雲は遠くて
1章 駅 (その1)≪改訂.2014.4.8.≫
1章 駅 (その1)≪改訂.2017.2.4.≫
夜をとおして激しく降る雨が、形のあるものをことごとく打ち続けた。
明けがた、強い風が吹きあれて、黒い闇はひびわれて、
光の世界がたちまちひらけた。
山々の新緑(しんりょく)が、明るくゆれて、
風は野や谷や山の中を吹きわたった。
山梨県は山に囲(かこ)まれた地形の盆地のせいか、
上空はよく不意の変化をした。
雨上がりの朝だった。季節は梅雨(つゆ)に入っていた。
道沿(みちぞ)いの家の庭に咲く紫陽花(あじさい)は、
どこかショパンの幻想即興(そっきょう)曲を想(おも)わせ、
色とりどりに咲いている。
「韮崎(にらさき)は空気が新鮮だよね。空気がうまいよ。
つい、深呼吸したくなる。山とかに、緑が多いせいかね」
駅へ向かう線路沿いの道をゆっくりと歩きながら、
純(じゅん)は信也(しんや)に、そういった。
「きのうから純ちゃんは同じことをいっているね。
でもやっぱり、東京とは空気が違うよね。
それだけ、ここは田舎(いなか)ってことじゃないの。
人もクルマも全然(ぜんぜん)少ないんだし」
ふたりは声を出してわらった。
ふたりは今年の3月に東京の早瀬田(わせだ)大学を卒業した。
信也は平成2年1990年2月23日生まれの22歳、
純は平成元年1989年4月3日生まれの23歳で、
正確には1年近い歳(とし)の差があった。
小学校の入学の歳(とし)は、4月1日以前と2日以後に
区切られるため、信也はいわゆる早生(はやう)まれで、
小学校の入学から大学までふたりの学年は同じである。
信也は卒業後、この土地、韮崎市にある実家に帰って
クルマで10分ほどの距離にある会社に就職した。
ふたりは大学で4人組のロックバンドをやっていた。
ビートルズとかをコピーしていた。オリジナルの歌も作っていた。
まあまあ順調に楽しんいたのだけど、卒業と同時に仲間は
バラバラになって活動はできなくなってしまった。
新宿行(ゆ)き、特急スーパーあずさ6号の到着時刻の
9時1分までは、まだ30分以上あった。
「おれは、ぼちぼちと、バンドのメンバーを探(さが)すよ。
信(しん)ちゃんも、またバンドやるんだろ」
「まあね、ほかに楽しみも見あたらないし。だけど、気の合う
仲間を見つけるのも大変そうだよね」
純は、同じ背丈(175センチ)くらいの信也の横顔を
ちらっと見ながら、信也と仲のいい美樹(みき)を思い浮かべる。
美樹には、どことなく、あの椎名林檎(しいなりんご)に似た
ところがあって、椎名林檎が大好きな信也のほうが
美樹に恋している感じがあった。
信也と美樹は、電車で約2時間の距離の、東京と山梨という、
やっぱり、せつない遠距離の交際になってしまった。
美樹も辛(つら)い気持ちを、信也の親友でありバンド仲間の
純に打ち明けてたりしていた。
信也は、そのつらい気持ちをあまり表(おもて)に出さなかった。
信也は、東京で就職することも考えたのであったが、
長男なので両親の住む韮崎にもどることに決めたのだった。
大学でやっていたバンドも、メンバーがばらばらとなって
解散となってしまった。
信也はヴォーカルやギターをやり、作詞も作曲も
ぼちぼちとやっていた。純はドラムやベースをやっていった。
純の父親は東京の下北沢で、洋菓子やパンの製造販売や
喫茶店などを経営していた。
いくつもの銀行との信用も厚(あつ)く、事業家として成功している。
父親は、森川誠(まこと)という。今年で58歳だった。
去年の今頃(いまごろ)の6月に、純の5つ年上の兄の良(りょう)が、
ジャズやロックのライブハウスを始めていた。
純はその経営を手伝っている。
音楽や芸術の好きな父親の資金的な援助があって、
実現しているライブハウスであった。
≪つづく≫
1章 駅 (その2)≪改訂.2017.2.4.≫
1章 駅 (その2)≪改訂.2014.4.8.≫
韮崎駅の近(ちか)くの山々や丘(おか)には、雨に洗(あら)われた
ばかりの、濃い緑の樹木(じゅもく)が、生(お)い茂(しげ)っている。
さらに、遠い山々には、白い霧(きり)のような雲が満(み)ちている。
「おれって、やっぱり、田舎者(いなかもの)なのかもしれないな。
東京よりも、この土地に、愛着があるようなんだからね」
照(て)れわらいをしながら、信也(しんや)は純(じゅん)にいった。
「おれだって、こんなに空気のいい土地なら、住みたくなるから、
信(しん)ちゃんが田舎者ってことはないよ」
純はわらった。
「ところで、信。もう一度、よく考え直(なお)してくれるかな。
おれも、しつこいようだけど・・・」
歩きながら、純は信也の肩(かた)に腕(うで)をまわして、
軽(かる)く揺(ゆ)すった。
「ああ、わかったよ。でも、さんざん考えて決心して、
帰って来たばかりなんだぜ。それをまた、すぐにひっくり返す
なんてのは、朝令暮改(ちょうれいぼかい)っていうのかな、
なさけないないというか、男らしくないというか……」
「そんなことはないよ、信(しん)ちゃん。いまの時代は変化が
激(はげ)しいんだし、多様化の時代だし、1度決めたことだって、
変更してもそれが正しいことのほうが多いと思うよ。
いまの政治家とかのしている話だって、朝令暮改で
呆(あき)れるばかりじゃん。まあ、おれたち若者の場合は、
決心したことを変更する勇気のほうが、おれは男らしいと
思うけどね」
「またまた、純ちゃんは、人をのせるのがうまいんだから」
二人(ふたり)は、わらった。
「な、信(しん)ちゃん。おれに力を貸(か)すと思って、親父(おやじ)の
会社に入ることを考えてほしいんだ。一緒(いっしょ)に、
ライブハウスやバンドをやって、夢を追(お)っていこうよ。
おれは真剣なんだ。冗談(じょうだん)抜(ぬ)きで。
かわいい美樹(みき)ちゃんだって、それを願っていると思うよ。
信ちゃんは長男だから、家を継(つ)ぐと決めたことはわかるけど、
『信也さんの実力を試(ため)す、いい機会ですよ』って、
お父(とう)さんとお母(かあ)さんに、おれが説明したら、
昨夜も、ニコニコと笑顔で、わかってくれているみたいだった
じゃない。話のわかるご両親で、おれも、ほっとしたよ」
「純ちゃんは、説得の名人だからなあ。参(まい)ったよ」
韮崎駅に着いた二人は、改札口の頭上(ずじょう)にある
時刻表と時計を眺(なが)めた。
新宿行(ゆ)き、特急スーパーあずさ6号の到着時刻の
9時1分までは、あと5分ほどであった。
「まあ、信(しん)ちゃん、よく考えください。おれらには、
時間は十分あるんだし・・・」
「わかったよ。まあ、何事も簡単にはいかないよね。
おれもまたよく考えてみるよ」
そういって、純と信也は手を握(にぎ)りあった。
純は切符(きっぷ)を購入(こうにゅう)すると、改札口を
抜けて振(ふ)り返(かえ)る。笑顔(えがお)で、信也に
軽(かる)く手を振(ふ)った。信也も笑顔で手を振る。
そして、純はホームへ続く階段へと姿を消した。
≪つづく≫
2章 MY LOVE SONG
東京都世田谷区にある下北沢駅(しもきたざわえき)は、
小田急線(おだきゅうせん)と京王井の頭線(けいおういのがしらせん)の
ふたつの私鉄が立体交差していて、上を京王井の頭線が走る。
改札口は南口と北口が小田急電鉄、西口は京王電鉄が管理する。
利用状況は、どちらも、1日平均乗降人員が、10万人を超(こ)えている。
大学2年、19歳の清原美樹(きよはらみき)の実家は、下北沢駅よりも、
南に位置する、京王井の頭線の池ノ上駅(えけのうええき)に近かった。
7月の土曜日であった。
店舗や家屋が立ち並(なら)ぶ、一方通行の、都道420号の、
曲(ま)がり角(かど)にあるセブン・イレブンで、
美樹は、信也のクルマを待っている。
午前10時の待ち合わせだった。
梅雨(つゆ)も明(あ)けて、一日天気も良さそうで、
気温も上昇しそうだった。
美樹は、半そでのブラウスと、フレア・スカートで、
涼(すず)しげな服装であった。
ベージュ・ブラウンに、かるく染(そ)めていた
肩(かた)にかかりそうな髪をグラデーション・ボブふうに
カットしたばかりだった。
美樹は、セブン・イレブンの店内で雑誌をめくりながら、
信也のクルマの到着を待った。
信也は大学1年のときに、自分でバイトをして買った、
中古の軽(けい)のスズキ・ワゴンRに乗っていた。
美樹のほとんど目の前のガラス越しに、見慣(みな)れた、
美樹にしたら、切(せ)つないような、
懐(なつ)かしさがこみあげてくる、
淡(あわ)いグリーンのクルマが、しずかに停車(ていしゃ)する。
都道420号沿(ぞ)いの、このセブン・イレブンに駐車場はなかった。
手にしていた雑誌をもとの位置にもどすと、美樹はすばやく店を出る。
「しんちゃん、7分も前に到着よ。
社会人になると、時間に厳(きび)しくなるのかしら。すばらしいわ」
美樹はそういって、信也のとなりに座(すわ)りながら、わらった。
「美樹さまの、いきなり、お褒(ほ)めの言葉ですか。
美樹ちゃんを待たせて、怒(おこ)らせたら、大変ですからね」
信也もわらった。信也は、内心(ないしん)、少(すこ)し、あせっていた。
ひさしぶりに、間近(まぢか)で聴(き)いた美樹の声に、
心臓の心拍数が微妙に上昇しているのを感じたのだった。
信也はバック・ミラーに後続車(こうぞくしゃ)が近づいているので、
すぐにクルマを走らせた。
「えーと、美樹ちゃんの家(うち)までは・・・」
「うん、この先の十字路を左折してください」
「美樹ちゃんちに行くのって初(はじ)めてだよね。
ご両親は、お家(うち)にいるのかな」
「いるわよ。しんちゃんに会えるのを、
とても楽しみにしているみたいだわよ」
「えー、なんか、そういうの苦手(にがて)だなあ」
「だいじょうぶよ、さっさと、クルマを置(お)いたら、
公園に行くわよ。
時間がないんだから、邪魔者(じゃまもの)は、必要ないし」
「美樹ちゃんに、お任(まか)せしますよ。ご両親には、
うまく、紹介してください」
「はい、はい。うまく紹介させていただきますわよ。
川口信也(かわぐちしんや)さんは、大学の先輩で、
大学公認のバンド・サークルのミュージック・ファン・クラブ
(通称 MFC)に誘(さそ)ってくださった、
大切な恩人(おんじん)なんです、なんてね」
「そうそう、いま、特に仲良くさせてもらっている男性なんです、
ってことも、お話ししようかしら・・・」
美樹はわらった。信也もわらった。
去年、2011年の春に、大学に入学して、
美樹は学生証の交付も受けた。
しかし、3月11日の、東北の太平洋沖地震等による災害や、
おさまらない余震(よしん)や、計画停電による交通機関の混乱などから、
2011年度の入学式は、すべて中止となったのであった。
そんな混乱の中であったが、大学4年になった信也は、美樹を見つけて、
熱心に、バンド・サークルのMFCに、誘(さそ)ったのであった。
小学2年のころからピアノを習(なら)っていた美樹は、
キーボードが弾(ひ)けた。
シャキーラ(Shakira)という呼び名で親しまれている、
1977年2月生まれの、コロンビアのラテン・ポップ・シンガー・ソングライターを、
美樹はコーピーして、歌うこともあった。
南米(なんべい)独特の明るいリズムやメロディを持つシャキーラは、
目標にするくらいに、美樹は中学生のころから好きだった。
そんな美樹だから、男女あわせて70人ほどもいるバンド・サークルでも、
すぐに注目された。
美樹を、意識する男子学生が何人もいることも、ごく自然な感じであった。
信也が、彼の好きな椎名林檎(しいなりんご)に何となく似ている美樹を、
意識しないわけがなかった。
しかし、サークルの仲間同士で、女子学生の獲得(かくとく)競争に
なるようなことは、ばかばかしくてやってられないと、信也は思うのだった。
『そんな獲得競争、恋愛競争なら、おれは、いち抜(ぬ)ける、やめるよ・・・』
信也はそう決めたのだった。
そんな自分の判断に、自分の本当の心に、誠実ではない、
素直ではないんじゃないかと、思って、迷うときも、なんどもあった。
そんなときは、たまたま読んで、強烈に印象に残っている、
ロシアの文豪・ドストエフスキーの小説
『地下室の手記(しゅき)』の主人公が語る
「苦痛は快楽である」という言葉を思い出したりした。
その言葉は、逆転したテーゼ(肯定的判断)ともいえるわけで、信也は、
なるほど、ドストエフスキーは、現代作家にも影響の深いといわれるし、
偉大な作家なんだなあと、感心するのだった。
しかし、そんな信也を見ていて、どこか子どもっぽいと、
美樹は感じるのであった。
そして、好感や親しみも深まってゆき、美樹の信也に対する呼びかたも、
川口先輩(せんぱい)とか、信也さんとかから、
しんちゃんになっていたのであった。
「どうして、最近、おれって『しんちゃん』になったんだよ」
あるとき、信也がわらいながら、美樹に聞いた。
「だって、信也さん、私の好きな『クレヨンしんちゃん』と
どこか、かぶるんだもん」
そういって、美樹は悪戯(いたずら)っぽく、ほほえんだ。
「おれも『クレヨンしんちゃん』好きなほうだから、まあ、いいけど。
でも、どうせなら、『ワン・ピ-ス(ONE PIECE)』の
ルフィが好きだから、ルフィとかフィルちゃんとか呼んでくれたらいいのに」
そういうと信也は、何がおかしかったのか、腹を抱えるほど、わらった。
美樹が呼び始めた『しんちゃん』は、たちまち、みんなに広(ひろ)まった。
美樹は家の駐車場に、信也のスズキ・ワゴンRを停(と)めさせた。
家にいる両親を外に呼び出して、美樹は信也を紹介した。
母親は、「美樹も、よく、川口さんのことは話してくれています。
私どもも、川口さんなら安心と思っているんです。
これからもよろしくお願いします」といって、ほほえんだ。
「家でゆっくりしていってください」と父親もいった。
信也は「こちらこそよろしくお願いします」といって、
深々(ふかぶか)と頭を下(さ)げた。
「きょうは時間がないから、またね」と美樹はいうと、
信也の手を引っ張(ひっぱ)って、ふたりは、
都立駒場(こまば)公園へと、早足(はやあし)で向かうのであった。
高校や東大の研究センターの横道を抜けると、
歩いて、15分ほどで、
広い芝生や樹の生い茂(しげ)る駒場公園だった。
「このへんにも、いい公園があるんだって、
しんちゃんに見せたかったのよ」と美樹が信也に話す。
「本当だ。立派な公園だね」
「あれが日本近代文学館よ」と、美樹は、グレーの
コンクリート造(つく)りの建物を指さした。
「あっちの建物は、前田侯爵邸(まえだこうしゃくてい)とかいって、
100年くらい前に建(た)てられて、当時は、
東洋一の邸宅と、うたわれたんだって」
「そうなんだ。あとで行ってみよう」
信也はポケットから、アップルの携帯型デジタル
音楽プレイヤーのアイポッド(iPod)を出した。
「おれ、美樹ちゃんのことをイメージして、
歌を作ったんだ。
それをギターの弾き語りで、
これに入れてきたんだけど、
ちょっと聴(き)いてもらえるかな。
タイトルは、迷ったんだけど、
『MY LOVE SONG』にしたんだ」
木陰(こかげ)のベンチに座(すわ)って、
少し照(て)れながら、
時々、美樹の澄(す)んできれいな目(め)を見ながら、
信也はそういった。
かなり、驚(おどろ)いたらしく美樹は、
一瞬、言葉が出なかったが、
頬(ほほ)を紅(あか)らめながら、
「うれしいわ。光栄だし。ぜひ聴かせて」といった。
アイポッドから、切れのいいカッティングの
アコースティック・ギターのイントロが流れて、
その弦の音によく合う、信也の硬質で乾いた歌声が
聴こえてきた。歌の調子はアップテンポのブルースであった。
歌が終わるころ、美樹の目には涙が光(ひか)った。
信也も目頭が熱くなった。信也は、美樹をやさしく抱きしめた。
そして信也は決心をした。
美樹のためにも、この東京でやっていこうと。
純たちと、ライブハウスやバンドをやっていこうと。
≪ MY LOVE SONG ≫
こんなに 夕日(ゆうひ)が きれいなのは
きっと みんなへの 贈り物なんだろうね
こんなに 世界が きれいなのは
きっと みんなへの 贈り物なんだろうね
あんなに あの娘(こ)が きれいなのは
きっと みんなへの 贈り物なんだろうね
なのに なにを 悩(なや)んでいるんだろう
自由に 選(えら)んできた この道なのに
なのに なにを 戦っているのだろう
自由に 選んできた この道なのに
なんで 強く 生きられないのだろう
自由に 選んできた この道なのに
なんで あの娘を 抱きしめられないのだろう
自由に 選んできた この道なのに
Hoo、Hoo、MY LOVE SONG、LOVE IS ALL
(おお、おお、僕の愛の歌、愛こそすべて)
Hoo、Hoo、MY LOVE SONG、LOVE IS ALL
≪つづく≫
3章 家族
8月5日、日曜日の昼どきであった。
大学2年、19歳の、清原美樹(きよはらみき)の家は、
下北沢駅よりも池ノ上駅(いけのうええき)に近い、
東京都世田谷区の北沢一丁目の
静(しず)かな住宅街にある。
庭には、春になると、白やピンクの花の咲(さ)く、
ハナミズキやコブシなどの木が、4メートル以上に、
すくすくと大きく育っている。
その、ハナミズキやコブシの生い茂(しげ)る葉は、
真夏の日差しを遮(さえぎ)って、芝(しば)の多い庭に
涼(すず)しげな半日陰(はんひかげ)をつくっていた。
その木陰(こかげ)の庭には、鉢(はち)に植え替えをしたりした、
色とりどりの、マリーゴールドやサルビア、
八重咲(やえ)のインパチェンスなどの花が咲いている。
時刻は正午を、10分ほど過ぎていた。
玄関のチャイム音がゆっくりと、1回、鳴(な)った。
「はーい」といって、キッチンで酢豚を作っている
美樹の母親の美穂子(みほこ)が、玄関ドアを開(あ)けた。
「やあ、美穂子さん、きょうは、ありがとうございます。
みなさん、お元気ですか。
きょうも晴れて、お天気なのはいいけど、暑いですよね」
わらいながら、そんな挨拶(あいさつ)をして、
薄(うす)いベージュのチノ・パンツと、
Tシャツで、訪(おとず)れたのは、
歩いて5分くらいの近所に住んでいる、
森川誠(まこと)だった。
森川誠は、下北沢を本拠地(ほんきょち)に、
都内で、洋菓子(スイーツ)やパンの店や喫茶店、
ライブハウスなどを展開している、株式会社モリカワの
社長であった。
「誠(まこ)ちゃん、お忙(いそが)しいところを、よく来てくれました」
と、ちょっと、頭を下(さ)げながら、
美樹の父親の清原和幸(きよはらかずゆき)が、美穂子の横で、
満面(まんめん)に笑(え)みを浮かべて、森川誠を迎(むか)えた。
「おっ、和(かず)ちゃん、相変(あいかわ)わらず、男前(おことまえ)ですね」
森川誠はそういって、驚(おどろ)いたように目を見開(みひら)いて、
声を出してわらった。清原和幸も美穂子もわらった。
美樹の父親の清原和幸は、弁護士(べんごし)だった。
下北沢の南口のビルで、法律事務所をしている。
森川誠の会社モリカワの、顧問(こもん)弁護士も引き受けていた。
「森川さんは、人を笑わせることが、本当に、お上手(じょうず)ね。
ぱあっと、まわりを明るくしてしまうんですから。
主人(しゅじん)も、森川さんと一緒(いっしょ)にいると、
高校のころの少年に戻(もど)れると、いっているんですのよ」
そんな話をしながら、美樹の母の美穂子は、ワンフロアのリビングへと、
森川誠を案内する。
「おれも和(かず)ちゃんも少年のころから抜け出せないだけかな。
なあ、和ちゃん」と森川誠。
「まあ、そういうことになるだろうね」と清原和幸。
森川誠と清原和幸は、少年のようにわらった。
清原和幸と森川誠は、同じ年で、
小中高まで、学校も同じで、幼なじみ、遊び仲間の、
無二(むに)の親友だった。
森川誠の足もとに、白に薄(うす)い茶色のまじった毛の、
6歳の雌(めす)のポメラニアンが匂(にお)いをかぐように、
すりよってくる。
「ラムちゃん、元気かな。夏向きに、きれいに毛をカットしてもらったね」
森川は、ふさふさの長い毛の、しっぽをふる、ポメラニアンのラムを、
ちょっと、なでる。
朝と晩の、ラムの散歩は、雨の日以外は、必ず、
家族の誰かとする日課であった。
散歩のコースは、クルマの少ない静かな小道だった。
1週間に1度のペースで、スローなジョギングをする、
森川誠や清原和幸たちのコースと、ほぼ同じ小道だった。
ふたりは、30代後半あたりから、タバコをやめて、
健康のために、時には、一緒(いっしょ)にだったり、
個々にだったりと、ジョギングを始めた。
ふたりは、白髪が、ちらちらと目立つ今も続けている。
リビングの中(なか)ほどにあるキッチンでは、
美樹と姉の美咲(みさき)が料理をつくっていた。
「こんにちは、森川さん」と美樹はいう。
「こんにちは」と美咲。
美樹と美咲は、笑顔で挨拶した。
姉の美咲は、大学を卒業したばかりの、23歳だった。
「いま、おいしいものを、つくってますからね」と美咲。
「よろしく、お願いします、美咲ちゃん、美樹ちゃん。
お二人(ふたり)は、いつのまにか。おとなっぽくなって、
ますます、きれいになっていくから、
いつも、お会いするのが楽しみなんですよ」
森川誠は、ちょっと足を止めて、姉妹を見つめた。
「森川さんったら、褒(ほ)めるのが、
お上手(じょうず)なんだから」と美咲はわらった。
「ほんと、ほんと。あぶない、あぶない。
女性のあつかい上手な森川さんは、ちょっと危険な感じ」
といって、美樹もわらった。
「あら、あなたたち、なんということをいっているの。
森川さんは、本心しか、お話(はなし)なさらないのよ。
いつだって、真実、ひとすじで、とても誠実な社長さんんだから」
と母の美穂子は、自分もこみあげそうな、
わらいを押(お)さえるようにして、そういった。
「真実ひとすじですかあ。ははは、まいった、まいった」
森川誠は、大きな声でわらって、照れるように頭に手をやった。
美穂子と美咲と美樹が料理をつくっているキッチンの隣には、
椅子(いす)が8つと、四角(しかく)いテーブルがあって、
白い皿やビールやジュースのグラスが準備されていた。
庭の軒下(のきした)の半日陰で育てている、料理の風味付けにも使える、
セリ科のチャービル(別名セルフィーユ)や、ブルーのサルビアが、
小さなガラスの花瓶(かびん)に入(はい)って、テーブルを飾(かざ)っている。
テーブルのすぐ横の、南側(みなみがわ)には、ソファが置(お)いてある。
庭を眺(なが)めたり、テレビを見たりする、くつろぎの場所だった。
ソファには、祖母(そぼ )の清原美佐子(みさこ)がいた。
昨夜のロンドン・オリンピックの男子サッカー、3対0で勝った試合、
準々決勝、日本対エジプトの、録画を、テレビで見ていた。
「美佐(みさ)さん、こんにちは。お元気ですか」
森川誠はそういって、美佐子の隣(となり)にすわった。
「はい、おかげさまで、からだの調子もいいですよ。
きょうは、ゆっくりと、過ごしていってくださいね」と、
美佐子は笑顔で、ていねいに頭を下げて挨拶(あいさつ)をした。
テーブルには、美樹のこしらえたゆで卵の入ったグリーン・サラダや
枝まめ、姉の美咲がつくった冷(つめ)たくしたパスタの、
トマトとチーズのカッペリーニ、母親の美穂子がつくった酢豚(すぶた)、
叔母(おば)のつくったナスやキュウリやキャベツの漬物(つけもの)とか、
料理も出そろった。
みんなは椅子(いす)にすわって、にこやかに、「かんぱぁーい(乾杯)」と、
みんなはそれぞれのビールやジュースのグラスを触れ合わせた。
「おれの大好きな酢豚(すぶた)ですね、美咲ちゃん、ありがとう」と、森川誠は、
左隣(ひだりとなり)の美咲に目を細める。
「酢豚つくったのはママよ。わたしはパスタつくりました」と美咲は、
わざと頬(ほほ)をふくらませて、怒(おこ)った顔をした。
「わっはっは。美咲ちゃん、ごめん。おじさんは、もう酔(よ)ってるね。
おれも、和(かず)ちゃんも、すぐ酔っちゃうんだから。ね、和ちゃん、パパ」
森川は、右隣の清原和幸の肩を、軽く手でゆらした。
「しかし、おれたちは、いつまでも、酒は強いよね。酔っても、
乱れないし、つぶれない」と和幸はわらった。
「そうだよな。でも、知らないうちに、つぶれていたりしてなぁ。
人生は、いつでも、うっかりできないもので」
と森川も、声を出してわらった。
「そうそう、パパなんか、外で飲んで帰ってくると、
つぶれっぱなしなんだから。ねえ、ママ」といって、
森川誠の向かい側にすわる美樹は、
おおげさな困(こま)った顔をして、
右隣の美穂子に話をする。
「森川さんもパパも、酔っぱらうと子どもみたいになるけれど、
仕事しているときは、誰にも負けないくらいの、正義感と・・・
なんでしたっけ、男気(おとこぎ)のようなものがある、
いまどき珍(めず)しいくらいの紳士(しんし)なのよ」
美穂子は、美樹や美咲を見ながら、そういった。
「いやあ、どうも、美穂(みほ)ちゃん、褒(ほ)めてもらって。
でも、正義感といえば、おれよりも和ちゃんですよ。
和ちゃんの正義感には、頭が下(さが)がります。
というよりも、和ちゃんの正義感に触発(しょくはつ)されて、
おれも感化されて、正義感を持って、人の上に立って仕事をしてきたら、
会社がどんどん大きくなって来たようなものなんです」
と話しながら、森川誠は、清原和幸から「まあ、まあ」と、
ビールをグラスにつがれて、森川も清原のグラスにビールを注(そそ)ぐ。
「酔っちゃって、身の上話っぽくなしましたね」と声を出して森川はわらう。
「まあ、森川家も、初めは、というと、下北沢の商店街で、
小さな喫茶店を、今は亡(な)き、おばあちゃんが、
ひとりでやっていたんですよ。
おれは、ケーキとかの洋菓子が好きで、
高校を卒業して、洋菓子の店に修行に行っていて、
その3年後くらいに、おばあちゃんの店を継いで、
そこを改装して、洋菓子と喫茶の店を、始めたんです。
おれの弟も、おれに影響を受けて、そんなわけで、
兄弟二人で、がんばって、店の数を増やしていったんです。
そこで、だんだん、わかったんですが、自分の欲が先行していては、
事業は大きくできないし、人の上には立てないんですよね。
そんなころに、和ちゃんの正義感に影響を受けて、
おれも会社も、成長して、来(こ)れたんだと思います」
「誠(まこ)ちゃん、おれを高く評価しすぎ。おれはただ、
困っている人を、法律の力で、なんとか守ってやりたくて・・・。
おれのおやじが、やっぱり弁護士で、おやじは確かに、
正義感が、人一倍(ひといちばい)強い人だったと思うけど。
でもね、誠(まこ)ちゃん、人間って、自分やお金のためには、
そんなに強くなれないものだけど、人のためなら、
強くなれるんじゃないのかな」
と、清原和幸は、上機嫌(じょうきげん)なようすで、笑顔も絶(た)えない。
「そうそう、そうなんだよね。自分のためなら、そんなに勇気も
意欲もわかないけど、人のためなら、がんばれたりするよね。
それが、正義感ってやつで、不思議な力の源(みなもと)で、
逆説的だけど、結果的に、いつのまにか、人のためにやることが、
自分のためになったりするんだよね、なんか不思議だよね・・・」
そう語りながら、森川は、おいしそうに、ビールを飲んで、酢豚をつまんだ。
「そうそう、美咲(みさき)ちゃんも、いま、予備試験を受けているんだってね。
見事(みごと)に、受(う)かれば、法科大学院に通(かよ)わなくたって、
司法試験を受けられるんだから、美咲ちゃん、すごいよ、超優秀!
司法試験とかの合格祝(ごうかくいわ)いのパーティは、
ぜひ、わたしにさせてください」
森川は、そういいながら、左隣の美咲のグラスに、ジュースを注(つ)ぐ。
「森川さん、ありがとう。わたしも、弁護士を目指して、猛勉強しているの。
いまのところ、予備試験も、7月にあった論文式までは、
なんとかクリアーな気がしているんです。おかげさまで」と美咲。
「お姉ちゃんは、すごい猛勉強をしているのよ、森川さん。民法の本とか、
自分で声を出して読んでいるのを、録音して、それを家の中で、
いつも流して聴(き)いているんだから。わたしたちも、それを、
毎日のように聴かされるんです。きょうは、まだ、そのお経(きょう)にたいの、
流れていないんですけどね。知らず知らず、その聴かされる民法を、
覚えていたりもするんです。そのくらい、がんばらないと
覚(おぼ)えられないんでしょうけど。
わたしには、とても、お姉ちゃんのマネはできないです!」
そういって、無邪気で、ほほえましくなるようで、どこか、はにかむ、
美樹の笑顔を、みんなは見ながら、わらった。
「そうそう、森川さん、今度、森川さんの会社に、川口信也さんが
入社されるんですよね。わたしの大切な先輩ですので、
どうかよろしくお願いします」
といって、美樹は椅子から立ち上がって、テーブルの向かいの森川に、
ていねいに頭を下げた。
「美樹ちゃん、その話は大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。
わたしの次男の純(じゅん)と同期の親友ですから。
純が、あの男ならと、認める友達ですから。
わたしたちが、しっかりサポートして、
川口信也さんには、いい仕事をしてもらいますから。
そうか、うちの純と川口信也さんは、美樹ちゃんの大学の、
今年卒業の先輩だもね。
大学公認のバンド・サークルの、ミュージック・ファン・クラブ、
なんていったっけ、そうそう、よく純が、MFC、MFC、
っていっている、そのサークルで、美樹ちゃんと、楽しく、
1年間を過ごしてきたんだったよね。
川口信也さんは、できるかぎりの最高の待遇を用意します。
美樹ちゃんも安心していてください」
森川は、美樹に、社長らしい自信ありげに、優しくほほえんだ。
≪つづく≫
4章 多摩川(たまがわ)花火大会
「陽(はる)くん、ひさしぶり。元気でやっている?」
清原美樹(きよはらみき)は、自分より15センチくらい背の高い、
松下陽斗(まつしたはると)の、バリカンで刈(か)り上げた
短い髪(かみ)を、めずらしそうに見ながら、
最上級の笑顔をつくって、そういった。
高校のときは、陽斗は、アーチストっぽい、長い髪だった。
「元気だよ。美樹ちゃんも美咲(みさき)ちゃんも、浴衣(ゆかた)が、かわいいじゃん」
陽斗(はると)は、短くした髪を、ちょっと恥(はず)ずかしそうに、手でさわった。
「陽(はる)くん、ありがとう。わたしは、かわいいっていわれると、うれしいわ」
今年、慶応(けいおう)大学を卒業して、弁護士を目指している、
美樹の姉の美咲は、ほほえんだ。
・・・陽(はる)くんの眼(まな)ざし。まつ毛が長くて、涼(すず)しげなのに、
いつも、どこか情熱的で、やっぱり、アーティストか
ミュージシャンっぽいなぁ・・・。美樹は、今もそう思う。
松下陽斗は、美樹と同じ歳(とし)の、今年で19歳。
去年の春まで、ふたりは、同じ、都立の芸術・高等学校の学生だった。
その学校は、高等学校の普通教育をおこないながら、
音楽、美術の専門教育を おこなっていた。
教育目標は、高い理想をもって、文化の創造と発展に貢献できる、
心の豊かな人間の育成をはかる、というものだった。
しかし、今年の2012年、創立から40年であったが、
3月31日の土曜日をもって、その芸術・高校は閉校(へいこう)になった。
芸術・高等学校は、世田谷区の隣(となり)の目黒区にあった。
京王井の頭線(けいおういのがしらせん)を利用すると、
下北沢駅からは、池ノ上駅を通過して、
駒場東大前駅を下車。そこから徒歩で8分という位置だった。
美樹と陽斗(はると)は、音楽科の鍵盤楽器(ピアノ)を学(まな)んだ。
家は、ふたりとも下北沢近くだったから、
学校の帰り道は、よく、ピアノのことや将来の夢など、話しながら歩いた。
ふたり仲よく、下校する姿は、他の生徒たちや
行き交(か)う人たちから見れば、仲のよいカップルに見えたのだろう。
美樹にしてみれば、松下陽斗(まつしたはると)との結(むす)びつきは、
友情なのかもしれないし、恋愛感情なのかもしれない、
その判別が、あいまいで、はっきりしないままの、3年間の高校生活であった。
美樹にとって陽斗は、気の合う、楽しいボーイフレンド(男友だち)には違(ちが)いなかった。
ところが、高校の卒業間際(まぎわ)、陽斗(はると)は、美樹に、美樹の姉の
美咲に好意を持っていることを、打ち明けたのだった。
その突然の陽斗の告白に、大切にしていた何かを、なくしてしまったような、
喪失感(そうしつかん)に、美樹の心は揺(ゆ)れた。
しかし、美樹は、愛のキューピッド(天使)みたいに、
陽斗(はると)に頼(たの)まれたとおりに、姉に陽斗の気持ちを伝えたり、
姉のメールアドレスを、陽斗に教えたりもしたのだった。
姉の美咲は、表向きは困(こま)った顔をして、迷惑(めいわく)そうに
していたのだが、内心は、悪い気はしないようであった。
「美樹ちゃん、心配しないで。美樹ちゃんの大切にしているものを、
壊(こわ)したりしないから。
陽斗(はると)くんの、相談相手になることくらいしか、わたしにはできないんだから」
美樹の気持ちを察して、そんなふうに、美咲はいうのだったが、
嫉妬(しっと)のような気持ちを感じる、美樹だった。
美樹は、美咲や陽斗に対して、無関心で、よそよそしい態度が、しばらく続いた。
早瀬田(わせだ)大学に入学した美樹が、大学公認のバンド・サークルの
MFC(ミュージック・ファン・クラブ)に入って、音楽に熱中したのも、
そのトラウマ(心的外傷)のような、その複雑な心境を、解消するためでもあった。
男女あわせて70人くらいの、バンド・サークルで、川口信也たちと出会った。
現在、松下陽斗(まつしたはると)は、東京・芸術・大学の音楽学部、
ピアノ専攻の2年。
父親は、下北沢駅近くで、ジャズ喫茶を経営している。
ジャズの評論とかも、雑誌に書いている、ジャズの著作家だった。
美樹は早瀬田(わせだ)大学の教育学部の2年。美樹は進路に迷(まよ)っていた。
芸術;高校の生徒たちの中で、自分には特別な才能があるという、
自信が持てないのだった。現在、美樹は、中学校の教師になろうと、
漠然(ばくぜん)と思っている。
「わたしたちの芸術・高校は、なくなっちゃったね」
美樹の満面(まんめん)の笑みが、一瞬だけ消えた。
「しょうがないね。時代の流れってやつだから。
おれらの学校は、完全になくなるんじゃなくて、新宿(しんじゅく)の
総合芸術・高校に受け継がれるというから、まだ、よかったよ。
また、こうやって、一緒(いっしょ)に、花火なんて、
うれしいよ。高校のころの気分を思い出せそうで。
でもきょうは、大勢(おおぜい)だなぁ、女子高生もいたりして。
何人いるのかな?」
陽斗(はると)は、小田急線の成城学園前駅・南口に集(あつ)まった、
みんなを眺(なが)める。
「みんなで、12人だよ。予約したテーブル席(せき)が、
12あるから、ちょうど、12人に、お集(あつ)まりいただきました」
森川純(もりかわじゅん)が、陽斗にそういった。純の思いつきで、
みんなを招待したという形の、今回の花火の見物であった。
はじめ、陽斗(はると)は、美咲(みさき)と、ふたりで、この花火大会に行く予定だった。
純が、陽斗に、花火大会のことで、メールしたら、
それだったらと、予約席を用意するから、一緒にいこうという話になったのであった。
8月18日の土曜日の午後4時であった。
上空は、雨雲などない、よい天気だった。
集まった、みんなは、12人。
清原美樹(きよはらみき)、清原美咲(みさき)、松下陽斗(まつしたはると)。
早瀬田(わせだ)大学1年のときに結成して、卒業とともに解散して、
また再結成が実現した、
ロックバンドのクラッシュ・ビート(Crash Beat)のメンバーの4人。
ドラムスの森川純(もりかわじゅん)、
ヴォーカル、リズムギターの川口信也(かわぐちしんや)、
ベースギターの高田翔太(たかだしょうた)、
リードギターの岡林明(おかばやしあきら)。
岡林明の妹の高校1年、15歳の香織(かおり)、
香織の友だちの女子高生が3人。
高田翔太と、仲のよい早瀬田(わせだ)大学3年の山沢美里(やまさわみさと)。
そんな男女、12人であった。
2012年で、34回目を迎(むか)える、
世田谷区の夏の風物詩、世田谷区・多摩川(たまがわ)花火大会は、
多摩川の水辺(みずべ)、
二子玉川(ふたこたまがわ)緑地運動場でおこなわれる。
昨年は、東日本大震災の影響で、休止であった。
花火という、音と光の芸術を、楽しもうと、
未来への希望をのせて、およそ6500発の、
華(はな)やかな花火が打ち上げられる。
5時30分には、ステージ・イベントの
オープニング・セレモニーとして、
高校生の和太鼓部(わだいこぶ)による演奏や、区民の合唱団による合唱、
囃子(はやし)保存会による囃子などが披露(ひろう)される。
交通渋滞(こうつうじゅうたい)もあるので、成城学園前駅・南口から、
二子玉川緑地運動場まで、みんなは歩いていく。
花火の実行委員会も、交通渋滞のために、徒歩を推奨(すいしょう)する。
徒歩で片道30分から40分くらいかかるのだが、それも楽しいものだった。
森川純が、観覧(かんらん)スペースの最前方の、
丸テーブルと椅子(いす)の12席を、用意してくれていた。
「しかし、想定外(そうていがい)だったなぁ。
おればかりじゃなく、翔(しょう)ちゃんも、明(あきら)も、
純に説得されて、純のご尊父(そんぷ)の経営する会社・
モリカワに入るとは・・・。
おれらの、クラッシュ・ビート(Crash・Beat)のバンドが、
そのまま、モリカワに入社するわけじゃん・・・」
そんなことをいいながら、川口信也は、
そのうしろを歩く、高田翔太や岡林明を見て、わらう。
川口信也と森川純は、12人の先頭を歩きながら、
会社・モリカワの仕事のことや、バンド活動のことなど、
終わりのない、果(は)てのない話をしている。
「純は、話の持っていきかたが、うまいよ。いつもそうだよな。
モリカワの経営計画や経営戦略とか、説明されて、
マジ、びっくりしたし、感動したよね。
モリカワが、レストランとライブハウスの合体したような店を、
東京を始めに、全国に展開していくという、事業計画。
実現すれば、すごいことになっていくね」
高田翔太は、前を歩く、森川純や川口信也や、
となりを歩く、いつもどこ吹く風という感じの、岡林明に、そう話した。
「下北沢にある、ライブ・レストラン・ビート(Beat)を、1号店として、
新宿や池袋とか、東京のあちこちに、姉妹店を展開して、
そして、全国展開を考えるなんて、壮大な計画だよね。
インターネットをフル活用するっていうし。
おれたちを、会社経営の中枢(ちゅうすう)の、
重役(じゅうやく)ポストで迎えてくれるってことも、気に入ったし。
レストランやライブハウスのサービス業だから、休みも少ないだろうと思ってたら、
週の2連休や大型連休もあって、年間休日は、120日あるっていうし。
まあ、それくらい、休日がないと、労働意欲も続かないんだけど。
休日は、これからも、増(ふ)やせるだけ、増やしていくっていう
社長のスケールの大きさっていうか、人間性の豊かさもいいよね。
いまの社会じゃ、入社しても、23歳なんて、新人の見習いだろうし、
将来の夢とか、自由なんて、なかなか、持てそうもないしね。
モリカワ、ばんざーい、ってところかな。なぁ、翔(しょう)ちゃん」
岡林明は、そういいながら、隣(となり)の、高田翔太と肩を組(く)んだり、
ストレッチでもするように、晴れわたった青空に、両手を広(ひろ)げる。
「なんてたって、信(しん)ちゃんが、山梨からもどってくるから、
おれらのバンドが、またやれることが最高だよね。
職場が同じで、休日も同じ。いいことばかしって、感じかな?」
高田翔太は、そういうと、前を歩く、森川純と川口信也の肩を、1度ずつ
すばやく、軽く、たたいた。
「仕事となると、いろいろと大変だとは思うけど。よろしく。
4年間、大学とバンドで、つきあってきた、信頼とかチームワークを、
このモリカワの仕事に生かしたいと、考えたんだよ」
と森川純はいって、わらった。
「みんな、がんばってー!」と、うしろから、何人かの女子高生たちが叫(さけ)ぶ。
みんなに、明るい笑い声がもれた。
「なんで、こんなに、女子高生がいるんの?」と川口信也が森川純に聞く。
「席が余(あま)ちゃったのと、彼女たち、近頃(ちかごろ)のオトナというか、
オヤジたちに、ウザイとか、ムカツクとかいって、幻滅(げんめつ)しているようだからさ。
おれだけでも、点数を稼(かせ)ごうかと思って・・・。女子高生は好きだし」
そういって、純はわらった。信也(しんや)や翔太(しょうた)や明(あきら)もわらった。
早瀬田(わせだ)大学を卒業したあと、山梨県の実家に帰って、就職していた、
川口信也も、この10月には、モリカワに勤(つと)める。
暮らすためのマンションも、下北沢駅の近くに、契約済(けいやくすみ)であった。
みんなは、コンビニに立ち寄ると、
好(この)みの飲み物やビールや軽食やお菓子を買った。
森川純が用意した、2つの携帯用のポリエステル製の
クーラー・ボックスに、それらを入れた。
男たちは、「はい、交替(こうたい)」と、ふざけ合いながら、
それを肩からかけて、歩いた。
小田急線の成城学園前駅・南口から、花火の会場の
二子玉川(ふたこたまがわ)緑地運動場までの道は、
クルマの混雑を避(さ)けて、かなりの数の人たちが歩いている。
浴衣姿(ゆかたすがた)の男女も、数多く歩いていた。
美樹たち6人の女の子たちと、松下陽斗(まつしたはると)は、
みんなの1番うしろを歩いている。
女子高生も、ほかの女性も、みんな、
前もって、相談していたかのように、
涼しげで、色も鮮(あざ)やかな、
木綿(もめん)、単(ひとえ)の、浴衣(ゆかた)姿だった。
「陽斗(はると)さんって、イケメンだよね」と女子高生のひとりがいった。
「そうそう、イケメン。きっと有名な、ピアニストになるよ。
わたし、陽斗さんの、追(お)っかけになるから、きっと・・・」
無邪気(むじゃき)に、香織がそんなことをいっては、
みんなで、わらって、盛り上がる。
「陽斗さんって、天才的よね。権威のあるピアノコンクールで、
初出場で、いきなり、第2位に入賞しちゃうんだから」
大学3年の山沢美里が、興奮気味(こうふんぎみ)にそういった。
「やあ、まぐれですよ。でも、コンクールっておもしろいですよ。
2位じゃ悔(くや)しいから、今度は1位を狙(ねら)いますよ」
松下陽斗(まつしたはると)は、少年のように目を輝かせながら、
顔を紅(あか)らめてわらった。
「すごーい」
「すごい、すごい」
「陽くんなら、1位とれるから」
女子高生たちや美里や美樹や美咲たちから、そんな歓声(かんせい)が上がった。
そんな松下陽斗(はると)の、若くてスター性のある才能に惚(ほ)れこんだのが、
森川純であった。
ライブハウスを展開するモリカワの、専属のミュージシャンとして、
純は、陽斗と、友好的で、継続的な契約を交(か)わすことに成功する。
クラシックやジャズやポピュラーなどの広いジャンルの音楽を、
感性豊かな、高度な、ピアノ演奏で、弾きこなして、聴衆を魅了(みりょう)してしまう。
そんな松下陽斗を、そろそろ、世間やマスコミも注目すると、純は予想している。
多摩川(たまがわ)の水辺(みずべ)の、
二子玉川(ふたこたまがわ)緑地運動場に設置された会場は、
人々(ひとびと)であふれるばかりであった。
4時ころには、みんなは、森川純が用意してくれた、
隣(とな)り合わせの、2つの丸いテーブルに、落ち着いた。
花火打ち上げ前の、独特の高揚感(こうようかん)や
雰囲気(ふんいき)の中で、軽食などをつまみながら、
みんなは、自由気ままな会話を楽しんだ。
女子高生が4人もいるので、若々しい会話が弾(はず)んだ。
5時30分には、ステージ・イベントのオープニング・セレモニーの、
高校生の和太鼓の演奏。そして、区民の合唱団による合唱。
囃子(はやし)保存会による囃子などが披露(ひろう)された。
やっぱり、夏祭りの、太鼓の音って、からだに響(ひび)いてくるから、
気持ちいいなぁ・・・と美樹は思った。
会場に集まった、美樹たちや、たくさんの人々は、
夏祭りふうのセレモニーに、酔(よ)いしれた。
あたりが暗くなり始めた、夜の7時、花火のオープニングを飾(かざ)る、
連発仕掛(しか)け花火の、スターマインが打ち上げられた。
何十発もの花火玉(はなびだま)が、テンポよく打ち上げられる。
夜空に、つぎつぎと、色鮮(いろあざ)やかな、花が咲き、消えてゆく。
ドン、ドドドーンと、炸裂する、その心地よい音は、からだの奥や、腹にもしみる。
ポップでキュートな連発の花火もあれば、特別に作り上げた10号玉が、1本ずつ打ち上がる。
ふと、美樹は、なぜか、夜空を色鮮(あざ)やかに染(そ)める、花火の美しさと、
爆発音の中で、強い孤独感のようなものを、感じてしまうのであった。
・・・こんなに楽しい夜なのに、花火の儚(はかな)さが、やけに、哀(かな)しい。
前は、こんなじゃなかったのになぁ。もっと無邪気(むじゃき)で明るかったのに・・・
美樹の目には、誰にも気(き)づかれないような、涙がうっすらと浮かんだ。
でも、姉の美咲は、美樹のそんな様子に気づいて、美樹の手をしっかりと握(にぎ)った。
「美樹ちゃん、だいじょうぶよ。何も心配しないでいいんだから。
わたしは、いつでもあなたを、1番に、大切に思ているからね。
わたしもあなたに、いろいろと、心配かけてごめんね」
美樹の耳元で、美咲は笑顔で、そう、ささやいた。
「お姉ちゃん・・・」といって、美樹は美咲を見て、ほほえんで、
美咲の差し出したハンカチーフで涙をぬぐった。
美咲は、松下陽斗(まつしたはると)とは、これ以上、
特別な交際をしないことを、あらためて心に誓(ちか)うのであった。
夜の8時近くには、フィナーレ(最後の幕)の、いよいよ佳境(かきょう)がやってきた。
大音響の爆発音をともなって、8号の花火玉の100連発が、次々と打ち上げられる。
時が止(と)まったように、夜空が、赤や青や緑(みどり)や紫(むらさき)や黄色の大輪の花たちで、
明るく染(そ)まる。
そして、連発仕掛(しか)け花火の、スターマインが打ち上がって、
金色や銀色にキラキラと、ひかり輝(かがや)いて、
滝の流れのような、広大な空中のナイアガラが、夜空に出現(しゅつげん)する。
夜空に描(えが)かれた、光のファンタジー(幻想)、爆発的なエネルギーの音、
鮮烈にきらめく色彩の数々、そんなアートの世界に、すべての人は酔いしれた。
会場は、終始、歓声や、ため息、明るいわらい声に、つつまれていた。
夜の8時過ぎには、およそ6500発の花火は、すべて全部打ち上げられて、
全プログラムは終了となった。
≪つづく≫
5章 親友
10月21日の日曜日の午前10時であった。
このところ、台風の影響で雨も多かったが、
吹く風も気持ちよく、空は晴れわたっていた。
清原美樹(きよはらみき)は、
仲のいい小川真央(おがわまお)と、
京王電鉄の下北沢駅の次(つぎ)、
池の上駅(いけのうええき)の、
出入口(でいりぐち)すぐ近くにある
スリーコン・カフェで待ち合わせをしている。
真央は、美樹と同じ早瀬田大学の2年生である。
教師の本採用は、むずかしい世の中であったが、
それでも、とりあえず、
ふたりは教員免許を取得するための勉学をしていた。
「美樹ちゃん、元気?待たせちゃったかな?」
「うん、ぜんぜん、待ってないよ。わたしも、さっき来たばかり」
ふたりは、ほほえんだ。
店内にはピアノのクラシック曲が流れている。
お手拭(てふ)きや、評判のいいおいしいコーヒーは、
トレーで、自分で、席まで運(はこ)ぶ。
店の前には、オレンジやイエローの花の咲く花壇もある。
店の間口(まぐち)は狭(せま)いが、奥に深く、
手前は禁煙席と、その奥は、
ガラス窓で仕切られた喫煙席となっている。
どちらにも15席くらいがあった。
ふたりは、入り口付近の禁煙席のテーブルについた。
「もう、美樹は・・・。信也(しんや)さんのマンションに行ってあげるなら、
わたしなんか、お邪魔虫(じゃまむし)だと思うけどなぁ」
「真央(まお)、そんなことないわよ。だって、信(しん)ちゃんのマンションに、
ひとりで行くのって、まだ、なんか、勇気がいるんだもん」
「あぁぁ、美樹ちゃんの、そういうところが、わたしには理解できないところかも。
わたしだったら、さっさと、ウキウキ、ドキドキしながら、
しんちゃんのマンションに行っちゃうわよ。
まあ、美樹らしいっていえば、らしいけど」
「わたしだって、ひとりで、マンションへ行くときがあるわよ。
これからは・・・。きょうは初日だから・・・」
「なにごとにも、慎重(しんちょう)な、美樹ちゃんの考え方を、
見習(みなら)うこともよくある、わたしだけどね。
男って、どうも、移(うつ)り気(ぎ)だし、
熱(ねっ)しやすく冷(さ)めやすいところも、多々(たた)あるわよね。
わたしたちは、そんな男性を相手にするんだから、
美樹ちゃんくらいの、スローペースが、ちょうどいいのかもしれないわ」
「うんうん、わかってくれる、真央。
経験豊富な真央にそういわれると、わたしも元気も出てくるわ」
ふたりは声を出して、少女のようにわらった。
美樹と真央とは、同じ下北沢に住む幼馴染(おさななじ)みであった。
小学校、中学校は同じであったが、高校は違っていた。
そしてまた、大学で一緒になったのだった。
口喧嘩(けんか)もしたし、ほとんど、交流のない時期もあったが、
いまでは、何でも話し合える無二(むに)の親友であった。
真央は、けっして、わたしのようには家庭環境も恵まれていないのに・・・。
真央のお父(おとう)さんは、この不景気で、現在、失業中なのに。
そのぶん、真央のお母さんは、がんばって、働いている・・・。
そんな真央は、一生懸命(いっしょうけんめい)、
アルバイトもしながら、大学に通っている。
わたしが、誘(さそ)えば、こうして、よろこんで来てくれている・・・。
真央と一緒(いっしょ)にいると、たとえ、困難な境遇の中でも、
わたしたちには、不可能なことなど、何もなくて、
なんでも達成可能なような、そんな勇気や元気が
湧(わ)いてくるんだから。不思議よね、この人って。
忙(いそが)しさの合間(あいま)にも、真央は、ちゃんと、
かわいらしいピンクのネイルアートもしているのよね・・・。
そんな真央の、女性らしさっていうか、
優(やさ)しさというか、強さみたいなのが、きっと、
わたし以上に、男の子に好かれる理由なのかしら・・・。
美樹は、テーブル越しの、真央(まお)の、
いつも明るい瞳(ひとみ)を見つめながら、
親友っていいものだなぁ・・・と、
しみじみしたとありがたさを感じていた。
「しんちゃんは、ドッグ・ハムチーズセットを食べたいって。
わたしたちも何か買っていって、みんなで食べようね」と美樹がいった。
「うん。じゃあ、早く、しんちゃんちに、行ってあげようよ。
きっと、お腹(なか)すかしているわよ」
真央はそういうと、長い黒い髪が揺(ゆ)れた。
美樹と真央は、ほほえんだ。
川口信也は、この10月7日に、大学の親友、森川純の父親、
森川誠が経営する株式会社モリカワに就職したばかりであった。
そのため、山梨県から、世田谷区代沢2丁目のマンションに越(こ)してきた。
部屋が2つと、ダイニングとキッチンがある、2DKだった。
そのマンションは、池の上駅(いけのうええき)の南側、
駅から歩いて5分ほど。下北沢駅までは8分ほどの位置だった。
≪つづく≫
6章 信也のマンション (その1)
川口信也(かわぐちしんや)は、大学卒業後、
山梨に帰ったものの、同じ商学部の友人、
森川純(もりかわじゅん)の父親の経営する株式会社モリカワの、
ライブハウスの経営を、東京を初めとして、
全国展開するという話に乗って、
森川純たちと仕事をすることに決めた。
そして、この2012年の10月から、東京の下北沢の町にある、
マンションを借りて暮らし始めた。
2DKのマンションを、ひと月13万円の賃料(ちんりょう)で借(か)りた。
東京の相場(そうば)では、部屋が2つとダイニングとキッチンの、
2DKは、アパートならば、10万円くらいと、
マンションよりは、3万円ほど安(やす)かった。
信也は、その3万円の差に、ちょっと迷ったのだが、
学生のときはアパートだったことや、
株式会社モリカワでの初任給は26万円で、
課長という役職手当(てあて)が3万円なので、
合計29万円になることもあって、
「余裕じゃん」と、マンションに決めた。
山梨に戻って、勤めた会社の信也の初任給は20万円だった。
川口信也の田舎(いなか)の、山梨県では、
2DKのマンションが、5万から6万円くらいで借りられるのだから、
今借りているマンションの13万円という、
その差には、信也もちょっと驚(おどろ)いた。
しかし、いまの給料は29万円、山梨のときは20万円なのだから、
住居費を差(さ)し引(ひ)くと、手もとに残る金額は、
どちらも、15万円くらいになるわけで、
信也は、「なんなのだ、これは?」と、
そんな変なところに、妙に、感心したり、
苦笑いをしたり、納得したりしていた。
株式会社モリカワでは、森川純の父親の、
社長の森川誠(まこと)と、森川誠の弟である、
副社長の森川学(まなぶ)の、
強い推挙(すいきょ)で、
早瀬田大学の商学部を卒業して入社したばかりの、
バンド・サークルのMFC(ミュージック・ファン・クラブ)の、
ロックバンドのクラッシュ・ビート(Crash Beat)のメンバー、
森川純や川口信也、
高田翔太(たかだしょうた)、岡林明(おかばやしあきら)の4人が、
課長職についた。
そのような新たな経営体制で、
ライブハウスの、東京での展開、次に全国展開という、
壮大なプロジェクト(計画事業)を
開始することになったのであった。
現在、居酒屋や喫茶店などの外食事業も幅広く開始している、
正社員だけでも300名を超えている株式会社モリカワでは、
この4人の若者の大抜擢(だいばってき)が話題になった。
おおよそ、この人選は、「あの目標やスケールの大きい、
社長たちのやることだから」と、
社員たちには好意的に受け入れられた。
下北沢で、洋菓子(スイーツ)やパンを売る小さな店だった、
株式会社モリカワの、この10年間ほどの急成長や、
斬新(ざんしん)な経営は、
しばしば、雑誌などのマスコミでも取り上げられるほどだった。
社長や副社長は、一種、カリスマ的な雰囲気の存在感であった。
川口信也のマンションの玄関のチャイムがゆっくりと1度だけ鳴(な)る。
テレビ・ドアホンの広角ワイドな、
カラーの大型・モニター画面には、
清原美樹(きよはらみき)と小川真央(おがわまお)の、
映(うつ)っていて、笑い声が聞こえる。
いまさっき、鏡を見て、あわてて、髪の寝癖(ねぐせ)を、
水をかけて直(なお)したばかりの、
信也は、「よお、よくきてくれました」と、意識した明るい声で、
玄関のドアを、丁寧(ていねい)に開(あ)けた。
≪つづく≫
6章 信也のマンション (その2)
信也のマンションは、清閑な住宅地にあって、
3階の1番端(はし)で、駐車場も駐輪場やバイク置場もあった。
清原美樹(きよはらみき)と、小川真央(おがわまお)は、
ふたりとも、ロングのボリューム・スカートに、
ブラウスやTシャツを重ね着したりして、
秋向けの女性雑誌に載(の)っていそうな優雅な雰囲気だった。
ドアを開けた信也は、そんなふたりを前に笑顔で、いまさっき、
いったように、また、「よォ!」といった。
「深まりゆく秋って感じの、ロングスカートで、
おふたりさん、なかなか、色っぽいじゃん」
そんな自分の言葉に、照れて、
信也は声を立てて、笑ってしまう。
「ありがとう」と美樹はいってほほえむ。
「ありがとう。わたしはミニスカートで来ようかと思った」
と真央はいい、信也と目を合わせて、わらった。
「ヒイェー、もし、ふたりとも、超ミニスカートなんかだったら、
おれは、目のやり場に、困(こま)るし」
三人は、また、わらった。
美樹の目のきわの、あわいブルーのアイシャドウ。
真央のほおのオレンジ系のチーク。
信也は、ふたりが精いっぱいの、よく似合う、かわいい、
おしゃれをしていることを、瞬間に、感じた。
美樹は身長が158だから、真央は160くらいなのかな、
そんなことも、一瞬のうちに、信也の頭を過(よぎ)った。
「まあまあ、早く、入ってください。おれの新居っす」
「おじゃましまーす」と、同じことを、
ほとんど、いっしょに、美樹と真央はいう。
「テレビ・モニター付きなんて、女性にも安心ね」と、真央。
玄関を入ると、まあたらしい、ふわふわした芝生(しばふ)の
感触(かんしょく)の、楕円(だえん)のグリーンのフロアマットが
敷(し)いてある。
玄関の右側には、白いシューズボックスがあり、
靴(くつ)を脱(ぬ)いであがると、玄関フロアの右隣には、
トイレがある。
玄関フロアの、正面のドアは開(ひら)いていて、
その向こうは、9.5畳のダイニングがある。
ダイニングには、買ったばかりらしいテーブルと、
心地(ここち)よさそうな背もたれのついた椅子(いす)が、
4つ置いてある。
美樹と真央は、さっきまで、ふたりでお茶をしていた、
池の上駅(いけのうええき)前の、スリーコン・カフェで買ってきた、
特製ピザトーストとかを、テーブルにひろげた。
「しんちゃんのご注文の、ドッグ・ハムチーズセットも、
おいしそう」と美樹。
「お、ありがとう。いま、おれ、コーヒーでもいれるから」と信也。
「わあ、こっちはキッチンなのね。今度来たときには、
わたしたちで、何か料理つくってあげなければね」と真央。
「うん」と美樹はうなずいて、美樹と真央は、
システム・キッチンのある台所へ入った。
システム・キッチンは、ダイニングの北側の
引き戸(ひきど)越(ご)しにある。
そのシステム・キッチンの前にある窓は、
北側の外の通路に面している。
ダイニングの西側には、
洗面所とバスルームが独立してあった。
ダイニングの南側には、
6.5畳の洋間が2つあった。その洋間の南側には、
掃出しの窓があって、外はベランダとなっていて、
洗濯ものも干(ほ)せた。
≪つづく≫
6章 信也のマンション (その3)
「しんちゃんの部屋って、広いんじゃない、
2DKなんでしょう。このダイニングじゃあ、
リビングにも使えて、リビングつきの、2LDKって感じもする」
と真央が、初めて見る信也の部屋に、目を輝かせて、いう。
「そうだね、49平方メートルはあるから、無理すれば、
2LDKにもできるのかな。50平方メートルくらいから、
2LDKってあるらしいから」と信也は、なぜか照れるように、
頭を指でかきながら、真央に答(こた)える。
美樹は、そんな信也のシャイなしぐさが好きでもあった。
「しんちゃん、ひとりでは広すぎるよ。早く、誰かと住まないと・・・」
と美樹は、真面目な顔をして、
わざと年上の姉貴のような感じで、信也を見る。
「そのうち、ルームシェア、してもいいしね。
職はない、住まいはないっていう若者も、
東京に多いようだし」と、信也は真剣な表情で、
目下(もっか)、そう考えている最中(さいちゅう)というふうにいう。
「やだぁ、しんちゃん、変な人と、ルームメイトなんて
しないようにね、って、
わたし、もう、そんな心配してる・・・」といって、
美樹は真央と目を合わせて、わらう。
「美樹は、すぐ、心配するんだから。シェアハウスって、
この下北(しもきた)にも、結構(けっこう)あるらしいし。
部屋が4畳半くらいから6畳くらいで、
家賃が3万から5万くらいらしいわ。
自分だけで、部屋借(か)りる場合と比べれば、
ちょっと、貯金とかもできるかもよね。
不便かも知れないから、その人の考えかたよね」
と真央は、ひとりごとのように、長々と話した。
ふたつの6.5畳の洋間の、南向きの、
青緑がかったグレーのカーテンからは、
秋のおだやかな陽(ひ)の光(ひかり)が差し込んでいる。
東側の6.5畳の洋間には、こたつテーブルや、
ノートパソコンが置いてあり、
ベッドがあり、40型のテレビもある。
西側の6.5畳の洋間には、
フェンダーのテレキャスターというエレキギターと、
ギブソンのアコースティック・ギターの2本が、
ギタースタンドに立てかけてあって、
小型のアンプとかもある。
「このバンド知ってる。ミッシェルよね。わたしも好き。
へえー、しんちゃんは、ミッシェルが好きなんだぁ」と、
真央が、壁(かべ)に貼(は)りつけてある、
ミッシェル・ガン・エレファント(THEE MICHELLE GUN ELEPHANT)
のピンナップの写真を眺(なが)めた。
ギターの置いてある部屋には、ビートルズやザ・クラッシュや
ミッシェル・ガン・エレファントのピンナップが、張(は)ってあった。
「そのピンナップは、おれが10歳のときに、買った、
ロック雑誌の付録だったんだ。
ミッシェルでギターやっていた、アベ・フトシが好きでさ。
いまでも、おれのギターの師匠(ししょう)さ。
10歳のガキだったおれは、ませたガキで、
アベさんのようなカッティングのできる
ギターリストになりたいと思ったものさ・・・」
ピンナップの写真の中で、1番左(ひだり)のソファに座(すわ)る
アベ・フトシを、信也は、まぶしそうに、
いまも、憧(あこが)れを込めて、見つめる。
「アベさん、かっこいいもんね。なのに、死んじゃって、かなしいわ」と美樹。
「うん、とても、かなしい」と真央。
「今夜は、美樹ちゃんも、真央ちゃんも、時間空(あ)いてるかな。
おれ、ふたりに、成人のお祝いをしてあげたいんだ。
美樹ちゃんは、この10月に、誕生日迎(む)えたばかりだし、
真央ちゃんは12月だったよね、誕生日」
「うそ、しんちゃん、うれしいわ。時間なら、だいじょうぶよ」と美樹は、
歓(よろこ)んだ。
「しんちゃんって、すっごく、話のわかる兄貴って感じ。わたしもだいじょうぶよ。
今夜は楽しみましょう!」と真央は、信也の手を思わず、
握(にぎ)って、抱きついた。
美樹も信也に抱きついた。
「そうか、そうか、よし、今夜は、街(まち)のどこかの店に行って、
みんなで、楽しく、お祝いしよう。
この際(さい)だから、おれの就職祝いも、一緒ってことで。
おれの次の誕生日は、来年の2月だけど、
それも、一緒(いっしょ)に、祝ってもいいや。
美女、ふたりと、楽しめるなんて、おれも、最高!」
そんな話で、盛(も)りあがった、三人は、にぎやかに、わらった。
≪つづく≫
7章 臨時・社内会議 (その1)
「みなさん、おそろいでしょうか。そろそろ、お時間になりましたので、
ただいまから、臨時・社内会議を始めたいと思います。
本日の会議の進行を務めますのは、ヘッド・クオーター(本部)主任の、
市川真帆(いちかわまほ)と申します。よろしくお願いいたします」
ライトベージュのフェイスパウダーをまぶたにうすくぬっている、
市川真帆(いちかわまほ)が、出席者を見渡しながら、微笑(ほほえ)む。
今年の4月で25歳になる。
幅2メートルほどの、大型ディスプレイには、会社の目標や
企業理念が、映(うつ)し出された。
---
◇ 目標 ◇ 総店舗数(そうてんぽすう)1000店
◇ モリカワの経営理念 ◇
モリカワは、社員、一人ひとりの人間性や個性を尊重します。
やる気、自主性、創造性が発揮される企業を目指します。
常に、顧客(こきゃく)の満足と感動、社員の働く歓(よろこ)びを、
大切に考える、挑戦と発展の会社でありつづけます。
---
会議の出席者は、社長の森川誠(まこと)、その弟の副社長の森川学(まなぶ)、
社長の長男で、ヘッド・クオーター・課長の森川良(りょう)、
その弟のヘッド・クオーター・課長の森川純(じゅん)、
森川純の大学時代からの友人、ロックバンド・クラッシュ・ビートの
メンバーで、ヘッド・クオーター・課長の、川口信也、岡村明、高田翔太たち、
そして、統括(とうかつ)・シェフ(料理長)の宮田俊介(しゅんすけ)、
副統括・シェフの北沢奏人(かなと)、
コンサルティング・ファーム・部長の岩崎健太、
ヘッド・クオーター・部長の村上隼人(はやと)、
そして、ヘッド・クオーター(本部)・主任の市川真帆(まほ)の、12人であった。
「それでは、社長、ご挨拶をお願いいたします」そういうと、市川真帆は着席した。
「2013年も始まったばかりです。思えば、私が、この下北沢で、
祖母のやっていた、ちっちゃな喫茶店を改装して、
洋菓子と喫茶の店を開店したのが、私が、25歳のときでした。
もうそれから、34年がたってしまいました。
私にだって、若さがあったから、ここまでのことができたのです。
みなさんのおかげ、
みなさんの力がなければ、ひとりでは何もできないのですけどね」
そういうと、社長は、大声でわらった。集まった、みんなもわらった。
「まあ、いまもよく、社長は、なんで、大学出たばかりの若者に、課長なんていう
要職を簡単にあげちゃうんだいって、いまもよくいわれるんですよ」
また、社長は、腹から声を出して、わらった。
「つまり、私のいいたいことは、若さがあれば、怖(こわ)いものはない。
なんだってできる、そんな、植物でいえば、若い芽(め)の可能性を、
大切に、力にして、会社を盛り立ててほしいということなんですよ。
だから、私は、この人はと、気に入った人には、年齢や経験に関係なく、
大事な仕事を任せますし、がんばってやったもらいたいのです」
ディスプレイの画面には、よく見ることのある、坂本龍馬(りょうま)の写真と、
龍馬の年譜が、映し出された。
「みなさん、ご存(ぞん)じの、龍馬さんは、33歳で亡(な)くなっていますよね。
その生き方は、現代人のように感受性ゆたかですよね。
しかし、なかなか、まねできないのが、その行動力というか、
わが道をゆくという強い意志なのだと思うんですけど、
なんといっても、私は、あの若さを、若いエネルギーを最大限に生かしきった、
という点において、非常に、学ぶところがあるんだと思うんです。
私なんかも、心のどこかで、そんな龍馬をお手本にしていたのかもしれません。
すくなくとも、『若さ』には、特別な敬意を常に感じています。
現代は、明るい見通しが立たない、混迷の時代ですから、
龍馬の生きていた、幕末にとても似ていると、私は思っています。
こんな時代だからこそ、龍馬のような『若さ』がとても重要だと思うんですよ」
≪つづく≫
7章 臨時・社内会議 (その2)
今年の8月で59歳を迎える、森川誠(まこと)は、
新年を迎えてから、髭(ひげ)をはやした。
年相応(としそうおう)に白いものが混(ま)じっているが
「社長の髭は、なかなか芸術家ふうで、
似合っている」というのが、社内の評判であった。
「まあ、龍馬さんのような『若さ』が、
いまの時代にも大切とか、漠然(ばくぜん)というか、
抽象的(ちゅうしょうてき)なことをいっても、
よく理解してもらえないかとも思うのですが・・・」
と森川誠は、話を続けた。
「龍馬さんのやりとげた仕事で、やっぱりすごいのは、
薩長同盟(さっちょうどうめい)を、取り持って、
結ばせたことだといわれています。
なにしろ、薩摩(さつま)と長州(ちょうしゅう)は、
犬猿(けんえん)の仲(なか)で、
戦(いくさ)の敵(かたき)同士だったんですからね。
その双方(そうほう)の心を、いわば和解(わかい)させて、
団結(だんけつ)させてしまったのだから、すごいと思います」
「まあ、そんなことは『若さ』だけでは達成できっこないわけです」
といって、森川誠は、また声を出しわらった。
森川の笑い声が、気どったところのない、子どものように
あどけないものだから、
聞き入っている、みんなからも、笑い声がもれた。
「じゃあ、何が、龍馬さんの偉業の達成の原動力だったのかと、
考えてみるのですが、それは、龍馬さんの『優(やさ)しさや公正さ』
じゃないかというんですね。これは、わたくしの発見や
考えではなくて、脚本家(きゃくほんか)の
浅野妙子(あさのたえこ)さんの言葉なんですが、
わたくしも同感したというか、感心したわけなんです」
「現代社会は、まさに、この『優(やさ)しさや公正さ』に欠(か)けているから、
格差も貧困も、さまざまな問題も、発生していると思えるわけです。
そして、社会に求められているものも、集約するというか、単純化していえば、
『優(やさ)しさや公正さ』なのだと思うのです。
わたくしどもの、仕事の、お客様の求めている、ニーズ、需要(じゅよう)も、
『優(やさ)しさや公正さ』のなかにあるとも、いえるかもしれません」
「すくなくとも、わたくしたちの仕事の達成のためには、
優しさと公正さは、欠かせない、必要なものだと、わたくしは考えています。
社内規定(しゃないきてい)に、
『業務上の連絡など、すべては、
命令はしてはいけない。説得すること。すなわち、
よく話して、相手に納得させること』
とありますが、この規定なども、
優しさや公正さからくる考え方が根本にあるわけです」
「会社の中においては、権力欲や上下関係の意識などは、
本来、不要なもので、仕事の邪魔あり、害悪ですらあると、
わたくしは考えています。
なぜなら、正常な、健全な、コミュニケーションを妨(さまた)げるからです。
みなさんの個性や人間性など、
個人個人がもつ力を十分(じゅうぶん)に発揮できなくなるからです」
森川誠は、大型ディスプレイを見ながら、話をつづける。
「2012年の12月をもちまして、
わたくしどものモリカワは100店舗を達成しました。
目標を1000店にしてありますのも、
これからは、加速度をつけて、仕事を展開してゆきたいからです」
「この話は、広報にも載(の)せますが、
ここに集まっていただいた、モリカワの、
いわば、司令塔(しれいとう)のみなさんには、
特に、龍馬のような若い行動力や、
『優しさと公平さ』を大切にしていただいて、
仕事をしていただきたいと考えています。
わたくしの話は、以上といたします」
「社長、貴重なお話をありがとうございました」と
司会役の市川真帆(いちかわまほ)がほほえんだ。
≪つづく≫
7章 臨時・社内会議 (その3)
「それでは、村上部長、よろしくお願いします」
ヘッド・クオーター(本部)・主任で、会議の司会役の
市川真帆(いちかわまほ)が、
微笑(ほほえ)みながら、そういった。
市川真帆の、どこか、知性的な美貌(びぼう)は、
社内でも、独身男性の注目であった。
ディスプレイには、『ヘッドクオーター(本部)』と、
いくつもの『事業部』の関係図が映(うつ)った。
「ごらんのように、現在、事業部は、洋菓子店、ベーカリー、
レストラン、複合カフェ、喫茶店、居酒屋、ライブハウス、カラオケ店など、
12事業部あります。
なぜ、このように、多種の業態を、事業展開しているのかといえば、
外食産業のお客様のニーズ・需要(じゅよう)が、多種多様であるからです。
わたくしども、ヘッドクオーター(本部)の仕事も、日々変化していく、
お客さまのニーズ・需要のリサーチ、顧客分析が重要であります。
ただいま、社長からありました『優しさと公平さ』や『若さ』を忘れることなく、
仕事に邁進(まいしん)するならば、目標の1000店舗も、5年間くらいで、
達成できるのではないかと考えています。わたくしからの話は以上です」
今年で、31歳という若さの、いつも礼儀正しく、
優雅(ゆうが)な物腰(ものごし)の、部長の村上隼人(むらかみはやと)が、
短めに挨拶(あいさつ)を終(お)えた。
「それでは、みなさまからの、忌憚(きたん)のない、ご意見など、
よろしくお願いいたします」と市川真帆(いちかわまほ)がいう。
「おれは、あらためて、社長の、芸術的なお考えに、感銘を受けました」
と、挙手(きょしゅ)して、川口信也が、話を始めた。
「おれも岡村も高田も、3人は、はじめは、
ライブハウスの経営ができるということで、
入社を決めたようなものなんです。
そのライブハウスも、現在都内に5店舗あって、
全国に100店舗を展開していくという計画ですが、
おれには、どうも、外食産業とライブハウスとの
関係といいますか、事業展開の真意といいますか、
意味するところが、よくわからないのです。
ご説明いただければと思います」
と川口は、緊張しているらしい、たどたどしい口調でそういった。
「はいはい、わたくしが、お答えします」と、ゆっくり、挙手をして、
社長の弟で、副社長の森川学(まなぶ)が、人懐(ひとなつ)こそうな笑顔で、
向かい側(むかいがわ)にいる川口信也を見ながら、語(かた)りはじめた。
森川学は、今年で43歳だったが、独身であった。
「モリカワでは、外食産業もライブハウスも、広(ひろ)い意味で、
芸術活動と考えてるのです。
モリカワの経営理念にある、常に、顧客(こきゃく)の満足と感動、です。
社長も、わたくしも、洋菓子店とかの、スイーツやベーカリーの経営を、
そういう気持ちでやってきたから、ここまで大きくやってこれたんです。
企業経営も事業も、芸術活動と思ってやっていれば、
大きな間違いもないだろうし、顧客のニーズや需要を、
見失うこともないだろうし、成長や発展を続けていけるのだと思います。
広い意味では、わたくしたちは、みんな芸術家、アーチストなんじゃ
ないでしょうか。坂本龍馬も、アーチストっぽいですよね」
≪つづく≫
7章 臨時・社内会議 (その4)
モリカワの会議室は、10坪(つぼ)33平方メートルほどの
広(ひろ)で、畳(たたみ)では、20畳(じょう)ほどであった。
会議用のテーブルが、コの字がたに配置されてある。
正面(しょうめん)の南の窓の付近に、
横幅が約2メートルの大型ディスプレイが置(お)いてある。
副社長の森川学(まなぶ)が、ディスプレイを眺(なが)めながら、
話をつづけた。
「2013年の3月から、モリカワの経営理念に、新(あら)たな理念を
追加します」
森川学がそういうと、ディスプレイには次の文章があらわれた。
≪ モリカワは、世のため人のため、芸術、文化の事業を起(おこ)し、
利益を社会に還元するとともに、社会的責任を果(は)たしてゆきます。 ≫
「まぁ、わが社の経営理念は、顧客(こきゃく)、消費者(しょうひしゃ)、
社員、従業員など、すべての人間への、尊重(そんちょ)と貢献(こうけん)を
基本と原則にしているわけですが・・・」
「そこへ、新(あらた)に、発展的にというか、革新的といいますか、
戦略的にといいますか、芸術や文化の創造に関(かか)わる事業を、
積極的に展開していこうという、事業計画でやってゆきたいわけです」
「これまで、モリカワでは、多種多様に、外食産業を展開してきましたが・・・。
さらなる成長戦略ということで・・・、今後は、ライブハウスなどの全国展開をおこなって、
そんな、芸術・文化事業によって、10代、20代から高齢者までの、
ひろい年齢層の顧客を、さらに開拓していこうという事業計画なわけです。
もちろん、この計画には、モリカワのイメージアップがあります」
「幸(さいわ)い、芸術・文化事業は、雑誌やテレビなどのマスコミにも注目
されてますし、モリカワの宣伝や新規の顧客の獲得や増加、固定化にも
役立つという、相乗効果が生(しょう)じています」
「・・・というわけで、総(そう)じて、事業の進展は、順調な現在の状況です」
ここまで、落ち着きはらった口調(くちょう)で、
副社長の森川学が話しているあいだ、
ディスプレイには、モリカワの代表的な店舗の動画や、
最近、雑誌で取り上げられた記事などが映し出された。
森川学の隣(となり)の席(せき)の、社長の森川誠が、
「わが社の事業計画は、これまで、ほとんどない、
ユニークなビジネス・モデルかもしれません」と、語り始めた。
「基本的に、ライブハウスなどの芸術・文化事業は、わが社の利益の
社会への還元という位置づけなわけです。
芸術・文化活動をしている人たちを、経済的にも支援していこうという
特徴があります。また、募金やチャリティーといった、貧富(ひんぷ)の
格差是正(かくさぜせい)のための社会活動もしていくという特徴もあります」
「ライブハウスでの価格設定は、若い人たちが利用しやすいようにと、
極力、低く抑(おさ)えて、市場価格の50%程度に設定してあります。
モリカワの全店で利用可能なポイントカードを使えば、さらに価格は、
安くなるシステムになっています。
みなさんには、経済的な負担を極力少なくしていただいて、
芸術や文化に親(した)しんでいただいたり、芸術活動をしていただきたいからです」
会議の進行役の、ヘッド・クオーター(本部)主任の、
市川真帆(いちかわまほ)が、微笑(ほほえ)みながら、
森川誠のお茶を差(さ)し替(か)えた。
女性らしさの盛(さか)りの市川真帆には、ソフトな風合(ふうあ)いの、
ネイビー・ストライプの社服が、よく似合う。
「ありがとう。まほちゃん」と市川真帆と目を合わせて、森川誠は小声でいう。
「世間じゃ、よく、失敗は成功の元(もと)といいますが、
まさに、そのとおりで、モリカワの新(あら)たな。、
芸術・文化事業というものは、わたしの息子たちが始めた、
ライブハウス経営がヒントだったのです」と森川誠はつづけた。
「一昨年(いっさくねん)前の2011年の6月に、長男の、良(りょう)が、
ライブハウスを始めたのでしたが、その店の経営が、不景気ということもあったためか、
なかなか順調にはいかなく、不振(ふしん)だったのです。
店の資金を出していたこともあって、わたしも考えこんじゃったわけなんです」
そこまで話すと、森川誠は、声を出してわらった。
≪つづく≫
7章 臨時・社内会議 (その5)
森川誠の向かい側のテーブルにいる、長男の森川良と、その弟の森川純のふたりが、
一瞬、顔を見合わせて、良が、「おやじ・・・」と小さく、つぶやいたり、
苦笑(にがわら)いして、ふたりとも、うつむいた。
「・・・考えこむのも、たまにはいいものなんです。突然、ひらめきがあったんです。
アイデアがわいたんです。・・・わたしは息子たちにいったんです。
モリカワで、ライブハウスを、東京をはじめとして、全国展開するから、
モリカワに入社して、仕事してみないかってね。
息子たちは、親の七光りとか、嫌(きら)いだとかいって、親の会社に入社することには、
ずーっと、抵抗していたんです。
ジェームス・ディーンの『理由なき反抗』って感じかって、私は思ってました」
といって社長は、わらった。会場も、静(しず)かな、わらいに、どよめいた。
「まあ、わたしには、そのとき、すでに、ライブハウスなどの、
芸術・文化の事業の全国展開というアイデアが、浮かんでいました。
それが、現在のように、ここまで、的中して、うまくいくとは思っていませんでした。
最近じゃあ、このまま、この事業展開がうまくいけば、株式上場して、
世界への事業展開もいいのかな、くらいに考えているんです。ですから・・・、
みなさんも、夢をもって、仕事に励(はげ)んでいただきたいものです。以上です」
そういって、森川誠は、また、腹から声を出してわらった。
「社長、副社長、お話をありがとうございました。
それでは、みなさまからの、ご意見など、
ほかにありますでしょうか」
市川真帆(いちかわまほ)が魅惑的な笑(え)みで、みんなを見わたしていった。
「あのぅ、ちょっと、意見があります」と、統括(とうかつ)・シェフ(料理長)の
宮田俊介(しゅんすけ)が、ちょっと挙手した。
今年で、35歳になる宮田俊介(みやたしゅんすけ)は、腕のいい、若手シェフだった。
今年、25歳になる、副統括・シェフの北沢奏人(かなと)の、よき師匠(ししょう)であった。
「立川(たちかわ)のパン工房の店長や、そのほかの店舗(てんぽ)からも、
『どうしたら、製造作業の、ミス(あやまり)やロス(損失)を無くせるでしょうか?』
と、相談を受けています。
わたくしの経験からいえば、料理をつくるとき、ミスやロスを防止するため、
必(かなら)ず『OK(オーケイ)』と無言(むごん)で、自分に確認するようにしているんです。
奏人(かなと)にも、それは実践してもらっているんですけど、
確実に、その方法には、ミスやロスを防(ふせ)ぐ効果があるんです。
そこで、その『OK(オーケイ)』とか『よし』でもいいんですが、
無言の確認を、全社的に、実施(じっし)しては、どうかと思うんですけど。
いかがなものでしょうか・・・」
そういうと、宮田俊介は、向かいのテーブルの、社長や副社長を、
ひかえめに見ると、しずかにちょっと微笑(ほほえ)んだ。
「それは、いいアイデアですね。ミスやロスを防止する
方法として、なにも対策もしないで、ただ、『注意してする』
だけより、『OK(オーケイ)』と無言でもいいから、
確認したほうがいいでしょう。
さすが、名シェフの俊介さんだ。ありがとう。
さっそく、このアイデアは、全社的に、実践しましょう」
そういって、社長の森川誠は、満面(まんめん)の笑(え)みで、
上機嫌(じょうきげん)で、大きな声でわらった。
「そうそう、岩崎さん、農業・事業部の、IT(アイティ)化計画は、順調かね。
農作物のデータを数値化や、パソコンでの管理で、効率のいい農業の
実現ができるからね。わが社の利益・創出の生命線ですからね」
森川誠が、向かいのテーブルの、コンサルティング・ファーム・部長の
岩崎健太に、そういった。
今年で37歳になる岩崎健太は、IT(アイティ)技術者でもあり、
モリカワのウェブ・アプリケーションをつくったりする、IT部門のリーダーだった。
「ええ、順調です。できるだけ、パソコンで管理できるシステムを、
導入してゆきます。そうすれば、おいしい野菜や果物を、量産して、
コストダウン(原価低減)もできます」と岩崎はいった。
「岩崎さんも、アイデアの天才っぽい人ですからね。モリカワは優(すぐ)れた
人たちに、本当に恵(めぐ)まれています。みんなで、がんばりましょう」
森川誠が、そんな言葉をのべて、会議は終了した。
≪つづく≫
8章 美樹の恋(その1)
松下陽斗(まつしたはると)の部屋は、陽斗の父親が経営するジャズ喫茶・
GROOVE(グルーヴ)の3階にあった。
GROOVE(グルーヴ)は、世田谷区代田6丁目の通(とお)りの、
下北沢(しもきたざわ)駅の北口から歩いて、3分くらいの場所にあった。
清楚(せいそ)で、おしゃれな、茶褐色のレンガ造(つく)りの、
表口(おもてぐち)で、全国的に知られている、老舗のジャズ喫茶だった。
清原美樹(きよはらみき)は、都立の芸術・高等学校の3年間、
美樹と同じ音楽科の、鍵盤楽器(ピアノ)で学(まな)ぶ、
松下陽斗(まつしたはると)と、よく待ち合わせをして、一緒に下校した。
駒場東大前(こまばとうだいまえ)駅から、電車に乗り、下北沢駅で下車する。
その帰り道、美樹は、陽斗の部屋に寄(よ)って、よく時間を過ごした。
それほど、ふたりは、おしゃべりするたび、信頼も深まってゆくような、
まるで恋人同士か、無二の親友のような仲であった。
それなのに、高校の卒業間際(まぎわ)のころ、
陽斗(はると)は、美樹に、美樹の姉の美咲(みさき)に、
好意を持っていることを、打ち明けた。
その陽斗の告白は、美樹にとって、陽斗がどのような存在であったのか、
あらためて考えさせられる、ショックな出来事だった。
およそ1年間くらい、失恋に似たような、大切にしていた何かを、
どこかに置き忘れてしまったような・・・、
魂が、どこかへ行ってしまったような、喪失感(そうしつかん)が、
美樹にはつづいた。
それが、やっと、妹思いの、姉の美咲の努力や協力もあって、
陽斗の気持ちも、美咲のことから、自然と離れて、
美樹と陽斗の親密な信頼関係も、高校のころと同じ状態に、
もどったのであった。
2012年の10月13日の、美樹の二十歳(はたち)の誕生日には、
松下陽斗(まつしたはると)が、「特別な誕生日だし・・・」といって、
数人の仲間と一緒(いっしょ)に、祝(いわ)ってくれた。
2013年の2月1日の陽斗の二十歳の誕生日には、こんどは、美樹が、
仲間を集めて、ささやかな誕生会を催(もよお)してあげた。
何人もの、男友だちのいる美樹ではあったが、
いつのまにか、知らず知らずのうちに、美樹の心の中には、
ふたりの男性が・・・、
同じ歳(とし)の松下陽斗(まつしたはると)と、
3つ年上の大学の先輩だった、川口信也(かわぐちしんや)が、
特別な存在になっているような感じだった。
≪つづく≫
8章 美樹の恋(その2)
陽斗(はると)から、
≪みーちゃん、映画でも見に行こうよ≫と、
美樹(みき)のケイタイにメールが来た。
≪いいよ。はるくん。いい映画やってるかな?≫
≪いまは、話題作とか、なさそうだけど、
なにか、いいのあるよ、きっと・・・≫
≪わかったわ。行こうよ。楽しみ!≫
と、ふたりは映画に行く約束をした。
2013年、4月、
松下陽斗(まつしたはると)は、東京・芸術・大学の、
音楽学部、ピアノ専攻の3年の20歳(はたち)。
美樹は、早瀬田(わせだ)大学の、教育学部の3年の20歳だった。
ふたりは、10時に、下北沢駅で待ち合わせをした。
高校のころからの、さわやかで、
いつもどこか照(て)れくさそうな、陽斗(はると)の笑顔が、
美樹には、高校のときと同じように、
ちょっと眩(まぶ)しくて、うれしかった。
ふたりが向かった映画館は、渋谷駅から、青山学院大学方向に、
500メートルほど歩いたところの、シアター・イメージ・フォーラムであった。
3月30日から始まったばかりの、
『グッバイ・ファースト・ラブ』という映画の、
午前11時30分からの上映を、
美樹(みき)と陽斗(はると)は、観(み)にいった。
この映画の監督(かんとく)と脚本(きゃくほん)は、
1981年生まれの、女優や批評活動をしてきた、
ミア・ハンセン=ラブという名の女性であった。
2007年に、1作目を発表して、2作目の作品で、
カンヌ国際映画祭で、審査員特別賞を受賞していた。
『グッバイ・ファースト・ラブ』は、自伝的な三部作の、
3作目の作品であった。
監督自身の、10代のころの初恋を、モチーフにした物語で、
繊細(せんさい)な、心と体が、揺(ゆ)れ動いてゆく、
そんな感受性ゆたかな、少女が、おとなへと成長してゆく過程、
その瞬間を、南フランスの、季節の移(うつ)ろいのなかを、
美しくとらえてゆく、そんな映画であった。
舞台は、1999年パリ。高校生のカミーユと、シュリヴァンは、
おたがいに愛しあっていた。シュリヴァンは、17歳、
ほとんど学校に行かず、9月に退学して南アメリカに行こうと考えていた。
カミーユは15歳、彼に夢中で、勉強もなかなか身が入らなかった。
夏になって、ふたりは、のんびりゆったり過(す)ごせる、
南フランスに、ヴァカンスにゆき、情熱的に愛しあう。
しかし、夏が終わると、スリヴァンは、カミーユのもとから去る。
数ヵ月後には、スリヴァンからの手紙も途絶えてしまう。悲しみに打ちひしがれた
カミーユは、次の春を迎える頃、自殺未遂を起こす。
その4年後、建築学に打ち込むようになったカミーユは、
著名な建築家、ロレンツと恋に落ちる。
ふたりは恋人同士となり、強い絆(きずな)で結ばれる。
しかし、カミーユの前には、かつて愛したスリヴァンが現(あらわ)れる。
「この映画は、人間の持つ矛盾(むじゅん)を積極的に容認しています。
そしてそうした矛盾こそが、人生の重要な構成要素だと思います。
ヒロインのカミーユは、同時に、ふたりの男を愛し、
そのアンバランスな関係に、バランスを見いだすのです」
ポップコーンやソフトドリンクといっしょに買ったパンフレットの
ミア・ハンセン監督のそんな言葉が、・・・オトナの世界って、
やっぱりそんなものなのかなあ・・・と、心にしみる、美樹だった。
ふたりの男性を、同時に愛してしまうなんて、特別なことでも
ないのよね、きっと。
わたしの場合は、はるくんと、しんちゃん・・・。
映画を観(み)ながら、ヒロインのカミーユと、
いまの自分の境遇(きょうぐう)が、
偶然の一致(いっち)にしても、不思議なくらい、
よく似ていると、感じる、美樹であった。
≪つづく≫
8章 美樹の恋 (その3)
渋谷駅近くの映画館で、『グッバイ・ファースト・ラブ』を観(み)たあと、
美樹(みき)と陽斗(はると)は、そこからちょっと北(きた)にある、
高山ランドビルの1階にある『ナポリズ』で、食事をした。
「マルゲリータ、焼きたてで、おいしいね」と、笑顔の美樹。
「うん」といって、ピザをほおばり、コーヒーを飲む陽斗。
「ひとを好きになることって、人生の大仕事っていう感じかな」と美樹は
ピザを食べながらいった。
「そうだね、大仕事だね。うまくいったり、いかなかったり・・・」
そういいながら、陽斗は美樹に、やさしくほほえんだ。
なんか、陽斗(はると)も、ずいぶん、男として成長した感じがする。
美樹は、四角(しかく)いテーブルをあいだにする、
陽斗を、あらためて、まじまじと見つめた。
「美樹ちゃん、そんなに、キラキラした目で、
おれを見つめて、急に、どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ。ただ・・・」
「ただ?」
「はるくんも、美咲(みさき)ちゃんと、仲よくしていてたあいだに、
ずいぶん、オトナっぽくなったような気がしてさあ」
「美咲ちゃんには、いろいろ、教わったのかもしれないし」
そういうと、陽斗の瞳(ひとみ)が、ふっと翳(かげ)った。
「まあまあ、男女のあいだって、とても、デリケートで、
神秘的なものなのよね、きっと」
「うん」といって、陽斗はほほえんだが、そのあと、
ちょっとさびしそうに、うつむいた。
美樹は、陽斗の、そんな素直(すなお)さや、
正直(しょうじき)さが、好きだった。
陽斗が、美樹の姉と、急接近して、
仲良くなったり、恋愛感情を抱(いだ)いてしまったことは、
いまになっては、美樹にも、理解できることであった。
弁護士をめざしていた、姉の美咲(みさき)の、
生真面目(きまじめ)さや、正義感に、
かなり近い価値観をもっている
陽斗が、共感とか、共鳴とか、したのであったから。
陽斗が、美樹の家に遊びに行ったある日のこと、
そのとき、家にいた美咲の持っていた本の、
『これから正義の話をしよう
・いまを生き延(の)びるための哲学』を見つけて、
「これって、ハーバードが大学の、
マイケル・サンデルの本ですよね」と
陽斗が興味(きょうみ)を示(しめ)したこと・・・、
それが、陽斗と美咲の結ばれない恋物語の始まりだった。
「陽斗(はると)くんも、こんな哲学のような、
むずかしい本が好きなの?」と美咲が聞(き)くと、
「ええ、哲学大好きです」と陽斗は、
目を輝(かが)かせて、答えたのだった。
「正義というのかしら、正しいことというのかしら、
立場によって、いろいろあることが、
よくわかるような、サンデルさんの講義の本だわ。
正義って、そんなふうに、あやういっていうのかしら、
正義も哲学も、むずかしいことだわよね。
終わりのない問答をしていくようなものかもしれなくて。
ウィトゲンシュタインも、いっているでしょう。
すべては、言語ゲームになったのだって。
わたしも、そんなふうに思うの。
そんな、真摯(しんし)な、ゲームの感覚で、すべてを
楽しむことが、大切なんだろうなって」
そういって、美咲は、陽斗に、やさしくほほえんだ。
そのときの美咲の姿が、陽斗の心の中に、
いつも、思い出されるのであった。
「ウィトゲンシュタイン、おれも好きなんです。
文章が、コピーライターのように簡潔で、
かっこいいですよね。
『論理哲学論考』のラストの
『語りえぬものについは、沈黙せねばならない』なんてね」
そんな会話で、陽斗と美咲は、たちまちのうちに、
心が、うちとけあったのだった。
「わたしも、姉貴には、かなわないけど、
哲学とか、人生について考えるのは、好きなほうよ」
といって、美樹は、陽斗を見つめて、やさしくほほえんだ。
「おれと美樹ちゃんには、哲学とかよりも、アニメや音楽や小説とかの
芸術っぽい話題のほうが、話が合うよ」
「そうよね。わたし、はるくんとなら、楽しい話が、
いつもありそうな気がする・・・」
ふたりは、ピザハウス『ナポリズ』の店内で、
まわりが振り向くような声で、わらいあった。
食事のあと、ふたりは、渋谷駅から小田急線に乗って、
下北沢(しもきたざわ)駅に降(お)りたった。
美樹は、ネイビーのポンチョ風ニットカーディガン、
ペールピンクのブラウスと、
セピアローズのレーススカートといった、
さわやかな春に合ったファッションだった。
陽斗(はると)は、ネイビーのデニム・ジャケットに、白のTシャツ、
ベージュのデニムパンツといったファッションだった。
≪つづく≫
8章 美樹の恋 (その4)
下北沢(しもきたざわ)駅のホームは、
1週間前の、2013年3月23日の土曜日から、
地下に移(うつ)ったばかりだった。
下北沢(しもきたざわ)駅の、直近(ちょっきん)の駅、
世田谷代田(せたがやだいた)駅、
東北沢(ひがしきたざわ)駅のホームも、地下に移(うつ)った。
下北沢駅では、23日の始発から、地下鉄のように、
地下3階にある新ホームへ、電車が到着した。
改札は、地上に2カ所ある。旧南口の階段を、下(お)りた近くに、
新しい南口。
北口は、これまでの北口から、
井の頭線(いのがしらせん)寄りに、新しくできた。
23日の早朝からは、ラッシュ・アワーの渋滞(じゅうたい)の原因だった、
開(あ)かずの踏切(ふみきり)がなくなった。
おかげで、人や車の通行が、スムーズになった。
地上の使用しない線路は、半年ほどかけて、撤去(てっきょ)される。
いまも、廃止になる地上の駅のホームや踏切に、
惜(お)しむように、カメラを向けるひとたちがいる。
「下北(しもきた)も、変わっちゃうね。これでいいのかな。
おれは、前のままの駅も、好きなんだけど・・・」
北口の改札を出ると、立ち止まって、ふり返って、陽斗(はると)がいった。
「きれいになって、便利になるんでしょうけどね。
新しい駅のデザインとかにも
反発している人も、多いらしいわ。
『おでんくん』の、リリー・フランキーさんとか、
坂本龍一さんやピーター・バラカンも、
再開発には反対らしいし・・・」
美樹も、廃止となってしまった駅を、眺(なが)めながら、そういった。
「ぶらぶら、のんきに歩ける街並(まちなみ)みが、
無(な)くなっちゃうのは、どうもね。
自動車とかを優先させて、
街を、効率よく、整理整頓(せいりせいとん)
させたいんだろうけど」と陽斗(はると)。
「わたしも、いままでのままが、好きかな・・・。
はるくん、はるくん、
この近くの神社の、
いま、ちょうど、満開(まんかい)のころの、
桜でも見に行こうよ」
ふたりは、陽斗(はると)の家(うち)でもある、
ジャズ喫茶・GROOVE(グルーヴ)から、
3分くらいのところの、神社へ向かった。
神社の庭には、樹齢20年ほどの、
高さ10メートルくらいの染井吉野(ソメイヨシノ)が、
1本、植わっていた。
4月7日で、散り始めだったけど、
まだ半分くらいの桜の花が残っていた。
桜は、天気も良く、青空のなかに、
華(はな)やかに咲(さ)きほこっている。
「同じ生きものでも、桜とか、植物って、
平和だよね、美樹(みき)ちゃん。
それにくらべて、人間の世界は、いつだって、
戦争はあるし、貧困や格差があったりして、
次から次へと、問題ばかりで、
なかなか、こんなに、きれいに、生きられないつーか」
「そうよね、桜とかも、生きていて、
幸せって、感じることが、あるのかしら」
美樹は、陽斗(はると)を見ると、明るくほほえんだ。
陽斗も笑顔になった。
陽(はる)くんは、きっと、だんだん、有名になって、
すてきなピアニストになっていくんだろうなあ・・・。
美樹は、男っぽい凛々(りり)しさと、
純粋で、こわれてしまいそうな、ナイーブさのまじった、
陽斗の笑顔を見つめながら、そう思った。
陽斗は、世の中のこと、人生のこと、
哲学的なことなどを、ひとの何倍も考える、
ちょっと風変わりな、タイプの男子であった。
自分のことよりも、友だちのこと、世の中のこと、
そんなことで、考えこんだり、悩んだりするので、
高校時代をいっしょに過ごした美樹は、
よく、陽斗には、ひやひや、心配もさせられた。
けれど、そんな、陽斗のやさしさが、
女心をくすぐる、美樹の好きなところだった。
最近の陽斗は、そんな自分の、やさしすぎる癖(くせ)を、
客観的に見つめられるようになっていて、
そんな自分自身を、笑いとばしてしまったりと、
ユーモアのあるオトナとして、少しずつ、成長していた。
陽斗(はると)の父親は、知名度のある、ジャズ評論家であり、
ジャズ喫茶のオーナーであったり、
母親は、私立(わたくしりつ)の音楽大学の、
ピアノの准教授(じゅんきょうじゅ)。
そんな家庭環境も多分(たぶん)にあるが、
陽斗は、20歳(はたち)という若さで、
すでに、新鋭の才能のあるピアニストという評価を
世間から得(え)つつあった。
ふたりが、高校のころから、立ち寄ってきた、
神社の境内(けいだい)には、
白や黄色の山吹(やまぶき)や、
大紫(おおむらさき)ツツジとかも咲いて、美しかった。
≪つづく≫
8章 美樹の恋 (その5)
清原美樹(きよはらみき)と松下陽斗(まつしたはると)は、
さわやかにそよぐ春の風に、舞い散る、神社の桜を、
ベンチに座(すわ)って眺(なが)めた。
「きれいな桜が見れて、ラッキーよね、陽(はる)くん」
「散っていく桜も、胸にしみるもんあるね、美樹ちゃん」
「せっかく、きれいに咲(さ)いたばっかりの、
花なのに、すぐにまた、
舞(ま)い散(ち)ってしまうなんて、
ほんとに儚(はかな)いよね、はるくん」
「ひとの命(いのち)もね。
桜と同じくらいに、おれは、
儚(はかな)い気がする。
おれたちも、いつのまにか、
20歳(はたち)になっちゃったもんね」
「この染井吉野(ソメイヨシノ)も、
わたしたちと同じ、20歳(はたち)なのよ。
なんとなく、うれしいわよね。
同じ歳の桜なんて。
毎年(まいとし)、いっしょに、
見(み)に来(こ)れたらいいね。」
美樹はわらって、まぶしそうに、陽斗を見た。
「美樹ちゃんの瞳(ひとみ)、奥が深いね、
おれなんか、吸い込まれそうだよ」
美樹のきらきらとした瞳を見つめて、
ちょっと、頬(ほほ)を紅(あか)らめると、
陽斗は声を出してわらった。
「この桜も、樹齢20年かぁ。
このソメイヨシノじゃ、100年は生きられるかな?」
「そうね・・・、わたしたちよりは、ながく生きられそう・・・」
「おれの人生って、何年くらいになるんだろうね」
「わたしには、想像もできないよ。
いつまで、生きているかなんて。7
・・・でも、陽(はる)くんとは、
いつまでも、仲(なか)よくしていたいよ・・・」
「おれも・・・、もう、美樹ちゃんがいない、
人生なんて、考えられない・・・」
ふたりに、見つめあう時間が、一瞬、流れた。
それから、どちらかともなく、ふたりは、
キスをかわした。
高校一年のとき知り合ってからの、
はじめての、愛を確かめ合うような、
熱いキスだった。
ふたりだけしかいない、神社(じんじゃ)の境内(けいだい)には、
午後の3時過ぎの、穏(おだ)やかな陽(ひ)の光が、
舞い散る桜や、近くの、ハナミズキの白い花、
新緑の植木などに、静(しず)かに、
降(ふ)り注(そそ)いでいた。
≪つづく≫
8章 美樹の恋 (その6)
「わたし、おみくじ、引(ひ)きたい」
「じゃあ、おれも、おみくじ引こうかな」
つないだ手はそのままに、
ふいに、くちびるがはなれると、
美樹(みき)と陽斗(はると)は、そんな話をして、わらった。
それから、ふたりは、
紅(あか)らんだ、おたがいの顔に、
おかしさが、こみあげてきて、
いっしょになって、声を出してわらった。
神社の桜の木のそばのベンチで、
はじめてかわしたキスは、
ふたりには、まるで夢の中の、
物語でも見ているような、
現実感の希薄な感覚であった。
ベンチの上には、ときおり、
春の陽(ひ)に照(て)らされながら、
淡(あわ)いピンクの花びらが舞い落ちる。
ふたりには、時間が止まったような、
神社の境内の風景だった。
祈祷済(きとうず)みの、お札やお守りや絵馬(えま)、
おみくじなどを頒布している授与所(じゅよじょ)へ向かって
ふたりは、ぶらぶらと歩き始めた。
神社の入り口の、神域(しんいき)の
シンボルの鳥居(とりい)や、
本殿(ほんでん)や拝殿(はいでん)、
参拝者(さんぱいしゃ)が、
手や口を清(きよ)める場所の、
手水舎(てみずや)などの建築は、
朱色(しゅいろ)で統一されている。
赤い色は、魔除(まよ)けの色であり、
命や生命力の象徴の色であった。
その赤(あか)は、朱(あけ)と呼ばれて、
まさに神聖な趣(おもむき)があった。
鳥居(とりい)のすぐそばに、
庇(ひさし)の大きな、黒塗りの屋根の、
手水舎(てみずや)がある。
小さな男の子と女の子をつれた、
5人の家族らしい参拝者が、
柄杓(ひしゃく)で、水をすくって、
手を清めたり、うがいをしていた。
ここ、下北沢・神社は、
交通安全や災難などの厄除(やくよ)けや、
福(ふく)をもたらす神様(かみさま)、
商売繁盛(はんじょう)の神様、
縁結(えんむす)びの神様などで、
地もとには有名であった。
「わたしんちも、陽(はる)くんちも、家(いえ)の宗教が、
神道(しんとう)だなんて、
やっぱり、なにかの、ご縁(えん)ね、きっと・・・」
「そうだね。きっと。神道って、
教祖(きょうそ)も創立者もいないし、
守るべき戒律(かいりつ)も、
明文化(めいぶんか)してある教義(きょうぎ)もないじゃない。
めんどうくさくなくって、いいよね」
「そうそう。むずかしくないところが、わたしも好き」
そういいながら、ふたりは、5人の家族連れのいる
手水舎(てみずや)の横道を歩いて、
石垣(いしがき)に囲(かこ)まれた高台の上のある
本殿(ほんでん)や授与所(じゅよしょ)へ向(む)かった。
ときおり、かすかにそよぐ風が、ふたりには、
やさしい感触(かんしょく)で、心地(ここち)よかった。
「神道(しんとう)って、日本では、古来からあって、
大昔(おおむかし)からあったじゃん。
自然が神さまっていう、自然崇拝(すうはい)の思想だよね。
ちかごろじゃ、人間は、自然を壊(こわ)して、
自分の欲望のままに生きいるけど。
おれ、大昔の人間のほうが、優秀つーか、偉かった気がする。
自然を貴(とうと)び、崇拝(すうはい)するっていう点では。
自然の中の生命の営(いとな)みや、動物や植物とか、
山や森や海や岩とかにも、神の力を感じて、
畏(おそ)れ、慄(おのの)いたっていうからね。
現代人は、自然を征服(せいふく)したつもりでいるけど、
どちらの考え方が正しいのだろうね。美樹ちゃん。
おれは、古代人のほうが正しいと思うよ」
「わたしも、古代人かな。陽(はる)ちゃん、すごいよ。
哲学ばかりじゃなくて、宗教も詳(くわ)しいんだね」
「宗教も、思想だからね。興味があるんだよ」
「ふーん」
≪つづく≫
8章 美樹の恋 (その7)
陽斗(はると)は、美樹と手をつないで、歩きながら、話をつづける。
「神道(しんとう)って、とてもスケールが大きいんだよね。
自然の中の生命の営(いとな)み自体(じたい)、
そのものに、神が宿(やど)るっていうのが、
神道の考え方で、思想なんだって。
なんでも、取りこんでしまえるので、仏教やキリスト教の
神さまだって、畏(おそ)れ多(おお)い、
外国の神さまってことで、受け入れちゃうからね。
神道には、具体的な中身とういうか、教義がないから、
ほかの宗教と、争(あらそ)うなんてことも起きないんだよね。
宗教戦争で、人類は滅びるかもしれないんだから、
神道の思想って、人類を救済できるかもしれない、
いつまでも、奇跡的で、革新的な、思想のような気がするよ・・・」
「なるほど、そうよね。陽(はる)ちゃん、すごい、勉強家だわ」
「神道には、八百万(やおろず)の神とかいって、
すげえ数(かず)の神さまがいることは、
美樹ちゃんも知ってるよね。
八百万の神って、『千(せん)と千尋(ちひろ)の神隠し』
に出てくる神さまと同じだよね。
あれって、千尋(ちひろ)たち家族が、神たちの世界に、
迷い込んったっていうストーリーかなあ。
千(せん)と仲良くなる、少年のハクなんて、川の神さまだったもんね」
「カオナシも、神さまだったのかな?」
「カオナシって、愚(おろ)かな人間の欲望の化身(けしん)
って気がするけど」
「そうね、すぐに、金(きん)とか出して
いやらしいとこなんか、人間とそっくりだわ」
美樹がそういって、ふたりは声を出してわらった。
「神社って、鳥居(とりい)とか、しめ縄(なわ)とか、
玉垣(たまがき)とかいわれる石垣(いしがき)とかって、
なんのためにあるのかって、美樹ちゃん知っているかな。
神社は、鳥居(とりい)や、しめ縄とかの、
聖なる領域と俗なる領域をわける、結界(けっかい)で、
守られているんだってさ。
神さまは、世俗の穢(けが)れから、隔絶(かくぜつ)して、
いつまでも、清浄(せいじょう)な状態に
保(たも)っておくことが大切なんだろうね。
そんな神さまたちは、人間の対極にあって、
どこまでも、清浄(せいじょう)な存在だからね。
清浄が、大切とされるのが、神道(しんとう)なんだよね。
おれって、単純に、清浄を重視するという考え方が、
共感するし、大好きだよね」
「わたしも、陽(はる)ちゃんと同じに、共感するわ。
でも、そんな神聖な、清浄な境内(けいだい)で、
さっきみたいなキスなんてして、いいのかしら」
「あ、それって、だいじょうぶだよ」
陽斗(はると)は、そういって、美樹と目を合わせてわらった。
「神道(しんとう)では、新しい命を生み出す、
男女の交合(こうごう)は、自然なことだし、すべての根源として、
はっきりと肯定(こうてい)しているんだよ。
交合なんていうと、堅苦しいけど、
セックスやキスとかの男女の営みは、大昔から、
五穀豊穣(ごこくほうじょう)や、進歩や発展を生み出す、
清浄な行為(こうい)で、 すばらしいものと、
ほめたたえているんだから。
仏教の真言密教(しんごんみっきょう)の教えの、
理趣教(りしゅきょう)というのが、
神道の考え方に、とても似ていて、おもしろいんだ。
そもそも、人間というものは、生まれつき、
汚(よご)れた存在ではないとして、
理趣経は、人間の営みは、
本来は、清浄なものであるといっているんだ。
理趣経では、セックスや性欲は、清浄であるとか、
男女のセックスのよろこびは、清浄であるとか、
自分も他人も、大自然も、
一体化して、本来はひとつであるとか、いってるんだ。
神道と理趣経って、セックスについて、
まったく同じ感じで、賛美しているよね」
「そうなんだ。わたしたちって、清浄なことを、
しているってことね。自然な行為だもんね。
じゃあ、もっと、いっぱいキスしてもいいのよね」
ふたりは、わらった。
≪つづく≫
8章 美樹の恋 (その8)
神社の拝殿(はいでん)の右側に、朱色や白壁(しろかべ)が
美しい授与所(じゅよしょ)はあった。あたりには数人の参拝者がいた。
おみくじ箱が、授与所の正面におかれた、ほそ長い紅い台の上にあった。
白衣(しらぎぬ)に、紅い袴(はかま)の、
若いかわいい巫女(みこ)さんが、授与所の中にいた。
「こんにちは」と、美樹がいったら、
巫女さんも、「こんにちは」と笑顔でこたえた。
美樹は、コンパクトなバッグから、シープレザーのミントグリーンの
長サイフを出して、やや長方形の紅(あか)い木箱の、
左上にあいている細長い穴に、100円を入れた。
そして、その木箱の右側に、いっぱい入っている、おみくじから、
1枚を、つまみ取った。
「やった。大吉よ」
美樹は大喜びであった。
「陽(はる)くんも、いいの出るといいね」
「おれ、今回はやめとくよ。美樹ちゃんに大吉じゃ、
おれのは、小吉とか、よくない気がするよ」
「そんなもんかも。わたし、1年間は、この運勢かしら」
「きっと、そうだよ、美樹ちゃん。この1年は最高だよ」
ふたりは、わらった。
美樹は、大吉のおみくじを陽斗(はると)に見せた。
「なになに、恋愛運にある相手は、おれのことかな?
おれのことだよね、ね、美樹ちゃん」
「そうよ。はるちゃんのことよ。わたしにとって、
はるちゃんは、すばらしい人だって」
美樹は、陽斗に、やさしく、ちょっと、
いたずらっぽく、微笑(ほほえ)んで、
大切そうに、おみくじを、サイフにしまった。
美樹の大吉のおみくじは、こんな内容であった。
《 大吉 》
今日のあなたは最高です。
することがすべて幸いの種となります。
心配ごともなく、嬉(うれ)しい一日です。
こんな日は、わき目をふらず、
自分の仕事や勉強など、
すべきことに専念すると、
その運気はいよいよ盛んになります。
しかし、わがままになったり、
酒や色に溺れると、
せっかくの運気を、
追い出してしまうことになるので、
注意が必要です
【願い事】
かなう。他人のことばに、
迷(まよ)わされては、いけません。
【待ち人】
連絡もせずに、急に訪れる人に、
幸運のチャンスがあります
【失し物】
出てきます。しかし、ちょっと手間取ります。
その意味をよく考えて。
【旅行】
いいでしょう。ただし連れがいる人は、その人との関係に注意。
【ビジネス】
進んでいいでしょう。ちょっと強気くらいがいい。
【学問】
あなたの勉強方法でいいでしょう。
そのまま努力を続けてください。
【争い事】
ちょっと勝ったら、すぐ退くのがいい。
【恋愛】
その人こそが、あなたにとってすばらしい人
【縁談】
どの人にしようと困ることがあります。
もう一度、よく心を静めて見定めましょう。
【転居】
とてもいいでしょう。
【病気】
快方に向かっています。
≪つづく≫
9章 恋する季節 (1)
9章 恋する季節 (1)
「今夜は、ライブ・レストラン・ビートに、
お越(こ)しいただきまして、誠(まこと)に
ありがとうございます。
今夜のお相手は、ロック・バンドの
クラッシュ・ビート(Crash・Beat)でございます。
そして、フィーチャリング(客演)!特別ゲストは、
マスコミでも話題の若干(じゃっかん)
20歳(はたち)のピアニスト・松下陽斗でございます」
マイクを片手の、30歳、長身の、店長・佐野幸夫(さのゆきお)が、
舞台の左端から、会場に向かって、
言葉に強弱をつけて、挨拶(あいさつ)をした。
日の暮れかかる前の6時から、
料理やスイーツや飲みものなどで、
寛(くつろ)いでいる、お客で、いっぱいの、
フロアには、盛大な拍手(はくしゅ)がわきおこった。
「みなさまには、『来てよかった』と思っていただけるように、
みんなで、ベストをつくします。
お手元の、パンフ(案内)にありますように、
今夜の曲目は、すべて、みなさま、よくご存じの、
厳選の20曲、カバー (cover)ばかりであります。
「それでは、メンバーを紹介させていただきましょう。
クラッシュ・ビートの、
リーダーでドラムの森川純(もりかわじゅん)!」
MC(進行)の店長の、佐野幸夫の横にいる、森川純が、
笑顔で、満席のフロアに向かって、
深々と一礼(いちれい)した。
「リズムギターの、川口信也(かわぐちしんや)!
ベースギターの、高田翔太(たかだしょうた)!
リードギターの、岡林明(おかばやしあきら)!
そして、フィーチャリング(客演)の、
特別ゲスト、ピアノの、松下陽斗(まつしたはると)!
わたしも、ふくめて、イケメンばかりが、
よくも、揃(そろ)ったものです。ワッハッハ!」
店長・佐野がそういって、大声でわらうと、場内も、
わらいにつつまれた。
ライブ・レストラン・ビートは、
下北沢駅南口から、徒歩で3分だった。
下北沢店は、キャパシティ(座席数)が、
1階と2階を合わせて、280席あった。
高さ8メートルの吹き抜けのホールになっていて、
グループで楽しめる1階のフロアの席、
ステージを見おろせる、二人のための2階の席、
1階フロアの後方には、
ひとりで楽しめるバー・カウンターがあった。
ステージのサイズは、間口が、約14メートル、
奥行きが、7メートル、天井高が、8メートル、
舞台床高が、0.8メートルだった。
舞台の左側には、グランド・ピアノがある。
「えーと、ヴォーカルは、全員ですよね。
松下陽斗(はると)さんは、ピアノを弾(ひ)きながらの、
歌がとてもお上手なんですよね」
と、店長の佐野が、
松下陽斗に、いきなり、マイクを向けた。
「そうですかぁ、おれは、歌うのが好きなので、
歌わせてもらってます。
クラッシュ・ビートのみなさんのハーモニーが、
ビートルズみたいに、うつくしいので、
邪魔(じゃま)しないように、がんばってます」
と松下陽斗(はると)は、はにかみながら、
生真面目(きまじめ)にいって、わらった。
「クラッシュ・ビートは、本当に、
最強のロックバンド、ビートルズみたいですよね。
ハーモニー(和声)も、ビートルズのように、
超うつくしいですよね。ねえ、会場のみなさん!」
といって、店長の佐野が、声を出してわらった。
会場からは「そうだ!そうだ!」とかの、声援や、
ざわめきや、わらい声がわきおこる。
店長・佐野の明るい性格は、いつも会場のムードを
盛り上げていた。
「ドラムの森川純さん、会場のみなさまに、
何かひとことを!」と店長・佐野。
「みなさん、今夜は、本当にありがとうございます。
最高の音楽を目指しますので、お楽しみください」
と森川純は笑顔でいった。
「ベースの高田翔太さん、ひとこと、どうぞ」
「こんなに、おおぜい、お集まりいただいて、感激しています。
楽しんでいただけるように、ベストで、いきます」と高田翔太。
「リードギターの岡村明さん、なにか、どうぞ」
「いやー、感激ですよね。こんなたくさんのみなさんの中で
ライブするの、はじめてじゃないかな。
いやー、緊張しちゃいます。ハハハ・・」と岡村明はわらった。
「リズムギターの川口信也さんも、どうぞ、ひとこと」
「この下北沢で、このメンバーで、大切なみなさまと、
楽しい、ひとときを、過ごせることに、感動しています。
ベストのパフォーマンスでゆきます!」
と、川口信也は笑顔で、力強く、いう。
≪つづく≫
9章 恋する季節 (2)
9章 恋する季節 (2)
先週の日曜日、下北沢駅の隣(となり)の、
池の上駅(いけのうええき)の、すぐ近くの、
『スリーコン・カフェ』で、川口信也は、清原美樹から、
突然、告(つ)げられた。
「ごめんなさい。わたし、松下陽斗(はると)くんと、
おつきあいを、していくことに、決めました。
ほんとうに、ごめんなさい。信也さん」
美樹は、頭を下げて、そう、信也に告白した。
美樹の瞳には、涙があふれて、
からだは、かすかに、ふるえた。
「・・・わかったよ、美樹ちゃん。・・・美樹ちゃんが、
陽斗くんと、おつきあいして、それで、
幸せになってくれるんなら・・・。
おれだって、うれしいはずさ・・・きっと。
・・・愛ってさ、愛っていうものは、
好きな人のことを、幸せにしたいっていう、
その気持ちが、1番大切なはずだよね。
・・・かっこつけちゃっているみたいだけど。
おれは、いつだって、美樹ちゃんの幸せを、
願っているよ。
・・・だから、美樹ちゃんも泣かないで・・・。
きょうは、ありがとう、美樹ちゃん。
美樹ちゃんが、メールとかじゃなくて、
おれと会って、いいにくいことを、
がんばって、話してくれたことが、
おれは、すごく、うれしいよ・・・。
これからも、ずーっと、よろしくね」
「・・・うん、わたしのほうこそ、よろしくお願いします。
でも、ほんとうに、ごめんなさい、信(しん)ちゃん・・・」
美樹の頬につたわる涙は、とまらない。
美樹はそれをハンカチでおさえる。
「しかし・・・、美樹ちゃんって、
きっと、永遠の、おれの天使なんだよね。
こんなふうに、涙で、顔がくしゃくしゃの、
泣きべそな、美樹ちゃんも、
すごっく、かわいいんだもん」
「信ちゃん、ったら」と、美樹に笑顔がもどった。
ベストのパフォーマンス・・・。そうだ、今夜は、
美樹のためにも、おれのためにも、
こうやって来てくれたお客さんのためにも、
最高の演奏をしなくちゃいけないんだ。
くだらない、悲しみなんて、吹き飛ばしてやるさ。
それが、おれらの、ロックンロールなんだから・・・。
川口信也は、そう思った。
最前列のテーブルの、美樹と姉の美咲の姿を、
しばらく、見つめながら。
「それでは、オープニンング、ビートルズのナンバー、
オール・マイ・ラヴィング (All My Loving)!」
川口信也が、リードボーカルを担当して、
アップ・テンポな、『オール・マイ・ラヴィング』を、
ポール・マッカートニーのような、太い高音で、歌(うた)う。
バッキング(伴奏)のコードを、
オルタネイト・ピッキングの、3連符で、刻(きざ)みながら。
高田翔太は、美しいメロディーラインの、
ランニング・ベースに、気合(きあい)を入れた。
森川純のドラムは、リンゴ・スターのようで、
ノリと、心地のよいリズムで、軽快だ。
岡林明は、切れがいいカッティングや、
ソロ・フレーズをジョージハリスンのように、
華麗(かれい)に弾(ひ)いた。
松下陽斗が奏(かな)でる、グランドピアノは、
ジャズふうな即興(そっきょう)で、
ビートルズ・ナンバーに、
新(あた)らしい、楽しさ、すばらしさを
花添(はなそ)えているかのようだ。
メンバーの、息(いき)の合(あ)った、コーラス(合唱)の、
ハミングや、リフレインは、決(き)まっていた。
そんな快調な演奏は、無事に続いた。
10曲までは、すべて、ビートルズナンバーの
演奏であった。『ガール』『ミッシェル』『イエスタディ』
『レット・イット・ビー』『エリナー・リグビー』
『ヘイ・ジュード』『涙の乗車券(Ticket To Ride)』など。
そして、後半の10曲は、ミスター・チルドレンの
『イノセント・ワールド』や、スピッツの『ロビンソン』や、
アジアン・カンフー・ジェネレーション、
宮崎あおいの『ソラニン』とかであった。
鳴り止まない拍手の中、21曲目のアンコールは、
ナオト・インティライミの『恋する季節』だった。
幾千(いくせん)の・・・愛の言葉も・・・
たりない・・・この思い・・・
あらゆるものから・・・君を奪(うば)いたくて・・・
さびしくないさ・・・君とめぐりあえたから・・・
奇跡(きせき)・・・?
奇跡は・・・おれにはあるのだろうか・・・?
自分が、メインになって、
シャウトしながら、歌(うた)う、
『恋する季節』の歌詞が、まるで、
いまの自分の気持ちを表現しているようで、
やけに、胸にしみる、川口信也だった。
≪つづく≫
9章 恋する季節 (3)
9章 恋する季節 (3)
280席がある、ライブ・レストラン・ビートは、
ぎっしりと、人だらけであった。
チケット(入場券)は、
ソールドアウト(完売)だった。
ロック・バンドのクラッシュ・ビートと、
ピアニスト・松下陽斗(はると)の、
初(はつ)コラボレーション(共演)は、
アンコール曲・『恋する季節 』で、
客席は、オールスタンディングとなった。
そして、10時には、鳴(な)りやまない
拍手のなか、ライブは終了した。
閉店は12時であった。半分以上の、客の引けた、
フロア・後方の、バー・カウンターや、テーブルで、
ライブの打ち上げが始まった。
「陽斗(はると)さんのピアノがあると、ポップスでも、
ジャズでも、R&Bでも、いいよね。
アンサンブル(演奏)の幅(はば)が広がるし。
今夜なんか、満員のお客さんが、きっとみんな、
感動と満足だったんじゃないかな」
ビールを飲みながら、森川純が、テーブルの
隣(となり)にすわる、松下陽斗に、そう語りかけた。
「ありがとうございます」といって、二十歳(はたち)の
陽斗もビールを飲む。
「今夜、ぼくが、がんばれたのも、クラッシュ・ビートの
演奏が、すばらしいからですよ。
純さんのドラムもすばらしかったです。
メトロノームのように、正確でありながら、
微妙(びみょう)な揺(ゆ)らぎがあったりして。
それが、また、いい・・・」
「アッハッハ。おれは機械みたいには、なれないしね。
感情が、微妙に、ドラミング(演奏)にあらわれちゃうんだ。
ビートルズのリンゴ・スターとか、スティーヴ・ガッドとか、
ジョン・ボナームとかの影響も受けてるけどね」
「揺(ゆ)らぎというか、ずれというか、それがあるから、
人間らしくて、うつくしい音楽が生まれるんだと思います」
「そうだね、そんなことだよね。
おれたちは、そんな音楽観が、一致しているから、
いっしょに、気分よく、楽しい演奏ができるんだよ。
これからも、よろしくお願いしますよ。陽斗(はると)さん」
「ええ、こちらこそ、よろしくお願いします」
打ち上げには、このライブハウスの経営をする、
株式会社・モリカワの社長・森川誠(まこと)、
その弟の副社長の森川学(まなぶ)、
社長の長男、森川純の兄の、森川良(りょう)もいた。
また社長の親友で、清原美樹の両親の、
清原和幸(かずゆき)、美穂子の姿もあった。
店長の佐野や店のスタッフも社長たちに挨拶(あいさつ)をした。
盛りあがったライブに、誰もが、笑顔であった。
クラッシュ・ビートのメンバーの母校の
早瀬田(わせだ)大学の先輩・後輩(せんぱい・こうはい)、
松下陽斗(はると)の在籍(ざいせき)する、
東京・芸術・大学の音楽学部の先輩・後輩も集まっていた。
1階と2階のフロアは、そんな若者たちで、華(はな)やかなであった。
早瀬田(わせだ)大学の3年生になる、清原美樹も、
姉の美咲(みさき)や、親友で、同じ大学の3年の、
小川真央(おがわまお)と、3人で、バー・カウンターで、
あまいカクテルのカンパリ・オレンジとかを飲みながら、
バーテンダーを相手に世間話をしていた。
「しん(信)ちゃんも、つらいとこだよな」
クラッシュ・ビートのリードギターの岡村明(あきら)が、
ジョッキの生ビールで酔いながら、川口信也に話しかけた。
「でも、しんちゃんは、うろたえてないから、すげーよ」
クラッシュ。ビートのベースの高田翔太(しょうた)もそういった。
3人は、川口を真ん中にして、6人がけの長(なが)四角のテーブルで、
料理をつまみながら、生ビールを飲んでいる。
「まあ、まあ、飲もうぜ!岡ちゃん、翔ちゃん。
おれって、なぜか、三角関係に縁(えん)があるんだよ。
アッハッハ」といって、川口は、ジョッキのビールを、
ぐいっと飲んだ。
「三角関係って、あのサイン(sine)、コサイン(cosine)のかぁ」
と高田翔太がふざける。
「ちゃう、ちゃう。ひとりの女性を、ふたりの男で、
奪(うば)い合(あ)うっていう、必死(ひっし)の戦いだよ」と川口。
「しんちゃんも、修羅場(しゅらば)を経験しとるんだね。
おれは、しんちゃんみたいな、きつい恋愛はしてこなかったなあ」
と高田が川口を見て、にやりとほほえむ。
≪つづく≫
9章 恋する季節 (4)
9章 恋する季節 (4)
「三角関係なんて、ヘタすれば、うつ病や自殺をまねくね。
それに遭遇(そうぐう)しないだけでも、岡ちゃんも、
翔ちゃんも、幸運の星の下に、生まれたのかもよ」
といって、川口信也は、声を出してわらう。
「しんちゃん、それ、ちゃいまんねん。
おれと、岡ちゃんは、競争率の高い相手を、
避(さ)けているだけだと思うけど」と高田翔太。
「翔ちゃん、それも、ちゃいまんねん。おれは、
競争率の高い女性が好きだなあ。
身も心も、しびれるようなオンナじゃないと、
おれは、つきあう気持ちにならないし」と、岡村明。
「岡ちゃんも、翔ちゃんも、『恋は罪悪ですよ』っていう
有名な言葉を知っているかなぁ」
「へーえ、『恋は罪悪ですよ』かぁ。知らないなあ」と高田。
「おれも知らない」と岡村。
「おれが高校のとき、三角関係で悩んだんだけど、
そのときに、読んだ小説の中で、
先生と呼ばれて登場する彼が語った言葉が、
『恋は罪悪ですよ』なんだよ。
夏目漱石(なつめそうせき)の『こころ』っていう小説だよ。
いまだって、若い人に読みつがれるくらい名作らしいけどね。
先生と呼ばれる、その彼は、学生だったころ、
ひそかに恋していた女性を、親友のKに、とられそうになったので、
Kよりさきに、その女性に、結婚の申し込みをしたんだ。
そしたら、うまくゆき、結婚してしまったんだよね。
そしたら、Kは、自殺してしまった。
そのことを後悔しつづけて、その先生も、せっかく、
恋に勝って、家庭もあるっていうのに、自殺してしまう、
という小説なんだよね。
おれは、その小説を読んで、三角関係は、
罪悪だと思ったね。それ以来、ややこしい恋愛関係は、
いち抜けたってことにいしているんだ。
所詮(しょせん)、人間のエゴイズムの問題だからね。
夏目漱石も、そんなエゴイズムを小説のテーマに
したってことね。おれは、恋愛については、
漱石に、人生を教わったって感じさ。
まあ、今回の三角関係の場合、
おれの美樹ちゃんへの気持ちに変わりはないけど、
おれは、おれのエゴイズムで、ばかみたいに、
苦しんだりはしないってことさ。
陽斗(はると)くんを、恨(うら)むような気持ちも、
さらさらないし」
ながながと、そう話すと、川口は声を出して、元気にわらった。
「エゴイズムかあ。長いあいだ、聞かなかった言葉だなあ。
エゴイズムというと、利己主義ということだろう」と高田翔太。
「エゴイズムって、自分の利益のことばかりを考えて、
他人の利益は考えないっていう、思考や行動のことだろう。
人間って、うっかりすると、そういう言動に、走りやすよね。
恋愛のときも、三角関係のときもそうなのかな。
なにも、死ぬことはないだろうけど。男が、2人もそろって。
そうか、三角関係をテーマにする夏目漱石って、
現代社会っていうか、資本主義っていうか、
われわれにある普遍的なエゴイズムの縮図というか、
構図をテーマにしているってことかもなあ。
夏目漱石て、やっぱり、抜群に頭がよかったりして」
といって、岡村明がわらった。川口も高田もわらった。
「おれは、夏目漱石って、すごい作家だと思ってるよ。
漱石を超えることができそうな作家は、
いまのところ、日本じゃ、村上春樹くらいかもね。
おれや、みんなに、小説の『こころ』で、
三角関係やエゴイズムのばかばかしさを、
教えてくれたんだからね。
それと、あのタイトル、なんで『こころ』なのかといえば、
エゴイズムを解消したときの、『こころ』が大切なんだと、
漱石はいいたかったのじゃあないかな。
心って、すなわち、魂(たましい)ともいえるよね。
おれたちのロックだって、心や魂を大切にするために、
やっているようなもんじゃないかな。
おれは、そんなことに、高校のとき『こころ』を読んで、
そう思つづけてきたんだ。ロックでも芸術でもいいから、
漱石の遺志を、ついでいけたらなあってね。」
「そうだね、しんちゃん。おれたちは、
その心や魂のためにも、やっていこうぜ」
と岡村が、ジョッキの乾杯を川口に求めた。
「夏目漱石の弟子だね、まるで、川口は。その弟子の川口も、
こうやって、三角関係で、またまた、すごく、成長したってわけかあ。
うまくいかない恋愛に、つぶれそうになるのが普通なのに、
川口はすごいよ。最高な、ロックンロール野郎ってとこかな。
今夜のライブも大成功だったし。よし。おれたちの、
これからのロックンロール人生を祝(いわ)って、
乾杯(かんぱい)しようぜ!」と、高田翔太もジョッキを手にした。
「乾杯!」
3人が、ジョッキを差しあげて、触れ合わせると、まわりのみんなも、
祝福の気持ちをこめた、乾杯がつづいた。
夜も更(ふ)けて、12時ちかくの閉店のころ、
かなりに酔った、川口信也は、
「また、ライブやろうぜ」と、松下陽斗(はると)と、
固い握手を交(かわ)わした。
陽斗の隣(となり)にいた美樹にも、
川口は、「美樹ちゃん、酔っちゃったよ」と笑顔でいった。
「しんちゃん、今夜のライブ、最高だったよ。すごく感動しちゃったわ」
と美樹がいうと、川口は「ありがとう」といって、男らしく、ほほえんだ。
≪つづく≫
10章 信也の新(あら)たな恋人 (1)
10章 信也の新(あら)たな恋人 (1)
下北沢駅南口から、歩いて、3分ほどの、
森川ビル内の本社から、仕事を終えた、
ロックバンド・クラッシュ・ビートのメンバーの4人、
川口信也、森川純、岡村明、高田翔太が、出てきた。
みんな、グレーのパンツとかで、白シャツで、
ノー・ネクタイで、課長職も、よく似合う感じであった。
川口信也が、みんなを、今夜も、
馴染(なじ)みの、バー(BAR)にでも寄(よ)っていこうと、
誘(さそ)っていた。
「しんちゃん、おれたち、みんな、
しんちゃんが誘(さそ)うから、
ついつい、つきあっちゃってるけど、
5月25日のライブから、飲みつづけてるよなあ。
おれ、体重が気になってきたよ」
そういって、4人の中で、どちらかといえば、
ふとめの体型の高田翔太は、わらった。
ほかの3人は、どちらかといえば、細身(ほそみ)だった。
「翔(しょう)ちゃんの、胃袋(いぶくろ)は、底なしだもの」
と森川純がいって、わらった。みんなもわらった。
川口信也のケータイが鳴(な)った。
<もしもし、おれだけど>
<川口さん、岡昇(おかのぼる)です。いま、お話しできますか?>
<だいじょうぶだよ。どうした、岡>
<ちょっと、いいお話があるんですよ>
<ハッハッハ。いい話か。最近、いい話ないからな、
聞かせてくれよ>
<おれと同じ、1年の、大沢詩織(おおさわしおり)なんですけど、
川口さんと、交際したいって、いっているんですよ!>
<大沢詩織・・・。ライブで一緒だった、女の子だよね。
へえー、おれと、つきあいたいってか!>
<ええ、それで、今度の土曜日の8日に、
その子(こ)とあってくれないっすかね。
大沢は、6月3日が誕生日だったんですよ。
どこかで、おれもで、3人で、誕生祝(いわい)なんかしたら、
最高なんですけど・・・>
<いいけど。あの子(こ)、かわいかったし。でも土曜日は、
AKB48の、総選挙があるんだよなあ>
<AKBは、あとで、みればいいじゃないっすか!>
<そりゃあ、そうだ、アッハッハ。じゃあ、待ち合わせ場所は、
下北沢の南口の改札口でいいかな。日時は、8日の土曜日、6時ってことで。>
<わかりました。彼女、連(つ)れて、6時に、下北(しもきた)の南口に
ゆきます>
<じゃあ、そういうことで、岡、よろしく。岡、いい話をありがとう>
岡昇(おかのぼる)と、大沢詩織(おおさわしおり)は、
早瀬田(わせだ)大学の1年生だった。
ふたりは、大学公認のバンド・サークルのミュージック・ファン・クラブ
(通称 MFC)の部員だった。川口や森川たちは、大学卒業後も、
そんな部員たちと、交流を続けていて、信頼でむすばれていた。
この前のクラッシュ・ビートと松下陽斗(はると)の、
ライブのチケットも、MFCの全員に、無料で配布していた。
「やっほー」と川口が、ケータイを持ったまま、両手を上げて叫んだ。
「後輩の岡のやつ、おれに彼女を紹介してくれるんだってよ!」
「あの1年の岡かあ」と、岡村明がいった。
「うん、うん、岡と、同じ1年の大沢詩織が、おれのこと好きなんだってさ」
「しんちゃん、モテまくりじゃん」と森川純。
「なんか、嘘(うそ)みたいな話だけど、今度こそは、
ふられたり、三角関係になったりしないことを願うよ」と川口。
「あの1年の大沢詩織かあ、ライブにも、岡と一緒に来ていたから、
おれはてっきり、岡の彼女かと、思っていたし・・・」と高田翔太。
「しかし、よくもまあ、しんちゃんは、美人に、好(す)かれるよね」
と岡村明。
「美人とか、かわいい子とかって、心変わりも早いから、大変だよ。
また、ふられたら、おれの寿命は、きっと、20年は、縮(ちぢ)むから・・・」
と川口信也。
「ひとりに、ふられて、10年かあ、そんなもんかもな、恋も真剣だと・・・」
森川純が、真面目(まじめ)な顔で、そういうと、
バー(BAR)へ向かって歩きながら、
みんなで、おおわらいとなった。
≪つづく≫
10章 信也の新(あら)たな恋人 (2)
10章 信也の新(あら)たな恋人 (2)
6月8日の土曜日。午後の2時40分ころ。
下北沢駅南口は、人で賑(にぎ)わっていた。
川口信也(かわぐちしんや)は、南口商店街の入り口の、
左角にある、マクドナルドに入(はい)った。
プレミアムローストコーヒーと、ホットアップルパイを、
3つ、注文する。ホットアップルパイは、これから店に来る、
大沢詩織(おおさわしおり)と、岡昇(おかのぼる)のぶんもだ。
いまから、川口は、母校の早瀬田(わせだ)大学の、
1年生の大沢詩織と、同じ大学の1年の、岡昇との、3人で、
大沢詩織の19歳の誕生祝(たんじょういわ)いをする。
何度もメールで、岡昇と、きょうの予定を打ち合わせた。
待ち合わせ場所を、マクドナルドに、
時間も、3時にした。
最初に、フレンチ・カフェ・レストランで、誕生パーティをして、
そのあと、ライブ・レストラン・ビートで、
ひとときを楽しむという予定にした。
どちらの店も、川口の勤(つと)める、モリカワの、下北沢店だった。
ライブ・レストラン・ビートの、今夜の公演は、
女性・ポップス・シンガーの、白石愛美(しらいしまなみ)と、
ピアニストの松下陽斗(まつしたはると)との、
コラボ(共演)だった。ドラムと女性コーラスも、入(はい)る。
白石愛美も、松下陽斗も、現在、20歳(はたち)で、
モリカワの事業部のひとつ、
モリカワ・ミュージックに所属(しょぞく)していた。
モリカワ・ミュージックでは、全国に展開中のライブハウスや、
一般からのデモテープなどから、新人の発掘や育成をしている。
新(あら)たなアーチストを、ミュージック・シーンに、
輩出(はいしゅつ)していく、ビジネスを展開中だった。
そういえば・・・、去年の10月は、おれのマンションに、
美樹(みき)ちゃんと、真央(まお)ちゃんが来て、
3人で、二十歳(はたち)の誕生会をしようって、
街にくり出したっけ。
あのときも、いまみたいな、ワクワクした感じで、
すべてが、うまくいきそうな気分だった。
楽しかったよなあ・・・。
川口は、好きな、ホットアップルパイを、ほおばった。
今回も、やっぱり、3人なんて。19歳の誕生会だし、
あのときと、同じとはいえないけど、似ているし。
なんか、一抹(いちまつ)の不安かな。
心のどこかに、トラウマ(心理的な後遺症)が
あったりして。
川口は、そんなことを思いながら、にがわらいした。
たとえば、岡が、詩織ちゃんと、ほんとは、
つきあいたかったりして・・・。
そしたら、またしても、三角関係じゃん。
しかし、それだったら、岡が、最初から、
おれと詩織ちゃんの仲がうまくいくように、
世話をすることもないわけだよな。
このさい、岡には、岡の本心を、はっきり、聞いておくか。
岡は、信頼できる、いいやつだから、
岡には、大学内で、詩織ちゃんに、
悪い虫がつかないように、監視してもらえそうだし。
ハハハ。考え出したらきりがない、やめた!
そのとき、「川口さん、おひさしぶりです」と、
岡昇と、大沢詩織が、あらわれた。
ちょうど、3時をまわった時刻だ。
170センチくらいの岡のとなりにいる、
その10センチくらいは低そうな、大沢詩織が、
「川口さん、こんにちは」といって、
微笑(ほほえ)んだ。
肩レースの、白いTシャツと、デニムの、
ハイウェスト・ショートパンツで、詩織はかわいい。
≪つづく≫
10章 信也の新(あら)たな恋人 (3)
10章 信也の新(あら)たな恋人 (3)
詩織ちゃん、色っぽいな、長い髪がよく似(に)あう、
と、詩織の、オーラの出ているような雰囲気に、
信也は思った。
岡は、赤系のチェックのシャツに、ジーンズで、
小中学生のころからの、男の定番って感じ。
同じ、19歳なのに、岡が、幼(おさな)く見える。
岡の、どこか、とぼけた、人のよさそうな、わらい顔。
詩織の、男心をそそる、微笑(ほほえ)み。
そんな、ふたりの姿(すがた)に、
川口信也は、不思議なくらい、
何かが吹っ切れたように、元気がわいてきた。
「はい、ホットアップルパイ」と川口がいう。
「あ、どうも」とか「ありがとう」と、岡と詩織はいう。
それから、すぐに、川口たちは、マックを出る。
フレンチ・カフェ・レストランに向かった。
梅雨(つゆ)入りしたばかりで、くもり空だったが、
午後は、上空が晴(は)れわたった。
「川口さんって、どうして、あんなに、歌が、
お上手(じょうず)なんですか?」
川口信也と寄り添って歩く、詩織が、
もうすでに、恋人のように話しかける。
「おれなんか、まだまだ、うまくないけど。
ありがとう、詩織ちゃん」
「わたし、こないだのクラッシュ・ビートの
ライブを聴いていて、特に、川口さんの
ヴォーカルに感動しちゃったんです。
気持ちよさそうに、高い音域まで、
歌いこなしちゃっていましたよね、すごいです」
「子供のころから・・・、小学3年のころかな、
歌が好きで、よく歌をうたっていたんですよ。
子どもなりにも、真剣に」
そういって、わらって、川口は、詩織をみた。
「親に、ギターを買ってもらってからは、
歌よりも、ギターに熱中してたかな。ハハハ」
「そうそう、川口さんは、ギターも、ヴォーカルも、
超(ちょう)ウマ!先輩として、尊敬しちゃいますよ」
信也と詩織のうしろを歩く、岡が、そういった。
「岡ちゃん、きょうは、おれたち、3人の、誕生と、
これから先の人生の、お祝いをしよう。
それと、おれたちの、この、運命的な出会いを、
お祝いしようよ。
きょうは、おれに、まかせなさいって!ははは」
そういって、信也がわらうと、詩織も岡も、明るくわらった。
3人は、モリカワのフレンチ・カフェ・レストラン・下北沢店に入った。
南フランスを思わせる、あわいベージュ色の外観の、
青空によく映(は)える、オレンジの瓦(かわら)の一軒家だった。
店内は、あたたかみのある木材(もくざい)が使(つか)われて、
フランスのカフェにいるのような感じがする。
「えーと、大沢詩織さん、お誕生日おめでとうございます。
詩織さんの、19歳のお誕生日を、お祝いして、
ささやかではありますが、乾杯をいたしたいと思います。
かんぱーい!」
3人は、赤いクッションの椅子(いす)にすわったまま乾杯をした。
「このように、すばらしいパーティーを開いていただき、
ありがとうございます」
大沢詩織が、瞳(ひとみ)を潤(うる)ませて、ちょこっと、頭を下(さ)げた。
「詩織ちゃんのお祝いをするなんて、男として、光栄ですよ」
≪つづく≫
10章 信也の新(あら)たな恋人 (4)
10章 信也の新(あら)たな恋人 (4)
川口は、「ほんとうは生(なま)ビールがいいんだけど」といいながら、
グラスのアサヒスーパードライを、うまそうに飲んだ。
まだ未成年の、詩織と岡は、ふたりとも、ノンアルコールの
ジンジャーエールを飲んでいる。
ランチ・コースは、3人、それぞれに違ったコースだったが、
テーブルには、華(はな)やかなバリエーションの料理がならんだ。
オーブンで、蒸(む)し焼(や)きにしてある、白身魚・ホタテ貝
・車エビのポワレ。
生クリームで仕上げた、パンプキン(かぼちゃ)のポタージュ。
玉ねぎの甘味がおいしい、オニオン・グラタン・スープ。
牛フィレ肉のステーキやイベリコ豚ロースのロースト。
リンゴとブドウの、フルーツのコンポート。
スタードプディングと似(に)たデザートのクレーム・ブリュレ。
そして、≪Happy 15th Birthday Shiori!≫
(詩織、19歳の誕生日おめでとう!)
とチョコレートで書かれた、ショートケーキを、
「詩織さん、お誕生日、おめでとうございます」といって、
ウェイトレスが、笑顔で運んできた。
「わたしね、なんで、川口さんのことを、こんなに
好きになっちゃったのか、自分でもよくわからないの」
長い髪をかき分(わ)けると、詩織が、ささやくような小さな声で、
ビールに酔って、上機嫌(じょうきげん)の川口に、そういった。
「恋っていうか、恋愛感情って、突然のように芽生えるからね」
そういうと、詩織と岡に、わらって、「ああ、おれ、酔ってるな」
といって、わらって、天井(てんじょう)から下(さ)がる、
アンティーク(古美術工芸品)のような照明を、川口は見つめた。
「おれって、不器用(ぶきよう)な男なんですよ。詩織ちゃん。
女の子にも、ふられっぱなしの人生で・・・」
「そんなことないはずです。川口さんって、すてきだと思います」と詩織。
「川口さんは、もてますよ。性格はさっぱりと男らしいし」と岡がいう。
「けど、岡ちゃん、おれの恋愛って、長続きしたことないんだ。
その点、岡ちゃんと、なんか似てるよな。おれも、岡ちゃんも、
不器用なタイプってことで、きっと、似てるんだ。だから気もあう」
そういって、川口が、腹から声を出してわらった。
「そうなんだあ。わかった、きっと、わたし、そんな川口さんの
不器用なところが、大好きなのかも。
だって、わたしも、どちらかといえば、かなりな不器用なんですもん。
男女も、似ているところに惹(ひかれ)かれ合(あ)うらしいです。
わたしって、器用に、世の中を渡る人よりか、不器用な人のほうが、
絶対に、いいと思います」
「ありがとう、詩織ちゃん、詩織ちゃんって、やさしくって、
とてもいい子だね。おれも、今度こそは、詩織ちゃんと、
うまくやっていけそうな気がしてくるよ。
詩織ちゃんがいうように、不器用な人ほど、真面目(まじめ)に
努力もするしね。だから、不器用って、欠点ではなくて、
長所だと、考えたほうがいいのかもしれないよね。
不器用なおかげで、わりと、ひとつのことに、粘(ねば)り強いし、
執着(しゅうちゃく)するし、失敗や努力型は成功のもとってね。
ね、岡ちゃん」
「そうですよ、川口さん。ロッカーの斉藤和義(さいとうかずよし)が、
やっぱり、野球が好きでも、あまりうまくならないから、
ミュージシャンになれたとか、テレビで語ってましたよ。
ミュージシャンって、スポーツ音痴(おんち)
が多いんじゃないかって、いってました、たしか・・・。
いまも、仕事の合間に、好きな野球はやっているらしいっすけど。
そんなところ、あの人も、不器用なのかもしれないし、
川口さんと、おれとに、似てるかもしれませんよね。」
「おれたちも、斉藤和義みたいに成功する夢を
あきらめちゃいけないよな。
そうかあ、おれも、岡ちゃんも、高校のとき、
バスケットが、大好きで、夢中だったけど、
へたっぴだったって、ところ、斉藤和義さんにも、
どこか似ているのかもなあ。スポーツ音痴かあ、
痛いところ、つかれるって感じだよな、岡ちゃん」
「はい」
川口と岡がわらった。
「川口さんと岡くん、バスケットに熱中してたんですか!
それも、すてきです」
そういうと、詩織は、川口に惚(ほ)れなおしたようであった。
フレンチ・カフェ・レストランでの、誕生パーティのあと、
3人は、歩いて5分くらいの、ライブ・レストラン・ビートへ向かった。
今夜の公演の、女性・ポップス・シンガーの、
白石愛美(しらいしまなみ)と、
ピアニストの松下陽斗(まつしたはると)との、
コラボ(共演)は、チケット(入場券)も、
ソールドアウト(完売)という感じであった。
6時半の開演前、すでに、1階フロア、2階フロア、
あわせて、280席は、ほぼ満席、人だらけであった。
川口たち3人は、ステージ近くの席を予約できた。
クラッシュ・ビートの仲間の3人、
森川純(もりかわじゅん)、高田翔太(たかだしょうた)、
岡林明(おかばやしあきら)、も会場に来ていた。
川口に、うまくやれよ!とでもいった、エールを送る。
≪つづく≫
10章 信也の新(あら)たな恋人 (5)
10章 信也の新(あら)たな恋人 (5)
司会は、店長の、佐野幸夫だった。軽快で、
おもしろい、MC(進行)も評判だった。
「今夜は、ライブ・レストラン・ビートへ、お越(こ)しいただいて、
ありがとうございます。いやーあ、今夜も、超満席になりました。
ほんとうに、ありがとうございます」と、店長の佐野。
「白石愛美(しらいしまなみ)さんは、わたしも、びっくり、
あの、華麗な歌姫、マライア・キャリーさんが、
大好きで、尊敬していて、歌の師匠であったんですよね。
それで、うちの、モリカワのレストランで、ウェイトレスをして、
チャンスを、虎視眈々(こしたんたん)と、
伺(うかが)っていたというわけなんですよね。
そしたら、どうでしょう、このように、いまでは、
みなさまに、愛される、ポップス・シンガーとして、
ライブ会場を、満席にしてしまっています。
これは、まるで、現代のシンデレラ姫(ひめ)の物語、
そのものですよね。
わたしなんか、このサクセスストーリーだけで、
感動してしまいます!
虎視眈々のトラのように強靭な目的意識をもった
若干(じゃっかん)20歳(はたち)女の子が、
シンデレラ姫となって、羽(は)ばたいていくんです。
みなさま、絶大なる声援を、これからもお願いします!」
会場からは、割(わ)れんばかりの拍手と声援がわきおこる。
「あ、みなさま、シンデレラ姫といったら、王子(おうじ)さまが、
必要ですよね。わたしがその、王子さまになれたら、
いまにでも、死んでも、悔(く)いはないのですが、
運命のいたずらというか、現実はいつも、きびしいものです」
といって、佐野が、おいおい、泣くマネをすると、会場からは、
わらいがもれた。
「さて、今夜は、白石愛美(しらいしまなみ)にふさわしい、
すてきな王子さまも、来ております。
白石愛美も天才級の歌声ならば、
この人も、天才級のピアニストです。
ピアニスト・松下陽斗(はると)です!」
ここで、ステージには、松下陽斗と、白石愛美が現れた。
会場に、絶大な拍手と歓声がわきおこった。
その会場の熱気は、このふたりの人気度をあらわすようであった。
ポップス・シンガーの白石愛美と、ピアニスト・松下陽斗(はると)は、
モリカワの全店と、モリカワ・ミュージックが、全面的支援していた。
そして、すでに、そのふたりの才能は、雑誌やテレビのマスコミも、
注目していて、その知名度も、急上昇中であった。
去年まで、白石愛美(しらいしまなみ)は、モリカワのレストランで、
ウェイトレスをしながら、地道に歌のレッスンをしていた。
去年(2012年)の初秋(しょしゅう)、モリカワ・ミュージックが、
デモテープや、ライブハウスなどから、新人を発掘し始めたので、
白石愛美(しらいしまなみ)は、大好きで、社会活動や、
チャリティー活動をしている誠実さでも、尊敬する、
マライア・キャリーの、My All(マイ・オール)を歌った、
デモテープを、モリカワ・ミュージックへ送ったのであった。
そのデモテープが、モリカワの社長の長男の、
モリカワ・ミュージック・課長の森川良(りょう)に、
感動とともに、絶賛されて、認められたのだった。
森川良は、課長の森川純(じゅん)の兄である。
「それでは、みなさま、お待たせしました。
ごゆっくりと、お楽しみください。
日本に現(あらわ)れた、若干(じゃっかん)20歳(はたち)の、
天才的、アーチスト、白石愛美(しらいしまなみ)と
松下陽斗(まつしまはると)との、ライブです。
歌う曲目は、マライア・キャリーの名曲の数々です!
ドラムは、ベテランの綱樹正人(つなきまさと)
女性コーラスは、青木エリカ、本間ともみ、相沢理沙のみなさんです!」
1階と2階のフロア、会場全体から、ゆったりとした気分で、
飲食を楽しんでいる観客たちの、歓声と拍手がわきおこった。
「わたし、いくら、がんばっても、マライア・キャリーのような、
歌唱力では、歌えないだろうけど、
わたしも、カーリー・レイ・ジェプセンや、
テイラー・スウィフトのような、シンガーソングライターにはなりたいの」
そう、大沢詩織が、川口信也の耳もとにささやいた。
「詩織ちゃんなら、だいじょうぶだと思うよ。
おれも、がんばるから、おたがいに夢を追っていこうぜ」
「うん・・・」 詩織の瞳(ひとみ)が、少女のように、輝(かがや)いた。
「川口さん、詩織ちゃん、おれも、がんばるから」と、岡もほほえんだ。
静まりかえった会場の、ステージから、松下陽斗(まつしたはると)の
ピアノだけが鳴りひびいた。
1曲目の、『 Without You 』のイントロであった。『 Without You 』は、
1994年、 全米3位を記録した。
『生きてゆけそうもない、あなたのいない人生なんて。
何もする気もおきない・・・』と、失恋の、失意の歌で、
人生のどん底に落ちている、その心情を、詩情豊かに、歌いあげた
名曲だった。
2曲は、『My All 』だった。『My All 』は、1998年、全米3週連続1位
であった。『抱きしめてもらえるのなら、命をかけてもいい。思い出
だけでは生きてはいけないわ』という、女性のせつなる心情を、
高貴なまでに、神聖なまでに、歌い上げている。
15曲を歌いあげたあとの、アンコール曲は『Hero』であった。
『自分自身を見つめて、勇気をだして、そのとき、真実は
見えてくるものよ。ヒーローは、自分の中にいるのよ』と、
聴くものを、元気づけてくれる名曲であった。
マライヤ・キャリーを、ありありと、思い浮かばせるような、
ハープやフルートの、最高音にちかい、超高音域の、
ホイッスルボイスも、白石愛美は、思いのままに、熱唱できた。
そんな、ボリューム(量感)と、繊細さとをかねそなえた、
女性らしい、甘美な歌声に、会場は酔いしれた。
松下陽斗(はると)の、ピアノも、原曲に忠実な部分と、ジャズっぽく、
アレンジした部分が、絶妙で、聴衆を魅了した。
ベテランの綱樹正人(つなきまさと)の、ドラミングも、
青木エリカ、本間ともみ、相沢理沙たちの、女性コーラスも、
聴衆をじゅうぶんに堪能させて、見事(みごと)だった。
≪つづく≫
11章 ミュージック・ファン・クラブ (1)
11章 ミュージック・ファン・クラブ (1)
東京都新宿区の戸山(とやま)にある、
早瀬田(わせだ)大学の戸山キャンパスには、
多くの学生で、いつも賑(にぎ)わう、学生会館があった。
学生会館は、東棟(ひがしとう)が11階、西棟(にしとう)は
6階という、大きな建物である。
東棟には、学生たちのサークルの部屋が数多くあった。
西棟には、休憩したり、寛(くつろ)いだりできる、
ラウンジ・スペースも、2階や3階や4階に充実している。
大きな1枚ガラスからは、四季の折々(しきのおりおり)、
緑(みどり)の生(お)い茂(しげ)る樹木(じゅもく)、
学生が行(ゆ)きかう、ひろいキャンパス(校庭)も見える。
6月28日、金曜日の午後の3時半ころ。
西棟(にしとう)の2階にある、大ラウンジには、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員が
集まりはじめていた。
大ラウンジには、コンビニエンス・ストアのセブンイレブンもあった。
食べ物、雑誌、文房具、生活用品、ATMも完備している。
予約の弁当の受付、配達もおこなっている。
その西棟の、3階には、ファーストフードのモスバーガーもあった。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)では、
ポップ・ミュージック、ロックやブルース、ソウル、ファンク、
ゴスペルなどまで、幅広いジャンルを、自由に楽しんでる。
毎回のライブごとに、気のあう人と、バンドを組(く)んだり、
あらたなメンバーを集めたりする、
フリーバンド制のサークルであった。
現在の部員数は、男子30人、女子38人、あわせて68人。
女子が、38人もいるのには、わけもあった。
コーラスで歌うのが好きだからとか、
ダンスが好きだからとか、ひいきの応援が好きだからとか、
そんな、女子部員も多いからだ。
音楽を愛することに変わりはないわけで、MFCでは、大歓迎であった。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の、
スケジュール(予定)やイベント(行事)などの打ち合わせを、
サークルの部室でしていた、
サークル幹部(かんぶ)の幹事長、大学3年の矢野拓海(やのたくみ)、
1年の岡昇(おかのぼる)、2年の谷村将也(たにむらしょうや)の3人が、
MFCのみんなが集まっている、大ラウンジにやってきた。
MFCの部室は、E1107、東棟(ひがしとう)の11階にあった。
「サザンオールスターズ・祭(まつ)りは、8月。
恒例(こうれい)の、前期定例ライブは、7月。
相乗効果(そうじょうこうか)っていうのかな、
みんな、いつもよりのっているよね!」
といって、幹事長の矢野拓海(やのたくみ)がわらった。
MFCでは、急遽(きゅうきょ)、サザンのナンバーだけを集めた、
『サザンオールスターズ・祭り』と名づけた、特別ライブを、
8月24日(土)に、下北沢のライブ・レストラン・ビートで
行(おこな)うことになった。
OB(卒業生)の森川純たち、クラッシュ・ビートとのコラボ(共演)だった。
サザンオールスターズの活動再開ニュースには、
MFCの部員たちも、よろこんでいた。
1階フロア、2階フロア、あわせて、280席という、
ライブ・レストラン・ビートで、ライブができることも、
部員にとって、うれしいことであった。
「サザンオールスターズが、突然、活動再開を
発表した、6月25日の次の日に、森川純さんから、
サザン・祭りをやるぞって、
ケータイにメールが入ったんですからね。
話が早(はや)いですよね」と、1年生の岡昇が、
幹事長の、大学3年の矢野拓海(やのたくみ)に話(はな)した。
「その純さんのメールだけど。岡のと、おれのと、
まったく同じメールなんだよな。ハハハ」と、いって、
無邪気(むじゃき)な子どものように、矢野拓海(やのたくみ)がわらった。
「おれに来たメールも、みんなと同じだし」と、
2年の、谷村将也(たにむらしょうや)もわらった。
「そうなんですか!?・・・3人に、同じメールを送るって、
やばい気もしますけど。手抜(てぬ)きのようで」と岡。
≪つづく≫
11章 ミュージック・ファン・クラブ (2)
11章 ミュージック・ファン・クラブ (2)
「いや、3人に同じメールというのは、いいんじゃないの?
2人じゃ。まずいと思うけど」
と、幹事長の矢野拓海(たくみ)といって、また声を出してわらった。
「そういうものなんですかね」と、岡。
「男女のつきあいでも、二股(ふたまた)かけるって、
ばれた場合、やばいじゃん。
だまされたと思えば、くやしいし、傷(きず)つくし。
でも、それが、三股(さんまた)、四股(よまた)となれば、
ばれたときも、あきれちゃって、笑い話になっちゃうんじゃないかな?
たぶん、ユーモアになっちゃうのさ。たぶん。メールもそんなもんだよ」
矢野拓海(たくみ)が、真面目になって、そういうものだから、
岡と谷村将也(しょうや)は、目を合わせて、
「拓(たく)ちゃんのいうことは、ときどき、奇抜というか、独特というか。
まあ、拓ちゃんなら、五股(ごまた)くらい、経験ありそうだな」
と、谷村がいって、声を出してわらった。
「拓さんなら、七股(ななまた)くらいやれる気もしますけど」
と、岡もいう。
「おれの理想は、12股(また)さ」と矢野拓海(やのたくみ)。
「また(股)、またァ。12股(また)ですか!すげえ!
矢野さんは、なぜか、モテるからなあ」
岡がそういうと、3人でわらった。
MFCの幹事長の矢野拓海(やのたくみ)は、ピアノも
ギターもベースもドラムもヴォーカルでも、
かなりなレベル(程度)できた。
その器用さと、その独特のユーモアなどで、MFCの部員や、
OBの森川純たち、クラッシュビートのメンバーからも、
信頼があって、慕(した)われている。
特定の彼女はいないが、ガールフレンドはいっぱいいた。
矢野拓海(やのたくみ)は、たまたま、録画して、テレビで見た、
トム・ハルスがモーツァルトを演じる、映画のアマデウスに、
頭の中を撹拌(かくはん)、かき回(まわ)されるような、
感動と衝撃を受(う)けたのだった。
その映画では、モーツァルトが、ロックスターのように
描かれているものだからか、
矢野拓海は、モーツァルトのことを、
ロックやポップスの偉大なパイオニア(先駆者)かとも思った。
そして、モーツァルトの曲を、ユーチューブとかで、
聴(き)き込んでいくうちに、
流行(はやり)のポップスくらいにしか興味のなかった、
矢野拓海(やのたくみ)の音楽に対する価値観は
一変(いっぺん)していった。
モーツァルトのクラリネット協奏曲・イ長調・K.622、や
ピアノ協奏曲変ホ長調・K.271、などを、
ユーチューブで聴いた、矢野拓海は、
その自由で、自然で、愛に満(み)ちている、
その旋律、その音楽全体に、ふかい感動をおぼえた。
・・・1756年に生まれて、1791年に35歳で、
生涯(しょうがい)を閉(と)じた、モーツァルト。
そんな、200年以上も前に生まれた天才が、
おれに、いろいろと語(かた)りかけてくる・・・。
矢野拓海(やのたくみ)は、モーツァルトを聴きながら、
ぼんやりと、人生や芸術について、考えてみることが好きになっていた。
・・・へたなハード・ロックを聴くより、モーツァルトって、
セクシー(色っぽい)な感じ。きっと、脳内(のうない)を刺激してくるんだ。
むらむら、性欲がわきおこるというか、活力がわいてくるし。
モーツァルトの音楽は、すごい・・・。矢野拓海(やのたくみ)はそう思った。
「おだてんなって。なにもいいものは出ないよ。でもね、マジメな話。
サザン祭りってことで、純(じゅん)さんから、特別ライブを
やろうって、話が来たことで、サークルのみんなも、
俄然(がぜん)元気になって、目の輝きも違うし、よかったよ!」
そういって、MFCの幹事長の矢野拓海(やのたくみ)が、
ニコニコして岡と谷村、ふたりの肩をたたいた。
大学1年の岡は、MFCの会計を担当していた。
大学2年の谷村将也(たにむらしょうや)は、MFCの副幹事長だ。
公認サークルの設立には、会長としての、専任の教職員が1人と、
学生の責任者としての、幹事長、副幹事長、会計が、各1名、
必須条件(ひっすじょうけん)であった。
「森川純さんの会社は、どんどん大きくなっていて、
ライブハウスも、全国展開してるよね。
音楽ソフトの、モリカワ・ミュージックは、
新人アーチストの育成や発掘に力を入れているしね。
すごいよね。
このごろの、この就職難(しゅうしょくなん)、
おれの就職先なんかを考えると、
いざとなれば、頼(たよ)りになりそうで、なんとなく、
おれの未来も明るい感じになってくるんだけどさ!」
谷村将也(たにむらしょうや)が、大きな声で、そういった。
谷村は、MFCでも、1番か2番の、声量の持ち主だった。
その声の大きさに、まわりにいる、MFC(ミュージック・ファン・クラブ)
の、女の子や男子の部員たちが、いっせいにふりむく。
≪つづく≫
11章 ミュージック・ファン・クラブ (3)
11章 ミュージック・ファン・クラブ (3)
どこか、いつも、内気(うちき)と大胆(だいたん)との、
アンバランスが目立つ、谷村は、
目を大きくして、片手で頭をかきながら、
ぺこっと頭もさげて、愛想(あいそ)わらいをふりまいた。
背の高い、谷村のそんな仕草(しぐさ)に、
女子の部員も、男子の部員も、くすくすと、あかるく笑った。
「そうですよね、谷村さん。おれらは、OB(卒業生)に、尊敬できる、
純さんや信也さんたちがいて、ラッキーですよね!」
と岡。
岡の、フォロー(補足)がうまいところは、みんなから好(す)かれた。
「岡ちゃん、おれたちは、なんで、純(じゅん)さんや信也(しんや)さん、
翔太(しょうた)さん、明(あきら)たちの、
クラッシュ・ビートのみんなを、尊敬して、信頼しているのかな?」
と幹事長の、3年生、矢野拓海(やのたくみ)。
「あまり、考えたことないっす、拓(たく)さん」と岡昇(おかのぼる)。
「クラッシュ・ビートって、みんな、ビートルズが好きで、ビートルズの
コピーばかり、熱心にしていたんだよ。大学1年から4年まで、ずーっと。
もう完璧(かんぺき)というくらいに、コピーしちゃってさ。
それをやってきたから、いまでは、プロとしてもやっていける実力の
バンドになっているんだよね。それって、コピーのおかげってもんで。
コピーって、大切だってことなんだよね。
サザンの桑田佳祐(くわたけいすけ)さんだって、
すごく、コピーとかで、練習したんだろうね。
じゃあないと、オリジナル(独創的)な作品も作れないんだと思うよ。
クラシックの天才、モーツァルトも、ほかの人の音楽の、
真似(まね)つーか、コピーというか、
模倣(もほう)というか、得意(とくい)だったらしいんだ。
やっぱり、模倣や、コピーこそが、
オリジナル(独創的)への道って、ことなのかなあ。
天才は、そんな、芸術創造の秘密を教えてくれている気がするよ。
クラッシュ・ビートも、おれにそんなことを教えてくれたんだよ」
と、矢野拓海(やのたくみ)が、言葉をとぎれとぎれにいうと、
「なるほど、さすが、拓ちゃんだ」と、副幹事長の
大学2年の谷村将也(たにむらしょうや)が、
「ほんと、すごいです、拓さん」と、大学1年、会計担当の
岡昇がいって、ふたりは、マジで感心した。
その話を、そばで聞きいている、
大学1年の森隼人(もりはやと)が、ちょっと早口に、
3人の会話に入り込むように、しゃべりだした。
「まったく、さすがですね、拓海(たくみ)さんの考え方は。
おれなんかも、女の子に、モテたいから、
音楽やっているって感じですよ。岡も、そんなもんだろ。
拓海(たくみ)さんのお話を聞いていると、
おれも、考え直(なお)さないといけない思えてきます」
「男なんて、ふつう、そんなもんだよ、森ちゃん」と岡がいった。
「みんな、女の子にモテたいのが、本心だよ。森ちゃん」
と谷村も、自己卑下(じこひげ)ぎみに語る、森を、かばった。
「やっぱり、そんなものでしょうか?
でも、それ聞いて、安心しました。
それにしても、拓海(たくみ)さんのお話はいつも深いですよね。
ぼくは、いつも勉強になりますよ。
さすが、僕らのサークルの幹事長ですよ。
理工学部の先輩としても、いつも尊敬しています」と、森隼人(もりはやと)。
「森ちゃんは、優秀だから、ぼくが、いろいろと、刺激を受けるくらいだよ」
と矢野拓海(やのたくみ)。
「拓さんに、褒(ほ)めていただけたようで、うれしいです。
拓(たく)さん、女の子とのつきあいって、むずかしいですよね。
ぼくには、どんなふうに、つきあったらいいのか、いまもわからないです。
男は女とつきあうことで、成長するとか、いいますけど、
たしかに、女の子には苦労しますよね、だから成長できるのかも」
といって、森隼人(もりはやと)は、
矢野拓海(やのたくみ)たちに、照(て)れるようにわらった。
≪つづく≫
11章 ミュージック・ファン・クラブ (4)
11章 ミュージック・ファン・クラブ (4)
「それにしても、MFC(ミュージック・ファン・クラブ)には、
女の子がたくさんいますよね。
早瀬田(わせだ)の中の、かわいい子ばかりが、
集まっている気がします。
おれって、女の子には、いつも、奥手(おくて)なんですけど、
このサークルで、知り合った女の子たちで、
すてきだな思うのは、あのへんの子たち。
いつも笑顔がかわいい、児島(こじま)かおるさんとか。
長い髪がチャーミング(魅惑的)な、和田彩加(わださやか)さん。
あと、あそこの、ミニスカートが抜群、足のきれいな、
桜井(さくらい)あかねさん。
彼女のとなりにいる、おんなっぽい、森田麻由美(もりたまゆみ)さん。
あと、あそこにいる、
杉田由紀(すぎたゆき)さん、山下尚美(やましたなおみ)さん
男心をくすぐる、何かを持ってますよね、彼女たちはみんな・・・」
と、森隼人(もりはやと)は、好きなように、しゃべりまくった。
おいおい、そんなことまで、聞いてないって、森ちゃん。
と、岡は心のなかで思った。
矢野拓海(たくみ)も、谷村将也(たにむらしょうや)も、
おたがいに、顔を見合わせて、困ったように、わらった。
戸山(とやま)キャンパスの西隣(にしとなり)、
西早瀬田(にしわせだ)キャンパスの、理工学部で学んでいる、
森隼人(もりはやと)は、コンピュータやデジタル技術に詳(くわ)しく、
自分の部屋にあるデジタル機器を使って、
音楽の編集やアレンジ(編曲)をすることが好きであった。
そのうえ、森隼人(もりはやと)には、家柄のいいような、
気品もどことなくあって、容姿も整(ととの)っているから、
サークルの女子の部員にも、ほかの女子学生にも、人気があった。
森隼人(もりはやと)は、中田ヤスタカ、が好きだった。
パフューム(Perfume)や、きゃりーぱみゅぱみゅの歌の、
プロデューサー(製作責任者)の、中田ヤスタカは、
楽曲制作のほとんど、すべてを、
ソフトウェア音源で行(おこな)っていて、
森隼人(もりはやと)もそんな音楽制作に深く共感している。
「ところでさ、おれにはどうも、わからないんだけど。
あそこにいる、ふたり、大沢詩織(おおさわしおり)ちゃんと、
清原美樹(きよはらみき)ちゃんなんだけど。
最近、女の子たちだけ、4人で、ロックバンド組(く)みましたよね。
バンドの名前、グレイス・フォー(GRACE・4)っていって、
美女4人に、ふさわしい、いい名前だと、ぼくも思うけど。
グレイスって、優美とか、神の恵みとかですからね」
といって、森隼人(もりはやと)は、声を出してわらった。
森の話に聞き入っている、みんなは、それでどうしたの?
という、興味津々(きょうみしんしん)って顔をした。
「それって、なんか、おれには、信じられないんですよ。
だって、美樹ちゃんは、川口信也(かわぐちしんや)さん
と、つきあっていたんですよね。
でも、いまは、詩織(しおり)ちゃんが、
川口さんと、つきあっているっていうのが、事実ですよね。
ひとりの男性をめぐって、美樹ちゃん、詩織ちゃんは、
気まずくなっているんだろうな?と思ちゃうんですよ、ぼくなんか。
ところが、美樹ちゃんと詩織ちゃん、ふたりとも、
前より、親しくなっちゃって、仲(なか)いいじゃないですか!?」
理工学部1年、19歳の、森隼人(もりはやと)が、小声で、
同じく、理工学部3年で、21歳の、サークルの幹事長の矢野拓海(たくみ)、
商学部2年、20歳の、谷村将也(たにむらしょうや)、
商学部1年、19歳の、岡昇(おかのぼる)の3人に、
そんなふうに、問(と)いかけた。
≪つづく≫
11章 ミュージック・ファン・クラブ (5)
11章 ミュージック・ファン・クラブ (5)
「あ、それなら、こういうことなんです。
美樹ちゃんには、もともと、好きな彼氏がいました。
若手ピアニストとして、世間でも注目されている、
松下陽斗(まつしたはると)さんなんですけどね。
いまはその人と、うまく、いっているんです。
詩織ちゃんは、つい最近ですが、
川口さんと、うまく、いっているところなんです。
そこのところが、うまい具合に、
三角関係にもならずに、ぎりぎりでセーフ(安全)だったんです。
というわけで、美樹ちゃんと詩織ちゃんは、
川口信也(かわぐちしんや)をめぐって、
トラブルにはならなかったわけです。
人生って、運命のいたずらで、紙一重(かみひとえ)の差で、
うまくいったり、うまくいかなかったりで、おもしろかったり、
恐(おそ)ろしかったりですよね。
まあ、彼女たち、運命の女神にも見守られて、
いまは、とても仲がいいって、ところでしょうか。きっと」
岡昇(おかのぼる)は、そういって、
美樹ちゃんたちのことなら、おれに、まかしといてといいたげに、
得意げに、にほほえんだ。
岡の話し方が、巧(たく)みというか、おもしろいので、みんなはわらった。
「さあ、みなさん、そろそろ、4時です。
前期定例ライブとサザン祭りの、
練習を、楽しみましょう!」
腕時計を見て、立ち上がった、MFCの幹事長の
矢野拓海(やのたくみ)が、みんなにそういった。
「はーい」と、女子部員たちの、かわいい声があがった。
「よっしゃ」とか、男子部員の、ふとい声もあがった。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員、全員ではないが、
男子28人、女子30人、あわせて58人は、
愛用のギターなどの楽器を、それぞれに持って、
この西棟(にしとう)の、B1F(地下1階)へむかった。
B1Fには、音楽公演用練習室、音楽用練習室、
いくつもの音楽用練習ブース、ピアノが10台、
それに、ドラムもあった。シャワー室も完備してある。
「岡くん、さっき、わたしたちのこと、
話していたでしょ。森隼人(もりはやと)くんたちと!」
B1F(地下1階)へむかう途中(とちゅう)、
そういって、岡昇に、清原美樹(きよはらみき)と、
大沢詩織(おおさわしおり)のふたりが、話しかけてきた。
「ああ、さっきね。勘(かん)がいいな。おふたりさん」
一瞬(いっしゅん)、ドキっとして、岡は、ふたりを見て、わらった。
「美樹ちゃんと詩織ちゃんが、姉妹のように、
仲がいいから、みんなで,やきもち焼いていたんだ」
「うそよ、岡くん。わたしたちって、変わってるよな、
くらいのこと、いっていたんじゃないの」と美樹。
「そうよね。まあ、いいけど。美樹ちゃんと、
わたしが、仲がいいのは、音楽とか芸術とかアートとかを、
なによりも、愛して、大切に思っているからなのよね!」
と詩織。
「俗な世間的なのことは、すべて超越するようにして。
わたしたちは、芸術的に、生きたいのよ。それも健康的にね。
そうそう、その必然性として、わたしたち、仲がいいんだよね」
と美樹。
「なーんだ、そういう必然性だったならば、おれも、
美樹ちゃん、詩織ちゃんと、仲よくできるね!」と岡がいう。
「いいわよ、岡ちゃんなら、仲よくしてあげるわ」と美樹。
「いいわよ、岡くん」と詩織。
岡と美樹と詩織は、目を合わせて、愉快(ゆかい)そうに、ほほえんで、
3人は、固(かた)い、握手をかわしあった。
≪つづく≫
12章 ザ・グレイス・ガールズ (1)
12章 ザ・グレイス・ガールズ (1)
6月29日、土曜日の午後の4時を過(す)ぎたころ。
肩にかかるくらいの長さの、つややかな黒い髪が、
きれいな、2年生の水島麻衣(みずしままい)は、
学生会館、西棟(にしとう)の、
地下1階の音楽用練習室(B102)のドアの前で、
ちょっと、深呼吸して、ふくよかな、胸の鼓動(こどう)を、
落ちつかせて、ドアを開(あ)けた。
早瀬田(わせだ)大学、文学部のある、
戸山キャンパスの隣(となり)に位置する、
この学生会館の、地下1階(B1F)には、
音楽公演用の練習室などが、いくつもある。
何台もの、ピアノや、ドラムも、おいてあった。
「こんにちは。みなさん!」と、水島麻衣が、挨拶(あいさつ)をした。
練習室の中では、グレイス・フォー(GRACE 4)のメンバーが、
ライブのための練習を始めていた。
早瀬田(わせだ)大学の音楽サークル、
ミュージック・ファン・クラブ(通称・MFC)の、
恒例(こうれい)の、前期・定例ライブが、7月26日にある。
OB(卒業生)の、森川純たち、クラッシュ・ビートとの
コラボ(共演)、下北沢のライブ・レストラン・ビートでの、
特別ライブの、サザンオールスターズ・祭(まつ)り、
は、8月24日(土)だった。
キーボード・担当(たんとう)の清原美樹(きよはらみき)、
ヴォーカルとギター・担当の大沢詩織(おおさわしおり )、
ベースギター・担当の平沢奈美(ひらさわなみ)、
ドラムス・担当の菊山香織(きくやまかおり)の、
4人は、4時から、バンド練習を始めていた。
その手を止(と)めて、ちょっと、照(て)れている様子(ようす)の、
水島麻衣(みずしままい)を、温(あたた)かな、
満面(まんめん)の笑(え)みで、迎(むか)えた。
「麻衣ちゃん、よく来てくれました。とても、うれしいわ。
わたしたち、あなたを、大歓迎(だいかんげい)なんですから。
わたしたちと、これから、ずーっと、いつまでも、
バンドを、楽しく、やってゆきましょうね!」
といいながら、すぐに、3年生の美樹が、2年生の麻衣の、
そばに寄(よ)った。
「わたしも、うれしいです。バンドに参加できることが。
みなさんと、楽しく、バンド活動がしてゆけることが・・・」
水島麻衣は、比較的大きめの、魅力的な瞳(ひとみ)を、
輝(かがや)かせた。
グレイス・フォー(GRACE 4)は、女の子、4人の、
ポップロック(ポップス系のロック)・バンドだった。
早瀬田(わせだ)大学の音楽サークル、
ミュージック・ファン・クラブ(通称・MFC)には、
2013年の6月で、男子30人、女子38人が
部員として登録されている。
サークルは、気分がのれば、バンドを組(く)んだり、
また新(あら)たな気分で、メンバーを集めてみたりという、
フリーバンド制で、常(つね)に、
10組くらいのバンドが、楽しく、音楽活動している。
なぜ、女子が、38人もいるのかとえば、
コーラスで歌うのが好きだという女の子、
ダンスが好きだという女の子、ひいきの応援が好きだからという女の子、
など、そんな女子の部員も多かったからであった。
なぜか、学内でも、きれいな女の子ばっかりが集まってきていた。
そのため、たまに、男子学生が、そんな女の子を、目当(めあ)てに、
入部を希望してくるので、困(こま)ることも、度々(たびたび)であった。
そこで、サークルの幹部の、幹事長、大学3年の矢野拓海(やのたくみ)と、
1年生の岡昇(おかのぼる)と、
2年生の谷村将也(たにむらしょうや)との3人は、
学生会館、東棟(ひがしとう)の11階にある、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の、部室の、
E1107に、3時間ほど、籠(こも)って、その打開策を、
頭を絞(しぼ)って、考え出したのであった。
≪つづく≫
12章 ザ・グレイス・ガールズ (2)
12章 ザ・グレイス・ガールズ (2)
「まったく、最近の若い(やつ)奴は、女の子ばかりが、
目的なんだから、どうしようもないっていうか、
これじゃ、経済も、国政も、なにもかも、
堕落(だらく)して当たり前だよな!」
そんなふうに、矢野拓海(やのたくみ)が、憤(いきどお)る。
「まったくっすよ。おれだって、女の子は好きですけど。
ギターくらいの楽器くらいは、できますよ。ヘタですけど。
ひとつも楽器ができないで、コーラスやりたいですよ。
あと、ダンスやりたいとか。女の子じゃ、
それも、許(ゆる)せますけどね。
女の子なら、かわいいだけで、アートや絵になりますから。
男じゃ、それじゃあ、ダメというか、腹立(はらた)ってきますよね」
そういう、1年生の岡昇(おかのぼる)の話には、
3人で、大爆笑(だいばくしょう)となった。
「まあ、おれたちも、女の子にもてたいから、音楽やっているって、
いってもいいんだけどね。楽器が何もできないじゃね!
しかし、なんとかしないと。風紀(ふうき)も乱(みだ)れていけないな。」
そんなふうに、自省も忘(わす)れない矢野拓海(やのたくみ)ではあった。
「風紀も乱れるけど。いい年をした男が、女の子ばかりを追いかけるという、
なんというのかな、欲(よく)ボケの、慣習(かんしゅう)とでもいうのかな、
お前(まえ)、もっと、真剣に、向き合うものが、あるはずだろうが!って、
つい、いいたくなるつーか、おれも、偉(えら)そうにはいえないけど、
人生への目的意識とでもいうのかな、大きなビジョンや夢とでもいうのかな、
そんな、何か、本当な大切なものが、忘れ去られているようで、
生きてゆくうえでの、倫理とでもいうのか、何かを感じる力や感覚のようなものが、
麻痺(まひ)しているというか、欠如(けつじょ)しているよね!
最近の男たちは。女の子にもいえるかな?
まあ、たぶん、男女をふくめて、大人(おとな)たちは!
ろくに、なにも、考えていないものだから、結局、
自分だけの、目先の、ちっぽけな、欲望ばかりに、
追われっぱなしでいるような人ばかりな、気もする!
ちょっと、見てると、そんなオトナばかりな気がするよ・・・」
そういって、声の大きな、2年生の谷村将也(たにむらしょうや)が、机(つくえ)を、
思わず、どんと、ひとつ、たたいた。
「まったくだ。将(しょう)ちゃん、岡(おか)ちゃんの、いうとおりだよ!
おれはね、芸術の、アートの、音楽の、ミュージックの、
最後の牙城(がじょう)くらいに考えているんだよ。
牙城って、わかるだろう。 城中で主将のいる所というか、本丸というか、
本拠地(ほんきょち)や本陣(ほんじん)のことだよね。
これを守らないことには、国も、地球も、滅びると考えているんだよ!
そんな気持ちで、おれは、ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の、
幹事長も引き受けているのさ」
「さすが、拓海(たくみ)さんだ」と、谷村。
「おれ、矢野さんの言葉に、感動して、泣きたくなりますよ」と、岡。
そんな、雑談をしながら、最低限、パーカッションのシンバル、くらいはできないと、
入部でいないという規則を、そこで、決めた。
そのようにして、女の子だけが、目当ての男子学生は、
「はい、残念ですが、失格です」とかいって、
いまも、ふるい落とすことに、成功している。
女子学生で、シンバルのテストで、落とされた女の子は、1人もいない。
≪つづく≫
12章 ザ・グレイス・ガールズ (3)
12章 ザ・グレイス・ガールズ (3)
そんな幹部の活躍もあって、健全(けんぜん)を保(たも)っている、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の中でも、
女の子だけが、4人という、バンドは、現在はなかった。
ドラムができる女の子は、なかなか、いなかった。
そんなわけで、グレイス・フォー(GRACE 4)は、目立(めだ)った。
ドラムスの菊山香織(きくやまかおり)の場合は、
3つ年上(としうえ)の兄が、バンドで、ドラムをやっている。
その兄から、1から10まで、ほとんどを、習(なら)った。
サザンオールスターズ・祭(まつ)り、のための、
サザンのカバー、『私はピアノ』の練習をしているとき、
「やっぱり、もうひとり、ギターが欲(ほ)しいよね・・・」と、
メイン・ヴォーカルとギターやっている、
1年生の大沢詩織(おおさわしおり)がいい出した。
ふたつのパートの掛け持ち(かけもち)は、きついよね、と、
メンバーのみんなも認めて、ギターを探(さが)すことになった。
グレイス・フォー(GRACE 4)に誘(さそ)えそうな、
ギターが弾ける女の子は、MFCのなかに、3人ほどいた。
そのなかのひとり、水島麻衣を、メンバー全員が推(お)したのだった。
「わたしたちのバンドに入ってくれて、うれしいわ、本当(ほんとう)に、
麻衣ちゃん」
水島麻衣(みずしままい)と、同じ2年生の、
ドラムの菊山香織(きくやまかおり)が、
ドラムのスティックを、高く放(ほう)り投げて、
空中で回転させながら、そういって、ほほえんだ。
「これから、ずーっと、よろしく、お願いします。
わたしたちのバンド、結成して、まだ半年ほどですけど、
社会人になっても、ずーっと続けたいねって、
みんなでいっているですよ」
ヴォーカルとギターをやってきた、1年生の
大沢詩織(おおさわしおり )が、笑顔でそういった。
これからは、ヴォーカルをもっと、がんばれそう・・・と、詩織は思う。
「グレイス・フォー(GRACE 4)という、バンドの名前も、
麻衣(まい)さんの加入の、お祝(いわ)いも兼(か)ねて、
ザ・グレイス・ガールズ ( THE GRACE GIRLS )に
変えるんですよ。
GRACEという英語は、
上品で美しいこととか、優雅(ゆうが)とか、
恩寵(おんちょう)という意味がありますから、
優美(ゆうび)な少女たちとか、
神の恵(めぐ)みの少女たちという意味なんですものね。
すてきなバンド名で、わたしも気に入っているんです!」
はずんだ声で、ベースギター・担当の、1年生の、
平沢奈美(ひらさわなみ)が、
2年生の水島麻衣(みずしままい)に、そう話した。
「わたしも、すてきな名前だと思います。
わたしたちに、ピッタリじゃないでしょうか?!
ちょっと、いいすぎでしょうか。
でも、みなさん、バンド名にふさわしい、
すてきな人ばかりで・・・。
わたしも、ギターとか、はりきっちゃいます!」
「麻衣ちゃん、本当によろしく」といって、
清原美樹(きよはらみき)が、
水島麻衣(みずしままい)の手をかたく握(にぎ)った。
「美樹さん、みなさん、こちらこそ、よろしくお願いします」
水島麻衣(みずしままい)の瞳が、うっすらと、潤(うる)んだ。
≪つづく≫
13章 愛を信じて生きてゆく (I believe love and live) (1)
13章 愛を信じて生きてゆく (I believe love and live) (1)
6月29日の土曜日、午後の4時30分ころ。
学生会館、西棟(にしとう)、地下1階、
音楽用練習室(B102)のドアを、
そーっと、恐(おそ)る恐(おそ)る、開けて、
ゆっくりと、覗(のぞ)きこむように、部屋の入ってきたのは、
早瀬田(わせだ)大学の商学部1年の、
19歳の岡昇(おかのぼる)だった。
「きゃあー!痴漢(ちかん)が来た!だれか助(たす)けてー!」
と、室内にいる女の子の誰かが、数人が、同じように叫んだ。
音楽用練習室(B102)の中は、大爆笑(だいばくしょう)となった。
室内では、ザ・グレイス・ガールズ (the grace girls)が、
バンドの練習を始めていた。
「まったく。岡くんは、わらわせてくれるわね!
お腹(なか)が痛(いた)いわ」
と、ドラムのスティックを両手に、
2年生で20歳(はたち)の、菊山香織がいって、またわらう。
「岡くんって、お笑い芸人の世界でもやっていけるよね!」
そういうのは、ベース・ギターを、赤い皮のストラップで、
肩から掛(か)けている、1年生、19歳の
平沢奈美(ひらさわなみ)だった。
アップル・レッドという、紅(あか)いリンゴのような色の、
フェンダー・ジャパンのジャズ・ベース・ギターで、
重量は、3.8kg、軽い、女の子向けだった。
音楽用練習室(B102)の中は、
気心(きごころ)の知れた仲間だけの、
ゆったりした気分(きぶん)、楽しい雰囲気(ふんいき)であった。
岡昇(おかのぼる)が来るまでの、わずかな時間、
サザンオールスターズ・祭(まつ)りのための、
サザンのカバー、『私はピアノ』を始めていた。
「みなさ~ん、本日から、イケメンの岡昇(おかのぼる)くんが、
パーカッションと、コーラスで、参加してくれま~す。
盛大な拍手でもって、歓迎のご挨拶といたしましょう!」
声を大きくして、清原美樹がそういった。
みんなは、「よろしくお願いします」といって、拍手をした。
「こちらこそ、よろしくお願いします!あの、もしよろしかったら、
アコースティック・ギターも、やらせていただければと思います」
岡はそういって、ギターの入った、青いギグバッグを、肩からおろした。
ギブソンのアコースティック・ギター (Jー160E)だった。
「サザンオールスターズでは、愛称・毛ガニさんの、
野沢秀行(のざわひでゆき)さんが、パーカッションと、コーラスですものね。
岡くんみたいな、センスのいい人がいたらなあって思ってたのよ。
いいわよ、岡くんが、ギターをやりたいのなら、それもいいわよ!」
と、やさしく、微笑(ほほえ)みながら話(はな)す、
3年生の清原美樹(きよはらみき)は、
バンドのリーダ的な立場に、自然となっている。
「やったー!だから、おれ、みなさんが好きなんですよ!」
岡はそういって、無邪気(むじゃき)な子どものような、
笑顔(えがお)になった。
「それじゃあ、始めましょう。この『私はピアノ』は、
シンコペーションといいまして・・・、
リズムの変化のことなんですけど・・・。
基本的に、8ビートですけど、
強拍と弱拍の位置、拍(はく)のオモテやウラが、
入れ替わって、変化するから、
そのリズムの変化に注意しましょうね。
南米(なんべい)の、
ブラジルなどが発祥(はっしょう)の、
サンバから、発展(はってん)した、ボサノヴァみたいな、
日本人ばなれしている名曲ですから、
シンコペーションが独特なんでしょうね。
みなさんの、センスの良さがあれば、だいじょうぶですけど」
キーボード・担当の清原美樹(きよはらみき)が、
みんなに、そういって、わらった。
みんなも、「はーい」とか、いって、わらった。
「あと、コーラスは全員でやりましょう。
中間の、おいらを嫌(きら)いに、なったとちゃう?!
の、かけあいのセリフなんですけど、
二組(ふたくみ)に分(わ)かれるんだけど、
それは、あとで決めましょう。
もちろん、岡くんは、
桑田佳祐(くわたけいすけ)さんのパートね!
岡くん、がんばってね、パーカッションで、
楽しい音とか、たくさん入れてね!」
といって、美樹はわらった。
「はーい」と岡。
「はーい」 「はーい」と
みんなも、わらいながら、美樹に返事(へんじ)した。
≪つづく≫
13章 愛を信じて生きてゆく (I believe love and live) (2)
13章 愛を信じて生きてゆく (I believe love and live) (2)
美樹は、『私はピアノ』のイントロを、
原曲に忠実に、アップライト・ピアノで、演奏をする。
美樹は、伴奏だけになりがちな、左手でも、
メロディを弾(ひ)けた。
右手と左手で、音色(ねいろ)も豊(ゆた)かで、
重厚、軽快、流れるような、ピアノ・ソロを、奏(かな)でた。
大沢詩織(おおさわしおり)の、ヴォーカルは、
原曲の、高田みづえ、原由子(はらゆうこ)のように、
女性らしい、優(やさ)しい情感のあふれる、
高音に伸(の)びのある、透明感のある、歌声だった。
平沢奈美(ひらさわなみ)のベース・ギターは、
ピックを使う奏法だったが、男でも難(むず)しい、
スラップが得意だ。
スラップとは、slap=ひっぱたく、という英語からきていた。
親指と人差し指などで、弦を引(ひ)っぱたり、
ハジいたりするベース奏法で、ベースのソロでは、
大活躍となる。平沢奈美の得意な奏法だった。
以前、スラップは、チョッパーともいわれていた。
そんなスラップやミュート(消音)のテクニックが、
優(すぐ)れている、平沢奈美(ひらさわなみ)は、
ドラム、ギター、キーボード、ヴォーカルと、
しっかしとした、コンビネーション(調和)を保(たも)てた。
16ビートが、特に好きな、平沢奈美のそんなベースプレイには、
リズムや音色(ねいろ)に、深(ふか)い、グルーヴ感があった。
ドラムス・担当の菊山香織(きくやまかおり)の演奏は、
リズムをキープするという点で、メンバーの信頼も厚(あつ)かった。
無駄(むだ)な力(ちから)を、極限まで省(はぶ)いた、フォーム(姿勢)や
テクニック(技術)から生み出される、
女性らしい、華麗(かれい)な、ドラミングだった。
日常から、菊山は、モデルのように、姿勢が、抜群によかった。
体の疲労回復と柔軟性を保つための、
細心(さいしん)のストレッチ体操を、欠(か)かしたことはない。
バンドに、新しく加入したばかりの、水島麻衣(みずしままい)は、
まだ慣(な)れないはずの、楽曲(がっきょく)でも、
ギターソロとかを、8ビートでも16ビートでも、
リズムの狂(くる)いもなく、ゆたかな音色(ねいろ)で、
流麗(りゅうれい)に、弾(ひ)きこなした。
水島の愛用のギターは、真紅(しんく)の、
フェンダー・ジャパン・ムスタング(MG69)で、
重量が、3.34 kgで、比較的軽(かる)く、女の子向けであった。
そんな水島麻衣(みずしままい)の確実な演奏に、
バンドのメンバーは「スゴすぎ!」とかいって、
わらいながら、歓声(かんせい)を上(あ)げた。
パーカッションの経験の豊富な、岡昇(おかのぼる)は、
西アフリカが発祥(はっしょう)の太鼓(たいこ)の、
ジャンベを、バチを使わずに、素手(すで)で、
叩(たた)いたり、
小さな玉の入った、マラカス(maracas)で、
シャッ、シャッ、シャッ、と音を出したり、
ラテン音楽で、
よく使われる打楽器の、
ギロで、その外側の刻(きざ)みを、
棒(ぼう)でこすって、
ジッパーを開けるときの音に似た、
その何百倍のような、音を出したり、
タンバリンまで、
ジャラ、ジャラと、
鳴(な)らして、大活躍である。
その岡の、名演奏、熱演(ねつえん)に、
みんなの笑顔や、小さなわらい声も、たえなかった。
そんな、楽しい、息((いき)も合(あ)った、
サザンのカバー、『私はピアノ』の練習を終えたあと、
メンバーたちは、雑談(ざつだん)に、花が咲いた。
「この前、岡くんに誘(さそ)われて、森隼人(もりはやと)くんの
家(うち)に遊びに行ったんですよ。
ねえ、岡くん」
ベース・ギター・担当の、1年生の、平沢奈美(ひらさわなみ)は、
ソフト・ドリンクを飲みながら、そういって、岡を見た。
「うん、森くんが、奈美ちゃん、連(つ)れて、
遊びに来いっていうから・・・」
といって、岡は白い歯を見せてわらった
「岡くんから聞いていたんですけど、すごい大きな家で、
隼人(はやと)くんの部屋も、広いし、
パソコンや音楽関係の機器とかが、たくさんあって、
まるで、ミュージシャンのスタジオみたいな装備だったんです
ねえ、岡くん」
「うん」
「森隼人(もりはやと)くんって、理工学部の1年生なんでしょう。
3年生で、幹事長の、矢野拓海(やのたくみ)さんが、
理工学部だから、拓海さんの後輩なのよね。
頭がいいらしいわよね。音楽の編集とか、アレンジ(編曲)も、
自分の部屋のデジタル機器で、簡単にできるらしいし」
清原美樹が、平沢奈美のその話(はなし)に、そう、つけたした。
≪つづく≫
13章 愛を信じて生きてゆく (I believe love and live) (3)
13章 愛を信じて生きてゆく (I believe love and live) (3)
「でもね、奈美ちゃんも、注意したほうがいいわよ!
その森隼人(もりはやと)くんって、あっち、こっちの、
女の子と、つきあっているって、評判(ひょうばん)じゃない!」
ドラムの菊山香織(きくやまかおり)が、そういった。
「森くんは、プレイボーイ・タイプって、ことかしら。
最近の学生にしたら、珍(めずら)しいほうよね。
女の子には、奥手(おくて)な、恋愛にも
積極的になれない男の子も多いとわれてるもんね」
そんなことをいったのは、メイン・ヴォーカルの大沢詩織だった。
「でもさ、悪いことをして、女の子をだますとかじゃないなら、
森くんの、武勇伝(ぶゆうでん)ってことで、
たくさんの女の子を、楽しませていますって、
ことだけなら、特に問題ないんじゃないのかな?
そいうのって、まわりの、妬(ねた)みや、
羨(うらや)み、僻(ひが)みとかから、
うわさするってこともあるしね、よく考えれば・・・」
ギターの担当の、水島麻衣(みずしままい)が、
そういって、森隼人を、ちょっとだけ、かばった。
「そうよね。それって、嫉妬(しっと)っていう感情かしら。
ジェラシーよね。そんな気持ちなんか、
歌の世界だけで、たくさんよね。
湿(しめ)っぽくって、いやよね!」
そういって、菊山香織(きくやまかおり)は、声を出してわらった。
「おれも、嫉妬(しっと)やジェラシーって、
男らしくないから、森くんのことは、
なにも、気にしてないです」と、岡。
「岡ちゃん、すてきよ!男らしいわ」と、平沢奈美(ひらさわなみ)
ほかのメンバーも、みんな、
「ジェラシーなんて、いやだわ、わたしも!」
「ジェラシーも、ちょっとじゃ、かわいい気もするけど!」
とかいって、わらった。
そんな雑談で、休憩したあと、7月26日に、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の、
前期・定例ライブで演奏する歌、
『愛を信じて生きてゆく』(I believe love and live)
の練習を始める、みんなだった。
その歌は、ヴォーカル・担当の、1年生、大沢詩織(おおさわしおり )が、
作詞・作曲をした。
その歌は、タイトルの深刻(しんこく)さとは、
相反(あいはん)するかのように、16ビートの、
乗(の)りのいい、軽快な、アップテンポな曲だった。
16ビートとは、「いち」と数えるときの、1拍の中に、
音が4つあるということになる。
1小節内に、16分音符が16個、連続するというわけだ。
ギターの場合でいえば、1小節内に、ダウンとアップで、
1セットとして、8セット、そのストロークが、連続することになる。
つまり、そんなギターを弾きながら、歌うというのは、
ちょっと、きついものがあった。
そんなギターと、ヴォーカルの、2つを、
大沢詩織(おおさわしおり )は、やってきた。
しかし、これからは、水島麻衣(みずしままい)に、
ギターを任(まか)せられるので、大沢はヴォーカルに専念できる。
「詩織ちゃん、才能あるじゃん!
詩も、曲も、いいと思うよ」と岡。
「いつも本当のことしかいえない、
岡くんに認められるなんて、自信わいちゃうな!
とても光栄だわ」
と、大沢詩織(おおさわしおり )。
みんなは、わらった。
歌詞はこんな内容であった。
---
愛を信じて生きてゆく (I believe love and live)
作詞・作曲 大沢詩織
叶(かな)わない 恋の 切(せつ)なさに
人目(ひとめ)を 引(ひ)くような おしゃれして
にぎやかな街(まち) 彷徨(さまよ)い 歩(ある)いたの
空は 青(あお)く 晴れわたっていたわ 憎(にく)いほど
でも わたしの 心の中は 灰色の雲でいっぱいだったの
どこか 捨てられた 迷子の子犬みたいだった わたし
やさしく 声をかけてくれる 人たちも たくさんいたわ
でも 探(さが)しているものは 何か 違うんだよ
何かを 壊(こわ)してしまったようで 怖(こわ)かったの
街(まち)の遠(とお)くの 河原(かわら)の風が 気持ちがよかった
吹(ふ)きわたる風は わたしには とても やさしかったの
やさしい風は わたしを いつまでも やさしく 守ってくれていた
いつも 何(なに)かに 怯(おび)えていた わたし
愛の 不思議な力(ちから)を 教えてくれた あなた
恋する 乙女(おとめ)のように 胸は 震(ふる)えていたの
この世界に 信じられるものがあるとしたら 何かしら?
きっと 大切なのは 信じられるのは 愛 なのね!
だから わたし 愛を 信じて 生きてゆくわ いつまでも
I believe love and live
(愛を 信じて 生きてゆく)
I believe love and live
(愛を 信じて 生きてゆく)
≪つづく≫
14章 美樹と詩織のテネシー・ワルツ (1)
14章 美樹と詩織のテネシー・ワルツ(1)
物語は、遡(さかのぼ)ること、
6月10日の月曜日の正午(しょうご)ころ。
早瀬田(わせだ)大学の戸山キャンパスの、
戸山カフェテリア、通称(つうしょう)、文(ぶん)カフェ、で、
清原美樹(きよはらみき)と、美樹の親友の小川真央、
美樹のバンド仲間の、菊山香織(きくやまかおり)の3人は、
白い四角のテーブルに、ついていた。
美樹たちの音楽サークルの部室もある、
学生会館から、東(ひがし)に、100メートルくらいの、
38号館、1階にある、戸山カフェテリアは、
おしゃれな雰囲気(ふんいき)で、
活気のある、学生たちにあふれていた。
その店の、入り口前の、スペース(空間)は、
高い天井(てんじょう)までが、
四角い、大きな白い窓枠(まどわく)の、
ガラス張(ば)りになっている。
ほどよい、明るい日が、差(さ)しこんでいた。
休憩(きゅうけい)するのには、のびのび、ゆったりとできる、
まさに、開放的な空間であった。
「あと、5分くらいで、奈美ちゃんが、詩織ちゃんを連れてくるわよ」
大学2年の、菊山香織は、ケータイで、
大学1年の平沢奈美と、話し終(おわ)ると、
微笑(ほほえ)みながら、そういった。
清原美樹と小川真央も、笑顔(えがお)になった。
詩織とは、1年生の大沢詩織のことで、
エレキ・ギターも、歌も、上手(じょうず)で、
作詞作曲もするという、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)でも、話題の女の子だった。
「よかった、詩織ちゃんが、ここに、来てくれるということは、
もう、わたしたちのバンドに入ってくれるっていうことよね」
そういうと、美樹の瞳は、輝(かがや)いた。
「わたしの、素直な感想をいえば、
キーボードの美樹ちゃんでしょう、
ドラムスの香織ちゃんでしょう、
ベースの奈美ちゃんでしょう。
いまの3人は、かなりな、ハイ・レベルな、
メンバーだと思うわ。
ここだけの話だけど、
いまの、ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の中でも、
指折りの実力のある、バンドが誕生すると信じているの。
それも、女の子だけのバンドでしょう。
みんなも注目よね。
そんなこと、詩織ちゃんもわかっているはずだから、
きっと、そんな女の子だけのバンドっていいなと、
以前から、考えたことがあるはずだわ。
そのきっかけが、つかめないだけで」
そういって、学生とは思えない、オトナっぽい色っぽさで、
いたずらっぽく、小川真央(おがわまお)は、わらった。
真央は、美樹と同じ、下北沢に住んでいる、
幼馴染(おさななじ)みだった。
美樹と真央は、小学校、中学校は同じで、
高校は違っていたが、
また、大学では同じという、かけがえのない、
無二(むに)の親友であった。
真央は、ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員だった。
「ダンスやカラオケくらいは大好きだけど、
本格的な音楽活動となると、どうも~?」
といった感じで、美樹の強引な誘(さそ)いが、3度もあっても、
断(ことわ)り続(つづ)けていた。
しかし、4度目に誘(さそ)われて、真央も部員になったのだった。
いまでは、真央も、ギターの弾き語りくらいはできるようになっている。
真央は、声量はそれほどないが、色っぽい美声(びせい)をしている。
≪つづく≫
14章 美樹と詩織のテネシー・ワルツ (2)
14章 美樹と詩織のテネシー・ワルツ (2)
「真央ちゃん、うれしいわ。励(はげ)ましてくれてるのね」
といって、真央の話を、素直に受けとめる、美樹だった。
うふふっ・・・。
3人は、微笑(ほほえ)みあいながら、ソフトドリンクの、
はちみつレモンの、カラフルなストローに、口(くち)をつけた。
この、38号館の、1階にある、戸山カフェテリアは、
アラカルト方式で、客が自由に選んで、注文できる、
1品料理の学生食堂であった。
それぞれの料理は、ボリューム(分量)や栄養バランスが、
よく考えられていて、評判(ひょうばん)もなかなかだった。
おすすめ企画や、定番メニュー、サラダバーなどから、
好きなメニューを選んで、食べることができる。
主(おも)なメニューは、麺(めん)、パスタ、丼(どん)もの各種、
お惣菜(そうざい)、
サラダバー、ケーキ、お菓子、ドーナツ類、ドリンクなど。
スペインでは、朝食の定番といわれる、
油(あぶら)で揚(あ)げた、甘(あま)くて、おいしい、
焼きチュロスも、人気であった。
イギリス的な、喫茶・習慣(きっさしゅうかん)、
アフタヌーン・ティーのために、といった感じの
おしゃれなケーキ・スタンドが、人目(ひとめ)を引く。
定価210円の、ゴマと豆乳のモンブランとかの、
おいしそうなケーキがたくさん、陳列(ちんれつ)されている。
「美樹ちゃん、さあ。ちょっと、気になるんだけど、
詩織ちゃんのことで。
彼女、信(しん)ちゃんと、おつきあいを始めたらしいわよね」
そういって、少し、心配そうな表情(ひょうじょう)で、
真央は、美樹の様子(ようす)を、窺(うかが)った。
「うん、そう、みたいね」
と、美樹は、全然(ぜんぜん)平気な様子だ。
「つい、この前の、土曜日に、詩織ちゃんと、信(しん)ちゃん、
それと、岡(おか)くんの、3人で、
フレンチ・レストランや、ライブ・レストラン・ビートに
行ったんですってね。
そのライブ、松下陽斗(まつしたはると)さんと、
白石愛美(しらいしまなみ)さんとのコラボだったでしょう!
わたしは、美樹ちゃんに誘(さそ)われたけど、
用事があっていけなかったけど。
行きたかったなあ!」
「詩織ちゃんと、信(しん)ちゃんのことなら、
わたしは、おふたりが、うまくいくことを祈(いの)っているわ。
わたしには、いまは、
松下陽斗さん(まつしたはると)がいるんだもの。
信(しん)ちゃんとは、
わたしも、おつきあいさせていただいていたけど、
ふたりだけで、会って、
はっきりと、いつまでも、お友だちでいてくださいって、
お話ししたんだもの。わたし、つい、泣いちゃったけどね」
「やあー、みなさん、おまたせしました!」
と、ふいに、元気な明るい、男の声が聞こえた。
いつもの、憎(にく)めない笑顔の、
大学1年の、岡昇(おかのぼる)、
同じく、1年の、平沢奈美と、
1年の、大沢詩織の、3人が立っていた。
「あれー?岡くんも、いっしょだったの?
あなたって、ほんと、意外性のある、おもしろい人ね!
ちょっと、あきれたような顔をして、岡を見ると、
菊山香織(きくやまかおり)が、かわいい、笑顔で、そういった。
「詩織ちゃん、来てくれて、ほんとに、ありがとう。
どうぞ、ここに、お座(すわ)りください」
そういって、美樹は自分の隣(となり)の椅子(いす)を、
大沢詩織に勧(すす)めた。
「はーい」と、大沢詩織は、少し恐縮(きょうしゅく)しながらも、
満面(まんめん)の、輝(かがや)くような笑(え)みで、
美樹のとなりに着席(ちゃくせき)した。
≪つづく≫
14章 美樹と詩織のテネシー・ワルツ (3)
14章 美樹と詩織のテネシー・ワルツ (3)
「わたしね、詩織ちゃんが、この女の子だけのバンドに、
参加してくれたなら、バンド名を、グレイス・フォー
(GRACE・4)って、いいかなって、考えているのよ。
詩織ちゃん、抜群(ばつぐん)にかわいいし」
と、親(した)しげに、美樹は、話す。
「そんなことないですよ。わたしより、美樹さんのほうが、
すてきです。香織さんも、すてきですし、奈美ちゃんも、
わたしなんかより、かわいいですよ」
といって、詩織は、照(て)れた。
「じゃあ、わたしたち、みんな、かわいいってことにしましょう。
グレイスって、優雅とか、神の恵みとかの意味ですから、
優美(ゆうび)な、4人っていう、バンド名なんです・・・」
美樹は、詩織に、気持ちをこめて、そういった。
「すてきなバンド名だと思います!
ぜひ、仲間に入れてください。
美樹さん、香織さん、奈美さん、真央さん、岡くん」
大沢詩織は、みんなに、ていねいな、お辞儀(じぎ)をした。
「詩織ちゃん、ありがとう。感謝(かんしゃ)するのは、
わたしたちのほうよ。これからは、ずーっと、いつまでも、
よろしくお願いしますね。
あ~、よかったわ、詩織ちゃんが、バンドに入ってくれて!」
よほど、相性も、良いのだろう、
みんなも驚(おどろ)くほど、
親友のように、なってゆく、美樹と詩織であった。
「でもさあ、岡くんてさあ、なんで、いつも、詩織ちゃんと、
一緒(いっしょ)なことが多いのかしら?」
菊山香織が、岡に、そう聞いた。
「それはですね。詩織ちゃんとは、お話ししていて、
楽しいからです」
といって、ちょっと、口(くち)ごもって、いうのをためらう、
岡昇(おかのぼる)であった。
「はあ、岡くん、それって、詩織ちゃんのことが・・・」
そういって、菊山香織も、言葉を止(と)める。
詩織ちゃんには、何かと、癒(いや)されるんですよ。
そっれで、知らず知らずのうちに、
詩織さんと親しくなってゆくんですよ」
なぜか、岡は、そういって、顔を紅(あか)らめた。
「なーんだ、それって、岡くん、詩織ちゃんのことが、
好きだってことじゃないの!?」と香織。
「ピンポーン!正解です。けど、これは、
おれの叶(かな)わない恋だったということなんです」
と、岡は、気持ちを切り替(か)えたように、声を大きくした。
「おれ、詩織ちゃんに、おれの気持ちを、
告(こく)ったのですけど。
見事(みご)に、フラれちゃったのです。
逆(ぎゃく)に、わたしのこと、ほんとに、好きならば、
わたしに、川口信也さんを紹介してくれないかな?
って、詩織ちゃんには、頼(たの)まれちゃいました。
それで、おれは、愛のキューピットの役(やく)を、
引き受けたんですけどね。
詩織ちゃん、信也さんと、うまくいっているようですし、
おれとしては、つらいところもあるんでしょうけど、
これって、しょうがないことですよね!」
そういって、岡は、みんなに同意を求めるから、
みんなは、うんうん、と、うなずいたりする。
だから、おれは、男らしく、身を引きながら、
詩織ちゃんのしあわせを、
いまも、願っているわけなんですよ」
岡は、うつむき加減に、言葉を確かめるようにして、
そんな話(はなし)を、締(し)めくくった。
「岡くん、偉(えら)いわ。男らしいわよ」
菊山香織は、隣にいる岡の左肩を、
励(はげ)ましをこめて、軽く、さすった。
「岡くんは、立派だと思うわ」と、美樹もいう。
「岡くんは、いまに、詩織ちゃんみたいな、
かわいい彼女が、絶対に現(あらわ)れるわよ!」
岡と、同じ1年の、ベースギターの、平沢奈美も、
そういって、励(はげ)ました。
≪つづく≫
14章 美樹と詩織のテネシー・ワルツ (4)
14章 美樹と詩織のテネシー・ワルツ (4)
「いろいろなことがあるものよね、人生には。
特に、男女関係になると・・・。
詩織ちゃんも、岡くんとも、いつまでも、
仲(なか)よくしてあっげてね!
ところで・・・、
詩織ちゃんの、好きな、ミュージシャンや歌とかがあれば、
少し、そんなお話を、お聞きしたいなあ」
と美樹は、いって、うまく、話題を変えようとした。
「はーい、美樹さん。なんでも、聞いてくださいね。
わたしは、どうも、アメリカのカントリー系の、
ミュージシャンが好きなようなんです。
AKB48やNMB48なんかも、けっこう、好きなんですけどね。
カーリー・レイ・ジェプセンや、
テイラー・スウィフトのような、
シンガー・ソング・ライターになれてらいいなって思ったりします。
あと好きな、ミュージシャンは、ノラ・ジョーンズかな。
特に、彼女の歌う、テネシー・ワルツには、
何とも、いい表(あらわ)せないような、魅力(みりょく)を感じます」
「あら、そうなんだ。わたしも、ノラ・ジョーンズの、
テネシー・ワルツが大好きなのよ。
彼女の歌って、なんというのかしら、
デジタル音楽では表現できないような、
人間らしい、温(あたた)かみとでもいうのかしら、
そんな良さがあって、
何か、そんな不思議な魅力で、人の心に届(とど)くのよね。
失恋(しつれん)ソングでもあるのに、
テネシー州の州歌のひとつになっているんだから、
いい歌って、生命力があるのかしら、不思議ね!」
「そうなんですよね!あの、ちょっと、スローで、流れるような、
3拍子がいいいですよね」と詩織。
「I remember the night っていう、サビのあたりの、
コード進行っていうのかしら、
何度、聴(き)いても、飽(あ)きないし、感動するのよね。
もし、お時間がみんなにあるんでしたら、
いまからでも、学生会館で、
テネシー・ワルツを、やってみたいわよね?!」と美樹。
「ええ、よろこんで。わたし、きょうは、時間があります」
と詩織。
「じゃあ、学生会館に行って、テネシー・ワルツやりましょう。
楽器はそろっているし。
ぼくは、パーカッションでも、ブルース・ハープでも、
ギターでも、何でもやりますから」
そんなこといって、岡も、元気でノリノリだった。
「じゃあ、岡には、ギターやりながら、
パーカッションやってもらって、間奏に、
しぶい、ブルース・ハープを吹(ふ)いてもらえるかな?」
美樹。
「マジっすか?!」と、本気で、あせる、岡昇だった。
そんな、真(ま)に受ける、岡に、
みんなは、声を出してわらった。
「わたし、ユーチューブで公開されている、
ノラ・ジョーンズと、ボニー・レイットのような、
テネシー・ワルツを、
わたし、やってみたかったんです」
わらいがおさまると、大沢詩織がいった。
その動画は、ノラ・ジョーンズと、ロック・ギタリスト、
シンガーの、ボニー・レイットとで、
テネシー・ワルツを歌った、コラボ(共演)であった。
「あの動画ね。わたしも、お気に入りに入れている」
と、菊山香織(きくやまかおり)。
「ノラ・ジョーンズって、テネシー・ワルツを聴きながら、
育ったって、NHKのSONGS(ソングス)で、語ってた」
と、平沢奈美。
「それじゃあ、大沢詩織さんの、バンド加入の、
お祝いということで、みんなで、テネシー・ワルツを、
演奏(えんそう)したりして、楽しむことにしましょう!」
と、美樹がいうと、みんなは、
「賛成(さんせい)!」とかいって、笑顔になった。
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テネシー・ワルツ ( Tennessee Waltz )
テネシー・ワルツを、きいて、恋人と踊(おど)っていたら、
むかしの、女友達に、偶然(ぐうぜん)に、会った。
その友だちを、わたしの恋人に紹介したら、
その二人は、踊(おど)りはじめたの。
そのうち、友だちは、恋人を、私から、奪(うば)っていった・・・。
そんな、あの夜と、そんなテネシー・ワルツが、忘れられない。
本当に、大切なひとを、失(うしな)ってしまった・・・。
大好きな、恋人を失った夜、聴こえていたのは、
美しい、テネシー・ワルツだった・・・。
≪つづく≫
15章 カフェ・ド・フローラ (1)
15章 カフェ・ド・フローラ (1)
まだまだ、暑い日が続(つづ)く、
7月27日の土曜日であった。
時刻(じこく)は正午(しょうご)ころ。
新宿駅・東口(ひがしぐち)近くに、
カフェ・ド・フローラ(Cafe de Flora)という名前の、
総席数、170席の、カフェ・バーがある。
その店に、早瀬田(わせだ)大学の、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の学生と、
OB(先輩)の、クラッシュ・ビート(Crash・Beat)の、
森川純や川口信也たちが、集まっている。
きのうの、7月26日、金曜日に、午前11時のスタートで、
MFC、恒例(こうれい)の前期・定例ライブが、
ライブ・レストラン・ビート(通称・LRB)で行(おこな)われた。
そのライブハウスは、森川純たちの勤(つと)める、
株式会社・モリカワが全国展開している、
その中のひとつ、高田馬場店(たかだのばばてん)だった。
LRB・高田馬場店は、高田馬場駅から、徒歩(とほ)で、
3分くらいの場所であった。
高田馬場駅は、東京都新宿区高田馬場1丁目にあり、
JR東日本の山手線・西武鉄道・東京地下鉄(東京メトロ)の駅である。
その駅前は、早瀬田(わせだ)大学に通(つう)じる早瀬田通りである。
早瀬田通り沿いは、学生向けの飲食店や、
古本屋などが多く立地する、学生の街であった。
昨日(さくじつ)、森川純が、MFCの前期・定例ライブの開催中に、
MFCの部員の全員を、カフェ・ド・フローラに、招待したのであった。
森川純たち、クラッシュ・ビートも、定例ライブで、
オリジナルの新曲『あなたなしではどうしてよいかわからない』
や、ビートルズを数曲、演奏した。
結成したばかりの、ザ・グレイス・ガールズも、
テネシー・ワルツや、オリジナルの『愛を信じて生きてゆく
(I believe love and live)』などを演奏した。
ほかの部員たちの、ロック、ジャズ、ソウル、ファンクなどの、
臨時のバンドの、セッション(session)があったり、
メンバーも決まって、固定している、バンドの演奏などで、
熱気にあふれたまま、前期・定例ライブは盛りあがった。
そのライブの、無事(ぶじ)の終了(しゅうりょう)を祝(いわ)う、
宴(うたげ)ともいえる、
打ち上げ(うちあげ)が、カフェ・ド・フローラで、
始まっているところであった。
カフェ・ド・フローラは、
料理店と喫茶店とバーを複合させたような、総合飲食店であった。
株式会社・モリカワが、
2013年1月に、オープンさせた店だった。
今年中には、新宿西口店もオープンさせる計画をしている。
オープンと同時に、店は、女性に、圧倒的な支持を受けていた。
そして、女性が集まる店として、男性にも人気がある。
店の名前の「フローラ」には、
ローマ神話の中の、花と豊穣(ほうじょう)と、春の女神(めがみ)、
という意味が含(ふく)まれている。
そんなイメージにふさわしく、店内は、あかるい華(はな)やかさや、
清潔感で、居心地(いごこち)の良い店だった。
リーズナブル(手ごろ)な価格の料理や飲み物も、おいしかった。
さらに、客の評判なのは、てきぱきと、
テーブルのサービス(もてなし)をする、
スタッフ(担当者)の、美(うつく)しい服装や、
身のこなしなどであった。
スタッフは、ウェイターとウェイトレス、
若い男女による給仕(きゅうじ)たちであった。
≪つづく≫
15章 カフェ・ド・フローラ (2)
15章 カフェ・ド・フローラ (2)
たくさんの料理の皿が、置いてある、
ゆったりとした、ひろさの、
円形のテーブルの間(あいだ)を、
黒と白の、モノトーンの、美(うつく)しい服装の、
ウェイトレスやウェイターが、すらすらと滞(とどこお)りなく、
流れるような優雅さで、動いてゆく。
ウェイトレスの、ふわっとした、ロングスカートや、
胸元(むなもと)が大きくあいている、白いエプロンが、かわいい。
ウェイターは、白いシャツ、黒のパンツが、
きりっと、ひきしまって、見える。
どちらも、ノー・ネクタイの、
清楚(せいそ)な美しい、コスチューム(服装)であった。
丸(まる)いテーブルには、12席と、4席との、2種類の大きさがあった。
どちらのテーブルも、
見ず知らずの客が、隣同士となっても、
気を使うこともなく、くつろげる、ゆったりとした、ひろさである。
そのスタッフたちの給料(きゅうりょう)は、
固定している基本給に、さらにプラスの、
担当するテーブルの、売り上げの10%、
という、働く意欲のわくような、システム(制度)だった。
「このお店は、フランスによくある、カフェのような、
雰囲気ですよね。純(じゅん)さん」
サークルの幹事長、大学3年、21歳の矢野拓海(やのたくみ)が、
隣の席の、23歳の、森川純にそういって、微笑(ほほえ)んだ。
「さすが、拓(たく)ちゃん。
この店は、フランスのパリにある、有名なカフェの、
カフェ・ド・フロールを、モデルにしているんですよ。
お店のスタッフも、お客さまも、ある意味、
人生という劇場の、スターであったり、演技者であったりする。
という発想が、そのカフェ・ド・フロール(Cafe de Flore)にはあるんですよ。
フランスのパリの、サンジェルマンデプレ大通りにある、
140年以上も続いている、老舗(ろうほ)のカフェなんです。
おれって、資料でしか、そのお店のこと知らないから、
小遣いがたまったら、ぜひ、行くつもりなんですけどね。はははっ。
そのお店の、そんなコンセプト(基本的な考え)には、
おれたちも大賛成(だいさんせい)なんです。
人生って、何かを演(えん)じているともいえるわけで、
幕(まく)が下(お)りるまでは、そんな人生の舞台で、名演をしている、
役者なのかもしれませんしね。あっはっはっ。
誰だって、少しでも、ましな、役を演じたいじゃないですか!?
あっはっはっ。
同じ店の名前では、ちょっと、なんなんで、
カフェ・ド・フローラ (Cafe de Flora)に、ちょっと、変えて、
いまのところ、大都市が中心ですけど、
全国に展開中なんです。
フローラも、フロールも、意味は、ほぼ同じですけどね。
あっはっは。
多くの芸術家に愛されたそのカフェの常連(じょうれん)には、
画家のピカソとか、哲学者のサルトルとか、
ボーヴォワールとかが、いたそうです。
芸術や文化や政治とか、何でも気軽に語りあえるような・・・、
恋人たちが、愛を語りあうのは、もちろんですけどね、はっはっ。
そんな、コミュニケーション(心のふれ合い)の、
社交場(しゃこうじょう)の、カフェを、モリカワでは、
日本中に展開したいんですよ」
森川純は、矢野拓海と、右隣(みぎどなり)に座(すわ)っている、
菊山香織(きくやまかおり)に、
言葉を確かめながら、力説すると、わらった。
そして、森川は、目を細めて、生ビールに、おいしそうに、口をつけた。
「へーえ、森川さんの会社って、革命的なことをやっている感じですよね。
売上金(うりあげきん)の1部を、寄付したり、チャリティー活動も、
いつも、やっているし」と、矢野拓海。
「わたしも、感動しちゃうわ。チャリティーとか、
いまの純さんの、お話に・・・」と菊山香織。
「会社って、もうけるばかりでは、存続はできないですよ。
富(とみ)があれば、
それは再分配(さいぶんぱい)しなければいけませんよ。はっはっは。
それと、
おれらのやっていることは、バンド活動と同じようなものですよ。
みんなの力を、結集(けっしゅう)すれば、
ビートルズのように、世界を変えられると思うんだ。
ある程度だろうけどね・・・。
何もしないでいるよりは、まだ、ましさ・・・」
「ねえ、香織ちゃん・・・。
このテーブルクロスはね。ちょっと、普通と違うんだよ。
コットン(木綿・もめん)で、
温(あたた)かみもあるけど、
耐久性(たいきゅうせい)も抜群(ばつぐん)なんだ。
それに、
特殊加工がしてあって、
どんなものを、こぼしても、シミがつかないんだ。
クロスには、絶対に、染(し)みこまない、ってわけなんですよ。
コーヒーでも、ビールでも、何でも・・・」
森川純は、香織の耳もと近くで、親しそうに、そう、ささやいた。
「ほんと!すごすぎ!デザインも、おしゃれで、すてきだな。
薄紫(ううすむらさき)というのかしら。
スミレ色の、色もすてき!光沢(こうたく)も美(うつ)しいわ」
森川純の、そんな親しげな、様子(ようす)に、
菊山香織(きくやまかおり)は、
微妙な、胸の高鳴(たかな)りのを感じながら、
そういって、ほほえんだ。
≪つづく≫
15章 カフェ・ド・フローラ (3)
15章 カフェ・ド・フローラ (3)
菊山香織は、昨日の7月26日、
20歳(はたち)になったばかりの、2年生だ。
「このお店、楽しい雰囲気(ふんいき)だから、
わたしも、ウェイトレスでも、したくなっちゃうわ」
「香織ちゃんなら、きっと、すてきな、かわいい、
ウェイトレスだよね。
いつでも、お願いしますよ。
ただ、ぼくとしては・・・、
グレイス・ガールズのドラマーとしての、香織ちゃんといいますか、
香織ちゃんの、これからの、活躍を期待しちゃうな!
きのうの香織ちゃんのドラミング、すごく、よかったよ」
「あら、純さんに、褒(ほ)めていただけるなんて。
とてもうれしいわ・・・。
純さんのドラムこそ、ホントに、お上手(じょうず)なんですもの!」
「はははっ。これでも、おれは、初めのころは、
クラッシュ・ビートのメンバーに、ドラムがうるさい!とか、いわれて、
邪魔(じゃま)扱(あつか)い、されてたんだよ」
といって、森川純は、陽気(ようき)にわらった。
「うそでしょう!純さんのドラム、タイムを正確にキープしてるし、
あんなに神業(かみわざ)みたいなのに、信じられないです」
「ぼくも、信じられないなあ。純さんのドラムで、
クラッシュ・ビートは、まとまっている気がしますよ」
と、ちょっと、生ビールで、紅(あか)ら顔の、矢野拓海(やのたくみ)。
「またまた、ふたりとも、ひとを持ち上げるのうまいな。
でも、ありがとう。うれしいっすよ。ほめてくれて」
と、森川純は、上機嫌(じょうきげん)に、声を出してわらった。
「香織ちゃんは、お兄さんの影響で、ドラムを始めたんだよね」
と、ビールで、ほろ酔いの矢野拓海。
「ええ、そうなんです。兄には、しっかり、手ほどきを受けました。
わたし、兄の叩(たた)く、ドラムの音というか、
シンバルの音が、なぜか、大好きだったんですよ。
シャリーンという、なんていうのか、あのスウィング(swing)感が・・・」
「そうなんだ。だから、香織ちゃんは、リズム感がいいんだなあ。
努力もあるだろうけど、もともと、きっと、リズム感がいいんだよ」
「そうなのかしら」
菊山香織と森川純と矢野拓海は、楽しそうにわらった。
「純さんも、香織ちゃんも、立(た)ったり、座(すわ)ったりの、
身(み)のこなしが、いつも、すらっとして、
姿勢(しせい)がいいのは、
きっと、ドラムをやっているせいなんでしょうね」
矢野拓海が、そういって、ふたりにほほえんだ。
「拓(たく)ちゃん、それはいえるよ。姿勢が良くないと、
ドラミングは、うまくできないからね。
さすが、MFCの幹事長だね。観察力もすごいよ」
矢野拓海(やのたくみ)は、第50代の幹事長である。
森川純は、第49代の幹事長であった。
MFCは1954年に創立の、
伝統ある早瀬田(わせだ)大学公認の、バンド・サークルであった。
「あと、からだの柔軟性(じゅうなんせい)とかね。
おれの日課も、ストレッチだもんね。
香織ちゃんも、ストレッチは、日課でしょう?
肩こりのある、ドラマーってありえないですよね」
「ええ、そのとおりです。わたし、ストレッチや
ヨガとかの、柔軟体操、大好きです」
「よし、おれも、きょうから、ストレッチに励(はげ)みます!」
と、目を丸くして、矢野拓海がいう。3人はわらった。
「お兄さんが、きっと、すぐれた人なんでしょうね。
香織ちゃんのドラミングは、力(ちから)まかせでなくて、
ちゃんとした、技術で、叩(たた)いていますよ。
アーム(腕・うで)じゃなくて、ハンド(手)で叩(たた)くとかの、
手の使い方も、完璧だと思うよ。
あれなら、女の子でも、疲れずに、楽に叩(たた)けるよね。
あと、ぼくが、
香織ちゃんの、すごいと思うのが、
バス・ドラムの、右足のダブルを、ちゃんと、決めていることだよね。
きのうの、ライブを見ているときも、感心していたんですよ」
同じ、ドラムスの奏者の、森川純は、
菊山香織と、語り合うことが、特別に、楽しいようであった。
≪つづく≫
15章 カフェ・ド・フローラ (4)
15章 カフェ・ド・フローラ (4)
右足のダブルとは、バス・ドラムを、2回連続して踏む、
ダブル奏法のことだった。
この2つ打ちは、踏(ふ)みこむタイミングや、
ある程度(ていど)のスピードが、要求(ようきゅう)される。
右足の動きで決まる、バス・ドラムは、視覚的(しかくてき)にも
確認(かくにん)しづらいため、
プロ級の人でも、習得(しゅうとく)するのが容易(ようい)ではない。
「純さんに、たくさん、褒(ほ)めていただいて、とても、うれしいです」
「そうそう、きのうは、香織ちゃんの20歳(はたち)の、
お誕生日だったんだよね。
あらためて、おめでとうございます」
「ありがとうございます。純さん・・・」
「香織さんも、せっかく、20歳になられたのですから、
きょうは、お酒解禁ということで、生ビールとか、いかがですか?」
「はーい。いただきます。うちの家族みんな飲めますから、
きっと、わたしも強いと思います」
アイスティーのストローに、口(くち)をつけていた、香織がそういった。
「あ、はっは。香織ちゃん、それは、たのもしい。
ぼくも、お酒は、大好きなんです。
クラッシュ・ビートのみんなも、酒とかが好きで、
それで、なんとか、なんでも、気軽に語りあえて、
まとまっているようなもんなんですよ」
森川純は、ウェイトレスを呼(よ)んで、
生ビールと、料理を、注文した。
ウェイトレスは、客の注文内容を、
ハンディという機器(きき)に、打(う)ちこんで、
厨房(ちゅうぼう)に、送信する。
そんな、しっかりとした、システムがあるので、
ひとりのスタッフで、
6つくらいのテーブルはサービスできる。
カフェ・ド・フローラの店内は、お昼どきということもあって、
60人以上の、ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の
部員たちや、一般の客たちで、
総席数、170席は、ほぼ、満席だった。
「香織ちゃんには、あらためて、
お祝いをしてあげないといけないな!」
「ええ、そんな、純さん。でもいいんですか?
こんな、わたしのために、20歳のお祝いなんて?!」
「男として、お祝いしてあげないと・・・。
そっ、そうだな・・・。明日(あした)の日曜日は、
おれも、とくに、予定はないし。
香織さんは、あしたは、いかがですか?
もし、お時間があれば、ぜひ、ぼくにお祝いをさせてください。
20歳(はたち)って、特別なんですから。
気のあう仲間でも呼んで、パーティでもやりましょうよ!」
「いいんですか。でも、すごっく、うれしいです。
涙が出そうな感じです。
お言葉に甘(あま)えさせていただきますけど、
純さん、よろしくお願いします」
「わかりました。じゃあ、あしたの午後あたりに、
おれの馴染(なじみ)のお店にでも行って、パーティでもやりましょう」
そんな、ふたりの、ぴったりと、気分も合っている話(はなし)を、
矢野拓海(やのたくみ)も、
純さんと、香織ちゃんなら、お似合いかも・・・と、楽しく、聞いていた。
森川純と、菊山香織、矢野拓海たちは、
12席ある、大きな円形のテーブルの席についていた。
そのテーブルには、株式会社・モリカワに勤(つと)めている、
ロックバンドのクラッシュ・ビート(Crash Beat)の、
メンバーが全員と、
グレイス・ガールズのフル・メンバーが、揃(そろ)っていた。
川口信也(かわぐちしんや)、
高田翔太(たかだしょうた)、
岡林明(おかばやしあきら)。
あと、岡昇(おかのぼる)と、
大沢詩織(おおさわしおり )、
清原美樹(きよはらみき)、
平沢奈美(ひらさわなみ)、
水島麻衣(みずしままい)。
清原美樹の右隣(みぎどなり)の椅子(いす)が、
ひとつ、空席であった。
美樹と仲のいい、小川真央(おがわまお)が、
少し遅(おく)れて、やってくるためだった。
美樹の左隣には、仲よくなった、
ふたつ年下(としした)の、大沢詩織(おおさわしおり )がいる。
「おまたせ。みなさま、遅(おそ)くなりました!」と、
小川真央がやってきた。
真央が長めの黒髪(くろかみ)を揺(ゆ)らして、美樹のとなりに着席すると、
まるで、きらびやかな、色とりどりの、花が、
咲(さ)き誇(ほこ)る、花園のように、
テーブルは、いっそう、華(はな)やいだ。
「ジブリの、いま、公開の映画、『風立ちぬ』を見た人!
手を挙(あ)げてみてください!」
生ビールに、気分もよく酔っている川口信也が、
ニコニコしながら、テーブルのみんなに聞いた。
「はーい」と、まず、1番に手を挙(あ)げたのは、
1年生、19歳の岡昇であった。
続(つづ)いて、「はーい」と、3年生の清原美樹、
1年生の大沢詩織、1年生の平沢奈美が、手を挙げた。
≪つづく≫
15章 カフェ・ド・フローラ (5)
15章 カフェ・ド・フローラ (5)
「なるほど、12人中、5人が見たということになりますか?!
やっぱり、ジブリの映画は、人気があって、大ヒット中ですね。
『風立ちぬ』は、
おれも見て、感動しましたよ。
ラストシーンで、宮崎監督みたいに、泣いちゃいけないと、
我慢(がまん)しちゃいました。
主人公たちの、人生に迷わずに、生きていく姿には、
いつも、感動したり、励(はげ)ませれるものがありますよね」
「わたしは、主人公の菜穂子(なおこ)さんが、風に飛ばされそうになった、
二郎(じろう)さんの帽子を、
すばやく、からだを伸(の)ばして、キャッチした、場面で、
感動して、思わず、涙が出そうになりました」
平沢奈美(ひらさわなみ)がそういった。
「奈美ちゃんは、岡くんと、映画に行ったんでしょう。
映画見に行った人って、
よく考えてみたら、みなさん、なかよく、ふたりだけの、
デートだったわけで、うらやましいですよ!
おれも、そろそろ、デートしてくれる相手を見つけないと!」
そういって、みんなを、わらわせたのは、
幹事長で、3年生の矢野拓海(やのたくみ)であった。
「拓海(たくみ)さん、おれの場合は、奈美ちゃんを、
強引(ごういん)に、
『風立ちぬ』に、誘(さそ)ったんだから、デートではないと思います」
岡昇は、生真面目(きまじめ)に答(こた)える。
「あっはっは。そういう強引さも、デートには必要なんだよな、岡ちゃん」
と、わらって、矢野拓海がいえば、みんなも、またわらった。
「おれも、ジブリの大ファンだから、見(み)に行きますよ。
宮崎駿(みやざきはやお)監督や、
プロデューサーの鈴木 敏夫(すずきとしお)さんって、
ブログとかで、平和憲法の9条を、守ろうとかいっているじゃないですか。
徹底的な、戦争反対論を展開していて、
おれなんか、そっちの、彼らのコメントのほうに、
感動して、涙も出てきそうですよ。
ジブリのアニメにも、彼らの憲法を守ろうという考え方も、
おれなんか、深く共感しちゃうなあ・・・」
森川純が、そういって、生ビールを、おいしそうに、ゴクリと飲んだ。
「戦争って、ムードで、いつのまにか、始まっているていう感じが、
歴史をみているとあって、それって、怖(こわ)いよな」
ベース・ギターが担当の、やや、ふっくら感のある、
高田翔太(たかだしょうた)が、そういって、生ビールを飲む。
「戦争やって、いいことなんて、何もないよ。
それなのに、世の中から、無(な)くいならないよな。
愚(おろ)かな、戦争が・・・」
そんなふうに、みんなにむけて語る、森川純には、
心優(やさ)しいリーダーのような、落ち着き(おちつき)があった。
「わたしも、ジブリのアニメは大好き。
もしかしたら、ジブリは、平和を守る、最後の砦(とりで)みたいに、
なるのかもしれないわよね。日本や世界の・・・」
小川真央(おがわまお)が、そういうと、みんなは、
「うん、うん」と、うなずくのであった。
「わたし、変なこといって、ごめんなさい!
きょうは!楽(たの)しく飲(の)んで、騒(さわ)ぎましょう!」
小川真央が、そういったら、
「真央ちゃん、ぜんぜん、変なことなんて、いってないわ!」
と、清原美樹がいう。
「うんうん、美樹さんのいうとおり、真央ちゃんは正しいこと、
いっていると思う。わたしもジブリ大好き!
平和は守らなければと思うもの」と、美樹のとなりの、大沢詩織もいう
みんなから、明(あか)るい、わらい声(ごえ)が、わきおこった。
「憲法9条とかにしても、宮崎監督や鈴木さんのように、
はっきりとした、自分の意見がいえる人って、すごく少ないよね。
おれも自分の意見に自信ないけど。
スタジオジブリのブログを見ていて思ったんだけど」
ちょっと、はにかむような、笑顔(えがお)で、そういったのは、
クラッシュ・ビートのギターリスト、
23歳の岡林明(おかばやしあきら)だった。
「そうですよね。自分の意見をもたないまま、なんとなく、
ムードに流されてしまって、
世の中が、悪い方向へ向(む)かってしまうとしたら、怖(こわ)いですよね」
岡林明のとなりの水島麻衣(みずしままい)が、岡林に、そういって、ほほえんだ。
さっきから、岡林と麻衣は、
ふたりとも、ギターリストなので、ギターの話で盛り上がっていた。
「ところで、純さん。きょうの打ち上げ、純さんのご招待ということで、
サークルのみんなを代表して、
あらためて感謝を申し上げたいのですけど、どうもありがとうございます」
サークルの幹事長らしく、矢野拓海(やのたくみ)が、
森川純に、ていねいな、一礼(いちれい)をする。
テーブルのみんなも「ありがとうございます」と、感謝の気持ちをこめていう。
「そんな、あらたまらなくたっていいって。
MFC(ミュージック・ファン・クラブ)が参加してくれる、
8月24日のサザンオールスターズ・祭(まつ)りのチケットは、
ソールド・アウト(完売・かんばい)だし、
よく、うちのライブハウスとか、みんなも利用しくれてるから、
その、ささやかな、おれの感謝の気持ちでもあるんですから。
きょうの、ここでの、打ち上げとかは。
みんなで、サザンオールスターズ・祭(まつ)りも、盛り上げようね!」
「はーい、がんばります!」とかの、女の子たちの、よろこびにあふれている、
かわいらしい声が上(あ)がった。
≪つづく≫
☆発行者:いっぺい
16章 地上200mの誕生パーティー(1)
雲は遠くて <56>
16章 地上200mの誕生パーティー (1)
7月27日の日曜日。午後3時ころ。
よく晴(は)れた、青空で、気温も30度をこえていた。
汗(あせ)ばむくらいの、夏の暑さであった。
2月23日で、23歳になった川口信也(かわぐちしんや)は、
6月3日で、19歳になった、大沢詩織(おおさわしおり)と
新宿駅西口の改札付近で、待ち合わせをした。
「純(じゅん)さんって、香織(かおり)ちゃんのこと、
かなり、好きになっちゃったのかしら。
だって、サークルの全員を、
香織ちゃんの誕生パーティーに
招待しようとしちゃったんだから。きのうは」
詩織が、やさしく微笑(ほほえ)みながら、信也に話した。
「はははっ。どうなんだろう。あいつは、あれで、
けっこう、いろんな女の子と、つきあっているほうだからな。
きのうは純。めずらしく、ずいぶん、酔(よ)ってたよね」
「うん。ずいぶん酔ってたね、純さん。
でも、純さんって、そうなのかしら。
つきあっている女の子が、たくさんいるふうには、
見えないんだけど」
「純は、なんたって、モリカワの次男(じなん)でしょう。
どこへ行っても、女の子に、チヤホヤされるってわけさ」
「女の子って、現実的なところありますからね。
わたしもだけど。うっふっふ」
「なあに?詩織ちゃん、その意味深(いみしん)な、わらいは?
あっはっは。
現実的な詩織ちゃんは、夢や実力のある、おれを選んでくれた
ってわけだよね!あっはっは」
「うん、わたし、信(しん)ちゃんの、そんな強がりなところ、大好き!」
ふたりは、目を見合(みあ)わせて、なかよく、わらって、
寄り添(よりそ)うように、歩(ある)いた。
昨日は、森川純(もりかわじゅん)の招待(しょうたい)
という形(かたち)で、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)、
恒例(こうれい)の前期・定例ライブの、打ち上げ(うちあげ)げが、
新宿駅・東口(ひがしぐち)近くの、
カフェ・ド・フローラ(Cafe de Flora)という、
カフェ・バーが行(おこ)なわれたのであった。
定例ライブは、株式会社・モリカワが、全国展開している、
ライブ・レストラン・ビート(通称・LRB)の、
高田馬場店(たかだのばばてん)で、行われた。
なにかと、サークルでは、
株式会社・モリカワを利用してくれるので、
OB(先輩)の、森川純も、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)のみんなの、
歓(よろこ)ぶことをしてあげたいという気持ちが、いつもある。
「あしたのパーティーの会費は、無料にさせていただきますから、
参加できる方(かた)は、ご気軽にご参加ください!」という、
森川純の言葉に、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)のみんなは、
「それじゃあ、純さん、大変ですよ!」ということになって、
会費は、半額を、個人負担するということに、その場で決まった。
そんなふうな、森川純の、打ち上げの席上の、呼びかけで、
菊山香織(きくやまかおり)の、誕生・パーティーが行(おこな)われる。
参加人数は、ほぼ、昨日(きのう)の打ち上げの参加者が、
そのまま全員で、クラッシュ・ビートや、
グレイス・ガールズのメンバーなどで、60人ほどであった。
会場は、イタリアン・レストラン・ボーノ(Buono)だった。
ボーノ(Buono)は、イタリア語で、「おいしい。すばらしい」
という意味だった。
新宿駅・西口から、徒歩で5分、
地上200mの高層ビル、その最上階の、52階にある。
大きな窓(まど)からは、
東京湾(とうきょうわん)が、見渡(みわた)せる。
開放感があふれる、パノラマの風景が、見わたすかぎり、
広(ひろ)がっている。
静寂(せいじゃく)な、夜ともなれば、
見下(みお)ろす、辺(あた)り、一帯(いったい)には、
光(ひかり)きらめく、夜景(やけい)が、広(ひろ)がる。
白壁(しろかべ)や、おしゃれなデザインの金属の窓格子(まどごうし)や、
調度品(ちょうどひん)など、南ヨーロッパ風の、
インテリアの、店内のスペース。
ナポリ・ピッツァを、焼(や)きあげるための窯(かま)が、
メイン・ダイニングにある。
そのピッツァ用の石釜(いしがま)を中心にして、
雰囲気の異(こと)なる、おしゃれな個室が5つあり、
立食でも、着席でも、いずれにも、対応(たいおう)するし、
レイアウト(配置)などの、要望にも、柔軟(じゅうなん)に、対応する。
そんな、自分の家にいるようにくつろげる、
アットホームさや、こだわった料理や、おいしいピッツァなどで、
新宿のOL(オフィス・レディー)に、人気の店である。
ボーノは、森川純の企画で実現した、モリカワの店であった。
≪つづく≫
16章 地上200mの誕生パーティー (2)
16章 地上200mの誕生パーティー (2)
「きょうは、お忙(いそが)しいところを、
イタリアン・レストラン・ボーノ(Buono)に、
ご来店いただきまして、ありがとうございます」
パーティーの進行役、サークルの幹事長の、
3年生、2月7日で、21歳になった、矢野拓海(やのたくみ)が、
上機嫌(じょうきげん)な笑顔(えがお)と、
ゆっくりとした口調(くちょう)で、挨拶(あいさつ)をした。
矢野拓海は、ライトグリーンのポロシャツに、チノパンで、
髪も、刈り上(かりあ)げて、すっきりとしいる。
矢野拓海のとなりには、森川純も立(た)っている。
矢野が、やけに、はりきって、スピーチしているからか、
何かおかしそうに、ニヤニヤと微笑(ほほえ)みながら、
うつむき加減に、矢野のスピーチ(話)を聴いている。
純も、白のTシャツに、ジーンズという、ラフなスタイル(格好)で、
髪型も、夏らしい刈り上(かりあ)げだ。
地上から、200mの、東京の街(まち)を、
見わたせる、眺望(ちょうぼう)を、
後(うし)ろにして、森川純と、矢野拓海は、立っている
「きょうは、MFC(ミュージック・ファン・クラブ)の、
部員だけでも、59人が、参加しております。
ボーノ(Buono)の、キャパシティ(座席数)は、
およそ、120席ですから、お店の約半分のスペースを、
われわれが、占領しちゃうのかなって、
ほかのお客様のことも、ちょっと心配しちゃうのですが、
その点を、お聞きしましたら、だいじょうぶとのことでした。
そんなわけですので、
みんなで、至福(しふく)のひとときを、楽しみたいと思います。
都心(としん)で、星空に近い、このシチュエーション(状況)って、
なかなか、いい感じですよね」
と、矢野拓海は、となりの森川純に、話を振(ふ)った。
「まあね。高層ビルの上のレストランって、
おれの夢のひとつだったんだ。あっはっは」
と、森川純はわらった。
フロアのテーブルについている、みんなから、
拍手がわきおこる。
「それでは、森川純さんの、ご挨拶をいただきたいと存じます」
「おれって、20歳(はたち)という年齢って、
なんか、いつも、特別な気がしているんです。
生涯(しょうがい)、青春(せいしゅん)とでもいいますか、
20歳くらいのころの、新鮮さを、失ってしまえば、
人生はつまらないような・・・。
そんなふうに、思うわけです。あっはっは」
純が、そういって、わらうと、みんなも、わらった。
拍手(はくしゅ)も、わきおこる。
「まあ、きのう、菊山香織さんと、お話ししていたんですが」
と、無意識に、頭をかく、純。
「香織さん、20歳になられたばかりということで。
それじゃあ、と、話は弾(はず)みまして、
きょうのパティーと、なったわけです。あっはっは」
純がわらうから、みんなからも、わらい声が、わきおこる。
「ピー、ピ一ッ!」と、
一瞬(いっしゅん)の、超高(ちょうたか)い、
口笛(くちぶえ)が、鳴(な)りひびいたりもする。
「えーと、今年(ことし)、20歳になる人を、調べてみたんですよ」
と、森川純の挨拶(あいさつ)を、継(つ)いで、
純のとなりに立つ
サークルの幹事長の矢野拓海(やのたくみ)が、
スピーチ(話)をした。
「数(かぞ)えましたら、われらのサークルには、
なんと、11人いるんですよね。
その、みなさん、
幸いなことに、きょうは、参加してくださっているんです。
そんなわけですので、
11人のみなさんの、20歳の誕生パーティーと、
まだ、20歳でない人や、20歳を過ぎちゃった人の誕生日も、
お祝いしちゃおうということで、
きょうは、みんなで、誕生日の大パーティーという感じで、
楽しんでいただきたいと思っています。
それと、
昨日(さくじつ)は、会費は半額(はんがく)と決めてましたが、
純さんからは、みんな、まだ学生さんだからということで、
会費は、1000円以上はいただくわけにいかないだろうと、
強(つよ)くいわれてしまいました。
そんな純さんのご好意ということで、
会費は1000円、ちょっきりです。
純さんからは、
きょうは、まったく、遠慮(えんりょ)はいらないので、
おおいに、食べて、飲んで、楽しんでくださいということです!」
みんなからの、盛大な拍手が、鳴りひびいた。
≪つづく≫
16章 地上200mの誕生パーティー (3)
16章 地上200mの誕生パーティー (3)
矢野拓海(やのたくみ)が、スピーチ(話)をつづけた。
「えーと、ことし、20歳(はたち)の方(かた)は、
男性が、谷村将也(たにむらしょうや)さん、
渡辺太一(わたなべたいち)さん、野口翼(のぐちつばさ)さん、
石橋優(いしばしゆう)さん、の4人の方です。
えーと、
女性は、菊山香織(きくやまかおり)さん、
水島麻衣(みずしままい)さん、山下尚美(やましたなおみ)さん、
和田彩加(わださやか)さん、桜井(さくらい)あかねさん、
森田麻由美(もりたまゆみ)さん、
杉田由紀(すぎたゆき)さん、の6人の方です。
みなさん、20歳(はたち)のお誕生日おめでとうございます」
みんなから、割(わ)れんばかりの拍手がわきおこる。
「それでは、森川純さんに、乾杯(かんぱい)の音頭(おんど)を、
頂戴(ちょうだい)したいと思います。
みなさんは、
座(すわ)ったままで、構(かま)いません。
お手元(おてもと)のグラスに、
お飲物(のみもの)をご用意(ようい)ください。
それでは、純さん、よろしくお願いします!」
「それでは、今年(ことし)、20歳(はたち)の誕生日の、
みなさまと、
ここに、お集まりの、すべてのみなさまの、
音楽活動のご発展や、
永久(とわ)のご幸福(こうふく)を、祈念(きねん)いたしまして、
乾杯(かんぱい)いたしたいと存(ぞん)じます。
それでは、みなさま、ご唱和(しょうわ)願(ねが)います!
カンパーイ!」
純が、元気よく、乾杯(かんぱい)の音頭(おんど)をとった。
「カンパーイ!」「カンパーイ!」
フロアには、みんなの明るい声が上(あ)がる。
華(はなやか)やかな、若い男女が、あふれる、パーティーは、始まった。
「みなさーん。このイタリアン・レストラン・ボーノ(Buono)の、
総料理長さまから、お話があるそうです。
総料理長さまは、南イタリアで、10年間の修行(しゅぎょう)を、
積(つ)んでこられた、
本格的な職人さんであり、超一流の料理人さんであるんです。
どうぞ、総料理長さま」
と矢野拓海が笑顔で、総料理長を紹介した。
「わたくしが、総料理長を、おおせつかっている、
春山俊(はるやましゅん)です。
きょうは、みなさまの、ご来店を、心より、
感謝いたしております。
わたくしどもの、まごころをこめて、作っております、
ナポリ・ピッツァや、
素材(そざい)に、こだわった料理を、
ごゆっくり、お楽しみいただきたいと存じます。
特別・お誕生日・記念の料理と
デザート盛合せなども、
ご用意させていただいております。
以上、簡単な、ご挨拶ではありますが、
きょうは、みなさま、ごゆっくりと、お楽しみください!」
深々と、一礼する、総料理長に、拍手はが、鳴(な)りやまなかった。
パーティーは、地上200mの高層ビルの、
開放感(かいほうかん)あふれる、大パノラマの空間ということもあって、
ムードも、満点で、
ナポリ・ピッツァも、最高においしく、大いに、盛り上がった。
そして、日も暮れる、7時を過ぎた。
「純ちゃんにも、いよいよ、恋の季節がやってきたのかな?」
そういって、森川純を、ちょっと、からかうのは、生ビールで、
気分もよく、酔っている、川口信也だった。
純のいるテーブルまわりには、男ばかり、いつもの、酒飲み仲間の、
クラッシュ・ビートのメンバーが、自然と集まっている。
「恋の季節か!?・・・かもしれないなあ!?
おれって、どこへ飲(の)みに行っても、女の子のほうから、
近寄(ちかよ)ってくるじゃん。あっはっは」
「のろけるな、純」と、信也が純の頭を、拳骨(げんこつ)で突(つつ)いた。
クラッシュビートの全員が、わらった。
「確かに、純はいいよな。モリカワの次男だっていうだけで、
そりゃあ、女の子のほうで、ほっとかないよな」
と、ベース担当の高田翔太(たかだしょうた)。
「しかし、おれに近づいてくる、女の子って、おれよりも、
モリカワの次男っていうとこになんだよなぁ」
「あっはっは。わかっているじゃん!純ちゃん」と信也はわらった。
「まあ、わらわないで、おれの話をきいてくれ、みんな。
けどね、菊山香織ちゃんとは、何か違うんだよ。
こう、なにか、胸というか、ハートにくるものがあるんだ」
「純ちゃん、ごちそうさま。おふたりの、幸せを祈っていますよ!」
と、リード・ギターの岡村明が、ほほえんだ。
「しかし、まあ、男女関係、恋愛は、奥(おく)が深いというか、
人間の永遠のテーマ(課題)だよね。
男と女の、いろんな営(いとな)みがあるから、
子孫も繁栄するんだし、新しい芸術も、生まれるんだろうから」
と、酔っている、信也。
「おお、しん(信)ちゃん、きょうから、マンガ評論家から、
未来人類学者に、転向したのかな?!」と、酔っている、純。
≪つづく≫
16章 地上200mの誕生パーティー (4)
16章 地上200mの誕生パーティー (4)
「純さん、信也さん、岡村さん、高田さん、
ちょっと、お邪魔(じゃま)しても、よろしいですか?
きょうは、このような、すばらしいパーティーを、
ありがとうございます」
そういいながら、純たちのテーブルに近づいてきたのは、
理工学部1年、19歳の、森隼人(もりはやと)だった。
「よお、森ちゃん、そこの席で、よかったら、どうぞ」
と、ていねいにいって、森隼人に、空いている席を、
純は勧(すす)めた。
「純さん、ありがとうございます。
このお店、ボーノ(Buono)って、純さんの企画だそうですね。
純さんらしくって、センスもよくて、すばらしいお店ですよね」
森隼人は、純と向かい合う席に座(すわ)ると、
人懐(ひとなつ)こそうに、わらった。
「お褒(ほめ)めの言葉を、ありがとう。
森ちゃんや、森ちゃんのお父さまも、
この店を使ってくれているそうじゃないですか。
ありがとうございます。お父さまにも、よろしくお伝えください。
森ちゃんの、お父(とう)さまの会社も、
順調に、店舗(てんぽ)も増やして、
業績(ぎょうせき)も伸びているようですよね」と、純がいった。
「ええ、おかげさまで、純さんの会社のモリカワみたいに、
大都市を中心にして、店舗を拡大していくようです」と森隼人。
森隼人の父親は、森昭夫といって、45歳の実業家であった。
CDやDVD、ゲームや本などの、レンタルや販売の店を、
東京や大阪などの大都市を中心に、経営している。
ネット販売もしていた。
英語のフォレスト(Forest)という名前の会社と店舗で、
森という意味であった。
「森ちゃんのところと、うちとでは、業態(ぎょうたい)というか、
経営内容が、まったく、違(ち)っていて、
よかったですよ。外食産業と、ソフトの販売会社とでもいいますか。
場合によっては、手ごわい、強力な、
商売上のライバル、競争相手だったかもしれませんからね。
あっはっは」と森川純。
「まったくですよね。ぼくは、純さんとは、いつまでも、
仲よくしていただけたらと、思っているんですよ。
純さんことは、よき先輩(せんぱい)だと、
常々(つねづね)、尊敬したり、感じていますから」と、森隼人。
「森ちゃんも、女の子のことでは、かなり、
修行(しゅぎょう)を積(つ)んでいるようだよね」と高田翔太がいった。
そこへ、
「みなさん、ここの席(せき)、空(あ)いていますでしょうか?」
と、いいながら、
岡昇が、おもしろそうメンバーが、揃(そろ)っていると思って、やってきた。
「岡ちゃん、まあ、どうぞ、どうぞ」と、いって、川口信也は、席を、勧(すす)めた。
「また、女の子の話ですか?森ちゃんは。あっはっは」といって、岡がわらった。
「森ちゃんは、まさに、現代のプレイボーイを、実践している男ですなんでよ、
みなさん」と岡昇。
「どんなふうに?」と、興味津々(きょうみしんしん)に聞くのは、岡村明だ。
「ぼくの観察(かんさつ)している限(かぎ)りでは、森ちゃんは、
自分から、愛を告白するとか、惚(ほ)れるとかは、
一切(いっさい)しないというか、
そういう感情の、1歩手前で、意識的に、恋愛感情に、ブレーキを、
かけちゃっているんですよ。
ねえ、森ちゃん」と岡昇(おかのぼる)が、森隼人(もりはやと)に、
親しみをこめた、笑(え)みでいった。
「岡ちゃんも、よく、おれを観察してるね。ほとんど、そのとおりだよね。
おれって、女の子に対する独占欲は、
人一倍強いと思うのですが、
それと、
矛盾(むじゅん)してますが、女の子には、拘束(こうそく)というか、
自由を、
奪(うば)われたくないんですよ。ですから、いまも、
好きな女の子はいるんですけど、
ぼくの孤独の領域とでもいいますか、あまり、深入りしないで、くれていて、
それでも、OK!っていう、
いいわよ!っていってくれる、心の広(ひろ)いような女の子としか、
長続きしないんですよ」と、森隼人は、どこか、照れながら、
みんなの顔を窺(うかが)うようにして、口ごもりながら、話した。
≪つづく≫
16章 地上200mの誕生パーティー (5)
16章 地上200mの誕生パーティー (5)
「独占欲は強いけど、孤独の領域は守りたいっていうわけだよね。
でも、この2つの欲求(よっきゅう)って、
男ならだれでも、持っている欲求じゃないかなあ?!
つまり、森ちゃんは、
男の理想(りそう)を貫(つらぬ)こうとして、戦(たたか)っているだけかもね」
と語ったのは、森川純だった。
「そうですか、純さんに、そういわれると、勇気がわくというか、
自分を肯定できて、安心できそうです。ありがとうございます」
そういって、森隼人は、よろこんだ。
「ただ、おれの、森ちゃんへの、アドバイス(助言)だけど、
男って、
あまり、観念的というか、頭でばかり考えてしまって、
具体的な事実を、
見失(みうしな)っていることって、よくあるからね。
仏教の一派で、もっぱら、座禅(ざぜん)を、修行(しゅぎょう)する、
禅宗(ぜんしゅう)の、
僧侶(そうりょ)の良寛(りょうかん)さんは、こんなことをいっているんですよ。
『花は、無心(むしん)にして、
蝶(ちょう)を招(まね)き、
蝶は、無心にして、花を尋(たず)ねる』ってね。
この、
尋ねるっていうのは、
探し求めるっていう感じの意味ですけどね。
この詩は、
どういう意味かというと、花には、蝶を招こうという気持ちもなく、
蝶には、
花を尋ねようという気持ちもない。しかし、自然の成り行きに、
従(したが)って、出会いが、行(おこな)われる。
つまりは、考えることをやめて、無心になるというのか、
自然と一体(いったい)に、
ひとつになることが、幸福のひとつの形である、と、
そんな考え方なのかなあ。
良寛(りょうかん)さんは、酒も、女も好きだったらしくって、
とても、人間味のある人だけど、かなりな高僧(こうそう)で、
偉(えらい)い坊(ぼう)さんだったらしいんだ。
作家の夏目漱石も、晩年、尊敬していたらしいんだけどね。
おれも、つまらない、講義をしちゃったかな?あっはっは」
そういって、森川純は、わらった。
「純さん、とても、勉強になった気がします。考え過ぎが、
おれの欠点なんですよ、まったく」
と、森隼人は、
感心して、目を輝かせながら、ほほえんだ。
「みなさん、男ばかりで、むずかしい、お話をしているんですか?!」
と、純たちのテーブルへ、やってきたのは、清原美樹(きよはらみき)と、
美樹の彼氏の、
東京・芸術・大学の音楽学部、ピアノ専攻の3年で、若手気鋭のピアニストの、
松下陽斗(まつしたはると)、
グレイス・ガールズの、オール・メンバーの、大沢詩織(おおさわしおり)、
平沢奈美(ひらさわなみ)、
菊山香織(きくやまかおり)、水島麻衣(みずしままい)。
小川真央と、真央と急に親しくなった、今年、20歳の野口翼(つばさ)。
そして、
MFC(ミュージック・ファン・クラブ)の副幹事長の、
2年生の、谷村将也(たにむらしょうや)たちだった。
「せっかくの、きれいな夜景なのよ。
みんなで、ゆっくりと、眺(なが)めましょうよ!」
そういって、美樹たちは、岡昇や、森川純や川口信也たちを、
テーブルから、立ち上がらせた。
「陽斗(はると)さん、お元気ですか?
また、8月24日(土)の、サザンオールスターズ・祭(まつ)り、
は、よろしくお願いします」
と森川純はいうと、わらった。
「こちらこそ、よろしくお願いします。おかげさまで、元気ですよ。
このお店、すばらしいですね。
きょうは、お招きいただいてありがとうございます」
と、松下陽斗は、丁重(ていちょう)に、純や信也に、挨拶をした。
森川純は、菊山香織と、なかよく、
川口信也は、大沢詩織と、なかよく、
清原美樹は、松下陽斗と、なかよく、
それぞれ、みんなは、夜景に見いっている。
水島麻衣には、どうやら、谷村将也(たにむらしょうや)が、
熱をあげているらしかった。
このふたりも、いちおう、寄(よ)りそうように、夜景を眺(なが)めている。
しかし、水島麻衣には、谷村よりも、ひとりで、夜景を眺めている、
幹事長の矢野拓海(やのたくみ)のほうが、
気になっている様子(ようす)である。
岡昇も、平沢奈美と、いちおう、なかよく、カップルのように、夜景を見つめている。
小川真央も、野口翼(つばさ)と、なかよさそうに、夜景を楽しんでいる。
大パノラマが、見わたすかぎり、ひろがる、
大きな窓のある、特別・展望・シートに、座(すわ)って、みんなは、くつろいだ。
見下(みお)ろす、あたり一帯(いったい)には、クルマのヘッド・ライトや、
ネオンやビルの、
窓(まど)の明(あ)かりなどが、静かに、きらめく、夜景が、ひろがっていた。
そんな夜景は、まるで、恋人たちの、心やすらかな、ひとときを、
祝福しているかのようだった。
午後の11時ころ。
誰(だれ)もいなくなった、イタリアン・レストラン・ボーノ(Buono)の、
窓際(まどぎわ)のテーブルに、
一輪(いちりん)、白(しろ)い薔薇(ばら)が、置(お)き忘(わす)れてあった。
≪つづく≫
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (1)
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (1)
2013年、8月の17日の土曜日。
天気もよい、猛暑(もうしょ)の、真夏(まなつ)。
森川純(もりかわじゅん)は、涼(すず)しげな、
紺色(こんいろ)の、浴衣(ゆかた)に、
スポンジ底(ぞこ)の、
雪駄(せった)、という姿(すがた)だった。
約束(やくそく)の、4時まで、まだ20分あった。
小田急電鉄(おだきゅうでんてつ)、
成城学園前駅(せいじょうがくえんまええき)の、
中央改札口の付近、南口側(みなみぐちがわ)で、
純は、みんなを、待っている。
みんなとは、ほとんどが
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員たちだ。
株式会社・モリカワの関係者や社員とかは、
緑地運動場(りょくちうんどうじょう)の、
4人がけのテーブルや、
10人用の大型シートに、集まることになっている。
今年も、華(はな)やかな、
大きなイベント(祭典)、
世田谷区の、たまがわ花火大会が、
始まろうとしている。
今年で35回目を迎える、世田谷の夏の風物詩、
たまがわ花火大会は、 区民の憩(いこ)いの場(ば)、
多摩川(たまがわ)のほとり、水辺(みずべ)で、
花火という、音と光の芸術を、楽しもうという、
区民、みんなで、盛り上げる、催(もよお)しであった。
森川純は、花火の打ち上げ地点から、200mほどの、
テーブル席や、大型シート席を、
あわせて、140席、確保(かくほ)した。
その有料・協賛席(きょうさんせき)・チケットは、
一般販売の6日ほど前に、
世田谷区(せたがやく)、在住(ざいじゅう)の人に、
優先販売(ゆうせんはんばい)される。
株式会社・モリカワでは、
森川誠(まこと)社長の意向(いこう)で、
会社の関係者、社員や従業員たち、みんなで、
たまがわ花火大会を楽しみながら、
親睦(しんぼく)を図(はか)ることになった。
森川誠(まこと)は、この8月で、59歳になった。
5時30分から、都立の深沢高校(ふかさわこうこう)、
和太鼓部(わだいこぶ)による演奏(えんそう)などの、
ステージ・イベント・オープニング・セレモニー(式典)は、
開始される。
次々に、打ち上げられ、そして、
夜空(よぞら)に、色あざやかに、開花する、
カラフルな、花火や、10号玉(だま)の、
グランド・オープン・・・、
花火大会の始まりは、7時からである。
森川純は、母校の早瀬田(わせだ)大学の、
恩師(おんし)の教授や、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員たちを、
招待(しょうたい)していた。
そのための席も、じゅうぶんにあった。
森川純が、みんなと、待ち合わせをしている、
成城学園前駅は、下北沢(しもきたざわ)駅から、
7つ目の駅だった。
新宿(しんじゅく)の方向とは、逆(ぎゃく)である。
西口、南口などの、駅入口から、改札口までは、
段差(だんさ)がない。
改札の階(かいさつのかい)と、ホームの階(かい)は、
段差があるため、
これを連絡(れんらく)する、
上下(じょうげ)のエスカレーターと、
エレベーターが、
各ホームに、1基(き)ずつ、設置(せっち)されている。
各(かく)ホームに、階段(かいだん)は2か所(しょ)ある。
北口を出れば、並木道(なみきみち)や、高級住宅街や、
成城(せいじょう)学園、成城大学などの、
静(しず)かな、落(お)ちつきの、
風景(ふうけい)がひろがる。
3時50分。
森川純は、南口の通路を、
行き来(ゆきき)する人々を、
ぼんやり、眺(なが)めていた。
中央改札口(ちゅうおうかいさつぐち)から、
出てくる、乗客(じょうきゃく)たちの中に、
元気よく、手を振(ふ)る男たちが、2人いた。
≪つづく≫
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (2)
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (2)
手を振(ふ)るのは、
クラッシュ・ビートのベーシストの、
ちょっとふっくらタイプの、高田翔太(たかだしょうた)、
ギターリストの、岡林明(おかばやしあきら)だった。
その二人(ふたり)のうしろには、
森川純と親(した)しくなった、菊山香織(きくやまかおり)、
岡林明と、仲(なか)よくなった、山下尚美(やましたなおみ)、
高田翔太と、急接近中の、森田麻由美(もりたまゆみ)の、
早瀬田(わせだ)の2年生が、3人、いる。
先日の、地上200mの、
イタリアン・レストラン・ボーノ(Buono)で、
お祝(いわ)いをしてもらった、
若々(わかわか)しく、新鮮(しんせん)な、
今年、20歳(はたち)の彼女たちだ。
女の子は、色も柄(がら)も、可愛(かわい)らしい、
甚平(じんべい)や浴衣(ゆかた)が多かった。
男子(だんし)も、甚平(じんべい)や、浴衣(ゆかた)が多い。
森川純は、菊山香織(きくやまかおり)の、飾(かざ)ったり、
気(き)どったりしない、
ありのままであるような、そんな、自分よりも、明るい性格や、
社交性(しゃこうせい)に、
いつのまにか、心が、温(あたた)まっているのであった。
岡林明(あきら)は、山下尚美(なおみ)の、
黙(だま)りあっていても、心がひきあうような、
そんな尚美の、女性らしい、好感度に、ひかれた。
高田翔太(しょうた)は、森田麻由美(まゆみ)の、
いつも、落ちついていて、
大人(おとな)の女らしい、
仕草(しぐさ)や、言葉や、声(こえ)に、
『このひとこそが、官能的(かんのうてき)で、
おれが探していた、女性だ!』と、感動していた。
そんな彼女たちのうしろには、
岡林明の妹の、高校2年、16歳の、香織(かおり)。
香織の友だちの女子高生が3人。
彼女たち4人は、去年の、たまがわ花火大会にも、
この駅に、集合(しゅうごう)した、
いつも、仲(なか)よしの、4人だった。
「こんにちは!」と、岡林明の妹の香織が、
森川純に、いう。
3人の女子高生も、それぞれが、
「こんにちは!」と元気よく、笑顔でいう。
「香織ちゃんたち、大きくなったね。
オトナの女性って感じになってきたね!
浴衣姿(ゆかたすがた)も、最高!
よく似合(にあ)っているね!」
そういって、純も、ほほえんだ。
「ありがとう!」と、香織たち、4人は、素直(すなお)に、
無邪気(むじゃき)に、わらった。
洋服と、比(くら)べて、不便(ふべん)が多い、
浴衣(ゆかた)ではあろうが、
真夏(まなつ)の、花火大会とかには、格別(かくべつ)な、
風情(ふぜい)や魅力(みりょく)がある。
「明兄(あきにい)ちゃんたちって、なんとなく、
去年(きょねん)と、違(ちが)うよね!
森川純さんも、高田翔太さんも。ね~、みんな」
そういって、岡林香織が、3人の女子高生に、
話を振(ふ)る。
「そうよね、なんか、明さんも、翔太さんも、純さんも、
しあわせそうな顔しているわ!」
と、女子高生のひとりはいう。
「きっと、すてきな、彼女ができたからよね!」
岡林香織が、そういう。
「正解!鋭(するど)い、観察力(かんさつりょく)!」
と、わざと、困(こま)ったような、顔で、森川純がいう。
みんなで、大(おお)わらいをする。
そんな話をしているうちに、時刻は3時近(ちか)くになって、
次々と、みんなが、中央改札口からやってくる。
流行(はやり)なのか、ほとんど、男子(だんし)も、
女の子も、
カラフルな、浴衣姿(ゆかたすがた)で、やってきた。
川口信也(かわぐちしんや)が、「よーっ」と、
笑顔で、現(あらわ)れると、
信也に、寄り添(よりそ)うように、
大沢詩織(おおさわしおり)がいる。
清原美樹(きよはらみき)と、美樹の彼氏の、
松下陽斗(まつしたはると)もやってきた。
清原美樹の姉(あね)の、清原美咲(きよはらみさき)と、
美咲が、交際(こうさい)している、
弁護士(べんごし)の岩田圭吾(いわたけいご)。
2年生で、今年20歳(はたち)の、
グレイス・ガールズのギターリスト、
水島麻衣(みずしままい)も、
かわいい浴衣姿(ゆかたすがた)だった。
その水島麻衣が、急接近して、仲よくなっている、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の幹事長の
矢野拓海(やのたくみ)。
MFCの会計をしている、岡昇(おかのぼる)。
その岡と、最近、交際(こうさい)を、
始(はじ)めたばかりの、
3年生、21歳の、南野美菜(みなみのみな)。
岡も美菜も、浴衣((ゆかた)だった。
MFCの、副幹事長の、谷村将也(たにむらしょうや)。
その谷村と、やはり、交際を始めたばかりの、
南野美穂(みなみのみほ)もやってきた。
南野美穂は、南野美菜の姉(あね)である。
今年、23歳で、
キャリア・ガールっぽく、仕事にも熱心な、
会社勤(つと)めの、社会人だった。
美穂の浴衣姿(ゆかたすがた)も、
人目(ひとめ)を引(ひ)くほど、かわいらしい。
美穂(みほ)と、美菜(みな)は、価値観も
似(に)ている、とても仲のよい、姉妹(しまい)だ。
谷村将也に、美穂を紹介した、
愛のキューピット役(やく)は、
岡昇と、美菜であった。
そんな世話好きな、岡と、先日までは、
デートしたりして、親しそうにしていた、
1年生、今年、19歳の、平沢奈美(ひらさわなみ)は、
3年生、6月に、21歳になったばかりの、
上田優斗(うえだゆうと)と、
いま、つきあい、始(はじ)めていた。
そのふたりも、なかよく、浴衣姿で、現(あらわ)れた。
≪つづく≫
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (3)
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (3)
電車の乗客で、混(こ)みあう、
中央改札口から、
小川真央(おがわまお)と、
野口翼(のぐちつばさ)が、現(あらわ)れた。
ふたり揃(そろ)って、浴衣姿(ゆかたすがた)だった。
早瀬田(わせだ)の1年生だった、秋のころ、
真央は、美樹に、4回、誘(さそ)われて、やっと、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員になった。
その、MFCで、翼(つばさ)とも、知りあう。
真央は、最初から、翼には、弟(おとうと)のような、
親しみを感じている。
翼の、楽観的(らっかんてき)で、
適度(てきど)に、お洒落(おしゃれ)、
一途(いちず)で、
熱心(ねっしん)な性格が、真央は好きだった。
アコースティック・ギターを、
弾き方(ひきかた)の初歩から、
丁寧(ていねい)に教えてくれる、翼(つばさ)だった。
翼(つばさ)が、弾き語り(ひきかたり)で、歌った
スピッツの、『ロビンソン』が、
真央(まお)の胸(むね)に、
甘(あま)く、切(せつ)なく、響(ひび)いた。
≪ 誰(だれ)も 触(さわ)れない
二人(ふたり)だけの 国
君の手を 放(はな)さぬように ≫
(スピッツの『ロビンソン』からの歌詞)
それは、まだ、2013年が始(はじ)まったばかりの、
冬の終わりころ、
早瀬田(わせだ)の学生会館、B1Fに、いくつもある、
音楽用練習ブースで、
ふたりだけで、練習していたときのことだった。
森隼人(もりはやと)と、
山沢美紗(やまさわみさ)も、
ふたり揃(そろ)って、南口に、やってきた。
プレイボーイと、噂(うわさ)されながらも、
女の子には、人気のある、森隼人。
いま、1番に、仲(なか)よくしているのが、
早瀬田(わせだ)の3年生の、山沢美紗だった。
山沢美紗(やまさわみさ)も、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員だ。
森隼人(もりはやと)は、自分の趣味の、
好きな海やヨットのことを、
大好きだという、山沢美紗の、そんな好(この)みが、
気に入ってる。
彼女の、しっとりとした肌(はだ)や、
抱(だ)きしめれば、折(お)れそうな、
女性らしい、かよわさや、
どんなときでも、夢見ているような、
純粋(じゅんすい)さが、好きであった。
予定通り(よていどおり)の、4時には、
そのほかの、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員たちも、
成城学園前駅(せいじょうがくえんまええき)、
南口(みなみぐち)に、集(あつ)まった。
「じゃあ、お時間が来ましたので、
みんなで、花火大会の、二子玉川(ふたこたまがわ)、
緑地運動場(りょくちうんどうじょう)まで、歩きましょう!
時間までに、
ここに来れなかった人は、ひとりでも、無事(ぶじ)に
現地には、行けるでしょうから。では出発します!」
そういって、森川純は、菊山香織と、なかよく、
集団(しゅうだん)の、先頭(せんとう)になって、歩きだす。
そのすぐ、あとを、川口信也と、大沢詩織が、
寄り添(よりそ)うように、歩(ある)く。
交通渋滞(こうつうじゅうたい)のためもあって、
花火の実行委員会も、
徒歩(とほ)を推奨(すいしょう)する。
成城学園前駅・南口から、
二子玉川(ふたごたまがわ)緑地運動場までは、
徒歩(とほ)で、片道30分から、40分くらいだった。
そんな、
のんびりと歩く、時間も、楽しいものであった。
「今年は、終戦から、68年くらいかな?
東北の震災から、2年と5か月くらいかな?」
森川純が、となりを歩く、川口信也にそういった。
先頭(せんとう)の、順番(じゅんばん)が、変わっていた。
純(じゅん)と、信也(しんや)が、先頭になっていた。
そのあとを、
菊山香織(きくやまかおり)と、大沢詩織(おおさわしおり)が、
楽しそうに、ときどき、わらいながら、歩いている。
「急にどうしたの?純ちゃん。はははっ・・・」
「ふと、まじめに、考えちゃうんだ。しんちゃん。はははは」
「でもさぁ。おれたちに、できることなんて、
限界(げんかい)があるって!
今日(きょう)みたいに、みんなを、誘(さそ)ってさぁ!
花火を、眺(なが)めて、
感動したりしてさぁ!
何か、楽しいこと見つけて、
元気出して、やっていくしか、ないんじゃないのかな?
ストレスが多いもの。社会も日常も仕事も。
きっと、
幸(しあわ)せとか、充実感(じゅうじつかん)なんて、
花火みたいな、
一瞬(いっしゅん)の、ものでさぁ、
だから、
儚(はなな)いけど、瞬間(しゅんかん)だけど、
いつも、
楽しいこと探(さが)してさ、見つけてさあ、
平凡(へいぼん)でもいいから、
そうやっていくしかなんじゃないのかな?純ちゃん」
「・・・いつかは、ゴールに、達(たっ)するというような、
歩き方(あるきかた)ではだめだ。
一歩一歩(いっぽ、いっぽ)が、ゴールであり、
一歩が、一歩としての、
価値(かち)を、もたなくてはならない・・・」
「へ~ぇ。いい言葉じゃない、誰がいったの?純ちゃん」
「おれが、作(つく)ったの。なんて、うそ。はっはっはは。
あのドイツの文豪(ぶんごう)、
ゲーテが、
詩人の、エッカーマンに語(かた)った言葉だよ。
エッカーマンって、ゲーテに認められた詩人らしいよ。
ゲーテより、43歳も若(わか)かったんだ。
エッカーマンの詩って、探したけど、見つからないなあ」
「エッカーマン?!さっきの言葉は、ゲーテがいったのね。
一歩一歩(いっぽ、いっぽ)、
一瞬一瞬(いっしゅん、いっしゅん)が、ゴールかぁ!?
なんんとなく、わかるなあ。
ゲーテも、偉(えら)い人だね。純ちゃん・
現代人に、教(おし)えを説(と)けるんだから。
今夜は、
ビール、飲(の)んで、花火を見て、楽しくやろう!
かわいい女の子は、いっぱいいるし。はっはは!」
「そうそう、酒はうまいし、
姉(ねえ)ちゃんは、きれいだし!
こんな歌の歌詞(かし)、あったっけ?あっはっは!」
純と信也はわらった。
緑地(りょくち)運動場までは、あと15分ほどであった。
≪つづく≫
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (4)
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (4)
「やっぱり、履(は)きなれた、靴(くつ)じゃないと、
歩きにくいわよね」
清原美樹(きよはらみき)が、となりを歩く、
松下陽斗(まつしたはると)に、
そういって、ほほえんだ。
「うん、そうだね。ゆっくり歩いてゆこうよ。
時間はまだ、いっぱい、あるんだから」
そういって、松下陽斗は、腕時計を見ると、
4時20分だった。
5時30分からが、
深沢高校(ふかさわこうこう)の、
和太鼓部(わだいこぶ)とかの、
ステージ・イベント・オープニング・セレモニーだから、
30分前には、花火大会に、到着(とうちゃく)できる。
浴衣(ゆかた)の、みんなが、履(は)いているのは、
ビーチ・サンダルと同じ素材(そざい)の、
適度なクッションの、
ポリウレタン底(ぞこ)の、下駄(げた)や、
草履(ぞうり)や、雪駄(せった)とかである。
東名高速道路の下を、抜(ぬ)け、3分ほど歩いて、
みんなは、コンビニに立ち寄(たちよ)った。
個々に、好(この)みの、
軽食や、お菓子や、飲み物や、ビールとかを買(か)う。
森川純たち、数人が用意(ようい)する、
7つもの、携帯用(けいたいよう)の、ポリエステル製の、
クーラー・ボックスに、それらを入れる。
クーラー・ボックスを、「はい、交替(こうたい)!」と、
ふざけ合いながら、
それを肩(かた)にかけて、男たちが歩く。
清原美樹(きよはらみき)と、
松下陽斗(まつしたはると)の、うしろには、
姉(あね)の、清原美咲(きよはらみさき)と、
岩田圭吾(いわたけいご)が歩いている。
このふたりも、浴衣(ゆかた)であった。
岩田圭吾(いわたけいご)は、美咲の父の、
清原法律事務所に所属する、弁護士(べんごし)だった。
美咲は、1989年生まれの、24歳になったばかり。
圭吾(けいご)は、1984年生まれで、29歳であった。
圭吾(けいご)は、美咲の夢(ゆめ)の
弁護士(べんごし)になるという、目標(もくひょう)を、
いつも、応援(おうえん)して、励(はげ)まして、
受験勉強のアドバイスをしてきた。
そして、ある日、
美咲(みさき)は、圭吾(けいご)から、
こんな言葉を、打ち明けられたのだった。
「ありのままの、君(きみ)が好(す)きだから・・・」
清原美咲(きよはらみさき)は、
2012年の、去年(きょねん)、6月から始まった、
短答式試験(たんとうしきしけん)、
10月に行(おこな)われた、論文式試験(ろんぶんしきしけん)
11月に行(おこな)われた、口述試験(こうじゅしきしけん)
それら、難関(なんかん)の、
予備試験(よびしけん)に、ストレートで、合格(ごうかく)する。
そして、美咲(みさき)は、2013年の今年、
5月に、4日間の日程で、実施(じっし)された、
司法試験(しほうしけん)を、受験(じゅけん)した。
合格の発表は、今年の9月10日(火)午後4時である。
突然(とつぜん)、平沢奈美(ひらさわなみ)と、
上田優斗(うえだゆうと)が、
若者(わかもの)らしい、大声(おおごえ)で、
わらっているので、
美咲(みさき)と圭吾(けいご)は、
うしろを、振(ふり)り向(む)いた。
優斗(ゆうと)が、肩(かた)にかけている、
携帯用(けいたいよう)の、ポリエステル製の、
クーラー・ボックスを、
「頼(たの)むから交替(こうたい)してくれ」と、
奈美(なみ)に、
渡(わた)そうとするのだが、
奈美(なみ)は、「いやだ!」といって、
クーラー・ボックスと、優斗(ゆうと)を
押(お)しのけるのだった。
そんなことで、浴衣姿(ゆかたすがた)で、
じゃれあっては、
お腹(なか)をかかえて、わらいあっている。
奈美(なみ)も、優斗(ゆうと)も、ベース・ギターが、
好きで、バンドでも担当だから、
これまでも、お互(たが)いに、
相手に、興味(きょうみ)があった。
お互いに、親(した)しくなる、きっかけが、
なかなか、つかめなかったが、
最近、急に、仲(なか)よくなれた。
グレイス・ガールズのベーシスト、
平沢奈美(ひらさわなみ)は、
1年生、今年の10月で、19歳。
ギター、ベース、ドラムだけの、
スリーピース・バンド、
オプチミズム(optimism)をやっている
ベーシスト、ヴォーカルの、
上田優斗(うえだゆうと)は、
3年生、6月に、21歳になったばかり。
オプチミズムは、楽天主義だから、
ラクテンとか、オプチとか、呼ばれて、
サークル仲間にも、人気もあるバンドであった。
≪つづく≫
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (5)
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (5)
なんとなく、そんな、平沢奈美(ひらさわなみ)に、
フラれた感じもしないでもない、
岡昇(おかのぼる)が、
じゃれあう、平沢奈美(ひらさわなみ)と、
上田優斗(うえだゆうと)の、うしろを歩いている。
岡昇(おかのぼる)は、南野美菜(みなみのみな)と、
楽しそうに、言葉をかわしあいながら、歩いている。
岡は、いつも、次の行動が早い。
根(ね)っから、パーカッションに向いているのせいなのか、
その得意(とくい)なパーカッションで、学んだ、
さまざまな状況に、すばやく適応(てきおう)する、
器用(きよう)さなのか、
ピンチを、チャンスに、歌の転調(てんちょう)のように、
転換(てんかん)してしまう、妙(みょう)な、
才能のある、たくましい、若者(わかもの)だった。
岡昇(おかのぼる)が、今度こそ!と、交際を始めたのが、
早瀬田(わせだ)の3年生、
4月に、21歳になった、南野美菜(みなみのみな)であった。
なんでも、正直(しょうじき)にいってしまう、
癖(くせ)のある、岡は、
ユーモアのつもりもあって、
「美菜ちゃんの名前、みなみのみな、って、
舌(した)をかみそうだね!」
と、いってしまいそうになるが、
喉(のど)まで、出かかったところで、
あわてて、いうことをやめたのだった。
何度もの、女の子との、コミュニケーションの失敗で、
危険の予知というか、危機管理も、
自分で、コントロール、できるようになったらしい。
南野美菜(みなみのみな)は、自分の才能に、
迷(まよ)いながらも、
シンガー・ソング・ライターを、目指(めざ)していた。
岡昇と、話をしていると、
自分にも、まだまだ、才能を開花させることが、
できるかもと、希望や元気がわいてくるのだった。
岡と話していると、楽しくなれる、美菜だった。
岡もまた、美菜の、年上(としうえ)の、
女性らしさ、お色気(いろけ)の、魅力(みりょく)に、
我(われ)を忘(わす)れることが、しばしばのようだ。
でも、そんな岡を、やさしく、受けとめる、美菜だった。
岡(おか)は、今年の12月で、19歳の、
早瀬田(わせだ)の1年生。
美菜(みな)は、今年の4月で、21歳になった、
早瀬田(わせだ)の3年生。
そんな、浴衣姿(ゆかたすがた)も、お似合(にあ)いの、
岡と美菜の、
あとを、歩いているのが、
美菜(みな)の姉(あね)の、南野美穂(みなみのみほ)と、
MFCの副幹事長の谷村将也(たにむらしょうや)だった。
つい最近、谷村は、岡から、美穂を紹介されたのだった。
ファミレスのサイゼリアで待ち合わせをして、
将也(しょうや)は、
岡(おか)と美菜(みな)と美穂(みほ)に会ってみた。
将也は、美穂を見た、その一瞬(いっしゅん)で、美穂に、
一目惚れ(ひとめぼれ)をしたといった感じであった。
美穂もまた、一瞬(いっしゅん)で、
将也の、好意(こうい)の気持ちを感じとったようだった。
4月で20歳になった、2年生の、
谷村将也(たにむらしょうや)と、
12月で、23歳になる、OL(オフィス・レディ)の、
南野美穂(みなみのみほ)、
このふたりも、よく似あう、浴衣姿(ゆかたすがた)であった。
将也と美穂のうしろを、歩いているのは、
水島麻衣(みずしままい)と、矢野拓海(やのたくみ)だった。
お互(たが)いの気持が、
よく通(つう)じていて、たいへん仲(なか)がよい
証(あかし)なのだろう、
なんと、仲睦(なかむつ)まじく、手をつないで、
歩いている、ふたりであった。
このカップルも、浴衣(ゆかた)だった。
水島麻衣(みずしままい)は、早瀬田(わせだ)の2年生、
12月が来れば、20歳だった。
矢野拓海(やのたくみ)は、理工学部の3年生、21歳。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の幹事長でもある。
そんな麻衣(まい)と、拓海(たくみ)が、
仲よくなった、きっかけは、
ふと、ふたりが、かわす、会話のたびに、
ふたりとも、
楽器では、ギターが好きで、ギターリストでは、
ジミ・ヘンドリックス(Jimi Hendrix)が好きなこと、
美意識、音楽観が、よく、似(に)ていることであった。
拓海は、出合ったころから、麻衣を、妹のように、
愛(いと)おしく、親しみを感じていたが、
幹事長などをしていることもあって、
自分から、特別な行動は、とりにくかったらしい。
麻衣(まい)のほうは、性格も明るく、
生まれつきの社交性があって、
拓海(たくみ)に近(ちか)づく、チャンスを、
なんとなく、いつも、窺(うかが)っていたようである。
そんな、いくつものカップルが、誕生している、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の、一行(いっこう)は、
雑談(ざつだん)したり、
わらったりしながら、40分ほど歩いた。
4時55分ころ。
有料協賛席(ゆうりょうきょうさんせき)に、到着した。
花火の打ち上げ地点から、200mくらいの、
二子玉川緑地運動場(ふたごたまがわりょくちうんどうじょう)
の中の、多摩川の水辺である。
華(はな)やかな花火の祭典(さいてん)を待つ、
数多(かずおお)くの人で、あふれている。
二子玉川緑地運動場は、緑の芝生におおわれた、
世田谷(せたがや)区民の憩(いこ)いの広場だった。
サッカーや野球などの、
レクリエーション(娯楽・ごらく)にも、利用されている。
≪つづく≫
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (6)
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (6)
株式会社・モリカワの社長の、森川誠(まこと)も、
テーブル席で、くつろいでいた。
普段着の、ポロシャツに、チノパンであった。
森川誠(まこと)の右(みぎ)どなりには、無二(むに)の親友で、
会社の顧問・弁護士(こもん・べんごし)を、
してもらっていいる、清原美樹の父でもある、
清原和幸(かずゆき)がいる。
森川誠(まこと)の左(ひだり)どなりには、
本部・部長の村上隼人(むらかみはやと)、
そのとなりには、本部・主任の市川真帆(いちかわまほ)がいる。
定員(ていいん)4人の、まるくて、白いテーブルである。
浴衣姿(ゆかたすがた)の、市川真帆(いちかわまほ)は、
女性らしい、こまやかさで、
テーブルに、飲み物や、ビールや、軽食とかを、ひろげる。
そのテーブルの、まわりのテーブルには、下北沢(しもきたざわ)の、
モリカワの本部の社員たちが、気ままに、歓談(かんだん)している。
森川純や川口信也たち、ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の
部員たちは、
予約してある、定員4人の、まるいテーブルや、
四角(しかく)いテーブルや、10人用の大型シートに、くつろいだ。
「毎年(まいとし)、こんなふうに、花火を、鑑賞する、催(もよお)しは、
やっていこうよ。
童心(どうしん)に戻(もど)れるようで、楽しいじゃないか。わっはっは」
450mlの、缶(かん)ビールに、上機嫌(じょうきげん)の、森川誠が、
左(ひだり)どなりの、
部長の村上隼人(むらかみはやと)に、そう語(かた)って、わらう。
「そうですよね。わかりました。毎年、ここで、楽しみましょう」
人懐(ひとなつ)っこくて、善良そのものの、わらい顔(がお)で、
誠(まこと)に、返事をする、隼人(はやと)だった。
「ただ、残念なことなんですが。わたしたちは、土日とか、
休日ですから、
こういう、花火大会にも、出席できるのですけど、
わたしたちの会社のお店は、
ほとんど、土日も、営業をしているのがですよね。
わたしたちの、会社の、
多くの社員のみなさんが、
せっかくの、すてきな、イベントに、参加しづらいというのが、
申(もう)しわけ無(な)い、気がしてしまうのですよね」
「そのとおりだな。隼人(やはと)さん。その点は、
また、みんなで、いい、打開策(だかいさく)を見つけよう」
「はい」
「会社を経営していると、問題が、いろいろあるよ。
ねえ、和(かず)ちゃん。
そうそう、美咲(みさき)ちゃんも、ストレートで、
司法試験に、合格できそうですよね。
さすが、和(かず)ちゃんちのお嬢(じょう)さまだ!
大変に、おめでたいことですよね!」
「結果が出るまで、わかりませんけどね。
ありがとうございます、誠(まこ)ちゃん。
何事(なにごと)にも、
運(うん)がありますから、
みなさんには、感謝することばかりですよ。はっはっは」
そういって、陽気(ようき)に、わらう、清原和幸(かずゆき)。
和幸(かずゆき)は、12月で、59歳に、
誠は(まこと)は、8月に、59歳になったばかりだった。
「真帆(まほ)さんは、いつお会いしても、本当に、
お美(うつく)しい。
きょうの、浴衣姿(ゆかたすがた)も、見とれてしまいます。
先日は、松下陽斗(まつしたはると)さんの、
ピアノ・リサイタルで、お会いできましたね。
村上隼人(むらかみ)さんと、ご一緒(いっしょ)で・・・。
お二人(ふたり)は、
また、美男と美女で、本当に、お似合いのカップルだ」
ビールに酔って、リラックスしているのか、
どちらかといえば無口な、和幸(かずゆき)が、
真帆(まほ)にそんな話をする。
「ありがとうございます。でも、わたしなんて。
清原さまの、お嬢(じょう)さまたちのほうが、
わたしなんかより、
かわいらしいし、きれいだと思いますわ。
松下陽斗(まつしたはると)さんの、
ショパンの名曲の数々は、
情熱的な演奏で、すっかり、わたしも、酔いしれましたわ。
松下陽斗(まつしたはると)さんは、
やっぱり、評判(ひょうばん)どおりの、天才的な人だと思います!」
「陽斗(はると)さんも、何かの縁(えん)で、
うちの、美樹(みき)と、おつきあい、してくれていて、
いつまでも、仲よくしていってくれると、いいんだけど。はっはは」
「だいじょうですよ。お父(とう)さま。
美樹さんと、陽斗(はると)さんですもの」
そういって、心の穢(けが)れが、1つもないような、澄(す)んだ、
瞳(ひとみ)で、ほほえむ、市川真帆(いちかわまほ)だった。
和幸(かずゆき)の、右隣(みぎどなり)にいる、
本部・主任の市川真帆(いちかわまほ)は、
華(はな)やかな、色合いと柄(がら)の、浴衣姿であった。
本部・部長の村上隼人(むらかみはやと)も、
市川真帆(いちかわまほ)の浴衣(ゆかた)に、
合わせたような、甚平(じんべい)の格好(かっこう)だった。
今年の4月で、25歳になった、市川真帆(いちかわまほ)は、
今年の10月で、32歳になる、村上隼人(むらかみはやと)と、
知らず知らずのうちに、
恋仲(こいなか)になってしまっていた。
どちらかが、愛(あい)の告白(こくはく)をしたというものでもなく、
お互(たが)いに、
仕事のことで、頼(たの)みごとをすることがあったり、
質問(しつもん)をし合(あ)ったり、
簡単(かんたん)な議論(ぎろん)をすることもあったりと、
そのような日々の、オフィス(会社)のなかで、
知らず知らずのうちに、
愛を、確(たし)かめ、合(あ)っていたのだった。
≪つづく≫
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (7)
17章 世田谷区たまがわ花火大会 (7)
5時30分になった。天気も、夏らしく、暑(あつ)い。
都立の深沢高校(ふかさわこうこう)の、
和太鼓部(わだいこぶ)の演奏(えんそう)が、
大空や、会場の芝生(しばふ)の運動場に
「ドドドドーン!ダダダダダッ!」と
大反響(だいはんきょう)する。
オープニング・セレモニー(式典)は、
開始された。
森川純の兄の、森川良(もりかわりょう)と、
ポップス・シンガーの白石愛美(しらいしまなみ)が、
定員4人の、まるいテーブルで、
オープニング・セレモニーに、すっかり、見入(みい)っている。
白石愛美(しらいしまなみ)は、今年の4月で、20歳(はたち)。
雑誌やテレビなどのマスコミで、日本の、マライア・キャリー
といわれているほど、
知名度(ちめいど)も、急上昇中(きゅうじょうしょうちゅう)だった。
その、抜群(ばつぐん)の、歌唱力(かしょうりょく)や、歌声を持つ、
白石愛美(しらいしまなみ)を
見(み)つけて、育(そだ)ててきたのは、
モリカワ・ミュージック・課長をしている、
森川良(もりかわりょう)といえるかもしれない。
モリカワ・ミュージックでは、デモテープや、ライブハウスなどで、
日々(ひび)、新人の発掘(はっくつ)に、力を入れている。
ポップス・シンガーの白石愛美(しらいしまなみ)や、
ピアニスト・松下陽斗(まつしたはると)は、
モリカワの全店と、モリカワ・ミュージックが、
全面的支援している、
有望(ゆうぼう)な、新人・アーチストだった。
森川良(もりかわりょう)に、はじめて、会ったときは、
髪(かみ)も、
ぼさぼさで、あまり、ぱっとしない、第一印象(だいいちいんしょう)
だけしか、
頭の中に残(のこ)らない、白石愛美(しらいしまなみ)であった。
白石愛美(しらいしまなみ)が、森川良(もりかわりょう)に、
頼(たの)もしさや、男らしさや、
特別な愛情を抱(いだ)くようになるまでは、
時間はかからなかった。
いまでは、ふたりは、同じ目標(もくひょう)に向かって、
燃えている、同志(どうし)であり、
仕事にも、恋にも、激(はげ)しく、燃(もえ)えている、
最愛(さいあい)の、
恋人同士(こいびとどうし)であった。
「花火って、一瞬(いっしゅん)だから、儚(はかな)くって、
考えていると、哀しくなるくらいだわ。
でも、儚(はかな)くって、一瞬だから、
美しいのかしら?」
白石愛美(しらいしまなみ)は、キラキラと、
瞳(ひとみ)を、輝(かがや)かせて、
微笑(ほほえ)むと、
森川良(もりかわりょう)に、
そんな問(と)いかけをする。
「美しいものは、一瞬だろうし、永遠なんだろう、きっと。
こういう、深遠(しんえん)なことは、
論理的に考えてたりするのは、バカな話さ。
詩的(してき)に、感覚的(かんかくてき)に、
解決する問題さ。
空があるように、地面があるように。
夜があるように、朝が来るように。
だから、一瞬もあるし、永遠もあるってね。
愛美(まなみ)ちゃんの、美しい歌声を、
何度も、永遠のように、
再現できて、楽しめるなんていうのは、
よく考えたら、
奇跡的(きせき)なことなんじゃないかな!?
おれ、そんなことに、すっげえ、幸福、感じるよ。
あっはっはは」
森川良(もりかわりょう)は、そういいながら、
やさしい声で、わらった。
そして、白石愛美(しらいしまなみ)の手を、握(にぎ)った。
「ありがとう。良(りょう)ちゃん。わたし、いまの言葉、
とても、うれしい・・・」
言葉(ことば)に詰(つ)まった、
白石愛美(しらいしまなみ)の頬(ほほ)に、
きれいな、涙(なみだ)が、ひかった。
夜の7時。
グランドオープン・・・の、開始だった。
ドーン、ドーン、ドーン!
バチ、バチ、バチ!
花火の、オープニングを飾(かざ)る、
連発仕掛(れんぱつしかけ)花火の、
スター・マインが打ち上がった。
何十発もの、花火玉(はなびだま)が、
テンポもよく、つぎつぎと、
打ち上げられて、夜空(よぞら)に、色あざやかに、
花が咲(さ)いては、消えていく。
夜の7時55分。
グランド・フィナーレ(最後の幕)の、
クライマックス、最高潮(さいこうちょう)。
都内(とない)でも、屈指(くっし)の規模(きぼ)を誇(ほこ)る、
8号の花火玉(はなびだま)の、100連発が、
次々と、打ち上げられる。
時(とき)が、止(と)まったように、夜空(よぞら)が、
大輪(たいりん)の花たちで、明るく染(そ)まる。
連発仕掛(れんぱつしかけ)花火の、
スターマインが、打ち上がって、
金色や銀色に、キラキラと、光輝(ひかりかがや)く。
滝(たき)の流(なが)れのような、空中(くうちゅう)の、
ナイアガラが、
夜空(よぞら)に、出現(しゅつげん)する。
夜の8時には、およそ、6500発の花火が、すべて全部、
打ち上げられて、全プログラムは終了した。
≪つづく≫
≪改訂版≫ 恋愛カップル15組のプロフィール
≪改訂版≫
雲は遠くて☆特別編☆プロフィールのご紹介☆
◇ 現在進行中の、恋愛、カップルの15組の、ご紹介です ◇
(なお、ナンバー15の、北沢奏人(きたざわかなと)と、
天野陽菜(あまのひな)の恋愛は、予定中でして、
現時点では、まだ、物語として、描写していません。)
1.川口信也(かわぐちしんや) & 大沢詩織(おおさわしおり)
☆川口信也。1990年2月23日生まれ。
早瀬田大学、商学部、卒業。株式会社モリカワの、本部の課長。
ロックバンド、クラッシュ・ビートの、
ギターリスト、ヴォーカリスト。
下北沢の本部は、株式会社モリカワの、
司令塔(しれいとう)である。
多様(たよう)な、外食の店を、全国展開している、
モリカワの、顧客(こきゃく)の、
ニーズ(需要・じゅよう)の、
リサーチ(顧客分析)などをして、
常(つね)に、問題点を、探(さぐ)り出して、
あらたな、企業戦略などを、企画して、
常に、あらたな展開と、統率を図(はか)っている。
川口信也は、2011年の春、早瀬田(わせだ)大学4年
のとき、
その春に、入学した、清原美樹と、
音楽サークルの、ミュージック・ファン・クラブ(MFC)で、
日に日に、仲(なか)よくなる。
しかし、運命の悪戯(いたずら)といえばよいのか、
ふたりの恋愛は、成就(じょうじゅ)しなかった。
2013年の、現在でも、信也と美樹のあいだには、
篤(あつ)い、友情があることに、変わりはない。
信也も、美樹も、いまは、ほかの相手と、
交際(こうさい)を、楽(たの)しんでいる。
☆大沢詩織。1994年6月3日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、文化構想学部、1年生。
ロックバンド、グレイス・ガールズの、
ギターリスト、ヴォーカリスト。
詩織は、いまも友人の、岡昇に、2013年の、5月、
「好きなんです」と、告白(こくはく)される。
「わたしを、本当に好きなら、川口信也さんを、
わたしに紹介して!」と、ひたすら、お願いする。
そして、2013年6月8日の土曜日、
岡昇が、ふたりの間(あいだ)のパイプ役になって、
川口信也、岡昇、大沢詩織の3人は、
大沢詩織の19歳の誕生祝(たんじょういわい)をする。
2.清原美樹(きよはらみき) & 松下陽斗(まつしたはると)
☆清原美樹。1992年10月13日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、教育学部、3年生。
ロックバンド、グレイス・ガールズの、
キーボード、ヴォーカリスト。
☆松下陽斗。1993年2月1日生まれ。
東京・芸術・大学の音楽学部、ピアノ専攻の3年生。
クラシック、ジャズ、ポップスと多彩なジャンルの、
豊潤(ほうじゅん)な演奏で、人気上昇の、若手ピアニスト。
美樹と陽斗は、都立の芸術・高等学校で、3年間、
鍵盤楽器(ピアノ)を、学(まな)んでいた。
ふたりの家も、下北沢駅の近(ちか)くなので、
放課後も、よく、ごく自然に、いっしょに下校していた。
ふたりの、そんな関係は、
友情なのか、それとも恋愛なのか、
その判別が、曖昧(あいまい)なままの、
3年間の高校生活だった。
ところが、2011年の初春(しょしゅん)、
高校の卒業の間際(まぎわ)のころ、
陽斗(はると)は、美樹の姉の
美咲(みさき)のことを、好きだと、
心の内(うち)を、美樹に、明(あ)かす。
通(かよ)う、大学も、違(ちが)うこともあり、
ふたりは、遠(とお)ざかっていくようであったが、
陽斗(はると)から、遠ざかったのは、
妹思(いもうとおも)いの、姉の美咲であった。
2012年の秋ごろから、美樹と陽斗は、
楽しく、何でも語りあえる、高校のころと、
変(か)わらない、良好な、関係に、戻(もど)る。
3.清原美咲(きよはらみさき) & 岩田圭吾(いわたけいご)
☆清原美咲。1989年6月6日生まれ。
慶応(けいおう)大学、法学部卒業。弁護士になるのが目標。
そのための、予備試験(よびしけん)に、合格(ごうかく)。
司法試験(しほうしけん)を、受験(じゅけん)。
合格の発表は、2013年、9月10日(火)。
☆岩田圭吾。1984年2月5日生まれ。
弁護士(べんごし)として、美咲の父の、
清原法律事務所に所属している。
4.森川純(もりかわじゅん) & 菊山香織(きくやまかおり)
☆森川純。1989年4月3日生まれ。
早瀬田大学、商学部、卒業。株式会社モリカワの、
本部の課長。
父親は、モリカワの社長の森川誠(まこと)。
森川良(りょう)は、兄、森川学(まなぶ)は、叔父(おじ)。
ロックバンド、クラッシュ・ビートの、
ドラマー、ヴォーカリスト。
☆菊山香織。1993年7月26日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、2年生。
ロックバンド、グレイス・ガールズの、
ドラマー、ヴォーカリスト。
5.小川真央(おがわまお) & 野口翼(のぐちつばさ)
☆小川真央。1992年12月7日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、教育学部、3年生。
ヒップホップなどのダンスは得意。
歌うのは苦手(にがて)だった。
親友の美樹の、4回の、誘(さそ)いで、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員になる。
翼(つばさ)の協力もあって、
ギターを弾きながら、歌うことも、楽しめるようになる。
美樹がリーダーの、ロックバンド、グレイス・ガールズを、
いつも応援(おうえん)している。
☆野口翼。1993年4月3日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、理工学部、2年生。
勉学熱心、頭の回転は速(はや)いが、
ねばりや根気(こんき)の不足を自覚している。
6.岡林明(おかばやしあきら) & 山下尚美(やましたなおみ)
☆岡林明。1989年4月4日生まれ。
早瀬田大学、商学部、卒業。株式会社モリカワの、
本部の課長。
ロックバンド、クラッシュ・ビートの、
ギターリスト、ヴォーカリスト。
妹は、今年(2013年)、高校2年の、香織(かおり)。
☆山下尚美。1993年12月3日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、2年生。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員。
森田麻由美(もりたまゆみ)と、仲が良く、
ふたりの、音楽ユニットで、コピーを、歌う。
ライブのたびに、気の合う、男子部員たちとも、
バンドを組んで、楽しむ。
7.高田翔太(たかだしょうた) & 森田麻由美(もりたまゆみ)
☆高田翔太。1989年12月6日生まれ。
早瀬田大学、商学部、卒業。株式会社モリカワの、
本部の課長。
ロックバンド、クラッシュ・ビートの、
ベーシスト、ヴォーカリスト。
去年(2012年)の夏の、世田谷区たまがわ花火大会
のころまで、早瀬田大学3年の、山沢美里(やまさわみさと)
と交際(こうさい)していたが、おたがいに、
満(み)たされないまま、約半年で、別(わか)れる。
現在、森隼人(もりはやと)と、親密な、早瀬田大学3年生の、
山沢美紗(やまさわみさ)は、山沢美里の妹(いもうと)である。
☆森田麻由美。1993年10月9日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、2年生。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員。
山下尚美(やましたなおみ)と、仲が良く、
ふたりの、音楽ユニットで、コピーを、歌う。
ライブのたびに、気の合う、男子部員たちとも、
バンドを組んで、楽しむ。
8.矢野拓海(やのたくみ) & 水島麻衣(みずしままい)
☆矢野拓海。1992年10月7日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、理工学部、3年生。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の幹事長。
モーツァルトを、尊敬(そんけい)している。
ピアノ、ギター、ベース、ドラム、ヴォーカルなど、
かなりなレベル(程度)できる、多才さがある。
独特のユーモアなどで、MFCの部員や、
OBの森川純たち、クラッシュビートのメンバーからも、
慕(した)われる。男女から、好かれる、性格の持ち主。
☆水島麻衣。1993年3月7日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、2年生。
ロックバンド、グレイス・ガールズの、
ギターリスト、ヴォーカリスト。
美意識、音楽観に共感することの多い、
拓海への思いが、約1年間を経(へ)て、
現実のかたちとなる。
水島の愛用のギターは、真紅(しんく)の、
フェンダー・ジャパン・ムスタング(MG69)。
9.平沢奈美(ひらさわなみ) & 上田優斗(うえだゆうと)
☆平沢奈美。1994年10月2日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、1年生。
ロックバンド、グレイス・ガールズの、
べーシスト、ヴォーカリスト。
岡昇に、親近感(しんきんかん)を持つが、
何か、満(み)たされないものを感じる。
上田優斗とは、おたがいのなかにある、
熱(あつ)いの炎(ほのお)のような何かを、
自然に、感じ合(あ)うことができる。
☆上田優斗。1992年6月6日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、3年生。
ギター、ベース、ドラムだけの、
ロックの、スリーピース・バンド、
オプチミズム(optimism)をやっている。
担当は、ベース、ヴォーカルで、
平沢奈美とは話も合う。
オプチミズムは、楽天主義という意味で、
優斗がつけたバンド名である。
平沢奈美には、優斗にはない、
憧(あこが)れの、楽天的なところがあって、
そんな明るい社交性とかに、優斗もひかれる。
10.岡昇(おかのぼる) & 南野美菜(みなみのみな)
☆岡昇。1994年12月5日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、1年生。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の会計を担当。
リズム感が、サークルの中でも、ピカイチで、
パーカッション、ブルース・ハープ、
アコースティック・ギターが得意である。
歌も、高い声が出せて、コーラスの常連だ。
愛用のギターは、ギブソンの
アコースティック・ギター (Jー160E)。
この1年間に、大沢詩織に、フラれ、
平沢奈美に、フラれたが、3度目の正直なのか、
南野美菜とは、とてもうまくいっているようだ。
音楽で、食べていけることが、夢である。
川口信也と、谷村将也に、運命の彼女を、
紹介するという偉業(?)を成(な)しとげる。
☆南野美菜。1992年4月8日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、3年生。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員。
冒険心や夢を追うタイプなところが、
岡昇と、共通しているなと思う、美菜である。
失敗を失敗と思わない、楽観性も似ている。
美菜は、シンガー・ソング・ライターを、
目指(めざ)している。
11.谷村将也(たにむらしょうや) & 南野美穂(みなみのみほ)
☆谷村将也。1993年4月10日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、商学部、2年生。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の副(ふく)幹事長。
エリック・クラプトンの、ギターとヴォーカルを、
コピーすることが、得意。
水島麻衣に、熱を上げていたが、フラれる。
しかし、岡昇に、南野美穂を紹介されて、
その運命的な女性と、うまくいっていて、
岡には、感謝している。
☆南野美穂。1990年12月10日生まれ。
南野美穂の、妹は、南野美菜。
美穂と、美菜は、価値観も
似(に)ている、とても仲のよい、姉妹(しまい)。
美穂は、現在、社会人として、
キャリア・ガールっぽく、仕事も熱心に、
会社勤(つと)めをしている。
谷村将也のことは、年下ではあるが、
実行力も旺盛(おうせい)で、
頼(たよ)りがいもあって、
よく自分の気持ちを理解してくれる
谷村を、信頼(しんらい)している。
12.森川良(もりかわりょう) & 白石愛美(しらいしまなみ)
☆森川良。1983年12月5日生まれ。
株式会社モリカワの、事業部のひとつ、
モリカワ・ミュージックの課長。
モリカワ・ミュージックでは、デモテープや、
ライブハウスなどで、新人の発掘(はっくつ)に、
力を入れている。
ポップス・シンガーの白石愛美(しらいしまなみ)や、
ピアニスト・松下陽斗(まつしたはると)は、
そんな新人たちの中でも、
成長も、著(いちじる)しいアーチストである。
☆白石愛美(まなみ)。1993年4月7日生まれ。
マライア・キャリーの、歌のカヴァー(cover)で、
マスコミに、注目され、人気も出てきている。
無名だった、下積(したづ)みの、1年前までは、
モリカワのレストランで、ウェイトレスをしていた。
愛美を、実力のあるアーチストに、
育てあげようと、仕事に励(はげ)む、
森川良の姿に、いつ日か、魅(み)せられていた。
そんな良(りょう)とともに、仕事と恋に燃えている。
13.森隼人(もりはやと) & 山沢美紗(やまさわみさ)
☆森隼人。1994年11月8日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、理工学部、1年生。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員。
森隼人の父親、森昭夫は、45歳であるが、
CD、DVD、ゲーム、本などの、レンタルや販売の店を、
東京、大阪などの大都市を中心に、経営している。
ネット販売の、売り上げも順調な、急成長の会社である。
フォレスト(Forest)という会社名で、森という意味である。
大会社の息子(むすこ)ということもあって、
プレイボーイと、噂(うわさ)されることもあるが、
女性には不自由しない、森隼人(もりはやと)である。
しかし、最近は、森隼人の趣味の、好きな海やヨットを、
大好きだという、山沢美紗が、隼人にとって、
特別で、大切な女性となっている。
そんな山沢美紗には、
自分の欠点や、足(た)りないところを、
補(おぎ)ってくれるような、海のように深い、
母のような愛情や、女性らしさを感じている。
☆山沢美紗。1992年3月5日生まれ。
早瀬田(わせだ)大学、文学部、3年生。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員。
遊び上手(じょうず)と、プレイボーイと、
みんなから誤解(ごかい)されやすい、
森隼人の、心やさしい、情の深さを、
見抜(みぬ)く、男を見る目を、
持っている女性が、山沢美紗かも知れない。
山本美紗は、少なくとも、同じ夢や目標を、
追いかけて、見失わない限(かぎ)り、
森隼人とは、楽しく、いつまでも、
やっていけると、信じているようである。
山沢美紗(みさ)の、姉の山沢美里(みさと)は、
期間にして、半年間ほどであるが、
高田翔太と、交際していたことがある。
多摩川(たまがわ)花火大会を、
美里と翔太は、なかよく、見に行っていた。
山沢美里(やまさわみさと)は、今年、
2013年、早瀬田(わせだ)大学4年生である。
14.市川真帆(いちかわまほ) & 村上隼人(むらかみはやと)
☆市川真帆。1988年4月5日生まれ。
株式会社モリカワの、ヘッド・クオーター(本部)主任。
困(こま)っている人を、ほおっておけないほど、
情(じょう)が篤(あつ)いタイプ。
仕事の才能は、鋭(するど)すぎるほどあると、
自覚していて、その鋭さが、欠点だと思っている。
そんな反面、深い孤独感もあって、
よき理解者、協力者を、いつも求めていたようである。
真帆にとっての、大切な王子さまが、
つまり、村上隼人のことであるが、
運命の、王子さまが、
身近にいることに、気がつくまでには、
3年の歳月(さいげつ)が、過ぎ去っていた。
☆村上隼人。1982年10月6日生まれ。
株式会社モリカワの、ヘッド・クオーター(本部)・部長。
知的で、おしゃれで、上品(じょうひん)な、
言葉遣(づか)いや、身のこなしの隼人だが、
障害(しょうがい)、妨(さまた)げのある、恋や、
仕事に、燃えるタイプである。
社内恋愛を、バカにしていたのであるが、
そんな固定観念や先入観を、捨(す)て去って、
すべてを、捨(す)て去(さ)っても、いいから、
市川真帆の、やさしい愛情が欲しい
という覚悟(かくご)の、村上隼人であった。
ふたりとも、芸術鑑賞が好きで、
なかよく、休日は、ふたりして、出かける。
映画や音楽や絵画や演劇など、いろいろと。
15.北沢奏人(きたざわかなと) & 天野陽菜(あまのひな)
☆北沢奏人。1988年12月5日生まれ。
株式会社モリカワの、本部で仕事をしている、
副統括(ふくとうかつ)シェフ(料理長)。
モリカワ、全店舗の、料理や飲み物、スイーツなど、
すべてを、日々、品質管理したり、
新製品の開発や、企画を実施したりと、
その総指揮(そうしき)をとっている。
北沢奏人(かなと)の料理の師匠(ししょう)は、
同じ、株式会社モリカワの統括シェフ(料理長)の、
10歳、年上の、1978年生まれの、
宮田俊介(みやたしゅんすけ)である。
ふたりの仲は、師弟関係は、とても良好である。
天野陽菜(あまのひな)には、会ったその瞬間から、
一目惚(ひとめぼ)れであったらしい。
北沢奏人(かなと)の気持ちは、日に日に、
燃え上がるばかりであった。
まだ、最近の、2013年の春先のことである。
☆天野陽菜。1991年4月4日生まれ。22歳。
某大学(ぼうだいがく)を、卒業して、
下北沢のモリカワの本社に、入社したばかりである。
12月で、25歳になる、北沢奏人(かなと)とは、
出合った最初から、特別な親(した)しみがあって、
熱烈な関係になる予感が、
天野陽菜(あまのひな)にはあったらしい。
<以上>
18章 サザンオールスターズ・祭り (1)
18章 サザンオールスターズ・祭り (1)
8月23日、金曜日の午後の5時半ころ。
定時(ていじ)で仕事を終えた、森川純(じゅん)と、
森川学(まなぶ)のふたりは、下北沢のモリカワの、
本社の近くの、小さなバーに、立ち寄った。
ルイーズ(Louise)というフランス語の名前の店で、
下北沢駅南口から、歩いて3分の、おしゃれなバーである。
カウンターと、四角(しかく)いテーブルで、
客席数は26席あり、女性がひとりでも安心して、
利用できた。ただし、店内は禁煙であった。
バーテンダーは、ふたりいて、ひとりは、カクテル・コンクールで、
何度も優勝している。ふたりとも、
会話の上手(じょうず)な、イケメンで、女性に人気がある。
カウンターは、厚(あつ)く、重(おも)みがあり、
店内のインテリアも、
流れるBGM(バックグラウンドミュージック)も、
しずかに、落ち着いた、大人の雰囲気(ふんいき)である。
「おれ、マルガリータをください」と、森川学は、
馴染(なじみ)のバーテンダーにいう。
「おれも、マルガリータをください」と、森川純。
マルガリータは、テキーラがベースのカクテルで、
中南米のラテンなイメージ。
さっぱりした酸味で、飲みやすい。グラスのふちには、
一周(いっしゅう)するように、塩がついている。
「まっちゃん。グレイス・ガールズ(GRACE GIRLS)の、
メジャー・デビューのことですが、
進捗状況(しんちょくじょうきょう)は、順調で、
オリジナル作品も、15曲は、揃(そろ)いましたよ。
これで、アルバム制作に入れます」
カウンターに座(すわ)る、森川純(じゅん)が、
となりの森川学(まなぶ)に、
ホッチキスで、左上が、閉(と)じてある、
グレイス・ガールズに関する、
A4サイズの数枚の書類を、差し出した。
「どれどれ、彼女たちは、いつ見ても、
美女揃(ぞろ)いだよね。
ビジュアル(視覚的)も、抜群だし、
技術的にも、水準は高い・・・。
大沢詩織(おおさわしおり)や、
清原美樹(きよはなみき)や、
メンバー全員、
ポップスによく合う、いい歌声を持っているよ。
それに、
清原美樹や大沢詩織の声は、
ポップスに向いているというか、1度聴(き)いたら、
忘れられない、いいものがあるよね・・・。
あとは、まあ、
オリジナリティ(独創性)、
アイデンティティー(主体性)、
ポピュラリティー(大衆性)が、
どうか?ってところかな。純(じゅん)ちゃん」
森川学(まなぶ)は、1970年12月7日生まれの42歳、
森川純の父の、森川誠(まこと)の弟であり、
叔父(おじ)である。
気ままな、独身生活を、楽しむタイプでもあった。
イケメンで、クルマは、フォルクス・ワーゲン、
夜遊びが好きな、おしゃれな中年男性である。
愛称は、
学(まなぶ)からとった、まっちゃん、で、みんなは、
気軽にそう呼んでいる。
社内でも、話のわかる上司として、人気がある、
モリカワの副社長である。
「グレイス・ガールズは、まだ、早瀬田の学生さんだし、
着実に、こつこつと、モリカワで、バックアップして、
育成(いくせい)してあげれば、
近いうち、ヒットも、飛(と)ばせるかもしれないよね。
しかし、なにしろ、
最近、女の子ばかりの、ガールズバンドの数も、
多いからね。
オリジナリティ(独創性)を、どのように、
出してゆけるかが、勝負かな?」
「そうですよね。オリジナリティですよね。まっちゃん。
おれたちの、クラッシュ・ビート(Crash Beat)
にもいえることなんですけど・・・」
「そうそう、君たちのクラッシュ・ビートも、そろそろ、
メジャー・デビューをしてみたらいいじゃないの?
モリカワ・ミュージックでは、
真剣に、夢を追いたいという、アーティストを、
支援するシステムが、しっかりとあるんだから。
クラッシュ・ビートも、そろそろ、
ファーストアルバム、作って、
メジャー・デビューしようじゃないの?」
「実は、その予定でいます。おれたちの音楽を、
どのように、クリエイト(創造)するか、
どのような、ポリシー(自己哲学)を持っていくかとか、
よく、メンバーの4人で、酒飲みながら、語りあってますよ。
夢を追(お)いたい、アーティストのための、
支援(しえん)や、
サービスや保障(ほしょう)が受けられる、システム(制度)を、
整備している、
モリカワ・ミュージックを、世間に知ってもらうためにも、
おれたちも、がんばらないとって、メンバー、
よく話しているんです。まっちゃん、あっはっは」
<つづく>
18章 サザンオールスターズ・祭り (2)
18章 サザンオールスターズ・祭り (2)
「そうなんだ。モリカワ・ミュージックの、アーティストの
支援制度は、良心的というか、画期的だからなあ。
良(りょう)ちゃんが、熱心に、中心になって、
アーティスト支援(しえん)のシステムを、
立ち上げたんだからね。彼も立派(りっぱ)なものだ。
とかく、世間じゃ、
夢を追う、若者たちを、支援するように見せておいて、
食い物にしている、詐欺(さぎ)みたいな会社があるからね。
おれも、
クラッシュ・ビートには、期待しているよ。
まあ、そうなんだよな。
ポリシー(自己哲学)を、考えたりと、
自分の生き方とかを問(と)うのも、本来の、ロックの姿(すがた)
ともいえるんだよね。
そんな意味では、ロックは、ポップスとは、
本来は、相反(あいはん)するような、音楽だったね。
1950年ころのロックは、
働(はたら)いても、働いても、生活が楽(らく)にならない、
そんな、若い労働者たちの、
怒(いか)りを、託(たく)した、音楽ようだからね。
そして、
ポップスというのは、エンターテイメント(娯楽性)の高い、
音楽で、流行歌のことですものね。
しかし、
音楽とは、楽しむべきものであるから、自然な流れとして、
結局、
大衆受(たいしゅうう)けする、ポップ・ロックというのも、
いいんじゃないのかな。
たぶん、ビートルズも、サザンオールスターズも、
ロックとポップスのバランス(調和)の絶妙(ぜつみょう)
にいい、
ポップ・ロックの代表的なロック・バンドだろうしね。
あっはっは」
「そういえば、復活(ふっかつ)した、サザンも、
新曲では『ピースとハイライト』では、
ポップミュージックの原点やあり方として、
現実の社会の、憂(うれ)いや、
平和的な方向に向かってほしい願いを、
テーマ(話題)やメッセージにしたらしいんですよ。
NHKの特集で、桑田さんが語ってましたけど」
「サザンは、デビューして、30年以上だけど、
ポリシー(自己哲学)も、ぶれないバンドだよね。
明日の、サザン祭りは、成功させましょう!純ちゃん」
「はい、。まっちゃん。みんなで、盛り上げて、成功させます」
8月24日の土曜日。
特別ライブ、サザンオールスターズ・祭(まつ)りが、
下北沢駅、南口から、歩いて3分くらいの、
ライブ・レストラン・ビートで、6時30分の開演で行われた。
1階フロア、2階フロア、あわせて、280席は、満席(まんせき)。
チケット(入場券)は、
すべて、ソールド・アウト(完売)であった。
「サザンオールスターズ祭り、これより、開催いたします!
今夜は、ライブ・レストラン・ビートへ、お越(こ)しいただいて、
ありがとうございます。いやーあ、超満席です。
ほんとうに、ありがとうございます!
これも、サザンの人気の証明ですよね。
きょう、ご出演の、豪華な、ミュージシャンの、
みなさんの人気も、もちろん、ありますよね?
わたくし、佐野幸夫(さのゆきお)を、一目(ひとめ)見ようと、
お越(こ)しくださっている、お客さまも、
いらっしゃる気がしますが。
あ、そこの、手を振(ふ)ってくださっている、お客さま!
そうですか、ありがとうございます。
佐野幸夫、生まれてれてきてよかったと、
今夜は、つくづくと、身に染(し)みて、感じております!」
長身(ちょうしん)で、軽快で、おもしろい、MC(進行)の、
司会の店長、佐野幸夫(さのゆきお)の、トーク(おしゃべり)も、
全開(ぜんかい)、絶好調(ぜっこうちょう)であった。
サザン祭りには、早瀬田(わせだ)大学の音楽サークル、
ミュージック・ファン・クラブ(通称・MFC)の部員、
男子30人、女子38人、あわせて68人の全員が、参加した。
大人数の大学生の参加による、舞台の、ポップダンスや、
コーラス(大合唱)などは、
華(はな)やかさや楽しさに、溢(あふ)れた。
艶(あで)やかな、若い女の子ばかりの、
グレイス・ガールズの
『わたしはピアノ』と『夏をあきらめて』の
歌と演奏に、会場は、酔(よ)いしれた。
クラッシュ・ビートは、『BOHBO No.5』と
『チャコの海岸物語』、
スリーピース・バンドのオプチミズムは、
『ミズ・ブランニュー・デイ』などを、演奏し、歌(うた)った。
モリカワ・ミュージックに所属の、
ポップス・シンガー、白石愛美(しらいしまなみ)と、
ピアニストの松下陽斗(まつしたはると)は、
『そんなヒロシに騙(だま)されて』と、
『真夏の果実』を、
ピアノの弾き語りで、歌って、観衆を魅了(みりょう)した。
アンコール曲は、『いとしのエリー』だった。
会場は、総立(そうだ)ちで、みんなで、大合唱となった。
観衆も、気がつかない程度の、演奏などのミスもあった。
しかし、
サザンオールスターズ祭りの、ライブ演奏、全26曲は、
圧倒的(あっとうてき)な
パフォーマンス(芸術表現)で、
会場は、最後まで、熱い、2時間30分を過ごした。
≪つづく≫
☆発行者:いっぺい
19章 信也と 詩織の ラブ・ストーリー (1)
19章 信也と 詩織の ラブ・ストーリー (1)
物語は、遡(さかのぼ)って、
7月6日、土曜日の午後5時。
1日中(いちにちじゅう)、曇り空(こもりぞら)で、
気温も 25度くらいであった。
小田急線の代々木上原(よよぎうえはら)駅南口から、
歩いて、5分ほどにある、
大沢工務店(こうむてん)の駐車場(ちゅうしゃじょう)で、
大沢詩織(おおさわしおり)は、
川口信也(かわぐちしんや)のクルマを待っている。
詩織は、大学の学生会館で、グレースガールズのメンバーと、
バンド練習をしてきたばかりだった。
短時間に、自分の部屋で、
2013年の流行色といわれる、エメラルド・グリーンの、
アイシャドウをして、細(ほそ)めの、
アイライン、マスカラで、引(ひ)き締(し)めた。
下(した)まぶたの涙袋(なみだぶくろ)も、
淡(わい)いグリーンを乗(の)せた。
グリーン×グリーンの完成(かんせい)である。
真珠(しんじゅ)や 虹(にじ)のような、
色を発(はっ)する、
ラメの、キラキラ度が、絶妙な感じに、仕上(しあ)がると、
「知的よね!」と 鏡(かがみ)の中の自分に、
満足(まんぞく)な、詩織である。
詩織は、光沢(こうたく)のある、オトナっぽい、
モスグリーン(深緑色)のワンピースに着替(きが)えた。
7月6日、土曜日といえば、
大沢詩織(おおさわしおり)の、
19歳の誕生祝(たんじょういわい)を、
川口信也(かわぐちしんや)と、
岡昇(おかのぼる)の、ふたりにしてもらった、
6月8日の土曜日から、ひと月が 過(す)ぎている。
こんなに、詩織(しおり)と信也(しんや)が、
親密(しんみつ)になるのには、
早瀬田(わせだ)大学、1年の、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員のなかでも、
異色(いしょく)、貴重(きちょう)なキャラ(性格)の
岡昇(おかのぼる)の存在が、必要だったようである。
「いつも、一緒(いっしょ)に いたいな!詩織ちゃんとは」
「え!?岡くん、それって、告白じゃないよね?!」
「うううっん。これって、告白っていうのかな・・・?
詩織ちゃんのこと、おれ、好きなんですよ!すごっく!」
「えええぇっ!?・・・あ、どうもありがとう。つーかさぁ。
でも、岡くん、わたし、好きな人がいるのよ。残念だけどぉ。
岡くん、ごめんなさい!」
詩織は、そんな会話のあとで、岡に、
川口信也(かわぐちしんや)が、好きなことを、うちあけた。
「わたしを、本当に好きなら、川口信也さんを、
わたしに紹介して!」
と、岡に 頼(たの)んだのだった。
そんな、意外な話の展開(てんかい)に、頭をかいたり、
意味不明(いみふめい)に、泣(な)きそうになったり、
その反対に、男らしく、笑って見せる、岡だった。
しかし、10分とはたたないうちに、
岡は、詩織のことはあきらめて、
詩織と信也を結(むず)びつける、
愛のキューピットの役、
パイプの役になることを、
引き受けたのだった。
複雑(ふくざつ)な心境(しんきょう)というのが、
一般的にも、岡の立場のはずだったが、
生まれつき、単純なタイプの 岡には、
その複雑な心境とか、疲れる葛藤(かっとう)とかが、
大(だい)の苦手(にがて)なようであった。
5時5分。
大沢工務店(こうむてん)の駐車場(ちゅうしゃじょう)に、
川口信也のクルマ、軽(けい)のスズキ・ワゴンRが止(と)まる。
走行距離も 5万キロを超(こ)えていて、
乗(の)り換(か)えを考えることもある、大学1年のとき、
バイトをして買った、
いまも 愛着(あいちゃく)のある中古(ちゅうこ)のクルマだ。
大沢詩織(おおさわしおり)の父親は、家や店舗(てんぽ)の、
設計、施工(せこう)、リフォームや販売などの、
工務店を経営している。
「しんちゃん、元気!?」
「元気だよ、詩織ちゃんも、バンドは、うまくいってるの」
「うん、だいじょうぶよ。みんな、気の合(あ)う、
いい人たちばかりなの!」
詩織は、隣(となり)のシートにすわると、信也に、
軽く、キスして、ハグをした。
「グレイス・ガールズって、名前がいいよな!
グレイス(GRACE)って、
美しいとか、上品とか、優雅(ゆうが)とか、
意味するんだから、女の子たちのバンド名としたら、
これ以上ないんじゃないの!?」
「そうよね、優美(ゆうび)な少女たち、
神の恵(めぐ)みの、少女たちという意味ですものね。
すてきな名前で、わたしも大好きなの」
≪つづく≫
19章 信也と 詩織の ラブ・ストーリー (2)
19章 信也と 詩織の ラブ・ストーリー (2)
クルマは、国道413号線の、井の頭通(いのがしらどお)りを、
西へ 2分ほど走ると、信号を左折(させつ)して、
上原中学校の グランドの横を通って、下北沢へ向(む)かう。
「このへんの地形って、坂が多くって、緑も多いから、
なんとなく、山梨県を思い出すんだ」
「そうなの、山梨県に、似ているのね。
でも、しんちゃん、それって、ホームシック(homesick)
かもしれないわ」
「はっははは。おれ、そんなことないって!
東京は、楽しいよ、やっぱり。
詩織ちゃんとも、出会えたし!」
「わたしも、しんちゃんと出会えたから、しあわせよ!」
「さあ、今夜は、どこで食事をしましょうか?詩織さま・・・」
「どこでもいいわよ。しんちゃんと、いっしょなら、
どこでもいいわ・・・」
「おれだよ。詩織ちゃんと、いっしょにいられるだけで、
しあわせ、感じるよ。
実(じつ)は、おれ、今夜は、下北(しもきた)の
お好(この)み焼き屋(やきや)さんに、
予約(よやく)を入れておいたんだ。
前に行ったとき、
予約なしで、来た人たちは、結構(けっこう)、
断(ことわ)られていたんだ。
そんなわけで、
あの店、おいしくて、人気あるから、
行っても、入(はい)れないときあるからさ。
予約じゃ、キャンセルも、できるしね!
店長は、バンドマンだった人で、
バンド活動は、引退しちゃったっていうけど、
やっぱり、音楽的なセンスは、
料理にも活(い)きるってことだろね!」
「うん、そんなものよね。
音楽も料理も、
感性が大切だからじゃないかしら。
そのお店行ってみたいわ!
そこの、お好み焼きって、
私も食べてみたい!」
詩織の、ほっそりとしたラインの腕(うで)が、
信也にのびて、そっと、信也の手を 握(にぎ)る。
夜の6時ころ。
ふたりは、クルマをマンションにおいて、北沢2丁目にある
下北沢なんばん亭(てい)で、
生ビールを飲みながら、お好み焼、鉄板焼(てっぱんやき)で
楽しいひとときを過(す)ごした。
夜の8時30分ころ。
ふたりは、下北沢なんばん亭(てい)を出ると、
信也のマンションに帰った。
ふたりとも、ビールに酔って、上機嫌(じょうきげん)である。
大沢詩織(おおさわしおり)は、シャワーを浴(あ)びている。
川口信也(かわぐちしんや)は、ケータイを、
スマートフォンに、替(か)えたばかりで、
その画面を、指でタッチして、
タップを試(ため)している。
「しんちゃんも、スマホにしたら?」
先日(せんじつ)、詩織がそういった。
信也は、ガラケイとかいわれるケータイで、
間(ま)にあっていたのだけど、
詩織が、そういうものだから、
きょう、スマホに替(か)えた。
「しんちゃんって、すごい、素直(すなお)!」
そういって、そのとき、詩織はほほえんだ。
「はははっ。詩織ちゃんに対しては、
素直になっちゃうのかな?おれって!」
信也は、照(て)れて、わらった。
詩織が、1994年6月3日生まれ、19歳(さい)、
信也が、1990年2月23日生まれで、23歳。
詩織は、3年と、4か月ほどの、年下なのだけど、
おしゃべりが大好きで、明るいから、友だちも多い、
詩織は、信也の心を、落(お)ちつかせる。
詩織は、おしゃべりが好きだけど、
グレイス・ガールズのリーダーの、
清原美樹についての話は、
あえて探(さぐ)るような、
嫌(いや)みになるような、
信也に、不快な思いを与えるようなことは、
まったく、話題にしない。
詩織は、おれの心の傷に、触(ふ)れないように、
してくれているんだな・・・。
そんな詩織の優(やさ)しさに、また、
愛(いと)おしさを感じる、信也だった。
シャワーを浴びて、バスタオル1枚だけの、
まだ、しっとりと、濡(ぬ)れて、
ピチピチと、弾(はず)むような、
詩織のからだを、
信也は、そっと、抱きしめる。
しっとりと、まだ濡(ぬ)れている、
つややかな髪(かみ)や肌(はだ)からは、
レモンの、心地(ここち)よい、香(かお)りがした。
「しんちゃん、シャワーは?」
「じゃあ、おれもシャワーしてくる。そのあいだに、
詩織ちゃん、帰っちゃったりして」
「そんな話(はなし)、どこかで、聞いたことある!」
あっはっはと、声をたてて、ふたりはわらった。
詩織は、その夜、はじめて、信也に抱(だか)かれた。
詩織にとっては、信也が、初めての相手であった。
信也は、酔っているのに、ベッドの上では、
終始(しゅうし)、気をくばって、
詩織には、ていねいで、やさしい。
信也には、詩織にとっては、
これが、初めの経験とわかっているらしい。
照明(しょうめい)を暗(くら)くした部屋(へや)には、
詩織(しおり)が見つけた、マライヤ・キャリーのCDの、
マイ・オール(My All)のリピートが、
小さな音量で、流(な)がれ、つづける。
今宵(こよい)は、あなたの愛と引き換(ひきか)えに、
すべてを捨(す)てる
あなたの愛(あい)と引き換えに
すべてを捨(す)てるわ
そんな歌詞のバラードの名曲であった。
≪つづく≫
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (1)
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (1)
ライブ・レストラン・ビートの店長の、
佐野幸夫(さのゆきお)と、佐野と、なかよく、つきあい始めて、
1年くらいの、
真野美果(まのみか)の誕生日のお祝(いわ)いを、
森隼人(もりはやと)の家(うち)で、することになった。
誕生会には、森川純や川口信也とか、20人くらいが集まる。
先日の8月24日の土曜日に、
下北沢駅南口から、徒歩(とほ)で3分の、
ライブ・レストラン・ビートで、
特別ライブ・サザンオールスターズ・祭(まつ)りがあった。
ライブが終わって、打ち上げの飲(の)み会をしているときに、
「おれの家(うち)でいいからさ、
幸夫(ゆきお)ちゃんの 誕生日のお祝(いわ)いしようよ!」
と、森隼人(もりはやと)が、いいだしたのだ。
佐野幸夫は、9月16日が 30歳の誕生日であった。
そのとき、佐野幸夫のとなりにいた、
佐野と仲のよい真野美果(まのみか)の誕生日も、
10月10日だったので、
「それじゃあ、お二人(ふたり)のお祝いを!」
ということで、話は決まったのであった。
9月7日の土曜日の午後1時ころ。
このところ、雨もたまに降(ふ)る、
不安定な天候(てんこう)ではあるが、
暑(あつ)いくらいな、晴天(せいてん)である。
佐野幸夫(さのゆきお)は、真野美果(まのみか)と、
小田急線(おだきゅうせん)の、
代々木上原駅(よよぎうえはらえき)南口(みなみぐち)から、
駅の利用客たちの波の中に、現(あらわ)れる。
代々木上原駅は、東京都渋谷区西原3丁目にあり、
小田急電鉄と、東京地下鉄(東京メトロ)の駅であり、
2013年、
1日の平均乗降人員は約23万人と、
小田急線内では、新宿駅、町田駅に 次(つ)いで、3番目に多い。
「この駅は、ついつい 高校のころを思い出しちゃうね。
みかちゃん!」
179センチ、長身の、佐野幸夫が、
となりの 真野美果(まのみか)にほほえんだ。
「そうよね!わたしも、懐(なつ)かしくなっちゃう!」
美果は、幸夫と 目を合わせて、ほほえんだ。
真野美果(まのみか)の身長は、163センチ、誕生日は、
10月10日で、25歳になる。
清純(せいじゅん)な 整(ととの)った顔立(かおだ)ちで、
つややかな髪は、肩にかかるほどである。
佐野幸夫と 真野美果のふたりは、代々木上原駅・南口から、
歩いて、5分くらいの、
都立代々木高校の定時制に、通(かよ)っていた。
正確には、代々木高校に通っていた期間は、
佐野幸夫は、1998年から2002年の4年間であったが、
真野美果(まのみか)は、2003年から2004年までの、
1年間だった。
代々木高校は、2004年3月には、閉校(へいこう)となった
からであった。
2004年4月からは、代々木高校は、
世田谷区北烏山(きたからすやま)にある
東京都立・世田谷(せたがや)・泉(いずみ)高等学校として、
統合(とうごう)されて、
自由な、三部制のシステムは、そのまま、引(ひ)き継(つ)がれた。
アクセス(access 交通の便)は、駅からの距離など、
代々木高校の、倍以上はかかったが、
真野美果(まのみか)は、2年生から卒業まで、
世田谷・泉(いずみ)高等学校に通(かよ)った。
定時制の4年間を、佐野幸夫と 真野美果は、
同じように、勉学と仕事の両立に、悩んだりしながら、
中退も考えたことがあったが、
がんばって、無事(ぶじ)に卒業したのだった。
佐野も美果も、芸能事務所に、所属(しょぞく)して、
子どものころからの夢の、
タレント活動をつづけながら、
自由な校風(こうふう)の定時制、3部制の高校生活を楽しんだ。
代々木上原駅から、徒歩で5分くらいの、
いまは閉校(へいこう)の代々木高校は、
働きながら、学ぶために設立された、
公立の定時制高校で、一般の人たちに限らず、
交通の便(べん)のよいこともあって、
アイドルやタレントにも人気があった。
全国でも珍(めずら)しい、午前・午後・夜間の
三部制(さんぶせい)の交替部(こうたいぶ)というのがあって、
都合のよい好きな時間帯を選んで、授業を受けられた。
年齢や経歴などは、自由で、さまざまな生徒が集まり、
芸能人も特別扱(あつか)いしなかった。
校則はなく、制服もなく、自由な校風であった。
在籍していた女優では、原田美枝子、西川峰子、浅野温子、
藤谷美和子、鈴木蘭々たちがいた。
SPEEDの上原多香子やモーニング娘の飯田圭織も通っていた。
SMAPの中居正広と木村拓哉も在籍(ざいせき)していた。
現在、佐野幸夫は、俳優になる夢を 諦(あきら)めた
わけではないが、
タレントの仕事はやめて、モリカワの社員として、
下北沢の、ライブ・レストラン・ビートの店長をしている。
真野美果(まのみか)は、芸能事務所に所属しながら、
タレントとして、
コツコツと、女優や声優の仕事をしている。
小田急線(おだきゅうせん)の 代々木上原駅(よよぎうえはらえき)
南口(みなみぐち)から、
気をつけて見ると、微妙(びみょう)に、
ゆるやかな勾配(こうばい)の多い道を、5分も歩くと、
森隼人(もりはやと)の家(いえ)がある。
≪つづく≫
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (2)
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (2)
9月7日の土曜日の午後1時。
空は 気持ちよく晴(は)れている。
「美果(みか)ちゃん。経営の不振(ふしん)で、
閉店(へいてん)を考えていた店が、その後(ご)、
25年間で、売上1000億円って、やっぱり、すごいよね!」
代々木上原駅(よよぎうえはらえき)
南口(みなみぐち)を出ると、
佐野幸夫(さのゆきお)は、
真野美果(まのみか)に、そういった。
「25年間で、売上(うりあげ)1000億円って、
森ちゃんのお父(とう)さんの会社のこと?」
「そう、森ちゃんちの、フォレスト(Forest)のこと」
「へー、そうなんだ!フォレスト(Forest)じゃぁ、
わたしも、CDとか、借(か)りるときあるわ」
美果(みか)はそういって、佐野にほほえむ。
佐野は、ちらっと、美果の、裾(すそ)がひろがる、
ブラックの フレア・スカートに 目が向(む)く。
美果の肢(あし)って、きれいだよな、
さすが、女優(じょゆう)さんだよ。いつも佐野はそう思う。
「えーと、美果(みか)ちゃん。
うちのモリカワが、先月の8月、
総店舗数(そうてんぽすう)、200店を達成して、
売り上げが、400億になったんだけど。
えーと、
モリカワの目標は、5年間で、1000店舗でさあ、
それはちょっと 無理(むり)だとしても、
5年後には、700店舗くらいは達成できるとして、
売上(うりあげ)1400億くらいはいくだろうなって。
そんなわけで、
森ちゃんとこも、すごい 成長力だけど、
おれらの、モリカワもすごいなって、思うんだ」
「ほんとうね。森ちゃんちと、森川さんちって、
やっている 業種(ぎょうしゅ)が違うから、
いまも仲(なか)はいいけど、
同じ業種だったりしたら、どうなっていたかしらって、
思うわよね」
「まったくだよ」といって、佐野幸夫(さのゆきお)は わらう。
真野美果(まのみか)も わらった。
ふたりは、青信号になるのを見ながら、
国道413号、
井の頭通(いのがしらどお)りの交差点を 渡(わた)る。
「このへんは、静(しず)かな住宅街だね」と、佐野幸夫はいう。
「下北(しもきた)もいいけど、このへんも、いいよね。
いつか、わたしたちの、
マイホームが、このへんなんていうのも、いいわよね」
と、真野美果(まのみか)は、佐野を見て、ほほえむ。
片側一車線、制限速度30キロの、通学路と書かれた、
黄色(きいろ)い
標識(ひょうしき)のある道を、ふたりは、南へ、歩く。
道の左側(ひだりがわ)に、7段の石段のある、
渋谷区上原公園があって、緑(みどり)も豊かだ。
ブルーやピンクのベンチがいくつも置(お)いてある。
そのすぐそば、右側には、中学校の正門があって、
小学校も、道の左方面の、すぐ近くにあった。
このあたり、上原3丁目には、
古賀政男音楽博物館(こがまさお おんがく はくぶつかん)
がある。
古賀 政男は、昭和期の代表的作曲家、ギタリストで、
国民栄誉賞受賞者(こくみん えいよしょう じゅしょうしゃ)
である。
代々木上原は、作曲家古賀政男が1938年(昭和13年)に、
移(うつ)り住(す)んだ 街(まち)であった。
古賀政男は、音楽創造に 邁進(まいしん)する 同志(どうし)を
集めて、代々木上原(よよぎうえはら)に、
音楽村をつくろうという 構想(こうそう)を持っていた。
古賀政男音楽博物館は、そんな古賀政男の 遺志(いし)を
引き継(つ)いで、誕生した、大衆音楽の博物館である。
≪つづく≫
☆発行者:いっぺい
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (3)
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (3)
佐野幸夫と、真野美果(まのみか)が 通(かよ)った、
2004年3月に 閉校(へいこう)の、
定時制 ・ 代々木高校は、
このへんから、国道413号、井の頭通り沿(ぞ)いに、
新宿方向の東へ、3分も歩いた場所にある。
いまから、佐野幸夫(さのゆきお)と、
真野美果(まのみか)の誕生日のお祝いとして、
ホームパーティーをする、
森隼人(もりはやと)の家(いえ)は、
上原中学校の南側、上原3丁目にある。
「森ちゃんの家(うち)は、フロア、
2つ分(ふたつぶん)の大きなホールがあって、
パーティや、
親父(おやじ)さんがやっている会社 フォレスト(Forest)の、
幹部会議を開(ひら)いたり、
仕事関係の撮影会などに使っているんだってさ」
「森ちゃんの親父(おやじ)さんも、すごいよね。
家業(かぎょう)のレコード店が、経営不振になっていて、
閉店を考えていたけど、
森ちゃんの親父(おやじ)さんが、23歳のとき、
業態(ぎょうたい)を、レンタル店に変えて、再出発。
それが、大当(おおあ)たり、大盛況(だいせいきょう)。
いまでは、全国に300店舗だっていうからね」
「森隼人(もりはやと)さんも、お金持ちだからか、
プレイボーイとか、悪くいう人がいるけど、
わたしたちの誕生パーティーやってくれるなんて、
全然(ぜんぜん)、悪い人じゃないし、
性格のいい人だわよね」
「森昭夫さんは、真っ正直(まっちょうじき)な人らしいからね。
森ちゃんも、
親父(おやじ)さんの性格を継(つ)いでるのかもね。
森ちゃんン自身は、
どこか、反抗的な、
不良を気どっているようなところもあるけど」
「そうよね。そういえば、森ちゃんって、
俳優は、ジェームズ・ディーンが、好きだっていっていたわ」
「はっはは。実は、おれも、ジェームズ・ディーンは、
憧(あこが)れてたことあるよ。
でも、俳優になろうって思ったのは、やっぱり、
演技(えんぎ)で笑いのとれる、
コメディのできる俳優の影響かな?
チャールズ・チャップリンや、ジャック・レモンのような」
「幸夫ちゃんなら、いつかきっと、そんな役者になれるよ」
そういって、ほほえむ、真野美果(まのみか)の
細(ほそ)い肩(かた)を、
佐野幸夫(さのゆきお)は、
「そうかな!?」といって、引き寄(よ)せた。
「わたし、森ちゃんのお姉さんの留美(るみ)さんに会うのが、
すごく楽しみなの!
お料理が上手で、きょうのパーティーのお料理も、
留美さんが、作ってくれてるっていうし。
それに、留美さん、
美容師になったばかりなんでしょう。
お会いするのが楽しみだわ。
留美さん、21歳だから、
わたしより、4つくらい年下なんだけど」
「留美さんって、若いのに、しっかりした人らしいよ。
留美さんが、美容師になったからなのか、
フォレスト(Forest)では、美容院の事業を、
全国展開するらしいから」
「そうなんだぁ、それもすごいね!」
午後の1時10分ころ。
佐野幸夫と真野美果は、森隼人の家の玄関前に着(つ)く。
家は、西欧風(せいおうふう)のデザインで、
オレンジ系のシックな色合(いろあ)いの
瓦屋根(かわらやね)に、
明るいベージュの、天然石(てんねんせき)の
風合(ふうあ)いの外壁、
落ち着いた雰囲気(ふんいき)の玄関(げんかん)であった。
玄関は、車イスの人でも、開閉(かいへい)しやすい、
引戸(ひきど)で、
スロープ(勾配)を設(もう)けて、バリアフリー設計になっている。
建築面積は、660平方メートル、200坪で、
敷地面積は、1320平方メートル、400坪であった。
敷地には、森家の住居の北側には、
株式会社 フォレスト(Forest)の本社ビルがあって、
クルマ12台分の駐車場もあった。
「いいなあ、いつか、美果(みか)ちゃんと、
こんな家で、のんびり暮らしたいね!」
「そうね」
佐野幸夫は、玄関のテレビ・ドアホンの
チャイムのボタンを(お)押した。
≪つづく≫
発行者:いっぺい
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (4)
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (4)
「美果(みか)ちゃん、このポスト、
なんか、門番みたいで、
ユーモラス(humorous)だよね」
そういって、佐野幸夫(さのゆきお)は、
森隼人(もりはやと)の家の 玄関前にある、
その全体が ダーク・グリーンの 郵便ポストを見る。
「そうね、ジブリの映画に出てきそうな、ポスト!
こういうのって、ヨーロッパにあるのよね」
真野美果(まのみか)は そういって、ほほえむ。
そのポストは、長方形の上に、半円を加(くわ)えた、
シンプルなフォルムの箱型をしていて、
2本の金属製の細長(ほそなが)いポール(棒)を、
両足のようにして、
緑(みどり)の芝生の上に立っている。
クリーム色の 引戸(ひきど)の玄関ドアが開(ひら)く。
「こんにちは。幸夫(ゆきお)さん、美果(みか)さん。
さあ、どうぞ、お待ちしておりました。
もう、みなさんも、お集まりですよ!」
満面(まんめん)の笑(え)みで、森隼人(もりはやと)がいう。
「こんにちは!」といって、
隼人(はやと)の姉の留美(るみ)も、
あたたかく 出迎(でむか)える。
隼人は 11月で19歳、
姉の留美は 7月に21歳になったばかり。
幸夫は 9月に30歳になったばかり。
美果は 10月で25歳になる。
玄関ホールは、8畳ほどあって、広い。
フロアの正面には、スリット 階段が見える。
みんなの靴(くつ)が、きれいに並(なら)んである。
靴箱(くつばこ)の上や、床(ゆか)には、
日陰(ひかげ)に強い、観葉(かんよう)植物の、
アイビーやアスパラガスやユッカやパキラがある。
上(あ)がり口(くち))の、右の壁(かべ)に、
高さ 2mくらいの大きな鏡(かがみ)があった。
床(ゆか)は、うすくて 明るい ベージュ(茶色)の
羊毛(ようもう)のような色で、
内壁(うちかべ)は、ホワイト系だった。
森隼人は、フロア 2つ分(ふたつぶん)の 大きなホールの
リビングに、
佐野幸夫と真野美果を 案内(あんない)した。
「お誕生日、おめでとう!」という、みんなの大きな声と、
パン!パン!パーン!と、
無数の クラッカーの 爆発音が 鳴りひびく。
リビングは、カーテンで 日光が遮(さえぎ)られて、
いくつもの フロア・ライトの照明(しょうめい)と、
各(かく)テーブルの上の
ガラスの器(うつわ)に入れた キャンドルの明かりだけだ。
麻(あさ)のオレンジ色の、テーブルクロスを 敷(し)いた、
7卓(たく)の 四角(しかく)い 4人掛(が)けの
テーブルの上には、料理や飲み物も用意されている。
「みんな、どうもありがとう!」 と 佐野幸夫は
ちょっと 感激に声をつまらせて、いう。
「ありがとうございます」 と 真野美果もいう。
どこに、だれがいるのか、明(あ)かりが
薄暗(うすくら)いので、よくわからなかったが、
すぐに 目も 慣(な)れた。
≪つづく≫
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (5)
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (5)
「こんなすばらしい誕生日をしてもらえるなんて、
生まれて初めてで、感激しています!」
と佐野幸夫は、まためずらしく、声をつまらせる。
「夢を見ているように、ロマンチック(romantic)で、
涙が出ちゃいそうです」
真野美果は、そういいながら、ハンカチで目をおさえた。
「きょうは、わたし、幸夫さんが大好きだというので、
キッシュをつくったんです!
キノコとホウレンソウとアスパラガスとポテトを入れて、
生クリームやベーコンもたっぷりの!」
ほほえんで、そういうのは、森隼人の姉の留美である。
「ありがとう、留美ちゃん。おれの好きなものまで、
特別に、作ってくれるなんて、
おれの忘れることのできない誕生日になりますよ!」
キッシュは、フランス・ロレーヌ地方に伝わる郷土料理で、
サクサクの、パイの生地(きじ)に、
生クリームと卵でつくる生地(きじ)を、流しこみ、
それに、季節の野菜やベーコン、魚介類などの、
好(この)みの具(ぐ)を加え、
オーブンで、じっくり、焼(や)きあげたもので、
生地(きじ)ごと、三角形に切って、皿(さら)に盛(も)る。
ひとしきり、大感激(だいかんげき)の、幸夫と美果を、
森隼人が、テーブルの席に 案内する。
森隼人は、みんなにむかって、一礼すると、挨拶をはじめた。
「みなさま、お忙(いそが)しいなかを、
本日は、お集(あつ)まりいただき、ありがとうございます。
ただいまより、佐野幸夫さん、真野美果さんの
誕生パーティーを開きたいと思います。
司会は、僭越(せんえつ)ではございますが、いいだしっぺの、
森隼人が、務(つと)めさせていただいきます。
誕生日は、
どなたにも、年に、1回は訪(おとず)れるものでして、
毎年、1つ歳(とし)とることは、いやな感じもありますが、
この世に生まれてきたことを、
みんなで、おたがいに、お祝(いわ)いしましょうという、
誠(まこと)に、
心あたたまる、すばらしい人生のフェスティバル
(祝祭)だと思います。
本日は、心ゆくまで、楽しんでいただきたいと思いまして、
生(なま)ビールやワインなどの、お飲み物や、
お料理も、ご用意させていただきました。
ぜひとも、この貴重な、お時間を
明日への英気といいますか、元気のもとに、
したいただければと思います!」
みんなから、拍手(はくしゅ)がわきおこる。
パーティーの参加者は、都合(つごう)がつかなくて、
不参加といっていた人も、参加できて、
20人以上が集まった。
すべて、恋愛進行中という、カップルであった。
森隼人と交際中の、山沢美紗(やまさわみさ)や、
森川純(もりかわじゅん)と 菊山香織(きくやまかおり)、
川口信也(かわぐちしんや)と 大沢詩織(おおさわしおり)、
岡林明(おかばやしあきら)と 山下尚美(やましたなおみ)、
高田翔太(たかだしょうた)と 森田麻由美(もりたまゆみ)、
清原美樹(きよはらみき)と 松下陽斗(まつしたはると)、
小川真央(おがわまお)と 野口翼(のぐちつばさ)、
矢野拓海(やのたくみ)と 水島麻衣(みずしままい)、
平沢奈美(ひらさわなみ)と 上田優斗(うえだゆうと)、
岡昇(おかのぼる)と 南野美菜(みなみのみな)、
谷村将也(たにむらしょうや)と 南野美穂(みなみのみほ)、
北沢奏人(きたざわかなと)と 天野陽菜(あまのひな)。
≪つづく≫
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (6)
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (6)
「えええ!? よく考えると、カップルの、ご両人ばかり
だよね、みなさん。おれもだけど。あっはっは」
と 大声で、わらったのは、早くも、生ビールで ほろ酔いの、
谷村将也であった。
「まあ、これもまた、祝福すべき出来事さ!人生なんて、
恋愛中か、失恋中か、無風状態かの、
3つの中のどれか1つなのだろうしね」
そういったのは、おいしそうに、生ビールを飲むのは、
北沢奏人(きたざわかなと)だった。
奏人(かなと)は、株式会社モリカワの本部で、
副統括(ふくとうかつ)シェフ(料理長)をしている。
奏人(かなと)は、今年の12月で25歳になる。
交際中の天野陽菜(あまのひな)は今年の2月で
22歳だった。
「おれも、今年の春ころは、まだ、無風状態だったけど」
そういって、奏人は、となりの陽菜を見て、ほほえんだ。
陽菜も、ほほえむ。
「もうひとつ、おもしろいことがあります!
お酒が飲めない人は、未成年だけで、
みんな、お酒が大好きな人たちばかりです!」
そういったのは、岡昇(おかのぼる)であった。
「そういえば、そうだな!」とかいって、みんな、わらった。
お酒が飲めない、20歳(はたち)前は、
1994年12月5日生まれの岡昇(おかのぼる)と、
1994年6月3日生まれの大沢詩織(おおさわしおり)と、
1994年10月2日生まれの平沢奈美(ひらさわなみ)の、
3人であった。
「じゃあ、岡ちゃん、詩織ちゃん、奈美ちゃん、
もし、20歳(はたち)になったら、
お酒は飲みますか?」
と、酔って、いい気分の、森川純(もりかわじゅん)が、
そう聞いた。
「はーい、飲みます」
「だって、みなさん、お酒飲んでるときって、
ほんとうに、楽しそうなんだもの!」
「お酒飲むって、オトナの特権って感じだし!」
などと、3人は答える。
みんな、また、わらった。
「お酒は、二日酔いとかあって、リスクもあるけどね」
そういったのは、生ビールで、上機嫌(じょうきけん)の、
川口信也(かわぐちしんや)だった。
「なんでも、そうだけど、つい、過度(かど)に、
飲みすぎたりしてしまえば、薬も毒になるってこと
なんだよね。
オトナになっても、そんな単純なことが
コントロール(管理)できるまでには、
何年、場合によっては、何十年もかかるものなんだよ」
というのは、高田翔太(たかだしょうた)だった。
「そうなんだよね、翔(しょう)ちゃん、
単純なことを、理解できないで、
10年くらいを、過ごしてしまうなんて、
よくあることですよね。
それが凡人(ぼんじん)なんでしょうかね」
佐野幸夫が、となりの席の翔太に、
そう語(かた)りかけた。
「幸(ゆき)さんに、おれが、講釈(こうしゃく)できる
わけもないですけど、
あの楽聖のバッハが、
2、3%は才能、あとは、97%の厳しい練習で決まる、
といっているんですが、
努力の差で、違ってくるのかなって、
おれも、そんな気がするんですよ。
よく、天才は、努力する才能だとかって、いいますものね」
そんなことを翔太はいった。
「そうですね。10年間、気づかないとかって、
努力が足(た)りないだけかもしれないですよね」と幸夫。
「おれは、努力のほかに、集中力が違うような気がします。
何かを成しとげるときの、集中力の違いが、
天才と凡人では、違うような・・・」
といったのは、矢野拓海(やのたくみ)であった。
拓海は、早瀬田(わせだ)大学、理工学部、3年生。
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の幹事長で、
音楽家 モーツァルトを、尊敬(そんけい)している。
≪つづく≫
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (7)
20章 店長・佐野幸夫の誕生会 (7)
「結局は、どれほど、それが好きかということに
なるのかもしれないなあ」
つぶやくように、佐野幸夫がそういうと、
その話を聞いていた、みんなは「そうだね」とか
「うんうん」とかいって、賛同(さんどう)する。
「なんか、男の人って、むずかしいお話が、
お好きよね。
ねえ、幸夫(ゆきお)さん、
キッシュのお味は、いかがでしょうか?」
森留美(もりるみ)が、佐野幸夫のそばに来て、
そう聞いた。
「あ、留美さん、ほんとうにありがとうございます。
キッシュは、おれ大好きでして、
こんなにおいしい、キッシュは初めてです。
もう最高です。
さっきから、もう感激してばかりです」
「よかったわ!わたしも うれしいです。
料理って、おいしいとか、よろこんでいただければ、
それだけで、つくって、よかったって、いつも思うんです」
幸夫と留美の、笑顔でかわす 会話を聞きながら、
森川純(もりかわじゅん)が、
となりの席の森隼人に、話しかけた。
「隼人さん、お姉さんの留美(るみ)さんは、
美容師の免許を、ストレートで、
取得(しゅとく)されたそうですね。
あらためて、おめでとうございます」
「ありがとうございます。純さん」
「フォレスト(Forest)の、美容院の事業の、
全国展開する計画は、
順調に進んでいるんですか?」
「ええ、順調にいってます」
「これからの時代は、事業の業態の多角化は、
必要不可欠かもしれませんからね。
うちの、モリカワでも、業態は、常に、
広(ひろ)く、やっていこうという戦略なんです」
「なんというのでしょうか。この競争社会では、
業績の横這(よこば)いとか、
売り上げや利益に、変動のない状態が続くことだけでも、
企業の衰退ということになってしまいますからね。
まるで、際限(さいげん)のない、
利益の追求をしていかなくちゃならないのって、
どうかしているとは思うんですけど。
まあ、利益追求のこともあって、
業態の多角化は、必然的になるんでしょうかね。
まあ、留美ちゃんが、
美容院の全国展開をしたいという夢もあるんですが、
そんなわけで、計画を実施しているんです」
「あの、ドラッカーも、利益は企業の目的ではなく、
存続の条件であり、
明日(あす)、もっとよい事業をするための条件だと
いっていますよね。
しかし、実際には、条件とされるほうが、
目的とされるよりも、きついわけですよ。
また、ドラッカーは、『たとえ、天使が、社長になっても、
利益には、関心をもたざるをえない」とも
いったりしていますよね」
「なるほど、ドラッカーのいう通りかもしれませんね。
幸(さいわ)い、うちのフォレストと、モリカワさんでは、
企業の目的という点で、共感をもちあえていて、
社長同士の交流も、純さんとおれとの
親睦(しんぼく)などもあって、
場合によっては、共同戦線をはろうというところまでの、
意見の交流もしていると思うのですが・・・」
「そのとおりだよね。森ちゃん、これからも、
よろしく頼(たの)むよ。
この弱肉強食の社会、格差(かくさ)の広がる社会、
どこか、ゆがんだ、社会を、なんとか修正して、
なんとか、暮らしやすい、理想的な世の中を、
つくっていこうという、目的では、
社長たちを、はじめとして、
おたがいに、一致しているんだから、
こんな心強い、同志の企業の仲間も、
なかなか、ないものですよ」
「純さん、こちらこそ、よろしくお願いします。
そうですよね。同志のようなものですよね。
幕末の薩長同盟みたいなものでしょうかね!」
森隼人がそういうと、森川純と、ふたりで、わらった。
森留美が、キッチンから、留美がつくった
バースデイ・ケーキを運(はこ)んで来(く)る。
イチゴが、たくさん盛られている、
生クリームのケーキで、
ホワイトチョコレートの板には、
『幸夫(ゆきお)さん&美果(みか)さん、
お誕生日おめでとう!』と書かれてあった。
「わあ、かわいいケーキ!」
「留美さんが、つくったの?すごい」
そういいながら、女性たち、13人全員が、
ケーキのまわりに、集まった。
森留美(もりるみ)、山沢美紗(やまさわみさ)、
菊山香織(きくやまかおり)、大沢詩織(おおさわしおり)、
山下尚美(やましたなおみ)、森田麻由美(もりたまゆみ)、
清原美樹(きよはらみき)、小川真央(おがわまお)、
水島麻衣(みずしままい)、平沢奈美(ひらさわなみ)、
南野美菜(みなみのみな)、南野美穂(みなみのみほ)、
天野陽菜(あまのひな)。
いったん、カーテンを開けて、フロアを明るくすると、
ケーキを切る前に、記念写真を、みんなで撮(と)った。
そのあとは、流していた BGMを止めて、
各自が、持ち寄っていた楽器とかで、
気軽な演奏や、歌で盛(も)りあがった。
そして、パーティーは、8時ころに、終わった。
≪つづく≫ ーーー 20章 おわり ーーー
21章 G ‐ ガールズ の レコーディング (1)
21章 G ‐ ガールズ の レコーディング (1)
9月21日の日曜日。
空は晴天で、最高気温は29度くらいである。
グレイス・ガールズ (愛称、G ‐ ガールズ)の
初めてのアルバムのレコーディングは、
あと 1曲を 仕上(しあ)げる、
最終段階(さいしゅうだんかい)を 迎(むか)えていた。
レコーディング・スタジオ・レオは、
下北沢駅 南口から、
マクドナルドが 左角(ひだりかど)にある、
南口商店街を、歩いて、3分の、
高層ビルの 7階にある。
ビルは、1962年に 創業(そうぎょう)の、
東京でも屈指(くっし)の音楽 総合 専門店、
島津 楽器店の本店であった。
ビルの地下は駐車場、1階から6階までのフロアは、
楽器、楽譜、音楽・映像ソフト(CD・DVD)などを、
充実(じゅうじつ)して揃(そろ)えてある。
「すてきな、見晴(みは)らしね、ここは・・・」
そういって、リードギター担当(たんとう)の、
水島麻衣(みずしままい)は、
ヴォーカルとリズムギターの、
大沢詩織(おおさわしおり )に ほほえんだ。
「うん、わたし、このスタジオが大好き。
レコーディングの休憩(きゅうけい)が、
こんなに、見晴(みは)らしのいいフロアで
できるなんて、最高よね!」
と 大沢詩織も、水島麻衣にほほえんだ。
「たいがい、スタジオといったら、地下にあったりね。
こんなに 広(ひろ)くて、大きな窓(まど)で、
レコーディングの休憩(きゅうけい)に、
外(そと)の景色(けしき)が 眺(なが)められるのって、
東京でも、なかなか 無(な)いよね」
そういうのは、キーボードの担当、バンド・リーダーの
清原美樹(きよはらみき)だった。
アルバム制作の 休憩のための、
ミーティング・ロビーは、リフレッシュ できるようにと、
とても快適な空間であった。
コーヒーやお茶やジュースなどが用意されてあり、
サンドウィッチなどの軽食もとれた。
ドリンクの自販機も置いてある。
「下北(しもきた)の駅って、
これからどうなっちゃうのかしら?」
ベースギター・担当、1年生の
平沢奈美(ひらさわなみ)は みんなに そういった。
「わからないわ。
あそこの、駅舎(えきしゃ)の跡地(あとち)や、
踏切(ふみきり)があった空き地なんかは、
どうなるのかしらね」
ドラムスの菊山香織(きくやまかおり)が
下北(しもきた)の駅を見ながら、そういう。
「高層(こうそう)ビルが建(た)つとか、
大きな道路ができるとか聞いたことがあるよ。
うちの、美咲(みさき)ちゃんがいっていたわ」
清原美樹はそんな話をした。
「そうなると、土地の価格も上昇して・・・、
実際、2年ほど前まで、一坪(ひとつぼ)あたり
750万円の土地が、いまでは1500万円くらい
だっていうもの。これって、
お金が、あり余(あま)って、行(ゆ)き場を 求めて起こる、
バブルよね。
こうなると、テナント料なんかは、上(あ)がるだろうから、
個人経営のお店は、
テナント料の支払(しはら)いが 大変(たいへん)になって、
立ち退(の)くという、
ケースも出てくるかもしれないらしいのよ。
そのかわりに、高級なブランドショップとかができて、
渋谷や新宿や池袋のような街(まち)に
大変身してしまうのかなあ!」
そういって、清原美樹(きよはらみき)は
困(こま)ったような顔をした。
≪つづく≫
21章 G ‐ ガールズ の レコーディング (2)
21章 G ‐ ガールズ の レコーディング (2)
「それじゃあ、駅の再開発には、反対の人も多いわけね。
歩いて楽しめる街(まち)とか、
音楽や演劇とかで、若者文化の街のイメージのある
下北(しもきた)が、
高層ビルと、大きな道路で、おもしろみのなくなる
都市になっちゃうのかね。
おれなんか、朝から暗くなるまで、下北を、
何の目的もなくて、ぶらぶら、
ひとりで歩いたことあるもんね!それもけっこう楽しくて、
いまじゃいい思い出だし!」
早瀬田(わせだ)大学1年で、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の会計でもある、
岡昇がそういった。
岡は、パーカッションの担当で、アルバム作りに、
参加している。
「そうなんだ。岡くんって、下北の大ファンなんだね!」
と清原美樹が、ほほえんで、そういう。
「まあね、おれには、合(あ)っている街なんだね!」
何がおかしいのか、みんなで声をだして、わらった。
みんな、きょうは、アルバムの完成する日なので、
いつもと違(ちが)って、
特別に、お洒落(おしゃれ)もしているようである。
「ねえ、ねえ、あそこの、駅の 工事中の 壁(かべ) 見て!
誰(だれ)かが、男の子たちよね、3人で、路上ライブを
やっているわ。
あんな、音楽の、楽しい風景も、なくなっちゃうのかなあ」
そういっているのは、小川真央(おがわまお)である。
真央は、美樹と同じ、下北沢に住んでいる。ふたりは
幼馴染(おさななじ)みだ。
きょうは、G ‐ ガールズ、はじめてのアルバムが
完成する日なので、
そのお祝(いわ)いに 駆(か)けつけている。
G ‐ ガールズは、このアルバムで、
モリカワ・ミュージックから、メジャー・デビューをする。
ビルの7階の、レコーディング・スタジオ・レオは、
最新のデジタル・テクノロジー(技術)を揃(そろ)えていて、
一流アーティストやプロミュージシャ ンも利用していた。
プロ用レコーディングの業界最高の標準機器や、
最高のアナログ機材も 備(そな)えていて、
それぞれの機材は、作品に輝(かがや)きを与(あた)え、
音の繊細(せんさい)さを生(い)かすことができる
スタジオである。
代表取締役の島津悠太(しまづゆうた)は、1983年生まれ、
今年、8月で30歳である。
音楽大学の作曲学科を卒業すると、
株式会社・スタジオ・レオを設立(せつりつ)する。
音楽に対する情熱から、スタジオの経営に集中したい、
島津悠太(しまづゆうた)は、
島津楽器店を、父親である社長の、島津和也と、
次男の 裕也(ゆうや)に 任(まか)せている。
島津悠太(しまづゆうた)の努力と才能で、
楽曲制作だけでなく、オーディオ・エンジニアの仕事や、
レコーディング関係の仕事もふえている。
いまでは、レコード会社、CM制作会社、ゲームメーカー、
一流アーティストなど、
得意先(とくいさき)や顧客(こきゃく)の、
信頼(しんらい)も 篤(あつ)い。
今回、島津悠太(しまづゆうた)は、
自分の経験と勘(かん)からも、才能を感じる、
G ‐ ガールズのアルバム作りに、
プロデュースやオーディオエンジニアとして、
全力で、レコーディングに参加している。
午後の4時。
レコーディング・スタジオにいた、
島津悠太(しまづゆうた)と、モリカワ・ミュージックの
森川良(もりかわりょう)たちは、
G ‐ ガールズのメンバーたちが 寛(くつろ)ぐ、
見晴(みは)らしのよい、ミーティング・ロビーに現れた。
「お嬢(じょう)さんたち、それじゃあ、そろそろ、
もう1曲、がんばって、
アルバムを仕上(しあ)げましょうか?!」
少年のように、瞳を輝かせる、島津悠太(しまづゆうた)が
満面(まんめん)の笑(え)みで、そういった。
「はーい」と、みんなは元気に返事をする。
みんなは、明るい声を出して わらった。
≪つづく≫
21章 G ‐ ガールズ の レコーディング (3)
21章 G ‐ ガールズ の レコーディング (3)
島津(しまづ)楽器店の、ビルの7階にある、
レコーディング・スタジオ・レオの、
コントロール・ルームに、みんなは集(あつ)まった。
「あと、Runaway girl (逃亡する少女)で、アルバムも
完成するのね!うれしくなっちゃうわ!」
そういって、テンション(精神的な緊張)も 高いのは、
ドラムスの菊山香織(きくやまかおり)である。
彼女は、どこか、G ‐ ガールズの 雰囲気(ふんいき)を
盛り上げる ムード・メーカー のような、個性だった。
そんな菊山香織に、みんなはわらった。
アルバムは、全10曲で、下記のタイトルである。
1.Bowing in the sea breeze
(海風に吹かれて)
2.Furt by love
(愛は傷つきやすいから)
3.Sing a song of love
(愛の歌をうたう)
4.keep on dancing
(踊り続けてください)
5.Like the stars glitter
(星の輝きのように)
6.I believe love and live
(愛を信じて生きてゆく)
7.Don’t touch me anymore
(もう私にはさわらないで)
8.If I can live with you
(あなたと生きてゆければ)
9.Don’t wake up from my dream
(夢でもいいから覚(さ)めないで)
10.Runaway girl
(逃亡する少女)
コントロール・ルームは、天井も、3mと高く、
20人くらいは、ソファーでくつろげる、
約50帖(じょう)の広(ひろ)さであった。
レコーディングのための、司令室として、
コントロール・ルームでは、
トラッキング から マスタリング までの作業をこなし、
最高の クォリティー(品質)の作品を 創造できた。
レコーディングにおける、各(かく)チャンネルのことを、
トラック(track)というが、
そのトラック(track)で、複数の音を録音して、
サウンドを 構築(こうちく)していく 作業を、
トラッキング(tracking)という。
マスタリングは、曲の音質や音量の、多少のバラツキを、
整(ととの)えたり、曲の合間を 調整したり、
国際標準レコーディングコード(ISRC)などの情報を、
電子的に記録して、商品として、安全であるという
チェックをすることなどの作業をいう。
「Runaway girl (逃亡する少女)は・・・、
ギターとピアノの、
ソロのフレーズ(楽曲の、旋律の ひと区切り)が、
すごっく、いいよね!
印象が、すごく、甘美というか、ヒットするかもよ!」
どことなく、洗練(せんれん)された 紳士(しんし)の風格の、
島津悠太(しまづゆうた)が、
G ‐ ガールズのメンバーの全員に、そういって、わらった。
「悠太さんって、のせるのが、上手(じょうず)なんだもの!
でも、わたしたち、悠太さんのおかげで、自信を持って、
ここまで 来れたの かもしれないな」
そういうのは、バンド・リーダーの清原美樹(きよはらみき)だ。
「ここまで来れたのは、きみたちの強烈な個性のパワーが
あったからだよ。君たちの魅力で、ぼくも楽しかったもの!
きみたちは、ロックンロールの、天使のようだよ」
そういうと、悠太は、やさしく、微笑(ほほえ)んだ。
「うわー、うれしいわ!」
「うん、とても、感激しちゃう!」
と、声を大きくして、G ‐ ガールズの、5人の、
菊山香織(きくやまかおり)、大沢詩織(おおさわしおり )、
平沢奈美(ひらさわなみ)、清原美樹(きよはらみき)、
水島麻衣(みずしままい)たちは、大歓(おおよろこ)びする。
「おれも、来年は、アルバムを制作したいと思うので、
そのときは、ぜひ、悠太さんに、お願いしたいです」
美樹のとなりにすわる、松下陽斗(はると)が、
島津悠太(しまづゆうた)にそういった。
「陽斗さん、こちらこそ、よろしくお願います!
きっと、コンサートでの録音でも、スタジオ・ライブでも、
どちらにしても、すばらしい出来(でき)になりますよ。
ぜひ お任(おまか)せください!」
≪つづく≫
21章 G ‐ ガールズ の レコーディング (4)
21章 G ‐ ガールズ の レコーディング (4)
「悠太さんのスタジオのレコーディングは、
悠太さんのプロデュースは、もう抜群で、
才能やセンスは、最高なんだけど、
スタッフの、綾香(あやか)さんや
裕也(ゆうや)さんの お仕事も、
熟練(じゅくれん)というか、
正確で、的確なんですよね」
森川良(もりかわりょう)がそういった。
森川良は、モリカワ・ミュージックの課長で、
このアルバム制作の総指揮を担当している。
「ありがとうございます」と、
スタジオ・エンジニアの山口裕也(やまぐちゆうや)と、
スタジオ・マネージャーの沢木綾香(あわきあやか)は、
軽く、頭を下(さ)げて礼(れい)をする。
「悠太さんや、裕也さん、綾香さんたちのおかげで、
わたしのデビュー・アルバムも、質の高い作品になったのよね。
カバー曲ばかりのアルバムで、評判になるなんて
期待してなかったんですもの。ほんとうにありがとうございます」
そういって、微笑(ほほえ)むのは、森川良と交際している
ポップス・シンガーの白石愛美(しらいしまなみ)である。
すべて、マライア・キャリーの、歌のカヴァー(cover)という、
デビュー・アルバムが、世間(せけん)でも、人気となる。
愛美のかわいらしい容姿も、注目される要因であった。
「さあ、気合を入れて、Runaway girl (逃亡する少女)を、
仕上げましょうか!」
島津悠太(しまづゆうた)が、そういうと、
「はーい!」と、G ‐ ガールズのメンバーと、
パーカッションの岡昇(おかのぼる)はいう。
「岡ちゃん、作品の出来(でき)は、
岡ちゃんのパーカッションにかかっているからね!」
そんなこと、岡昇に、森川良がいう。
「えええー!、おれ、責任感じちゃいますよ!
でも、期待に応えられるように、がんばります!」
岡は、ちょっと、緊張(きんちょう)して、
素直(すなお)な少年のようにわらった。
そして、コントロール・ルームを出て、
ロビー(lobby)から、メイン・スタジオへ入った。
コントロール・ルームから、ガラス越(ご)しに見える、
50帖(じょう)の広さのメイン・スタジオに入ると、
さっそく、清原美樹たちは、演奏の準備を始める。
このスタジオの設計・施工は、イギリスの、
ビートルズで有名な、アビーロード・スタジオの
設計者に依頼したものであった。
長時間、スタジオで、仕事をしてもリラックスできる
空間のデザインになっている。
Runaway girl (逃亡する少女)は、16ビートの
アップ・テンポ(up tempo)なバラードである。
イントロ(序奏)は、水島麻衣(みずしままい)の
リード・ギターと、大沢詩織(おおさわしおり)の
サイド・ギターで始まる。
水島麻衣(みずしままい)の、甘い音色(ねいろ)の
ギターが鳴(な)った。
Runaway girl (逃亡する少女) 作詞 大沢詩織(おおさわしおり )
作曲 清原美樹(きよはらみき)
夜明け前 誰かに 追いかけられている 夢を見たの
つかまったりはしないけどね パジャマで 寝ていても
逃(に)げるのは クラス・メイトと 一緒だから だいじょうぶ
でも 追いかけられるのは こわいから 目がさめる
夢って 現実の 反映(はんえい)しているのかしら?
だって 現実の世界は こわいことや リスクも いっぱい!
こんな朝は ペットと お散歩すれば 気分も爽快(そうかい)
雲は白くて 空も 青く 晴れわたり 風も やさしいわ
うつくしい自然の中 鳥たちは 群れをつくって 飛んでゆく
うつくしい自然には いつも 危険も いっぱい あるけれど
鳥とか 獣(けもの)のように 花や 樹(き)のように
無垢(むく)な 心で 強く 生きてゆければ いいよね!
いつも 無垢(むく)なものたちと 生きたいよね?
いつも わたしは 逃亡する少女 かもしれないけれど
Would you like to live with pure things always?
(いつも 無垢(むく)なものたちと 生きたいよね?)
However I might be a runaway girl always.
(いつも わたしは 逃亡する少女 かもしれないけれど)
≪つづく≫ ーーー 21章 おわり ーーー
22章 メジャー・デヴュー・パーティ ー(1)
22章 メジャー・デヴュー・パーティ ー(1)
2013年10月13日の日曜日、午後2時。
今年は、台風も 多いのに、幸(さいわ)い
上空(じょうくう)は どこまでも 青(あお)い。
G ‐ ガールズ(グレイス・ガールズ)の
デヴュー・アルバム、 Runaway girl (逃亡する少女)の
完成と、メジャー・デヴューの、
祝賀(しゅくが)パーティーが 始まろうとしている。
下北沢駅南口から、徒歩で3分の、
ライブ・レストラン・ビート(通称・LRB)は、
1階フロア、2階フロアの、
280席、ほとんど 満席(まんせき)である。
みんなが 見つめるステージには、
店長の 佐野幸夫(さのゆきお)が立っている。
佐野幸夫の、おもしろい、MC(進行)は、
いつも、うける。
ステージは、間口(まぐち)が、約14メートル、
奥行(おくゆ)き、7メートル、
天井高(てんじょうだか)、8メートル、
舞台床高(ぶたいどこだか)、0.8メートル。
舞台の左には、グランド・ピアノや、
いろいろな楽器の 音色(ねいろ)の出せる、
シンセサイザーが 置いてある。
佐野が、マイクを片手(かたて)にして、スピーチをはじめた。
「やあ、みなさま!佐野幸夫でございます!」
会場からは、なぜか、それだけで、わらいがもれる。
「あ、もう、わらっていただけて、わたくしも、
夢は、コメディアン志望(しぼう)ですので、
まだ、希望はあると思いますので、
大感激(だいかんげき)でございます!」
そういって、佐野は、ハンカチで 涙をぬぐう マネをする。
「ええと。本日(ほんじつ)は、グレイス・ガールズの
祝賀(しゅくが) パーティに、お越(こ)しいただいて、
誠(まこと)に ありがとうございます!」
長身、179センチの 佐野が、そういって、
丁重(ていちょう)な 敬礼(けいれい)をすると、
拍手(はくしゅ)が わきおこる。
「みなさまには、先(せん)だって、
ご案内状を 送らせて いただきましたが、
その、ほとんどの、みなさまが、
本日は、ご来店してくださっております!」
「お祝(いわ)いに 駆(か)けつけてくださった、
お友(とも)だちの ミュージシャンのみなさまの、
すばらしいライブも、
たっぷりと ご用意(ようい)しております!」
「しかし、これは、成(な)りゆきですので、
ドタキャンもあるかもしれませんけど。
わたしがなんとか、がんばって、交渉してみます!」
そういって、頭をかく、佐野に、みんなは、わらった。
「もちろん、本日は、G ‐ ガールズのライブも、
たっぷりです!
最近、イー・ガールズ(E-girls)という
女性グループが、ヒット・チャートに登場してますよね。
G ‐ ガールズも、
デヴュー・アルバムは、本日発売ですので、
オリコン・チャートとかを、盛り上(もりあ)げるのは、
あと1週間先くらいでしょうか?
そのあと、全米(ぜんべい)ヒット・チャートも
盛り上げてくれたり。
あっはっは。
そんな、強気の、予想を、わたしはしています。
それでは、みなさま、
ぜひ、楽しいひとときを、お過ごしください!
それでは、お待たせしました!
グレイス・ガールズの みなさんです!」
≪つづく≫
22章 メジャー・デヴュー・パーティ ー(2)
22章 メジャー・デヴュー・パーティ ー(2)
G ‐ ガールズのメンバー5人が、フロアから見て、
ステージの右(みぎ)にある、控室(ひかえしつ)から、
大きな拍手の中、うれしそうに、元気な姿(すがた)で、
現(あらわ)れる。
清原美樹(きよはらみき)、大沢詩織(おおさわしおり )、
菊山香織(きくやまかおり)、平沢奈美(ひらさわなみ)、
水島麻衣(みずしままい)。
5人は、それぞれ、個性的な、普段着(ふだんぎ)で、
ステージ むけの ファッションではないが、かわいらしい。
「きょうは、わたしたち、グレイス・ガールズのために、
ご来店いただきまして、
ほんとうに、ありがとうございます!
もう、わたしたち、その感激で、
控室(ひかえしつ)にいるときから、
涙(なみだ)が 出たりしているんですよ・・・」
リーダーの 清原美樹(きよはらみき)が、すこし、
緊張(きんちょう)しているが、微笑(ほほえ)みながら、
キラキラと瞳(ひとみ)を輝(かが)かせて、
語(かた)りはじめる。
「メジャー・デヴュー しませんか?という お話を、
モリカワ・ミュージックの 森川良(もりかわりょう)さんから
いただいたのが、今年の7月の終わりころだったんです。
夢のような、すてきな お話で、信じられませんでした。
それから、まだ3カ月も たっていませんけど、
みなさまの強力なサポートに、支(ささ)えられながら、
本日、ファースト・アルバムも、発売することもできました!」
ライブ・レストラン・ビートの、高さ、8メートルの、
吹(ふ)き抜(ぬ)けのホールの、会場(かいじょう)は、
歓声(かんせい)や拍手(はくしゅ)につつまれる。
「アルバムを制作をしていた、この 1ヵ月間は、
まるで 夢を見ているように 幸せな 気分(きぶん)でした。
苦労もありましたが、充実(じゅうじつ)した 日々でした。
アルバムは、全部で、10曲です!
およそ1カ月間で、仕上(しあ)げることができました。
レコーディングの時間は、正味(しょうみ)で、
20時間くらいです!
日ごろから、練習に励(はげ)んでいましたから!」
そこで、また、感心する、ため息のような歓声と、
拍手がわきおこる。
「みなさまの、ご支援(しえん)が、あってこその、
G ‐ ガールズなんです!
ほんとうに、ありがとうございます!
あの、ビートルズは・・・、
ファースト・アルバムの、プリーズ・プリーズ・ミー
(Please Please Me)を、
正味(しょうみ)、10時間たらずで、
仕上(しあ)げたといいますから、
ビートルズには、かないませんでした!
ビートルズは、やっぱり、さすがだと 思います。
それに・・・、
ビートルズの、プリーズ・プリーズ・ミーは、
全部で、14曲あります。
やっぱり、ビートルズは天才ですし、偉大です!」
清原美樹は、そういって、ほほえんだ。
会場からは、惜(お)しみのない 拍手がつづく。
観客たちは、1階と2階のフロアのテーブルで、
ゆったりと 飲食(いんしょく)を 楽しみながら、
くつろいでいる。
「そうか・・・。ビートルズは、ファースト・アルバムを、
10時間で、仕上げたんだっけ?」
そんな話をするのは、モリカワ・ミュージック、課長、
今回のアルバム制作の、総指揮の、
森川良(もりかわりょう)である。
「ええ、そんな話は、ビートルズの専門誌で、
読んだことがあります。ビートルズも、
G ‐ ガールズも、ライブで、鍛(きた)えられた、
ロックバンドには、違(ちが)いないですが・・・」
と、語(かた)るのは、森川良の右(みぎ)どなりの
席の、レコーディング・スタジオ・レオの、
島津悠太(しまづゆうた)である。
悠太のとなりには、
悠太のスタジオの エンジニアの、山口裕也(やまぐちゆうや)、
そのとなりには、
スタジオ・マネージャーの沢木綾香(さわきあやか)もいる。
「彼女たちが、20時間で、レコーディングを、
完成させたことには、
正直(しょうじき)、超驚(ちょう おどろ)き、なんですよ。
わたし、
終始(しゅうし)、冷静を装(よそお)ってはいましたけど」
と、森川良に語りかける、
悠太が、声を出して、明るくわらった。
≪つづく≫
22章 メジャー・デヴュー・パーティ ー(3)
22章 メジャー・デヴュー・パーティ ー(3)
「実は、悠太さん、おれも、彼女たちには、
ビートルズの再来(さいらい)のような、あの爆発的な、
パワーというか、エネルギーというか・・・、
不思議というしかないような、
新鮮(しんせん)さを、感じているんですよ!
それで、自分のセンスを信じて、
メジャー・デヴューの話を、清原美樹さんに、してみたんです。
ほかの会社に、先を 越(こ)されては、
たまりませんからね。モリカワ・ミュージックも、
先手必勝(せんてひっしょう)が、社訓(しゃくん)ですし」
そういって、森川良も、声を出してわらった。
スポット・ライトも 華(はな)やかな、ステージの、
清原美樹が、会場のみんなに、語りかける。
「わたしたちに、どこまで、できるか、わかりませんが、
これからも、メンバー全員で、精いっぱいに、がんばります!
わたしたち、
G ‐ ガールズの音楽を、応援してくださる、すべてのみなさま。
早瀬田(わせだ)大学の、
先生のみなさま、学生のみなさま、
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)のみなさま。
株式会社・モリカワのみなさま。
株式会社・フォレスト(Forest)のみなさま。
島津 楽器店(しまづがっきてん)のみなさま。
今回、お世話になった、
レコーディング・スタジオ・レオのみなさま。
ほんとうに、ご声援や、ご支援を、ありがとうございます!
きょうは、精いっぱいの、パフォーマンスで、
みなさまに、楽しんでいただける、ライブをします!」
清原美樹が、そういって、挨拶(あいさつ)を終(お)えた。
会場は、拍手(はくしゅ)と、歓声(かんせい)が あふれる。
「彼女たち、第2の、ビートルズになるかもしれませんよね。
半分、冗談(じょうだん)で、半分、本気(ほんき)で、
わたしはいっているんですけどね。あっはっは」
島津悠太(しまづゆうた)は、楽しげに、そういって、
わらうと、1杯目(いっぱいめ)の生ビールを飲み干(ほ)した。
「悠太さん、モリカワの企業目的のひとつも、世の中に、良い変化を
もたらすことですから、彼女たちが・・・、
ビートルズのようなロックバンドに成長してくれるのなら、
それほど、うれしいことは、ちょっと、ないですね!」
そういうと、森川良は、ドライ・ジンがベースのカクテル、
マティーニを飲む。
森川良は1983年生まれ、12月で30歳。
島津悠太も、1983年生まれ、8月で30歳。
ふたりは、ほとんど、同じ歳でもあり、気も合う。
「良さん、ちょっと、ご相談があるんですが・・・」
森川良の左隣(ひだりどなり)にいる、
松下陽斗(まつしたはると)が、そういった。
「ははは。どんなお話ですか?陽斗(はると)さん」
「彼のことなんですが」と、陽斗は、となりの席の、
山内友紀(やまうちともき)を見て、話をつづける。
「友紀さんは、トランペット奏者として、デヴューすることが、
ひとつの夢なんだそうです」
そういって、陽斗は、ひとつ上の先輩(せんぱい)の
山内友紀(やまうちともき)のことを、森川良に語る。
山内友紀(やまうちともき)は、1992年の
10月10日生まれ、21歳になったばかり。
松下陽斗(まつしたはると)は、
1933年2月1生まれで、20歳である。
ふたりは、東京・芸術・大学の音楽学部の3年生で、
陽斗は、ピアノ専攻、友紀は、トランペットの専攻であった。
≪つづく≫
22章 メジャー・デヴュー・パーティ ー(4)
22章 メジャー・デヴュー・パーティ ー(4)
友紀(ともき)も、陽斗(はると)も、同じような、
いまふうのカットの、髪(かみ)は、眉毛(まゆげ)の
あたりまであって、長(なが)めである。
また、ふたりとも同じように、
いつも、どこか、わけもなく、はにかんでいるような、
顔を 紅(あか)らめているような、
その 笑顔(えがお)には、
まだ、純真(じゅんしん)な少年のような、
若々(わかわか)しい、輝(かがや)きがある。
1983年生まれで、12月5日で、30歳になる、
森川良(もりかわりょう)は、
そんな、ふたりに、
若さか・・・、いいもんだよな、と、ふと思う。
「友紀さんは、去年の、全日本・音楽・コンクールの
トランペット部門で、みごと、1位に入賞されたんですよね。
友紀さんの 演奏は、
ユーチューブで、見てます。楽しませてもらってますよ。
すばらしい、音色(ねいろ)で、感動していますよ。
こちらこそ、よろしくお願いします。
ぜひ、メジャー・デヴューを 企画してゆきましょう!」
森川良(もりかわりょう)は、そういうと、
山内友紀(やまうちともき)に、ほほえんだ。
「どうも、ありがとうございます」
と、山内友紀(やまうちともき)は、予想外に、早い、
話の展開に、松下陽斗と、目を合わせて、よろこんだ。
「きょうも、友紀さんのトランペット、楽しみにしてますよ。
演奏も大事ですが、
まあ、きょうは、楽しく飲みましょう!」
と いって、森川良(もりかわりょう)は、わらった。
「陽斗(はると)の ピアノと、コラボ(共演)で、
ちょっと、ライブを やらせていただく 予定です!
おれも、陽斗も、
酒は強いですから、今日は飲みますよ。はっはっは」
と 山内友紀(やまうちともき)も わらった。
ステージでは、店長、佐野幸夫(さのゆきお)の MC(進行)で、
G ‐ ガールズ(グレイス・ガールズ)の、演奏が始まる。
パーティーのオープニングを、飾(かざ)る 曲は、
デヴュー・アルバム、
Runaway girl (逃亡する少女)の中の、
ゆったりしたテンポのバラードで、
If I can live with you (あなたと 生きてゆければ) である。
歌の出だしのイントロは、水島麻衣(みずしままい)の
うつくしい、ギター・ソロで、
すぐに、
大沢詩織(おおさわしおり )のリズム・ギター、
平沢奈美(ひらさわなみ)のベース・ギター、
菊山香織(きくやまかおり)の、16ビートを刻(きざ)む、
ドラムス、
岡昇(おかのぼる)の、パーカッションがつづいて、かさなる。
そして、シンセサイザーを演奏する、
清原美樹(きよはらみき)が、
口もに 設置したマイクにむかって、歌い始める。
女性らしい、透明感(とうめいかん)があふれる、
バンド全員の、歌声や、コーラスのハーモニー、
そして 演奏(えんそう)に、
会場のみんなは、気持ちのよい、時間を過ごした。
ーーー
If I can live with you (あなたと 生きてゆければ)
作詞作曲 清原 美樹 (きよはら みき)
いつもの 街(まち)の 交差点で あなたと すれ違(ちが)った
時は 流(なが)れて いまは ちがう 道を 歩(ある)く 二人(ふたり)
あの頃(ころ)は こんな 切(せつ)ない 思いだったのよ!
あなたと 生きてゆければ・・・ If I can live with you...
いつも 見ている 毎朝 見ている わたしの 鏡(かがみ)
たまに ピカピカに 磨(みが)いたの! ブラッシングして
ピンクのリップ 鏡(かがみ)の中に もう ひとりの わたし
あなたと 生きてゆければ・・・ If I can live with you...
「ねえ 時間を 止(と)める 方法って、 ないのかしら?」
「ほんと ほんと 歳(とし)とるのって 早すぎるよね!」
そんな 友だちとの 会話だけど あなたとなら 楽しいの!
あなたと 生きてゆければ・・・ If I can live with you...
無一物(むいちぶつ) 無尽蔵(むじんぞう)という 言葉が 大好き!
本来(ほんらい)は 何も 持たないで 生まれてくるのだから
無心(むしん) でいれば 自由自在(じゆう じざい)の 境地(きょうち)!
でも あなたと 生きてゆければ・・・ But if I can live with you...
あなたと 生きてゆければ・・・ if I can live with you...
あなたと 生きてゆければ・・・ if I can live with you...
≪つづく≫ ーーー 22章 おわり ーーー
23章 G ‐ ガールズ、ヒット・チャート、上位へ (1)
23章 G ‐ ガールズ、ヒット・チャート、上位へ (1)
2013年10月20日、
グレイス・ガールズ(G ‐ ガールズ )は、
ビルボード、オリコン、有線などで、
ヒット・チャート入りを 果(は)たした。
それも、デヴュー・アルバムの、
Runaway girl (逃亡する少女)と、
その中から、シングルカットされた、
Blowing in the sea breeze (海風に吹かれて)という
アルバム、シングル、
同時の、ヒットチャート入りである。
彼女たちの曲は、日本中のラジオから流れて、
さらに、上位に、向かっている。
一夜にして、人気者になった彼女たちには、
ラジオやテレビ局からの 出演の依頼(いらい)も
殺到(さっとう)する。
モリカワ・ミュージックでは、G ‐ ガールズの マネジャーでもある、
課長の森川良(もりかわりょう)が、テレビ、ラジオ、雑誌など、
マスメディアとの、調整(ちょうせい)に、多忙(たぼう)であった。
10月27日の日曜日。
台風一過(たいふういっか)で、晴天の、午後の1時半ころ。
東京・FM のスタジオに、G ‐ ガールズと、岡昇(おかのぼる)、
森川良たちは来ている。
「今回のゲストは、リリース(release)されたばかりの、
アルバムとシングルの、同時、ヒット・チャート入りという、
電撃的(でんげきてき)な、
快挙(かいきょ)を達成(たっせい)した、
ロック・バンド、ザ・グレイス・ガールズのみなさんと、
パーカッションで、特別参加の岡昇さんです!」
そういって、22歳の、MC(司会者)、
渋谷陽治(しぶやようじ)が、番組の放送を開始した。
「ようこそ、いらっしゃいました!」と、陽治(ようじ)。
「どうも、どうも、ようこそ、いらっしゃいました!」
と、もうひとりの、21歳の、女性のMC(司会者)、
本条知美(ほんじょうともみ)もいう。
「もう、はじめまして!・・・なんですけど、
なんか、もう、昔から友だちみたいに、
番組が始まる前に、うちとけちゃいましたよね!」
そういって、本条知美(ほんじょうともみ)が わらうと、
G ‐ ガールズ、岡昇(おかのぼる)、森川良たちも、
わらった。
「いきなりですからね!グレイス・ガールズのみなさん!
リリース(release)されて・・・、
アルバムとシングルが、店頭(てんとう)に、
並(なら)んだのが、10月13日ですよね。
そしたら、アルバムも、シングルも、
20日には、ヒット・チャート入りして、
きょう、現在、CD・オリコン・ランキングでは、
アルバムの売り上げは、6位、
シングルの売り上げは、5位なんですからね。
こんなこと、
予想してました?リーダーの清原 美樹さん」
と、MC(司会者)、渋谷陽治(しぶやようじ)。
「いいえ、まったく、予想してませんでした。
みんなで、夢見ているみたいだねって、
毎日、同じこと、いい合(あ)っていってます」
そういうと、美樹も、みんなも、声を出して、わらった。
≪つづく≫
23章 G ‐ ガールズ、ヒット・チャート、上位へ (2)
23章 G ‐ ガールズ、ヒット・チャート、上位へ (2)
「わたし、仕事の関係(かんけい)で、
有名になっていく人を、数多く見てますけど、
無名の人が、ラジオやテレビに出るようになって、
有名になるのって、
ほんとうに、あっという間(ま)、なんですよ」
と、MC(司会者)、本条知美(ほんじょうともみ)。
「ここで、ちょっと、メンバーを、ご紹介させていただきます。
リーダーで、キーボードとヴォーカルの清原美樹さん。
サイド・ギターとヴォーカルの大沢詩織(おおさわしおり )さん、
ドラムスとヴォーカルの菊山香織(きくやまかおり)さん、
ベースギターとヴォーカルの平沢奈美(ひらさわなみ)さん、
リード・ギターとヴォーカルの水島麻衣(みずしままい)さん。
そして、パーカッションの岡昇さん。
みなさん、現役の、早瀬田(わせだ)の学生さんなんですよね!」
「はーい、そのとおりです。よろしくお願いします!」
みんなは、前もって、いい合わせたように、元気な声で、そういった。
「ぼく、アルバム、聴かせていただいて、驚いたんですけど、
作品の、すばらしいクオリティ(品質)、
完成度の高さといいますか、
アルバムの全体から、グルーブ感は、
圧倒的(あっとうてき)で、
これこそ、本物のロックンロールというのが、
正直な、ぼくの感想なんです。
みなさん、まだ、20歳(はたち)くらいなんですよね。
ぼくは、ロック 史上 最強 といわれる ロック・バンドの
ビートルズを、つい連想(れんそう)してしまいした!」
やや、興奮気味(こうふんぎみ)に、22歳の、MC、
渋谷 陽治(しぶやようじ)は、語(かた)る。
「ありがとうございます!」 と、清原 美樹は、ほほえむ。
ほかのメンバーの全員、岡昇も、一礼(いちれい)しながら、
「ありがとうございます!」といって、ほほえむ。
「わたしたちが、ここまでやって来(こ)れたのは、たぶん、
メンバー、みんな、とても、仲がよくて、気が合うこと。
好きな音楽の傾向も、すごっく、近いものがあるんです。
J-ポップでは、宇多田ヒカルさんとか、
洋楽では、ボブ・ディランやビートルズとか、
みんな、すごっく、尊敬しているんです。
憧(あこが)れる、すばらしい、ミュージシャンは、
ほかにも、たくさん、いますけど。
そんな音楽が大好きで、特に、ロックは大好きで、
どんなときも、わたしたちは、バンド活動を、
楽しんでいるんです。
あと・・・、みんなが、お互いの、個性を、
尊敬(そんけい)いることもあります!
ですから、
わたし、まとめ役のリーダーですけど、
とても、楽(らく)なんですよ・・・」
清原美樹は 晴(はれ)やかな 表情で、ゆっくり、
メンバーを、見わたしながらそういって、わらった。
「あっはっは。普通(ふつう)、リーダーって、
まとめるのが大変ですものね。
それにしても、いつも楽しみながら、
バンド活動することって、簡単なことのようで、
なかなか、できることではありませよね。
そうですか、宇多田ヒカルさん、
ボブ・ディランですか、
どちらも、ビートルズのように、
音楽シーン(状況)を大きく変えた、
天才的なミュージシャンですものね。
これは、天才は天才を知るっていうことですかね?
ねえ、知美(ともみ)さん!」
という、MCの、渋谷陽治(しぶやようじ)は、
わらいながらも、
感動していて、少(すこ)し、声が 震(ふる)える。
≪つづく≫
23章 G ‐ ガールズ、ヒット・チャート、上位へ (3)
23章 G ‐ ガールズ、ヒット・チャート、上位へ (3)
「まったく、そうですよね、陽治(ようじ)さん。
G ‐ ガールズのみなさん、才能にあふれていて、
天才的な、気がいたします!
わたしも、1度、聴かせていただいたら、
大(だい)ファンに、なりましたもの!
こんなに、すてきなバンドは初(はじ)めてです!
わたしたち、若い人から、ご年配(ごねんぱい)の、
どなたもが、待(ま)ち望(のぞ)んでいた
ビートルズのように、衝撃的(しょうげきてき)な
バンドだと思います!
それでは、
リスナー(聴取者)のみなさまも、
お待(ま)ちかねですので、
ここで、シングル・カットされた、
ヒット・チャートも、急上昇中(きゅうじょうしょうちゅう)の、
Blowing in the sea breeze (海風に吹かれて)を、
お聴(き)き いただきたいと思います!
この曲は、
大沢詩織さんの作詞・作曲なんですよね。ねえ、詩織さん。
詞の内容が、短編 小説のような、
ストーリー 性(せい)を感じるのですが、これって、
実体験(じったいけん)を、
もとにしてあるってことでしょうか?」
そういうと、ちょっと、照(て)れるように、
21歳の、MC(司会者)、本条知美(ほんじょうともみ)は、
まだ、19歳、大学1年の、大沢詩織に、ほほえんだ。
「ええ、まあ、実体験がもとです。まったくの、空想では、
すらすらと、書けないし・・・、いいのが、できないんです」
そういって、大沢詩織(おおさわしおり)は、
無邪気(むじゃき)な、少女のように、わらった。
「いいですよね。オートバイに 乗(の)れる、
彼って!男っぽい、気もします!」と、知美(ともみ)。
「はあ」と、照(て)れる、大沢詩織。
そんな会話で、知美と詩織が、声をだして、わらうと、
まわりのみんなも、明(あか)るく、わらった。
「それでは、みなさま、お聴(き)きください!
ポップ(大衆的)で、キャッチー(印象的)な、
最高の、ロックンロール!
Blowing in the sea breeze (海風に吹かれて)!」
MCの、渋谷陽治(しぶやようじ)は、そういって、
番組を進行させた。
---
Blowing in the sea breeze (海風に吹かれて)
作詞・作曲 大沢 詩織
「海が見たくなっちゃった!」 そういう わたし
「それじゃあ 海を見に行こう!」 そういう あなた
あなたの バイクの 後(うし)ろに 跨(またが)って
海に向かって 街を 飛び出した すてきな 日曜日
I want to be blowing in the sea breeze...
(わたしは 海風に 吹かれていたい・・・ )
海岸通(かいがんどお)りを バイクで 突っ走(つっぱし)る
潮(しお)の 香(かお)りに 懐(なつ)かしさを 感じる
「太古(たいこ)の 記憶(きおく)が 蘇(よみがえ)るみたい?」
そういうと あなたの 笑い声(わらいごえ)が 風に 乗(の)る
I want to be blowing in the sea breeze...
(わたしは 海風に 吹かれていたい・・・ )
太陽は 眩(まぶ)しいくらいに 輝(かが)やいていて
波(なみ)は 白(しろ)く カモメが 自由に 空を 飛(と)んでいる
「わたしたち いつも 自由 なのかしら?」 そういう わたし
「きっと 自由を 夢 見(ゆめみ)て るんだろうな」 そういう あなた
I want to be blowing in the sea breeze...
(わたしは 海風に 吹かれていたい・・・ )
そうね 人生は 自由を 夢 見る 旅のようなもの
愛(あい)を 感じて 信じて 大切にしていこう!
きっと 何でも 乗り越えて ゆけるんだから!
愛には 魔法(まほう)の パワ-が あるんだから!
I want to be blowing in the sea breeze...
(わたしは 海風に 吹かれていたい・・・ )
≪つづく≫ --- 23章 おわり ---
24章 クラッシュ・ビート、ヒットチャート、上位へ (1)
24章 クラッシュ・ビート、ヒットチャート、上位へ (1)
10月28日の月曜に、
クラッシュ・ビートのアルバムと シングルは、
トップ10入りを 果(はた)した。
アルバムが、リリース(発売)されたのが、
10月21日であったから、
1週間のあいだに、
いきなり、ドカンと 売れた 感じである。
アルバム・タイトルは、シングルカットされた
ナンバーと同じ、
I FEEL TRUE (ぼくが本当に感じていること)だった。
レコーディング(録音)から、リリースまで、
わずか 1週間という、短(みじか)さであった。
リリース(発売)したばかりではあるが、
キャンペーン(販売の宣伝)、プロモーション(販売の促進)の
不足(ふそく)にも かかわらず、
彼らの アルバムやシングルは、いまも、よく売れて、
ヒット・チャートを上昇中(じょうしょうちゅう)だった。
そんな 見事(みごと)な 人気の、理由のひとつには、
Twitter(ツイッター)、LINE(ライン)など、
インターネット による 口(くち)コミ があった。
口(くち)コミが、顧客(こきゃく)の 創出(そうしゅつ)に
絶大(ぜつだい)な 効果(こうか)を 発揮(はっき)している。
彼らの、メジャー・デヴューの アルバムは、
ずばぬけた グルーヴ(高揚)感、
ボリューム(量感)、
完璧(かんぺき)なリズム感などが、とくに 評判であった。
その ロックン・ロールのナンバー、12曲は、
下北沢にある レコーディング・スタジオ・レオで、
9月22日から、 約3週間、正味25時間という、
短期間の、 猛烈(もうれつ)な
ペース と、密度(みつど)の中で、制作(せいさく)された。
それは、数多くの ライブで 培(つちか)った、
お互(たが)いの 微妙(びみょう)な気持ちの
一致(いっち)があるから、実現の可能なことであった。
下北沢の レコーディング・スタジオ・レオでは、
クラッシュ・ビートが レコーディングに入る 前日の
9月21日の日曜日に、
グレイス・ガールズ (G ‐ ガールズ)の、
アルバムの制作が、完成したばかりであった。
モリカワ・ミュージックの、総力(そうりょく)の 企画(きかく)、
ふたつの ロック・バンドの アルバム、シングルが、
ほぼ 同時に、ヒット・チャートの トップ10入りという、
業界でも 前例(ぜんれい)のない 快挙(かいきょ)は、
新聞や ラジオや テレビなどの メディアでも 注目される。
そんな予想外の、人気には、バンドのメンバーも、
スタッフも、誰(だれ)もが、驚(おどろ)き、
どのように考えればよのかと、言葉も 失(うしな)うような、
とても不思議な 幸福感のある、心の状態であった。
11月3日の日曜日、文化の日。午後の1時半ころ。
東京・FM のスタジオには、クラッシュ・ビートと、
G ‐ ガールズのメンバー全員と、
岡昇(おかのぼる)、松下陽斗(まつしたはると)が、
集(あつ)まっている。
日曜日の 午後の2時の 番組、
『明日に架けるポップス』が、オンエア(on the air)だった。
「みなさん、お元気ですか!?
今回のゲストは、リリース(release)されたばかりの、
アルバムとシングルが、
またまた、同時に、ヒット・チャート入りという、
快進撃をしている
ロック・バンド、クラッシュ・ビートと、
グレイス・ガールズのみなさん、
それと、アルバム制作に、
特別参加の、岡昇(おかのぼる)さん、松下陽斗(まつしたはると)
をお招(まね)きしています!」
そういって、パーソナリティ(司会者)、22歳の、
渋谷陽治(しぶやようじ)が、番組を開始した。
「ようこそ、いらっしゃいました!」と、陽治(ようじ)。
「どうも、どうも、ようこそ、いらっしゃいました!」
と、もうひとりの、21歳の、パーソナリティ、
本条知美(ほんじょうともみ)もいう。
「はじめまして!クラッシュ・ビートのみなさん、
グレイス・ガールズのみなさんは、ちょっと前に、
いらしてただいたばかりですよね。
また、みなさんに、お会いできて、感激です!」
と、MC(司会者)の、本条知美(ほんじょうともみ)は、
少女のように、よろこびの、笑顔になる。
≪つづく≫
24章 クラッシュ・ビート、ヒットチャート、上位へ (2)
24章 クラッシュ・ビート、ヒットチャート、上位へ (2)
「ぼくは、グレイス・ガールズのアルバムにも、
衝撃的(しょうげきてき)な 感動(かんどう)を おぼえましたけど、
クラッシュ・ビートのアルバムにも、
またまた、ロックン・ロールの
すごいドライブ(疾走)感といいますか、
芸術品のような完成度に、
感動をさせていただきました!」
と、MC(司会者)の、渋谷陽治(しぶやようじ)。
「ありがとうございます!」
スタジオのテーブルで、リラックスしながら、
そんな 挨拶(あいさつ)をする、
クラッシュ・ビートと、グレイス・ガールズ、
松下陽斗(まつしたはると)、岡昇(おかのぼる)の、
11人だった。
「それでは、まず、オープニングとして、
リスナーのみなさまも、お待ちかねですので、
ヒット・チャート、急上昇中の、
クラッシュ・ビートの、最高に明るくって、ポップな、
シングル・ナンバー、
I FEEL TRUE (ぼくが本当に感じていること)を、
お聴(き)きください!
そのあと、みなさんのお話を、たっぷりと、
伺(うかが)わせていただきます!」
ーーー
I FEEL TRUE
(ぼくが本当に感じていること) 作詞・作曲 川口信也(かわぐちしんや)
ぼくが 本当に 感じていることを 話そう
きっと 笑(わら)われるかもしれないね
本当のことって 言いにくいものだよね
少年の日を 思い出してみよう
時間など 気にもせず
日が暮れるまで 遊んでいたよね
あどけない 少女の きみは
テディベアに 頬(ほほ)よせて
幸せそうに ほほえんでいたね
きみに 恋していたのだろうか?
きみの家の 近くまでいって
きみのことを思った 昼下(ひるさ)がり
少年や 少女のころの 日々は
時間も 止まっているかのように
永遠に近く やたらと 長かった
ぼくが 本当に 感じていることを 話そう
きっと 笑(わら)われるかもしれないね
本当のことって 言いにくいものだよね
少年の日を 思い出してみよう
緑の 草や木は まるで 親友みたいで
いつも ぼくらの 遊びの 仲間だった
あどけない 少女の きみは
いろんなものに アンテナ のばすから
男の子より 全然(ぜんぜん) オトナっぽかったね
きみに 恋していたのだろうか?
きみがいるから 楽しかったのは 真実さ
毎日の 学校も 心弾(こころはず)んだもの
少年や 少女のころの 日々は
無邪気(むじゃき)と オトナは 笑(わら)うけど
いつだって すてきな夢を 見ていたよね
ぼくが 本当に 感じていることを 話そう
きっと 笑(わら)われるかもしれないね
本当のことって 言いにくいものだよね
少年の日を 思い出してみよう
喧嘩(けんか)して 痛(た)い 思いもあったんだ
でも 心まで 冷酷(れいこく)じゃなかったよ
少女の きみは ときおり ふいに
ミステリアスな オトナっぽい仕草(しぐさ)して
ぼくらを 楽しませて くれていたんだから・・・
きみに 恋していたのだろうか?
そんな きみの かわいい 面影(おもかげ)さえも
遠い日の 記憶とともに 消えてゆく・・・
少年や 少女のころの 日々を
だれもが 忘れ去って ゆくんだろうか?
大切にしていた 魂(たましい)と ともに・・・
ぼくが 本当に 感じていることを 話そう
きっと 笑(わら)われるかもしれないね
本当のことって 言いにくいものだよね
少年や 少女のころの 日々を
だれもが 忘れ去って ゆくんだろうか?
大切にしていた 魂(たましい)と ともに・・・
It is such a thing that I feel true.
(ぼくが本当に感じていることはこんなことなんだ)
I don't want to lose the soul in the days of the child.
(子どものころの 魂を 失(うしな)いたくないってことさ)
≪つづく≫
25章 東京・FM の サテライト・スタジオ にて (1)
25章 東京・FM の サテライト・スタジオ にて (1)
11月3日の日曜日、文化の日。
東京・FM の 午後2時の
『明日に架けるポップス』が、オンエア(on the air)であった。
東京・FM の サテライト・スタジオは、
山手線(やまてせん)・原宿駅(はらじゅくえき)のすぐ近くの、
有名ブランドなども入居(にゅうきょ)している、
表参道(おもてさんどう)ヒルズにあった。
スタジオは、防音(ぼうおん)ガラスで 仕切られた 構造で、
ラジオの生放送の様子(ようす)、スタジオ・フロアの出演者や
副調整室(ふくちょうせいしつ)(サブ・コントロール・ルーム)の
スタッフの動きなどを、
来観者(らいかんしゃ)も 眺(なが)められる。
防音ガラス 越(ご)しに 見える、風に そよぐ
緑(みどり)の ケヤキ並木(なみき)、
行(ゆ)き交(か)う 人や クルマ、
スタジオ内を 眺(なが)める 観客(かんきゃく)たち、
そんな 外の 風景を 取り入れることで、
のびのびと リラックスして、ゲスト(お客さま)や
番組のパーソナリティ(司会者)やスタッフは、
気持ちよく トークもできる、
環境(かんきょう)のよい スタジオであった。
着席で 150人の収容(しゅうよう)が 可能な スタジオには、
グランドピアノ もある。
そんなスタジオには、クラッシュ・ビートや、
G ‐ ガールズのメンバー、
かれらの アルバム作りに 特別参加の、
パーカッションの 岡昇(おかのぼる)、
ピアノやキーボードの 松下陽斗(まつしたはると)がいる。
みんなは、いつもと変わらない、服装(ふくそう)だが、
次々と、全国的な メディア(情報媒体)の取材には、
少し感情(かんじょう)も高揚(こうよう)ぎみである。
「リスナーの みなさまには、
オープニング として、シングル・リリース された ばかりの
I FEEL TRUE (ぼくが本当に感じていること)を、
お聴(き)きいただきました!
なんか、ロックの大作といいますか…、
名曲ですよね、ねえ、知美(ともみ)ちゃん!?」
といって、パーソナリティ(司会者)、22歳の、
渋谷陽治(しぶやようじ)は、パートナーの、
21歳、本条知美(ほんじょうともみ)に、話をふる。
「はい、すごっく、ロックンロール しているし、よかったです。
美(うつく)しい メロディー(旋律)の、ハードロックですよね。
それに、詩(し)も、とても すてきです」
「そうなんですよね。
アイ・フィール・トゥルー(I FEEL TRUE)は、
1度 聴(き)いたら、忘(わす)れられない、
そんな、メロディアスな、うつくしい 楽曲です。
イントロのアコースティック・ギターでは、
レッド・ツェッペリンの
天国への階段 (Stairway to Heaven)みたいな感じですし、
リズム・ギターの、切れのいい、
三連符(さんれんぷ)のカッティングでは、
ビートルズの オール・マイ・ラヴィング
(All My Loving)なんかを、つい 思い出しちゃいます。
アイ・フィール・トゥルー(I FEEL TRUE)は、
そんなロックの名曲を、引き継いでいるような、
それでいて、音も詩も、とても ポップで、
キャッチーで、現代的なんですけど…。
この点について、この曲の作詞・作曲をなさった、
川口信也(かわぐちしんや)さん、
やっぱり、ツェッペリンや ビートルズは、
意識なさったのですか?」
そういって、少し遠慮(えんりょ)がちな 表情(ひょうじょう)で、
渋谷陽治(しぶやようじ)は、信也をみた。
≪つづく≫
25章 東京・FM の サテライト・スタジオ にて (2)
25章 東京・FM の サテライト・スタジオ にて (2)
「ははは…。ツェッペリンや ビートルズは、好きですからね。
おれたちのバンドは、ツェッペリンや ビートルズの曲を
よく、コピーしては、ロックのいろんなことを
学んできたようなもんですよ。
いうなれば、おれらの音楽の師匠(ししょ)のようなもんなんです。
ねえ、リーダーの森川純さん。ははは…」
そういって、23歳の信也は、わらいながら、
話を、24歳の 森川純にふった。
「そうだよね。ツェッペリンや ビートルズは、おれたちの
師匠のようなものだよね。
基本的に、おれたち、クラッシュ・ビートは、
1度 聴いたら 忘れられないような、
メロディアス(melodious)な、旋律(せんりつ)の美しい
ロックが好きなんですよ。
ツェッペリンも ビートルズも、そんな曲が得意でしたからね」
森川純が、瞳(ひとみ)を 輝(かがや)かせた 笑顔(えがお)で、
バンドの リーダーらしい 落ちつきで、そう語(かた)った。
「なるほど。メロディアス(melodious)な、旋律の美しい
ロックですね!
わたしも、音楽は、美しいメロディのあるものが大好きです。
その点では…、
G ‐ ガールズの みなさんの曲にも、同じような価値観を
感じるんですけど、その点は、いかがなんでしょうか?
リーダーの 清原美樹さん。お聞きしてもよろしいでしょうか?」
と、人懐(ひとなつ)こそうな、うつしい笑顔(えがお)の、
21歳の、パーソナリティ、本条知美(ほんじょうともみ)がいう。
「わたし、知美さんのファンなんです。また お会いできて
うれしいです。知美さんのドラマもいつも楽しみなんです」
21歳の美樹は、そういて、ほほえむ。
本条知美(ほんじょうともみ)は、女優(じょゆう)をしている。
「美樹さん、ありがとうございます。同じ、表現者としても、
みなさんたちの音楽は、すばらしいですよ!」
「うつくしい旋律についてですけど、
曲の創作には、うつくしいメロディが、大切だと思います。
イギリスの詩人のキーツがいってますけど、
『美は真実、真実は美、これらが、私たちの知る、すべて、
知るべき、すべてなり…』 と、
わたしも、よく感じるんです」 と 美樹は いう。
「ああ、なるほど。うつくしいものは、信じたくなりますよね。
癒(いや)されるものも、うつくしいものですものね!
キーツのその詩は有名ですよね、
まさに真理だと思います」 と 本条知美(ほんじょうともみ)。
「うつくしい メロディとか、魅力のある楽曲をつくるのって、
その人の感覚とか、判断力とかの、
センスなんだと思うんですよね。
月並みな言葉でいえば、才能とか…」と、美樹はつづけた。
「なるほど、なるほど…。
みなさんは、きっと、才能もセンスも豊(ゆた)かなんですよ!
これからの、ご活躍も、
わたしたち、とても 楽しみなんですけど、
クラッシュ・ビートのみなさん、G ‐ ガールズのみなさん、
今後の 抱負(ほうふ)と いいますか、
音楽活動の計画や決意のようなものって、
何かあるんですか?」 と、
パーソナリティ(司会者)の 渋谷陽治(しぶやようじ)。
「いやーあ、何も考えてないです。いままでどおり、
バンドとしては、適当に、ライブをやったりして、
時期を見ては、セカンドアルバムを出してゆくっていうか。
紅白の出場とかまでは考えたないよね?
今年は とても 無理だし。ねえ、みんな…?!」
そういって、みんなを見わたす、森川純に、
みんなからは、わらい声(ごえ)が もれる。
「わたしたちは、アルバムや シングルが、
ヒットチャートに、いきなり登場しちゃって、
幸運なんですけど。みなさまのお蔭(かげ)ですし。
こんなことが、いつまでも、続くなんて、
信じられないですものね…」
そういったのは、19歳の大沢詩織(おおさわしおり )。
「まあ、それでは、ひとことずつ、みなさんの抱負とかを、
お聴きしましょう」 という、
オールバックの髪が 似合(にあ)う 渋谷陽治(しぶやようじ)。
「では、レディー・ファースト (女性の優先)で、
ベース・ギター、ヴォーカルの、
弱冠(じゃっかん)19歳の、平沢奈美(ひらさわなみ)さん」
「え、わたしですか。そうですね…。これからも、ポップで
キャッチーな曲で、ヒットを飛ばしたいです!」
「やっぱり、ヒット曲は、ミュージシャンの夢ですよね。
では、リード・ギター、ヴォーカル、20歳(はたち)の
水島麻衣(みずしままい)さん」
「わたしは、ギターソロの、メロディアスな曲で、
いっぱい、ヒットを飛ばせたらいいなと思います!」
≪つづく≫
25章 東京・FM の サテライト・スタジオ にて (3)
25章 東京・FM の サテライト・スタジオ にて (3)
「そうですか、ぼくも、麻衣さんのギターソロには、
しびれている ひとりです。これからのご活躍、
期待してます!それでは、サイド・ギターと
ヴォーカル、
まだ 19歳の若さの 大沢詩織(おおさわしおり)さん」
「わたしは、いい詩や、いい曲を、たくさん作れたらなと
思います。やっぱり、やる以上は、
どこまでがんばれるかと、可能性の追求もしたいですね」
「なるほど、しっかりした考えですよね。期待しています。
それでは、グレイス・ガールズのリーダーで、キーボード、
ヴォーカルの、21歳の清原美樹(きよはらみき)さん」
「わたしは、ライブとかで、このバンドを、いつまでも、
ながく 続けられたらいいなって、まず 思います。
気の合うみんなと、音楽やるのが、楽しくって…。
その結果、アルバムやシングルを出さたら、
最高ですし、ヒットも出せたら、もっと最高ですけど」
「ははは。さすがは、リーダーですよね。
最初に、みんなと仲(なか)よくやってゆければと、
願うんですからね。実際、ロック・バンドって、
いろんな事情から、ながくは続きませんからね。
では、
ドラムス、ヴォーカルで、20歳(はたち)
菊山香織(きくやまかおり)さん」
「わたしの場合は、楽しく、遊びながら、
子どものような 純真さで、ロック・バンドを
やったゆけたらなあって思います。
結果として、こんなふうに、ヒットが出たりして、
お金になるのも、もちろん、歓迎ですけど…」
「あっはは。そうですよね。アーティストの基本や
原則は、純真さや、無欲さかもしれませんよね。
それで、いい作品ができたら、
きっと、お金にもなるんでしょうね!香織さん。
それでは、次は、男性に、抱負をお聞きします。
えーと、今回、G ‐ ガールズのアルバムに、
パーカッションで 特別参加の、
19歳の 岡昇(おかのぼる)さん!」
「ぼくの抱負は、こんなに大成功をしちゃった、
G ‐ ガールズのみなさんや、
クラッシュ・ビートのみなさんたちと、これからも、
楽しく、音楽を やってゆけたらなぁと 思ってます。
ぼくの目標は、プロのミュージシャンとして、
やってゆくことなんですけど、
現実には、いろいろな壁(かべ)があるみたいで。
個人的には、
方向性が 固(かた)まっていないといいますか、
しょっちゅう、迷(まよ)いの中にも いるんです。
でも、楽天的に考えるのが、ロックン・ロールですよね。
あっはっは」
「そうですよ。岡さんは、みんなに好(す)かれる
タイプですから、これからも、きっと、うまくいきますよ。
迷うなんて、ぼくだって、しょっちゅうですよ。
失敗や迷いもあるから、成功もあるんだと思いますよ!」
オールバックの 渋谷陽治(しぶやようじ)がそういうと、
みんなも 「そうなんです!岡くんがいたから、
すべては 好循環(こうじゅんかん)して、こんな夢のような
ヒットも生まれたのよ!」とかいったりして、
スタジオは、わらいに包(つつ)まれた。
「みなさんって、とても仲がいいですよね。そういえば、
みなさん、早瀬田(わせだ)大学の 音楽サークルの
ミュージック・ファン・クラブ(MFC)の部員さんなんですよね。
もちろん、クラッシュ・ビートのみなさんは、
ご卒業されているわけですけど、
あ、おれとしたことが、失礼しました。
松下陽斗(まつしたはると)さんは、早瀬田(わせだ)大学では
ありませんでしたよね。
松下さんは、東京・芸術・大学の音楽学部、
ピアノ専攻の3年生で、20歳(はたち)ですよね。
松下さんは、今回のクラッシュ・ビートのアルバム制作に
ご参加されたわけですが…。
クラシックやジャズのピアニストとしても、
ご活躍の松下陽斗(まつしたはると)さん、
これからの 抱負などが ありましたら、お聞かせください」
テーブルの メモ用紙を ちょっと見て、
渋谷陽治(しぶやようじ)は そう語(かた)る。
「そうですね。音楽は、世界中の、人の心にとどく、
国際言語のようなものですから、その音楽で、
仕事をしてゆけることには、とても幸せを感じています。
これからも、みなさんと ご一緒(いっしょ)に、
そんな音楽活動で、世の中の役に立てればいいなと
思ってます。あと、そのうち、このスタジオで、
ピアノ・リサイタルができたらいいなって思ってます」
「そうですか、こちらこそ、よろしくお願いします。
ぜひ、近いうち、ピアノ・リサイタルを実現させましょう。
ええと、
それでは、クラッシュ・ビートの、ギター、ヴォーカル、
23歳の川口信也(かわぐちしんや)さん、ご抱負を」
≪つづく≫
25章 東京・FM の サテライト・スタジオ にて (4)
25章 東京・FM の サテライト・スタジオ にて (4)
「おれはですね…。ロックバンドは、エンターテイメント
(娯楽)としての、楽しみのためと、
スピリット(spirit)的な、生きかたを求めるような、
かっこよくいえば、正義(せいぎ)や愛のために、
やってるのかなって、思うんですよ。あっはっは。
ついつい、理屈っぽいこといっちゃいましたけど、
これからも、ライブやレコーディングとか、
楽しくやってゆければ最高ですよね!あっはっは」
「そうですよね。信也さんのいいたいことは、
ぼくも、わかる気がします。
世の中に向かって、音楽で、正義や愛を、
表現できなかったら、この世は、
おしまいな気がしますよ。まったく同感です!
あっはっは」
オールバックの 渋谷陽治(しぶやようじ)の
陽気なわらい声(ごえ)に、つられて、
みんなも わらった。
「それでは、クラッシュ・ビートの、リード・ギター、
ヴォーカルの、岡林明(おかばやしあきら) さん、どうぞ、何か」
「おれも、水島麻衣(みずしままい)さんと同じように、」
イカした、メロディアスなギターソロのある、
いい作品に、いっぱい、出会えたらなあと思いますよ
それと、ヒットを、たくさん、飛ばせたらいいなと思いますね。
でも、楽しく ライブ やってゆくことが、第一(だいいち)かな」
「ぼくは、岡林さんのギターのファンでもあります。
これからの ご活躍を おおいに 期待しています!
では次に、クラッシュ・ビートの、ベース・ギター、
ヴォーカル、23歳の 高田翔太(たかだしょうた)さん」
「おれはですね。好きなことをやりながら、それで、
お金も稼(かせ)げたらいいかな、って、正直(しょうじき)、
俗(ぞく)っぽいことを思ってます。
たとえ、貧(まず)しくたって、このメンバーとなら、
いつまでも、ロックバンドで、ライブをやりたいですけどね。
はっはっは。そして、やっぱり愛や正義も、大切だよね!
あっはっはは」
「そうですよね。高田さんの気持ちもわかりますよ。
お金って、たくさんあっても、邪魔じゃありませんからね。
つい、俗っぽいことを考えるのが、人間ですよ。
でも、正義や愛を考えるあたり、さすがだと思います!
それでは、ラストは、クラッシュ・ビートのリーダー、
24歳の 森川純さんです。純さんは、ドラムス、
ヴォーカルです。では純さん、何か、抱負などを…」
「そうですね。お金の話が出た、そのついで、
なんですけど…。クラッシュ・ビートも、G ‐ ガールズも、
バンドが 存続している間は、作詞や作曲やその他いろいろな
印税の、クレジット(信用)は、バンドの名義(めいぎ)に
してあるんです。つまり、みんなで、公平に、お金を受けとる
システムにしてあるんです。メンバー全員で、
話し合った結果なんですけどね。あっはっは。
まあ、それはそうとして、このような作品の、ヒットは、
今でも夢のような気分です。これも、リスナー(聞き手)の
みなさまやファンのみなさまのサポート(支援)が
あってこそだと、心から感謝しています。
これからも、クラッシュ・ビートも、G ‐ ガールズも、
良質な音楽活動に、がんばりますので、
モリカワ・ミュージックともども、よろしくお願いします!」
「さすが、リーダーの森川さんです。
たいへん 貴重(きちょう)な、お話をありがとうございます。
そうなんですか、印税とかの クレジットが、
バンド名義ですか。みなさんの仲のよさが、団結力が、
よく伝わってくるような、お話ですよね。
お金の問題で、解散するバンドも多い 昨今ですし…。
さて、では、リスナーのみなさま、お待ちかね!
クラッシュ・ビートの、疾走するような、8ビートの、
とびきり、イカしたナンバー、Angel Rock (ロックな天使)!
お聴きください…」
ーーー
Angel Rock (ロックな天使) 作詞・作曲 森川純
街の あの子に 声かけたら ふられた おいらさ
でも あの子が 大好きさ
だって、あの子は Angel Rock (ロックな天使)
いつか あの子の 微笑(ほほえ)みは きっと おれのもの
それを 信じて ロックンロール!
だって、あの子は Angel Rock (ロックな天使)
ああぁ なんで こんな世の中 ばかりが つづくのさ!?
これじゃぁ あの子が かわいそう
だって、あの子は Angel Rock (ロックな天使)
おれは 気ままな 街のロックンローラ という噂(うわさ)
でも いいさ ロック大好きさ
だって、あの子は Angel Rock (ロックな天使)
負(ま)けずに 戦い抜いてやるぜ! ロックンロール!
おれは 岩(Rock)に だってなるだろう…
だって、あの子は Angel Rock (ロックな天使)
いつかは おいらも あの子と 暮らしたいのさ
こんな 愚図(ぐず)な おいらだけどさ
だって、あの子は Angel Rock (ロックな天使)
あああ なんで 天使のような きみに会ったのだろう
世界の 意味なんか きみがすべてさ!
だって、あの子は Angel Rock (ロックな天使)
この世界の 儚(はかな)さ 筋(すじ)の通(とお)らなさ
でも、ネバー・ギブ・アップ(Never Give Up)!
だって、あの子は Angel Rock (ロックな天使)
あの子に 会えたこと そんな奇跡を 信じて生きるのさ
たとえ この世界が 幻(まぼろし)でもね
だって、あの子は Angel Rock (ロックな天使)
そうさ まるで 魔法に かかったみたい なのさ
かわいい あの子が 忘れられない
そうさ あの子は Angel Rock (ロックな天使)だからさ
そうさ あの子は Angel Rock (ロックな天使)
そうさ あの子は Angel Rock (ロックな天使)
おいらは 気ままな Rock 'n' Roller(ロックンローラー)
おいらは 気ままな Rock 'n' Roller(ロックンローラー)
≪つづく≫ --- 25章 おわり---
26章 信也と 詩織の ダブル・ライディング (1)
26章 信也と 詩織の ダブル・ライディング (1)
11月24日の日曜日、午後の2時。快晴(かいせい)。
下北沢(しもきたざわ)の、
川口信也(かわぐちしんや)の マンションの
部屋の気温は、19度と、過ごしやすかった。
おたがいに 休日なので、
大沢詩織(おおさわしおり)は、ひとりで
マンションに 来ている。
信(しん)じあってる、ふたりには、
愛を 求(もと)め合(あ)うこととかに、
なんの、ためらいも、ぐずぐずするような
迷(まよ)いとかも なかった。
たとえ、それが、忙(いそが)しい 時間の
合間(あいま)であるとしても。
若(わか)さも、持(も)て余(あま)す、
19歳の詩織と 23歳の信也(しんや)たちは、
時(とき)の 過(す)ぎるのも 忘(わす)れる、
幸(しあわ)せな 行為に、
いつでも 夢中(むちゅう)になれる。
「ねえ、しん(信)ちゃん。
わたし、
リスナー(listener)の人たちが、
こんなに、いっぱいになったことが、
こんなに 幸(しあわ)せな 気分になるということ、
いままで知らなかったわ …」
詩織は、ダブル・ベッド に、
ふわふわのタオルケットにつつまれて、
寝(ね)そべっていて、
ほほえみながら、信也に、そう、ささやく。
信也は、詩織の横の、壁(かべ)側で、
詩織の 柔(やわ)らかな 黒髪(くろかみ)を
撫(な)でながら 寝ている。
詩織を見つめる 信也の瞳(ひとみ)の奥(おく)が
輝(かがや)いている。
それは、いつも、少年のように澄(す)んだ、
穏(おだ)やかな眼差(まなざ)しで、
詩織は大好きでだった。
「リスナーを、ミュージシャンたちは、
いつも、必要としてきたんだろうね。
古今東西(ここんとうざい)の、大昔(おおむかし)から。
いつの世だって、
ミュージシャンたちは、自分の演奏を聴(き)いてくれる
聴衆(ちょうしゅう)を求め続けるものなんだろうな…」
そんなことを、信也は、詩織に ささやく。
「わたし、アルバムつくり、こんなに、
頑張(がんば)れたのも、
きっと、しんちゃんがいてくれたからなのよ」
「おれだって、詩織ちゃんたちが、
頑張(がんば)っているんだもの、
おれたちも、ベストを尽(つ)くさなければって、
気持ちに自然となれたんだと思うよ」
「おたがいに、刺戟(しげき)となる、
ライバルって感じなのかしら?」
詩織(しおり)と 信也(しんや)は わらった。
「あっはっは。ライバルかぁ。
ちょっと違(ちが)うと思うけど。
でも、身近(みじか)な、
ライバルって、必要なんだよね。
向上心(こうじょうしん)や
モチベーション(やる気)のためにも」
「しんちゃんの 無精(ぶしょう)ひげって
かっこよくって、好きよ。ちくちくするけど」
そういって、詩織は、また、わらう。
「わたしたち、アルバムやシングルが、
こんなに 売(う)れちゃって、
マスコミの取材とかで、
これから、忙(いそが)しく なるのかしら?」
≪つづく≫
26章 信也と 詩織の ダブル・ライディング (2)
26章 信也と 詩織の ダブル・ライディング (2)
「マスコミの取材とかは、モリカワ・ミュージックで
管理してるから、その点は、安心だよ、詩織ちゃん。
いくら お金になる ビジネスでも、
おれたちに無理(むり)となるような、
こちらの 都合(つごう)がつかないものは、
すべて、お断(ことわ)りの、方針だから、
だいじょうぶなんだよ。
モリカワって、徹底して、良心的だよな。
さすが、純のおやじさんの会社だよ。
商売っ気(しょうばいっけ)ないくらいだけどさ。
あっはっは。
でもね、
レコード会社によっては、
働(はたら)き蜂(はち)にみたいに、
やたら、仕事させられて、こき使われてるようだよね。
ミュージシャンに 入ってくるべきの 印税(いんぜい)とか、
音楽事務所とかに、吸い取られるのが多いらしいし。
その点も、
モリカワは、良心的で、安心できるんだ。」
「それは、よかったわ。わたし、学業と、
ミュージシャンと 両立できるかなぁ?とか、
いろいろと 考えちゃったから」
「モリカワ・ミュージックって、一応(いちおう)、
メジャ-・レコード会社として、全国で、CDの販売が
できているわけだけど、
実際には、販売網(はんばいもう)を持つ 会社に、
販売業務(はんばいぎょうむ)を
委託(いたく)しているんだよね。
おれたちのアルバムの発売元の、
モリカワ・ミュージックは、まだ設立して、2年足(た)らずで、
日本レコード協会の
正会員ではない、インディーズ・レーベルで、
正確には、メジャー流通のインディーズ
というべきなんだよね、まだ」
「うん、それって、知っている。日本のレコード会社で、
販売機能を持つ会社は、エイベックスとか、
ビクターとか、現在17社あるのよね」
「うん、そうだね。それに、よく、
メジャーと、インディーズでは、アティーストの収入は、
10倍も違(ちが)うといわれるよね。
メジャーの場合、作詞、作曲などのすべての印税は
アーティストには 5%とか。
インディーズの場合ならば、CD制作費が20%、
流通に 30%として、残りの 50%は、
アーティストの手元に入いる 計算らしいんだ。
うちのモリカワも、アーティストには、
50%くらいだというから、個人に対しても良心的だよね」
「そうなんだ、モリカワって、すごく、いい会社なのね。
わたしも、モリカワに就職(しゅうしょく)しちゃおうかな。
そうそう、しんちゃん、
最近、世間(せけん)を 騒(さわ)がせている、
食品偽装(しょくひんぎそう)のニュース!
モリカワには、かえって、順風(じゅんぷう) となって、
良心的な モリカワの外食産業は、
ものすごい、商売繁盛(しょうばいはんじょう)で、
大人気だっていうわよね!」
「ああ、あの、エビのブラック・タイガーを、
伊勢(いせ)エビ だとか、
偽(いつわ)ったりする、
食品偽装(しょくひんぎそう)のことね。
わらっちゃうよね。
あの事件のおかげで、
モリカワは、その仕事の誠実さや信用度が、
世間から 高く 評価されちゃったわけだからね。
あっはは。
嘘(うそ)だらけの世の中だから、
モリカワのような、マジメにやっている会社が、
人気になるのは当然なのだろうけど。
わらえるよね。あっははは…」
「ちょっと、みんな、何のための仕事なのかとか、
何のために生きているのかとか、
考えたほうがいいのかもね。
なーんって、
偉(えら)そうなことをいっている、わたしもだけど」
「詩織ちゃんのおっしゃるとおりですよ。
おれなんかも、お金のためだけに、
働(はたら)いているんでもないし、
お金もうけのために、
音楽やっているんじゃないからね。
ちょっと売れたからって、
芸能人とかになる気もないし、
会社勤(つと)めは、続けるつもりだし」
「しんちゃんは、愛と正義のためだものね!
わたしも、特に、芸能人とかには
なりたいとは思わないな。
楽しく、音楽活動ができれば、十分(じゅうぶん)だわ」
「おれも、詩織ちゃんも、いつも元気で、
ベストを保(たも)って、そして楽しく、
マイペースでいいんだから、
いい音楽 作ったり、バンドやっていこうね!」
「うん、しんちゃん!」
信也と 詩織は 声を出してわらった。
「詩織ちゃん、きょうは天気もいいから、
バイクで、どこか、メシでも食べにいこうか?」
「うん、賛成!どこかへ連れてって!
安全運転でね!うっふふふぅ…」
「よっし!おまかせ!あっはは…」
わらいながら、ふたりは、さっそく、着替える。
それから、数分後。
ペア(そろい)の バイク・ヘルメットの、
ふたりを 乗せる、イタリアンレッドの、
ホンダ・CB400・スーパー・フォアが、
マンションの地下の駐車場から、
フォン、フォン、フォーン!クァァ アアアーン!
と、軽快な金属音を響かせて、
郊外(こうがい)へ、風のように 走り去った。
≪つづく≫ --- 26章 おわり ---
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (1)
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (1)
12月1日の 日曜日。 午前11時30分。気温は 15度ほど。
肌寒(はだざむ)いが、好天(こうてん)に 恵(めぐ)まれて、
日差(ひざ)しは 暖(あたた)かである。
下北沢(しもきたざわ)駅から、歩いて3分ほどの、
ライブ・レストラン・ビートで、正午(しょうご)から、
グレイス・ガールズ と クラッシュ・ビートの
ダブル・ヒット・チャート・TOP 5入り・祝賀パーティーが
行(おこな)われるところである。
人(ひと)びとの行(ゆ)き交(か)う、
下北沢(しもきたざわ)駅で、待ち合わせをした、
清原美樹(きよはらみき)と 松下陽斗(まつしたはると)が、
楽しげに 会話をしながら、
ライブ・レストラン・ビートに 向かって 歩いている。
美樹は、チェック柄(がら)のセミ・ショルダー・バッグを
肩(かた)にかけ、ゆったりとした ネイビー(濃紺)の
ボア・コートに、スカート丈(たけ)が 膝(ひざ)から
少し上の ワンピース、ワインカラーのコットンタイツで、
歩く 姿(すがた)も 可愛(かわ)いらしい。
美樹は 1992年10月13日生まれ、21歳。
陽斗(はると)は、インディゴ・ブルー(濃紺)、
裏(うら)が 暖かい生地(きじ)の フリースの ジーンズに、
厚手(あつで)の グレーの ジャケットが よく 似(に)あう。
陽斗は、1993年2月1日生まれ、20歳(はたち)。
「美樹ちゃん、オリコンの CDの 売り上げランキングとかって、
いま、どうなっているんだっけ?」
といって、ほほえみながら、陽斗は 美樹を見る。
「昨夜、確認したら…、週間の CD・売り上げ ランキングが、
グレイス・ガールズは、アルバム・チャートが 3位だったわ。
シングル・チャートが 2位だったの。
クラッシュ・ビートは…、アルバムが 2位で、
シングルが3位だったわ。なんか、ウソみたいで、
すごいことよね!」
子どものように 微笑(ほほえ)んで、
美樹は 眩(まぶ)しそうに 陽斗(はると)を 見る。
美樹の身長は 158で、陽斗は175だから、
美樹は 陽斗を ちょっと 見上げる 感じになる。
「そうなんだ。アルバムじゃ、クラビ(クラッシュ・ビート)が、
2位かあ。グレイス・ガールズも3位なんてね。
まったく、夢を見ているような、現実だね、美樹ちゃん。
多くの ミュージシャンたちは、成功を 夢に見ながら、
経済的には、いつも大変で、ぎりぎりの生活をしている人が、
ほとんどという、きびしい、この世界なのにね。
モリカワ・ミュージックは、そんな夢見る人たちを、
いいカモとかにしないから、おれは好きなんだ…。
この世の中、何を信じていいのか、自分のことしか、
考えてない、口ばかりがうまい、詐欺師(さぎし)とか
ペテン師見たいのが多すぎるよね、美樹ちゃん。
大学も出ていて、頭がいいからって、
その人を信じていたら、大ウソつきで、
人をだまして、自分の利益だけを考えているなんてのが、
ゴロゴロいるんだからなあ…」
「どうしたの 急に、はる(陽)ちゃん。
なんかイヤなことあったの?」
「まあね、あっはっはは!でもね、モリカワ・ミュージックや
モリカワって会社は、正直一筋(しょうじきひとすじ)で、
突き進んでいて、どんどん大きくなっているから、
おれは好きだなぁ…。
おれが、モリカワ・ミュージックと、専属の契約をしたのも、
モリカワが、立場の弱い、弱者というか、個人を、
尊重(そんちょう)してくれるからなんだよ。
はっきりいって、世の中の風潮(ふうちょう)は、
その反対で、社会的弱者や個人を、無視する方向の
ような気がするからね。ねえ、美樹ちゃん」
「うん。はる(陽)ちゃんのいうこと、よくわかるわよ。
わたしも、モリカワだから、純さんのお父(とう)さんたちの
会社だから、信用して、契約したんだもの」
「モリカワの 社是 社訓(しゃぜ しゃくん)は、
世直(よなお)しだから!違(ちが)ったっけ?…あっははっ!
でも、社長の、純さんのお父さんは、坂本 龍馬(さかもとりょうま)を
師(し)と 仰(あお)ぐような 人で、正義感の かたまりのような、
それでいて、子どものように 純真な 心の 人なんだよね…」
≪つづく≫
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (2)
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (2)
「知っているわ。わたしも 雑誌で、そんな記事を
読んだことあるもの…」
美樹は、無意識に、陽斗(はると)の手を 握(にぎ)っている。
「雑誌といえば、美樹ちゃんのグレイス・ガールズや
クラッシュ・ビートへの、雑誌の取材の申し込みが、
すごいらしいじゃん!」
「そうらしいわよね…。わたしなんかも、突然、
写真撮(と)られたりすること、あったもの、最近。
どこかの雑誌社の人らしいけど。
でも、すべての取材は、モリカワ・ミュージックが
窓口(まどぐち)になっていて、ほとんど、すべて
お断(ことわ)りしているみたいだから、
わたしたちの生活は、ほとんど、いままでどおりの
平穏(へいおん)なんだけどね。
これも、モリカワの お蔭(おかげ)なのかしら…」
そういうと、美樹は 陽斗を 見て 微笑(ほほえ)む。
「モリカワって会社は、ほんとに、良心的だよ。
美樹ちゃんは、よく知らないと思うけど、
おれたち、一応(いちおう) プロ になっている、
ミュージシャンやアーティストの収入(しゅうにゅう)って、
大きく 分(わ)けて、2つあるんだけどね。
ひとつは、アーティスト印税という、実演家(じつえんか)に、
与(あた)えられる印税。
もうひとつは、著作権 使用料といって、
コンポーザー、つまり、作曲者や 作詞者に
与えられる 著作権 印税があるんだよね。
ザックリ いって、この2つになるんだよ。
たとえば、そのアーティスト印税なんかは、
普通、1%から、多くても 3% くらいしか、
もらえない契約が多らしいんだ。
それを、モリカワでは、5% くれるという契約だから、
すごいというか、画期的だよね」
「それって良心的だわよね。著作権使用料というのは、
営利を 目的として、楽曲を使用したり、
歌詞や楽譜などを引用するときに、著作権者に
支払うとかいう、その使用料のことなんでしょう?
音楽 ビジネスって、権利 ビジネス ともいわれているくらい、
権利というか、利権というか、お金に対して、
シビア(過酷)なんだって、姉(あね)の美咲ちゃんがいってたわ。
なんか、いろいろと 難(むず)しいわよね。
わたし、法律的なことは 苦手(にがて)だから…。
お姉ちゃんの、美咲(みさき)ちゃんのように、
弁護士には、絶対(ぜったい)、なれないわ!」
そういって 美樹が 声を出して わらうと、陽斗もわらった。
「だいじょうぶだよ。美樹ちゃんには、もっと、ほかの、
才能があるんだから!あっはっは。
ところでさ、グレイス・ガールズや、クラッシュ・ビートや、
クラッシュ・ビートのアルバム作(つく)りに
参加させてもらった、おれにもだけど、
お金が どのくらい、口座に 振(ふ)り 込(こ)まれるか、
おれ、ザックリ、計算してみたんだ」
「ええ!?…うっそ!」
「まあ、お金なんて、そのために、音楽やってるんじゃないけどね。
まあ、気になって計算したんだ。そしてたらね、
作詞作曲は、すべて、バンドのメンバー全員というか、
楽曲つくりに 参加した メンバー全員に、という 契約で、
計算したんだけど、アルバムとシングルが、ともに6万枚くらい、
いまのところ売れてるじゃん。そしたらね、
グレイス・ガールズの場合、1317万円くらいを、
メンバーの5人と 岡昇(おかのぼる)くんの、
6人で、平等にわける 計算になるんだけど。そしたらね、
ひとり、219万くらいの収入になったかな。
ちょっとすごい 金額だよね。それも、まだ1カ月くらいなんだから、
売り上げは、まだまだ 伸(の)びると 考えると、
まだまだ、収入は 増(ふ)えると 思うなぁ!」
「そうなんだ。うれしいような、なんか、びっくりよね。
これも、モリカワや、会社のスタッフや、たくさんのみなさんの
お蔭(かげ)よね」
「メジャー・デビューしたばかりで、ヒットチャートを 盛り上げて、
どうせ、一発だろう?なんて陰口(かげぐち)をいう ヤツもいるけど
これは、みんなの 才能と 努力の成果(せいか)だよね。
モリカワ・ミュージックも、社運(しゃうん)を 賭(か)けて、
おれたちの、CDの制作や製造、あと、小売店への営業や
新聞、テレビ、ラジオなどの、メディアへの、
プロモーション( 販売 促進 )を行(おこな)ってきたんだし…」
そんな話をしながら、美樹と陽斗は、ライブ・レストラン・ビートの、
入り口に 着(つ)く。レストランは、静かに 陽光を 浴(あ)びる
樹木(じゅもく)に 囲(かこ)まれている。
≪つづく≫
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (3)
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (3)
「ライブ・レストラン・ビート の 赤レンガ って
わたし、好きなの!」
清原美樹(きよはらみき)が、11 の 石段 になっている
エントランス(入口)を、松下陽斗(まつしたはると)と
手をつないで 歩きながら、そういった。
ライブ・レストラン・ビートの建物の、おしゃれな 深い味わいの
赤レンガの建物は、下北沢でも人気のスポット(場所)でもあった。
「赤レンガ 造(つく)りって、1個(いっこ)ずつ、
積(つ)み 上(あ)げるわけだから、
手作りのよさのような…、
古(ふる)き 良(よ)き 時代とでもいうような…、
ノスタルジック とか、 郷愁(きょうしゅう)とかの、
懐(なつ)かしい 雰囲気(ふんいき)があるのかもね」
「うん。そうね。見て、陽(はる)くん、
花束(はなたば)が すごく きれい!」
エントランス(入口)の 石段を 上(あ)がった
フロント(受付・うけつけ)の手前には、
『祝・ヒットチャート・TOP 5 』という 札(ふだ)の ついた、
色とりどりの スタンド花(ばな)が、華(はな)やかに
飾(かざ)られてある。
12月1日、日曜日、12時15分前で、
開演まで、あと 15分。
フロントには、チケットを手にする 来場者たちがいる。
TOP 5入り・祝賀パーティーの チケット(入場券)には、
招待(しょうたい)で配布(はいふ)したものと、
予約販売(よやくはんばい)したものとがある。
「いらっしゃいませ!」
フロント(受付・うけつけ)の、2人の若い女性 スタッフの、
丁寧(ていねい)で 気持ちのよい 挨拶(あいさつ)に、
美樹と 陽斗は、微笑(ほほえ)む。
「美樹!」
美樹は 肩(かた)を、ちょんと 叩(たた)かれて、
振(ふ)り 向(む)く。
小川真央(おがわ まお) と 野口翼(のぐち つばさ)の
ふたりが来ていた。
清原美樹も、小川真央も、1992年 生まれの、
早瀬田(わせだ)大学、教育学部の3年の、21歳。
ふたりは、下北沢に住んでいる 幼馴染(おさななじ)みで、
小学校、中学校も同じ学校で、同じ教室だったことも、
何度もある、かけがえのない 無二(むに)の親友であった。
野口翼は、1993年 生まれ、早瀬田(わせだ)大学、
理工学部の 2年で、
松下陽斗と 同じ、20歳(はたち)だった。
「美樹ちゃん、TOP 5入り!おめでとう!」 と 真央は
満面(まんめん)の 笑顔(えがお)で いう。
「美樹ちゃん、おめでとう!」 と 翼(つばさ)も いった。
「どうも ありがとう。真央ちゃん、翼くん。
真央も、もうすぐね、お誕生日。お祝いしようね!」
そういって、美樹は 真央に ハグをする。
「ありがとう…」 と 真央も 美樹を 抱きしめた。
下北沢にある、ライブ・レストラン・ビートは、
280席の キャパシティ(収容力)があって、
下北沢でも 最大級。
下北沢でも、20年にわたって 運営してきた、
ライブハウスの ライブ・レストラン・ビートは、
今年の 1013年の 2月に、
株式会社 モリカワによって、
友好的 買収が 成立したのであった。
モリカワの、ライブハウス事業を 全国 展開のための、
布石(ふせき)として、
ライブ・レストラン・ビートは、
収得価額(しゅうとくかがく)、9千万円で、
ある 有名 ミュージシャンの設立した会社から、
買い取ったのであった。
全株式を取得し、1013年 2月3日付で、
ライブ・レストラン・ビートは、モリカワの
完全 子会社となった。
モリカワは、ライブ・レストラン・ビートの 子会社化によって、
将来へ向けて、 創造的に、音楽 事業に 取り組むための、
ライブハウス 運営に関する ノウハウ(know-how)などを
効率的に 収得(しゅうとく)できたのであった。
≪つづく≫ ☆ 次回は、12月23日ころの予定です。
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (5)
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (5)
「わたしも、前に、美樹ちゃんちの法律事務所で、
アルバイトさせていただいわよね。
そのとき、感じたけど、法律事務所って、
社会の縮図(しゅくず)にみたいな気がしたわ。
美樹ちゃんちの法律事務所は、ほんと、
知的な感じで、センスがあって、お部屋もきれいで、
優(やさ)しくて、すてきな、お姉さまやお兄さまばかりで、
居心地(いごこち)も、最高だったわ。
また、アルバイト、させてね、美樹ちゃん」
「こちらこそ、よろしくだわよ、真央ちゃん」
「美樹ちゃんはね。
そんな環境の中で、育ってきたんだもの。
それで、
世の中、社会の仕組みとか、よく知っているし、
理解できるのよ。
人の気持ちの、機微(きび)とでもいうのかしら、
そういうものも、
わたしなんかよりも、よくわかっているし…。
美樹(みき)は、
人の 外面(がいめん)からは、決して、わからないような、
微妙(びみょう)な 心の動きとか、
物事(ものごと)の趣(おもむき)というのかな、状況(じょうきょう)とか、
察知(さっち)いたするの、特技(とくぎ)なんだもの!」
「そうかしら、真央(まお)ちゃん。自分では よくわからないな!」
「うん、美樹は、妙(みょう)に、オトナの、ところあるもん。
たぶん、
そんな、法律事務所という、特殊な家庭 環境(かんきょう)
の中で、
美樹は 育(そだ)ってきたからなのよ。そんな環境のせいで、
いつのまにか、
美樹ちゃんは、その魅力的で、少女のような、あどけなさとは、
なんというのかしら、
アンバランスで、どこか、つり合(あ)いがとれていないような、
妙(みょう)に、悟(さと)りきっている オトナの女性の、
考え方が身についているのよ、きっと…」
「アンバランスで、悪(わる)うございましたわ」 と 美樹。
「美樹ちゃん、ごめんなさい。でも、そんな、美樹だから、
バンドのリーダだって、立派に 務(つと)まるのよ!
わたしは、いつだって、美樹を応援(おうえん)してるんだから!」
「ありがとう!真央ちゃん!わたしも真央ちゃんが大好き!」
と美樹は、
いいいながら、瞳(ひとみ)を 潤(うる)ませる。
そんな会話に、4人が、声を出して、わらった。
「ははは。たしかに、人間のもめごとの、ほとんどは、お金。
お金に 纏(まつ)わることばかりだし…」
そういって、松下陽斗(まつしたはると)が わらった。
「人の欲望(よくぼう)には、際限(さいげん)がないとか、
よく、いいますもんね」
陽斗(はると)の 隣(となり)にいる 野口 翼(のぐち つばさ)が、
そういって、若者らしく 微笑(ほほえ)む。
「お金は、時(とき)には、恐(おそ)ろしいものだわ。
その人から、地位でも、名誉(めいよ)でも、信用でも、
家族とか、愛や友情でも、奪(うば)いとってしまうんだから」
いつもは、明るい 美樹が、ちょっと 暗い表情になって、そういう。
「大丈夫(だいじょうぶ)よ!美樹。そんな悲しいこと、
考えないの!いつも 元気な、美樹らしくないわ!
美樹が、いくら、お金持ちになっても、
私は、いつまでも、美樹の 親友でいるつもりなんだから!
美樹は、お金なんかより、
大切なものがあることを、よく知っている、いい子だもん!」
小川真央(おがわまお)が、そういって、声を出してわらう。
「ありがとう、真央(まお)」 といって、美樹は、真央の手を
固(かた)く 握(にぎ)った。
≪つづく≫ 次回は2013年、12月30日の予定です。(^^)
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (4)
26章 TOP 5入り・祝賀パーティー (4)
12月1日、日曜日、正午ころ。開演までは、あと 10分。
派手(はで)さはないが、温(あたた)かな 趣(おもむき)のある、
赤レンガ造(づく)りの、
ライブ・レストラン・ビートの、
エントランス(入口)の 石段を 上(あ)がった
フロント(受付・うけつけ)は、
チケットを手にする 来場者で、順番を待って、
長々と続く、二人ずつの 行列(ぎょうれつ)だった。
清原美樹(きよはらみき)、松下陽斗(まつしたはると)、
小川真央(おがわ まお)と 野口 翼(のぐち つばさ)も、
2列(にれつ)に 並(なら)んだ。
「なんか、びっくり。わたしたちのバンドの祝賀会に、
こんなに、一般の人たちが、来てくれるなんて!」
そういって、美樹は、隣(となり)の 真央にいった。
「いつのまにか、美樹たち、人気者になっているのよね!」
と真央が、
美樹に、それを祝福するように、やさしく、ほほえむ。
「そうなのかしら」と 美樹。
「美樹ちゃん、おれ、計算を 間違っていたよ」
美樹と真央の、うしろに並(なら)ぶ、
松下陽斗(まつしたはると)が、
清原美樹(きよはらみき)に 小さな声で そういった。
「どうしたの!?はる(陽)くん…」 と 美樹は、
陽斗(はると)に 振り向く(ふりむく)。
「さっきの 印税の 計算だけど。
シングルの売り上げを計算に入れるのを忘れてたさ。
なんか、抜けてるよな、おれ。
シングルを 計算に入れると、
ひとりあたり、293万円くらいの収入になるよ。
すごい、金額だ」
「うん、スゴすぎ…。でも、お金って、
たくさんあっても、困らないよね!
無(な)くて、困(こま)るよりは いいことよね!」と
美樹はいいながら、
真央ちゃんたちが いるんだから、
いまは、お金の話は、止(よ)そうってば…、と思う。
「いいわよね。美樹ちゃん。まるで 宝くじが
当(あ)たっちゃったみたいに、急に、
お金持ちになっちゃって。とても 羨(うらや)ましいわ」
そばにいる、小川真央(おがわ まお)が、そういう。
「でもね、真央(まお)ちゃん、お金って、
いろいろと、トラブルというのか、心配事(しんぱいごと)や
不幸(ふこう)を 招(まね)く、素(もと)でもあるのよね。
うちの父親や
姉が弁護士でしょう。法律事務所に、持ちこまれてくる話は、
ほとんどが、
お金が関係することばかりなんだから。
事務所の、お手伝(てつだ)いを、たまにしてるじゃない。
お金って、扱(あつか)いが、難(むずか)しいんだなって、
つくづく 感じちゃっうのよね。
人間を、狂(くる)わしちゃうんだもの」
といって、美樹は、ちょっと 困(こま)った顔をして、
真央を見る。
≪つづく≫
雲は遠くて