王平伝④

王平伝④

時は西暦228年。街亭で魏軍に大敗した蜀軍は漢中へと兵を返した。諸葛亮は次なる戦を目論見、王平はそんな蜀軍の中で黙々と軍務をこなしていた。漢朝の復興を賭けた蜀と、外敵から自国を守ろうとする魏が激突する。次なる戦場地は、陳倉。

・王平(おうへい)・・・蜀の将軍。前回の北伐で軍功をあげる。
・王双(おうそう)・・・魏の武将。数々の戦の中で、左腕と右目を失う。
・王訓(おうくん)・・・王平の子。王双の元で育つ。
・白翠(はくすい)・・・長安にある宿の娘。王双の妻となる。
・郝昭(かくしょう)・・・長安に駐屯する魏軍の武将。曹真の副官を務める。
・張郃(ちょうこう)・・・魏の将軍。前回の北伐で蜀本体を退ける。
・夏侯覇(かこうは)・・・張郃の下で学ぶ、まだ若い武将。
・王生(おうき)・・・王双の元副官。退役した王双の後を継ぐ。
・郭奕(かくえき)・・・長安隠密部隊の隊長。
・句扶(こうふ)・・・蜀の隠密部隊隊長。王平と仲が良い。
・王歓(おうはん)・・・王平の妻であり、王双の妹。子を産んですぐに死ぬ。
・諸葛亮(しょかつりょう)・・・蜀の宰相。死んだ劉備の意思を継ぎ、漢朝再興を志す。
・趙統(ちょうとう)・・・趙雲の子。死んだ趙雲の後を継ぐ。
・趙広(ちょうこう)・・・趙統の弟。句扶の下で隠密の技を学ぶ。

1.戦後の長安

 目を覚ました王双は、咄嗟に身を起こした。そこは見覚えのある一室で、戦場ではなかった。自分はどうなったのかと考える間もなく右目に激痛が走り、王双はその場に蹲った。
「大丈夫ですか」
 女の声だった。王訓の世話を頼んでおいた宿の娘である。跳ね起きた時に水の入った桶を倒してしまい、娘は手にしていた手拭で床を拭きはじめた。
 その様子を目にした王双はふと違和感を覚え、自分の右目に手を当てた。見えていない。手に感じるのは、がさがさとした大きな瘡蓋だけだった。
 王双は残された左目を閉じ、何があったかを思い返そうとした。
 趙雲の寝所に乗り込み、立ち合った。こちらの一撃に手応えはあったが、相手の命を断つほどのものではなかったという気がする。その時に、右目を斬られたのだ。
 刃が交わる直前、王訓の顔が頭によぎり、踏み込みが甘くなった。それがなければ趙雲に致命傷を与えることができたと思えたが、同時に自分の頭蓋も断ち割られていただろう。
 その後は朴胡の部下が助けにきたが、朴胡自身は討たれていた。岩山から下りることはできたが、それ以後のことは何も思い出せなかった。
「俺は、どれほど寝ていた」
「長安に運ばれてきてから、十二日でございます」
 娘が床を拭く手を止めて言った。
「その間、君が看病をしていてくれたのか。礼を言う」
 娘の傍に、何かの煮汁と水がそれぞれ入った器が置かれていた。これを布に吸わせ、口に入れてくれていたのだろう。
「王訓が、大そう心配しておりました。呼んできますので、少々お待ち下さいませ」
 言って、娘はばたばたと部屋を出て行った。
 一人になると、様々なことが頭の中に去来した。戦はどうなったのか。張郃が迎撃しに行った蜀軍本隊のこと、趙雲のことも気になった。あの時、確かに一撃を与えたはずであった。王双は右手をぐっと握り締めその時の手応えを思い出した。
 娘が一人で戻ってきた。
「あの子ったら、自分は何も心配してないから、気を使うことはないって言っております」
 娘は笑いながら、新しい着物を手渡してきた。王双はそれを、片腕で受け取った。
「王双様がここに運び込まれてきた時は、あんなに泣いていたのに。男というものは、女の私にはよくわかりませんわ」
 それを聞いて王双も笑った。笑うと、右目に痛みが走ってその場に座り込んだ。娘は慌てて王双の体を支えた。とりあえず、生きていて良かった。右目を失ってしまいはしたが、左目が残っているので王訓のことを見てやることはできる。
 安心して落ちつくと、腹が鳴った。それを聞いた娘は、すぐに階下から食事を運んできてくれた。細かく刻まれた羊の肉が入った粥である。一口啜ると、空腹に染み込んでいくようで、王双は思わず唸った。
「血を失っております。たくさん食べて、早く元気になってくださいませ」
 王双は言われるがまま粥を腹に入れた。入れると、体の奥が熱くなった。その熱さは力となり、体の隅々にまで行き渡っていくのがわかった。
「少し、出かけるぞ」
「さっきまで寝ておいででしたのに、もう行かれるのですか。もう少しお休みになられた方が良いと思うのですが」
「心配ない。体が頑丈なことだけが俺の取り柄だからな。さあ服を着替えるから出て行ってくれ。俺の裸を見たいって言うのなら、いてくれても構わんがね」
 そう言われ、娘は顔を赤らめてそそくさと出て行った。支度ができると、王双は王訓のことを探した。しかし、どこにもいない。諦めて行こうかとしていると、娘が王双を見つけてやってきた。
「多分、王訓は恥ずかしがっているのですよ」
 言った娘はさっきと違い、顔に薄化粧をしていた。王双はそれを見て、何故かどぎまぎとしてしまった。
「泣くと叔父上に怒られてしまうって、前に話してくれたことがあります。だから、会いたくないのかもしれません」
 王双にはそれが無性におかしく、しかし右目が痛いため笑顔を堪えて声だけで笑った。娘もそんな王双の変な顔を見て、笑った。
 政庁に着くとすぐに迎えがやってきて、曹真の副官である郝昭の部屋へと通された。軍務をこなしていた郝昭は驚いたように立ち上がり、王双に駆け寄って右手を取った。
「よく無事でいてくれた。いや、その様子では無事だとは言えんか。しかしよくぞ生き残ってくれた」
 王双の来訪を、郝昭は思いの他喜んでくれた。
「戦は、どうなったのでしょうか」
「我々が勝ったのだ。蜀軍は涼州から撤退していった。詳しく話すから、まあ座れ」
 郝昭は王双の背中に手を当て椅子に座るよう促した。
「曹真様は戦後処理で多忙なため、俺が対応することになる。お前が来たら、しっかりと礼を尽くせと言われているのだ。副官の俺で申し訳ないのだが」
 王双は困惑した。自分は戦の結果を聞きに来ただけなのに、この男は何故こんなにも興奮しているのだ。
「こう言っては悪いのですが、何やら気持ち悪いですね。そんなこと、私が気にするわけないじゃないですか」
 郝昭は身を乗り出し、王双の右肩を掴んで言った。
「お前は、趙雲を討ち取ったのだ」
「えっ」
 そこで初めて何故自分がこんなにも歓迎されているのかが分かった。確かに手応えはあったが、そこまでの一撃だったのか。
「黒蜘蛛の調べによると、お前の一撃は趙雲の腹を裂き、その傷が膿んで絶命したのだという。街亭では、張郃軍が蜀軍本隊を撃破した。我々の大勝利だ」
 言われても、何の実感も湧いてこなかった。自分はさっきまで、死んだように眠っていたのだ。とりあえず、勝てて良かったとは思える。
「なんだ、嬉しそうではないな。お前には、かなりの褒美が用意されているのだぞ」
「嬉しくはありますが、いきなりそんなことを言われましても、どんな顔をすればよいものかと思いまして」
「そんな顔をして、笑えん冗談を言うな。とりあえず今日は、これを持って帰れ」
 郝昭はずっしりとした袋を手渡してきた。中を見ると、銀の粒がたくさん入っていた。
「これは、ちょっと多過ぎやしませんか」
 王双は驚いた。驚くと、また右目がずきりと痛んだ。
「その目のことだ。それではもう戦場には立てまい。お前はよく働いてくれたよ。もう軍人は引退して、その銀で何か商いでもすればいい。これは、曹真様からのはからいだ」
 軍から身を引く。今まで考えてもみなかったことだ。王訓を育てるため、軍人として働いてきた。これだけの銀があれば、もうその必要もないだろう。悪くないかもしれない。そう思うと、何故か薄化粧をした宿の娘の顔が思い浮かんできた。
「ありがとうございます」
 銀の袋を手に、王双は部屋を出た。出ると、そこに夏侯覇がいた。張郃から可愛がられている、若い将校だ。
「王双殿、張郃将軍がお呼びなのですが」
「丁度良い。これから顔を見せようかと思っていたところだ。こんな顔で悪いのだが」
 王双は傷ついた自分の顔を指さしながら言った。夏侯覇はそれを見て、呆れたような顔をした。
「あの、お体は大丈夫でしょうか。お疲れのようなら後日でも良いと将軍は仰っているのですが」
「なんの。軍人がこの程度の傷で弱音を吐いていられるか。さあ、案内してくれ」
 夏侯覇に連れられ、張郃の部屋に通された。
「お前、大丈夫か」
 見るなり、張郃は顔をしかめて言った。
「顔を動かすと痛いので、今日はずっと仏頂面です。ご勘弁くださいませ」
 そう言うと、張郃は腹をかかえて笑い出した。王双も笑いたかったが、痛いのでぐっと我慢した。
 夏侯覇が、塩をふりかけた瓜が並んだ皿を王双の前に差し出した。王双はすすめられるまま、それを食った。食うと、口の中に瑞々しい甘みが広がり、美味かった。そして張郃からは労いの言葉をかけられた。おかしな気分だった。戦の帰趨を聞きにきただけで、こんなに厚遇されようとは思ってもみなかったのだ。
「俺は蜀軍の本隊と対峙している時、曹真殿の苦戦だけが気がかりだった。それをお前は、よく打破してくれた」
「岩山に拠っていた蜀軍の意表を上手く突けたと思います。私の気がかりだった蜀の隠密部隊も、本隊の方に付随していたようですし」
「趙雲は敵ながら天晴れな将であったが、万能ではなかった。お前らは敵の弱点を見抜き、最高の仕事をしてくれた」
 言われて嬉しかったが、王双は顔を崩せずにいた。目が痛いというのに、この人は自分のことを喜ばせてくる。困った人だと王双は思った。張郃はそんな王双を見て、ただにやにやとしていた。
「蜀軍の本隊は、やはり強かったですか」
「大したことはなかった。敵の大将は、人を使うことが不得手のようだ。この若造ですら、初陣だというのに敵将の首を一つ奪った」
「それはすごい」
 王双は心からそう思ったが、言われた夏侯覇は当然だという顔をしていた。これを見れば傲慢だと言う者もいるかもしれないが、若い将校はこれくらいで丁度良い。
「ところで王双」
 張郃が言った。
「王平という者のことを知っているか」
 意外な名前が出て、王双は瓜を食う手を止めた。何故その名が、この場で唐突に出てくるのだ。
「知っているもなにも、昔の私の上官です」
「そうだよな。昔、曹操様の提案で手合せしたことがある。違うか」
「その通りです。その時は、将軍に散々にやられてしまいましたが、それが何か」
「その王平とやら、蜀軍にいたぞ」
「えっ」
「良い騎馬隊を率いていた。あやうくこいつは首を奪られかけたほどだ」
 張郃は、嫌そうな顔をする夏侯覇の尻を叩きながら言った。
「あの、同じ名前だったということでは」
 銀の袋を握る手が、細かく震え始めた。
「こいつが討たれそうになった時、近くで見たのだ。あの顔は、確かに見覚えがあった」
「そうですか」
 王双は、仏頂面のまま答えた。
「軍にいると、様々な縁があるものだな」
 王双は、やはり仏頂面のままでいた。しかしそれは、本当に思い悩んだ顔だった。このことは、王訓にも伝えるべきか。伝えたところで、自分は何ができるのか。張郃と夏侯覇がまだ何か言っているが、全てが上の空で頭には何も入ってこなかった。
 日が暮れはじめ、王双は夏侯覇に付き添われて政庁を出た。褒美をもらえたことは素直に嬉しかったが、王平のことは衝撃的だった。生きていてくれて嬉しいという想いはあるが、それ以上に理不尽だという思いが心に湧いた。王訓と妹を置いて、あの男は今まで何をしていたのだ。
 隣を歩く夏侯覇がしきりと王平の話を聞きたがっていたが、王双はそれに空返事をするだけだった。妹の歓は、王平が死んだと思っていた。そしてそれを気に病み、死んでいったのだ。
 王平のことを恨むつもりはない。王平には王平なりの事情があったのだろう。しかし、やはりやりきれないものはあった。顔をくしゃくしゃにして泣いていた妹のことを思い出すと、今でも胸が締め付けられるのだ。
 宿に向かって市中を歩いていると、髪飾りを売っている店があった。そういえば、妹は王平に髪飾りを買ってもらい、喜んでいたことがあった。王双はその店の前で足を止めた。
「なあ」
 空返事ばかりする王双に閉口していた夏侯覇も足を止め、怪訝そうな顔をした。
「なんでしょうか」
「女は、どれを喜ぶと思う」
 不意にそんなことを言われ、夏侯覇はにやりとした。
「女性への贈り物ですか。王双殿も、隅に置けませんな」
「そんなことではない。俺のことを看病してくれた娘がいるのだ。その娘のことは、名も知らん。これは、その娘への礼だ」
 本当にその娘への礼なのか、妹に対する罪の意識がそうさせているのか、王双にはわからなかった。
「ご自分でお選びなさいませ。私が選んでも、それは意味のないことでしょう」
「そんなものなのかな」
 王双はしばらく店の前に立ち、並んだ髪飾りを睨んだ。残った左目で、一つ一つをじっと見た。既に辺りは暗くなり始めている。店主のおやじが嫌な顔をし始めた頃、王双はその中で一番派手な髪飾りを手に取った。
「これなんか、どうだ」
「それでいいと思いますよ」
 夏侯覇が半笑いでそう答えた。
「そうか、ならこれにしよう。おやじ、長々と悪かったな」
 王双は袋から銀を一粒取り出し、おやじに投げた。おやじは驚いていたが、王双は黙ってそこから立ち去った。
「気前が良いですね」
「まあ、こんなにあるしな」
 そう言って笑うと、また右目に激痛が走った。
 これで、あの娘は喜んでくれるだろうか。そんなことを考えると、銀一粒の価値などどうでもいいように思えた。
 宿につくと、王双は夏侯覇に礼を言って別れた。宿の入り口に、王訓の姿があった。王双が右手で銀の袋を掲げて見せると、王訓は走り寄って王双の腰に抱きついた。もう暗くなっているので、王訓が泣いているのかどうかは分からなかった。こいつにも、何かうまいものを食わせてやろう。王双は、そう思った。


2.拷問

 蜀軍の中に、暗い雰囲気が漂っていた。計画通りなら、今頃は長安まで進んで魏軍と交戦しているはずであった。しかし蜀軍は、長安の城壁すら見ることなく、漢中へと引き返してきていた。
 どんな顔をして帰ればいいのだ。それは蜀軍にいる者ならば、誰もが感じていることだった。
 漢中に着くと、宴が開かれた。その手はずを整えたのは、成都から漢中に来ていた費禕である。さすがに遊び好きな費禕だけあり、その宴は蜀軍兵の鬱々とした気持ちを少しは晴らしているようであった。
 そんな中で、馬謖と李盛の首が落とされた。張休は敵将に討ち取られていたが、それでは蜀軍内での聞こえが悪いので、罪人の中から張休に似た者を選んで共に首を刎ねた。
 下手人は句扶であった。街亭で伏兵が露見したことを報せに行った部下が馬謖の手によって殺されたことを知ると、珍しく句扶は感情を露わにして怒った。無理もない。苦労して育てた部下が戦場で死ぬというのならともかく、己の責務を果たそうとして味方から殺されたのだ。味方がしたこととはいえ、部下を統べる者として、見過ごせることではなかった。
王平が聞くところによると、首を失った馬謖の体は無数の火傷とあざにまみれていたのだという。死罪を言い渡された李盛は気が狂ってしまい、暴れないよう全身をきつく縛って轡をさせられ、家畜のように殺された。そして三つの首が漢中の市中に晒された。いずれも、無惨な死に様であった。
 作戦に直接関わらなかった黄襲は、死罪をまぬがれはしたが平民に落とさた。もういい歳だから丁度良かったと黄襲は笑っていた。成都から妻を呼び寄せ、漢中で飯屋を開くことにしたのだという。若い軍人のたまり場となるような飯屋にしたい、と黄襲は言っていた。
 その飯屋に、王平は句扶と共に来ていた。誰の目にもつくことがない、一番奥の個室である。卓の上には黄襲の妻がつくった粥と羊の肉を酒で蒸したもの、それと甘辛く味付けされた煮野菜が並べられていた。
「負けたな、句扶」
 王平は羊の肉に箸を伸ばしながら言った。酒で蒸されたその肉は口に入れると柔らかくほぐれ、舌の上に肉汁が溢れてうまかった。
「負けるべくして、負けました。全く馬鹿な話ですよ」
 句扶も箸を伸ばしながら言った。この男は体こそ小さいが、驚くほどによく食う。
「趙雲殿も浮かばれないだろうな」
 将軍趙雲は魏の夜襲のために負傷し、漢中に帰還するとしばらくして死んだ。腹に負った傷が膿んで高熱を発し、王平が見舞った時はその傷口から蛆がわいていた。
「統と広は、どうしている」
「かなり落ち込んでいます。特に兄の統は父が死んだのは自分のせいだといって聞かず、自裁しようとしていたところを魏延殿にぶん殴られていました」
 その光景が目に浮かぶようで、王平は思わず鼻で笑った。
「広は大丈夫なのか」
「趙広の方が、心に負ったものが大きいようです。自ら死ぬなどということは言いませんが、何を言っても上の空という感じです。あれでは、忍びの仕事などできませんな」
「一度、俺からも何か言っておこう」
「兄者から何かを言っても、無駄だという気がします。あいつは、心のどこかで、誰かに守られているのだという意識があったのと思います。それは俺や兄者ではなく、軍の頂点にいた趙雲殿です」
「父を失った悲しみより、自分の後ろ盾がいなくなったことを気にしているのか」
「父を失った悲しみが無いとは言いません。そういうところもあるということです。悲しみがきたのと同時に、実利も失ってしまった。これはあいつにとって、小さなものではなかったのです」
「意外と現金なのだな、あいつは」
「我々の仕事には、それくらいの酷薄さがあった方が丁度良いとは思います。しかしこのままでは、あいつは使いものになりません。少しばかり、喝を入れてやろうかと思います」
「あまり、無茶はするなよ。あいつはこれからの蜀軍には無くてはならない存在になってきている」
 具体的に何をどうするのか、とまでは聞こうとは思わなかった。王平の知らないところで、忍びには忍びの生きる道があり、その中で苦しみ、血を流し、生き抜いているのだ。それに対して、口を挟もうという気にはなれなかった。
「蜀軍は、これから辛くなるな」
 国を上げての戦に敗れたのだ。この負けは、亡国にも関わることだと言ってもいい。何故、北に出兵しなければならないのか、言葉では分かっていても、本当に理解している兵は少ない。
「戦などする必要などないのです。我らはこの国で、我らなりに生きていけばいい。そして攻められるようなことがあれば、全力で戦えばいいのです」
 正論であると思えた。しかし蜀という国は、漢王室の復興を国是として建てられた国なのである。魏との和解を肯じてしまえば、それは蜀という国を否定することになる。
「厄介な国の軍人になってしまったものだな」
「その厄介が、またすぐにやってくるかもしれません」
 句扶が粥をすすりながら言った。
 諸葛亮が、まだ漢中に留まっていた。成都に帰らないということは、まだ北伐を諦めてはいないということだ。
「我らが涼州で戦っていた頃、費禕殿が呉との交渉をすすめていました。その呉が、この冬に魏へと出兵するそうです。そしてその救援のため、長安から数万の軍勢が東へと向かっていったとの情報が入りました」
「その機を狙い、また出兵か」
「丞相なら、そうされると思います」
 また北へと行く。それを部下達に伝えることを考えると、王平の気持ちは重くなった。兵達は、ようやく故郷に帰ることができると思っていたところなのだ。
 それに、これからの季節になると、北は寒い。成都へ帰れば、辛い肉とうまい酒で体を温めることができるのだ。
「勝てば良い。そう思うしかないな。これ以上負けてしまえば、本当にこの国は滅びかねん」
「ここだけの話、民にとって意味のない戦ばかりを続けるのなら、滅びてしまえと思うこともあります」
 句扶が、ぼそりと言った。
「そのようなことは、冗談でも言うな」
「申し訳ありません」
 軍の秩序が乱れるから言うな、と言っているわけではない。どこで、誰が聞いているか分からないのだ。意味のない戦で民が疲弊するのであれば、そんな国は滅べばいいと句扶は言っている。しかし、俺達は、そんな国の軍人なのだ。
「でもこれで、洛陽の家族と会えるようになるかもしれませんね」
「もう昔の話だ。今では、そんなことを考えること自体がなくなってきている」
 そう言うが、王平はその希望を捨てたわけではなかった。洛陽を離れてもう十一年が経つ。それでもまた歓に会いたいと思うし、もう十一歳になっているはずの子供を抱いてやりたいとも思う。忘れたのではなく、心の中で整理がつくようになったのだ。長い時が、それを可能にさせた。しかし一方で、忘れてしまったのだと認めたくないだけなのかもしれない、と思うこともある。洛陽のことを思い出しても、昔のように心が痛むということはなくなってきているのだ。
 個室の戸が鳴った。句扶が静かに戸を開けると、年老いた黄襲の妻が酒を運んできていた。
「そろそろかと思いまして」
 空いた皿が片付けられ、杯に酒がつがれた。戦中には断っていた、久しぶりの酒だった。

 趙広はぼろを纏って漢中の市中を歩いていた。
 北伐から帰ってきた兵で漢中は賑わっていた。賑わいといっても、皆が心から喜んでいるようには見えない。所々に、荒れた人の心が見え隠れする賑わい方だと思えた。
治安が悪くならないように目を光らせておくことが、趙広に与えられた任務である。また魏から潜りこんできている間者を見つけ出すことも仕事の一つであり、物乞いの姿をしているのは敵の目を欺くためだ。
 先の戦で、父が死んだ。父の近くにいた兄は責任を感じて自決までしようとしていたが、魏延に止められていた。自分はそこまで思うことはなかった。悲しくはあったが、それは表に出さないように努めた。忍びは、自分の感情を表に出してはいけないのだ。
 しかし父を討った相手のことは、しっかりと調べていた。左腕の無い隻腕の男。そして父を討った時、右目に大きな傷を負ったのだという。その男は、何度も趙広の夢に現れた。すぐそこにいるのに、手が届かない所にいる。二人の間に流れの激しい川があることがあれば、深い谷があることもあった。そしてその男は、歯噛みをする自分を見て、高らかに笑うのであった。
「おい」
 肩をぶつからせた男が、趙広を睨みつけてきた。
「すまん、考え事をしていたんだ」
「乞食風情が、何を考えることがあるというのだ」
 平装であったが、蜀の兵士だということは体付きを見てわかった。その男は趙広の髪を鷲掴みにした。その後ろでは、同じ兵卒仲間だと思われる二人がにやにやしていた。周りの者は、そんな光景に見て見ぬふりをしている。
 頭を鷲掴みにされたまま、路地裏へと連れて行かれた。
「おい、乞食。俺の足を舐めながら詫びろ。そうすれば許してやる」
 体の中に、黒々としたものが貯まっていた。それが何であるかは、よくわからない。腹の中で虫を飼っているようなものだと思えた。街亭で蜀軍が敗北してから、事あるごとにそれは疼き始めた。父が死ぬと、その疼きはさらに大きなものになっていった。
「この辺りで行儀の悪い兵卒がいると聞いている。それは、お前らか」
「何」
 体の中で、黒いものがはじけた。趙広は頭を掴む腕を取り、捻った。そして腹に拳を打ち込み、首を捩じった。骨の折れる音が、掌に伝わった。
 残った二人をどうしようか。そう思った時には、その二人は既に逃げ腰だった。二人が踵を返すと、路地裏の入り口に小さな影が立った。影は二人の首元を掴み、路地の奥へと放り返した。
「待ってくれ。殺さねえでくれ」
 二人の兵卒は膝まずき、命乞いを始めた。
「馬鹿者ども。蜀の兵ともあろう者が、恥を知れ」
 句扶だった。二人はその場にひれ伏し、体を震わせていた。
「そこの死体を片付けろ。そして、戦場で死ね」
 二人は顔を上げて何度も頷き、首の折れた死体を担いで路地裏から出て行った。
「馬鹿者」
 言って、句扶は趙広の体を蹴り飛ばした。
「句扶様。あの者は何の罪もない民にも乱暴を働いていたのです。それなのに」
「だからお前は馬鹿だというのだ。俺はそんなことを言っているのではない。あの二人を逃して、残った死体をどうするつもりであったか、言ってみろ」
「それは」
「死体を放置しておけば、腐敗する。腐敗すれば、病の元となる。かと言ってお前があの死体を担いでこの路地裏から出れば、周りに顔を覚えられる。顔を覚えられれば、仕事がし辛くなる。違うか」
 趙広は俯いた。その通りであり、反論できる余地などどこにもない。
 体の中で、何かがはじけたのだ。だがそんなことは、言い訳にもならないことだった。
「まあいい。お前に新しいことを教えてやる。ついてこい」
 言われるがままに付いて行った。市中を抜け、田畑のあぜ道を歩き、山中に隠れるようにして建てられた小屋に行きついた。かなりの距離を歩き、傾きかけていた陽は既に薄暮れになろうとしていた。その間、会話は一言も無かった。
 小屋に入ると、空気が冷たくなったような気がした。朽ち果てたような外観に比べ、その中は驚くほどきれいに整理されていた。それを見た趙広は、この部屋がなんのためにあるのかすぐにわかった。部屋の隅には、頭に袋を被せられた男が柱に縛り付けられている。その体は、頭の袋意外に何も身につけていない。
 句扶は頭の袋に手をかけ、乱暴にむしり取った。傍らで、趙広は黙ってそれを見ていた。
「こいつは、漢中に潜んでいた間者だ」
「違うんだ、俺はただの」
 そう言いかけた男の顔に、句扶が手にした鉄の棒がめりこんだ。鼻から血がぼとぼとと流れ、男は呻いた。
「こいつを、これから拷問にかける」
 男の顔が、恐怖に歪んだ。
「違う。俺はただの商人だ。魏から商いをしに漢中までやってきただけなんだ」
 今度は句扶の拳が男の腹にめり込んだ。
「よく覚えておけ。こいつがいくら喚こうが、轡はできん。だから拷問は、こういう人気の無い所でやるのがいい。深い地下でやるのも悪くはない」
 言った句扶の声は、いつものように落ち着いていた。教師が生徒に教えるといった感じだ。そして句扶は卓を指さした。趙広がそちらに目をやると、色々な刃物や拷問器具が並べられてあった。
「それを使って、こいつが漢中で何をしていたか、聞き出してみろ」
 趙広は戸惑った。句扶が自分の知らないところで捕えた者に拷問をかけていたことは、何となく知っていた。いつかは自分もやるようになるのかと漠然と思っていたが、ついにその時がきたのか。
 卓の上にあった刃物を一つ手に取ってみた。よく研がれた刃物だった。その刃物を手に、縛り付けられた男の前に立った。男の顔は、恐怖でひきつり涙をぼろぼろとこぼさせていた。
「句扶様、一つよろしいでしょうか」
「何だ」
「もしこの者が、本当に商人であれば」
 句扶の蹴りが飛んできた。趙広の体は卓にぶつかり、刃物のいくつかが音を立てて床に落ちた。腹を蹴られた趙広は、その場に蹲って咳き込んだ。
句扶は落ちた刃物の一つを手に取り、男の肩口に当てた。
「よく、見ておけ」
 言って句扶は刃を入れ、腕の皮に切り込みを入れた。流れ出る血が、男の腕に線をひいていった。句扶は切り込みを入れ終わった腕の皮に手をかけ、一息でひっぱった。腕の皮が、ずるりと剥けた。獣のような絶叫が、山中にこだました。そして句扶はその皮を両手で広げ、嬉しそうに男に見せつけた。
「やってみろ」
 言われて、趙広は震える手で、刃物を取った。全身から汗が噴き出していた。奥歯が震えるのを、噛みしめることで耐えた。
 趙広は見よう見真似で腕に刃を入れていった。反対側では、句扶が血止めのために肩口をきつく縛っている。あくまで、じわじわと嬲り殺す気だ。
 切り込みを終えた。それを見て句扶が、足りない所に刃を入れた。趙広は、黙ってそれをじっと見ていた。句扶がやったのと同じように、皮をひっぱった。嫌な感触と共に、皮がずるりと剥けた。
「なかなか筋が良いではないか」
 句扶が口元で笑いながら言った。趙広は顔がひきつるばかりで、笑うことなどできなかった。
「おい。言っておくが、まだ殺さんぞ。先ずは、生まれてきたことを後悔させてやろう」
「違う。本当に、俺は違うんだ」
 男は両腕から血をぼとぼとと滴らせながら、叫ぶようにして言った。句扶の刃が、男の脇腹に入った。
「死にたくなったら、いつでも言え。お前の知っていることと交換に、死をくれてやろう」
 言いながら句扶は、男の腹に入った刃をぐりぐりと捩じった。男の喉の奥から、声にもならない声が出た。刃が急所を避けているのは、見ていてわかった。
 趙広は、まるで自分がそこにいないかのような、不思議な感覚に捕らわれ始めてきた。そして、昔のことが頭の中によぎり始めた。成都の館で兄と遊んでいた時のこと。漢中の軍営で魏延や王平にしごかれていた時のこと。敵に傷を負わされ虫の息になっていた父のこと。今までの全てが、自分ではないように思えてきた。
 目の前では句扶が、血だらけになった腕の肉を削ぎ始めた。男の叫び声は、もう耳に入らない。趙広も、自分が剥いだ腕の肉を削いだ。肉を削ぐと白いものが見えたが、それはすぐに赤く染まった。男は何度も気を失ったが、その度に句扶が活を入れた。
句扶が不気味に笑っていた。その笑い声は、男に聞かせているのだということはよく分かった。そして耳と鼻を削ぎ、性器を切り落とした。気付くと、自分も笑っていた。自分はどうしてしまったのか。そう思っていると、男も笑い始めた。
「殺せ。頼む、殺してくれ」
 全身を血だらけにし、肉の塊になりかけている男が、か細い声で言った。もう一息だ。趙広の耳元で、句扶が囁いた。
「殺してもらいたければ、喋れ。そうすれば、楽にしてやる」
 そう言いながら、句扶は赤く熱っした鉄の塊を男の腹に押し当てた。嫌な臭いがたちこめ、男は人間とは思えないほどの暴れ方をし始めた。命が燃え尽きようとしている。趙広の目にはそう見えた。しかし、簡単には燃え尽きない。目の前にある男の命は、完全に句扶の掌の上にあった。
「狙っていたのは、魏延と王平という者の命だ」
 句扶の手が止まった。止まると男の動きも止まり、血だらけになった顔が少し笑ったように見えた。
「何故、その二人なのだ。知っていることを、全て吐け」
「あの二人を殺せば、蜀軍は骨抜きになると言われた。諸葛亮でないのは、軍を魏領内に引き寄せて叩くから、殺すなと言われた。もう良いだろう。頼む、殺してくれ」
「まだだ」
 言って、句扶は赤くなった鉄を押し付けた。男は苦痛の顔をしたが、もう叫び声すら出なかった。
「指示したのは、郭奕という男だ。あの野郎、俺をこんな目に合わせやがって」
 男がか細い声で、呟くように言った。言い終わっても、何かわけのわからないことをぶつぶつと言い始めた。
「そんなことは知っている。俺が何を求めているか、分かるだろう」
 句扶が子供をあやすように、優しげな声で言った。それで男は、顔をにやけさせながら、何度も頷いた。
「肉屋だ。漢中の城郭に入ってすぐにある。その地下蔵が、俺らの集合場所だ」
 句扶が、男の首にさっと刃を走らせた。血が噴き出し、男の全身から力が抜けて行った。絶命する直前、その顔は喜悦に満たされていた。今まで見たことない、禍々しい喜悦の顔だと思えた。
 震えは止まっていた。小屋に充満する血の臭いも、もう気にならなくなっていた。
「聞き出したら、すぐに行くことだ。逃げられてしまえば、拷問をした意味がなくなってしまう。死体はお前が片付けておけ」
 句扶はそう言い残し、漢中の市中へ戻っていった。残された趙広は穴を掘り、手を血に塗らして男を縛っていたものを解いた。豚や牛のようなものだと思えた。人も、こういう風になるのか。句扶は、次はこれを一人でやらせるのだろうか。
 趙広は死体を埋め終え、近くにあった井戸の水で血を洗った。そして、小屋の外に寝転んだ。どっと体から疲れが出た。木々が生い茂る隙間から、いつものように星が見えている。昨日まで見ていた星と、全く同じ星だった。
父の死とは、全く違う死であった。世の中には、こんな死に方もあるというのか。それは頭の中に描いていたものと、実際に目の当りにしたものとでは、雲泥の差があるものだった。
目を瞑ると、血だらけになった肉の塊が項垂れていた。趙広は全身が粟立ち、さっき埋めた死体の方に目を向けた。土が、動いたような気がした。いや、実際には動いていない。趙広は跳ね起き、走り出した。その場から、少しでも早く逃げ出してしまいたかった。


3.白翠

 女の名は、白翠といった。宿の主からは派手過ぎると言われからかわれた髪飾りであったが、白翠自身はそれを喜んでくれた。気を使って喜んでくれているのかと思ったが、髪飾りをつけて働いている白翠の姿を見ていると、そんなことはどうでもいいように思えた。
 右目の痛みは大分なくなっていた。見える範囲が狭まり始めは不自由であったが、今ではもう慣れ、誰の手を借りずとも普通の生活を送れるようになっていた。
 軍人を辞め、これから何をするかはまだ決めていなかった。銀はあるので毎日をのんびりと過ごし、ただ日が過ぎていった。一緒にいられる時間が増えたので、王訓はそれを嬉しがった。白翠も、いつまでもここにいてくれていいと言ってくれた。
 王平のことは、王訓に言えずにいた。言うべきだとは思っていたが、何と話せばいいかわからなかった。川に流したたくさんの言葉が、この子に叶いますように。王歓の面影を持つ白翠を見ていると、自分の子に訓と名付けた妹の言葉が思い出された。
 王双と白翠は、いつしか茵を共にするようになっていた。白翠の気持ちには薄々気付いていたが、自分には左腕がなく顔の右半分は醜く傷ついていたため、なかなか踏み込めずにいた。その踏み込みとは、趙雲を前にした時のそれとは全く違う勇気を要するものだった。
 しかしある日、白翠は自分から王双の部屋にやってきた。満月の美しい夜だった。白翠は黙って着物をはだけ、驚く王双をよそにその美しい体を押し付けてきた。いいのかと聞くと、白翠は小さく頷いた。王双は、一本の腕で白翠の体を強かに抱いた。白翠は王双の左腕と右目に何度も唇を当て、優しく舌を這わせた。右目をそうされるまだ痛くはあったが、それ以上に心地よく、気持ち良かった。互いの肌と肌が蕩け合い、体の一部が無いことなど、何でもないことなのだと思えた。
妻帯しなさい。それが訓のためにもなるのよ。死んだお婆が言ってくれたその言葉が、王双の背中を押してくれた。王双は白翠を妻にすることを決め、その宿の用心棒をすることとなった。白翠に懐いていた王訓も、それを喜んでくれた。
 王平のことはやはり言い出せずにいた。しかしそれでいい、と王双は思った。自分はもう軍人ではなく、一人の市井なのだ。そこには王訓がいて、白翠がいて、一つの幸福がある。それで、もう良しとするべきではないか。
 それからしばらく、穏やかな時が流れていた。用心棒をすることになったといっても、 軍にいた時の部下が王双を訪ねてよく遊びに来るので、それだけで王双のいる宿に悪さをしようという者はいなかった。白翠は、あなたはこの宿の守り神だ、と言ってくれた。
 そう言われて、悪い気はしない。十一年前、辟邪という名の守り神になろうとして、なれなかった。その時の想いが月日を変えて形を変え、ようやく叶ったような気がした。
天気が良い日には、王訓を連れて川辺で釣りをした。王双は釣り糸を垂らしながら、一つ大きな欠伸をした。こんな生活は、軍人でいた頃には全くなかったことだった。隣では、王訓も静かに釣り糸を垂らして川面を見つめている。釣り糸が動いたので引き上げると、水中から拳二つ分くらいの魚が姿を現した。今日はこれで九匹目である。片腕しかない王双に代わって王訓は魚にかかった釣り針をはずし、小刀をえら元に入れ血抜きをしてから魚籠の中に入れた。
 王訓がまた一匹、魚を釣り上げた。これで十匹だ。一日の成果としては、十分である。
「そろそろ帰るか」
 王訓の、はい、という元気な声が返ってきた。王双は立ち上がり、王訓の頭を撫でた。こういうことが、人の幸福なのだろうか。軍人だった頃は、考えもしなかったことだ。ただ王訓のために、必死に軍人として身を削らせていた。
 王双は王訓と並んで長安の市中を歩いた。近頃は、長安の街は日に日に静かになってきているような気がする。戦が近くなってきている証だ。長安に来ていた張郃軍は、呉の進攻に備えて既に東へと去っていた。長安は今、手薄なのだ。その気配を感じた商人達はより安全な地を求め、徐々に長安から姿を消し始めていた。
 宿に帰ると、妻となった白翠が足を洗ってくれた。柔らかい指先が、ごつごつとした王双の足には心地良かった。
「今日もたくさん釣れたようで」
「良い場所を見つけたのだ。岩が水中で入り組んだ所で、王訓が見つけてきた。あいつはまだ子供だが、いい仕事をしやがる」
「まあ」
 言って、白翠は嬉しそうに笑った。こんなことで喜び合えるのも、幸福なことだと思えた。
「ところで白翠。長安から少しずつ人が減っているが、お前はどう思っているのだ」
 聞いておくべきことだった。もしかしたら、この長安が蜀の軍勢によって略奪されるかもしれないのだ。
「私は、何の心配もしていません。あなたがいてくれれば、きっと私たちを守ってくれると信じています。父もああ見えて豪気なところがあって、長安を離れるつもりはないと言っています。俺がいなければ誰がここの若い兵の面倒を見るのだ、と言っておりました」
 確かに、図太さを持った親父であった。でなければ、自分の娘をこんな醜くなった男にやるはずがないのだ。
「なら、俺もここにいよう」
 そう言うと、白翠はしばらく王双の体に抱きつき、厨房の方へと走っていった。
 宿の表から、聞き覚えのある声が聞こえた。ほんの半年前まで、自分の部下であった兵達であった。白翠はすぐ彼らの酒を支度をしてくれた。
「隊長殿、お元気そうでなによりです」
 王双の副官を務めていた、王生という将校だ。今は王双の後を継ぎ、一隊を率いている。王姓が同じであるのはたまたまで、王双の縁者ということではない。
「当然だ。俺はもう、厳しい調練なんぞしておらんからな。ただ少し、腹が出てきたのが気になるが」
 談笑していると、白翠が酒と魚を煮つけたものを出してきた。さっき釣ってきた魚だ。
「奥方様は料理が上手いようで、お羨ましいですな」
 王双は鼻で笑った。そして魚に箸を伸ばした。香草で臭みがよくとれた、美味い料理だった。そうやって食い続けることで、照れを隠した。
「軍営ではどうなのだ。俺がいなくなったからといって、兵達は腑抜けになっておらんだろうな」
「隊長殿には及びませんが、なんとかやっております。隊長殿から王の旗を受け継いだので、それを穢さぬためにも日々精進しております」
 軍を抜けた後も、王生は王双のことを隊長殿と呼んでいた。少しむずがゆいような気がしたが、王生は隊長殿と呼ばせてくださいと言うのであった。自分がまた王平に再会したとしても、同じように隊長殿と呼ぶのだろうと、何となく思った。
「しかしこうして隊長殿と酒を飲めるのも、これで最後かもしれません」
 言われて、王双は箸を止めた。
「どこで、戦うのだ」
「斜谷道の陳倉で、郝昭様が砦を築いておられます」
「兵力は」
「今のところ、千五百。そこに、五百の援軍として我々は入ります」
 蜀軍の兵力は、少なくとも三万は下らないだろう。王双は深いため息をつき、右手で頭をかかえた。
「何とかならんのか」
「東の方では呉との戦闘が続いていて、兵を回せないそうです。それでも曹真様は、連日馬を四方に飛ばして兵をかき集めようとされておいでですが」
「何のことはありません。一人が十人を倒せば、二万までは何とかなります。そうすれば、蜀軍は長安に達することなく撤退していくでしょう」
 違う兵が言い、周りもそれに頷いた。
「そんなことが可能なものか、馬鹿者」
「そうです。私たちは、馬鹿者なのです」
 言って、兵達が高らかに笑った。頼もしい、笑い声だった。
「お言葉ですが、敵陣に乗り込んでいった隊長殿も、かなりの馬鹿者です。我々も、そんな馬鹿者になりたいのです」
「そうすれば、俺らもいい嫁を得ることができるかもしれんな」
「眠っておられたから知らないと思いますが、隊長殿が敵陣から戻ってこられた時、我々は興奮しました。それは、妓楼の女からは味わうことのできない興奮でした」
 そう言うと、また一斉に笑った。
 王双も一緒に笑ったが、心から笑ってはいなかった。顔では笑っていながら、心の中には何度も寂しさが襲ってきて、戸惑った。王双は、目の前にいる若者達に悟られないよう、その寂しさを振り払おうとした。
 もう軍人ではないのだ。俺は、二度とこいつらと笑い合うことはできない。しかし俺には、新しい幸福がある。それで、良いではないか。
 楽しい時間はすぐに過ぎていった。夜が更け、兵が帰ると、食べ散らかった卓だけがそこに残った。さっきまで騒がしかったその場に、王双はしばらく佇んでいた。不意に、大きな不安が襲ってきて、王双は小さく嗚咽を漏らした。王双は右手で自分の頬で叩き、残っていた酒を一気に飲み干した。その勢いに任せ、寝室で待っていた白翠の体を激しく抱いた。

 昔の部下達が長安を離れ、五日が経った。あれから連日、白翠の体を獣のように抱いた。白翠も、王双の求めに全て応えてくれた。しかしそれは、本当に王双が求めているものではなかった。
 自分の腹に手をやると、鍛え上げられた筋肉の上に、幾らかの肉が付き始めていた。王双はそれを確認する度、不安に気持ちになった。暇な時間には剣を振ったりすることもあったが、それは何の解決にもならなかった。
 外で、虫が鳴いていた。妹のことにしろ、やはり自分は女のことを幸福にしてやることなどできはしないのかもしれない。
 王双は隣で寝ている白翠を起こさぬよう静かに身を起こし、寝室を出た。暗闇の中、できるだけ音を出さないよう、宿の玄関を出た。
 まだ、引き返すことはできる。そう思いながらも、足を止めることはできなかった。宿の厩には、荷駄を運ぶための馬が繋がれている。近づくと、馬は驚く様子もなくこちらを見つめていた。月明かりの中で、その眼だけが輝いている。初めて白翠を抱いた夜もこんな夜だった、と王双は思った。
 王双は静かに馬の背中に鞍を乗せた。もうここに戻ってくることはできないだろうという覚悟はできていた。行かなければならない理由はない。強いて理由があるのならば、王双の中の男がそれを求めたと言えた。
 長安の南では蜀軍四万が北上を始め、陳倉では郝昭と昔の部下が二千の兵でそれに当たろうとしていた。怪我をしていなければ、自分もそこに投入されていたはずだ。
 運が良いと思うべきだったのかもしれない。右目を失いながらも、手柄を立てたために銀が手に入り、妻を得た。そして王訓が喜んでくれた。新しい形で、守るべきものができた。それは、守ってもらうべきものではないと思えた。
「叔父上」
 馬を曳き出そうとしていると、後ろから声をかけられた。王訓だ。
「どこに行かれるのですか」
「ちょっと、仕事だ。すぐに戻る」
 そう言っても王訓は中に戻らず、何か言いたげに体をもじもじとさせていた。
「もう、寝ろ」
「私も行きとうございます」
 必死な王訓の小さな目が見つめてきた。いや、それはもう大きなものなのかもしれない。それに、賢く育ってくれた。自分がどこに行こうとしているか、言葉にしなくても、感覚で分かるのだろう。王双は微笑み、王訓の傍で膝を折った。
「心配することは何もない。お前はもう、十分に一人でもやっていける」
 王訓の口がへの字に歪んだ。泣くのを堪えているのだ。
王双の手刀が、王訓の首筋を打った。崩れる王訓の体を、王双の右腕が支えた。生まれた時はあんなに小さかった体が、今ではこんなに大きくなっている。それだけで、王双の心は満たされた。妹の残した子を育て上げ、白翠から愛された。自分にとって、十分過ぎるほどの生であった。
 王双は王訓の体を食堂の長椅子に横たわらせた。数日前、ここで昔の部下が食い散らかしていった。笑いながらも死を覚悟した顔を、一人一人がしていた。それは決して悲愴な顔ではない。この長安を、そしてこの俺達を守るための覚悟だった。
 守られるだけでいいのか。それで平和を貪り、自分達は運が良いなどと言って生き長らえることに、意味などあるのか。
思い返せば、自分はどこで死んでいてもおかしくなかった。もう十分過ぎるほどに生き長らえたのだ。そんな自分を、守ってくれる者達がいる。それに甘えてこれからも生きていく自分のことを考えると、どうしても居た堪れない気持ちになった。そうしようとしている自分が、許せなかった。
「さらば」
 そう呟き、王双は馬の背に乗った。
 馬を走らせ、五日かけて陳倉に辿り着いた。久しぶりの馬上で、尻が痛かった。
「何者だ」
 歩哨に戟を突き付けられた。それだけで、敵の大軍を迎え撃とうとしている兵達の緊張がよく分かった。
「郝昭殿に、王双が来たと伝えてくれないか。左腕と右目の無い男が来たと言えば、すぐにわかるはずだ」
 言って、防寒用の覆面と外套を取って見せた。兵らは顔を見合わせ、何かを思い出したようにして走って行った。趙雲を討ち取った王双と言えば、兵の下々まで知っているはずだ。
 すぐに迎えが来て、その兵に先導された。
 想像していた以上に陳倉城はできあがっていた。二千の兵に加え、周辺から集められた人夫が地を穿って堀をつくり、その土を盛って土塁を高くしている。陳倉城に入るのかと思いきや、その堀を前にして兵卒が言った。
「郝昭様は、あちらにおられます」
 言われて、王双は兵が指した方に目を凝らした。
「どこだ」
「あそこで土を掘り返しておられます」
 いた。向こうもこちらに気付いたようで、手を上げて梯子を上ってきた。郝昭は全身が土まみれで、冬だというのにその肌は日に焼けていた。
「全く、お前は馬鹿な男だ」
 郝昭が黒い顔の中から白い歯を見せて言った。
「郝昭殿こそ、暗殺でもされたらどうするおつもりですか」
「たかが二千が守る城だ。その心配はないと腹を括った。それよりも今は、一人でも働き手が欲しい」
 よく見ると、郝昭の目の下には大きな隈ができていた。あまり寝ていないのだろう。長安で見た時より、いくらか頬も削げている。
「この短期間でよくここまで防備を整えましたな。感服致しますぞ」
「自分でも驚いているくらいだ。死ぬ気になれば、できないことなどない」
 そう言った郝昭の顔は、活き活きとしていた。死ぬ気などと言っているが、この男は本当にここで死ぬつもりなのだろう。
「とりあえず、中に入れ。お前の部屋を用意してやろう」
 城内に入ると、大壺が幾つも並べられていた。聞くと、戦闘になればこの中で油を熱し、城壁を登ってくる蜀の兵にかけてやるのだという。その壺の上には、雨が入らないように簡易な屋根が作られていた。
「少し待っていてくれ。身を正したい」
 そう言って、郝昭は自分の部屋に入っていった。
 待っている王双の前を通り過ぎていく兵卒の顔に、暗さはなかった。全ての兵が郝昭のように目を輝かせ、この城全体が一種の異様な雰囲気に包まれているようだった。勝てるかもしれない。彼らの顔を見ていると、そんな思いすら湧いてきた。
「隊長殿」
 言われて、王双はそちらに顔を向けた。長安の宿で最後の酒を酌み交わした、王生をはじめとする昔の部下らであった。王双を見た途端、三人いる内の一人が今にも泣きだしそうな顔をし始めた。
「俺らが不甲斐ないから、ここまでやってきたのですか」
「お前らに守られるほど、俺は軟弱ではないということだ。戦になったらまた尻を蹴飛ばしてやるから、覚悟しておけ」
 三人は、何かがふっきれたように笑い始めた。王双もそれを見て、ただ笑った。それは、心からの笑顔だと思えた。ここに来たことは、決して間違いではなかったのだ。
「隊長殿がここに来たとなれば、他の皆も喜ぶはずです。さあ、こちらへ」
「ちょっと待ってくれ。郝昭殿のことを待っているのだ。それにしても長いな」
 不審に思った王双は少し扉を開けて中を覗いてみると、床で郝昭がうつぶせになって寝息を立てていた。王双はそれを見て、そっと扉を閉じた。
「寝ておられる。この人のことは、後回しにしよう」
「どうせなら、城壁に立ってここの全員に隊長殿が来たことを伝えましょう。趙雲を討ち取った王双といえば、知らない者はおりません」
「えっ」
 思いがけないことになり、王双は困惑した。それでも王生らは背中を押してくるので、王双は言われるがままに城壁に上がった。
「みんな、働いているところを悪いが手を止めてくれ。たった今、蜀軍の趙雲将軍を討ち取った王双様がここに来られた。一騎当千の大将が来たからには、我らが勝利は間違いない」
 城の内外にいた者の視線が一斉にこちら向けられ、どよめきが起こった。
「おい、よせ」
 王双は赤面した。こんなことになるとは思ってもみなかったのだ。
王双が、皆から見えるところに押し出された。また、どよめきが上がった。
見渡すと、隊長格の者も兵卒も皆が汗にまみれて働いていた。疲れの色が濃い者も少なくないように見えた。しかし、暗い顔をした者はいない。故郷を守ろうとする人々の姿。それに、身分の上下などあろうはずもなかった。何か言ってやらねば。王双はそんな気になってきた。
「俺は」
 言うと、辺りは静まり返った。王双の声は、遠くまでよく通る。
「俺は、妻と甥を長安に残してきた。どちらも、俺の大切な家族だ。俺はその家族と、住む場所である長安を守るために、戦いにきた。俺は男でありたかった。守るべきものを誰かに委ねてしまうなど、俺の中の男が許さなかった」
 考えることもなく、思いついたことを一息で言っていた。言うと、静まった兵達の中からすすり泣く声が聞こえた。
「戦うことをやめた男など、男ではない。お前らは、男だ。そしてそんなお前らと死ねる俺は、幸せ者だ」
 泣いていた。涙が風に吹かれ、王双の耳を濡らした。
「共に戦おう。ここで戦い抜き、時間を稼げば、洛陽からの援軍が到着する。例えここで俺らが全滅しても、それは意味の無い死ではないのだ。俺らの帰る場所である長安を、命を賭して守るのだ」
 そうだ。一つの声が上がった。それに続く者がいて、徐々にそれは大きなものとなっていった。


4.陳倉城

 秦嶺山脈の山道に、蜀兵が蟻のように長蛇の列を作っていた。冬が始まっていた。山の上は平地に比べ、何倍も寒い。
 諸葛亮ら文官の働きにより防寒具の類は遺漏なく揃えられていたが、それでも寒い。絶えず動いていなければ、足の先で血の巡りが悪くなり、凍傷をおこして足を切り落とさなくてはならなくなることもあるのだという。王平はそのことを、口を酸っぱくして兵に言い聞かせた。そのお蔭か、過酷な環境の中ではあったが、行軍は順調に進んでいた。
 しかし、兵の顔は暗かった。何故こんなことをしなければならないのか。口にこそ出さないが、顔色を見れば兵が何を考えているかは分かった。蜀内に留まっておけば、彼らには平穏な生活があったのだ。前回の北伐でも、魏は蜀が攻めてくるなど想定もしていなかったのだ。
 何故かということは、なるべく考えないようにしていた。自分は、蜀の軍人なのだ。ならば、蜀の首脳が持つ意思に従う他ないのだ。
 兵糧の時間になると、一時だけではあるが、兵達の顔に笑顔が戻った。寒い中での火を使った兵糧は、驚くほどに美味い。穀物を練ったものを湯の中で煮るだけの料理だったが、これは厳しい雪山でのささやかな楽しみであった。腹が満たされると、雪を固めてその中で眠った。
 山が下りになり緑が目立ってくると、皆の心はほっと安まった。今のところ、脱落者は一人も出ていない。この辺りは、さすがは諸葛亮の手配りだと思えた。
 前方の陳倉城から三里を置いて、蜀軍は陣を布いた。句扶の率いる諜報部隊によると、敵の兵力は二千。それに対する蜀軍は四万である。何の問題も無く踏み潰せるだろうと思えた。
 諸葛亮は、死んだ趙雲の後を継いで五千を率いる趙統に先鋒を命じた。相手は過少である。初めて一軍を統率する趙統に、城攻めの練習をさせるつもりなのだろう。王平は後方にいて、のんびりと戦勝の報告を待つことにした。
 そこに兎三羽を手にした句扶がやってきた。行軍中、そこらにいる獣を捕って口にすることは許されていた。蛇を切り裂いて燻製にする者もいれば、芋虫を焼いて食う者もいた。
「雪山の行軍は、大変でしたでしょうな」
 句扶が兎の肉を木の枝に刺しながら言った。
「あのような行軍は、二度とやりたくない。一兵でも損なえば大目玉を食らうから、全く気を抜くことはできなかった。一兵卒である方が良かったと、何度思ったことか」
 火に炙られた兎の肉から、脂がじゅっと音を立てて零れた。香ばしい匂いがあたりに漂った。
「陳倉城はどうなのだ」
「なかなかの堅城です。深い堀が三重に掘られ、城壁の他にその土を盛った土塁が二つあります。そして兵の顔には、決死の色が浮かんでおりました」
 句扶は他人事のように言った。与えられた任務は完璧にこなすが、それ以外のことになるとあっけらかんとしている。自分の職分以外のことに口出しをしても仕方がないと割り切っているのだ。自分もこうであれば、街亭であれほど馬謖と対立することはなかっただろう。
「あの男は、どうなのです」
「劉敏のことか。その辺で見回りでもしているのだろう」
 街亭の一戦で功のあった王平は位を上げられ、副官が付けられるようになった。諸葛亮の近くで働いていた、劉敏という男である。副官とは名ばかりの、諸葛亮の意を汲んだ軍監であった。
「兄者に見張りを付けるなど、丞相は何を考えておられるのか」
「そういうな。軍というものはそういうものだ。それに劉敏という男は、厳しいところはあるが、悪い奴ではない。要は、付き合い方だ」
 その劉敏が、腕組みをしながらやってきた。体格にはあまり恵まれてはおらず、具足が似合うとは言い難かった。
「王平殿、こんな暢気なことでよろしいのですか」
 劉敏は腕を組んだまま、呆れ顔をしながら言った。
「そう堅いことを言うな。さあ、お前も座れ。丁度、兎の肉が焼き上がるところだ」
 言われて劉敏は腰を下ろし、三人で焚火を囲んだ。王平は、劉敏に肉の一つを差し出した。
「成都では、蔣琬はどうしているのだ」
 劉敏は、蔣琬の異父弟でもあった。よく見ると、鼻の形と口元が蔣琬とよく似ている。
「成都から届いた書簡には、延々と愚痴が書かれていましたよ。北へと輸送する兵糧と補充兵の計算ばかりで、もううんざりだと」
「あいつは昔から戦場に出たいとよく言っていたからな。しかしあいつに後方を任せるとなれば、俺らは安心して戦に臨める」
 こうして蔣琬の話をしていると、劉敏の心は幾らかほぐれるようであった。そう見た王平は、事あるごとに劉敏の前で蔣琬の話をした。句扶は隣で、黙ってそれを聞いている。
「それにしても、兵が緩み過ぎているように私には見えます」
「ならどうしたいのだ。戦いがない時も、重い具足姿のまま直立させておけばいいのか」
 王平は兎の骨を口から飛ばしながらいった。
「そこまでは言いませんが」
「そう心配するな。俺の指揮した山越えを見たであろう。一兵も失わせることはなかった」
「それは、指揮官として当然のことです」
 吐き捨てるように言った劉敏を見て、句扶が少し色をなした。それを感じた王平は、大声で笑った。
「悪かった。それは、その通りだ」
 句扶が怒るのも無理はなかった。この男は副官でありながら、王平の近くで体を震わせていただけなのだ。
「飯を食って腹が落ち着けば、日没まで駆け足だ。それでいいだろう」
 劉敏はそれでようやくほっとしたような顔を見せた。この男にも、立場というものがあるのだ。それを理解してやることは、何より自分にとって大事なことだと思えた。
「わかっているだろうが、お前も共に駆けるのだ。これは、上官命令だ」
「命令などと強い言葉を使わずとも、分かっております」
 劉敏は少し嫌そうな顔をしたが、強がるようにしてそう言った。文官あがりの劉敏は、駆け足をさせてもまともに付いてくることができない。それでも、顔を苦痛に歪ませながらもこの男はなんとか付いてこようとする。そういう一面があるからこそ、王平は劉敏の不遜な態度に寛容になることができた。
 兎の肉を食い終わると句扶は一礼してその場を離れ、王平は立ち上がった。立ち上がると、周りで寛いでいた兵達も立ち上がり始め、王平が手を上げるとその前に隊列ができた。
 統率はいき届いている。指揮官として、常に気をかけておくべきことであった。これから夕刻まで、具足を付けたままでの駆け足である。隣に目をやると、劉敏が憂鬱そうな顔をしていた。王平はそれを見て、思わず笑ってしまいそうになった。

 過酷な山越えが、ようやく終わった。寒さの中で死んだ者は一人もいないという報告に、諸葛亮は満足だった。厳しい行軍への備えは、周到にしておいたのだ。
 前回の戦は、言い逃れのできない負けであった。上庸は司馬懿に取られ、羌族には足元を見られ、馬謖が大敗した。そして最も手痛かったのが、趙雲の死であった。
 街亭で蜀軍の敗北が決定的になってから、腹痛と下痢が止まらなかった。そしてそれは、漢中に帰ってきてからも続いていた。食事を摂っても自室に戻ると吐いてしまうことがあり、諸葛亮の頬はげっそりと痩せた。
 それでも弱音を吐くことは許されなかった。十万以上の人々を動かし、得たものはほとんどなかったのだ。諸葛亮はやつれを悟られないようなるべく人前に出ないようにしたが、それが避けられない時はなるべく胸を張って事に当たった。
 何よりも先ず、敗戦の穴埋めから始めなければならなかった。成都にいる蔣琬に補給を督促し、街亭で功のあった王平の位をあげて副官をつけ、羌族の名士である姜維に飾り程度の官職を与えて自分の近くに置いた。形だけは、なんとか整えることができそうだった。問題は、人心である。劉備が存命だった頃は、戦に負けても不思議と将兵の顔に暗さが浮かんでこなかった。それは、劉備軍の強さであった。しかし街亭で惨敗を喫してからの蜀軍は、漢中の天候のようにどんよりとしていた。
自分と劉備の違いは、分かっていた。劉備は軍の頭といっても、下々の者に細々とした指示を出すことはなく、将兵の言葉をよく聞いた。だが諸葛亮は劉備のようにできなかった。国という大きな仕組みを動かすには、一つの大きな意思が必要なのだ。その仕組みの中にいる者一人一人が自分勝手な意思を持てば、国は分裂しかねない。
 こういう時、劉備ならどうしていたであろうか。今更そんなことを考えても仕方のないことだが、劉備なら自分とは全く違うことをしていたという気がする。やはり自分は、一国の宰相となる器ではなかったのだろうか。
 涼州守備のために派遣されていた洛陽軍の五万が、対呉戦に備えて長安を離れたという報せが入った。それを聞き、諸葛亮は即座に再出兵を決めた。負けたまま引き下がるわけにはいかなかった。成都には、少なからず北伐に反対する者がいるのだ。このままおめおめと成都に帰ってしまえば、次はいつ兵を出せるかわからない。そうしている内に、魏の蜀に対する備えは万全なものとなってしまうだろう。兵を引き上げ油断しているこの機を逃すわけにはいかなかった。多分、劉備が生きていても同じことをしていただろうという気がする。兵をもう一度出す決定を下すと、不思議と腹痛はぴたりと止んだ。
 取るべき道は、前回の北伐で趙雲が進んだ斜谷道。この道中にある陳倉という場所に魏軍が城を築いているのだという。斜谷道を完全に封鎖されてしまえば、魏に攻め込むための道は子午道か箕谷道の二つしか選択がなくなってしまう。長安守る魏軍からすれば、こうして選択肢を狭めることで防備がぐっと楽になる、正に妙手だと思えた。蜀としては、これは容認できるものではない。
目の前に、その城が現れた。二千の小勢が籠る、まだ小さな城だ。それほど時をかけることもなく潰せるだろうと思えた。
先鋒には、父の仇討に燃える趙統を選んだ。趙雲の後を継いでから初めての戦であり、城攻めの良い経験になるだろうと思えたからだ。補佐役として、前回の北伐で趙雲の副官を務めた鄧芝をつけておいた。
句扶からの報せを受け、諸葛亮は眉をしかめた。城の周りには三重の堀と、その土を盛った土塁が築かれているのだという。一月前の報告では、まだ二つ目の堀が作られ始めたというだけのものであった。
 諸葛亮は、迷った。相手は過少とはいえ、これだけの堅城を正面から攻めればかなりの損害がでることが予想できた。素通りするという選択肢もあったが、既に攻めると決定したことを覆せば、士気に関わると思った。ただでさえ、前回の敗北で蜀軍の士気は衰えているのだ。
 諸葛亮は前回の北伐で得た、靳詳という降将を呼んだ。元は魏の軍人であった靳詳は、敵の守将である郝昭のことをいくらか知っていた。諸葛亮は投降を勧める書簡を靳詳に持たせ、陳倉城へと向かわせた。
 同時に、趙統と鄧芝に城を囲むよう下知した。交渉が決裂すれば、多少の犠牲がでようと、一息に踏み潰す。
 早朝に送った靳詳が、昼を過ぎても帰ってこなかった。諸葛亮は城攻めを決意した。その旨を前線に伝えるよう手配りをしていると、城から靳詳の従者が出てきた。
 城を明け渡すから、待って欲しいとのことだった。諸葛亮は胸を撫で下ろした。こんな所で、貴重な兵力を減らしたくはなかった。今回の魏攻めには、羌族の援軍はないのだ。
 しかし、いくら待っても陳倉城に変化はなかった。そうこうしている内に、日が落ちた。諸葛亮は苛立った。騙されているかもしれない。そう思いはしたが、夜になってしまえば城を攻めることはできない。趙統と鄧芝には、夜襲に備えておくようにと伝令を出しておいた。
 夜が明けたが、やはり陳倉城には変化がなかった。前線の趙統からは、城攻めを督促する使者が来ていた。諸葛亮が戦闘開始を決意したのとほぼ同時に、陳倉城から郝昭の書簡を手にした使者が出てきた。
 城内には抗戦を唱える者が多数いて、それらへの説得に骨を折っているのだという。諸葛亮はその者らの首を送ってくるよう書簡を認め、使者を送り返した。また、一夜が明けた。
 翌朝、城から大量の戟と剣を乗せた太平車が出てきたと、趙統からの報告を受けた。降ることで話がまとまったのだという。しかし、陳倉城の門は未だ堅く閉ざされたままであった。どうも上手くはぐらかされているような気がする。だが陳倉城の防備を見ると、攻めることに二の足を踏んでしまう。昼が過ぎると、今度は城から兵糧が出された。これで抗戦を唱える者を黙らせることができる、という書簡も付けられていた。
 四日目、趙統の軍が夜襲を受けて潰乱したとの報告を受けた。潰走しそうになったところを趙広が助けに入り、何とか踏みとどまったのだという。諸葛亮は舌打ちをした。やはり偽りの投降であった。城から出してきた夥しい数の武器も兵糧も、事前から用意してあったものなのだろう。そして陳倉城の城壁には、靳詳の首が掲げられているのだという。
 たかが二千が守る城である。こちらは四万だ。諸葛亮は趙統に軍勢を立て直し次第攻めかけるよう指示した。そして後方の魏延と王平にも、戦闘に備えるよう伝えた。

 王双は三千五百の先頭に立ち、陳倉城へと帰還した。
 城内からは大歓声が上がり、王双はそれに手を上げて答えた。歓びの声を上げる者の中には郝昭もいて、一兵卒と変わらぬ姿ではしゃいでいた。これだけの絶望的な戦いの中では、指揮官であろうが兵卒であろうが、もう関係なかった。それでいて城内が乱れているわけではない。ここにいる全員が、なにがなんでも長安を守るのだという思いで心を一つにしていた。
 三日、我慢した。城の備えを前にして二の足を踏んでいると見た郝昭が、偽りの恭順を申し出たのだ。大事なことは、時を稼ぐことだった。目の前の敵を打ち払えるとは思っていない。籠城し、やがて長安からやってくる援軍を、ただひたすらに待つ。
 洛陽から長安に三万の兵力が移動中だということは、蜀軍が到着する前に届いた曹真からの書簡で知らされていた。西から羌族が襲ってくることも考えられたため、これ以上長安の兵を移すことはできなかった。
 それでも曹真は、なんとか二千を捻出して送ってくれた。その二千は蜀軍に囲まれた陳倉城に入ることができず、外で伏せているのだということを黒蜘蛛が伝えてきた。
 王双は郝昭に夜襲を提案した。到着した二千と、城内の千五百とでの挟撃である。郝昭は王双が夜襲の名人だと知っていたため、すぐに賛同してくれた。
 目の前にある趙の旗は、あの趙雲の子であるという。まだ若造だ、と黒蜘蛛の隊長である郭奕は言っていた。郭奕も陳倉城にいて、黒蜘蛛の指揮をとっている。
 滞陣初日は堅牢であった蜀軍の構えは、日が経つにつれて緩みが見えてきた。蜀軍が郝昭の投降を信じているという証であった。
 王双は郭奕に頼んで城外に伏せている援軍の二千に夜襲のことを伝え、滞陣三日目の深夜に夜襲をかけた。
率いる兵には、全て黒装束を身につけさせた。相手からすれば、突然地から敵が湧いてきたように見えただろう。蜀兵が浮足立ったところに、埋伏していた味方の二千が背後から襲いかかった。
王双は混乱する敵陣の中で将の姿を探した。いた。幕舎からでてきたその若造は、何かを叫びながら馬に乗ろうとしていた。
もらった。そう思った王双の肌が、一気に粟立った。その近くにいた小さな男が、冷たく鋭い視線をこちらに向けていた。その背後には、闇に紛れた者が何十人もいる気配がした。あれは、やばい。
王双は撤収の合図を出した。敵将の首を奪らずとも、十分に成果を上げていた。引き揚げながら、王双はさっきの男が追ってこないかを気にした。追撃は、ないようだった。敵は体勢を立て直すことで精一杯のようである。
「よくやってくれた」
 郝昭が王双の手を取ってきた。
「蜀軍恐るるに足らず。全軍にそうお伝えください」
 戦いの本番は、これからだった。これで城内の指揮はかなり上がったはずである。蜀兵の大軍勢を前にして青くなっていた者も、生き返ったかのように喜んでいる。
 また援軍の二千を城内に入れることができたことも大きかった。これで、兵を交代させながら防戦することができる。勝てるのではないか。そんな雰囲気が、城内に充溢していた。
「隊長殿。援軍を率いてきた者が、目通りを願っております」
 王生が、そう伝えてきた。城内に入れたということへの礼かな、と王双は思った。
「目通りなどと、俺はもう軍人ではないのだぞ。どこにいるのだ。俺から会いに行こう」
 会いに行ってみると、隊長が直立していた。その隣には、従者体のまだ背が伸びきっていない少年もいた。王訓もこれくらいだったな、と思うのと同時に、喉の奥から声が出た。その少年は、王訓そのものであった。王訓は口をへの字に結び、不安そうな顔をしていた。しかしその熱い目は、しっかりとこちらに向けられていた。
「私は何度もやめておくように言ったのですが、連れて行かないのなら死ぬとまで言い出したもので」
 隊長は困ったような顔で、弁解するようにそう言った。こんなことがあろうとは、思ってもみなかったことである。王双は喜びと、この隊長を張り倒してしまいたいという思いに同時に駆られた。しかし、喜びの方が大きかった。
「何をしにきた。ここは、お前のような者が来る所ではない」
 王訓は今にも泣きだしそうな顔で、への字となっていた口を開いた。
「私も、戦いたいのです。叔父上を見捨てることなどできませんでした」
 王双は、鼻の奥が熱くなるのを感じた。こいつも、まだ小さいが、男なのだ。王双はこみあげてくるものを誤魔化すため、隊長を張り倒した。
「よく連れてきてくれた。礼を言うぞ」
 王双は王訓を伴い自室に入り、部下に命じて飯の支度をさせた。馬上の旅は、まだ若い王訓には堪えたことだろう。先ずは、腹一杯食わせてやりたかった。
 穀物を炊いたものと干し肉がすぐに運ばれてきた。それを見た王訓は勢いよくそれを食い始めた。この辺りは、やはりまだ子供なのである。明日からは、厨房にでも預けて働かせればいい。
 一つ気になっていることがあった。聞こうかどうか少し迷ったが、やはり聞かずにはいられなかった。
「白翠は、どうしている」
 王訓はそう言われ、食う手を止めた。そして、俯きながら答えた。
「王双という人はいなかったのだと、そう言っていました。叔父上がいなくなったことを悲しむどころか、本当に何事もなかったかのようにしていました」
 それを聞き、王双は笑い声を上げた。やはり俺があの女に惚れたのは、間違いではなかったのだ。これで思い残すことなく、死んでいける。
「何がおかしいのですか」
「子供にはわからんことだ」
 怪訝そうな顔をする王訓の顔を、大きな右手で掴んだ。
「お前もいずれ、女を抱けばわかることだ」
 王訓は顔を赤くさせ、王双はまた一つ笑い声を上げた。所在なさげに飯を口に運ぶ王訓の姿を、王双はしばらくじっと見つめていた。

5.第二次北伐

 出動命令がきた。陳倉に来てから、六日目の朝であった。王平の隊は後方にあり、陳倉城陥落の報せを待っていたのだ。
 二千で守っているということだったが、先日そこにもう二千の援軍が入り、四千の兵で籠もっているのだという。句扶が言っていた通り陳倉城はかなりの堅城であり、先鋒の趙統と鄧芝が率いる一万と諸葛亮とその麾下が率いる一万で攻めていたが、まだ落とせずにいた。
 魏延も王平と共に後方にあり、全軍で一気に攻めればいいのだと言い、前線に何度もそう伝えているようであったが、相手にされていないようであった。
 王平は魏延の意見に賛成だったが、魏延のように意見を主張することは避けていた。諸葛亮は、軍人が意見するということを嫌っているということを知っているからだ。言うことがあったとしても、魏延や句扶の前で愚痴めいたこと言うだけだった。自分は姑息であるという思いが、ないわけではない。軍人は、上の者に忠実であればいい。そう思うことで、王平は自身を納得させていた。
 出撃を部下に伝えると、兵達は重たそうに腰を上げ始めた。後方にあっても毎日駆けさせていたため、体が鈍っているわけではない。鈍っているのは、心である。
 最初からそうしておけば良かったのだ。口には出さぬが、そう思っている者が少なくないということは、兵の顔を見ればわかった。
 昔なら、ここで兵の首を幾つか落として気を引き締めさせていたかもしれない。しかし、そんなことをする気にはなれなかった。兵達が思っていることは、間違いではないと思えたからだ。
 王平は八千の漢中軍を率いて現場に到着した。初めて見る陳倉城は、堅牢そのものだった。
「さあ、どうしたものか」
 王平は、隣にいる劉敏に向かって呟いた。気負っているのか、劉敏は眉間に皺を寄せて城を睨んでいる。
「あの堀に近づくと、城壁から大量の矢が降ってくるようです。丞相が言うには、全軍で四方から攻めれば、城内の兵は分散して飛んでくる矢は減るだろうとのことです」
「なるほど」
 陽が中天に差し掛かろうとした頃、総攻め開始の銅鑼が鳴らされた。王平は、兵に盾を持たせて前進させた。弓矢を手に並んでいる城壁の守兵が、王平のいる所からもよく見えた。兵は堀に丸太を渡して城に迫っていこうとしたが、兵が丸太の上で一列になったところに矢が集中した。矢に当たらずとも、足を滑らせた兵がぼとぼとと堀に落ちていった。堀の底には、上向きになった刃と、虎や狼などの獣が放たれていた。
 王平は床几の上でそれを見ながら唸った。一重目の堀には幾つもの丸太がかけられたが、二重目をなかなか越えることができない。三重目に至っては、まだ一兵も渡りきれていない。一度兵を退かせるべきだと思ったが、自分の隊だけが勝手に退くわけにはいかなかった。そんなことをすれば、自分の首が飛んでしまう。王平は途中から、どうやって城を攻略するかということでなく、どうすれば兵の損害を抑えることができるかを考え始めていた。
 日が落ち始め、ようやく攻撃中止の合図が出された。損害は、かなりのものになっていた。
 兵に兵糧をとらせていると、諸葛亮の報せを持った趙広がやってきた。
「魏延殿が、なかなかの働きをされていました」
 つい数年前まで小僧であった趙広は、今やその口調もすっかり軍人のものになっていた。
 魏延は決死隊を募って自ら先頭に立ち、堀に入って獣を駆逐し、刃を撤去したのだという。堀の中ならば、城壁から飛んでくる矢に当たることはない。
「さすがは、魏延殿だ」
 隣にいた劉敏は、青ざめていた。思っていた以上に、兵が死んだ。その中には、つい昨日まで一緒に駆けていた者もいたのだ。
 先ずは、あの三重の堀をどうにかしなければならない。
「丞相からの命令です。兵糧の袋を使い、あの堀を埋めてしまえとのことです」
 悪い案ではないと思えた。しかしそれをしてしまえば、かなりの兵糧を消費してしまうことになるだろうと思えた。劉敏はそれに対して、眉をしかめさせていた。
「あの堀を全て埋め尽くせるほどの兵糧が、どこにあるというのですか」
「全て埋めるということではないだろう、劉敏。堀の中に三つか四つ、兵糧の山を作ってそこを足場にする。そういうことではないかな」
 趙広は、その通りだと言うように頷いた。
「戦が終われば、兵糧は引き上げます。できる限り早く落とせ、とも言っておられました。城内に一番乗りした者には、莫大な褒美がでるとも」
「よし、劉敏。それを兵達に伝えてきてくれ。できるだけ兵の気持ちを鼓舞するような言い方で伝えるのだ」
「御意」
 劉敏が、弾けるように駆けていった。横柄なところがある劉敏だったが、戦が始まると従順になった。自軍の兵が死んでいくことを恐れているのだろう。軍監の仕事を黙々とするだけかと思っていたが、意外とそうでもないようだ。
 趙広と二人きりになると、趙広が腰に括りつけた酒の小瓶を差し出してきた。しかし王平はそれを断った。戦中は、兵と同じものを口にするのだと心に決めている。趙広もそれを知っているため、それ以上すすめてくることはなかった。
 以前はよく喋っていた趙広だったが、ここ最近はめっきり口数が減っていた。こうして、兵を失い心を痛めていることに気を利かせてくるということもなかったはずだ。
「父に手をかけた者が、城内におります。兄が夜襲を受けた時、兵を指揮していました」
 眼と腕が片方ずつしかない男。それは、王平も耳にしている。そして趙兄弟は、その者の首を狙っている。
「気負い過ぎるな。私心に捕らわれてしまえば、敵に隙を突かれるぞ」
「御意」
 そんなことはわかっている、という響きはない。無駄なことを言わなくなったのだ。明らかに、趙広の中で何かが変わっていた。もしかしたら、句扶が何かしたのかもしれない。
 趙広は、火が燻る熾火にじっと目を落としていた。思い悩んでいるという様子ではない。ただそこにはない、趙広にだけは見えているのであろう何かを見つめ続けていた。
「趙広」
 呼びかけると、趙広はふっとこちらに顔を向けた。影に揺れるその横顔は、やはり別人のように感じられた。
「趙統が、危なかったようだな」
「偽りの恭順のため、油断をしておりました。正に闇の中から湧いて出たように、敵に襲われたのです。近くにいた私が駆けつけなければ、兄は王双に討ち取られていたかもしれません」
「王双?」
 王平の心がざわついた。何故、お前がその名前を知っている。
「父を討った者の名です。私と兄はこの戦で、何としても父の仇を討たなければなりません」
 王平はざわつく心を落ち着かせた。王双は十一年前の定軍山で戦死したはずだった。それは自分で思っていただけで、実は生きていたのか。しかし、同じ名の者がいないわけではない。
「では私は、そろそろ行かねばなりませんので」
 もっと何かを聞いておきたいと思ったが、趙広はそう言って立ち上がった。
「わかった」
 そう短く答えるのが精一杯だった。
 兵がざわつく向こうの闇に、趙広は消えて行った。周りでは方々で火が焚かれ、兵達が束の間の休息を楽しんでいた。
 一人になった。目の前の熾火だけが、ぱちぱちと王平に語りかけてくるようだった。俺はこんな所で何をしているのだ。蜀で軍人となり、いずれは洛陽に帰ると心に決めたのではなかったのか。それがいつの間にか、自分は蜀軍の一人としてここにいついてしまっていた。
「王双」
 そこにいるのか。王平は城に向かい、声に出して呟いてみた。

 王双は目を覚まし、寝台の上から周りの気配を窺った。自室の外ではいつものように、兵達が働いている。王双は安堵し、大きく息を吐いた。まだ、陥落していない。
 自室を出た王双は用を足し、食堂へと向かった。そこにはいつものように郝昭がいて、卓には二人分の食事が置かれてあった。
 交代の時間である。明るいうちは郝昭が、夜間は王双が城内の指揮を受け持った。交代する前には、必ずこうして飯を共に食い、自分が寝ている間に何があったかを話した。
「意外ともつものだな、郝昭殿。俺は目覚めた時、もう負けてしまっているのではないかといつも不安になる」
 王双は出された水を一息で飲みながら言った。冷たい井戸水が、胃の腑に落ちるのが心地良かった。
「俺もだ、王双。起きたら首だけになっていないか、いつも確認している。首だけになったとしても、俺は戦うつもりだがな」
 郝昭は自分でそう言って笑い始めた。こうした明るさが郝昭の強みであり、これが兵に力を与えるということもあるのかもしれない。
 蜀軍が陳倉に到着して、十日が経過していた。城外から飛んでくる矢に当たって負傷する者はいたが、防戦を継続するには問題ない程度の被害だ。
「長安からの援軍は、まだ望めそうにありませんか」
「城が、隙間なく囲まれている。黒蜘蛛が城外へ出ようと試みているが、上手くいかないらしい。だから詳しくはわからんが、援軍が到着するのは、あと半月後ではないかと俺は見ている」
 王双は頬杖をつきながら唸った。難しいところだと思えた。相手を騙し、三重の堀で食い止めながら防戦してきたが、今では郝昭が心血を注いで作った三重の堀も意味をなさなくなってきている。敵は兵糧の袋を足場にして、堀を乗り越えようとしてきているのだ。火矢を使って兵糧の袋を焼き払おうとしたが、いかんせん人手が足りずに上手くいかない。
 唸る王双とは対照的に、郝昭は思い悩んでいる様子も見せていない。食欲も衰えるどころか、出されたものをすごい勢いで食っていた。その様子は、兵の目から見ていて頼もしいことだろう。
「王訓は、どうしていますか」
「厨房でよく働いているそうだ。包丁で指を切っていた。それは戦の中での名誉の傷だと言ってやったら、喜んでいたぞ」
「邪魔をしていなければいいのですが」
「邪魔なものか。王訓は兵達の心に潤いを与えてくれている。俺も王訓の顔を見る度、長安にいるこういう若者達を守らねばならんのだと思い直させられる」
 王訓の父親が蜀軍にいるのだということは、郝昭には言ってなかった。王訓本人も、そのことは知らない。王訓を長安に置いてくることで、そのことは忘れようと思っていた。このことを知らせたからといってどうなる。知っておかない方がいい、ということもあるのだ。しかしそれは、ただ面倒なことに蓋をしようとしているだけではないか、という後ろめたい気持ちがないわけでもない。
 飯を食い終わると、郝昭は自室に戻り、王双は城壁に上った。
 闇夜の中に、篝火がいくつも燃えている。それは、既に見慣れた光景になっていた。
 歩哨は互いに声をかけ合い警備を怠らず、城壁の下では大壺に入った油が煮続けられている。
 王双が見回っていると、郭奕が音も立てずにやってきた。忍びの軍である黒蜘蛛を束ねている男だ。
「蜀軍はやはり、愚か者の集まりだな」
 郭奕は気軽に声をかけてきた。以前に似たような仕事をしていたせいか、この男とは妙に気が合った。
「ここに抑えを数千残し、長安に向かえばよいものを。街亭でもそうだったが、敵総大将の諸葛亮とやらは、戦が下手なようだな」
 この絶望的な防戦の中でも、郭奕の言葉は冷静そのものだと思えた。
「城内は、大丈夫か」
 敵は目の前にいる、見えている蜀兵だけではない。蜀軍にも、黒蜘蛛のような軍はいるのだ。
「その点は心配するな。それに対する備えも、お前の知らないところで万全にしてある」
「外との連絡は、やはり難しいか」
「難しい。蜀軍もその対策はしっかりとしているようだな。大軍をもってこんな小城一つ落とせないくせに、嫌らしい軍だ」
 蜀には山岳民族が多い。山岳民族を中心とした蜀軍の忍びの部隊は、昔から強かった。十一年前の定軍山でも、魏軍は蜀の忍びに散々苦しめられたのだ。
「お前の昔の同僚である王平とやらは、なかなか良い用兵をしているぞ」
 王双は苦笑して見せるだけで、それについては何も答えなかった。
王平のことは、常に気にかかっていることだった。長い時が経ち、敵同士になったとはいえ、王平のことを憎んでいるわけではない。戦中でさえなければ、今すぐにでも会いに行っていただろう。王訓がどれほどの成長をしたのかも、伝えたかった。しかし、戦である。そういうことは、できるだけ考えないようにしていた。
「ところで王訓は、なかなかうまそうな尻をしていやがったぞ。この戦が終わったら、一晩貸せ」
「馬鹿なことをぬかすな」
 王双は右腕を振り上げた。この男は、男色なのだ。捕えた敵兵を慰みものにすることもあるのだと、噂で聞いたことがある。郭奕は、冗談だ、とでも言う風に笑ってみせた。この男も、たまの気まぐれでこんな冗談を言う。
「王双様、敵が」
 声が飛び、王双は城外に目をやった。暗闇の中で、たくさんの影が蠢き始めていた。
「鐘を鳴らせ」
 王双が怒声を上げると、城内の全ての鐘が打ち鳴らされた。戦が始まってからの、初めての夜襲である。そろそろ夜もくるのではないかということは、郝昭とも話していたことであった。これからは恐らく、昼夜休むことなく攻めてくるだろう。あと半月。郝昭がそう言っていたのを、王双は思い出した。気が遠くなる程の時間だと思えた。郭奕の姿は、気付けば見えなくなっていた。
 王の文字が、蜀軍の中の暗闇にはためいていた。負けるものか。王双は口の中で呟いた。盾を前にした蜀兵の大軍が、声を出し合いながら近づいてきている。それはまるで、もぞもぞと動く人ではない何かのように見えた。
 防戦では、特に兵に対して何か口うるさく言うことはしなかった。ただ、人が一点に集中し過ぎないよう気をつけた。手薄になる所ができないようにし、兵には間断なく矢の雨を降らせた。
 使い過ぎて壊れてしまう弩は少なくなかったが、城内には武器も、油も、兵糧も、まだまだ潤沢にあった。本当にこんなに必要なのかというほどの物量を、郝昭は運び込んでいたのだ。
 昼夜間断無く攻められるようになってから、王双はほとんど眠っていなかった。それは郝昭や他の兵達も同じで、疲労で倒れる者もこれから出始めるだろう。
 郝昭が予想している援軍到着日までもつかどうか、微妙なところであった。このまま倒れる者が増えれば、手薄となったところから破られてこの城は落ちるだろう。捕えられて殺されるくらいなら、戦って死ぬ。それは、ここにいる誰もが思っていることだった。
 兵に力を出させるため、郝昭は普段の食事以外にも、希望する者がいれば、いつでも飯が食えるようにした。厨房では常に火が炊かれ、酒も自由に飲むことができた。そうなったからといって、城内の風紀が乱れるということはなかった。兵の一人一人が、ここを守ろうと心に決めている証であった。
 厨房で働く者は、飯の椀を持って一休みしている兵に配って歩くこともあった。飯は空腹を満たすだけでなく、体を中から温めることもできるのだ。これで寒空の下で兵が体調を壊すということをかなり防ぐことができるだろう。こういうことにも気配りができる郝昭は、やはり名将であると思えた。
 王訓が、木の板に飯の入った椀を乗せて兵に配っているのが見えた。ふと王双と目が会い、辞宜をした。それは他の兵達と同じ挙措だと思えた。
「あれは、誰が仕込んだのだ」
 王双は昔の部下であった三人と腰を下ろして一息ついていた。何れも、長安の宿で共に酒を飲んだ者たちである。
「俺が、教えました」
 王生が言った。
「さすがは王双殿の甥だ。まだ子供だってのに、一人の兵として扱われたがっていました。だから、こういう時はこうするのだと、教えてあげたんですよ」
「余計なことを」
 そうは言ったが、王双の顔が笑っていたため、王生ら三人もにやにやとしていた。
「眠くなったりして戦うことが苦しくなった時、王訓の顔を思い出すんですよ。俺がここで倒れてしまえば、あいつも殺されてしまうんだって、自分に言い聞かせるんです」
「分かる。ああいう若い者のために戦っていると考えると、不思議と力が出る」
 王双はそれを聞きながら、黙って一椀の酒を飲み干した。王訓が陳倉城に来た時はさすがに戸惑ったが、意外と悪いことではなかったのかもしれない。
王訓の父が、蜀軍の中にいる。王訓が陳倉城に来てから、これは誰かに伝えておくべきあと思い始めていた。自分が死ねば、それを知る者はこの世からいなくなってしまうのだ。それは、王訓から大事なものを奪ってしまうということではないか。
「お前らは、何も心配することはない。あいつのことなら、大丈夫だ。例え蜀の兵に捕えられたとしても、酷い目に合わされることはないだろう」
 三人が顔をこちらに向けた。どの顔も、測りかねるという顔をしている。
「そりゃあ、王双殿の指揮でこの城を守っているんですから、大丈夫じゃないわけないですよね」
「いや、そういう意味じゃねえんだ」
 言って王双は、座り直して三人に顔を近づけた。
「王訓の父親と俺は昔、同じ部隊にいた。父親の名は王平といい、王平が隊長で、俺がその副官だった」
 突然の話に対し、三人は神妙な顔をさせた。
「俺達は十一年前、定軍山で蜀軍と戦い、敗れた。俺が左腕を失ったのはその時で、王平はそこで死んだと思っていた」
 王双は目を瞑った。この三人に、自分の気持ちがどれくらい伝わるだろうかと考えた。瞼の向こうで、三人がこちらを見つめていた。自分の気持ちなど伝える必要などないのかもしれない。大事なことは、こいつらが王訓のことを知っておくということだ。王双はそう思い直し、目を開けた。
「その王平が、この戦場の敵陣にいるのだ。兵を率いて、王の旗を掲げ、この城を攻めている」
「そういうことでしたか」
「もし俺が死ねば、このことを知る者は誰もいなくなってしまう。だから、話しておこうと思った」
三人は驚いた様子もない。いや、心の中では何かを感じてくれているのだろう。軍人は、それを表に出さないものなのだ。
「俺はいざとなれば、王訓を父親の元に返そうと思う。それは俺の妹でもあった、死んだ王訓の母親の願いでもあるのだ」
「返すったって、どうするんですか。まさか王訓を連れて敵陣に乗り込むわけにはいきませんよね」
 王双はそれに対しては何も答えず、静かに微笑んで見せた。ただ自分の片目は潰れているので、ちゃんと笑えているかどうか不安だった。

6.当たらない石

 信じられないほどの堅城であった。堀に積み上げた兵糧を足場にして、土塁を乗り越え城壁に取りつくも、最後は熱された油をかけられるのであった。城門を破るための衝車もあるが、堀と土塁が邪魔で使いものにならなかった。
 矢の雨と油により、蜀軍はかなりの損害を被っていた。滞在が十日を過ぎた頃から、兵を交代させながら昼夜休むことなく攻め続けた。しかし、まだ落ちない。
 陳倉に来てから、既に十七日が経過している。本来なら、長安に到着しているはずであった。少しの兵を残して軍を進めるべきだと魏延は言い始めたが、その意見が容れられることはなかった。こんな小城も落とせなければ士気に関わる、というのが理由だという。
 馬鹿な話だ、と王平は思っていた。しかし決して口には出さない。口に出してしまえば、劉敏を通じてどのような形で諸葛亮に耳に届くか分かったものではない。
 兵の顔には、疲労が色濃く出始めていた。
「今回も、負けかな」
 軍営にふらりとやってきた句扶にぼそりと言った。軍と軍のぶつかり合いになれば、句扶の間諜部隊はいくらか暇になる。
「趙広が敵の城に忍び込むことを主張していました。私はやめておけと言ったのですが、城内には趙雲殿を討った者がいるということで、珍しく譲りませんでした。丞相がそれを許可しましたが、やはり敵の備えに打ち払われたようです」
「王双といったか」
「よく御存じで」
 王平はその場に腰を下ろし、石を拾って幕舎を囲む柵に向かって投げた。木の柱に当たり、小気味の良い音を立てて石が落ちた。行軍中は、こうして野にいる兎に礫を放って捕ることもある。
 王平は二度、三度と石を拾って投げた。全てが同じ箇所に命中した。傍にいた句扶は、黙ってそれを見ていた。
「あの王双という者とは、同じ隊にいて働いたことがある。まだ、俺が洛陽にいた時の話だ」
 言ったが、句扶は身じろぎ一つせず、黙って立っている。
「俺はあいつの妹を娶り、子を生した。しかし俺は定軍山で捕えられ、洛陽に帰ることができなくなった」
 四つ目の石を投げた。しかしそれは柱からはずれ、暗い虚空へと消えていった。
「蜀の捕虜となった時、俺は何度も死ぬことを考えた。いずれ洛陽へと戻り、妻子にもう一度会うのだと思い定めることで、まだ生きてみようという気になれた。だが時が経つと共にその思いは薄れ、王双が目の前に現れたというのに俺は兵を指揮してあいつと戦い合っている」
「そういう巡り合わせだったのでしょう。残酷なようですが、それが人の世であるのだと、私は思います」
「俺は北伐が始まってから、何度も考えた。何故、俺は戦っているのだと。俺が戦わなければならない理由は、他のどこか別のところにあるのではないか」
 麻が欲しい、と王平は珍しく思った。しかし思うだけである。趙広が勧めてきた酒ですら、断っているのだ。
 妻と子に会いたかっただけだった。それが少しずつずれ、そのずれは長い時をかけて大きなずれとなってしまったという気がする。そのずれは、王平から戦うということの意味を薄れさせていた。
「すまん、句扶。愚痴ってしまったな。今のことは、忘れてくれ」
 いつも冷徹な句扶の顔が、少し動いた気がした。
「兄者は、変わられたと思っていました。自分の気持ちを隠し続け、今では隠したものが自身の姿になっておられます。しかし今の話を聞いて、兄者は根本では何も変わっていなかったのだという気がしました」
 確かに隠し続けてきた。隠し続けることで、生き延びてきた。隠すことを肯じることができなかった夏候栄は、定軍山で命を落とした。どちらの生き方が正しいのか、わからない。いや、自分の生き方が間違っていたのだと、認めたくないだけなのかもしれない。
 様々な想いを胸に眠り、目が覚めると、やはり戦は目の前にあった。自分にとって何のためにあるのか分からない戦だった。
 城の前に立つと、相変わらずうんざりするほどの矢が降ってきていた。兵糧を足場に堀を乗り越えようとすると、大量に射かけられた。盾を前にしていようと完全に防げるものではなく、死ななくとも腕や足に矢を受けて負傷する者は日に日に増えていった。
 堀を越えても、次の土塁でまた矢を受け、ようやく城壁に取りついたかと思うと熱された油を上からかけられた。
 魏軍はその過少な兵力を、あり余ると言っていい程の物量で補っていた。矢の量といい、油といい、防備は完璧にされていたのだ。それは、魏という国の底力であると思えた。
 昼夜休まず攻めるようになってから、王平は日に四刻ほど眠った。その間の指揮は、劉敏に任せた。目覚める度に、負傷兵が増えていた。こんなことで長安を落とせるのか。そう考えているのは、王平だけではないだろう。また負けるのかという空気が、蜀軍内に漂い始めていた。
 城壁の上で兵を指揮する王双の姿は、何度か見た。暗闇の中にいるその隻腕の男は影でしか分からなかったが、それは確かに王双であった。かと言って二人の間に何か特別なことがあるわけではない。互いにただ黙々と、一人の指揮官として戦っていた。
 昼夜休まず攻めるようになって十日が経つと、全軍に撤退の命令が下された。もう少しで落ちるという手応えはあったが、長安に張郃率いる三万が到着し、こちらに向かっているのだという。さすがに、速いと思えた。諸葛亮は、あと十日は余裕があると見ていたという節がある。
 また負けたという悔しさよりも、ようやく帰れるという安堵の方が大きかった。それは、兵達も同じだという気がした。洛陽に帰りたいと思っていた昔の自分が、まるで嘘のようだと思えた。時の流れは残酷なほどに、人の心を風化させてしまう。軍内における自分の無力さも、その思いを助長させていた。しかし王平は、それがおかしなことだとは思わなかった。それも、人の姿の一つなのだ。
 撤退は、怪我人から優先して始められた。堀に積み上げられた兵糧は、放棄するのだという。もしかしたら、撤退をしなければならなくなったのは、この兵糧にあるのかもしれない。
 またあの寒い山越えをしなければならないのかと考えていると、殿軍になれという命令が届けられた。殿軍は、撤退していく軍を守る盾となる重要な役割である。もしかすると、またあの張郃軍と交戦することになるかもしれない。そのことを考えると、王平はうんざりした。
王平の他には、鄧芝の補佐を受ける趙統が殿軍に選ばれた。何故魏延でなく、趙統なのだ。これは調練ではなく、実戦なのだ。その人選にも王平は不満であったが、黙って受け入れた。
 陳倉城の囲みが解かれ、蜀軍は徐々に陣を退かせていった。きっと陳倉城内では、守兵達が歓喜していることであろう。四千の兵で、十倍の敵を退けたのだ。嬉しくないであろうはずがなかった。
 王平はふと背後を振り返り、陳倉城を見た。前日までの激しい戦とはうって変わり、その城は地面に貼りついたようにひっそりとしていた。城内では、喜ぶ力すら使い果たしてしまっているのかもしれない。この時を突けば、落とせるのではないか。そんなことも頭によぎったが、余計なことは考えまいと頭から振り払った。
 離れていく陳倉城が、どんどん小さくなっていく。それは王平にとって、王双から、そして昔の思い出から、離れていくということだった。歓と子はどうしているのか。それだけでも、聞いてみたかった。

  波が引くように、蜀軍が城の周りから退いていった。
 勝ったのだ。ここ十日程、ほとんど休まず防戦を続けていた王双の体から、一気に力が抜けた。周りの兵達も、張りつめていたものが切れたかのように、その場に腰を下ろしていた。この時を狙ってまた攻められれば、間違いなくこの城は落ちる。そう思ったが、兵を叱咤する気力すら失せていた。
 何か労いの言葉をかけて回ろうか。そんなことを考えながら木の幹に背を預けて座り込み、一息ついて目を閉じると、その瞬間に眠りに落ちていた。
 どこかで、死んだ妹が何か言っていた。何を言っているかは、よくわからない。眩しい。そう思った時には目覚めていた。寝ている間に陰が動き、陽の光が王双の顔に降り注いでいた。
 妹が何を言っていたのか、思い返しても、上手く思い出せなかった。そう思ったのも束の間、王双は飛び起きた。蜀軍は、どうなったのか。
 心配は杞憂だったようで、城内は静謐としていた。俺達は、勝ったのだ。改めてそう思った。
 城壁に登ってみると、蜀軍が整然と撤退しているのが見えた。四万の大軍である。全てが撤退するのには、もう少し時間がかかるようであった。
「よく勝てたな」
 後ろから、声をかけられた。郭奕である。その顔は、不敵に笑っていた。この妙な男も、この戦勝は嬉しいようだ。
「ようやく、俺の部下が外に出ることができた。どうやら、張郃様が率いる三万がもうすぐここに到着されるらしい」
「何、もう来たのか」
「さすがに速いな、あの方が率いる軍は」
「あと十日は防戦せねばならないかと思っていた。とにかく、ぎりぎりだったな。冷静になって考えてみると、あと一日だって戦えなかったという気がする」
「俺の隊は戦闘要員ではないから、後ろでずっとお前らの戦いっぷりを見ていた。いつ落とされるかと、ひやひやしていた」
 郭奕はこんな憎まれ口を叩くが、蜀軍の隠密部隊が城内に入りこんでこないか、常に目を光らせていたはずだった。それはそれで、厳しい戦だったのだろう。
「これで、長安は守れたということだな」
「指揮官の質の違いが大きくでた一戦だった。俺が所属する方が魏軍で本当に良かった。無能な者に命令されることほど苦痛なことはないからな」
 郭奕が言うように、張郃は流石に速かった。この迅速さが、城内にいる全ての者を救った。
 城壁から外を眺めると、矢が突き立った蜀兵の死体がたくさん転がっていた。そこに野鳥が群がり、その光景は酷いものだった。
 その死体が転がる城外のさらに向こうに、蜀の殿軍が見えた。王の旗。一軍の殿を任されるほどになったとは、さすがは隊長殿ではないか。そう思うと、自然に笑みがこみ上げてきた。
 周りの兵達は、疲れ切ってはいるのだろうが、戦いきったという充足感に溢れた顔をしていた。守るべきものを、それぞれが戦い、守りきったのだ。死んだ者は少なくなかったが、それは仕方のないことだと割り切れた。大きな怪我を負った者もいるが、それを心から嘆いている者はないように見えた。
 俺は、何を守ったのか。白翠。それは自分が自分の力で守るべき、大切な女だった。
そして、王訓。今頃は疲れて厨房の片隅で寝ているのかもしれない。死んだ妹と、友であった王平が残した、大切な子であった。
川に流したたくさんの言葉が、この子に叶いますように。妹が言っていたその言葉が、王双の頭の中から消えたことはなかった。自分が守るべきものとは、悲しみの中で死んでいった妹の心ではなかったか。
このまま長安に帰れば、また幸福な日々はやってくるだろう。だがそれは、白翠と王訓を騙しながら生きていくということではないか。そしてそれは、自分自身すらも騙していくことになるのだろう。誤魔化しの中で得ることのできる幸福など、本当はちっぽけなものなのかもしれない。
また城外を見てみると、彼方で王の旗が揺れていた。その旗に、互いに争った者としての憎しみなどない。むしろ王双の心の中には、親しみしかなかった。
長い年月をかけて、ようやく辿り着いた場所だと思えた。
 王訓は城内でどうしているのだろうかと思い、王双は厨房の方へと足を運んだ。しかし、厨房にはいなかった。そこで働く者に聞くと、酒を持って疲れ果てている兵に配っているのだという。
 しばらく探して歩いていると、王訓が昔の部下達に囲まれて談笑しているのを見つけた。
 王双は困った。できれば、王訓が一人でいる方が良かった。王双はさりげなく談笑の輪の中に入り、王訓の手から酒を一杯もらった。
「訓、ちょっといいか」
「はい、なんでしょうか」
 王双は王訓に小さく耳打ちし、その場から離れようとした。
「どこに行かれるのですか」
 背後から声をかけられ、王双はどきりとした。王生であった。
「ちょっとな」
「いかれるのですか」
 王生が、不敵に笑いながら言った。
「お前には、関係のないことだ」
 王双は王生のことを睨んで言った。睨んだが、本当に凄みを出せていないということは、自分でもなんとなく分かった。
「俺も、行きます」
 王生が言い、立ち上がった。すると、周りにいた十数人も立ち上がった。何れも、軍人を辞める前に率いていた兵達だった。
「お前、喋ったのか」
「喋れば、隊長が困るとは思いました。しかし喋らなければ、ここにいる全員が困ることになりました」
「上官の言うことが聞けんのか」
「恐れながら、退役された隊長殿は、もう我々の上官ではありません。男と男として、言っています」
 王双は何も言い返すことができず、困った顔をすることしかできなかった。隣では、王訓が何のことやら分からないという顔をしている。
「分かった。ならば、その言葉に甘えさせてもらおう」
 兵達が、ほっとした顔をした。
「ここで、一刻待つ。お前らは、他について来たいという馬鹿どもを集めて来い。抜け駆けをすれば、恨まれてしまうからな」
 一斉に返事をし、十数人が散って行った。散ったのを確認すると、王双は厩に向かって王訓と共に走った。あいつらは、巻き添えにすべきではないのだ。
 厩に着くと、三人が待っていた。この前、王訓のことを語った三人だ。
「こんなことだろうと思いました」
「戻れ」
「戻りません」
「これは俺と訓のことであり、お前らには関係のないことだ」
「早くしないと、他の奴らも来てしまいますよ」
「なら、勝手にしろ」
 どうしようもない奴らだと思った。しかし心の中では、嬉しくないはずはなかった。
「王訓は、こちらへ。片腕だと、乗りにくいでしょう」
「叔父上。これはどういうことなのですか」
 部下の一人に抱え上げられながら、王訓が言った。王双は少し迷った。しかし、言っておくべきことだと思った。
「敵陣の中に、お前の父がいたのだ。お前の父であり、俺の友だ。俺達はこれから、その友に会いに行く」
 父と聞いて王訓は顔を驚かせていたが、すぐに緩ませた。自分の友でもあるということで、安心したのだろう。
 馬に乗り、駆けた。門衛には偵察に行くと嘘をつき、門を開けさせた。すぐに戻るから、自分が戻るまで誰が来ようと門を開けるなと、きつく言っておいた。
 門を出ると、櫓の上から見えていた旗は見えなかった。しかし見えていた方向に馬を飛ばせば、まだ遠くない所にいるはずだ。
 蜀軍に近付けば、敵将として捕えられ、首を落とされてしまうだろう。そんなことはどうでもいいことだった。久しぶりに、隊長殿に会える。それは王双にとって、単純に嬉しいことだった。そして王訓は、初めて自分の父親に会えるのだ。

7.再会

 追撃は、やはりないようだった。報せによると、張郃軍が陳倉に到着するにはあと二日ほど要するらしい。
蜀軍の先頭は、もうかなりのところまで進んでいるはずだ。初めての殿軍を任された趙統は、陳倉城の敵がいつ襲ってくるかということに、身を緊張させていた。
出てくるはずがなかった。二十日に渡って攻め続けたのだ。出てきたくても、一戦を交えさせるほどの力はないだろうし、その必要もないだろう。四千の兵力で、四万を撤退させたのだ。
「門が開きました」
 まさかと思いはしたが、部下にそう言われたため、王平は櫓に上り、城の方を眺めた。
 四騎の米粒ほどの人影が、城外に姿を現した。この殿軍を襲おうという気はないようだ。
 その四騎は馬足を速めつつ、真っ直ぐこちらに向かって来ていた。人影が徐々に大きくなってくるにつれ、その先頭にいる者が見えてきた。隻腕の男。加えて、右目が大きな傷で塞がっている。王双であった。
「馬」
 王平は従者に向かって小さく呟いた。すぐに鞍が用意され、王平はそれに飛び乗った。
 味方の兵達は、たった四騎で近付いてくる敵にどう反応していいか分からないといった顔をしている。王平はそんな兵達を尻目に馬を進ませた。それに何騎かが付いて来ようとしたが、王平はそれを下がらせた。
 王双が、俺に会いに来ている。劉敏が何かを言っているが、それは無視した。戦はもう、終わったのだ。ただ、友に会いに行く。それの何が悪いのだ。
 軍の輪から出て、王平は近づいてくる王双らの前に立った。後ろでは、味方が黙ってその様子を見守っている。何から話せばいいのか、王平は束の間考えた。
 四騎の中の一騎が、王平に近付いて来た。王双。右手に、剣が引き抜かれていた。話す前に、やらなければならないことがある。そう言われているようだった。
 王平は軽く馬腹を蹴り、剣を抜いた。腿だけで馬を操る王双の姿が、どんどん大きくなってくる。馬が止められる気配はなかった。こちらの馬も、既に駆け足になっている。
 剣が、交叉した。あまりの衝撃に、王平は馬上でよろめいた。
「久しいな、隊長殿」
 十一年ぶりに見た王双の体は、傷だらけであった。それを見ただけで、王平の口からは何も言葉は出てこなかった。
「こんな所で、今まで何をしていた」
 王双の言葉が胸に響いた。一度は洛陽を故郷だと思い定めたことを、この男は知っている。しかし、今は、蜀の軍人の一人だった。
「仕方の無いことだった」
それは、便利な言葉だった。仕方の無いことを、そうでないものにするための努力を、自分は何かしてきたのか。
「こんなことでしか語り合えないのかな、俺らは」
 王双についてきていた三人は、遠くに馬を止めてその様子を見ていた。後ろからは、異変を見て取った蜀兵が近づいてきている。
「これで十分だという気がするぞ、隊長殿。大事なものを忘れた男と、心を開いて語り合えると、俺は思えん」
 何も、言い返すことはできないと思った。
「会えたかと思うと、生意気なことを言う。お前に俺のことなど、何が分かるというのだ」
「分からん。分かろうとも思わん。分かっているのは、隊長殿が俺らのことを捨てたということだけだ」
 言い返すことはできなかったが、頭はかっとなっていた。王双がまた馬を駆けさせた。やり合おう。王双の右手に掲げられた剣が、そう言っていた。
 後ろからは、味方が近づいてくる声が聞こえてくる。逃げ込もうか。その考えがよぎった時には、既に斬撃がきていた。
 王平はそれを剣で受けたが受けきれず、額から血を噴き出させた。頭なので出血が多く、王平の右目はそれで塞がれた。駆け抜けていく王双を追うように、王平も馬を駆けさせた。こんなところを丞相が目にしたら、激怒することだろう。だがその考えは、すぐに頭から追い払った。
 また、馳違った。剣と剣が弾ける。視界が不十分で、力が出せないと思った。しかし王双も同じで、左腕さえないのだ。こんな言い訳を、いつからするようになったのだ。
 また、王双が来る。剣を受けた腕がしびれていた。それでも王平は、向かってくる王双に剣を振った。右腕が飛ばされたかと思った。まだついている。飛ばされたのは、剣であった。
 王双。見ると、こちらに馬首を返していた。彫像の様に身を崩すことなく、王双は馬上で剣を掲げている。こちらの手には、武器すら無い。奪られる。そう思うと、様々なことが思い返されてきた。王双と辟邪隊を作ったこと。王歓と慈しみ合ったこと。定軍山陥落後の、死んだように生きていた時のこと。小さくなった思い出が、唐突に大きくなったような気がした。小さくなったと思っていたことは、自ら小さくしようとしていただけなのか。
 傷だらけの王双が、目の前に迫っていた。こんな体になってまで、お前は何故戦おうとするのか。お前が戦うことで大切にしようとしているものは、何なのだ。昔は、自分にもそんなものがあったような気がした。それは、目の前に迫っている王双が持つものと、同じものだったのかもしれない。
 王平は、左手でもう一本の剣を引き抜いた。左手で長い剣を遣ったことはない。
 来る。王平は剣を前に出し、身を防ごうとした。これでは不十分であると思えたが、そうする他なかった。死ぬ。ふと、王双の剣に少しだけ血が付いているのが見えた。あれは、自分の額を斬った時の血か。なんとなく、そう思った。

 気付くと、馬を疾駆させていた。
 考えてそうなったのではない。体が自然とそうなっていた。
 王平も剣を抜いていた。逃げることを肯じないその姿は、初めて軍営で王平と喧嘩をした時のそれと同じだと思えた。
 一合。剣と剣が重なり、火花が散った。重い一撃だった。
久しぶりに聞いた王平の声は、昔のままだった。どんな会話をしているかは、自分でもよくわかっていなかった。目の前に、ずっと会いたかった隊長殿がいた。その隊長殿に、言いたかったことをただ言っていた。
 言いたいことはたくさんあると思っていたが、あまり言葉は出てこなかった。それよりも、馬を駆けさせていた。
二合目。斬れると思ったが、斬れたのは薄皮一枚だけであった。馬を返した王平の頭からは、血が流れていた。それだけしか斬れなかったのは、王双の心の中で拭い切ることができない何かがあったからだ。その何かは、悪いものだとは思えなかった。
 王平と交わした剣は、やはり重かった。さすがは隊長殿と思いながらも、今までの鬱憤を晴らすように打ち込んだ。鬱憤がある分だけ、こちらが勝っていると思えた。
 後ろでは、付いてきた三人が王訓と共に待っていた。王訓はこれを見て、何と思っているだろうか。
 三合目で、剣を飛ばした。首を飛ばせたと思えたが、やはりできなかった。ここまでしておいて何を迷っているのだ。自嘲のようなものがこみ上げてきて、王双は大きく息をついた。
 蜀の陣営から、兵士達が殺到してきていた。打ち合えても、あと一合か。
 王平が左手で剣を抜いた。王双は馬を疾駆させた。その程度で腕が使えなくなるようで、王訓を守ることができるのか。
 死というものが、目の前にあった。ここで王平を討ったとしても、自分は蜀兵に捕えられ、首を落とされてしまうだろう。人に与えたことはあるが、自分では味わったことのないものだった。
 死ぬことよりも苦しいことは、今までにたくさんあったという気がする。妹が死んだ時が、一番辛かった。王訓を育てるのだと思い定めることで、生き続けてきた。死んでいれば楽だったのにと思ったことは、数え切れずあった。
 籠城中、王平のことを本気で敵だと思ったことはなかった。斬り合いをしている今でも、その思いは変わらない。その王平を、斬る。それは王平のことを憎んでいるわけではない。言葉では説明しきれない何かが、王双の胸の中にはあった。
 王平は左手で握った剣で身を防ごうとしている。打ち込める箇所は、少なくなかった。
 王双は剣を掲げる右腕に力を籠めた。もう何も考えることはない。言葉で説明できない何かを、右腕に籠めた。今度こそ、間違いなく斬れる。
 右が、見えなかった。振り下ろしたと思った剣は、下りてこなかった。代わりに、王双の体が馬上から落ちていた。地面に叩きつけられ立ち上がろうとしたが、上手くできなかった。数歩先には、剣が自分の腕と共に落ちていた。そして、蜀の騎兵隊に囲まれていた。
 斬り飛ばされた右腕から、血が噴き出ていた。その王双に、若い将校が近づいてきた。斬り飛ばしたのはお前か。これではもう、白翠の体を抱いてやることができないではないか。
「趙統という」
 若い将校が言った。聞いたことのある名だと、王双は思った。
「趙雲の子か」
「そうだ」
 趙統は短く答え、両腕の無い王双の頭を掴んで引き起こした。その顔は、怒りに満ちていた。
「父の仇」
 王双は膝立ちにされ、趙統は剣を構えた。
 王双はふと、どこかで趙統の顔を見たことがあると思った。趙雲の幕舎にいた、朴胡を討った男だ。それが分かったからと言って、どうなるものでもなかった。俺は、ここで死ぬのだ。王双は静かに目を閉じた。
「待て」
 暗くなった目の前で、王平の声が聞こえた。王双は、それで目を開けた。
「少し、この男と話をさせてくれ」
 趙統は不満そうな顔をしながらも、剣を下ろした。
 馬から下りた王平は王双に近寄り、血が噴き出している腕にひもを巻きつけてきつく縛った。
「頼む、通してくれ」
 蜀兵の人垣の向こうから声が聞こえた。陳倉城から付いてきた三人だ。王訓は馬上で、王生に体を預けている。
「通してやれ」
 王平が言うと、三人と王訓が人垣の中に入ってきた。そして三人は馬から下り、王訓も下ろされた。
「隊長殿、その子が誰だかわかるかい」
 王双は王訓の方に目を向けながら言った。ようやくこの時が来たと思えた。川に流したたくさんの言葉が、この子に叶いますように。妹が願っていたことだった。ただ落馬した時に打ち付けた頭が痛いのが、少し煩わしい。
「あんたの子だよ」
 王訓のことを見ていた王平の顔が、はっとなった。
「歓は、どうしたのだ」
「死んだよ、十一年前に。王訓を生んで、すぐに死んだ」
 王平が狼狽するのが、はっきりと分かった。狼狽するということは、少しは気にかけていたということなのだろう。それだけで、王双の心は幾らか軽くなった。
 部下の三人が、前に出た。そして顔面を蒼白とさせた王訓が、王平の前に出された。奥歯を震わせていることは、見ているだけで分かった。
「叔父上、腕が」
「泣くな、訓。このようなことで、男は泣いてはならんのだ。なに、一本しかなかったものが、無くなっただけのことだ」
「何故、こんなことをするのですか。叔父上は、友に会いに行くだけだと言っていたのに」
「黙れ」
 王双が叫び、王訓の体がびくっとなった。
「女々しいことを、男が言うものではない」
 王訓は泣くのをぐっと堪え、口をへの字に結んだ。
「隊長をこんな目に合わせるとは、酷いことをしやがる。俺らはあんたに、あんたの子供を返しにきただけだというのに」
 王生の後ろにいた一人が言った。
「そのことには、礼を言う。お前らは、名をなんと言うのだ」
 そう言う王平の姿に軍人らしい冷静さはなく、何とか喋れているというふうに見えた。
「隊長、俺らは先にいってますよ」
 王生が王平の言葉を無視してそう言った。そして、剣を抜いた。蜀兵の間に、緊張が走った。しかし王生は、その剣を自分の首筋に当てた。
「うちの隊長の勝ちだな」
 そう言って、剣を引いた。首から血が噴き出し、王生は倒れた。倒れたその体からは、既に生の色が消えていた。後ろの二人もそれに続き、自分の首を掻き切った。
馬鹿野郎。王双は口の中で呟いた。
「どういうつもりなのだ、王双」
 王平が言った。
「どうもこうも、あんたに子を届けに来ただけだよ。それは、死んだ妹の望みだった」
 目が乾いて霞んできた。少し血を失い過ぎたのかもしれない。しかし不思議と、痛みはそれほど湧いてこなかった。
「王平殿」
 趙統が前に出てきた。首を切って死んだ三人には、何の興味もないという顔をしていた。そんなものだろう、と王双は思った。
「首を、落とします」
 何かを言おうとした王平が、口を噤んだ。この中にも、軍監のような者がいるのかもしれない、と王双は思った。
「思い悩むことはないよ、隊長殿。俺はここに、死にに来たのだ。俺の役目は、もう終わったのだからな」
 王平が顔を歪ませ、頭を抱えた。悩んでいる。悩み苦しめばいい。王双はそんな意地の悪い気持ちになっていた。
王双の隣で、趙統が剣を構えた。
「何か、言っておくことはないか」
 はっと顔を上げた王平のその一言で、趙統は振り下ろそうとした剣を止めた。
「言いたいことか、そうだな。長安の若い軍人が使っている宿に、白翠という女がいるんだ。長安に攻め込むことがあっても、その女には手を出さないでくれないか。俺の女だ」
 王平が頷いた。二度、三度と、赤くなる目で頷いていた。
「おい、小僧」
 趙統の方を向いて言った。
「お前の親父、強かったぜ」
 剣が下りてきた。金属が合う音がした。見ると、王平が趙統の剣を弾き飛ばしていた。そしてそのまま王平は、返す刃で王双の首を落とした。
 空と、歪んだ王平の顔が、反対になった。王訓が何か叫んでいた。しかし何も心配することはない。お前の親父は、立派な男だ。落馬した時に打った頭を、また地面で打った。痛みはなかった。ようやく、心から休まる時が来たのだ。

8.王訓

 目の前に、鉄の格子があった。
 陽の光が届かない、地下の牢である。灯りは格子の向こうに一つあるだけで、そこには昼も夜もない。終わることのない夕暮れだと思えた。
 一日に二度、食事が出された。それは粗末なものであったが、粗末過ぎるというものではなかった。定期的に訪れる眠気と食事で、一日の時は何となくわかった。
 自分が何故こんな所に入れられているのか、王訓は理解できずにいた。自分は何も悪いことをしていないはずだ。牢獄とは、悪いことをした者が入れられる所ではないのか。
 見知らぬ男の前で、王生という軍人の馬から降ろされた。そしてその見知らぬ男は、自分の父親なのだと、叔父上から言われた。
 言った叔父上の体には、腕が付いていなかった。これまで何度も自分の体を抱き、頭を撫でてくれた腕だった。それに驚いていると、それは大したことではないのだと、叔父上に叱られた。
 両腕が無くなったその体から、首も落とされた。落としたのは、自分の父だという男だった。首を失った叔父上の体は膝立ちのまま少し揺らぎ、すぐに地に倒れた。
 自分の体から、血が引いていくのがわかった。それは、今までに味わったことのない感覚だった。血は引いたが、それから目を逸らすことも、泣くこともできなかった。どちらも、やってはいけないことのように思えた。
膝から崩れてしまう自分の体を、父だという男が支えようとしてきた。王訓は、その手を反射的に振り払った。お前は、何なのだ。叔父上が何をしたのだ。そう叫んだところで、涙が溢れてきた。それは、止めることのできないものだった。泣くことを叱ってくれる人は、もういないのだ。
周りに立ち並ぶ兵の間から、小柄な男が割って出てきた。父だと言われた男は、その小柄な男に王平と呼ばれていた。確かに、王姓は同じである。しかしそれだけで、自分の父だと認めることができるのか。
小柄な男は、句扶だと名乗った。句扶というその男は、この子のことは自分に任せろ、というようなことを王平に言っていた。こいつは何を勝手なことを言っているのだ。この王平という男は、叔父上のことを殺したのだぞ。殺してやる。そう思って掴みかかる王訓の体を、句扶に抑えつけられた。小柄なくせに、抗いようもない力だった。
これは夢なのだ。悪い、それも最悪の夢だ。しかしその夢は、今でも醒めてくれようとはしない。
これから漢中に行くのだと句扶は言っていた。もうどうにでもなれと思った。どこかで、捕虜は拷問にかけられて殺されるのだという話を聞いたことがある。自分も、そうやって殺されるのだろうか。それはそれで、仕方のないことなのだと思った。
漢中に着くと、牢獄に放りこまれるようにして入れられた。狭く、糞の臭いがする牢獄だった。まさか自分がこんな所に入れられることがあろうとは、今まで考えたこともなかった。
一日に二度の飯は、句扶が自分の手で運んできた。もっと酷いものを食わされるのかと思ったが、意外とそうでもなかった。だがそれには、手をつけなかった。空腹ではあったが、何かが喉を通るという気がしなかった。
牢の中ではすることもなく、ずっと横になっていた。薄暗い中で、頭と腕を失った叔父上の体が浮かんでいた。それを目にする度に、王訓は腹の底から叫んだ。喉が潰れてしまう程、叫んだ。
叫び疲れると、眠気が襲ってきた。目を閉じると眠りに落ちたが、すぐに目が覚めた。時の流れは分からなかったが、それはすぐだという気がした。そして、体が汗でびっしょりと濡れていた。
渇きが限界に達した時、王訓は粥が入った椀の隣に置かれた小さな水瓶に飛びついた。考えてそうなったのではなく、体が勝手にそうしていた。
水を飲むと、体に少し力が戻った。力が戻ると体の底から怒りがこみ上げてきて、叫び、粥の入った椀を壁に叩きつけた。大きな音がしたが、誰もそれを見に来る者はいなかった。
句扶が、粥の椀を手に入ってきた。王訓がそれを無視して背を向けて寝ていると、いきなり襟首を掴まれ、目の前に粥の椀を持ってこられた。空腹だった。王訓は、獣のようにそれに食らいついた。旨い。旨いと思えることが、悔しかった。
半分も食うと、体の底から怒りが込み上げてきた。王訓は粥の椀を叩き落とし、句扶の足に噛みついた。
句扶は噛みつく王訓の髪を掴み、そのまま壁に叩きつけた。口の中に、赤い味がした。殺してやる。そう思って振り返ると、もうそこに句扶の姿はなかった。あるのは、鉄の格子だけだ。口の中の味が、自分のものなのか、句扶のものなのか、分からなかった。
自分はここで、どうなってしまうのか。殺されるのかとも思っていたが、そうではないという気がする。ならば、これからも生き続けていくのか。叔父上のいない、それも見知らぬ地で、どうやって生きていくのか。それは想像もつかないことだった。ここで何も口にすることもなく死んでしまえば、それが一番楽だという気がする。
横たわって動かずにいると、何かが這う音がしてそちらに目を向けた。大きな鼠が一匹と、小さな鼠が四匹いた。大きな一匹と目が合った。その鼠はじっとこちらを見つめ、すぐに去って行った。まだこいつは死んでいない。鼠がそう呟いたような気がした。
ここで静かに死に、鼠の餌になる。それでいいと思えた。これから生きていたとしても、何も良いことなどないのだ。
運ばれてきた飯には、やはり手を付けなかった。
飯は食わずとも、不思議と糞は出た。王訓はその度に仕方なく体を動かし、牢内の隅で糞をした。糞をしながら、王訓は笑っていた。自分はこれから死のうというのに、糞はきちんと隅でするのか。それが何ともおかしかった。
飯を食わないことで句扶が何か言ってくることはなかったが、十度に一度は椀を目の前に持ってこられた。その時はやはり、獣のようにしてそれを食った。そして句扶に襲いかかり、壁に叩きつけられた。
何度もそうしている内に、王訓は自分でも気付かぬ心のどこかで句扶がここに来ることを待ち望むようになっていた。
「俺を、どうしようというのだ」
 飯を運んできた句扶を前に、そう言っていた。言うと、張り手が飛んできた。
「甘えるな」
 そう言い、句扶は去って行った。俺が何を甘えているというのだ。その言葉の意味は、わからなかった。
 王訓は、残された飯に手を付ける気になっていた。同じことの繰り返しに飽き始めていた。それ以上に、句扶に聞きたいことを聞いてみたかった。死ぬのは、それからでも遅くはない。
 定期的にやってきていた鼠は、王訓に興味を失くし始めていた。王訓は椀の飯を少しだけ残し、それを牢の床に置いた。やってきた鼠は、それに貪りついていた。王訓は横になり、それを眺めた。この鼠達は、多分親子なのだ。そんなことをぼんやりと思った。
「なあ」
 話しかけると、鼠は弾かれるようにして逃げて行った。つまらない。王訓はそう思い、一つ舌打ちをした。
 そろそろ句扶がやってくる頃だ。王訓は、それを座って待っていた。
「どうした。いつもと違うではないか」
 やってきた句扶が、口元に笑みを浮かべながらそう言った。心の中を見透かされたようで、頭がかっとなった。句扶に殴りかかったが、もう壁に叩きつけられることはなかった。ただ殴られるままの句扶。それを前にすると、涙が溢れてきた。そしてそれは、止まらないものとなった。
 句扶の手が、王訓の頭に当てられた。また叩きつけられるのかと思って歯を食いしばったが、そうはされなかった。叔父上より小さな手だ、と思っただけだ。
「出ろ」
 言って背を向けた句扶に、王訓は黙って従った。
 久しぶりに出た外は、驚くほどに眩しく、目を開けていられなかった。しばらくして目が慣れてくると、句扶は漢中の街にある食堂に王訓を連れて行った。長安で起居していた宿より小ぢんまりとしていて、しかしながら小奇麗な食堂だった。
「今日から、お前はここで暮らすのだ」
 それだけ言うと、句扶はどこかに行ってしまった。王訓の前には、二人の老夫婦がいた。笑顔の優しい二人だと思えた。

 冬が終わり、漢中を包む雪が溶け始めていた。まだ寒くはあったがそれは極寒というほどのものではなく、服の下に染みる空気が心地良いというくらいだ。
 王平は諸葛亮の命で漢中から西に二十里離れた場所に城を築いていた。漢中の東には、魏延が同じように城を築いている。兵は帰還させたが、蜀はまだ魏との戦時下にあるといっていい。これからは、魏から攻められることも考えなければならない。それに備えるための城である。城の縄張りは心得のある劉敏がやり、その指揮は王平がやった。
 この命令が届いた時、王平は心の隅でほっとしていた。漢中には、自分の息子だという王訓がいる。王平はあれだけ会いたいと思っていた自分の息子に、どう接していいのか分からなかった。
 それを見かねたのか、句扶が王訓を自分に預けろと言ってきた。王平は言われるがまま、句扶に任せることにした。
 王訓を届けに来た王双の首は、自分の手で落とした。自分でしなければならないことだと、漠然と思ったのだ。趙統はそれに対し多少怒っていたようだが、それを気にする余裕はなかった。
蜀軍は、敗退を続けていた。長安へと続く三つの道の一つである斜谷道は、陳倉で完全に封鎖されてしまった。秦嶺山脈を越え陳倉を抜くことは、もう無理だろう。険しい道であるが一番の近道である子午道にも何らかの備えがあると思っていい。残された道は、秦嶺山脈を大きく西へと迂回する、箕谷道のみである。
諸葛亮は、また兵を北へと向けるという決定を下していた。今度は長安にまで攻め込むのではなく、秦嶺山脈の西の魏領一帯を切り取ろうということだった。漢中から箕谷道を通り、一息で長安に攻めこむとなれば、兵站が伸びすぎてしまうのだ。
蜀の軍人で、戦に倦んでいる者は少なくなかった。王平もその一人である。そんな武官達の意を汲んでか、諸葛亮は成都の兵だけで漢中を発っていった。少数だけで迅速に動き、長安からの援軍が来る前に攻め取れるだけ取っておこうというのが狙いだ。
「これは、なかなかの城になりそうですね」
 築城に精を出している王平のところに、句扶がやってきた。諸葛亮率いる本隊に付随する隠密部隊には、もう一人前となった趙広が駆り出されている。
「ここは陳倉以上の城にしてやる。こうなったら、いつ魏軍が攻め込んでくるかわからないからな」
 精を出すことで、難しいことを忘れようとしていた。そうやって大事なことから目を逸らそうとすることは、自分の悪いところなのかもしれない。
「とりあえずは、大丈夫なようです」
 句扶が、王平の心を見透かすようにして言った。
「何のことだ。魏軍のことか」
 何のことかは分かっていたが、そんな言い方をしていた。
「王訓のことです。心に大きな傷を負っていたようですが、立ち直る目処はつきました。今は、黄襲殿に預けています」
「そうか」
 自分ですべきことであった。しかし王訓のことは、思い出しただけで大きな気後れを感じてしまう。十年以上もの間、父親として何もせずにいたのだ。句扶の気遣いが、心から有難かった。
「俺は、恨まれているのだろうな」
「はい、かなり」
 遠慮なく言う句扶の言葉に、王平は苦笑した。難しいことから目を逸らしてはいけない。そう言われているようでもあった。
「しかし、今だけだという気がします。あれは、決して弱い子ではありません。何と言っても、兄者の子なのですから」
「俺はどうしようもない男だ。妻を死なせ、子を十年以上も放っておいたのだ。それに育ての親である王双を、この手で斬った」
 王平は額に手を当てながら言った。王双に斬られた時の大きな傷跡が、そこにはあった。
「兄者は大事なところで、背を向けることをしなかった。私はそう思います。王訓はそのことを恨んでいますが、いずれは分かってくれるでしょう。それには、長い時がかかるとは思いますが」
 その長い時とは、どれくらいのものなのだろうか。その間、自分は思い苦しまなければいけないのだろう。それだけのことを、自分はしてしまったのだ。
「黄襲殿なら、安心して任せられるという気はするな」
「子のいない老夫婦です。自分の子ができたようだと、特に奥方殿は喜んでおられました」
 やはり、自分ですべきことだと思った。しかしどうすればいいのか、王平には分からない。
「すまん」
 気にするな、というように、句扶の顔が微かに動いた。
「ところで、西に向かった蜀軍はどうなっているのだ」
「先ずは、問題ないかと思います。標的が長安ではないということで、魏軍も気を緩ませているようです。丞相の北伐好きには、魏の武官もうんざりしていることでしょうな」
 魏の武官らも、というところで、王平は思わず苦笑した。成都からたまに送られてくる蔣琬からの書簡にも、直接的ではないが、もう戦は中断してもらいたいということが書かれてある。魏延は、子午道から攻め上がるべきだということはもう言わなくなっていた。武断派の急先鋒だと思われている魏延も、現場の状況はよく心得ているのだ。蜀の廷臣の中には、そんな魏延を一貫性のない奴だと陰口を言う者が少なからずいるようだった。言っている者は、いずれも戦を知らない者達だ。蔣琬からの書簡には、そんなことも書かれていた。
 目の前では、陳倉戦後に補充された新兵達がかけ声をかけながら大きな石を運んでいる。体作りの一環として、新兵にはそれをやらせていた。前からいる漢中兵は若い将校に指揮させ、野を駆けたり武器を遣った調練をしたりしている。
辺りに鐘が打ち鳴らされた。この日の仕事の終わりを告げる鐘である。汗にまみれた兵達が、ぞろぞろと兵舎に引き上げてきていた。
王平の体は無性に酒を欲し始めていた。

9.郭淮

 通り過ぎていく街道に、緑が目立ち始めていた。風はまだ冷たくはあるが、それは寒いという程ではない。
 郭淮は二万の中軍にいて、西へと向かって進んでいた。また、蜀軍が魏領に侵攻してきたのだ。
 蜀が何を考えているのか、郭淮には理解できなかった。戦は、大量の金を使う。二度の敗戦を経て、蜀が失ったものは決して小さくなかったはずだ。それでもまだ戦を続けようというのは、どういうことなのか。蜀の指導者は愚かなのだろう、と曹真は言っていた。
 その曹真から命じられたことは、蜀軍を長安に近付かせるなということだった。今回の蜀軍がとる、漢中から秦嶺山脈を大きく西へと迂回する長安への進路は、かなりの長さがある。二度の敗戦後の蜀軍の財政を考えれば、一息で長安まで辿り着くことはできないだろう。ここで蜀軍を完膚無きまでに叩き潰しておくことができればそれが理想だが、そこまでの勝ちを得るのは難しいだろうというのが曹真の考えだ。魏も蜀ほどではないにしろ、疲弊しているのだ。魏軍の中で精強を誇る張郃軍も、呉の進攻を警戒して中央へと帰還している。
 自分が二万という大軍の指揮官となるのは初めてであったが、気負いはない。蜀軍と決戦をするための戦ではないのだ。涼州の西方の辺境の地など、くれてやればいいのだ。そこまで本気になって防衛しようと思えば、かなりの戦費がかかってしまう。それならば、蜀軍に長い進路を取らせたうえで、魏領内に深く誘い込めばいい。これも、上手く戦を運ぶ方法の一つである。
 長安から西方五百里の陳倉を過ぎた。前回の戦場だった地である。郝昭が心血を注いで築き上げた、堅牢な要塞がそこにはそびえ立っている。蜀軍はもっと西方の陰平という城郭を奪ったのだという情報が入った。そして、さらにその北の武都へと軍を進めているのだという。この辺りで止めておくべきだろう、と郭淮は思った。
 敵の総勢は、四万。成都の三万を主力とし、北からは羌族の一万が南下し始めているという。羌族に紛れ込ませた間者によると、この一万はさほどやる気がないらしい。だとしたら、敵の実質は三万。郭淮に与えられた使命は、敵を打ち破ることではなく、足止めをすることで蜀を疲弊させることである。戦場さえ間違えなければ、二万の兵力でそれは可能であると思えた。
 郭淮は、武都から二百里北の天水という城郭に二万と共に入った。ここから先はもう、蜀軍に奪らせるわけにはいかない。
「全輜重を城内に収容しました」
 夏侯覇が報告に来た。本営にした、天水城の軍営内である。郭淮は卓上に置かれた地図を睨みながら、それに軽く返事をした。
 郭淮はこの若い将校のことが、あまり好きではなかった。何人かいる若い将校の一人だが、夏侯覇だけは何かにつけて遠慮なくものを言ってくるからだ。張郃にかわいがられている思い上がり者、という思いが先に立ってしまうのだ。
「武都に、二万。その後方に後詰の一万ですか。野戦にはなりそうでしょうか」
 夏侯覇が卓上の地図を覗きこむようにして言った。郭淮は、眉をしかめた。
「わからん。蜀軍の出方次第だな。北西には、羌族の一万も出てきている」
 出過ぎている。そう言いそうになるのを抑えながら、郭淮は答えた。
「野戦になれば、是非私に先鋒を仰せ下さい」
「相手の出方次第だと言っている。あまり気負うな。お前の働き場があれば、存分に働かせてやる」
「はい」
 夏侯覇は一礼して退出していった。
 郭淮は頭を切り替え、様々な戦の想定を始めた。
 北西の羌軍一万は、先ず問題ないと思っていい。ほんの二年前まで魏に従っていた者達で、戦の帰趨でどちらにでも転ぶような軍である。その中には、郭淮の知己も少なからずいた。その者らに、密使を飛ばした。羌軍の中にあって密かに魏軍に協力すれば、それなりの物を与えるということを、密書に認めた。
 北西の羌軍を無視できるとなれば、敵は武都に駐屯する蜀軍のみである。天水で防備を固めていれば、蜀はいたずらに軍費を消耗することになるだろう。それは魏軍も同じだが、軍費の豊かさが違った。蜀は、貧乏な国なのだ。干戈を交えることなく蜀を消耗させることも、取るべき戦の一つである。
 両軍が対峙し始めて、一月が経過した、蜀軍は武都の二万と後詰の一万を動かすことなく、北西の羌軍一万もまた動かなかった。郭淮も天水の二万を動かすことはしなかった。ただ、絶えず斥候を出してその場の状況は把握していた。
 本営の郭淮の居室に、夏侯覇が入ってきた。
「なんだ。野戦はまだやらんぞ」
 郭淮は夏侯覇の顔を睨み据えながら言った。長い滞陣が続けば、野戦をやりたがる者は出てくる。夏侯覇もその一人だと、郭淮は思っていた。
「いや、そういうことではないのですが」
 いきなり釘を刺された夏侯覇は、困った顔をしながら言った。
「このようなものが、城内にまかれていました」
 夏侯覇の手にある木片には、郭淮に対する誹謗が書かれてあった。城に籠ったまま動かないのは、腰抜けだ。魏軍の精鋭は、玉無しによって指揮されている。そんなことがずらずらと書かれてあった。
「こんなつまらんものを、わざわざ見せに来たのか」
 郭淮は卓を蹴り飛ばして立ち上がった。しかし夏侯覇は、微塵もたじろがない。流石にそこは胆の据わった軍人かと、郭淮はまだ自分の冷静な部分で思った。
「落ち着き下さい。私は野戦をしたいと思っていますが、今はまだその時ではないとも思っております。城から出て散々に破られた蜀の愚将のことを、私は忘れておりません」
 この若者の、こういう物言いも気に入らなかった。
「この手の中傷は、実は十日程前からありました。郭淮殿の耳に入れることもないだろうと思い無視していましたが、段々と看過できなくなって参りました」
 郭淮は大きく息をつき、腕を組んで椅子に座り直した。夏侯覇のような若者に諌められている自分に対しても、苛立った。
「これは、敵の計略だ」
「私も、そう思います」
「お前の意見など聞いてはいない」
「申し訳ありません」
 郭淮は、もう一つ息をついた。
「よく知らせてくれた。もう行っていいぞ」
 夏侯覇は直立したまま一礼し、退出して行った。
 蹴り飛ばした卓を元の位置に戻し、地図を広げた。
 天水城内に、蜀の隠密部隊が入り込んでいる気配はあった。恐らく、元々いた天水の守兵か人夫に紛れ込んでいたのだろう。
 今回の従軍に、黒蜘蛛は連れてきていない。郭淮はそのことを少し悔やんだ。曹真からは連れて行けと散々言われていたのだが、それは不要だと固辞した。黒蜘蛛を束ねている郭奕は、郭淮の親類である。自分の親類が男色であるということを、生理的に受け付けることができなかった。
 しかし、ものは考えようである。魏軍二万を城からおびき出すことが敵の計略ならば、それを逆手に取って破る策を立てればいいというだけのことだ。郭淮はその策を、地図を前にして考えた。敵の計略さえ見破ることができれば、相手に痛撃を与えてやることができるかもしれない。
 従者を呼び、南への斥候を三倍に増やすように命じた。蜀軍が野戦を誘ってきている。これからは、敵のどんな小さな動きも見逃すことはできない。
 郭淮は、ふと居室の隅に目をやった。夏侯覇が持ってきた、誹謗中傷の木片。こんなものに苛立つ自分を冷静に見つめ直し、苦笑した。張郃なら、その通りだと言って笑い飛ばしていたところだろうと思えた。この木片を持ってきた者が夏侯覇でなく他の者なら、こんなに苛立つこともなかったろうという気もする。
 敵は、何を狙っているのか。郭淮は椅子に座り直し、そのことだけを考えるのに集中した。

 二万の軍勢を武都に入れ、諸葛亮は天水に籠る魏軍二万と睨みあっていた。
 敵将は、張郃の副官を務めていた郭淮だ。前々回の戦では、街亭で張郃率いる騎馬隊と対峙している隙を突かれ、この将に後方の兵糧集積地を焼かれている。
 武都の後方には残りの一万を置き、後詰としていた。敵の目からは、兵糧襲撃に備えているように見えるだろう。
 今回の出兵は、次の戦に備えてのことだった。長安の西方に蜀の盤石な拠点を作り、そこを策源地とする。漢中からだと、長安は遠すぎるのだ。
 しかし諸葛亮は、もっと違うものを求めていた。一勝が欲しかった。成都の廷臣には、北伐に反対する者が少なくないのだ。その者達を黙らせるためにも、誰が見ても分かるような勝ちが欲しい。このまま負け続ければ、北伐を中断せざるを得なくなる。それだけならまだしも、蜀内における諸葛亮の立場すら危ういものとなってしまう可能性すらあった。
 諸葛亮は連日、天水周辺に潜りこませた趙広からの報告を分析していた。
 敵将郭淮も蜀が無理攻めしてないと読んでいるのか、城郭内から一歩も出てこようとはしない。先ずはこれを、城外に釣り出すことだった。
「次は勝つぞ。勝たねばならん」
 諸葛亮は、側にいる姜維に呟くようにして言った。まだ若く、武芸に長けた羌族の名士である。前々回の戦で羌族の協力を取り付けるために味方に引き入れ、趙広と共に身辺の警護を任せてあった。趙広には諜報の任務を与えているので、今は姜維とその部下が諸葛亮の身辺を護っている。
 成都の蔣琬は羌が寝返った時の諸葛亮暗殺を危惧しているようだが、それは無視した。近くにいる者を信用せずして、どうして大仕事ができようか。劉備が生きていれば、そう言っていただろうと思えた。
「果たして、郭淮は出てきますでしょうか」
「出てこなければ、それでいい。今回の目的は既に果たしてあるのだ。あとは、天水に潜りこませた趙広が上手くやってくれるかどうかだな」
 それでいいというのは無論、本心ではない。
 目的は果たしたといっても、このまま帰還するつもりはない。たとえ局地戦であろうと、蜀軍が勝ったという事実は、喉から手が出るほど欲しいのだ。
 卓上に広げられた地図には、たくさんの印がされてあった。姜維は天水出身ということで、この辺りの大小の丘陵から細かな間道まで、実に詳しく知っていた。卓の地図に印されたほとんどは、姜維の知る情報によるものだ。
「北西の羌軍が、動いてくれればな」
「申し訳ありません」
 言われて、姜維は俯いた。蜀と羌の結びつきは、姜維を橋渡しとして行われていた。長安を占領した暁には、羌族の主だった者に官職を与えるという約束も、姜維を通して伝えてある。
 しかし、羌軍の腰は重かった。まだ魏と蜀を天秤にかけているのだろう。
 だが、それはそれで良かった。大切なことは、羌を敵に回さないということだ。魏の方でも、羌を懐柔しようという動きは濃厚にある。それも、気にかけておかなければいけないことの一つだ。
「羌軍が動かないのなら、それはそれで使い道がある」
 言って、諸葛亮は一枚の紙を卓上に出した。
「これは」
 姜維がそれを覗きこむようにした。
「郭淮から、羌軍に送られた密書だ。金欲しさに密告してきた者がいる」
 羌の中にも、蜀を支持する者と、魏を支持する者がいる。どの人物が蜀に心を寄せているか、その調べはしっかりとしていた。
 書面には、羌軍はそのまま動かずにいて欲しいということが書かれてあった。それに対する見返りも記載されてある。
 それを読むと、姜維はまた俯いた。
「私は丞相の元に来るまで、羌がこんなにも信義を蔑ろにする民族だとは知りませんでした」
「そう言うな。これは、魏と蜀の戦いだ。つまり漢民族同士の争いなのだ。その間を上手く立ち回ろうというのは、当然のことではないか」
 そう言っても、やはり姜維は俯いていた。羌族が蜀の望む働きをしてくれないということで、肩身の狭い思いをしてきたということもあるのだろう。
「この一万を、動かす」
 言いながら、諸葛亮は地図上の羌軍を扇で指した。
「しかし」
「動かぬと思っているのか」
「恐れながら」
「郭淮も、そう思っていることであろうな」
 諸葛亮が、口元をにやりとさせて言った。
 不意に扉が叩かれ、従者が入ってきた。呼んでいた楊儀がやってきたようだ。
「漢中軍から、返事が来ました。五日後に、王平殿が一万を率いて陰平に到着します」
「よろしい。郭淮への返書はどうだ」
「そちらも手抜かりございません」
「兵糧に問題はないか」
「ございません」
 つまらないことは上にあげてこない、諸葛亮の優秀な腹心の一人だった。戦の才はないが、諸葛亮の意をしっかりと汲み、忠実に軍政をこなしてくれる文官である。しかし、欠点はあった。文官は、武官の上であるという意識を強く持ち過ぎているのだ。それは自分にも原因があると思えたので、非難することはできない。今回の漢中軍動員には、魏延を起用しようと思っていたが、王平を呼ぶべきだと主張したのは楊儀だった。王平の方が命令に忠実だというのが、その理由だった。あまりに強く主張するので、諸葛亮は楊儀の意見を採用した。楊儀は恐らく、魏延のことを嫌っているのだ。
 報告が終わり、諸葛亮が幾つかの指示を与えると、楊儀は退出していった。
「勝ちに行くぞ、姜維」
「はい」
 そう言った姜維だが、作戦について何も聞かされていないその顔には、困惑があった。ここが、姜維のまだ若いところである。
「お前は、私の周りをしっかりと守っていろ。機があれば、手柄も立てさせてやる」
 手柄を立てさせてやると聞いた姜維の顔に、ようやく少しだけ喜色が戻った。

10.策謀

 密書の返事がきた。羌軍一万は、前進しようとも天水の北を流れる渭水は絶対に渉らないというものだった。
 郭淮はそれを確認し、安堵した。これで野戦をしたとしても、蜀と羌の挟撃は避けられる。
 天水城内では、弱兵の蜀軍など早く蹴散らしてしまえという声が日に日に高まってきている。郭淮は目の前の蜀軍より、そちらの方を気にし始めていた。
 南に放っていた斥候が、蜀軍二万の後方にいた一万が姿を消したと報告してきた。
 蜀軍が、仕掛けてきた。
 二万と二万が対峙している間に、その一万をどう動かしてくるのか。それさえ読めれば、勝機はある。郭淮はその一万を見つけ出すため、さらに南への斥候を増やした。
 二日経ち、その一万を発見したという報告がきた。二万の後方から大きく東へ迂回しようとしているのだという。天水城に籠る魏軍の後方を塞ごうという動きに見えた。
「喜べ。ようやく野戦だ」
 郭淮は憮然とした表情で言った。野戦にはやる兵達を鎮めるのは上官の仕事だというのに、夏侯覇はそれを怠ってきた。郭淮には、それが不満だった。
「蜀軍後詰めの一万が、大きく東へ移動中だ。これを我々は、全軍で討つ」
「ようやくこの時がきましたか。腕が鳴ります」
 嬉しそうに言う夏侯覇とは対照的に、郭淮は一つ舌打ちをした。その舌打ちが聞こえたのか、夏侯覇は口を噤んだ。本来なら、天水城を堅く守っていればいいだけのことなのだ。
「このままこの一万が進めば、ここから東へ百里の上邽の辺りに出てくるだろう。戴陵に五千の騎馬を先鋒として率いさせ、これにぶつけて足を止める。後方からは、俺の率いる一万五千の歩兵だ。お前は五千の騎馬の中で、千騎を率いるのだ」
「御意」
言った夏侯覇の顔にはもう、喜色はなかった。
「わかったら、すぐに用意をしろ。血気盛んな奴らを存分に暴れさせてやれ」
 夏侯覇はすぐに戦の準備にとりかかった。郭淮も部下に指示を出し、自らも具足に包んだ。
 二月ぶりの城外は、悪いものではなかった。原野の風を馬上で感じると、生きているという気がする。城に籠るばかりでは嫌だという若い兵らの気持ちが、全くわからないというわけではないのだ。しかし今は、二万の命を預かる指揮官としてここにいる。軽々なことはできなかった。
 夏侯覇の千騎を含む五千は、上邽へと先発していった。郭淮率いる一万五千の歩兵も、すぐに進発する手筈である。あとは蜀軍別働隊の一万に奇襲をかけ、そのまま東へと退けばいい。
 斥候からの情報は入り続けていた。武都の二万が前進し始めたという報告が入った。少し対応が早いと思った。郭淮の予想では、武都の二万が動くのはもう一日先のはずだった。
 嫌な予感がした。しかしもう、迷っている時ではない。既に別働隊の五千騎は先へと進んでいるのだ。
 続けて、おかしな報告が入ってきた。東へ回り込んでいた一万が、上邽から南に百里のところで動きを止めてしまったのだという。
 郭淮は背中に冷たいものが流れるのを感じた。もしかしたら、この一万に誘い出されたのかもしれない。しかし蜀軍本隊との距離はまだある。いざとなれば、東へと走ればいい。そこが魏領内である限り、逃げ込める場所はいくらでもあるのだ。
 武都にいた二万の蜀軍が、凄い勢いで北上しているという報告が、翌朝になって入ってきた。
 罠だ。どんな罠かは分からないが、自分が敵の罠の中に陥っているということをはっきりと感じた。今からなら、天水城に引き返すことは可能だ。
 このまま東へ走り去ることもできるとは思ったが、それでは何のために自分がここまで来たのかわからないものになってしまう。下手をすれば、軍法により処断されてしまうことも十分にあり得た。郭淮は、城から軍勢を出したことを猛烈に悔やみ始めていた。
 郭淮は率いていた一万五千に撤退の下知をし、別働隊の五千にも伝令を飛ばした。
 斥候からの報告が目まぐるしく入ってきた。蜀軍二万は真っ直ぐに天水城を目指し、北西の羌軍は渭水の対岸まで出てきているという。羌軍の一万は、問題ないはずだった。問題は、自軍を天水城に収容する前に、武都からの二万が天水城に達してしまうことだった。
「急げ。天水城にて、我らは蜀軍を迎え撃つ」
 焦ってはいない。郭淮は自分にそう言い聞かせた。
 驚くべき報が入ってきた。
「渭水の北にいる一万が、渡渉を始めました」
「なんだと」
 帰還を急ぐ馬上で、その報告を受けた。やはり、羌とは安々に約束を結ぶべきではなかったか。今更言っても、仕方のないことだった。
 時間からして、その一万の渡渉はもう終わっている頃だろう。羌軍の軟弱な兵など蹴散らし、天水城に入ればいいだけのことだ。
 次の報告に、郭淮は耳を疑った。
「渡渉を終わった一万に、蜀の旗が翻っています」
 郭淮は、全身から汗が噴き出るのを感じた。

 敵が動いた。
 諸葛亮は武都の二万の指揮を自ら執り、魏軍の本営である天水へと兵を進めていた。残りの一万には軽騎を与えて陳式という老練な部将に率いさせ、夜陰に乗じ大きく西へ迂回させ、天水の北を流れる渭水を渡らせた。まだ若い趙統も、その中で二千を率いている。郭淮は天水の南に出す斥候の数を増やしたようだったが、この一万の動きは捕えきれていない。それは、郭淮が城を出たということで確信した。
 天水城内では、趙広が事の他上手くやってくれたようである。挑発に乗った郭淮は漢中から呼び寄せた王平率いる一万の囮にひっかかり、城を出てそちらの迎撃に向かったようだ。その囮に気付いたのか、郭淮は軍を返して天水城に急行しているという。
 その郭淮率いる一万五千が、二里の距離まで近づいていた。軽騎一万を率いる陳式は、既に渭水の渡渉を終えている。
 諸葛亮は中軍の足並みを落とさせ、左翼と右翼を前に出した。二万の軍勢が、花が開くようにして広がっていく。敵を押し包むための、鶴翼の陣である。
 陳式の一万が、郭淮の一万五千の足止めをしていた。五隊に分かれた一万が、方陣を組んだ一万五千を削るように攻撃をかけている。
 二万の前線が、郭淮の軍勢に攻撃を開始した。一万五千の方陣は堅牢であったが、一万を一つにまとめた陳式が後方から突っ込むと、すぐに潰走が始まった。あとは、掃討戦である。
「東への退路は開けておけ。逃げる敵を、背後から徹底的に叩くのだ。魏軍に、蜀軍の恐ろしさを教えてやれ」
 諸葛亮の言葉を受けた伝令が、駆けて行った。
「流石です、丞相。恐れながら、ここまでの勝ちになるとは思っていませんでした」
「まだだ、姜維。我々は、二度負けている。ここで蜀軍は恐ろしいのだと魏軍の兵の心に植え付けて、初めて勝ちと言えるのだ」
 いささか興奮気味の姜維をたしなめるように、諸葛亮は言った。
「羌軍の一万は、やはり動きませんでしたか」
「なんの。あの一万がいたからこそ、渭水を渡らせた一万が生きた。それにこの戦が終われば、羌との交易も盛んになるだろう」
 南船北馬というように、北には良質の馬が多い。武都を抑えることができれば、北からたくさんの馬を仕入れることが可能になるのだ。これは蜀にとって、決して小さなことではない。
「あとは王平の戦線だな。姜維、これが何だかわかるか」
 諸葛亮が黒い石を一つ抓んで見せた。
「はて、何でしょうか」
 怪訝な顔をする姜維に、諸葛亮はその石をぽいと投げた。するとその石は、姜維の具足の鉄の部分にぴたりと貼り付いた。
「これは」
「我々の秘密兵器だ」
 言った諸葛亮の口元が、不敵に笑った。

11.隘路

 初春の冷たい山中の空気が、肌にひりついた。
 趙広は五百の隠密部隊を率い、天水から東へ五十里の所に伏せていた。二つの山に挟まれた、伏兵には最適な地である。魏軍の本隊から分かれた五千の騎馬が、もうすぐここを通るはずだ。
 趙広は諸葛亮から渡された黒い石を、手の上で転がしていた。不思議な石である。鉄製の短剣に近づけると、それはぴたりと貼り付いた。この石は磁鉄鉱といい、漢中の西方で多く産出されるのだという。
 趙広は五百を二十五人の一組に分け、その一組ずつに小分けした磁鉄鉱の袋を与え、狭隘に沿って二十の部隊を配置した。近くには、強行してきた王平の一万が潜んでいる。それは王平からの狼煙で確認することができた。敵が近くにいるために、伝令を出すことは控えられていた。
「敵の五千が近づいてきました」
 部下が、小声でそれを伝えてきた。趙広は、それに無言で頷いた。
 一つ、甲高い鳥の鳴き声が山中を走った。趙広の口から発せられた、戦闘開始の合図である。
 諸葛亮から与えられた、初の単独の任務だった。それを思うと、趙広の血は腹の底から滾ってきた。
 見えた。夏の旗を掲げた、魏軍騎馬隊の先頭である。それが見えると、腹の底の血は不思議と収まってきた。
 夏の旗が、目の前を通り過ぎて行った。まだだ。趙広は自分に言い聞かせるように呟いた。俺が欲しいのは、お前のような雑魚の首ではない。
 騎馬隊が中軍に差し掛かった。戴と、魏の旗。五千を率いる大将である。頃合いを見計らい、趙広が右手を上げた。一つ、銅鑼が鳴らされ、それを皮切りに山中のいたるところから銅鑼の音が続いた。眼下の馬蹄に負けないほどの轟音である。敵騎馬隊に衝撃が走るのが、はっきりと見て取れた。
「やれ」
 趙広は、轟音に負けぬ大音声を上げた。山中の崖から一斉に投げられた袋は中空で開き、大量の磁鉄鉱が敵騎馬隊の頭上に散らばった。具足に、馬甲に、その黒い石は貼りついていった。五千の中軍から、左右に混乱が伝播していく。
 狭隘の向こう側から、喚声が上がった。二つに分かれた王平の一万が地から湧くように現れ、狭隘の地を塞いだ。
 趙広の五百は弓をつがえ、山中から矢の雨を降らせた。敵騎馬隊が、面白いように馬から落ちていく。塞いだ隘路の両端で、戦闘が始まった。敵は血路を開くためまとまりを得ようとしていたが、十人、二十人とまとまった所に趙広隊の矢が集中した。それでできあがりかけたまとまりは、蜘蛛の子を散らすようにまたばらけた。
 戴の旗の下に集まろうとしているまとまりはさすがに頑強で、磁鉄鉱を使った攪乱ももう効果がないようだった。
 百ほどのまとまりが、百三十、百五十と増えていく。そこに矢が集中したが、敵は小さく円陣を組み、四方からの矢を盾で防いでいた。
 趙広は走りながら懐に忍ばせた硫黄の玉を取り出し、火を点けた。すぐに煙があがり、それを円陣の中に投げ込んだ。大きな発火にはならないが、小さな火柱が上がり、敵は動揺した。後ろから部下が同じように硫黄の玉を投げ、ぼっと幾つかの火が上がった。
 敵円陣に突っ込んだ。後ろからは、二十五人の部下が追ってきている。敵の目は降ってくる矢を警戒していて、下には向けられてはいない。
 馬の足。目の前で、それを払った。落馬した兵は、速やかに殺した。部下も、それに続いている。別の方向から、他の二十五人が殺到してきた。それで二百になろうとしていた円陣は崩れた。
 趙広は馬の足をかいくぐりながら、戴の旗を目指した。十騎ほどに守られながら、その男はその場を脱しようとしていた。
 待て。趙広は思わず声に出していた。こちらは足で、向こうは馬だ。追い付けるはずもなく、敵将はその場から駆けて出して行った。隘路から抜け出そうとする戴の旗に、また敵が集まり始めた。進みながら百と少しが集まったところで、王平の作る戟の壁がそれを遮った。敵将は逡巡することもなく、王平の軍勢に突っ込んだ。五千と百のぶつかりあいである。敵将は戴の旗と共に、あっけなく蜀兵の波の中に消えて行った。
 趙広は舌打ちをした。自分が奪れた首だったが、逃した。そう思ったのは束の間で、趙広はすぐに部下をまとめ、山中に上げた。戴の旗に突っ込んだ五十は、三十九になっていた。敵将の首を奪れたとなればそれは少ないものだと思えたのだろうが、逃してしまったのだ。
 趙広は三十九名の部下を並ばせ、一人ずつに平手打ちを喰らわせた。

 不意の出来事だった。
 郭淮からの帰還命令で、天水城に急いで引き返していた最中である。両側の山中から銅鑼の轟音が鳴り響き、夏侯覇は棹立ちになろうとする馬を必死に抑えつけた。
 どれほどの敵だ。先ず、考えたのはそれだった。音はすごいが、それほどの兵力はない。この山中に、何千もの兵を潜ませるのは難しいと思えた。
「落ち着け。このまま進軍するぞ」
 兵をまとめようとしているところに、大量の黒い石が降ってきた。その石は具足と馬甲に貼り付き、まとまろうとしていた兵がまた混乱し始めた。
 これは、磁鉄鉱だ。幼い頃、太学で習ったのを思い出した。しかし兵達に、そんな知識はない。未知なものを目の当りにした兵達は、大きな恐怖に包まれていた。
「こんなものは、子供騙しだ。俺の旗に付いてこい。この隘路を抜けるぞ」
 その声で、周りの兵はいくらか落ち着きを取り戻したようだった。しかし後方の混乱は、目を覆いたくなるほどのものだ。
 夏侯覇は馬腹を蹴った。七百ほどの部下がそれに続いた。敵。隘路の出口に立ち塞がった。道は緩やかな下り坂なので、逆落としをかける格好となった。しかし、並べられた戟。どれほどの兵が抜けられるのか。小さくまとまった七百が、敵の前衛にぶつかった。次々と味方は戟に突かれ、落馬した者はめった刺しにされていた。前衛を抜けた夏侯覇は剣を掲げ、逆落としの勢いのまま敵中を駆けた。敵兵力はどれほどか、考える余裕などない。とにかく、敵はたくさんいる。
 叫び、剣を振る。全てがゆっくりしたものに見えた。何故、ゆっくりなのだ。速くここから抜け出せ。苛立った夏侯覇は、何度も激しく馬腹を蹴った。
 抜けた。周りを見てみると、七百は五十ほどに減っていた。近くには、夏の旗もない。敵中を抜けてくる後続の者は、蜀軍騎馬隊に追い立てられていた。走れ。馬が潰れるまで、走れ。追い立てられ、突き落とされている味方に、構っている暇などなかった。
 馬の揺れが、いつもと違うものになった。それでも夏侯覇は、馬腹を蹴り続けた。
 空。そこに向かって飛んでいた。地にぶつかることで、馬が潰れたのだと分かった。また、空。今度は、二人の部下に両脇を抱えられていた。
 しばらく進んだ森の茂みに深く入り、ようやくそこで落ち着くことができた。もう、敵の追手はないようだ。
「何人いる」
 木の幹に体を預けながら、消え入るような声で聞いた。
「二十三人です」
 天水で与えられた兵は、千だった。それが、二十三人。かっと、鼻の奥が熱くなった。悔しい。そう思うと、剣の柄に手をかけていた。
「いけません」
 部下の数人に、体を抑えつけられた。抑えつけられながら、夏侯覇は目を閉じた。千人が、二十三人。溢れてくるものは、止めようもなくひたひたと流れ落ちていた。
「離せ。もう死のうだなんて思わねえよ」
 部下が、心配そうな顔をしながら夏侯覇の体から離れた。
 左脇に、小さな黒い石が付いていた。こんなもの。夏侯覇はそれを右手で取り、地に叩きつけた。部下が、竹筒に入った水を差し出してきた。一口飲むと、それは体に染み込んでいった。悔しい。湧いてくる感情は、そればかりであった。
 見渡すと、二十三人の部下がそれぞれ悲愴な顔をしていた。泣いている者もいるし、深い傷を負って呆然としている者もいる。馬は、十八頭いた。
「帰るぞ、長安に。歩くのが困難な者は、馬に乗せろ。できるだけ、間道を進むのだ」
 指示を出すと、部下の顔に幾らか力が戻ったように見えた。

12.報告

 日が暮れはじめていた。王平は追撃中止の命令出し、原野に張った幕舎の中で部下から報告を受けていた。
 戦自体は快勝といっていい。兵の損失はほとんど出さず、敵五千を壊滅させることができたのだ。しかし王平は、次々に入ってくる報告に不満を感じていた。それは、趙広と劉敏から上げられてくるものに対してだ。
 王平は全軍に兵糧をとらせる前に、趙広と劉敏の二人を自分の幕舎に来るよう伝えた。
 天水城の付近では、諸葛亮が率いる蜀軍本隊が郭淮の一万五千を打ち破っていた。二万の歩兵が天水の南から攻め寄せ、夜陰に乗じて敵の後方に回った軽騎一万が挟撃をかけた。軽騎一万が敵後方に回れたのは、王平の一万が敵の退路を断とうという囮の動きを見せたからだ。漢中から一万を率いて戦場に向かったことが敵に知られなかったのは、漢中を敵の間諜の目から守る句扶の働きがあったからと言っていい。
 渭水北岸にいた一万は羌軍の一万だと思い込まされていた郭淮は、見事に諸葛亮の策に嵌っていた。
 五千の騎馬が先鋒として、天水城から迎撃に出た。そしてすぐに、歩兵の一万五千がそれに続いた。それが分かると王平はすぐに一万の足を止め、次の報告を待った。趙広が選んだ埋伏地が伝えられてくるのに、それほど時はかからなかった。東へ進んでいた王平の一万は、北へと急行した。そして一万を二つにわけ、片方の五千は劉敏に指揮させ予定された場所に埋伏した。
 一万の大軍である。埋伏をしようと敵の斥候に知られてしまう危険はあったが、そうはならなかった。それほどに、敵は焦っていたのだ。
 趙広の潜む隘路の地から、甲高い鳥の鳴き声が聞こえた。趙広からの合図である。王平は即座に兵を動かした。隘路の片方を塞ぎ、もう片方を劉敏が塞いだという報告を受けた時、まだ敵は混乱を収束しきれずにいた。
 詳しくは聞かされていなかったが、趙広が何か奇策をもっていたようだ。その効果はてきめんだったのだろう。あとは隘路から逃げようとする魏軍を討ち果たす、簡単な仕事だった。
 王平は少し高くなった丘に陣取り、全体の戦況を見渡した。昔から遠目は利くので、隘路の混乱はそこからでもよく見えた。
 戴の旗の下に、百数十が集まろうとしていた。あれが騎馬五千を率いる、戴陵という将であろう。他にも混乱の中でまとまろうとする集団が幾つかあったが、それは趙広が上手く散らしていた。
 戴陵がまとめとうとしている集団の近くに、二つの陰が現れた。趙広が戴陵の首を狙っていることがはっきりとわかった。
 馬鹿が。王平は床几に腰を下ろしながら呟いた。直接攻撃をかけなくても、こちらに追い込んでくるだけでいいのだ。
 戴陵は趙広を振り切り、二百ほどを小さくまとめて駆けだした。そして隘路の出口に待ち構えた戟の壁に突っ込み、消えていった。
「入ります」
 王平が卓の上で目を閉じながら今日の戦を振り返っていると、趙広と劉敏が肩を並べて入ってきた。その顔には、勝ったという気持ちが浮かんでいる。それが、王平には気に喰わなかった。
「二人とも、損害の報告をしろ」
「もう、部下にさせたはずですが」
 言った劉敏を、王平は張り倒した。
「死者が五十六名、負傷者が二百十一名で、計二百六十七の損害でした」
 張り倒された劉敏が、素早く直立しながら言った。損害は、敵が血路を開こうと突っ込んできた時に出たのがほとんどだったという。血路を開いたのは、あの夏侯覇だ。
「あれだけ優勢な状況で、それだけの損害を出し、しかも敵将を逃したか」
 言われて、劉敏はうなだれた。片方の隘路を担った王平の五千からは、いささかの負傷兵を出したが、死者は三名しか出していない。夏侯覇の逆落としが強烈だったのだろうが、地形をよく見ていればそれに対する備えはできたはずだ。劉敏もそれがわかっているのか、ただ黙ってうなだれている。
「次、趙広」
 言われた趙広の目が、一瞬泳いだ。
「死者、九名。負傷者、五名。計十四名です」
 口籠り気味の趙広の頬を、王平は張った。さすがに、劉敏のように倒れはしない。
「死者が九。負傷者が七。計十六。お前からの伝令は、そう言っていた。違うか」
「申し訳ありません」
 趙広が小さく、呟くようにして言った。
「死者の九名は、敵の大将を討とうとした時だな。二人もそこで負傷している。この十一名は、損害となる必要はあったのか」
「討てる機だと見ました。討てるのなら、少しの損害は仕方の無いことだと思います」
 言った趙広の頬を、また張った。
「しかし、討てなかった。お前は無駄に部下を殺したのだ。初めから、敵の大将は俺の方に追い込んでおけばよかったのだ」
「はい」
 そこで初めて趙広は俯いた。目にはまだ、不満の色が残っている。
「勝ったなどと浮かれるな。何が駄目であったか、帰ってよく考えるんだ。まだまだ、戦は続くのだからな」
 言うと、二人は退出していった。そこで初めて、兵に兵糧を摂らせろという指示を出した。
 王平は卓に着き、部下を呼んで諸葛亮に宛てる報告書を作り始めた。王平は字が読めないので、口頭で言ったことを部下が書いていく。鹵獲した馬は、二千を超えている。趙広と劉敏の二人を叱りはしたが、数字だけ見るとその損害は大したものではない。大勝と言っていいと思えた。
 自分は苛ついているのかもしれない。いや、実際に苛ついているのだろう。漢中に残してきた難しいことがそうさせているのだろうと、報告書を作りながらぼんやりと思った。
 明早朝は、日の出と共に進発である。難しいことが待っている漢中に帰らなければならない。それを思うと、王平の気は重くなった。

王平伝④

三国志演技等の関連本ではさらっと終わってしまう第二次北伐ですが、そこにはどんな人達がいたかということに想像力を働かせて書いてみました。王双は本当に良い奴でした。この物語の中で、一番愛したキャラクターだと言っても過言ではないかもしれません。彼には、そんな人物との出会いがものを書くことの喜びであるのだと教えられたという気がします。

王平伝④

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-04-09

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