忘却

「忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓(ちこ)う心の悲しさよ」

有名なラジオドラマ「君の名は」の冒頭に出てくる来宮良子のナレーションの一節で、この後「君の名はと・・・」と真空管ラジオからノイズ交じりに聞こえる高柳二葉の歌が始まるのがとても印象意的ではあるが私は織井茂子しか知らないけれど、そんなこと書いたところで若い人は知るはずも無ければ興味もないだろう。
 嬉しいかなこの「君の名は」のラジオ放送が始まった昭和27年4月10日に私は未だこの世に存在しておらず「君の名は」を知ったのは佐田啓二、岸恵子による映画で、それもリアルで見たことは無いが当時この放送は絶大な支持を得て、その様は「銭湯の女湯に人が居なくなった」といわれたほどで、それは誇張であったにせよ一般にとても受けた番組であったことは間違いない。「銭湯の女湯」というのがいかにも当時らしい表現であるが、戦後7年たってまだ敗戦色が抜けきっていない年、空襲を逃げまとい、愛する人と離れ別れがあったわが身に照らすものも多かったのではないかと考えてしまう。また、映画のシーンで岸恵子演じる氏家真知子がショールを頭に巻いたことからその巻き方を「真知子巻き」と呼びそれを真似た女性が多くいたというのも当時の映画人気を感じずには居られない。

 それにしてもこの「君の名は」の冒頭の忘却とは・・から始まるこの一節とストーリーの持つ感情を多くの国民が理解し共有したというのが素晴らしい。今この冒頭の言葉を言って内容と、感情を理解できる人がいったいどれくらいいるのだろうと思うとなんとも薄っぺらく成ったものだと感じてならない。携帯やPCでいつでも連絡付く今日、半年後の今日またここで会いましょうなんていっても白けてしまうだけで、ましてや会えそうで会えないなど考えられないと言われそうで、数分でも遅れれば「今どこ?」なんて電話が掛かるようでは人を信じて待つ身の思いなど味わえるはずはないというもの。コインの裏表、得るものがあれば失うものも同じようにあり、便利さの分待つことによる思いの深みはなくなってしまった。


 忘れるからこそ幸せになるとも言われる。悲しいこと辛いことも忘れるからそこから抜け出すことが出来るし、美味しいものまずいものを食べても新たに食べた味が美味しいと感じられる。うちの娘など何を食べても美味しいといい、「あの時食べた○○の方が美味しかっただろう」と聞いても「そうだった?忘れた。これ美味しい」というのだから幸せなやつだなと思ってしまう。私は物忘れが激しくそのくせつまらない物に関してはどうしても忘れられず残ってしまう。たとえば高校2年の時香港のホテルで飲んだコーヒーの味とかクルージングの時貰ったよこわの刺身、一泊で行った温泉の朝食にでた鮎の開きであったり幼い頃秋の夕方岡から見た黒い煙を吐いて走る蒸気機関車とか友と橋の上から見た上る朝日、四万十川の真っ白の川原ときらきらと光る瀬、そこで捕った小さなうなぎの味、クルージングの時の景色とフィジー石鹸の香り、真っ青な海に群れるギンガメアジの巨大な球、ドミンゴが出ていたメトロポリタンの地の底からわきあがるような出だしの合唱などなど。
 忘れれば次に触れたものを新鮮味を持ち、ああこれはいいねといえるだろうが、何年経っても以前の経験が残像となって残っているので何を食べても聞いても見ても感動が出来なくなってしまうのはある意味悲しいといえるかもしれない。ただそれを超える発見は大きな感動を覚えるが悲しいかなめったには無い。

 しかし決して忘れてはならないこともある。先の大戦もそうだし一昨年の原発事故もそう。原発は今でも綱渡り状態で政府が行った終息宣言など愚の骨頂であるだけでなく、何とか忘れさそうと隠し誤魔化し別のニュースやお笑いを交え気をそらし、その時を待っている。また年金問題はどうなったのだろう、あれほど毎日のように報道もしていた年金は一切言わなくなったし、消費税は本来社会保障に当てるのでという話だったはずだのに行財政改革も国会の議員削減もそのまんまだ。

 人は直ぐに忘れる。忘れるから幸せになれるが忘れようと努めるとなお忘れられなくなるので忘れるためにはそれと無関係のことを暫く頭に置くことが必要なんだろうと思う。分かれた相手を忘れるためには恋愛と別のことをするかさっさと次の相手を探すのだ。
 そう考えれば政府は自分達にまずい情報はあえて出さず無関係の報道に差し替えるのだと思う。ニュースやお笑い番組は国民に忘れさすための目くらましなんだろうと思う。お笑いもけっこうではあるがそれを見てもその裏側は忘れてはならない。
世に流されず決して忘れてはならないことも世の中にはあるのである。

忘却

忘却

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-11

Copyrighted
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