ミス・ハーメルンの帰還
ハーメルン市に残された古い記録によれば、いまから七百年以上も昔、町にねずみが大発生したことがありました。ねずみたちは我が物顔で駆けまわり、あらゆる場所に忍び込んであらゆるものをかじりました。食糧はもちろん家具や柱、さらには赤ん坊の指や猫の耳まで噛みちぎる暴れようでした。
困り果てた市長が手を尽くしてねずみ退治の方法を探させたところ、不思議な力をもつ笛吹き芸人の男がいるとわかりました。その笛吹きはどこの生まれとも知れず、町から町へ渡り歩いて奇跡を起こし、彼のおかげで多くの町が災いから救われたというのです。市長は半信半疑ながらも、さっそくその根無しの笛吹きを探し出して町に呼び寄せることに決めました。
案内の者に導かれて、笛吹き男はハーメルン市の城門前に姿を現しました。ひょろ長い体には、赤だの白だの緑だの、ひどく派手なまだらの服をまとっています。腰の幅広ベルトに細長い縦笛をはさみ、頭には大きな鳥の羽根をかざった尖り帽子を載せていました。
しかし何より人々の目を奪ったのは、彼の奇怪な顔立ちでした。大きく曲がったワシ鼻は鋭い眼光とあいまって、まるで教会の軒下で水を吐くガーゴイルのよう。まぶたや唇は左右ちぐはぐに引き攣れており、片頬にはごっそりと肉を削った傷跡があります。あまりに醜い風貌に、町の人々は騒ぎ立てました。
「町に入れるな、あの崩れた面相は業病持ちに違いない」
「いや、きっと悪魔だ。笛一本で奇跡をおこせる人間があるものか」
市長もすっかり怖気づいて、閉ざした門の覗き窓ごしに客人へ呼びかけました。
「遠路はるばるかたじけない。わざわざ町の中までご足労いただくには及ばぬので、さっそくその場でねずみ退治を願いたい」
笛吹き男は顔をしかめました。
「やれと言われればできぬこともありませんが……もし色男の芸人をご所望ならば、わたしが出る幕はありますまい。さっさと退散いたしましょう」
男が踵を返そうとするので市長は慌てました。
「そ、それは困る。――ただ、町の者たちが」
男はうんざりしたように、
「わけあってこのような姿をしていますが、わたしは病人でも悪魔でもありませんよ」
「確かでしょうな」
「わたしは嘘が嫌いですが、疑うのならそれでけっこう」
「ま、待ってくれ」
市長は住民たちがしぶしぶうなずくのを確かめてから、ようやく門を開きました。
路上を這いまわるねずみたちを蹴り払いながら、笛吹き男はまっすぐ中央広場にやってきました。住民たちは彼を遠巻きにして、はばかることなく笑いました。
「悪魔でないなら、あんな男に何ができる」
「面妖な顔でねずみどもを脅かす魂胆だろう」
「ねずみは驚くまいが、町の娘たちは逃げ出しかねんよ」
そんな彼らに手を振って黙らせて、市長は男に言いました。
「ねずみの害はご覧のとおり。一匹残らず退治してくれたなら、金はいくらでも差し上げよう」
笛吹き男はぶっきらぼうに、
「お金ならば、次の町への路銀さえいただければけっこうです」
あまりの安さに、市長や顔役たちは小躍りして喜びました。じつのところ、長く続いたねずみの被害で市の財政は借金まみれ、笛吹きからどれほどの大金を要求されるかと、内心びくびくしていたのです。
「本当にそれだけでいいのかね」
市長が念を押すと、
「そうですな……」
笛吹き男はしばらく考え込んでいましたが、やがて自分を取り巻く人だかりを見渡し、薄い唇から墓石のような乱杭歯をニヤリとのぞかせました。
「では、わがままを一つきいていただきましょう。この町で一番美しい女性を一人、一夜のお相手にお借りしたい」
その言葉に、群衆からは嘲笑とも侮蔑ともつかないざわめきがおこりました。市長も思わず顔をしかめましたが、いまさら嫌とも言えません。すぐに鷹揚な笑顔をとりつくろい、
「いいともいいとも、わがハーメルンの女たちは当世自慢の美女ばかり。よそではとても拝めぬようなとびきりのを用意しよう。……それより本当にねずみの方は大丈夫かね」
「わたしは嘘が嫌いですよ」
笛吹き男はそう言って、腰の笛をぽんぽんと叩いてみせました。
その日の夜更けに起きた出来事を目撃したのは、眠れずに窓の外を眺めていた書記見習いの男の子だけでした。彼の証言によると、三日月が夜空の頂上に昇ったころ、広場の中央に背の高い男の影が現れました。男の笛が軽快なメロディを奏で始めると、やがて街じゅうの空気がザワザワと動き出し、壁のすきまから窓の間から、無数のねずみたちが楽しげに飛び跳ねながら集まってきたというのです。
何百万匹とも知れぬ大群は、笛の音に導かれて黒い絨毯のように波打ちながら、メインストリートを東門に抜けてカルワリオの丘の方角に消えていったとのことでした。
笛吹き男の言葉どおり、翌朝のハーメルンには一匹のねずみも見当たらなくなっていました。住民たちが隅々まで探しても、見つかるのはねずみが残したふんばかりです。人々は手を取り合い足を踏み鳴らして喜びました。
そんな中、一人だけ浮かない顔をしているのは市長でした。それというのも彼の一人娘は町一番の美人と噂され、市長も常々それを自慢の種にしていたからです。
コルセットの紐がだらりと余るほど細い腰、ブラウスのボタンがきしむほど豊かな胸。金色の巻き毛には若者たちから贈られたたくさんの宝石を飾り、毎日三度、舶来物の白粉を全身にすりこむことを忘れません。そんな彼女が散歩に出れば町じゅうの男たちに取り囲まれて、抱えきれないほどの花束が贈られます。市長がいまの地位にあるのも娘のおかげと噂されるほどなのでした。
町からねずみが消えた以上、ハーメルン一の美女を差し出さなければなりません。たった一晩のこととはいえ、愛娘の操が醜い笛吹きに奪われることを想像するだけで、市長は生きた心地がしないのでした。
彼は長いこと悩んでいましたが、やがて何かを思いついた様子で、娘に家へ閉じこもっているよう言い置いてから、熱気にあふれる広場へやってきました。
「ハーメルンからねずみがいなくなった。われらの念願がかなったことを祝し、きょうはお祭りだ」
拍手と歓声で応える群衆に向かって、市長は続けて呼びかけました。
「祭りに華を添えるものとして、ハーメルン一の美女を決めるコンテストを開こうと思う。選ばれた者にはすばらしい名誉と賞金を与えよう」
とたんに広場は静まり返りました。誰もが笛吹きの要求を知っていたからです。ミス・ハーメルンに選ばれた娘が、あのぞっとするほど醜い乞食芸人に体を許さなければならないのは明らかです。
「我こそは、という者はいないか」
娘たちは毎月の舞踏会で妍を競い合っていたことも忘れ、互いに肘でつつきあいました。男とみれば誰かれかまわず流し目を送る商売女たちですら、いまは生娘のようにうつむいています。笛吹きの不思議な力を見せつけられたいま、あの男はやはり魔物ではないかとの恐怖が人々の胸に忍び寄っていたのでした。
「勝者には一生困らぬだけの金を積もう。あの娘なら、という推薦はないか」
市長が水を向けても、男たちはみな顔を見合わせるばかり。普段は女たちの品定めや色恋話に余念がない彼らですが、自分の娘や恋人を人身御供にしたいとは誰も思いません。
「この際だ、年齢や既婚未婚の別は問わん。一人くらいおらんのか」
業を煮やした市長が声を荒げると、群衆の中の誰かが叫び返しました。
「市長さん、町一番の器量よしはあんたの娘のほかにあるまいよ」
そうだそうだとの賛同が、広場のあちこちから沸き起こりました。
「あんたの娘の美しさといやあ、まるで夜空に瞬く星のよう、岸辺にそよぐ睡蓮のよう、天使もかなわぬ美しさだ」
年頃の娘や妻を持つ男たちが、必死で市長の娘を褒めちぎります。もっとも、いつか彼女をものにしようと狙っていた多くの若者たちは、複雑な面持ちで黙りこくっていましたが。
「市長の娘は美しい」
「町一番の器量よし」
「笛吹きに約束したのはあんただろう」
「責任を取れ」
住民たちは口々に叫んで詰め寄りました。挙句の果てには市長の館に押しかけて、奥で震えていた娘を無理やり引きずり出すありさまでした。
「待て、話せば分かる」
彼らを必死でなだめようとする市長の背中で、娘はさめざめと涙を流しました。
「どうしてわたしは美しく生まれてしまったのかしら。神様はなんとむごいお方でしょう」
弱り切った市長は宿に出向き、朝寝していた笛吹き男をゆすり起こして懇願しました。
「今回の報酬は、どうか金ですませてはもらえまいか。よその町でとびきり高級な娼婦を買えるだけの額を出そう」
笛吹き男は長髪の頭をぼりぼりと掻きながら、まるで市長の弱り顔を楽しむように、
「残念ながら、わたしは大金や娼婦には興味がない。ただ町一番の美女がほしいだけです。あなたは約束したではないですか」
「し、しかし」
男の暗い眼窩の奥で、氷のような目が光りました。
「約束を果たせないというのなら――この笛が操るのは、ねずみだけではありませんよ」
市長はすっかり震え上がり、すごすごと宿を後にしました。けれど腹の中は収まりません。
「おぞましい乞食芸人め、なんと恥知らずなけだものだろう。わしの娘と釣り合うかどうか自分の顔を見ればわかろうに、きっと鏡すら買う金もないのだな。あんな男の相手は乞食女でたくさんだ」
そこまでつぶやいてから、市長はあることを思いつき、はたと手を打ってほくそ笑みました。そして心配顔で待ち構えていた市民たちの前で、高らかに告げました。
「コンテストは明日に延期する。わしの娘は必ず出場させる。ただし市からもう一人、これぞという女性を推薦することにする」
自信たっぷりの口ぶりに、人々はいぶかしげに顔を見合わせました。市長の娘を退けるほどの美女が、この町にいるはずがありません。
「異存はないな」
そう念を押した市長は、さっそくかたわらの部下に耳打ちしました。
「この町で一番貧しく、一番役立たずで、一番孤独な女を連れてこい。そのうえ一番醜かったらなお良しだ」
役人たちが夜通しで街を駆けずり回った次の日の昼下がり。中央広場は前日にも増して黒山の人だかりであふれていました。市の推薦と参事会の承認を経てコンテスト会場に引き出されたのは、ぼろぼろの服を着た一人の華奢な娘でした。役人の手によって彼女のスカーフが剥ぎ取られ、ボサボサの赤毛の下から素顔が現れると、詰めかけた観客からは大きなどよめきが起きました。
きっと幼時にひどい疱瘡をわずらったのでしょう、額から頬にかけては樹の皮そっくりのあばたに覆われています。怯えきった小さな目、腫れぼったい鼻、白く荒れた唇など、どれをとっても決して美しいとは言えず、町一番の器量なしといってもあながち大げさではありませんでした。
市長は観衆に向かって紹介しました。
「このご婦人は、城壁わきの日陰通りに住む亜麻布織りの見習い女工だ」
日陰通りといえば、ハーメルンの中でもっとも貧しい人々が住む界隈です。
「流行り病で家族親類すべてを亡くした哀れな身だが、いまは健気に仕事に励んでおる。腕は良くないが気立てがよく、何があっても不平を言わぬ。職工ギルドの親方からも、コンテストにふさわしかろうと推挙をもらった」
「ばかばかしい、こんな娘のどこが町一番の……」
そう怒鳴りかけた一人の口を、周りの男たちが大慌てで塞ぎました。市長は満足そうにうなずくと、亜麻織りの娘に美しいドレスを着せ、自分の愛娘には汚れたぼろを着せました。そしてふたりを壇の上に並ばせて、もったいぶった大声を張り上げました。
「誇り高きハーメルンの紳士淑女がた、さあ決めていただこう。あの笛吹きにふさわしい美女はどちらだろうか。彼女らの人生は、諸君一人ひとりの投票にかかっている」
市長の娘は競争相手を指さして、声を震わせながら訴えました。
「皆さんご覧になって、この子のなんと美しいこと。黒パンみたいに素朴な肌、石壁みたいに無駄のない胸、犬の尻尾みたいに奔放な髪。こんな素敵な方にどうしてわたしが勝れるでしょう」
これに対して亜麻織りの娘は、壇上でただ悲しげに「うう、うう」とうめき声を上げるばかりです。すかさず市長が口をはさみました。
「言い忘れたが、この娘は生まれつき口がきけぬ。だが賢明な諸君なら分かるだろう、この娘の心の声を。自分こそがこの町一番の美女にふさわしい、彼女はこう訴えている」
市民による投票の結果は圧倒的でした。
「この人がハーメルンで一番美しい娘さんですか」
広場の隅でコンテストの一部始終を眺めていた笛吹きは、真っ青な顔で震えている唖の娘をまじまじと見下ろして尋ねました。
「そうだとも。誰が何と言おうと、この娘の美しさにかなう女はこの町におらん。そうだろう、皆の衆」
声を上ずらせる市長に加勢しようと、人々は口をそろえて言い立てました。
「この娘の美しさといやあ、まるで夜空に瞬く星のよう」
「水面にそよぐ睡蓮のよう」
「天使もかなわぬ美しさだ」
市長は勝ち誇って背の高い笛吹きを睨み上げました。もし笛吹きが不満を言うようであれば、滔々と諭してやるつもりでした。
『そもそも美醜の判断とはすこぶる主観的なものであり、絶対的な基準があるはずもない。この町で最も美しい女とは、その美しさを各自の主観に基づいて支持する市民の相対的な数によって決まるのであるから、この娘の美しさがたとえ貴殿の価値観にそぐわないものであっても、それは我々の関知するところではないのである』
市長も町の人たちも、固唾を飲んで笛吹き男の返事を待ちました。建物の陰では若者たちが、庁舎の倉庫から引っ張り出してきた槍やら棍棒やらを握りしめ、いざとなったら力づくで笛吹きを城門の外に叩き出してやろうと身構えていました。
けれど人々の意に反して、笛吹きは一つ念を押しただけでした。
「本当に、この娘さんがあなたがたにとって町で一番美しい女性なのですね」
「その通り」
市長が大きくうなずくと、男はニヤリと薄い唇を曲げました。娘の小さな顎を指先でしゃくり、
「わたしは嘘が嫌いだが、皆さんがおっしゃるなら間違いはない。この子には神の祝福があるでしょうな」
笛吹きはうやうやしく娘の手を取り、振り返ることもなく町を出て行きました。二人の後ろ姿を見送った人々は笛吹きの捨てぜりふをあざ笑い、市長の知恵を褒めそやして、前日よりも一層賑やかな祝賀パーティーを楽しみました。
その夜、人々は飲み疲れ踊り疲れて、泥のように眠りました。闇に紛れて背の高い人影が町に忍び込んでくるのを見たのは、寝ずに窓の外を眺めていた書記見習いの少年だけでした。
彼の話によれば、一筋の笛の音が甲高く響き渡ったかと思うと、ねずみの大群が津波のように城壁を乗り越えてなだれ込み、街を埋め尽くしたというのです。鳴き声一つ立てず、窓の隙間や煙突から静かに家の中へ流れ込むさまは、見事に訓練された軍隊のようでした。
ねずみたちが去ったハーメルンには、女たちの悲鳴と男たちの嘆きだけが残されました。町の女たちの顔から、鼻と唇がすっかりかじり取られていたのです。笛吹き男と唖の娘を笑いながら見送っていた、町じゅうの女たちが一人残らず。
もちろん市長の娘も例外ではありません。ツンと高かった鼻は根元からもぎ取られ、平べったい顔の真ん中には鼻の穴が二つぽっかりと空くばかり。男たちに愛をささやきキスを楽しんだ魅惑的な唇は跡形もなく、歯と歯茎がむき出しになったさまはまるで悪鬼のようでした。
朝日の下で町が悲しみに沈んでいるところへ、笛吹きに連れられていったあの亜麻織りの娘がおずおずと帰って来ました。鼻も唇も満足な彼女は、誰の目から見てもハーメルン一の美女でした。
「あの悪魔はどこに行った」
男たちが詰め寄ると、娘は少しばかり頬を桃色に染めて「うう」と答え、手にしっかりと握っていた小さな紙切れを差し出しました。そこには、端正な字でこう書かれていました。
親愛なるハーメルンの皆様へ
わが恋人に、コンテストの賞金をお忘れなきよう。グルデン金貨を一日一枚一生涯、贈ることを約束願う。怠りし時はたちどころに、わが笛が丘の彼方より響き渡ると心得べし。
嘘が嫌いな旅芸人より
怒りと恐れに駆られた男たちは血眼になって捜し回りましたが、醜い顔の笛吹き男を見たという噂はそれっきり、どこの町からも聞こえてくることはありませんでした。
口が利けないあばたの娘は、こうしてなに不自由なく暮らせるようになり、彼女に求愛する者も現れるほどでした。
市の古い記録によると、彼女は誰の心も受け入れぬまま生涯独り身を貫きましたが、父親の知れぬ子どもが一人あったそうです。
伝承によれば、その子は聖母マリアが妬むほど美しかったとも、悪魔サタンがおびえるほど醜かったともいわれますが、定かなことは分かりません。ただ一つ確かなことは、その子は類まれな笛の名手に育ち、国じゅうにその名を轟かせたということです。
【おわり】
ミス・ハーメルンの帰還