真白の愛
狂気すら通り越して、異常な世界で、真っ白く歪んだ愛を受け止めるほかに、私の生きてく手段はもうなかった
その日は普通の一日だったしとりとめも無い一日のはずだった。日記を書くとしたら「今日はとくになにもありませんでした。天気がいいので洗濯物を乾かすのがたのしかったです」としか書けないような。そんな一日のはずだった。
実際、今日は仕事が休みだったので10時過ぎに起きて、ぼんやりしながらバターをたっぷり乗せたトーストとあたたかい紅茶をのんで、部屋を掃除しながら洗濯機をごおんごおん回していただけだった。平日が休みなので一緒に遊びにいくような友達はみんな仕事だし、きもちのよい秋晴れだったので、たくさん洗濯をして、シーツまで干してしまうと気分がすっかり晴れやかになって、これから夕飯の買い物にいくまでお昼寝でもしようかと思っていた。そんな矢先に、めったにならない電話が鳴った。
「もしもし」
「あー!俺!元気にしてる?」
「相変わらずテンション高いねえ、何の用?」
そうして電話をかけてきたのは腐れ縁の男友達で、しばらく会っていなかったこともあって少し懐かしく感じた。久しぶりなものだから話もはずむ。
「何してた?」
「何って、今日仕事休みだから普通に家事したり」
「あ、休みなの」
「そうそう、だから友達と出かけようと思ったんだけど、普通の会社務めじゃ平日休みなんてないでしょう。だから暇で」
「仕事、カフェで働いているんだっけ?」
「そうそう」
私はこのマンションからスクーターで20分ほどのところにあるカフェで働いている。結構繁盛していて、私の他には天気やその日のお客さんを予測して日替わりでおいしいブレンドコーヒーを入れるマスターと、パティシエ見習いの陶子ちゃんが働いている。私はというと料理をつくったりお客さんの相手をしたり、夜のバーの時間帯お酒を作ったり、メニューを考えたり仕入れをしたりする。マスターがどちらかというと経営に疎い人なので、店長補佐みたいなものだ。
「そっちは?バー経営はどうですか」
「まあ、上手くいってるよ。この間お客さんと飲み比べしてべろべろに酔っ払ったけど」
「ははは」
私がカフェで働くよりも2年くらい早く、彼はバーで働いていた。何回か見たことがあるけど、グラスに氷を細かく砕くのが綺麗な人で、憧れだった。
「急に電話かけてきたってことはそっちも休み?」
「ああ、それなんだけど。休みなんだけどさあ、何か他の人にかけても電話なかなか繋がらなくて。やけくそになって電話帳かたっぱしから掛けたらお前に繋がったんだよね」
「そりゃあ、皆仕事しているからねえ」
私がこの仕事をしているのも、どこか心の底でそんな彼に思うことがあったからかもしれない。と、ぼおっと考える。
「でもさあ、電話かけたら呼び出し音も鳴らずに無音ておかしくない?メールも全部エラー返ってくるしさ」
「今日電波の調子悪いんじゃない?私も午前中電話友達にかけたらそうなったもん。何かニュースでやってないかな」
電話をしながらテレビのリモコンに手をのばす。テレビをつけた瞬間、色とりどりの棒が画面に表示される。
「あれ?」
「どうした」
「いや…テレビ壊れたかも」
「え、何したのよお前」
「何もしてないよ」
そう言ってチャンネルを回す。どこのチャンネルに切り替えても表示されるのはカラーバーだけで、おまけにテレビが不具合になると出るはずのメッセージもまったく出てこない。
「いや、これはちょっと」
「何?どうした」
「ちょっとテレビつけてみて」
「え、まって今DVD見てるんだけど」
「いいから。DVDなら後でも見れるでしょう」
「はあい」
彼は相変わらず、いい大人なのにまるで少年のような態度だ。窓から生ぬるい風が入ってきて、洗濯物と風鈴を揺らす。
「え…」
「今テレビどんな感じ?」
「何か、俺の見たことのない画面しかでてこない」
「それって赤とか紫の棒が表示されてる画面?」
「うん…なんだっけこれ…名前」
「カラーバー」
「そうそう」
「でもおかしくねぇ?これって放送終了の時とかしか流れない奴でしょ、確か」
私達はここで少し、今日の異常さに気付く。
「確かにおかしいね、電話もテレビもおかしい。普通に考えれば大規模な電波障害で済むけど、それだともっとおかしいことがある」
「え、何?」
少し焦ったような彼の声。久々に聞いた気がする。
「これだけ大きな電波障害なのに、街が静かすぎる」
「…ああ、確かに」
少し間をおいて、納得したような彼の声が返ってくる。
「みんなテレビも電話も使えないならもっとパニックになったりするでしょう。それなのにそんなに騒いでないのなら、もしかしたらこの状態なの私たち二人だけかもしれないし」
「でもそれだとさ、おかしくないか?何で俺たちの間だけ電話繋がるんだ?」
「わからない。この状況に陥っている人たちの間だけ通信ができるのかもしれないし」
時計の針は14時を指している。もっとぞっとすることに気付いてしまった。
「おかしすぎる」
「確かに」
「そうじゃなくって、街が静かすぎるって言ったじゃん」
「ん?ああ」
「何でいつも同じ時間に通るはずの幼稚園のバスの車すら来ないんだろう」
「そういえば…今日車全然通らないな、こっちも」
「いやー、困ったな」
「困ったっていうか、もうこれはどうにか説明できるレベルじゃないだろ」
「うん」
「あー、どうしよう」
「あのさ、こっち来れる?」
「あ、まあ今から車出せば1時間くらいで行けるけど」
「ちょっと来てくれないかな、これはいくら何でも異常でしょ」
「まあな」
役に立たないリモコンをソファーに向かって軽く放り投げ、代わりにテーブルの上のパソコンを起動させる。
「その間、私いろいろ調べたりちょっと様子見に色々スクーターで知り合いの家とか行ってみるから、電話だけいつでも出られるようにしておいて」
「ああ、俺イヤホンマイクあるから大丈夫」
「うん、じゃあ、もしかしたら信号とかもおかしくなったりしてるかもしれないから、事故にだけ気を付けてね」
「それはお前もだろ。俺運転上手いから多分大丈夫だって」
「わかってるけど、油断はしないようにね」
「ああ」
電話を切って、パソコンを立ち上げたあとインターネットを開く。いつもどおりの検索画面が開いて、すこし安心した直後だった。
「え?」
画面が音もなく切り替わって、ただの白い画面のみの表示になる。すかさず画面を閉じて、他のソフトを立ち上げても同じだった。ただの真っ白い画面が表示されるだけ。
「…気味が悪い」
そうとしかいいようがなかった。百歩ゆずってどの電化製品も使えないのはみんな電波のせいとしよう。だけど、そのエラーすら表示されないというのは、些かおかしすぎる気がした。
使えないパソコンを閉じて、出かける準備をする。さっきまであんなに平穏で安らかな平日だったのに、とんだ厄日だ。ついていない。携帯を見る。携帯はまだ彼と連絡が取れるのだから、少しマシなのかもしれないと思ってメールを開くと、なぜか私が送ったはずのメールがすべてごっそり消えていた。
「…ほんとうに悪趣味」
さきほど電話をする前まではあったはずなのに、受信ボックスも送信ボックスも、もぬけの殻で、これまた真っ白な背景画面が目に刺さるだけだった。
いい加減嫌気が差したので、スクーターでカフェのマスターの家に行くことにした。あの人はどこか達観したところがあるから、もし会えるのなら色々情報交換がしたかったし、街がどうなっているのかも知りたかった。一階の駐車場にスクーターを取りにいく為に階段を下りる。いつものようにエレベーターを使う所だったが、よく考えてやめた。見た目は普通に稼働しているように見えたが、もし途中で止まったりした場合私には助けを呼ぶ相手もすべも無いことに気付いたからだ。3階から階段を下りる。こんな緊急事態なのに、人の気配も、物音も、生活音さえもいっさいしなかった。よくない考えを振り払うようにヘルメットをつけ、スクーターに乗りこむ。しばらく住宅街を走ると、大きな通りに出る。予想していたように、信号はオールレッドだった。人や車が来ないのを確認していちおうウィンカーを出して右にまがる。いつも交通量があってそれなりにどの時間でも人がいるはずの通りはまったく人も車もいなくて、不気味さと同時に心細くなってしまう。
「はやく、はやくおわれ、こんな、夢」
ヘルメットの中で小さくつぶやく。これが夢ならどんなにいいだろう。耐えられない孤独。あいかわらず残暑は厳しくて、太陽は真夏のようにじりじりアスファルトや私を照らしているはずなのに、冷や汗が止まらない。恐怖心をかき消すように、少しだけスピードを上げる。風が体をきる。ここの道を出れば海沿いの坂道で、そこを下った先がマスターの家だ。こんなにもおかしい状況なのに、海は相変わらず穏やかできれいで、少しだけ心が落ち着く。坂道の途中にあるお店も、シャッターを閉めているわけでもないのに人の気配がしなかった。いっそのこと閉店になっていればまだかった。ドアに「open」と書かれた札が下がって、ドアが開け放しになっているのに人がいない方が気味が悪かった。
坂道をそのまま下って、職場の近くのマスターの家に着く。玄関先のルーフの下にスクーターを停めて、チャイムを押す。
「マスター、私です。桐子です。マスター、いらっしゃらないんですか?」
ルーフの下にマスターの愛車のマスタングがあるので、出かけてはいないはずだった。
「マスター、いらっしゃらないんですか?」
ドアを多少遠慮がちにノックしてみる。そのままドアノブをひねってみると、扉は簡単に開いてしまった。
「お邪魔しまーす…」
少し小さめの声で呟きながら、家に上がる。優しいマスターの事だから、もし私が勝手に部屋に上がっても怒らずにいつものように優しくコーヒーとマドレーヌを勧めてくれるだろう。
マスターの家は一戸建てなのだが、どこもひんやりとしていた。リビングとマスターの寝室兼書斎にエアコンがあって、その空気を扇風機で循環させているのだ。私が部屋に上がった時、まだ扇風機が動いていたから当然、マスターは居るものだと思った。しかし、どこにもいない。リビングには七割方飲み終わったアイスコーヒーと小説が置きっぱなしだったし、リビングの奥の和室の仏壇には線香がまだ残っていた。遺影のマスターの奥様が人の良さそうな笑みを浮かべている。
一階に居ないのなら、あとは書斎だけだった。部屋はそこも空気の通りをよくする為なのかドアがほとんど開いていて、私がわざわざ開けて確認するまでもなかった。マスターの書斎兼寝室だけ扉が閉まっていたので、私はノックしたあと扉をためらいがちに開いた。
やはりそこにもマスターはいなかった。代わりに書き物机の上に白い封筒が置いてあるだけだった。マスターの達筆で「桐子ちゃんへ」とそれだけ書かれていた。中を見ようとしたその時に、電話のバイブレーションが作動したので肝を冷やした。電話だ。
「もしもし」
「もしもしー生きてる?」
「勝手に人を殺さないでほしい」
「そっちどう?こっち人も車も全然いないし、信号全部赤なんだけど。俺信号無視しまくりだわ」
「こっちも同じような感じ。人も車も全く居ない。信号は赤。なんかさっきまで人がいた気配はあるのにまるっきり人だけ居なくなってるのが気味悪い」
「あー、そんな感じか。っていうかお前の家に向かってるんだけどよかった?」
「うん。もうだいたい終わったから今から帰るよ。多分ちょうどいい時間だと思うし」
「わかった。んじゃ後でもう一回電話するわ」
「はいはい」
「…なんで俺とお前だけなんだろうな」
「わからないよ。とりあえず、そういうのは会って話そう。なんだか電話越しだと本当に君が存在するのかも危うくてさ」
「ああ、なるほど。なるべく急いでいくわ」
「うん、お願い」
じゃあね、と言ってこちらから電話を切る。手紙は思ったよりしっかり封がしてあった。これはなんとなく家で読んだほうがいい気がした。手紙を二つに折りたたんでファスナー付のポケットにしまいこむと、いそいでマスターの家を後にする。彼が私より早く家についても鍵をあけられないだろう。そもそも彼が私の部屋番号を覚えているのか定かではないが。誰でもいいから人に会いたかった。こんなにも一人がさみしいと思ったことはなかった。この異常な世界で、すこしでも誰かと話して気がまぎれたら、それでよかった。
帰りは車も人も居ないということがわかったので行きより早く着いた。駐車場にスクーターを停め、また同じように階段を上がる。相変わらず人の気配はない。部屋につくと鍵を閉めて、上着も適当に脱いで扇風機のスイッチを入れる。部屋はそれほど暑くはないが、相変わらず風は生ぬるい。二つ折にしたマスターの手紙を開けようとして、やっと久しぶりに車の音が聞こえた。彼が着いたのだろう。駐車場は空きが結構あるから余裕で停めれるはずだ。なんとなく彼よりマスターの手紙が気になって封をあけて読んでみる。そこには達筆でこう書いてあった。
「桐子ちゃん 悪いことは言わない。彼とは別れなさい。彼は心の底から君を愛してくれるが、君の為ならまわりなんてどうでもいいと思っている。君も気づいているだろう、彼の異常さに」
どこかで見覚えのある言葉だった。手紙で渡されたんじゃない、そうだ、あの時はマスターが直接私に言ったんだ。二年前。私は彼と付き合っていた。お互い心の底から愛し合っていた。つもりだった。だがしかし、彼の向ける純粋さが日に日に怖くなっていった。良くも悪くも子供のような純粋さをずっと大人まで持って生きているような人だった。マスターに言われてはじめて気づいたんだった。彼の私へ向ける愛情が他の並大抵ではないことに。そうして私はなんだか怖くなって彼と別れたのであった。そうだ。私は。
「きづいちゃった?」
いつの間にか後ろに立って居た彼が音もなく私を抱きしめる。気づいていた。彼が表面上いつも温厚に接している人たちも、笑顔を向ける人たちも、笑いあって冗談をいうような人たちよりも彼がくらべることもできないくらいに私に重きを置いているのも。だから別れたんだった。それが怖くて。いつも人に囲まれている彼の「本当」がわからなくて。
「合鍵、まだ持ってたんだね」
彼は私の目の前で、車のキーと一緒につけてある合鍵を嬉しそうにしゃらしゃら振ってみる。
「俺、お前のこと本当大事でさ、大好きでさ、どうしたらまた俺と付き合ってくれるか必死に考えたんだよね。考えた結果、俺にしか頼れないようにすればいいんじゃないかって。そう毎日思って願ってたんだ。『この世に俺とお前しかいなくなればいい』って」
そういえば、テレビがおかしくなったのも、メールが消えたのも、人の気配がしなくなったのも、彼が電話をかけてきてからだった、とよく回らない頭でぼんやり考える。
「これでふたりっきりだね」
そういって彼はひどく純粋でまっさらな笑顔を浮かべる。彼の愛は、壊す愛だ。決して慈愛なんて類ではない。そのものの為にすべてを壊すような、ひどく純粋で、怖いほどまっすぐな愛だ。
「あいしているよ」
よく回らない真っ白な頭で、私はこの人を愛すしかないのだと、それしかないのだと、悟った。
真白の愛