宮沢賢治…雨ニモマケズ書評

宮沢賢治…雨ニモマケズ書評

皆さんこんばんは。
今日は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を皆さんと一緒に鑑賞したいと思います。
まず、作品全文を紹介します。

雨ニモマケズ   宮沢賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル

一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ

さて、宮沢賢治という人は、明治二十九年(1896年)岩手県花巻市に生まれました。盛岡高等農林学校で学び、その後、日蓮宗に帰依し熱心な信者となりました。その布教のために童話を書き始めたようです。

そして、大正十年、妹の病気のため帰郷して、稗貫農学校の教師となりました。その翌年より作品を盛んに作り始めたようです。
大正十五年に教師を退職して、農業指導員として、農業啓発活動を始めました。

宮沢賢治は、「銀河鉄道の夜」や「注文の多い料理店」など有名な作品が残っていて、今では誰もが知っている作家ですので、皆さんのイメージは賢治の存命中も名の知れた作家として、成功を収めた人というものではないでしょうか。

しかも、作品の雰囲気や、三十七歳という若さで病死したことなどから、とても暗い人というイメージがあるように思えます。
でも、この人の生涯は、これらのイメージとは程遠いものであったようです。

まず、宮沢賢治が存命中に書いた作品で貰った原稿料はたった一度だけでした。しかも、それは、新聞の投稿に応募して採用された結果の謝礼程度のものでした。
賢治の作品が、今日たくさんの人々に読まれるようになったのは、賢治存命中に親交のあった詩人の草野心平などの作家が、その才能を惜しみ賢治の死後作品を紹介したことによります。

今回取り上げた、「雨ニモマケズ」も賢治の死後、手帳に書きとめてあったものが世に出たのです。

そこから察するに賢治は存命中、作家として成功しようという意思はあまりなかったのではないかと思われます。
そして賢治は、自分に与えられた仕事に熱心に取り組む人でした。
特に、農業指導員としての活動はことさら熱心で、不作や凶作が多かった東北の農業を安定させようと、アイデアを捻り出し、東奔西走して活躍していたようです。

そんなころに彼は、農村演劇を主催したり童話を書いたりしていますが、それは自分の作品を世に問おうと言うよりも、自らの周りにいる農民たちを勇気付け、仏教で学んだ「幸福への道」を指し召したかったのではないかと思います。

また、賢治は暗い性格ではなく、よく笑うエネルギッシュな人物であったと伝えられております。
農民の中に飛び込み、エネルギッシュに仲間の幸福を願い行動する賢治の姿が私には感じられます。

ではいよいよ、「雨ニモマケズ」の本文に入ることにしましょう。
現代の口語に直して解説したいと思います。
この作品は、賢治が目指した人間像を表しています。

雨にもまけないで、
風にもまけないで、
雪にも、夏の暑さにも負けない丈夫な体を作って、
決して、思った通りにならない不満を爆発させず、
いつも静かに笑っている、

この冒頭の部分は、賢治の目指す人間像が、特別な力を持った強大なものではないと示しています。
雨、風、寒さ、暑さ、は誰もが向かい合っていることですね。
同じような生活でも、暑くて嫌だ、寒くて嫌だ、と愚痴をこぼして生きるのかどうか、「丈夫ナカラダヲモチ」は、そういった変化に愚痴を言わない自分といっているように私は思います。
そして瞋恚の気持ちを持つことなく穏やかな精神、これが第一ということでしょうか。

一日に玄米を四合と味噌と少しの野菜を食べて、
あらゆることを、
自分を勘定に入れないで、よく見て、聞いて、知って、理解して、
そして忘れることなく

一行目は、贅沢をしないということでしょう。
二行目以降は、自分を捨てて他者のために生きるという、賢治が学んだ仏教の菩薩道の生き方を語っています。
菩薩道とは、「自分を捨てて他者のため」の生き方ですが、仏教ではこの菩薩道を生きることが、何よりも最高の幸福であると説いています。

自分自身が、財産や名誉を得ることは一見幸福そうに見えますが、得た財産や名誉は、永遠ではなくなくなったりするものです。
すると、今財産や名誉を持っていても、なくならないように常に心配しなければならないですね.
しかも、人間は必ず死を迎えて失うときは必ず来るのですから、これは最高の幸福とはとても言えないでしょう。
仏教では、そう言った手に入れる幸福より、他者に尽くすことによって得られる人間関係に重きを置いています。
また、菩薩道といっても特別なことではなく、他者を見て、聞いて、知って、理解して、忘れないという素朴な行動にあるとも語っています。

野原の松の林の蔭の、小さな萱ぶきの小屋に住んで、
東に、病気の子供がいたら、行って看病をしてやり
西に、疲れた母がいたら、行ってその人の稲の束を背負ってやり、
南に死そうな人がいたら、行って怖がらなくてもいいと言い、
北に喧嘩や訴訟があったなら、つまらないことだからやめろと言い、

ここは、前段の菩薩道をさらに展開したところです。
ここでも、菩薩道といっても特別なことではなく、ごく平凡な行為の中にそれはあるのだと言う、賢治の思いが伝わってきますね。

日照りのときは涙を流して、
寒い冷夏の夏はオロオロ歩いて、
みんなに木偶の坊と呼ばれて、
誉められもしないで、
苦にもされない、
そういう者に、私はなりたい。

さて、最後の段ですが、この段以前は素直に目指すべき人間像を語っています。
それだけですと、この作品は、道徳的な論評だけで終わってしまいます。
そこで、この最後の段は少し雰囲気が変わります。

それは、前段までの人間像を目指して生きた賢治の中に沸き起こる感情がここに込められており、そして、この最後の段がこの作品の文学的な深さを醸し出していると感じます。

さて、菩薩道が「最高の幸せ」と言いましたが、それは決して現実の苦悩から逃れられたわけではありません。
むしろ仏教でも、この苦悩の海に立ち上がるのが、菩薩であり仏であると説いています。
お釈迦様の座っているところが蓮華の上であるのは、実はそれを表しているのです。
蓮華は、泥沼の中から出て清浄な花を咲かせます。それは、現実の苦悩の中に足を踏ん張り、立ち上がる姿なのです。

では、作品に戻りますが日照りや冷夏は農民にとっては死活問題です。
賢治も、農業指導員として立ち向かった相手はこの日照りと冷夏だったのでしょう。

さまざまな策を講じても、なかなか思ったように乗り切れるものではありません。その自身の無力さを感じながらも、何とかしようと懸命になっていた賢治の姿が、「ナミダヲナガシ」と「オロオロアルキ」から伝わってきますね。
賢治は、農民たちと一緒に苦しんできたのでしょう。まさに、農民と同苦していました。

ここは私の想像ですが、そんな凶作の年に偉いお役人などが来て、僅かばかりのお金を出したりする。それを農民は、有難がり卑屈に媚び諂う姿を賢治は目の当たりにしてきたのではないかと思うのです。

そのような偉いお役人は、凶作でも飢えることないのに僅かばかりの施しで威張っている。しかもそれは、一時の助けにはなっても、抜本的な解決には至らない。

そんな姿が、農民と共に苦しみ、共に飢えながらも、その苦悩からの抜本的な解放を目指して努力してきた賢治にとっては、「あのような者にはなりたくない」という強烈な感情が巻き上がったのでしょう。
それが、「デクノボートヨバレ」「ホメラレモセズ」に込められていると感じます。

宮沢賢治は、病で死ぬ間際にこの作品をノートに書き付けました。
その時の気持ちを想像するに、志半ばで死に行く悲しさもあったとは思いますが、三十七歳の短い生涯を全力で生き切った満足感も私は感じ取れます。
菩薩の道を、僅かでも歩むことのできた満足感、仏教の説く「永遠の幸福」を味わっていたのかも知れません。

マラソンランナーの有森さんのように「自分で自分を誉めたい」と思ったかも知れません。

この宮沢賢治の生涯と、この「雨ニモマケズ」に込められた人間のあり方は、実は私も人生の指針としているのです。
私も、賢治のように民衆と同苦しながら皆の幸せのためにできることを力いっぱいやり遂げて生きたいと、私の決意を表明いたしまして話を終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました。

宮沢賢治…雨ニモマケズ書評

宮沢賢治…雨ニモマケズ書評

宮沢賢治作、「雨ニモマケズ」の作品解説を講演した時の原稿です。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted