超人

始まり・・・

口の中が切れたみたいだ。
舌先にぬめっとした感触。吐いた唾には血が混じっていた。
 その行為を宣戦布告と捉えたのか、鳩尾に笹川の本気のパンチを何発も喰らった。
今日も笹川とそのダチ数人に放課後呼び出されボッコされた。
 ぶっ倒れて無抵抗の俺を笹川は何度も、何度も蹴り上げた。

「犬神、ナニ睨んでるんだよ、胡散臭い野郎だな……テメエのその人を見下したような態度が気にいらねんだよ!」
「ほらほら、一樹ちゃん。そんな眼で見ないでよ……いいかげん謝んないと郁夫に殺されちゃうよ」
 笹川の腰ぎんちゃくの海野がニヤけた笑いを浮かべながら言った。
「犬神てめえ、もてない、勉強できない、スポーツできないのさんないのくせして郁夫に盾突くなんて一万年と二千年早いんだよ」
 海野の言葉が終わらないうちに海野のボディに笹川の蹴りが炸裂した。海野が4、5メートルは吹っ飛んだ。
「海野、テメエ面白くないしー、テメエに郁夫呼ばわりされる筋合いねえんだよ」
凄みの利いた笹川の声が響く。取り囲んでいた数人が後ずさりした。
「す、す、すいません郁夫さん、すいません」
腹を抱えながら地面に突っ伏して海野が泣きそうな声で許しを乞う。

 「てめえらも見てないで殴れよ、俺、殴りすぎて疲れちゃったよー」

笹川の一言に弾かれたように取り巻きが殴りかかる。俺は無抵抗なまま結局小一時間殴られっぱなしだった。
「名前が犬神のくせして一匹狼気取ってるお前には虫唾が走るんだよ、いいか瀬名に馴れ馴れしくすんなよ、テメエ今度は殺すよ、マジだからな……」
笹川は、吸っていた煙草を俺の顔のすぐ横でもみ消し、捨て台詞を残し、校舎の裏手にあるサッカー部の部室に消えた。
俺はそれを地面に這いつくばりながら眺めた。

 言い忘れた。笹川郁夫はサッカー部の主将でエース・ストライカーでクラスの副委員長で、勉強も学年でトップクラス、学校中の女子生徒にキャアキャア言われる存在、そして、俺のことが大嫌いだ。
 いつまで、いったい、どこまで隠し通せるんだ……気づいたのは確か7歳のころだから小学校2年生くらいか、それ以来俺は悩み続けてるんだ。

 その夜の高揚を今でも忘れない。俺は人類の救世主になれるかもなんて夢を見たさ、でもね、
俺は特別な人間なんだって気づいた時から、俺の本当の苦悩が始まったんだ。

 俺は自身を制御するすべを身につけたよ、完全ではないにしても、あいつと会い、そして俺自身の手であいつを殺さなきゃならない愚かさを知った時、俺は悟ったんだ、この能力を封印しなければ、今度は俺が抹殺されるんだってね。

 隠れて俺が何をしてるか、知ってるか、ははは、知ったら驚くよ。俺は十一歳の時人を一人殺した、間接的にせよだ、正当防衛だとしてもだ。殺したことに違いはないんだ。

 で、フラストレーションが溜まると何すると思う……東京タワーに登るのさ、素手で、電波塔の天辺から叫ぶんだ、こう言うんだ。
「知ってるかああ、俺はスーパーマンなんだぜ、現実のなああああ」ってね。
 最近は慣れたからかな、登るのに五分とかからない、なにせ常人じゃないからね。ああ、小学生の時、本気で百メートル計ったら、もちろんG-ショックでさ、手動だよ、五秒フラットだよ、五秒フラット、何度も計りなおしたさ、変わらなかったよ、きっかり五秒だった。
 それ以来肉体にはさほど興味がなくなった。だって、どんな人間よりも早く走れて、どんな人間よりも高く跳べるんだぜ、走り高跳びでブブカの記録を軽く凌駕するんだ。

 で、次に試したのは近くの図書館へ行って片端から本を読むこと。どのくらい理解できるのか試したかったんだ、まあ教科書がチョロ過ぎたからね、で、まず片っ端から文学を読み漁り、最後に行き着いたのが哲学の数々……カントの純粋理性批判から始めて、マルクス、エンゲルス、ラカンにドウルーズ、デリダ、ニーチェ、ついでに浅田までね、もちろん物理だって押えたさ、相対性原理だとか、超ひも理論だとか、それらを理解できるんだと知った時、俺は世界の事象の全てを悟ったと思ったね、で、飽きた。俺は元来飽きやすいんだ。さほど、小さくもない図書館の蔵書全てを読破するのにきっかり21日かかったよ。

 小学五年生、十一歳で万物を理解しちゃったんだ、どうする?でも、哲学の書物を何冊読み漁ったところで、俺みたいな人間がなぜ生まれてきたんだという自身への問いの答えは出てはこなかった。暗澹たるこの気持ちが分かるかい?

 平凡な公務員の父とこれまた平凡を絵に描いたような専業主婦の母親の間になんで俺みいたなのが生まれてきたんだろう……。


 毎日通う俺を司書の子が胡散臭そうな目で睨むんだ、何しろあのペースで読んでたんだからね。でも、俺は読みながらその司書の分厚くて黒い眼鏡とストッキングとパンプスとシルバーのアンクレットをちら見しながら読み続けてたんだ、思うに俺の脚フェチはこの頃から始まったんだね、うん。

 で、経験から俺は中庸で行こうと決めた。俺のレゾン・デートルが俺の中で昇華されるまで、とにかく目立たず、人生を生きようと決めたんだ。かけっこは常に三着、勉強は中の上くらいをキープする、学校ではなるべく目立たず、そんな人生を演じることに決めたんだ。屈折してるだろ、だけど、この時決めた結論がこれだったんだよ。

 何しろ、ちょっと俺が能力を見せただけで嫉妬するやつがうじゃうじゃ湧き出てくるんだもの、俺はある意味、出来損ないなのかも知れないんだ。それこそ、「畜群」から見れば俺は嫌われこそすれ歓迎されるべきキャラじゃないよね、なんたって能力がヒトのそれじゃないんだからな。

 だから中学の三年間はとにかく目立たないように最新の注意を払って人や世間との接触を絶った。俺は人間だけど、人間じゃないからだ。
 孤独と絶望を味わいながら日々を過ごした。
 神様はいったいなんでこんな出来損ないを作ったんだ?? 有り余る力を、ひたすら隠すことだけに全力を尽くすっていったいどういうことなんだ。
 世界を手に入れることだってできるんだぜ、この力を解放しさえすれば…… 。

 で、そんなこんなで俺は無事に高校生になった。

 「ほら……これで拭きなさいよ」
俺の目の前でハンカチが揺れた。学級委員の相澤瀬名だった。
勉強学年で常にトップ、スポーツ万能、水泳部の主将、父親は総合病院の院長、母親は青山で画廊を経営している。
 おまけに飛び切りの美人で、モデル並の体型、十六歳ですでに人生の全てを持ち合わせている女……。
「昨日一緒に帰ったから? 私が悪い?だから郁夫にやられたの?」
ツイン・テールの髪からいい匂いがした。きっと腋とか、首筋とか、脚とかもいい匂いすんだろうな。
「なに?だんまり……どっか、痛いの」
「俺にかまうなよ、それに昨日は一緒に帰ったわけじゃない。そっちが勝手に着いてきたんだろ」

 笹川に殴られた頬が痛んだ。足元がふらついた。多分そこら中青痣だらけだろうな……狡猾な笹川は外見にはあまり手を出さず、主に腹とか脚とかを狙う。喧嘩の時、俺はいつだってガンジーを見習う無抵抗主義者だ。もちろん、不服従も忘れてはいない。
 体育館脇の何列にも並んだ水道の蛇口をひねった。口元を冷やすと幾分かは楽になった。

「黒木クン、大丈夫? なんで郁夫懲らしめてやらないの、ほんとはあんな奴なんか……」
「なんだよ、うるさいな。まだいたのかよ、また笹川に目付けられるんだよ、さっさと帰れよ」
それでも、相澤瀬名はしつこく俺の切れた口元を、濡らしたハンカチで拭こうとする。
「Yシャツにも血が付いてるじゃない……ちょっと待ってて」
俺は有無を言わさぬ相澤のペースにはまって腕を抱えられ正門へと引っ張られる。
鞄から赤い携帯を取り出した相澤がテルしてる。
《ああ、紺野さん、うん今帰るんだけど、そうじゃあ正門とこ来てよ、うん、今日はちょっとね、事情があって》

 正門を出たのと同時に黒塗りのベンツが相澤の前に止まった。
背広姿のオトコがさっとドアを開ける。
「お嬢様、正門なんかに止めるのをあれほど嫌っておられたのに、今日はまた……」
「ああ、紺野さん気にしないでね、今日はもう一人乗るから」
慣れたそぶりで車に乗り込んだ相澤が俺に手招きする。
「ほら黒木クン、乗ってよ。脚見せたげるから、授業中いつも見てたでしょ、知ってるんだから」
聞いた俺はみるみる赤くなるのが分かった。し、しまった気づいてたんだ相澤のヤツ……。白状しちゃうと相澤の下駄箱にあった破れたハイソ盗んだのも上履き盗んだのも俺です、ごめんなさい。
 革のシートに身を沈めると、相澤は満足そうな笑みを浮かべた。

 従わせることに慣れきった態度だった。根っからの良家の子女っぷりじゃないか、総てをもちあわせているんだんもんな、横柄になるのも仕方ないよな。
 なぜ、こんなに俺にかまうんだよ相澤、俺にはさっぱり分からなかった。

 エアコンの効いた車内、すーっと汗が退いてゆく。

 秋葉原でカツアゲされそうになったことがあった。忘れられない記憶の断片。俺は自分の力ってやつに酔いそうになったよ、
良く分からないんだ。俺は小学生、相手は高校生くらいが十数人。中には半そでから覗く腕にタトウしたやつも何人か混じっていた。
 金出さないと半殺しだとかなんとか言われて路地裏に連れ込まれて、グズグズしてたらスゲーが体のいいやつに一発殴られて、ポケットからバタフライ・ナイフ出して顔の前でチャラチャラさせられたら切れちゃったんだ。その後のことは良く覚えていない。
 はっと我に帰った時は俺の前に十人程がのびてた。残ったやつが俺を見て顔引き攣らせて言った。
「バ、バ、バケモノだよ、こいつ!」
 拳を見つめたら真っ赤だった。返り血を浴びたのか、服にも血が着いてた。唸って地面を這いつくばってる奴らの顔面も血だらけだった。
しまったと思ったけれど、こう言っていた。
「お前らも消えろよ、もしも警察になんか聞かれても俺のこと言うなよ、一言でも言ったら殺すよ、ほんと」
 屈強な奴らが俺の言葉でクモの子を散らすように消えた。
なんだろう、俺は笑ってたんだな、笑わずにいられなかったんだ。生まれて初めて俺は俺の力を解放したんだ。俺ってスゲーんだなって俺自身に驚いていたよ、だけど、ショー・ウインドウに映った返り血を浴びた俺は確かにバケモノに見えたんだ。

 「眠ってたの、着いたわ……ほら、降りてよ」
俺の前には絵に描いたような洋館がそびえたっていた。門と塀には、良く手入れされたアイビーが絡まっていて、綺麗に芝生が敷き詰められた庭には楓の木が何本かその洋館を覆うように茂っていた。
木造のそれは風格さえ漂わせている、いったい築何年経ってるんだろう。
「どうすんだよ、なんで俺にかまうんだよ……迷惑なんだよ」
「そんなYシャツのまま帰れないでしょ、脚見たいんでしょ」

 だだっ広い玄関、螺旋の階段を上ると相澤がドアを開けて手招きする。
「ほら、脱いでよ。お手伝いさんに洗ってもらうから、何照れてんの、裸なんて兄貴ので見慣れてるわよ」
笑いながら相澤が強引に俺のシャツを脱がそうとする。白で統一された趣味のいい家具が置かれた相澤の部屋をボンヤリ眺めてたら俺はいつの間にか上半身裸になってた。

 「ちょっと、私も着替えるからおとなしく待っててね」

言いながら相澤はクローゼットの戸を閉めた。
俺は知らないうちに意識をそのクローゼットに向けた。普段はこんなことしないんだ。ほんとに時たま、意識下に残像が浮かぶ。
それは、ゆっくりと焦点を合わせてゆく顕微鏡みたいに相澤の姿を捉える。

 ブラウスを脱ぎ、ノバチェックのスカートを脱ぎ、白いレースのブラジャーを外し、真っ白なパンティを……そこで意識を閉じた。
いかに俺だってそこまでは愚劣な奴になれない、まあ、度胸がないだけかも……。
意識下にははっきりと相澤の裸を焼き付けた。なんて綺麗な身体なんだろう、長い脚、引き締まった太腿、
つんと上を向いた形の良い乳房、俺はクローゼットの横のタンスの三段目に下着が入ってることを知覚する。
かってに手が伸びた。鼻先に近づけた。思わず勃起した。俺の尻のポケットには相澤の色違いのパンティが三枚収まっていた。
なんて奴だ。苦笑するしかあるまい。

 ジーンズのミニにTシャツに着替えた相澤が出てきた。
「ラフな格好も似合うんだな」思わず本音が出た。何しろ裸見たばっかだからな、パンティも盗んじゃったし。
「つまんないお世辞ならいらないわ、聞き飽きたもの」
太腿の付け根まで見えそうなほどのミニを穿いた相澤が言い放つ。確かに相澤なら聞き飽きたろう、俺もそう思う。
「ほら、脚見すぎだって、ははは、兄貴のよこれ、乾くまで着てれば」言いながらTシャツを放り投げた。
GAPと大きく書かれたTシャツを俺は素直に着る。まるで飼い猫みたいじゃないか……相澤にはそんな雰囲気が備わっている。
従いたいって感情、苛めてくださいって感じ。

 でもまだツンしか見てない、果たしてデレはあるのか……?

 「で、昨日聞いたこと、ちゃんと答える気になったの……」
俺は無言のままだ。
「黒木クン、あなたが普通じゃないのは分かってた。クラスで最初に見た時からね、ことさら目だたないようにしてるあなたが、授業中見せるつまらなそうな態度とか、それとなくね、わざと普通を装ってるように見えて仕方なかった。私ね凄く霊感強いのよ、霊感って言うかインスピレーションの類ね、さっきだってクローゼットで着替えてる時、なんだかあなたの視線感じてたもの、まさかとか思ってもね、なんだか見透かされてる気がして、でもルーバーから覗いたらあなたは背を向けてたしね……に、してもあなたなんだか普通と違うのよ、で、昨日のことで確信したわ」

 俺は、どうこの場を繕おうか、そればかり、じゃなかった、見てないふりしながら相澤の脚ばかり見ていた。それと、さっき鼻に押し付けたパンティの匂いとを交互に思い浮かべてたりしてた。バカだな、俺って……。

 「昨日スーパーの前の横断歩道でわたし渡ろうとしてたのよ、そしたら向かいに黒木クンが見えた。
直後に四、五歳の男の子が泣きながら車道に、トラックの急ブレーキの音が悲鳴みたいに鳴り響いた。
わたしは黒木クン一瞬あなたを見た。あなたが消えた……目を覆ったわ、その子は絶対に轢かれたと思った。
誰もがそう思ったはず、トラックの運転手も降りてきて辺りを見回してキョトンとしてる。あたしは
自分の目を疑った、黒木クン、あなたはその子の頭を撫でながらこの子のお母さんはいませんかとかなんとか……
ありえないわ、ほんの数秒よ、まるで瞬間に移動したみたいに……今、考えてもゾクゾクする」
「昨日も言ったよ、見間違いだってさ」
相澤に思いっきり睨まれた。可愛い奴はどんなことしても可愛いもんだな。
「ねえ、私の目を見てよ、そして、正直に言ってみてよ……あなたは絶対普通じゃないよね」
俺は、もちろん、相澤の目なんか見れるはずがない。なんたってあの素敵な後姿が焼きついてるんだ、今だって、正面から相澤を裸にしたい衝動に駆られてるんだから。もちろん、実際にやるわけじゃない、
意識をちょっと集中しさえすればいいんだ。

 「普通じゃなきゃなんだって言うんだ、とにかく帰る、もう俺には構うなよ」

 何か言いいたそうな相澤を残し、俺は学校指定の紺ブレをはおり、部屋を出た。
「Tシャツは貸しとくから、絶対白状させるからね、分かった?黒木クン」
相変わらずツンのままだった。

「ああ、とりあえず今日はありがと……」
俺は普通に礼儀正しいんだ。
学校中の男子生徒の憧れの的だもの、その相澤が俺のこと気になってるんだ、俺はなんだか気分が良かった。
いや、今まで生きてて最高の日かも知れないなんて思ってた。
 同時にあの日のあの行動を悔やんだ。まさか相澤に見られてたなんて……常人には視覚することなど到底できない速さで移動したはずだった。
相澤に問い詰められ、例えば俺がうっかり調子に乗ってバラしてしまったら、その後どうなるっていうんだ。
相澤はきっと俺をバケモノを見るような目でみるんだ。あの秋葉原で俺を見つめたヤンキーの高校生たちみたいにだ。
 人は人智を超えた存在を認めようとしない。俺はそれを経験で知った。だから俺はことさら中庸であることを装っているんだ。
多分俺は恐らく二度とあの子が轢かれようが助けることはないだろう。なぜなら、その甘えが俺を破滅へと導くから。

 その日俺は、家から港区までママチャリを二時間ぶっ続けで漕ぎ、東京タワーに登った。真っ黒なナイキのジャージを着ていつもよりも時間をかけて鉄の塊と対峙した。電波塔の天辺に片手でぶら下がりながら、さらに人差し指一本で全体重を支えながらこう叫んだんだ。

 「相澤に世界が欲しいともしも言われたら、俺は世界を相澤に差し出すよ、きっとそうする。なぜなら俺はスーパーマンだからさ。相澤の頼みごとならなんだってやる、頼まれたら、きっと……」
 地上から三百メートル、かなりの風速に飛ばされそうになりながら、それでも、俺は耐えることができる。俺は強靭な肉体で、簡単にここから東京の夜景を一望する余裕すらあるんだ。

 いきなりの雨、雷鳴が轟いた。つむじ風に一瞬身体が浮いた。さすがの俺も肝を冷やした。いくら俺でもこの高さから地面に叩きつけられたら、死ぬ、間違いなく。でも、俺はとっさに鉄柱を捕まえ、体制を整える。直径二メートル程の何本もの鉄柱が揺れる。
雨粒が容赦なく顔面を打ち付ける。
 「神様、初めて生きてるって実感したよ! 十六年生きてきて初めてだよ。生きたいって思ったよ。そして、何かを成し遂げたいと、初めて思ったよ、相澤のためにね……いや、きっと俺自身のためかも……」

 かろうじて鉄塔にぶらさがりながら、俺は初めての射精を味わった。パンツの中を伝わる生温かい精液の感触、全身を貫く快感に身を震わせながら、相澤の裸身を網膜に焼付け、さらに俺は二度目の射精を味わった。

次の日、学校で相澤に脅された。お気に入りの下着が無くなっているというのだ。
「黒木クン、あなたってもしかして変態?」
しばらく考えて俺はこう答えた。「だったら、どうなんだよ。変態で悪かったな」
相澤のパンティを盗んだのは間違いない。しらを切ったっていずれバレる。
開き直ったらどう出るか、相澤の反応が楽しみだった。
俺にかなり興味があると分かった以上、悪い気分はしないし、相澤がどこまで俺を受け入れるのか試してみたかった。だって俺は確かに変態なんだもの。
漆黒の髪が揺れた。鼻の下に小さなホクロがあった、今まで気づかなかった。
下から覗き込むように俺を値踏みしてる。ほんとに可愛い瞳だ、自然にカールしてるんだろうか、長い睫毛が数十センチのところで止まっている。
全く舐めたくなるような唇してる……。
「欲しいんなら欲しいって言えば……黙って持ってくなんて、最低でしょ……」
俺はあえてそれには答えなかった。変態だけれど、面と向かってパンティが欲しいなんて言えるほど、度胸があるわけじゃないから、へたれなんだよ、超人だけどね。

 視線を感じた。振り向くと笹川が凄い形相で俺をにらんでいた。
「大丈夫よ、黒木クン。それとも怯えたフリしてんの? もう郁夫あなたに手出ししないから……お気に入りの下着だったんだからね、携帯教えて……」
相澤には嘘はつけないな、とっさに俺は思った。
「変態呼ばわりしといてかよ、いいのかよ変態の携帯なんか聞いてさ」
もちろん教えたさ、笹川の泣きそうな顔ったらなかったな、わざと見せ付けるように、ご丁寧に俺の携帯に自分から番号入れやがってさ、相澤瀬名……いいのかよ、こんな変態でさ、ははは……。

 なんだか、いつもの学校帰りの景色さえもが、違って見えた。携帯を交換した日、俺たちは俺のおごりで相澤とマックした。
もちろん、スナック・タイムだ。
「相変わらず脚見てるんだ。他の子のも見るんでしよ、変態クン」
シャカシャカやりながら相澤が言った。周りの同年代の子たちが相澤を見てヒソヒソ話を始める。なんて言ってるか教えてやろうか相澤。
「黒木クンのためにスカートの丈短くしたのよ、気づいてた?」
周りの女の子たちは相澤の美しさと全くそぐわない俺を笑ってるんだ、相澤はその美しさを充分理解してる。女の子たちの羨望の眼差しを一身に受けてさらに輝くんだ。
「もう、他の女の子のは見ないでね、約束して……」
なんだよ、デレかよ……にしても相澤の美しさはどんな場所にいたって、何をしていようと揺るがないんだな、ここにいる男たち全てが相澤を見てみないフリしてる。
「約束ってなんだよ、約束したらなんかいいことでもあるのか……」

「出よ!」
相澤に腕を取られ、片付けもそこそこに店を出た。

 「後ろに乗っけてよ」
俺は駐輪場に置いてあったママチャリをゆっくりと漕いだ。
「お迎えはいいのか、待ってるんじゃないのか」
「いいいから、河川敷まで行ってよ、バカ!」
肩に置かれた相澤の指の感触、時々背中にあたる胸の柔らかなふくらみ、そよぐ風の中に相澤の匂いがした。
「全然、息切らさないんだね、変態クン」
俺はしまったと思った。有頂天になりすぎてたんだ。
知ってるか相澤、俺はオリンピックの全ての種目で金メダル取れるんだぜ、ははは、多分一度もやったことない種目だろうとね、その俺がママチャリで二人乗りしたくらいで、自分をさらけ出すなんてね……。
俺はことさら呼吸を荒げた。まあ、やらないよりはマシだ。
「相澤乗っけてるから頑張ってんだよ、そ、そんなにくっつくなよ、汗臭いんだよ!」
相澤の笑い声、相澤は俺の反応に面白がってさらに身体を密着させる。
「バカ! へ、変態の俺からかってどうすんだよ」
「全然、汗もかいてないじゃん。ヘンなヤツだね」

 空は抜けるように青く、河川敷を横切る風は今日に限って更に優しく感じた。
この時間が永遠に続けばいいとさえ思った。

「前に変なのいるよ、黒木クン……引き返そうよ」
相澤の言葉に視線を向けると前方に五、六人のヤンキーの一団が見えた。

 普段の俺なら間違いなく引き返していた、間違いなく……。
全速力で駆け抜けようとしたけれど、相澤を振り落としそうで止めた。
いや、何かが俺をこの場に引き止めたといったほうがいいのかも知れない。
案の定、道を塞がれた。
「なんだよ、真昼間っから、見せ付けてくれんな」
リーダーらしいヤツが凄みを利かせる。
他のラッパーくずれみたいな格好をしたヤツらのニヤけた顔が、これから起きることを想像して、興奮しているのが分かる。
取り囲まれ、橋の橋脚のあたりまで連れていかれた。

 こんな相澤の不安そうな顔を見たのは初めてだった。しかし、俺は、俺の秘密を見せるわけにはいかないんだ。
「ガキのくせして、なんでこんなマブイ、スケ連れてンだよ。ははは、ボコボコなされたくなかったらスケ置いて消えていいよあんちゃん」
俺は観念した。こいつらを黙らせるのはものの五分とかからないからだ。
 最低のヤツらなんだ、ここで俺の力を使ってこいつらを半殺しにしたところで、いったい誰に咎められるんだ。良心のカケラさえもないヤツらなんだから。
「相澤、俺が普通じゃないって言ったよな、五分だ、五分だけ後ろ向いてろ、頼むから終わるまで前を見るな、分かったか!」
俺の言葉に相澤の態度が変わった。何かを確信したんだろうか、相手は身長百八十センチ、俺は百六十五だ、が体も俺の倍はあるようなヤツばかり、俺が勝てる見込みはない、どう見ても、普通なら……。
「信じてるよ黒木クン、好きかも知れないんだ……」言いながら相澤は踵を返した。
「ついでに耳も塞いでてくれるといいんだけれどね」と、言ったけれど、最後の言葉が俺の頭を駆け巡った。
なんだよ、こんな場面で告白かよ! こいつら、完全に俺を半殺しにするよ、なにも無駄に怒らせなくてもいいのに、これだからお嬢様は困るんだ。
「ほほー、あんちゃん、トシオさんを本気にさせちゃったよなあ、なにラヴラヴなことやってんだよこんな場面でさあ」
トシオと呼ばれた男が身構えた。見るからに喧嘩なれしてそうだ。
構えは間違いなくボクシングを齧ったことがある凄みを感じさせた。そう、そういった気配ってなんとなく分かるんだ。

 俺はゆっくりとそのトシオと呼ばれた男の眼を見つめながら大きく腕を振り指先を対岸に向けた。
対岸を見てトシオが言った。
「よお、あんちゃん命拾いしたよなあ、お前ら、引き上げようぜ、しかし、運のいいやつだな」
 対岸には誰かがこの光景を目撃して通報したのだろう白い自転車に乗った二人の警察官がこちらを見て、何かわめいていた。
トシオが振り返った。
「あんちゃん、今度何処かであったらタイマンだな、お前の眼普通じゃないよな、今度な……」

 結局、俺は警官に事情を話し、いや、事情を話したのはほとんど相澤なんだけれど、警官でさえ相澤の美しさに気おされていたみたいで、事情聴取はすぐに終わり、また河川敷を歩いた。危ないから二人乗りはするなと言われたからだ。
 どのくらい歩いただろう、相澤が口を開いた。
「最初から分かってたの対岸に警察の人いるって……?」
「いや、わかんなかったよ。だから、命がけで相澤を守ろうと思ったんだ」
「守れなくて、わたしがあいつらに……」
なぜか相澤が泣き出した。よほど怖かったんだろう、でも普段ツンなヤツが泣くとやたらに可愛いんだな。
 「止まってよ!バカ 怖かったんだよ、とっても怖かった、背中貸してよ、すこしだけ貸して……」
 泣きじゃくる相澤を背中に感じた。なんでだよ、なんでこんな時に勃起すんだ、俺ってほんとに変態なのかな。
 しばらく相澤は泣き続けた。そして、俺の背中にこう言った。忘れられない一言になった。
「こっち向いてよ! わたしね、初キスは黒木クンって決めてた気がするんだ、なんとなくね、だからドキドキしてるんだ、黒木クンも初めてだったらいいと思うんだ」
さて、相澤と向きあったはいいけれど、どうしたもんだろ、泣いたあとが残る相澤はさらに可愛く見えた。抱きしめてやりたいと素直にそう思った。相澤が小さく見えた。
全然平気じゃなかった。俺だって初めてなんだ。超人の弱点は大体がこうだ。
スーパーマンだって、スパイダーマンだって、ウルトラマンだって、みんな弱点は傍にいる相澤みたいなヤツなんだ。あれ、エヴァはどうだっけ、ガンダムは……ありゃヒーローものじゃないもんな根本がな、なんて気を逸らしてる場合じゃないんだ。あの相澤が、俺の前で瞳を閉じて待ってるんだ。

 いったい、どのくらい唇を重ねてたんだろう。夕暮れの学校帰りの河川敷で、俺は初めてのキスをした。
 その後二人で手をつないで小一時間ほども歩いた。他愛のない会話と他愛のない言葉で溢れていたけれど、それが俺の全てになった。

 その夜、オヤジの書斎でマーラーを聴いた。久しぶりだった。交響曲第4番、ト長調
「大いなる喜びへの讃歌」マゼール指揮のベルリンフィルのヤツだ。
無趣味のオヤジの唯一の趣味がクラシックをレコードで聴くことで、俺もガキの頃からマーラーだのラフマニノフだのを聴かされて育ったから、気分のいい日はオヤジに付き合ってクラシックを聴く。今日は飲み会かなんかで留守だったから、俺はオヤジがやるようにまるで儀式か何かをするみたいに丁寧な仕種でレコードをターン・テーブルに置いた。
タンノイから音符があふれ出した。
 つま先からてっ辺まで高揚感が貫いた。なんたって初キスの相手がこともあろうに全校生徒の憧れのまとである相澤だったなんてね、
 そして第四楽章 sehr behaglichきわめてなごやかにで相澤とのキスをおかずにしてオナニーしたんだ。それは、激しくて、何度も、何度も余韻がさざ波みたいに俺の身体におしよせてきたんだ。

俺には消せない記憶がある。前にも話したかな、俺は十一歳の時人を一人殺した。
俺は少なくともそれ以前は俺の力を隠そうともしなかった。
 でも、そうして何もかもが周りの誰よりも優れていることを見せた時相手は、必ず俺を無視し始めるのだ。
 最初は担任も良くできる子だと可愛がってくれた。しかし、その能力がなにか得体の知れないものだと悟った時、先生ですら俺を遠ざけようとするんだ。例えば、テストで全教科百点を取り、運動でもずば抜けた才能を見せ付けたりすると、クラスの全員が俺に反感の目を向けはじめる。仕舞いにはカンニング疑惑まで仕組まれたりする。
 そう、子供の方がずっと残酷だ。純粋な分だけいくらでも残酷になれるんだ。
俺はいつのまにか孤立した。絶えず虐めの緊張を味わった。それまで俺は自分がなにものか分かっていなかったんだ。 人の能力を超えた存在……。俺はたった一人でそれに立ち向かわなければならなかった。クラスのヤツらから阻害された時俺は悟った。
 誰一人俺を理解できないんだ。俺の能力のほんのわずかでも使えば俺はどんな大人でも負かすことができるんだ。外見だけなら百五十センチに満たないヒヨッコの俺が、この世界の全てを凌駕する存在だなんて……この持て余すほどの力をいったいなんに使えっていうんだ!
 それを知った時のなんという寂しさ……俺は、天涯孤独のバケモノなのか???
寂しさに震えた。毎日、毎日が孤独だった。なにしろ俺と同じヤツがいないんだ。俺はまるでこの百八十億光年の広大な宇宙にポツンと取り残された地球みたいじゃないか……。
 それ以来俺は仲間探しを始めた。学校から帰ると部屋に閉じこもった。行かない日も多くなっていった。そう、不登校が始まった。母親もオヤジもオロオロするばかりだ。それまで成績優秀、スポーツ万能だった俺が部屋に閉じこもったんだもの。
 そう、俺はパソコンで探し始めたんだ。俺のどこかにいる仲間をだ。だって俺一人だけなんてどう考えたって不自然じゃないか、神様の気まぐれにしたって酷すぎるだろ……。

 その名も超人というブログを作り、どこかにいる俺の仲間に呼びかけたんだ。
どうしても会って話したい。俺と同じ悩みを抱えた人、連絡が欲しいと真剣に探し続けた。
日に何通か来たメールはほとんどが冷やかしだった。半分はイタズラ、そしてもう半分は悪意あるウイルス入りのメールだった。しかし、その違メールが千通を超えたころ、何か引っかかるメールが着始めた。俺はその引っかかるメールに必ずこう返信した。俺と同じ力を持っていなければ、到底俺のことなど理解できるわけがないんだ。
俺が出した、フェルマーの最終定理を簡潔に証明せよという問いに誰ひとりとして答えられなかった。いや、その問いに対してメールすら返信されなかったりした。
 恐らく意味すら分からなかっただろうな、きっと……。
俺は失望した。結局半年学校に行かず、探し続けたけれど、俺の仲間は見つからなかった。
俺は、あきらめ不登校を止めた。母親とオヤジの悲しそうな顔を見るのがいやだったからだ。それだけだ、そして半ば諦めの心境でもあった。それ以来中庸を守り続けることにした。クラスのヤツらはそんな俺に安心したのか、少なくとも虐めはなくなっていった。

平穏な日々が続いたある日、下校しようとしたら校門で声をかけられた。
「黒木クン、黒木一樹クンだよね」
俺は答えなかった。異様な雰囲気を漂わせた大学生くらいの男が立っていた。
「ちょっとさ、話したいんだ。同類としてね、僕もね多分君と同じ悩みを抱えてると思うんだよねえ、っていうか君の孤独をね、分かってあげられる唯一の仲間って感じかなあ……」
胸に「BLACK SABBATH」と赤い血みたいな字で大書きされたTシャツ、ボロボロのジーンズ、髪は伸び放題に伸ばし、左耳にはシルバーのピアス、見るからに胡散臭そうなヤツだ。
「小学校の五年生だっけ、超人ブログはけっこう人気だったんだよ、ある筋には興味深い事項がけっこうあったしさ。急に止めちゃうから心配したじゃん、ああ、会話は普通でいいよね、小学生の瞳じゃないよな、そういったことってやっぱり隠せないよな……普通の大人は騙せてもねえ……」
無言で歩いていた。そいつはずっと俺の傍で話し続ける。
「いくら匿名だからって、ブログから君を見つけるのは簡単さ、ネットには隠し事なんてできないからね、すっかり君の虜になっちゃったよ、いや興味深い事例だよね、ははは……」
薄気味の悪い笑い声だった。
「だんまりかい、別にいいんだけどねえ。探してたんだろ?違う?」
明らかにこいつはホンモノだった。全身を鳥肌が包んだ、直感だ、俺と同じバケモノの匂いがしたから……。今まで俺の周りでこんな匂いを発するヤツなんて居なかった、間違いなく。
「自己紹介してなかったな、黒木クン。君と同じ人種だよ、僕も初めてなんだよ、僕と同じかそれ以上の存在に出会ったのはねえ……ニーチェが恋焦がれた完全無欠の神に近い存在だ。ああ、和久奈といいます。和久奈誠一だよろしくね」

行きかう人々、穏やかに過ぎてゆく夕暮れの街並み。あんなに探し続けてたっていうのに……こいつは危険を孕んでいる。この街の景色を一瞬で変えてしまう悪意が潜んでいる。

「まだ疑ってるのかい、フェルマーの定理を簡潔に証明してみせようか、それとも、ここでパフォマンスかなにかして見せようか……」
俺は走った。多分一気に自分の全力を解放したのは、初めてかもしれなかった。
とにかく怖かったんだ。わけの分からない恐怖が俺を包み込んだ。人生で初めて会った同類がコイツみたいなヤツだったなんて、俺もこんなふうになっちまうのか……周りの景色のなにもかもが色を失っていた。
グレーに包まれた景色、それでも俺は走り続けた。ナイキのワッフルの靴底からゴムの焼ける匂いがした。
「ナイキじゃ持たないよ、一気に開放したら、服だって破けちゃうよ、逃げるなよ」
十キロほどを一気に走り抜けただろうか、ヤツはピッタリとくっついて終いには、がっしりと腕を捕まれた。
「世界で僕と君だけかも知れないんだぜ、で、二人が力を合わせれば、この手で世界を掴めるかもしれないっていうのに、なぜ逃げる!」
「分かんないよ、分かんないんだ!」
「誰にも邪魔されないとこで二人で話そう、な、そうしょう」
俺は泣きじゃくってた。なんだか一気に感情が爆発したみたいだった。
こんなヤツの胸に抱かれて俺は大声で泣いていた。
「寂しかったんだよ、ほんとに寂しかったんだ……」
「絶対的な孤独を知るものは少ない。万物の中で孤独を知りえるのはヒトだけだからな」
そういうと和久奈は、軽々と俺を抱え上げ、飛翔した。それは俺が今まで試したこともないほどの高みだった。周りの景色がさらにスローモーションのようにゆっくりと遠ざかってゆく。いや実際はスローではないのだ、早すぎて網膜が残像を拭い去れないのだ。
一気に百メートルは飛翔し、地面を蹴りまた飛翔する。和久奈は俺以上なのか……。
 何度かそんな飛翔を繰り返した。俺は和久奈にしがみついていた。誰かに頼っている自分を初めて知った。俺は一人じゃないんだと感じた。こいつは見かけによらず実はいいやつなのかも知れないと、思い始めていた。
「しっかり捕まってろよ、この上なら誰にも邪魔されないからな」

レインボー・ブリッジの橋脚のてっ辺に昇るのにそれほど時間はかからなかった。
闇がそこまで迫っていた。
正面の東京タワーが、闇と溶け合って妖しい陽炎を放っていた。
眼下に首都高11号台場線を走る車がアリみたいにひしめいている。
俺はそのてっ辺にゆっくりと降ろされ、和久奈はそんな俺の泣き顔を優しく両手で挟んだ。
和久奈の顔がゆっくりと近づいてくる。唇に触れた。俺はわけもわからず和久奈のされるがままに突っ立ていた。
「……い、いやだ、止めて!」声にならない声で叫んだ。
和久奈は執拗に俺の唇を求めた。そして、俺の耳元で和久奈はこう囁いた。
「黒木クン、神は二人はいらない。僕は君を充分味わったら殺すつもりだからね……」
俺ははっとわれに帰り、和久奈を突き飛ばした。
「君の力は認めるよ、確かに君は僕と同等の力がある、しかし、しかしだね、その開放の仕方がねえ、幼いんだよ、充分使いきれてないんだ」
口の中に和久奈の唾液の味がした。俺は悟った、こいつはやっぱり異常なんだ。こいつは本気で俺を殺す。それも、もっとも醜く歪んだ感情で犯し、ボロボロにして俺を殺すつもりなんだ、こんなとこに連れてきたのもそれが目的だったんだ。
「大人しくいうことを聞けよ、それなら快楽のうちにゆっくりと死をむかえさせてあげられるからねえ、何人も至福の面して逝ったよ、何人もだ、ははは……」
和久奈の舌なめずりが聞こえた気がした。できそこないのバケモノにさらに輪をかけたできそこないがそこにいた。
 俺は、初めて強烈な殺意を覚えた。いままで感じたことのない殺戮への高揚感……違う、違う、俺は、こんなやつと同類なんかじゃないんだ!目が眩んだ。アドレナリンが沸騰して、全身を駆け巡る。
和久奈が目の前から消えた。一瞬で俺の背中に回り、俺はがっちりと羽交い絞めにされた。和久奈の舌が俺の首筋を這う。
 何かが弾けた。

身体がバラバラになるような痛みが全身を貫いた。それは、軋み、たわみ、膨張する。
紛れもない想像もしたことのないそれは力だ。力の源が俺の全身を貫く。俺の中で得体の知れない何かが孵化し、それは新たな力を俺に与えた。
闇をつんざく悲鳴、高らかで荘厳な俺自身の悲鳴。
 その悲鳴と同時に和久奈が吹っ飛んだ。和久奈の身体が鉄柱にぶちあたり鈍い音を立てた。
「こんな時に覚醒するとはねえ……つくづく運のいいやつだねえ、く、黒木クン……」
俺には制御できないこの得体の知れない根源的な力が俺を殺戮の罠に駆り立てる。
「和久奈……頼む、頼むから消えてくれ、お、お願いだ。でないと、俺は、俺は……」

レインボー・ブリッジの点滅するスポット・ライトに照らし出された和久奈の全身に血が滲んでいた。鉄柱にもろにぶちあたったのだ、無理もない。
それでも和久奈は不敵な笑いを口元に浮かべながら言う。
「同情してくれるのかい、それとも僕を殺すのが怖いのか、自分の得た力に酔ってるのかい……前にも言ったろ、神は二人はいらないってさ」
 和久奈は手近の鉄骨を引き千切り俺に向かって投げつけた。
 俺はもう一つの橋脚に向かってとっさに飛翔する。和久奈の動きは明らかに鈍い。それほどのダメージを俺は与えたのか、あの一瞬で……。

 一気に数百メートルのジャンプ、俺は俺の新しい力に酔った。追ってきた和久奈の腕を掴み、思いっきり叩きつけた。骨が砕ける鈍い音が響いた。
 間髪を入れず俺は指を和久奈の首筋に回した。
暗闇に高々と両腕を上げた。抜け殻のような和久奈を天空に晒す。
「く、黒木クン……ぼ、僕を殺すのかい。唯一の君の理解者のこの僕を……」
切れ切れに聞こえる和久奈の声が耳元にこびりついた。

 俺は制御できない力に支配され、両腕で和久奈を容赦なく吊るす。
「き、君は神に近づいたんだね、一歩僕よりも早く、神にね……」
 台場の上空をダウン・バーストが襲う。とてつもない量の降雨、大粒の雨と轟く雷鳴。
 弱々しく切れ切れになってゆく和久奈の息遣い、それを聞きながら俺は泣いている自分に気づいた。そして、こみ上げてくる笑い。
泣きながら笑い、笑いながら泣く……俺は自ら俺の分身の息の根を止めるのだ。醜く歪んだもう一方の俺の姿がそこにあった。
この力を使えばなんだってできる。世界さえも手に入れられるんだ。そんな誘惑に駆り立てられながら俺はさらに力を込めた。
「まさかね、この僕がね……ミイラ取りがミイラになるなんてね……」
言いながら和久奈は最後の力を振り絞り、俺の顔に近づく。
俺の唇に吸い付く和久奈の唇……それは、まるで母親の乳首を吸うような幼さを残した口付け、俺はさらに首筋に回した指に力を込めた。
吸い続ける和久奈の唇がどす黒く変色してゆく……暫くして和久奈の全身から力が抜けた。
「か……神は、死んだ……ぐふっ……」
和久奈の最後の言葉が俺の耳元にこびり付く……。

 はっと我に帰った俺の全身から力が抜けた。和久奈の亡骸は橋脚のてっ辺から数百メートル下の海中へ落下してゆく。
オ・レ・ハ・ヒ・ト・ヲ・コ・ロ・シ・タ……それだけが俺の心に残った。泣きながら笑い、笑いながら泣く……俺の力が人を殺したのだ。
後悔と懺悔のないまぜの感情が支配する中、涙が止め処なく流れた。それは、額に打ち付ける大粒の雨とともに俺の心を満たした。
俺は叫び続けた。何度も、何度も、灰色の空に向かって叫び続けた。それは、獣の嗚咽だった。

 わけもわからず俺は和久奈を追って真っ黒な水面にダイブした。

 水面に向かって俺は一気に上昇する。
プール・サイドに両腕をかけ、肺に空気を送り込む。
脚が見えた。素敵な脚だ。その先には紺のSPEEDOの競泳用の水着を着た相澤の姿。
「なぜプールに誘ったか分かる黒木クン」
「さあね、俺は相澤の水着姿が目当てだけどね」
「バカ!」

 放課後の部活の終わったプール……あの喧騒が嘘のように静まりかえった校舎。陽は西に傾き、真夏の暑さがゆっくりと穏やかな空気に包まれてゆく一時。

 「あなた、さっきクロールで私と五十メートル泳いで気づかなかったの、私これでも都の高校記録持ってるのよ。その私とあなた平気な顔で並んで泳いでたのよ、私は精一杯よ、その後の百メートルもよ……」

 そんな相澤の言葉にお構いなく俺は相澤の踝をつかみプールに引きずり込んだ。
相澤は驚いて水中を必死で逃げた。俺はゆっくりと跡を追う。
水中の相澤はまるで人魚のように美しかった。しなやかにうねる身体は水中で更に輝いて見えた。
追いついた俺は相澤の顔をわしづかみにし、唇を重ねた。驚いた相澤の顔、ほんの少しだけ抵抗し、相澤は俺を受け入れた。
息が続くまでそうしていた。頭上の水面からはみ出した空、相澤の唇の柔らかな感触、痺れるような陶酔、それらが俺の脳髄をいっぱいに満たした。
 息が続かなくなった相澤がもがきながら水面を目指す。
同時に顔を出した。
 「はあ、はあ、はあ、いきなり何するの! 思い通りになるなんて思わないでよ!」
言いながら相澤は思いっきり俺の頬を打った。相澤の憤怒にまみれた顔に更に欲情した。もう歯止めが利かない俺。
俺は更に相澤を引き寄せ唇を重ねた。
観念したように相澤は俺の舌を受け入れる。
「痛い!」
相澤にしこたま舌を噛まれた。
「黒木クン! あなたって最低なヤツ!」
捨て台詞を残して相澤はプールから上がった。
水着から滴る水滴を残して相澤は更衣室へ消えた。
 ハートの形をしたお尻、引き締まった太もも、長い脚、ずっと、ずっと見ていたいな……。
なんて綺麗な身体なんだろう……そんな相澤はさっきまで俺の腕の中にいたんだ。完璧だ! 世界のすべての七月を相澤に捧げてもいい。
噛まれた舌がヒリヒリしていたけれど、俺は満たされていた。相澤の胸の感触さえ憶えているんだ。
俺はそんな相澤の姿を水面に浮かびながら見送った。

 逸れた雲が俺の視界をゆっくりと横切ってゆく。その穏やかな一瞬はあの和久奈のことすら忘れ去ることができる、そんな一瞬だった。

穏やかな日々が続いた。
と、いっても俺にとってはいつもの平凡な日々なんだが。
秋葉原とか行ってもヤンキーに絡まれたり、カツアゲにあったりすることもない。どうも俺はそういったやつをひきつける磁力があるらしいのだが、最近は笹川の一派にもボコボコにされることもない。

 ひまな時は相変わらず東京タワーのてっ辺に登って「俺は超人だあああ!」を繰り返しているし、
相澤との関係もなんにも進展がない。プールで強引にキスなんかしたもんだからどうも俺を避けている。身の危険でも感じたんだろうか?
人畜無害だと思ってった俺が強引に出たもんだから嫌われたのかもしれない。
 水泳部への入部もキッパリ断ったのもまずかったのかもしれないし……。
 で、これみよがしに笹川とクラスでいちゃつきやがる。 まあ、クラスの委員長と副委員長でもあるわけだし、美男・美女のカップルだし、他のやつらから見ればお似合いなんだし、俺がとやかく言うことじゃない。
 しかし、俺の唇にはあの日の相澤の柔らかな唇の感触がしっかり残っているから始末が悪い。
笹川といちゃつきながら……いや、ただ単に話してるだけなんだが、これって嫉妬ってやつか?……相澤がちら見するたびに俺は胸が少しだけ苦しくなるんだ。
 覚醒した俺のパワーは更に勢いを増してるってのに、それをなんに使えばいいのか、見当もつかない。いっそのこと水泳部に入って全種目世界記録を出すだとか、野球部に入って二百キロの剛速球投げて、まあ、それを受けるキャッチャーを捜さないとな、で初出場で優勝するだとか、バスケ部に入って全シュートダンクで決めて、さっさとNBAで活躍だとか、陸上の記録をすべて世界新で塗り替えるだとかしてみたら退屈しのぎになるのかもしれないが、そんな有名人になったら、俺の相澤と会えなくなるではないか、だから、結局へたれのままがいいのかもしれない。
 こんな超人的なパワーは使いようがないじゃないか! もし、バレたらお国の秘密機関に捕らえられマッド・サイエンティストの餌食になるかもしれんし、俺が一番恐れているのは、それなんだが……。

 昼休み、ぼんやりとクラスの窓から校庭を眺めていた。斜め向かいの三階のA組では、当番なんだろう、昼休みに何人かが窓拭きしていた。
俺は無口な変人で通ってるから、誰も話かけるやつなんていない。たまに相澤が傍にきてたりしたが今はそれもない。
 クラスの支配者でもある笹川に睨まれているから、だいたいが俺を無視する。
だから、ほとんど昼休みは一人で屋上で河原から吹く穏やかな風の中で昼寝するんだが、その日はたまたま教室に残っていた。
 A組の女子が身を乗り出して窓を拭く……危ないなあとか思いながら真面目に窓拭きするその子を見るとはなしに見ていた。

 それは、白昼夢のようにゆっくりと俺の視線を捕らえた。窓枠から窓拭きしていた女子の姿が消えた。
眼鏡が一瞬太陽の光りに反射して落下した。何人かの悲鳴が聞こえた。
俺はといえば、良く分からなかった。身体が勝手に反応した。一瞬で三階の窓からその子が落下する地点にいた。

 その子は俺の腕にすっぽりと収まった。
「あ、あの、あの、わたし……なんか、ゆ、ゆ、夢でも見てた?」
三階の窓から一斉に歓声が上がった。
「阿比留ちゃーん、大丈夫?」
誰かが叫んでいる。見上げると数十人がこちらを見下ろしていた。
「いや、たまたまここ通りがかったら君が落っこちてきてさ、たまたま、手を伸ばしたらすっぽり収まっちゃって……」
「ああ、あの、あの、お礼言いたいんだけれど、まず降ろしてくれる?」
言葉とは裏腹に阿比留と呼ばれた子の身体は小刻みに震えていた。三階からたった今落っこちたんだ、無理もない。
「へ? ああ、ああ、ごめん、ごめん」
いつの間にか俺たちの周りには人だかりができていた。
後頭部に鋭い視線を感じた。振り向くと相澤と目があった。
 その色っぽい唇は全部お見通しよと言ってるように思えた。相澤のやついつから見てたんだろう……。
「ほんとにありがとう……なんかまだ夢でも見てるみたい……受け止めてくれて、あなたがいなかったらコンクリートに頭ぶつけて、あたし、死んでたかな?」
 阿比留の視線の先には確かに道路状に簡易舗装された通路と、所々にマンホールが埋められていた。
俺はその境界線上にある植木の小枝に引っかかっている眼鏡を拾い上げ阿比留に渡しながら言った。
「いや、そんなことは……なにしろ君の身体は柔らかくてその、なんだ、クッションみたいで、その、なんだ?」
彼女は顔を真っ赤にし、俺から眼鏡をひったくり人ごみをかき分け脱兎のごとく校舎に消えた。

 それとともに興味をなくした人だかりもあっというまに俺を置き去りにした。残ったのは相澤と……。
相澤が俺に歩み寄ってきた。
左の頬に平手が飛んだ。
「ああん? な、なにすんだよ?」
「あんた、バカじゃないの、この変態、ド変態、浮気もの!」
「な、なんだよ、俺は……俺は……」
「女子はデリケートなんですからね、ただでさえ知らない変態にお姫様ダッコされるだけでも恥ずかしいのに、身体が柔らかいとか、クッションとか何事なのよ!」
言葉を飲み込んだ。 
相澤の後ろにいた笹川の視線とかち合った。笹川は不思議そうに俺を見ていた。あの小ばかにしたようないつもとは違う視線だ。
いったいどの辺りから見てたんだ? いや、恐れることはない。俺をなにかと疑ってる相澤ならいざしらず、常人が視覚できるスピードじゃなかったはずだ。俺自身だって瞬間移動してるように感じてるんだから、視覚できるはずがない。

 昼休み終了のチャイムが鳴った。
午後の授業では相澤の視線とよく合った。あいつも一応は俺のこと気にしてるんだな、そして、もう一人、笹川の視線ともかち合った。
笹川は相澤と俺に注意を集中しているようだ。今よりももっと言動や行動には注意しなければならない。相澤に平手を食らうのはもう真っ平だ、へたれだけど、超人なんだぞ、俺はああ。

 放課後ブラブラ歩いていると、校門のところで声をかけられた。
「あの、あの、黒木さんですよね。さっきはどうもありがとうございました……」
見ると阿比留って女の子だった。
「ん、ああ、さっきは失礼なこと言ってごめん」
「いえ! こっちこそ助けてもらってちゃんとお礼も言ってなくて……遠野阿比留といいます……」
ペコリと頭を下げた。
 ブラウスがはちきれそうな胸が揺れた。小柄だが胸は見るからにでかいが、デブってわけじゃない。相澤みたいなガリ子じゃなく、健康的な体躯と言える。俺的にはちょうどいい、好みだ。短く切った長門カットがよく似合う、俺好みだ。眼鏡もいい。
「ああ、俺C組の黒木、黒木一樹……」
校門をベンツが横切った。相澤が凄い形相で俺を睨んでいた。知ったことか、クラスでは俺を無視してるくせに……。
携帯が鳴った、久々の相澤からのメール……。
【この変態、浮気モノ、裏切りモノ、へたれ、うつけもの、ファーストキス返せ、まやかしもの、もののけ、バカ!、1000回分バカ!、絶交だ!パンツ返せ!拒否リスト入り、もう一度ばかああああああああああ!】
 らしくないメールだった、絶交もなにも最近言葉を交わした記憶がないわけで、コンタクトと言えば平手打ちをくらったくらいだ。
「あのー、忙しいみたいですね……」
小顔を傾けるしぐさが可愛い、間違いない綾波好きな俺好みだ。間違いない。
「いや、別に、用事は何もないんだ。この先もこれからも予定は何もない」
「なんか、変人とかって噂ばかり聞いてたんだけど、面白い人なんだ……ああ、ご、ごめんなさい」
またまた深く頭を下げた。ブラウスのVゾーンが見えた。ブラはピンクだ、間違いない。俺が超人で透視能力があるからって勘違いしないでくれよ。のべつまくなし無節制に使ってるわけじゃないんだ。それに、そんなに簡単に見えるんじゃ俺の癖に合わない。なんだか萌え要素満点のキャラじゃないか! 髪の毛の匂いとか、きっと、いい匂いがすんだろうな。
「いや、いや、これでもけっこうまともなつもりなんだけどな。お礼なら気にしなくていいよ、たまたま通りがかっただけなんだし……」
「いえ、それと、いっとかなきゃとか思ったんです」
「へえ? なにを……?」
「あのー、信じてもらえないかもしれないんだけれど、わたし見えるんですっていうか、感じるっていったほうがいいのかな。その人に触れたりすると、その人のこと色々見えたり、感じたりするんです」
 俺はとっさに身構えた。阿比留はウソを言っていない。俺の直感がそう警告を発したからだ。
「へえ、遠野さん。いったい何が見えたか、感じたの……」
「ええと、黒木クンが他の人と違うってことと、あなたの背後に思念が残留してるってことかな、若い男の人があなたに付きまとってる……なぜかは分からないけれどね。黒木クン、あなたは他の人とは違う。それだけは、はっきり分かる」
「へええ、他の人とどこがどう違うっていうの……」
 間違いない阿比留は知ってる。俺のことを、俺が殺した和久奈ことを……ま、まさか!?
「それが、わたしにもはっきりとどこが違うとか言えるわけじゃないの。ただ黒木クンは違うの、だから興味深々ってとこかな……もっと触れ合えばもっと良くわかるのにね」

 携帯が鳴った。俺は一瞬鳥肌がたった。阿比留は不思議そうな顔で俺を見ていた。とりあえず全てを知っているわけではなさそうだ。
 相澤からだった。
――ええ? 良く聞こえないんだ。なんだよ、あのメール。久々にメールくれたらあれかよ――
「あの、お邪魔みたいですね。また今度、どっかで、そう、学校以外で会ってくれるとうれしいな……」
と、言い残し、阿比留はまたペコリと頭を下げて踵を返した。
俺はただただ見送るしかなかった。どう取り繕うか、そればかり考えていた。
――なに? なんとか言いなさいよ! 誰かそばにいるの!――
――な、なんでそんなに怒ってるんだよ……だ、誰もいないよ……――
――許してあげるって言ってるのよ! 今回だけは許してあげる――
俺は相澤になにかしたんだろうか……とにかく許してくれるそうだ、おまけにいつもの河川敷で会ってくれるそうだ。なんだよ、急にもてるよな俺って……脳天気だよなあ、秘密を知られたかもしれないってのに……。

 河川敷に相澤と寝転がった。真っ青な空は頭上高くそびえ、わずかな逸れ雲が西風に乗ってゆっくりと移動していた。
手入れの行き届いた河川敷の芝生の匂いが鼻をついた。
「雨が好きよ……晴天は嫌い、時々吸い込まれるんじゃないかと思ったりするもの、自分がなくなってしまいそうで恐いの、どんよりと低く曇った空が好き……」
「俺は、いったいなんなんだろうな……」
相澤にならコクってもいいと思った。相澤なら本当の俺を、俺の孤独を分かってもらえそうな気がした。
ガルシア・マルケスの百年の孤独とまでは言わないが、俺には仲間がいない、友だちと呼べるものもいない。一人もだ。
 「あなたに世界は救えないでしょ、でしょ、違う?」
俺は無言で答えた。相澤の横顔に見惚れてたからだ。
相変わらずほんとに綺麗な横顔だった。ほんの少し乱れた髪がその切れ長の瞳を覆っていても相澤の美しさは損なわれはしない。
「相澤さ、俺がなんだか知ってるのか……」俺は凄いんだぜ。多分お前が思ってるよりももっと凄いことができるんだぜ、と口から出掛かった。
 俺たちの間を通り過ぎる穏やかな風は、一瞬俺と相澤の距離を縮めたようにさえ感じた。

 「いつも夢見てた気がするの。生まれた時からね、いつか白馬に跨った王子様が迎えに来てくれるってね。学校の帰り道にはいつも探してたのよ、アリスが落っこちた穴がどっかに開いてるんじゃないかとかね……でも、王子様も来なかったし、アリスが落っこちた穴も見つからなかった。パパもママも仕事ばかりで、いつも家にいなかったから、テディ・ベアとかね、ベッドの周りはねぬいぐるみだらけだったの。お話するのよ……いつも一人ぼっちだったから……だからね、夢ばっかり見てた。ここから連れ出してって、誰か、お願いだから……」
 あんなでかい家に住んで、毎日ベンツのお迎えがきて、こんなに綺麗で、こんなに可愛いってのに……相澤ももがいてるんだな……。俺だって探してたさ、俺はウエルズの「くぐり戸」だけどね、ずっと探してたさ……。
「俺がいるよ。俺が相澤を寂しくなんかさせないから……」
 俺はずっと空を見ていた。恐らく頬は真っ赤になってたろうし、全く似合わない言葉が俺の喉をついて出たからだ。
相澤は目を逸らさずずっと俺を見つめていた。
そして、意を決したように、しかし、恥ずかしそうにほんの少しだけスカートを捲り上げた。
「……見てもいいよ……脚……」
寝転んだ俺の鼻先にその見事な脚線美と見事な太ももが見えた。
俺は上半身を起こし相澤を正面から見つめた。
「相澤、お願いごとしてもいい?」
「……なに、これ以上はダメよ……絶対ダメだから……」
「いや、今履いてるハイソさ、それ俺にくれよ」
 一瞬の間合いのあと、平手が飛んだ。
「バカ! 変態! 最低!」

昼休み飯を食った後、例によって屋上で昼寝してると腹を思いっきり蹴られた。
「なんだよ、なにすんだよ……」
笹川だった。今日は取り巻きがいない。
「お前、瀬名に手出しといて今度は阿比留だってな」
くわえタバコ、両手はポケットに入れたまま俺をさらに蹴るそぶりを見せた。
俺はゆっくりと起き上がった。笹川の顔がこれほどまでむかついたことはなかった。暴力への渇望がムクムクと湧き上がってくる。
「珍しいな笹川。今日は取り巻きはいないのか……」
「ケッ! てめえなんか俺一人で充分なんだよ。瀬名にちやほやされたからって最近ずいぶん態度でかいよなあ。そんなに自信持ったのかぁ。オンナ一人でずいぶん変わるよなぁ。で、今度は阿比留かぁ、阿比留はうちのマネージャーなんだよ。てめえ、瀬名じゃ足りないってのか!」
「知らないよ……そんな女子は知らない。殴りたきゃ殴れよ、好きなだけ殴れ」
そう言ってる自分がちょっとだけかっこいいなんて思っていた。そろそろ恐怖を植え付けてやるのもいいかもしれない。死ぬ一歩手前の恐怖を……。
拳が顔面をかすめた。一ミリの範囲でとっさによけた。殴られるのにも、無抵抗にも飽きていたのかもしれない。
 「そんなんじゃ俺には当たんないぜ、笹川」
「ちょっと前までは瀬名だって阿比留だって俺に夢中だったんだ! それがなんでお前なんだよ。お前みたいなブサイクで頭も悪いやつになんでみんななびくんだ!」

 笹川の怒りに燃えた顔を俺は冷静に見つめてやった。「もう終わりかよ、笹川。クラスはお前のいいなりなのにな……プライドが傷ついたってやつか、ははは……」
 挑発された笹川はパンチや蹴りを矢継ぎ早に繰り出す。俺はその全てを一ミリの範囲で正確に避けた。

 静寂……笹川の荒い息遣いだけが響く。
「てめえはいったいなんなんだよー! この、このバケモノがああ……!」
切れた。俺の中の自制の鎖が千切れとんだ。
猛進してくる笹川の首根っこをつかみ、片手で宙吊りにした。
そのまま屋上のエッジすれすれまで運び、空中に突き上げる。
笹川の苦悶の表情。両足の下にはなにもない。二十メートル下は芝生、運が良ければ死にはしない。
「笹川……世の中にはこういうのもありだ。お前が挑発しなければ、俺はこれ以上のことはしない。相澤とはただの友だちだし、遠野阿比留とは一度話しただけだ」
 笹川の股間にみるみる染みが広がった。どうやら恐怖に耐えかねて失禁したようだ。アンモニア臭が漂った。
 俺はゆっくりと笹川を降ろした。笹川の全身はふるえ、目には涙を浮かべていた。
「……殴られても、何されても、俺を見下した眼をしやがって……てめえは、何だ!」
笹川の振り絞ったような最後の強がった態度に俺はなぜか初めてこいつを認めたような気がした。
「……お前の常識では測れないなんかだよ。瀬名とはなんでもない、お前の誤解だ」
「瀬名、瀬名って気安く呼ぶんじゃねえ……憶えとけよ、ぜってえ忘れないぞ!」
俺の前で失禁した屈辱のことか笹川、それともへたれだと思っていた俺にコテンパンにやられたことか……。

「忘れるなよ。俺に関わるな……」
俺が睨みつけると笹川は去勢された犬の視線を俺に向けた。それでもファイティング・ポーズをしてみせたのは最後のプライドってやつか、俺みたいなのに完膚なきまでに叩きのめされたのがいまだに信じられないのかも知れない。体躯だけみたって笹川は百八十前後、体重六十キロ、俺はといえば百六十、五十キロないんだからな、笹川は俺のふた回りはでかい。
「俺は、俺は……瀬名が好きなんだ。お前のことを意識してる瀬名がたまらないんだ!」
こいつはどうやら本気で相澤のことが好きらしい。とうとう突っ伏して嗚咽を漏らした。こいつのアイデンテティが崩壊した瞬間だ。全校の女生徒の憧れの的で、サッカー部の主将、エース・ストライカーの自負が畜群に成り下がった瞬間……。


 俺は泣きじゃくる笹川を残し、階段を下った。気が付いたら血がにじむほど両手を握っていた。
やりすぎだ。後悔の念が全身を硬直させた。俺は俺自身が持て余しているこの力を吐き出したくてうずうずしているんだ。笹川はその犠牲者に過ぎない。なんでもいいのだ。きっかけさえあればいつでも呪縛は解かれるのだ。バケモノに変貌するのは案外簡単なことなのかもしれない、そう、あの和久奈のようにだ。

 教室に戻ると相澤がやってきた。
「郁夫になんかされた?」
「あれ絶交したんじゃなかったっけ……ハイソくれって言ったらヘンタイ呼ばわりして絶交とか言ってたじゃんか」
 相澤の心配そうな顔が眩しかった。自分が今日ほど最低のやつだと思ったことはなかった。素直に受け応えができるような精神状態じゃなかった。
「酷いわ。心配してたのよ……郁夫が話をつけるとか言ってたから……」
「郁夫、郁夫ってうざいんだよ。とっととそっちに行けよ」
そんな吸い込まれるようなまなざしで俺を見るなよ相澤……長いまつ毛が震えた。
「分からないよ……黒木クンが……」
相変わらずの美少女っぷりが俺をいらつかせた。相澤、男子生徒のほとんどがお前に恋心を抱く気持ちが分かったよ。お前は聡明すぎるし、眩しすぎる。相澤が好むと好まざるとに関わらず、その美しさは必ずトラブルを引き起こす。傍にいるだけで胸騒ぎを抑えることができない。
 あの笹川だってお前の魔力の前にはひれ伏すしかなかったんだもんな。
「分かってたまるかよ! なんでも分かったような顔すんなよ」
ざわついていた教室中が一瞬静寂に包まれ俺たちを注視した。
俺の言葉に相澤は一歩後ずさりし、なんとも言えない寂しさを湛えた渋面を作った。
 始業のベルが鳴った。笹川は戻ってこなかった。

 午後からどんよりした重たい雲がせり出し、グラウンドが見る見る茶褐色から灰色に変わっていった。
担任が一度笹川がいないことをクラス委員の相澤に問いただしていたが、相澤もしどろもどろに受け応えするほかなかった。
 俺とのことは黙っていたらしい。それとも相澤は笹川のことを自分が原因だと思っているのかもしれない。
 相澤は一度俺をあの透き通るような瞳で睨み付けたが俺がそっぽを向くと今にも泣き出しそうな顔を見せた。
知ったことか、相澤、お前にだって手に入らないものがあるんだ!

 終業のベルが鳴ると同時に何か言いたそうな相澤を無視して俺は教室を出た。

下駄箱で上靴を取り替えていると、声をかけられた。
「すごい雨ですよ。傘ないんでしょ……? 駅まで一緒に、入っていきませんか」
振り向くと小首をかしげて遠野阿比留が立っていた。

 阿比留の肩越しに灰色にけぶったグレー一色の景色が見えた。雨音は一層その激しさを増してゆく。
「いいのか? 俺なんかと一緒に…… 」
「かまわないよ、私も電車だから…… 」
 帰りを急ぐクラスメイトたちの好奇の目に晒されながら校門を出ると、黒塗りのベンツが横切った。一瞬後部座席の瀬名と視線が絡んだような気がした。瀬名の瞳に写ったのは、とてつもない寂寥、俺はそう感じた。

 降りしきる雨の中を阿比留と歩いた。傘はピンクだった。俺の妄想にも負けないくらいピンクだ。
 河川敷は雨音と、ところどころの水溜りに覆われていた。
「無口なんですね…… 」
雨の匂いに混じって阿比留の髪の匂いを感じた。思ったとおりいい香りだ。
「女子と話すのに慣れてないんだ。それだけだ」
「雨が好きです。雨の匂いが好き…… 」
「ふーん…… 雨か、雨が好きなんて一度も思ったことないな、俺は…… 」
「土砂降りの雨も、そぼ降る雨も、夕立も、霧雨も、通り雨も、天気雨も、みんな好き」
阿比留と制服が触れ合うだけで、なんだかドキドキした。なにしろ相合傘なんて初めての経験だった。

 雨が好きだなんて思ったことは一度もなかった。うっとうしいだけじゃないか、阿比留はうれしそうに、水溜りをローファーで蹴っている。
「濡れちゃうじゃないか」
「いやですか? 濡れるの…… 」
小首をかしげて俺を見るしぐさに胸が高鳴った。阿比留の笑顔がまぶしかった。
 なにしろ生まれてから十六年自慢じゃないけれど、まともに女子と話すなんて瀬名が初めてで、キスだって自慢じゃないが瀬名としただけで相合傘なんてそれこそ夢の夢だと思っていた。
「聞いていいですか?」
「そ、そんなにくっつくなよ…… 」
いや、むしろ気持ち的にはくっついてほしいんだが…… 。
「濡れちゃうからくっつくんです、聞いちゃいます。相澤さんとはどういう関係なんですか?」
 阿比留の歩幅に合わせてゆっくりと雨にけぶる河川敷を歩いていると、周りにはほとんど人影はなくなっていた。なんでそんなこと聞くんだ阿比留…… ? どういう関係なんだろうな、俺にも分からない。だから、答えようがない。

 「校内で噂になってますよ……」
「知ってるよ。相澤がなんで俺みたいなのと仲良くしてるのかって…… そういうことだろ」
阿比留が顔を上げてじっと俺を見つめる…… 値踏みするみたいに、そうか、こいつは俺のことを…… 。
「……ごめんなさい、ついさっきまで私にも分からなかったんです。なぜ、黒木さんなのか…… でも、一緒に歩いてて、触れ合って分かったような気がします。前にも言いましたよね、私、自分でも分からない不思議な能力があるんです…… 」
 土砂降りの雨があらゆるものを覆い隠していた。灰色に染まった景色の中で世界は俺と阿比留の二人しか存在しないようにさえ思えた。
「…… 見えちゃうんですよ、その人の隠している姿が、触れ合ってるとだんだんはっきりと見えちゃうんです」
…… 失態だな、俺の、分かってたくせに…… 阿比留はただの可愛い女子じゃないってことは分かっていたのに…… 。
「俺がなにか分かるっていうのか……遠野には?」
「阿比留って呼んでください。相澤さんがなぜあなたを選んだのか…… 今は、はっきり分かります」
「言ってることが分からないよ…… 阿比留、いったい何が分かったって言うんだよ」
 駅に向かう橋を半分ほど渡りかけていた。欄干には打ち付ける無数の雨が飛び散っていた。
「名前で呼んでくれてうれしい。確かめていいですか? 黒木さんは普通じゃないですよね、ね、ね…… どのくらい普通じゃないか、確かめていいですか…… 」
 言いながら俺から離れた阿比留が橋の欄干に上った。河はいつになく水かさを増していた。濁流のような赤茶けた水が渦巻いていた。
 「飛び降ります。ここから…… 黒木さんなら助けられます、あなたがその気なら……」
一瞬阿比留が欄干から消えた。
それは無意識の行動だった。瞬時に俺は阿比留の腕をつかんでいた。
 阿比留は俺の腕一本でぶら下がっていた。雨は容赦なく阿比留の顔面に落ちる。そして、俺の全身を濡らす。
「なんでこんなことする…… 濁流に飲み込まれたら死ぬかも知れないんだ!」
「…… でも、助けてくれました。黒木さんなら助けてくれる、わたしには確信がありました」
 腕一本で阿比留を吊り上げ、欄干を超え、両腕で抱えながらゆっくりと橋の舗道部分に戻す。
「怖くなかったのか…… 」
「怖かったです…… とっても」
俺も阿比留もずぶぬれだった。
「でも、でも、こうでもしなきゃ黒木さん、本当の姿見せてはくれないと思ったから……」
 阿比留の身体の力が抜け、俺の胸に倒れこんだ。小刻みに震える阿比留の身体を抱きしめていた。
「…… こんなに安心できるんですね。全てのものから守られてる感覚、どんなものよりも強くて、どんなことが起きても守ってもらえるって素敵な気分です。この一瞬だけでも……」
 俺は、俺は、守ってやれるんだろうか…… この不思議な女の子を、相澤瀬名を、誰かを…… ほんとに守ってやれるんだろうか…… ?

 通り過ぎる車がクラクションを鳴らしていく…… 冷やかすように大声で卑猥な言葉を投げるものもいた。
「ずぶぬれですね…… 黒木さん」
「阿比留だって…… 俺は、俺は……普通じゃないんだ、普通じゃない…… 」
 とうとう言ってしまった。絶対に言ってはいけない言葉を吐いた。

process

「いいです、もう何も言わなくても……」
降りしきる雨はいっこうに止む気配すらなく、阿比留は、自ら俺の胸に深く身体を預けた。
「懐かしい匂いがします……」
見つめる阿比留の瞳に蜃気楼のような遠い記憶の片隅にこびりついた影が横切ったけれど、押し付けられた胸の感触にそれはかき消された。

 中々寝付けなかった。阿比留のふわふわした肌の感触がそこここに残っていたから。
ベッドに寝転んでワグナーを聴いた。 トリスタンとイゾルデ、ロミオとジュリエットみたいな悲恋話だ。携帯が鳴った。無視し続けた。瀬名からだと分かっていたから……。

 自分と瀬名との関係もきっと悲恋だ。思いながら苦笑した。超人なんだぜ、俺…… その気になれば、世界を破滅に追い込むことだってできるんだぜ、なぜか、世界を平和に導くことは思いつきもしなかった。
 瀬名とエッチしたら瀬名に子供ができて、その子は俺とおんなじ能力を持ってたりするんだろうか……?
 全世界の不幸を背負込んだ親子になるな、マッド・サイエンティストの魔の手から一生逃げ回らなければならない。苦笑もんだな、いや爆笑すべきなんだろうか。

 超人さん、最近もてもてじゃんか、瀬名と阿比留に言い寄られたりしてさ……。
学校一の美少女と学校一のロリだぜ、妄想が沸点に達っしようとした頃、ようやく遅い眠気が襲ってきた。

 HRの時、担任から笹川の転校を知らされた。誰でも知ってる都内の私立のサッカーの名門校への転校だった。
相澤は塞ぎこんでいた。朝一、教室で顔を会わせた時一度だけ「なぜ携帯に出てくれないの?」と今にも泣き出しそうな顔で聞いてきたけれど、無視した。

 負け犬のくせに最後まで体裁つくるんだな笹川。
 笹川に憧れていた何人かの女子がため息混じりに「なんでー」とか「急すぎない?」とか囁き、瀬名の顔色を伺っていた。そして、必ずその後俺を見る。
 どうやら瀬名と俺が仲がいいという噂はクラス全員の承知事らしい。
知ったことか! 畜群ども、お前らに俺の苦しみが分かってたまるか!

 クラスの支配者である笹川がいなくなると雰囲気がなんとなく変わった。笹川の取り巻きだった海野の態度が急にでかくなった。
 まあ、それまで笹川のパシリだったから無理もないか、瀬名に色目を使うのが気になったが、俺も瀬名とは冷戦状態だ。無視することに決めた。
 やっかい事は沢山だ。

 放課後、下駄箱を開けたら手紙が入っていた。海野からだった。容姿とおんなじ汚い字が並んでいた。
瀬名が話したがってるから学校近くの神社の境内で待ってるそうだ、なぜ海野が瀬名の仲介をするんだ?
どうやら海野も笹川のよに俺が嫌いらしい。
 まあいい、どうせヒマだし……海野の小賢しい策略に乗ってやるのも一興か……口元に下卑た笑いがこみ上げてくるのがはっきりと分かった。俺はなんだ? 自分の力を……暴力を渇望しているのか、この力を解放したがってるのか? 俺ははっきりと悟った、虫けらのように、無慈悲に畜群どもに鉄槌を与えることなどになんの良心の呵責も感じないであろうことを、誰でもだ! 俺が愛するものを少しでも傷つけたなら容赦なくそいつを血祭りに上げることを、俺は自らを制御できなくなってるのかもしれない。

 学校から歩いて十分ほどの神社、境内までは長い距離の参道が続く。参道に人影はない。
 うっそうとした常緑樹に覆われた夕暮れの境内……待ち伏せするにはもってこいのシチュエーションじゃないか海野。
 もちろん飛んで火にいったのは俺のほうだが……。

 木々の間から黒い影が現れ道を塞いだ。その数十数体、海野と海野の取り巻き……ずいぶん、偉くなったんだな海野。
 「海野、ちゃんと参道の端っこ歩いてきたか、真ん中は神様が通る道だからな、笹川のパシリは卒業したのか? 相澤はどうした?」
「なあ黒木、これだけの人数に囲まれてるってのに余裕だよなあ、気味悪いヤツだよなお前って、まあ、その軽口、倍にして返してやるよ」
言いながら海野は咥えていたタバコを吐き捨て、玉砂利の中にもみ消した。
 俺は相変わらず人を怒らせる天才らしい。海野の顔色が残忍さを帯び、みるみる赤く染まってゆく。
暴力への渇望は、その人間の本性を暴く。

 奥に瀬名の姿が見えた。両腕を他クラスのワルどもに押さえつけられて今にも泣き出しそうな顔で……。
「く、黒木君……海野君に呼び出されて、黒木君が待ってるっていうから……」
さて、瀬名はどこまで気付いてるんだろう。こいつ俺の顔を見るなり微笑みやがった。こんな展開で、普通なら俺はこいつらに袋叩きにされ、自分だって何されるか分からない、そんな状況なんだぜ、ベタな展開だけどな。だが俺が来たから助かる、ほんとにそう信じてるんだな瀬名、どうして俺をそんなに信じられるんだ!
俺が普通じゃないって、分かってるのかよー、瀬名。

 瀬名がもしこいつらに蹂躙されるようなことがあったら、こいつなら舌かんで死んじゃうかもしれないな。
そういう潔癖さが信じられる、そういうやつだよな瀬名って……。
誇りを踏みにじられるくらいなら躊躇なく死を選ぶ、汚れなき気高きお嬢様、それが瀬名。
 好きな男以外指一本触れさせないって……そんな気高さが瀬名、お前そのものだ。

 海野は無抵抗に袋叩きにされるがままの頃の俺しか知らない。だが、今の俺は俺の力を使うことに躊躇しなくなっていた。笹川の一件がそうさせたのかも知れない。
 火の粉は見てみぬフリしたり、振り払うだけじゃダメだ。完全とまでは行かなくともとりあえず消さなきゃならない。

「郁夫がなにを恐れてたのか知らねえがお前みたいなクソガキ俺一人でも充分なんだが、阿比留ちゃんファンのこいつらが半殺しにしないと気が済まないってよ、俺もさあ、瀬名ちゃんがてめえになびくのがむかつくしさ、当分学校にこれないようにしてやるよ」

 全員が金属バット持参で殺気だっていた。暴力への陶酔、これから始まるであろう殴られ、血祭りに上げられ、泣き叫ぶ俺を想像してるのだろう。
 「さて、泣いて許してくださいって土下座したら、とりあえず腕の一本、へし折るくらいで許してやってもいいよ黒木、ははは……」
 海野の言葉に囲んだやつらが一歩近づく。

 瀬名が叫ぶ!「く、黒木クン! ダメよ、開放しちゃダメ! 海野クン ダメ! 黒木クンに構わないで、お願い!」
出鼻をくじかれた海野が不思議そうに相澤と俺を交互に見た。
「開放? どういう意味だ? このクソガキの心配じゃなくて俺らを心配してくれてんのかよ瀬名ちゃん、こいつ叩きのめしたらたっぷり可愛がってやっからさ、おとなしく待っててね」
 海野、お前は全く疑ってないんだな、常人じゃない、人間の皮被ったバケモノを相手にしてるんだぞ、世界を破滅させる力を持ったバケモノを相手にしてるんだぞ! 俺はきっかり十秒あればお前を地獄に落とせるんだ。

 バットが何度も空を切った。バット同士がぶつかって鈍い金属音が響いたけれど、俺にはかすりもしない。
 殴りかかってきた十数人全員を地べたに這い蹲らせるのにきっかり一分、それ以上でも以下でもない。ついでに全てのバットをへし折った。
 海野一人だけが残っていた。あまりの予期せぬ展開に事態がうまく飲み込めないらしい。
俺が一歩近づくと海野が後ずさりする。瀬名に二度と手出しできないようにここは強烈な脅しをかけておくべきだろう。
海野の首根っこを掴み、片手で中ずりにして、頭上高く掲げた。
海野も俺が普通じゃないとやっと悟ったようだった。
 「海野、今度相澤をこんな目に合わせたら……次はこんなことじゃ済まないからな、分かったのか?」
更に脅しをかけた。手を離すと海野はヘナヘナと地面に崩れ落ちた。俺の顔がよっぽど怖かったのか、アンモニア臭が漂った。失禁したらしい。
「……すいません、すいません、すいません」
海野は地べたを這いずりながら恐怖にまみれ引きつった顔で俺を見た。両目にあおたんがくっきりと浮かぶ。
そんな目で俺を見るなよ海野、バケモノを見るみたいな目で見るなよ……あの日の笹川とおんなじ目で俺を見るな。
 瀬名を両脇から羽交い絞めにしていたやつらはとっくにトンズラしていた。
 境内に響くのは海野以下の苦痛に歪んだうめき声だけ、かっこよすぎたかな俺。
でも、超人的能力のほんの一部しか使わなかったんだ、武術の有段者ほどに見せかけたつもり、瀬名の手前。
「相澤、帰ろう……送ってく」
相澤は眼前に展開された光景に気圧されていた。
俺が常人じゃないと見破ったのは相澤、お前が一番先なんだ、それに、俺が現れた時、確信したんだろ、助かるって、こんな人数を相手にしても俺がやっつけると確信したんだろ? 違うのか、だから微笑んだんじゃないのか……俺は、その通りにお前の期待に答えた。もちろん、俺の力を見せたいって強烈な誘惑から逃れられなかったのも事実だけれど……。

 でも開放しなかったぜ、ほんの少し使っただけだよ、相澤。お前がそう望んだからだ。全てを開放したらこいつらどうなっちゃったんだろう。
 今だって暴力への渇望がムクムクと湧き出してるんだ。増大したアドレナリンが俺の中を駆け巡ってる。
こいつらを更に痛めつけたい衝動を抑えるのに必死なんだよ、相澤。
 俺はすでに一人殺しているんだ、蘇る記憶は俺の足かせだ、俺は殺人鬼でもなんでもないんだ! 殺らなきゃ殺られていたんだ! 覚醒した俺の力を解き放ったのはあの時一度だけだ!

「なんだよ、助けてやったのにお礼もなしかよ」黙ったままの相澤に向かって俺は言葉を投げた。
「あんな人数相手に簡単にやっつけちゃうから……空手とかなのこれ? 武術やってたなんて知らなかった、黒木クン、暴力とは無縁だと思ってた……」
「ちょっとかじっただけだよ、護身術だ。笹川のやつらに目をつけられてたからね、自分の身は自分で守らなきゃいけないし、相澤だって守らなきゃ」

「あの人たち死なないよね黒木クン……」
相澤は事態を飲み込もうと必死だった。十数人の俺よりもでかい男たちを相手にして繰り広げられた光景を相澤はどう受け止めるのだろう。開放するなって言ったのは相澤、お前なのに。
「死ぬ? ははは、死ぬもんか、急所は全部外したし関節をちょっとだけいじくっただけ、一晩ぶっ倒れてれば起き上がるさ、自分でね」
「もう二度とこんなことしないで……お願い! 私のためでも誰のためでも暴力はなにも解決しないわ」
「そんなわけいくか! ガンジーじゃあるまいし、無抵抗は従属と蹂躙しか生まないんだ! 相澤、どんなことしてでも俺はお前を守る、俺がそう決めたし、それが、俺の運命さだめだ。例えお前に疎まれようとも俺は、相澤、お前を守るんだ! そう決めたんだ」

 その後の沈黙がなにを意味していたのか、瀬名はそれっきり押し黙ったまま、俺たちはただ歩き続けた。
空は夕暮れから満天の星空に変わっていた。



「黒木クン、待ってよ、なんでそんなに早く歩くの! 怖かったのよ、女子なのよ、もっと、丁寧に、優しく扱いなさい!」
いつもの瀬名だった。切れ長の二重、透き通るような瞳、引き締まった体躯、学校一の美脚、高慢ちきで独りよがりで気高く純粋な孤高のお嬢様、相澤瀬名がいた。

 俺が黙ったまま三歩先を歩いていたら、追いついた瀬名が指を絡めてきた。俺は顔が上気するのが分かった。夜の帳にまみれて瀬名には気付かれることはないだろう。
「今日、助けてくれたお礼に手を繋いであげることにするわ」
多分、俺もお礼を言うべきなんだろうな、なんに対してだ、いったい!? 瀬名の指は長く華奢で暖かかった。心臓が早鐘を打つ、瀬名に悟られまいと指を解こうともがく。そんな俺を見透かしたように瀬名は更に指を強く絡める。
「脚も見てもいいわよ、許したげる」
学校一の美少女と手を繋ぎ、薄明かりの住宅街を歩いた。手を繋いで歩くだけだっていうのに気分が高揚する。ファミマに立ち寄り、ソフトクリームを二つ買った、もちろん瀬名の奢りだ。
近くの公園でブランコに乗りながらそれを食べた。
「……あなたが例え人知を超えたなにか私たちとは違う存在だとしても私は信じるし、受け入れるわ」
月齢十四の月の灯りに照らされた相澤の横顔は美しかった。彫りの深い顔立ちがいっそう引き立つ。
「なんの話だ? 俺がなんだか知ってるような口ぶりだな相澤」
「知らないわ、なんにも知らない黒木クンのこと……いつか黒木クン自身の口から言ってくれたらって思ってるわ……」
言葉をさえぎるように相澤の携帯が震えた。お嬢様はそろそろ帰宅しなければならない。十二時を過ぎれば美しい馬車もただのカボチャになってしまうからだ。
 「……はい、駅の近くの公園。遅くなってごめんなさい」携帯を切った相澤は小さなため息を吐いた。
「学校で会っても知らんぷりや携帯にはちやんとでること、いい? 二度と無視したりしないで!」
「その脚が見られるならなんだって約束するさ」
「バカ!!」
 いつか相澤を背負ってベイ・ブリッジの橋脚のてっ辺に登り、ランチを食うってのはどうだろう。もちろん、相澤の手作り弁当がメインだ。東京タワーのてっ辺でデートするってのはどうだろう、森羅万象、万物のあらゆる物理法則を理解してるってのにてっ辺デートしか思いつかないってのはどういうことだ、いったい!?
 妄想が風船みたいに膨らんでゆく。超人だって女の子に弱いし、相澤みたいな女子には特に弱いんだ。

 クラクションが短く鳴った。カボチャの馬車ならぬ、黒塗りのベンツが公園の入り口に停まっていた。
「いかなきゃ」言いながら相澤が俺の頬に触れた。そよ風みたいな口づけだった。
「これが精一杯よ、さよなら」

車が見えなくなるなで見つめていた。相澤には適わないな、超人なのにな、多分世界中を敵に回したって勝利する自信があるっていうのに、相澤には適わないと思った。空を見上げた。

 天空には夏の夜を彩る大三角が輝いていた。

超人

超人

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-04-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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