異郷に還る
川沿いの道をひとりで歩いていた。川といってもそれは街中を流れる小さなもので、ドブ川といっても差し支えのないようなささやかな流れだった。金網の柵がその川に沿って視界の果てまで続いていた。ときに真っ直ぐ、ときにうねるようにして続いていた。もともとは明るいグリーンの金網であったのかもしれない。でも今はブリティッシュグリーンよりも重く色褪せて、そのところどころは錆びて赤く茶色く変色していた。金網の手前に申し訳程度の花壇があった。花壇には見慣れた花が咲いていた。ピンクと呼ぶにはもう少しだけ青く、紫に近いようなその花は、川に沿って遠くまで列をなしていた。ツツジかなと私は思ったが、見ると植え込みの中には白い札が立っていて、その花の正しい名前を告げていた。小学校の先生が書いたような、温かいけれども神経質そうな黒マジックによる文字で、そこにはサツキと記されていた。私はツツジとサツキの区別もつかない人生を送ってきたのだ。
空は青かったが、雲が多かった。私の前方の空を雲は、羊飼いに追われる羊のように横切っていた。少し風があった。風は私の左手から右手に向かって吹いていた。羊たちもたいへんにゆっくりとではあるが、視界の左から右へ、私の歩く道を横断していた。
私はポケットからキーホルダーを引っ張り出した。キーホルダーには青地に銀の文字でBMWと刻印があった。三つのアルファベットは陽光に白く光った。私は歩きながらそれを川に投げ捨てた。予想以上にはっきりとした音をたてて、キーホルダーは着水したようだった。そしておそらくはそのまま川底に沈んだ。
私は手前の角を左に折れて川と別れた。曲がった先の小道のその左手には、広いと形容してもよさそうな、結構な面積の畑が広がっていた。畑らしい畑だった。土は黒くも赤くもなかった。こういう色を正しく茶色と呼ぶのだと私は思った。日中ずっと日差しが強かったためか、夕刻の近づいたこのときにも土は豊かに香った。土の匂いを楽しみながら道を行くことができるのを私は嬉しく思った。それは懐かしい香りだった。芋掘りを連想させる匂いだった。何を作っているのだろうと私は畑を覗き込んだが、そこには土が、わずかに波打ったようにただ広がるばかりで、それが何を育てる大地なのか私にはわからなかった。畑と道とを隔てるように植えられた、私の腰の高さくらいの緑には、ビーズのように小さな白い花が、文字通り鈴なりに連なっていた。鈴蘭のミニチュアのような花だった。その名前を知りたいと思い私は、あたりに白いプレートを探した。けれども今度は、どこにも名札を見つけることができなかった。私は諦めて、私とともに角を曲がった、右手の道沿いに続くサツキの花を、サツキサツキと心で愛でながら歩くことにした。左手の、実は気になる小さな鈴の木は、しかし私の歩く道の上にもたくさんその鈴の花を落としていて、おかげで私の心はやはりサツキを離れて、その名も知らない小さな花に強く引き寄せられてしまうのであった。鈴木の花と、私は便宜的にそれをそう呼ぶことにした。右手にサツキ、左手に鈴木をはべらして私は、春の宵を行くのだ。路面に散らばった白い鈴の群れは孵化したあとの昆虫の卵のようにも見えた。歩きながら私は、気持ちを澄ませて匂いを探ってみたが、土の香りの中にその花の匂いを分けて見い出すことはできなかった。そんなふうにして路面を見つめて歩いていると、路上の白い鈴が一斉に蠢いて移動した。風が少し強くなったようだ。街路樹は揺れた。街路樹が落とした淡い影は、ゆらりとゆれるそのことで、このとき畑の中から歩み出てきたばかりの三毛猫の気持ちををひどくゆらしたようだった。猫は首の鈴を乾いた音でカリンと鳴らしたかと思うと、私の前を慌てたように横切り、道の右端から続く古びた住宅街の奥へ奥へと、一目散に走り去った。猫の丸まった尻尾が温かな住宅街に消えてゆくのを、私は歩みを止めてしばし見送った。
そうしてまた私は歩きはじめた。すると目の前の空間を素早い影が線となって横切った。黒い霊魂のようなその正体は滑空する二羽の烏であった。影の去ったあとには聞き慣れたあの、達観したような鳴き声が残された。
まだ陽は西の空に残っている。
やがて比較的大きな通りに出た。私はその通りに沿って道をまた左に折れた。県道なのだろうかと私は思った。もっとも私のいる場所が何県なのか私にはわからなかった。今朝方都内を出てから私は、BMWで五時間ほど北に走ってここに着いた。北陸地方のどこかではないかと私は思った。
しばらく歩くと道沿いに、田舎町には不釣り合いなようにも見える、ヘアメイクのショップが現れた。青山か自由が丘によくあるような、それはカフェ風の美容室だった。
私はふらりと店に入った。若い娘や青年の、爽やかな声が私を迎えてくれた。いらっしゃいませと声は告げていた。私は歓迎されているのであった。私はどこにいらっしゃいましたのであろうかなどと考えつつ、白いソファに腰を下ろした。予約がない旨を伝えると飲み物の希望を尋ねられた。私はホットコーヒーを頼んだ。ソファの上で私は、雑誌を読むでもなく白いコーヒーカップを片手に、静かに時間をやり過ごした。店内はモダンでそれでいてナチュラルな温もりに満ちていた。天井にはまるで工場のように、空調やその他の配管が剥き出しになっていた。ただその全てが白く塗られていた。壁も白かった。床は白木の天然木を貼ったように見えたが、靴の底で確かめてみるとどうやらそれは、上質のラバーによるフェイクのようだった。店の中央には私の背丈を超えるくらいの木があった。モンパルナスの木ではないかと私は思った。南の島でかつてその丸い葉を見たことがあるような気がした。スローなBGMのせいでもあろうか、島の夕刻を色濃く私は感じた。店内には西に向かって大きな窓があった。強烈な西日を木製のシェードが遮っていた。シェードの隙間からこぼれる斜光が辺りに、切なさにも似た何かを漂わせているように私には思えた。
お待たせしたいたしましたと、まもなく背中から声が掛かった。私は案内されて鏡の前に座った。鏡はダークブラウンの天然木の枠により支えられていた。その枠の中央に男が映っていた。男は私だった。その横に現れた若い男が鏡の中で、鏡の中の私を見ている。若い美容師は自分の長い髪を、後ろでひとつにまとめて垂直に垂らしていた。淡くアンバーの入った眼鏡をかけて、顎髭を生やしていた。恋愛ドラマの俳優のようにも、お笑いコントの芸人のようにも見えた。カットですかと彼は訊ねた。そうだと私は応えた。どのようにしますかと訊かれて私は、少し考えた。さっぱりしたいなと、気持ちがそのまま声に出た。それではと若者は、何やらお洒落な蘊蓄を語り始めた。私はその蘊蓄と、私の髪を這う彼の指の動きを遮るべく、思いつきを端的に伝えた。坊主刈りにしてほしいと告げると、ハッとしたように指はその動きを止めた。それは胡桃を手にして耳を立てる縞栗鼠のように可愛らしい静止だった。鏡の中では彼の目が、これまた可憐な具合に私を見つめていた。可笑しくて私は笑ってしまった。そして、坊主にしてほしいのだと改めて告げた。でしたらと、彼は気を取り直したように語り始めた。トップを三センチほど残して、生え際から鋭角に、トップに向かって傾斜がつくように、とかなんとか。私はそれをまた、多少残酷に遮って、面倒なことはしないでいいとそう告げた。なぜだか彼は泣きそうな顔になり、僅かに沈黙したあと、わかりましたと笑顔に戻って頷いた。
シャンプー台に移った。仰向けになった私の顔に、不織布の隠しが置かれた。目を閉じるとシャンプーの匂いを感じた。シャンプーの匂いは学生時代に付き合っていた女のワンルームを連想させた。ずいぶんとそれは遠い記憶であった。
あれ、という美容師の声が私を現在に繋ぐ。珍しいフレッドペリーですね、と声は語った。私の着ているポロシャツについて彼は喋っているようだった。襟と袖のラインが青と黄色なのに、胸のマークが赤なんですね、と声は続いた。そうだったかなと私は曖昧に応えた。シャツの地色がチャコールグレーであったことしか、私には思い出せなかった。襟や袖の色に胸の刺繍を揃えるっていうのが、これまでのフレペのきまりだったんですよ、と声は語った。いろんなきまりがあるものだと私は思った。今シーズンからその規制が解除されたって噂だったんだけど、と声は独り言のように続いた。もう入荷してたんですね、と感心したような響きが私の耳に届いた。彼は本当にファッションが好きなのだった。私にもそれがわかった。妻からのプレゼントなんだ、と私は教えてやった。ポロシャツは、私の四十二回目の誕生日を祝う妻からのプレゼントだった。奥様はセンスがいいです、と声は褒めた。お客様にとても似合う配色だなって、ひと目見た途端に感じました、とさらに声は続いた。有難うと、私は短く応えた。
シャンプーを終えて再び鏡の前に戻ってきたとき、こちらのお店は初めてですよね、と彼は訊いた。ダークブラウンの木枠の中で私は、そうだというふうに頷いた。近くにお住まいですかと彼は続けて尋ねた。私は彼の仕事の邪魔にならない程度に首を振った。
私の左手には、これもダークブラウンの天然木のラックがあった。そこには雑誌が何冊か重なっていた。一番上にあるエンターテイメント誌は、今回私が出資した映画のキービジュアルでその表紙を飾っていた。私の視線に気がついたのか手を止めて彼は、その映画なら観ましたよと愛想良く私にそう告げた。そうかいと私は彼に応えた。観て損はないですよ、と彼は私に鑑賞を薦めた。私は軽く目を伏せるようにしてそれに応えた。
鏡の中にはやがて、坊主頭の男が現れた。男にポロシャツは似合わなかった。馬の尻尾のような髪を揺らして美容師は、少しだけまた泣きそうな顔をした。大丈夫だよ、と私は彼を慰めた。今度はきっと作務衣が似合うだろうから、と私は冗談のつもりでそう言った。美容師は哀しそうに笑った。
このあとはどちらに、と若者は、会計の際に私に訊ねた。
「かえる途中なんだ」と私は応えた。「来た道を辿って」
またいらしてください、とも、それではお元気で、とも言えなかったのであろう、若者は私を、どこか懐かしそうな笑顔で見送った。
春だとはいえ刈り上げたばかりの襟足に、夜風はたいそう冷たく感じられた。ウィンドブレーカーはBMWの中に入れたままだった。私はポロシャツの襟を立てて歩いた。
県道から未舗装の脇道に入った。こんもりと茂った小さな林の方向へと、私の足は私を引っ張って歩いた。
林の手前、私の右手に、古くて小さなアパートメントが建っていた。私はそのアパートに引き寄せられた。アパートは二階建てだった。各階に四つずつの玄関が並んでいた。玄関前の剥き出しの通路には寂しげな灯りが点々と灯っていた。小さな蛾がそれぞれに集まっているのが見えた。私はその無愛想な建物に近づくと、その前に立った。プラスティックの雨樋がその割れた口先を、夜風に断続的に震わせていた。ああ、ああと、その音は嘆きのように耳についた。二階に上がる階段の手摺は赤黒く錆びていた。私は階段に足を掛けた。階段を上がるときにちらりと見ると、建物の外壁には春竹コーポとそう表示されていた。
二階に上がり202号室の前に私は立った。202号室に表札はなく、玄関の脇には透明のビニール傘が乾いていた。
私はチャイムを鳴らしてしばらく待った。まもなく202号室のドアが開いた。
そこには女が立っていた。女の向こうには木製の、数珠のような暖簾がぶら下がっていた。暖簾の隙間から部屋の様子が見えた。卓袱台があり、小さな茶箪笥があった。畳敷の部屋だった。テレビのニュース番組が聞こえた。私は黴臭い匂いがすることに気がついた。ジャージ姿よりもさらに生活感の漂う部屋着姿で女は、黙ってそこに立っていた。私も黙っていた。私が何も喋らないのを確認してから女はおもむろに言った。どちら様ですか?
私は女の目を見た。女も私の目を見た。なにかご用ですかと女は重ねて尋ねた。
間違えましたと私は応えた。そして踵を返した。
階段の赤黒く錆びた手摺に私が手を伸ばした頃、背後でドアの閉まる音がした。その音を確かめてのち、私はアパートの急な階段をゆっくりと下りた。
そして私は、林に向かってまたひとり歩き始めた。虫の生息を示すメカニカルな音が辺りに響いた。林に近づくと道は濡れていた。雨ではなく地下水が染み出たものであろうと私は思った。曲がりくねった林道の闇に入ると木々の葉は、風のリズムで優しくもなくただ揺れていた。私は哀しくもなくただその音を聞いた。しばらく行くと前方に、小さな灯りが見えてはまた見えなくなった。
現れては消えるその小さな灯りに向かって私は少しずつ近づいていった。
やがて林道の右手には小さな集落が現れた。バラックが三軒ほどかたまって建っていた。灯りはそのうちの一軒に灯っていた。その小屋に近づいてその前に立った。風呂を沸かしているような匂いがした。そして汁物を作っているような匂いもした。
チャイムがなかったのでドアを軽く二回ほど叩いた。軽量な木材で空気を挟むようにして作られたそのドアは、太鼓のような音をたてて軽やかに鳴った。ドアの向こうに人の気配がしたかと思うとまもなくドアは開いた。
ベージュのワンピースを着た女が立っていた。風呂からあがって間もないのか、その髪は濡れているようだった。アーモンドのような形をした目はなぜだか少し赤かった。女は軽く眉を上げた。私もそれに倣った。すると女はどうぞというように頷いた。私は小屋の狭い玄関に私の靴を、儀式のように丁寧に並べた。
外観から想像するよりもはるかに中は広かった。玄関を上がってすぐ左手がリビングになっていた。リビングの中央には申し分なく天板の厚い、大きなダイニングテーブルがあった。その長方形は木目に沿って美しく歪んでいた。私はダイニングテーブルを前に腰を下ろした。
玄関からどうやら女は、リビング左手奥のキッチンまでそのまま直行したようだった。冷蔵庫が開きそして閉まる、そんな音がキッチンから聞こえた。女は湯呑みを二つ携えてまもなくテーブルにやってきた。湯呑みをテーブルに置き、女は私の向かいに座った。
音楽が鳴っていた。右手を見ると古めかしいステレオセットがそこにあった。モダンなジャズはそのスピーカーから流れ出しているようだった。室内は暗かった。部屋を照らしているのは蛍光灯ではなく白熱灯だった。白熱灯はパステルホワイトのランプシェードの中で控えめに夜を照らしていた。視線を移すと、外にはまだ風があるようで、リビング正面のサッシの向こうで一群の竹が、勢いよくその身とその影とを揺らしていた。
私は出された緑茶をすすった。女もそれに倣った。
揺れる竹の影に心を任せて、しばらく私はそのままでいた。
夕飯はもう?
と女の声が響いて私は女の顔を見た。
私は首を振った。すると女は立ち上がって、キッチンに消えた。
リビングを見回してみたがテレビは見あたらなかった。ダークブラウンの床は幅広の天然木だった。壁はクロスでも漆喰でもなくベニヤ板であるように私には見えた。その壁も天井も、おそらくはペンキによってだと思われるが、非常に淡い黄色に塗られていた。ダイニングテーブルも、ステレオセットを載せているサイドボードも、ダークブラウンの天然木でできていた。私は家の間取りについて考えた。リビングからの続きの部屋は見たところ二つだった。キッチンと反対側にある部屋への扉は、このとき大きく開け放たれていて、どういう水回りになっているのかそこには旧型の二槽式洗濯機と、おそらくはラタン製であろう小ぶりな洗濯籠とが見えていた。もう一つの部屋への扉は閉められていて、おそらくはそこが寝室なのであろうと私は思った。
もしよかったら、とキッチンから顔を出して女が言った。風呂が沸いています、と女は続けた。
私が黙っていると女はさらに、夕飯ができるまでにまだ少々かかりますから、と付け足した。
私は頷いて立ち上がった。女の目線を頼りに見当をつけて、玄関の向こうを覗くと、どうやらそちらが風呂場のようだった。私は狭い脱衣所で自分のポロシャツとパンツを脱いだ。下着も脱いで、それを畳んだシャツとパンツの間に挟んだ。アルミの扉をあけるとそこが風呂場だった。浴槽のコーティングはところどころが剥がれ、風呂釜の黒い本体が剥き出しになっていた。壁は打ちっぱなしのコンクリートで鉛色をしていた。床もコンクリートだった。その上に若干黒ずんだ簀の子が敷いてあった。シャワーはなかった。浴槽の湯はまだ十分な温度を保っていた。私はそれを汲んで体を流した。浴槽は古いタイプのものなのだろうか、横に短く縦に深かった。体を窮屈に畳んで湯に浸かった。体育座りという言葉を私は思い出した。見たところ女性にしては大柄で、私と大差のない体格をしている女が体育座りで入浴しているその姿を私は想像した。壁には窓があった。その窓を開けようとしたが、錆び付いてしまっているのか、サッシは押しても引いても動かなかった。諦めようとしたそのとき、女が様子を見にきていたのか、脱衣所からの声が響いた。力を入れて、と声は言った。私は力を入れてサッシを引いてみた。すると窓は、啜り泣くような音をたてながら開いた。わたしのでよかったら、と脱衣所の声はさらに言った。タオルと一緒に着替えをここに置きますから、と続けた女の影がゆらりと動くのを、ドアの曇りガラスの向こうに私は見た。頷いただけでは見えないだろうから、有難うと声に出して私はそれに応えた。女の部屋に戻る気配と入れ替わるようにして、窓から侵入した夜の気配が私を包んだ。風は止んだのであろうか、夜は静かだった。虫の気配も鳥の気配も感じられなかった。雨のような匂いを僅かに感じたが、それは雨ではなく染み出した地下水の匂いなのかもしれなかった。とはいえその水の匂いを探ることはそれ以上にもうできそうになかった。味噌汁の匂いが水の匂いを消してしまった。女の作る味噌汁であろうと私は思った。私は窓を閉め、浴槽に蓋をしてから、目を閉じるように静かに風呂を出た。
脱衣所にあったのは濃紺のバスタオルと作務衣の上下だった。作務衣は女のものなのだろう、柿色だった。袖を通してみると私には大きくもなく小さくもなかった。そこにあった鏡を覗いてみると、坊主頭に柿色の作務衣は実によく似合っていた。カットしてくれたあの若い男に見せてやりたいな、と私が思ったそのとき、電気が消えた。鏡の中の男も消えた。辺りは暗くなった。
闇の中でじっとしていると、やがて手に懐中電灯を持って女はやってきて、すみませんと私に告げた。ヒューズが、と女が言いかけたので、構わないと私はそれを制した。
女のあとを歩いて私はリビングに戻った。テーブルの上で蝋燭の炎が揺れていた。中央に一本、左右に一本ずつ、計三本の蝋燭が立っていた。太く短い蝋燭だった。蝋の匂いは私に強烈な何かを思わせた。それが何であるかと私は考えたがわからなかった。女の影と私の影が壁に浮かんでいた。いくつかずつ浮かんでいた。濃い影もあれば淡い影もあった。消えかかる影もあった。
女は懐中電灯を手にキッチンに向かった。残された影たちはテーブルの影に溶け込むようにして揃って静かに着席した。
影の待つテーブルにやがて女は戻ってきた。瓶ビールとグラスを携えていた。飲みますかと女は仕草で尋ねた。巨大な影は壁で頷いた。女は栓を抜いた。私のグラスにビールを満たした。瓶を受け取り私も女のグラスを満たした。グラスは冷えていた。影と影はグラスを接点にして無言で繋がった。ビールはグラス以上によく冷えていた。
テーブルに並んだ皿を私は蝋燭の灯りの中で見た。色のない豆腐は食べると確かに豆腐の味がしたが、それが確かに豆腐であるのか私には疑わしく思えた。色のない食事は、食事という行為とは別種の、何かの儀式であるかのように感じられた。椀を手にして私は、味噌汁の甘い香りを幻想的に感じた。
女の口で沢庵がポリポリと音をたてた。闇の中その音は好ましかった。それが黄土色に漬けられた沢庵以外の何物でもないことが私には確信できた。そのような種類の音は実に雄弁であった。私は女の口が奏でる正しい響きに耳を澄ませた。
「昔わたしは」と闇の中女は言葉を放った。沢庵の響きに比べてそれはいくらかリアルでなく遠くから響いた。「こんなイメージを持ちました」と言葉は、私の反応を確かめることもなく続けて紡がれた。それは見えない煙のように闇をたゆとうた。
「古い大樹に背中を預けて座る男は、その全身で語っていました」と言葉は告げた。「彼の辿った長い道のりを」
雪原が見えた。大樹の根元に倒れたままに身を伏せる狼の姿が見えた。
私の影は沈黙により言葉に続きを促した。
「それでも半分ほど閉じられた瞼の下で彼の目は、哲学的な攻撃性、みたいなものをたぎらせて、不敵に、不気味に澄んでいるのでした」と言葉は続いた。蝋燭の炎が揺れるその度に、影もまた小刻みにその身を震わせた。
「わたしは、彼と彼の樹の周りを」と言葉は囁いた。「黙って周りました」
私は見た。凍った大地にくるくるとその身を滑らせる白い光を。それは見守るかのように、私のそばを離れなかった。
「周り続けました」と、空気の対流もないのに炎は妖しく踊った。「かごめかごめのように」
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ?
歌声は、か細く消えて、かつまた聞こえた。
私はそれに全身を澄ませながらグラスを干した。女の影がそれを新たに満たした。
「ひとつだけ」と言葉は続いた。「あなたの影を尋ねてもいいですか?」
私の影と一緒に私は、そのひどく遠くから聞こえる声に、いくらか優しい気持ちで頷いた。
「十年前の今日この時間に彼は何をしていましたか?」と問われて私は、記憶ではなく、そこにある影を見つめながら、見える情景を描写した。
影は三十二歳。失敗に終わった最初の結婚から離れて影は、都心のペントハウスに独りでいた。太陽が西に傾いてしまったので影は、他に部屋のない最上階からエレベーターを使って下界に降りて、青くて小さなラテンの車のハンドルを握ると、麻布十番のスーパーマーケットまで移動した。地下の駐車場に車を停めて影は、二本の足を交互に使って、スーパーの三階を目指した。三階で影は、レッドフックのESBを二本、レッドフックのIPAを二本と、鴨肉とラム肉を一塊ずつ、それに豚のレバーソーセージ一本を選んで購入した。軽くて罪のないポップソングに揺られながら、青い車で部屋に帰ると影は、まだいくらかは光の残るバルコニーに出て、空を仰ぐついでのようにレッドフックを呷った。風が強くなり、影はいつものように探した。影ではない存在を求めた。そして影は深く目を瞑り、孤独に堪えると、雪原の闇を睨んだ。
私は目を凝らした。その闇が目の前にあるのだった。
女の影がゆっくりと深く頷くのを私は見た。
後ろの正面だあれ、と聞こえた気がして私は笑った。が、影は笑えなかった。
「さて」と私は言った。「そろそろ」と女は応えた。「灯りを消しますか」と影が続けた。
私は左手に灯る蝋燭を吹き消した。幻は消えた。そこには広漠とした闇が残された。闇の中に私がいて私の向かいに女がいた。我々は広大な闇の中に浮かんでいた。
太古より変わらぬその澄んだ静けさで女は、優しく哀しく微笑むと、私の右手に灯る光をすっと落とした。すると女は消えた。
私の向かいで白く冴えるリアリティ、それは妻であり娘でもあった。思わず私は手を伸ばすが、三十八万四千キロ彼方のそれに手が届くことは、これまでと同様、勿論ない。
目の前に残された最後の灯りを私は睨み、それを消した。私の影もそれですべて消えた。
漆黒の闇に私は浮かび、目の前には私の衛星が、まん丸く白く輝いていた。
後ろの正面、と私は思った。振り返らなくてもわかった。私が背後に背負っているものを、私は私の背中で知っていた。
それは大樹だった。大樹は明々(あかあか)と、しかし孤独に聳えていた。
大樹を背に私は、しばし目を閉じた。そして開けると、月を睨んで短く吠えた。
了
異郷に還る