ポップ・ワールド・イン・サマー 2
だいぶ間が空いてしまいましたが、ポップ・ワールド・イン・サマーの続きになります。よろしくお願いします。
(この話はフィクションです。実際の地名、固有名詞、氏名その他一切関係はありませんのでご注意ください)
2
スタンガンが落ちる。
スラックスのポケットから。落下、あるいは転落。落ちて、それから転がる。床に。
それが。
あ、まずい。
咄嗟に思う。条件反射。ほとんど直観で。
ただのミスではあった。
携帯電話を落としたふりを装えば、どうしたって簡単に回収できる。
スタンガンは回収可能だ。
それだけのことだ。
理解して、しかしそれでもだ、俺はまずい、と判断する。
俺はいま、この世界に擬態していて、だから、紛れ込んでいる。姿を化かして、俺の気配を変化させて。俺が、ここにいること、その気配を、存在感を。隠匿して、俺は擬態している。
世界の境界線。
こっちとあっちの、ボーダー・ラインで。
日常と、非日常。表と裏。
所謂世界の裏側に、俺は住んでいる。そしてそれは、表の世界に侵食されては駄目だ。表の世界、その日常に、裏側を認知させては。分かるだろ?それを知られたら、だから俺たちは裏側の人間じゃ、なくなるだろ?
だからだ、俺たちは、俺は。
世界の境界線上にいて、そして姿を擬態する。情報を断絶する。俺という存在を、隠匿する。
裏の世界を、秘匿して。
俺は、その為には、あらゆるミスは許されない、と思う。
思っている。過失はそもそも起こるべきじゃない、そして過失は速やかに、回復されるべきだ。リカバリーだ、即座に。
そうしないと、せっかく化かした、俺の気配、俺の存在感が、台無しだ。
早く、拾わないと、だめだろ。
俺はスタンガンを拾おうとして、屈む。右手を伸ばす。床の上、無造作に転がったそれを。
拾おうとして、しかしスタンガンには触れられない。
スタンガンは無い。床の上には。
消失して。
忽然と消えている。床の上から。
なんでだ?
なんで、スタンガンは。
消えた?
緊急事態だ。この現実は、目の前の光景は。だって、俺の落とし物は消えた。消失した。そしてそれはスタンガンだ。裏の世界の管轄物。裏側の、その世界の断片。情報の切れ端だ。
それが。
紛失?
それって、あれだな。最悪のシチュエーション。最悪だ。文字通り。
こんなミス、あるか?しかもミスは連鎖して、現在地はどこだ?果てしなく最悪に近い。バッドエンドに。
だってスタンガンは一般人の所有物じゃ、ないだろ?それって、だから俺の情報の一部だ。それがなくなっている。表の世界に、紛れ込んで。この階層、この日常。
昼時のレストラン・フロアに。
人影は多い。収穫間際の稲田みたいに、ざわっ、と波立つ。揺れる、人の群れ。音がそれから溢れている。跳躍するハイヒール、垂れ流される会話。咳。溜息、携帯電話の着信。
表側の、世界。
ここにスタンガンは落ちた筈で。だから、はずだろ?
スタンガンは動物じゃない。ワオキツネザルでもないし、オカピでも。どうこうしたって無生物だ。表側では非常に珍しいブツだ。でも。だとしたって絶滅危惧種のジャイアントパンダとは違う。レッサーパンダとも。そういやアライグマってレッサーパンダに似てるか。ラスカル?
それはどうだっていい。
重要なのは。スタンガンは動かない。
だから、つまり。つまりだ。
人為的に、故意に、それは動かされた。
奪取。
奪取された?
それしかない、と俺は断言する。
なぜならば、なぜならばだ、俺には心当たりがある。それも確実な、見当がある。目星はついている。犯人。それはいる。至近距離に、ほんのすぐ傍に。
俺の真正面。
半袖の白いブラウス、紺のプリーツスカート。髪は黒より少し、軽い。ダーク・ブラウン、セミロング。提げたショルダーバッグは革製で。全体的に夏仕様の。
女子高生。
その、右手に。落し物の携帯電話を差し出すみたいに、慣れた素振りで持っている。所持している、不釣り合いなスタンガン。スイッチに触れずに、しかししっかりと。掴む。掴んで。
少女が、薄く、微笑する。
微笑んでいる。
口元だけは微笑んで、猫みたいな双眸は、けれど。歪まない。微笑しない。していない。殺伐とした、色彩(いろ)だけを映している。静寂、それから暴力的な双眸。……ベンガルトラ?そんな、感じだよな、これ。コイツの目。
爛々と、その両目から殺意の光を、洩らす。きらっ、と光を反射するガラス玉の。強烈な眩しさ。それが、瞳の奥で、弾ける。爆ぜている。白い光。純粋な殺意。
少女が、獰猛に、笑う。
笑って、唐突に言う。挑発的な態度。
生意気そうな、どこか挑戦的な顔立ち。それで。
告げる。
「おじさん、世界、壊しちゃおうか」
その場所は名古屋にある。
名古屋市中村区名駅一丁目。
JR東海、JR貨物、名古屋臨海高速鉄道、名古屋市営地下鉄の4つの路線の集合地点。周辺には近鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅が立地していて、所謂名古屋のあらゆる路線の中心部だ。
だから、どこにだって行ける。たとえば、なんだ、京都、新横浜?だから、清水寺と赤レンガ倉庫とか。中華街の小龍包だって食べに行けるし、歴史的建造物の鑑賞だってできる。舞台から飛び降りる、清水のあれとか。そういうの、何でも。
ここから、どこにでも行ける。
西にも、東にも。どこにでも、行ける。選択の自由がある、ここには。
自由なんだ。
だからここは、自由の象徴――――シンボルだろ?
しかし生憎、そこは自由の象徴としてのJR名古屋駅じゃない。中部地方の交通拠点。心臓部、あるいはターミナル駅としての、場所には。無い。但し、でも同じ敷地内には、ある。建っている。併設されている、もうひとつの建造物。JR名古屋駅に併設された複合施設。
オフィスと名古屋マリオットアソシアホテル、JR名古屋タカシマヤ、東急ハンズとか。そういう商業店舗が割拠してる、超高層ビルの。中腹あたりだ。13階のレストラン街。入居する店舗は40店舗。
つまり、フロア2階分、まるっきりレストラン街。文字通り、レストランの街で。
そこが、JRセントラルタワーズの、そしてタワーズプラザだった。レストラン街。そこが、現在地だ。
ここが、はじまりの場所だ。
そして。
俺は、そこにいる。
スープストックトーキョーの店内に、座っている。
そして、向かいの座席には、女子高生の贋作がいる。真正面に座っている、年齢に見合わないポーカー・フェイス。巧妙なフェイク。どこからどう見たって、平凡な女子高生。
あの少女。
俺の正体を見破った、アイツ。
曰く、「あたし、ただの殺し屋で」。
だから、殺し屋の、少女。
ちょうど5分前に邂逅した。
13時18分36秒の、邂逅。
あの時。
俺の恐れていた、だから最悪の、いや、さらに悪いか?
とにかく、状況は起きた。
平然と、まるで幼児向けのパズルでも解くみたいに、容易く。少女は俺に言う。言った。問いかけた、言葉を。それは合図だ。俺の正体が分かっている、それを伝える為の。
俺みたいな人間にしか言えない言葉。
おじさん、世界、壊しちゃおうか。
それで終わりだ。チェック・メイト。
呆然として、だから立ち止まった俺を置き去りにして、少女は言う。
レジの女に向かって、それから、言う。「あの、注文いいですか」と、普通の女子高生の声で、続ける。注文する。酸辣湯も、あるんだ。でもまぁ、お昼だし。ランチだから、「じゃあ、レギュラーカップセットを、マルゲリータスープと、石窯パンで。あと、アイスティーひとつ。ここで食べます」
少女が振り向いて、俺に問う。
おじさん、注文は?
それが、5分前のことで。
そして、現在だ。
目の前には、つまりテーブルの、俺の座席の前には、ランチセットが置かれている。Lサイズのスープ、石窯パン、それにアイスコーヒーの載ったトレイ。それに手を伸ばす。アイスコーヒーを、啜る。啜りながら、スープを混ぜる。オマール海老のビスクの入ったカップを、かき混ぜてみる。
意味は特にない。あるとするなら、そう、緊張だ。緊張している。俺が。いい歳こいた俺が、緊張って、しかもこんな少女に?いや、でもコイツは。少女じゃない。女子高生じゃない。
ただの殺し屋だ。本人の、つまり自称によれば。に、したって。なんだ?ただの殺し屋って。殺し屋にただの、って。普通じゃないだろ。まあでも、言われてみれば。確かに、殺し屋らしい、目だった。
あの、目。殺伐とした、双眸(め)。獰猛な微笑(ほほえみ)。
ベンガルトラだったか?
ぐるぐる、スプーンが回る。
この状況が一体何なのか、それを表現することが、俺にはできない。
把握も、理解も、できていない。
秘匿された、擬態した俺の存在を、嗅ぎつけた奴が出現した。しかしそれは一般人じゃなく、殺し屋の、少女だ。そしてコイツは、世界を壊さないか、と訊く。訊いている、俺に。今も。
その問いは、カルトな団体の勧誘じゃない。テロ参加人員募集のお知らせでも。ニュアンスだ。この言葉は、ただの。
世界を壊したい、その漠然とした感覚。
それを俺が持っているかどうか。
裏側の俺は、持っているかどうか?
コイツはそれを訊いている。
これが俺の今で。この経緯は、だから現在の状況は、どうだ?
良いのか、悪いのか?
ぐるぐる、ぐるぐる、スプーンが回る。
「おじさん、左利き……違うか、両利き?」
「一応、後者だな」
答える。
スープが回る。
「それで、何でわかった?俺のこと」
尋ねる。
具材が揺れる。
「第六感の、インスピレーションかな。あっ、て、思った」
答えられる。解答される。
オレンジ色の、スパイスの香りの効いた、スープが揺れる。ごろっ、と、容器の中で海老が転がる。
転がる?
不意に、思う。直観する。閃きは、瞬く。
転がったのは、つまり俺のほうで。俺の運命が、転んだのか?
だから、これが。
「俺の、運命だってか?」
「そうかもね。運命じゃなくても、意味のある、偶然の邂逅?あたし、今日、何かあるって、思ってたし。女の勘って、あながち外れないから。だから、当たりだったって、ところ」
少女が石窯パンを齧る。
俺は少女に問う。
「つまり俺がここにいて、そして俺が普通じゃないと、知ってた?」
「知ってはいないけど。直観で。それで、おじさんを、見つけた」
アイスティーを半分くらい飲みほして、少女がそこにミルクを溶かす。グラスの中に、白い色彩(いろ)が広がる。ぶわっ、と。まるで水族館の小さい水槽の中の、クラゲみたいだな。紅茶の褐色と白が混じった、乳白色の、その色彩(いろ)が。それが、ふわふわ、紅茶の中を泳ぐ。漂泊して、消える。霧散する。
溶ける、紅茶に。
アイスティーは、いま、アイスミルクティーに、変わる。
それは、変化だ。
変化か。ヘンカ……変身とは違うのか?違うな。変わることだ。ヘンカ。そして、何かが、変わっている。今まさに、この瞬間。そうじゃない、ずっと変化し続けている。何もかも、全部。ありとあらゆるもの。だから、俺も。コイツも。
変わり続けている。
だって、俺たちは、生きてるんだろ?
生きているから、変化し続けて。だから、いま、俺に起きているこのシチュエーション、これは、変化だ。日常に来る時機だ、俺の変化の。あるいは、飛躍とかか?多分。
そういう、ことだろ。
立て続けに、事態を了解する。理解して、俺の現在を、その状況を、把握する。
俺は静かに、少女に尋ねる。尋ねてみる。
ほんの1分前とは、しかし全く違う、声で。
「自己紹介、中途半端だ。お前の職業は、聞いたけど。だから、聞いていいか」
お前の名前は、なんだ?
あたし?あたしの名前。名前は、まだ、無い。昔、捨てたから。でもまあ、知り合い曰く。
いちごミルク、かな。
「いちごミルク?」
「今の、まあ変態の思いつきだし。冗談。別に、いまは、名無しだよ。好きに呼んで」
それが、俺と殺し屋の少女の、いちごミルクとの会話の、開始点だ。
ここから、そして、会話は始まる。
「名前が決まるまでの、じゃあ、仮称。コードネームか。それで、呼ぶよ。いちごミルク。それで、お前、いまどうやって生きてるんだ?」
こんな世界で、と、俺が訊く。
「普通に、いろいろ、建設途中で、放置されたビルを、改造して。そこで、住んでる。仕事は、まあ守秘義務を行使するけど」
「廃ビル?そこ、自分で改造して?雨とかの心配は、ないのか?」
今のところは。下の階のフロアを、少し、改造してるし。シェルターもどきの、改造部屋。ガスは引いてないけど、電気だけは引いてるから。オール電化って、ところ。
「そういうの、だから業界に頼んだのか。ツテ、あった?」
いや、といちごミルクが否定する。それから、続ける。「うちの、師匠が」
戦利品だったの。仕事のターゲットが、それの所有者で。事務所を通して、そっちの業界に。裏で手回ししたんじゃないかな。詳しくは、あたしも。で、まあ、そのお下がり物件。
お下がりって。師匠は?
「行方不明」
たぶん、死んだよ。
いちごミルクはアイスミルクティーを啜って、パンの最後のひとかけらを咀嚼する。小麦粉の塊を噛み砕く。トマトスープもついでに平らげて、それから言う。
「じゃあ、次、おじさんの番ってことで」
おじさんは、何者なの?
「そっちの業界者だよ。一応。適度に法律に触れる程度の」
便利屋なんだ。
便利屋、裏業界専門の?だから、こっちの?そう。こっち側の、裏の。あ、やっぱり。
俺はいちごミルクの発言を、訝しむ。だから訊く。
「やっぱりって、何だよ?」
「普通に。おじさんの目が、暗かったの。暗澹としてて、世界を憎んでるって、目だったから」
世界を憎んでたり、するでしょ?おじさん。あ、そうだ。名前は?
「ベア」
今の、名前は。あとな、多分、世界を憎んでるか、ってな。それ、当たりだ。正解。もう、昔の話だけどな。いや現在も?いまも俺は、世界を。憎んでる。ずっと、昔から。
あれは、いつだ?
「じゃあ、ベアは。いつ便利屋になったの?」
22歳。そうだ、その時だ。世捨て人に為ろうと、決心した。あの時だろ。
俺は、回顧する。ベアとしての俺の、人生の、始まりを。思い出す。
ずるずる、記憶を手繰る。底引き網を引っ張るような、そういう感じ。いろいろ、記憶の海底を攫って、だから掬われて、見える。
回想する。それは、だから、あの時だ。
あの時、確か俺は大学生で。で、何があったんだ?……事故だ。いや、事件だろ?あれは。だって人が死んだ。世界に、絶望して。アイツは大学の友人で、違うな、親友だ。
そいつが、死んだ。
僕、やりたいことなんか、無いのにね、って。それは……あれだ、遺言。アイツの最後の言葉。それだけ、遺して。それだけが遺されて。俺と世界に。痕跡として?違う、違うな。生きた証として。
証拠として、遺された遺言。
死んだ。自殺したんだ、アイツは。
でも誰も悼まなかった。涙は流された、家族の。アイツの親族の、涙は。でも、でもだ。じゃあ、自殺理由は理解されたか?されなかった。世界に絶望する、その精神は。
理解の無い涙。
それは、追悼か?
違うだろ、と俺は、思って。呆然とした。
アイツの死、親友の自殺を、嘲笑する奴らがいる。勉強もせず、就職もせず、両親の脛を齧って生きた負け犬。クズ、ニートだろ?はは、俺たちの消費税、その他もろもろの血税に寄生して。死んで正解。
そして、それが支持される正論だ。
だってこの国は多数決信仰の、御膝下だろ?恥の文化が布教されてきた、偉大なる我が日本って?笑える話だ、滑稽もいいところだ、そんなの。
畜生、何でマイノリティは切り捨てられるんだよ?
違うんだよ、と。
俺は決意する。
お前を救ってやれなかった、代わりに。俺が精一杯生きてやる。こんな世界は、いらない。
俺はこの世界を捨てる。
脱出だ、と俺は思った。エスケープの、決意だ。逃避行、世界からの。日常からの脱却。
そして、だから、俺は。
「便利屋に、なったのは。その時だ。22歳」
いちごミルクに、言う。
現在の、俺の気持ちは。変わってないな、と思う。
俺は、やっぱり、世界、憎んでるんだろ?
今でも。
それで?
でも、その世界はまだ、ここに在る。
「あたし、世界が嫌いなの。違和感と憎悪と、それから、嫌悪。大多数の奴らの、支配地だから。この世界。少数派の言葉とか感情とか、全然理解されないし。それで、あたし、ずっとひとりで。全然、分かってもらえないから。どうせ、一生このままなんだろうな、って」
だから、捨てたの。あいつらも、世界も。
「家族?」
そう、カゾク。捨てたよ、あんな奴ら。顔も名前も、忘れた。忘却してやるって、宣誓したから。
あたしに。
いちごミルクが、ミルクティーのグラスの表面を、弾く。かんっ、と爪の先で。ネイルコートされた綺麗な爪で。ミルクティーの水面がぱっ、と跳ねて、揺れる。
それを見つめる、見据えている、爛々とした双眸。
殺伐とした、殺し屋の、瞳。
強い瞳と、一瞬、視線が交叉する。
俺は、と。何か、言葉が過ぎる。
もしかしたら、こうなってほしかったんじゃないのか、アイツに?
いちごミルクは、コイツは、世界に絶望して。それでも、生き残った。サヴァイヴして、いま、ここに、いる。生きている。死んでなんかいない。絶望を超えて、超越して。
そうだろ?
だから、本当は。アイツも、生きていけたんだ。生き残れたはずなんだ。
コイツみたいに。
俺は、でも、それに気づけなくて。自殺、したんだな。アイツは。
お前は。
謝罪は、しない。ただ、俺は。
もう一度、決意する。あの時みたいに、強く。俺を見据えている、この少女の眼差しの、強さで。真っ黒なインクで引いたみたいに、黒い輪郭。アーモンドの輪郭の、長い睫の、黒。黒の濃度。
その、強さで。断言する。宣誓する。
決意する。
コイツと、共闘するよ。
お前とはできなかった、共闘だ。世界に、喧嘩、売ってやる。
だから、言う。
「いちごミルク、お前、俺と共闘する気は、ないか?」
今更?
少女は笑う。いちごミルクが、不敵に。
笑う。
勿論、そのつもりだったよ。
俺たちの会話は、そこで、終わる。
正確には、だから詳細に言うなら、会話は少しだけ、続いた。あとほんの少しだ。1分もない。いや、それは言いすぎか?じゃあアバウト2分だな。1分も2分も、変わらないだろ?誤差の範囲だ。
そして、続きだ。
俺たちはお互いに握手した。共闘宣言の記念に。それから、連絡先を交換し合った。携帯端末に登録してある電話番号、そしてメールアドレスを、赤外線で送って。だって、当然だ。俺たちは共闘する。つまり、味方だ。
だから、連絡先くらい、知っていて当然だ、って。
俺は少女を、だからいちごミルクを信頼する。
お前を、信頼して。
「じゃあな。連絡、寄越せよ」
「そうだね、あ、じゃあ今度、上の階の工事、してよ。ぼろぼろだから」
「わかった、また連絡する」
じゃ、といちごミルクは軽く、右手を挙げる。
俺は、ああ、またな、と返して。
それが、俺たちの会話の、終着点だ。
終わり。
でもこれは20分前も前の、だから過去の、話だ。
俺は、現在、そこにはいない。
座標は移動している。俺の現在地は。しかし、ごく僅かに。
JR名古屋駅の、近く。
名鉄グランドホテルの内部。18階のホテルラウンジ。ビジネス向きの。
仕事だ。
俺の仕事、つまり適度に法律に触れる程度の。
俺は依頼者に言う。便利屋としてここにいる俺は、言う。
「はぁ、それで。命が狙われているような気がしてならない、だからその理由を探りたい、と?」
傍から見れば、俺たちはただのビジネスマンで、だから怪しまれない。仕事の打ち合わせ程度にしか思われない。感づかれない、世界の死角だ。境界線。裏と表の。
相手が答える、しかし口調は澱む。言葉は曖昧だ。
「いえ、いや……というか、その。とにかく、殺されるんです。僕は。何といいますか、とにかく……僕は、たぶん抹殺されるんです。いや、あの……そんな気がするんです。だから、相手を探すのは、後でいいというか……」
俺は相手の情報を反芻する。勿論、言葉は聞いている。聞き逃すほど馬鹿じゃない、そんな間抜けだったらこんな仕事、やってられないだろ?
俺は自分に呟く。
俺は便利屋で、だから馬鹿はするな。
それで、コイツの情報だ。仲介者から提供された情報。
米澤義明、30歳。名古屋駅北のルーセントタワー内のオフィスに勤務。最近、軌道に乗り始めたベンチャー企業。海外の事業も入札している。そこでの米澤の肩書きはヒラ、しかし上司からの信頼は厚い。他の中間管理職の奴らよりも。当然、内部の情報もよく把握しているだろう。
で、コイツについて、他には?
いかにも気弱そうな顔、というか背格好で、地味だ。どこか影も薄いし、まるで歯向かいそうにない。上司が信頼したくなる、従順な背格好。だからこそ、情報は得られる。
たとえば機密の情報なんかを。秘匿された裏のそれを。
重要事項を。
で、それを売り捌くコネクションがあれば、情報は売れる。売買の対象になる。
そのためのツテは、簡単だ。コイツを俺に紹介した仲介者、若いくせに実力派、そして何より身分を弁えているアマチュアの情報屋。そいつに売って、だから転売されて、いずれは高額なそれになる。札束なんかに。だからだろ?
腕時計は高級ブランド。
しどろもどろに話す、話している米澤義明に、俺は尋ねる。
「失礼ですが。心当たり、あるんですよね?貴方の命を狙ってる奴らの。連中の。だから殺されるって分かってるし、それに、その理由も分かってる。そうでしょう?」
というか、そうだろ?
俺は声を潜めて、訊く。
「こっちも仕事だから、ちゃんと必要最低限は話してもらわないと。勿論、余計な情報はいらないけどな」
「いや、あの……ええ、やっぱり分かりました?ああ、言われたとおりだ、瀬戸さんに。貴方なら気づいてくれるって」
ビンゴだ、と俺は笑いそうになる。
それで?
先を促して、情報は引き出される。米澤義明から、その経緯は。
依頼理由は。
依頼者、米澤義明30歳は、言う。
僕、昔から気が弱いっていうか。いや、本当はそうじゃないんですけど、そう見えるらしくて。それに他人のペースに合わせるのも得意だったんです。だからかな、すぐに上司に気に入られたんですね。それで、他の人には教えない情報とか、業務とか、任せてもらってたんです。いつのまにか裏の秘書になってて。
でも、まあ、なんていうか。僕は大人しくもなければ、臆病でもないので。この情報、売ったら金になるかなあ、なんて。魔が差したって言うんですかね。思いついて、でも、分からなかったんです。コネクションがなくて。その時に会ったのが、瀬戸さん。ほんとに、偶然だったんです。まぁ、それで売りさばく経路、つまりルート?そう、ルートを握って。最初は少しずつ、あんまり影響の少ない、「安い」情報を売って。大体感覚が掴めたら、それなりに高い情報も売りました。まあ、そんなに高いのは売りませんでしたけど。
そこまでは良かったんです、全然。でもあるとき、うちの会社のヤバい情報が漏洩して。ほら、うちの会社、ベンチャーで、海外にも進出して販路があるって、言うでしょう?中国とか、あと南米。そっちとの取引、いや表のもあるんですけど。だから裏で、麻薬とか。ドラッグ、というよりは、向精神薬とか?あと、偽造品。ブランドの、精巧なコピー品とか。他にも色々、輸入して。で、要するにヤクザとか、そっちの業界に、流してたんですよ。あと、詐欺も少しやってましたかね。それで金、稼いでるって。その情報がね、流れたんですよ。社外に。勿論、まだ警察には届いてませんけど。だから、だからですね。
濡れ衣被せられちゃって。その情報は、流石に僕だって売りませんでしたよ。
職場がなかったら、売る情報が掴めなくなりますから。だから、黙ってたのに。僕が情報売ってるの、犯人が見つけて、これはいいって、思ったんでしょうね。情報を漏洩する奴も消えて、尚且つ自分のミスも揉み消せる、って。僕の仕業にして処分すれば、自分の株は下落どころか鰻登り。
まあ、そういう算段で。僕のこと、殺したいんだと思います。抹殺ですかね。
でも僕、殺されたくないんです。確かに身から出た錆ですけど、でも濡れ衣なんです。
「それでも僕はやってない」
「映画のタイトルの引用かよ」
「ふざけてるんじゃ、ありません。だからお願いします、僕、まだお金はありますし。というか、使ったの、この時計だけですから。結構な金額、残ってます。たぶん、報酬は出せるかと」
だから、お願いします。
守るんじゃ、なくて。僕と、
「戦ってくれませんか?」
それが米澤義明の依頼だ。
そして俺はそれを承諾する。
可能だった。聞かなかったふりをして別れることもだ。交渉決裂、それでさよならだ。だってこんな危険な仕事、受ける必要なんかないだろ?仕事は選べるし、俺の都合のいい脳味噌はすぐに忘れる。情報は、一瞬で。忘却できる。
だけど、だ。
俺は世界に喧嘩売ってやる、と断言した。
今日、それもほんの少し前に。
だから俺は、戦わないと駄目だ。米澤義明を殺そうとしている奴がいる、連中がいる。それはおそらく権力者で、そして多数派だ。つまりマジョリティ。それは世界だ。世界が誰かを抹消しようとしている。
そういう解釈、できるだろ?
だったら戦うしかない、と俺は自分に言う。宣言する。
戦う、戦ってやる。
その為の準備をするべきだ、俺は。そうだよな?
即決して、だから迅速に俺は移動を始める。準備に取り掛かるために、俺はここから移動する必要が、ある。だって道具と、それから一切合切の相棒たちは、本拠地にあるんだからな。
俺は裏側の世界の住人で、だからこのボーダー・ライン、世界の死角に潜伏して。世界を騙して、俺は現在、この日常に紛れている。擬態している。それは裏側でも同じだ。
便利屋としてフリーである為に、俺は隠す。俺自身を、隠匿して、消失させて。俺という存在を、その情報を剥奪する。偽装する。表でも、裏でも。
掴ませない、俺という人間の、一切の情報を。匿名化して、あらゆる面でフリーになる。
俺は自由だ。
そして、便利屋だ。
俺を特定するための情報は徹底的に抹消されて、俺は姿を消す。裏社会でさえも。だから俺に現住所はないし、年齢もない。本名は?抹殺した。当然だろ?そして定期的に住所も変える。本拠地を移動して。それも相当の頻度で。一週間に一度の割合で。だから、毎週か。俺の居場所は、住所は。変わる。 で、今の本拠地は。
ホテルだ。そこへ、俺は向かう。
名古屋駅で市営地下鉄:東山線に乗って、一駅分、東進。
伏見駅で下車、そこからは徒歩だ。
アスファルトが灼かれて、ゆらっ、と風景が融ける。融解する。夏の都会の、熱を大量に吸収して。陽炎に、燃やされて。やっぱり、夏だな。
夏の、名古屋の。ここ。
この現在地は。なあ、ここは。
戦場だ。
最前線。ビルの狭間の、この場所は。
俺が足を踏み入れた、しかも自分で。自分から、恣意的に。突発的に、飛躍の時は来て。変化の時機は到来して。だから。
俺は、変わる。いや、もう、変わったか?
変わったな。
あんな依頼、契約しちまったからな。危険で、だから最悪の依頼。多分勝算は無い。勝ち目はほとんど0に近い。なんたって、相手はプロだ。暴力のプロ。おそらくヤクザだ。そんなのに、勝てるか?負けたら惨殺だろ。南無阿弥陀仏。俺と米澤義明は二人して仲良くコンクリート詰め。それで、海に不法投棄。この日常ともお別れだ。グッバイ、憎い日常。
憎い世界。
透明で、まるで冷たく見える青空が、蜃気楼に滲む。じわりじわりと、立ち上った街に、青い色彩が滴る。限りなく透明に近いブルーが、広がって。日差しの白に、眩む信号機のライト。明滅と点灯の、赤と緑が光る。横断歩道は白黒のボーダー。
反対車線の縁、自転車で駆けていく、パンクな姉ちゃんの、髪が翻る。軌跡を描いて、閃く赤。
世界は、あまりにも。
色彩に塗れすぎていて、だからカラフルで。
まるで、金魚鉢みたいだな。
水色に、緑に、人混みを泳いでいく赤いポニーテール。
それが。
これが、日常。
見納めか、否か?
「サヴァイヴしてやるよ」
生き残ることが、世界を壊すって、ことだろ。マジョリティの駆逐に、繋がるって。
だから、俺は。
生き残って、世界を壊す。
俺は呟く。呟いて、誓う。それから。
問いかける。
なぁ、瀬戸。
お前、とんでもねぇ仕事寄越したな?
ポップ・ワールド・イン・サマー 2
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。また機会がありましたら、お会いできればと思います。