Good-bye my days.

(1)魔法のチョーク

 「よかったら、どうだい?」


 コンビニのバイトが終わり、アパートへ帰ろうとするボクの肩を
叩いて、六条さんはボクに缶ビールを差し出した。

 今のボクにはどんな言葉も慰めにはならない。こんな小さな
気遣いが、かえって心にしみる。

 恋人が山で遭難し、既に6日。悪天候のため捜索は中断している。
絶望的な心にかける言葉などありはしないのだ。
 もうテレビでも、ネットでも彼女の捜索に関する情報は伝わってこなく
なっていた。

(「いってきまーす!」)

 電車のガラス越しに手を振った彼女の笑顔は、まだ克明にボクの胸に
あるというのに。

 でも、もうそれは二度と見ることは出来ないのだろう。
 その思いが一日に何度も、波状的にボクの心臓をわしづかみにする。
 ボクはすっかり心が疲弊していた。

 コンビニの脇で缶をあけ、しばらくの間、ボクと六条さんは交互に缶を傾ける。

 沈黙が気まずくて、ぼくは口を開いた。

 「ところで六条さん、急にここ辞めてしまうんですか?」

 「ええ、どうやら昼間の生活に戻る勇気が出来てきたのでね?」
 ひげに付いた泡を拭きながら六条さんは言った。

 「昼間の生活?」

 六条さんは、ぼさぼさの頭をぽりぽりかきながら、恥ずかしそうに笑った。

 「まあ、いろいろあってね、昼間の生活が出来ない体だったんですよ」

 「まさかバンパイアだとか言うんじゃないでしょうね」と、冗談めかして言ってみた。
 確かに六条さんは体型が細く、ひげをそって髪を整えれば、それっぽくなりそうな
人ではある。

 「うーん。まあそれに近いかなあ」

 六条さんは星を見上げた。
 ボクが言葉に詰まっていると、六条さんは続けた。

 「ところで宮本君は『魔法のチョーク』というお話知ってる?」

 「ええ、知っていますよ。描いたものが本物になるって言う。」

 「そうそう、でも日の光を浴びると元のチョークに戻ってしまう」

 「ずいぶん昔に小説で読みましたけど…」

 「実は、私、それ持ってるんです」

 えっ?
 ボクは一瞬驚いたが、すぐに冗談でしょうと否定した。

 「実はね…」
 六条さんは真剣な面持ちで話し出した。

 「ここしばらくの宮本君の様子を見ていて、こういうときのために、
 私の手に来たのじゃないかと思うようになったんですよ。」

 そう言いながら、彼はポケットからチョークというにはあまりにもきれいな
琥珀色の細長い結晶を取り出した。

 「見ていてください」

 六条さんはかがみこむと、結晶をアスファルトの上に走らせ始める。
出来上がると、それは小さな蛾だった。

 六条さんは立ち上がる。
 と、アスファルトの絵の周りがキラキラ輝きだし、小さな蛾がひらひらと
舞い始めたのだ。
 ボクは夢のような光景に唖然としていた。
 蛾は僕らの周りを飛び回る。
 そして、それを現実として認識したとき、ボクの中に強烈な願望が膨らんでいた。

 「六条さん!」

 ボクが何を言い出すか察していたのだろう。六条さんはうなずいて、公園のほうへ
歩き出した。

 ボクらが公園に向かった後、蛾は防虫灯に吸い込まれ、ジジジと青い炎を上げた。

(2)奇跡

 公園にやってきたボクらは駐輪場の脇にあるコンクリートの壁のところに立った。
 ボクは彼女の写真を六条さんに手渡した。登山に出かける日の朝にボクが撮影したものだ。
 まさかこれが最後の写真になるとは、ボクらは思ってもいなかった。

 「彼女のお名前は沢渡さんでしたっけ?」

 六条さんが尋ねる。

 「沢渡 舞です」

 六条さんはじっと写真を眺めた後、琥珀色の結晶を取り出した。
 コンクリートの壁に当たるたびに小さな光がキラキラとまばゆい。
 すこしづつ描かれてゆく、舞。
 さらさらしたロングヘア、それをまとめるバンダナ。白いTシャツ。袖から伸びる、
細くて華奢な腕…。
 
 「六条さん」

 「はい?」

 「その目元のほくろは描かないでおいてくれますか?」

 「え?」

 「彼女、気にしてたんです。それ」

 六条さんはちょっと考えた後、描きかけの赤い点をごしごしと消した」

 軽い摩擦音を立てながら、彼女をなぞり続けるチョーク。タイトなジーンズに、スニーカー。
 輪郭が仕上がり、細部を描き始める。

 「そのチョーク、どこから来たんでしょうね」

 「私にもわかりません。いつの間にかポケットに入っていたんです。でも多分…」

 少し黙って、丁寧に舞の目元のあたりを書き終えると六条さんは言葉を続けた。

「わたしの念のようなものが、具現化したんじゃないかと思うんですよ。
 あの頃は仕事もお金もなくて、食べるものさえ事欠いていましたから。
 その欲みたいなものが、こういう形に結晶したのかなと。
 想像ですけどね…」

 舞の姿に陰影がつけられ、立体感が増してゆく。

 「だから、こうして自分の利己心じゃなく、他人のためにこれを使うことで
 私自身、このチョークの呪縛みたいなものから逃れられる気がしたんですよ」

 ボクは本当にそうかもしれないと思った。六条さんの青白い顔に少しずつ赤みが差してゆく。
 それと同時に壁の中の舞にも命が宿ってゆくように見えた。
 チョークが残り少なくなり、空が少し筒色を変え始める頃。絵が描きあがった。

 ボクらは1,2歩後へ下がる。
 壁の上に琥珀色の光が霧のように密度を持つと、形をとった。
 風が懐かしいに匂いを運ぶ。そして。
 階段を踏み外したときのように、よろよろ、っと2次元の世界からこちら側へ1歩が
踏み出された。

 「舞!」

 「????」
 きょとんとした彼女はしばし目をぱちくりさせる。

 「あれ?え、と。宮本君?ここ、どこだ、っけ、な?」

 六条さんがせかすように言う。
 「早く。もうすぐ夜明けだ。注意すべき事は分かってるね」

 「ええ、お話では日の光に当てると元に戻ってしまうんでしたね」

 「そう。チョークは君にあずけておくよ。私にはもう必要のないものだから。
きっと何かの役に立つよ」

 「六条さん本当にありがとうございました!舞、急いで!」
 ボクは”はてな”マークを飛び回らせている舞子の細い腕を取って、走った。

 「あわわわ~っ!」

 ほとんど宙に浮いたような状態で走る、舞。

 今日の最初の日の光がアパートを照らす前に、何とか舞をつれてドアを閉めることが出来た。
しかしまだ部屋のあちこちから日が漏れている。ボクは思わず彼女をベッドルームへ押し込むと、
シャッターとカーテンが下りていることを確認する。

 「舞!太陽の光に当たらないようにベッドにもぐっていて!」

 ボクはドアを閉めると、リビングの窓のシャッターを閉じ、キッチンの窓を通販のダンボールと
ガムテープでふさいだ。そして玄関の明り取りの窓。これでとりあえずは大丈夫。

 ベッドルームの照明をつける。

 「舞、大丈夫だよ。もう出てきてもいいよ」

 舞は、そおっと毛布から顔を出すとベッドの上に正座をした。

 「宮本君、そこに座って」

 「あ、うん」

 ボクも思わずベッドの下に正座をした。

 おもむろに舞は話し出した。

 「わ、わたしの人生で初めて事。宮本君と手をつないだこと。宮本君のアパートに入った事。
そして、ベッドルームで二人っきりという事。この状況を、どう説明してくれるの?」

 と、ボクら二人は顔から火を吹かんばかりに赤面した。ぽん!と頭から湯気が上がったに違いない。

 「え、ええと…ちょっと話すと長くなるんだ」ボクはうろたえた。
 「とりあえずコーヒーでも入れるから、待っててくれる?」
 「う、うん」

 もそもそ。再びベッドにもぐりこむ舞。

 「どうしたの?」
 「宮本君の匂い~…」
 「嗅がなくていい、嗅がなくていい」

 と、今度はなにやらベッドの下をごそごそ。

 「今度は何?」
 「健康な男子のベッドの下にはお宝があるという伝説が」
 「ないから、ないから」

 帰ってきた。まごうことのない舞が。

(3)『わたし』と「わたし」

 「信じらんなーい」

 蛍光灯の光の下、淹れたてのコーヒーを飲みながら僕の話を一通り聞いた彼女は、
いたずらっぽく眉を寄せて言った。
 「わたしもそのお話知ってるけど、お話は(お話)でしょ?」

 ボクは言った。

 「ごもっともで」

 実際、ボク自身も夢を見ているのではないかと錯覚するほどなのだから。
 目の前にいる舞。
 チョークに描かれた絵ではなく、生身の。

 ボクは彼女だけでなく、自分を納得させるためにもやってみなくてはいけない。

 「舞、ちょっとそのバンダナ貸してくれる?」

 彼女はそれを解くと、ボクに手渡した。

 「いい?下がっててね。光に当たらないように。」

 ボクはカーテンを注意深く上げると、シャッターの隙間から漏れる朝の光にそれを
かざした。と、たちまちそれは、キラキラした赤い粒子になって、今あった空間に舞った。

 「!」

 唖然とする彼女。

 「それともう一つ。」

 ボクはポケットから、琥珀色の結晶を取り出すとそばのローテーブルの上に林檎を
描いた。
 絵の上に光る霧がかかり、赤い林檎が出現する。

 「うーん…」

 彼女は頭を抱えた。

 「わたし、現実主義をモットーにしているのに目の前で現実に非現実的な現象が
 起きてしまうともう何がなにやら…あうー」

 テーブルに突っ伏す彼女。

 「…」

 「舞?」

 「…」

 「どうしたの?」

 「…おなか…すいた…」

 「はい、はい」

                   *

 「おいしー。宮本君、料理男子だったんだ!」
 ご飯をほおばりながら上機嫌の、舞。

 「少し落ち着いた?」

 「うん、やっぱりお腹がすいてると考えがまとまらないし」

 料理男子、か。中学生からずっと一人で暮らしてきたボクは必要に迫られて、
料理をしているわけで。
 小学校のときに両親を事故で亡くし、親戚の家に預けられていたボクは、
やはり人の厄介になることがつらくて、一人になることにした。だから、
家事一般は一通りこなせる。
 そしてもう、二度と大切な人を失いたくない。

 朝食後、ボクが食器を洗っている後ろで、舞は鏡とにらめっこをしているらしい。

 「六条 昭雄さん?」
 「そう」
 「絵が上手な人だったんだ」
 「元画家だったって聞いてる」
 「ふうん…」

 手をぬぐい、前掛けをはずすボクに、舞は突然向き直って言った。

 「ねえ、わたし…やっぱり死んじゃってるのかな…」
 「えっ…」

 彼女は真顔になって言った。

 「わたしの記憶は山へ行く前にみんなで写真を撮ったところで終わってるの。
でも、もう一人のわたしはその後の記憶を持っているんだよね。一方の『わたし』は
「わたし」の持っていないものを持っていて、この世からいなくなって、
その代わりに「わたし」がここにる…ここにいる「わたし」はホントのわたし
っていえるの?」

 話が混乱してる彼女。
 言われてみれば、もっともな話。
 ボクの目の前にいる舞にしてみれば、カメラのシャッターを切られた瞬間から記憶が途切れ、
気が付いたらあの公園のコンクリートの壁の前にいた。そんな感じだろう。

 が、事はボクが考えていたよりも大きかった。
 ボクにとっては彼女に再び会いたい一心だった。でも、彼女にとって、これは"自分"と
いうものの存在自体にかかわる問題だったのだ。

 ボクがそう考えていたとき、突然の恐怖に彼女は捕らわれていた。

 「わたし、どんな気持ちだったんだろう…死でく時、わたし、何を考えてたんだろう!」
 パニックに陥る彼女。
 頭を抱え、わっと泣き出す彼女をボクは抱きかかえた。

 「舞!しっかり!今ここにいる舞は生きてる!生きているんだから!落ち着いて!」

 彼女の方を抱きしめるボクの力は(自分)の死の瞬間の感覚から彼女をかろうじて引き戻す
ことができた。
 「ほら、大丈夫。しっかりして」
 腕の中で泣きじゃくる彼女の質感に、ボクは彼女の「生命」を感じていた。

                      *

 「ごめん…わたしどうかしてた…」
 やっと落ち着きを取り戻した彼女は言った。
 「今、舞に大切なのは、戻ってきた命を確実にすることだよ」
 「うん」
 「たしか、お話では主人公は4週間、チョークで描いたものを食べ続けたら
太陽の光を浴びて絵になってしまったっていうことだったから、その逆を
やればいいんだよ」
 「人の体の組織って入れ替わるの年単位だったと思ったけど…」
 「そこが"魔法"なんだろうね」

 その時、

 ピンポーン

 玄関の呼び鈴が鳴った。

 「あ、お客さん」
 「まずい、舞!!奥の部屋へ!」
 「あ、そだ!わたしはこの世にいないはずなんだっけ!」

 ドアの外から声がした。

 「おはようございます」

 「え?あの声…」
 舞は気が付いた。

(4)姉と弟


 舞がベッドルームに駆け込むのを確かめて、ボクは扉を開けた。瞬間、舞の靴がそこにあることに
気が付き焦ったが、太陽の光に霧散してくれた。

 扉の向こうにいたのは、ちょっと見たところ女の子と間違えそうな、きゃしゃな体系の少年だった。

 「政則君、おはよう。どうしたの?」

 「ええ、ちょっと…届け物があって…」

 「あ、入らない?ちょっと暗室仕事をしていて変な感じだけど」

 少年はうなづいた。
 
 Tシャツに洗いざらしのジーンズの彼は、かかとを踏みつけたスニーカーを脱いだ。
 舞が気づいたとおり、この少年は彼女と7つ違いの弟である。

 今から4年前。海浜公園で野鳥を撮影していた時のこと。
 小学3年生だった彼は、ボクの近くでラジコンで遊んでいたのだが、どうしたわけか
故障してしまい、しょげ返っていたところを、ボクが直してあげたのが出会いだった。

 少しして、少年を連れてお礼にわざわざ公園にやってきたのが中学生の舞だった。
ものすごく一生懸命頭を下げていたのと、うざったそうな少年のうつむいた顔を覚えている。

 その後、時々公園で出会うことになるのだが、この姉弟は事あるごとによく喧嘩をして、
ボクはいつも仲裁役をしていた。見かけによらず気が強くて頑固な少年である。

 ボクは冷蔵庫を開けた。
 「コーラでいい?」

 「はい…」

 少年は椅子に腰をかけて、テーブルに着いた。
 グラスにはじける細かい泡。

 「ところで、とどけものって?」
 「あ、これなんです」

 少年は薄い紙袋の中から青い布を取り出した。
 「それって…」
 「いまある唯一の姉ちゃんの遺留品です」

 先ほど舞の前で赤い霧と化したバンダナの本物のほうだ。

 「警察や山岳隊の人たちは捜索一時中断してるんだけど、大学のサークルのメンバーがまだ
 気象を見ながら捜索を続けていて、見つけたんだって。」

 「…」

 舞は足元を踏み誤った後輩を助けて、沢へ滑落した。その途中で木の枝に引っかかったの
だろうという。

 「母さんが…それ、宮本さんに持っていけって」

 「どうして…?」

 「うちには、姉ちゃんのものがイヤって言うほどあるけれど、
 宮本さんは多分一つも持っていないだろうからって。もし迷惑じゃなかったら…」

 ボクは少しためらったが、受け取ることにした。
 「わかった。どうも、ありがとう」

 確かに、ボクは形に残るものを舞からもらったことはない。
 中学校の修学旅行のお土産も「邪魔になったら困りますよね」と、
 各地のお菓子など、後に残らないものばかりだった。舞はおおざっぱな様でいて、
意外と気を使う娘なのだ。
 しかし、ボクが形に残るものを手にしたくない理由は他に、ある。

 少年はしばらくコーラに浮かんだ氷をカラカラ鳴らしていたが、
 うつむいたままぼそりといった。

 「姉ちゃん…帰ってきますよね」

 ボクはぐっと言葉に詰まった。

 「オレ、あの時…」

 少年は話し始めた。

 「姉ちゃんが出発する少し前に喧嘩しちゃって、『山に行ってまま帰ってくるな!』って
 言っちゃったんです。ホントにそうなるなんて思ってなかったから。なんだか苦しくて…」

 彼はうつむいたまま、髪をかきあげる。

 「気にすることないよ」

 静かにボクは言った。

 「今まで、正則君が言ったこと、全部お姉ちゃんに起こったら、お姉ちゃん
 大変なことになってるよ。今回はたまたま…」

 「えと、そうじゃなくて…」

 少年は言葉をさえぎった。

 「もし姉ちゃんが、遭難したとき、その言葉を思い出していたらって思ったら、
 つらくて…」

 唇をかみ締める少年は、右手のひらで瞼をぬぐった。

 「あの日も、姉ちゃん、出掛けにうじうじ家のこととか母さんのこととか、いちいち
 オレに指図するから。思わず言っちゃって。いつまでも子供扱いするから」

 舞の気持ちもよくわかる。

 姉弟の父親は消防士で、二人が幼いときにビル火災で殉職している。弟や母親を
思いやる心が過度に表れてしまうのだろう。
 一方、弟は家に一人しかいない男性としてしっかりしなければと過剰に意識している。
 どちらも優しさから出た行動が、衝突の原因になってしまっているのだ。

 「政則君、今、お姉ちゃんにして上げられるのは、信じて待つことじゃないかな。
 お姉ちゃんなら、きっとそんな事でくよくよしていて欲しいと思っていないはずだよ」

 少年は黙ってうなづいた。


 少年が帰った後。
 ボクはベッドルームの扉を開けた。

 「舞…」

 震える背中がこちらを向いていた。

 「死ぬってこんなに辛いんだね。死ねないね…」
 涙声が言った。

 「うん。絶対、生きないとね。絶対…」

 ボクは少年から受け取ったものを彼女に渡した。
 光に当てても消えることのないバンダナ。
 舞はじっとそれを見つめていた。

(5)心の穴


 「宮本君、大学は?」

 舞が行方不明になってから散らかっていた部屋を片付け、掃除をして
ひと段落の後、舞が尋ねた。

 「うん、今日は講義、ないんだ」

 「じゃあ今日は午後、一緒にいられる?」
 
 「ごめん、ちょっと先輩のサークルの手伝いが入ってて」

 「しゅーん」
 わくわく顔が、一気にしょんぼり顔になる。舞は表情がころころ変わる。とてもわかりやすい。

 「でも、夕方には帰ってくるよ」

 「ホント?じゃ、待ってるね!っていっても、日中は待つしか出来ないんだよね、わたし…」

 舞は山で遭難し、行方不明であるはずの人間。昼間はもちろん、夜だってひょこひょこ出歩く
わけにはいかない。

 「じゃあ、待っている間、宮本君の撮った写真、見せてもらってていい?」

 「いいよ。昔の写真も全部パソコンに取り込んでであるから。そこにあるパソコンで見られるよ。」

 「うふふふふ。怪しい画像がないか家捜しだっ!」

 「無いから、無いから」

 写真はボクの唯一の趣味だ。父の形見がカメラだったということもある。
 "時間"という流れの中の一瞬の"時"を捕まえる。メモリに刻まれたそれは、ずっと変わることなくそこに存在ししつづける。
 ただ、「人」を撮ることはほとんど無い。登山前の舞たちを撮影したのも、たまたまボクの
撮影旅行と同じ列車に乗り合わせた彼女たちに無理にせがまれたからだ。そうでなければ撮影したりはしなかった。
そうでなければ…。

 舞は1枚1枚の写真のファイルを開いては、覗き込んだり、感心したり、ディスプレイに
見入っていた。

                   *
 その夜。
 買い物から帰ってくると、

 「ねえ、宮本君。あのチョーク、貸してくれない?」
  唐突に舞が言った。

 「どうするの?」
 「うん、宮本君が女性用の服や下着を買ってくる勇気があるならいいんだけど」
 「あ…」
 「もちろん、わたしも宮本君に下着のサイズを教える勇気は無いぞ。おあいこだっ」

 うっかりしていた。既に彼女は"人間"なのだから、身の回りの必要があるのを忘れていた。 
 ボクは彼女に、小さくなった琥珀色のかけらを手渡した。

 「ここ、つかっていい?」
 「うん、いいよ」
 
 コリコリコリ

 彼女は壁に向かって描き始める。
 ボクは食料品を冷蔵庫に納め始めた。

 「でっきたー。みてみて」
 顔を上げた僕が見たものは。

 「ちょ、ちょっと!」
 彼女の手にしているのは、その、つまり黒いレース飾りの付いたきわどいタイプの、あれだ。

 「すごいねー、こんなのもきれいに本物になるんだ」
 「ま、舞ってそんなのつけるわけ?」
 「あはは!冗談冗談。面白くって、つい」
 「びっくりさせないでよ。それにチョークの無駄遣いだよ」
 「ごめーん」
 「舞、やっぱり、身に着けるのは本物を買おうよ。体が本物になって日の光浴びたら
 恥ずかしいことになっちゃうし」
 「あー、そうだね」
 「変装用のかつらを一つ作ろうよ。まだ開いてる衣料店があるから買いに行こう」
 「よーし。かつらだね」

  カリカリカリ

 「これでよしっ!」

 禿げにメガネ髭。

 「カトちゃんはやめようよ」

                *

 バイクのエンジンを止める。
 袋を抱えてぴょんと飛び降りる舞。
 
 「舞、目立たないように出入りしてね」
 「OK」

 茶髪カーリーヘアーのかつらをつけた舞は辺りをうかがい、素早く部屋に入る。
 見上げる空は珍しく満天の星空。
 そういえば舞をバイクに乗せたのは初めてだ。
 舞との"初めて"がすこしづつ、増えてゆく。

 部屋に戻ると、舞は専用に空けた衣装ケースに買ってきたものをしまい込んでいた。
 ボクは台所で明日の朝食と昼食の下ごしらえを始めた。

 と、何か背中に視線を感じる。

 「じぃぃいいいい」

 振り向くと、クッションを抱いた舞がベッドの上からこちらを見ている。

 「どうしたの?」

 「なんとなく、思うんだけど、宮本君って、何か、持ってるよね。心の中に」

 「え?」

 「わたし、最初に宮本君に会ったとき、なんだか冷たそうで、それでいて崩れそうな、か弱い
ところを持ってる印象があったんだ。人を寄せ付けないって言うかー」

 ボクは焦った。半分、舞に心を覗かれているような気がしたのだ。

 ころん、とベッドの上で横にひっくり返って舞は続けた。

 「最初の頃は"弟の友達のお兄さん"レベルで、高1のバレンタインデーで
思い切って告白して、やっと"恋人"にランクアップ!って思ったのに、でもまだ、
もう一つ心が近づいていない気がして仕方がなかったんだ。いままでずっと」

 「…」

 舞に指摘されて、ボク思い出していた。両親を突然亡くし、世界に一人ぼっちに
なったときのこと。自分の胸がぽっかりとなくなってしまったような不安感。
二度とこんな気持ちになりたくない。こんな気持ちになるくらいなら大切な人を
作らなければいい。いつの間にかそれがボクの心の約束になってしまっていた。
舞の告白を受け入れたのも、彼女のあまりの熱心さに押し通されたというのが本当だった。

 「でも、わたしがこの部屋にきてから、宮本君、変わったよね。いつも私のことを考えてくれて」

 確かにそうだ。ボクはあの恐怖に近い気持ちを味わいたくない一心で、いや、
それだけじゃなく、舞そのものを失いたくない一心で動いている。

 「わたしね…」

 舞は続けた。

 「お父さんが死んじゃって、心に穴が開いちゃったみたいな気分が中学生のときまで
ずーっとつづいてて。でも、宮本君に会ってから、この人がこの心の穴を埋めてくれる人だって
分かって。それからずっと宮本君のことばっかり。なぜ、宮本君かって言われたら困るけど、
そうなんだから、わたし、どうしようもなくて」

 舞はごろりと布団に突っ伏すと耳を真っ赤にしながら言った。

 「だから、わたし、今泣きそうなくらいうれしいんだよー!」

 足をじたばたさせる、舞。

 心に穴を開けたくないために大切な人を作らないと決めたボクと、穴をふさぐために大
切な人を作ろうとする舞。
 舞の遭難という事件をきっかけに、ボクの心の約束にひびが入り、今、舞と同じように
穴を埋めようと必死になっている。ボクたちは似たような境遇にありながら、どうして
気持ちの持ちようが違ってしまったのだろう。

 「もう遅いし、そろそろ寝ようか」
 ボクは促した。

 クッションを抱いたまま舞はがばっ!と起き上がった。
 「べ、ベッドは一つしかないよ。一緒に寝るの?」

 「いや、ボクはマットを持っていってリビングで寝るから。舞はベッドで寝ていていいよ」

 ぷしゅ~

 舞は顔を真っ赤にしてベッドに沈んでいった。

(6)二人だけの会話

 朝。
 ボクは顔を洗い、歯を磨くと台所に立ち、朝食の支度を始めた。

 舞はまだ寝ている。

 夜中、舞は何事か寝言を言っていた。よく聞こえなかったが、小さい子が何かをねだっている、そんな感じに聞こえた。

 「おはよう~」

 食卓に朝食がそろう頃、舞は起きだしてきた。

 「おはよう。よく眠れた?」

 「うん。でもたくさん夢を見ちゃった。すごくうれしい夢だったんだけど、思い出そうとすると、
なんだったかはっきりしないんだ。もったいないなあ…」

 「舞は朝、弱いんだ」
 寝ぼけ顔の舞。

 「ば、ばれちゃった?実はそうなの。お布団の引力が強くて抜け出せなくって。布団さん、
布団さん…て」
 「顔を洗っておいでよ。タオルはそこに用意しておいたから」
 「ありがとう~」

 歯磨きとタオルをもって、よたよたと洗面所に向かう彼女の横顔を見てボクはどきりとした。
 彼女の目元に"ほくろ"があるのだ。
 六条さんに舞を描いてもらった時、ほくろは消してもらったはず。なのに、何故?

                       *
 「いただきまーす」
 先ほどとは打って変わって、元気にご飯をほおばる舞。
 「おいしいなあ。やっぱり、朝はお米よねっ!」
 「そ、そう、よかったね」
 身を乗り出して力説する舞にたじろぐボク。

 なんだろう。この気持ち。今まで感じたことが無いこの感じ。
 ボクは、気が付いた。
 (そうか、誰かのために朝食を作って一緒に食べるって事、これまでに一度も無かったんだ)

 うれしそうにに肉じゃがをつつく舞を見ながら、ボクも箸を運んだ。
 「今晩は、わたしが何か作ってあげる。わたしも料理は得意…ってわけじゃないけどこなせるんだから」
 「うん、いいよ。期待してる」

                       *
 食器を洗い終わった後。

 「ねえ、宮本君、今日、講義は?」
 「ええと、今日は午後からだね」
 「じゃあ、午前は空いてるんだね」
 「うん」
 「お願いがあるんだけど…」
 「何?」
 
 やおら舞はボクの両手を握り締めて言った。
 「わたしとお話をしよう!」
 「え?」

 ふと、うつむく舞。
 「ほら、宮本君といるときはたいてい弟もいたじゃない。だから、なんだか気まずくて、
恥ずかしくて、話したいことが話せなくて…。それがずーっと、何年分もたまっちゃってて。
だから、お願い」
 「いいよ。けど、そんなに気合いれなくても…」
 ボクは笑って言った。

 が、舞は首をぶんぶん振る。
 「ううん。気合入れまくる!」

 舞は僕の手を引いて、クッションの上に座らせた。
 「もちろん、宮本君も話してね。わたしばかりじゃ不公平だから。男女平等!」

 そこに平等は無いと思うが、ボクは会話に付き合うことにした。
 元々、ボクは人と話すのは得意じゃない。先に舞が口火を切った。

 生まれたばかりの弟を見たとき、ものすごくショックだったこと。小学校の入学式の時、
校門で思い切り転んで、おでこに絆創膏の記念写真があること。父親が殉職した時、信じることが出来なくて町中を泣きながら探し回ったこと…
 昔の思い出や、思いつき。好きな事。嫌いなもの。やりたいこと。将来の夢。次々に舞の想いが口から流れ出てくる。

 最初は圧倒されていたボクだが、すこしずつ彼女の話のリズムがわかるようになってきた。
相槌を打ったり、質問したりすることが出来るようになる。
 女子の話の仕方は面白い。一つのことを話していると思うと、もう次の話題に移っている。
タイミングを見て、ボクも自分のことを少しずつ、話してみる。
 子供の頃、両親と行った遊園地のこと。母親はあやとりが上手な人で、いろいろな形を見せてくれたこと。そして、今まで辛くて誰にも話せなかった、両親が亡くなった時のこと。
 ボクが口を開く時は、舞は真剣に聞いてくれた。たぶん、よく分からなかっただろうバイクのことやカメラのことも。

 気が付くと、もう時計は11時半を回っていた。

 「ふうーなんだか、これまでの人生分おしゃべりした気がするー。楽しかったー」
 と、舞。 
 「大げさだなあ。さてと、お昼はピラフにするね」
 「わおー。ピラフ大好き!」

 舞が立ち上がろうとしたその時。
 「痛っ!」
 舞がうずくまる。

 「どうしたの?!」
 「右足が…急に痛く…っつ!」
 「大丈夫?!」
 今は昼間だ。日があるうちは舞を病院につれてゆくことは出来ない。ボクは焦った。

 「あ、あれ?痛くなくなった…」
  立ち上がる舞。
 「あっ!痛い!」
 今度は左腕を抱えて崩れ落ちる。
 「舞!」
 涙をポロポロこぼしながら、苦痛に耐える舞。
 と、急にまた何事も無かったように左腕をもちあげる。
 「あれ…どうしたんだろう。なおっちゃった」
 「本当に大丈夫?」
 袖を捲り上げて確かめてみるが、異常はなさそうだ。

 「どうしたんだろう。何か体に変化が起きているのかな」
 「わたしにもわからないよ」
 困り顔の舞。
 「何にしても、あまり動き回らないほうがいいかもしれないね」
 「うん、そうする」

                        *

 「食器洗いはわたしがやっておくね」
 「うん、じゃあ行ってくる。何かあったら携帯で連絡して」
 「わかったー。いってらっしゃい」

 バイクを走らせ、大学へと向かう。
 ただボクは気がかりだった。消してもらったはずの舞の目元のほくろが戻っていたこと。そして、体の痛み。
 彼女の体に何かが起こっていることには間違いない。それが何なのか。よい事なのか。それとも。

 いくつかの講義を受け終わると、もう日が傾きかけていた。舞が心配だ。急いで帰ろうとバイクにまたがった時、携帯が鳴った。
 「!」
 あわてて確認すると、自宅からではない。舞の弟、政則君からだった。

 「もしもし、宮元です」
 「宮本さん!姉さんが…姉さんが救助されたんです!」

(7)一つの想い

 収容先の病院に着いたのは、夜9時を回っていた。
 先に到着していた政則君が僕を迎える。
 舞は集中治療室に入っていた。

 医者の言葉を借りれば「奇跡」だという。

 沢へ転落し、8日間も悪天候の山の中で耐えられる体を持つ人間はまずいない。
 左上腕骨と、右大腿骨骨折のみで頭部に損傷はないとのことだ。

 (…!)

 そのとき、ボクは今朝の舞の異変を思い出していた。彼女が痛みを訴えたのはまさにその部分だったからだ。

 発見されたときは、既に意識は無く、脈も低下しており危険な状態。ヘリコプターの入れない沢から引き上げるのは困難を極めたが、救助隊の人たちは眠る彼女の表情があまりに優しく穏やかだったので、どうしても助けたいと思ったという。

 処置が終わり、落ち着いたため、ボクたちは特別に治療室に入れてもらった。
 ベッドの傍らに立つ。
 彼女は生死の間をさまよっている。
 微笑むような安らかな顔で。

 「舞…」

 白い椅子の上で彼女の母親は祈っていた。彼女の弟は下唇を噛みしめ、彼女が意識を取り戻すことを、胸の中でひたすら念じていた。
 二人とは、二、三言、言葉を交わせただけだった。思いは同じであることは分かっていたし、それを口に出してしまうと、感情が目からこぼれて止まらなくなりそうだった。

 そして、さらに。

 ボクの心は混乱の真ん中にいて、病院の冷たい廊下に立ちすくんでいた。

 ベッドの上で静かに横たわる『舞』

 そしてボクの部屋で帰りを待っている「舞」

 そのどちらもボクが想う舞に違いない。でも、既にボクにとって一方の『舞』は死んでしまっていた。では、今ボクはふたり存在している舞に…

 そのときボクは病院の周りに何人かの報道人がいることに気が付いた。

 「しまった!」

 ボクは、お母さんと政則君に「一度戻ってくる」と告げると、バイクにまたがった。携帯をかけても、彼女には「電話には出ないように」と言ってあったので。出てくれないだろう。ボクはバイクを走らせる。
 もしTVかなにかでこのことを知ったら…。ボク自身、この事態をどう収拾してよいか分からない。ましてや、彼女にとっては。

 「!」

 バイクのエンジンが止まる。ガソリンタンクがEMPTYを指している。
 「しまった!」

 急いで携帯で最寄のスタンドを探す。少し後戻りをしなければならない。この時間にあいていてくれるスタンドは少ないだろうが、行くしかない。
 タンクのコックをリザーブにしてエンジンを掛けなおし、走り出す。

 ボクが部屋に着いたのは午前2時を回っていた。
 
 部屋の鍵を開ける。

 「舞!」

 いない。
 リビングのテレビのリモコンがいつものところに無い。彼女は知ってしまったのだ。
 玄関に出る。やはり彼女の靴が無い。
 また、パニックを起こしてしまったのかもしれない。
 そう考えると、焦りは緊張に変わる。

 夜明けにまではまだ少し時間がある。
 ボクは部屋を飛び出した。

 ボクは走った。
 彼女の姿を求めて。

 はあ はあ

 気ばかりが焦る。日の出まであと数時間。それまでに彼女を見つけて連れ戻さないと、彼女は赤い粉と消えてしまう。

 肩で息をするボクの頭の中に、ここ数日間の楽しかった思い出がかけめぐる。

 ベッドの上で顔を真っ赤にしていた舞。
 ふざけて怪しい下着をヒラヒラさせて笑ってた舞。
 「朝はお米!」と力説していた舞。
 自分の経験したことを手振り身振りで一生懸命話してくれた舞。

 (いったい何処へ行ったんだ!)

 ボクは舞と始めて会った海浜公園の入り口の前で肩を落とし、荒い呼吸をする。

 (もしかすると…!)

  ボクはあの公園へ向かった。そう、「舞」が表れ出たあのコンクリートの壁のある公園へ。

 水銀灯の照らす中、小柄な女性の影がそこにあった。あの壁のところに。それは、壁から出てきたときの服装の舞だった。

 「舞!!」

 息を切らし彼女に駆け寄る、ボク。

 「宮本君…」
 「戻るんだ!舞!早くしないと太陽が…」
 「宮本君、行っていたんでしょ?もう一人の『わたし』のところへ」
 (!)
 ボクは言葉をなくした。
 「ほんとはね、「わたし」のところに戻ってきてくれて。すごく嬉しいんだ。でも、ホントは
もう一人の『わたし』のところにいて欲しかった…」
 「舞…」
 「だって、本当に宮本君を必要としているのは、今、病院で眠っている『わたし』だもの。
もし「わたし」が『わたし』ならそばにいて欲しいと思う」

 「でも、舞…」
 舞はボクの言葉をさえぎった。
 「宮本君は生死をさまよっている『わたし』と、命を本物にしようとしている「わたし」と
どちらか一方を選べる?」

 ボクはうなだれた。
 ボクはいったいなんて残酷なことをしたんだろう。
 自分の心の痛みを埋めるため、もう一人の舞を呼び出してしまうなんて、なんて自己中心的なことをしたんだろう。
 六条さんはチョークを「欲の結晶」と言ったけれど、本当にそうだったのではないだろうか。

 「ごめんね。「わたし」がいるために宮本君の想いが2つに分かれちゃってる。でも、
『わたし』も「わたし」も、同じ『「沢渡 舞」』なの。時間の流れの中で記憶に少し違いが出ただけ。」

 舞は歩き出すとベンチに座り、ぽんぽん、と叩いた。
 「ねえ、ここに座って。もう少し宮本君に伝えたいことがあるの」

 ぼくは促されるまま、彼女の隣に腰をかけた。
 「いい?「わたし」がこれから話すことは、今、ベッドで寝ている『わたし』も話したかったことなの。
ベッドの横に座っているつもりで聞いてね」

 舞はそう言い出すと話し始めた。
 内容は時間的に言えば今朝話したことの続きにあたった。

 最初にボクに会ったとき、怖そうに見えて、すごく緊張したこと。
 弟に「おせっかい」といわれて喧嘩したこと。
 弟が公園にラジコンで遊びに行くときこっそり付いていって、ボクと政則君の二人の様子をこっそり見ていたこと。そしてボクの笑顔にドキドキしたこと。
 初めてラブレターを書こうと決意して、何回も書き直し、3年越しになってしまったこと。
 告白する前の日はぜんぜん眠れず、目が赤くてどうしようと焦ったこと。
 受け取ってもらった日も、嬉しくてぜんぜん眠れず、次の日の授業はほとんど寝ていたこと。
 デートに誘うのはいつも自分なので、自分がどう思われているのか、とても不安だったこと…

 彼女は自分の心の中を隠し立てすることなく話して聞かせてくれた。
 そして、ボクはずいぶんと冷たい恋人だったことを思い知らされた。

 ボクは言った。
 「至らない恋人で、ゴメン。ほんとうに…」
 「いいの」
 舞は言った。
 「そういうところ、全部まとめて、宮本君のこと、好きになったんだから…」

 舞はいきなりボクに抱きついてきた。
 気が付くと、東の空が白んできていた。

 彼女はボクの胸に顔をうずめた。
 「『わたし』のそばに行く前に、もう少しだけ「わたし」のそばにいて。もうすぐ夜明けだから…
ほんとの事言うと、すごく、怖いの…」

 優しい彼女の匂い。
 ボクは彼女を抱きしめた。彼女の肩は細くて、折れそうなほど華奢だった。

 「とうとう「わたし」、本物のお日様を見ることが出来なかったのね…」
 「舞…」

 「さよなら…わたしの…昼間。わたしの大好きな宮本君…」

 雲間から今日の新しい日の光が差した。
 彼女の質感がふっ、と消える。

 赤い光の粒がきらめき、虹を作る。
 僕を優しく包んで、渦を巻く。

 朝の風に舞い、琥珀色のきらめきは空に向かって登っていった。そして、そのいくつかが、
ボクの涙の跡に残った。

 「舞…」

 膝の上に彼女のバンダナだけが残った。


                 *

 ボクは部屋に戻った。
 きれいに片付けられた部屋。

 ボクは膝を抱え、クッションの上にすわり込んだ。

 「ボクは…」

 舞を失ってしまった悲しみと、自分が彼女にどんな思いをさせていたか、そしてチョークで舞を
呼び出したことがいかに自己中心的行為であったか気づいたショックで、ボクはすっかり生気を失っていた。
 バイクを運転し続け、ほとんど眠っていなかったせいで、ボクは泣きながらウトウトしていた。

 ふと、男の声で、ボクの意識が戻る。
 目覚ましラジオが、ニュースを流し始めた。

 ”***岳で行方不明になっていた***大学山岳部の佐渡舞さんが昨日捜索隊により発見され…”

 ボクはふと我に帰った。

 そう。舞はいなくなってはいないのだ。

-「本当に宮本君を必要としているのは、今、病院で眠っている『わたし』だもの。もし「わたし」が『わたし』ならそばにいて欲しいと思う」-

 ボクは彼女の言葉を思いだした。
 服に染みていた彼女の残り香が、胸を締め付ける。

 ボクは部屋を飛び出すと、バイクのエンジンをエンジンを始動させた。


                 *

 病院についたボクは迎えたのは弟の政則君だった。

 「宮本さん!姉ちゃんが!」
 「舞がどうかしたの?!!」
 「姉ちゃんが意識を取り戻したんです!」
 「いつ?!」
 「明け方です。脈も、呼吸も正常に戻って」

 一般病室に移された舞は駆けつけたボクを認めて微笑んだ。

 「舞!」

 ボクは目からこぼれるものを拭うのも忘れて、ベッドに駆け寄った。

 「宮本君…」
 「舞!…よかった…」
 「あのね…宮本君、わたしすごく長い夢を見てたの。わたしがね…チョークで描かれた絵だったの。公園の壁から出てきたところでね…宮本君が…」

 ボクは彼女の口に指を立て話をやめさせた。
 「舞、大切な夢は誰かに話すとなくなっちゃうよ…」
 舞はうなづくと、涙をこぼした。

 ボクは彼女の頬に伝うしずくを拭った。

 「おかえり、舞」
 「ただいま、宮本君」

 彼女の涙に、ちいさく琥珀色の光がきらめいた。


                 おわり

Good-bye my days.

Good-bye my days.

青年の恋人が山で遭難して6日。捜索は打ち切られ、事態は絶望的。そんな時、描いたものが本物になる「魔法のチョーク」に彼が願ったことは… 故安部公房氏作「魔法のチョーク」へのオマージュ。ちょっぴり切ないラブストーリー

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-12

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  1. (1)魔法のチョーク
  2. (2)奇跡
  3. (3)『わたし』と「わたし」
  4. (4)姉と弟
  5. (5)心の穴
  6. (6)二人だけの会話
  7. (7)一つの想い