桜と連鎖とハムスター

12年前に書いたものです。一応純文学カテゴリのつもりでした。

桜と連鎖とハムスター

 今年も火葬場の横の桜は、周りのどの桜より早く咲き始めていた。

 私の住む町はものすごいド田舎だ。どこへでも自転車で行けるぐらいに狭い。十八年と少しをここで過ごした私にとって、この町は庭だ。と自信を持って言い切れないが、自分の好きな場所知り尽くしている。
 この季節、ひとりになりたいときはここに限る。好んで夜の火葬場に来る人はいない。すぐ後ろの山にはお墓があって、木々の影は夜空よりも暗い。恐がりの人は近づけないだろう。ありがちなことに、この火葬場にも一応怪談らしきものはある。火葬場の裏側にある壁のシミは夜な夜な赤く色を変え広がるとか、びしょぬれの女の人が火葬場から手招きするとか。
 私はそれらの話しが恐いとは思わない。なぜなら、危害を加えられる心当たりがないからだ。でも、私は目に見えないものでも信じるほうだ。UFOや幽霊や超能力はあるだろうと思う。見えるものがすべてだと言い切れるほど、私は物知りではない。
 私は今夜もこの桜を独占する。もったいないなあと呟きながら桜を仰ぎ見る。この町で一番に桜が咲きはじめているというのに。こんなにも命がけな姿を見ることができるというのに。

「恐くないの?」
 頭上から馴染みのある声が聞こえた。見上げるとパーカーのポケットに両手を入れた弟のツネが立っていた。ただでさえ血色がいいほうではないのに、満月に照らされて石膏のように青白く見えた。
 ツネは、木に抱きつくように桜を見上げている間抜けな姿の私に歩み寄り、ポケットから缶のミルクティを差しだした。手にとったミルクティは生きているような温度だった。頬に当て、また桜を見上げた。
「恐くないよ」
 ツネはとなりに座り、持っていた缶のプルタブを開け音をたててすすった。コーヒーの香りが私の鼻をくすぐった。
 ミルクティを頬から離し、プルタブに爪をかけようとした。と、横からごつごつした手が伸びてきて開けてくれた。
「ありがと」
 私も同じように音をたててすすった。
 ツネは優しい人だ。まっすぐで強い。たまに曲がった振りをしているけれど、それはそうやることでしか守れないものがあるときのことだ。でも、曲がった後は必ずまっすぐに戻る。その姿を見ていると、自然と湾曲している部分がまっすぐになってゆく気がする。私はその瞬間を目の当たりにするたび、魔法だと思う。そして血のつながりを誇らしく思う。
 私とツネは顔が似ている。父と母のより印象の薄いパーツを組み合わせた顔だと、近所のおばさんにも学校の先生にも言われる。だけど、ツネの顔は柔和な印象を与えるのに対して、私は冷ややかな印象を与えるらしい。これが中身の違いということだろうか。
 月の光に照らされるツネには色彩がなかった。いや、私の目に映るもので鮮やかな色を発しているのは桜だけだった。黒とブルーグレーのグラデーションに囲まれ、桃色は生気を放っていた。
「ここにいること、なんで分かったの?」
「道路に自転車止めてんじゃん。バレバレ」
「なにしに来たの?」
「夜桜見に来たの」
 そしてしばらく、無言だった。ただ時間だけが流れた。
 私はなんとなく予想していた。今日ここで花見をしていたらツネが現われることを。血が知らせてくれたのだろうか。ありがたいような、ありがたくないような。
 月の光は強く、音さえも消し去ってしまいそうな勢いがあった。そして月が動く音さえも聞こえてきそうだった。

「オレね、高校選ぶとき都会のほうに出てもいいって父さんに言われた」
 ツネは、何の前触れもなく話し始めた。
「ミチを地元の高校に行かせたの、ちょっと後悔してるって。やっぱりうちの高校はレベル低いしね。別の高校に行かせてれば、もっといい大学にだって行けたのかもしれないって」
 いつからか、弟は私のことをミチと呼ぶようになった。美知香のミチ。私は弟をツネと呼ぶ。恒道のツネ。
「仕方ないよ。私が高校入学する年、うちに余裕がなかったんだから。それに私は卒業できればどこでも良かったんだから」
 冷え切ったミルクティを一口飲んだ。その話しを聞くのは初めてではなかった。中学三年の夏には聞かされていて、私はそれで納得していた。ツネが高校を選ぶときの話しは初めて聞いたのだけど、それを知ったからといってツネを妬むわけも両親を呪うわけもない。私は最初から地元の高校しか行く気はなかった。家を離れる気なんて、さらさらなかったのだ。
 一週間後、私はここを離れる。小中高校はあるけれど、さすがに大学はこの町にない。同級生の半分は高校進学のときにこの土地を離れ、残りのほとんどは大学進学や就職でこの土地を離れる。今年、この町で就職を決めたのはたった二人だ。田舎で就職するのは意外に難しいのだ。
 荷造りは順調に進んでいるし、住むところも決めている。今度私が住むところには中学時代の友達もいる。不安に思うことはなかった。ただ、変な話だが、家を出てもいないのにホームシックにかかっているような感じがするのだ。いや、それはこの憂鬱のほんの少ししか占めていないことには気づいている。私は、ツネと離れるのがなによりも寂しくて哀しいのだ。
 私は立ち上がり、月に向かって背伸びをした。
「行けばよかったのに。こんなド田舎より楽しいこといっぱいあったかもしれないじゃない」
 ツネは空になった缶を置いて寝転んだ。私はツネの頭のすぐそばに座った。
「まだ満開じゃないね」
「そうね」
「知ってる? ここの桜は死んだ人が一番に花見できるようにって早く咲くんだって」
「ふうん。あ、真美がここでその話を聞いたら相当恐がるだろうね。泣くだろうね」
「はは、真美は絶対こんなところ来れないよ」
 ツネが軽く笑った。
「あ、そうだね。近づかないね」
 私も軽く笑った。

 真美というのはツネの同級生で、幼なじみだ。私も昔はよく遊んだ。本当に恐がりで、小学生の頃、夏の夜に公園で肝試しをしようとしたら泣いて嫌がった。その嫌がり方が半端じゃなかったのでよく覚えている。
 あれは盆踊りの日だった。海の近くの広場で、この町のほとんどの人が集まって踊ったり、お酒を飲んだり、金魚すくいをしたり、カキ氷を食べたりしていた。質素な作りのやぐらを囲む人々の顔は、昼間とは別人のようで、見慣れた広場さえも電球に彩られ、まったく別の場所のように見えて、私は力の限りはしゃいでいた。
 その広場のすぐそばに公園はある。公園の中ほどに慰霊碑が立てられていて、そこを境に慰霊碑の後ろはちょっとした森――と私は呼んでいる――になっている。今でも私が二人いても抱えきれないぐらいの木が適度な間隔を開けて生えていて、夏は涼しく冬は暖かいので気に入っている場所のひとつだ。
 広場を隅々まで走り尽くして飽きていた私は、電球の光が弱く差し込む公園に気がついてしまった。いつもは光に包まれているそこが、今は影に包まれていると思うだけでどきどきした。テンションの上がりすぎていた私は、そばにいたツネと真美の手を容赦なく掴み公園に向かって走った。ツネは走っている途中でどこへ向かっているのか気づき笑い出したが、真美は方向に気づいたとき、振り切るように私の手から逃れた。立ち止まって振り返ると真美は怒っていた。
「いや」
 そう言ったときの真美の顔を、今でもはっきりと覚えている。
 仕方なく真美ひとりを置いて、私とツネが公園に入って行こうとしたら『やだー!』と叫んだ。そしてその場にしゃがみこんで『ばか』とか『いじわる』とか『恐い』とか言いながら泣き出し、石や砂を私たちに向かって投げてきた。私たちは意地悪くこそこそと耳打ちをしあった。すると真美の声はもっと大きなものになり、泣き出したときと同じ言葉を私たちにぶつけてきた。私たちはそれがやたらとおかしくて、可愛くて、冗談で真美に背中を向け
「バイバーイ」
 と手を振った。もちろん、すぐに振り返って『冗談だよ』というつもりだった。からかいたかっただけだ。だけど、真美は待てなかった。突然断末魔のような奇声を発し、近くにあった石を――真美の両手で持ち上がるかどうかというような大きな石だ――なにか叫びながら持ち上げたのだ。私は目を疑った。
 真美はその大きな石を持ったまま足を踏み出そうとした。その瞬間、石に重心を奪われた真美は激しく転んだ。しばらくしゃくりあげる声しか聞こえなかったが、やがて『こ、こ、こわ、こわい、よ、お』と言葉になりきれない言葉を吐き出しながら起き上がり、また石を持ち上げようと手をかけた。
 私は左半身が恐怖で粟立っていた。心臓が干からびて縮み、しわしわになってゆくようで、しかもそれが激しく鼓動を刻むものだから、めまいがするほど痛かった。私はツネの手をきつく握り締め、ツネも私の手をきつく握り締め、二人とも立ち尽くしていた。
 真美がその石をまた持ち上げかけたとき、ツネは突然私の手を離し真美に駆け寄った。真美は必死といった形相でツネに抱きつき、声を裏返しながらひたすらに泣きじゃくっていた。
 私はツネの手を握っていた手を見た。汗ばんでいた。そして二人を見た。ツネは私の方を向いていた。だけど逆光で表情は見えなかった。真美が恐かった。

「真美、進学どうするんだろう」
 呟くように私が聞くと、ツネは興味なさそうに
「知らね」
 と言った。
「ツネはどうするの?」
 と聞くと
「ないしょ」
 と答えた。ひとつ溜息をついて、私はまた桜を見上げた。
 ここの桜は中学校の桜よりも、高校の桜よりも色濃く見える。明らかな種類の違いは見て取れないが、きっとなにかあるのだと思う。土とか温度とか空気とか雰囲気とか人とか。それはきっと開花のときだけではなくて、花が散り、葉が茂り、そして葉も散り、裸になってまた花をつけて、同じように繰り返す中で一時も途切れることなく関わっているものが溶け込んで、この見事な桜の花の色になるのだろう。私が勝手に考えていることなのだけど。
「散った桜の花びらって、すぐ消えちゃうよな」
 そう言ってツネは頭だけをちょっと上げて、膝枕を要求した。私はツネの頭と地面の隙間に足を入れた。
「うん。たいてい春の雨でどっさり散って存在感なくなっちゃうね」
 まだ散るようすを微塵も見せない桜を見上げた。
「で、そのまま土に還るんだよね」
「そう。そう習ったね」
 また二人は黙った。

 私は桜と月を交互に眺めながら、また、真美のことを考えていた。
 さっき思い出していた恐い真美にはあれ以来会っていない。あれは明らかに、私が悪かった。
 今の真美は、テレビで見る十七歳と比べると幼く見えるけれど、普通の田舎の女子高生で、かなり恐がりで、泣き虫で、感動しやすくて、控えめすぎるところはあるけれど、発言すべきところでははっきりとものを言う、けれど決して刺のあるものの言い方はしない、要するにとてもいい子だ。
 私は真美のことが好きだ。学校では『西佐古先輩』と、いまだに戸惑い気味に呼び、友達のいないところだと『美知香ちゃん』と呼んでくれる真美が好きだ。嫌いになれるはずがない。『真美ひとりっ子だから、美知香ちゃん、お姉さんになってくれる?』とお願いしてきた頃と同じように私を慕う真美を嫌うところなんてない。
 二月のはじめ、真美の部屋に招かれた。真美の部屋にあがるのは五年ぶりぐらいだった。昔よりものが減ってすっきりとしていた。部屋の隅に水槽が二つあり、ハムスターが一匹ずつ入っていた。彼らは気持ちよさそうに眠っていた。
「可愛い。一緒に入れてあげたらいいのに」
 私が水槽を覗き込みながら言うと、真美は肩をすくめて
「オスとメスなの。ハムスターはじゃんじゃん子供を作っちゃうからわけてるの。里親探すの大変なんだよ」
 と言った。私は「そう」と返事をしてハムスターを見ていた。真美は「抱いてみる?」と手を入れようとしたが、私は首を横に振った。すると里親探しの大変さを切々と語りはじめた。
 ハムスターは覗かれていることに気づいているのかいないのか、とにかく気持ちよさそうに眠っていた。小さな手足。閉じられた目。温かそうな毛。私は呼吸をするたびに動くその柔らかそうな腹を、指で押しつぶしてやりたくなった。あんなに柔らかそうで非力な生き物ならば、簡単に潰れてしまうだろう。まだ暖かい血にまみれた私の指に付着する、どこの部分かもわからない肉片。半開きの口からも血と肉の破片を見せている小さな毛の塊。その指の匂いをかぐ。そして、それを……それを私はどうしようというのか。想像している自分に気づき、水槽から離れた。脇腹に冷たい汗をかいていた。
「で、相談ってなに?」
 私が切り出すと、真美は里親の話をやめ、すこし照れくさそうに
「今年のバレンタインはつーくんに告白しようと思ってるんだけど」
 と言った。真美はツネのことを唯一つーくんと呼ぶ。私は「そう」と頷いて、幼なじみとして相談にのった。真美が背中を押して欲しいだけだということは、相談された時点でわかっていた。だから私は真美の背中を押した。
 それからツネにあげるためのチョコレート菓子の本を開いて、二人で姉妹のようにはしゃいだ。クッキーは苦手みたいだとか、ああ見えてもビターチョコは食べられないのだとか。そして私は家に帰った。結果は聞いていない。
 卒業式のとき、真美は校門のところで待っていた。
「西佐古先輩、式の最中も全然泣かないから笑っちゃった」
 と笑った。そして
「先輩みたいになれますようにってことで、制服のボタンひとつください。だめ?」
 と無邪気に言った。私はブレザーの一番上のボタンを引きちぎり、真美に手渡した。
「嬉しい! 私も同じところにつけます。ありがとう」
 と、真美はボタンを握り締めた。私は一生懸命微笑んだ。でも、左半身はあの夏の夜のように凍っていた。
 それでも私は、真美が好きだ。好きだと言いたい。

「食物連鎖っていうんだっけ」
 私のひざに頭を置いたままのツネが聞いた。私は一瞬考えて
「ちょっと違う気がする。食物連鎖の一環だとは思うけど」
 と言った。
「この桜とか土とか微生物とか、全部が繋がってるんだよね。種の保存のために間違うことなく繋がってるんだよね」
 ツネは少しも動かず、そう言った。私はツネの心がぐんと近づいてきたことを感じた。それはとても危険な雰囲気がした。
「うん」
 私は余計な想像をしないように細心の注意を払いながら答えた。そして祈りにも近い思いで一心に願った。

"お願いだから、それ以上、なにも、言わないで"
 しばらく沈黙があった。祈りが届いたのかと思った。だけどそれは私の浅はかな思い違いだった。
 ツネは口を開いた。
「オレら、もしかしなくても、すげえ不毛な存在なんだな」
 私は息が止まるかと思った。心臓が握りつぶされて散り散りになり、私のお腹のあたりで溶けて消えてしまったようだった。その後は、ただただ体が冷えていった。
 私はずっと黙っていた。何か言葉を発すると、その瞬間に何もかも、自分さえも裏切ることになるような気がした。
 また、沈黙を破ったのはツネだった。起き上がり、私に背を向けたまま
「真美のチョコレート、受け取らなかった」
 と言って立ち上がり、自転車のほうに向かって歩き出した。私は何か言わなければと思って、でも何を言っていいのか分からなくて、慌てて立ち上がった。でも、やっぱり言葉など見つからなくて、後姿を見つめていた。
 ツネは自転車までたどり着き、軽々と方向を変えまたがった。そして顔だけ私の方を見て、不必要なまでに大きな声で言った。
「母さんも父さんも心配するから、早く帰ってこいよ」
 私は大きく頷いて、そのまま地面を見つづけた。頭が痛かった。眼球が痛かった。消えたはずの心臓が痛かった。かたく閉じた目から、涙がこぼれた。涙は服を濡らし、ジーンズを濡らし、靴を濡らし、地面を濡らしただろう。染み込んだ涙は、やがて桜の根が吸い上げるだろう。いつ咲く桜になるのだろうか。私はそれを見ることがあるのだろうか。
 肩の力を抜き長い溜息をつき、正面を見た。当たり前だが、ツネはもう既にいなかった。振り返ると桜は変わらず咲き誇っていた。目に見える景色は、やっぱり黒とブルーグレーのグラデーションで統一され、桜だけが桃色に見えた。
 でも、私だけが取り残されていた。私は自然の摂理に反している。ろくでなしだ。役立たずだ。微生物以下だ。そう思えば思うほど惨めで、立っていることですら罪に思えた。
 私は桜の木に抱きついて、割れるような頭痛の中で必死で祈った。
「今度生まれ変わるときはハムスターにしてください」

桜と連鎖とハムスター

桜と連鎖とハムスター

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-10

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