままで良いのではないだろうか。
 そんな考えが浮かんでいた。

 隼人の話によると、沙耶子にとって目標ができたそうだ。
 宮村想太という彼女の先輩で、放課後に二人でピアノとヴァイオリンを演奏しているという。
 良かった。
 沙耶子にとって、頼りになる人が出来たのなら安心だ。



 地元のファーストフード店で、偶然にも蓮に会った。
 二人で椅子に座り、ポテトを摘まむ。
「久しぶりだな、綾人。今は、何をやってるんだ?」
「バイトだ。でも、沙耶子の目が覚めたから、少しだけバイトの量を減らしたんだけどな」
「そうか。本当に良かった。沙耶子ちゃんの目が覚めて。じゃあ、晴れて感動の再会ってわけか」
 蓮はニヤニヤしながら俺を見る。
「ああ。そうだな……」
 言い出せなかった。
 今、俺や沙耶子が置かれている境遇。
 そして、隼人の存在を。
 本当の事を何も話せない。
 そんな自分が、情けなくて憎らしくて仕方がなかった。



 それぞれが穏やかに日常を過ごしている。
 そんな矢先、悲劇は起こった。
 沙耶子が学校からの帰り道に不審者に襲われ、病院に運ばれたという知らせが入った。
 俺は急いで車を走らせ、病院へ向かった。
 幸い、命に別状はなかった様で、外傷は擦り傷程度だった。
 しかし、沙耶子と一緒にいた彼女の先輩、宮村想太は肩に重傷を負ったらしい。



 暫くして、沙耶子が目を覚ました。
 しかも、彼女の口振りから察するに、記憶は完全に戻っていたのだ。
 医者の話では、何か大きなショックを受けると、忘れていた記憶が戻る事があるという。
 病室のベットで沙耶子は半身を起こし、俺にしがみ付いた。
「……怖かったよ」
 沙耶子の声は震えていた。
 余程、怖かったのだろう。
 俺の体にしがみ付く彼女の頭を、優しく撫でてやった。


 沙耶子は昨日あった事について、何かを語る事はなかった。
 昨日の夜、二人を襲った不審者の事も分からないうちは、沙耶子を一人で外に出す訳にはいかない。
時計を見ると、バイトの時間が迫っていた。
 隼人の携帯に、沙耶子の事を伝え、俺は病院を後にした。



 バイトを終え、沙耶子の事を確認する為に隼人に電話を掛けた。
 数回のコールが鳴る。
 しかし、隼人が電話に出る事はなかった。
 いつもなら、すぐに電話に出てくれるというのに、一体どうしたのだろう。
 根拠のない、それでいてとてつもなく嫌な予感がした。

 病院へ行くと、沙耶子は眠っていた。
 看護婦の話によると、突然気が狂ってしまい、鎮静剤を打って大人しくさせたそうだ。
 更に、病院のどこを探しても隼人が見つからない。
 携帯に電話を掛けても、繋がる事はかった。
「どこに行ったんだよ……隼人……」



 隼人が死んだ。
 その唐突な知らせが俺の耳に届いたのは、一週間後の事だった。


  ♪


 精神的な治療やカウンセリングを終え、沙耶子は退院した。
 それは二月の中旬の事だった。
 病院の入り口に車を停車し、俺は沙耶子を迎えた。
「退院、おめでとう」
「うん、ありがとう」
 沙耶子は、あの日以来、笑う事はなくなった。
 そんな沙耶子の目は、どこか虚ろだった。
 隼人の住んでいた家に沙耶子を送り、俺は自分の家に帰宅した。
 悲しくてたまらなかった。
 たった数年間で、俺達は大切な物をなくしたから。


 数日後、沙耶子に電話を掛けた。
「ピアノ教室?」
「ああ、行ってみないか? ここから近いし」
 先日、沙耶子は学校を辞めた。
 このままではいけないと思った俺は、沙耶子の祖母が経営するピアノ教室へ、彼女を連れて行く事を考えたのだ。
 勿論、沙耶子はそこに自分の祖母がいる事なんて知る由もないが。

 その家の表札は、『ピアノ教室』という看板で隠されていた。
 俺達がここに来る事は予測済みだったのだろうか。
『どうぞ。上がって下さい』
 スピーカーから聞こえる声に言われた通り、俺達は家に上がった。
 部屋の中は、前に来た時と何も変わっていなかった。
「そこに座っていてください」
 奥の部屋から、老婆の声が聞こえた。
 言われた通り、俺達は窓際の椅子に座る。
「ちょっと、待っていて下さいね。今、飲み物とお菓子を持って来ますから」
 なんとなく、分かっている。
 あの人の出す物といえば、あれしかない。
「おまたせ」
 トレイには、やはりあの苦い紅茶とクッキーが乗っている。
 俺は軽く溜息を吐き、沙耶子の事を話した。
 老婆は察してくれたのか、自分が沙耶子の祖母であると感付かれる様な言動は見せなかった。
 そんな二人の会話を、俺は黙って聞いていた。
「今、ここで教わっている生徒は、まだ四、五人しかいないんです。あなたの様な経験者がいてくれると、私にとっての音楽の幅も広がって、とても助かるんですよ。どうでしょう? 暫くはお試しという事で」
「良いんですか?」
「ええ、勿論」
「ありがとうございます!」
 沙耶子は、とても嬉しそうだ。
 こんな彼女を見たのは久しぶりだ。
「それでは、明日からここに来てください。他の生徒さんとも、顔を会わせたいので」
「はい!」
 いつか、沙耶子は気付く日が来るのだろう。
 この老婆が、自分の祖母だという事に。
 友人や恋人とは違う、自分にとって最も近い存在。
 家族。
 きっと、沙耶子はその温もりを知る筈だ。



  ♪



 数日分の洋服や必需品の入った旅行鞄と、大金の入った分厚い財布。
 戸締りを確認し、自宅を後にした。
 降り注ぐ日射しは、夏の訪れを予感させている。

 今日、俺は雫に会いに行く。
 ようやく決心が着いたのだ。
 いや、もしかしたら、ここ数年で失くした物が多過ぎて、寂しくなっただけ。
 だから、そんな寂しさを紛らわす為だけに会いに行くのかもしれない。
 本当のところは、自分にはよく分からない。

 新幹線に乗り三時間程。
 その後に数本の電車を乗り継ぎして、目的地に着いた。
 駅から出ると、すぐ側に海が見えた。
 とてもよく潮が香ってくる。
 さすが田舎だ。
「たしか、駅に迎えが来てる筈……」
 辺りを見回すと、一台の車が海沿いの道路に停まっている。
 赤くてコンパクトな外車。
 たしか、あれは親父が使っていた愛車だ。
 駆け寄ってみると、やはり側には親父がいる。
「親父」
 俺が呼ぶと、彼はこちらを振り向く。
「おう、ようやく来たか」
「どうして、ここにいるんだよ? 野球はどうした?」
「休養だよ。まあ、お前を屋敷に送ったら戻るけどな。とりあえず、乗れよ」
 俺は親父の隣の助手席に座った。
 外車ならではの激しいエンジン音が掛かり、海沿いの道路を走る。
「なあ、親父。どうして、ここにいるんだ? 家に案内する為だけに、ここに休養を貰って来たんじゃないんだろ?」
「まあな。久しぶりに、お前に会いたかったんだ。雫にも最後に会っておきたかったからな」
 雫。
 きっと、もう長くはないのだろう。
「あいつ、元気にしてたか?」
「ああ、元気だったよ。後先が短い事を知っていても、あいつは頑張っていた。綾人、お前に会う為にだ。他にも理由はあるがな」
 他の理由。
 そんな事は気にならなかった。
 ただ、俺の事を考えてくれていた。
 それだけで充分に嬉しかったのだ。


 来るまで着いた場所。
 そこは大きな敷地を占める館だった。
 海沿いにある為、とても日当たりが良い。
 親父は門の前で車を停めた。
 車から出ると、気持ちの良い潮風が頬を撫でた。
「ここが、雫が療養中の……」
「ああ、そうだ。ここは少し街から外れているが、少し歩けばコンビニやスーパーもある。買い物をする時は、そこへ行け。まあ、家政婦がいるから必要はないと思うが」
「分かったよ」
「じゃあ、俺は東京の方へ戻るから。後は頼むな」
 そう言うと、親父は車で海沿いを走って行った。
「ここに……雫が……」
 門を開け庭に入った。
 女優の母親とプロ野球選手の父親。
 その実力は、こんな屋敷一つを簡単に手に入れてしまう物なのだ。
 石で固められた道は、真っ直ぐに玄関に続いていた。
 玄関で、インターホンを押す。
 少しの間が空き、立て開きの大きなドアが開いた。
 そこにいたのは、年的に四十程の女性がいる。
 おそらく、家政婦だろう。
「烏丸綾人さんですね?」
「はい」
「雫様がお待ちかねです」
 上の階の一番奥の部屋に案内された。
「どうぞ」
 とだけ言うと、家政婦は持ち場へ戻ってしまった。
 ここに、数年間もの間想い続けた雫がいる。
 ドアノブに手を掛け、ドアを開けた。
 部屋に入った瞬間、一人の少女と目が会った。
 ベットに座り、半身だけを起こしている。
 長くて黒い髪、白くて細身な容姿。
 それらは、どうしてか沙耶子の面影を連想させた。
 それでも、ここにいるのは雫だ。
「雫……」
 雫は一瞬だけ驚いた様な顔をして、俺に微笑んだ。
「お帰り、お兄ちゃん」
 彼女の言葉を聞いた瞬間、涙が溢れて来る。
 視界が歪む。
「おいで。お兄ちゃん」
 俺は彼女の胸に飛び込み、泣いた。
 今までの悲劇。
 雫の妊娠と中絶。
 沙耶子の受けた虐め。
 それを機に俺が起こした暴力沙汰。
 沙耶子が屋上から落ちた事。
 光圀の一件。
 隼人の死。
 そして、沙耶子との決別。
 それら全てを吐き捨てる様に、涙と共に流す様に、俺は声を上げて泣いた。
「お兄ちゃん。けっこう泣き虫だね」
「うるせぇ。今まで、辛い事が多過ぎたんだよ」
 かつて、俺は何もかもを失った。
 でも今は、ここに雫がいる。
 雫だけが、俺にとっての最後の希望だ。
 いつかは俺の前からいなくなってしまうのだろうけど、今だけは一緒にいよう。
 遠くない未来、雫の死が俺達を分かつまで。

Episode8 願い

「ハアッ、ハアッ」
 隼人君は私を自転車の荷台に乗せ、息を荒げながら、真夏の太陽が照り付ける坂道を登っていた。
 息を荒げながら隼人君が言う。
「やっぱり、バスに乗った方が良かったかも」
「ほら、頑張って。学校までもうすぐだから」
 ポンポンと彼の肩を軽く叩いてやる。
 この坂を登れば、そこはもう学校だ。


 夏休みが始まって間もない日、私のかつて住んでいた屋敷に二人で旅行へ行った。
 そこで隼人君は言ってくれたのだ。
「また、沙耶子のピアノを聞きたいな」
 そう言う訳で、どこかピアノが弾ける場所がないかと探した結果、学校の音楽室が一番良い、という事になった。
 歩いて行くのも辛いので、二人で彼の自転車に乗って行く事にしたのだ。
 頬を撫でる夏の風は気持ち良いけれど、私を荷台に乗せて自転車を漕いでいる彼は、思いのほか辛そうだ。
「降りて歩こうか?」
「何のこれしき!」
 力一杯にペダルを踏み、ようやく長い坂を登り切った。
 坂を登り切ったすぐそこには、目的地である学校がある。
 校庭では野球部やサッカー部の様な、運動部が声を張り上げて、部活に励んでいる。
 隼人君はそれを見て呟いた。
「青春してるなぁ」
「何言ってるの?」
 私は隼人君に向けて笑顔を作る。
「私達も充分に青春してるよ!」
「ああ、そうだな」


 職員室で許可を取り、音楽室に入った。
隅にはグランドピアノが置いてある。
 鞄からホープの楽譜を取り出し、譜面台に置いた。
椅子に腰を下ろし、鍵盤に手を置く。
 近くに置いてある教卓に隼人君が座り、私に向けて頷く。
 それを合図に演奏を始めた。
 誰もいない廊下、教室。
閑散とした校舎にホープの音色が響いた。


演奏が終わった頃には、いつの間にか暑さも忘れていた。
「いつ聴いても良いな」
「ありがとう」
「沙耶子は、将来はやっぱりピアニストか?」
 私はクスクスと笑いながら答える。
「なれる物ならね」
「なれるよ」
「え?」
「その曲と沙耶子の腕があれば」
 曲の事はともかく、自分の事を言われると少しだけ照れてしまう。
「うん。目指してみようかな……ピアニスト」
 ふと、部屋の隅に置いてある本棚に目が付いた。
 そこには数冊の本やアルバムが入っている様だ。
 私は四つ折りにした楽譜を、その本棚の中の、本の間に差し込んだ。
「沙耶子?」
「もしかしたら、これから先、この楽譜を見て、演奏してくれる人がいるかもしれないから……」
「ああ、そうかもしれないな。これから入って来る新入生が、この楽譜を見て演奏するのかもしれないな」
 私は誓った。
 たくさんの人に私の音楽を聞いてもらう。
 そして、いつか……。
「いつか、本当の母さんに、私が弾くホープを聴いてもらいたいな。そんな日、来るか分からないけど」
「来るさ。前にも言っただろ。希望を捨てるなって」
「うん! そうだね」


もしかしたら私の事なんて、あなたにとっては眼中にないのかもしれない。
 それでも、もし夢を叶える事が出来て、たくさんの人が私のピアノを聴いてくれるようになったら、あなたは振り向いてくれますか?

母さん……。
 
「はーい!」
 後ろで元気良く返事をする、女性の声がした。
「え?」
 振り向くと一人の女性がいた。
 まだ、二十代半ば程の容姿をしている。
「ちゃんと聴いてるわよ。あなたのピアノ」
 彼女はにっこりと笑う。
「もしかして……母さん?」
「そうよ。それ以外の何だっていうのよ?」
 母さんが、すぐ側にいる。
 そう思うと、胸が苦しくなり、目蓋が熱くなった。
「……母さん」
 そう呟くと、目蓋から涙がこぼれた。
 母さんは「あらあら」と言いながら、私の頬にこびり付いた涙を指で拭ってくれた。


「あの日と変わらないわね」
「あの日?」
「そう。あなたが生まれた日。あなた、凄く泣いてたわ。私も一人娘が出来た事に感動して、嬉しくて泣いちゃったけれど」
 母さんが泣く姿を想像して、少しだけ笑ってしまった。
「あ! 笑ったなぁ!」
 クスクスと笑う私を見て、母さんが頬を赤くする。
「母さん……なんか可愛い」
「そう? でも沙耶子も可愛いわよ。さすが私の娘ね」
 母が胸を張る。
「そういえば、彼氏は出来たの?」
「えぇ!? 何を突然!」
「親として気になるのよ」
 彼氏……。
 しまった! 母さんに会えた事が嬉しくて、隼人君の事をすっかり忘れていた。
 隼人君を見ると、完全に寝ていた。
 演奏を聴いていて、気持ちが良くなってしまったのだろうか。
 涼しげな顔で、すーすーと寝息を吹きながら、穏やかそうに眠っている。
「あちらは、あなたの彼氏?」
「うん!」
「へぇ。可愛い子じゃないの。恋人は大事にしてあげなさいよ」
 むしろ、大切にされているのは私の方だ。
 私はゆっくりと首を横に振った。
「というより、逆に私が守られてる感じだよ。隼人君は、私の事をいつも第一に考えてくれる。とっても頼れる人なの」
「そう」
 なんだか、悲しげな顔をしている。
「どうしたの?」
「なんだか、寂しいな。沙耶子が少しだけ離れた感じがする」
「でも、私も寂しかった」
「え?」
「だって、今日まで、本当の母さんに会った事がなかったんだよ!」
 母さんは私から目を反らした。
「ごめんね。家の事情で仕方がなかったのよ。本当にごめんね」
「もし、母さんがいてくれたら、毎日が楽しかったのに……」
「いつか、私と住める日が来るわよ。希望を捨てなければね」
「……隼人君も言ってた」
「あら、気偶ね。あの子とは、とってもウマが合いそうだわ」
 きっと、母さんは私の側にいなかった事に関しての話題を、反らそうとしている。
「ねえ……」
「何?」
「このまま、ずっと一緒にいてくれるよね?」
 私は母さんの服の袖を掴んでいた。
 もう、どこにも行かないで欲しい。
 そう願って……。
「ごめんね」
 母さんは私の手を、優しく袖から放す。
「?」
「もう、行かなくちゃ……」
「どうして? まだ、いいでしょ?」
「ごめんね」
 母さんは笑いながらも、涙を流している。
「ごめんね」
 そう連呼して、私の前から消えていった。


「母さん?」
 気付いた時、私の側に母さんはいなかった。
 音楽室の中には、私と隼人君だけがいる。
 なんだか、目蓋が重い。
 さっきのは、夢だったのだろうか……。
 まさか、現実の筈がない。
 母さんが、こんな所に来れる訳がないのだから。
 きっと夢だ。
「でも、夢でも、会えて良かった……母さん」

 隼人君は未だに、穏やかそうに眠っている。
「あんな気持ちよさそうな隼人君、起こせないな……。私も寝ちゃおう」
 教卓の上に座り、彼の肩に寄り添って、ゆっくりと目を瞑った。

Epilogue Day dream

 部屋の中に、目覚まし時計の音が鳴り響く。
「う、うぅん」
 寝起きの体を起こして、時計を見る。
 時間は既に、八時を回っていた。
「やばい! 遅刻だ!」
 慌てて、パジャマから制服に着替え、階段を駆け降りた。
 リビングには、朝刊を読みながらトーストを口に銜えている父さんがいる。
「ちょっと、あなた! お行儀が悪いわよ。食事中に新聞なんて」
 キッチンから、母さんの注意の声が聞こえる。
「ああ、悪い」
 父さんは慌てて新聞紙を丸めた。
 いつもと同じ朝。
 なんだか、とても安心する。
 慌てて身支度をしている私に、母さんは煽てる様に言う。
「沙耶子。あなたの彼氏が外で待ってるわよ」
「え?」
「早く行ってあげなさい。このままじゃ、二人で遅刻しちゃうわよ」
 私は鞄を手に取り、玄関を飛び出した。
「おはよう」
 隼人君は自転車に跨って、私を待っていてくれていた。
「ありがとう。待っててくれて」
「どうって事ない。早く乗れよ。飛ばして行くから」
「うん!」


 夏の透き通った風を感じながら、通学路を走る。
 とても涼しくて気持ちが良い。
「おーい!」
 隼人君が誰かに手を振っている。
 道の先には綾人君がいた。
「おはよー! 綾人君!」
 綾人君は、ちらりとこちらを向き、格好良く右手を上げて合図をした。
「相変わらずクールだな。あいつは……」
「それが綾人君の良い所だよ。格好良いじゃん」
 隼人君は苦笑する。
「そうかなぁ。なんか、あいつ無駄にモテモテだし」
「大丈夫だよ。隼人君はモテモテじゃなくても、私がいるから!」
「お前がいてくれると、本当に安心するよ」
 そんな事はない。
 むしろ、安心するのは私の方だ。
 本当に、隼人君がいるだけで毎日が幸せだ。


 門前では、数人の先生や生徒会役員が挨拶運動をしていた。
「やば。沙耶子、降りて」
「うん」
 私は慌てて、自転車から降りた。
 先生に二人乗りしている所なんて見られたら、たぶん隼人君の自転車通学を取り消されてしまう。
 朝、よく寝坊する私にとって、それはとても痛い。
「おはよう。宮久保さん! 今日も綺麗ですね! とても美しい! 本当に!」
 生徒会長の光圀先輩が、挨拶運動のどさくさに紛れて、そんな在り来たりな口説きをして来た。
「お、おはようございます」
 少々、苦笑気味な挨拶を返した。
「おい、光圀。沙耶子と話すんなら、まずは僕を通せって、いつも言ってるだろ」
「僕がどうしようと勝手さ。二人でバスケをした時、僕に何回シュートを決められたんだっけ?」
「うっ、それを言われるとなぁ……。じゃあ、今日もやるか?」
「良いだろう。とりあえず、お前には先輩と後輩の強さの違いを、分からせてやる必要がありそうだな」
 いつもと同じ口論が始まってしまった。
 まったく、二人とも学習しないんだから。
「いや、バスケなら私が一番だぞ!」
 ああ、そういえばもう一人、学習しない子がいた。
 口論する二人の間に、天道ちゃんが分け入って来る。
「おい、天道には関係ないだろ!」
「そうだ。天道さんは引っ込んでてくれ!」
「何を言う! バスケだろ? なら私も混ぜろ!」
 皆、騒ぎ過ぎだ。
「もう! 本当に遅刻しちゃうよ」


結局、遅刻ギリギリの登校になってしまった。
 眠くなる様な先生の話を延々と聞きながら、午前中の授業を終えた。
「よし!」
 授業が終わると、隼人君は突然立ち上がった。
「な、何?」
「何って、バスケだろ」
「ああ。そういえば、そんな事を言ってたね」
 隼人君は私の手を取る。
「よし! 行くぞ!」
「うん!」
 この手が、私をどこまでも引っ張って行ってくれる。
 隼人君となら、どんな困難も乗り越えて行く事が出来る。
 そんな気がした。

HOPE

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HOPE

西日が強まる放課後。 主人公、平野隼人は校舎裏で一人の女子生徒の飛び降り自殺を目撃する。 彼は知る。 飛び降りた少女が、自分にとって世界で最も大切な人だったという事を。 主人公の苦悩や、個性豊かな仲間との成長、その後に訪れる安息、そして絶望。 それらを描いた長編小説。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-07-03

Copyrighted
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  1. Prologue 夕暮れ
  2. Episode1 平野隼人
  3. Episode2 変化
  4. Episode3 芽生えた希望
  5. Episode4 宮久保沙耶子
  6. Episode5 潰えた希望
  7. True episode 烏丸綾人 前篇
  8. Episode6 天道美羽
  9. Episode7 宮村想太
  10. True episode 烏丸綾人 後篇
  11. Episode8 願い
  12. Epilogue Day dream